神社仏閣巡り珍道中・改  東北路編(ふたたび)

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2023/12/22 17:49(更新日時)

 [神社仏閣巡り珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!


┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。

そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。




そんな私が、2020年11月、東北の神社仏閣をお訪ねする機会を得ました。
当時はあの東日本大震災から九年と八か月。
そして、コロナという、まるで未知の病に世界中が震撼した年でありました。

東北の被災地にも、コロナは容赦なく襲いかかり、さらにまた、新たな自然災害が全国のあちらこちらに大きな爪痕を残し、被災地は増えゆくばかりです。




2020年、Go Toトラベルという政策が打ち出された折、私には関係のないことと思っておりました。
もともと出不精な夫婦な上、夫は慢性の呼吸器疾患が持病です。できうる限りの対策をもって、コロナに罹らないようしなければならない者であります。
(とはいえ、未だにそのふせぎようはわからないままなのですが…)
また、当時はワクチンも開発中の段階でありました。

「実は俺、SL休暇のとれる年なんだ」
そんな夫の一言から始まったのがこの東北への神社仏閣巡りのスタートでした。

緊急事態宣言が明け、新規感染者数が減り、Go Toトラベルが出されるところまでに、なってはおりました。

そして…そのころ、私たちの住まう地域ではほとんど罹患者の発生がなく、さらにさらに東北地方もまた発生の少ない地でありました。


東北┉。

東北?
もしかしたら┉東北なら可能?


悶々とする私どもの背中を押してくれたのは、子どもたちであり、こと私の仕事先の上司や同僚の方々でありました。

足りない頭で考えられうる限りの感染対策をして、私たちは東北の神社仏閣を目指して旅に出ました。


今思ってもただ感謝しかありません。

この旅は、東日本大震災で命をおとされた方々へのせめてもの鎮魂のための旅でありました。
残された方々の今後お護りくださるよう祈る旅でありました。


…もちろんそれは私の自己満足でしかないことではありますが。



一度書きかけて、タブレットの再起不能な故障のため、ずっと中断しておりました。
あらためてコピーを貼り付けた上で、続きを書いていこうと思います。

一度お読みくださっていた方は、かなりの重複となりますが、どうかお許しください。



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No.3587724 (スレ作成日時)

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No.131

(続き)

毛越寺さんの伽藍は中尊寺をしのぐ規模であったようですが、当時の建物は全て焼失しており、ただその基壇、礎石等の遺跡が良好な状態で残されておりました。

『大泉が池』と呼ばれる大きな池が広い境内の中央に復元整備され、平安時代の浄土庭園の面影を今に伝えています。
五月にはこの池に山からの水を取り入れるための水路『遣水』において【曲水の宴】という平安時代の宴を再現するといったイベントもあるようです。
遣水に盃を浮かべ、流れに合わせて和歌を詠む、平安時代の優雅な歌遊びです。

男性は衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)、
女性は袿(うちぎ)、十二単という装束を身にまとい、
水辺に座り、和歌を詠み短冊にしたためる、というまさに平安絵巻を実現する儀式のようです。

若女による舞も奉納されるようです。

ただ、私どもが参りましたときは、秋。
紅葉の美しい頃ではありましたが、水辺はどうしても寒々しく、夫に無理やり歌を詠む男性を演じてもらってはみたものの、いかんせん普段着のおじさん、そんな平安の雰囲気など醸し出せるはずもなく。

ただ…景色は美しかったです。


毛越寺さんの総面積は33.000平方メートル。
とにかく広いのです。
比較対象としては、甲子園球場が挙げられるようです。
甲子園球場より少し狭いくらい、なのだとか。

ただ…かつてあった堂塔四十、僧坊五百、そのほとんどは失われたまま。

美しい日本庭園、というにはやはり少し物足りない。
かつては池に平安時代浮かべられていた舟を再現したものが浮かべられていたこともあったようなのですが、それもこの時は無く。

お寺の境内にいるという感覚があまりわかないのです。
広い池のある庭園という感が強い。
広い境内が侘しさを誘います。

…ここにかつての伽藍があったなら…。


大きな平安様式の御本堂は平成元年に建立されたもの。

藤原氏のいない今、かつてあった堂塔を再現するのはとうてい不可能でありましょう。


かといって。

侘しさをおぼえはするものの、決して嫌いではないのです。


一つ一つの御堂はそれぞれ身の引き締まる思いのするものであり、ゆったりと自分のペースでお詣りさせていただけます。

ただ、…いかんせん広い。
広い境内に点在しているので、そこがなんとも侘しいだけ、なのです。



No.130

『秀衡が跡は田野となりて、金鶏山のみ形をのこす』

とは松尾芭蕉が『奥の細道』に残したもの。


秀衡が跡はかつて田野となっていたということを、肌で感じ、なんとも寂しく侘しい想いを抱いたのが、この遅筆の一つの言い訳。

…ええ、言い訳でしかありません。
お読みいただいてくださる方におかれましてはまことに申し訳ありません。
脳がひとかけらの石と化した、不器用でのろまな、愚鈍なおば(か)さんのスレを、ただただあたたかな目で見守って下さりますこと、感謝しかございません。

そんな毛越寺さん。

夫は史跡が好きな上に、ロマンチストなので、想いを馳せては感嘆しておりました。
そう、あの草の生えた斜めな地面に、かつての城を思っては足を止めるあの夫です。
かつて柱のあった礎石を見ても感動し、その元あった建物を思い描けるのでありましょう。

しかしながら。
踏み入れたばかりの毛越寺さんの境内に立ち、復元や跡のほかは浄土を表した庭園跡の大きな池の広がる、現在の毛越寺さんに私は芭蕉の見たものと同じ空気を感じてしまっていたのです。




No.129

【毛越寺】さんの『寺伝』によると、
嘉祥三(850)年、【慈覚大師】が東北巡遊のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなったといいます。
ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちておりました。
慈覚大師は不思議に思ってその毛の跡をたどられますと、前方に白鹿がうずくまっておりました。
慈覚大師が近づくと、白鹿は姿をかき消し、どこからともなく、一人の白髪の老人が現われ、「この地に堂宇を建立して霊場にせよ」と告げたといいます。
慈覚大師は、この老人こそ【薬師如来】さまの化身と感じ、一宇の堂を建立し、【嘉祥寺】と号しました。これが『毛越寺』の起こり、とされます。


慈覚大師円仁が開山し、藤原氏【二代基衡(もとひら)】公から【三代秀衡(ひでひら)】の時代に多くの伽藍が造営されました。

往時には堂塔四十、僧坊五百を数えたといい、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。
しかし奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失してしまいます。

現在、庭園や基壇、礎石等の遺跡は良好な状態でほぼ完全な状態で残されており、毛越寺のシンボルともいえる【大泉が池】は復元整備され、平安時代の浄土庭園を今に伝えています。
『国の特別史跡』・『特別名勝』の二重の指定を受けており、また平成二十三(2011)年に、この『毛越寺』や『中尊寺』など五つが、【平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群】として世界遺産に登録されています。

平成元(1989)年に平安様式の新しい御本堂が建立されています。



No.128

そして【毛越寺】さんへ。
毛越寺さんの駐車場は中尊寺さんよりもさらに観光地の風情を呈し、ホテルもすぐそばに建てられています。

そこから少し歩いて毛越寺さんの山門へ…山門、山門?

…これは山門、というのかどうか。

どこかで似たような受付を見たような気がする、受付を兼ねた入場門といった感じしかしない通路のように見えます。
たしかに外観的にはいかにも歴史ある所へ入る入場受付を意識して建てたかに見える、そんな建物ではありますが、山門というのはちょっと違う気がいたします。
造り自体は大変丁寧に造られた、美しい白い漆喰が塗られ、柱は黒といったものなのでありますが、…うーんでも【毛越寺本坊】っていう札がかけられているなぁ。
やはり山門、なのだろうな。
うーん。
この山門は、元は一ノ関藩田村家藩邸の中門で、大正十一年に寄進されたものだとか。なるほど…。

こちらでは参拝の前に御朱印帳をお預けするよう書かれています。
御朱印と、震災復興のために作られた散華をお授けいただきました。


【毛越寺】は『モウツウジ』と読みます。
通常『越』という字を『ツウ』とは読みませんが、『越』は慣用音で『オツ』と読みます。
それがモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したもの、と考えられているようです。


門をくぐると、…ひ、広い!
これは案内図を見ながらでなければ御本堂へ到達することができません。
私の得意技(?)〝迷う〟〝迷子〟が今すぐにでも出せそうです。

No.127

【観自在王院跡】は奥州藤原氏二代『基衡の妻』が造営した寺院の遺跡、なのだといいます。
大小二棟の阿弥陀堂跡の前面に舞鶴池を中心にした浄土庭園が広がっていたといい、境内の背後には『金鶏山』と呼ばれる山が位置しています。

そう、そんな解説をいつものように夫は何も見ずに熱く語っていたんだった。

しかし近世までに往時の堂塔をすべて失い、庭園も荒廃し後には水田化したとまでいいます。

それが遺跡発掘調査の成果に基づいて伽藍遺構と庭園の修復・整備が行われ、今日の姿となっているのだといいます。  
世界遺産委員会は、観自在王院跡が毛越寺・無量光院跡とともに
「現世における仏国土(浄土)の象徴的な表現として造営された」資産であると高く評価したといいます。

う、うーん。
そ、そうだったか…。


さすがは審美眼がないというか、ものの価値を正しく認知、認証できないおばさんだわ。
…いや、自己弁護させていただけば、やはりあのすぐそばで大掛かりになされていた道路工事がそれに拍車をかけたのですって。



No.126

(続き)

作品は芸術品であります。
どんな作品もそうだと思うのです。

そこには多くの人の思いが、そしてそれこそ表に出ていない思いや、人知れない苦労が籠められて作られた尊いものです。


…どんな人間だってもしかしたらどこかで過ちを犯す可能性はある、…そうではないですか?


時を同じくして、某映画での出演者に逮捕者が出ました。
罪状は異なるものではありますが、逮捕を受けてもその映画は放映を決定したように見受けられました。

これを知って英断だ、と思ったけれど、これはNHKの対応と比してそうとらえてしまったのかもしれない。
作品は作品。
それ以外のなにものでもないのだから。


あえていうならば。

NHKは決して安くはない視聴料を全国民から取って番組を作り、運営しているのだから、全国民の視聴する権利を奪ってはいけないとも私は思うのです。

ちなみに、私は鎌倉殿の13人を半分も観てはいない人物ですが…ね。


No.125

あの日本中に鎌倉殿ブームを巻き起こしたであったろう昨年のNHK大河ドラマ、【鎌倉殿の13人】が全話、配信停止となるといいます。
おそらく再放送ももう期待できないのでありましょう。

何故?

…出演者の一人に逮捕者が出たことによるものだというのです。

……。

あえて言わせていただけば、何故?
何故こういう連帯責任のようなことを求めたりする必要があるのでしょう。


…NHKだから?

…そうね。
NHKはかつて、歌謡曲で
♫ ○○はまだ 十六だから〜 ♪
というフレーズ、○○に歌っている当人の名前が入っていることに対して
「商品に当たる=宣伝である」という理由でその部分を
♫ 私はまだ 十六だから〜 ♪
と歌わせた過去があるくらい、コッチコチの石頭なくらいだった。


今はずいぶんと緩やかになって、他局の人気番組のテーマ曲だの主題歌などを普通に流すし。
なんならその番組名だって平気で出すし、その内容に触れて語ったりもするし、他局とコラボした企画すらしているくらいです。

それがどうかは、どう思うかは個人個人異なることかとは思うのですが、私は歌詞の一部まで改ざんすることの馬鹿馬鹿しさに呆れていたくらいだから、まあ、良いかどうかはとにかく良い傾向を模索しだしたと微笑ましく思ってはいたのですが。


確かに。
確かにこの出演者さんは罪を犯したのかもしれない。
ですがそれ自体がまだ、確定すらしていないはず。
容疑者としての逮捕であるのだから。
一応、それを前提としても、何故、リアルでの罪を架空の世界のキャラクターに求める必要があるというのでしょう。


そもそもこの対応は誰に対しての配慮だというのでしょう。

この事件の発端となったという、他者に対してのセクハラ、パワハラはあったのかもしれません。
しかしながら逮捕された罪はそれではない。

大切な家族の死を幇助するくらいに追い詰められていたことからの悲劇であったと私はとらえています。


セクハラ、パワハラに対してのものに対しての、このNHKの対応だとしても作品を封印してしまうことは少し違うと思うのであります。

たしかにセクハラ、パワハラの被害に遭われた方の心情を思えばその人物の姿を見たくもないのは誰もが理解できること、ではあります。

ですが、


(続きます)











No.124

この『高館義経堂』さん、
受付のための小さな建物があって、その中に、いかにも地元の有志の方、という雰囲気の方がいかにも時間をもて余している感でポツンと一人座っておられました。

古くからある歴史あるものであるしと、後世に繋いでいこうと思われた地元の方々がこちらを護っておられるのかとばかりに思っておりましたが、実はここ、あの世界遺産の毛越寺さんの境外堂でありました。

まぁ、藤原氏と関係があるといえばあるし。
昨年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』の視点でみれば、間違いなく聖地でありましょう。
…鎌倉殿の視点からなら、むしろこちらの方が?
いやぁ、鎌倉殿の放映前で本当に良かった良かった。

その後向かいましたのは…。
計画を立て、運転しておりますのが歴史オタクの夫でありますので、跡地でしかないとわかっていながらもそこはこだわる、【観自在王院跡】。
…ええ、彼の下調べ通り、全くの跡地でしかありませんでした。
駐車場どころか駐車スペースもなく、しかもその周辺を工事しておりまして、そのせいもあって、私などは通りがかりにあった〝沼〟とか〝池〟を見ている感覚しかありませんでした。
それでも、歴オタの夫はそんな池を見て、藤原氏の栄華に思いを馳せ、「ここにはかつてこういう建物があって、○△✳︎★¥…」と語っておりました。

それを聞きながらふーんと思った私の顔を見て現実に戻された彼は、少し悲しそうに「いつまでいても仕方ないから、毛越寺に行こうか」とひとこと。

…ああ、私の演技力があまりにもなさ過ぎたせいで。
こうしてこれを書きながら、当時もう少しだけでも演技力を磨こうと思ったことを思い出しました。

だって、工事現場の、なんの変哲もない草ボーボーの池なんですもの。
そこにロマンを感じているふりは、ちょっと一般のおばさんには難しかったのです…。


No.123

そんな高館義経堂。

仙台藩主第四代『伊達綱村』公が義経を偲んで義経堂を建てたのが、天和三(1683)年。
俳聖・松尾芭蕉が門人・曽良を伴い、平泉を訪れたのは元禄二(1689)年のことといいます。

建てられて間もない義経堂のある高館に立ち、眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様を眺めた芭蕉。
百年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経公を思い、かの名句を詠みます。


『三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。(中略)
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪を落し待りぬ。

【夏草や 兵共が 夢の跡】』

(義経堂の芭蕉の碑より)

奥の細道を(ごくごく一部)歩いて、実際にその場に立ち、その空気を吸うと、芭蕉の詠んだ句の素晴らしさに心打たれます。
それこそ国語の授業でふれただけのものとはまるで異なって、草の香りや風をすら感じる気がいたします。

義経堂の境内自体はさほど広いものではありません。
義経公の像が遮那王尊として祀られており、堂創建時に製作された木造の源義経公像は凛凛しい武者姿で、それはそれは極めて綿密に作られておりました。
兜なども本当に被っておられるよう。
衣も、そして鎧も、それぞれの質感を感じさせる素晴らしい像であります。


義経の最期として伝えられるに、
館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と四歳の娘を手にかけたのち、自害して果てたと伝えられます。享年三十一。

三十一…かぁ。
かわいい盛りの四歳の娘を手にかけて…。

なんだかなぁ。

そんな感想しか言えない語彙力のなさでありますが、語彙力があったところで、やっぱり「なんだかなぁ」としか言えない気がする。





No.122

…うーん。

高館義経堂のことで、夫が何かもう一つ言っていたような…。
なんだったかな?

あっ、そうだ!

この高館義経堂が義経が最期を遂げた地とすることに、もう一つ違う場所だとする説があるとか言っていたんだ。
この義経堂の近くなんだとか、なんとか。
「今回そこへは行かないけど」と。

たしかに、ここ、この義経堂は天和三(1683)年、仙台藩主第四代『伊達綱村』公が『義経』を偲んで建てたお堂であって、ここに義経の館があったという伝承に基づいてはいるものの、そうであったという立証はないのかもしれません。

そうだった、そうだった。

ただ、(ここに館を構えこの川を眺めて、義経は何を思ったか)と思いを馳せながら、おばさん、結構優秀な案内、説明をしてくれる、歴史オタクの解説をすっかり忘れてました。
このおばさん、そもそも弁慶が壮絶な死を遂げた場所を中尊寺だと思っていたくらいですからね。


そもそもが、義経はその後も生きてモンゴル帝国の初代皇帝成吉思汗=チンギス・ハンは同一人物だという伝説もあるくらい、ですもの、終焉の地が日本の平泉という狭い土地で少しズレて伝えられるくらい、日本史あるある、の域ですかね。


私どもが、芭蕉のように〝兵どもが夢の跡〟である義経堂に立ち、山上川を眺めながらその冥福を祈りましたのはたしかなことです。




No.121

中尊寺を後にして。

向かったのは、中尊寺を目指してきて、通り過ぎてしまい一度通った道、ではなくて、…いや実際にその道を通ったのも確かなのですが…。
その名は『たかだちぎけいどう』。

ええ、耳で聴くと「なんだ、それ?」とか思えてしまう(…のは私だけ?)のですが、漢字で書くと【高館義経堂】。
『ぎけい』って…?
そう、この地で命を落とした【源義経】であると、夫の解説は続きました。
なるほどぉ。
歴オタの夫がコースに入れないわけがない…というか、ここはセットにしてまわるであろう定番でありましょう。
なにせ、あの歴史に名高い【源義経】で、しかも終焉の地とあれば。

ことに昨年2022年のNHK大河ドラマ【鎌倉殿の13人】は巷でかなりの話題作で、その舞台の一つでもあった『平泉』、ましてや義経終焉の地とあれば、昨年以降はことさらに人気のスポットとなっておりましょう。

えっ?
中尊寺が終焉の地だと思っていたくせに?
…ねぇ。

『鎌倉殿』のあとであれば、そんな無知無教養を夫や皆さまの前で曝さずに済んだものを。


菅田将暉さん演じる【源義経】が青年期を過ごし、『平家』打倒のため挙兵したのが『平泉』。

また『平家』打倒後、こともあろうことか兄【頼朝】に追われ逃げ落ち、最期を遂げたのが『平泉』。
【義経】にとって『平泉』はとっても重要な場所でありました。


【高館義経堂(たかだちぎけいどう)】は『源義経』が最期を遂げた地に建てられたお堂。
江戸時代の俳人【松尾芭蕉】が、かの有名な句
『夏草や兵どもが夢の跡』を詠んだ場所でもあります。

とはいえ【高館義経堂(たかだちぎけいどう)】は【世界遺産】には登録されていないのですが、ね。

まぁ、煌びやかな奥州藤原氏の遺跡を語るには少し意味合いが異なるものですし、それはいたしかたないことなのかもしれませんが…。


そんな義経堂、
『五月雨を集めて早し最上川』
『暑き日を海に入れたり最上川』
の最上川かと思いこんだ地理音痴のおばさんがいたくらい、大きな広い【北上川】のすぐそばにありました。


ええ、『旅の恥はかき捨て』と申します。

…それをここで暴露したら一生ものになりますが、ね。

No.120

再び来た道を戻るのではありますが、不動堂をめざします。
懸造りである不動堂を見るべく下へと続く道があったことが気になっていたのであります。
はたして昭和の世に建てられた、一見普通の御堂に見えた不動堂は見事な懸造りでありました。

ん?
何やら大きな建物が見えます。
そうして大きなお像も。
はて?
中尊寺マップにはその建物は触れられていません。といって、立ち入り禁止でもないのです。

なんだろう。

ええ、煩悩の塊おばさんは、好奇心の塊でもあるのです。

おおっ!
見上げるほどに大きなお像が!

建物もやはり御仏の像の祀られたもののように思われます。
ただそう多くはここまで訪ねてくる人は少ないようで、すれ違う人もまばらであります。

小さな門もありました。

…なんだろう。
なんの建物なんだろう。
ま、帰ってからネットで調べればわかるか。


…わからなかったのです。

金剛堂という名称はひろうことはできたのですが、そも、それがこの建物を示すものなのかすら不明なくらい、情報がない。

まぼろし〜っ。
ではないのですが、ね。
私もギガ数を超えまくってしまったため、泣く泣く消した写真に、この建物周辺を写したものがすべて含まれており…。


やはり中尊寺リベンジ!


No.119

御本殿の右に、何やらたくさんの小さなお堂が並んでいます。
見た目も新しい、整列したかのように並ぶこのたくさんのお堂、こちらは【白山神社十二支一代守護神社】、というそうです。

そう、十二支分の御社がそれぞれに祀られています。

『十二支、生まれ歳守護神社をお参りし、日々の御安泰、諸願成就をお祈りし、守護大神さまの御加護を受けましょう。
大神さまは、誠の心を持ち信仰する人をお守りし力を添えたすけてくださいます。』

とあります。
さらに御家族の分も受けしましょう、と。

小さな、とは申しましたものの、一つ一つが白いお社で立派な扉があって錠前が付けられています。
白地に赤い柱のお洒落なお社であり、それぞれのお社の台座部分にはそれぞれの干支の画が貼付されているので、わけなく探し出すことができます。

境内社と思っておりましたが、もしかしたら独立した神社として祀られているのかもしれません。

さて。
元来た道を戻ります。
やっぱり目を引き、心を惹きつける能舞台、能楽殿です。

鳥居を抜ける際気づいたのですが、こちらの白山神社さん、あの幻想的なまでに美しい弁財天堂の裏手でありました。
まぁ、位置関係からは少しでも考えたならすぐにわかることなのですが…。

次に向かったのは…。

No.118

いやぁ、火災によって造られた仮宮が、のちに重要文化財指定を受ける能舞台、能楽殿になろうとは、その時代の人たちは想像すらしなかったでしょう。

現在の拝殿はいつ建てられたものなのか、冊子『中尊寺を歩く』にも出ていないし、見落としたのかそういった記述のある案内板等はありませんでした…たぶん…。

さほど古いものではなさそうに私の目には映るのですが…、なにぶんにもそういう年代ものを当てられる自信はこれっぽっちもなく。

そんな事より、な、なんと!
あの、地元の総鎮守の夏の大祓ではくぐりたくてお参りに訪れたのになかった茅の輪が、こちら白山神社さんでは、拝殿の前を支える二本の柱に常設されているようで。

茅の輪くぐりといえば、六月、そして十二月、私どもが行った時は十一月。六月からはそれなりに時が経っておりますし、十二月にはまだ早い。

何より〝常設〟であろうと判断した決め手は、『茅の輪のくぐり方』が、大きな看板となって書いてあったから。

あんなにくぐりたかったのになぁ。
くぐりたい放題ってなるとテンションが下がる。
なんともわがままで好き勝手なことばかり言うおばさんです。

それにしても拝殿の前の二本の柱にくくっちゃうっていうのも、なんともまた大胆な。
お参りの際、必ず穢れを祓うことができるのですから、これ以上ないってくらい能率的でありましょう。
茅の輪を『正面よりくぐって参拝した後、左右どちらかに抜けお戻りください』と書かれていました。

拝殿は素木のままの、シンプルな造りのものでありました。
力強い深くて太い彫りが印象的でありました。


拝殿のすぐ傍に授与所があり、御守りや絵馬、御朱印などが授与されておりました。
ちなみに、おばさんはそちら側に抜けたのは言うまでもありません。
これでは抜けながらもう一つ煩悩を抱いたことに…やれやれです。

絵馬がたくさんの種類ありまして、大きさもまちまち。
能の場面が丁寧に描かれているものが多かったように思います。

…これは奉納というよりは持ち帰って記念にする人が多いかもしれません。

御守りも実に豊富な種類がありまして、何の御守り、という意味での種類もさながら、形が実にさまざまで。
茅の輪の形のものもありましたし、多角形のものもありました。

No.117

『古実式三番』そして『御神事能』の行われるのは五月四、五日の祭礼の日。
『御神事能』と称するのは神前に奉納するものだからといいます。
江戸時代から、明治の神仏分離の後にも絶えることなく続いてきているといいます。

また、能の演目の一つ『秀衡』は、昭和二十六(1951)年に、この舞台で初演披露された新作能であるといい、中尊寺の舞台には欠かせないものとなっているといいます。


うーん、薪能かぁ。
この中尊寺さんの白山神社の能舞台で行われるとはまた、なんとも…。
篝火と相まって幽玄の世界でありましょうね。
群馬県でも薪能が開催されることもあるにはあるのですが…。
これはまた。…一生に一度でいいから観てみたいものであります。


さて、能舞台、能楽殿はさておいて。
肝心の白山神社さんに詣でましょう。

中尊寺【白山神社】さんの御由緒は、
嘉祥三(850)年、『慈覚大師』が加賀の白山をこの地に勧請、自ら十一面観世音菩薩を刻み、鎮守『白山権現』と号したことに始まるといいます。

配佛は樋爪五郎秀衡さまの持仏で
運慶作の『正観音』さま、【源義経】の持仏・『毘沙門天』さまであったといいます。

嘉永二(1849)年、火災により焼失します、が同六年(1853)、伊達藩主・伊達慶邦公より仮宮の拝殿(現在の能楽殿)が再建奉納されました。


えっ?
待って待って!
能楽殿って仮宮の拝殿だったの?

それはそれは…。なんとも壮大なリフォームを。

No.116

白山神社は中尊寺鎮守の一つで、境内の北方にあります。

現存する能舞台は、嘉永六(1853)年、に旧伊達藩主・伊達慶邦によって再建・寄進されたものといいます。
経済危機下での奉納であったため、当初、鏡板の松は描かれませんでしたが、その後昭和二十二(1947)年に能画家の松野奏風により、山内円乗院の老松を写して描かれました。

橋掛り、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本唯一とされ、平成十五(2003)年に国の重要文化財に指定されたといいます

平成二十八(2016)年に茅葺き屋根は葺き替えられたといいます。
歳月に洗われたような素木の美しい能舞台が老杉の木立に溶け込む様は能が演じられていない時でさえ例えようない風情があります。

演能の際には舞台の奥まで西日が射し込むため、面や装束が美しく映えて独特の雰囲気を醸し出すのだといいます。

この能舞台を使った能舞を天正十九(1591)年に豊臣秀次と伊達政宗が観覧したという社伝が残っているとされますが、平泉に能楽が伝えられたのは伊達藩の時代と考えられているといいます。
伊達藩は、金春流をお抱えにしていましたが、やがて喜多流に転向しました。また、市井では、中尊寺の僧を中心に地元の人々が稽古を受け、謡や舞を伝承してきました。

現在、春と秋の藤原まつりに白山神社に奉納される「中尊寺能」は、シテ・ワキ・囃子・狂言方を中尊寺の僧が、地謡を地元住民が勤めるという、全国でも珍しい演能方式によって行われているといいます。

毎年八月には『中尊寺薪能』が上演され、『春の【藤原まつり】』に行われる中尊寺能は『御神事能』と呼ばれ、中尊寺の僧による古式ゆかしい『古実式三番(こじつしきさんば)』に続いて能が奉納されるそうです。

国の指定文化財でもある古実式三番は、最初に「開口」として翁(白式尉)が登場し、中尊寺周囲の山河秀峰を称え、寺のいわれなどを説きます。次の「祝詞(のっと)」で顔を隠した僧が祝詞を唱え、「若女(じゃくじょ)」で若女面をつけた僧が鈴と扇を手に舞います。そして最後の「老女」で老女面をつけた僧がやはり鈴と扇を持って舞うという流れで行われ、囃子は笛、小鼓、太鼓が入るのだそう。


なお、この御神事能は明治九年に天皇が天覧されています。

不遜にも明治天皇のご覧になられたという場所に立って見ました。


No.115

進路にはまた一つお堂がありました。
『釈迦堂』のようです。
造りは小さめながらも立派な造りで、御本堂としても機能しそうな建物です。
こちら享保四(1719)年の再建とのこと。もっともっと新しく見え、改築等がなされてはいるのでしょうが、その築年にびっくりし、二度見、三度見したくらいです。

御本尊は釈迦三尊(しゃかさんぞん)さま。
お正月六日には、中尊寺の多くの僧侶達によって正月の法要が営まれているとのことでした。



釈迦堂の前を通り過ぎて、白山神社の赤い鳥居がみえてきます。

広い境内地、神仏分離令で口うるさいようであれば土地を分けて隣接としたことも可能なくらい、余裕をもって離れています。

『中尊寺鎮守 白山神社』とニスでも塗られたような標柱に黒々とした墨書きされています。

しかしそれよりもずっと大きな、白い標柱があって、そこには『国重要文化財指定 野外能舞台 入口』と書かれていました。

…重文ね…。
重文指定云々とか、あまり、…こんなにも大きくとり上げなくとも…。

と、少ししらけた気持ちになって奥へと進んで参りますと。

…おぉっ!
…これは。

これはわかるわ。重文指定を受けた云々ではなく、能舞台を誇りに思ってあえて『野外能舞台』を示す標柱を建てたこと。

凄いです。
本当に本当に凄いです。

重厚にして荘厳。
茅葺き屋根のそれはそれは大きな舞台がそこにありました。
歳月に洗われた素木の木目もまた美しい、素晴らしい舞台です。
正面の木の壁には見事な松の木が描かれています。

しらけた、とか言っていたおばさんのテンションは一気に空まであがる勢いです。



No.114

進路にしたがい進みますと、何やら風情のある門が見えてきました。
薬医門、です(たぶん)。

門をくぐりますと…。
ビクっ!

