あいたい
自分の眼に映ったものが信じられなくて、俺は眼を三回眼をこすった
それでも彼女はいた
俺が一番愛した女だ
最後に会ったのは何年前だろう
すぐには計算できなかった
そのぐらい、彼女は昔と変わっていないように見えた
14/04/21 17:34 追記
書き散らしてる感じで、伏線もグダグダ、誤字脱字も後から気が付く有様です。
まぁ登場人物の性格もいい加減な性格なので(笑)
あまり細かい所はお気になさらず、楽しんで読んでもらえると嬉しいですm(_ _)m
14/04/23 11:47 追記
感想スレ
http://mikle.jp/viewthread/2086854/
よろしくお願いします
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無事ラストを迎えました。
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http://mikle.jp/viewthread/2086854/
なぁ、ゆき
なぁに
頼みがある
なぁに
俺、孤独死したくないなって、思うんだ
いやだ、孤独死なんて言わないで
俺は子どももいないし
うん
だから、ゆき、年取っても俺と一緒にいて
ずっと一緒にいるよ
絶対に、俺より先に死なないで
松井さんが先に死んだらイヤ
ゆきには息子がいるじゃないか。俺にはゆきしかいないんだ
昴も大人になったら、どっかに行っちゃうもん
そしたら、俺と一緒に暮らそう
うん
二人でずっと
うん
ずっとだよ
そうしたら、もう会いたいって言わなくて済むのね
一緒にいるからね
それまでは、会いたいって言ったら、会ってくれる?
俺もすぐに会いたくなるから、会いに行くよ
☆☆☆了☆☆☆
☆☆☆☆☆
「あのね、私、本当はあんまりエッチするの、好きじゃなかったの」
ゆきはベッドで座ってタバコを吸う克己の横で頬杖をついて言った。
「どうして?」
克己はタバコをくわえたまま冷蔵庫へ行くと、ペットボトルのお茶を取り出し、ゆきに渡した。
「昔は、エッチするとなんか安心する気がしただけだったのかも。昴が生まれてからは、そういうことがめんどくさくなっちゃって」
「セックスレスってやつ?」
克己はゆきからお茶を受け取って、自分も飲んだ。
「そこまではいかなかったと思うけど、私はあんまり好きじゃなかった」
「元彼も元亭主も、気の毒なこった」
克己はタバコを灰皿に押し付けると、ゆきを引き寄せた。
「なんでそんな話するんだよ」
克己はゆきの過去の男たちに嫉妬を覚えて、不貞腐れたように言った。
「だって…松井さんとエッチすると、何度でも、したくなるから…」
ゆきはそう言って布団に潜り込んだ。
「…それはおねだり?」
克己はゆきから布団を剥ぎ取った。
「…そう、かも」
「かも?ダメだよ、ちゃんと言わないと」
「もう一回、して?」
ゆきはそう言って克己に両腕を伸ばした。
「明日は会社休みだし、何度でも」
克己はそう言ってゆきにキスをしたが「何度もは、もう無理か」と苦笑いした。
「体力続くとこまでなら」
「松井さん」
ゆきも笑いながら自分から克己にキスをした。
「好き」
「好きだよ」
☆☆☆☆☆
克己がゆきの反応に合わせて動くと、ゆきは克己に全身で絡みついて登りつめた。
克己はゆきを抱きしめた。
「ゆき…すごいね」
「だって…どうして…こんなになるのか、わからないの」
「もっとだよ」
克己はゆきと繋がった部分に手を伸ばし、ゆきの敏感な部分を指で撫でた。
ゆきは「ダメ」と言いながら、体を震えさせた。
「もっと感じて」
「…松井さんだけなの…こんなになるの…」
「ゆき」
ゆきが一際大きなうねりを迎えた時に、克己も堪えきなくなり、ゆきを抱きしめた。
「ゆき、好きだ」
何度も口にした言葉が更に克己自身を煽る。
ゆきが克己を何度も呼びながら、絡みつける脚が、拍車をかける。
再び堪えきれなくなって声を上げたゆきと一緒に、克己も登りつめた。
☆☆☆☆☆
松井さんに抱かれている
嬉しかった
好きだと言うと、好きだと言ってくれる
昔のように、これで最後と思わないでいい
松井さんが、私の体を弄ぶ
俺の物だと私に言う
私は、なにもかも、松井さんに捧げたくなる
松井さんが私を抱きしめる
私の体は、どんな小さな動きにも反応する
会いたかった
好きだと言って、キスしたかった
抱きしめて欲しかった
今までで一番好きな好きな人だから
☆☆☆☆☆
ゆきが再び俺の腕の中にいる
消えてしまってなんかいなかった
俺が触れると、ゆきが声を上げる
俺がゆきの中で動くと、ゆきの手足が俺に絡みつく
ゆきは俺の物だ
やっと、俺の手に取り戻した
ゆきの体が柔らかく俺を受け入れる
ゆきは俺が一番愛した女だ
昔も今も
これからも
「…うれしい…」
「好きだ」
「私も…松井さんが、好き…」
「もう、誰にも渡さない」
「うん」
「俺の物だから」
「松井さんも、私だけのもの…?」
「そうだよ。これからずっと」
「松井さん…私…昔からずっと、松井さんが好きだったの…」
「俺も…ゆきのことが、好きだった」
「これからも、ずっと好きでいていい…?」
「ずっと、好きでいて欲しい…」
「いっぱい、愛して…」
「愛してるよ」
「ダメ…」
「ゆきのダメは、もっとして、なんだよな」
「違う…」
「素直じゃないな」
克己は笑いながら、ゆきの下着を脱がせていった。
「松井さんが私に触れると、私、おかしくなる…」
「おかしくないよ」
「だって…」
「こうして欲しかった?」
克己の舌と指が、ゆきの一番敏感な部分で容赦なく動きわまる。
「ダメ、ダメ…!」
ゆきは大きく息を吸い込み、電気に打たれたように体が痙攣した。
その間も克己の舌も指も止まらない。
ゆきは声にならない声をあげながら、克己に手を延ばした。
「…松井さん…松井さん…」
克己は顔を上げてゆきを見下ろした。
「ゆき」
「ダメ…こんな……私…恥ずかしい…」
「可愛いよ」
「だって…」
「恥ずかしいなんて言えなくなるくらい、もっと感じて」
「もう、ダメ…」
「俺も散々焦らされたから、今度はゆきの番なんだ」
克己はそう言うと、ゆきの右足を自分の肩にかけ、ゆきの敏感な部分を指でなぞった。
「ほら、もっとしてって言わないと、もっと恥ずかしいことするよ」
「意地悪…」
「15年分だよ」
「…あっ…も、もっと、して…」
「こうすると、何回でもゆきはおねだりするようになる」
克己が指をゆっくりと溢れかえった中に抜き差しする音に合わせて、またゆきの体が大きく震えた。
「まだ頑張るの?」
克己がゆきの唇から指を入れると、ゆきは荒い息をつきながら、指に舌を絡めた。
「だって…久し振りだから…上手くできない…かも…」
「そんな言い訳して…ゆきが言わないと、ずっとこのままかもしれないよ」
「イヤ…」
「ここに入れて、って言って」
「あっ…いっ、入れて…」
克己はゆきを抱き上げて、ベッドまで運んだ。
「松井さんは平気でこんなことしちゃうんだから…。普通お姫様抱っこなんて、ホントにやる?」
ゆきはベッドに降ろされながら笑った。
「一度やってみたかったんだよな。細い女じゃないと無理だから」
克己も笑った。
「ゆきと、色んなことしたいよ」
「色んなこと?」
克己はゆきの顔にかかった髪を指でそっと避けた。
「うん。一緒に買い物に行ったり、ゆきの行きたいところでデートしたり」
「ゴハンも作ってあげたい」
「一緒にゴハン食べて、それからこんなことしたい」
克己はゆきが閉じていた脚の間から手を入れた。
「これからずっと」
「ずっと?」
「ずっと」
「ずっと一緒だ」
克己の指が脚の間から下着の中に入った。
「ゆきにこんなことできるのは、俺だけだ」
「うん…」
「こんな顔を見られるのも、俺だけだ」
「うん…」
「これからずっとだ」
「うん…」
克己の指が動いて、ゆきは堪えきれずに声をあげた。
「そう、その顔が、俺の堪え性をなくすんだよ」
そう言って克己も自分の着ている物を脱いだ。
「もっと焦らして、ゆきに色んなこと言わせたい」
「言わない…」
「これでも?」
克己がゆきの脚を開き、下着の上から口をつけると、ゆきは「ダメ」といいながら腰を浮かせた。
「俺は覚えてるよ」
克己はゆきのニットの下でゆきの肌を撫でながら言った。
「ゆきのどこにキスしたら、ゆきがどうなるか」
克己の手が器用にゆきのニットを剥ぎ取った。
「じゃあ、これも覚えてる?」
ゆきは自分の首元に手をやった。
襟首の詰まったニットの下に隠れていたネックレスが光った。
「これ、俺が初デートであげたやつか」
「そう」
「ずっと持っててくれたんだ」
「うん。ずっと大事に仕舞ってた」
「俺もよく覚えてるよ。そう、ネックレスの辺りでこうすると、ゆきがどうなるか…」
克己がネックレスに沿って舌を這わすと、ゆきは克己の首に腕を絡ませ「ダメ…」と言った。
克己の片方の手は、ゆきの細い腰にかかっている。
「またこんな脱がせにくい服着てる」
そう言いながら、克己はゆきのスリムパンツからゆきの足を抜いた。
「相変わらず細いな。ホントに子ども産んだの?」
克己はゆきのお腹から脇を両手で撫でた。
「もう、恥ずかしいから暗くして…?」
ゆきが上半身を捻って克己の眼から逃れようとすると、克己はゆきに覆い被さってキスをした。
「電気は消さない。ゆきが見えなくなるから」
「もう、そんなとこも変わらない…」
克己の手が下着の間から胸に滑り込み、ゆきは小さく「あ」と声をあげた。
「思い出してきた?」
「うん…松井さんが、Sだったこと…」
「そう、ゆきにだけね」
克己の手が下着の中で動き、ゆきはまた声をあげた。
克己とゆきの唇が重なった。
一度すぐに離れて、克己は慈しむようにまたゆきに唇を重ねた。
「どうしよう…」
「何が?」
克己は一瞬でも離れることが惜しいかのように、唇を重ねたまま聞き返した。
「ホントに、私、ずっとこういうこと、なくて…昔みたいに若くないし…」
「だから?」
克己が態勢を変えないまま、ゆきが着ているニットの裾に手を入れようとすると、ゆきが「待って」とその手を抑えた。
「お風呂…お風呂入りたい」
「ダメ」
「だって」
「ダメだよ。俺から離れたらダメだって」
「どこにも行かないって言ったのに…」
「そうだよ、どこにも行かないで」
「もう…」
ゆきが克己の耳元で溜息のように囁いた時に、克己の手はゆきの服の中に滑り込んでいた。
「ずっと一緒にいたい」
克己はそう言って、ゆきに顔を寄せた。
「ストップ!えーとえーと、お腹が空いたの」
ゆきがそう言い、克己はガクッとなったが、次の瞬間、笑ってしまった。
「15年待ったんだから、飯食う時間くらい、一瞬だよな」
克己とゆきは、コンビニで買った弁当を一緒に食べた。
「あれ?松井さん、お酒飲まないの?」
ペットボトルのウーロン茶を飲む克己を見て、ゆきが言った。
「今日は飲まないよ」
克己は一足早く弁当を食べ終わると、タバコに火をつけた。
「なんで?」
「聞きたい?」
克己が意味ありげに笑うと、ゆきは克己が含みを持たせたことに気がついて、慌ててまた弁当に箸をつけた。
「ごちそうさまでした」
ゆきが食事を終えて、テーブルの上を片付けると、克己はソファーに横になってテレビを見ていた。
「松井さん?」
返事がないのでゆきが膝をついて覗き込むと、克己がゆきの腕を取ってソファーに押し倒した。
「松井さん!」
「古典的な手を使ってみた。こうでもしないと、ゆきがのらりくらりと逃げそうだから」
ゆきは真っ赤になった。
「だって、私、あの頃の真似してみたのはいいけど、よく考えたら、離婚してずっと恋人もいなかったし、そもそも昴が生まれてから…」
「生まれてから?」
克己はニヤニヤ笑いながらゆきを見た。
「松井さんは相変わらず…」
「相変わらず?」
「もう、いじめないで」
「やっぱりこういう時のゆきは可愛すぎて、ダメだ」
克己はゆきの耳元に口を寄せた。
「もう、待たないよ」
☆☆☆☆☆
「部屋は広くなったのに、やっぱり何にもない」
ゆきは克己のアパートの部屋に入ると、そう言って笑った。
転職してすぐに住み始めた克己の部屋は、ゆきの言う通り、物があまりない。
1LDKの部屋にあるのは、リビングにテレビ、テレビの前に二人掛けのソファーとローテーブル、寝室にはクローゼットがあるので、家具はベッドしかない。増えたのはテーブルの上のノートパソコンくらいだった。
駅からアパートに帰る途中で、克己とゆきは飲み物や食べ物を買った。
「ゆき」
克己がコンビニの袋を置いて呼ぶと、ゆきは少し緊張した様子で「はい」と答えた。
「俺、明日は風邪ひくことにする」
克己が言うと、ゆきは一瞬わけがわからすに首を傾げたが、すぐにプッと吹き出した。
「会社サボるの?」
「明日はアポがない。こないだまでクソ忙しくて、代休もたまるばかり。風邪も引くだろ?」
「コメントできません」
ゆきはクスクス笑った。
克己はゆきの手を取って引き寄せた。
ゆきは逆らわずに体を寄せた。
「ゆきがやっと俺のところに来てくれたのに、仕事なんかしてられないだろ。ゆきが休みだから、俺も休む」
「駄々っ子みたい」
「俺は年齢だけオッサンで、中身は昔と変わってないんだ。昔も今も、欲しい物を我慢できない、ガキみたいな男なんだ」
克己はゆきを抱きしめた。
「昔も今も、俺はゆきが好きだ。俺だって、怖かったよ。昔はゆきを手放したくないのに、やることは適当で、今も適当なところは変わってなくて。ゆきがまたいなくなったらって思うと、怖くて何もできないんだ」
ゆきは克己の背中に手を回して力を込めた。
「もう、どこにも行かない…。だから松井さんも、私のそばにいてくれる…?」
ゆきは俺を見上げて、やっぱり少し困ったような顔をした。
「私、ずっと松井さんに会いたかった。でも怖かった。昔も今も、いつか松井さんに嫌われるんじゃないかって思ってた。15年前は、会えなくなれば忘れられると思ったの」
ゆきの手が、少し冷たくなったような気がして、俺は握る手に力を込めた。
「ずっと松井さんのこと、忘れなかったよ。他の人と結婚して幸せだった時期も、松井さんが一番好きな人だったって思ってた。でもそれは、好きだって言えなかったから、自分のものにできなかったから、忘れられなかっただけなんじゃないかって。
だから、好きだって、言葉にするのが怖かった」
ゆきは微笑んだ。
「言葉にしたら、また会えなくなっちゃうんじゃないかって」
風が少し冷たい。
ゆきは寒くないかと、心配になる。
「だから、松井さんに会いたくて仕方なかった頃の私がいた場所に行ってみたくなったの」
俺はゆきを抱きしめていいんだろうか。
寒くないか、と肩を引き寄せていいんだろうか。
「あのね、昨日から連休で、昴が仙台に遊びに行ってるの」
ゆきはそう言って俺の袖を握った。
「松井さんちに連れてって…」
あぁ、やっぱりゆきは昔と変わらない
茶色い髪と、お揃いのように色の薄い瞳
大きな眼、細い体
透き通りそうな白い肌
そして、時々見せる困ったような表情
何歳になっても、ゆきは可愛い
あの夜、ゆきは激情に任せて、傷ついた心を言葉にして、絞り出すように叫んだ
あれもゆきだ
15年前にキスした、抱いた、俺の前から消えたゆき
再び俺の前に現れたゆき
結婚に破れようと、子どもがいようと
どんなに醜い感情を抱えていようと
それがゆきだ
俺が一番愛した女だ
今やっと
俺の手が届くところにいる
勇気なんかいらない
俺もただ歳とってオッサンになっただけで
何も変わってなんかいないんだから
「ゆき、パチンコなんかやるんだ」
歩きながら俺が言うと、ゆきはニヤリと笑った。
「それこそ15年ぶりくらいかな。昔はよく遊んでたの。あっちのホールとか、常連だったのよ」
「高校生みたいな顔してたのに、そんなことして遊んでたんだ」
「そうよ。松井さんが知らなかっただけ。あの頃はバイトして、パチンコして、朝までお酒飲んでカラオケして、遊び呆けてたの」
「バイトして彼氏とデートしてたことしか知らなかったよ」
土曜の夜の上野は、人が多い。
飲み屋、洋服屋、食べ物屋。
狭い道を歩くと、人を避けるのが大変だ。
「私がバイトしてたレストラン、違うお店になってたね」
ゆきは飲み屋の店先の看板を避けながら言った。
「そうだな。15年経つと、店も入れ替わるもんな」
ゆきにサラリーマン風の男がぶつかりそうになったので、俺はゆきの手を取って引いた。
「あっちから行こう」
俺はそのままゆきの手を引いて、首都高下の方へ向かった。
「相変わらずこの辺は割と静かだね」
首都高が近くに見える辺りまで来ると、ゆきはホッとしたように言った。
「昔はどんな人混みでも、バイトに遅刻しそうだと走れたのに、最近あまり人混みに出ない生活してたから、お登りさんみたいになってた」
ゆきはそう言って笑った。
「どうしていきなり上野になんか来たんだ?」
まだ繋いだままの手に少し力を込めると、ゆきは俺を見上げた。
「松井さんと初めて会った場所に行ってみたくなって、仕事終わってそのまま来ちゃった」
「どうして?」
「勇気が出るかな、って思って」
ゆきはそう言って、俺の手を握り返した。
☆☆☆☆☆
俺は土曜の夜7時ごろ仕事が終わり、駅のホームで電車を待っていた。
「お?」
ポケットでスマホが振動したので見ると、ゆきから電話だった。ゆきも今日仕事だったはずだ。
「…さん……き……ど」
電話の向こうは何やら雑音がうるさくて、ゆきの声がさっぱり聞き取れない。
