冥途の土産にやり直すべき日を聞いて逝きます~さようなら~

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2023/05/23 15:04(更新日時)

桜の花が咲き誇る頃、妻が家を出て行った。

No.1695914 (スレ作成日時)

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No.301

しばらくその心地よい音を聞いていた。


男性は私と同じくらいの年代だろう。


トイレの中で踊っているんじゃないかと思うくらい、鼻歌は益々リズミカルに大きくなっていった。


トイレから20メートル近く離れたベンチまで、はっきり聞こえる。

No.302

デッキブラシでトイレの床をこする音。


水をザバーっと流す音。


パコンパコンと響くバケツの音。


気持ちの良い音だ。


そして止まない男性の軽快な鼻歌…


実に楽しそう。


暫くしてデッキブラシの音が止んだ。

No.303

聞こえてくるのは男性の鼻歌だけ。


何をしているんだろう…


トイレの中の様子を覗き込みたくなった。


ブランコの方へ行くフリをして、途中、チラッとトイレを覗いた。


男性が見えた。

No.304

便器を、膝を折ってしゃがみながら、それはそれは大事そうに顔を近づけて磨いていた。


ピッカピカだ。


遠目から見ても、その便器の輝きが分かるくらい、艶やかにきれいになっている。


まるで金の仏像でも磨いているかのように、大事そうに見とれながら磨いていた。

No.305

そうして男性は、全ての便器を時間をかけて磨きあげた。


そしてザバーッと仕上げの水をかけた。


便器が喜んではしゃいでいる。


そんな気までしてくる。


トイレの壁も隅々まで磨かれて、公衆トイレ一帯に爽快感が溢れた。


公園の草木や遊具、空気、すべてが喜んでいるように見える。


そしてここにいる私の心に吹く風も、とても爽やかだった。

No.306

男性はトイレの清掃を終えると、鼻歌を歌いながら公園を出て行った。


行ってしまうのか…。


公園を出る時、何故か私の方をチラッと見て、ウィンクした。


驚いた。


だけど、うれしい。


なんだかとても懐かしくて、以前にどこかで会ったことがある…


そんな気がした。


とても親近感を覚えた。


なんてすがすがしいんだろう…。

男性の後ろ姿を見送りながら、心の奥底から「ありがとう」と言った。

No.307

ジーンと目頭が熱くなってどっと涙が溢れ出した。


どうしたんだ…


何故だか分からないが、とてもうれしかった。


なんなんだ…この感情は…。

No.308

同時に笑いも込み上げてきた。


ヘラヘラと泣きながら笑った。


笑いながら泣いた。


男性のバカでかい鼻歌。


リズムにのったデッキブラシの音。


勢いよく水を流す音。


犬の遠吠え。


去り際のウィンク…。


男性から感じた陽気なあたたかさ。


全てが愉快だった。


そして美しくなって佇む公衆トイレ。

No.309

男性がこの公園に入ってきてから、あたたかくて爽やかな空気が瞬く間に広がった。


辺り一面、今もその空気に包まれたままだ。


人様に対して心から「ありがとう」なんて、久々に思った。


もう随分、そんな気持ちで心を満たしたことがなかった。


実に素敵な時間だった。


私の心の中までキレイに掃除してくれた。


有り難くて仕方がない。


だから涙が止まらなかった。


癒されるとはこういうことなのか…。


そう思った瞬間、確実に私の中で何かが変わった。

No.310

ピカピカに光るトイレ。


つい、その美しさに見とれてしまう。


このトイレに入った誰もが思うだろう。


なんとも居心地の良い、きれいなトイレだと。


何度でも来たくなる爽やかさ。


こんなに人の心をきれいにする仕事を、私は今まで一度だってしたことがあっただろうか。


こんな喜びを、誰かに与えたことがあっただろうか。


きっとその答えは「ノー」なんだろうな。

No.311

私は、いろんなことを難しく考え過ぎていたのかも知れない。


あの男性は、物事を複雑に考えることなく、ただ美しいものを知っている。


私は10日前、いろいろ考えた挙げ句、死のうと決めた。


いろんなことを諦めて生きていく人生は、死んだも同然だと思った。


だけれど、私が考えるべきことは、本当はもっと単純なことだったんじゃないか…。


例えば…


今見た男性のように。

No.312

私は今の今まで、トイレ掃除という仕事に対して、少なからず何か抵抗感のようなものを抱いていた。


自分がそれをやるとなると…と。


だがたった今、私の目の前に現れた男性からは、そんな迷いは一切感じなかった。


それどころか、うらやましくなるほど爽快だった。


ほんの短い時間の中で、公園中の空気をまるで楽園に変えていった。


どうしてあんなふうになれるのか…?