門を構成する横木部分にびっしりと、これでもか!というくらいに小石が積まれているではないですか。
ひぇ〜っ、何?なに?
なんで?

たまに見かけるのですが、理由がわからない。
長野県に多かった気がします。
理由がわからないことがなんともいえない怖さを、私は感じるようになっているのです。

この薬医門にはそれこそ石が置けるところにはくまなく置かれているのですよ、いや、正確には置かれている、ではなく高く積まれている。
これさえなければ、趣のある門であり、あたりの風景も大変素晴らしいのですが…。


西谷坊とも呼ばれるこちらは大長寿院といい、中尊寺の塔中(支院)の一つであると書かれています。

嘉承二(1107)年、藤原清衡が創建した阿弥陀堂をその始まりとしているといいます。

 
『吾妻鏡』によれば、二階大堂(大長寿院と号す)の高さは五丈(約15メートル)、本尊は三丈(約9メートル)の金色の阿弥陀像、脇には丈六(約4.8メートル)の阿弥陀像九躰が安置されていたという。

現在のこの大長寿院の本堂は、1863年文久三(1863)年の再建。
御本尊は胎蔵界大日如来さまだといいます。

元三大師さんをお祀りされています。
手を合わせて、…早々にこちらを立ち去らせていたいただく私でありました。

No.113

梅の花の時期ではなかったので、高台の狭い頂にご鎮座される『関山天満宮』に梅の木があったかどうかはわからないのですが…。

ここ、この『関山天満宮』さんがですね、実にあたたかくてやわらかな気の満ちたところでありまして。
私のような凡人でも、そのパワーを感じられる(気がする)のです。

それもそのはず、…ですよね。
子を思う父が、その子の守護のためと勧請した〝御先祖さま〟であります。

高台という立地もあり、こちらの御利益はかなりなもの、な気がいたします。
御利益は、…学業成就、だ。


……癒やしの気をいただいただけでも。

No.112

さらに進むとまもなく高台に小さな…とはいえ、扉もあり瓦屋根の葺かれた建物、神社が見えました。

それなりに高台なうえ、なんとも急な斜面に階段もなく、…運転もせず何を理由にかバテバテの私に、夫が、
「どうする?」と聞いてきました。
「行く!」


…本当は夫本人が疲れていて、躊躇われたのかもしれなかったのに、私が行くならば、行くと答えざるおえなかっただろうに、そんな配慮もできなかった私。
今頃…二年半も経ってから反省してどうするの世界ですが、反省して。

彼はここまで四百二十キロを超える距離を一人で運転しておりますし、行った先々で結構広い境内を余すところなくまわっておりますので、疲れも当たり前、…労わって当たり前の妻ですのに、最低だったな、私。
これは懲りるわな。
本当に、過去の夫よ、すまなかった。

一見すると躊躇われる斜面を登っていく小さな神社さんを目指す者はこの時点では私たちだけでありました。

そんな斜面を恐る恐る登り出すと…見た目に反して登りやすい!
斜面に生える木々の根が、自然に階段のような役割をはたしていたのです。

さもありなん、こちらは『関山天満宮』、学問の神さまであったのです。
お寺さんの境内のなか、かつての悪令に屈することなく祀られた〝ご本尊〟さまは、
『天満大自在天神(菅原道真公)、聖観音菩薩』さま。


こちらの御由緒は古く平安時代(794~1185)、陸奥守・『源頼清』公が、衣の関を守護し世の平和を祈願する為、鎮守府の矢を納めて天神地祇を祀る『関の神社』を造営しました。
…なるほどぉ、文字通りの〝関〟だったわけですね。
関山天満宮創建以前です。

鎌倉時代(1185~1333)になり、菅原道真公の第十四世孫に当たられる『五条為視』公が勅命により、奥州平泉に下向逗留します。
この時に誕生した『乙王丸』に、京都天満宮より勧請した『天満自在天神』さまと、『観世音菩薩』さまをお授けになりました。
『乙王丸』は後に中尊寺経蔵別当第十三世・行栄和尚となったといいます。
関山天満宮にはその生誕に際して授けていただいた天満自在天神さまの御真影と観世音菩薩さまが祀られているといいます。


『東風(こち)ふかば
にほひおこせよ梅の花 
あるじなしとて春な忘れそ』

菅原道真公の梅は、ここまで飛んで来られましたか。

No.111

中尊寺さんで買い求めた『中尊寺を歩く』という冊子をパラパラとめくって、ふと気づいたことがあります。
中尊寺さんの建物は『宝形造』と呼ばれる屋根が何気に多いということ。

金色堂がそうで、金色堂の新・急覆屋、経堂、不動堂もそうだったかもしれないし、康永二(1343)年に鋳造された梵鐘が納められている鐘楼もまた、この宝形造でありました。

で?
いやぁ、それだけなんですけど、ね。
宝形造って、どこから見ても三角形の屋根。
私のような何かをを覚える機能がほぼ無いような人間でも、一発で覚えられる、ありがた〜いものの一つ。
言い方を変えれば、4枚の屋根が全て三角形、というものであります。

それに仏教的な意味がどうのこうのとか、いつ頃の仏教建築に多かっただのいう難しいことは何も分かってはいないんですが。
そもそもがこの工法が簡単なのか難しいものなのかすらわかりません。

夫がこの他の屋根の形を、一時期一生懸命に教えてくれていたんですが、ごく一部しか覚えない私に呆れて、もう屋根について触れようともしないという有り様でして。

金色堂、経堂、覆屋と、近くにある建物がみな一様に宝形造だったので、よけいに目に止まったのかもしれません。


三角形の底辺が合わさる部分が少し反っているのが、なんとも気高く厳かな感じを受ける、中尊寺さんの宝形造の屋根、でありました。

No.110

あー。
もう一度でいいから、東北に行きたい!

もっともっと時間をかけて、見逃したところをもう一度まわりたいし、もっともっといろんなところを歩きたい、参拝したい。
出羽三山に詣でたい。
そして何より行けなかった青森、秋田も行きたいところがたくさんあります。

あー、東北が私を呼んでいる。
…呼んではいないか。
なんとも変なおばさんだし。

でもでも行きた〜い。

夫は…この東北の旅を全て運転してまわったために、少し…大分こりてしまったようで、行きたくはないけれど、今はまだ勇気が出ないと。
コロナ禍さえ落ち着けば新幹線が使えて、全然違ってくるんだけど、と。
ひとえに運転音痴、方向音痴の私のせいで…ごめんなさい。

…でもでも。

行きたいぞぉー!東北。


おお、なかなかいいキャチフレーズじゃないですか?

なんならJRさん、お使いいただいても♡

No.108

経堂の隣には金色堂の旧覆堂かありました。

金色堂を.風雨から保護するため、それらを覆うように建設されたものですが、今の新しい、最新の技術で造られたものとくらべると、かなり簡素な造りのよう感じられます。

まぁ、覆屋ですからね。

そして覆屋ですから中にあった金色堂なきあとは、当然がらんどう。
なんとも寂しい風景です。
覆屋自体もどこか寂しげに見えるくらい。

中には、文字の書かれた大きな柱が1本立っていました。

『(梵字)〇建寶塔○藤原秀衡公 源義経・辨慶 八百年遠(?)忌菩提〇〇…』

ちょうど建物の真ん中に立てられています。

中を覗くと、覆屋なだけあって、天井に近い部分はかなり特殊な造りとなっていました。
一見、中二階でもあるかのように見えます。
中に納められた金色堂を安定させるような特殊な梁とか細い何本もの木が中央に向けて放射状に組まれていたりとか、…まぁ専門的な知識皆無のおばさんの書いたものですので、まぁ、オブラートにでも包んで読んでやってください 笑。

外に面した柱とか梁とかには青い苔がむし、なんとも憐れな趣を呈しておりました。

夫はいたくこの旧覆堂に感動し感嘆しておりました。
たしかなにか呟いていたなぁ。
…忘れちゃったけれど 笑。

【公式サイト】より。

『正応元年(1288)鎌倉幕府によって建てられたと伝えられる、五間四方の堂で、古い記録には「鞘堂」とも記されています。
「鞘」の字には「大切なものを保護するためにかぶせたり、覆ったりするもの」という意味があるからです。

松尾芭蕉をはじめとする文人墨客、あるいは伊達政宗、明治天皇といった歴史上の人物は、薄暗いこの堂内に入り金色堂を参拝したわけです。金色堂解体修理(昭和の大修理)の際、(この覆堂は)現在地に移築されました。

近年の調査では、金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て、現在の建物は室町時代に建てられたと考えられています。(重文)』


室町時代から昭和の時代まで、五百年近くの間をこの覆堂が、あのまばゆくも尊い金色堂を雨風から守ってくれていたと思うとたしかに、なんとも感慨深いものであります。





No.107

金色堂のお隣には『経蔵』がありました。

金色堂の、あまりの煌びやかにしてまさに極楽浄土を思わせるような空間から現実に戻るには、庶民には少し時間が必要です。(私はちなみにかなりかかりました)


へっ?…き、経堂?

…どこから見ても、よく地元で見かける、さほど大きくはない御本堂のように見えますが。

何段かのきざはしを登り、濡れ縁があって、正面の扉が開け放たれたその先にはご本尊さまがお祀りされています。
…何かの間違いでは…ないよなぁ、天下の中尊寺であり、しかももうすでに古びた案内板です。


公式サイトによると、この経堂、当初はニ階瓦葺で、建武四(1337)年の火災で上層部を焼失したと伝えられている、と書かれています。

…は、はぁ?
どこからどう見ても、建ったときから普通に平屋で建てたいわゆる一般的な〝お寺〟の建物でしかありませんが?
昔の技術って、そんなにも優れていたの?

さらに続けて読み進めると「おそらくは古材をもって再建されたものでしょう」と。
…で、ですよね。
当初はあざやかな彩りや飾りがあったようです。

そして。
もともとのご本尊さまであります【騎師文殊菩薩】さま(重文)と、三方の経棚に納められていた【紺紙金字一切経(国宝)】はあの宝物館『讃衡蔵』に移されて、今は新たな騎師文殊菩薩さまが安置されていました。

私は経堂といえばお経がぎっしりと納められたものだとばかり思っておりましたが、この中尊寺の経堂は、やはりあの藤原氏のこだわりをもって、こうした造りとなっているのでしょうか。
それとも…京都、奈良の寺院ではこのような造りが一般的なのでしょうか。
…うーん。

この課題は、もう少し先になって。
コロナ禍が真に、あるいはもう少しでもおちつくことがあれば、自ら京都・奈良に出向いて解明できましょう。
それを…今は祈念することといたしましょう。

No.106

金色堂を出ると、目の前に『昭和天皇御製歌碑』がありました。

【みちのくの
 昔の力しのびつつ
 まばゆきまでの金色堂に佇つ】


昭和天皇は最後の現人神、戦前、戦中、そして戦後と、陛下は陛下として、大きく時代に翻弄された方であります。

もちろん私は戦後、すでに世の中が豊かになってからの生まれでありますので、天皇陛下や天皇家に対して別段特別な感情もなければ失礼を承知で申せばさしたる関心もなく、
そもそもが私の親とても戦時中のつらかったこともかすかな記憶でしかない世代であるため、当然陛下を現人神として崇めたことのない人間で。
天皇陛下は天皇であり、それ以外の何者でもないという認識でしかなかったのではないかと思うのです。

なにしろ神社に行くことがほとんどないような両親でしたし。


昭和天皇は、戦前、側近に対して「私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういうことを云われては迷惑だ」とおっしゃっておられたといいます。
とはいえ、帝王学を学び、日本でただ一人という特別な扱い、特別な学びをなされてきたお方でありました。


そんな陛下は、戦後、〝象徴〟という、立ち居振る舞いすらどうすればよいのかすらわからない存在と位置づけられ、それでもその〝象徴である天皇〟を模索しながら日本各地を巡幸して国民を励ましてまわられたと、授業で学んだこと、テレビで見聞きしたことを元に、私なりにそう認識しております。


陛下は国民から崇められる存在から、国民から愛される存在へとなられたと。
そこにはもとよりのお人柄と、やはりご努力があってのことであったと思うのであります。


陛下がここにお立ちになられ歌をお読みになられたのか…。
平泉という地でそんな思いを抱いたひとときでありました。


それにしても。
昭和も遠くなりにけり、だなぁ。






No.105

讃衡蔵を出ると…というよりは併設された売店、土産物店があります。

中尊寺に関するもの、そして念珠等の身近な仏教由来の品から、岩手県や東北の食の土産品等々…さまざまな物が置かれ、さらには珈琲やソフトクリームなども販売しております。

(フンフン、お土産屋さんね)
ここに入った時点ではここで買う物はないと思って軽く流しておりました。むしろ、急な登り坂を登って来ていたこの時点で気になっていたのはソフトクリームであったくらいでありました。

ところが。

煩悩の塊、物欲の化身のおばさん、ある出会いをしてしまったのです。
2センチ強、3センチもない小さな小さな金色に輝くさまざまな種類の仏さまの像、であります。


あっ!
見つけた瞬間から釘づけです。
それは自分の守り本尊さまの御像でありました。


古来より国や地域を問わず、小さな仏像を懐に忍ばせて、お守り、お守り仏として持ち歩くことがあるということ、
日本でも名だたる武将たちが鎧に忍ばせたり、ご自身の念持仏として持ち歩いていたこと、
…そんな御仏の教えとしては外れた、それでも知る人ぞ知るといった情報を、…本来ならもっともっと覚えねばならないことがたくさんあるというのに、それを知り、心に深く携えていた私。

…出会ってしまったのです。
小さな小さな掌の仏さまの像に。


(売店だよ?お土産屋さんだよ?お土産の仏像に過ぎないよ?)

…その時の私の心の中の声です。

でも、今までいろいろなお寺さんをまわって歩いてきて、初めて出会えた掌の仏さまの像。
これを逃したらずっと後悔するかもしれない。
…そう、物欲の権化はすぐそう思うのです。

そんな私の怪しい葛藤に気づいた夫が一言、
「買えばいいじゃない、欲しいんでしょ?いいじゃない」
おおっ!
夫から後光がさしているかのようにおもえました。夫の口から神の声を聞いた気がいたしました。

(…こいつにこれを早く買わせないと次にいけない)
本当はそう思っていたのかもしれない。でも自分に有利なところを切り取って使うのが愚かな人間で…。

ええ、その小さな掌の仏さまの像、〝お土産屋さん〟で購入しました。
…おバカです。

今も〝仏壇もどき〟に安置して、毎日御真言をお唱えして。
これぞという時には(どんな時だよ)バッグにお入りいただきご一緒していただいております。


信心、です。



No.104

その新しい丈六の御本尊さまの完成までは決して順調だったわけではなかったようです。

平成二十三(2011)年に発生した東日本大震災で中尊寺さんも大きな被害を受けておりました。

御本堂はなんとか倒れずには済んだものの、白壁が全部落下するなど、歩くこともできないほどの大きな被害であったといいます。

この被害を受けお釈迦さまをお造りする計画は一旦ストップせざるおえなかった。

しかし。
「こういうときだからこそ手を合わせる仏様が必要だということで準備を再開し、震災のニ年後、平成二十五年にやっと完成することができました。
私どもは東日本大震災の復興、その後のさまざまな自然災害、人災、世界の戦争や紛争などで苦しんでおられる人々の平和をお祈りするために日夜手を合わせております」


とはやはり中尊寺さんの執事長さまのお言葉であります。

…新たな意味も込められた悲願となってしまったのでしたか。


そんなお話をネット上ながらお聞きして、あらためてその新しい丈六の御本尊さまに手を合わせたいと、強く思う私でありました。



No.103

金色堂のほかに清衡公が残したものが『紺紙金銀字交書一切経』です。紺色の紙に、金の文字と銀の文字で一行ごとに写経されたもので、国宝に指定されています。

清衡公の供養願文には「金銀字経の金の光と銀の光がお互いに光を和して私の誠の心を照らしてください」ということが書いてあるのだといいます。
「金の光と銀の光というのは、
『二つの違った考え方』、
あるいは朝廷とみちのく、
父方の藤原氏と母方の安倍氏、
といった清衡公の体を流れる二つの血であり、それらがどうか一つに融けあって自分の心を照らしてほしい、という願いが「紺紙金銀字交書一切経」にも込められているのではないか」
と、中尊寺執事長さまはおっしゃっておられます。


なお、こちらの讃衡蔵、三体の丈六の御仏のお像が安置されておられることから、〝御朱印〟の授与も行われています。そこに書かれた文字は『丈六佛』。
…なんだかなぁ。

ところで、この丈六と呼ばれる御仏像。
こういった丈六の仏さまが平安時代には中尊寺の中にはたくさんあったという記録がございます。『吾妻鏡』によりますと、
かつて【二階大堂】という大きなお堂があり、三丈の阿弥陀様と一丈六尺の脇侍の阿弥陀様が実に九体安置されていたと記されているのだといいます。
…まぁ、吾妻鏡という書物、よく「北条氏方の人間が書いたものなので必ずしも確かな史実が書かれているとはいえない」と言われておりはいたします。いたしますが、ここ奥州、中尊寺に関する限りは〝北条氏の手柄〟によるものでは無いので、まず〝正しい〟ものと思って良いのではないかと、私は思うのであります。
…凄いなぁ。
かけられた膨大な費用もさながら、ではありますが、その情熱、というか、込められた悲願にも似た思いに、ただただ頭が下がります。

それに倣っての御本堂の御本尊を新造…という簡単な理由ではやはりなかったようです。
それは清衡公が、落慶式の際にお寺に奉献した『供養願文』に由来しているといいます。
その〝供養願文〟には
『ご本尊は一丈六尺の釈迦三尊』
と書かれていたというのです。
それゆえ、中尊寺ではいつか創建当初と同じように一丈六尺のお釈迦様を御本尊としてお迎えしたいという悲願があったといい、それが平成二十五(2013)年に完成したということであります。



No.102

金色堂に隣接する讃衡蔵(さんこうぞう)は、中尊寺に伝わる3000点以上の国宝・重要文化財を収蔵する宝物殿で、平成十二(2000)年に新築されたものといいます。

館名の【讃衡蔵】とは『藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)の偉業を讃える宝蔵』という意味で名付けられたといいます。
藤原氏が残した3000点以上の国宝・重要文化財のほとんどを収蔵しており、国宝の中尊寺経をはじめ、平安期の仏像、藤原氏の御遺体の副葬品などの貴重な仏教美術をじっくりと鑑賞することができます。

讃衡蔵に入ると、まず正面に三体の丈六仏(じょうろくぶつ)が安置されています。
宝物殿という認識で、ここへ入った私はいきなりの丈六の仏像に圧倒されました。
丈六とは一丈六尺の意味ですが、坐像なのでその半分強(266〜273.3cm)の高さがあります。
むかって左におられるのが薬師如来さまで、もとは閼伽(あか)堂の御本尊さまであり、中央の阿弥陀如来さまはかつて本堂の御本尊さまであられました。
右にまた薬師如来さまがお座りになられ、こちらは峯薬師堂の御本尊さまであったといいます。

また他には、千手観音さまがおられ、こちらは等身大。実際に千の手はございませんが、この中のお手の一対を頭上で天に向けて組んでおられました。なんでもこのお姿の千手観音像は『清水式』といわれるとのことで、さらにこの手のひらに化仏(けぶつ)をいただいているのだといいます。
このようなお姿をされる千手観音さまは『清水式(きよみずしき)』というのだそうです。

金銅華鬘(こんどうけまん)と呼ばれる華鬘。
文殊菩薩さま。螺鈿の施されな須弥壇などなど。

なかでも『中尊寺経』は、藤原氏三代によって奉納された供養経で、寺外に流出したものも多いのですが、中尊寺に残る2739巻が一括で国宝に指定されています。
中でも紺紙に金字と銀字が一行ずつ交互に書き写されている清衡発願の『紺紙金銀字交書一切経』が有名です。


No.101

この【中尊寺金色堂】は、【金色堂新覆堂】の中、さらにガラスのスクリーンで覆われています。
防湿であるとか、防虫・防塵などさまざまな考えられる傷みの原因から守り、永久保存を考えてのことです。

そしてこの新覆堂。
私がこの金色堂を覆う覆堂を初めて見た時、〝いたった普通の落ち着いたグレーの建物〟と感じたことは、前述しております。

とはいえこの新覆堂は空調設備など、保存環境の整ったものを考えて造られたものだということを聞き、そこも書かせていただきました。中尊寺さんで買い求めた『中尊寺を歩く』という小冊子にはさほど詳しくは書かれていませんが、おそらくは当然、耐火耐震構造にもなっていることかと思われます。

そしてよくよく見れば屋根などは寺院特有のものであり、周りとの調和を目立つものではないようあえてグレーっぽい色味としたようです。そのグレーというのが少し近代的な色合いで、私などは、そこに違和感を感じたのでありますが…。
一応平安様式を加味したもの、なのだといいます。


ところで。
この近代的覆堂の前にも金色堂は覆屋に覆われておりました。金色堂の解体修理(昭和の大修理)の際、空いていた土地へと移築し保存されております。
道順から行くとこれから先になりますので、ただでさえ脱線しやすいおばさんの書く珍道中録では、時系列で書いていきたいと思うのですが…。

それにしても。
この覆堂というもの、金色堂を風雪から護るためにと鎌倉幕府によって建てられたと伝えられていますが…。
……それって当然のことながら、奥州藤原氏が滅んだあとのこと…ですよね。
金色堂が建立されたのは初代【藤原清衡】公の生前のこと。天治元(1124)年のこととされています。
その間…文治五(1189)年に奥州藤原氏が滅亡するまでの六十五年ほどの間って、…覆堂無しで、あの全てに金箔の施された螺鈿だのなんだの平安後期のですが工芸技術の集結された金色堂、外に普通に〝ぽんっ〟て建っていたってことですか?

近年の調査で、金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て今に至ったようであります。


と、いうことは…やっぱり、この中尊寺さんの中心で、〝ぽんっ〟とむき出しのまま、すっぴんのまま、建っていた時代があったんだ!

その時代って…凄い。



No.100

【中尊寺】は嘉祥三(850)年、比叡山の高僧慈覚大師円仁によって開山されたといわれています。
厳密には慈覚大師の開山は「勧請開山」といって、師の法を汲む人々がその徳を偲んで開山として仰いだものであったといいます。

十一世紀後半に、前九年・後三年の合戦を経て、
安倍氏・清原氏と受け継がれた奥六郡(岩手県中南部)を、
【藤原清衡】公が伝領し、これにより奥州藤原氏が興りました。

清衡公は平泉に居を移し、長治ニ(1105)年、かつて関所(衣関)のあった要衝の地、【関山】に『中尊寺』を造営しました。

はじめに白河関(福島県)から外浜(青森県)にいたるまで一町ごとに『笠卒都婆』と呼ばれる供養塔を建て、その中心にある関山に一基の塔を建てたのが始まりだといいます。
…それだけでももう、その規模というか志の大きさを感じ、圧倒されます。

その後多くの伽藍が造立され、その規模は寺塔四十余宇、禅坊はなんと三百余宇に及んだといいます。


そのなかで現存する唯一の創建遺構である【金色堂】は三間四面という小堂ではありますが、平安時代の漆工芸、金属工芸、仏教彫刻の粋を凝縮したものであるといわれます。
ええ、たしかに。
この目で見てそう感じました。
圧倒されました。


もともと聖山であったのでありましょう。
そしてなにより奥州藤原氏の深くて強い志…戦のない平和を願い人々が幸せに暮らせることを願い、末長くこの地を見守りたいと、生前から廟所を造り、そこに埋葬されることを言い残して逝った藤原氏三代の強い思いが、その亡骸を朽ち果てさせず今に残すこととなったと…、そうなのではないかと思わされる事実でありました。

それぞれ亡くなられた年代の異なる三代と、御首級だけの御遺体が、揃いも揃って自然にミイラとなっていること。
そうした何かを感じずにはいられませんでした。

…たしかに、同じ地所で地の条件はほぼ同じではありましょうが、自然にミイラ化するというのは極めて稀なことのようであります。

今なお奥州の平和を祈り続け、護り続けている藤原氏にあらためて深く敬意を表します。

No.99

中尊寺金色堂の内部には、三つの『須弥壇(仏像等を安置するために一段高く設けられた場所)』があり、
それぞれの須弥壇の上に御仏像が安置されております。

中央の檀が『藤原清衡』公、右檀が『基衡』公、左檀が『秀衡』公が造らせたのものです。御仏像は彼らの死の前後にそれぞれ造られているといいます。
それゆえそれぞれほぼ三十年ほどの間隔で造られているためよく見ると御仏像の様式もそれぞれ違うようです。
金色堂にいるときには、そのありがたさ、その眩さにそこまでのことには気づくことはありませんでしたが、中尊寺さんで買い求めた小冊子にある写真を拝見いたしますと、たしかに、お顔立ちであるとか光背の大きさであるとか、異なっておりました。
ただ、この阿弥陀三尊を護る二天さまなどはそれぞれが全く異なっておりましたのでそれにはさすがに気づいたのですが…。
今度また中尊寺さんを訪れることができたなら、そんなところも含めて拝観したいなぁ。
…でもあんなにも人の少ない中尊寺さんは〝あの時〟くらいだったのだろうなぁ。
そもそも。
東北を全て自分だけで運転した夫は、事あるごとに「あれが最後だろうからなぁ」と申すので、…うーん、
「コロナよおさまれ!」



閑話休題。
(得意の脱線をいたしまして、すみません)


それぞれの須弥壇は、中央に【阿弥陀如来】さま、その両脇に【観音・勢至両菩薩】さま、外側に【二天王】さまと【六地蔵】さま、
という構成になっています。

一つの須弥壇に十一躯、合計で三十三躯の御仏像があります。


中尊寺金色堂の御仏像の下、須弥壇の下には、藤原氏三代の御遺体が安置されています。
日本で一番有名なミイラと言っても過言ではないでしょう。

中央檀が藤原清衡公、右檀が基衡公、左檀が秀衡公に加え、泰衡公の御首級が参拝者から向かって左側に位置する右壇に納められているといいます。

昭和25(1950)年に金色堂が補修される際「藤原氏遺体学術調査団」によって大々的な調査が行われ、さらにはまた1994年にも再検証が行われたといい、この中で、このミイラは全て自然にできたものであるとされたといいます。


…自然に、でしたか。

No.98


なにが幸いしたかといえば…。

…ありえないこと、
稀なことでしかないのですが…。
コロナ禍であったがため、としか言いようがない、来訪者の少なさで、本来ならばぎゅうぎゅうに人が入りゆっくりなど到底見られないという、金色堂の中を、さほど多くはない人数で、心ゆくまで拝観することができたのであります。

とはいえGo Toほにゃららの使えた、コロナ禍の流行の狭間。
Go Toほにゃららの恩恵はともかくとして、この時に東北へ行けたことは本当に本当にありがたいことでありました。


No.97

この建物は【金色堂新覆堂】であります。
この中尊寺創建当初の姿を今に伝える【金色堂】を永久保存して後世に繋いでいこうという思いから、空調設備など保存環境の整った覆堂を造ったのだといいます。

ふーん。

前に続いて歩いてまいりました。


…えっ!?

…。


ええぇっっ!!


