Happy Birthday

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2013/11/14 17:06(更新日時)

誰にも望まれずに


誕生した少女が


紡いでいく恋物語です。

No.1720624 (スレ作成日時)

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No.1

☆プロローグ☆


この世に生を受ける時


誰もが周りから祝福されて


誕生してこなければならない。


だけど


実際は違う。


誰にも祝福されずに


この世に誕生した命だって


実際にはあるんだ。


そう


わたしみたいに…。

No.2

「またね」


そう聞こえてきた声に、わたしは思わず背後を振り返る。


しかし、その声の主はわたしの方を見ていない。


わたしの近くにいた別の人間の方を見て、にこやかに手を振っている。


そして、その手を振られている側の人間も、同じ様ににこやかに手を振っていた。


そんな光景を目にして、わたしは少し淋しい気持ちになった。

No.3

わたしには、『またね』という言葉を交わせる人間が、今いる空間に誰一人としていないから。


いや、もしかしたら他の空間にもいなくて、わたしがその様な言葉を交わせる人間など、ドコにも存在しないのかも知れない。


その様な事を考えながら、わたしは目の前の光景に背を向けた。


そして、騒然とした廊下へと出る。


廊下には、にこやかに雑談を交わす人々で溢れ返っていた。

No.4

廊下の真ん中に群がり、通行人の邪魔になっている人々もいた。


そんな人々の間を、わたしは黙って通り抜ける。


そして、そのまま建物の出口を目指す。


わたしは、下駄箱で上履きから外履きに履き替えると、そのまま学校という空間を出た。


学校という空間は、わたしにとって孤独な牢獄。


誰も言葉を交わす相手がいなくて、いつも独りぼっちな空間。

No.5

わたしには、友達と呼べる存在がいない。


今まで、一度も出来た試しがない気がする。


友達を欲しいと思った事はある。


しかし、どうすればいいのか分からない。


どの様にして、友達というものを作ればいいのか、未だに分からなかったりする。


そのため、わたしはいつも学校では独りぼっち。

No.6

そんな孤独な空間を出る瞬間が、いつも待ち遠しかった。


別に、その足で行きたい場所など、いつもなら特にない。


しかし、今日は違った。


先程、学校の教室という空間で、自分に声を掛けられたと勘違いしてしまったせいかも知れない。


今日のわたしは、ヒドく淋しい気分だった。


そのため、誰かの温もりに触れたいと思った。

No.7

それに、あまり家へ帰りたくないのもある。


今日は、そういう日だ。


わたしは制服のポケットから、リキッドグリーン色の携帯電話を取り出す。


そして、電話帳を開くなり、あまり見慣れない名前を呼び出した。


そのまま発信ボタンを押すと、わたしは携帯電話を耳に当てる。


無機質なコール音が聞こえてくる。

No.8

それが止むのを、わたしは黙って待っていた。


しかし、その音は一向に止む気配を見せない。


今日は、忙しいのかも知れない。


その様な事を思い、わたしが諦め掛けた時だった。


無機質なコール音が、急に鳴り止む。

No.9

「…もしもし」


久し振りに聞く、少し低い声。


「逢いたい…」


開口一番に、わたしはそれだけを言った。


「夕方からバイトがあるから、少ししか逢えないけどいい?」


「…うん」


「じゃあ、家に来て」

No.10

「…うん」


わたしが頷くと、通話は切られた。


素っ気ない会話。


いつもながら、そう思う。


しかし、それでも良かった。


ただ、逢える事になったのが、今のわたしには嬉しかった。


わたしは早足になりながら、目的地へと急いだ。

No.11

目的地であるマンションの前に立つと、わたしはチャイムを鳴らした。


ピンポーンという甲高い音の後に、ガチャリとドアが開いた。


そして、そこから顔を覗かせたのは、先程の電話の相手。


一応、わたしの彼氏という事になっているマサオだ。


マサオは、アルバイトを二つ掛け持ちしている。


そのせいか、忙しいらしい。

No.12

そのため、わたしとマサオが逢う事は滅多にない。


しかも、いつも逢う時は、わたしの方から連絡をしている。


マサオの方から、連絡がくる事がないから。


わたしの事など、マサオはどうでもいいのかも知れない。


そう思う事もある。


それくらい、マサオはわたしに連絡してこない。

No.13

付き合うキッカケとなったのは告白の言葉。


そして、その言葉を口にしたのは、わたしではない。


マサオの方だ。


わたしの事が好き。


付き合って欲しい。


確かに、そうマサオは言ったんだ。

No.14

しかし、実際に恋人という関係を初めてしまえば、わたしは放置されている状態。


至極、可笑しいと思う。


しかし、そんなマサオの事を、何故かわたしは好きになってしまった。


ドコが好きと訊かれても、わたしには分からない。


マサオのいいところがドコかも、わたしには浮かんでこない。


それでも、何故か好きになってしまった。

No.15

人を好きになるという事は、きっと理屈ではない。


マサオを好きになって、わたしはそう思う様になった。


そのため、ドアから顔を覗かせたマサオを目にしただけで、わたしは嬉しい気持ちになった。


マサオは、そうではないかも知れない。


その様な事くらい、キチンと理解しているのに。

No.16

「入って」


そうマサオが言うと、わたしは玄関で靴を脱ぐ。


そして、マサオの後に続いて、マサオの部屋へと向かう。


わたしは、マサオの家には数える程しか来た事がない。


それでも、別に初めて来た訳ではない。


しかし、わたしは緊張していた。

No.17

初めてマサオの家に来た時と、同じくらい緊張している気がする。


普通、何度か来ているうちに、少しくらいは緊張しなくなるものだと思うけれど。


何度来ても、マサオの家には慣れないと思う。


それは、わたしとマサオの心の距離を表しているのかも知れない。


わたしとマサオの心の距離は、決して近いとは言えないだろう。


そして、そんな遠過ぎる心の距離が、わたしをいつまで経ってもマサオの家に慣れさせないのだと思う。

No.18

いや、マサオの家というよりも、わたしはマサオ自身に慣れていない。


逢う度に、いつも緊張している。


マサオは、何を考えているのか分からない。


わたしの事を、好きなのかさえ分からない。


告白された時、確かにわたしはマサオに好きだと言われた。


しかし、その言葉が全てとは限らない。

No.19

人の言葉には、裏というものが存在する。


人間という生き物は、腹黒い生き物だから。


わたしは、マサオの事が怖いのかも知れない。


何を考えているのか分からないマサオを、きっと心の奥底では恐れているのだと思う。

No.20

それでも、逢いたくなる。


傍にいて、触れたくなる。


恋人という関係でいたいと思う。


それは、やはり好きだからなのだろう。

No.21

それが、いい事なのかは分からない。


人は何故、人を好きになるのだろう。


自分が相手に、想われていないかも知れないのに。


どうして、こんなに人は人を好きになるのだろう。

No.22

「リナ」


マサオが、わたしの名を呼ぶ。


マサオは、滅多にわたしの名前を呼ばない。


そのため、わたしは名前を呼ばれるだけで嬉しかった。

No.23

「おいで」


ベッドの上に腰を下ろしているマサオが、絨毯の上に座る私の方に向かって手を広げる。


わたしは立ち上がって、マサオの座っているベッドの方へと向かう。


そして、ベッドに腰を下ろすなり、わたしはマサオへと抱き付いた。


マサオの身体は、とても温かかった。


この温もりで、わたしは落ち着く事が出来る。


そんなわたしを抱き締めたまま、マサオはベッドに横になった。

No.24

そのため、わたしはマサオの横に寝そべる形になった。


自分とわたしに布団をかけると、そのままマサオは微動だにしなくなった。


マサオの腕枕に頭を乗せながら、わたしはマサオの横顔を見詰める。


恋というものは、本当に不思議だと思う。


ただ見ているだけでも、全く飽きないのだから。


寧ろ、ずっと見ていたくなる。

No.25

しかし、やはり人間というものは我が儘な生き物だ。


いつも常に、もっと上を見てしまうのだから。


マサオを見ていると、それだけで嬉しい。


しかし、同じ様にマサオにも、わたしを見ていて欲しいと願ってしまう。


実際、そうではない事に少し淋しささえ覚えてしまっている。


マサオは、ずっと天井を向いたままだ。

No.26

しかも、ずっと目を瞑っている。


横になってから、一度も目を開けていない。


もしかしたら、そのまま眠ってしまっているのかも知れない。


今までにも、その様な事が何度もあった。


折角、わたしが家へ来たというのに。


何だか、歓迎されていないみたいで嫌だ。

No.27

わたしは、何のためにマサオの家へ来たのだろうか。


そうは思うが、それをマサオに言えずにいる。


恋をすると、人というものは臆病になるものだ。


そして、それはわたしも例外ではない。


わたしは、マサオに嫌われるのが怖い。


そのため、不満などがあってもマサオに言えない。

No.28

惚れた弱みという言葉を聞くが、この様な事をいうのかも知れない。


それを、少し悔しく思う。


しかし、そう思ったところで、どうにもならない。


それなら、マサオと一緒に過ごせる時間を大切にしようと思う。


わたしは、マサオの頭の後ろへ手を伸ばす。


そして、マサオの顔を自分の方へと向かせた。

No.29

マサオは、無反応。


しっかりと、目も閉じたままだ。


やはり、寝ているのだと思う。


そんなマサオを映していた瞳を、わたしは静かに閉じる。


そして、少し乾いたマサオの唇に、わたしは静かに自分の唇を重ねた。


一向に、マサオは目を開かない。

No.30

わたしは、そのまま十秒くらいマサオとキスをしていた。


マサオから唇を離してからも、身体はマサオから離さない。


ピッタリと寄り添ったまま、わたしはボーっとしていた。


相変わらず、マサオの身体は温かい。


寧ろ、布団がかかっている事で、先程よりも温かくなっている様な気がする。


正直、少し熱いくらいだ。

No.31

しかし、わたしはマサオから身体を離さない。


少しでも隙間が出来るのを嫌がる様に、しっかりとマサオの身体に抱き付いている。


マサオの温もりが、恋しかった。


マサオに対して、色々と思う所はある。


不満がない訳ではない。


寧ろ、数え上げたらキリがないかも知れない。

No.32

しかし、それでもマサオの温もりで、わたしは安心する事が出来る。


ずっと、この温もりを感じていたいと思うくらいだ。


しかし、幸せな時間は長くは続かないものだ。


三十分くらい経過した頃、急に女性の歌が流れ出した。


わたしは驚き、周囲を見回す。

No.33

すると、枕元にあるマサオの携帯電話が緑色の光を放っているのに気付いた。


どうやら、急に流れ出した歌の正体は、マサオの携帯電話の着うただったらしい。


メールか電話だろうか。


そう思いながら、わたしはマサオの方へ目をやる。


しかし、マサオは目を覚ます気配がない。


仕方なく、わたしは着うたが鳴り止むのを待った。


しかし、十五秒くらい経過しても、一向に着うたは鳴り止まない。

No.34

メールや電話にしては、着うたが鳴り響いている時間が長い気がする。


一体、いつになったら鳴り止むのだろう。


その様な事を思いながら、わたしはマサオとマサオの携帯電話を交互に見ていた。


そうしているうちに、マサオが目を開けた。


眠そうに目を擦りながら、携帯電話へ手を伸ばしている。


そして、鈍い動作で携帯電話を開いてキーを叩く。

No.35

すると、着うたは鳴り止んだ。


どうやら、着うたはアラームで鳴る様に仕掛けていたらしい。


マサオのすぐ隣にいたから、たまたま携帯電話の画面が見えて知ってしまった。


わたしが家へ来てから、マサオが携帯電話を弄っている気配はなかった。


そのため、アラームはわたしがくる前に仕掛けたという事になる。


どうして、マサオはアラームを仕掛けたのだろう。

No.36

それが、妙に気になった。


「そろそろ、バイトに行く時間だ」


そう言って、マサオがベッドから身体を起こすから、余計に気になる。


これは、わたしに帰れという合図。


ただ単に、本当にアルバイトに行く時間なら良い。


しかし、それが真実とは限らない。

No.37

人間の言葉など、何が本当で何が嘘かなど分からないものだ。


わたしに早く帰って欲しくて、そう言っているだけかも知れない。


わざわざ、アラームという小細工をしてまで。


もしも、そうだとしたら嫌だ。


本当に、これからマサオがアルバイトであって欲しい。


そう思いながら、わたしもベッドから身体を起こした。

No.38

そして、無言で通学用鞄を手に取る。


「帰るね」


「嗚呼」


わたしの言葉に頷くと、マサオはわたしを玄関へと促した。


玄関まで来ると、わたしは無言で靴を履く。


仲のいい恋人同士なら、ここは他愛ない会話でもしているところなのかも知れない。


それか、別れを惜しんでいるところなのかも知れない。


しかし、わたしとマサオの間に会話はない。

No.39

本当は、何か話したいと思う。


しかし、わたしはマサオと何を話していいのか分からない。


そのため、どうしても無言になってしまう。


それは、わたしとマサオの間に、やはり距離があるからなのだろう。


そんな距離が、いつもわたしを不安にさせているのだと思う。

No.40

マサオの家を出ると、わたしはバスに乗った。


そして、自宅近くの停留所で、わたしはバスを降りた。


ここから、歩いて五分くらいで家へと着く。


人によっては、それを遠いと感じるかも知れない。


しかし、わたしには近い。


あまりにも、近過ぎる距離だ。

No.41

こんなに短い距離では、すぐに家へと着いてしまう。


わたしは、まだ家へ帰りたくないのに。


今日は、出来れば家へ帰りたくない。


何か、家へ帰らなくていい方法はないだろうか。


その様な事を考えていたから、わたしは前を見て歩いていなかった。

No.42

そんなわたしに、いきなり何かがぶつかる。


俯きがちだったわたしは、驚いて顔を上げた。


すると、目の前には一人の男性がいた。


明るい茶髪に、目鼻の整った顔立ち。


細身で、わたしよりも頭一個分くらい高い身長。

No.43

「悪い!大丈夫か!?」


わたしを見下ろしながら、男性は言う。


「…はい、大丈夫です」


少し緊張気味に、わたしは返す。


それを見て、男性がホッとした様な表情を浮かべた。


かと思うと、まじまじとわたしを見詰めてきた。


一体、何なのだろう。

No.44

そう思いながら、わたしは男性の次の言葉を待った。


「アンタ、この辺の娘か?」


「はい、そうですけど…」


本当に何なのだろうと思いながら、わたしは男性の言葉に頷く。


「名前、何て言うんだ?」


「…リナです」


「リナか。俺は、ケイタだ。よろしくな!」

No.45

一体、何がよろしくなのだろう。


ここで別れた後、もう逢う事はなくなるだろうに。


いきなり名前を訊いてきたり、よく分からない人だ。


「それでは…」


そう言って、わたしはケイタさんの横を通り抜けようとした。

No.46

しかし、そう出来なかった。


「おい、待てって!」


そう言いながら、ケイタさんがわたしを行かせまいとしたからだ。


まだ何かあるのだろうか。


そう思いながら、わたしはケイタさんの次の言葉を待った。

No.47

「俺、この辺に引っ越してきたばっかなんだ!」


「はぁ…」


勝手に自分の話を始め出したケイタさんに、わたしは適当に相槌を打つ。


そんなわたしに、ケイタさんは更に勝手な事を言い出した。


「てな訳だから、この辺を案内してくれよ!」


「え?わたしがですか?」


「おう!」

No.48

当然という様に、ケイタさんが力強く頷く。


初対面の人に、いきなり頼み事を出来るケイタさんを、わたしはスゴいと思った。


わたしとは、正反対だ。


わたしは、マサオに思った事を言えない。


いや、マサオだけではない。


他の人にも、全く言えていない。


そのため、わたしはケイタさんの性格を少し羨ましいと思った。

No.49

それはさて置き、どうしようか。


ケイタさんを案内するか。


それとも、断るか。


断ったとしても、ケイタさんなら強引に案内させようとするかも知れない。


しかし、わたしはケイタさんを案内するべきなのかも知れない。

No.50

腹黒いわたしは、そう考えた。


ケイタさんの提案は、利害一致だと思う。


わたしは、今日は家へ帰りたくない。


そのため、ケイタさんを案内する事は、わたしにとっても都合がいい様な気がした。


