神社仏閣巡り珍道中・改 東北路編(ふたたび)
[神社仏閣巡り珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
そんな私が、2020年11月、東北の神社仏閣をお訪ねする機会を得ました。
当時はあの東日本大震災から九年と八か月。
そして、コロナという、まるで未知の病に世界中が震撼した年でありました。
東北の被災地にも、コロナは容赦なく襲いかかり、さらにまた、新たな自然災害が全国のあちらこちらに大きな爪痕を残し、被災地は増えゆくばかりです。
2020年、Go Toトラベルという政策が打ち出された折、私には関係のないことと思っておりました。
もともと出不精な夫婦な上、夫は慢性の呼吸器疾患が持病です。できうる限りの対策をもって、コロナに罹らないようしなければならない者であります。
(とはいえ、未だにそのふせぎようはわからないままなのですが…)
また、当時はワクチンも開発中の段階でありました。
「実は俺、SL休暇のとれる年なんだ」
そんな夫の一言から始まったのがこの東北への神社仏閣巡りのスタートでした。
緊急事態宣言が明け、新規感染者数が減り、Go Toトラベルが出されるところまでに、なってはおりました。
そして…そのころ、私たちの住まう地域ではほとんど罹患者の発生がなく、さらにさらに東北地方もまた発生の少ない地でありました。
東北┉。
東北?
もしかしたら┉東北なら可能?
悶々とする私どもの背中を押してくれたのは、子どもたちであり、こと私の仕事先の上司や同僚の方々でありました。
足りない頭で考えられうる限りの感染対策をして、私たちは東北の神社仏閣を目指して旅に出ました。
今思ってもただ感謝しかありません。
この旅は、東日本大震災で命をおとされた方々へのせめてもの鎮魂のための旅でありました。
残された方々の今後お護りくださるよう祈る旅でありました。
…もちろんそれは私の自己満足でしかないことではありますが。
一度書きかけて、タブレットの再起不能な故障のため、ずっと中断しておりました。
あらためてコピーを貼り付けた上で、続きを書いていこうと思います。
一度お読みくださっていた方は、かなりの重複となりますが、どうかお許しください。
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ここ、【大崎八幡宮】さんは平安の昔、東夷征伐に際し【坂上田村麻呂】が、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀したのが始まりであるようです。
その後、室町時代に【奥州管領大崎氏】が自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬したため、世に大崎八幡宮と呼ばれたのだそうです。
大崎氏の滅亡後、【伊達政宗公】が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、その後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀られました。
社殿の造営にあたっては、当時豊臣家に仕えていた当代随一の工匠が招聘され、その手に成った御社殿は豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されており、仙台六十二万石の総鎮守として伊達家の威風と遷宮当時の絢爛たる息吹とを今に伝えており、安土桃山時代の我が国唯一の遺構として国宝建造物に指定されております。
大崎八幡宮の御社殿は、入母屋造りの本殿と拝殿とを相の間で繋いだ石の間造りであり、後に権現造りと言われる建築様式は、外観は長押上に鮮やかな胡粉極彩色の組物(斗きょう)や彫刻物を施し、下は総黒漆塗りと落ち着いた風格を現し、拝殿正面には大きな千鳥破風、向拝には軒唐破風を付け、屋根は柿葺と意匠が凝らされております。
拝殿内部には狩野派の絵師佐久間左京の筆に成る唐獅子の障壁画や大虹梁の青龍、石の間の格天井には五十三種の草花が描かれており、俗に左甚五郎の作と伝わる花鳥動植物や説話風の人物など多彩な彫刻が組み込まれ、全体的に美しい調和をなし、安土桃山時代の文化を今に伝える我国最古の建造物であり、その貴重さから昭和二十七年に国宝に指定されています。
御社殿前の長床と呼ばれる建造物はは創建年月不明ながら御社殿とほぼ同時期の建築として国より重要文化財の指定を受けており、簡素な素木造りは端麗にして瀟洒な佇まいを示しています。
…と、いうことであります。
総黒漆塗りに金の飾りは青空に映えていかにも荘厳でありました。
うーん。
私、ここの神社さんのこと、テレビで拝したことがあるかも┉。
参拝を済ませて。長床と呼ばれる門を出たところで夫が手招きをしています。うん?