まもなくあらわれた金色堂は、想像以上のきらびやかさで圧倒されます。
言葉にできない美しさです。

さすが【皆金色(かいこんじき)】と呼ばれるだけあります。

この【金色堂】と称される【阿弥陀堂】は、金箔が押され、柱や手すりのひとつひとつに蒔絵(岩手県は漆の産地であります)や、螺鈿細工が施されており、夜光貝だけでなく象牙や宝石もまた使われているのだそうです。

そして中には阿弥陀由来さまを中心に10体以上の精巧な仏像がずらりと並んでいます。


これだけ贅を尽くしていてもいやらしさは感じず、ただただ荘厳な絶景っぷりに「あぁ、これはすごい…美しいわ…」とたっぷりどっぷり魅入ってしまいました。



No.96

中尊寺建立当時から現存する唯一の建物である【金色堂】。

…そもそもが私、ずっと金堂と書いてありました。申し訳ありません。
お詫びして訂正させていただきます。
つらつらと書き連ねているうちに、〝金色堂〟と〝金堂〟を混同してしまっておりました。やれやれ。


この中尊寺【金色堂】は、天治元(1124)年に初代【清衡】公が自身の廟堂として建立した『阿弥陀堂』。
…そうなんです。もともと、清衡公が生前から廟所として建立していた建物であったのです。ならばここに遺体が安置されたのも当たり前なこと。
…いろいろ知らずに思い込んでおりましたこと、金色堂内でしかとお詫び申し上げてまいりました。

金色堂に向かう前には、金色堂の並びにある宝物殿【讃衡蔵(さんこうぞう)】で、金色堂・讃衡蔵を拝観するための拝観券を購入する必要があります。なんでもこれ、事前にインターネットから購入できる電子チケットもあるようです。
最近の大きな神社仏閣は時代に合わせて次々と進化しております、ハイ。

このチケットを手に入れてすぐに金色に輝く御堂があるわけではありません。

金色堂入り口という、しっかりとした造り建物となっているゲートを目指して歩くこととなります。
背の高い石造のお地蔵さまが金色堂への参道を見守ってくださっておられます。
気持ちのよい林の中を歩いて、緩やかな階段をのぼります。

【金色堂】と、独特な字体で筆書されたものを刻した大きな石塔があり、横向き姿の、…、……いかにも近代的な、さほど大きくもない御堂が見えてまいります。


あ、さすがに金色堂は覆屋に覆われ保護されているくらいの予備知識はあったんです。
あったのですけれど。

こういう古くからの建築物の並ぶ空間では、その雰囲気を壊さぬようにあえて木造の落ち着いた建物にしたりするもの、じゃないですか。…そうなんです、おばさん、またまた妄想して勝手にイメージしていたものがありまして、辺りの建物に合わせた覆屋でないなら、むしろその金色堂に似せたイメージの覆屋で落ち着いた金色の色の建物なのではないかと思い込んでいたのです。
そこに見えてきたのはいたって普通の落ち着いたグレーの建物、だったのです。


No.95

中尊寺さんの金堂について語る前に懺悔しておかないといけないことがあります。

中尊寺さんの金堂といえば、たとえ訪れたことがなくともさまざまな話を聞き、それこそ社会科、歴史の授業で必ず学ぶものであります。

ただ…。
そんな、人から聞いた話というのは、どうしてもその方の主観が…たとえそういった意図をしていなくとも…込められているもので、さらにはまたそこから聞いた者がイメージを膨らませるものでもあります。

【皆金色(かいこんじき)】とも称され評されるこの中尊寺さんの金堂、そのすべてが金色、金箔を施された御堂というのは人によってはあまりいい印象を抱かないものとなるようです。
財ある者が贅を尽くして自らの財力を世に知らしめた物、と、とる。いわゆる成金という印象を持つ方がいないわけではないということであります。

さらにはそこ、その御仏のおられる金堂という場所に、ミイラが…といってもその当時は亡き骸でありますが…、収められているということ。


私に話をしてくれた大人たちはどちらかというとそういった、マイナスのイメージを心の底に持つ方が多かったように思われます。
それは叔父さんであったり、歴史の教師であったり。

そういった話をそれこそ就学前から聞かされ、しかも授業で学んだときですらそういったニュアンスの語り口であった私は、やはりいいイメージを抱くことなく生きてきてしまっていました。

さらに、判官贔屓というわけではありませんが、やはり子どもが読む義経公の伝記から学んだものは、頼朝公の理不尽さであり、冷酷さであり、さらには頼朝公の命を受け圧力に屈して義経公を討った藤原泰衡にどうしても良い印象を持つことができず、それが私の中で次第次第に溜まっていき、中尊寺金堂への偏見を産んでしまうこととなったのです。


成金で、信頼して頼ってきていた者を裏切って討つ。

こんなふうにインプットされてしまったら…なかなかいい印象を抱くことは難しいものです。


そんなわけで。
本来は『東北地方の二度にわたる大きな戦いで家族をなくし、後にその東北地方を治めた清衡公が、戦いで亡くなってしまった全ての人々、そして故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立した』金堂ということも知らず、あまりいい印象を持つことなく、ここ中尊寺さんを訪れておりました。

No.94

そして『宇賀弁財天』さまに従われます『十五童子』さん。

実はお祀りされている場所によって、十五の童子さまに若干の違いがあったり、十五ではなく十六おられるところもあるようですが、調べた物を載せておきます。


飯櫃(はんき、)童子
功徳:食物授与の神
お姿:満たされた飯櫃を持つ

衣裳(いしょう)童子
功徳:衣服に不自由をしない神
お姿:手に衣裳を捧げる

蠶養(さんよう)童子
功徳:蚕・繭の神、衣類の神
お姿:両手に蚕の繭を持つ

酒泉(しゅせん)童子
功徳:酒の神
お姿:右手に酒杓、左手に宝珠を持つ

稲籾(とうちゅう)童子
功徳:五穀豊穣の神
お姿:肩に稲の束を負い、手に宝珠を持つ

船車(せんしゃ)童子
功徳:交通安全の神
お姿:傍に船と牛車を置く

生命(しょうみょう)童子
功徳:長寿の神
お姿:右手に宝剣、左手に宝珠を持つ

牛馬(ぎゅうば)童子
功徳:動物愛護の神
お姿:牛馬と共にいる

愛慶(あいきょう)童子
功徳:愛情・恋愛成就の神
お姿:右手に矢、左手に弓を持つ

官帯(かんたい)童子
功徳:法を守る神
お姿:手に官位を司る帯を持つ

従者(じゅうしゃ)童子
功徳:経営の神
お姿:手に宝袋を持つ

計升(けいしょう)童子
功徳:経理・経営の神
お姿:両手に升を持つ

金財(こんざい)童子
功徳:金銀財宝・商売繁盛の神
お姿:手に秤の糸と秤量を持つ

筆硯(ひっけん)童子
功徳:学問成就の神
お姿:筆と硯を持つ

印鑰(いんやく)童子
功徳:悟りと解脱へ導く神
お姿:右手に宝珠、左手に鑰(宝庫の鍵)


No.93

ちなみに、こちら『中尊寺』さんの『辦財天』さまのお手は、写真でかろうじて他の二本が確認できるだけではありますが、八臂の弁財天さまであられるとすればそのお持ち物は、

①宝剣  一切の煩悩、悪鬼を鎮める

②弓    出世する、名誉を増す

③箭   矢のこと。よき相手、友人を得る

④輪   仏の教えの広がりをあらわす 前進

⑤鍵   求めるものを引き寄せる、道を開く

⑥矛   勝利 護衛 煩悩を破る

⑦宝棒  敵、難を鎮める、敵を払い撃退し、当人を守る。

とありました。
七個?…とは思ったのですが、いかんせんこちらの辦財天さまのお写真にはかろうじて四本あるか?…程度しか拝見することができず。
そもそも左手でお持ちの金色の丸いものがこの七つに当てはまるものが見当たらないし。

…それにしてもいかにもご利益のある物をお手にお持ちになられています。

No.92

わずかに残った東北路での写真に、こちら中尊寺さんの瓣財天さまのお姿が残されております。

実は、こうしたお姿を写真におさめることに、図々しいおばさんも躊躇いを覚えるものでありまして。必ず
「お姿を写真に写させていただきます。申し訳ありません。お嫌でしたらお姿をお隠しください」
と、心の中で必ずお声がけして写真を撮らせていただいております。
神さまや仏さまが、…お許しくださっていたかどうかは本当のところはわからないですが、写させていただいたお姿を消すことは到底できることではありません。

そんなわけで瓣財天さまのお姿は今なお拝することができるのでありますが…。


この瓣財天さまの写真頭上に、『童子』というには無理のある、男の方のお顔がのぞいておられるのが見えるのです。
あ、もちろん確実に御像の一体であることは間違いないのでそこはご安心を 笑。

そもそも明らかに童子さんたちとは大きさが異なるのです。

どなただろう。(神さまのお側におられる方に不敬な物言いなのは存じ上げているのですが、やはり語彙力の無さがこうしたところに出てしまいます)

初めてお会いした十五童子さんたちと合わせて調べてみました。


すると。
弁財天さまにも『宇賀弁財天』さまと呼ばれる弁財天さまがおられるようで、『宇賀神』さまと習合されておられる弁財天さま、となるようです。


【宇賀神】さまは、蛇の身体に人間の頭を持った風貌を持ちます。この宇賀神さまと習合した、手が八本の弁財天である【宇賀弁財天 】さまは、金運・武運・芸術・繁栄を司る神さま。
宇賀神さまは、宇賀弁財天の頭頂に付いておられるといいます。

また、弁財天には「十五童子」が眷属として従うのも宇賀弁財天の偽経に依るものとされていました。

おお。特には書かれておりませんでしたが、こちらの辦財天さまは『宇賀弁財天』であられるのかもしれません。

No.91

この【瓣財天堂】。御堂を一周するようにぬれ縁が設けてあり、さまざまな秋の紅葉の景色を御堂の周りをまわりながら、楽しませていただくことができるのです。

なんともまた贅沢なことであります。

…これは秋の景色。
季節季節でその顔を変える景色を、雨の日は雨の日の顔、雪の日は雪の風情を拝見することができたなら、ここだけで景色の、景観の世界遺産をかたる事ができる気がいたします。

名残り惜しく、いつまでもここにいたいような気がいたしましたが、それはまわりの方にもご迷惑をおかけしますし…とはいえ、こんな素晴らしい秋の日でありましたが、平日であるためかあまり参拝の方は多くはありませんでしたが。
いやそれ以前に、【中尊寺】といったら【金堂】というくらいの、あの『金堂』にまだ行っておりません私たち。
ずっとここで過ごしているほどには時間の余裕もありません。
後ろ髪を引かれる思いで、【瓣財天堂】さんを後にしたのでした。

No.90

ん?

なにか…池が見えます。
その向こうには竹林があります。真っ赤に色づいたやわらかな葉をたわわに広げる紅葉と、凛とした緑の竹が、すでに私を魅了してしまいました。

なんと美しい。

こうした光景を見ると、日本人に生まれて良かったと心から思うのでありました。

その池に橋がかけられております。
【瓣財天堂】
…なるほど。

たしかに池があって御堂があったなら、まず弁天さまの御堂でありましょう。

橋を渡ると、御堂の扉は開け放たれていて、中にこそ入れませんが、御本尊さまを間近に拝することができます。
こちらの御本尊さまであられる弁財天さまは、たいそう豪華な冠をおつけになられ、たくさんの方々に囲まれておられます。
そして正面にあります右の手に剣を、左の手には小さな丸い金色のものをお持ちになられておりました。
弁財天さまというと琵琶をお持ちになられたお姿を拝したことはあったのですが、こちらはお手にお持ちのものもさながら、お側に人(?)を侍らせておられるなど、私の知っていた弁財天さまとは異なる点の多い御像であります。

なんでも、こちらの御本尊は正式な名称を【辧財天十五童子(べんざいてんじゅうごどうじ)】と申され、宝永ニ(1705)年に、仙台藩第四代藩主『伊達綱村』の御正室『仙姫』さま
のご寄進なものであるとのことであります。
現堂宇は正徳6年(1716)に建立されたものとのことです。

これから向かいます【讃衡蔵】に収蔵されている 国宝【金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図(こんこうみょうさいしょうおうきょうきんじほうとうまんだらず)十幀】は、もとは仙姫寄進の厨子に納められ、この堂内に奉安されていたのだといいます。


『辧財天』さまは、水と豊かな実りをつかさどるインド・サラスヴァティー河の女神で、仏教と共に日本に伝来しました。
八本の腕をもち、手には弓矢などを執るといい、これは『金光明最勝王経「大辧才天女品」』の記述によるものだとされます。

池や河川とともにまつられ、水流の美しい響きにちなんで『妙音天(みょうおんてん)』とも称され、言葉や知識、音楽や芸能の神として信仰されます。
こちらのように十五人の童子侍らせておられる弁財天さまは、さらに童子を使いさまざまな利益をもたらしてくださる福徳神さまであるといいます。


No.89

そんな心情のままようやく動いて、次に向かった【阿弥陀堂】。
びっくりするほど記憶がない。

行ったことは確かなのです。
阿弥陀堂なのに算額が奉納されていたとか、蔵王権現さまが合祀されていたりとか、いろいろ不思議に思ったことだけは記憶しているのですが。
…刷り込み?
ネットを調べたりして行っているつもりになっているだけで、実際は行かずに通り過ぎてしまっていたとか…。
もはや自分が信じられないという、全く以って情けない私。

ギガ数がオーバーしてしまったため、泣く泣く削除した膨大な数の写真の中に、その秘密(?)は隠されていたのでしょうが、今となっては確認のしようもなく。



いやいや、御朱印がありました。
行った記憶に間違いはないようです。ただ、どんな建物であったとかがすっかり抜け落ちてしまっているだけなようで。


私のスマホの契約してあるギガ数も少ないのですが、それ以上に足らなすぎる私の脳みそのキャパでありました。



…ああもったいない。

猫に小判。
豚に真珠。
馬の耳に念仏。
私に貴重な経験?

No.88

液晶画面の方から地面へと落ち、ピキーっと大きくひび割れた、購入からまだ一週間ほどの夫のスマホ。
私があれこれ渡したりしなければ…。
自分のことのように、いやそれ以上に落ち込んだ私。

が!

旅行から帰って、いっこうに携帯ショップに行かない夫に、恐る恐るスマホはどうしたのか、と問うたところ。
「ああ、保護フィルムのガラスが割れただけだった」



…。
……!💢

貼ってあったんかい!!

当時まだ私はガラケーで、スマホについて詳しくはなく。

キーっ!

私のずっと抱えてた哀しい辛い思い、その時間、を返して!

No.87

進行方向むかって左側に、人々が群れなす近代的な、少し大きな建物が見えています。中尊寺さんの中頃にあたるのだと思うのですが、ラスボスのようなどっしりとしたオーラがあります。
そのすぐ前で、修学旅行かあるいは校外学習の小学生や中高生が集合写真を撮影しています。

そんな光景とラスボス感ある建物二つを眺めることとなるベンチに二人、…疲れてヨレヨレな二人がぼーっと腰をかけました。
…何故助手席の大荷物でしかないおばさんまでが疲れているんだ?というお声が聞こえそうではありますが、出不精で人混みが苦手なおばさんはこういったところでは疲れやすいんですよ、ウンウン。
それに…いかにも疲れた妻が隣に腰かけていると、疲れ果てた夫が無理に先を急がず休めていいでしょ?
えっ?
そんなことは無いですか?

そのベンチに腰かけて、夫に飲み物と、密かにお授けいただいておいた御守りを取り出して渡しました。

その時、悲劇は起きたのです。


この旅のために買い換えたばかりの夫のスマホが、
サイズがイマイチ合わなくて使いづらいと言っていたスマホが、
疲れ果てていた夫の手からスルッとすべって…ガシャという嫌な音を立てたのです。
ちょうど気に入ったスマホカバーが無かったといい、ほぼすっぴんのスマホは、顔からもろに地面に落下しております。…しかもよりにもよって、そこはコンクリート加工のされた地面で、、、。
あわてて拾い上げたスマホは、ピーっと大きくひび割れてしまっておりました。


…私が物など渡さなければ。
少なくとも飲み物だけにしておけば。
「ごめんなさい」
何度も何度も口をついて出るのは〝ごめんなさい〟でしかありませんでした。

「動く?」
「うん、大丈夫みたい。やっぱりサイズが手にフィットしないからこうなっちゃうんだよなぁ」
「ごめんね、私があれこれ渡さなければ」
「いや動いてるし、保険に入ってるし、大丈夫。あれこれって二つだけじゃん」

…買って間もないスマホが割れたのに…。
なんと大人な対応だ!
彼はこの旅でどんだけ修行を積んだのだ。

それでも私の申し訳ない気持ちはおさまることはなく。
スマホの液晶画面が割れた本人よりパニックを起こし、落ち込んでいると
「リ○〇〇○○(指定医薬部外品)、持ってる?
疲れてきてたから手が滑っちゃったんだよ。飲めば復活するよ…俺がね」

「うん」

No.86

(削除させていただいた前文とほぼ同じ内容です。夫に急かされつい、中途半端なまま投稿してしまいました。お読みくださった方には大変申し訳ありませんでした)


中尊寺の境内、金堂のそばにひっそりと建っていたのは、赤い消防用車両の置かれた消防施設でありました。
白木に墨書きで『中尊寺特設消防隊』と書かれた看板が掲げられています。

…たしかに。
これは大切です。
中尊寺は山、消防署から消防車がここまで来る間にかなりの時間がかかることはまさに火を見るより明らかで。

あのルシウス・モデストゥスも言っておりました。
「歴史や伝統は、金銭で購えるような薄っぺらいものではないのだぞっ!」
(『テルマエ・ロマエ』 byヤマザキマリ)

国宝だから、ではありません。
世界遺産だから、でもありません。

中尊寺は『すべての生あるものを、過去世から現世、さらに未来世にいたるまで、仏国土に導きたい』という清衡公の切なる願いを具現化したものであるから。
戦で亡くなってしまったすべての人々、故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立されたものであるから、であります。

今、この乱れた世界に、その思いを繋いでいきたい、繋ぐべき思いだと思うからであります。



(…などと申しておりはしますが、やはり金堂は素晴らしかったです。のちのちまで残すべき大切な遺産だと思います)

No.84

登り坂の参道を登ります。

ほどなくみぎてに、作られた高台があり、石段が設けられたその上の、狭い敷地にぽつんと建つ、茅葺き屋根の質素な…、語彙力がなくて本当に不敬なことであるのですが、小屋という表現がピンとくるような建物があります。
とはいえ、四方のほとんどが、紙の貼られていない障子のような格子となっています。
木々に囲まれた大変風情のあるこの小屋…ではない、でもお堂でもないこの建物は【旧鐘楼】なのだといいます。

へぇぇ。
鐘楼なんだぁ。

私の中の鐘楼というイメージを大きく覆す、あずま屋などよりも小さな、高さもない、まさに小屋という感じ、なのです。

ここには、かつて使われていた梵鐘が納められているのだといいます。
康永ニ(1343)年に造られた『盤渉調の梵鐘』だといいます。


盤渉調?
〝ばんしきちょう〟と読むようです。
『雅楽の、六調子の一。
盤渉の音を主音とする旋法』
???
『十二律の一つ。基音である壱越(いちこつ)の音から十律目の音で、洋楽のロ音とほぼ同じ高さの音。雅楽でこの音を主音とする調子を盤渉調といい……』
?????

果ては『十一月のこと』
???????

…全くわかりません。 ( ; ; )

音がその『盤渉』の音を奏でる梵鐘、ってことでよいのでしょうか?


ともあれ、この梵鐘、
『撞座が長い歳月にわたる打鐘により窪んでしまって、今この鐘が撞かれることはめったにないことである』と、説明書きに書かれております。
…滅多な時には撞くことがあるのだろうか?

…ここでかつての自分を責めることになるのですが、すこぉし、登り坂続きの境内に疲れてきていて、この旧鐘楼の石段を登ることなく、下から見上げて終わりにしてしまったのですよ、はい。
どう納めてあるのか、その〝滅多な時〟撞けるようになっているのか、見ていないので何も分からず、何も語れないのです。くうぅ…。

だったら書くなよという話にもなりましょうが、そこは珍道中録なもので。


なんでも銘文には建武四(1337)年、山内の堂塔が火災により焼失した旨を刻し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える貴重な資料でもあるのだといいます。径86㎝の梵鐘。


二年経ったからではなく、その場では「へぇ、そうなんだ」と納得してしまい、振り返るとまるで分かっていないことが多いし…、やっぱり何事も事前学習は大切です。

No.83

さぁて。
いよいよ記憶力テスト…ではなくて、二年前の記憶を辿って綴ることとなります。

しかも写真はゼロ!という…。

いや、やるぞぉ!
父と鍛えたど根性はカケラもないけれど。

さて。峯薬師堂、大日堂とは参道を隔てた向こう側に、…まず目に入るのは、路肩に立たれた等身大の石造りのお地蔵さまでありました。
凛としてそれでいてお優しいお地蔵さまは、まるでこの参道の辻を護られておられるようです。

その先にあるのがきちんと参道まで設けられ、朱塗りの柵で囲われた新しそうな【不動堂】であります。

この不動堂さんに向かう際、中尊寺さんが山ごと全てが境内なのだという感覚を実感いたします。
緩やかながらも斜面を降りていく感じと、何よりもこの不動堂が懸造りとなっていること。
正面は普通に参道を歩いていけるので、懸造り、とは言わないのかもしれないのですが、斜面に建てられているため、向かって左側は、建物を支える柱がいく本も立っているのが見えます。

この不動堂の前に立ったとき、なんと申しますか、心が一気に浄化されたかのような、清々しい、そしてなんだか泣きそうになるくらい清らかなものが私の中に一気に入ってきたような、いいしれない感覚を覚えたのです。
去り難い思い、そしてまた来たい思いが強く湧き上がります。
…たぶん再拝は無理だろうに。

それでも「また来たい思いでいっぱいです。どうかお導きいただければありがたいです」というような内容のことを、必死に中におられるお不動さまに向かって心の中でお話しさせていただいた私がおりました。


こちらの不動堂は昭和五十二年に建てられたものといいます。
ご本尊の不動明王さまは1684年に、当時の仙台藩主伊達綱村公により、天下泰平を祈願し新調されたものといいます。
毎月お不動さまのお縁日とお正月には、お護摩供養が執り行われ、誰でも御祈祷をお願いできるようです。


…くうぅ〜っ、二十八日に来ればよかったぁ!
…いや、ダメです。月末は夫も私も仕事を休むことはできません。(今は毎日が休みのおばさんですが、ね)


…夫の退職後とか?

いや。夫、この時の疲労が多大だったようで、東北地方の旅番組をテレビで見るたびに
「もう行くことはないけどね」
とあっさり。



行きたいんだけど…。

コロナがせめて収束してくれれば公共交通機関も使えるのだけれどなぁ


No.82

昨秋亡くなられた『瀬戸内寂聴』さんは、この中尊寺さんで得度されておられます。

1973年に51歳で今東光大僧正を師僧として中尊寺において得度を受け、法名を『寂聴』とされました。

当時は、出家しても戸籍名を変えなくてもよくなっていたため、銀行の手続きなど俗事の煩わしさを嫌い、戸籍名はそのままにし、仏事の面だけで法名を併用されたといいます。


…知らなかった。

お坊さんというのは、得度しあらためて法名を名乗るから、いかにもお坊さんらしいお名前なのであって、生まれつき、そう名付けられているわけでもないのだと初めて知りました。
まぁ、生まれつき、お坊さんらしいお名前をつけられる事もあるようですが、何より!
法名を得たのちは、戸籍ごと改名するのだということこそ、びっくり、でありました。
戸籍上の名前って、なかなか変えられないとよく聞いていたのもあって、得度という宗教上の理由での改名があることなど考えたことすらありませんでした。

1987年、東北岩手県にある『天台寺』住職となった時点で、戸籍名を寂聴に改めたといい、その後は、作家活動においても〝寂聴〟を名乗るようになったのだといいます。
…たしかに。
それはしかと覚えております。
出家後もしばらくは『瀬戸内晴美』として本を出されておりました。ある時ふと気づいたら〝寂聴〟を名乗るようになられていました。


早いもので、もう一周忌を迎えておりました。
ちなみに、寂聴さんのお墓は、
生前のご希望に沿って、
ご自身のお寺でありました京都嵯峨野の『寂庵』と、
生まれ故郷徳島の四国霊場十七番札所・『井戸寺』さんに生誕百年となる今年五月十五日納骨され、
さらに九月にはかつて住職を務めた岩手県の『天台寺』さんに分骨し、眠られておられるようです。


いかにも寂聴さんらしい気がいたします。

法話や作家としての講演会など、あちこちを飛び回っておられた寂聴さん。
人の悩みを傾聴し、身体を抱きしめて思いを受け止めようとしてくださった寂聴さん。

縁ある土地に分骨し眠ることを望まれ、死後も訪れる方に寄り添おうとしておられた、…おられる気がいたします。

No.81

中尊寺貫首さまは、

「中尊寺大施餓鬼会の「縁の綱」は、江戸時代の施餓鬼会が厳修された当初より大塔婆に結ばれていると伝えられています。
この「縁の綱」は、御本尊のお釈迦様と三界萬霊とのご縁を結ぶことはもちろんですが、特に、秀衡公の家臣である照井高春氏の志を受けて、命と引き換えに照井堰を大改修し、人々の命の水を守りぬいた大崎掃部左衛門夫妻の有難いご縁を忘れることの無いように結ばれた、鎮魂の願いの込められた「縁の綱」であると私には思えました。

 そして、私たちが今日多くの有難い縁によって生かされていることを忘れることなく、これからも心を込めて供養していくことが、私たちのかけがえのない人生をしっかりと歩んでいくことになるのだと思いました」

と述べておられます。


多くの、ありがたいご縁。
よくよく噛み締めて、

『朝は希望に起き、
 昼は努力に活き、
 夜は感謝に眠る』

そんな生き方をしていきたい、していけたらと切に思う、十一月最後の日、でありました。


No.80

 
江戸時代初期、東北地方では数年にわたって大干ばつがあり、稲は枯れ人々の生活は困窮し、年貢米も納められない苦しい生活が続きました。

当時、平泉の大肝入であった『大崎掃部左衛門』はその惨状をみかね、時の藩主に申し出て税を免じてもらったといいます。
そして、御蔵米を借り、照井堰改修工事の人夫賃とし、照井堰の大改修工事に取り組んだといいます。
改修工事は巖壁の掘削などで非常に困難を極めたようです。
難工事だったため予想以上に費用がかかり、さらには干ばつがその後も数年続き、凶作のため借用した御蔵米を返済することができませんでした。
この大掛かりな改修工事は無事終了したものの、この状況が「お上を欺いた行い」と判断され、その功績は讃えられながらも、平泉太田川渕に於いて大崎掃部左衛門夫妻とも死罪となり、全財産であった田畑すべて召し上げられてしまったのだというのです。


…なんという理不尽なことを。
…なんと無情な。


しかしながら、その後、藩主により、
掃部左衛門が公共のために尽くした心情を汲み、その没収財産を中尊寺に寄進し、掃部左衛門夫妻の永代供養が命じられたといいます。

…そんなことをされても、うかばれないから!

…でもそれが江戸時代においての〝定め〟であり、藩主といえども覆せなかった〝決まりごと〟であったのですが…。

今の時代がいいとは決して言えないけれど、…はあ。
いやだいやだ!