家へ帰るのを遅らせられるからだ。


ケイタさんの案内が、長くなればなる程。

No.51

この様にして、わたしはケイタさんを案内する事を、家へ帰るのが遅くなる言い訳にしようと考えた。


そのため、わたしはいつになく、にこやかにケイタに答えた。


「いいですよ」


「おう、助かる!ありがとな」


何も知らないケイタさんは、嬉しそうに笑った。

No.52

「取り敢えず、遊ぶ場所とか教えてくれよ!」


ケイタさんが、辺りを見回しながら言った。


その言葉に、わたしは戸惑った。


遊ぶ場所と言われても、どの様な場所を指すのか分からないからだ。


わたしには、一緒に何処かへ遊びに行く友達などいない。


マサオや家族とも、一緒に何処かへ遊びに行ったりする事はない。

No.53

マサオや家族とも、一緒に何処かへ遊びに行ったりする事はない。


そのため、わたしは何処かへ遊びに行くという行動をしない。


もしかしたら、今まで一度も何処かへ遊びに行くという行動をした事がないかも知れないくらいだ。


そんなわたしに、遊ぶための場所が何処かなど分かる訳がない。


正直、わたしが訊きたいくらいだ。


至極、そう思った。

No.54

「どうした?」


急に黙り込んだわたしの顔を、ケイタさんが不思議そうに覗き込んでくる。


その行動に、再びわたしは戸惑う事となる。


ケイタさんに対して、どう説明すればいいのか分からないからだ。


恐らく、わたしは自分が思っている事を説明するのが不得意なのだと思う。


この様な調子だから、マサオにも言いたい事を言えないままなのかも知れない。


勿論、嫌われるのが怖いというのもあるが。

No.55

兎に角、今はケイタさんに何か言葉を返さなくてはいけない。


人間というものは、沈黙を守られるという行動が最も嫌いだと思うから。


「あの、わたしは…」


「あ?何だ?」


説明を始めようと口を開いたわたしに、ケイタさんが耳を傾ける。

No.56

「遊ぶという事が、どういう事なのか分からないのです」


「あ?何だそれ?」


「要するに、わたしは遊びに行くという事をした事がないのです」


「何でだ?」


「ええと、それは…」


出来れば、言いたくない。

No.57

しかし、言わなければケイタさんは、いつまで経っても質問してくるのだろう。


それも、嫌だ。


寧ろ、その方が嫌かも知れない。


そう思ったわたしは、言う覚悟を決めた。


「わたしには、一緒に遊びに行く友達がいないのです」


わたしは、恥ずかしかった。

No.58

高校生にもなって、一緒に遊びに行く友達の一人もいない人など、恐らくあまりいないと思うから。


そんなわたしを、ケイタさんは馬鹿にする様に嘲笑うのだろう。


そう考えると、今すぐわたしはこの場から逃げ出したくなった。


そして、実際に走って逃げ出そうとした。


しかし、そんなわたしの腕をケイタさんが掴む。

No.59

「おい、何でいきなり走り出そうとするんだ?」


「わたし、分かっていますから」


「あ?分かっているって何がだ?」


「友達がいないわたしを、ケイタさんも嘲笑うのでしょう?」


「何でだ?」


ケイタさんは、意味が分からないという様な表情を浮かべる。


これは、演技だ。

No.60

今、本当は心の中で、ケイタさんはわたしを嘲笑っているに違いない。


友達が一人もいないわたしを、惨めだと蔑んでいるに違いない。


今まで、他の人達もそうだったのだから。


そう思うと、止まらなかった。


「みんな、そうだったんです。友達がいないと言うと、みんな馬鹿にする様に笑って離れて行ったんです」


わたしの言葉に、ケイタさんの表情が険しくなる。

No.61

やはり、そうだ。


ケイタさんも、みんなと同じだ。


みんなと同じ様に、心の中で嘲笑っていたのだろう。


そして、わたしに図星をつかれたから、この様に表情を険しくしているのだろう。


「リナは、俺も同じだと思うのか?」

No.62

「え?」


「俺も、他の奴等と同じだと思うのか?」


ケイタさんの言葉に、わたしは何も言い返せなくなる。


どう答えればいいのか分からない。


ケイタさんも、同じだと思っている。


しかし、それを面と向かって本人に言っていいものだろうか。

No.63

そう考えると、何も言えなくなった。


そんなわたしの方を見ながら、ケイタさんが口を開く。


「俺、まだ何も言ってないぞ?」


「はい」


「何も言う前から、他の奴等と同じだって決め付けるな」


「…スミマセン」

No.64

申し訳なさそうな表情を浮かべると、わたしはケイタさんに頭を下げた。


ケイタさんも、みんなと同じだと思う。


しかし、それを口にしてはいけなかった。


この世の中は、建前ばかりで成り立っている。


人の日常会話の中に、本音なんて数少ないと思う。


本音は、底に沈めたままで口にしない方がいい。


その方が、上手く生きていけるのだと思う。

No.65

「リナ」


「はい」


「俺は、別に嘲笑ったりしないぞ」


「え?」


「友達がいないなら、俺がなってやる!」

No.66

そう言うと、ケイタさんはニッコリと微笑んだ。


正直、わたしはとても驚いていた。


ケイタさんにも、みんなと同様に嘲笑われると思っていた。


しかし、実際は違った。


嘲笑うどころか、友達になってくれると言った。


その事に、わたしは心の底から驚いていた。


しかし、それと同時に嬉しさの様なものも込み上げてきていた。

No.67

もしかしたら、建前で言っているだけなのかも知れないのに。


友達になってくれると言ったまま、ここで別れた後は二度と逢う事がないかも知れないのに。


そう分かっていても、そう簡単に嬉しさは抑えられるものではない。


「いいんですか?」


そうケイタさんに問い掛けるわたしの声は、どこかいつもよりもトーンが高めになっていた様な気がする。

No.68

「嗚呼、よろしくな!」


にこやかな笑みを浮かべたまま、ケイタさんはわたしの前に片手を差し出してきた。


その行動が、これは建前で言っている言葉ではないと思わせてくれる。


至極、それを嬉しく思った。

No.69

「こちらこそ、よろしくお願いします」


わたしは少し頭を垂れながら、ケイタさんの手を握った。


これは、わたしが人と交わした初めての握手だった。


そして、これが初めてわたしに友達が出来た瞬間だった。

No.70

「なぁ、カラオケとか行かないか?」


唐突に、ケイタさんが言った。


「カラオケですか?」


わたしは、ケイタさんの言葉を鸚鵡返しに呟く。


何故、カラオケなのだろうと思いながら。


「嗚呼!」


躊躇いなく頷いたケイタさんを見て、わたしはヒドく戸惑う。

No.71

「あの…」


「あ?何だ?」


「どうして、カラオケなんですか?」


「リナが遊びに行った事ないって言うから、これから俺が遊べる場所に連れて行ってやろうと思ってな!」

No.72

それで、カラオケなのかと納得はしたが、あまり気は進まなかった。


「…わたし、カラオケという場所に行った事がないんです」


「あ?だから、今から行かないか?」


「ええと…」


行ってみたい気はする。


しかし、やはり行きたくないとも思う。

No.73


わたしは、歌が上手くない。


そもそも、わたしは声が小さいから歌を歌ったとしても、人には聴こえていないのかも知れない。


中学校の時の音楽の時間、いつも歌のテストでは最低点を付けられていた。


そのため、高校では音楽という教科が必修ではなく選択教科になっていて、ホッとしたくらいだ。


「もしかして、上手く歌える自信がないのか?」

No.74

わたしが思っている事を分かってしまったらしく、そうケイタさんが訊ねてきた。


「…はい」


頷いたわたしの手を、ケイタさんが握ってきた。


「え?」


「大丈夫、行こうぜ!」


戸惑っているわたしの手を引きながら、ケイタさんは歩き出した。わたしが思っている事を分かってしまったらしく、そうケイタさんが訊ねてきた。


「…はい」


頷いたわたしの手を、ケイタさんが握ってきた。


「え?」


「大丈夫、行こうぜ!」


戸惑っているわたしの手を引きながら、ケイタさんは歩き出した。

No.75

申し訳ありません。


No.74の内容は、同じ事を二回も書いてしまいました。


新たに書き直しをしますので、No.74は飛ばして読んで下さい。

No.76

わたしが思っている事を分かってしまったらしく、そうケイタさんが訊ねてきた。


「…はい」


頷いたわたしの手を、ケイタさんが握ってきた。


「え?」


「大丈夫、行こうぜ!」


戸惑っているわたしの手を引きながら、ケイタさんは歩き出した。

No.77

「行こうって…」


「カラオケ!」


「だから、わたしは歌が…」


わたしは、その場に立ち止まろうとする。


しかし、ケイタさんの力の方が強い。


そのため、わたしは引っ張られる形で、ケイタさんの後を歩く形になっていた。


しかし、急にケイタさんは急に立ち止まった。

No.78

そして、わたしの目を真っ直ぐに見てきた。


「歌ってみなきゃ分からないだろ?」


歌ってみなくても分かる。


わたしは、歌が上手くない。


わたしの歌を聴いたら、ケイタさんもガッカリするに違いない。

No.79

「それに、歌は上手いか下手かじゃないぞ!」


「え?」


「自分が楽しむために歌うものだ!」


「楽しむためですか?」


「嗚呼。人生、楽しまなきゃ損だろ?」


そうなのかも知れない。


泣いていても笑っていても、滞りなく時は過ぎていくものだ。

No.80

寸分の狂いもなく、どの様な人の時も平等に。


それなら、人生は楽しんだ方が得なのかも知れない。


しかし、どうしたら人生を楽しく過ごせるのか、わたしには分からない。


学校では、教えてくれなかったから。


「カラオケ、行こうぜ!」


「カラオケに行ったら、人生が楽しくなりますか?」

No.81

「リナ次第だ」


「わたし次第ですか?」


わたし次第とは、どの様な意味なのだろうか。


そう疑問に思いながら、わたしはケイタさんの答えを待つ。


「何でも、楽しもうと思えば楽しめるもんだ!」


「楽しもうと思えばですか?」

No.82

「嗚呼。カラオケも、上手く歌う事よりも、リナが楽しむ事を優先するんだ!」


「わたしが…」


「人の目を気にして、何かしても楽しくないだろ?」


確かに、そうだ。


ケイタさんの言う通り、人目を気にして何かしても楽しくなどない。


ただ単に、プレッシャーばかり感じる。

No.83

上手くやらなければとか、失敗してはいけないとかばかり考えて、常に緊張して不安ばかり胸に抱いている。


それは、正にわたしの人生そのものを表している様だ。


わたしは、いつも常に人目ばかり気にしてきた。


自分が楽しむ事など、考えた事がない様に思う。


「カラオケ、行こうぜ!俺の目なんか気にしないで、リナが楽しめばいいから」


カラオケに行ったとして、果たしてわたしは楽しめるのだろうか。

No.84

楽しみ方を知らないわたしには、考えても分からなかった。


しかし、先程よりも興味は湧いてきていた。


人生、楽しまなきゃ損だというケイタさんの言葉に、妙に共感を覚えてしまったから。


それに、ここでカラオケに行く事を拒否すれば、ケイタさんと一緒にいる理由がなくなる。


今日は、家へ帰りたくない。


そのため、まだケイタさんと一緒にいたい。

No.85

腹黒いわたしは、そう思う。


そのため、わたしは腹を括った。


「…カラオケ、行ってみたいです」


わたしの手を握ったままのケイタさんの手を握り返しながら、わたしはそう口にした。


「やっと、行く気になったか!」


手を握っていない方の手で、わたしの肩を叩きながら、ケイタさんがニッコリと笑った。

No.86

「そうと決まったら、サッサと行こうぜ!」


ケイタさんは、再びわたしの手を引きながら歩き出した。


今度は、わたしも大人しくケイタさんの後をついて歩いていた。


しかし、すぐにケイタさんは立ち止まる。


「どうしたんですか?」


不思議に思いながら、わたしはケイタさんに問い掛ける。

No.87

「そう言えば、カラオケってドコにあるんだ?」


「え?」


「ほら、俺って引っ越してきたばかりだから、そう言えばドコにあるんだと思って…」


どうやら、カラオケボックスがある場所を知らないらしい。


わたしに、この辺りの案内を頼んできたくらいだから、考えてみれば当然なのだが。


カラオケボックスの場所が分からないのに、カラオケに行こうと誘ってきたケイタさんに、何だか少し笑いが込み上げてきた。

No.88

「お、初めて笑ったな!」


クスリと小さな笑みを浮かべたわたしを、ケイタさんが嬉しそうな目で見てくる。


それに対して、どう反応すればいいのか分からなかった。


正直、困る。


それは、やはりわたしが人と関わる事に慣れていないからなのだろう。

No.89

「わたし、あちらの方でカラオケ店を見た事がある気がします」


幾つもの建物が建てられている方を指差しながら、わたしはケイタさんに言う。


それが、反応に困ったわたしが取った行動だった。


「そうか!あっちか」


そう呟きながら、ケイタさんはわたしの手を握る手に力を込める。


そして、わたしが指差した方向を目指して歩き出した。

No.90

カラオケボックスに着くと、わたし達は店員に個室へと案内された。


個室には大きなテレビがあり、その正面にはテーブルと椅子がある。


ケイタさんがテレビの傍に座ったので、その正面にわたしは腰掛けた。


すると、店員がマイクとリモコンが入ったカゴをテーブルの上に置いた。


「リナ、何飲む?」


元からテーブルの上にあったメニュー表を、ケイタさんはわたしの方へ差し出す。

No.91

わたしは、メニュー表のドリンクの欄を見る。


見た事のないカタカナで記されたドリンクばかりだ。


正直、わたしは戸惑った。


何を頼めばいいのだろう。


取り敢えず、ここは適当に頼んでおくべきなんだろうか。


そう思いながらメニュー表を見ていると、ケイタさんにページを捲られた。

No.92

「リナ、ここから選べ」


メニュー表を一瞥してから、ケイタさんが言う。


「はい」


ケイタさんに頷きながら、わたしはメニュー表へ視線を落とす。


すると、今度はわたしも見た事のあるドリンクの名前ばかりが記されていた。


正直、わたしはホッとした。

No.93

「アルコールは、まだリナには早いからな」


私の方を見ながら、ケイタさんが呟く。


成程。


先程の見た事のないカタカナのドリンク達は、どうやらアルコールだった様だ。


恐らく、高校の制服を着ているわたしを見て、ケイタさんは未成年だと思ったのだろう。


そうでなくても、わたしは見た目が幼く見られがちだし。

No.94

その様な事を、ケイタさんが気にしてくれるのが意外だった。


ケイタさんは、意外と真面目なのかも知れない。


そんな少し失礼な事を思いながら、わたしはメニュー表のドリンク欄に目を通していく。


「オレンジジュースがいいです」


わたしが言うと、ケイタさんは店員の方へ向き直った。

No.95

「オレンジジュースとアイスコーヒーを一つ」


「かしこまりました」


そう言って頭を下げると、店員は個室から出て行く。

No.96


数分後、オレンジジュースとアイスコーヒーを御盆に乗せて店員が戻ってきた。


そのドリンクが、私達の前にドリンクを置かれる。


「ごゆっくり、どうぞ」


にこやかな笑顔で言い残し、再び店員は個室から出て行った。

No.97

「よし、いっぱい歌おうぜ!」


カゴの中から取り出したマイクとリモコンを、わたしと自分の前に置き、ケイタさんが張り切った様な声を上げる。


「はぁ…」


どう反応すればいいのか分からなくて、わたしは使い方の分からないリモコンを見詰めながら、適当に相槌を打った。


「おい、もっとリナも楽しそうにしないと!」


「楽しそうにと言われましても…」

No.98

「取り敢えず、何か歌おうぜ!まずは俺が歌うから、そのうちに何か歌いたい曲を考えておけ」


口籠ったわたしの前で、手早くリモコンを操作しながら、ケイタさんはマイクを握る。


「え?あの…」


リモコンの使い方が分からないです。


そう言おうとした時、ケイタさんが入れたらしい曲のイントロが流れ出した。

No.99

わたしは、チラリとケイタさんの方を伺う。


マイクを握りながら、ケイタさんは歌うのを楽しみにしている様子だ。


そのため、わたしは言葉を飲み込むしかなかった。


歌うのを楽しみにしている様子のケイタさんを、邪魔してはいけないと思う。


それに、もしかしたらリモコンは少しいじってみれば、意外と簡単に操作出来るものなのかも知れない。

No.100

そう思いながら、ドコかで聞いた事のある歌を歌い始めたケイタさんを余所に、わたしはリモコンを手に取る。


そして、タッチペンで適当に操作してみた。


すると、意外と簡単に使い方は分かった。


歌いたい曲名か歌手名を入力して、検索ボタンを押せばいいだけだった。