「そこ」
ん?
「そこそこ!」
「なあに?」
…!
「えー?なんで?」
┉黒い鶏が一羽、木の根元にたたずんでいます。囲いなどありません。ただたまたまそこにたたずんでいるだけで、自由に動き回れる状況です。私どもが近づいたところで特に逃げようともせずに、優雅にその空間を楽しんでいるかのようです。
鳩がいるのはわかるような気がします。
鶏?
…飼ってるってこと、ですよね。放し飼い。
よく見るとあと一羽、白い鶏が木の奥に隠れるようにたたずんでいました。
Google先生にお聞きしたところ、実は神社と鶏の関係は実は深いようでありました。
【天照大御神様(あまてらすおおみかみさま)】が天の岩戸に御隠れになられて世の中が真っ暗闇となった時、人々は困り果て夜明けを告げる「長鳴き鳥」(にわとり)を集めて鳴かせ、天照大御神様が姿をあらわす事となったという古事記の一説があります。
そして、【鳥居(とりい)】は神社の入り口に建つ門でありますが、鳥(にわとり)の止まり木が「とりい」の語源という説 もあります。
ということで、鶏は日本人にとって由緒深い鳥でもあり、神社にとって神聖な場所の神様のお使いの鳥でもあったようです。
さらに、大崎八幡宮境内の西側に「鶏橋」と呼ばれる橋があるそうで。
『毎夜一羽の金色の鶏が橋の欄干で鳴くので、人々が不思議に思い、八幡様へお参りしたところ、
八幡宮に奉納された「鶏の絵馬」から抜け出して橋の方角へ飛んでいき鳴いていたことが分かりました。絵馬に金網を張ると鶏は鳴かなくなりましたが、その夜から雨が降り続き間もなく大洪水が起こってしまいました。人々は毎夜鳴いていたのは洪水を知らせるためであったのだと知り、橋の名前を「鶏橋」と名付けました』という話があるそうです。
ということから、大崎八幡宮さんとはいろいろご縁がある鶏。
とはいうものの境内に居るのは実は鶏ではなく少し小型の鑑賞用として飼育されてきた矮鶏(チャボ)なのだそうです。
思いもよらない鶏┉チャボとの出会いにテンションがあがった私どもでありました。
『感仙殿』のみぎてには趣を異にした石塔石碑の並ぶ、いかにも墓所、といった空間がひろがっています。
【妙雲界廟(みょううんかいびょう)】とあります。
【四代藩主綱村】公は、
「前例にならい、御霊屋を建てたならば子孫は大変である。自分が死んだら墓石を建て瓦屋根で覆えばよい」と言う遺命をお残しになり、綱村以後御霊屋は建てられなくなったということでありました。
また、綱村公のお墓はこちらにはなく、綱村公が自ら鍬(くわ)を持って開いたという〖大年寺山(太白区)〗の地に、四代以後の何代かの藩主のお墓が残っているのだといいます。
たしかに見回したところ(失礼なやつであります)四代、そして五代の墓もなく、何代かのお墓がありません。九代と十一代の墓がそこに見て取れました。
【妙雲界廟】は九代藩主周宗(ちかむね)、十一代藩主斉義(なりよし)と芝姫(あつひめ)の墓が置かれる墓所でありました。
戦国の世においても、そしてまた、江戸幕府の支配下にあっても、名のとおる御家の後継ぎ問題等は大変そうであります。
こちら伊達家にあっても歴代の藩主の歴史を追うと、切なくも御家の為の苦労が偲ばれます。
とはいえ、その時代において、一番苦しく大変だったのはやはり庶民。
いつの世もそこは変わらない。
妙雲界廟の参拝をさせていただいたのち、順路にしたがって進むと、階段があります。
階段の途中、ひだりてに御子様御廟という案内板がありました。
こちら『御子様御廟(おこさまごびょう)』へは現在立ち入りが禁じられております。