…その時以来、中尊寺大施餓鬼会の法名回向では、まず初めに大崎掃部左衛門の霊を読み上げご回向しているといいます。


平安時代の末、秀衡公の家臣の照井高春氏により開削され、その後、大崎掃部左衛門らによって大改修された照井堰は、その後も仙台藩による改修が行われ、平泉やその他の多くの人々の力によって守られ、今日も一関・平泉地方の農地で活用されています。

切なくもありがたい、本当にありがたいことにございます。

No.79

中尊寺大施餓鬼会が、八月二十四日中尊寺本堂にて執り行われたといいます。(もちろん、私は群馬の地にありました)

その際のことを、十月に貫主さまがHP上に法話としてお載せになっておられました。


なんでも、大施餓鬼会の際には、
本堂前の庭に、三界萬霊成仏の為に、長さ約八メートルの施餓鬼会供養の大塔婆が職人さん方によって据え付けられたといいます。

そして、丈六の御本尊釈迦牟尼如来御手に結ばれた白布の「縁(えん)の綱(つな)」が、本堂の中をゆったりと伸ばされ、この大塔婆に結ばれ、当日参列した檀信徒の方々はこの「縁の綱」に手を触れながら、ご先祖の御霊を回向するとともにご本尊様の御力をお分けいただいたといいます。


中尊寺さんの大施餓鬼会法要の中では、奥州藤原氏四代をはじめとする奥州藤原氏精霊、中尊寺檀信徒先祖代々並びに全国有縁の諸精霊の御名をお唱えしてご回向する、法名回向(ほうみょうえこう)と呼ばれる作法があるといいます。
 
その法名回向で、最初に『照井堰開削先覚者(てるいぜきかいさくせんかくしゃ) 大崎掃部左衛門(おおさき かもんざえもん) 安心常隠信士(あんじんじょうおんしんじ) 追善供養(ついぜんくよう)』と奉読されるのだそうです。

照井という堰を開削された『大崎掃部左衛門』さんという方がおられ、その方の業績を讃えてのもの、でしょうか。

『照井堰(てるいぜき)』とは、
岩手県磐井川の厳美渓(げんびけい)上流を水源に『一関市』と『平泉町』を流れる総延長64キロメートルの3本の人工河川(疎水)の総称になるようです。

今から凡そ900年の昔、平安時代の末、奥州藤原氏第三代藤原秀衡公の家臣・照井高春(てるい たかはる)が灌漑目的に開削し、その後多くの方々によって引き継がれ改修されて江戸時代に完成したものといいます。

平泉町を流れて衣川に注ぐ北照井堰は農業用水路としてのみならず、
世界遺産の構成資産である【毛越寺浄土式庭園】の水源にもなっており、
【中尊寺】参道月見坂入口を流れているという、
大変広範囲の、まさに恵みの水、水路であります。

No.77



あまりにも悲惨すぎる文章を書き直し書き直し。
それでもやっぱり直しているのが、その文章を書いた当の本人でありますので、さしては直ってはおりませんが、とりあえず。
とりあえず、前回2021年10月の時点まで、コピペするところまで到達いたしました。(大幅に書き直したものも多々ありますが)


さぁて。

あとはほとんど消え失せた記憶と、
だいぶ削除された写真(ギガ数を超え削除せざるおえなかった)をもとに新たに書き綴ることとなります。


うーん。
実際のものと異なるものが出来上がるとさえ思えてまいります。
┉うーむ。

まぁ、そこはネジの飛びまくったあやしいおばさんの綴る珍道中録ということでお許しください。


出来るだけはがんばります。
m(_ _)m

No.76

大日堂は石段を登ったところにあります。
境内ほとんどを使って建てられている小さな御堂です。小さな御堂に大きめな屋根、┉きっと何年か前までは茅葺きの屋根だったのではないかと思われる造りです。
素朴な造りで、扉があるのかどうか、┉立板でかろうじて御堂に入ることを止めているだけの建物であります。

素朴な、白木で造られた須弥壇中央に、簡素な、まさに木の箱を立てたような厨子があって、その中に金色の大日如来さまがお祀りされています。智挙印を結ばれた金剛界の大日如来さまであります。

そのお隣にいく体もの御仏の御像が並んでおられます。
が。
私ときたらもういい加減いろいろな寺院をお参りさせていただき、たくさんの御仏像を拝してきたというのに、お祀りされておられる御仏がどなたになるのか、さっぱりわからない。
さすがに自分が不甲斐なくて情けなくて、悔しかったです。

厨司のすぐむかって左横に鎮座なされておられるのは、┉阿弥陀如来さまでしょうか?。
そのお隣に、ご本尊さまよりはだいぶ小ぶりの、おそらくは四天のどなたかであろうかと思われる、┉法輪光背を纏われた像が祀られています。
さらに左におられるお美しい観音さまは飛天光の光背を背にされておられたと思われます。

むかって右にお祀りされておられるのは宝冠をお召しになられておられます。が、ちょうどそのお手元を隠すかのように灯りが置かれていて見えないのです。
宝冠をお召しであることからおそらく、大日如来さまで、両腕の開き加減からおそらく手は同じような高さにあり、智挙印を結ばれたご本尊より若干その脇が開いていることから手のひらを上にして組む定印を組んでおられるのではないか?
そんな私のあやしい推測推理から、こちらはもしかしたら胎蔵界の大日如来さま?
そしてそのお隣には矜羯羅童子と制咜迦童子さんを従えた不動明王さまがおられます。


どの御仏像も彫りの素晴らしい見事な造りの御仏ばかりです。
それを惜しげもなく、戸板一枚隔てただけで、心ゆくまで拝していられる、┉なんとも贅沢なありがたい御堂でございます。

しかし、どんなに目を凝らして見させていただきましても、そこまでしかわからず、┉まさに猫に小判。
というより、もはやそんな例えは猫に失礼、といったレベルの私であります。



ああ情けない、もったいない。

No.75

【峯薬師堂】の隣には大日如来さまを祀る【大日堂】があります。奥州藤原氏の時代には三重塔が建っていたとされている場所だそうです。

どこか懐かしい感じのする、小さな飾り気のないお堂です。例えるなら宮司様のおられない神社さんくらいの大きさ…といえば伝わりましょうか。ただしその境内では子供らが遊び、お年寄りが日参するような、よく掃き清められた、人々に愛されている神社さんに大変よく似た雰囲気であります。

お堂は開放されていて、小さなお堂であるため中におられます御仏をよく拝観することができます。
中央には木目が見えるよさようなややもすると簡素ともとれる御厨司があり、そこには金色に輝く大日如来さまが座しておられます。
智拳印を結ばれ目を閉じられたお姿は大変神々しく、またまたこの仏像大好きおばさんがポオォォっとしたことは言うまでもありません。

…数多ある印の智拳印などということがよくわかったものだと思われる方もおられましょう。
いや、この智拳印、大変不敬に当たるかとは存じますが、私くらいの年輩の方が忍者ごっこでの忍者のポーズをイメージされたとき、結構な確率で思い描くであろう人差し指をたてて上下に組み合わせるあの手の形にそっくりなのですよ。はい、大変不敬であります、申し訳ありませんでした。
…でもイメージできましたでしょう?

ちなみにこの智拳印を結ばれた大日如来さまは金剛界の大日如来さま、だそうで、手を座禅のように膝の上で重ねておられる大日如来さまは胎蔵大日如来さまなのだそうです。
ええ、ご想像通り、さっぱり理解できてない私であります。

同じ大日如来さまであられるのはたしかなようですが、ご真言すらが異なり、金剛界大日さまは十三回忌の供養法要のご本尊であり、胎蔵大日さまは十七回忌の供養に当たられるのだとか、もはや理解不能の域でありまして…。
と、いうわけで、わけがわかっていない者が何を書いても意味がなく、一生懸命よんではみたのですが、情けない。(´;ω;`)


とりあえず、大日堂に大日さまがおまつりされておられ、そのおそばには、お召し物から如来さまであることが分かる(如来さまであることしかわからない)御仏がやはり坐しておられるのでありました。


┉いつか。いつの日か大日如来さまの謎を解けたなら、あらためてここに記したいと思います。

No.74

(この時の記述がすでに2021/10となっていました)


┉┉。

長いことしまいこんでいた東北編を紐解き、筆を進めることとしましょう。

…この言い回し、学生の時分から好きで時折使っていたのですが、そもそも当時から一般的な生活で筆を使うことなどなく。
ましてやこのミクルさんでのこの駄文は、指でフリック入力しておりますので、当然〝虚偽〟でありますが。
まぁ、このおばさん、とりあえず写経の際には筆を使っておりますので、スマホやタブレット画面のフリックと微塵も関係していませんが、どうかこの言い回しの使用を許してやってください。



御本堂の横には【峯薬師堂】がございました。
〝め〟と書かれたものがやたらと飾られています。
きっと眼病治癒に御利益があるお薬師さまでおられるのでしょう。
しかしながら、詳細を知ることは叶いませんでした。


…実は、こちらの御堂の前、Twitterだかインスタだかにアップするためなのか、
勝手に、借り切った状態で撮影しまくる四十代くらいの男女がおりました。

どかない、よけない、地面に座り込んでポーズをとり、とにかくひたすら撮影しまくって人を通さない。
そんな自分たちの所業に一切罪悪感遠感じないような方たちであるようでありました。

それでもおばさん、一度だけ、
「すみません(通してください、どいてください)」と声をかけてはみたのです。
しかしその二人、まるっきり私が見えない聞こえないかのように1ミリもご自分たちの行動を改める気配なく撮影続行!

┉こういうことを今風に言うとガン無視、というのだろうなぁと思ったのでありました。
がそんなことは別に体験を通して学びたくなどあろうはずもなく。

おばさんは怒っていました。
ひそかにけれどかなりの勢いで怒っていました。
けれど、┉こういう方たちに腹をたてたところで彼らにはなんら響かないし、響きようによっては喧嘩沙汰、暴力沙汰にすらなりそうで。
珍し〜くおとなしく、その場を立ち去ったのでありました。
おなかの中では怒ったままではありましたが、ね。

それにしても。
あっぱれ見事だと思うくらい、公共の場において、さらには御仏の前において、二人だけの世界を築き上げておりました。
良いが悪いかはとりあえず置いておき、このくらいの図太さはある意味感動もので、少しだけ分けて欲しいとすら思ったくらいです。

No.73

ここに中尊寺さんの御由緒を中尊寺さんのホームページから引用したものをかいつまんで記しておきます。


【中尊寺】さんはもともとは嘉祥3(850)年、比叡山延暦寺の高僧、慈覚大師円仁によって開かれます。

その後藤原清衡公が長治2(1105)年より中尊寺の造立に着手します。
まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します。
この伽藍(がらん)建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したものでした。

〖娑婆世界で法華経を説く釈迦如来のもとに七宝で美しく荘厳された巨大な多宝塔が現れた。釈迦如来は神通力をもって十方世界で法華経を説く自らの分身の諸仏を一ヶ所に集めると塔の扉を開いた。すると塔中に多宝如来が現れ、釈迦の説く「あまねく平等に開かれる仏への道(三乗即一乗)」をたたえてその真実性を証明した。多宝は座を分かって釈迦に勧め、塔中に二仏が並座した。釈迦は自らの滅後、法華経を永くたもち守るべきことを聴衆に説くのであった。   [法華経 見宝塔品]〗


清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。

清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は【諸仏摩頂の場】であると述べています。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味です。

法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだといいます。

二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。

三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。



藤原氏によって治られていた平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でありました。


No.72

(この間四ヶ月ほど間が空いてのレスとなっていました)

雑念を捨てるためにこれだけの時間を費やしたかというと、決してそうではなく、雑念以上に記憶が消えていくことのほうがはるかに多くて、珍道中録とはいえさすがにもう、記録を書くにはかなり厳しい、時間の流失があるかとは思います。

それでも、これはこれでどうしても書きたいのです。

夫に連れていってもらった東北の記録だから。
夫の永年勤続記念の旅だから。

何より私が幼い頃より抱いていた東北への憧れ。
それは実に長い長い年月をかけて、私のなかに地層のように築かれていたのです。
その思いを、そして実際にその地を訪れることができた記録をなんとしても綴っておきたかったのです。





No.71

【御本堂】です。
大きな伽藍、です。
┉でも、こちらもさほど古い建物ではないようです。

金色の、あの藤原氏の御遺体が安置されているというのは金色堂だということくらいは承知しております。はい。
ただ、その金色堂が残っているということから、私はまたまた勝手な想像をし、妄想をしていたのであります。
京都奈良のように、いにしえの建物が残っているのであろうと。
それは金色堂ほどではなくとも、さぞやきらびやかなものであろうと、思い込んでいた次第でありまして。

御本堂は再建なのだなぁ。

もちろん、再建の建物だからといって、なんらありがたみの変わるものではないものであります。そう、ひとえに勝手に妄想して、なんら下調べもしないで来た私がいけない。

おそらくこちらの御本堂は江戸時代後期から近代にかけて再建されたのではないかなぁ。┉東北の雪の重みに耐えきれなかったのかなぁ。

御本堂前の香炉にお線香を立てながら、あれこれと考えていたものの、はたと我にかえり御本堂に参拝させていただくことといたしました。


おお!こちらは御本堂にあがらせていただけるようありです。
うわぁ。
大きな大きな御本尊さまであります。
しかも金ぴか。
何やら優しい、今風のお顔立ち。
┉。┉┉。
なんだか仏具も新しそうでありますが┉。
もちろんお寺さんはお仏像はもちろん仏具も大切に扱われますから、新しく見えるだけ、なのかもしれません。
でも、お灯明やお線香でどうしても煤けたり、金箔が剥がれ落ちたりしそうですが┉うーん。 


そこにお祀りされた御仏像は、新しいも新しい、平成二十五年に造られ開眼法要をうけた、開眼されてまだ十歳くらいのお若い御仏像さまでありました。丈六と呼ばれる大きさのその名も〖丈六皆金色釈迦〗というお釈迦さまの御像です。
もともとそこにおられたかのような、自然にそこにお座りになられている御本尊さま。
┉おや?
┉ではこちらの大きな丈六釈迦如来さまが安置される前の御本尊はどちらへ?

ええい!私、雑念を捨てよ!
心から、気持ちを込めて御仏の前にいられないのなら、即刻御本堂を去りなさい!

No.70

さらに小さな堂宇が続きます。

【地蔵堂】。
お優しいお顔立ち、それでいてすべてを見据えておられるような眼差しと、何かあればスッと動ける┉それこそ瞬時に移動できそうにお立ちになられているお地蔵さまのお像であります。
お顔立ちも、立ち姿も、衣の流れるさまもすべてが見事なお地蔵さま。
もう少し居たかったな。

【観音堂】。

そして、唐突に売店があって。
凛々しい顔立ちのきじとらの猫が客寄せの接待をしています。

私たち夫婦、そしてその子供たちも出会った猫出会った猫を写真におさめてようとするくらいの猫好きです。
ついこの間、夫にその中尊寺の売店で撮った猫の写真を夫に見せたところ、
「中尊寺の売店の猫」と瞬時に答えたくらいです。


ふっと我にかえって後ろを振り向くと、!。

十段ほどの階段のうえ、瓦葺きの門があるではないですか!
それこそが中尊寺本坊表門でありました。

ん?
うーん。
┉私のなか、中尊寺といえばきんきらきんの金の、金色のイメージでありました。
もちろんすべてがきんきらきんのわけもなく、ましてや経年の劣化もあるでしょうから、かつての輝きを求めてはいけないとは思っているのですが、┉なんだかこの門、武家屋敷とかのお屋敷の門みたいな門なのです。お寺さんのイメージではない?
ああ、またまた私のなかの妄想の中尊寺像が┉。いけない、いけない!

┉が。
実はここ、この門。
私の見たイメージのまま、こちらの門、江戸時代の武家屋敷の門を移築したものなのだとか。
しかも、なんでも、あの(┉と言ってもその内容はよくはわかっていない私なのですが)伊達騒動の関係者、伊達兵部宗勝の屋敷門だったと言われているのだとか。



門をくぐると、清んだ空気の満ちた、よく整備され気持ちのよい境内が広がり、どっしりとした御本堂が目の前に見えてくるのです。

No.69

【中尊寺】とは一つの建物を指す名称ではなく、「中尊寺」本坊内本堂の他、
十七の塔頭及び小院(大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)と諸堂からなる山全体を指す総称。

天台宗の東北大本山でもある。

山内には金色堂を始め、不動堂、旧覆堂など由緒と趣のある諸堂が点在する。

、┉とあります。

ほおうぅ。
そんなのもあったんだぁ。
いやいや、とりあえずみんな観てきた┉参拝してきたはずなんだけどなぁ。うーん、こんなにあったんだ。


そして。
弁慶の顔出し板のあるところからほど近いところにあるお堂は、ここに記述のない【弁慶堂】でありました。
古くは〖愛宕堂〗と称されていたとのことで、明治以降、弁慶堂と呼ばれるようになったとのこと。

御本尊は【勝軍地蔵】。
あれ?、どこかの愛宕神社さまの拝殿にも勝軍地蔵さまがお祀りされていると聞いたことがあったような┉。
愛宕さまと勝軍地蔵さまって何か関係しているのでしょうか。

お堂の中央に安置されていたお厨子の扉は開けられていたのですが、そのときには白馬さんしか見えなくて、後から勝軍地蔵さまがお祀りされていたことを知ります。

向かって左側にのお堂の端を守り、隣におられる義経を守るように立つ大きな大きな弁慶像。
隣におられる義経は椅子に座ったお像でありました。
弁慶さまの像は武装して、眼光鋭く今なお義経を、このお堂を守ろうとしているかのようです。

向かってみぎてには何体かのお仏像がおられるようです。
御本尊の前には護摩炉があるようです。

こちらもまた、あの神仏なんちゃらのせいで愛宕堂から弁慶堂に名前が変わったのでしょうか。
静かな、木々のなかに建つ、落ちついたお堂です。
かつて愛宕堂であったことから、阿吽の獅子がお堂を護っておられます。


今なお武装して常に周りを見張る弁慶さん。
弁慶堂という名に変えられて、なにやら困惑されてもおられるようにも見えました。

No.68

で。

通常、というか普通の人ならば月見坂から山門┉があるかどうかはこの時点での私にはわからないことではあるのですが、そのままの道を素直に進むのでありましょう。
が。
月見坂のひだりて上にお堂を見てしまうのです。ええ、もちろん、まずは本堂からの御参り、ですよね。

┉。

お堂に寄りたい!
いつもなら抑えるその衝動がどうにも抑えられない。

で。
進路を変え、そのお堂めざして歩く私。
夫はそういった順路をさして気にする人ではなく、┉というよりは。
ほら、あのじゃじゃ馬を放ってしまったら後々大変なことを、この世の誰よりも痛いほど知らされ生きてきた人間ですので、ほこほことついてまいります。
なんと憐れな┉。


と、見えたのはあの、┉観光地といえばかつて必ずあったような、等身大のひとがたの絵の描かれた板。そう、そうしてそのひとがたの顔の部分だけがくり抜かれたあの顔出しする板があるではありませんか!

その人物は、弁慶さん。

中尊寺と言ったら?
藤原氏、なんですけどね、もちろん。
ですが、┉中尊寺と言ったら、義経と弁慶の悲劇の舞台!
┉弁慶が全身に矢を受けて、の舞台って中尊寺、┉じゃあありません?
えっ違う?

┉16歳から22歳まで、奥州藤原氏の元で過ごした源義経が兄頼朝の挙兵に呼応して鎌倉に馳せ参じたのが1180年(治承4年)のこと。しかし、断りもなく官位を受けた事で兄の怒りを買った義経は、吉野に身を隠した後、伊勢、美濃を経由し、最終的に奥州藤原秀衡を頼り、平泉まで逃げてくる。1187年(文治3年)2月のことだ。
しかし、秀衡が10月に病没、後を継いだ泰衡は結局頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)4月、『衣川館』にいた義経を急襲、義経は妻子共に命を落とす。時に義経31歳であった。

本能寺の変と並ぶこの歴史的にも有名な最期の場面。ここでも義経の供をしていたのが、五条大橋の出会い以来常に義経の傍で使えた武蔵坊弁慶であります。
平泉に逃げる際に安宅の関で関守に疑われ、とっさに主人である義経を棒で打つ場面などは歌舞伎好きでなくとも誰もが知る名場面であります。
その弁慶もまた、義経と共に衣川で最期を迎えました。体に矢を幾本も受けながらも最後の最後まで主人を守ろうとした弁慶の立ち往生として有名であります。


中尊寺、じゃないんだ。
┉夫が知ったら泣くな。

No.67

お土産屋さんやお食事どころが取り囲む広い広い駐車場。
それ以上に広い広い中尊寺さんの始まりは、実になんということない徒歩での山の登り口から始まります。

┉平安時代からのものですからね、徒歩以外はせいぜい駕籠とか馬とかですから。
そんな変にいじられていない中尊寺さんに感動しつつ、その山道を厳かな気持ちで歩き出しました。


奥州藤原氏の栄華を今に伝えるのが、この平泉にある【中尊寺】。
2011年、日本では12番目に世界文化遺産に登録されています。

坂下の駐車場から左に回りこむようにして、〖関山中尊寺〗と書かれた石碑を過ぎるとすぐ始まる坂道は、樹齢300年~400年と言われる立派な杉の木立が続く森厳な雰囲気に包まれる参道です。
この坂は月見坂と呼ばれる坂で、まあそれなりの坂、かなぁ。これがずっと続くとなるとすこぅしつらいだろうなぁと思った頃、みぎてに木立が途切れ、景観の良い場所が見えてきます。
〖東物見台〗と呼ばれています。

木々越しに北上川、束稲山などが見渡せて┉いるそうです。その場ではなんという川、なんという山かもわからず、ただただ感動と共に大きく息を吸い込んで、そこに立つのでありますが┉。

実は藤原氏の遠縁に当たり、秀衡の頃に平泉を訪れたという【西行】が束稲山を歌に詠んだ、などということも、┉帰ってきてから知るのであります。
あ、一応は西行さんが藤原氏の出であることくらいは知っていましたよ。(*-ω-))ウンウン


【中尊寺】は850年(嘉祥3年)、【「山寺」立石寺】や【毛越寺】と同じく【慈覚大師円仁】によって開山されたと伝えられています。
そして。その後、1105(長治2)年、奥州藤原氏の初代・【藤原清衡】によって中興されています。

清衡は、源頼義の介入した戦い〖前九年の役〗で父を失いました。清衡7歳の時であります。
さらに〖後三年の役〗の際、32歳のときに妻子を失い、この世の無常を身にしみて感じていたのでありましょう。

世の中の平安を願い、戦で失われた命を弔うために七堂伽藍を整備、建立していくのであります。戦で失われた敵味方はおろか昆虫草木の別なくすべてのものに向けられたものであったといいます。
ああ、なんという尊くて切ない思いでありましょう。


┉うーん、やっぱりそれを知っていてその場に立った方が感動するな。(*-ω-))ウンウン


No.66

思い起こせば┉すでに四か月半くらいの時が流れておりました。(21/04/01 記)

ただでさえ記憶をする能力が人より劣り、もはや記憶しておくことに関してザルの方が上なのでは?と思えるくらいな私が、今頃綴っております東北巡礼紀行は、もはや黄砂がかかっているかのよう。
┉そうか!
あやふやなところや、間違った記憶も黄砂のせいにしてしまおう!

(当時で既にこんなことを書いております。コピペしているだけの今はまだしも、今後続きを書くときには、おそらく二年はまるまる過ぎていようかと┉。書けるのか?)


というわけで、宮城県のホテルを出発して一時間半強、┉くらいだったかなぁ。
混雑のない、気持ちのよい東北の秋の道路を岩手県まで┉走ったのは言うまでもなく夫でありました。

なんでもその走ってきた道は東北地方の大動脈という国道4号線。

列車や車のなかった明治以前には、日光街道、奥州街道(陸羽街道)、仙台道、松前道として、お江戸日本橋から宇都宮、白河を経て陸奥、そして海を隔てた松前までを結び、東北各藩と江戸の人馬物流の要として、往来のあった重要な街道であったのだといいます。

その国道4号線を仙台から北上する事およそ100キロほどのところ。

豊かな田園地帯が広がっています。

美しい自然と田畑の続く日本的情緒溢れる長閑な場所をひた走るまっすぐな道路で、怪しいナビの案内と、のんきに外の景色を眺めているだけの妻という、最悪な条件下で、その駐車場へと曲がる交差点をふと通りすぎてしまう。それはもう仕方ないって!
通りすぎたところで「あれ?いまのとこみたいだけど?」っていう妻。
なんだか何にも言いやしないナビ。
┉彼の苦労は今後も永く永く続くのですね。

どうか末永くよろしくね。(´;ω;`)




名刹・古刹が点在する奥州平泉。
今では美しい自然と田畑の続く情緒溢れる長閑な場所ですが、この地はかつて、東北地方にきらびやかな文化の足跡を残し、歴史にその名の刻まれる奥州藤原氏の一大拠点となったところであります。

いざ中尊寺!
ってもう駐車場なんですけどね。
お土産屋さんやお食事どころが取り囲む広い広い駐車場であります。

No.65

東北の、ことに岩手の方には叱られてしまうかもしれませんが、私にとって平泉といえばイコール中尊寺。そんな認識でしかありませんでした。そこまでいくと怒る気にもなれずあきれるだけでしょうか。

瑞巌寺さん同様、またまた私の妄想が産み出した中尊寺もどきがありました。それはまた追々話すこととなるかと思いますが┉。

そもそも、中尊寺さんって岩手県のどこらへんになるのだろう。

ごめんなさい、東北の方々。
というか、私に歴史だの地理だのを教えてくださった社会科の先生方、本当にごめんなさい。


そもそもが平泉、世界遺産だし。
少しは一般教養というか、一般常識として知っていようよ。

そして。
何よりもこんなおバカをここまで連れてきてくれた夫よ、こんな、〝猫に小判〟〝豚に真珠〟な妻で本当に本当にごめんなさい。

そんなおバカな妻を連れて、ただ一人で苦労し、東北を旅した夫。
┉そこへあのメーカー純正の優秀なナビが加わることで、珍道中は完ぺきなものとなります。

ええ、┉通り越すんです。中尊寺さんを。
あり得ない規模の町営駐車場を通り越すんです、私たち。
ナビのついたクルマでありながら。一応は起きてそのナビ上の地図を見ていた妻を乗せながら。

通り越すんです。


はああぁ。(´;ω;`)

(はあぁぁ、と言えるのは夫でしかありません。
が、夫はもうそんなため息すら出ないほど、このじゃじゃ馬でしかない同行一人と一台に、常日頃から振り回され、そのくらいではため息をつかない人間となっておりました。
┉申し訳なさすぎて、私はひたすらごめんを繰り返しておりました)

No.64

次の日(2020/11/18)も、秋とは思えない┉それも東北だというのに┉、関東にいたときよりも暖かい日。
あれこれと東北の寒さに合わせ用意した衣類や使い捨てカイロが、邪魔にしか思えない。
いやいやこれはありがたいことであります。

出発前、というより計画中、
「東北に行ったらどこに行きたい?」
何度となく夫に聞かれたものの、日数にも限りがあることでもあり、
「あなたが行きたいところ、連れて行きたいと思うところに」
と答えて、ほとんど下調べすらいたしませんでした。

でもやっぱり行きたいと思うところは夫の計画には確実に含まれています。

日数に限りがなくて、お金の心配もなくて、何よりもコロナの心配もなければ、希望したところもあるでしょう。
┉とはいえ地理音痴な私、位置関係や距離も分からず、どんな無理難題を言い出したことやら。

まあ、当たり前ですが、日数にも、予算にも限りはあり、どうしても行けるところは限られてはしまいます。

夫が楽しみ半分、苦痛半分、懸命に悩みに悩んで立てた計画でありました。


その日、向かうのは平泉。
ワクワクする気持ちが抑えられない。


松島に、瑞巌寺に行けた!
なのにその次ぐ日には平泉!
なんと夢のような♡

┉私はどれだけ東北へ来たかったのだ?!