しかし、なかなかわたしが歌う曲は決まらない。


先程から、適当に知っている曲名や歌手名を入力しては、検索ボタンを押している。

No.101

しかし、検索して出てきた曲名の出だしの歌詞を見ながら、わたしに歌えるのか不安になった。


そして、また検索して不安になっての繰り返し。


「リナ」


ふいに掛けられた声に、わたしは顔を上げる。


すると、マイクをテーブルの上に置いたケイタさんが、わたしの方を見ていた。


気が付くと、先程まで流れていたケイタさんが歌っていた曲も流れていない。

No.102

どうやら、わたしがリモコンと格闘している間に、ケイタさんは歌を歌い終えてしまったらしい。


「歌う曲、決まったか?」


「…いえ、まだです。ごめんなさい」


わたしは俯きながら、ケイタさんに謝る。


ケイタさんが歌っている間に、歌う曲を決めておく様に言われたのに、そう出来なかった事を申し訳なく思いながら。

No.103

「いや、別に気にしていないし!リナが歌う曲を決めるまで、俺は待つぜ?」


「わたしに構わず、ケイタさんは次の曲を歌って下さい」


わたしを待つと言ってくれたのは嬉しかったが、待たせるのは悪いと思ったわたしは、そう自然と口にしていた。


しかし、それは口にしてはいけない言葉だったのかも知れない。


急に、ケイタさんの表情が変わった。

No.104

今までは、楽しそうにしていたのに、今は面白くなさそうな顔をしている。


何か、マズい事でも言ったのだろうか。


そんなに、マズい事を言ったつもりはないが、他に思い当たる節がない。


わたしが、そんな事を必死に考えていると、面白くなさそうなままのケイタさんは口を開いた。


「それじゃダメだろ」


「え?」

No.105

「リナも歌わなきゃ、リナが楽しめないだろ?」


「あ…」


ケイタさんは、わたしの事を考えてくれていたんだ。


それで、わたしの発言に対して面白くなさそうな顔をしたんだ。


自分のためではなく、わたしのために。


そう思うと、何だか嬉しさが込み上げてきた。

No.106

この世の中に、わたしの事を考えて行動してくれる人なんて、きっといないと思っていたから。


こんなケイタさんの思いやりを、ムダにしてはいけないと思う。


歌おう。


そう思ったわたしは、再びリモコンに視線を落とした。


そして、慣れない手付きでリモコンを操作していく。


ケイタさんは立ち上がり、そんなわたしの横に腰を下ろすと、わたしの手許にあるリモコンの画面を覗き込んできた。

No.107

ケイタさんに見られていると、何だか緊張する。


それと同時に、早く歌う曲を決めなければという焦りも増してきた。


そのため、わたしは先程も目にした聴いた事のある曲名を適当に選んだ。


上手く歌える自信などないが、他に歌える曲も思い付かないから仕方がない。


そもそも、わたしは知っている曲自体が少ない事に気付いた。


そのため、元から選択出来る曲は多くなかったに違いない。

No.108

「お!それ、歌うのか?」


曲名を目にしたケイタさんが、身を乗り出しながら言う。


その目は、興味津々という様子だ。


今日、初めて一緒にカラオケに来たのだから、その気持ちも分かる。


しかし、わたしは今日が生まれて初めてのカラオケだ。


そんなに、期待しないで欲しい。

No.109

「歌った事がないので、上手くは歌えないと思いますが…」


「上手いかどうかなんて、どうでもいいよ。リナが楽しく歌えたら、それでいいんだ!」


「…はい」


ケイタさんの言葉に頷くと、わたしが入れた曲のイントロが流れ出した。


「ほら、マイク」


テーブルの上に置かれているマイクの電源を入れ、それをケイタさんはソッとわたしに手渡す。

No.110

マイクを手にした瞬間、妙に重く感じた。


これから、歌う。


そう思う気持ちが、マイクを手にした事により強くなったからかも知れない。


その証拠に、心臓を脈打つ音も速くなっているのを感じる。


ケイタさんは、上手く歌えなくてもいいと言った。

No.111

しかし、誰かに聴いてもらう以上、出来るだけ上手く歌いたいと思うのは、当然の事だと思う。


恐らく、わたしではなくても同じ事を思う筈だ。


また、この様な事を気にしない様になれたら、もっと緊張も軽くて済むのかも知れないとも思った。


結局、わたしにはムリは話だが。


わたしは覚悟を決めて、大きく息を吸い込んだ。


そして、軽やかに流れる歌い始めに合わせて口を開く。

No.112

わたしの声は、震えていた。


それに、流れている曲の音量の方が大きくて、わたしの声が掻き消されている様な気がする。


自分でも、かなり聴き取りにくいのだから、恐らくケイタさんは更に聴き取りにくいと思う。


その事に、わたしは少しホッとしていた。


自分の声が聴き取りにくくても、やはり自分が上手く歌えていない事を感じたから。

No.113

時々、明らかに音程が外れていた。


また、歌詞が分からなくなって黙り込む時もあった。


一応、わたしなりに一生懸命に歌っているが、やはり今日が初めてのカラオケだ。


いきなり、上手く歌う事は難しいのかも知れない。


しかし、練習さえすれば次はもっと上手く歌える様な気がする。


そう思うと、何だかカラオケも楽しいかも知れないと思った。

No.114

「リナ、楽しいか?」


わたしが歌い終わって、マイクをテーブルの上に置くと、ケイタさんが訊ねてきた。


「はい、楽しいと思います」


自信を持って楽しいとは言えないが、わたしはケイタさんに頷いた。


楽しいかも知れない。


そう思った気持ちは、嘘ではなくて確かだと思うから。

No.115

「良かった!」


わたしの言葉に、ケイタさんは顔をクシャクシャにして笑った。


それは、スゴく安心した様な表情だった。


もしかしたら、ケイタさんはわたしが楽しめるかを心配してくれていたのかも知れない。


ケイタさんは、本当に優しい人だと思う。


少なくとも、わたしの身の回りの人間よりは。

No.116

そんな事を思っていると、ケイタさんが入れた次の曲のイントロが流れ始める。


ふとケイタさんを見ると、楽しそうにマイクを構えて歌う準備をしていた。


それから、わたしとケイタさんは交互に歌を歌っていった。


まだ不慣れで緊張していたわたしも、歌っていくうちに少しずつ歌う事に慣れてきた。


ケイタさんと比べれば、まだまだが。


わたしは歌えば歌う程、カラオケが楽しいと感じてきた。

No.117

一生懸命に歌を歌って、少しずつ上手くなっていくのが楽しい。


それに、ケイタさんの歌う歌を聴いていて、新しく歌を覚えていくのも面白い。


気が付くと、わたしは時間を忘れるくらい歌っていた。


そして、ケイタさんの歌に聴き惚れていた。

No.118

「もうすぐ、九時か。そう言えば、リナは何時に帰るんだ?」


腕時計に視線を落とした直後、わたしの方を見ながらケイタさんは訊ねてきた。


わたしの事を高校生だと思っているだろうケイタさんは、恐らくわたしの家の門限などを気にしてくれているのだろう。


見た目はそうは見えないが、意外とケイタさんは真面目な性格の様だから、間違いないと思う。


ケイタさんにとって、それは親切心からだと分かる。


しかし、今のわたしにとって、それは余計なお世話でしかなかった。


それは、わたしが今日は家へ帰りたくないからだ。

No.119

出来る事なら、もう少しケイタさんと一緒に居たい。


それが、家へ帰るのを遅らせる手段だから。


もう少し、ケイタさんと一緒に居るためには、何と言ったらいいだろうか。


わたしは、試行錯誤する。


そもそも、わたしはいつも早く帰っているので、わたしの家に門限というモノがあるのかわからなかったりする。


もしかしたら、ないのかも知れない。

No.120

少なくとも、何時までに帰って来いと言われた事がない。


それは、わたしがいつも早く帰ってくいるから、特に門限などを設定しなくても遅くならないうちに帰ってくると思われているからかも知れない。


何れにせよ、今のところわたしの家に門限というモノがあるとは思えない。


それを、ケイタさんに伝えれば、わたしは帰らなくて済むだろうか。


「あの…」


「あ?」

No.121

「わたしの家には、門限というモノがないんです」


「でも、もう九時だし外も暗いぞ。そろそろ、帰った方がいいんじゃないか?」


やはり、ケイタさんはわたしを帰らせようと促す。


その事に、少しガッカリもした。


しかし、これが当たり前の対応なのかも知れない。


そう思って、わたしは諦めて頷く。


「…はい」


頷くしかなかったんだ。

No.122

「暗いし、家まで送っていくぜ!」


カラオケボックスから出て、開口一番にケイタさんが言った。


本当に、見た目はそうは見えないが、ケイタさんは意外と真面目な性格だ。


真面目というよりも、人に対して気遣いが出来ると言うべきなのかも知れないが。


しかし、わたしはケイタさんに家まで送ってもらわなくてもいいと考えていた。


寧ろ、家まで送っていかれたら困る。

No.123

わたしの家族とケイタさんが、もしかしたら鉢合わせするかも知れない。


それだけは、避けなくてはいけない。


至極、そう思った。


もしかしたら、送っていってくれるという申し出を断るのは、とても失礼な事なのかも知れない。


しかし、わたしは自分の家族を知り合いに逢わせたくないんだ。

No.124

一応、わたしの彼氏という事になっているマサオも、わたしの家族と逢った事はない。


そもそも、マサオはわたしの家族どころか、わたしにすら興味がない様な気がするが。


そのため、たとえ失礼な事であるとしても、ケイタさんの申し出を断らなければいけないと思った。


「え?いいですよ。一人でも帰れます」


わたしは、出来る限りの笑顔を作って首を振る。


しかし、ケイタさんは食い下がってきた。

No.125

「でも、夜道を女の子一人で歩くのは危ないだろ?」


あまり、考えた事がなかった。


高校は授業が終わったらすぐに帰るし、マサオと逢っても長く一緒に居る事はないから、わたしが暗い時間に帰るという事が稀なためかも知れない。


そんな事を考えている間も、ケイタさんは言葉を続ける。


「それに、さっき俺等が逢った辺りにリナの家があるんじゃないのか?」


「そうですけど…」

No.126

それが、どうかしたのだろうか。


「リナ、俺があの辺に引っ越してきたって言ったのを忘れたのか?」


「…あ」


そうだったかも知れない。


そう言えば、その様な事を言っていた様な気がする。


そもそも、それが事の始まりとなり、わたしとケイタさんが一緒にカラオケに行く事になったんだった。

No.127

しかし、わたしを送るか送らないかという話をしていたのに、どうして急にその様な話になったのだろう。


「…ええと、つまり何が言いたいんですか?」


「俺とリナは、家がある方向が一緒なんだ!」


「…はぁ」


わたしは曖昧に頷いてみたが、何となくケイタさんの言いたい事は分かった。

No.128

要するに、わたし達は家がある方向が一緒だから、わたしを家まで送っていく事は苦ではないと言いたいのだろう。


そもそも、家がある方向が一緒なのに、わざわざ別々に帰る方が不自然な気がする。


この状況では、ケイタさんに送ってもらうというのが自然な流れなのだろう。


何だか、断りにくい方向に話が進んでしまった。


ここは、素直にケイタさんに送ってもらう事にしよう。

No.129

「…では、近くまでお願いします」


わたしは、ケイタさんに軽く頭を下げた。


別に、ケイタさんの言葉通り、家まで送ってもらうつもりはない。


飽くまでも、わたしの言葉通り、近くまでだ。


家の近くまで来たら、『ここでいいです。ありがとうございました』とか言って頭を下げて、ケイタさんと別れればいい。


そしたら、わたしの家族とケイタさんが鉢合わせする確率も、家まで送ってもらうよりは低くなる筈だ。

No.130

「おう」


ケイタさんが頷くと、わたし達は歩き出した。


「なぁ、リナって幾つなんだ?」


「…16です」


「そっか。若いなぁ…」


高校の制服を着ているわたしを見れば、大体の年齢は推測出来るだろうに、ケイタさんは考える様に呟く。

No.131

ケイタさんが、何か考え事をしている間、わたし達は無言のまま二人並んで歩いていた。


一人の時だと気にならない沈黙も、こうして誰かと歩いていると何となく気になってくる。


しかし、わたしは何を話せばいいか分からないし、ケイタさんが何か考え事をしている様なので話し掛けてもらえるのを待っていた。


たまにケイタさんの方をチラリと盗み見しながら、ひたすら黙々と家に向かって歩いていく。


しかし、一向にケイタさんはわたしに話し掛けてくるどころか、考え事を止める気配がなかった。

No.132

もしかしたら、もうわたしと話すつもりはないのかも知れない。


高校生であるわたしは、こうして家まで送ったりしないといけなかったりと世話が焼けると思い、心の中で溜め息を吐いているかも知れない。


それか、カラオケでのわたしの歌が下手過ぎて呆れているのかも知れない。


そんな不安が、わたしの中に沸いてきた。

No.133

やはり、わたしは誰とも友達になれないんだろうか。


そう思うと、何だか無性に悲しくて涙が溢れそうになってきた。


喉の奥が苦しい。


堪えようとしても、涙は自然と溢れてくるものだ。


わたしは俯き、ギュッと目を閉じた。

No.134

「リナ、どうした?」


ふいに頭の上から掛けられた声に、わたしはハッとする。


急いで目許を拭ってから、わたしは顔を上げた。


「…いえ、何でもありません」


精一杯の笑顔を作り、わたしはケイタさんに言う。

No.135

「それなら、いいんだけどよ」


納得いかない様な顔をしながら、ケイタさんはわたしをジッと見詰めてくる。


「リナ、目赤くないか?」


「…え?」


わたしが泣いていた事に、ケイタさんは気付いただろうか。


わたしは焦りながら、何と言葉を返せばいいか必死に思考を巡らせる。

No.136

「…あの」


「あ?」


「えーと…」


「どうした?」


「睫毛が目に入って痛かったんです」


「そっか。あんま触らない方がいいぞ」


「はい」

No.137

わたしは頷くと、ケイタさんの前に立って先頭を歩いた。


これ以上、追及されたくないからだ。


本当は、疑問に思った事があれば相手に訊けばいいと思う。


それは、分かっている。

No.138

しかし、それを面と向かって訊ける勇気が、わたしにはないんだ。


正直、ケイタさんから返ってきた返答によって、傷付くのが怖い。


そんな事を考えながら歩いているうちに、ケイタさんと出逢った場所が見えてきた。


ここで、ケイタさんと別れよう。

No.139

そう思ったわたしは、ケイタさんの方を振り返った。


「この辺りで、大丈夫です。送って頂いて、ありがとうございました」


「おう」


わたしが丁寧に頭を上げると、ケイタさんが頷いた。


「では…」


わたしが軽く手を振ると、ケイタさんも同様に手を振ってくれた。

No.140

「気を付けて、帰れよ」


「はい」


わたしは小さく頷くと、ケイタさんに背を向けて歩き出した。


しかし、その足取りは重たい。


やはり、家に帰るのを躊躇ってしまう。


まだ、ドコかで時間を潰せないだろうか。

No.141

わたしは、何かないかと辺りを見回す。


そして、わたしが背後を振り返った時、ふとケイタさんと目が合った。


わたしと別れた時にいた場所に、まだケイタさんは立っている。


まるで、わたしがちゃんと帰るのを見届ける様に。


これでは、寄り道など出来ない。


やはり、このまま真っ直ぐ家に帰るしかないのか。

No.142

そう諦めて、わたしは真っ直ぐ前を向く。


そして、ゆっくりとした足取りで家へ向って歩き出す。


ふとケイタさんが、わたしの家の場所を知らない事に気付いた。


それなら、このまま家に帰るフリをして、ドコかに寄り道するのもありなのではないだろうか。


そう考えもした。


しかし、それはケイタさんを裏切る行為の様な気がする。

No.143

それに、もう高校生が一人で外を歩いて良い時間ではない。


高校の制服を着ている以上、目立つし補導される可能性も高い。


やはり、このまま真っ直ぐ家に帰ろう。


ケイタさんのお陰で、予定よりは早く家へ帰らなくて済んだ訳だし。

No.144

そう思ったわたしは、もう後ろを振り返らずに真っ直ぐ家へと向かった。


それでも、ゆっくり歩いて時間を稼いだりはしたが、着実にわたしと家との距離は縮まっていく。


それでも、ケイタさんと別れた時点で家の近くまで来ていたので、五分もしないで家へと着いてしまった。

No.145

「…ただいま帰りました」


重い足取りで玄関のドアを開けると、わたしは俯きがちに家の中に向かって言う。


「おかえり!」


家の中から小走りにやってきたお姉ちゃんは、わたしににこやかな笑みを向ける。


一応、ケイタさんとカラオケボックスに向かっている最中に、お姉ちゃんに『ごめんなさい。最近、この辺に引っ越してきた方に道案内を頼まれたので、今日は遅くなります』とメールしておいた。