ちょっと間が空いて、ゆきの「もしもし?」という声がやっと聞こえてきた。
「何?今のうるさいの」
「わからない?」
ゆきの声は聞こえるようになったが、まだ周囲は雑踏にいるような音がザワザワとしていた。
「わからないよ」
「じゃあヒントあげるね」
「ヒント?」
ゆきはイタズラ小僧のように「へへん」と言った。
「ヒント1。上野」
「上野?」
上野はゆきの会社から行きやすい場所でもないのに、どうしてわざわざ…
上野は俺とゆきが昔働いていた場所だ。
「あっ、解った!」
俺は電話を切ると、丁度来ていた反対側の電車に飛び乗った。
☆☆☆☆☆
自動ドアが開いた瞬間、ものすごい音とタバコの臭いが襲いかかって来る。
入り口のすぐ近くにゆきはいた。
「ほら、すごいでしょ!」
ゆきが笑う。
ゆきがいたのは、俺が5年前まで働いていたパチンコ屋だった。
ゆきはパチンコ台に座り、大当たりの真っ最中だった。「すごいでしょ」と言って指差したのは、大当たりの継続回数だった。
ざっと周囲を見回しても、当時の同僚や知った顔のバイトの姿は見えないが、5年前まで働いていた人間が遊ぶわけにもいかず、ゆきの大当たりが終わるまで、なるべく人目につかない場所のソファーでタバコを吸って待つことになった。
「すごいの、1時間で1000円が1万5千円に変わったの!」
景品交換所から出てきたゆきは、ご機嫌だった。
☆☆☆☆☆
澄んだ空が少し高くなったように感じる。
私はベランダで洗濯物を干しながら、空を飛ぶ鳥の姿を追った。
和樹の事故から2ヶ月経った。
仙台に戻った和樹は、先月から仕事に復帰したらしい。
和樹からは手紙が来た。
迷惑と心配をかけたことへ、謝罪と感謝の言葉が書いてあった。
仙台の和樹のお母さんからは何回かメールが来た。
やっぱり謝罪と感謝や、和樹の予後を知らせるメールだったが、最近の最後のメールには「和樹はあんな目にあってもまだ懲りていないようです」と愚痴とも報告とも取れるような一文があった。
私が口を出すことじゃないので、返信では触れずに済ませておいた。
和樹は一度大学病院へ和樹のお見舞いに行ったけど、やっぱりまだ父親を許せないらしい。
仙台のおじいちゃんとおばあちゃんには会いたいらしいけど。
松井さんからはメールも来るけど、以前より電話が増えた。
「声が聞きたかったんだよ〜」
と、いい歳して甘えたことを言うので、「はいはい」と流す。
ホントは私も、松井さんの声が聞きたい。
ホントは、会って話したい。
会っても、いいのかな。
あの夜に言った言葉を、松井さんは後悔していないかな。
なかなか言えなかった。
「会いたい」
と。
☆☆☆☆☆
>>和樹が仙台へ転院したそうです
こんなメールがゆきから来たのは、あれから1ヶ月後だった。
俺が言った通り、生命力の強いゆきの元亭主は、あの次の日に意識を取り戻した。
次の日、ゆきは同じ病院に入院していた元不倫相手とも会ったらしい。
ただ、常識的なじいさんばあさんが、すぐにその女を遠ざけたので、実際にはニアミスだった、とその時は電話をくれたゆきは笑っていた。
元亭主は、体のあちこちがぶっ壊れていたらしく、何回か手術が必要だったらしい。
それがひと段落したら、じいさんばあさんが元亭主を仙台の病院へ移す予定になっていた。
メールは、それが済んだ報告だった。
ゆきは元亭主が生命の危機を脱してからは、病院へ顔を出すことはなかったらしい。
ゆきの息子は一度一人で見舞いに行ったそうだ。近所の神社のお守りを持って行ったとゆきが言っていた。
俺は病気平癒の御守りかと思ったが、持って行ったのは交通安全の御守りだったと、ゆきは笑っていた。
「あいつ、今弱ってるから仕方ないんだよ」
と、息子は言ったらしい。
和解したわけではないということなのだろうか。
ゆきは普段と変わらない生活を送っている。
電話やメールのやりとりも続いている。
ただ、俺があの夜、どさくさ紛れに言った言葉は、宙に浮いたままだった。
俺は待つつもりだった。
「松井さん」
ゆきはポカンとしたような顔で克己を見た。
「やっと言えた。ちょっとどさくさ紛れな感じは否めないけどな」
克己は笑ったが、すぐに真顔になった。
「ゆきが言いたいことは分かったけど、俺も言いたいことがある」
克己はゆきの両腕を軽く握った。
「さっき誰も愛してくれないとか言ってたけど、ゆきは息子がいるんだろ?こんなとこで泣いてていいのか?俺は独身だから親の気持ちなんて分からないけど、ゆきを見てて、すごく息子のこと大事にしてるのは分かったよ。息子には愛されてるんだろ?俺なんか敵わない」
ゆきは「昴」と呟いて、少し顔つきが変わった。
「それにさ、息子は不倫した親父を嫌って会ってなかったんだろ?万一このまま親父と死に別れることになったらとか考えて、ゆき以上に苦しんでるんじゃないのか?じいさんばあさんに任せといていいのか?」
ゆきは着ているシャツの裾で顔を拭った。
「うん。そうだ。私がしっかりしないと」
「そうだよ。でも今日はじいさんばあさんに甘えていいんだ。明日になったら、息子のところに行ってやれ。ちゃんと寝て、なんか食って、しっかりついててやれ」
「うん」
「それに、別れた亭主はまだ死ぬって決まったわけじゃないだろ。不倫なんかするような図々しい奴ほど生命力が強いんだ」
ゆきはくすっと笑った。
「とりあえずコンビニ寄って、夜食と明日の朝飯買ってやるよ。それから家まで送るから、顔洗って寝ろ」
「うん」
克己は車のエンジンをかけた。
運転しながら克己がゆきの手を探したので、ゆきは自分から克己の手を握り、「ありがとう」と小さな声で言った。
「嘘よ。だって松井さんは本当の私を知らないじゃない。昔だって、可愛いだけの私しか見てないじゃない。私なんか本当はろくな女じゃない。私が何人と寝たか知らないでしょ。寂しいだけで、ちょっと優しくされれば誰とでも寝ちゃうのよ。真面目に付き合った人もいたけど、束縛されて窮屈で、すぐ別れちゃうし。だから結婚して子どもが生まれて、やっと真っ当に生きていけると思ったのに、和樹にも捨てられて」
またゆきの眼から涙が溢れ出した。
「松井さんだって、好きだとは言わなかったじゃない!」
ゆきが叫んだ。
「誰も私のことなんか、本気で愛してくれないのよ!」
克己は握っていたゆきの手をもう片方の手で包み、この間と同じように、そっと口をつけた。
「馬鹿だな、ゆきは」
克己はゆきの顔を見て笑った。
「本当のゆきって、なんだ?俺は偽者のゆきには会ったことないよ」
「だから、それは」
克己は構わず続けた。
「ゆきがどんな男と付き合ったのかなんて知らないし、別れた亭主がどんな男かも知らない。ゆきがどんなに傷付いたのかもわからない」
そう言って克己はもう一度ゆきの手にキスをした。
「俺は昔も今も、目の前にいるゆきを可愛いと思ってる。ゆきは、いるだけでいいんだ。俺はゆきに甘いから、ゆきが何してもいいんだよ。俺は適当な男だから、ゆきが本当はどんな女かなんて、どうでもいいんだ」
ゆきはまだ泣いている。
克己はゆきの涙を手で拭った。
「好きだ」
しばらくの間、ゆきは泣いていたが、少し落ち着きを取り戻した。「ごめんなさい」と言って、シートに座りなおすと、克己に聞かれて事情を話し始めた。
昨日、日付が変わったので正確には一昨日の日曜夜、離婚した夫、和樹の母親から電話がかかってきた。
和樹は離婚の原因となった不倫相手と離婚後も付き合っているが、仙台でそれなりに名家と言われる実家からは再婚に反対されていた。
和樹はその元不倫相手と、仙台から東京へ遊びに来ていた。
自家用車で首都高を走行中、大型トラックと衝突するという事故にあったという。
助手席の元不倫相手は軽傷だったが、運転席の和樹は意識不明の重態だという。
ゆきは連絡を受けて、すぐに息子の昴と一緒に新宿にある大学病院へ駆けつけた。
数時間後には、仙台から和樹の両親も駆けつけた。
和樹の意識はまだ戻らず、病院には千葉に住む和樹の姉も来ており、ゆきを気遣った和樹の両親が、終電に間に合う時間に一度帰宅するようにと勧めてくれたのだという。
昴は父親のことは嫌っているが、祖父母との関係は良く、ゆきも離婚の際には嫁として随分庇ってもらったこともあり、時々昴を祖父母の元へ遊びに行かせている。
和樹の両親は病院の近くのホテルに部屋をとり、昴を休ませると言ってくれた。
「私は、もう篠田の家の人間じゃないから…」
ゆきはそう言った。
克己はゆきの手を握った。
「和樹を憎んでいる自分が嫌だったの。だから、和樹が離婚したいと言った時もすぐに応じたし、あんなやつのこと早く忘れて、昴と二人で幸せに生きていこうって思ってた」
ゆきはそこで一旦言葉を区切ると、悲しげに微笑んだ。
「松井さんには、別れた理由は悪口になるから言わない、なんてカッコいいこと言ったけど、本当はそうじゃない。悪口を言い出したら止まらなくなって、私の中にある嫌な部分まで出てきちゃうのが嫌で、言わないだけだったの。だって、私は本当に醜いから」
克己は握る手に少し力をこめた。
「松井さんに、嫌われたくなかったの」
「嫌いになんかならないって、昔から言ってるだろ」
「嘘」
ゆきが顔を上げた。
「ゆき!」
少し強めに克己がゆきの両肩を揺すると、たった今目の焦点が合ったように、ゆきがギクっと克己を見た。
「…松井さん…」
「ゆき、とりあえず、車に乗って」
克己はゆきを車の助手席に座らせた。
とりあえず、こんなところでは込み入った話もできないだろうと、克己は車を出した。
ゆきは車が動き出しても、強張った顔のまま、うつむき加減だった。
克己はゆきの様子から、かなり我を失っていると思い、人目につかない場所を考えて、近くの川まで車を走らせて、暗い土手沿いの道に車を停めた。
「ゆき、どうしたんだ?」
克己が声をかけてもゆきは顔を上げなかった。
克己はゆきが話すのを待った。
「……どう、しよう」
ゆきはうつむいたまま、呟くように言った。
「ホントに死んじゃったら、どうしよう…」
言葉が流れ出るのと同時に、ゆきの表情に感情が戻った。
ゆきは克己の両腕を掴んだ。
「憎んでた。何度も何度も、死んでしまえばいい、あんなヤツ、不幸になればいいって思った。だってそうでしょう?一生幸せにするって、一生私を守るって言ったのに!私を好きだって言ったくせに!私と昴を捨てたんだから」
言葉と裏腹に、克己にはゆきが悲しんでいるように見えた。
「もしあいつに天罰が下ったら、ざまあみろって笑ってやろうって思ってた。ずっと思ってたの!」
吐き出すように一気に言うと、ゆきの眼からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
「ホントに死んじゃったら、どうしよう。私は、私は……」
克己はゆきの背に手を回して、軽く叩いてやった。
ゆきは克己の胸元に額をつけて、声を出さずに泣いた。
☆☆☆☆☆
「……んん?」
眠っていた克己は電話の着信音で目が覚めた。
「……なんだよ」
寝ぼけながらスマホを取ると、時間は深夜0時を少し過ぎたところだった。
そのまま着信履歴を見ると、AM00:02「ゆき」と表示されていた。
「……ゆき?」
ゆきからの連絡はいつもメールだった。
電話、しかもこんな時間に?
ベッドから起き上がり、克己はスマホをぼんやりと見た。
すると、また着信音が鳴った。
すぐに出たが、切れてしまう。
不安を感じて克己はゆきに電話をかけた。
呼び出し音が鳴るのに、また切れる。
3回同じことを繰り返して、やっと繋がったが、ゆきの声が聞こえない。
聞こえるのは、ひゅーひゅーという奇妙な音だった。
「ゆき?俺だよ。なんかあったのか?」
何回か呼びかけても、なかなかゆきは答えない。
「…どう…しよう」
やっとゆきのかすれた声が辛うじて聞こえた。
「ゆき?どうしたんだよ」
克己が何回話しかけても、ゆきはまともに答えられないようだった。
「どこにいるの?今から行くから」
その問いかけにもなかなかまともな答えが返って来なかったが、「駅」「こないだの」という言葉が聞き取れたので、克己はいつも車で待ち合わせた駅のロータリーと見当をつけると、急いで服を着替えてアパートを飛び出した。
駅までは近かったが、ゆきの様子がおかしいので、車を使った。
ロータリーに入ると、歩道にゆきが立っているのが見えた。
克己が車から降りて駆け寄ると、ゆきは色白を通り越して青く見える顔でぼんやりと立っていた。
「ゆき。ゆき」
呼びかけても、ゆきは克己に気付いていないかのように無反応だった。
☆☆☆☆☆
マナーモードにしているスマホがダイニングテーブルの上で賑やかに振動した。
日曜の夜、久しぶりに一緒に夕食を食べた昴がシャワーをしている間、お茶を飲みながらぼんやりとテレビを眺めていたゆきは、なぜかビクッとなった。
ゆきは裏返っていたスマホを取って表に返した。
「お義母さん…?」
電話の着信画面には3年前までゆきも名乗っていた苗字の姑、正しくは元姑の名前が表示されていた。
「もしもし?」
ゆきは電話の向こうにいる元姑の声を久しぶりに聞いた。
しばらくして電話を終えると、ゆきは放心したように一度テレビに目を向けた。
「昴…昴!」
我に返ったゆきが、浴室にいる息子の名を呼んだ。
静かだった。
私の車はコンビニの駐車場の端に停めてあった。
フェンスに向かって駐車していたから、時々空いている窓から、出入りする車の音が聞こえたり、人の話し声が聞こえたけど、車の中は静かだった。
松井さんも私も、何も喋らなかった。
私の手を握った松井さんの手も、動かなかった。
時々、風が吹いて、車の中の空気が動いた。
松井さんの手は、何故か少しひんやりしていて、気持ちよかった。
「…そろそろ帰らないと」
私が言うと、松井さんはそっと手を放した。
「そうだね」
私がエンジンをかけようとすると、松井さんが「俺んち、すぐそこだから、ここで降りるよ」と言った。
「この間は、ごめんな」
「どうして?」
「変なこと言ったから、ゆきに嫌われると思って」
「嫌わないよ」
「そうか、良かった」
松井さんはそう言って助手席のドアを開けて降りた。
「ゆき、またデートしような」
「うん。どこか遊びに連れてって」
「じゃあ、気を付けて」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
私はエンジンをかけて、ゆっくり車を出した。
コンビニの駐車場から出る時、松井さんが手を振っていたので、私も振り返した。
ずっとこんな関係でいられるだろうか
私はハンドルを切りながらそう思った。
松井さんには車を会社に置いてくるように頼んだ。
松井さんはお酒を飲みたいだろうし、私が行こうと思っている店は、電車の便が悪いところだった。
約束の時間まで本屋で時間を潰してから、この間と同じ駅のロータリーへ向かった。
平日の夜で、駅の辺りは人も車も多かった。
私が車を停める前に、松井さんが私に向かって手を挙げているのに気がついて、私は空いているバス停に車を停め、走って来た松井さんが急いで助手席に乗った。
「はー、暑かった」
松井さんは上着はもう脱いでいたけど、ネクタイを緩めてエアコンの送風口に首を近づけると、また「はー」と言った。
私がお蕎麦屋さんに行こうと思うと言うと、松井さんは「いいね」と言った。
「へー、こんな所に蕎麦屋があるんだ」
「会社の人に教えてもらったの」
駐車場で車を降りると、松井さんが言った。
国道から少し入ったところで、近くには大きな工場があるけど、辺りは私有地の広大な雑木林が広がっていて、夜になるととても静かな場所だった。
店に入ると、平日なのに店内は8割方席が埋まっていた。
松井さんと向かい合って座り、二人で天ザルを頼んだ。松井さんはビールも頼んだ。
客は大人ばかりで割りと静かな雰囲気だったから、私も松井さんも「今日は暑かったね」とか、おとなしめに言葉を交わしながらお蕎麦を食べた。
ゆっくりと蕎麦湯を飲んでから店を出ると、8時半だった。
「うまかった」
「良かった」
車に乗ってエンジンをかけ、松井さんのアパートに向かった。
松井さんのアパートが近づくと、松井さんは「悪いけどコンビニに寄ってくれる?」と言った。
松井さんが明日の朝ごはんを買うと言うので、私も一緒に買い物をした。
車に戻り、私がエンジンをかけようとすると、松井さんが「あのさ」と言った。
「なあに?」
私が聞き返すと、松井さんは私の左手に手を乗せた。
「もう少しここにいて」
「…うん」
私がゆっくりと座席に手を下ろすと、松井さんはその手を軽く握った。
私はちょっと恥ずかしくなって、空いている右手で車のスイッチを入れて、車内の空気を逃すために、全部の窓を開けた。
☆☆☆☆☆
「あつ」
仕事を終えて会社の駐車場に停めてある車のドアを開けると、車内から熱い空気が生き物みたいに襲い掛かってくるように感じた。
「暑い」ではなく、「熱い」。
私は「エコじゃないなぁ」とブツブツ言いながら、エンジンをかけてエアコンと窓を全開にした。
夕方6時前の夏空は、まだ明るい。
車内の熱気が少し取れたので、私は運転席に座り、窓を閉め、少しだけエアコンを弱めた。暑過ぎるのも困るけど、エアコンで冷えすぎるのは嫌いだった。
サイドブレーキを解除しようとした時に、脇に置いたスマホが振動した。
「松井さんだ」
メールだった。
仕事が早く終わったとあった。
私はその文面を見て、少し考えてから、返信した。
一緒にゴハン食べない?