幼くして亡くなった伊達家の公子公女のお墓で、側室や老女のお墓もあるそうです。かすかに見える御廟は、藩主の華やかな霊廟とはあまりに違って物悲しさをかもし出しています。
まぁこの時代、それはごくごく当たり前なんですが。
仁王門をくぐると、小学生くらいの子どもの小さなグループがいくつか。
自転車でだったり、何か秘密を隠しきれないで思わず笑ってしまって軽く小走りしている子たちだったり…、ここは自然に子どもたちが集うお堂のようです。
うーん、子どもたちが集うお堂ってすっごく好き♡
しかも大声で騒いだりしない子たちばかりです。
お薬師さまのお膝元で遊ばせていただいているという気持ちがしっかりと根づいているのでしょうか。
そして…。
その境内に漂う空気の清んでいてそしてやわらかいことといったら。
なんて居心地のよいところなんでしょう。
ずっといたいと思うくらい。何度でも、毎日でも来たいところです。
┉まあ、引っ越して来る以外、それは叶わないことですがね。
…だから子どもたちが集うんだ。
見るからに優しそうな若いお母さんが、子どもの手を引きベビーカーを押してお参りに来ておられました。
政宗公はなんと素敵な空間をよみがえらせてくださったことか。
【陸奥国分寺薬師堂】さんは、御堂というには大きな建物でありました。大きな瓦屋根のどっしりとした御堂です。その御堂の正面の戸が障子貼り、なんです。
もう、どれだけ私を魅了するんだろう。狛犬さんも可愛らしいし。
そうそう、手水舎はなんとカエル!
カエルの水を使う手水舎は初めてかもしれない。
しかも暗くなってからでもお参りできるようにか、やわらかい灯りで小さくライトアップしています。
そして、御朱印をお受けしようと授与所にうかがうと、若くきびきびと動く、しかも控えめなお坊さまが対応してくださっていました。
御守りの他御数珠入れ等が並んでいます。
かねてから数珠入れを欲しいと思っていた私が数珠入れを見せて欲しいと申しますと、お数珠の扱い方をお教えくださいながら、「こちらのお数珠には(こちらの数珠入れは)少し小さいけれど使えないほどではないですかね」と。
きれいに使いやすく整理された授与所でありました。
子どもたちもお坊さまに話しかけていたりしていて、ここに集う子たちともよい関係を築いておられるようでした。
うーん、すっごく好き。いいなあ。
うっ。
なんという道?!
いやいや国道なんとかとかいう道路の呼び名ではなくて、その道幅にびっくりします。
すごーい!片道四車線!
私には走れないな。
すっごいなぁ、仙台!
東京とも千葉とも神奈川ともちがう、大都会がそこにありました。
ぐ、群馬県、ですか?
群馬県には片道四車線なんてないと思いますよぉ。ましてや群馬県の片田舎の町に住む私たち。
走行している夫も走りづらいようであります。
ごめんなさい、私には絶対走れない。
そんな四車線を、すいすいと車線変更して追い越しをしていく車の多いこと、多いこと!こわいよぉ。
…まるで町のネズミと田舎のネズミのおはなしのようですね。
そして、実はもっと怖かったのが、実は青葉城の大きな大きな石垣。
ライトアップされているのですが、ね ┉蒼、なんですよ。蒼。
青葉城だから、ではなくて、おそらくは医療従事者さんへの感謝とエールの青。
でも、でもですよ?いきなり暗くなりかけた道に蒼い大きな石垣って立派なホラーでしたよ。怖い、怖い。
これはもっと穏やかな暖色のほうが石垣にも合っているし、医療従事者さんも喜ぶんじゃないかと┉。
…怖かったぁぁ。
そして、青葉城。
売店はかろうじてまだ開いていたのですが、辺りはすでに暗い。
伊達政宗公の騎馬像があるはずなのですが┉どこだろう。
…うわぁぁぁ、青い!