No.146

そのためか、わたしが遅く帰ってきた事に対して、特にお姉ちゃんが不審に思った様子はなかった。


そもそも、わたしが遅く帰ってこようが、最初から興味ないのかも知れないが。


そして、そんなお姉ちゃんの足許には、無数の包装紙に包まれた箱や花束が所狭しと置かれていた。


「今、パーティーがお開きになって、みんな帰ったとこなの」


足許の箱や花束を見詰めているわたしに、そうお姉ちゃんが声を掛けてくる。

No.147

「パーティーに参加出来なくてスミマセン。遅れましたが、お誕生日おめでとうございます」


頭を下げながら、わたしはお姉ちゃんにお祝いの言葉を贈る。


別に、心から祝福している訳ではない。


ただの義理の言葉だ。


わたし達は本当の姉妹ではないし、義理の家族なのだから仕方がない。


義理の家族が、本当の家族になる事など出来ないのと一緒だ。

No.148

義理で成り立っている関係の者同士が、本当に心から祝福する事など出来る訳がない。


そう、今日はお姉ちゃんの20歳の誕生日なんだ。


わたしは、その誕生日パーティーに参加したくなかった。


そのため、必死に帰るのを遅らせていた。


それなので、お姉ちゃんの誕生日パーティーが終わっていた事に、わたしは心からホッとした。


参加しても惨めな思いをするのが、参加する前から目に見えていたから。

No.149

そして、わたしのその予測が外れていなかった事を、足許にあるプレゼントの山達が表している。


これは、お姉ちゃんがみんなに思われている証拠。


このプレゼントの数だけ、お姉ちゃんの誕生日を祝うために、今日は人が来たのだろう。


お姉ちゃんは、わたしと違って美人だし勉強も出来る。


そのため、友達も沢山いる。

No.150

それに比べて、わたしは美人でもないし勉強も出来ない。


そのため、友達が一人もいない。


今日、ケイタさんは友達になってくれると言った。


しかし、連絡先を交換した訳ではない。


そのため、もう逢う事はないだろう。


恐らく、わたしの誕生日の時は、お姉ちゃんの誕生日の時に比べて淋しい誕生日になると思う。

No.151

毎年の事だから、簡単に予測出来る。


こんなわたしでも、意外とそれなりに彼氏は出来てきた方だ。


しかし、毎年誕生日の時に彼氏がいても祝ってくれる事はなくて、常にわたしの誕生日は家族しか祝ってくれない。


しかし、お姉ちゃんはこの家の本当の子供だが、わたしはこの家の本当の子供ではない。


そのため、まだ家族が誕生日を祝ってくれるだけ、マシなのだと思う事にしている。

No.152

「ありがとう!リナ、見て」


嬉しそうに微笑んでいるお姉ちゃんが、わたしの前に左手を掲げて見せ付けてくる。


その薬指に、わたしはキラキラと光沢を発しているモノを見付けた。


ダイヤモンドの指輪だ。


恐らく、誰かからの誕生日プレゼントの一つなのだろう。


そう思っていたら、わたしが訊いた訳でもないのに、お姉ちゃんが嬉しそうに説明してきた。

No.153

「今日、誕生日プレゼントに彼氏からもらったの!わたしが大学を卒業したら、結婚しようって。要するに、婚約指輪」


わざわざ、わたしに報告しなくてもいいのにと思った。


一応、わたしも家族の一員だから報告してくれているのかも知れないが、わたしには自慢している様にしか見えない。


そう考えるわたしは、心が狭いのだろうか。


幸せそうな顔をして笑っているお姉ちゃんが、心の底から羨ましいと思う。


そして、同時に妬ましいとも思った。

No.154

わたしは彼氏から、誕生日プレゼントすらもらった事がない。


それどころか、『おめでとう』の一言すらもらった事がない。


勿論、わたしの誕生日に一緒に居てくれた事もない。


そもそも、わたしの誕生日を覚えてくれていた彼氏が、今までにいたかどうかも怪しい気がする。


それなのに、お姉ちゃんにはちゃんと誕生日を祝ってくれる彼氏がいる。

No.155

しかも、その彼氏が結婚したいとまで思ってくれているなんてズル過ぎる。


わたしは、物凄く敗北感を感じた。


この歴然の差は、何なのだろう。


やはり、お姉ちゃんは本当の子供で、わたしは本当の子供ではないからなのだろうか。


人は、本当の子供に生まれてこなければ幸せになる事は出来ないのだろうか。


本気で、そんな事を考えてしまった。

No.156

「…ご婚約、おめでとうございます」


わたしは俯きがちに、二度目の義理の祝福の言葉を口にした。


そして、玄関で靴を脱ぐなり、お姉ちゃんの横を通り過ぎて自分の部屋に行った。


もうこれ以上、お姉ちゃんの幸せ話を聞きたくないと思ったから。


「リナ、テーブルの上に晩御飯あるから、レンジで温めて食べてね。それから、冷蔵庫の中にケーキもあるから食べていいよ!」


そんなお姉ちゃんの声が追い掛けてきたので、わたしは自分の部屋に通学用鞄を置くと、その足でリビングへ向かった。

No.157

リビングを見渡しても、誰も居なかった。


お姉ちゃんの誕生日パーティーが終わって自分の部屋へ戻ったのか、お父さんの姿すらなかった。


お母さんは、わたしが小学生の時に死んだので居ない。


お父さんは、元から忙しく仕事をしている人だったが、お母さんが死んでから更に忙しく仕事をする様になった。

No.158

仕事を忙しくする事で、お母さんが死んだ悲しみを紛らわそうとしているのかも知れないが、そのため毎日家に帰ってくるのが遅い。


時には、忙し過ぎて家に帰って来ない時もある。


そのため、わたしはお姉ちゃんと二人暮らしの様な生活をしている。

No.159

しかし、今日はお姉ちゃんの誕生日なので早く帰ってくると、昨日の食卓の時にお父さんが言っていた。


そのため、久々に家でゆっくり出来るという事で、もうお父さんはお風呂に入って寝てしまったのかも知れない。


そんな事を考えながら、電気を点けて食卓テーブルに近付いた時、イスに見覚えのない真っ白なコートが掛けられているのを発見した。

No.160

いつも、お姉ちゃんが座っている席だ。


それを見て、前にお姉ちゃんが誕生日プレゼントに、お父さんに真っ白のコートを強請っていたのを思い出した。


その時、お父さんも『分かった』と頷いていたから、約束通りお姉ちゃんに買ってあげたのだろう。


フワフワして温かそうで、何だか高そうなコートだ。


恐らく、ブランド物で何万もするモノなのだろう。

No.161

わたしは、お父さんに誕生日プレゼントに何が欲しいかを訊かれても、遠慮して五千円以内に収まる様に考えてお願いするのに。


本当の子供であるお姉ちゃんは、遠慮する事なしに平気でお父さんに良いモノを買ってもらえる。


わたしがしたくても出来ない事を、お姉ちゃんは平然と出来てしまう。


それが、やはり羨ましいと思った。


そして、やはり妬ましいとも思ってしまう。

No.162

わたしが本当の子供ではない事は、わたしが全て悪い訳ではないのに。


どうして、本当の子供であるお姉ちゃんと、ここまで決定的な差が出てばかりなのだろう。


わたしも、本当の子供に生まれたかった。


至極、そう思った。


どんなに願っても、叶わない事だけど。


わたしも、お姉ちゃんみたいになりたかった。


そしたら、お姉ちゃんみたいに幸せな笑顔を浮かべられる人になれていただろうか。

No.163

翌日、わたしはいつも通り高校へ行った。


そして、いつも通り授業を受けている。


しかし、黒板の文字をノートに写し取りながら、考えているのは別の事だった。


大学へ進学したいと思っているから、真面目に授業を聞かなければいけないと思う。


しかし、どうも今日は集中する事が出来ない。


わたしが考えているのは、ケイタさんの事だ。

No.164

昨日、家に帰ってお風呂やベッドの中でも、わたしはケイタさんの事を考えていた。


わたしは寝付きが悪くて、すぐには眠れないのでベッドの中では特に考えていた。


考えていたというよりも、後悔していたというべきなのかも知れないが。


昨日、わたしと友達になってくれると、ケイタさんは言った。


しかし、わたし達は連絡先を交換する事をしなかった。


そのため、もう逢う事はないと思う。

No.165

わたしの家の近くに住んでいるらしいので、もしかしたら偶然、逢う事はあるかも知れない。


しかし、その偶然が起きる確率は、わりと低いとわたしは思う。


仮に逢ったとしても、どちらかが髪型や雰囲気などを変えていて、たまたま気が付かないという可能性もあるし。


そう考えると、もうケイタさんと逢う事はないに等しいと考えるべきだと思う。


その事に対して、わたしはヒドく後悔していた。

No.166

折角、ケイタさんが友達になってくれると言ってくれたのだから、連絡先を訊いておけば良かったと今更になって思うんだ。


もしも、わたしがケイタさんに連絡先を訊いてさえいれば、まだわたし達は友達として交流していたのかも知れない。


今更、そんな事を思っても遅いのは分かる。


充分に、承知している。


しかし、そう思わずにはいられないんだ。

No.167

そんな感じで、学校にいる時間の大半はケイタさんの事を考えて過ごしていた。


休み時間などは、周りが友達と楽しそうに談笑している中、わたしは一人淋しく黙って大人しく過ごしている訳だから尚更だ。


ケイタさんに対する後悔を紛らわすために、今日もマサオに連絡して逢いに行こうかとも考える。

No.168

しかし、マサオと逢っても淋しくなるだけの様な気もする。


マサオに逢ったとしても、昨日の様にアラームをセットされて、わたしは早く帰される事になると思うから。


それに、二日連続で『逢いたい』と言ったら、マサオに鬱陶しがられるかも知れない。


マサオが、自分からわたしに『逢いたい』と言わないという事は、恐らく逢いたいと思っているのはわたしだけだと思うから。

No.169

しかし、それならケイタさんに対する後悔の念は、どの様にして紛らわせばいいのだろうか。


そんな事を考えて過ごしているうちに、滞りなく一日の授業は終わり、帰りのホームルームも終わった。


周りがザワザワしている中、わたしは一人無言で教室を立ち去り、建物の出口を目指す。

No.170

下駄箱で、上履きから外履きへ履き替えると、すぐに校舎の外へ出る。


そして、校門の方へ向かって歩いていく制服に身を包んだ人の波に、わたしは紛れ込んだ。


雑談をしながら歩いている人間が多いせいか、歩くのが遅い人間が目立つ。


そんな人々を、わたしは次々と追い越していく。

No.171

そして、いつも通りに校門の外へ出ようとした時、わたしは目を見開きながら足を止めた。


そのまま、わたしはジッとしたまま動けなかった。


目の前では、信じられない光景が繰り広げられていた。


校門に凭れながら、わたしの方を一人の人間がジッと見ている。

No.172

明るい茶髪に、目鼻の整った顔立ち。


細身で、わたしよりも頭一個分くらい高い身長。


わたしは今日、この姿を何度も頭の中で思い浮かべた。


ケイタさんの姿を。

No.173

緊張して、心臓を脈打つ音が速くなっているのが分かる。


そんなわたしを見て、ケイタさんは少し微笑んだ。


「よぉ!」


わたしに近付いてきたケイタさんは、軽く手を上げた。


「…こんにちは」


どう反応すればいいのか分からなくて、わたしはケイタさんに軽く頭を下げながら挨拶した。

No.174

「昨日、大丈夫だったか?」


「…え?」


ケイタさんの質問に、わたしは目を見開く。


何の事を指しているのか、すぐには分からなかったためだ。


「ほら、結構帰るのが遅くなっちまったから、家の人に何か言われなかったかなぁと…」


頭をガシガシ掻きながら、ケイタさんは考える様に言う。

No.175

どうやら、わたしの事を心配してくれていたらしい。


もしかして、そのためだけに逢いに来てくれたのだろうか。


「…大丈夫です。何も言われていません」


わたしはケイタさんを安心させるために、必死に笑顔を作りながら答えた。


「良かった!」


わたしの答えにホッとしたのか、ケイタさんも満面の笑みを浮かべた。

No.176

「…あの」


「あ?」


「もしかして、それを訊くためだけに逢いに来てくれたんですか?」


それだけでも、充分に嬉しいけど。


このまま、すぐにケイタさんとお別れするのは淋しい。


そう思ったわたしは、出来るだけケイタさんに話し掛けようと思った。

No.177

そして、ケイタさんと一緒にいる時間を、増やそうと思ったんだ。


本当は、今すぐケイタさんの連絡先を訊きたい。


そしたら、このままお別れしたとしても、またケイタさんに逢える様な気がするから。


しかし、まだケイタさんに連絡先を訊く勇気が、わたしには沸いてこない。


そのため、わたしが連絡先を聞ける勇気が持てるまで、ケイタさんと話をして時間を稼がなければいけないと思った。

No.178

「それだけって訳でもないんだけどな…」


そう考える様に言うと、ケイタさんは足許に視線を落とした。


他にも、わたしに何か用があるのだろうか。


そう思ったわたしは、ケイタさんの次の言葉を待った。


しかし、ケイタさんは足許に視線を落としたまま、一向に何も言う気配がない。


重い沈黙が続き、わたしは居心地の悪さを感じてくる。


何か、言いにくい事なのだろうか。

No.179

「…あの」


再び、わたしが口を開いた時、ケイタさんが足許から視線を上げた。


そして、わたしの方を見るなり、やっと口を開いた。


「リナ」


「はい」


「俺の女にならないか?」

No.180


「…え?」


わたしは、耳を疑った。


何故、その様な言葉が急に出てくるのだろうと思った。


「どうしてですか?」


「別に、嫌ならいいんだけどよ?俺、リナの事を好きなっちまったみたいだ…」


「……」

No.181

今度は、わたしが深く黙り込んだ。


ケイタさんが、わたしの事を『好き』と言ってくれた。


その気持ちは、スゴく嬉しい。


しかし、わたしにはマサオという恋人がいる。


わたしは、マサオの事を好きだ。

No.182

「なぁ、リナ。大事にしてやるぞ」


ケイタさんの『大事にしてやるぞ』という言葉に、わたしの胸は揺れた。


マサオは、わたしの事を大事にはしてくれないから。

No.183

寧ろ、放っておかれている。


わたしが連絡しないと、もうマサオとの関係は切れているだろう。


わたし一人だけが、マサオの事を好きなのではないかと、今まで何度も思った。


マサオは、わたしの事など何とも思っていないのだろうと、今まで何度も感じた。

No.184

だからこそ、マサオと別れた方がいいのかも知れないと思った。


わたし一人が好きでも、幸せにはなれないから。


だからこそ、ケイタさんと付き合った方が、わたしは幸せになれるのだろうと漠然と思った。


ケイタさんなら、本当にわたしを大事にしてくれると思うから。


人間は、自分が好きな相手といるよりも、自分の事を好きと言ってくれる相手といた方が幸せになれるのだと思う。

No.185

勿論、お互いがお互いの事を好きなら、それに越した事はないと思うが。


自分の事を好きと言ってくれる人なら、わたしも好きになれる様な気がする。


そう思ったから、わたしは気が付くと頷いていた。


「…はい」


「決まりだな、リナ」


頷いたわたしを見て、ケイタさんが優しく微笑んだ。

No.186

「俺達が付き合った記念に、これから飯でもどうだ?」


「いいですね」


わたしが頷くと、ケイタさんは手を伸ばしてきた。


「じゃ、オススメの店に連れてってやるぜ!」


そう言って、わたしの手をソッと握ると、ケイタさんは歩き出した。

No.187

最近、この辺りに引っ越してきたばかりと言っていたのに、もうオススメのお店があるのかとわたしは少し関心した。


関心したと言えば、どうしてわたしの通っている高校が分かったのだろう。


わたしは、ケイタさんに高校名を教えていない。


それなのに、引っ越してきたばかりだというのに、制服を見ただけで高校が分かったりする筈がないと思う。


ケイタさんが高校生なら、まだ友達などから情報が入ってくるかも知れない。


しかし、ケイタさんは高校生には見えない。

No.188

詳しい年齢は訊いた事がないが、恐らく高校生ではないだろう。


もっと、大人だと思う。


そんなケイタさんが、どうしてわたしの通っている高校が分かったのだろう。

No.189

「…あの」


「あ?」


「そう言えば、どうしてわたしが通っている高校が分かったんですか?」


考えても答えが出ないわたしは、結局はケイタさんに訊いてみた。

No.190

「制服だ。今朝、俺の家の近くで、リナと同じ制服を着ている奴を見掛けた」


確かに、わたしの近所にケイタさんが住んでいるなら、それも有り得ると思う。


わたしが通っている高校は、わたしの近所でも通っている人間が何人かいるためだ。


「だから、俺はそいつを尾行した」


「…え?」

No.191

「勿論、バレなかった。安心しろ」


そういう事を、心配している訳ではないのだが。


「尾行してまで、わたしに逢いに来てくれたんですか?」


「嗚呼。そいつを尾行してから、ずっとリナが出てくるまで校門のとこで待っていた」


「…え?ずっとですか?」


「嗚呼、ずっとだ」

No.192

「…え?本当に、ずっとあそこにいたんですか?」


「嗚呼、ずっとだ。何度も言わせるな」


信じられなくて、思わず二度も訊いてしまうわたしだったが、ケイタさんは答えを変えない。


それが、真実を言っているからなのだと分かる。


しかし、ケイタさんの行動は妙だ。


「…どうして、ずっといたんですか?」

No.193

「あ?」


「高校の場所が分かったなら、ずっといなくても授業が終わる頃にこれば良かったんじゃないですか?」


わたしは、正論を言ったつもりだった。


しかし、即座にケイタさんに首を振られた。


「リナが具合悪くて、早退とかするかも知れないだろ?そしたら、擦れ違っちまうだろ」

No.194


「…はぁ」


確かに、その通りだと思い、わたしは曖昧に頷いた。


しかし、そこまで普通はしないと思う。


そう思う片隅で、そこまでしてケイタさんが、わたしに逢いたかったのだと思うと嬉しさが込み上げてきた。


マサオは、自分から逢いに来てくれた事など一度もない。


そのため、余計に嬉しいのだと思う。

No.195

「着いたぞ」


そう言うケイタさんの視線の先には、一件の木造の喫茶店があった。


「ここ、実は俺の家なんだ」


ケイタさんが、得意気に笑う。


「まぁ、中に入ろうぜ」


CLOSEと書かれた札が下げられているドアを、ケイタさんが鍵を使って開けた。

No.196

「どっか、好きなとこに座ってくれ」


そう言って、ケイタさんはカウンターの奥へと入っていく。


ドコに座ろうかと思い、わたしは店内を見渡した。


誰もいないので、好きな席を選びたい放題だ。


結局、ケイタさんの姿がよく見えるカウンター席へ、わたしは腰を下ろした。


わたしと目が合うと、ケイタさんは優しく微笑んでくる。

No.197

「飲み物、何がいい?今日も、オレンジジュースか?」


「はい」


わたしが頷くと、すぐにオレンジジュースをグラスに注いで、ケイタさんが渡してくれた。


「今から、リナのためにとっておきのものを作るから待っていてくれよな」


「はい」


わたしが頷くと、ケイタさんは腕まくりをしながら、厨房の方へと消えていった。

No.198

その後ろ姿を見ながら、わたしはワクワクしてきた。


わたしのために、とっておきの何かを作ってくれる。


そう思うと、楽しみで仕方がない。


一体、どの様なものが出てくるのだろう。


喫茶店だから、サンドイッチとかパスタだろうか。


それとも、ハンバーグとかが出てくるのだろうか。

No.199

そんな風に、わたしは忙しなく考えていた。


そして、30分くらい経過した頃、ケイタさんがお皿を乗せたトレーを手にしながら厨房の奥から出てきた。


「お待たせしました!」


そう笑顔で言いながら、ケイタさんがトレーの上のお皿をテーブルの上へと置いていく。


お皿の上には、半熟玉子のオムライスが乗っていた。

No.200

美味しそうだ。


しかし、普通のオムライスではない。


オムライスの上には、ケチャップを使って『リナ★ケイタ 恋人記念』と書かれている。


それを見て、何だかわたしは嬉しさが込み上げてきた。


「さ、乾杯しようぜ!」


トレーを片付けて、コーヒーカップを手にしたケイタさんが、そう言ってわたしの隣に座る。

No.201

「乾杯!」


ケイタさんが言うと、わたし達はグラスとコーヒーカップを、カチンと鳴らした。


そして、わたしがオレンジジュースを少し飲んでテーブルに置くと、ケイタさんがスプーンを手渡してきた。


「食べてみろよ」


「はい」


わたしは頷くと、オムライスにスプーンを入れた。

No.202

そして、それを口まで運ぶ。


口の中に、卵のふんわりした感触と、ケチャップの味が広がる。


「美味しいです」


「良かった!」


わたしがオムライスの感想を述べると、ケイタさんは満足気に笑う。


そして、自分もスプーンを手に取り、オムライスを食べ始めた。

No.203

「なぁ、リナ」


オムライスを食べながら、ケイタさんがわたしに声を掛けてきた。


「何ですか?」


わたしが振り返ると、ケイタさんはポケットの中に手を入れ、その中を弄り出す。


その様子を黙って見詰めていると、ケイタさんはポケットの中からブラックの携帯電話を取り出した。