昴は夏休みに入って、塾の夏期講習に行っている。
塾は部活が終わった後の7時からで、冷蔵庫に入れておいたお弁当を塾で友達と食べるので、夏期講習の間、私は1人で夕食だった。
その話を松井さんにしたら、早く仕事が終わったら、一緒にゴハンを食べようと言ってくれていた。
松井さんとは相変わらずメールのやり取りが続いていた。
酔って会いたいと言われた日からも、あまり付き合いは変わらない。
なんだかんだと予定も合わなくて、ここのところ直接会うこともなかった。
あの夜、松井さんは私の手にキスをした。
そんなこと、王子かホストがやることでしょ!
そうツッコミたくなるようなキスだった。
昔から飄々とした雰囲気が変わらない松井さん。
手が早いのは確か。
私が一番恐れていたのは、松井さんと会えなくなることだった。
昔のようにキスしたら、私はどうなるか。
きっと、走り出してしまう。
それなのに、きっと、好きだとは言えないと思う。
好きだと言えないまま、キスしたら次は抱き合いたくなって、抱き合ったらそのまま、昔のように抱かれてしまうだろう。
でも、その先は?
それを考えるのが怖かった。
運転席に座っているゆきは、化粧をしていなかった。
見たことのないメガネをかけているから、普段はコンタクトなんだろう。
化粧をしていないゆきは、している時よりも幼く見えた。
昔、バイト時代のゆきは、最初大学生なのに高校生かと思ったくらい童顔だったが、今見るゆきは、普段よりあの頃と変わらないように見えた。
俺は、車を運転するゆきを見ながら、俺の気持ちもあの頃に戻ったように感じた。
だからつい、口が滑った。
息子が不在と聞いて、「朝まで一緒にいる?」と言ってしまった。
ゆきはつんのめるようにブレーキを踏んだ。
しまった、と思ったが後の祭り。
叱られてしまった。
それでもゆきはそれ程怒った様子もなく、俺のアパートまで送ってくれた。
降りる前に、ゆきに謝った。
ゆきが笑ってくれたので、俺はほっとした。
「最近会ってなかったから、酒飲んだら会いたくなっちゃったんだよな」
「そういうことは、酔ってない時に言ってね」
「酒でも飲まないと、言えないんだよな」
俺がそう言うと、ゆきは困ったような顔をした。
やっぱり、全然変わっていない。
初めてデートに誘った時、初めてキスした時、流されるように俺に抱かれてくれた時
ゆきはいつも困ったような顔を、俺に見せた。
好きだ。
本当は、そう言いたかった。
でもやっぱり、言えなかった。
その代わり、この間ゆきがしたように、俺は手を差し出した。
ゆきはその手を取ってくれた。
柔らかい手だった。
俺は言葉にする代わりに、その手の甲にキスをした。
真っ赤になって「おやすみなさい」と言ったゆきも、可愛かった。
しばらく飲んだ後、今村とは新宿駅で別れ、俺は山手線と私鉄を乗り継いで帰った。
今村に会ったせいか、昔のゆきとのことを思い出した。
「ホントに可愛かったよな」
俺は吊革につかまって声に出さずに呟いた。
ゆきを抱いたことは忘れていない。
今でもゆきの声も、手に触れた感触も、リアルに思い出せる。
今もそういう気持ちにならないといえば嘘になる。
でも、15年経って、偶然再会して、相変わらず可愛くて綺麗なゆきに、ただ会いたいという気持ちが強かった。
迂闊に触れれば、消えてしまうんじゃないかと、それが怖かった。
俺は少し飲み過ぎた日本酒のせいか、無性にゆきに会いたくなった。
俺の最寄り駅に着いて、スマホを取り出して見ると、もうすぐ日付が変わる時間だった。
「声聞くくらい、いいよな」
酔っているからと自分に言い訳しながら電話をかけると、ゆきはまだ起きていた。
勢いついでに、会いたいと言ってしまった。
ゆきは俺をあやすように早く帰りなさいと言ったが、声を聞いているうちにますます会いたくなった。
すると根負けしたようにゆきが、迎えに行こうか、と言った。
まさかこんな時間に本当に来てくれるのか、半信半疑で、俺はゆきを待った。
俺は自販機で買った水を飲んで酔いを冷まし、この間ゆきを車に乗せた辺りでゆきを待った。
多分もう日付は変わっただろう。
駅は終電近くで人影も少なく、最終バスも終わった駅前ロータリーも静かで、客待ちのタクシーが2台いるだけだった。
ロータリーの入り口にある信号が何度目かに変わると、チョコレートみたいな色の軽自動車が入ってくるのが見えた。
俺の横で止まったその車の運転席に、ゆきがいた。
さっきは電話越しに聞いていた声が、すぐそこで「松井さん」と俺を呼んだ。
☆☆☆☆☆
「うそ、マジでか」
今村は箸でとっていた鶏の唐揚げをポロリと落とした。
土曜の夜、俺は新宿にある小汚い居酒屋で今村と飲んでいた。
今村とは学生時代から今も飲み友達だ。
俺が今乗っている車も、自動車ディーラーで働く今村が、試乗車を安く融通してくれた。
「白うさぎちゃんだろ?そりゃまた奇遇だな」
テーブルの上に落ちた唐揚げは最後の一個だったので、今村は意地汚く再び箸でつまみ上げて口に放り込んだ。
「離婚して、俺んとこの会社が今度売るマンションのある辺りで働いてる」
「ほー。シングルなんだ。もうやった?」
俺はタバコを持っていない方の手で今村を殴る真似をした。
「やらねーし」
「今でもかーいい?」
「あんまり変わってないな。元々童顔だし」
俺は関東にはあまり出回らないという日本酒をぐいっと飲んだ。
「でも子どもいるってさ」
「へー。いくつ?」
「今年中学って言ってた」
「ウチの長男坊と同い年だ」
今村は相変わらずちゃらい男だが、ちゃんと30前に結婚して、今は中学生を頭に、3人の男の子の父親になっている。
「昔、天皇杯、行ったよな」
今村はニヤニヤと笑ながらタバコに火をつけた。
「ああ」
男同士だから別に事細かに何があったか報告なんかしないが、俺があの状況で何もなかったと思ってもらえるような男じゃないことは、今村もよく知っている。
でも、酒を飲みながらそんな話を振られると、あの夜のことを事細かに思い出してしまいそうだ。
「まぁ、元気そうだよ」
「克己、あの頃はあの子のこと随分気に入ってたもんな。克己も独りもんなんだし、大手を振って口説けるだろ」
「そうなんだけどな。なかなかそうもいかないんだよ」
「なんで」
「俺にもようわからん」
俺はお銚子を切子のガラスに傾けると、またぐいっと飲み干した。
そうなんだ。
口説いちゃいけない理由なんかないんだけど、なかなか手が出ない。
「まぁ、がっつく歳でもないしな」
俺はタバコを吸って、はあ〜っとため息と一緒に煙を吐き出した。
少し走ると、松井さんのアパートに着いた。
「ゆき、ごめんな」
「怒ってないよ」
松井さんが叱られた子どものような顔をするので、私はつい笑ってしまった。
「最近会ってなかったから、酒飲んだら会いたくなっちゃったんだよな」
「そういうことは、酔ってない時に言ってね」
私はなんだか母親みたいな口調で言った。
「酒でも飲まないと、言えないんだよな」
なんて答えたらいいのかわからなかった。
「ゆき」
「はい?」
松井さんはこの間とは逆のパターンのように、私に右手を差し出した。
私はその手を握り返した。
すると松井さんは、私の方を見ながら握手した手を持ち上げると、私の手の甲に口をつけた。
私が何も言えずにいると、松井さんは楽しそうに笑い、そっと手を放してくれた。
「酔ってるから、このくらいしてもいいよな」
「…もう、やっぱり軽いんだから」
松井さんは助手席のドアを開けて、車から降りた。
「ごめんな、ありがとう」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
窓越しにお互い手を振った。
車を発進させてからバックミラーを見ると、松井さんはもう見えなくなっていた。
ついでに自分の顔をちらっと見ると、お酒を飲んだみたいに真っ赤になっていた。
深夜なので、いつも混む道もガラガラで、10分くらいで着いた。
ただ、なにも考えずに家を出てきたけど、よく考えたら私はもうシャワーも済ませた後で、スッピンで服も部屋着だった。
まぁ、部屋着といってもユニクロのTシャツと膝丈のパンツだったし、辛うじてTシャツの上にはパーカーも羽織っていたから、まぁいいやと思った。
どうせ夜だし、松井さん酔ってるし、スッピンかどうかもわからないか
私は車のハンドルを切ってロータリーに入った。
この間、私が松井さんの車に乗った辺りに、松井さんが立っていた。
窓を開けて声をかけると、松井さんは助手席に乗ってきた。
「なんだ、もっと酔っ払ってるのかと思った」
「水飲んで、外にいたら、結構冷めた」
「はいはい、じゃあお家までお送りしますよ」
私はウインカーを出して、車を出した。
松井さんに道案内してもらいながら、車を走らせた。
「スッピンでしょ」
赤信号で停まった時に、松井さんが言った。
「わかる?」
「うん、その方が昔のゆきの顔だね」
「明るいところじゃ、見るに耐えないと思う」
信号が青に変わったので、アクセルを踏む。
「ホントに来てくれると思わなかった」
「たまたま昴がいなかったから」
「じゃあ、朝まで一緒にいる?」
私は思わずブレーキを踏んでしまい、慌ててバックミラーで後続車がいないことを確かめ、ハザードを出して路肩に停車した。
「もう、そういうこと、言わないで」
「ごめん、つい、昔の感覚になっちゃって」
松井さんは悪びれずに笑った。
「明日仕事だから、松井さんを送ったら帰ります」
「そうか、俺も仕事なんだ」
「でしょ?帰りましょう」
私はそう言って、また車を発進させた。
「ゆーきーちゃん」
松井さんから電話がかかってきたのは、土曜のもう深夜0時近くだった。
昴は私の実家に泊りがけで遊びに行ったので、一人だった私は普通に電話に出た。
「松井さん、ご機嫌だね」
「うん、今村と新宿で飲んできた」
「わぁ、懐かしい。今村さん、お元気?」
「元気だよ~、あいつは息子3人のパパだよ」
「わぁ、大変」
電話の向こうで車の走る音と、松井さんが何か飲んでいるような音がした。
「まだ外なの?」
「電車降りたとこ」
「早く家に帰りなさい」
「ゆきに、会いたいんだよ」
ドキッとした。
でも松井さんは酔っ払っているから、流してしまうことにする。
「はいはい、今度ね」
「冷たいな~」
「冷たくないよ、ちゃんとお話してるじゃない」
「会いに行っちゃおうかな~」
「やめて~、ご近所うるさいのよ」
酔っ払った松井さんは、子どもみたいだった。
私はつい「迎えに行こうか?」と言ってしまった。
まずいかな、と思ったけど、酔っ払った松井さんとどうこうなるつもりもないし。
私が運転してるんだから、アパートの前で降りてもらえばいいし。
でも、本音は、「会いたい」と言われて、嬉しかったんだと思う。
電話を切ると、私はアパートの駐車場に停めてある自分の軽自動車で、松井さんがいるという、この間待ち合わせした駅前ロータリーへ向かった。
☆☆☆☆☆
葛西臨海水族園へ行った後も、松井さんとはメル友状態だった。
短い文のやり取りしかしないから、深い話はしない。
ホント、何を食べたとか、今日は暑かったとか、そんな話ばかり。
真面目な話をしても、仕事絡み。
私は仕事と家事とでそれなりに忙しいし、松井さんも仕事の日は帰宅が9時とか10時になることが多かった。
寝るまでの何通かのやり取り。
最後に「おやすみなさい」「おやすみ」で終わる。
メールが来ると、松井さんと細々とでも繋がっているんだな、と感じて嬉しかった。
15年前は、狂おしいような、いてもたってもいられないような、そんな激しい感情がいつもあったような気がする。
でも今は。
松井さんに再会して、驚きの次に来た感情は懐かしさ。
あの頃の激しい感情と少し違って、なんだかあたたかい。
そう。
葛西へ行った日の別れ際、昔のようにキスしたり、セックスしたりしなくても、そっと握手しただけであたたかくて、心が満たされたような気がした。
☆☆☆☆☆
>>こんばんは♪昨日は楽しかった。ありがとう
>>お疲れ~。こっちこそつき合ってくれてありがとう。男1人で水族館には行けないから(笑)
>>観覧車にも乗れたしね(笑)次はスカイツリーに行こうか?
>>ゆきは意地が悪くなった?見た目は昔と変わらないのに
>>大人になったって言ってくれる?