No.63

さらにのちになって、西行さんの歌に歌われた〖如月の望月の頃〗とは二月十五日、お釈迦様が亡くなられた日を指すことを知ることとなるのであります。

当時の暦は旧暦(少なくとも今の暦ではない)であり、ゆえに月の満ち欠けによるものであったがために、如月の望月、二月の満月は二月十五日を指すことになるのであり、新暦の二月十五日に生まれている私とは何ら関係のない日を指すのでありますが。
そうは言っても、今、お寺さんで涅槃会を営まれているのは新暦の二月十五日のところがほとんどですし、そんなところからも西行さんが私にとってさらに大きな存在となっていったのでありました。


【西行(さんの)戻しの松】。

そのいわれは、この松の辺りまで来た西行さんが、童と出会い問答をして負け、松島を見ることなく戻っていった┉帰っていったという地点、だと云われているものであります。

都の武家出身の西行さんが、当時は田舎ととらえられていた東北の地で出会った童に負けて来た道を引き返す。┉なかなか出来ることではないことであります。
年若の、野を駆け回る童に敗けを認めることも、
当時これほど遠い地まで来てそんな理由できっぱりと引き返すことも。

私の中ではさらに西行さんへの〝思い〟は膨らみ、その松を一目見上げようと勇んで車を降りました。


┉暗い。

あまり灯りのないそんな中、一軒、場違いなくらいおしゃれなガラス張りの建物が柔らかな暖かい灯をともしてその場をひときわ明るくしているくらいで。
日の暮れかけたこの辺りは、ただただ暗い、ただ暗いだけの林でありました。

おしゃれなガラス張りの建物が幻のように感じられます。
私どものようなみすぼらしい旅人が立ち寄ってはいけないような、そんな物悲しい気持ちで、その灯りを遠巻きにみつめていました。

まだ日の落ちきらぬ松島湾もさほどライトアップされておらず、ただただ暗いだけの空間に二人。

「ホテルに戻るか」┉うん。

西行さんが戻された松のあるところに立ち、私たちもまた、戻るしかない思いを胸にその場を立ち去りました。
意味合いはまるで異なるものではありますが、┉。

もう少し明るい時分に来ればこんなはずじゃなかったのでしょう。
┉買い物に勤み過ぎた私を松の樹の精がいましめたのでしょうか。


本来普通の旅行記を珍道中にしているのは、私ただ一人なのでありました。

No.62

このあと、松島の経済に、私にとっては結構な貢献をしたのち、┉夕暮れの山道を走って(もちろん夫の運転で)【西行戻しの松】へと向かいました。


西行さんといえば、武士であり、僧侶であり、そして歌人であります。
私が西行さんを知ったのは、歌人としての西行さん。
国語の授業でありました。


願わくは 花のもとにて春死なん その如月の望月の頃 


現在の国語力からご想像いただけますように、さほど国語に秀でた子供ではなかったので、和歌とかいうと難解な言葉の羅列にしか思えず、その書かれた歌を見ても、はらはらとまるで桜の花びらのように私の脳裡に届くことなくまた教科書の活字に戻っていくだけでありました。

それが。
この西行さんのこの歌は、目を通しただけでスッと心にまで流れ込んできたのであります。

難しいひねりなど一切なく、当時国語のテストなどによく出る『この歌を現代語訳しなさい。』などという問題もすらすらと口語訳できる、学生思いの┉ではなく、ストレートに心を歌ったすばらしい作と言えましょう。


そして、何よりも〖自らの死をみつめる〗といった生き方。

病の床にあっての作品は数多く見ることがありましたが、この作品はそうでないことが読んで伝わるものでありました。
┉まあ、思いこみと言われればそうでしかなかったのも事実なのですが、実際この歌を読んでから十年以上の年月を元気に全国行脚してのちに、まさにその如月の望月の頃に亡くなられたことから、この歌を読んだ頃には死をみつめるほどの病を持ってはいなかった、ということがわかります。

とはいえ、平安から鎌倉時代にかけての方ですから、かくれた持病があったとしても自他共にわからない時代であります。
病にたおれてようやく〖病〗であった時代です。
私はありがたいことに葬儀へ参列が二十代までほとんど無く、それも身内のものではなく。
死というものがどういったものであるのか、
まして昔の方にとって死というものがいかに身近で背中合わせであったかなど知るよしもなく、私は学校での学業からゆるゆると死というものを学んだのであります。

病などの床にある状況でなく死をみつめる。
┉この西行の作品は、その内容だけでなく、〖生き方〗、〖生きざま〗としても、私の心のなかに大きな流れをもってはいりこんだものでありました。

No.61

天長五(828)年、慈覚大師円仁が【延福寺(現在の瑞巌寺)】を開基の際、【大聖不動明王】を中心に、東方)【降三世】、西方)【大威徳】、南方) 【軍荼利】、北方)【金剛夜叉】の五大明王像を安置したことから、
【五大堂】と呼ばれるようになりました。

言い伝えでは、 慈覚大師が五大明王を安置したところ、【坂上田村麻呂】が祀った〖毘沙門天〗は、ある夜、光を発して沖合いの小島に飛び去り、 その島は【毘沙門島】といわれるようになったそうです。

秘仏とされる五大明王像は、五代藩主吉村公が500年ぶりにご開帳した1700年代以降、三十三年に一度ご開帳されるようになりました。
平成18年8月18~20日に、御開帳が行なわれ、記念品の色紙が授与され〖端虚〗と書かれていたそうです。〖端虚〗とは〖すみずみまで、心配りをする〗という意味なのだそうです。

現在の建物は、 伊達政宗公が慶長9(1604)年に創建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工したものです。
堂四面の蟇股と呼ばれるところにはその方位に対して十二支の彫刻を配しています。白木のままの五大堂にみごとに彫られた十二支はアクセントとなり、観る人の目を楽しませています。
こちらも当時には珍しかった瓦葺の屋根で、見事なまでに反ったところや変わった形の鬼瓦など、ここでも政宗公のこだわりがあちこちに見られます。


そうして。
またあの透かし橋で修行させていただき、五大堂を後にしたのでした。心構えのあった帰路は若干スムーズに渡れた┉はずです。

No.60

瑞巌寺に属する【五大堂】は、道路を隔てた、陸地にほど近い小さな島に建てられています。
瑞巌寺の石標のあるところから東に百メートルほど行ったところが五大堂の入口となっています。

緩やかな登り坂をのぼるとすぐに橋が見えて┉。
見えて┉。
見えてきた橋は、な、なんと!
隙間だらけで直下の海面が見えているではないですか!

あ、あり得ない。
ここを作ったとき木材が不足でもしていたというのでしょうか。
夫がそれはそれは嬉しそうに、
「渡れる?頑張ってね。笑。」

五大堂に続く橋。
【透かし橋】というのだそうです。
江戸時代中期の頃からこうした造りになっていたと云われているとのこと。
これは、五大堂の参詣する時、身も心も乱れの無いように足もとをよく見つめて気を引き締めるための配慮、とされているのだそう。
┉もうしわけありませんが、このような橋ではかえって身も心も乱れるのでは?
少なくとも私は確実に確実に乱れます。

ようやく渡り終わり、お土産店がありました。心引かれるけれどまずはお参りを。┉また橋だ。

嘘でしょ?!
手すりにつかまろうが、下を見ないようにしようが、海の上であることはどうしても視界に入ります。はああぁ。┉。

まあ、そうは言っても吊り橋ではないので揺れはしないので、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
だいぶへっぴり腰ではあったかとは思いますが、なんとか五大堂のある島へと到達いたしました。
夫がそんな私の勇姿を画像に残さなかったのは、┉よほどひどかった、ということなのかなぁ。

この日の東北も、季節外れのあたたかさ。
五大堂のあるこの小島は風一つない穏やかな心地よいところでありました。
潮のかおりもせず、橋がなければここが島であることを忘れてしまいそうでありました。


ここ、五大堂は坂上田村麻呂が毘沙門堂を建てたのがはじめであったといいます。
その後、慈覚大師円仁が一堂を建立して五大明王を安置したことから五大堂と呼ばれるようになったのだそうで、現在の建物は政宗公が建立したものだということであります。

No.59

この【三聖堂】の御本尊であります聖観世音菩薩さまは、またの名を【蜂谷観音】ともいうのだそうです。
古く鎌倉時代の初めに彫られた観音さまで、蜂谷氏が大切にしていたものなので、蜂谷観音と呼ばれているとのことでありました。


【蜂谷観音にまつわるエピソード】

北条時頼公の家臣【蜂谷美濃守】の子孫に、子宝に恵まれず悩んでいた【蜂谷掃部(はちやかもん)】という人がいました。
掃部が観音さまにお願いをしましたところ男の子が生まれました。その子の名は小太郎と名付けられすくすくと成長しやがて立派な青年になりました。
小太郎の許嫁は秋田県象潟というところに住んでいました。 
ところが小太郎は結婚を前に病死してしまいます。

掃部は小太郎が亡くなったことを、許嫁に伝えました。
しかしその許嫁の女性は、夫無き松島に嫁いで来ました。そして小太郎の
父親の蜂谷掃部とその妻を、親のように慕い面倒を見たのだということです。
そして┉その蜂谷夫妻を看取った後、女性はその名を紅蓮とかえて出家したのだそうです。


┉うーん。

紅蓮さんのようにはなかなか生きられるものではないです。
昔のことです。親同志の約束事で、本人同士会ったことすらなかった可能性すらあります。
それでもその家に嫁いだ。
嫁いで、夫ともならなかった、
もしかしたら会ったことすらなかった男性の親を、親と慕い面倒をみ、看取った。


┉うーん。
無理だなあ、私には。それはもう『絶対』という文字をつけるくらいに無理です。
というかそういう考えにすら至りません。

かつての日本にはこういった女性がいたのですね。それも、もしかしたら、昭和の┉戦後間もない頃までは。


蜂谷観音さまはそんな紅蓮の生きざまも見守ってくださった観音さまであります。
そんな生き方から何かしらを学ばなければ申し訳ない。
とは思いはするものの、┉うーん。┉難しいなあ。

No.58

円通院を後にし通路を歩いていると、ひっそりと建つ茅葺きの小さな御堂が見えてきました。
とても懐かしい感じのする、かつてそこここによく見かけた、そんなお堂でありました。

【三聖堂】と扁額にあります。

こちらのご本尊は、聖観世音菩薩様さまと書かれています。そして、その左には、達磨大師さまが、また、右側には菅原道真公がお祀りされているとのことでありました。
三体が安置されているお堂なので、三聖堂というのがこのお堂の名前の由来なのだそうです。

お堂の扉はかたく閉じられそのお姿はまるで拝することはできません。
三十三年に一度、御開帳されるようで、なんでも前回の御開帳は平成十八年だったとかで、次の御開帳は┉令和二十年?、で合ってますか?σ(^_^;)?。


このお堂、かつては現在の向きとは逆の、瑞巌寺の参道側を向いていたのだそうです。
それを瑞巌寺の第104代夢庵如幻(むあんにょげん)が現在の位置に変えたといいます。

江戸時代のころ、瑞巌寺には、〝女人禁制の日〟というのが設定されていました。現代では考えられませんが、昔はそのような制度があり、そしてそれは、月に15日ぐらい、つまり月の半分にもなります。
そんなことから、女性たちは、瑞巌寺さんへのお参りもそうですが、三聖堂へのお参りの機会も極端に減ってしまいました。瑞巌寺の参道を通らなければ、三聖堂に行けず、女人禁制の日は参道を通ることもできなかったのです。

そこで104代夢庵如幻は、女性のお参りの機会を増やすためにはどうしたらよいか考え、そこで思いついたのが〖お堂の向きを、参道と逆側に変えてしまう〗、ということでした。

お堂を逆向きに変えたことにより、禁止されていた瑞巌寺の参道を通ることなく、三聖堂へのお参りができるようになったという、裏技的なものでありました。
そんな裏技を捻り出すくらい、瑞巌寺にあった厳しい規律や決まりごとは、住職でさえ変えることができなかったということなのでしょう。

いま、三聖堂が目立たない場所にあり、瑞巌寺側を向いてないのは、そのような理由からなのだそうです。


No.57

見えてきたお屋敷のような建物は、二方向を開放できる造りで、そこをずっーと縁側が取り囲み、さらにはそこにあがりやすいように二段ほどの木の上がりはなが取り付けてあります。縁側の内側には昔からの障子。
うーん♡なんと人を癒す休憩の場でありましょう。

御仏壇があるのがみえます。
どうやらあがってもよいようです。

んん?
んっ!?
お屋敷の御仏壇の真ん前に、お寺さんによくある大きな香炉が設けてあります。
そして御賽銭箱が。

えっ?
まさかこちら、お寺のお堂?

┉お堂もお堂。円通院と書かれたものが掲げられています。
まさか、と、この期に及んでも思った私も私ですが、この建物こそが【円通院本堂】であったのです。


嬉しいっ♡

こんなにも開放的で、
こころゆくまでいられる御本堂で、何より心から癒していただけ、なおかつくつろげるような御本堂は、日本全国各地にいくつあるでしょう。


まるで懐かしいおうちにでもあがるような心はずむ思いで靴を脱ぎ、畳敷きの仏間に上がらせていただき、読経させていただきました。
ああ、なんと癒される、幸せな時間でしょう。


【円通院本堂】は【大悲亭】と呼ばれるそうです。

もとは光宗が江戸で〝納涼の亭〟としていたもので、父忠宗公が解体させ、海路にてこの地に移築されたものだといいます。

┉ああ、だから、こんなに開放的で居心地の良い、一見普通のお家のような建物なんだ。

そして。
光宗は短い生涯ではあったけれど、こんなにも開放的で癒される空間で過ごされていた時があったのだなあ。
┉それだけでも少し救われる思いがいたしました。

光宗はここを大切に大切に思っていたのだなあ。
そして父はそれを知っていたのだなあ。
このお屋敷┉御本堂の前にひろがる庭園は、仙台藩江戸屋敷にあった、小堀遠州が作った庭を移設したものだといいます。
心字池にかかる橋にも、はらはらと散った赤い紅葉の葉。
光宗の御霊を、そして光宗を若くして喪った父母の心を今なお癒してくれているかのようでありました。

ごく普通の御仏壇に安置されているかのようなご本尊さまも、実は鎌倉時代のものであったようです。
ありがたいなあ。


秋の紅葉真っ盛りの時に参拝させていただきますこととなりましたが、その見事な庭園よりも、私の心に残った円通院御本堂であり、三慧殿でありました。

No.56

【円通院】さんは伊達政宗公の孫【伊達光宗の廟所】の【三慧殿】が建立され開山されたものであります。

三慧殿は正保三(1646)年に造られました。

伊達政宗公の嫡孫【光宗】は幼少の頃より文武に優れ、その才智は徳川幕府にとっておそるべき逸材であったとされています。

江戸城内において19歳という若さでこの世を去るのですが、その死因には諸説あり、毒殺されたともいわれているようであります。

霊屋はその死を悼んだ父、二代藩主伊達忠宗公により建立されたもので、宮殿型の厨子の中には白馬にまたがる衣冠束帯の光宗像、殉死した七人の像が祀られているのだそうです。

また、その厨子は全面に金箔を施した華麗なもので、装飾の図柄には洋バラ、スイセン、ガーベラ、トランプの図柄などヨーロッパ風の模様が刻まれているのだそうです。支倉常長が持ちかえったものをもととしていて、当時鎖国していた徳川幕府に対し、あくまでも伊達家の霊廟と申し立て、扉を開けることはなかったのだそうで、実に三世紀半も公開されることなく現代に至ったということでありました。

今、その扉は開け放たれて、金色に光り輝く厨子のなか馬にまたがる光宗の像と、光宗を取り囲む像がみえます。
建物自体は奥まったところに建てられ、白木造りの一見質素な建物であります。ですがこちらもまた当時には珍しい本瓦葺きと、こだわりある建物であります。

その一見質素な白木造りの建物と光り輝く厨子との格差に、自慢の将来を嘱望する息子を喪った父の哀しみと怒りを感じさせられた、三慧殿でありました。


さらに進むと、こちらにもまた洞窟群が。洞窟のなかには古びた石碑や石塔、石仏がたくさん安置されています。 

さらに進むと見えてくるのは、庭園の中にひときわ存在感をみせる、おんこの木(イチイ科)。
八方睨みの名木と称せられ、樹齢も700年を超えているそうですが、樹勢の衰えを感じさせません。 さらに進むとなんと!
境内には珍しい、バラ園が!
日本最古の洋バラもあるとのことですが、いかんせん、私どもが参りましたのは紅葉真っ盛りの秋。いくつか咲いているバラもあるにはありましたが、かえって寂しさ、憐れを感じさせられました。

また、紅葉した庭が見えてきたところに茅葺きの大きな屋敷のような建物が見えてきます。

No.55

【円通院】は瑞巌寺の西隣にあります。

茅葺きの薬医門をくぐると、すぐひだりてに石で彫られた小さな観音さまがおられます。少し奥まっておりますがひきりなしに人が立ち寄ってお参りをされています。

┉おおっ!

観音さまはひっそりと、それでいてまるで光を放つかのようなお美しくて清らかなお姿でお立ちになっておられます。そのお顔のお優しいことと言ったら!

これは、なるほどこちらの観音さまのファンも多いことでありましょう。
半彫りの観音さまのそばにすずらんの花でもあるのかと思った彫りは、よくみると波しぶきのようであります。
?!。
観音さまはどうやら龍にお乗りになっておられます。

ほぉお。

去りがたい思いを抑えてなんとか立ち去ろうとすると、┉?
観音さまの左右には小さな┉五センチくらいのこけしが棚にびっしりと奉納されています。
これは┉?

私も奉納させていただかなくてはと、こけしを授与されている、先ほど御朱印をお願いした窓口に申し出たところ、┉こちらの観音さま、縁結び観音さまなのだとか。

┉縁結びには全く関係なさげなおばさんが、いつまでもいつまでも観音さまの周りをうろうろしていた様子はさぞ滑稽であったことでしょう。
去りがたい思いを残し縁結び観音を後にすると、┉現れるのが石庭であります。


うわあぁぁ!

私どもが参りましたのが十一月中旬、まさに紅葉の美しい盛りでありました。これは┉。
白い砂利にまるで計算して一枚一枚の紅葉の葉を人の手で置いたかのような美しさです。白砂利の池に散った紅葉と、今を盛りの紅葉。

ため息しか出ません。


この石庭は松島湾を表現した「天の庭」と、人生を表現した「地の庭」で構成されているのだとか。

計算して造られた石庭を一つ一つ堪能しその美をあらためて感じるといった余裕すら私にはありません。
秋の日を浴びてきらめく石庭とそこにはらはらと散り、赤い彩りを添える紅葉と。
(綺麗┉)
ただただその一言しか頭に浮かばない。
それ以外言葉になどできません。
まぁ、私に語彙力がないのもありましょうが。

途中途中、休んで庭を愛でるよう、和風の腰かけが置かれていたり、苔むした茅葺きのあずまやがあったりいたします。


丸窓から見える紅葉も美しく。



┉ はあぁぁぁぁ。





No.54

【瑞巌寺】さんの宝物館を後にして、再び【法身窟】前を訪れることとなります。

前述しました通り、政宗公が瑞巌寺と名を改める前は『円福寺』でありました。が、もともとの開山時は『延福寺』。
延福寺は第28代住持儀仁を最後に破却され、禅宗の円福寺に転換されています。


 *****************

宝治ニ(1248)年、延福寺で〖山王七社大権現の祭礼〗が行われていた。
東国修行中の執権【北条時頼】が舞楽の上演を楽しんでいたが、つい面白さのあまり、
「前代未聞の見物かな」
と、大声を発した。
その大声に驚いた稚児が舞の途中で立ち往生してしまった。
神楽を中断させると言うことは、いかなることがあっても許されることではない。
このことに荒法師達 は怒り、時頼は殺されそうになる。
一人の僧の「山王大師祭礼二依リ殺生二及ブ可カラズ」の一言で事なきを得、時頼は近くの岩窟に逃げ込んだ。

岩窟(=法身窟)にはこのとき修行僧の【法身】がいた。
時頼が、一夜の宿を貸しては頂けないかと頼むと、僧は「沙門は三界を宿とし一心を安んじて本宅となす。誰を主とし、誰を客とせん」と答え、時頼を丁寧に迎えた。
二人は意気投合し法談で時を重ねた。話すうちに時頼は法身の禅僧としての高潔さに心うたれた。

時頼は、鎌倉に帰った後、〖三浦小次郎義成〗率いる千人の軍兵を松島に向かわせ、延福寺から三千の衆徒を追放し、儀仁和尚を佐渡に流した。僧達の一部は福浦島に逃れ、経文はすべて経ヶ島で焼かれたという。

その後、時頼は、岩窟の僧を捜し出して新しく円福寺と名を改めた寺の住職とした。
この時から、瑞巌寺は円福寺という臨済宗の寺として生まれ変わることになり、北条氏の庇護を受けることになった。   

     【天台記】



うーん。

瑞巌寺さんにおりますとき、ここで時頼公と宋より戻った僧が出会ったという記述の書かれたものが掲示されており、それを読み、ただ単に、なるほどなぁと思い、
(こんな遠くまで移動する昔の人に思いを馳せてすごいなぁ)と思っただけでありました。
実はそういったことであったとは┉。


お武家さまのなさることは┉。
(´;ω;`)


この詳細、歴史的背景をを知ったことで、突如として改宗し、寺の名まで変えた意味を正しく理解することができました。

はあぁぁ、┉。

No.53

と、前レスで書きました、公式ホームページ上にありました3Dツアーをもう一度見ようとしたところページが見つからず。
3D瑞巌寺と検索をかけると『Looks like you are lost.』と出てまいります。

ええっ?
日本語もおぼつかないと言うのに、英語ですかぁ?
えっとぉ〜「あなたは道に迷ったようですね」?

そうかぁ道に迷ったかぁ、┉じゃなくて!
なんだか理由はわからないのですが見られないようです。
探していただいた方がおられましたら、ごめんなさい。
少なくとも夫と私は〝迷子〟のようです。

No.52

【瑞巌寺】さんについてここまで書かせていただいて┉。
宝物館に安置されている円空の仏さまのお名前を間違えてはならないと、〖瑞巌寺円空佛〗と検索すると、瑞巌寺さんの公式ホームページがありました。

おお、ありがたい!

ありが┉ありが┉ありがた過ぎるページを発見いたします。
瑞巌寺さんの御本堂の中を3Dツワーができるとのこと。開いてみますと、な、なんと!

『瑞巌寺360度映像3D参拝ツワー』ということで、御本堂内を映像で拝することができるではありませんか!

(´;ω;`)
┉ああ、まぁとりあえず合ってる。
合ってることは合っていたけれど、なんと私の書いたものは拙く、しかもなんとあちこちに話が飛んでいることか┉。


ここまで私の拙い駄文でお目汚しをいただきましたが【国宝 瑞巌寺】という公式ホームページをご覧いただき、3Dツワーというところをお開きいただければ、私の伝えたかった美しさはすぐに伝わります。

ちんたらちんたらと私が書いていた世界が本当はどんなものであったかが瞬時にご理解いただけると同時に、その素晴らしさに心洗われること間違いなしであります。


No.51

【瑞巌寺】の正式名称は【松島青龍山瑞巌円福禅寺】というのだそうです。

認知症予防┉ではなくて認知症進行防止のために暗記して三回繰り返すと良さそうな気すらするほどなかなか長い名称であります。

衰退していた円福寺の再興に尽力した伊達政宗公が慶長13(1608)年、寺名を瑞巌寺と改めた際、前身となる円福寺に敬意を表してその名を織り込み残したのでしょうか。

その政宗公が、紀州熊野から取り寄せた木材を使い、京都から宮大工を呼び寄せて造られた瑞巌寺さん。
政宗は宮大工に対して、土足を禁じ、誤って落とした釘などは使ってはいけないと命じたといいます。
慶長九(1604)年から約五年かけて造営し、完成したもののようです。

とはいえ経年の劣化を止めることは出来ません。
経年の劣化を修理修復して、耐震補強もしようということで行われた【平成の大修理】は2009年9月から約七年間かけられた工事となりました。
この平成の大修理は地盤沈下による建物のゆがみなどを直すことが目的で、瓦や壁、建具の解体・修復、さらに耐震補強工事なども行われる大がかりなものであったようです。

大屋根の瓦は五万枚以上あるうちの約三万枚を新たに葺き替え、また新たな鬼瓦をのせたようです。
鬼瓦は創建当時のものを再現して作成されているとのことです。
とはいえこの鬼瓦、屋根が高くて、双眼鏡でも使わないと見えはしないのではありますが、伊達家を、瑞巌寺を愛する仙台の方々のこだわり、であったのでしょう。

かつての鬼瓦が宝物館の入口に展示されていました。

大きい!
ですがその大きさは想定の範囲内のものであります。
その繊細さにびっくりいたします。高級なケーキにのせられた繊細なバラの花弁を思い出すような鬼の前髪です。
その繊細さにびっくりし、さらにはそれがなんと長きにわたり、海辺の風雨や熱い日射しにさらされ、雪の重みに耐え、今現在のすがたであることに驚愕いたします。
屋根瓦ひとつにも政宗公のこだわりと当時の職人さんの努力を思い、思わず手を合わせ拝んでおりました。

実は当時、瓦屋根の本堂は大変珍しいものであったにもかかわらず、政宗公がどうしても瓦屋根にしたい、とこだわられたものの一つであったとのことでありました。



┉はああ。

No.50

お前は宝物殿には入らないで次に行こうとしていたのではないのか?
┉ハイ。

┉ほんっと、手綱をとるのが上手い夫でよかったぁ。

そう、そして本当に手綱をとるのが最高に上手な夫は、“入らないで次に行こうとしてたんじゃないのか?”などという言葉はおくびにも出さないどころか、つかず離れず歩いてくれていました。


宝物殿には、修復前の瑞巌寺の板戸絵であるとか障壁画であるとかも含めた什宝物の保存管理がされているようです。ただ、このコロナ禍、感染対策の一環で現在はそれをみることが出来ませんでした。
それを観られなかったにしてもなおあまりある宝物が、展示されつつ、より良い状態で保存管理されています。
経年の劣化を少しでも遅れさせるしっかりとした管理は、後世につなぐためにもありがたいことであり、普通はしまわれていて一般の参拝者などは一生涯目にすることなどない什宝物を拝見することができるという利点もあり、本当にありがたいものなのですね。

┉私の場合は夫にも感謝、です、ハイ。


そして本来でしたら一年に一度しか拝することのできない【涅槃図】もコロナ禍ということで展示されており、もしかしたら最初で最後の参拝となるかもしれない私には、ありがたい展示でありました。

こちらの涅槃図はかなり古く、瑞巌寺の前身であった【宮寺】【円福寺】当時のもののようです。
一時は無住の寺にまでなっていたこちらに、よくぞ残っていたものであります。
さすがに経年劣化は否めず、目をよくこらさないと涅槃図であることにも気づけないものとはなっておりましたが、一人一人の人物、一体一体の動物が大変細かやかに丁寧に描かれたものでありました。


┉今年の涅槃会はコロナのために、一般の参拝者どころか檀家の方に向けての法要すらをすらを取りやめたお寺さんがほとんどでありました。

雨のそぼ降る今年二月十五日、自宅で静かに写経をして過ごしながら、今ごろは瑞巌寺御本堂の室中孔雀の間に移され、お祀りされているであろう、瑞巌寺さんのこの涅槃図を思い浮かべました。

私の誕生日ということもあるため、有休をとった夫は、雨の降る空を恨めしげに見上げたのち、ともに写経をして過ごしました。見ようによってはたいそう暗めの誕生会でありますか。
プレゼントも【石仏・石の神を旅する】という本。

┉いかにも珍道中夫婦らしいでしょ♡

No.49

宮城県宮城郡松島町の【瑞巌寺】さん。

あまりの素晴らしさにまるで気が抜けたように御本堂をあとにし、庫裡の玄関を出ました。

庫裡を出てひだりてには、なにやら小高い丘のようなところがあり、そこは天然の岩屋を利用して加工したものなのか、そもそもが岩肌なのかなんなのかもよくはわからなかったのですが、小高い丘をすぱっと削ったかのような壁面に、建物をはめ込んだような不思議な場所があるのです。
そこがなんなのか、今現在使われているものなのかどうかすらもわからなかったのですが、┉不思議な場所があったことだけ、記しておきます。



庫裡の真正面に宝物殿がありました。
ガラス張りのいかにも新しそうな建物です。
お寺の中の宝物殿。なんだか御本堂での感動が薄れてしまいそうな気がして、次に向かおうとしたのですが、夫に
「仏像もあるかも知れないよ」と言われ、しぶしぶ入って行ったのですが。

┉おおっ!