青くて蒼い、青葉城。
あとは暗くて見えなかったです。
仙台の夜景はすばらしかったです。
ちなみに、青いライトアップはしばらくは続くもようであります。
私たちはもうおそらく二度とは見ることはないので┉ここにちょっと恐怖体験を書いておこう。(*`艸´)
┉松島基地のすぐそば、だからといって、離陸するブルーインパルスが見られるわけではなかったようで。(;ω;)
そもそも、あの基地の駐車場に行ってしまったタイムロスもあり、すでに離陸をしてしまっていたようでした。
さらには、基地のそばで飛行訓練をおこなうわけではないようで、遥か彼方の空に白煙のあとを見ることができるくらいで、機影すら見えないのでありました。
それでも。
松島基地のそばの土手から、ブルーインパルスの飛行している辺りを無言で見守る人たちのなんと多いことか。誰もが無言で、ただただ空を見上げています。
┉ここ、松島もあの東日本大震災で、震災と津波の大きな被害を受けた地であります。
夫いわく、松島基地も大きな被害を受け、あの大空を駆けめぐるジェット戦闘機も被災したということでありました。
今、初めて訪れた東北の地。
その傷跡を一見みごと修復したかに見えもいたしました。
それは私どもがいわゆる〝観光地〟を訪れていることもありましょう。
ですが┉心に残る傷は消えることなどありません。
ただ、それを感じさせることなく、笑顔で過ごされる方々がそこにおられる。
道路を走っていると、【津浪到達点】と書かれた看板を見かけます。
それは想像していた以上に高くいものでありました。
あの恐ろしい、でも事実でしかない、テレビで放映された津波の映像がよみがえります。
忘れられない方々の住む地で、あの恐ろしい現実、決して忘れることはありません。
私の目に見える場所の復興は進んだかにみえても、生活する場所場所に置いての復興は、こんな一観光客にはわかりもしないこと。
何よりも私たちは、被災された方々の心に残った傷を、忘れてはならないのであります。
あの日を、あの時をむかえるときまでは、歓声をあげ見上げていたのかもしれないブルーインパルスを、今、無言で見上げる人たちと共に見上げて、あらためてその傷跡の大きさを思いました。
そんな思いで見上げていた空から、いつのまにかブルーインパルスが基地に帰還しておりました。
基地内のトラックをゆるやかにまわって、乱れなく整列したブルーインパルスに、私も感動で言葉を失い、いつまでもみつめておりました。
気づくとまわりにいた人たちはほとんどおられず。
寒そうに身を縮める夫がそばに立ち尽くしておりました。
金の襖、金の襖と書いてはおりますが、角のお部屋には松の絵が描かれています。
何畳あるのか、┉魂が抜けたような状態の私はもはやそんなこといろいろまで考えたりすることなどできる状態でなくなっております。
とりあえず、お部屋にまでは入ることはできないので遠くからではあるのですが、
遠くから見ても松の葉の一本一本が生き生きと描かれている絵が描かれているのです。こちらは松の間といい、あとで知ったことによると茶道衆の詰所なのだそうです。はあぁ。
その隣の家来の控えの間は鳥が描かれていました。
近く描かれているもの、遠くに描かれているもの。
様々な立ち姿で描かれていました。
┉建物の中は庫裡からすべて、写真撮影は禁じられておりますので、確認は瑞巌寺さんの公式ホームページに頼ることとなるのですが…。
その鳥の鋭い眼光といったら!
これが実にまたリアルな絵でありました。
はあぁ。
次へ進みましょう。
!…!!。
ここで私は、やはりこちらは間違いなくお寺、寺院であることをしかと実感いたします。
ちょうど、先ほどの外から拝した、御本堂の建物の真ん中、御本堂の中心にあたります。
そう、こここそが本堂の中心であります。
…ひ、光輝いている~ぅ‼
その部屋に至っては、なんと床まで光り輝いております。とはいえ、床が金箔とかではなく、例えるなら┉例えば群馬県桐生市の宝徳寺さんの、あの、床に映す逆さ紅葉のような感じで、その襖の金色が映って、床までが光っているのです。
まばゆいばかりの御本堂。
はあー。
ちなみにこちらは孔雀の間、と呼ばれているそうで、ここで法要が営まれるのだそうであります。
【瑞巌寺】さんについてここまで書かせていただいて┉。
宝物館に安置されている円空の仏さまのお名前を間違えてはならないと、〖瑞巌寺円空佛〗と検索すると、瑞巌寺さんの公式ホームページがありました。
おお、ありがたい!