>>そうか、ゆきは大人になったんだね。俺は大人になってないな(笑)
>>またどこかに行きたいね
>>そうだね、またどこか行こう
>>おやすみなさい
>>おやすみ
☆☆☆☆☆
会ってメアドを聞かれた次の日の夜、松井さんからメールが来た。
「懐かしかった」
そう書いてあった。
嬉しかった。
ずっと会いたかった人。
会えないと思ってたのに会えた人。
その松井さんから時々メールが来るようになった。
元気?とか、おやすみ、とか
なんでもないやり取り。
なんだか、穏やかで心地よかった。
昔のぬるま湯みたいな曖昧な関係とも少し違う感じで。
私からも話のネタになりそうな写メを送ったりしていたら、マグロ丼の話から、葛西臨海水族園へ行こうという話になった。
昼間のデートだから、あまり悩まずに済んだ。夕方には帰らないといけないし。
葛西では、なんだか中学生のデートみたいだった。
私は水族館が好きだから、それだけで楽しかったし、松井さんと一緒なのが不思議な気分だった。
観覧車では、高所恐怖症の松井さんが青い顔をしていたのが、悪いけど面白かった。
15年前、色々あったことを松井さんといると思い出さないわけじゃないけど、やっぱり松井さんも私も歳をとって、落ち着いたのかもしれない。
だから、別れ際に、握手をしてもらった。
せっかく再会できたんだから。
15年前みたいに切ないばかりの出来事じゃなくて。
今度は、友達みたいな関係から始めたいと思った。
だって、ずっと会いたかったんだから。
もっと会いたいから。
「楽しかったー」
ゆきはゴンドラが地上に着いて扉が開けられると、身軽に飛び降り、俺は神経を使い果たした感じで後に続いた。
「松井さん、ホントに高い所ダメなんだね」
ゆきが若干意地悪く言ったように聞こえるのは、俺の被害妄想だろうか。
「ゆき、絶叫マシンとかも、好きなんだろ」
「ええ、大好きですよ。今度富士急ハイランドに連れてってくださる?」
ゆきはふざけて俺に言う。
「連れてくのはいいけど、乗り物にお供はできません」
「それでもいいの?」
ゆきはおかしくてたまらないといった感じで、ずっと笑っていた。
「夕方になると首都高混むから、帰ろ?」
「承知しました」
ゆきは駐車場に向かって歩き出し、俺は深呼吸すると、ゆきに並んだ。
車に乗るとゆきが「お腹すいた」と言うので、途中コンビニに寄ってお茶とポテトチップスを買い、湾岸線へむかった。
帰りの車の中で、ゆきはパリパリとポテトチップスを食べ、いつものメールの延長のような話をした。
首都高を降り、ゆきが朝と同じ場所で降りると言うので、車を自宅方向へ走らせた。
「ごめんね、高いの嫌いなのに、観覧車付き合わせて」
降りる場所が近付くと、ゆきは俺にそういった。
「ゆきが手を握ってくれてれば平気だったかもな」
ちょっと困らせてやろうと思ってそう言った。
「…手」
ゆきは自分の手をじっと見た。
「冗談だよ」
俺は笑いながらウインカーを出して、駅前のロータリーに入り、朝と同じ場所に車を停めた。
「今日はありがとう。楽しかった」
ゆきはバッグを肩にかけると、右手を差し出した。
一瞬なんだか分からずに、差し出されたゆきの手を見たが、俺は戸惑いながらゆきの手を軽く握った。
「またね」
「う、うん」
ゆきは助手席のドアを開け、車の横の歩道に立った。
ゆきが駅に向かわないので、俺は助手席の窓を開け、「またな」と言って車を出した。
ゆきはこの間と同じように、胸元で小さく手を振った。
ロータリーから出る時にも、ゆきの姿がバックミラーに映っていた。
ハンドルを握る右手は、まだ少しあたたかいような気がした。
「だから人生って楽しいのかしらね」
ゆきはそう言って、また窓の外に目をやった。
『寂しくなかったのかな』
さっきペンギンを見ながら、ゆきはそう呟いていた。
ゆきは、安全な水族園から逃げ出して、外の世界に飛び出したペンギンに、何を思ったんだろう。
結婚生活は幸せだったと言った。
その幸せは消えたけど、今は今で楽しいと言う。
それでも、寂しいんだろうか。
結婚して、一生共に生きようと思った相手を失うことは、辛いのだろうか。
結婚したことのない俺には、わからない。
ただ、今、この空間で、ゆきと2人。
寂しいなら、俺がいると思うのに。
向かい合って座ったゆきは、黙って外を眺めている。
俺はゆきの方へ手を伸ばしかけた。
「あれあれ!ほら、地上にいる人が米粒みたい」
ゆきが急に振り返って、窓の下を指差した。
うっかり、言われるがままに俺も窓から地上を見た。
「…だからこれが、ダメなんだって」
目眩が起きそうだった。
「怖いの?せっかく天辺に来たのに」
それを聞いてますますクラクラとした。
「でか」
下から見上げる観覧車は、遠くから見るより更に大きく見えた。
「本当にこれに乗るの?」
「そうそう、行きましょう」
腰が引けている俺のシャツを引いて、ゆきはどんどんと乗り場へ進んだ。
係員が開けた扉からゆきはさっさと乗り込んで座席に座ると、「早く早く」と俺を手招きした。
仕方なく俺も乗り込むと、無情にも係員は笑顔で扉を閉め、手を振った。
「小学生の時以来だよ」
「そんなに苦手?」
「高いところはイヤなんだよ」
「怖かったら寝ててもいいよ」
「寝れないよ」
ゆきは声をたてて俺を笑い、ゆっくりと空に近付いていく景色を眺めた。
「ゆきは、楽しそうだね」
「うん。私はいつも楽しいよ」
「女は強いな」
「お母さんだしね」
見た目は昔とあまり変わっていないのに、昔より芯が強そうに感じるのは、そのせいなのかもしれない。
「ゆきは、離婚して辛くなかった?」
「そりゃ、辛かったよ。離婚しようと思って結婚したり子ども産んだりしないし。まさか自分が離婚するなんて、ずっと思ってなかったよ。結構幸せだったから」
「幸せだったんだ」
ゆきは穏やかな笑みを浮かべた。
「うん。結果は離婚てなったけど、結婚しなかったら知らなかった幸せがたくさんあったから」
「別れたダンナのこと、憎くないの?」
「もうそういうのはなくなったかな。好きでも嫌いでもないから。彼にはなんの感情もないの。私には関係ない人だから、他人よりどうでもいいかな」
そう話すゆきの表情に、実際暗い感情は見えなかった。
「ゆきが離婚しなかったら、偶然会うこともなかったかな」
「どうだろうね。旅行先とかでバッタリあってたかもしれないよ」
「かもな」
一通り見て回り、水族園から出た。
するとゆきは
「葛西にきたら、あれに乗らないと!」
と言う。
「あれ?」
「観覧車」
「俺、高い所、苦手なんだよな」
「えー、行こうよ」
こういう時のゆきは、やっぱり昔と変わっていない。
公園内を散歩しながら、観覧車目指して歩くことになった。
「水族館、好きなんだね」
「うん、動物園も好き」
「子どもだなぁ」
「中身だけね」
ゆきは元気よく歩く。
やっぱりゆきは綺麗だ。
柵を避けたりすると、一瞬ゆきが接近する。
髪が踊ると、いい香りがする。
日差しが強くて、茶色い瞳の目を細める。
ゆきは昔とちっとも変わってない。
でも俺は、やっぱり気軽にゆきに触れることができなかった。
入り口で入場券を買い、水族園に入った。
順路通りに水槽を覗いて回った。
平日の園内は空いていて、ゆっくりと見ることができた。
マグロの回遊水槽の前まで行くと、ゆきは
「マグロ!」
と子どものように喜んで、俺のシャツを引っ張ってマグロの水槽に駆け寄った。
「活きが良いよ。食べ頃」
ゆきは水槽に手をついてマグロの群れを目で追った。
俺はゆきと並んでマグロを見ながら、今ゆきがシャツを引いた辺りに手をやった。
何でだろう。
昔なら俺はさっきの状況なら、すかさずゆきの手を取ったのに。
ゆきに軽々しく触れられない。
ゆきは顔を斜めにして水槽の高いところを泳ぐマグロを覗くようにしていたが、俺の方に視線を移し
「マグロ、凄いでしょ」
と得意気に言った。
「凄いね」
つまらない返ししかできなかった。
次にゆきのテンションが上がったのは、屋外に出たところのペンギンだった。
「脱走ペンギン!」
「そういえばそんなニュースあったな」
ゆきは手すりに手をかけ、ペンギンを見た。
「どうして脱走したのかな。ここにいれば、仲間もいて、餌ももらえて、外の世界よりずっといいのに」
「外が楽しそうだと思ったんじゃないかな」
「寂しくなかったのかな」
ゆきは、ペンギンの方を向いたまま、独り言のように言った。
葛西へは俺の車で行こうと誘った。迎えに行くとメールしたら、近所の目があるから、俺の最寄り駅まで行くと返事が来た。
単にこの辺から葛西までは、電車の乗り継ぎが多くて面倒だから車と言ったのだけど、シングルマザーの事情もなかなか大変らしい。
約束の当日、幸い俺は無事に休みが取れた。
10時の約束だったから、10分前には約束した俺の最寄り駅のロータリーでゆきを待った。
高架のホームに前後して上りと下りの電車が入るのが見えた。
出口から乗客が出てきて、その中にゆきがいるのが見えた。
白いセダンだと言っておいたので、ゆきは軽く見回して窓から合図した俺にすぐ気付いてくれた。
ゆきは白いカットソーにカーゴパンツという服装だった。
「やっぱりゆきは若いな」
車を発進させながら言うと、ゆきはくすくす笑った。
「このカーゴパンツ、息子と共有なの」
「体型似てるの?」
「うん。身長抜かれちゃったけど、細い子だから」
首都高と湾岸の渋滞は予想よりもひどくなく、1時間ちょっとで葛西まで行くことが出来た。
車の中では、最近の業界の話で盛り上がり、色気のない内容に俺はちょっと後悔した。
少し早かったが、目に付いたファミレスで昼食をとってから、葛西臨海公園へ向かった。
天気のいい日だった。
海のそばなので、時折風が吹くのが気持ちよかった。
駐車場に車を停めて、水族園へ向かうゆきは、大股で歩いた。
初夏の強い日差しがゆきを照らすと、元々色の薄い髪が風にないて金色に見え、白い肌も透けてしまうようだった。
綺麗だね
そう言いたかったのだけど、やめた。
昔なら何も考えずに言っていたはずなんだが。
言ったら、相変わらず軽いのね、とゆきに叱られそうだと思った。
>>マグロ丼を食べました
ある晩、ゆきからそんなメールが来た。
いつものように写真付きだった。
>>美味しかった?
>>うん。昴が友達と水族館でマグロを見たって言うから、ついマグロ買っちゃったの
>>ああ、葛西だっけ?行ったことないな
>>楽しいよ
>>一緒に行こうか?
>>いいよ
1行メールのやり取りで、次の水曜に俺の仕事がなければ葛西臨海水族園へ行くことになった。
「デートだな」
俺はメール画面を閉じて、つい笑ってしまった。
いい歳して、デートを楽しみにしている自分がおかしかったからだ。
平日だし、夜までは一緒にいられないだろう。
午前中に集合して、夕方解散。
今時、中学生のカップルでももっと長く一緒にいるだろう。
それでも2人で会えるのが楽しみだった。
時々ゆきとメールをやり取りするようになった。
特に用事があるわけじゃないから、俺からは「元気?」と送る。
少し時間を空けて、ゆきは「元気だよ」と返してくる。
本当は声を聞きたいと思ったが、ゆきは家で1人じゃないし、色々と忙しいだろうと思って、電話はかけなかった。
ゆきからもメールが来た。
よく来たのは写メだった。
お客さんが連れてきたトイプードルが可愛かった。
今日食べたアイスが美味しかった。
お使いの途中で街中では珍しい野鳥を見た。
律儀に写真を撮っては送ってきた。
2、3回短い文面で往復することが多かったが、最後のメールで「おやすみなさい」とやり取りするのが、なんとなく嬉しかった。
これじゃ、昔の人間の文通みたいだな。
あ、現代ではメル友か。
俺はそう思いながら苦笑いするしかなかった。
昔のように気軽に飲みにも誘えない。
ゆきの定休は水曜日で、土曜か日曜のどちらかが休みだという。
俺は火水か水木の休みが多く、土日はほぼ休めない。忙しいと休みがずれていく。
マンション屋だしな…
俺が今の仕事をしていることに、特に意味はない。
別にパチンコ屋の社員のままでも良かった。
ただ、俺はなぜか宅建を持っていた。大学に通っている頃、なんとなく取った資格だ。
それを知っている大学時代の友達から、今の会社を紹介された。その友達の会社は中堅のデベロッパーで、関連会社ができるから、人手が欲しかったらしい。
未経験で大学も中退だったけど、その友達のコネと更新もしていなかった資格のお陰で、すんなり転職できそうだった。
まぁ、ここらで違う仕事をしてみてもいいか、というくらいの気持ちだった。
案外向いていたようで、営業成績も悪くない。
給料もそこそこ良くなったが、養う家族もいないから、まぁほどほどに生きていければいいかという感じだ。
ただ、今の仕事をしていなかったら、あの日ゆきと再会した街に行くこともなかったはずだ。
メールばかりで、なかなかデートにも誘えないが。
お互い独身なのに、思うように動けない。
若い頃のようには走れない、ということなのかもしれない。
☆☆☆☆☆
俺がこの歳まで独身だったのは、ひとえに俺の性格がいい加減だからだろう。
昔付き合っていた由香里と別れたのは、由香里に他の男ができたからだ。
スナックの客だった。
そいつはすごく真面目な男で、お世辞にももてそうなタイプではなかったが、とにかく由香里に惚れていた。
俺は俺で、由香里と別れようとは思っていなかったが、妊娠と中絶のことがあってから後は、俺から結婚しようとは言わなかったし、由香里も同じだった。
由香里はその男にプロポーズされたと俺に言った。
俺は、どう考えても俺よりそいつの方が由香里を幸せにしてやれそうだと思ったから、
「由香里がいいなら、結婚するのも悪くないんじゃないか?」
と言った。
由香里は一瞬悲しそうな顔をしたが、その日以来、連絡が来なくなった。
由香里と別れた後、女がいなかったわけじゃない。
パチンコ屋のアルバイトの女の子とセフレみたいな関係になったこともあるし、一時期気まぐれで通ったスポーツクラブで知り合った女と2年くらい付き合ったこともある。
俺は女に本気になれなかった。
由香里には入籍しようと言ったが、あれは由香里が妊娠したからだったし、その後に付き合った何人かの女とは結婚するまで考えなかったし、多分向こうも俺のいい加減さが分っていて、本気で惚れたりはしなかったんだろう。
ゆき
ゆきは本当に可愛い女だった。
15年前のあの日、会いたかったと言ってくれた。
でも、俺はゆきに好きだと言えなかった。
ゆきも、由香里と付き合っている俺には好きだと言わなかった。
それでも、今までで一番愛した女だったんだろうなと思う。
ゆきも、あの時は俺を好きでいてくれたんだろう。
初めて会った時、ゆきには彼氏がいて、ゆきの気持ちが俺に向いた時には俺には由香里がいた。
じゃあ、今は。
この間会った時、ゆきはバツイチだと言った。
別れ際のゆきが「ずっと会いたかった」と言っていたように見えたのは、俺の願望なのか。
そんなこと、聞けないよな。
俺は自分のメアドを知らせるために、当たり障りない文面で、ゆきにメールを送った。
松井さんはお休みだったらしく、会おうと言ってくれた。
私の最寄り駅から2駅離れた場所で会うことにしたのは、一応人目を気にしたから。
昴の同級生の親に、男性と2人でいるところを見られたら、面白おかしく噂されちゃうし。
シングルマザーはそういう所に気を使わなくちゃいけないのが少し面倒。
コーヒーショップに着くと、10分くらいで松井さんが来た。
不思議な気持ちだった。
15年前には、松井さんと会う時は、いつもドキドキしていた。
初めてデートした後も、体の関係を持った後も、その時その時で色んな想いが私を揺らした。
今、松井さんと並んで座って感じたのは、懐かしさだった。
でもそれは久しぶりに同窓会に行った時とも違う。
可愛がってくれる遠くに住む親戚と会った時とも違う。
会ったらいけなかったのかな。
でも、会いに来てしまった。
だって、松井さんは昔とちっとも変わっていなかったから。
松井さんはずっと独身だと言った。
松井さんらしいと思った。
松井さんは私も変わっていないと言ってくれたけど、色んなことがあって、昔とは変わったこともたくさんある。
松井さんは、どう思ったんだろう…
夕方近くなって、松井さんと一緒にコーヒーショップから出た。
方向が同じだったから、同じ電車に乗った。
私の最寄駅で降りる時に松井さんが、メールするからと言った。
また、会えるんだ…
電車のドアが閉まった。
私の方を見ている松井さんに軽く手を振りながら、私は周囲に聞こえないようにつぶやいた。
ずっと会いたかった
昔も今も、それだけが変わっていなかった。
松井さんは、初めてデートに誘ってきた時と同じように、私に電話番号を渡して「電話して」と言った。
松井さんは、15年前と変わっていないように見えた。
結婚していると思い込んでいたけど、聞いたわけじゃないから、それも分からない。
電話すれば、きっと会って話ができるんだろう。
でも、なんだか怖かった。
もし、松井さんが結婚していたら、また15年前と同じように苦しむのかもしれない。
結婚していなかったら…?