そして、わたしの前に携帯電話を掲げて見せながら、ケイタさんは笑みを浮かべる。

No.204

「交換しようぜ」


「え?携帯ですか…?」


わたしは、戸惑った。


携帯電話には、個人情報とかが含まれている。


それなのに、そう簡単に交換しても良いのだろうか。


いや、良くないだろう。

No.205

どうにか、断らなくては。


そう必死に考えていると、ケイタさんが噴き出した様に笑い出した。


「はは。携帯じゃなくて、番号とアドレスだよ」


「え?…あ、成程」


普通に考えれば、それが普通だ。


普通、携帯と携帯を交換するなんて有り得ない。

No.206

しかし、わたしは友達がいないから、携帯の番号やアドレスを交換する機会がない。


そんな風だから、携帯を掲げて見せられて『交換しよう』などと言われたら、携帯と携帯を交換するのだと変な勘違いをしてしまったんだ。


何だか、恥ずかしい。


変な娘だと、ケイタさんに思われてしまっただろうか。


そう思って、ケイタさんから目を逸らしながら、黙々とオムライスを口に運ぶ。

No.207

「リナ」


ケイタさんが私の名前を呼ぶが、恥ずかしくてケイタさんの方を見れないわたしは、黙ってオムライスを食べ続ける。


「リナ」


懲りずに、わたしの名前を呼んでくるケイタさんの声を聞きながら、流石にこのまま無視し続けるのは良くないかと思い始める。


その時、急にわたしの肩が抱き寄せられた。

No.208

そして、気付くと目の前にはケイタさんの顔。


一瞬、何が起きたのか分からなかった。


しかし、すぐにわたしは肩を抱き寄せられて、ケイタさんの方を向かせられたのだという事に気付く。


わたしは、恥ずかしいから俯こうと思った。


しかし、すぐにケイタさんに肩を掴まれたので、そう出来なかった。


その状態のまま、ケイタさんは口を開く。

No.209

「リナ、笑ったりしてゴメン」


「…はい」


「バカにした訳じゃなくて、リナって面白いなぁって思ってさ…」


「面白いですか…?」


「嗚呼、面白いよ。リナといると面白い。だから、一緒にいるんだ」

No.210

ケイタさんがくれた言葉が、わたしは素直に嬉しかった。


わたしといる事で、面白いと思っている人など、今までいないと思っていたから。


わたしといても面白くないから、誰も友達になろうとしないし、マサオも長く一緒にいようとしなかったのだと思う。

No.211

しかし、ケイタさんは他の人とは違う。


わたしと一緒にいて、面白いと言ってくれた。


それだけで、わたしはケイタさんと付き合って良かったと思った。


そして、早くマサオと別れようとも思った。

No.212

「リナ、携帯の番号とアドレス交換しようぜ」


「はい」


今度は、分かりやすく言ってくれたケイタさんの言葉に、わたしはすぐに頷いた。


そして、わたしは制服のポケットを弄り、急いでリキッドグリーンの携帯電話を取り出す。

No.213

「赤外線で交換しようぜ」


「赤外線?」


「ほら、貸してみろ」


「…はい」

No.214

わたしが携帯電話を手渡すと、ケイタさんは手慣れた様に二台の携帯電話を操作し、それらを向かい合わせた。


「ほら、これが俺の番号とアドレスだから」


そう言って、ケイタさんに返された携帯電話の画面を見ると、ケイタさんの携帯の番号とアドレスらしきものが、シッカリと登録されていた。

No.215

「スゴイ…」


思わず、わたしは感嘆の声を漏らす。


携帯電話を向かい合わせるだけで、携帯電話の番号とアドレスを交換出来るとは思っていなかった。


現に、わたしとお姉ちゃんが携帯電話の番号とアドレスを交換した時は、メールで送り合って交換した様な気がする。

No.216

「今の携帯って、本当にスゴイよな」


そう言って、ケイタさんが微笑んだかと思うと、わたしの頭に手を伸ばしてきた。


「俺達、こうして今日から恋人同士になった訳だし、いつでも連絡してこいな」


「はい」


ケイタさんの言葉に、わたしは自然と笑顔で頷いていた。


きっと、嬉しかったんだ。


こうして、ケイタさんと連絡先を交換し合った事で、そう簡単には切れない繋がりを持てた事が。

No.217

オムライスを食べ終わると、ケイタさんはわたしを家の傍まで送ってくれた。


本当は、ケイタさんは家まで送ると言ってくれた。


しかし、わたしがそれを拒否した。


その理由は、やはりケイタさんと一緒にいる時に、家族と鉢合わせするのを避けたいためだ。


特に、ケイタさんは顔立ちが整っていて、他の人よりも余計に目立つ。


見掛けたり擦れ違ったりしたら、振り返らない人などいないのではないかという程に。

No.218

そのため、絶対にケイタさんを家に近付けない様にしなくてはと思った。


そんな事を思いながら家の中に入ると、わたしはすぐに自分の部屋へと足を向ける。


そして、制服を脱いで私服に着替えると、自分の携帯電話と睨めっこしていた。


本当は、今すぐにでも交換したばかりのアドレスを使って、ケイタさんへメールを送りたい。


しかし、その前にわたしにはやらなくてはならない事があった。

No.219

一応、まだわたしとマサオは付き合っている事になっている。


しかし、わたしはケイタさんと付き合う事を選んだ。


そして、もう既に付き合っている。


後戻りは出来ない。


そのため、わたしはマサオと別れなければいけない。


このまま、マサオと別れずにケイタさんと付き合い続ければ、二股になってしまうから。

No.220

わたしは、どうマサオに切り出せばいいのかを悩んでいた。


マサオは、わたしの初めての彼氏ではない。


しかし、初めての彼氏に別れを切り出すのかというくらい、わたしは物凄く悩んでいた。


それも、その筈だ。


今まで、わたしは彼氏との別れを何度か経験してきたが、自分から別れを一度も切り出した事がない。


いつも別れを切り出すのは、彼氏の方だったんだ。

No.221

そのため、どうやってマサオと別れればいいのか分からなかった。


ただ単純に、メールに『別れよう』とだけ書いて送ってもいいのか。


それとも、メールに『話がある』と書いて送って、マサオに逢った時に『別れよう』と切り出すべきなのか。


友達がいれば、この様な事も相談出来るのだろう。


しかし、わたしには友達などいない。


唯一いた友達のケイタさんとは、恋人同士になってしまった訳だし。

No.222

恋人同士だと、この様な事を相談して良いのか分からない。


もしかしたら、他の男と別れる前に付き合ったという事で気を悪くするかも知れない。


そう思ったので、ケイタさんには黙っておこうと思った。


そうすると、他に相談出来る相手と言ったら、やはり一人しかいない。


お姉ちゃんだ。

No.223

美人で勉強も出来るお姉ちゃんなら、恐らく的確なアドバイスをくれるだろう。


しかし、お姉ちゃんにだけは頼りたくないと思った。


昨日、お姉ちゃんは彼氏から婚約指輪をもらったというのに、妹のわたしは彼氏と上手くいかなくて別れるのだと同情されたくなかったんだ。


そのため、やはり自分で考えるしかないという結論に至る。


取り敢えず、電話してみよう。

No.224

電話で話しているうちに、別れ話を切り出せるかも知れないし。


そう思ったが、すぐにわたしは考え直した。


電話だと、相手の声を聞きながら直接言わなければならないので、恐らくメールよりも別れ話を切り出しにくいと思う。


特に、わたしの様に優純不断なタイプなら、尚更だと思う。


そのため、もしかしたら言い出せないままで終わるかも知れない。


それでは、意味がない。


そう思ったわたしは、マサオにメールで別れ話を告げる事にした。

No.225

最近、マサオにメールを送っても返ってこない事が多い。


忙しいからなのか、意図的に無視しているからなのかは知らないが。


マサオの気持ちが、わたしに向いていない事は間違いないと思う。


そのため、わたしが『別れよう』という言葉を告げれば、マサオとの関係は簡単に終わると思う。


この時のわたしは、そう信じて疑わなかった。

No.226

そのため、『別れよう』とメールで打つのに、涙を堪えながら必死になっていた。


そして、メールを作成した後も、震える指で必死に送信ボタンを押した。


メールを送った瞬間、わたしは達成感に浸っていた。


ようやく、マサオと別れられたんだと。


マサオからの返事は、こないと確信していたから。


悲しくないと言えば嘘になるし、涙も次々と零れてきたけど、これで良かったのだと自分に言い聞かせる。

No.227

わたしは、マサオと付き合い続けているよりも、ケイタさんといる方が幸せになれる筈なのだから。


そんな事を考えながら、ベッドに寝そべって涙を拭っていた時、わたしの携帯電話の着信音が鳴った。


「え?」


もしかして、マサオなのだろうか。


そんな事はないと思う反面、わたしは少し期待していたと思う。

No.228

恐る恐る、携帯電話の画面を見ると、ケイタさんからの着信である事が分かった。


その事に、スゴくガッカリしてしまった。


それで、分かってしまった。


わたしは、まだマサオの事がスゴく好きなんだ。


そのため、わたしは『別れたくない』とマサオに言ってもらえる事を、心のドコかで期待していたと思う。


そんな事は、有り得ないと分かっているのに。

No.229

どうして、期待などしてしまうのだろう。


マサオの事を嫌いになりたい。


それなのに、どうして嫌いになれないのだろう。


ケイタさんの事を好きになりたい。


それなのに、どうしてわたしが好きなのはマサオなのだろう。

No.230

恋をするって、本当に苦しい。


自分の気持ちなのに、こんなに思い通りにいかないのだから。


恋をするって、本当に難しい。


嫌になるくらいに。

No.231

結局、ケイタさんからの電話に出ずに泣いていたわたしは、何時の間にか泣き疲れて眠っていた。


そんなわたしが目を覚ましたのは、夜の12時を過ぎる直前に携帯電話の着信音が鳴ったからだった。


ケイタさんだろうか。


悪気はなかったが、先程は電話を無視してしまった。


そのため、謝らなければと思いながら、わたしは眠たい目を擦りながら枕元にある携帯電話に手を伸ばした。


ところが、携帯電話の画面を覗き込むと、予想外の名前が表示されていた。

No.232

マサオだ。


その名前を見て、わたしは一気に目が覚めた。


「もしもし…!?」


気が付くと、わたしは急いで通話ボタンを押していた。


一秒でも早く、マサオの声が聞きたかったんだ。

No.233

それくらい、わたしはマサオの事が好きだったのだと思う。


「…リナ」


本当は、そんなに久し振りでもないが、物凄く久し振りに名前を呼ばれた様な気がして嬉しかった。


そして、もっと名前を呼んで欲しいと思った。


しかし、どうしてマサオが電話をしてきたかの方が気になった。

No.234

「マサオ、どうしたの…?」


わたしは、緊張しながら訊ねる。


しかし、やはり心のドコかでは期待していた。


「リナ、さっきのメールの事だけど…」


早速、わたしが送ったメールの事に、マサオは触れてきた。


これは、期待しても良いのだろうか。

No.235

もしかしたら、『うん、別れよう』などと同意の返事をするために、わざわざ電話をしてきた可能性もある。


しかし、それ以上に期待する気持ちの方が、今のわたしは強かった。


「俺は…」


「…うん」


わたしは、緊張した面持ちで頷きながら、マサオの次の言葉を待つ。

No.236

「リナと別れるつもりはない」


「え…?」


一瞬、わたしは物凄く驚いた。


しかし、その次の瞬間、わたしは嬉しさに酔い痴れていた。


その言葉を、どれだけ待ったか。


わたしと別れたくないという事は、ちゃんとマサオもわたしを好きでいてくれたという事なのだろう。


それが、どんなに嬉しい事だろうと思うと、わたしは自然と涙が溢れてきた。

No.237

しかし、次にマサオが発した言葉は、わたしが予想もしない言葉だった。


「俺、リナにフラれるなんて納得いかない」


「え…?」


一体、どういう意味なのだろう。


わたしは、マサオに言われた言葉の意味を、すぐには理解する事が出来なかった。

No.238

「そういう訳だから、まだ俺とリナは別れていないから」


もしも、マサオが別れたくない理由を聞いていなかったら、恐らくわたしはこの言葉で喜んでいただろう。


しかし、今のわたしは素直に喜ぶ事が出来なかった。


マサオの言葉の意味を、徐々に理解してきたんだ。


マサオは、わたしにフラれるという事が、どうも納得出来ないらしい。


恐らく、わたしなんかにフラれたら、自分のプライドが傷付くと思っているのだろう。

No.239

要するに、わたしの事を好きだから別れたくないとは、全く思っていないという事だ。


そう分かっていても、直接本人に確かめてみないと気が済まないのが人間の性。


気が付くと、わたしは声を強張らせながら、マサオに質問していた。


「それって…、わたしの事を好きだから別れたくないとか…、そういう訳ではないんだよね?」


「嗚呼」

No.240

「…そっか」


マサオが即答した事に、わたしは物凄く落胆した。


躊躇いすらしてくれなかった事で、マサオの気持ちが全くわたしにない事が、痛い程に伝わってくる。


「じゃあ、マサオはわたしの事を、最初から好きじゃなかったの…?」


「……」


マサオが黙り込んだ事で、わたしの目尻に涙の粒が浮かんだ。


答えられないという事は、肯定したという事だから。

No.241

流石のマサオも、自分から好きと言って付き合った以上、先程みたいに即答する事は出来なかったのだろう。


そう判断したわたしは、次の質問に移る。


「どうして、マサオはわたしと付き合ったの…?」


「……」


「……」


「……」

No.242

なかなか口を開かないマサオの言葉を、わたしは無言で待っていた。


しかし、とうとう待ち切れなくなってきた。


「答えて…」


「…分かった。話すよ」


涙交じりに吐き出した私の言葉に、マサオが決心した様に頷いた。

No.243

もしかしたら、『うん、別れよう』などと同意の返事をするために、わざわざ電話をしてきた可能性もある。


しかし、それ以上に期待する気持ちの方が、今のわたしは強かった。


「俺は…」


「…うん」


わたしは、緊張した面持ちで頷きながら、マサオの次の言葉を待つ。

No.244

※申し訳ありません。

No.243は、間違えて過去に掲載したものも書き込みしてしまったので、飛ばして読んで下さい。

No.245

「リナ」


わたしの事を、最初から好きではなかったと分かっても、マサオに名前を呼ばれると嬉しく思う。


そんな自分に嫌悪感を抱きながら、わたしはマサオの言葉の続きを促す。


「何…?」


「俺に、他に女がいたって知っていた?」


「え…?」

No.246

信じられない。


マサオに、わたしの他にも付き合っている女の人がいたなんて、全く知らなかった。


これが、浮気というやつだろうか。


それとも、二股というやつだろうか。


一体、いつからだろう。


わたしの頭の中を、様々な疑問が駆け巡った。

No.247

「その様子だと、知らなかったみたいだね?」


わたしの事を見下す様に、マサオが言う。


「いつからだと思う?」


「……」


「最初からだよ」


「……」

No.248

「多い時は、一度に10人くらいいた」


ショックで何も言えないわたしに、マサオが一方的に話し掛けてくる。


そこには、残酷な言葉ばかりが並んでいた。


未だに、信じられない。


しかし、全て真実なのだろう。


その真実を聞けば聞く程、わたしの心は傷付き、溢れる涙の量は増えていった。

No.249

しかし、わたしが質問した事には、まだマサオは答えていない。


その答えを聞いた時、わたしは今以上に悲しむのだろうか。


そして、泣くのだろうか。


そんな不安が、頭の中を過ぎる。


しかし、このまま聞かない訳にもいかない。


今、マサオの口から聞かなければ、この先も気になって前に進めないと思うんだ。

No.250


「それで…、どうしてマサオはわたしと付き合ったの…?」


一向に言おうとしないマサオに、わたしは急かす様に再び訊ねた。


すると、ひたすら一方的に口を開いて話を続けていたマサオが、一瞬だけ黙った。


そして、先程も聞いた事を再び口にする。


「…分かった。話すよ」


わたしは無言で、マサオが話し始めるのを待つ。

No.251

※申し訳ありません。

No.249とNo.250は、間違えて過去に載せたものを載せてしまいましたので、飛ばして読んで下さい。

何度も間違えてしまって、本当に申し訳ありません。

No.252

※度々、申し訳ありません。

No.249とNo.250ですが、やはり間違えて載せた内容ではありませんでした。

No.251に書いた内容の方が間違えていましたので、普通に飛ばさずに読んで下さい。

本当に、何度も何度も申し訳ありませんでした。

No.253

「さっきも言ったけど、俺にはリナの他にも女がいた」


「…うん」


「だけど、俺は女達と本気で付き合うつもりはなかった」


「…え?」


言っている意味が、分からなかった。


今日のマサオは、理解し難い事ばかり口にしているが、今の発言は特に意味が分からなかった。

No.254

「だって、付き合うと色々と面倒じゃん?」


「面倒…?」


「浮気が、どうのこうのとか…」


浮気しておいて、よく言う。


そう思ったが、早くマサオの次の言葉を聞きたかったので、わたしは口には出さなかった。


黙って、マサオの次の言葉を待つ。

No.255

「俺も若いし、色んな女の子と遊びたいしさ…」


「じゃあ、どうしてわたしには付き合おうって言ったの…?」


マサオの発言は、矛盾している。


マサオは、確かにわたしに自ら交際を申し込んできたのだから。


そして、確かにわたしと付き合っていたのだから。


たとえ、わたしの事を一秒たりとも、好きな瞬間がなかったとしても。

No.256

「それは…」


「それは…?」


わたしは早く続きの言葉を聞きたくて、つい急かす様にマサオの言葉を鸚鵡返しに呟いてしまう。


「リナは、都合が良かったから」


「都合が良かった…?」

No.257

またまた、わたしはマサオの言った事の意味が分からなかった。


「リナは、他の女とは違う」


一体、どの様な部分が違うというのだろう。


確かに、わたしは周りの女の子に比べて、変わっている部分が多いと思う。


しかし、マサオはどの様な部分を違うと思ったのだろう。


その様な事を考えている間にも、マサオは話す事を続けてくる。

No.258

「リナは、俺がメールを送らなかったり、なかなか逢えなくても文句とか言わないだろ?」


「…うん」


確かに、そうだと思った。


本当は言いたかったが、嫌われるのが怖くて言えなかった。


「そういう部分が、都合がいいんだよ。その辺の女なら、すぐに文句を言ってくるからね」


「…成程」

No.259

マサオの言いたい事は分かった。


しかし、マサオの発言には、少し気になる点があった。


「でも、わたしがそういう女だって、付き合う前から分かっていた訳じゃないよね…?」


「いや、分かっていたよ」


「え…?」


即答したマサオに、わたしは驚きを隠せなかった。

No.260

何故、マサオは付き合う前から、わたしがどの様な人間かを知っていたのだろう。


わたしとマサオは、付き合う前には殆ど言葉を交わした事がなかったというのに。


「人間観察だよ」


「人間観察…?」


マサオが静かに口にした言葉を、わたしは鸚鵡返しに呟く。


「俺は、付き合う前からリナの事を観察していた」

No.261

「どうして…?」


「大人しい女の方が、都合がいい女が多いと思ったから」


わたしが大人しい性格だと、大抵の人は短時間で判断する事が出来ると思う。


黒髪で、高校の制服も正しく着ている。


そして、友達もいない訳だから、騒がしくしようがない。


恐らく、その様な点を見て、マサオもわたしが大人しい性格だと判断したのだろう。


しかし、まだわたしには気になる事があった。

No.262

「でも、わたしが都合のいい女だとしても…」


マサオの口から聞く時も辛かったが、自分で口にすると余計に胸が苦しくなった。


しかし、ここで言葉を止めてはいけない。


そう思ったわたしは、胸の苦しみを必死に我慢しながら、絞り出す様に言葉を続けた。


「好きじゃないなら…、ムリして付き合う必要はなかったんじゃない?どうして、わたしと付き合ったの…?」

No.263

やっと聞きたい事を言葉にし終わり、わたしは少しホッとしていた。


それに対して、マサオからの返事はすぐに返ってきた。


「他の女達に、彼女がいると思わせるため」


女の子と関わる際に、彼女がいると思わせる事で、何かメリットでもあるのだろうか。


考えても、やはりわたしには分からなかった。


しかし、その答えはマサオが、すぐに口にしてくれた。

No.264

「彼女がいると思わせておけば、女達は付き合いたいとは言わないだろ?」


「成程」


わたしは、完全に利用されるためだけに、マサオと付き合っていたんだ。


「だから、これからもリナが彼女じゃなきゃ困るんだよ」


そして、これからも利用されるためだけに、マサオはわたしを縛り付け様とするんだ。


わたしの意志など、尊重しようともしないで。