ありが┉ありが┉ありがた過ぎるページを発見いたします。
瑞巌寺さんの御本堂の中を3Dツワーができるとのこと。開いてみますと、な、なんと!
『瑞巌寺360度映像3D参拝ツワー』ということで、御本堂内を映像で拝することができるではありませんか!
(´;ω;`)
┉ああ、まぁとりあえず合ってる。
合ってることは合っていたけれど、なんと私の書いたものは拙く、しかもなんとあちこちに話が飛んでいることか┉。
ここまで私の拙い駄文でお目汚しをいただきましたが【国宝 瑞巌寺】という公式ホームページをご覧いただき、3Dツワーというところをお開きいただければ、私の伝えたかった美しさはすぐに伝わります。
ちんたらちんたらと私が書いていた世界が本当はどんなものであったかが瞬時にご理解いただけると同時に、その素晴らしさに心洗われること間違いなしであります。
【円通院】さんは伊達政宗公の孫【伊達光宗の廟所】の【三慧殿】が建立され開山されたものであります。
三慧殿は正保三(1646)年に造られました。
伊達政宗公の嫡孫【光宗】は幼少の頃より文武に優れ、その才智は徳川幕府にとっておそるべき逸材であったとされています。
江戸城内において19歳という若さでこの世を去るのですが、その死因には諸説あり、毒殺されたともいわれているようであります。
霊屋はその死を悼んだ父、二代藩主伊達忠宗公により建立されたもので、宮殿型の厨子の中には白馬にまたがる衣冠束帯の光宗像、殉死した七人の像が祀られているのだそうです。
また、その厨子は全面に金箔を施した華麗なもので、装飾の図柄には洋バラ、スイセン、ガーベラ、トランプの図柄などヨーロッパ風の模様が刻まれているのだそうです。支倉常長が持ちかえったものをもととしていて、当時鎖国していた徳川幕府に対し、あくまでも伊達家の霊廟と申し立て、扉を開けることはなかったのだそうで、実に三世紀半も公開されることなく現代に至ったということでありました。
今、その扉は開け放たれて、金色に光り輝く厨子のなか馬にまたがる光宗の像と、光宗を取り囲む像がみえます。
建物自体は奥まったところに建てられ、白木造りの一見質素な建物であります。ですがこちらもまた当時には珍しい本瓦葺きと、こだわりある建物であります。
その一見質素な白木造りの建物と光り輝く厨子との格差に、自慢の将来を嘱望する息子を喪った父の哀しみと怒りを感じさせられた、三慧殿でありました。
さらに進むと、こちらにもまた洞窟群が。洞窟のなかには古びた石碑や石塔、石仏がたくさん安置されています。
さらに進むと見えてくるのは、庭園の中にひときわ存在感をみせる、おんこの木(イチイ科)。
八方睨みの名木と称せられ、樹齢も700年を超えているそうですが、樹勢の衰えを感じさせません。 さらに進むとなんと!
境内には珍しい、バラ園が!
日本最古の洋バラもあるとのことですが、いかんせん、私どもが参りましたのは紅葉真っ盛りの秋。いくつか咲いているバラもあるにはありましたが、かえって寂しさ、憐れを感じさせられました。
また、紅葉した庭が見えてきたところに茅葺きの大きな屋敷のような建物が見えてきます。
瑞巌寺に属する【五大堂】は、道路を隔てた、陸地にほど近い小さな島に建てられています。
瑞巌寺の石標のあるところから東に百メートルほど行ったところが五大堂の入口となっています。
緩やかな登り坂をのぼるとすぐに橋が見えて┉。
見えて┉。
見えてきた橋は、な、なんと!