それでも、昔と同じじゃない。
私は結婚して、子どもを産んで、離婚した。
15年前、ただ可愛い女の子になることを考えていれば良かった頃とは違う。
37歳。もう中年だし。
そんなことを考えながら、私は自分で気がついた。
松井さんに会いたいから、こんなに色々考えているということに。
会いたいから、迷っている。
そう。
15年前のあの日。
私は自分の意思で松井さんに抱かれることで、松井さんへの気持ちを封じ込めた。
それは上手く行ったように思たけど、消し去ってしまうことはできなかった。
和樹のことは好きだった。
何もなければ、今でも和樹は私の自慢の旦那さまだったろう。
結婚した後に、他の人に好意を持ったことなんか一度もなかった。
だけど、信頼している友達との飲み会でちょっと際どい話をすれば、決まって独身時代の恋バナが始まって、一番好きだったのは誰?と聞かれたら、私は松井さんと言った。
もう会えない人だから、安心して言えた。
でも、再会してしまった。
もう、傷付きたくない。
でも、会いたい。
私はすっかり冷めたコーヒーを口に含んで飲み下した。
こんな風に悩んだ時、私がすることは決まっていた。
とりあえず、行動する。
何もしないで後悔するより、とりあえず行動して、そこからまた考える。
それで若い頃に何度も失敗したんだけど。
そういう性分だから、仕方ない。
私はスマホを手に取ると、松井さんに電話をかけた。
離婚した後、大学時代の友達が紹介してくれた不動産会社に就職し、私は昴と2人で暮らしている。
離婚前は昴を私立中学に進学させようと考えて、その準備もしていたし、和樹から塾の費用も学費も援助すると申し出があったけど、断った。
当てにならない人間は当てにしない。
離婚する時、和樹は昴との定期的な面会を望んだが、昴自身が拒否した。
私は別に父親の存在まで否定するつもりはなかったけど、昴がイヤだと言うのだから仕方がない。
武士の情けで、公正証書には和樹と昴の両方が希望したら面会すると入れておいた。
一時期は昴もさすがに精神的に不安定になった時期もあったけど、私の実家のフォローもあって、今は元気に過ごしてくれている。
私はといえば、専業主婦だった毎日から、9時半から5時半まで不動産屋の事務員として働く生活になった。
事務員でも手当がつくと聞いて、独学で宅建もとった。
離婚して3年目になったけど、私がバツイチと知ると、誘いをかけてくる人もいた。
昴を置いていくわけにはいかないし、その度に断った。
まぁ、昴を実家に預けてまで付き合いたい相手がいなかったのもあるけど。
昴と2人の生活は、忙しいけど、楽しい。
贅沢しなければ、普通に暮らせるし、なにより気楽だった。
そんな日々に、突然松井さんが再び現れるなんて、思ってもみなかった。
好きだったまま、会えなくなった人。
キスもしたし、セックスもしたけど、とうとう最後まで好きだと言えなかったし、言われなかった恋。
15年前を最後に、もう二度と会えないと思っていたのに。
私は就職した時に連絡を絶ったし、しばらく経ってからバイト時代の仲間に、松井さんが転勤になったとも聞いていた。
さらに私は結婚して実家から離れた街に移り住んだ。
ずっと、松井さんは例の彼女と結婚したんだろうと思っていた。
今暮らしているこの街も、勤め先の不動産会社も、バイトをしていた上野とも、松井さんが住んでいた街とも、私の実家とも、あまり縁がない街なのに。
どうして今、松井さんと再会しちゃうんだろう。
離婚していなければ、素直に懐かしさを感じて、昔の大事な思い出の人と会えた驚きだけで済んだはずなのに。
私が離婚という荒波を乗り越えられたのは、昴がいたからだ。
我ながらお人好しだなと思うけど、和樹からも相手の女からも慰謝料は取らなかった。
その代わり、財産分与はきっちりしたし、昴の親権も取った。昴の養育費は一括で払ってもらった。
落ち込まなかったといえば嘘になる。
でも、修復不可能になった夫婦関係にズルズル拘るのはイヤだった。
私は私を好きだと言ってくれる和樹が好きだったから、他の女に向いてしまった和樹への愛情を冷ますのも、それほど難しくはなかった。
昴さえ、ちゃんと育てられればいい。
公正証書を作り、離婚届に判を押した。
離婚届を持ってきた和樹は、私の前で泣いた。
申し訳ないことに、私はそんな和樹を見ても、すでに何の感情も湧かなかった。
「さようなら。お幸せに」
嫌味のつもりではなく、そう言ったのだけど、その言葉で和樹は号泣したので、なんだか私が和樹をいじめているような気にさせられた。
まぁ、振られることには慣れてるから。
適当な付き合いを色んな男の子と繰り返した学生時代。
あれも役に立ったのかもしれない。
一番好きだった人とは付き合えなかったし。
とりあえず、家庭を持ったのに、家族を命懸けで守ろうとしなかった男に用はない。
大事な昴は、私が命懸けで育てるから。
私は泣き続ける和樹を無視して、一人で役所に行き、離婚届を提出した。
私は和樹が好きだった。
結婚相手としての条件が申し分ないということよりも、私を好きだと言ってくれる和樹が好きだった。
和樹はまっすぐな性分で、駆け引きも必要な商社の中では珍しく、誠実さが信用される仕事をする人だった。
結婚して数か月後には私は妊娠し、出産前に仕事も辞め、昴が生まれて3人家族になった。
和樹は仕事が忙しくて、なかなか家族サービスに手は回らなかったけど、家にいる時は昴のオムツも替えてくれたし、お風呂も入れてくれた。年に一度は旅行にも行った。
和樹の実家は仙台だったけど、たまに会う和樹の両親も優しかった。
絵に描いたような、幸せな結婚生活だった。
それが狂ったきっかけは、昴の怪我と、和樹の転勤だった。
昴は小学校4年生の時、運動会の練習中に腕を骨折した。
幸い利き手ではなかったし、後遺症が残るような怪我ではなかったが、完治までは何回か手術とリハビリが必要だった。
間の悪いことに、和樹には出向で仙台へ転勤するという話があり、当初は家族で仙台へ行く予定だったのに、昴の治療スケジュールを考え、和樹が単身赴任することになったのだ。
仙台なら行き来がそれほど大変という距離でもないし、私も和樹もあまり深く考えずに単身赴任を決めた。
仙台での生活が落ち着いた頃は、毎週末のように帰って来ていた和樹が、段々仕事を口実に帰って来なくなった。
電話も滅多にして来なくなった。
とてもわかりやすい流れで、和樹は仙台で恋人を作っていた。
そのことを情報通の和樹の同僚の奥さんから聞いた時には、既に予想していたことだったけど、あまりの分かり易い和樹の行動に、私はつい声を立てて笑ってしまった。
良くも悪くも肉食系の和樹。
嘘のつけない不器用な和樹。
情の深い和樹。
私は悟った。
あぁ、私は捨てられるんだな、と。
大学では法律もかじった。同級生には弁護士になった子もいる。
いくらでも制裁はできたけど、私はしなかった。
ただ、こんなに簡単に捨てられてしまう妻だった、こんなに簡単に壊れてしまう家庭だった、それがただ悲しかった。
こんなに簡単に壊れてしまうものを、私はなんて必死に守ろうとしていたのかと。
☆☆☆☆☆
今日は会社が休みで、いつものように昴を学校に送り出した後は、洗濯し、仕事の日より丁寧に掃除をし、布団を干した。
夕べの残り物でお昼ご飯を済ませ、コーヒーを飲みながら、テーブルの上に置いてあった財布を手に取った。
財布を開けると、クレジットカードの後ろに、1枚名刺が入っている。
松井さんの名刺だ。
名刺を裏に返すと、携帯電話の番号が書かれている。
先週の金曜日に偶然松井さんに再会してから、何度もこの名刺を出しては、自分のスマホを手に取るのだけど、なかなか電話をかけることができないでいた。
15年前、最後に松井さんと過ごした夜。
私は自分から松井さんに抱かれに行ったことで、松井さんへの気持ちを封印することができた。
私は松井さんとは付き合えない運命だったんだな、と思う。
でも、付き合えなかったからこそ、思いが残った。
だって、付き合っていなかったから、喧嘩したり、相手に不満を持ったりすることもなかった。付き合ってないから、別れる、ということもなかった。
だから、好きだという気持ちだけが、消化されないまま、私のどこかに残った。
でも、私は松井さんと付き合わなくて良かったような気もしていた。
「松井さんは、女に甘いから…」
私は一人苦笑いした。
もし、松井さんが私の恋人だったら、甘やかされて甘やかされて、若い頃の私は、ダメな女になっていたような気もする。
私は大学卒業後に就職して、金属製品のメーカーで営業アシスタントをしていた。
社会人の生活は、ぬるま湯だった学生生活や楽しいばかりだったアルバイトに比べれば厳しかったけど、それなりに楽しかった。
上司や先輩にも恵まれて、入社半年後には他社との共同プロジェクトチームにも入れてもらえた。
まぁ、雑用係が必要だっただけなのだけど。
その時に知り合ったのが、共同プロジェクトに参加していた商社にいた和樹だった。
和樹は私の5歳上で、今で言うところの肉食系の商社マンだった。
仕事もバリバリしながら多趣味で、友達も多かった。
私にも積極的だった。
初めて食事に誘われてから付き合うまでは半月。プロポーズされたのは付き合って半年後。
あれよあれよという間に、私は24歳で和樹の妻になった。
ゆきはバッグからスマホを取り出して時間を見た。
「そろそろ帰らなくっちゃ」
「メアド、教えて」
俺がそう言うと、ゆきはレシートの裏にメールアドレスを書いてくれた。
「subaru~@~」と、子どもの名前と数字を組み合わせたアドレスだった。
「また、会える?」
「うん。時間とれたら」
ゆきが立ち上がったので、俺も一緒に立った。
なんとなく連れ立って駅に行き、同じ電車に乗った。
混んでいるというほどではなかったが、座席は空いていなかったので、ゆきと並んでドアの前に立った。
ゆきは窓から外を眺め、俺の視線に気付くと目を細めて笑顔を返してくれた。
2駅先がゆきの最寄駅だった。
「じゃあ、メールするから」
「うん」
ゆきは軽く手を振って電車を降りると、すぐには階段へ向かわずに、俺を見送るようにホームに立った。
シュー
駅員のアナウンスの後で笛とドアの閉まる音がして、俺とゆきの間でドアが閉まった。
ゆきは手を胸の辺りで小さく手を振り、口がゆっくりと動いているのが見えた。
でも電車が動き出し、ホームに立ったゆきは、すぐに俺から見えなくなった。
ず っ と あ い た か っ た
俺にはゆきがそう言っているように見えた。
「バツイチか」
ゆきがさらっと笑って言うので、俺もあまり深刻にならずに話が聞けた。
ゆきは就職して半年後に取引先の商社マンと付き合うようになって、24歳で結婚した。25歳で子どもを産んで、35歳で離婚。
離婚してすぐに、今の不動産会社に就職したらしい。
「何言っても悪口になるから、離婚の理由は内緒~」
ゆきはそう言った。
子どもは1人で男の子。ゆきが育てていて、今は中学1年生だという。
「昴っていうの。今年から中学生。バスケ部に入ったの」
「ゆきがお母さんか。すごいな」
「堪え性なくて離婚しちゃったからね、ダメ母だと思う」
その言葉からは離婚の理由までは想像できなかった。
「子どもがいるから、夕方までなんだね」
「うん。ゴハン作らないといけないから。部活して、お腹すいた!って帰ってくる」
「想像つかないな」
「なにが?」
「ゆきが母親してるところ」
あらためて見ても、ゆきはこの間思ったように、37歳には見えなかった。
昔と同じように、相変わらずほっそりしていたし、顔にもシワなんか見えなかった。
「ちゃんと仕事して家事してるよ」
「そういう意味じゃなくて、まだ独身みたいに見えるから」
「相変わらず、口がうまいのね」
ゆきは嫌味っぽくない口調で、嫌なことを言った。
「松井さん、変わってないね。年とってないみたい」
「俺は身軽だから」
電車で移動し、言われた駅で降りると、ゆきが言ったコーヒーショップはすぐに見つかった。
店内を見回すと、奥の方のカウンター席でゆきがすぐに気付いて手を挙げてくれた。
「どうせまだタバコ吸ってるんでしょ?喫煙席にしておいた」
俺が隣に座るとゆきはそう言って笑った。
「うん、止められない」
俺は注文したコーヒーを置いてから、灰皿を取ってきて、ゆきと並んで座った。
「この間、びっくりした」
ゆきはまだ中身が半分以上残っているカップを弄びながら言った。
「俺も驚いたよ。あんなところでゆきに会うと思ってなかったから」
「そうだね。特に何があるって場所じゃないもんね」
「15年ぶりか」
俺はタバコに火を点けた。
「そうだね。最後に会ったのは私が大学を卒業する年だったから」
「全然変わらないから、驚いたよ」
ゆきは薄い黄色の半袖カーディガンに細いジーンズという格好だった。
「もうオバチャンだよ。でも、すぐに気がついてくれたから、満更嘘でもない?」
「うん、すぐにゆきだって気がついた」
俺はそう言いながら、ゆきの左手に目をやった。薬指に指輪はなかった。代わりに右手の中指にファッションリングが見えた。
「松井さん、今日はお休み?奥さんは?」
ゆきはさらっと核心をついてきた。
「残念ながら、ずっといない」
「あの時の彼女と結婚したんだと思ったのに」
「うーん、あの後、1年くらい付き合ってたけど、まぁ色々あって」
「ふーん」
ゆきの表情からは、このことについてどう考えているかは読み取れなかった。
「ゆきは?結婚したんだろ?」
そう聞くと、ゆきは両手を交差して見せた。
「へへ、バツついちゃった」
クリーニング屋に行った後、思いついて駅から電車に乗った。
この間ゆきに会った場所へ行こうと思い立ったのだ。
俺の最寄駅から2駅目で乗り換え、そこからまた2駅。
駅から出て、ゆきとばったり会った駅前商店街を歩いた。
ゆきが働いているという不動産会社の名前を思い出し、その前まで行ってみたが、その会社のビルはシャッターが閉まっていた。
「そうか、今日は水曜だったか」
同じような業界にいるというのに、不動産屋の定休日が水曜だということを今思い出した。
ゆきと再会したのは、先週の金曜だった。
ゆきから電話はない。
よく考えたら、37歳になったゆきには家庭があるのだろう。
会った時には、思いもかけない再会に舞い上がって、後先考えずに連絡先を手渡してしまったが、そういうことなら連絡がなくても不思議はない。
なんだか馬鹿らしくなって、俺は元来た道を引き返して駅に向かった。
駅に着いた時に、ジーンズの尻ポケットに入れていたスマホが振動した。
画面には見慣れない番号が表示されていた。
会社では専用のガラケーを持たされているので、これは完全にプライベート用だ。だから客や会社の人間からの電話ではないはずだった。
ちょうどゆきのことを考えていたタイミングで電話がかかってくるわけもない、と思いながら出ると、ゆきだった。
「松井さんですか?ゆきです」
俺がゆきの都合を聞くと、夕方までなら時間があると言った。
俺が今いる場所を言うと、ここから4駅離れたターミナル駅のそばのコーヒーショップで会おうと言われた。
☆☆☆☆☆
久しぶりの休みだった。
9時頃に起きて3日分の洗濯をし、狭い部屋を掃除すると、昼にはやることがなくなってしまった。
面倒なので、正午をだいぶ回ってから、買い置きのカップ麺で朝昼兼用の食事を済ませ、タバコを吸いながら窓から外を見ると、窓の下の道を黄色いカバーをつけたランドセルを背負った小学生の男の子が1人でヨタヨタと歩いているのが見えた。
「今日は何曜だったかな…」
先週はなんだかんだと仕事があって、休みが潰れてしまった。今日はその代休だ。
マンション販売という商売柄、週末は書き入れ時で、基本休みは平日にしか取れない。
なんとなく目で追っていた小学生の黄色い帽子から視界から消えたので良く見ると、その子は道端に何か見つけたのか、しゃがみこんでなにやら熱心にいじっているようだった。
「クリーニング屋にでも行ってくるかな」
俺は仕事用のワイシャツを何枚かビニールバッグに入れると、アパートから出た。
5月の連休明けで、もう汗ばむ陽気だった。
「あっちーな…」
俺は駅前のクリーニング屋まで10分くらいの道のりをブツブツ言いながら歩いた。
今の仕事を始めてから、5年くらいになる。
貴重な休日に出かける先がクリーニング屋しかない。
俺の代わりにワイシャツにアイロンをかけてくれる人はいないということでもある。
40歳の独身男の侘しい現実だった。
さっきアパートの窓から見た小学生の姿を思い出す。
本当は俺にもあれくらいの子どもがいてもおかしくないんだな。
いや、待て。さっきの子はどう見ても1年生という感じだったから、6歳くらいか。40ひく6で34。34歳の時の子なら、さらにもっと大きい子どもがいてもおかしくないのか。
意味のない計算に、俺はなんとなくげんなりした気分になった。
☆☆☆☆☆
確かに「またね」だった。
実際、何度かゆきのバイト先で顔を合わす機会はあった。
でもその後、ゆきは卒業してバイトを辞め、俺に連絡が来る事はなかった。
メアドも、携帯の番号も、いつの間にか通じなくなっていた。
「またね」
それが15年後になるとは、俺もゆきも、まったく考えてはいなかった。
☆☆☆☆☆
克己とゆきは、朝まで眠った。
外が明るくなりかけていることに気付き、ゆきはベッドから出ようとしたが、克己の手でベッドの中に戻された。
「俺から離れたらダメだよ」
「どこにも行かないのに」
「ここにいて」
そう言いながら、カーテンの隙間から漏れる光の中で、また克己とゆきは抱き合い、求め合った。
再び昼近くまで2人で眠った後、ファミリーレストランの出前を取って、朝と昼の兼用の食事をした。
そして夕方になるまで、ゆきは外の気配を気にしながらも、また克己の求めに応えた。
「そろそろ帰る」
ゆきは役所が子どもの帰宅を促す放送が聞こえる中、ベッドから起きた。
「…そっか」
ゆきは身支度を終えると、克己の首に腕を回してキスをした。
「ずっと一緒にいられて、嬉しかった」
「もっと、一緒にいたかったよ」
もう一度キスをすると、ゆきは上着を着て玄関に向かった。
「送るよ」
克己も上着に手を伸ばしたが、ゆきが首を横に振った。
「ここがいい」
「どうして」
「キスしてバイバイしたいから」
「ゆき」
克己とゆきはもう一度抱き合って、少し長くキスをした。
「またね」
そう言って、ゆきは笑って出て行った。
☆☆☆☆☆
もう一度この腕でゆきを抱けると思わなかった
笑ったり怒ったりするゆき
俺の腕の中で快感に震えるゆき
このまま俺のものにしたいと
何度も思った
この細い体を
切なげな顔を
俺だけのものにしたいと思った
でも
俺にはそんな資格はなかった
☆☆☆☆☆
嬉しかった
松井さんの全部が
このときだけは
私のものだと思えた
ごめんなさい
顔も知らない松井さんの彼女
一瞬だけでいいから、私に松井さんをください
あんなに愛してもらって
何度も愛してもらって
本当に嬉しかった…
下着をとらないまま、ゆきの体は、克己の手で何度も激しく震えさせられた。
何度目かにゆきは克己に懇願する目を向けた。
「もう…お願い」
「強情だったね」
克己はそこでやっと自分も着ているものを脱ぎ、ゆきの下着も取った。
