【掌編】燃えゆく蝉

レス1 HIT数 766 あ+ あ-


2021/08/11 17:41(更新日時)

 今朝も少年は吐いた。朝食がまずいのだ。少年の母は爪ばかり気にする。毎朝切る。指の肉なんぞ知らぬかのように切る。だから少年の食うパンにはいつも血が染みている。まずいでしょう、ごめんね、ごめんね、しかしまずいと答えれば母は次にどこを切り始めるか見当もつかない。代わりに少年は吐く。通学の途中、同じ公園の同じ便器に吐きつづける。
 個室を出る。黴や尿石に翳る便所の中では、水垢だらけの鏡でさえ輝いて見える。少年はそこに顔を映した。少年の歯は胃酸で溶けつつある。通学路に戻る。少年は死のうかなと思う。それはしょっちゅう思いつくことだった。放っておいても眠るまでには必ず現れるアイデア。実際少年には絶望ぐらいしかすることがない。学校へ着いても、窓際で、自分よりよっぽど生き生きと動くカーテンに顔をはじかれながら、等速直線運動のグラフを書く教師の手を目で追うこともなく、少年は呼吸して絶望するだけだったのだ。
 呼吸して絶望するだけ。
 呼吸して絶望するだけ。
 呼吸して絶望するだけ。
 夕方になった。少年は帰らねばならない。どこへ? 血の付いた夕食の置かれた家へ。今日はハンバーグだから血の味がまぎれる。
 少年は朝来た道を戻る。舗装されたばかりのアスファルトが人間の肌のように湿った黒い光を含んでいる。歩道脇の鉄柵が固く直立するその下で、かずかずの雑草が追いかけるようにしてまっすぐに伸びている。街路樹の枝を風が通り抜ける。夏の空気が熱を帯びて一つの動物のように少年を包み込んで体温にはたらきかける。何もかもが活動している。意志を感じずにはいられぬほどに、そこに存在してある。世界はこんなにも確かなのに、自分だけがこんなにもあやふやなのだ。少年は溶けかけた歯を触る。いよいよ死のうと思った。少年には他に確かな予定などなかった。
 車道を渡る。どうやって死ぬか。速くて痛くなくてスムーズである方がよい。予定はさっさと楽に済まされるべきだからだ。
 少年は拳銃なら最高だと思った。ちょうどそのときだっ



                          たから少年は本当に胸を撃ち抜かれたかと錯覚した。
 羽音。
 蝉が少年の胸に激突していたのだ。驚いて動けぬうちに蝉は地面に落ちていく。蝉は死にかけていた。蝉は死んだ。
 少年は蝉を見ていた。たおれた蝉の露わになった腹は空と同じ色をしていた。蝉はすぐに死ぬと少年も知っていた。全く黄昏るあの空のように蝉の腹は赤く染まっていた。死してなお燃えつづける蝉の腹。なんのために?
 少年はふと辺りの街路樹を見回す。これから、この木のひとつひとつに蝉が満載する。なんのために? 少年の目に周りの家々が映る。この街にこの国にこの、星に、満載された人間たち。なんのために? 宇宙のたった一つの点であるこの星の、あまりにも稠密な世界。なんのために?
 本当は、少年は。ほんとうはみんな、死ぬことだけが決まっていたのだ。少年は溶けかけた歯を触る。終わることだけが決まっていたこの場所で、燃えゆく蝉、爪を切る母、直進する草木、ただ一心に、光り輝くすべてのもの。
 なんてばからしいんだろう!
 それは少年が出会ったどんな理不尽よりも巨大な茶番だった。もしこれ以上まともな世界に生まれついてしまったら、この少年は世界に押しつぶされないでいられたのだろうか?

No.3349717 (スレ作成日時)

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No.1

 少年は予定を延期した。あの蝉が死ぬまで生きていようと思った。もちろんあの蝉は永遠に動かない。ただその姿だけが、少年の神経を駆けぬけ、少年の中で輝きつづける。




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