No.265

翌朝、わたしは憂鬱な気分で高校へと来ていた。


本当は、気分が悪いと言って休みたかった。


もしも、わたしが本当の子供だったとしたら、そうしていただろうし。


しかし、わたしは義理の子供だ。


出来るだけ、家族からの印象を良くしなければいけない。


高校を休めば、印象が悪くなるのは確実だろう。

No.266

それだけで、捨てられるとは思っていないが、そういう事の積み重ねでいつか捨てられる日が来るかも知れない。


それだけは、避けなくていけないと思う。


わたしには、行くところがないのだから。


そのため、わたしは体調が悪くても、今まで高校を休んだ事がない。


いつも我慢しながら、真面目に授業を受けてきた。

No.267

それに比べれば、今日は体調が悪いという訳ではないのだから、まだマシな方だと自分に言い聞かせる。


それに、よくよく考えてみると、心の問題は何処にいても同じだと思う。


高校に行く事で憂鬱な気持ちが増す訳でもないし、家にいる事で憂鬱な気持ちが減る訳でもない。


寧ろ、黙って家にいれば退屈な時間を過ごす事は目に見えている。


その結果、様々な事を考えて憂鬱な気持ちが増幅するかも知れない。

No.268

とは言え、高校にいても大した変わらない様な気もするが。


落ち込んでいる時は、何故か授業に集中する事が出来なくて、考え事ばかりが進んでいく。


そのため、わたしは真面目に授業を聞こうとしながらも、何時の間にか昨日あった出来事を思い出していた。

No.269

結論から言うと、わたしは昨日の電話でマサオと別れる事が出来なかった。


マサオに告げられた事がショックで、もう別れようと言う気力もなかったんだ。


マサオが別れを望んでいない以上、そんなに簡単に別れられるとは思っていないし。

No.270

しかし、これでハッキリした事が一つある。


わたしは、マサオではなくケイタさんを選んで正解だった。


至極、そう思う。


そう思うからこそ、やはりマサオとは別れなければならないとも思う。


わたしは、マサオといても幸せになれない。


それでも、わたしはマサオの事が好き。

No.271

しかし、マサオはわたしの事を好きではない。


恋愛は、片方が想っているだけではダメなんだ。


両方が想い合っていなければ、幸せになれる訳などない。


そうハッキリ分かった上で、改めて思った事がある。


わたしが、これから付き合っていきたいのはケイタさんだ。


そして、ケイタさんの事を好きになっていきたい。

No.272

そう思うからこそ、悲しいし辛いけどマサオと別れる方法を考えていた。


このままでは、二股になってしまってケイタさんに申し訳ないと思うから。


ただでさえ、昨日はマサオの事を想って泣いていて、ケイタさんの事を裏切っている様な気がしたし。


そこまで考えた時、わたしは昨日のケイタさんからの電話に出なかった事を思い出した。


その事で、ケイタさんに不快感を与えたかも知れない。


いや、今も不快な思いをさせているかも知れない。


すぐにでも、謝らなければと思った。

No.273

わたしは授業中なので、物音を立てない様に気を付けながら、制服のポケットに手を突っ込んだ。


そして、そこからリキッドグリーン色の携帯電話を取り出す。


電話帳を開くなり、ケイタさんの名前を呼び出した。


わたしは必死に文章を考えながら、ケイタさんへ送るメールを作成していく。


色々と考えたが、あまりメールの文章が長いと言い訳じみてきそうな気がする。

No.274

そのため、『昨日は早めに寝てしまって、電話に出る事が出来なくてスミマセン』とだけ書いて、わたしはケイタさんへメールを送信した。


それから、一分経ったか経っていないかというくらいに、わたしの携帯電話が震える。


携帯電話の画面を確認すると、ケイタさんからのメールが届いていた。


こんなに早く、ケイタさんから返事が来るとは思っていなかった。


そのため、わたしは物凄く驚いていた。

No.275

そして、もしかしたらケイタさんがわたしからの連絡を待っていて、携帯電話を常に自分の傍から離さない様にしていたのかも知れないとも思った。


もしも、この推測が当たっていたらと思うと、ケイタさんに対する申し訳ないという気持ちが更に高まっていく。


そのため、ケイタさんから届いたメールを見るのが怖かった。


先程から、なかなか開封出来ずにいる。


もしかしたら、わたしを責める言葉が書かれているかも知れない。


自業自得なのだが。

No.276

ケイタさんから電話が来た時に本当に寝ていたなら、恐らくこんな気持ちにはならなかったと思う。


今のわたしは、ケイタさんに対して後ろめたい事があるから、こんなに不安な気持ちになるのだろう。


しかし、ここでメールを無視してしまえば、更にケイタさんに対して不快感を抱かせてしまうと思う。


そう思ったから、わたしはケイタさんから届いたメールを開封した。

No.277

『そうだと思っていた。だから、別に気にしなくていいぞ!それより、今日も高校が終わった後に迎えに行ってもいいか?』


こう書かれていたケイタさんからのメールを見て、わたしはホッとした気持ちになった。


しかし、すぐにまた頭を悩ませる。


わたしも、ケイタさんに逢いたい。


そして、抱き締めて今の傷付いた心を癒して欲しいと思う。


しかし、今のわたしにはやらなければいけない事がある。

No.278

それは、マサオと一日でも早く別れる事。


そうしなければ、わたしはいつまでもマサオの事を気にして、前に進めないと思う。


勿論、二股になるのが嫌だという気持ちもあるが。


そのため、ケイタさんからの申し出は、今日は断ろうと思った。


マサオと別れた後に、幾らでも逢えばいい訳だし。


そう決めたわたしは、すぐに『今日は家の用事があるので、また今度お願いします』とケイタさんにメールを送信した。

No.279

ケイタさんに嘘を吐いている事を、少し心苦しくも思った。


しかし、今は仕方がないと自分に言い聞かせる。


そして、今度は電話帳から、マサオの名前を呼び出した。


そのまま、『今日、昨日の事をもう一度話したい』と素早くメールの本文に入力していく。


それを、わたしの心に迷いが生じる前に、素早く送信した。


マサオからの返事は、意外とすぐに来た。

No.280

わたしがメールを送ってから、恐らく五分も経っていないだろう。


こんなに早くメールを返せるなら、今までもそうしてくれたら良かったのに。


そしたら、わたしはマサオと別れるのに、こんなに必死にならなかったかも知れない。


そもそも、別れようとすら考えなかったと思う。


その様な事を、わたしは頭の片隅で思った。

No.281

その直後に、たまたま今日のマサオは時間に余裕があったため、すぐにメールを返信出来ただけなのかも知れないと思ったりもしたが。


マサオからのメールには、『分かった。じゃあ、俺の家に来て』と書かれていた。


わたしは、少し戸惑った。


ケイタさんと付き合っているのに、マサオの家に行っていいのだろうか。


そう思ったので、『他の場所じゃダメなの?』と書いたメールを作成して、わたしはマサオに返信した。


すると、『ダメ。俺の家じゃなきゃ、リナの話は聞かない』と書かれたメールが、すぐにマサオから返ってきた。

No.282

そのため、わたしは諦めてマサオの家に行く事にした。


メールに『分かった。高校が終わったら行く』と書いて、マサオに返信した。


それから、わたしは制服のポケットに携帯電話こそ仕舞ったが、やはり授業は耳に入ってこなかった。


というよりも、もう真面目に授業を聞こうという気すら起こらない。


高校が終わった後のマサオとの話し合いの事で頭がいっぱいだった。


まず、マサオに何と言って切り出そう。


そして、マサオに何を言うべきか。

No.283

恐らく、昨日も言った事だし、マサオはわたしが何を言いたいのか分かっていると思う。


そのため、わたしが言いだす前に話を遮ってくるかも知れない。


そして、また昨日みたいに自分に都合の良い話を始めるかも知れない。


それは、出来れば避けたい。


先に口を開かれたら、わたしの性格的に言いたい事を言いにくくなると思うから。

No.284

マサオのペースに、飲み込まれない様にしなければいけない。


マサオが話し出すよりも先に、わたしが先に口を開かなくては。


マサオに何を言われても、ちゃんと『別れたい』と言う事を伝えなければ。


そんな事を考えながら授業を受けているうちに、何時の間にか放課後を迎えていた。

No.285

帰りのホームルームが終わると、わたしは騒がしい教室を飛び出して、負けず劣らず騒がしい廊下を小走りで抜け、下駄箱で上履きから外履きへと履き替える。


そして、高校という空間から抜け出した。


その足で、真っ直ぐマサオの家を目指す。


マサオの家には行き慣れていないが、それでも何度か行った事がある。


そのため、マサオの家に行くまでの景色も、少し見慣れてきていた。


しかし、この景色を見るのも、今日で最後にしたいと思った。


もう今日で、マサオの家に行くのは最後にしたいから。

No.286

そんな事を思っているうちに、目的地であるマサオの住んでいるマンションへと到着した。


わたしは、チャイムに手を伸ばす。


しかし、緊張して手が震える。


わたしは手の震えを抑えるために、チャイムに伸ばしていた手を引っ込めた。


そして、もう片方の手でギュッと握り締める。


手の震えが治まった頃、今度こそチャイムを押そうと手を伸ばす。

No.287

「リナ」


ふいに声を掛けられ、驚いたわたしは再びチャイムへと伸ばした手を引っ込める。


そして、声がした方を振り返ると、そこには高校の制服に身を包み、通学用鞄をダルそうに肩に担いでいるマサオがいた。

No.288

「リナ、入って」


マサオが家のドアを開けると、ドアを押さえたまま、わたしの方へ目をやる。


いつも、マサオは自分が先に家の中に入っていって、わたしのためにドアを押さえたりなどしないのに。


今日、いつもと違う行動を取るのは、わたしを逃がさない様にするためなのだろうか。


心配などしなくても、わたしは話し合いに来た訳だけだから、逃げたりなどしないのに。

No.289

そもそも、話し合いを持ち掛けたのも、マサオではなくわたしだ。


そのわたしが、逃げる訳などない。


その様な事を思いながら、わたしは玄関のドアを潜った。


すると、マサオは自分も家の中に入り、玄関のドアを閉める。


そして、わたし達は玄関で靴を脱ぐと、マサオの部屋へと向かう。


その間、わたし達の間には、相変わらず会話というモノがなかった。

No.290

部屋へ着くと、マサオがベッドに腰掛けた瞬間、わたしは立ったまま口を開く。


「マサオ。早速、昨日の話の続きだけど…」


「リナ、取り敢えず座って」


「やっぱり、わたしはマサオと別れたい!」


話している最中に、マサオが座る様に進めてきたが、それを無視してわたしは続けた。

No.291

「リナ…」


いつもの口調とは違い、急に叫ぶ様に言ったわたしを見て、マサオは呆然としている。


しかし、すぐにいつもの少し冷たそうな表情に戻ったマサオは、真っ直ぐとわたしの方を見据えて口を開いた。


「昨日も言ったけど、俺はリナと別れるつもりはない」


「どうして…?」


「それも、昨日も言ったよ。もう一度、聞きたいの?」


確かに、どうしてわたしと別れられないのか、その理由をマサオは昨日の電話で話していた。

No.292

マサオがわたしと別れられないのは、他の女の子達に『彼女になりたい』と言わせないためらしい。


しかし、今日のわたしが聞きたいのは、その様な言葉ではなかった。


「確かに、わたしと別れられない理由は聞いたよ。だけど、そんなの実際にわたしと付き合わなくたって、彼女がいるって口で言えばいいだけじゃない?」


「リナの言う事は、確かにその通りだと思う」


「じゃあ…」


納得した様子のマサオに、ついわたしは嬉しそうな声を出す。

No.293

「だけど、実際に付き合っていないとリアリティがないんだと思う」


「リアリティ?」


「うん。俺に彼女がいるって言っても、みんな信じないんだよね」


鸚鵡返しに呟いたわたしに、マサオは頷きながら話している。


「大抵の娘は、俺に彼女がいるっていうと誰とかどんな人とか訊いてくるんだ」

No.294

自分が彼女になれないと知っても、彼女になれる人がどの様な人なのか気になるのは、どうしてだろう。


彼女が自分よりも可愛かったら、自分は彼女には敵わないと諦めるためだろうか。


それとも、自分と比較して彼女が自分よりも可愛くなかったら、自分も彼女になれるかも知れないと自信を持つためだろうか。


恐らく、後者なのだと思う。


人間という生き物は、自分が他人よりも上だと思いたい生き物だから。

No.295

「その時に、実際に彼女がいたらどんな人か言いやすいし、名前も言えるからリアリティが出てくるだろ?」


「確かに、その通りだと思う」


飽くまでも、理論上はでの話だが。


「だろ?」


マサオが同意を求めてくるが、わたしは今度は首を横に振った。


「でも…」

No.296

「何だ?」


マサオが訝しむ様な表情で、わたしの方を見る。


「わたしが彼女だと言っても、女の子達は諦めないと思うよ」


わたしは、確信を持ってマサオに告げる。


「何で?」


本当に分からないという様な表情で、マサオはわたしの方をマジマジと見てくる。

No.297

「人間って、自分が相手よりも上に見られたい生き物でしょう?」


「…嗚呼」


急に、どうしてその様な話を始めるのだろうという顔をしながらも、マサオはわたしの言葉に頷いた。


「だから、わたしが彼女でも女の子達が諦める訳なんてないんだよ」


「あ…」


わたしの言いたい事が分かったらしいマサオが、口を開けたままわたしの方を見詰める。

No.298

その時、いきなり女性の歌が流れ出した。


わたしは少しビックリしながら、マサオの方を見詰める。


女性の歌は、マサオの方から聴こえてきた気がしたんだ。


それに、これは聴き覚えのある歌だった。


マサオは困った様な表情を浮かべながら、わたしと絨毯を交互に見ている。


その間、まだ女性の歌は流れ続けていた。

No.299

「電話じゃないの?出れば?」


淡々とした表情で、わたしはマサオに言う。


そう、急に流れ出した女性の歌は、マサオの携帯電話の着信音に設定された着うただったんだ。


「…あ、嗚呼」


居心地悪そうに頷きながら、マサオは制服のポケットから携帯電話を取り出した。

No.300

そして、携帯電話の画面を見て少し戸惑った様な顔をしたが、結局は通話ボタンを押して耳に当てた。


「……」


マサオは黙ったまま、電話相手の様子を窺っている。


『もしもし』という言葉すら言わないとは、恐らく電話に出たくない相手だったのだろう。


もしかしたら、マサオは相手に彼女にして欲しいと言われているのかも知れない。


そうやって、実際に言われているからこそ、わたしを手放すまいとマサオは必死になっていたのかも知れない。


今、彼女と別れたという事実を作れば、今まで以上に彼女にして欲しいと言われる筈だから。

No.301

「ゴメン。今、彼女来ているから、その話はまた今度で…」


結局、電話相手と幾つかやり取りしていた様だが、そう言ってマサオは逃げる様に電話を切った。


そのまま、マサオは携帯電話の電源を落とす。


そんな様子を、わたしが訝しげに見詰めていると、マサオは訊いてもいない言い訳をしてきた。

No.302

「何か、また電話が掛かってきそうだから…」


「どうして…?」


「どうしてって…」


わたしの問い掛けに、マサオは困った様な顔をする。


「向こうが話し終わる前に、マサオが電話を切ったからじゃない?」

No.303

「そうだけど、今はリナと話している最中だし…」


「うん」


わたしが頷くと、マサオが少しホッとした様な顔をした。


別に、わたしはマサオをホッとさせたくて頷いた訳ではない。


しかし、確かに今は電話相手の事よりも、わたしとマサオの事を話し合わなければいけないと思った。


そのため、わたしは話を本題へと戻す。

No.304

「それで、わたしの言った事は、どう思うの?」


「…嗚呼、リナの言った通りだと思った」


「思った…?」


「嗚呼」


マサオは頷くと、言いにくそうに話し始めた。

No.305

「今の電話の相手、実は前に告白してきた女の子なんだけど…」


「うん」


「俺、彼女いるからって断ったんだ」


「うん」


「それなのに、今の電話でまた告白された」


「うん」


「だから、また俺は彼女いるからって断ったんだ」

No.306

「うん」


「だけど、彼女よりもわたしの方が可愛いじゃんとか言い出して…」


「うん」


マサオの話に相槌を打ちながら聞いているが、わたしの予想通り過ぎて少し悲しくなってきた。


しかし、わたしは気丈なフリをして、マサオの話に耳を傾け続ける。

No.307

「それに、彼女の事を本当に好きな訳じゃないんでしょとか言われて…」


電話相手は、よくマサオの事を見ている。


マサオのわたしに対する態度をよく見ていれば、マサオがわたしの事を本当に好きじゃない事なんて一目瞭然だ。


電話相手は、本当にマサオの事が好きなんだ。


マサオは、誰の事も好きになどなれないのに。


「でも、それは事実でしょう?」


それまで相槌を打って聞いていたわたしだったが、気付いたらそうマサオに言っていた。

No.308

「…嗚呼」


力なく頷いたマサオが、弱々しい眼差しでわたしの方を見上げる。


「結局、リナの言う通りだな…」


「わたしよりも可愛い娘なんていっぱいいるし、わたしと付き合っても女の子達が諦める訳ないでしょう?」


「…嗚呼」

No.309

「でも…」


「何だ?」


「それでも、女の子達が諦める方法を、わたしは一つだけ知っていたよ」


「何それ?」


「マサオが、本当にわたしの事を好きだったら、きっと女の子達も諦めていたと思う」


「……」

No.310

わたしの言葉に、思わずマサオは黙る。


「彼女が自分よりも可愛くないからって、きっと最初は諦めないで頑張るんだろうけど、次第に本気で彼女の事が好きなんだって気付いたら敵わないって思って諦めると思う」


「…かもな」


少し考えてから、わたしの言葉にマサオが頷く。

No.311

「本当に好きでもないのに彼女なんて作ったら、絶対にマサオの事を本当に好きな人達にはバレるよ」


「…嗚呼」


「マサオは、本当に人を好きになった事がないでしょう?」


「…嗚呼」


わたしの言葉に頷くと、マサオは立ち上がった。


そして、わたしの方へと歩み寄ってくる。


「何…?」


わたしは戸惑いながら、マサオの方を見詰める。

No.312

「リナ」


わたしとマサオの目が合う。


「本当に、今までゴメン…」


わたしの前まで来たマサオは、頭腰の辺りまで本当に申し訳なそうに謝った。


「じゃあ、別れてくれる?」


別れを切り出すチャンスだと思い、わたしは透かさずマサオに訊ねる。

No.313

「…嗚呼」


「ありがとう」


ココで言うべき言葉なのか迷ったが、わたしはマサオに礼を言った。


「わたし、マサオの事が本当に好きだったよ」


「…ありがとう」


マサオは顔を上げると、本当に嬉しそうに笑った。

No.314

しかし、すぐにマサオの表情が淋しそうに曇った。


「でも、今のリナは別の人が好きなんだよね?」


「…うん」


本当はまだマサオの事が好きだが、ココでそう言ったら話がややこしくなりそうなので、わたしは取り敢えず頷いておいた。

No.315

「付き合っているの?」


「…うん」


「そっか…」


マサオの淋しそうな表情に、何だか心が痛む。


わたしは、出来るだけマサオの方を見ない様に、マサオの部屋の壁を見詰めていた。


「何となく、分かっていたよ。俺と別れたいと言ってきた時から…」


「…うん」

No.316

「リナ、幸せになってね」


「ありがとう」


マサオに嘘を吐いた事に罪悪感を感じながら、わたしは精一杯の笑顔を作る。


「マサオも、本当に好きな人に出逢えたらいいね」


「…嗚呼」


「じゃあ、わたし行くね」


「…嗚呼。リナ、元気でね」


頷いたマサオは、わたしに手を振る。

No.317

いつもなら、玄関まで送ってくれるのに、今日はココで別れるつもりらしい。


わたしも、それでいいと思った。


これでマサオとお別れなのに、見送りなんてされたら余計に淋しくなりそうだ。


わたしは、精一杯の笑顔を作ってマサオに手を振りながら、マサオの部屋を後にした。

No.318

マサオの家を出ると、わたしは達成感を感じながら、バスに揺られて真っ直ぐ家へと帰った。


しかし、今のわたしが感じている感情は、達成感だけではない。


確かに、マサオと別れられた事には達成感を感じるが、それと同時に淋しいとか悲しいという感情も押し寄せてくる。


自分が望んだ事なのに、心から喜ぶ事が出来ない。


わたしは、本当にマサオの事が好きだったから。

No.319

マサオの本性を知ってしまったというのに、どうして未だにマサオの事を好きなままなのだろう。


至極、不思議に思う。


そう何度も思ったが、やはり自分の思い通りにはいかないのが、恋愛感情というモノなのだと思う。


そして、そんな淋しいとか悲しいという気持ちは、家へ着いてからも続いていた。


そんな時、わたしの携帯電話の着信音が鳴る。

No.320