克己の手が直接触れると、ゆきはまたすぐに登りつめた。
「ホントにゆきは感じやすい…」
「松井さんだから…」
「本当?」
「私…ここまで、なったこと、ない」
「この間より、すごいよ」
克己がそこに触れただけで音が響いた。
克己を求める言葉をゆきが自分から口にした。
ゆきは克己に促され、仰向けになった克己の上で、自分から克己を受け入れた。
「松井さん…」
ゆきはゆっくり動きながら、克己の手を握った。
「松井さんと、したかったの」
「俺もだよ」
「だから、会いたかったの…」
「俺も、会いたかったよ」
「嬉しい……」
「ゆき」
克己はゆきと体を入れ替え、ゆきがまた何度か登りつめるのを見届けてから、最後には一緒に果てた。
「バイト中に松井さんがいると、恥ずかしかった」
「思い出してた?」
克己はゆきの着ているシャツのボタンを外しながら言った。
「考えないように、頑張ってた」
「俺はいつも考えてたよ」
克己はゆきを下着姿にして、下着のないところに手を滑らせた。
「ここにキスすると、ゆきが感じてたな、とか」
克己の舌が、ゆきの首から胸元まで這った。
「脇とか、背中にもキスしたかったのに、しそびれたなとか」
ゆきは腕をあげさせられ、克己は言葉通りに動いた。
「もっと焦らして、いじめれば良かったなとか」
克己の手が下へ動いて、下着の中心を軽く撫でた。
克己が動くたびに、ゆきは声を殺して体だけが反応した。
「いじめないで…」
「いじめられてるゆきが可愛いのがいけないんだよ」
「もう…Sなの?」
「ゆきにだけかな」
克己の指が動き、ゆきは体をのけぞらせた。
駅のタクシー乗り場でタクシーに乗り、克己のアパートに行った。
部屋に入り、克己が照明をつけると、部屋の中はあの夜とほとんど変わっていなかった。
克己が自分とゆきが脱いだ上着をハンガーにかけていると、克己の背中からゆきの両腕がするっと巻き付いてきた。
「私ね、嘘つきだったの」
克己の背中でゆきが言った。
「嘘つき?」
ゆきの手を探り、その甲を撫でながら克己が聞いた。
「うん。私はずるいから。いつも、嘘ついてた。私は松井さんが思っているほどいい子じゃないの。でも、嫌われたくないから、松井さんがいい子だと思ってくれるような女の子のフリをしてたの」
克己はそっとゆきの両手を外して、ゆきの方へ体を回した。
「俺はゆきがどんな子でも、嫌いになったりしないよ」
克己はゆきの手を取って、ゆきを膝に乗せるようにしてベッドに腰かけた。
「松井さんは、いつも私に優しいね」
「ゆきは特別だって、言ってるだろ」
「松井さんがそう言ってくれるから、私がワガママになるんだよ」
「別にワガママでもいいよ」
「ホント?」
「うん」
ゆきは少し体をずらして、克己に顔を寄せた。
「じゃあ、キスして」
「それがワガママなの?」
「うん」
ゆきはそういいながら軽く克己にキスをした。
「キスしてっていったのに、自分からしてきた」
「したかったんだもん」
「俺だって、したいよ」
克己はゆきの膝の下から抱えて体を入れ替え、仰向けに倒れたゆきに、さっきのゆきと同じようにキスをした。
「もっとして」
「お互いしたいと思ってることは、ワガママって言わないよ」
「じゃあ、キスだけじゃ、イヤ」
「それも、同じだから、ワガママじゃないよ」
ゆきのくすっという笑い声のあと、長いキスになった。
☆☆☆☆☆
「少し歩きたい」
店を出た時ゆきがそう言い、どこへ向かうでもなく、並んで歩きだした。
線路の上を通る歩道橋の階段を上り、克己はそこでゆきの手を握った。
「まだ夜は寒いな」
「うん」
手を繋いでゆっくり歩いた。
「あのね、今日は素面で会いたかったの」
ゆきが克己の顔を見上げて言った。
「酔ってると、キスしちゃうから?」
「ううん。酔っ払ってない時に、キスしたかったから」
立ち止まって克己がゆきの方を向くと、ゆきは少し困ったような顔で克己を見つめ返した。
「会いたかったの」
克己がゆきのもう片方の手も取ると、ゆきの体が引き寄せられた。
「ちゃんと会いたかったの」
ゆきは克己の肩に顔を埋めて言った。
「彼女がいるのはわかってる。でも、会いたかったの」
「ゆき…」
克己はそっとゆきを抱きしめた。
「松井さんちに、連れてって…」
松井さんに会う口実はあった。
卒業旅行でハワイに行った時に、お土産を買っていたから。
久しぶりに電話をかけると、松井さんが2人で卒業祝いをしようと言ってくれた。
約束した日はバイトだったけど、上がる9時までが長く感じた。
そわそわしているのがバレて、店長から「デートか?」とからかわれたので「そうですよ」と言っておいた。
バイトが終わり、松井さんと約束した駅まで電車で行くと、改札口で松井さんが待っていてくれた。
松井さんの顔を見たら、なんだか切なくなったので、わざと「お腹すいた!」と言って、自分を励ましてみた。
店に着いてからも、頑張ってテンションを上げた。
今日は飲まないと宣言して素面だったけど、幸い、話のネタはたくさんあった。
でも、一通り話し終わると、それを待っていたかのように、松井さんが彼女を妊娠させて、しかも中絶した話をした。
正直、ショックだった。
妊娠と中絶という話がショックだったんじゃない。
松井さんの言葉の端々に、彼女を労わる気持ちが見えたのと、そんなことがあっても、松井さんと彼女は別れる気配もなかったことが、ショックだった。
それだけ彼女は松井さんを愛してるんだろうし、松井さんもそんな彼女を大切にしてるんだろうということに、私は打ちのめされた。
松井さんは彼女がいても、いつもゆきは特別だと口癖のように言ってくれた。
私もそうなんだと自惚れていたから、付き合わなくてもいいと思っていた。
でも、本当はそうじゃなかった。
私は、松井さんが好きだった。
彼女より大事にして欲しかった。
私は本当に嘘つきだった。
松井さんへの気持ちを、終わりにしたいと思った。
☆☆☆☆☆
もうすぐ卒業。バイトももうすぐ卒業。
就職したら、新しい環境で、きっと忙しい毎日になるんだろう。
好きな人も、できるかな。
忙しさがひと段落して、私は松井さんに会いたいと思った。
バイトに行けば時々松井さんと会う。
でもそうじゃなくて、ちゃんと話をしたいと思った。
初めてデートした時も、お正月の時も、私はお酒に酔っていた。
酔った勢いでキスして、酔った勢いでセックスまでして。
酔っていたことを言い訳にして、どっちもなかったことのようにしている。
お酒の力を借りないで、松井さんと会いたかった。
予定を詰め込んで忙しくして、考えないようにするのも、限界だった。
彼女がいることはわかっている。
それでもいいから、会いたかった。
けじめをつけるとか、そんなことじゃなくて。
松井さんと離れる前に、もう一度、ちゃんと会いたかった。
「今日は飲まない!」
席についてメニューを広げるなり、ゆきは子どもが威張って言うように宣言した。
「酒、弱いもんな」
「このかぼすソーダっていうのにする」
俺が店員に飲み物を注文すると、ゆきは楽しそうにメニューを隅々まで見て、食べたい物をいくつか決めた。
「お土産お土産」
ゆきはバッグの中からビニールバッグを取り出した。
「コナコーヒーなの。すごく気に入って、毎日何度も飲んでたから、自分の分もいっぱい買ってきちゃった」
「ありがとう。そういえばコーヒーメーカー、どっかにあったな」
「うん、彼女と飲んで」
……これは牽制されているんだろうか
今日は飲まない宣言してるし
でもゆきは特に普段と変わらない様子で、運ばれてきた焼き鳥をいかにも美味しそうに食べている。
気にしないことにして、俺も皿に手を延ばした。
ゆきはハワイで楽しかった場所の話をたて続きにし、その前に行ったという大学の友達との温泉旅行の話をし、その時に別れた彼氏の愚痴を聞かされたと文句を言い、とにかく楽しそうに喋り続け、俺はうんうんと相槌をうった。
俺が最初のビールから日本酒に切り替えた頃、やっとゆきのテンションが落ち着いた。
俺はそこでずっと気になっていた話を切り出した。
「こんなこと聞くのもナンだけど、ゆき、生理きた?」
ゆきはマンガみたいに「ぶっ」と口にしていたストローを吹いた。
「びっくりした~。もぅ。…でも心配してくれたんだ。うん、大丈夫。あの後、週明けくらいに来た」
そう言って、さすがに少し照れくさそうに顔を赤くした。
「そうか、良かった」
「いくらなんでも、私も危なかったら言うし…」
あの日は危ない日ではなかったという意味だろう。
「由香里が、俺の彼女が妊娠したんだ」
「…え」
ゆきがすっと真顔になった。
「まぁ色々話したんだけど、今回は、堕ろした」
「…そう…」
「だから、ちょっと心配になったんだ」
「うん、大丈夫」
少しの間、気まずい空気になったけど、元気な店員がゆきの注文したアイスクリームを持ってきて、なんとなくまた場が和んだ。
それからまたしばらく話しながら俺はもう1本日本酒を頼み、ゆっくりとしたペースで空けてから、2人で店を出た。
☆☆☆☆☆
「ハワイに行ってきたの!」
ゆきは電話口で楽しそうにそう言った。
「へー、楽しかったみたいだね」
「うん、年取ったらハワイに永住したいくらい」
3月、ゆきから久しぶりの電話だった。
ゆきのバイト先では顔を合わせていたが、世間話の端々から、ゆきが大学の卒業を控えて、色々と忙しく過ごしていることは知っていた。
「松井さんにもお土産買って来たの」
ゆきがそう言うので、お土産をもらうついでに卒業祝いをしてやろうという話になり、お互いの次の休みの前の晩に会う約束をした。
約束の日、早番だった俺は一度アパートに帰ってから、最寄り駅から2駅隣の駅まで行った。
ゆきが俺のおすすめの店に行きたいと言ったから、女の子でも入りやすい店構えの焼き鳥と日本酒を出す店を予約しておいた。
ゆきは9時までバイトして、直接待ち合わせした駅の改札までやってきた。
「お腹すいた!」
会った第一声がそれだった。
この日ゆきと会うのに、俺も何も考えなかったわけじゃない。
あの夜以来、俺とゆきの間には何もなかったような関係が保たれていた。
でも、会ってしまったら、俺はまたどうなるか分らない。
それでも、俺はゆきに会いたかった。
もうすぐバイトも辞めて、俺から離れていってしまうゆきと、やっぱり会いたかった。
屈託のない笑顔を見て、俺はほっとした。
そうだ、俺はゆきのこういう所が可愛くて仕方ないんだ。
俺はゆきと連れ立って、店に向かった。
☆☆☆☆☆
とりあえず、何もなかったことにしよう
それが私のとりあえずの結論だった。
あの夜のことを忘れられるわけもない。
でも、松井さんには彼女がいる。お互いそれを承知の上だった。
考えれば考えるほど、あの夜を思い返すほど、私の気持ちが松井さんに傾くのは解っていた。
だったら考えるのをやめよう。
いつもと同じようにしていよう。
そうしているうちに、今は自分に嘘をついている所も、いつか本当になるかもしれない。
たまに大学へ行って、毎日バイトに行って、友達と遊んで
忙しく過ごしていれば、余計なことは考えずに済んだし、卒業までの自由な時間は純粋に貴重で楽しかった。
大学の後期試験が終わった後には、ゼミの仲間と鬼怒川温泉にお別れ旅行に行った。
その面子には秋に別れた康太もいたけど、康太はすでに別の彼女ができていて、その彼女の愚痴を飲み会の席で延々と言うので、これも元彼女の務めと思って聞いてやった。
ゼミの中で一番仲良くしていた男の子とは、みんなが見ていないところでキスもした。
友情のキスといったところか。
女の子の人数は少なかったから、飲み会がお開きになった後に、一部屋に集合して恋バナ大会もした。
話すと自分がどうなるか分らなかったから、松井さんのことはみんなに内緒にしておいた。
旅行に行った後は、卒業式で着る袴の用意をしたり、高校時代の親友と卒業旅行でハワイへ行ったり、それ以外はやっぱりバイト中心の生活だった。
忙しく過ごしているうちに、3月になっていた。
正月に帰省していた由香里が帰ってきたので、由香里のアパートへ行った。
そこで俺は、由香里から妊娠したと告げられた。
もちろん、驚きはしたが、意外な話ではなかった。
俺も由香里も避妊がいい加減だったから、あぁそうか、出来たのか、という感想だった。
由香里には入籍して子どもを産もうと言った。
でも由香里は「産めない」と言った。
お世辞にも幸せに育ったとはいえない女。精神的に脆いところもある。
俺と付き合う前は心療内科での治療が必要な時期が長く続いていたらしく、今もたまに薬の世話になることがある。
由香里は妊娠、出産、育児をしていく自信がないと言った。薬の影響も怖いと。
俺はパチンコ屋とはいえ正社員だし、会社は関東一円に店舗を持っている。由香里と子ども1人くらい、贅沢はさせられないけど養ってやれる。体調は一時期より悪くないんだし、薬だって今は強いものを使っているわけじゃないんだから、医者に相談してみればいい。
俺はそう言ったが、由香里は「うん」とは言わなかった。
それ以上、俺にしてやれることはなかった。
中絶費用を銀行から下ろし、手術の日には送り迎えをした。
由香里のアパートに戻り、俺は横になった由香里の手をさすってやることしかできなかった。
☆☆☆☆☆
あの夜のことは夢だったのか?
俺がそう思うくらい、以前と変わらない日常に戻った。
あの後初めて、ゆきのバイト先のレストランでゆきと顔を合わせた時、ゆきはまったく以前と変わらなかった。
俺を避けるでもなく、馴れ馴れしくするでもなく、ただ普通だった。
笑顔も見せてくれたし、軽い世間話もする。
「天皇杯、楽しかった~。ありがとう!」と絵文字入りのメールも来た。そのまま今村にも同じメールが行ったんじゃないかというような文面だった。
それでいいんだろう。
俺はゆきに何か言えるような男じゃない。
もうすぐゆきは大学を卒業して、バイトも辞めて、就職する。
今は彼氏もいないが、ゆきならすぐに良い男が現れて、そのうち結婚して、子どもを産んで、幸せに生きていくんだろう。
その相手が俺じゃないことは、確実なんだろう。
俺はゆきをセフレにしたいわけじゃない。
でもちゃんと付き合いたいかと言えば、ゆきを幸せにしてやる自信もなかった。
ただ、やっぱりゆきは特別な存在であることに、変わりはなかった。
克己とゆきは抱き合って眠った。
少し眠ってどちらからともなく目覚めて、克己はゆきを求めて、ゆきも克己に応えた。
何度となく繰り返しても、飽きる事がなかった。
そのたびにゆきは何度も体を震わせ、克己はゆきを抱きしめて果てた。
さすがに力尽きた克己が深く眠った明け方、ゆきはそっとアパートから出て行った。
始発の電車に乗ったゆきは、まだ克己の気配を全身に感じながら、電車に揺られていた。
愛を指すような言葉は、とうとう最後までお互い口にしなかった。
ゆきは、それでいいと思った。
ゆきの中が、ゆっくりと克己で満たされていった。
「……松井さん…」
ゆきは両手で克己の頬を撫でた。
「ゆき、可愛いよ」
克己がそのままゆきにキスすると、ゆきは背中に手を回した。
「ゆきの中、熱い」
「松井さんも、熱い」
「やっと繋がれたのに、動いたら、すぐ終わっちゃいそうだ」
「いいよ…」
克己がゆっくりと動き出した。
その動きに合わせて、ゆきは切ない声をあげた。
「あっ、ごめんなさい……もぅ…」
「いいよ…何度でも…」
克己が動きながらゆきを抱きしめると、ゆきの全身が痙攣した。
「ゆき…」
ゆきの快感が克己に伝わり、克己も顔を歪めて堪えた。
「もっと、していたい」
「…なんど、でも……して」
克己は耳元をゆきの囁きにくすぐられ、すぐに再び高まっていたゆきと一緒に果てた。
「松井さん…私、もう」
「もう、何?」
「もう、ダメ…」
「ちゃんと言ってごらん」
「…言えない」
「ゆきに、おねだりして欲しい」
「恥ずかしいよ」
「ここが、こんなになってるから?」
「あっ……だから…っ……もう…」
「言って」
「あっ…い、いれて、ください」
「やっと言ってくれた…俺も限界だよ」
☆☆☆☆☆
「あっ…ダメ…」
ゆきは克己から逃れようと腰を捻った。
克己はそれを許さず、ゆきの反応を追いながら舌や指を執拗に動かした。
「ダメ……お風呂…入ってないのに」
「ゆきは綺麗だから、大丈夫」
「でも…」
克己は返事の代わりにゆきが一番反応する部分に手を伸ばし、漏れてくる声をキスで塞いだ。
「……!」
ゆきの体が大きく震え、うわごとのように「ダメ」という囁きが続いた。
それでも克己は動きを止めなかった。
「もっと感じてるゆきが見たい」
ゆきの中を指でかき回しながら、克己はゆきの舌を吸った。
「もっと…?…ムリ…私」
克己はこの何時間かの間に知ったゆきが反応する部分を丁寧に攻めた。
ゆきは克己が思う通りに反応した。
大きな波が来そうになると、克己はわざと手を止め、そのたびにゆきは切なげに顔を歪めた。
「…どうして欲しい?」
「…もっと…して」
「何を」
「どうして……そんな意地悪言うの…」
「もっといやらしいゆきが見たいから」
「松井さんが……松井さんが……私を…こんなに」
克己の指が激しく動いて、ゆきは声にならない声をあげながら何度目になるのか、また大きく体を震わせた。
☆☆☆☆☆
俺の腕の中にゆきがいた
ためいきも
俺を求める手も
体のどこもかしこも
熱かった
ゆきが身をくねらせるたび
俺の中も熱くなった
恥ずかしいと言いながら
俺の手に、脚に、絡みつく
もっともっと乱れさせたい
今だけはゆきの中を俺だけで満たしたい
俺も今はゆきしか見えない
☆☆☆☆☆
松井さんの手も唇も
どこもかしこも
電気が流れているみたいだった
松井さんの手が私の体に触れるたび
唇が押し付けられるたび
舌が這うたび
脚が絡まるたび
私の体は松井さんの全てに反応した
嬉しさに心が震えた
そう
私は松井さんに抱かれたかった
ずっと
Tシャツとジーンズを脱がせると、ゆきは下着だけの姿になった。
「ゆきは本当に色が白いな」
克己はゆきの両脇に手を付いた姿勢で見下ろしながら、下着姿のゆきを見て言った。
「明るいと、恥ずかしい」
「ダメだよ。ゆきが見えなくなるから」
克己はそのままゆきに覆いかぶさり、さっきより激しく唇を吸った。
「…ずるい……私だけ…」
「ふたりで暖かくなろうか」
克己は着ているものを全部脱ぐと、ゆきの背中に手を回して抱きしめた。
「折れちゃいそうだ」
ゆきの細い体が、克己の中を熱くさせた。
背中に回した手をそのまま下に動かし、お尻の方から下着の中に手を伸ばすと、すべすべした肌の奥に指が滑り込んだ。
「あ」
「まだなんにもしてないのに…キスしただけでこんなになっちゃうんだ」
「や……だって……」
「熱いよ」
克己の指が動くと、抑え切れない声がゆきの口から漏れた。
「全部見せて」
克己はゆきの下着を全部取った。
「綺麗だね」
ゆきは怒ったように何かを言おうとしたが、克己に乳首を口に含まれ、体を震わせて、言葉にならなかった。
「そんなに、見ないで」
途切れ途切れにゆきが言った。
「ここも見たらダメなの?」
克己がゆきの脚を開かせ、さっきよりも熱くなった部分に口をつけると、「あぁ」とため息のような声をあげた。
「ゆき、ホントに寒がりなんだね。何枚着てるの」
ゆきが着ていたニットのワンピースを脱がせながら克己は笑った。