隙間だらけで直下の海面が見えているではないですか!
あ、あり得ない。
ここを作ったとき木材が不足でもしていたというのでしょうか。
夫がそれはそれは嬉しそうに、
「渡れる?頑張ってね。笑。」
五大堂に続く橋。
【透かし橋】というのだそうです。
江戸時代中期の頃からこうした造りになっていたと云われているとのこと。
これは、五大堂の参詣する時、身も心も乱れの無いように足もとをよく見つめて気を引き締めるための配慮、とされているのだそう。
┉もうしわけありませんが、このような橋ではかえって身も心も乱れるのでは?
少なくとも私は確実に確実に乱れます。
ようやく渡り終わり、お土産店がありました。心引かれるけれどまずはお参りを。┉また橋だ。
嘘でしょ?!
手すりにつかまろうが、下を見ないようにしようが、海の上であることはどうしても視界に入ります。はああぁ。┉。
まあ、そうは言っても吊り橋ではないので揺れはしないので、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
だいぶへっぴり腰ではあったかとは思いますが、なんとか五大堂のある島へと到達いたしました。
夫がそんな私の勇姿を画像に残さなかったのは、┉よほどひどかった、ということなのかなぁ。
この日の東北も、季節外れのあたたかさ。
五大堂のあるこの小島は風一つない穏やかな心地よいところでありました。
潮のかおりもせず、橋がなければここが島であることを忘れてしまいそうでありました。
ここ、五大堂は坂上田村麻呂が毘沙門堂を建てたのがはじめであったといいます。
その後、慈覚大師円仁が一堂を建立して五大明王を安置したことから五大堂と呼ばれるようになったのだそうで、現在の建物は政宗公が建立したものだということであります。
【中尊寺】とは一つの建物を指す名称ではなく、「中尊寺」本坊内本堂の他、
十七の塔頭及び小院(大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)と諸堂からなる山全体を指す総称。
天台宗の東北大本山でもある。
山内には金色堂を始め、不動堂、旧覆堂など由緒と趣のある諸堂が点在する。
、┉とあります。
ほおうぅ。
そんなのもあったんだぁ。
いやいや、とりあえずみんな観てきた┉参拝してきたはずなんだけどなぁ。うーん、こんなにあったんだ。
そして。
弁慶の顔出し板のあるところからほど近いところにあるお堂は、ここに記述のない【弁慶堂】でありました。
古くは〖愛宕堂〗と称されていたとのことで、明治以降、弁慶堂と呼ばれるようになったとのこと。
御本尊は【勝軍地蔵】。
あれ?、どこかの愛宕神社さまの拝殿にも勝軍地蔵さまがお祀りされていると聞いたことがあったような┉。
愛宕さまと勝軍地蔵さまって何か関係しているのでしょうか。
お堂の中央に安置されていたお厨子の扉は開けられていたのですが、そのときには白馬さんしか見えなくて、後から勝軍地蔵さまがお祀りされていたことを知ります。
向かって左側にのお堂の端を守り、隣におられる義経を守るように立つ大きな大きな弁慶像。
隣におられる義経は椅子に座ったお像でありました。
弁慶さまの像は武装して、眼光鋭く今なお義経を、このお堂を守ろうとしているかのようです。
向かってみぎてには何体かのお仏像がおられるようです。
御本尊の前には護摩炉があるようです。
こちらもまた、あの神仏なんちゃらのせいで愛宕堂から弁慶堂に名前が変わったのでしょうか。
静かな、木々のなかに建つ、落ちついたお堂です。
かつて愛宕堂であったことから、阿吽の獅子がお堂を護っておられます。
今なお武装して常に周りを見張る弁慶さん。
弁慶堂という名に変えられて、なにやら困惑されてもおられるようにも見えました。
中尊寺貫首さまは、
「中尊寺大施餓鬼会の「縁の綱」は、江戸時代の施餓鬼会が厳修された当初より大塔婆に結ばれていると伝えられています。
この「縁の綱」は、御本尊のお釈迦様と三界萬霊とのご縁を結ぶことはもちろんですが、特に、秀衡公の家臣である照井高春氏の志を受けて、命と引き換えに照井堰を大改修し、人々の命の水を守りぬいた大崎掃部左衛門夫妻の有難いご縁を忘れることの無いように結ばれた、鎮魂の願いの込められた「縁の綱」であると私には思えました。