わたしは、急いで携帯電話を手に取り、その画面へと目をやった。


マサオからの電話かと、わたしはまた期待してしまった。


『やっぱり別れたくない』とか『よく考えてみたらリナの事が好きだった』とか、そんな言葉をマサオに言って欲しいと思った。


もっと正しく言うなら、思ったというよりも願ったという方が正しかったかも知れない。


しかし、やはり現実は思い通りにはいかないモノだ。


期待すればするだけ、ガッカリするのが現実。

No.321

携帯電話の画面を見ると、表示されているのはケイタさんの名前だった。


またガッカリしてしまった事で、ケイタさんに対して申し訳なく思う。


そして、わざとではないが昨日は電話を無視してしまったので、今日こそは電話に出なければと思いながら通話ボタンを押す。


それに、今はマサオと別れたばかりで淋しくて、誰かと話したい気分だったから丁度いいとも思った。


黙って一人で部屋にいると、余計に気持ちが沈んでくるんだ。

No.322

「…もしもし」


『おう、俺だ!』


「…はい」


電話越しのケイタさんの声は、相変わらず元気そうなので、わたしにも元気を分けてくれないかと思った。


そして、その直後に今日は高校が終わった後に逢う事を提案されたのに、それを断ってしまった事を思い出した。


ケイタさんには、本当に申し訳ない事ばかりしている。


そんな自分に自己嫌悪しながら、わたしは口を開く。

No.323

「今日は、スミマセンでした…」


『いや、いいって!俺も、急に言ったしな』


「また誘って下さい」


社交辞令ではなく、本当にそう思った。


今は一人でいるよりも、誰かと一緒にいた方がいたい。

No.324

その方が、マサオの事を考えなくて済む様な気がするんだ。


『おう!明日は?』


「大丈夫です」


『じゃあ、明日は高校が終わる頃に迎えに行く!』


「はい」


ケイタさんの言葉に頷きながら、ふとわたしは部屋の壁に飾ってあるカレンダーに目がいった。

No.325

今月は、お姉ちゃんの誕生日があった。


そして、今月はわたしの誕生日でもある。


わたしの誕生日は、お姉ちゃんの誕生日の3日後。


そして、お姉ちゃんの誕生日があった日から、明日は3日が経つ事になる。


マサオの事ばかり考えて忘れていたが、明日はわたしの誕生日だ。

No.326

そう思った瞬間、わたしの脳裏を様々な想いが過ぎる。


明日の朝、お父さんはわたしに誕生日プレゼントに何が欲しいか訊ねてくると思う。


そしたら、わたしは誕生日プレゼントにはハートのイヤリングが欲しいと言おう。


少しでも、お姉ちゃんみたいに美人だと思われたいから、可愛いイヤリングが欲しいと前々から思っていたんだ。

No.327

そして、問題は誕生日パーティーだ。


今年も、お父さんとお姉ちゃんだけしか、わたしの誕生日を祝ってくれないのだろうか。


そんなの淋し過ぎる。


折角、ケイタさんという彼氏が出来たんだ。


ケイタさんにも、わたしの誕生日を祝って欲しいと思った。


ケイタさんを誘ったら、誕生日パーティーに来てくれるだろうか。


しかし、相手に訊かれた訳でもないのに、自分から誕生日を教えてもいいものなんだろうか。


祝ってくれと言っている様なものだと思う。

No.328

実際、わたしは祝って欲しいという願望を抱いているのだが。


それは、スゴく厚かましい事の様に感じた。


『リナ?』


考え事に没頭していたわたしの耳に、電話越しからケイタさんの声が届く。

No.329

「…スミマセン。ちょっと、考え事をしていました」


『考え事?』


「はい」


『何を考えていたんだ?』


「えーと…」


わたしは、ケイタさんへの返答に困った。


この様な場合、正直にカレンダーを見たら今月が自分の誕生日である事を思い出して、その事を考えていたと言っても良いモノなのだろうか。

No.330

しかし、ココでそれを言ってしまえば、ケイタさんはわたしの誕生日を知る事になると思う。


そしたら、やはり祝ってくれと言っているのと変わらない様な気がする。


そして、やはりわたしはそれをスゴく厚かましい事だと感じた。


しかし、他にケイタさんに返す言葉も思い付かない。


恐らく、人と関わる事に慣れている人なら、この様な場合は適当な事を言って誤魔化すのだろう。


しかし、わたしはそんなに器用な事が出来る人間ではない。

No.331

『リナ、言ってみろ』


「……」


『俺は、リナの考えている事とかが知りたい』


ケイタさんは、わたしが何を考えていたかを言うまで、引き下がる様子はない。


やはり、ココは正直に言うしかないのだろうか。


そう思ったわたしは、何と言ったらいいか迷いながらも、取り敢えず口を開く。

No.332

「あの…」


「何だ?」


「わたしの部屋に、カレンダーがあるんです」


「嗚呼」


「それを見ていて、今月は――」


お姉ちゃんの誕生日があったと思った。


そう言おうとしたが、わたしは途中で言葉を止めた。

No.333

お姉ちゃんの誕生日の日、わたしはお姉ちゃんの誕生日パーティーに参加せずに、ケイタさんと一緒にいた。


そのため、お姉ちゃんの誕生日の日にちを訊かれたら、ヒドい人間だとケイタさんに軽蔑されそうな気がしたから。


『どうした?』


途中で言葉を止めたわたしに、不思議そうにケイタさんが問い掛ける。

No.334

『今月が、どうかしたのか?』


「…誕生日なんです」


覚悟を決めて、わたしは言った。


『誕生日?』


わたしの予想通り、ケイタさんは鸚鵡返しに呟く。

No.335

『誰の?』


お姉ちゃん。


そして、わたし。


心の中で呟くだけで、わたしは口には出さなかった。


「……」


『リナのか?』


わたしが黙っていると、ケイタさんは予想通りの言葉を口にした。

No.336

「…はい」


わたしは、ケイタさんの言葉に頷く。


これで、いい。


これで、お姉ちゃんの誕生日があったと思った事を話す必要がなくなったし、わたしの誕生日が今月だという事も分かってもらえた筈だ。


しかし、やはり自分の誕生日を教えた事は、祝ってくれと言っている様な気がして厚かましく感じた。


そのため、ケイタさんに厚かましく思われていないか、とても不安に感じた。

No.337

『いつだ?』


「え…?」


『リナの誕生日。何日だ?』


「あの…」


「あ?」

No.338

「別に、祝ったりとかしてくれなくていいですから…」


厚かましく思われたくない気持ちから、わたしは心にも思っていない事をケイタさんに言った。


本当は、物凄く誕生日を祝って欲しいと思っているくせに。


普段は、知り合いを家族には逢わせたくないのに、誕生日パーティーの日は家族に見せ付けるために、家に来て欲しいと思っているくせに。

No.339

『リナ、本当にそう思っているのか?』


「え…?」


『本当に、誕生日を祝ってくれなくていいと思っているのか?』


「……」


ケイタさんに問われて、思わずわたしは黙り込む。


『リナ、黙っていたら分からないぞ』


「スミマセン…」


『もう一度、訊くぞ。本当に、誕生日を祝ってくれなくていいと思っているのか?』

No.340

「…いえ」


『だよな』


最初から、訊かなくても答えは分かっていたという様子で、ケイタさんは呟く。


『リナは、どうして祝ってくれなくていいなんて言ったんだ?』


「自分から誕生日を教えたら、祝ってくれと言っているのと同じの様な気がして…」


ケイタさんは、黙ってわたしの話に耳を傾けている。

No.341

「厚かましいと思われそうで、不安だったんです…」


『そんな事、俺は気にしないぞ』


わたしが話し終わると、ケイタさんは優しい声で言った。


『誕生日を祝いたかったら祝うし、祝いたいと思わなかったら聞いても祝わない』


「はい」


わたしは頷きながら、ケイタさんは自分に正直な人だと思った。

No.342

人の言葉で、自分の行動を決めたりしない。


自分の気持ちで、いつも自分の行動を決めているんだ。


『それに、リナが何を思っていたのか訊いたのは俺だ』


「はい」


『だから、リナは自分から誕生日を教えた訳ではないと思うぞ』


「はい」


わたしは頷きながら、確かにケイタさんの言う通りだと思った。

No.343

マイナス志向なわたしは、いつも一人で考えていると悪い方にばかり考えてしまう。


しかし、そんなわたしをケイタさんは、いつもプラス志向な方へと連れて行ってくれる。


そのため、このままケイタさんといる時間が増えれば、いつかわたしもプラス思考になれる日がくるのだろうか。


漠然と、そんな事を思った。

No.344

『それで、リナの誕生日は何日なんだ?』


「…明日です」


『明日!?随分と急だな!』


「…ですよね」


これは、祝ってはくれないかも知れない。


そう思って、わたしは諦め掛けていた。


しかし、ケイタさんは良い意味で、わたしの期待を裏切ってくれる。

No.345

『リナ、明日は盛大に祝おうな!』


「はい」


ケイタさんの言葉に、わたしは物凄く嬉しい気持ちが込み上げてきた。


しかし、人間とは更なる幸せを求めてしまう生き物。


「あの…」

No.346

『何だ?』


「明日、家族がわたしの誕生日パーティーを開いてくれると思うんです」


『嗚呼』


「それで、もしご迷惑じゃなければ…」


『俺も、行っていいのか?』


わたしが全て言い終わる前に、そうケイタさんが訊ねてきた。


それを、わたしは嬉しく思う。

No.347

「来てくれるんですか?」


『勿論!』


「嬉しいです」


『明日、楽しみだな!』


わたしが嬉しくて少し微笑むと、ケイタさんも電話越しで少し笑った。

No.348

『それにしても、リナは幸せだな』


「え…?」


いきなり、携帯越しに発されたケイタさんの言葉に、わたしはヒドく戸惑った。


わたしは、自分が幸せだと思った事はない。


いつも、お姉ちゃんが幸せな姿を見て、羨んだり妬んでばかりいた。


そして、人から幸せだと思われている事もないと考えている。


当然、人から幸せだと言われる日が来るとは、夢にも思っていなかった。

No.349

それなのに、ケイタさんはわたしの事を幸せだと言う。


一体、どうしてなのかは分からない。


しかし、何か理由がある筈だ。


「どうして、そう思うんですか?」


わたしは、真剣な様子で訊ねる。

No.350

すると、ケイタさんは疑問を疑問で返してきた。


『リナは、家族から誕生日を祝ってもらえなかった事があるか?』


何故、この様な事を訊いてくるのだろうと思いながら、私は今までの自分の誕生日を振り返ってみた。


そして、いつの誕生日を振り返っても、いつもお父さんとお姉ちゃんが祝ってくれた光景が頭を過ぎっていく。

No.351

お姉ちゃんが御馳走を作ってくれて、お父さんがプレゼントをくれる。


わたしは本当の子供ではないのに、毎年毎年、二人は欠かさずわたしの誕生日を祝ってくれた。


祝ってもらえなかった事などない。


子供の頃の事は、よく覚えていないのに、そう自信を持って言える。


何故なら、もしも祝ってくれなかった事があったとしたら、きちんと覚えていると思うんだ。


人間というモノは、良い時の記憶よりも悪い時の記憶の方が、ずっと後まで残るモノだと思うから。


そのため、わたしはケイタさんに自信を持って答える事が出来た。

No.352

「ないと思います」


『それなら、幸せだろ』


ケイタさんの言葉に、確かに祝ってもらえないよりは、ずっと幸せだと思った。


しかし、わたしは本当の子供ではない。


本当の子供は、家ではお姉ちゃん一人なんだ。


そして、本当の子供であるお姉ちゃんは、本当の子供ではないわたしよりも、ずっと幸せな様に思える。


わたしも、本当の子供なら良かったのにと、心の底から思う。

No.353

「あの…」


『あ?』


「聞いて欲しい事があるんですけど…」


わたしは覚悟を決めて、そうケイタさんに言った。

No.354

『何だ?』


「実は…」


覚悟を決めた後でも、やはり声が震えてしまう。


それだけ、これからケイタさんに告げる事は、とても勇気が要る事なんだ。


しかし、どうしてもケイタさんに聞いて欲しいと思った。


そのため、わたしは勇気を振り絞って、言葉の続きを口にした。

No.355

「…わたしは、本当の子供ではないんです」


『あ?』


ケイタさんは一瞬、何を言われたのか分からない様子だった。


しかし、すぐに言われた意味を理解したらしい。


『それは、リナの親は本当の親じゃねぇって事か?』


「…はい」

No.356

『そうか…』


わたしが頷くと、そう言ってケイタさんは黙り込んだ。


わたし達の間に、沈黙が訪れる。


わたしは、自分の所為で沈黙が出来てしまった事に戸惑う。


何か言った方がいいのだろうか。


そうは思うが、人と関わるのが苦手なわたしは、当然の様に気の利いた言葉など思い付かない。


そのため、結局は何も言えずにいた。


そして、先に沈黙を破ったのは、やはりわたしではなくケイタさんの方だった。

No.357

『リナも話してくれたから、俺も一つ話したい事がある』


「…はい」


何だろうと思いながら、わたしは頷いた。


そして、黙ってケイタさんが話し始めるのを待った。

No.358

『俺は、リナと違って本当の子供だ』


大抵の人は、そうなのだろう。


わたしみたいに、本当の子供ではない方が特別なんだ。


そう思うと、ヒドく疎外感を感じた。


『だけど、俺は親に誕生日を祝ってもらった事なんか、数える程しかない』

No.359

「え…?」


わたしは、驚きを隠せなかった。


「どうしてですか?」


気付いたら、そうケイタさんに訊ねていた。


『親が、俺の誕生日を忘れていたからだ』


「そんな…」


わたしは信じられなくて、思わず目を瞬かせた。

No.360

本当の親なのに、どうして自分の子供の誕生日を忘れたりなど出来るのだろう。


そんな疑問で、わたしの頭の中はいっぱいだった。


『そもそも、俺の親は俺の誕生日を覚える気もなかったんだろうな』


ケイタさんは、淡々と話す。


『誕生日どころか、俺そのものに興味がなかったんだから』


「どうしてですか…?本当の親なのに…」

No.361

自分の子供に興味がない親など、この世の中にいるのだろうか。


わたしみたいに、本当の子供ではないなら仕方がないと思う。


しかし、ケイタさんは本当の子供だ。


親が興味を持たないなど、可笑しいと思う。


『俺は、望まれて生まれてきた子供ではねぇからな』


やはり、ケイタさんは淡々と答える。

No.362

『世の中には、そういう親もいるんだぜ』


ケイタさんの言葉に、わたしは何て答えたら良いのか分からなくて無言になる。


『でも、リナの家族は欠かさず誕生を祝ってくれる』


「はい…」


『それは、ちゃんとリナの誕生日を覚えているからだ』


「はい…」

No.363

『リナは、確かに本当の子供ではないかも知れない』


「はい…」


『だけど、ちゃんと本当の子供の様に思われていると思うぞ』


「はい…」


まだ心から納得する事は出来ないが、確かにケイタさんに比べれば幸せだと思い、わたしは頷いた。

No.364

翌日、わたしが朝起きてリビングへ行くと、先に起きてソファーで新聞を読んでいたお父さんが顔を上げた。


「おはようございます」


「おはよう!」


朝の挨拶をしたわたしに、お父さんも朝の挨拶を返してくる。


そして、お父さんはにこやかな笑みを浮かべた。

No.365

「リナ、お誕生日おめでとう!」


「ありがとうございます」


そう言って、わたしは頭を下げる。


わたし達は義理の家族なので、恐らく『おめでとう』という言葉も義理の言葉なのだろう。


しかし、やはり言われて悪い気はしない。


素直に、わたしは嬉しいと思った。

No.366

「誕生日プレゼント、何が欲しい?」


わたしもソファーに座ると、そうお父さんは訊ねてきた。


「ハートのイヤリングが欲しいです」


わたしは、昨日から考えていた事を言う。


とても可愛いハートのイヤリングを、頭の中で想像しながら。

No.367

「そうか。仕事帰りに、買ってくるよ」


「ありがとうございます」


わたしは、再びお父さんに頭を下げる。


その時、目玉焼きやベーコンの乗ったお皿を手に、お姉ちゃんがキッチンの方から顔を出した。


「リナ、おはよう!」


「おはようございます」


「そして、17歳のお誕生日おめでとう!」

No.368

テーブルの上にお皿を並べながら、お姉ちゃんはわたしの方を見て微笑んだ。


朝の忙しい時間帯なのに、わざわざわたしの方を見て『おめでとう』と言ってくれた事に、わたしは嬉しさを感じた。


やはり、お父さんと同様で、お姉ちゃんも義理で言っているのだろうが。


相手を喜ばせる言葉なら、義理でも言わないよりは良いと思う。


そう思うので、わたしは感謝の言葉を口にして、お姉ちゃんに頭を下げる。


「ありがとうございます」

No.369

「今日の夜は、お祝いしなきゃね!」


テーブルの上に食器を並べながら、お姉ちゃんが楽しそうに言う。


そんなお姉ちゃんを見ていて、わたしは改めてお姉ちゃんを美人だと思った。


そして、わたしもお姉ちゃんみたいに美人になりたいと思う。


そしたら、わたしも姉ちゃんみたいに、みんなから好かれるかも知れない。


少なくとも、今よりは。

No.370

今日、お父さんがハートのイヤリングを買ってきてくれたら、わたしも少しはお姉ちゃんみたいになれるのだろうか。


魔法を掛けられたシンデレラの様に、ハートのイヤリングを付けている時だけでも、少しは美人になれたらいい。


至極、そう思う。


そうやって、わたしは少しだけ期待していた。


その時、お姉ちゃんはわたし達の方を振り返り、高らかに声を上げる。


「お父さん、リナ、ご飯出来たよ!」

No.371

お姉ちゃんの言葉に、お父さんは読んでいた新聞を畳んで、ソファーから立ち上がる。


お父さんに続いて、わたしもソファーから立ち上がり、テーブルの方へと向かった。


「いただきまーす!」


全員がテーブルに着くと、三人で声を合わせて言った。


そして、それぞれ箸を手に取り、食事を始める。

No.372

そんな中、お姉ちゃんが目玉焼きに箸を入れながら、お父さんに向かって声を掛けた。


「お父さん、今日は何時頃に帰って来れるの?」


「多分、五時頃には帰って来れると思うけど…」


お父さんがベーコンを口に入れながら、少し考える様に呟く。


恐らく、頭の中で今日の仕事内容を整理しているのだろう。

No.373

「じゃあ、リナも今日は五時くらいまでには帰ってきてね!」


「はい」


わたしは、素直にお姉ちゃんの言葉に頷く。


そして、今日はみんながわたしの誕生日を祝うために早く帰ってきてくれようとしているのだと思うと、物凄く嬉しさが込み上げてきた。


お父さんなんて、毎日毎日、仕事で忙しそうなのに。


それに、わたしはお姉ちゃんの誕生日の日は、出来るだけ帰るのを遅らせていたヒドい人間なのに。

No.374

「今夜は、いっぱい美味しいモノを作らないとね!」


お姉ちゃんは、わたしの方を見て微笑む。


そんなお姉ちゃんを見ていると、わたしは何だか申し訳ない気持ちになってきた。


お姉ちゃんの誕生日があった日、わたしはお姉ちゃんの誕生日パーティーに参加しなかった。


そして、お姉ちゃんに嘘同様の言い訳をして、ケイタさんとカラオケに行っていたから。

No.375

しかし、それを今更になって謝られても、お姉ちゃんも気分が悪くなるだけだと思う。


世の中には、言わない方が良い事もある。


知らないままの方が、幸せな事もあるんだ。


そう思ったので、わたしは精一杯に作り笑いを浮かべた。


折角、お姉ちゃんがわたしのために楽しい誕生日になる様に考えてくれているのだから、わたしは楽しそうにしなければいけないと思ったんだ。


わたしは、この家の本当の子供ではないのだから、お父さんやお姉ちゃんに捨てられたら困るし。

No.376

「リナ、今日は何が食べたい?」


「えーと…」


わたしは、頭の中で思考する。


「オムライス?」


オムライスが、わたしの好物だと知っているお姉ちゃんは、笑顔で問い掛けてくる。


しかし、オムライスは一昨日にケイタさんの家というかレストランで、御馳走になったばかりだ。

No.377

今日は、違うモノが食べたい気分だった。


何にしようか。


「ハンバーグがいいです」


結局、わたしはオムライスの次に好きなハンバーグを、今日の晩御飯に選んだ。


「分かった!じゃあ、美味しいハンバーグを作らなきゃね!」


そう言って、お姉ちゃんがわたしに笑顔を向ける。

No.378

「ケーキは、どんなのがいい?」


「えーと…」


「リナ、チョコレートのケーキが好きだよね?」


わたしが答える前に、そうお姉ちゃんが問い掛けてきた。


お姉ちゃんは、完全にわたしの好きなモノを把握している。


記憶力がいいんだ。

No.379

やはり、お姉ちゃんは美人なだけではなく頭も良い。


完璧な人間だ。


そんなお姉ちゃんに、わたしが敵う筈などない。


わたしも、お姉ちゃんみたいになりたい。


そう強く思いながら、わたしはお姉ちゃんの問いに頷いた。


「はい。それから…」

No.380

「イチゴでしょ?」


再び、わたしが最後まで言葉を発する前に、お姉ちゃんが問い掛けてきた。


「はい」


お姉ちゃんに頷きながら、わたしは思う。