ニットの下からフリースのハイネックが現れたからだ。
「だって、寒いんだもん」
「俺があったかくしてあげるよ」
ゆきはハイネックの下に長袖のTシャツを着ていた。
「これ…」
ゆきの鎖骨の辺りに細い金のチェーンが波打っていた。
克己がチェーンの下に指を滑らせると、ゆきの肩がぴくりと動いた。
「松井さんがくれたネックレス…」
「つけてくれてたんだ…」
克己がそう言いながらチェーンに沿って唇を這わせると、ゆきは小さく「あっ」と声を漏らした。
克己はそのままゆきの首筋から耳まで唇と舌をなぞるように動かした。
ゆきが軽く身をくねらせた。
「ん?」
克己がそのまま首や耳の辺りを舐め続けると、ゆきは何度か「ダメ」と言った。
「ダメなの?」
「ダメなの」
ゆきの息遣いがいつもより荒くなっていた。
「首、弱いんだね」
「ダメ…」
「ダメじゃないでしょ。もっとして欲しいんでしょ」
「違う…」
「だって、熱くなってるよ」
ゆきのジーンズのファスナーを開けて少し強引に差し込んだ克己の手には、下着越しでもわかるくらい、湿った熱気が感じられていた。
克己が挿し入れた舌は、ゆきの唇でそっと押し返された。
「酔ってるとダメだね。またキスしちゃった」
ゆきはそう言ってへへっと笑った。
「俺はずっとしたかったよ」
「彼女がいるでしょ」
「ゆきは特別なんだよ」
「また調子のいいこと言って」
ゆきの言葉は克己のキスで遮られた。
喋っていたから、今度は克己の舌がするっと入って行った。
「…松井さんに、嫌われちゃう…」
やっと聞き取れるような声でゆきが囁いた。
「どうして?」
唇が離れないように克己も囁き返した。
「…だって………私もずっと……こうしたかったから」
そう言ったゆきの手が克己の首に絡みついてきて、克己にほんのわずかに残っていた理性が消えた。
「もっとしてって言って」
「…もっと……して…」
「ゆき…ホントにお前は、可愛いよ」
克己はそう言いながらゆきに掛かっていた布団を横にどけた。
克己は短くなったタバコを灰皿で揉み消した。
ゆきを見ると、さっきから1ミリも動いていないように見えた。
克己はゆっくりとゆきの頭の横に手をついて、ゆきの耳に顔を近付けた。
「顔を見せて」
囁くように言うと、ゆきの髪がかすかに揺れた。
「狸寝入りしちゃダメだよ」
今度は普段と同じ調子で言うと、ゆきは思わずといった感じでくすくす笑いながら克己の方へ振り返った。
「さっきまでホントに寝てたんだよ」
「もう眠くないの?」
「目が覚めた。帰らないと」
体を起こしかけたゆきの肩を克己は軽く押さえた。
「顔を見せて」
「顔赤いからイヤなんだけど」
ゆきは手で顔を覆おうとしたが、克己がそっとその手を掴んだ。
「ゆきの顔が見たいんだよ」
「こんなに近いと恥ずかしいんだけど」
「可愛いよ」
克己がそう言うのと唇が重なったのは同時だった。
☆☆☆☆☆
「ゆき」
克己はそう言いながらそっとゆきの肩に手を置いた。
「風邪引くから、ベッドで寝な」
「………うん」
克己が布団をめくって促すと、ゆきは一瞬ためらったように克己の顔を見上げたが、言われる通りにベッドに入った。
克己に背を向けるように少し丸くなって横になったゆきに、克己は布団を掛けてやり、自分はその横に腰掛けた。
克己からゆきの顔は見えない。
「寒くないか?」
「……うん」
音が、消えた。
外を走る車の音もない。
アパートの他の住人の気配もない。
ゆきの寝息は聞こえない。
克己はゆきの頭の方へ手を伸ばしかけたが、その手を引き、代わりにテーブルの上のタバコをとって火をつけた。
ライターのカチ、という音がした時に、かすかにゆきの肩が揺れた。
ふぅー、と克己が煙を吐いた。
松井さんのアパートで、松井さんと今村さんと3人で飲んだ。
私はお酒に弱い。でもこの日は結構飲んでしまったと思う。
松井さんと今村さんは優しかったし、話も面白かった。
2人とも私より年上で、もう社会人だから、大学の同級生よりも大人だったし、2人とも紅一点の私を可愛い可愛いという感じで扱ってくれるのも嬉しかった。
お酒がなくなって、ジャンケンに負けた松井さんが無理矢理今村さんを連れて買出しに行くと、私は急に眠くなってしまった。
お酒に弱い上に、朝が早かった。
松井さんに可愛いところを見せようと思って、朝からクッキーなんか焼いたからだ。
ダメだと思った時には眠っていて、帰ってきた松井さんたちに起こされた。
少し眠ったからか、頭もスッキリして、また飲んだ。
それがいけなかったんだろう。
アルコールの許容量を越えてしまったらしく、気がついたらまた眠ってしまっていた。
遠いところで、今村さんが「じゃあな」と言っているのが聞こえた。
まずいな、私も起きて帰らなくちゃ。
そう思ったけど、目が開かなかった。
そしてしばらくの間、何も聞こえなくなった。
松井さんが近づいてくる気配を感じた。
その時には自分が眠ったフリをしていることを、自覚していた。
だって、松井さんの衣擦れの音が、こんなにはっきり聞こえる。
松井さんがつけている何かの香りが
松井さんがのタバコの匂いが
こんなに近くに感じていたから。
えー、そうなんだ。良かったね。
私はそんな風に言ったと思う。
松井さんがいつまでも私に執着しているようなタイプではないのはわかっていたし、何よりそのままの関係の方が居心地良かった。
付き合えば束縛したりヤキモチやいたり。
でも、付き合ってない状態だから、松井さんは私の深いところなんて見ないでひたすら「ゆきは可愛い、ゆきはいい子だ」と言えるだろうし、私も彼氏じゃないから松井さんにワガママも言えるし、甘えられる。
普通の男友達よりも近くて、彼氏よりは遠い関係。
それで良いと思った。
松井さんに彼女ができたのは、やっぱり残念だったけど。
ぬるま湯の方が居心地はいい。
そして年末近くなった頃、松井さんがお正月の天皇杯に誘ってくれた。
多分、2人だったら行かなかった。彼女に悪いなと思っただろうし。
でも、何度か松井さんと一緒にバイト先のレストランに来たことのある今村さんが一緒だというから、連れて行ってもらうことにした。
今村さんも感じの良い楽しそうな人だったから。
2人きりだともやもやするけど、3人だったらいつも一緒に遊んでいる男の子たちと同じ感覚で過ごせそうだと思った。
松井さんのアパートへ女ひとりで付いていったのも、別に危機感なんてなかった。
他の男の子のアパートにもよく行ったりしていたし、それで嫌な思いをしたこともなかった。
でも、私は根本的に間違えていた。
遊び仲間の男友達とは、うっかりキスしようがそれ以上の恋愛感情なんてまるでないけど、松井さんに対してはそれ以上の気持ちがあった。
わかっていたのに、気付かないフリをしたんだと思う。
本当に私はいい加減な女の子だったんだ。
本当に私はズルい女の子だったんだ。
☆☆☆☆☆
松井さんとのデートの後も、表面上私の生活には変化はなかった。
就職は決まっていたし、大学の講義も最低限だけ。
ただ、康太との関係は段々煮詰まってきているような気がした。
康太の束縛は卒業が見えてきて、ますます激しくなってきた。
バイトに行けば文句を言われ、友達と遊びに行けば誰と遊びに行ったか細かく聞かれ、常に監視されているような気分になっていた。
会っても電話してもケンカばかり。
卒業してお互い違う職場で働き始めたら、束縛はもっと激しくなるのが簡単に想像できて、私は康太との付き合いに限界を感じていた。
結局、秋の終わり頃、私から別れを切り出した。
最後はもめたけど、まぁどうにか綺麗に別れることができた。
松井さんとはバイト先でよく顔を合わせたけど、お互い以前とあまり変わらない感じだった。でも時々電話やメールで連絡をとるようになった。
康太とケンカした日の夜中に電話して、寝ていた松井さんを起こしてしまったこともある。
松井さんはいつも優しかった。
何をしても何をやっても怒らない。
甘やかしてくれるお兄さんみたいだった。
私にとってはその関係が心地よかった。
康太と別れた直後、私は精神的に落ち込んだ。1週間くらい、ろくに食べられなかった。
初めてまともに付き合えた彼氏。
将来のことを話し合ったこともあった。
そこまで真剣に付き合った人を、嫌いになってしまったことがショックだった。
その時は松井さんには連絡しなかった。
松井さんに醜いところを見せたくなかったんだと思う。
私はやけくそみたいに、その頃通っていた短期のパソコンスクールで知り合った別の大学の男の子と付き合ってみたりした。
当然、長く続くような付き合いはできず、すぐに自然消滅したけど、とりあえず康太と別れた後のショックは紛れた。
でも私は、康太と付き合う前と少しも変わらず、いい加減なままだった。
それでも、なんとなく立ち直った気分になってきて、バイト先のレストランが一番忙しい12月は、ほとんど休みもとらずに働いた。
バイトが終わったら、バイト仲間と遊び歩く毎日。
それはそれで楽しかった。
その頃に松井さんから彼女ができたと聞いた。
「ありゃ~寝てるわ」
玄関で靴を脱いでいると、俺より先に部屋に入った今村の声が聞こえた。
見るとテーブルにうつ伏せる体勢でゆきが寝ていた。
「無防備だなぁ」
今村が苦笑いした。
「ゆき、風邪引くぞ」
肩をゆすると、ゆきはハッとしたように目を開けた
「私、寝てた?ごめんなさい、今日早起きだったから」
「寝てると今村に襲われるぞ」
「違うだろ、危ないのは克己だって。ゆきちゃん、ちゃんとパンツはいてるか?」
ゆきはあははと笑って目をこすり、座りなおした。
そこからまた飲み直しになった。
俺と今村はウイスキーのロックに変えた。ゆきは相変わらず缶チューハイをちびちび飲んでいた。
「おい、克己。俺帰るな」
今村の声で目が覚めた。いつの間にか、今度は俺が寝ていたらしい。
携帯を手に取ると、上り電車の終電が近い時間だった。
「帰るのか」
「明日用事があるんだよ」
「そうか」
「じゃあな」
今村はもうダウンジャケットを着ていた。
「襲うなよ、っても無理か」
そう言われてゆきを見ると、ゆきはまた寝ていた。今度は床に座ったままベッドに寄りかかって、器用にも倒れずに眠っていた。
「うるせぇな」
「まぁ、俺は何も知らないということで」
「何もやらねって」
俺は玄関で靴を履く今村の背中にタバコの空き箱を投げつけた。
「じゃぁな」
今村はくつくつ笑いながら出て行った。
気をきかせたつもりなのか。
単に終電で帰りたかっただけなのか。
さて、俺はどうしようか。
ここでお利口にできるような男じゃないのは俺が一番わかっている。
電車を乗り継ぎ、俺のアパートがある駅まで移動した。
駅の近くのコンビニで食べ物と酒を買い、アパートに着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
「わー、なんにもない」
俺の部屋に入ると、ゆきはそう言って笑った。
ミニキッチンのついたワンルーム。ベッドとローテーブル、カラーボックスとパイプハンガー。
由香里が時々来るが、そんなに家庭的な女じゃないから料理はしないし、由香里の私物も置いていない。
まぁゆきの男友達のアパートも似たり寄ったりだろう。
冬だというのに缶ビールで乾杯し、下らない話をしながらの宴会になった。
ゆきは、自分のポジションを良く心得た女の子だと思う。
歳が上の男二人の中で、ニコニコ笑ながら俺や今村の仕事の話を聞き、合間にツッコミを入れ、俺や今村の冗談に笑う。
ゆきは可愛い。
ゆきのバイト中の姿をいつも見ているが、ゆきはおっさんに可愛がられる。常連客にも、店の人間も、ゆきは人によっては娘や孫だったり、妹だったり、俺を始め、歳が上の人間にとっては、とにかく可愛がったりからかったりしたくなる空気を持っていた。
実際今村も、わざとゆきを怒らせるような冗談を言っては、ゆきに叩かれて嬉しそうににやけていた。
ゆきは最初の缶ビールを半分残して、その後は缶チューハイを飲んでいた。相変わらず酒には弱いらしく、ちびちびと飲んでいた。
割と早い時間から飲んでいたので、酒が切れた。ジャンケンで買い出しに行く人間を決めたら、まんまと俺が負けた。
でもゆきを今村と二人きりにするのが嫌で、俺は無理矢理今村を引きずってコンビニへ行った。
「さみーんだよ」
コンビニからの帰り、今村はブツブツと文句を言った。
「うるせーな、ケダモノとゆきを二人きりで残してなんか行けねーだろ」
「克己のお気に入りちゃんに手なんか出さねーよ」
「わかるもんか。お前は女癖が悪くて有名だろ。大学の頃には今村とすれ違うと妊娠する、って言われてたじゃないか」
「それは克己だろ」
今村がタバコに火をつけたので、一本もらってやった。
「でもまぁ、お前がいてくれて良かったよ。ゆきと二人だったら、俺なにするかわからん」
「珍しいよな。克己がまだ手を出してないなんて」
とりあえずデートした時にキスしたことは黙っておいた。
「今村さん?あぁ、あの熊みたいな人」
誘いの電話をかけると、ゆきはそう言って笑った。
「バイトじゃないの?」
「元旦だけ店がお休みなんだ」
「じゃあ行こうよ」
そんな感じで話は決まった。
俺と2人だったら、ゆきはOKしなかったかもしれない。
電話をしていると、ゆきは由香里のことを気にしていることがよくあった。
「彼女から電話来ない?悪いからもう切るね」
よくそんな風にゆきは言った。
確かに由香里にゆきの存在を話せば、由香里は面白くないだろう。
束縛するような女じゃないが、わざわざ不快にさせることもないと思っていた。
天皇杯の日、ゆきはベンチコートを着て待ち合わせ場所に現れた。
「寒いから厚着してきた」
ゆきは寒がりらしい。
時間にルーズな今村も、珍しく時間丁度に姿を見せた。
「こんにちは、今村さん。図々しく来ちゃいました」
ゆきがそう言うと、今村は
「克己がお気に入りのゆきちゃん連れて行きたいってきかなくてね〜」
とニヤニヤ笑うので、一発殴っておいた。
冬晴れの国立競技場は、日差しがあってもやっばり寒かった。
ゆきは水筒とオヤツを持ってきていた。
「クッキー焼いてきた。あと熱い紅茶持ってきた」
案外家庭的なところがあるらしい。
チケットをくれた今村に気を使い、俺より先に紅茶とクッキーを勧めるのを見て、俺はちょっと悔しい気分になった。
ゆきは寒い寒いと言いながらも、サッカー観戦は初めてだと言って、俺や今村に説明を求めながら、楽しそうに観戦していた。
試合が終わると、とりあえず寒さから逃れて喫茶店に入り、どうせ暇なんだからと俺のアパートに移動して、飲み会にしようという話になった。
由香里は母親の具合が悪いらしく、珍しく実家に帰省していた。
ゆきは今村も一緒というのに安心して、あまり抵抗なく一緒に来てくれると言った。
俺の友達の今村が、正月の天皇杯に誘って来たのはもう暮れも近い頃だった。
「チケットもらったんだけど、克己一緒にいかね?」
俺の働いているパチンコ屋に遊びに来ていた今村は、出玉をじゃらじゃら鳴らしながら言った。
今村は俺が中退した大学の同級生で、こちらはちゃんと卒業し、今は自動車ディーラーで働いている。
俺もいい加減な男だが、今村もなかなかちゃらい男だ。
でも、悪い男じゃない。
「寒いな」
「どうせ暇なんだろ?行こうぜ」
「お前とふたりでかよ」
「チケットなら3枚あるけど、由香里ちゃんも行くか?」
由香里のいるスナックに俺を連れて行ったのが今村だった。
「由香里、サッカー嫌いなんだよ」
由香里が嫌っている例の養父がJリーグ好きで、贔屓のチームが負ける度に酒を飲んでは暴れていたからだ。
「俺のお気に入りちゃん、連れてっていいか?」
「あぁ、白うさぎちゃんか」
今村はタバコの煙を吐きながらニヤニヤした。
今村はゆきのいるレストランで一緒にお茶を飲んだことが何回かあって、ゆきのことも知っている。
酒を飲んでいる時に俺がうっかり口を滑らせたので、デートした事も知っている。
一度ゆきと店内で擦れ違った後に、「白うさぎちゃん、なんかいい匂いした」と言ったので、蹴り飛ばしてやった。
「白うさぎちゃんなら良いよ。かーいいよな」
そういうわけで、俺は9月のデート以来、久しぶりにゆきを誘った。
俺の彼女は由香里といい、俺の1歳下の24歳だった。
ゆきとは真逆のタイプと言っていい女だった。
子供の頃の家庭環境が良いとは言えなかった。
両親は由香里が幼い頃に離婚して由香里は兄と共に母親に育てられ、由香里が中学に入る前に母親は再婚した。
お約束のように養父はろくでなし。酒乱気味、ギャンブル三昧。
当然のように由香里も兄も養父と折り合いが悪く、高校を卒業したら早々に二人とも家から離れた。
俺の遊び仲間が通っているスナックで働いていた縁で、俺は由香里と知り合った。
なんで由香里と付き合うようになったか。きっかけなんかなかったと思う。
いつの間にかお互いのアパートを行ったり来たりするようになっていた。
由香里は人肌に飢えていた。
俺はなんとなく寂しかった。
俺も由香里もお互いに好きだの愛してるだの、口にしたことなんかなかった。
一緒にいると、お互い求めているものがあるような気がしたから、それで良かったんだと思う。
ゆきにはそういう女ができたことを言った。
「でもゆきは特別だから。いつでも連絡して来いよ」
俺がそう言うと、ゆきは「うん」と言った。
実際、その後も、そしてゆきが彼氏と別れた後も、ゆきは時々電話やメールをよこしたし、俺にとっても由香里とは別の次元で、ゆきは手放したくない女だった。
☆☆☆☆☆
ゆきとデートはしたが、そこから先にはあまり進展しなかった。
俺がゆきのいるレストランに食事に行くと、以前と変わらない様子で俺に接してくれた。
そもそも彼氏がいる女の子にちょっかい出したのは俺だ。
デートしてキスできただけで、上出来だろう。
でもたまにゆきから電話やメールが来た。
話題は就職のこととか、友達の話、あとは「別に用はないんだけど…」とか。
ゆきからの連絡は嬉しかった。
たまたま早く寝ていて電話で起こされても、相手がゆきなら怒らなかった。
彼氏とケンカしたと、夜中に電話してきたこともある。
俺はそうかそうか、ゆきは悪くない、ゆきはいい子だと繰り返した。
ゆきに対しては下心だらけだ。
でも、段々手を出せない気分になっていた。
ゆきは彼氏と別れる気配はなかったが、俺に対しては甘えてくるし、ワガママも言う。
俺がゆきのすることなら何でも許せて、思い切り甘やかしてやりたいと思っているのを全て見通したかのようだった。
他の女なら、彼氏がいるだけでどうでもいい女に分類するのだけど、ゆきだけは特別だった。
付き合いたいでもない、遠ざけたいわけでもない、でも可愛くて仕方ない、大事な女だった。
そんな居心地の良い曖昧な関係が続いたが、その年の冬になる頃、俺には別の彼女ができた。
そして、その後すぐにゆきが彼氏と別れたことを聞いた。
康太とは既に身体の関係があった。康太の前に付き合った人も、全員ではないけど、そこまで行った人が何人かいる。
だから、キスくらいで動揺するほどウブではなかった。
でも、松井さんにキスされたとき、ドキドキして、とても恥ずかしくて、顔が上げられなかった。
康太とは違う、慣れた感じの上手なキス。
お酒に酔っていたのもあって、このままもっと先まで進んでしまいそうな気分になった。
ダメダメ!