そして、私たちが今日多くの有難い縁によって生かされていることを忘れることなく、これからも心を込めて供養していくことが、私たちのかけがえのない人生をしっかりと歩んでいくことになるのだと思いました」
と述べておられます。
多くの、ありがたいご縁。
よくよく噛み締めて、
『朝は希望に起き、
昼は努力に活き、
夜は感謝に眠る』
そんな生き方をしていきたい、していけたらと切に思う、十一月最後の日、でありました。
この【瓣財天堂】。御堂を一周するようにぬれ縁が設けてあり、さまざまな秋の紅葉の景色を御堂の周りをまわりながら、楽しませていただくことができるのです。
なんともまた贅沢なことであります。
…これは秋の景色。
季節季節でその顔を変える景色を、雨の日は雨の日の顔、雪の日は雪の風情を拝見することができたなら、ここだけで景色の、景観の世界遺産をかたる事ができる気がいたします。
名残り惜しく、いつまでもここにいたいような気がいたしましたが、それはまわりの方にもご迷惑をおかけしますし…とはいえ、こんな素晴らしい秋の日でありましたが、平日であるためかあまり参拝の方は多くはありませんでしたが。
いやそれ以前に、【中尊寺】といったら【金堂】というくらいの、あの『金堂』にまだ行っておりません私たち。
ずっとここで過ごしているほどには時間の余裕もありません。
後ろ髪を引かれる思いで、【瓣財天堂】さんを後にしたのでした。
白山神社は中尊寺鎮守の一つで、境内の北方にあります。
現存する能舞台は、嘉永六(1853)年、に旧伊達藩主・伊達慶邦によって再建・寄進されたものといいます。
経済危機下での奉納であったため、当初、鏡板の松は描かれませんでしたが、その後昭和二十二(1947)年に能画家の松野奏風により、山内円乗院の老松を写して描かれました。
橋掛り、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本唯一とされ、平成十五(2003)年に国の重要文化財に指定されたといいます
。
平成二十八(2016)年に茅葺き屋根は葺き替えられたといいます。
歳月に洗われたような素木の美しい能舞台が老杉の木立に溶け込む様は能が演じられていない時でさえ例えようない風情があります。
演能の際には舞台の奥まで西日が射し込むため、面や装束が美しく映えて独特の雰囲気を醸し出すのだといいます。
この能舞台を使った能舞を天正十九(1591)年に豊臣秀次と伊達政宗が観覧したという社伝が残っているとされますが、平泉に能楽が伝えられたのは伊達藩の時代と考えられているといいます。
伊達藩は、金春流をお抱えにしていましたが、やがて喜多流に転向しました。また、市井では、中尊寺の僧を中心に地元の人々が稽古を受け、謡や舞を伝承してきました。
現在、春と秋の藤原まつりに白山神社に奉納される「中尊寺能」は、シテ・ワキ・囃子・狂言方を中尊寺の僧が、地謡を地元住民が勤めるという、全国でも珍しい演能方式によって行われているといいます。
毎年八月には『中尊寺薪能』が上演され、『春の【藤原まつり】』に行われる中尊寺能は『御神事能』と呼ばれ、中尊寺の僧による古式ゆかしい『古実式三番(こじつしきさんば)』に続いて能が奉納されるそうです。
国の指定文化財でもある古実式三番は、最初に「開口」として翁(白式尉)が登場し、中尊寺周囲の山河秀峰を称え、寺のいわれなどを説きます。次の「祝詞(のっと)」で顔を隠した僧が祝詞を唱え、「若女(じゃくじょ)」で若女面をつけた僧が鈴と扇を手に舞います。そして最後の「老女」で老女面をつけた僧がやはり鈴と扇を持って舞うという流れで行われ、囃子は笛、小鼓、太鼓が入るのだそう。
なお、この御神事能は明治九年に天皇が天覧されています。
不遜にも明治天皇のご覧になられたという場所に立って見ました。
【毛越寺】さんの『寺伝』によると、
嘉祥三(850)年、【慈覚大師】が東北巡遊のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなったといいます。
ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちておりました。
慈覚大師は不思議に思ってその毛の跡をたどられますと、前方に白鹿がうずくまっておりました。
慈覚大師が近づくと、白鹿は姿をかき消し、どこからともなく、一人の白髪の老人が現われ、「この地に堂宇を建立して霊場にせよ」と告げたといいます。
慈覚大師は、この老人こそ【薬師如来】さまの化身と感じ、一宇の堂を建立し、【嘉祥寺】と号しました。これが『毛越寺』の起こり、とされます。
慈覚大師円仁が開山し、藤原氏【二代基衡(もとひら)】公から【三代秀衡(ひでひら)】の時代に多くの伽藍が造営されました。
往時には堂塔四十、僧坊五百を数えたといい、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。
しかし奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失してしまいます。
現在、庭園や基壇、礎石等の遺跡は良好な状態でほぼ完全な状態で残されており、毛越寺のシンボルともいえる【大泉が池】は復元整備され、平安時代の浄土庭園を今に伝えています。
『国の特別史跡』・『特別名勝』の二重の指定を受けており、また平成二十三(2011)年に、この『毛越寺』や『中尊寺』など五つが、【平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群】として世界遺産に登録されています。
平成元(1989)年に平安様式の新しい御本堂が建立されています。
(続き)
毛越寺さんの伽藍は中尊寺をしのぐ規模であったようですが、当時の建物は全て焼失しており、ただその基壇、礎石等の遺跡が良好な状態で残されておりました。
『大泉が池』と呼ばれる大きな池が広い境内の中央に復元整備され、平安時代の浄土庭園の面影を今に伝えています。
五月にはこの池に山からの水を取り入れるための水路『遣水』において【曲水の宴】という平安時代の宴を再現するといったイベントもあるようです。
遣水に盃を浮かべ、流れに合わせて和歌を詠む、平安時代の優雅な歌遊びです。
男性は衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)、
女性は袿(うちぎ)、十二単という装束を身にまとい、
水辺に座り、和歌を詠み短冊にしたためる、というまさに平安絵巻を実現する儀式のようです。
若女による舞も奉納されるようです。
ただ、私どもが参りましたときは、秋。
紅葉の美しい頃ではありましたが、水辺はどうしても寒々しく、夫に無理やり歌を詠む男性を演じてもらってはみたものの、いかんせん普段着のおじさん、そんな平安の雰囲気など醸し出せるはずもなく。
ただ…景色は美しかったです。
毛越寺さんの総面積は33.000平方メートル。
とにかく広いのです。
比較対象としては、甲子園球場が挙げられるようです。
甲子園球場より少し狭いくらい、なのだとか。
ただ…かつてあった堂塔四十、僧坊五百、そのほとんどは失われたまま。
美しい日本庭園、というにはやはり少し物足りない。
かつては池に平安時代浮かべられていた舟を再現したものが浮かべられていたこともあったようなのですが、それもこの時は無く。
お寺の境内にいるという感覚があまりわかないのです。
広い池のある庭園という感が強い。
広い境内が侘しさを誘います。
…ここにかつての伽藍があったなら…。
大きな平安様式の御本堂は平成元年に建立されたもの。
藤原氏のいない今、かつてあった堂塔を再現するのはとうてい不可能でありましょう。
かといって。
侘しさをおぼえはするものの、決して嫌いではないのです。
一つ一つの御堂はそれぞれ身の引き締まる思いのするものであり、ゆったりと自分のペースでお詣りさせていただけます。
ただ、…いかんせん広い。
広い境内に点在しているので、そこがなんとも侘しいだけ、なのです。
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