大きな大きな木彫りの御釈迦様がおられるではないですか!
┉いつものことではありますが、我ながらなんと現金な。

この感じは円空さまの彫られたものでしょうか。それにしても大きい。
欅の根株を用い彫られたものということであります。獅子の背上で、蓮台に坐る釈迦如来像を彫り出しています。

円空さまの彫られた仏様はどれも一気に彫りおこすものですが、この御釈迦様は頭部の髪や蓮台には細かな彫りがなされています。そして┉円空仏の特徴である、まるで微笑んでいるようなお優しい表情をうかべておられます。

ただ、お痛わしいくらいに肩から袈裟懸けに大きなひびがはいり、胸と右腕から左の腹部から膝にかけて、削られたようにお傷みになられてしまっていました。

瑞巌寺の宝物殿でうろうろと円空さまの釈迦如来像にまとわりつくあやしいおばさんを見かけた方がおられたら、それは私だったかもしれません。

ようやく円空仏から離れると、こんどは不動明王さまの御像が見えてまいりました。
左右に愛くるしい表情の矜羯羅(こんがら)・制吒迦(せいたか)童子を従えておられます。

なんでもこちら【五大堂】の秘仏五大明王像(平安時代・国指定重要文化財)の御前立であられるのだそうで。
お不動さまも大好きな私。またまたしばらくここをうろついたのはいうまでもありません。

No.48

(21/03/11 23:57)

三月十一日が巡ってきました。
東日本大震災の発生した日。

何を書いても偽善のように感じ、自己満足でしかないように感じて、書いては消して過ごしました。

今日、十四時四十六分、私はひとり仏壇もどきの前で黙祷をしました。
ろうそくを灯し、お線香をあげました。
その後、東北の地に、海につながった空を見上げたくて外に出ました。
┉外はびっくりするほどに静まりかえっていました。
車一台通っていません。
無音の、静まりかえった空間に、雲一つない青空が広がっていました。

きっとみんな、思いはひとつだったのでしょう。


十年経ったといえ、それはあくまでも通過点に過ぎないということ。
今を生かされた者として、しっかりと生きていかねばならないと思いをあらたにした日でありました。

No.47

仏間の隣にあります【羅漢の間】の前で、私は少し違和感をおぼえました。他の〖〇〇の間〗と呼ばれている部屋にくらべ、どうにも手狭な印象を受けたのです。

こちらには、伊達政宗公・忠宗公に殉死した家臣のお位牌が安置されています。お一人お一人のものではなく、奥の二基一対のお位牌は政宗に殉死した二十名、手前の二基一対のお位牌は忠宗公に殉死した十六名の法名が刻まれています。

そもそもが羅漢の間でありながら、お位牌と、中央に不動明王像。羅漢さんたちがお祀りされている様子はありません。

こちらに、こうして書きながら、どうにも気になったのでGoogle先生に聞いてみたところ、こちらの羅漢さんは明治以降に壁に描かれたようです。それ以前になんと呼ばれていたのかはわからないのですが、もともとはお位牌を安置する間として、そのような呼び方をしていたのではないかと、勝手に推察する私でありました。

続く【墨絵の間】は住職の応接室であったようです。
こちらも他の間と異なる印象を受けるのは、墨絵の古くてくすんだ印象だけでなく、むしろそこが唯一、使い勝手のよい、使われていた印象を受ける部屋であったからであります。もしかしたら今も法事・法要などの際にはこちらを使っておられるのかもしれません。

そして、金色のなかにそれはそれは美しく咲く、満開の白と黄、紅色の菊が描かれた【菊の間】は、御殿医の控えの間であったとか。
うーん、お寺に御殿医の控えの間までありますか┉。
やっぱりすごいなあ。


私たちは、ちょうど、もともとなされていた修復も、東日本大震災による被害の修理修復も、地蔵堂の建設も、すべて終わったときに参拝したことになります。
金箔の襖の金色も、もっとも美しい盛りであったかと思っています。

あまりの素晴らしさに、たましいが抜けたみたいにふらふらとまわらせていただきましたので、見落としたところがあるような気がしてなりません。

はああ┉なんてもったいない。

No.46

【上段の間】は藩主御成の間で、一段高いところに藩主さまの座る間が設けてあります。
そしてそのむかって左側にある【上上段の間】は藩主の席よりさらに一段高くなっていて、藩主よりも位の上の、将軍であるとか天皇陛下がお越しになられたとき御迎えする間であるとされていると言われています。
お越しになられることはないかもしれないこの〝間〟を設けて建てる。
そうしたことで、自分はあくまでも将軍家の臣下であることを示し、天皇の下の身分であることを常に示して、また自らの立ち位置をそこに座るたびに自覚する。
┉どれだけのことを考え計算して建てられたものでありましょう。

私が、本堂を真横から見渡せる、開門された中門をくぐることすら躊躇われたのは、自分はそのくらいの身分であるということを肌でかんじていた、ということなのかなぁ。

そして上段の間の隣、回廊をコの字に回ってある【仏間】。
そして【羅漢の間】、さらに【墨絵の間】、【菊の間】。

┉墨絵の間だけが妙に暗く、ふと気づいたことは、襖が金箔ではない、ということ。襖自体が古くて、経年により表面の一部が薄く剥がれ、何より全体がくすんでいるのです。もしかして┉、造られた当時のもの⁉
┉か、どうかどなたにも聞けぬまま、振り出しの松の間が見えてまいります。


そんな『墨絵の間』『菊の間』の前あたり。回廊で隔てられた向かいの中庭には、枯山水が設らえられており、なんでも松島湾をイメージしたものとのことであります。

本当に、
細部の細部までこだわり抜いた瑞巌寺さんであります。

私はといえばそんな瑞巌寺さんに終日ただただ圧倒されていたのでありました。


┉この瑞巌寺さんでは、庫裡を入ってすぐから写真撮影禁止ゾーン。
まもなく四カ月前となろうかという東北の旅を思い出しながら書いております。(2021/3時点)

うーん、写真がないと珍道中録。きつい、きつい!
まあ、これ以上にない、よい脳トレにはなっているとは思います。


私の記憶だけで書かれておりますので、間違いがありましたら、┉本当にごめんなさい。 


No.45

『絵にも描けない美しさ』とは、〖唱歌〗〖浦島太郎〗の一説であります。
もっとも画才のある方であれば、この瑞巌寺さんの美しさも絵とすることもできるのでしょうし、文才のある方が書けばこちら瑞巌寺さんの素晴らしさも表現することはいくらでも可能なのかもしれません。

が。
如何せん、この日本語すらおぼつかない、さらには認知症の始まりを疑うような私でありますので、どうにもこの瑞巌寺さんの素晴らしさを伝えていく術がない。
ないくせにそれをあえて挑むので、すぐ脱線したり、行き詰まったりして、ただでさえ読みづらい文章が、読みとくのに努力を必要とするようなものとなってしまっていて、本当に申し訳ありません。



【瑞巌寺】さんの、法要が営まれるところであるという【孔雀の間】のむかってひだりの間は【文王の間】と呼ばれているところとなります。

こちらは伊達家一門、伊達家の親戚が使用したとされた部屋。〖文王〗という、┉まあ、日本の歴史すらも詳しいこととなると首をかしげる私に、一言で言わせれば〝中国の昔の偉い人〟、的な言い方にしかなりませんが。
なんでもこの部屋の金の襖に描かれているのは、その名の通り『文王』をテーマにしているようであります。
文王の築いたという〖洛陽城〗を遠くに見やる絵があって、右側には文王と〖太公望呂尚〗の出会いの場面、左側にはその時代の狩りの場面が描かれているのだとか。

うーむ、太公望は聞いたことがあるな。…などと書いているのが夫や子供たちにバレたら、どんなに嘆き悲しまれることか。
まあ、ここは等身大の私が書いておりますので、お読みいただく方におかれましても、┉ああ、やはりそんなレベルのやつか、と流していただければ幸いです。

さらに進むと【上段の間】。
そしてその横には【上上段の間】。

…やっぱりこちらはお城の様式を取り入れている?それとも一国の大名の建てたお寺さんはこういったもの?

ついこのあいだテレビで観たなぁ、上上段の間。それを、ここ瑞巌寺さんで拝見することになろうとは思ってもいませんでした。
とはいえ、ネットで検索すると、な、なんと瑞巌寺さんの本堂がトップにあがってまいりました。
うーん、やはり私があまりにも無知だからなのかなぁ。

No.44

ちなみに┉。
さすがにこの目の眩むような金色の襖絵は建立当初のままではなく、当時のものに忠実に忠実に再現されたものであります。




┉あの東日本大震災のとき。

瑞巌寺さんは実に道路を隔てて海岸、という立地にありながら、津波の到達したのは総門から杉並木のある参道までであったという、まさに奇跡のような被害状況であったのだそうです。
とはいえ杉並木は、津波の前は今の何倍にも杉の生い茂るものであったといい、塩害で立ち枯れてしまい今のような青空の見渡せる参道になってしまったのだということですが。

そして。

その杉並木の途切れるころ見えたいかにも新しそうな地蔵堂…。
あの地蔵堂こそが津波の到達点であり、鎮魂のために建てられたものだったという。

┉地蔵堂にはそのようないわれ一つ書かれておらず。
ただ普通に手を合わせいつも通りのお参りをしただけで通り過ぎてしまった。
もし知っていたならば…と思ったものの、そのようないわれをすら書けなかった被害の大きさをこそ、そこに感じなければならないのだとすぐに気づきました。


ちょうどその時大改修工事のさなかであった瑞巌寺さんは、屋根の瓦をすべて下ろしてあったために、瓦が落ちることもなく、また瓦の重みで建物の被害も免れることができたのだとか。 
┉何か大きな大きな力がここを護ったのでありましょうか。


被災当時は境内に参拝の方もおられ、直ぐ様、全員の無事を確認してまわり、他の被害状況はもちろん、ここの被害状況すらも明らかではない被災当初から、ここ瑞巌寺を避難所として解放し、お寺にあるもので炊き出しなどを行ってくださっていたということも、帰宅後ネットで調べ、あらためてそういった事があったことを知りました。

かつてお寺さんはそうした救済にあたる拠点となって、仏の教えのままに人々を救ってくださるところでありました。やはりその精神は受け継がれていたものでありました。


♪松島のサーヨー 瑞巌寺ほどの
 寺もないトーエー

と唄うのは【大漁節】。


本当に。
┉本当に。

No.43

金の襖、金の襖と書いてはおりますが、角のお部屋には松の絵が描かれています。
何畳あるのか、┉魂が抜けたような状態の私はもはやそんなこといろいろまで考えたりすることなどできる状態でなくなっております。

とりあえず、お部屋にまでは入ることはできないので遠くからではあるのですが、
遠くから見ても松の葉の一本一本が生き生きと描かれている絵が描かれているのです。こちらは松の間といい、あとで知ったことによると茶道衆の詰所なのだそうです。はあぁ。

その隣の家来の控えの間は鳥が描かれていました。
近く描かれているもの、遠くに描かれているもの。
様々な立ち姿で描かれていました。
┉建物の中は庫裡からすべて、写真撮影は禁じられておりますので、確認は瑞巌寺さんの公式ホームページに頼ることとなるのですが…。
その鳥の鋭い眼光といったら!
これが実にまたリアルな絵でありました。

はあぁ。


次へ進みましょう。

!…!!。

ここで私は、やはりこちらは間違いなくお寺、寺院であることをしかと実感いたします。
ちょうど、先ほどの外から拝した、御本堂の建物の真ん中、御本堂の中心にあたります。
そう、こここそが本堂の中心であります。


…ひ、光輝いている~ぅ‼


その部屋に至っては、なんと床まで光り輝いております。とはいえ、床が金箔とかではなく、例えるなら┉例えば群馬県桐生市の宝徳寺さんの、あの、床に映す逆さ紅葉のような感じで、その襖の金色が映って、床までが光っているのです。
まばゆいばかりの御本堂。

はあー。


ちなみにこちらは孔雀の間、と呼ばれているそうで、ここで法要が営まれるのだそうであります。


No.42

廊下だけで、もう胸がいっぱい、心拍は高まるばかりです。


が、はっと我にかえり、その横にある部屋に視線を移すしました。

目に飛び込んできたのは、金色に煌めく襖。

はあぁぁぁ。

金、だあぁ。初っぱなの角部屋から金の襖!

思わずそこから目をそらすように上を見上げたところ、そこには欄間があり、その欄間は欄間で、松のあの細かい枝葉まで細かに彫られた、芸術品でしかない彫刻がはめ込まれているではないですか……。
いまにも動き出しそうな鳥とか。

ここは┉日暮の門ならぬ日暮の舘?

なんだかもうふわふわと、ただ、
出口に向かわないといけないと本能が訴えて、ただただふわふわと歩き。

それでも隣の間に再び目をやると、金。

…まあそうですよね。
初っぱなの角部屋から金なのに、その隣に進んでいきなりわが家にあるような普通の襖なんてあり得ない、金の次は金。
しかも先ほどの部屋よりも数段広い!

┉控えの間?
家来の方の控えの間?
控えの間┉。

あれ?┉ここどこでしたっけ。
お、お、お、お寺、だった気が┉。
お、お、お城?

家来の控えの間があるんだぁ。

そ、そうだよなぁ。殿様が家来を伴わずお出かけになられるはずはない。

でも、そんな家来の控室からして金。きらきらとまばゆく輝く金箔の間、なんだぁぁ。




No.41


┉。

┉庫裡に入れるようなのでと、あくまでも庫裡に入っただけだった私。その庫裡でももうすでに圧倒されるくらいの感動をさせていただいておりました。
それがいきなり御本堂の中!
心の準備がまるでなかった。


いきなり現れた、磨きぬかれた美しい広い廊下!
すべすべで、そして柔らかく良い色に光っています。
現代の人工的に作られた板とはまるで異なりますもの。ただ現代の人工的な板と一つだけ共通するものがある、というとなんだかもう叱られてしまいそうですが、節目等が一切なくて歪みや撓み等なく、あくまでも平らかである、ということ。
人の歩いたあとが少しづつあとが残ったりとか、減って少し凹凸、とまではいかなくても少しづつの目減りとかも一切感じられない、建って十年経つか経たないかみたいな美しさなのであります。

┉いきなり迷いこんだ御本堂(あくまでも私だけ)、
一歩も踏み入れもしない廊下ですでにこの感動!

語彙力のない、文才はさらにない私の筆がどんどん遅れていった理由はここにあったかもしれません。
改修工事こそ行われてはいるようですが、この廊下を張り直したりはしていないよう記憶しているのです。
どれだけ、伊達政宗はここを建てるにあたって様々なこだわりをもって建てたというのか┉。

だって、伊達政宗公って、江戸時代の人ですよ?
それも厳密に言えば、江戸時代となる以前に生まれていて、あの関ヶ原の頃には立派に伊達家当主であったはず。そんなはるか昔の方ですよ?
その方が建てた建物ってことですよ?
それがこの廊下!
このクオリティーの高さ!


田舎の貧乏人であばら家に住む私には、廊下だけでもう平伏すレベルの瑞巌寺の建物であります。
というか、外観ですでに圧倒されていましたですね、はい。


No.40

また門があり。
そこをくぐると大きな庫裡となるのですが、どうやらその庫裡には入ることができるようです。
と、足元を見ると大きな平らな石が埋められて敷石となっているのですが、その表面が不自然にそれはそれはたくさんキズが付けられています。鑿?とかでガツンガツンと表面が平らかでないように加工されていました。┉雪対策?凍ったときとかに?何らかの効果があるのでしょうか?
誰に聞くこともできずその効果はわからないままなのですが、なぜか私にはとても印象に残っておりましたので書いておきます。

庫裡に入ると!
いきなり大きな観音さまがそこに。
圧倒されるのは大きさなどではありません。
それはそれは美しい色彩をされた、金色に輝く光背と冠や衣。真っ白でそれはそれは清らかなお顔の聖観音さまのお姿であられます。
お美しい。
しかも無造作になんら囲いもなくそこに、庫裡に入ってすぐのところに、┉言葉をあえて選ばなければ置かれているのです。

はああぁ。
「高村光雲の作だって。素晴らしいねぇ」
瑞巌寺に圧倒され普段の私でないことに気づいているのかいないのか、夫が小声で話しかけます。
ほおぉっ。
あの、安達太良山の┉。
いやいやこれは東北に向かって来るときに曇って見られなかった安達太良山は全くここには関係ないのですが、高村光雲といえば高村光太郎であり、あの智恵子抄を思い浮かべる年頃の私達でありまして、その中のひとつの詩がつつっと頭に浮かんでしまっただけなのですが┉。

素晴らしい。
そう、それは美しく清らかな観音さまの御像です。┉作品ではない、観音さまであられます。それは高村光雲作であろうがなかろうが、ただただ観音さまであられます。
素晴らしい、というよりやはりありがたい、であります。
またまた圧倒されて、それでも先へと進みました。
曲がり廊下を進むと、そこは┉!



御本堂ではないですか!

No.39

【瑞巌寺】さんに話をもどします。

【中門】、という太鼓塀につながる門が大きく開け放たれていました。そこに入っていいものかどうかをなぜかためらう私がおりました。
┉この図々しさを絵に書いたような、おばさんの中のおばさん!という私が、なぜ?
他の方も入っておられるのですし、そもそもが扉が開けられ足止めのようなものもなく、ためらっている自分自身にむしろ驚きを感じためらうくらいであります。
でもきっとそれは、門の外からですら圧倒されるような御本堂の威風であったのでありましょう。

はあぁ。
敷きつめられた白い砂利には枯葉一枚落ちておらず、まるで常に均しているかのようにみえます。
目の前にひろがる御本堂はその所々の戸が開けられていますが、やはり圧倒されて側によることすらできない私。

その威風堂々とした御本堂、横に四十メートルあるのだそうです。御本堂に圧倒された私は、ただ立ちつくして、まるでお白洲にでもいるかのよう。
国宝指定の御成玄関も南蛮鉄燈籠も遠くからただ見つめるだけで、私がここにいることすらなにか罪のように思え、そおっと中門を退出したのでありました。


┉ここは、さきの津波による被害はどうだったのだろう。

海岸は目と鼻の先です。そもそもが震度も凄まじかった地であります。
しかし今私が見る光景は不思議なくらいに、たぶん元のまま、昔のまま、なのだと思われます。

とはいえ、私は初めてここに訪れたものであり、さらにはさきの東日本大震災からすでに九年の年月が流れてはおります。
あくまでも、そう感じた、というだけなのですが、そう思わせるくらいに、古くからの年月の重みを感じさせる瑞巌寺御本堂でありました。

いつもの私であれば、もしかしたらもう二度と来られないかも知れないところを訪れたのですから、少しでも多く見て感じて行こうとするのですが、少しもそうならなかった不思議は、まああとになって後悔となるのですが。

中門を出たところには岩に腰掛けたお姿の観音さまがおられます。
この観音さまは灌水観音さまとおっしゃるようで、右手に小さな水差しを持ち気だるげに腰のあたりにその手を置いておられます。
こちらの観音さまが松島、瑞巌寺に何かあったときにはお水を調整してくださっておられるのでしょうか。

No.38

(21/02/15 記)

2021/02/13の深夜の地震の影響で、宮城県仙台市にある伊達政宗が眠る霊廟(れいびょう)、【瑞鳳殿(ずいほうでん)】で、全体で220基以上ある石灯籠など約100基が倒れるなどの被害が出たというニュースがテレビの映像で流れました。先の震災時ではほとんどが倒壊。その後、耐震補強を施していたものがまた半数ほどが倒れてしまったということです。

瑞鳳殿によると、最も古い灯籠は伊達政宗が亡くなり作られた約385年が経過したものだということで、本殿や伊達政宗の木像、境内の石垣や石段には被害はなかったようでした。本殿の地下3メートルに伊達政宗公の墓室があり、埋葬されている遺骨も無事とみられています。

十年かけてようやく立ち直ろうとしておられた方々を再び襲ったこの震災。
福島では余震が続いているとの報道も耳にしました。
水が止まり、この寒さのなか停電している地であります。
道路や線路が寸断されてようやく家に帰られた方もおられたと聞きます。
過去のものについて嘆いている場合でないかとも思ったりもいたしました。
それでも、胸が痛みました。
戦災で失われて、ようやくここまでに甦らせた瑞鳳殿であります。さらには先の震災でそのほとんどが倒壊しようやく戻したところでこの被災でありました。

この寒さのなか、ましてやこのコロナという悪疫が全世界を襲ったあとであります、この度東北を襲った大きな地震による被害。

┉神や仏はおられますか?
おられてここまでにとどめてくださっているということですか?


どうか、どうか、この地震の余震をお鎮めください。
どうか、どうか、このコロナ感染症をお鎮めください。


祈る先も、神仏。

共感3

No.37

お地蔵さまは
『地が一切の宝を含蔵するごとくに一切の徳を含蔵するもの』
その役割は釈迦入滅後、弥勒菩薩が世にでるまでの間、一切の衆生を永劫に救済することを本来の誓としている。その救済の範囲は人間界に限らず、〖地獄〗〖餓鬼〗〖畜生〗〖阿修羅〗〖天〗の各界全てにおよぶもの。

そこここにおられて、未熟な私を救おうと手を差し伸べてくださっている。なんともありがたいことにございます。
お地蔵さまが微笑んで見守っていられるくらいに穏やかに生きられたらと思うのですが┉。

紅葉した木々をバックに私を見おろして微笑んでおられたのは延命地蔵さまでありました。

ここから先、拝観料を納めて進むことになります。心を整えて、御仏にお会いいたすこととしたいものです。が┉、ここには私の物欲をくすぐる授与品が数多く並んでおり、唸りに唸って、御朱印だけにいたしました。そのくらいで自分で自分を褒めてしまうから成長しないのだな。┉。


先に進むと、格子戸のはまった岩窟が見えてまいりました。その前には石碑に、よく爪引きと伝えられるもののように、細い単線で描かれた観音さまがお二人。
なんでもこちらの岩窟は鎌倉時代に宋より戻ったという僧がここに遁世していたのだといいます。
そしてここでその僧侶と、時の執権北条時頼が出合ったのだと伝えられているようです。
船と馬くらいしか移動手段のなかった時に、ここまで来るのに大騒ぎする現代人(私)もおるというのに、昔の方は驚くくらいに遠くまで赴いているものであります。
ようやく、私の思い描いていた瑞巌寺さんに近いものとなってまいりました。

┉たしかに THE、観光地 なのではありましょうが、やはり寺院はそれに毒されてはいけないよな、などと勝手に思う私であります。

そして、白い太鼓塀が見えてまいります。その向こうに巨大な伽藍が甍を連ねているのが見えます。太鼓塀というのは中が空洞であることからそう呼ばれるのだとか。

そうして。このあたりからはもう、瑞巌寺さんの重厚にして壮大な空気にのまれてただ溜め息をつくばかりの私でありました。

No.36

【国寳 瑞巌寺】

…そう、彫られた大きな大きな石標を道路反対側からあらためて見て思ったことは、これはお寺さんが建てたのではなく奉納されたのかもしれないということ。
松島の名を全国に知らしめ、松島の象徴とも言える【瑞巌寺】さんが『国宝』に選ばれたことを誰もが誇りに思いうれしく思ったことでしょう。
そんな気持ちを、瑞巌寺を愛する思いを込めて奉納されたものかもしれません。
参道にはお店が並んでいます。
山門のまん前に、お店の前に置かれるような二つ折りになる小さな看板が置かれています。
『ずんだ餅 TakeoutOK』
…やり過ぎでは?


景観を損ねるようなものはできるだけ慎んだほうが良いと思うのです。その方がずっとずっと瑞巌寺が瑞巌寺らしくあると、私にはかように思えるのます。、
お店の方には是非もっともっと誇りをもっていただきたい。

そして…これまた山門が見えなくなるくらいに山門に取りつけられた提灯を提げる木で作った提灯台が┉これはさすがに瑞巌寺さんによるものでありましょうが。

山門を抜けると、空を突くほどにそびえ立つ木々が、見上げて歩くのに景観として本当にこれ以上ないくらいの、まるで計算されたかのような間隔で並んでいます。
うーん♡

先ほどのモヤモヤした気分など全て払拭されてしまうような参道です。
雲ひとつない青空に飛行機雲がすっと一筋。
心が穏やかに整っていきます。

そこにまた、お寺であることを一瞬忘れそうな鮮やかで色とりどりの和傘が、地面にひろげられて空間を飾っています。
┉それぞれの方の好みによるものなんですけど、ね。
この季節、落ち葉の、自然に散るさまも大変趣あるものだと思うのです。

この先にあります小さな地蔵堂がなんだか居心地悪そうにみえてしまいました。
なにより目をひく和傘に気をとられて、地蔵堂に足を運ばれる方の少なかったことは本末転倒、なんじゃないかなぁ。

少し進むと、見事に紅葉した木々をバックに微笑んで見守っておられるお地蔵さまがおられました。
まるで私の乱れた心を整えるかのように。

さすがお地蔵さまであらせられます。お地蔵さまは
『地が一切の宝を含蔵するごとくに一切の徳を含蔵するもの』
であります。

No.35

松島の街は、そこここに見え隠れする海がそれは美しくて。

青い空と。
キラキラときらめく海の水面。
なんと美しいものなのでしょう。

紅葉した並木が息をのむくらい素晴らしくて。
┉それはもう何年も見ていなかった、赤は明るい赤で、黄色は鮮やかに色を変えた、鮮やかで艶やかな紅葉です。
そう。
いつの間にか、私の住まう辺りは、くすんだ赤や白っぽい黄色の紅葉となっていました。
温暖化、なのでしょうね。ひさしぶりに本当の本物の紅葉を見させていただくことができました。


そこここに咲く草花の無造作にひろがる大地すらが、美しく見えます。
そこに生える植物の種類は、東北と関東でさほど変わらないのだろうけれど、それでも、海無し県の群馬県と海風の吹き抜けていく松島とではまた同じ植物であっても育ち方が異なるかも知れないし。
┉走りゆく車の窓からの流れゆく景色のなかの草花で、そんなに見えてはいないのだけれど。

┉あの津波に飲まれた町に、なんということの無い草花が生えていることに、感謝のような感動が私のなかにめばえていたのも確かであります。

そんな、いつまでも見ていたいような景色のなかを走り、やがて見えてきたのはいったん通りすぎた、白い船が並んだ海岸と、その反対側にある【瑞巌寺】さんであります。

【国寳 瑞巌寺】と彫られた大きな石標。

う?う…ん。

┉どうやら、私が幼少の頃から勝手に思い描いていた瑞巌寺とは少し、趣が異なるのかもしれません。
でもそれは私が勝手に思い妄想したありもしない幻の瑞巌寺でしかないのですが…。

そんなことをぼーっと考えている暇はありません。
コロナ禍とはいえ、だいぶ観光客が戻ってきたようで、なかなか空いている駐車場がありません。

やっとのこと空いている駐車場に車を置くことができました。個人のお庭を開放してくださっているようです。
…ここも被災がひどかったところでありましょう。道路を隔ててすぐ海のところにあるお宅です。
私どもは二人揃って口下手なのでそのような会話もせず、ただただ車を置かせていただくことしかできませんでした…。


No.34


松島~東松島間を結ぶ道路はたいそう整備されていて、高速で走行できる道路でありました。
┉もしかしたら高速道路の無料区間であるのだろうか?これほどの道路が何故無料で走行させていただけるのだろうか。首を傾げるばかりであります。
気持ち良さそうに車を走らせる夫。

でも┉。
もしかしたらここは、あの震災のとき、被災された方々に物資を輸送するために必死に復興し、
なんとかつながったここを多くの車がひた走った〝道〟なのではないだろうか。



…どうしても来たかった、来ずにはいられなかった東北は、なにも語らない。
なにも語らなかったです。
語らないからこそ、心の声で聴き続けていかなくてはいけないとあらためて思いました。

何より、いまだ行方不明の方が2529名おられる現実(2021年2月現在)。
折しも今日、テレビで、海上保安庁の方が行方不明の方を捜し海に潜る映像が映し出されていました。
それを見守る御家族の方。
┉言葉になどできません。

今年、十年目を迎える東日本大震災。(これを書いていた2021/2の時点で)
忘れられることなどない未曾有の災害であります。


今、私は東北産の食品を積極的に購入するくらいしかできてはおりません。
そんな消極的な形でも東北の経済をまわす力になれば、と、無い頭でも考えられた一つの手段でありました。



No.33

┉松島基地のすぐそば、だからといって、離陸するブルーインパルスが見られるわけではなかったようで。(;ω;)

そもそも、あの基地の駐車場に行ってしまったタイムロスもあり、すでに離陸をしてしまっていたようでした。

さらには、基地のそばで飛行訓練をおこなうわけではないようで、遥か彼方の空に白煙のあとを見ることができるくらいで、機影すら見えないのでありました。

それでも。
松島基地のそばの土手から、ブルーインパルスの飛行している辺りを無言で見守る人たちのなんと多いことか。誰もが無言で、ただただ空を見上げています。


┉ここ、松島もあの東日本大震災で、震災と津波の大きな被害を受けた地であります。

夫いわく、松島基地も大きな被害を受け、あの大空を駆けめぐるジェット戦闘機も被災したということでありました。

今、初めて訪れた東北の地。
その傷跡を一見みごと修復したかに見えもいたしました。
それは私どもがいわゆる〝観光地〟を訪れていることもありましょう。

ですが┉心に残る傷は消えることなどありません。
ただ、それを感じさせることなく、笑顔で過ごされる方々がそこにおられる。

道路を走っていると、【津浪到達点】と書かれた看板を見かけます。
それは想像していた以上に高くいものでありました。
あの恐ろしい、でも事実でしかない、テレビで放映された津波の映像がよみがえります。
忘れられない方々の住む地で、あの恐ろしい現実、決して忘れることはありません。

私の目に見える場所の復興は進んだかにみえても、生活する場所場所に置いての復興は、こんな一観光客にはわかりもしないこと。

何よりも私たちは、被災された方々の心に残った傷を、忘れてはならないのであります。

あの日を、あの時をむかえるときまでは、歓声をあげ見上げていたのかもしれないブルーインパルスを、今、無言で見上げる人たちと共に見上げて、あらためてその傷跡の大きさを思いました。

そんな思いで見上げていた空から、いつのまにかブルーインパルスが基地に帰還しておりました。
基地内のトラックをゆるやかにまわって、乱れなく整列したブルーインパルスに、私も感動で言葉を失い、いつまでもみつめておりました。


気づくとまわりにいた人たちはほとんどおられず。
寒そうに身を縮める夫がそばに立ち尽くしておりました。


No.32

青空に描かれ伸びゆく白線を見上げながら、
その白線を描く機体が飛び立つ勇姿を、遠巻きではあれ、まもなくこの目で見ることができるとまさに胸ときめかせて到着した私。(運転してきたのは夫)

ゲートに立つ若い自衛官に話しかけられたものの、その後は他の車輌の対応をされていて、次の言葉をかけられることはなく、車の中で待機しておりました。
ようやくこちらを向いて何か話しかけられたのですが、折からの強風でとばされて何をおっしゃっているかさっぱりがわからない。

車を降りて聞くことに、こちらは国家機関の所有地で民間の車は侵入を禁止されているのでここには駐車できません、とのこと。
ひえぇぇ、国家の?法にふれてる行為だあぁ?