私には康太がいる。初めて私を大事にしてくれた彼氏。これ以上裏切るわけにはいかない。
キスしてうっとりして、逆にそれが私を我に返してくれた。
「ダメダメ、おしまい」
これは自分に言った言葉だった。
ここで言えたのは、流されやすい私にしては上出来だったと思う。
「帰ろ。松井さん」
私がそう言うと、松井さんは手を繋いできた。
またドキドキしたのを隠すために、松井さんを睨んでみたけど、松井さんは優しく笑うだけだった。
もちろん、その手を振り払えるまでの強い意志はなかった。
松井さんに電話をかけるかどうか、迷ったといえば迷った。
松井さんは他の遊び仲間の男の子とは違うのが解っていた。
それでも電話をかけてしまったのは、松井さんが私の好みのタイプだったから。
きっぱり断ってしまうのが惜しかった。
それに、束縛激しい康太にうんざりした気持ちになっていたのもある。
当て付けではないけど、ちょっと逆らってやれ、という感じで。
でも、康太と別れる気持ちはなかった。いい加減だった私にやっと出来たまともな彼氏。うるさいところは多いけど、とても愛されていたし、私も康太が好きだった。
ちゃんと彼氏いるって言ったもん
自分でそんな言い訳をしながら、松井さんに電話をかけ、遊びに行く約束をしてしまった。
松井さんとのデートは楽しかった。
松井さんは少しタレ気味の目を細めながら、私のとりとめのない話をうんうんと聞いてくれる。あの映画が観たい、美味しいケーキが食べたい、買い物がしたい、何を言っても優しい顔で付き合ってくれた。
ダイニングバーにいる時に、松井さんからネックレスをプレゼントされた。
付き合っているわけでもない男の人からのプレゼント。単純に嬉しかった。
細い18金のチェーンに小さなダイヤの付いたハート型のヘッド。
すぐにつけたら、松井さんも嬉しそうに笑ってくれた。
店を出た後、自分で「これはヤバいな」と思っていた。
優しい優しい松井さん。ストライクに近い見た目といかにも私を甘やかしてくれそうな空気。
やっぱり松井さんは暗い路地に入って、キスしてきた。
…キスくらいならいいか…
実は私は結構色んな人とキスしていた。
レズの気はないけど、下手すると仲良しの女友達とでもできちゃうんじゃないかと思うくらい(したことないけど)、誰とキスするのも抵抗がない。
だから、男友達と飲みに行った帰りとか、遊んで送ってもらった別れ際とか、結構キスしたことがある。
そこから愛の告白なんてされたことないし、お互いキスしたくらいでその先の関係に進むでもないし、挨拶の延長みたいなものだと私は思っていた。
その辺がいい加減なんだと思うけど。
康太は昔の二枚目俳優をちょっと崩したような顔立ちで、それ程好みではなかったけど、同じ講義で初めて会った時から気が合って、割とすぐに付き合うようになった。
康太と付き合うまでは私もかなりいい加減な女の子で、何となくいい感じになった男の子と何となく付き合っては2~3ヶ月で何となく別れるというのを繰り返していた。二股こそしたことはなかったけど、適当なことには変わりない。
だから、康太は初めて真面目に付き合って、そこそこ長い付き合いになった彼氏だった。
康太は独占欲の強い彼氏だった。私がバイトをしていることもあまり良く思わない。バイト先の飲み会に行くのも嫌がった。服装や髪型にも注文をつけることもあった。
正直、私にとっては窮屈な彼氏だった。
私は男の子の友達もたくさんいたし、別に浮気するわけじゃないなら、他の男の子と遊びに行くのも抵抗はなかった。
だから、康太に内緒でバイト先の高校生の男の子とカラオケやゲーセンに行ったり、バイト先の社員さんに飲みに連れて行ってもらったりということはよくあった。
バレたら大喧嘩になるな、と思いつつ、遊ぶ相手は別に私を女として扱わない男の子ばかりだったから、康太にバレないようにうまくやっていた。
松井さんにデートに誘われた時、この人はちょっとまずいかな、とは思った。
なんとなく、松井さんは異性として私を見ているんだと思ったし、彼自身が軽い感じだし。
だから、ちゃんと彼氏がいると言った。それで済むと思ったから。
それでも松井さんは「知ってるよ」と言った。
やっぱり松井さんはちゃらくて軽い男の人だった。
☆☆☆☆☆
私が上野のファミリーレストランで働き始めたのは大学3年の夏頃だった。
自宅は郊外だけど、上野は通っている大学からも自宅からも電車の便が良かったから、アルバイトするには丁度良かった。都内の方が時給も良かったし。
繁華街にあるから、一日中忙しい店だったけど、バイト仲間も楽しい子ばかりだし、店長や社員もみんな良い人だったから、働きやすい店だったと思う。
繁華街にあるレストランだから、当然ランチとディナーは目が回るような忙しさだったけど、昼が過ぎた2時位から夕方はお茶を飲みにくるお客さんがちょこちょこ来るくらいで、割と手の空く時間帯だった。
その時間帯になると、隣のビルにあるパチンコ屋の店員さんがよくお昼ごはんを食べに来ていた。
松井さんもその1人だった。
いつだったか、「高校生?」ってからかわれたりしたけど、優しい気さくなお客さんだった。
松井さんは、ちょっとチャラい雰囲気だった。悪く言うと、老けたホスト風。なんとなく、女癖が悪そうだと思っていた。
でも、私はそういう雰囲気の人が好きだった。仲良くするには楽しい人の方が良い。
だから、初めて松井さんにデートに誘われた時、少し驚きはしたけど、意外だとは思わなかった。あぁ、やっぱりこの人、軽いんだな。と思っただけ。
私には大学3年の春から付き合っている彼氏がいた。康太という名の彼は、同じ学部だった。
私はあまりもてる方ではないと思う。ブスだとは思わないけど、なぜか同年代の男の子にはウケが悪い。年下の男の子には懐かれ、年上の男性には猫可愛がりされ、同年代の男の子には「ナマイキ」と嫌われるか「女じゃない」と色気のないマブダチとなるか、その両極端などちらかだった。
そういう意味で康太は同級生で私を好きになってくれた珍しい存在だった。
☆☆☆☆☆
幻かと思った
ずっと会いたいと思っていた人が、通りを行く人の切れ目から現れた
私の人生で彼だけは特別だった
あの日からずっと、忘れていない
あれから何年経っただろう
それでも私は一目で彼を見つけることができた
☆☆☆☆☆
「うっそ、もしかして松井さん?」
目の前にゆきが立っていた。
紺色のいかにも事務員という制服姿。郵便物らしきものを胸に抱えている。
最後に会ったのは15年前だったろうか。ゆきは大学4年だったから、単純に計算すると今は37歳か。俺の3歳下だったはずだから、間違いない。
よく見れば、あの頃よりもちゃんと歳をとっている。
それでも37歳には見えなかった。下手をすると20代半ばに見える。童顔は変わっていない。
東京郊外の私鉄沿線の駅前商店街。
都会でもなく田舎でもない街。
車で5分も走ると住宅街やショッピングモールがある典型的なベッドタウンの街。
なんでこんなところに、ゆきがいるんだ?
15年も経って、なぜ?今?
「私、目が悪いから、幻かと思ったぁ」
ゆきは昔と変わらない大きな眼を見開いていた。
「どうして松井さんがこんなところにいるの?」
俺はやっとの思いで驚きを抑え、
「俺、今、マンション屋やってるんだ。この先にマンション建つんで、営業で」
としどろもどろに言った。
「あぁ、⚪︎⚪︎病院の跡地でしょ。知ってる」
ゆきは首を捻って、そのマンションが建つ方へ視線を向けた。
「ゆきちゃんは、なんでここに?」
「私も今、この先の不動産屋で働いてるの」
ゆきはこの辺りで手広く商売している不動産会社の名前を言った。
「この近くに住んでるの?」
「うん、A駅」
二駅先の駅だった。
「松井さんも近くなの?」
「俺はB駅」
「そんなに遠くないね。この辺で仕事があるならまた会うかもしれないね」
ゆきはそのまま「じゃあまたね」とでも言って立ち去ってしまいそうな雰囲気だった。
「時間ないよな」
俺が慌てて言うと
「お使いの途中だから」
と、抱えていた封筒を掲げて見せた。
俺はポケットに入れていた名刺入れから一枚名刺を取り出すと、裏にスマホの番号を書いた。
「電話して」
ゆきの手に名刺を渡すと、ゆきがふふっと笑った。
「あの時とおんなじ。松井さん、見た目も中身も変わってない?」
ゆきは制服のベストの胸ポケットに名刺をしまうと、手を軽く振って郵便局がある方向へ歩いて行った。
俺は惚けたようにその後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた。
甘いカクテルを舐めるようなペースで飲みながら、ゆきは俺の質問に答える感じで、自分のことを色々と話してくれた。
ふたり姉妹の妹だということ。
家庭は比較的裕福だということ。
内定した就職先が金属製品のメーカーだということ。
天真爛漫な雰囲気を裏付ける、絵に描いたような、両親に愛され、何不自由なく大事に育てられたお嬢さん、それがゆきだった。
ダイニングバーを出たのは9時過ぎだったと思う。
アルコールに弱いゆきは、結構酔っているように見えた。
俺が肩を抱き寄せると、ゆきは抗わなかった。
レストランで仕事している時のゆきは、いつも髪を後ろで結わえていたが、この日は下ろした髪がさらさらと揺れていた。時々髪の間から、白い首筋が見え隠れし、ふわりと良い匂いがした。
俺もいい加減酔っていた。
ビルの間の暗い路地に入り、ゆきにキスをした。
ゆきは下を向いてしまったが、顔を上げさせて唇を吸った。
なにか言おうとしたのか、唇が軽く開いたので舌を入れると、ゆきは抵抗せずに受け入れてくれた。
「松井さん…」
囁くようにゆきは俺を呼んだ。
「ゆきちゃん」
「…へへ、キス、しちゃったね」
ゆきはいたずらっぽく笑った。
「うん」
俺はもう一度ゆきにキスをした。
ゆきはまた受け入れてくれたが、離れると「ダメダメ、おしまい」と舌を出して見せた。
「帰ろ。松井さん」
酔った勢いとはいえ、キスまでできただけで、めっけもんか。
俺はおとなしくゆきと一緒に地下鉄の駅へ向かった。
ゆきの手を取ると、ゆきは「もう」とでも言いたげに、可愛らしく顔をしかめたが、俺の手を振り払いはしなかった。
ゆきから電話がかかってくるかどうかなんて、自信はなかった。
あわよくばデートしてやろう、と思っていただけだ。
彼氏からゆきを奪ってやろうとまでは考えていなかった。ただ、アルバイト中以外のゆきが見てみたかった。
次の日の夜、ゆきは電話をかけてきた。
「あのー、杉田ですけど」
最初にそんな風に言ったと思う。
15分くらい話して、結局俺は次の休みに一緒に映画を観に行く約束を取り付けた。
案外簡単にデートの約束ができて、俺としてはラッキー、というところだった。
デートの日、ゆきとは日比谷で待ち合わせた。
地下鉄の駅の改札口に行くと、ゆきはストライプのブラウスに薄い水色のショートパンツを合わせた服装が良く似合っていた。
「制服しか見たことないから、なんか良いね。可愛いよ」
俺がストレートにほめると、ゆきは真っ赤になってしまった。
「あの、私、ほめられるの慣れてないんで、やめてください」
「照れてるの?可愛いね」
「もー、やめてください」
ますます顔を赤くするゆきが本当に可愛くて、俺はわざと何度も可愛いと繰り返した。
ゆきの希望でアクション映画を観て、その後お茶を飲み、ゆきの買い物に付き合った後、小奇麗なダイニングバーで軽く食事をしながら酒を飲んだ。
ゆきは酒に弱いらしく、軽めのカクテル1杯で顔を真っ赤にしていた。
「これあげるよ」
テーブルに細長い箱を置くと、ゆきは「なぁに?」と手に取った。
「デート記念にプレゼント」
「もらっていいの?」
「開けてみて」
ゆきは包みを開いて、中に入っていたネックレスを取り出した。
「可愛い」
「つけてみてよ」
ゆきはネックレスをつけると、「ありがとう」と言って俺に笑ってくれた。
一言で言って、ゆきは俺の好みのタイプだったのだ
ゆきは毎日のようにアルバイトに来ていた。常連客の中には、ゆきをそのレストランの社員と思い込んでいる者もいるくらいだった。
俺は中退だったが、大学生だった時期もあるので、多少は大学生の生活も知ってはいた。たまに交わす会話の中から、ゆきは就職の内定がとれたこと、単位もほとんど取っていて卒業までは大学が暇なことが分かっていた。
9月のある平日の午後、遅い昼食を終えた俺は、レジを打ちに来てくれたゆきに「今度遊びに行こうよ」と誘いの言葉を投げてみたのだ。
「あのー、私、彼氏いるんですけど」
ゆきは声を潜めるようにして俺に言った。
「うん、知ってるよ」
俺は軽い調子でそう言った。
俺はゆきの彼氏を見たことがあった。アルバイト前にデートでもしていたのか、彼氏らしい男がレストランの前で手を振って別れるのを何回か見掛けていた。
ちゃらちゃらした雰囲気だったが、顔はよく覚えていない。ゆきばかり見ていたから。
「へっ?」
ゆきはまた眼を見開いて俺を見返した。
「別に遊びに行くくらい、いいじゃん」
「でも」
「電話して」
俺はレジの横にあったメモに携帯の番号を書いて、ゆきに握らせた。
俺はゆきが何か言う前に、さっさと店から出て行った。
「え?」
彼女は眼をまるくして俺を見返した。
大きな二重の眼、茶色い瞳が綺麗だった。
「今度遊びに行こうよ」
俺が同じ言葉を繰り返すと、彼女はパチパチとまばたきをした。
上野の繁華街にあるチェーンのファミリーレストラン。俺はその隣のビルにあるパチンコ屋の社員だった。
そのレストランは俺が働くパチンコ屋の従業員の社員食堂みたいな店で、俺は毎日遅い昼飯をそのレストランで食べるのが日課だった。
その店でウェイトレスをしているのが彼女だった。
名前は杉田ゆきと言った。
彼女が制服の胸につけた名札のフルネームを見て知った。
初めて彼女に客として以外の言葉をかけたのは、その半年前だった。
「どこの高校なの?」
そう尋ねると、その時もゆきはやっぱり大きな眼を見開いて、一瞬言葉に詰まった。
「…大学生なんですけど」
ちょっと拗ねたような口調でゆきはそう答えた。
「ふーん、1年生?」
「…4年です」
「へー、ずっと高校生だと思ってたよ」
俺が隣にいた同僚に同意を求めるようにそう言うと、ゆきは
「もう今度卒業です」
と怒ったように言った。
幸い、それで嫌われることもなく、そのレストランの常連だった俺は、段々ゆきと話す回数も増えていった。あくまで客とウェイトレスの関係ではあったが。
ゆきは名前の通り色が白く、髪も眼も茶色で、全体的に色素の薄い感じのだった。派手な造りの顔ではなくて、童顔でとてもおとなしそうに見えるが、話してみると案外さっぱりした元気な子で、おっさんの客からセクハラみたいなからかいを受けても、笑って切り返せるような女の子だった。
俺はそんなゆきがお気に入りだった。
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