本当に、お姉ちゃんはわたしの事をよく分かっている。


そして、恐らく他の人の事もよく分かっているのだと思う。

No.381

その上、スゴく美人だ。


他の人から、嫌われる要素など何もない。


わたしとは違って。


他の人から、好かれる要素しかない。


わたしも、そうなりたい。


至極、そう思った。

No.382

「あの…」


お父さんとお姉ちゃんは少し驚いた様に、急に口を開いたわたしを見た。


普段、わたしはあまり自分から口を開かない。


そのため、わたしが自分から口を開く光景が珍しかったのだと思う。


「リナ、どうしたんだ?」


「リナ、どうしたの?」


お父さんもお姉ちゃんも、わたしに優しく問い掛けてきた。

No.383

今、わたしは物凄く緊張している。


そのため、恐らく顔も強張っていると思う。


お父さんもお姉ちゃんも、そんなわたしの方を見て、これから何を言うのか気になって仕方がないという様子だ。


誕生日パーティーの前に、わたしはどうしてもお父さんとお姉ちゃんに言っておかなければならない事がある。

No.384

そんな事、今までは一度もなかったのだが。


寧ろ、今まではお姉ちゃんが気を利かせて問い掛けてきても、わたしには関係のない事と思っていたくらいなのだが。


今まで、わたしがそんな様子だったので、今年はお姉ちゃんも問い掛けてきたりしないのだろうが。


「今日の誕生日パーティーなのですが…」


「うん」


わたしの言葉に、お姉ちゃんが相槌を打つ。


お父さんも、黙ってわたしの言葉の続きを待っている。

No.385

「人を連れてきても、構わないでしょうか…?」


わたしが訊ねた瞬間、お父さんもお姉ちゃんもヒドく驚いた様な顔をした。


流石に、わたしの事をよく分かっているお姉ちゃんでも、こればかりは予測出来なかったみたいだ。


恐らく、わたしが今まで誕生日パーティーに人を誘った事がないからだと思う。

No.386

しかし、お父さんとお姉ちゃんが驚いていたのは本当に一瞬で、すぐに二人は優しい目でわたしを見た。


「誰か、連れて来たい人でもいるのか?」


「…はい」


問いを問いで返してきたお父さんの言葉に、わたしは遠慮がちに頷く。


「お友達?」


「お友達と言いますか…」


お姉ちゃんからの質問に、わたしは返答に困る。

No.387

確かに、ケイタさんは元々は友達だった。


しかし、今は恋人だ。


友達という関係ではなくなってしまった。


それを、正直に言うべきなのだろうか。


わたしに恋人がいると知ったら、お父さんもお姉ちゃんも、どう思うのだろう。

No.388

ケイタさんは、わたしの初めての恋人ではない。


これでも、今までに何人か恋人がいたんだ。


しかし、わたしは家族に恋人を逢わせた事がない。


そのため、初めての恋人だと思われる可能性もある。


しかし、もうわたしも高校生だ。


恋人の一人や二人くらい、いても可笑しくない年頃の筈だ。


そのため、お父さんもお姉ちゃんも、大した驚いたりはしないかも知れない。

No.389

「もしかして、彼氏…?」


黙って考え込んでいたわたしに、そうお姉ちゃんが問い掛けてくる。


結局、またわたしが言う前に、お姉ちゃんは言いたい事を当ててしまった。


ココまでくると、エスパーなのかと思ってしまう。


しかし、それだけお姉ちゃんが、よく相手の事を観察しているという事なのだろう。

No.390

そんな事を思いながら、わたしはお姉ちゃんの言葉に遠慮がちに頷く。


「…はい」


わたしも、お姉ちゃんを見習わなければいけないと思った。


そしたら、マサオみたいなヒドい男に引っ掛からなくて済んだかも知れない。


至極、そう思った。

No.391

「全然、大歓迎よ!ね、お父さん?」


「あ、嗚呼…」


お姉ちゃんに同意を求められ、お父さんは戸惑いがちに頷く。


そんなお父さんは、何か言いたい事があるのか、チラチラとわたしの方を見やっていた。


こんなに見られていると、何だか居心地が悪い。


しかし、視線を逸らす事で嫌われたら大変だ。


そのため、わたしはお父さんの方を見詰める。

No.392

そして、精一杯の笑みを作って口を開いた。


「…ど、どうかしましたか?」


緊張してきた所為か、少し声が震えた。


何か言いたそうなお父さんを見ていると、色々と考えて不安になってくる。


わたしは、何かお父さんに失礼な事でもしたのだろうか。


もしかしたら、お姉ちゃんの誕生日パーティーに参加しなかった事を、お父さんは根に持っているのかも知れない。

No.393

しかし、先程までお父さんは笑顔を浮かべていた。


そのため、お姉ちゃんの誕生日パーティーに参加しなかった事が原因ではない様な気がする。


思い返してみると、お父さんが何か言いたそうな顔をしたのは、わたしが誕生日パーティーに恋人を招待して良いかを訊ねてからだ。


そう考えると、恋人を誕生日パーティーに招待してはいけなかったのかも知れない。


お姉ちゃんは、自分の誕生日パーティーの時に恋人を招待したらしい。

No.394

しかし、それはお姉ちゃんが本当の子供だから許された事で、わたしが同じ事をしてはいけなかったのかも知れない。


わたしが、誕生日パーティーに招待して良かったのは友達のみで、恋人を招待してはいけなかったのかも知れない。


わたしは、とんでもない事を仕出かしてしまったのだろうか。


これが原因で、捨てられたらどうしよう。


わたしには、他に行くところがないのに。

No.395

そんな風に、わたしが不安で胸がいっぱいになっていた時、ようやくお父さんが口を開いた。


「…リナ」


「は、はい…」


緊張で、思わず声が上擦ってしまった。


「リナは、恋人といて安心出来るか?」


何故、急にこの様な事を訊いてくるのだろう。

No.396

そんな疑問が頭に浮かんで、思わずお姉ちゃんの方を見る。


すると、わたしの方を見て優しく微笑んだ後、お姉ちゃんは黙って頷いた。


これは、ココは素直に答えておいた方が良いという合図だろうか。


もしかしたら、お父さんは質問の答えによって、ケイタさんを誕生日パーティーに招待して良いかを決めるつもりなのかも知れない。


そうに違いない。


そう判断したわたしは、ケイタさんといて安心出来るかを考えてみた。


そして、ある事に気付いた。

No.397

マサオと付き合っていた時は、わたしの事を好きではないのではないかと、毎日が不安ばかりだった。


しかし、ケイタさんと付き合ってからは、そんな不安を感じたりなどしない。


わたしが後ろめたい事をしたい時に、ケイタさんに嫌われないかと不安になる事はあるが。


それは、自業自得だ。

No.398

それでも、ケイタさんはわたしに不安を与えたりなどしない。


それは、恐らく一緒にいて安心出来るという事なのだと思う。


そう思ったので、わたしはお父さんに対して、自信を持って言う事が出来た。


「はい、出来ると思います」


「そうか」


お父さんが、少し安心した様に微笑んだ。


しかし、すぐにお父さんは次の質問を投げ掛けてきた。

No.399

「じゃあ、リナは恋人に何でも話す事が出来るか?」


ムリだ。


これは、考えなくても分かった。


現に、今のわたしはケイタさんに隠し事ばかりだ。


わたし達は恋人になってから、まだ日が浅いというのに。

No.400

一緒に過ごした日数よりも、もしかしたら隠し事の数の方が多いかも知れない。


それで良いとは思っていないが、世の中には知らない方が良い事もある思うし、何でも言い合える恋人同士の方が少ないと思う。


「…出来ません」


わたしは言いにくそうに、俯きがちに答えた。


「…そうか」


お父さんが、今度は少し考える様な顔をした。


そして、お父さんはわたしから目を逸らし、テーブルの上に飾られたお母さんの写真を見詰めた。

No.401

リナ」


「…はい」


わたしは、お父さんの様子を窺う様に頷いた。


これから、恋人同士は何でも言い合える関係でなければいけないとか、誕生日パーティーに恋人を招待してはダメだととか、そんな事を言われるのだろうか。

No.402

取り敢えず、ケイタさんを誕生日パーティーに招待する事は、お父さんから許しが出ない様な気がする。


そう思って、わたしはガッカリしたが、仕方がないと諦める事にした。


そんなわたしの前で、ドコか淋しそうで懐かしそうな顔をしながら、お父さんが口を開いた。


「お母さんも、リナと同じだったんだよ」


「え…?」

No.403

突然、お母さんの話が出てきた事にも、そのお母さんがわたしと同じだったと言われた事にも、わたしは驚いていた。


横を見ると、お姉ちゃんも少し驚いている様だ。


ムリもないだろう。


お母さんが亡くなってから、この家では誰もがお母さんの話をしなくなったから。


お母さんの話をしない事が、この家では暗黙の了解になっていると思っていたから。


そして、それはお父さんがお母さんの事を思い出すと辛いからだと考えていたから。

No.404

それなのに、そんなお父さんの口からお母さんの話が出てくるとは、わたしもお姉ちゃんも想像していなかったんだ。


そんなわたし達など構わずに、お父さんはお母さんの話を続ける。


「お母さんもリナと同じで、なかなか心の中で思っている事を外に出さない人間だったんだ」


「はぁ…」


お姉ちゃんだけではなく、お父さんも意外とわたしの事を分かっていると思い感心しながら、わたしはお父さんの話に相槌を打つ。

No.405

「だから、お母さんは死んだんだ」


そう言ったお父さんの目尻には、涙が光っている様だった。


「え…?」


わたしとお姉ちゃんは、お父さんの言った言葉の意味が分からず、思わず顔を見合わせる。


「お母さんが自殺した事は、二人とも知っているだろう?」


「…ええ、知っているわ」

No.406

「…わたしも、一応は知っています」


伏し目がちに頷いたお姉ちゃんに続いて、わたしも小さく頷く。


「これは、お母さんが死んだ後に発見された日記を読んで分かった事なんだが…」


お父さんの話に、わたしもお姉ちゃんも黙って耳を傾ける。


「お母さんは、ずっと一人で悩んでいた事があったらしい」


確かに、わたしと同じだ。


「そして、それを誰にも相談出来ずに生きていた」


それも、わたしと同じだ。

No.407

「だけど、ある時にその悩みを一人で抱え切れなくなって、思い詰めたから自殺したんだ」


涙を堪えながら、お父さんが悔しそうに言う。


「その事を知った時、俺はもっとお母さんの事を分かって上げられていたら、悩んでいる事も分かって上げられたかも知れないのにって物凄く後悔したよ」


恐らく、お母さんもお父さんに打ち明けたかったと思う。

No.408

しかし、言いたくても言えない事もある。


そもそも、どんな悩みでも多かれ少なかれ打ち明けるには勇気がいるんだ。


そして、なかなかその勇気を持てない人間も、世の中にはいる。


お母さんだけではなく、わたしもそうだからスゴく気持ちが分かる。


「だから、リナにはお母さんみたいになって欲しくない」


「はい」


わたしの事を想ってくれる気持ちを、物凄く嬉しいと感じながら、わたしはお父さんの言葉に頷く。

No.409

「恋人に何でも話せなんて言わないけど、本当に悩んだり困ったりしている事がある時には、ちゃんと話した方がいいぞ」


「はい」


「リナの恋人が、本当にリナの事を想ってくれているなら、全力でリナの事を助けようとしてくれる筈だから」


「はい」

No.410

「でも、リナは人と関わる事に興味がないのかと心配していたから、一緒にいて安心出来る恋人がいた事に、ちょっとだけお父さんは安心したよ」


「はぁ…」


お父さんから、そんな風に思われていたのかと思いながら、わたしは相槌を打つ。


しかし、お父さんがそう思うのも、ムリはないかも知れない。


今まで、誕生日パーティーに友達を招待しても良いと言われても、わたしは誰も招待した事がない。


それどころか、今まで誰かを家に連れて来た事がない様な気がする。


それは、友達が欲しいと思っても、友達が出来た事がなかったからなのだが。

No.411

どうやら、わたしは人と関わる事に興味がないから、意図的に友達を作っていなかったのだと、お父さんは思っていたらしい。


「リナの恋人と逢うのが、今から楽しみだな!」


そう言って、お父さんは微笑む。


どうやら、誕生日パーティーにケイタさんを招待する事を許可してくれた様だ。

No.412

高校へ行ってからも、わたしはお父さんが話していた事を思い返していた。


お母さんが自殺した事は知っていたが、詳しい話は誰からも聞いた事がなかった。


そのため、少し驚いていたりする。


もしかしたら、お母さんの死の真相よりも、お母さんがわたしと似ていた事の方が驚いているのかも知れないが。


お母さんが死んだ時、わたしはまだ小学生だった。


そのため、お母さんがどの様な人だったのか、ハッキリと覚えていないんだ。

No.413


しかし、お父さんの話を聞いていて、少しだけお母さんの気持ちが分かった様な気がする。


お母さんが、日記を書いていた理由も、何となく分かるんだ。


人間は、思っている事を外に吐き出す事で、ストレスが溜まらない様にしている部分がある。


しかし、わたしやお母さんみたいに、なかなか思っている事を外に出せない人もいる。


そういう人は、心の中に思っている事が溜まっていく一方で、ストレスも解消出来ないままだ。

No.414

そのため、お母さんは思っている事を外に出すために、日記を書いていたのだと思う。


誰にも悩みを打ち明ける事が出来ないなら、文章という形でしか外に出す事は出来ないから。


そう思うのは、やはりわたしがお母さんに対して、自分と同じ部分がある事を感じたからなのだと思う。


そんな事を考えながら、一日を過ごしているうちに、全ての授業が滞りなく終わった。


そして、帰りのホームルームが終了すると、わたしは急いで教室を飛び出す。


そのまま、廊下を抜けて下駄箱があるところまで行く。


そして、靴を履き替えようと下駄箱に近付いた時、そこに一つの人影がある事に気付いた。

No.415

「リナ」


そう言って、わたしの方へ近付いてきたのは、マサオだった。


「な、何…?」


いきなりの事に、思わず声が上擦ってしまう。

No.416

わたしとマサオは、昨日で恋人という関係が消滅した。


しかし、高校が同じなので擦れ違う事くらいはあると思っていた。


それは仕方がない事だと割り切っていたし、別に避けようとも思っていなかった。


しかし、こうして話し掛けてくるとは思わなかったんだ。


しかも、昨日の今日だ。


おまけに、待ち伏せしていた可能性すらある。

No.417

昨日、マサオはわたしに何か言い忘れた事でもあったのだろうか。


それとも、わたしが帰った後になってから、新たに言いたい事でも出来たのだろうか。


もしかして、よく考えたらわたしの事が好きだったとか、そういう事が言いたいのだろうか。


期待したらダメだと、ちゃんと分かっている。


それなのに、わたしは期待せずにはいられなかった。


やはり、まだマサオの事が好きだから。

No.418

「昨日、リナが帰ってからなんだけど…」


「うん」


「例の女が家に来たんだ」


「マサオに告白してきた人?」


「嗚呼」

No.419

いきなり、別の女の子の話を始めたので、わたしはマサオの話に興味がなくなってきた。


これは、わたしの事が好きだという内容ではないだろうから。


恐らく、また彼女にして欲しいと言われて困るとか、そういった話なのだろう。


しかし、もうわたしには関係ない。


わたしとマサオは、もう恋人同士ではないのだから。


いい加減、わたしに頼ってくるのは止めて欲しい。


ハッキリ言って、迷惑だ。

No.420

「もうわたし達は別れたんだし、マサオがその人と何があっても、わたしには関係ないよね」


そう言って、わたしは下駄箱から外履きを出し、上履きを仕舞った。


「そんな冷たい事、言うなよ」


マサオが、馴れ馴れしくわたしの肩に手を置く。


それを振り払いながら、わたしは外履きに足を通す。

No.421

「もうマサオに、都合のいい様に使われるのは嫌なの」


「取り敢えず、話だけでも聞けよ」


建物から出ようとしたわたしの両肩を、マサオが思い切り掴む。


「痛い!放してよ!!」


わたしが叫ぶと、周りの視線が集中した。


みんな興味津津な様子で、わたし達二人を見ている。

No.422

何故、人は口では揉め事が嫌いと言いながら、自分とは関係のない第三者の揉め事は楽しそうに眺めているのだろう。


わたし達は、見せものではないのに。


しかし、マサオは周囲の視線など気にならないらしく、わたしの両肩を掴んだまま放そうとしない。


「あの女、手切れ金として五万くれたら、俺の事を諦めるって言ったんだ!」


手切れ金なんて言葉、ドラマや小説でしか聞いた事がない。

No.423

少なくとも、もっと大人の人がする恋愛で出てくる単語で、高校生の恋愛でその様な単語が出てくるとは思わなかった。


マサオの場合、彼女にするつもりもないのに女の子にちょっかいを出していたみたいなので、その様なモノを請求されても当然なのかも知れないが。


しかし、マサオが被った被害に、わたしにも巻き込まれる形となった。


「だから、俺もリナに手切れ金として五万を請求する!」


何とマサオは、他の女の子から請求された手切れ金と同じ額だけ、わたしにも請求すると言ってきたんだ。


恐らく、マサオは五万という額を自分一人で用意するのは難しいと判断した。

No.424

そのため、わたしからお金を巻き上げに来たのだろう。


本当に、最低なヒドい男だ。


自分の後始末くらい、自分でして欲しい。


至極、そう思う。


こんなに連続で嫌な部分ばかり見ていると、マサオに対するわたしの気持ちも徐々に離れていくのを感じていた。


マサオの事を嫌いになりたかったから、それはそれで都合がいいが。

No.425


「人のお金ばかり当てにしていないで、自分で蒔いた種なんだから、自分で払いなよ」


マサオの手を振り払おうとしながら言うが、なかなかマサオの手はわたしの両肩から外れない。


寧ろ、わたしが抵抗すればする程、マサオは両肩を掴んでいる力を強めてきた。


「リナが俺に払ったら、ちゃんと俺も払うよ!」


「わたしは、昨日でマサオと別れたんだから、マサオに手切れ金を払う義務なんてない!」

No.426

「いや、ある!」


「ないって!」


わたしとマサオの言い合いは、どんどんヒートアップしていく。


最初は、人目を気にしていたわたしも、何時の間にか気にならなくなっていた。


人目を気にする気持ちよりも、不条理な事を言うマサオに対する怒りの方が上回っていたから。

No.427

「寧ろ、わたしがマサオに浮気されていた慰謝料を請求したいくらい!!」


「結婚している訳じゃないんだから、そんなの請求出来る訳ないだろ!?」


「分かっているよ。だから、請求していないでしょう!?」


「分かったなら、俺に手切れ金を払えよ!」


「その事に対して、分かったって言っているんじゃない!そもそも、手切れ金って払う方が善意で払うものでしょう!?」


「だから、善意で――」

No.428

マサオは言い終わる前に、途中で言葉を止めた。


そして、驚いた様な顔をしている。


マサオの手が両肩から解放され、わたしも驚いて目を見開いた。


そして、そんなわたしの前には、マサオの両手を掴んでいるケイタさんがいた。


「ケイタさん…」


「リナ、大丈夫か?」


驚いて目を見開いたままのわたしに、ケイタさんが優しく微笑み掛ける。

No.429

「…は、はい」


「取り敢えず、外に行こうぜ」


わたしが頷くと、ケイタさんが外へ出る様に促した。


そして、わたしは周囲を軽く見回して、随分とギャラリーが増えている事に気付く。


マサオに言い返すのに夢中になっていて、今まで全く気付かなかった。

No.430

確かに、このままココで言い争い続けるよりも、別の場所に移動してから話し合った方が良い。


そう判断したわたしは、素直に校舎の外へと出た。


「ほら、お前も」


そう言って、ケイタさんはマサオの身体を引き摺る。


「引き摺ったりしなくても、ちゃんと自分で歩く!」


ケイタさんの手を振り払い、マサオは自分の足で歩き出す。

No.431

そんなマサオを見張る様に、ケイタさんはマサオの後ろを歩く。


そして、わたしもマサオの前は歩きたくないので、ケイタさんの横に並んだ。


「取り敢えず、近くに公園があるから、そこまで歩こうぜ!」


「はい」


わたしは、ケイタさんの言葉に頷くが、マサオは無反応だ。


しかし、黙々と公園に向かって歩き続けている。

No.432

「リナ」


マサオが歩いている様子を見ながら、ケイタさんはわたしに声を掛けてきた。


「はい」


わたしも、マサオが歩いている様子を見ながら、ケイタさんへ返事をする。


「公園に着くまでに、簡単にでもいいから何があったか聞いておきたい」


「…はい」


ドコから話せばいいのか考えながら、わたしはケイタさんの言葉に頷く。

No.433

「まず、この人はわたしの元彼なんです」


「嗚呼」


「それで、わたしが別れたいと言って、一度は別れる事を承諾してもらったんです」


「嗚呼」


「それなのに、今日になって手切れ金として五万を請求されたんです」

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