別の意味で胸がバクバクしそうです。
でもそんな民間人はたくさんおられるようで、すっかり慣れた様子で「ブルーインパルスをみるのは、今来た道を戻って┉あ、今ちょうど車が入っていったあの道を行くと車を停められるところがありますから、そこに停めてご覧ください。車屋さんのところを手前に入っていく道です」と。

図々しいおばさんは、胸がバクバクするくらいの事態だとかほんの一瞬前思っていたくせに、
せっかく自衛官と話すことができた機会を逃すことなく、
「いつもご尽力くださり本当に感謝しております。先日の医療従事者への感謝飛行ではコロナのために日々闘ってくださっておられる最前線の医療従事者の方々はもちろん、私にも勇気を与えてくださいました。ありがとうございました」
とか言ってしまうのでありました。

┉そんな言葉より早く退いて欲しかったでしょうにね。きちんと笑顔で頭を下げて私どもを見送ってくださいました。
「なにしゃべってたの?」と夫。
秘密~っ!

自衛官の教えてくださった駐車スペースへの道順だけはしっかり伝え、そこに向かうと┉。
何台も停められた見物に来ている車に驚き、
轍の残り、穴すら空いた荒れ地に驚き、それでもなんとか一台停めるスペースをみつけて停車しました、ええ、夫が、ですが。

車を降りて見やると少し歩いたさきに土手がひろがっています。そこにはたくさんの人が空を見上げています。三脚も何体も見えます。

いざ!┉防寒具を。
防寒具なく過ごせる記録的な秋の日ではありましたが、さすがにここでは冷たい風が吹きつけていました。ようやく、用意してきた防寒具の出番です。

No.31

次に向かったのは。
松島。

あの『松島や ああ松島や 松島や』と詠われた松島であります。
ちなみにこの句、私の子ども時分にはかの松尾芭蕉の詠んだものと言われておりましたが、いまはそうではなかったと言われていますよね。
誰が詠んだものであろうと、松島といえばこの句を思い出させるといった意味ではこれ以上ない名句、なのではないでしょうか。

きらきらとのぼる朝日を受けて光る水面と見えてきた島の姿。
またまた声にならない吐息を漏らす私たちでありました。
まさにこれ!、これなんでしょうね、松島やああ松島や松島や、って。
語彙力のない私はただただため息をつくのでありました。


おお、瑞巌寺さんです!
思っていたのとは異なって、狭い道を入っていくようにみうけられます。

瑞巌寺さんを通り越して┉ええ、松島といえば瑞巌寺と言っても過言ではないだろう瑞巌寺さんを通り越して。
通り越して、向かったのは、【航空自衛隊松島基地】、であります。


ええ、神社仏閣巡りではありません。瑞巌寺さんを参拝するよりも先に松島基地。

…ごめんなさい。夫は好きなんですよ。こういった自衛隊の航空機とか船とかが。でもこの旅でそれをコースに入れておらず、前日ホテルで聞いてみたんです。松島基地へは行かなくてもいいの?と。
すると、
「自衛隊の基地に入るには何ヵ月も前から申し込む必要があって、だから行ったところで中には入れないし、ね。ブルーインパルスの練習も飛ぶかどうかもわからないし、行っても仕方ないかなって思ったんだ。それに俺しかおもしろくないだろうし」

┉やっぱりぃ?
「あなたの永年勤続記念の旅行じゃない!なんでそんなに遠慮するのよ。やだやだ、そ~んなに恐いんだ、私。いいじゃん、行こうよ松島基地!私だって好きだよブルーインパルス」
と、熱く脅すように私に語られて、突如組まれた松島基地、でありました。

できればブルーインパルスの飛ぶ頃に。
ということで午前中の練習時刻に合わせて(夫は)車を走らせたのであります。

飛んでる、飛んでる!
走る道路の上空を飛んでいる!

うわぁぁぁぁ!


そんなうるさいだけの妻を乗せた車はなんとか松島基地の駐車場へin!

しばらくして。
「もしもし。」若い自衛官から声がかかります。


おおっ♡!

No.30

神社仏閣巡り珍道中・東北路編 
       こぼれ話

・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ・*:.。❁ ゚・*:.。


前回の、書きかけで中断していたところまでお読みくださっておられた方のために、
そこまでのコピペが済むまで、スレを閉鎖しておこうと思い、開けては閉じ、閉じては開けてコピペをしておりました。
しかしながら、なにぶんにもおかしな表現が多く、手直しすることも多々あって、開けては閉じ、閉じては開けることに疲れてしまい、最近は開いたままで置かせていただいております。

前回お読みくださっておられた方々には多大なご迷惑をおかけして、申し訳ありません。
書き換えてあるところも増え、ニュアンスすら変わっているものすらもあるかもしれません。
書き足したり、まるっきり削除したりしている割には、相変わらずへんてこりんな文章であるかとは思います。

また、伊達騒動について調べていて、わが家に山本周五郎作の【樅ノ木は残った】があったことにも気づきました。
また伊達騒動のときの時の老中が、酒井氏であったことに引っかかりを覚え、調べたところ、群馬県にゆかりの家で、前橋市の龍海院に酒井家歴代藩主の墓があったことも思い出したのです。

ちなみに、伊達騒動があったときの老中が『酒井雅楽頭忠清』であり、のちに大老も務めています。
忠清公は酒井家第四代に当たるようです。

・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ・*:.。❁ ゚・*:.。


No.29

塩竈神社さんの本宮境内は、
まるでしんしんと降りしきる雪のなかに一人立ちつくす感覚にも似た、清らかなるものに囲まれているような、いつまでもそこにいたい感情というか感覚になります。
そう、まるで異空間、であります。

雲ひとつない青空にそびえ立つ燈籠のその大きさ、その細やかな飾りにほうぅっと声にならない吐息がこぼれます。
でもあくまでもそれはそれであって。

こちらの神社さんの┉神さまの、気高い清らかな、それでいて私のような穢れた者も受け入れてくださる懐の深さに心を包んでいただいているような心地よさと身の引き締まる思いは、いまなおはっきりと残っております。


去りがたい思いを引きずって、次に向かったのは
境内社というにはあまりにも大きな【志波彦神社】さんであります。こちらは優しいやわらかな気の神社さんでありました。狛犬さんがのんびり境内でひなたぼっこしているかのような、やはり大変居心地のよい神社さんでありました。
 

┉なんだかこちらの神社さんでのことを書くとただただ私の感覚ばかり書いておりますが、本当に圧倒されるものでありました。

門は大変大きくてそれはそれは立派なもので、中にはかなりイケメンの随神の左大臣右大臣さまがおられるのです。

…ただでさえ語彙力のない人間が書いておりますのに、その者が言葉にならない感覚を書こう書こう、書きたいとあがいた結果がこれでありました。



志波彦神社さんの鳥居を出たところで、きらびやかな花嫁衣装と羽織袴のお二人が、はち切れんばかりの笑顔で写真撮影をされていました。
そのお二人に会ってようやく人の世に戻ったような気がしたくらいに、神さまのお膝元に置いていただけていたようであります。

No.28

┉こちらの神社さんは┉。
どこまでもどこまでもきよらかな気高い気に充ちています。
涙が出そうになるくらいに、澄んだ空間です。
┉雲ひとつない空と相まって、静かにただ静かに時が流れています。

建物がどう、とかいうものではありません。


こちらにお祀りされている神さまはいったい?
こちらの本宮は左宮と右宮とがあり、左宮には【タケミカヅチノカミ】さまを、右宮には【フツヌシノカミ】さまをお祀りされています。

【タケミカヅチノカミ】さまとは
国譲りの際、アマテラスの使者としてオオクニヌシと交渉をした神様で雷の神であり、地震の神とも言われ、地震を引き起こすオオナマズの頭を踏みつけ、地震を制御する役割も担っておられるのだといいます。
さらには、剣の神。タケミカヅチさまは、最も強い武神としてその名を知られる神さまであられるのだそうです。
タケミカヅチノカミさまは、日本神話最強にして最高の武神と言われているが、同時に正義の神であられるとされています。
その武力のみに頼るのではなく、忠義に従い、アマテラスから言い渡された言葉をしっかりと伝え、交渉し、それでも交渉が滞った時には、剣を使わず力くらべで解決されています。そしてそれが相撲の発祥とされているそうです。

剣神、武神、軍神、雷神であらせられます。
『御利益』
武道守護、殖産興業、国家鎮護、芸能上達、豊漁、航海安全、安産、病気平癒、厄除け、縁結び、延命長寿
とありました。


【フツヌシノカミ】さまもまた武神で刀剣神にあらせられます。
『御利益』
勝負運に恵まれるので、絶対負けたくない試合・試験・交渉事
そのほか
家内安全、産業指導、海上守護、心願成就、縁結び、安産、勝運、交通安全、厄除け、体育勝運守
とあります。


そして。

かつてこちらは、陸奥国正税の六分の一にあたる千石の歳幣を受けていたという全国的にみても大きな、特別な扱いをされてきた神社さんだということであります。
奥州一宮という位置付け。

富めるものも貧しきものも、ここを崇拝してきた長い長い年月があり、神さまはその民にお応えしてくださって、今があるのかと思います。

No.27

歴オタにして名ガイド、解説者の夫が、いろいろ考えに考えて立ててくれた計画に基づいているスケジュール。

ただ行った先の長い名前が覚えられないんです。(^^;;

あとは、助手席の魔導士(=私)が、案内板を読んでは突然そこに行きたがるものだから、全く計画になかったところへ寄りこむことになる、あってもないような計画にされてしまうので、突然行ったお寺さんやら神社さんの名前があとになってわからなかったり。(誰のせいだ!)

まあ、ふたり合わせてなんぼの初老の二人三脚、珍道中、ということで。
┉違いますよね。おんぶに抱っこの珍道中ですよね、すみません。


さて、そんな二日目にまいりましたのは。
あの〝鬼滅の刃〟の、一体どこをどうすれば聖地となるのかわからないという、
【塩竈(しおがま)神社】さんであります。
聖地って…〝竈〟という一文字?ですか?…本当に?

二人が抱いた不安はまさかの密集。聖地って┉。
┉大丈夫、でした。鬼滅の刃の聖地、としての塩竈神社さんは避けられました。
ですが┉。

こちらが〝聖地〟でありますことはたしかでした。

凛とした研ぎ澄まされた空気。
凛として、澄んでいて、音すら失っているんじゃないかというくらいに、張りつめた、…それでいて泣きたくなるくらい優しい気に満ちた神社さんでありました。
一歩一歩歩くだけで邪念とか穢れが削ぎおとされていくかのような神域であります。それは夫も同じ感覚だったよう。
清らかな、ただただ清らかな境内。
雲ひとつない青い空。
胸のなかが空っぽになったような感覚です。


ここに来られたことを感謝し、お参りをさせていただきました。
願ったことはこの地に住まう方々が災害に合うことなく、コロナが流行することなく生活できるようにお守りくださいと、それだけ。

東北の神社仏閣では、ずっとそうご祈念させていただこうと。
私にできるもうひとつのことであります。
偽善と言われればそれまでのこと。
ただ私はそうしたい、そうしようと思ってこの地を訪れておりましたので。

まあ、こんな邪な人間が祈ることで、どれだけのご利益がありますことか。( ´-`)
でも祈らずにはいられなかった。┉自己満足?
いいんだ!
ずっと祈っていた。┉テレビの前で指を組んで。
ここで祈らずどこで祈るのだ。

あのとき犠牲になられた多くの方のご冥福のために。

No.25

うっ。


なんという道?!


いやいや国道なんとかとかいう道路の呼び名ではなくて、その道幅にびっくりします。
すごーい!片道四車線!
私には走れないな。
すっごいなぁ、仙台!

東京とも千葉とも神奈川ともちがう、大都会がそこにありました。

ぐ、群馬県、ですか?
群馬県には片道四車線なんてないと思いますよぉ。ましてや群馬県の片田舎の町に住む私たち。

走行している夫も走りづらいようであります。
ごめんなさい、私には絶対走れない。

そんな四車線を、すいすいと車線変更して追い越しをしていく車の多いこと、多いこと!こわいよぉ。
…まるで町のネズミと田舎のネズミのおはなしのようですね。

そして、実はもっと怖かったのが、実は青葉城の大きな大きな石垣。

ライトアップされているのですが、ね ┉蒼、なんですよ。蒼。
青葉城だから、ではなくて、おそらくは医療従事者さんへの感謝とエールの青。
でも、でもですよ?いきなり暗くなりかけた道に蒼い大きな石垣って立派なホラーでしたよ。怖い、怖い。
これはもっと穏やかな暖色のほうが石垣にも合っているし、医療従事者さんも喜ぶんじゃないかと┉。

…怖かったぁぁ。


そして、青葉城。
売店はかろうじてまだ開いていたのですが、辺りはすでに暗い。
伊達政宗公の騎馬像があるはずなのですが┉どこだろう。

…うわぁぁぁ、青い!

青くて蒼い、青葉城。
あとは暗くて見えなかったです。
仙台の夜景はすばらしかったです。


ちなみに、青いライトアップはしばらくは続くもようであります。

私たちはもうおそらく二度とは見ることはないので┉ここにちょっと恐怖体験を書いておこう。(*`艸´)


No.24

そして。

准胝観音堂の裏手に、なんと、塔が見えているではないですか!
おそらくは新しいものであるかとは思われます。創建当初のものは落雷で平安時代にすでに焼失しているようです。
「行く?」
もちろん!

早足が駆け足になって、夫から
「そんなに慌てなくても」と声がかかります。まるで子ども。

そして…。
バックにジャーン!なんて効果音が聞こえそうなほど、威風堂々と立つ多宝塔がありました。
大きな大きな多宝塔は昭和五十七(1982)年に落成されたものだということです。
正式には『六大法身塔』であり、略称『大塔』と呼ばれており、 『大日如来』さまをお祀りしているのだとか。
この塔のあるお寺さんはもっと新しいものでしょうか。
ロビーとかフロワーとかいう言葉が似合うお寺の庫裏でありました。
なんでもこちらの御住職は女性の方なのだとか。おしゃれな感じは御住職のセンスなのでしょうか。
日が落ちてきています。


青葉城に行かなければ!
また走り出す私に、もはや夫はかける言葉もないようです。

No.23

通路を隔てたところにもうひとつの御堂が見えます。
【准胝観音堂】のようです。

その手前に…まさに紅葉の見頃、実に形のよい、大きな大きないちょうの樹があります。
その樹の下で、外国人の親子がきれいに敷かれたいちょうの絨毯の上で戯れていました。
すごーい!
映画の1シーンのようであります。
見頃のいちょうにも、そのかわいらしい親子にも見とれてたたずむことしばし。
はっと我にかえって御堂に目を向ける私。夫はすでにお参りをさせていただいています。


こちらの准胝観音堂は、仙台藩五代藩主伊達吉村夫人・長松院により准胝観音さまが寄進されたことを受け、六代藩主伊達宗村により延享2(1745)年に建立されたもののようです。朱塗りのかわいらしい御堂です。

【准胝観音】さまは延命、厄除けなどを司るといわれています。
私の記憶にあります限り、准胝観音さま単体でお祀りしておられる御堂はこちらぐらいではないかと思われます。

准胝観音さまは准胝仏母(じゅんていぶつも)さま、七倶胝仏母(しちくていぶつも)さまともいいます。
もとはヒンドゥー教の女神であるドゥルガーで、シヴァ神の妃とされています。
とても美しいお姿ですが、武器を持って魔族を倒した戦いの女神です。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあるようです。

仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。これは遙か過去より多くの仏さまを誕生させた仏の母という意味です。

真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられます。
また天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。

ご利益は修道者守護、無病息災、延命とされ、安産や子供が授かるなどの功徳があります。


こちらの准胝観音堂さんもまた、やわらかい気の満ちた居心地のよい境内でありました。

No.22

仁王門をくぐると、小学生くらいの子どもの小さなグループがいくつか。
自転車でだったり、何か秘密を隠しきれないで思わず笑ってしまって軽く小走りしている子たちだったり…、ここは自然に子どもたちが集うお堂のようです。
うーん、子どもたちが集うお堂ってすっごく好き♡
しかも大声で騒いだりしない子たちばかりです。
お薬師さまのお膝元で遊ばせていただいているという気持ちがしっかりと根づいているのでしょうか。

そして…。
その境内に漂う空気の清んでいてそしてやわらかいことといったら。
なんて居心地のよいところなんでしょう。
ずっといたいと思うくらい。何度でも、毎日でも来たいところです。
┉まあ、引っ越して来る以外、それは叶わないことですがね。

…だから子どもたちが集うんだ。
見るからに優しそうな若いお母さんが、子どもの手を引きベビーカーを押してお参りに来ておられました。

政宗公はなんと素敵な空間をよみがえらせてくださったことか。

【陸奥国分寺薬師堂】さんは、御堂というには大きな建物でありました。大きな瓦屋根のどっしりとした御堂です。その御堂の正面の戸が障子貼り、なんです。
もう、どれだけ私を魅了するんだろう。狛犬さんも可愛らしいし。
そうそう、手水舎はなんとカエル!
カエルの水を使う手水舎は初めてかもしれない。
しかも暗くなってからでもお参りできるようにか、やわらかい灯りで小さくライトアップしています。

そして、御朱印をお受けしようと授与所にうかがうと、若くきびきびと動く、しかも控えめなお坊さまが対応してくださっていました。
御守りの他御数珠入れ等が並んでいます。
かねてから数珠入れを欲しいと思っていた私が数珠入れを見せて欲しいと申しますと、お数珠の扱い方をお教えくださいながら、「こちらのお数珠には(こちらの数珠入れは)少し小さいけれど使えないほどではないですかね」と。
きれいに使いやすく整理された授与所でありました。
子どもたちもお坊さまに話しかけていたりしていて、ここに集う子たちともよい関係を築いておられるようでした。



うーん、すっごく好き。いいなあ。


No.21

ナビの上で【国分寺薬師堂】が現れほっとするとまもなく、例の「目的地周辺です。音声ガイドを終了します」という言葉。

おっ!あった!

すごいすごい!再建された平安絵巻のような、ほんの少しではあるものの、回廊?のような建築物もあり、その先に茅葺きの、おもむきのある門が見えています。

まぁ♡ じゃじゃ馬とか言っていましたが、さすがナビ。
以前は、地図を見て(夫の)頭にたたき込み、さらにわからなくなれば地図を広げて確認して走る。それが当たり前、というかそれしかなかった時代を思えば、なんともありがたいものであります。

┉って、ここ!
たしかに正面の仁王門が見えてるけど、一方通行じゃないかぁー!

周辺には車が置けそうな(おそらくは駐車場)が見えてはいるものの、いま来た道を戻るようであります。
…やっぱり?┐('~`;)┌

と、いうわけで、その姿に大変感動した仁王門を、ふたたび後にしていま来た道を戻る私たち(運転はあくまでも夫)。
さすが、じゃじゃ馬ナビ。
そして、そんな私とナビにふりまわされながらの夫の珍道中。
ありがと。感謝しています。


いったん撤退してようやくそばで見ることのできた茅葺きの仁王門、感動もひとしおです。


No.20

【国分寺】についてGoogle先生にお聞きしました。

奈良時代の中頃、国内は、日照り、台風、地震の発生といった自然災害のせいで飢饉が起き、さらには大陸から恐ろしい伝染病である『天然痘』が伝わり、多くの人々が亡くなりました。
また、新羅国との関係の悪化、天皇の親戚や家来たちによる反乱が起き、激しい戦いがありました。

【聖武天皇】は、そんな乱れてしまった国を安定させるため、仏教の力を借りることとし、741年、都には『東大寺』を、
全国およそ60か所には『国分僧寺(こくぶんそうじ)』と『国分尼寺(こくぶんにじ)』をそれぞれ造るように命じます。
その際、どの国分寺にも、七重塔とお釈迦様の像を造るように命じ、また、国分寺を建てる場所はその国の最も良い場所を選ぶように命じました。
それは交通の便がよいところ、災害が少ないところ、人があまり住んでいないところといった土地であります。


陸奥国において当時国府があった多賀城からやや離れた場所で、上記の条件を充たしたのがここ、仙台の陸奥国分寺跡でありました。

平安時代まで陸奥国の財政的支持を受けて大伽藍を維持していたようですが、室町時代には「草堂一つのほか何もなし」と言われるほどに衰退してしまったようです。
それを十七世紀初めに伊達政宗公が再興し、1607年に建てられた薬師堂を中心に二十五坊を擁する大寺院として栄えたのだといいます。

ところが明治時代にはいり仙台藩の保護を失い、廃仏の風潮もあってふたたび急激に衰退し、その際二十五坊のうち二十四が廃絶してしまったのだそうです。唯一残った別当坊が、薬師堂の管理と陸奥国分寺の名を単独で引き受けたとのことでありました。


うーん、歴史の流れとは壮大で、人の織りなすものであるもののその流れにはなんとも抗えないものがあるようであります。
そんなところが、歴オタを魅了するロマン、なのかなぁ。


No.19

「つぎはね。」
ん?
次に向かうのは青葉城じゃないの?

「青葉城はライトアップしているみたいだから、もう少しあとでいいかなと思って」

えっ?
仙台に入ってから何度も青葉城の方角をもとに話してたくらいじゃない。青葉城はあちらの方角だ、とか。

歴オタで、お城の遺構をみても感動して写真を撮りまくってるような夫が、そう言い出したのは三時を少しまわった頃。
気を使う必要など何一つない、
車に積まれた荷物となんら変わらないくらいお荷物でしかない私に気を使っている?
こちらについてから、もうすでに神社さんにもお寺さんにも参拝させていただいています。

「えっ?だってお城好きじゃない。明るいうちから見たほうがいいんじゃないの?」
「今回はいいや」

あ。
…そういえば夫は以前、職員旅行で仙台に来ているんだっけ。
でも職員旅行じゃあ自分の見たいところがゆっくり見られてないんじゃないかな。

…そんなことを悶々と考えている私を乗せて、彼が向かったのは、
【陸奥国分寺跡】。

正確にはかつて国分寺があったところにあるという【陸奥国分寺薬師堂】さんであります。

国分寺といえば聖武天皇の命により全国に建立されたもの。
長野県も群馬県も栃木県もその跡地を示すものは遺されているものの、現存するものはなく、こちらもやはり跡地、であります。
あ、歴オタには跡地もロマンなのかな。
そのどこも私と一緒には立ち寄ったことがなかったのだけど。


そして。
ここ、陸奥国分寺薬師堂に向かうまでの道。
ナビに映りこむお寺さんの数の凄いこと、凄いこと。
確実にコンビニより多い。いやいやコンビニなど比較にならないくらいに多い。
あとでこのナビの画面を写真に録っておかなかったことを後悔したくらいに、一画面にぎゅっとお寺さんが詰めこまれていました。

…すごいなぁ。

東北、すごい。

┉たぶん私、これから今回の珍道中東北編、いくどとなくこのフレーズをつぶやくこととなります。


No.18

『感仙殿』のみぎてには趣を異にした石塔石碑の並ぶ、いかにも墓所、といった空間がひろがっています。
【妙雲界廟(みょううんかいびょう)】とあります。

【四代藩主綱村】公は、
「前例にならい、御霊屋を建てたならば子孫は大変である。自分が死んだら墓石を建て瓦屋根で覆えばよい」と言う遺命をお残しになり、綱村以後御霊屋は建てられなくなったということでありました。
また、綱村公のお墓はこちらにはなく、綱村公が自ら鍬(くわ)を持って開いたという〖大年寺山(太白区)〗の地に、四代以後の何代かの藩主のお墓が残っているのだといいます。
たしかに見回したところ(失礼なやつであります)四代、そして五代の墓もなく、何代かのお墓がありません。九代と十一代の墓がそこに見て取れました。

【妙雲界廟】は九代藩主周宗(ちかむね)、十一代藩主斉義(なりよし)と芝姫(あつひめ)の墓が置かれる墓所でありました。

戦国の世においても、そしてまた、江戸幕府の支配下にあっても、名のとおる御家の後継ぎ問題等は大変そうであります。
こちら伊達家にあっても歴代の藩主の歴史を追うと、切なくも御家の為の苦労が偲ばれます。
とはいえ、その時代において、一番苦しく大変だったのはやはり庶民。
いつの世もそこは変わらない。

妙雲界廟の参拝をさせていただいたのち、順路にしたがって進むと、階段があります。
階段の途中、ひだりてに御子様御廟という案内板がありました。
こちら『御子様御廟(おこさまごびょう)』へは現在立ち入りが禁じられております。
幼くして亡くなった伊達家の公子公女のお墓で、側室や老女のお墓もあるそうです。かすかに見える御廟は、藩主の華やかな霊廟とはあまりに違って物悲しさをかもし出しています。
まぁこの時代、それはごくごく当たり前なんですが。

No.17

【瑞鳳殿】を参拝いたしましたあと、順路に沿って歩いていきますと見上げるほど大きな【弔魂碑(ちょうこんひ)】がありました。
戊辰戦争の犠牲となられた御霊を弔うもののようです。

そういえば伊達家の菩提寺である【瑞鳳寺】さんには、官軍側の犠牲者の墓がございました。薩摩藩士で、引き取り手がなかった方のものだといいます。

動乱の明治維新、日本を分けた戦い【戊辰戦争】。
東北、北越諸藩は、〖奥羽越列藩同盟〗を結んで、西国諸藩と戦ったのだそうです。
この戦いで同盟軍1260名、及び幕府軍を合わせると8000余名が亡くなったといいます。
弔魂碑はその御霊を弔う為、明治十年に十四代当主である「伊達宗基」が、瑞鳳殿鐘楼跡に建てたものとありました。
伊達藩のなくなったのちも伊達家は仙台の地で当主でありました。

さらに進むと見えてくるのが、二代目藩主ならびに三代目藩主の墓所へと続く階段であります。


二代藩主・【忠宗】公の墓所は【感仙殿(かんせんでん)】と呼ばれていました。
忠宗公は政宗公ご正室愛姫(めごひめ)の第二子で、三十八歳で藩主となると仙台城二の丸、東照宮の造営、藩の基盤固めに尽力し、父伊達政宗の菩提を弔う為に『瑞鳳殿』『瑞鳳寺』を寄進されました。

【感仙殿】は、万冶元(1658)年六十歳で亡くなった忠宗公の御霊を弔う為、寛文四(1664)年、伊達家四代藩主綱村時代に創建、昭和六十年に再建されています。
やはり黒塗りの建物に金の飾り、色鮮やかできらびやかな建物であります。
細かく美しい装飾で扉のデザインが可愛らしく、家紋などつけた他二つとは少し異なっていました。
政宗公の眠る「瑞鳳殿」同様、まわりに「忠宗公」への十六人の殉死者の供養塔が並んでいます。

感仙殿のひだりてにありますのが三代藩主・綱宗公を祀る【善応殿(ぜんおうでん)】であります。
二代藩主、忠宗の第六子で、十九歳で三代藩主となった、そう、あの伊達騒動のきっかけともなった【綱宗】公が眠られています。わずか二年で隠居を命じられた綱宗は、江戸の品川で七十一歳で亡くなるまで過ごし、和歌や書画、茶道や能などの芸術的分野で活躍した…とは今回書き足した伊達騒動のところで書いておりますか。
瑞鳳殿や感仙殿よりは簡素ながらも、規模も形式も同じく作られた『善応殿』もやはり同じく昭和六十年再建です。

No.16

政宗公は、七十歳で江戸で亡くなられると、その御遺言通り、ホトトギスの声が聞ける経ヶ峯に葬られ、この【瑞鳳殿】地下で眠りについておられます。
そして。瑞鳳殿のまわりには政宗公の葬儀に先立って殉死した家臣15名と陪臣5名の墓(宝篋印塔)が、政宗公を守るかのように整列していました。
殉死…、ねえ。
日本史上かなりの長いこと、引き継がれてきた風習であります。
それは日本史のみならず世界でも…。
なんとも哀しい習慣であります。
しかも葬儀に先立って、であります。亡き主君の葬儀には参列しないで先だって、です。
…まぁ亡き主君の埋葬をする前ということは、そういった辛い別れをせずに済む、ということなのではありますが、ねぇ。


なお。瑞鳳殿の中には木彫りの伊達政宗像が安置されているようで、
一月一日~二日、
五月二十四日の政宗公の命日のみ「御開帳」となっているようです。

No.15

【瑞鳳殿】の入場受付で入場料を支払って。

まもなく見えてくる涅槃門で、伊達家がどれだけ仙台の方々に愛され
誇りに思われてきたかを、一目見るだけで知ることとなります。それはもう、胸が熱くなるくらいに。
黒の漆塗りに金の装飾。
伊達政宗公が与えられたという菊の御紋も配されています。その美しさにしばし立ち止まります。

涅槃門といえば煩悩を捨て去り涅槃へと向かう門。
百八どころか無限にある私の煩悩をぜひ捨てさせていただきたいという思いは叶わず、涅槃門は『伊達家藩主』、藩が無くなってからは『伊達当主』しかくぐれません。
脇にある朱色の門から入ります。
これがなんともバリアフリーでない造りでありまして。下には何段かの階段があり、背の高い方にとっては身を縮めてくぐるような高さの門、なのです。
前回の参拝時頭をぶつけた経験をいかして上に注意してくぐったという夫、今回は階段につまづくという、なんとも身の引き締まらないかに思われる参拝となったようで。
さすが珍道中のかたわれ、きちんとその役を成しています。(いいのか?)

燈籠にかこまれた階段を登ると瑞鳳殿本殿前の唐門を兼ねた「拝殿」があります。
拝殿前の空間のみぎてに焼失してしまった瑞鳳殿の屋根に飾られていたという金属製の龍の飾りが祀られているのですが、その火災の激しさからなのか、訪れる人々が触るからかのか鼻の部分の色が剥げ地色が出ているのがなんとも可愛らしいものでありました。
もちろん、私は撫でさせていただきましたよぉ。すべすべでたいそう気持ちのよいもので、私がしばしそこにとどまっていたことはご想像通りであります。

そして、さらに歩を進めると、瑞鳳殿と呼ばれる政宗公の墓所となります。
その黒塗りを基調とした、私のように語彙力のない者には〖豪華絢爛〗という言葉しか出てこないようなきらびやかな御陵が建っておりました。
さながら神社のような、日光東照宮にあってもおかしくないような、建物にございました。
さすが伊達政宗、伊達男の墓所であります。


No.14

次に参拝させていただいたのは【瑞鳳殿】です。伊達政宗公の墓所であります。


伊達政宗公は、仙台の経ヶ峯にというところにある【瑞鳳殿】で眠っておられます。地元の人は「瑞鳳殿」とは呼ばず【御霊屋=おたまや】と言います。

こちらは古くは名取郡根岸村黒沼〖萩ヶ崎(はぎがさき)〗と呼ばれ、中世末期に出羽三山で修業した〖満海上人〗が、この地の東峯に経文を納めたことから〖経ヶ峯(きょうがみね)〗と呼ばれるようになったと言います。

政宗公がホトトギスの初音を聴きに訪れ、自らの墓所に決めたと言われる経ヶ峯の頂きに建つ瑞鳳殿は老杉に囲まれ、まさに〝幽玄〟の一言でありました。

藩政時代以後〖伊達家の墓所〗が置かれる霊域となり、かつては限られた者だけが入ることのできた場所で、正式には【経ヶ峯伊達家墓所】といいます。

経ヶ峯は標高が73.6m、伊達家の霊域として長いこと禁断の地であったため、当時のままの自然環境が残っているといいます。
瑞鳳殿造営時に植林されたという樹齢350年以上の杉もあり、また、そこを緩やかに登ってゆく、当時の石段があります。伊達政宗公が六十二万石だったのでこの石段も六十二段、なのだそうです。

天を仰ぐように見上げる杉の生い茂る参道も、さすが伊達男という言葉の語源となったくらいの粋で雅なことが好きであった政宗公の墓所であります、森林浴気分を味わえるそれはそれは居心地のよい空間でありました。



…ですが。 


こちらの瑞鳳殿、実は昭和五十年~六十年代に建てられたもの。
第二次大戦の昭和二十年七月の空襲で残念ながらすべてを焼失、再建されたものとなるそうです。

歴オタの夫はそれがたいそう無念だったようで、何度も何度も、
「でも昭和に造られたものなんだよな」とくりかえし。
あまりにもくりかえし言われるので、耳にタコのイヤリングでもつけてやろうかと思ったくらいでありました。
それでも夫は出立前、絶対に外せないコースの一つとしてここ、瑞鳳殿を挙げていたくらいでありました。それくらい、入れ込んでいたところではあるのです。
要はそれくらいショックだったということですよね。



自然ゆたかで、大変空気の清んだ緩やかな登り坂を登っていくと、墓所への入口が見えて参ります。

No.13

(伊達騒動の続き)

…幕府の審理は1671年(寛文11)2月開始されたといいます。
ところが、3月27日大老[酒井忠清(ただきよ)]邸での審理が終わったころ、家老[原田甲斐宗輔(かいむねすけ)]が突然[安芸宗重]に斬り付け即死させ、さらには原田甲斐宗輔もまた斬られその夜死亡したのだと。(!)
伊達兵部宗勝ら関係者は他家御預けなど処分を受け、原田甲斐一家も切腹を命ぜられ断絶した。

亀千代あらため綱村さんの伊達六十二万石は確認され後見も解除され、この伊達騒動は決着した…ようです。はい。

なんでもこの伊達騒動、歌舞伎の題材ともなり、あの山本周五郎の小説【樅ノ木は残った】がやはりこの伊達騒動をもとに書かれているようで。
あれあれ、樅ノ木は残ったなんて、それこそ私が幼稚園児の頃から家にあった、装丁の立派な本じゃないですか。

もちろん未だに読んでいません。…そうですよね、読んでいたら伊達騒動、知っていましたよね。
私が生まれるずっと以前に書かれたもののようですが、NHK大河ドラマにもなっているようで…あ、でもこれすらも幼くて大河ドラマの時間には寝ていた頃のよう。

…。
知らなくてもしかたない…?



しかし。
夫に「伊達騒動っどんなだった?」と聞いたところ、
「樅ノ木は残ったの話だよ」と言われました。
もしかしたらこの不朽の名作、必読書なのかもしれません。

うーむ。
父の形見は遺ってはいないなぁ。



サンドウィッチマンの伊達さんが、伊達氏の血筋だということは知っているのだけど、なぁ。
そうそう、政宗公と誕生日が一緒とか。
お笑いに疎い私が、サンドさんは好きなんですよね。
えっ?関係ない?
そ、そうですよね。

No.12

【伊達騒動】
江戸時代、寛文(かんぶん)年間(1661~73)に起きた仙台藩の騒動。寛文事件ともいう。
1660年(万治3)3代藩主伊達綱宗(つなむね)は不行跡のかどで幕府から逼塞(ひっそく)を命ぜられ、二歳の長男亀千代(かめちよ)(綱村)が家督相続、綱宗の叔父伊達兵部少輔宗勝(ひょうぶしょうゆうむねかつ)と綱宗の庶兄田村右京宗良(うきょうむねよし)が62万石のうちからそれぞれ3万石を給され後見人に指名された。

…綱宗さん、何をされたので?

※[伊達綱宗公]
伊達藩第二代当主忠宗公の六男に生まれた綱宗さん。お母さまが早くに亡くなられ、父の正室の養子となったようです。六男ながら、兄の夭逝により、当時の将軍に嫡男として披露されたとあります。また、元服後のこの綱宗という名前の一文字は家綱公より拝領しているようです。
そんな綱宗公、父の死去を受け第三代藩主となるのだけれど。
酒色に溺れて、藩政を顧みない方であったようで。さらに陸奥の國一関藩の藩主である叔父[伊達宗勝]による政治干渉、家臣の対立等々、様々な要因で藩主不適格となされ、二十一歳で(!)隠居させられたのだといいます。
実際は綱宗さんが天皇の従兄弟であったことから仙台藩と朝廷の連携を恐れた幕府の圧力もあったのではないかと言われています。
綱宗さん、風流人で諸芸に通じ、画は『狩野探幽』に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣など優れた作品を残しています。


初めは家老(奉行)が藩政を担当していたが、しだいに件の叔父さん、宗勝が実権を握り、反対勢力を多数処分した。
その間、幼君亀千代に対する置毒事件が起こるなど藩内は動揺しだした。宗勝は腹心を登用し要職につけ、家老の権限を弱め専制体制をとった。
だが、伝統と門閥を重んじる他の重臣はこれを嫌悪し、宗勝は孤立していった。
こうしたなかで、一門[伊達安芸宗重(あきむねしげ)]と一門[伊達式部宗倫(しきぶむねとも)]との間に知行(ちぎょう)地の境界紛争が生じた。
式部が綱宗公の兄であるため、藩としてはその立場に遠慮したのではないかという説もあるくらい、式部に有利な裁定に、これを不公正とする伊達安芸はこれを幕府に訴え、さらには宗勝の政治に対する積年の不満を晴らそうとしたのだといいます。


…まあ、歴史なので話は長くなりますが、歴史に詳しくない私が咀嚼しながら書いているせいもあります。

No.11

こちら瑞鳳寺さんは、大正四(1915)年、【京都妙心寺】貫主がその荒廃を嘆き、復興に当たらせたものだとのことで、大正十五(1926)年に瑞鳳寺の本堂が落成したといいます。
その折、【平泉毛越寺】から遷座した釈迦牟尼を本尊、文殊・普賢菩薩を脇仏とし、その後、逐次復興したのだそうです。

境内には、忠宗公寄進の瑞鳳殿梵鐘(銅鐘)や、綱宗公手作りの雪薄紋が配される側室椙原品の邸門(高尾門)が残されています。


そんな瑞鳳寺さんをあとにする頃、ちょうど幼稚園の下校時間と重なったようで、なんと!幼稚園バスが山門の内側の参道上に待機しておりました。
いくらなんでも…。
風情もなにもがいっきに色褪せる一瞬でありました。

でもまぁ、観光客の多いこの場所で、ありえない事件事故の起こる昨今、そうしたことを考えれば、まぁいたしかた無いことなのかもしれません。
幼稚園自体がお寺の境内にありますし、ね。



No.10

次に向かったのは同じく仙台市にあります【瑞鳳寺】さん。
【二代藩主忠宗】が政宗公の追善のため、寛永十四(1637)年【霊廟瑞鳳殿】の香華所として創建したというお寺さんであります。
江戸時代には多くの塔頭・傍院を有しましたが、度重なる火災と明治の廃仏毀釈に伴って廃寺同然となったのだそうです。
たいそう立派なお寺さんでありながら、たまたま時を同じくしてその参道を歩いておられた方の大半が、〝観光名所〟【瑞鳳殿】を目指してここに来て、通り道にあるお寺さんに気づいて寄ってみた、というように感じられます。
こちらの山門は立派なもので、敬虔な思いでくぐらせていただいた…のですが┉。
賑やかな、はしゃぐ子供たちの声が聞こえてきました。┉遠足? それともGo Toトラベルで学校を休んで来ている親子連れ?
いやいや境内に建てられた幼稚園のようです。
お寺さんに保育園や幼稚園はつきもののようで┉。それはかつて寺子屋という形で地元の教育に携わってきたという背景がそこにあるのだと思います。

そんな賑やかな声も一時のこと。境内を進むとまもなくその声も気にならないくらいに穏やかな落ちついた空気に一変いたします。
さほどは広くはない境内であります。落ちついた雰囲気の御本堂で、派手ではないもののどっしりとした造りのものであります。
御本堂は開放されており、自由にその中に入ることができます。

そんな御本堂正面、内陣のみぎてに、な、なんとマネキン、というのでしょうか、観光地などで見られる等身大のリアルな人形が、その歴史的時代背景が一目でわかるようにと飾られておりました。【伊達騒動】の一場面をあらわしたもののようです。
…うーむ。

…私、ここ、東北の地に来て、いかに私が歴史に疎い者かをイヤというほど知らされることとなるのですが、その第一歩となったのがこの【伊達騒動】。耳にしたことはあるものの、はて、その内容はさっぱり思い出せず。

それにしても、なぁ…。
お寺の御本堂の中に、マネキン人形はイヤだなぁ。
私だけかなぁ。
…いやいや夫もそうでありました。ただ、歴史オタクの夫は当然、伊達騒動が何たるか、スッと頭の中の引き出しを開けるまでもなく、わかるというところが、私との大きな違いです。

No.9

参拝を済ませて。長床と呼ばれる門を出たところで夫が手招きをしています。うん?
「そこ」
ん?
「そこそこ!」
「なあに?」
 …!

「えー?なんで?」
┉黒い鶏が一羽、木の根元にたたずんでいます。囲いなどありません。ただたまたまそこにたたずんでいるだけで、自由に動き回れる状況です。私どもが近づいたところで特に逃げようともせずに、優雅にその空間を楽しんでいるかのようです。


鳩がいるのはわかるような気がします。
鶏?
…飼ってるってこと、ですよね。放し飼い。
よく見るとあと一羽、白い鶏が木の奥に隠れるようにたたずんでいました。

Google先生にお聞きしたところ、実は神社と鶏の関係は実は深いようでありました。

【天照大御神様(あまてらすおおみかみさま)】が天の岩戸に御隠れになられて世の中が真っ暗闇となった時、人々は困り果て夜明けを告げる「長鳴き鳥」(にわとり)を集めて鳴かせ、天照大御神様が姿をあらわす事となったという古事記の一説があります。

そして、【鳥居(とりい)】は神社の入り口に建つ門でありますが、鳥(にわとり)の止まり木が「とりい」の語源という説 もあります。

ということで、鶏は日本人にとって由緒深い鳥でもあり、神社にとって神聖な場所の神様のお使いの鳥でもあったようです。


さらに、大崎八幡宮境内の西側に「鶏橋」と呼ばれる橋があるそうで。

『毎夜一羽の金色の鶏が橋の欄干で鳴くので、人々が不思議に思い、八幡様へお参りしたところ、
八幡宮に奉納された「鶏の絵馬」から抜け出して橋の方角へ飛んでいき鳴いていたことが分かりました。絵馬に金網を張ると鶏は鳴かなくなりましたが、その夜から雨が降り続き間もなく大洪水が起こってしまいました。人々は毎夜鳴いていたのは洪水を知らせるためであったのだと知り、橋の名前を「鶏橋」と名付けました』という話があるそうです。

ということから、大崎八幡宮さんとはいろいろご縁がある鶏。
とはいうものの境内に居るのは実は鶏ではなく少し小型の鑑賞用として飼育されてきた矮鶏(チャボ)なのだそうです。

思いもよらない鶏┉チャボとの出会いにテンションがあがった私どもでありました。

No.8

青い空にどっしりとそびえ立つ、大崎八幡宮さまのお社は美しく、そしてなんとも凛々しい、見上げているだけで安心する心持ちにさせてくださいます。

そして、この大崎八幡宮さんをテレビで見た記憶が間違いでなかった事に、もう少しすると気づくのであります。

拝殿のすぐそば、拝殿から見て左側に大変新しい建物があり、たまたまだそこにおられた神社の職員の方にこの建物は何かと伺うと、祈祷待合の場であるとおっしゃって、では関係ないかと去ろうとすると、
「どうぞせっかくですからお入りになってご覧ください」

はあ。

おお!

羽生結弦の大きな全身を写したポスターが貼られています。ああ、そうか、彼は宮城県出身であったなぁ。
そして…。
ガラスケースの中、立派な屏風の横に大きな絵馬があり、その絵馬に羽生結弦のサインが入っています。
それは私どもが神社で購入して納めるようなものではなくて、特別に作った絵馬であります。
絵馬とはいいながらも絵はなくて、
ただただシンプルに白木のままの絵馬の形をした、普通一般的な絵馬の何倍もの大きさの物です。
そこに羽生結弦のサインがある。
サインと、2017年という年と、漢字で普通に書いた彼の名前、それのみが書かれた絵馬であります。
なるほど、きっとこれだ!

…まぁ、もちろん、大崎八幡宮さんは国宝ですから、他にもテレビが取材して報道される理由など山ほどありましょうが、少なくとも羽生結弦のファンにとって、〝聖地〟の一つになったことは間違いありません。

それにしても。
この年でこれほどの絵馬を奉納するって…、それだけでも羽生結弦ってすごいなぁと思います。
2017年といえば二十三歳。
まぁ、彼のなしえた偉業を思えば、そちらの方がもっともっとすごいのですがね。

No.7

ここ、【大崎八幡宮】さんは平安の昔、東夷征伐に際し【坂上田村麻呂】が、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀したのが始まりであるようです。
その後、室町時代に【奥州管領大崎氏】が自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬したため、世に大崎八幡宮と呼ばれたのだそうです。

大崎氏の滅亡後、【伊達政宗公】が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、その後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀られました。
社殿の造営にあたっては、当時豊臣家に仕えていた当代随一の工匠が招聘され、その手に成った御社殿は豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されており、仙台六十二万石の総鎮守として伊達家の威風と遷宮当時の絢爛たる息吹とを今に伝えており、安土桃山時代の我が国唯一の遺構として国宝建造物に指定されております。

大崎八幡宮の御社殿は、入母屋造りの本殿と拝殿とを相の間で繋いだ石の間造りであり、後に権現造りと言われる建築様式は、外観は長押上に鮮やかな胡粉極彩色の組物(斗きょう)や彫刻物を施し、下は総黒漆塗りと落ち着いた風格を現し、拝殿正面には大きな千鳥破風、向拝には軒唐破風を付け、屋根は柿葺と意匠が凝らされております。

拝殿内部には狩野派の絵師佐久間左京の筆に成る唐獅子の障壁画や大虹梁の青龍、石の間の格天井には五十三種の草花が描かれており、俗に左甚五郎の作と伝わる花鳥動植物や説話風の人物など多彩な彫刻が組み込まれ、全体的に美しい調和をなし、安土桃山時代の文化を今に伝える我国最古の建造物であり、その貴重さから昭和二十七年に国宝に指定されています。

御社殿前の長床と呼ばれる建造物はは創建年月不明ながら御社殿とほぼ同時期の建築として国より重要文化財の指定を受けており、簡素な素木造りは端麗にして瀟洒な佇まいを示しています。
 

…と、いうことであります。
総黒漆塗りに金の飾りは青空に映えていかにも荘厳でありました。


うーん。
私、ここの神社さんのこと、テレビで拝したことがあるかも┉。

No.6

流れる景色は県を跨ぐと確実にその雰囲気が変わっていきます。
流れる景色さえありがたい。
日本という国の美しさ。
山紫水明。
そして紅葉は走るにつれてどんどんと鮮やかな赤や黄色となっていきました。

こんなにも鮮やかな紅葉は私の住まう辺りではもう見られない光景となっていました。温暖化は確実に確実に地球を変えています。
それは今ありがたくもあり、もはや当たり前となってしまった便利な生活を築いてきた人類のあまりにも大きな代償であるのですが、それはその当時には知るはずもなくて┉。そしてその生活なしでは生きられない私たち。

旅はいろいろなことを学ばせてくれます。




…神社仏閣珍道中、今回は道中が長いためになかなか神社さんやお寺さんが出て来ずすみません。



最初の参拝は仙台の【大崎八幡宮】さん。

わが家の、メーカー純正ながらじゃじゃ馬でなかなかキチンとした案内をしないカーナビも今回はスムーズに案内をしてくれ(案内の看板もあったこともあり)、なんなく駐車場に到着いたしました。
あの、鳩が寄り添う八の字の扁額のある鳥居をくぐると、大変穏やかで清んだ気に満ちています。地元の方々がいつもの参拝に、何人も何人も訪れておられ、愛され大切にされている神社さんであることがわかります。鮮やかに紅葉した木々の美しい参道を歩いて行くと┉
ん?
これって┉脇から入ってる?わずかに曲がって行く道の先には、だいぶ下っていく道が見えます。
ま、まあ、行ってみますか。
うーん、末社、摂社が緩やかな下りの道に連なっています。そして中央に明らかに参道があり、さらに下には鳥居が見えます。┉脇というよりは裏。つくづく裏の好きなナビであります。まあ、今回は到達しただけマシであります。

摂社さんの前を頭を下げながら下っていくと、!。長い石段とそれはそれは立派な大きな鳥居が見えます。┉ここだなぁ。仕方ない、すでに境内に入っておりますし、長いこと運転してきてくれた夫にこの長い石段を下ってまた登らせるのはしのびない。ここはお許し願おう、裏の鳥居にも手水舎もありましたし。
と、いうわけで、一つ目の神社さんからすでに珍道中の私どもでありました。

No.5

どこにいても知らない間にうつることもある、地元に居たってかかるかもしれないコロナを怖れておよび腰になっていたのは私でありました。
本来ならば東北はいま、紅葉真っ盛り、観光シーズンまっただ中でありました。 


周りが後押ししてくれました。
「東北なら平気、私なら行くよ?」職場の方たちであり、子供たちであり、姉でありました。


それでも不安感のほうが大きな私。┉何かのときには東北から私が運転して帰って来ることも視野に入れねばなりません。┉私、こんなビビりだったんだなぁ。


いよいよ出立。荷物も詰めこみいざ出発というとき夫から放たれた言葉は、
「最初は運転してもらうから」





┉そ、そうですよね。

「○○から高速に乗るからまずはそこを目指して」




┉高速に、そ、そうですよね。

おそらく、それを前から私に伝えるとそれだけで眠れなくなることを想定しての当日発表だったのでしょう。
えー、でも何年ぶりの高速走行?しかも今回の旅行は私の車でなくて。o(;д;o)

┉手に汗握る運転はな、なんと隣の県まで。
しかもそれは最初からの予定だったそう。全行程運転させたらそれはそれで私の重荷になるだろうと、なんちゃって運転をさせただけ、だったそうで。

結婚三十年ともなると、夫が抱えてくれてるものはこんなにも大きなものとなっていました。


運転を代わって、夫は本当に濡れているハンドルにびっくりしつつ。
実質の旅立ちはここ、○○サービスエリアからでありました。
ごめんね(≡人≡;)

No.4

行く先は東北。

東北が安全だから、ではなく。

東北を候補地に挙げた理由は、
東北に行き、せめて東北の経済をまわす一役を買うことで、あれから九年後の東北に少しでも役に立つことができればと思ったからであります。
そして、鎮魂のために。
東北の神さま仏さまに、東北の方々の無事をお願いするために。
ずっとそうしたかった。

そんなことしかできないけれど。
そんなの自己満足でしかないけれど。



本来ならば夫の永続勤務祝の旅。
良き妻ならば夫の行きたいところを旅先とするでしょう。

ですがこの旅、前日キャンセルをも視野に入れた、コロナ禍におけるもの。できれば夫を落胆させたくはありません。
いくつもの候補地をあげ、そのプランも立ててもらい、コロナの発生状況で決めていくことも条件でした。
移動は公共機関を使わない自家用車によるもの。自ずから国内の、夫が一人で運転可能なところが候補地となっていきます。

その候補地に東北を挙げたのはたしかに私ではありました。
そして、東北はコロナ禍において、発生状況から考えても第一候補地となった。

┉それでもせっかくとったホテルを直前に変更したり。
石橋が壊れていても突き進むタイプだった私は、結婚三十年で夫より保守的な人間になっていました。
直前にホテルを変更する際も、さらには直前に行かない選択肢を提案したときも、大喧嘩。
どこにいても知らない間にうつることもある、地元に居たってかかるかもしれないコロナを怖れて及び腰になっていたのは私でありました。


┉だけどなぁ。
私の仕事もある。

ダメもとで、仕事先の上司に軽く相談をしてみたところ、
「いいじゃないですか。せっかくのご主人のお休みじゃないですか。東北なら大丈夫そうだし。┉さすがに二週間はちょっと無理だけど、ぜひ行ってきてください」と。

たしかに有給休暇が前年度の残りも未消化で残っている私。
行って…いいの?

そうとなったら早速同僚にも相談し、課長にも相談して。
全て快諾していただく事が出来ました。
夫の勤務先との兼ね合いで調整した日程を決め。

第三波がくるまえに。

アルコール消毒液のほか、フェイスシールドとN95のマスク、使い捨てのゴム手袋を用意して。
コロナ禍の旅行で考えられる準備という準備をして。

帰宅後、仕事先にも息子にも濃厚接触しない手段を考えて。



No.3

(記載当時2020年11月。東日本大震災から)あれから九年。まもなく十年になろうとしている今。

今度はコロナという未知の病に全世界が脅かされています。いまだに復興も追いつかぬままの東北、そしてさらには全国の被災地にもコロナは容赦なく襲いかかります。



それでも緊急事態宣言が明け、Go toトラベルという政策が打ち出されました。しかし到底私には関係のないことと思っていた、そんな時。
夫が、
「実は俺、SL休暇のとれる年なんだ」

えっ?
「こんなコロナの時だから無理、かねぇ」 

うーん。無理、かもしれない。
無理だなぁ。
できないよ。
見えないウイルスはいまだにその全貌は解明されず、慢性の呼吸器疾患を持病とする夫は、万が一にも罹患させてはならない。
┉それでもその防ぎようは今なおわからないのだけれど┉。



しかしながら。
そのころ、私たちの住まう地域ではほとんど罹患者の発生がなく、さらにさらに東北地方もまた発生の少ない地でありました。


東北┉。
東北?
もしかしたら┉東北なら可能?
感染対策を考えたら、車、かぁ。
┉私の運転ではほとんど、いや全く戦力にならない。
無理だなぁ┉。

またまた悶々と悩む私。

いままでずっと贅沢もせず、黙々と仕事をし、どちらかというと石橋をたたいてなお考えて考えてようやく(おっかなびっくり)渡るタイプの夫。
高いところが苦手で食べ物の好き嫌いの多い、海外旅行がもっとも向かないのではないかと思うくらいの彼が何ヵ国もの海外出張に出向いて頑張ってきたご褒美であります、SL休暇。

なおかつ私のようなじゃじゃ馬に振り回されてきた彼の人生でのご褒美。

┉どうだろう。


┉。
┉私もパートとはいえ仕事がある。
休めるものかどうか。

そして万が一コロナに罹患したら、仕事先にも、同居の息子にも、あってはならない迷惑をかけることになる。

┉ダメだろう。

No.2

※神社仏閣巡り珍道中・東北路編を、最初の部分から再スタートさせていただきます。時は2020年11月に遡ってまいります。

・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ・*:.。❁ ゚・*:.。




…あの2011年3月の未曾有の震災のとき、何か私のような者でもできることがあればと、日々悶々と思って過ごしてはみたものの行動力もなく、家庭や仕事もと考え、私はただ二の足を踏んでおりました。

そんな時、当時大学生だった息子は大学のご友人たちと共に東北に向かったのです。夜の道をひた走りに車を走らせ、何度も何度も。
┉私は、自分を恥じ、我が子ながらその行動に感謝いたしました。
大したことなどできなかったかもしれません。それでもマンパワーを必要としていた時の東北に向かってくれた息子たちに、私は感謝しておりました。

東北で、心身を込めたボランティアをし一泊、なおかつ東北路を往復運転する息子に、せめて少しでも休んでもらいたい一心で、かける言葉は厳選して
「くれぐれも気をつけて行ってらっしゃい」
「どうかよろしくお願いします」
そして「おかえりなさい」、それだけ。
息子も何も語らない。

社会人になってもそれはしばらく続いておりました。
そんな彼は今、有給休暇すらとれない職場、週に一度の休みもとれないことすらままある職場で頑張っています。






No.1

いつも私のような者の書いた、拙い駄文にお目を通してくださっておられる方々、本当にありがとうございます。

このたび、タブレットの再起不能な故障という、実にくだらない理由から、中断を余儀なくされておりました東北路編を、あらためてコピーして貼り付けた上で、続きを書かせていただこうと思います。

前回のものをお読みいただいた方には、重複する内容が多く、大変ご迷惑をおかけいたします。
なんなら続きから書けば良い、そういったことも考えられはするのですが、あの頃の、あの時の思いをもう一度振り返ってから書きたい。そのように思う思いが強く。
もしかしたら、これを機に初めてお読みくださる方が万が一でもおられるかもしれない事をも考え、手直ししつつ、ほぼ最初からコピーして貼り付けてまいります。

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