No.313

彼はきっと、人の気持ちを一瞬で幸せにする術を知っている。


もしかしたら、彼はトイレの神様なんじゃないか…と思った。


八方塞がりで、暗いトンネルの中にいるまま抜け出すことができない私の前に、突然そんな神様が現れてくれた。


とても陽気な神様が…


そんな気がした。

No.314

そして「そんなに難しく考えることは何もないはずなんよ」と言われた気がした。


なぜか、あの運転手のような口調で…。


人生はもっと自由やん。


単純明快に、思う存分楽しんで生きていったらええんちゃいます?と…。

No.315

そうなのかも知れない。


単純さよりも複雑さばかりを求めて生きてきた。


そんな人生を、およそ半世紀も続けてきたわけだ。


単純な喜びが、とてつもなく心に響くありがたいものだと、それをずっと忘れて生きてきた。


私は複雑な人間だった。


非常に分かりづらい人間だった。

No.316

そんな私に、長い間付き合ってくれた幸子。


彼女はどれほど私を理解しようと努力してくれていたか…。


和典もまた、こんな父親をもったことでどれほど悩んだことか…。


申し訳なかった…


本当に


『すまなかったなぁ…』


幸子の思い、和典の思いに、ほんの少し触れることができた気がした。

No.317

もう元には戻れんだろうが…


今頃気づいても遅すぎるかも知れんが…


赤く染まった空の下。


心に芽生えた気持ち。


大事にしたかった。


私にできることが、まだあるのだろうか…。

No.318

『あんたには、これからやらなならんことがたくさんあんねんで。今はそれが何なのか分からんかも知れへんけどな。ちゃんと残っとるんやで』


そんなものがあるのだとしたら…


私はこれから先も生きていける気がする。


あるんだと思いたい。


私はまだ生きていたい。


ミラクルボーイのように、最後までちゃんと駆け抜けよう…。


そしてあの男性のように、私もなりたい。

No.319

公衆トイレの外壁に、何か貼ってある。


なんだろう…。


ベンチから数歩近づいたところで微かに字が見えた。


目を細めると、そこには…


「募集中」の字。


私は走った。


公衆トイレの貼り紙に向かって走った。


「トイレ清掃員募集中」


何度も何度もその貼り紙を手でなぞった。


こんなことって…


こんなことって、あるんだ…。


張り紙におでこをつけた。


ありがとうございます…


本当に…


ありがとうございます

No.320

『お父さんに会ったの?』


『もういいよ、その話は。で、何?』


和典は日曜日のことを聞いても何も話そうとしなかった。


何かあったのかしら…。


久々に父親に会いに行ったのに、土産話も無い。


和典はその話を避けている。


あの人、和典に何を言ったのかしら…。


残念だった。

No.321

私たちはうまくいかなかったけれど、あの人は和典の父親。


いい関係を作っていって欲しいと思っていたのに…。


やっぱりあの人はダメなのね…。

私の方から離れていったのに、なんだか今はあの人の方が私たちから離れていっている気がするわ…。


寂しいものね…。

No.322

それから2ヶ月が経った。


今の私の状況を二人に知らせたいと思った。


何も望まない。


ただ謝りたかった。


そして私が元気に過ごしていることを知らせたかった。

No.323

だが、その方法に頭を悩ませていた。


年が明けた。


年賀状にかこつけて、初めて二人に手紙を出した。


それぞれの文面はこうだった。

No.324

「和典へ

元気ですか?
この間は来てくれてありがとう。うれしかった。

ただ、部屋を汚くし過ぎていて和典を家にあげられんかった。

わざわざ来てくれたのにすまなかった。

漬け物食べました。
美味しかったよ。
ありがとう。

今私は、富士見台の公園でトイレ掃除の仕事をしています。
楽しい仕事です。

気が向いたら遊びにおいで。

今度は和典がいつ来てもいいように、部屋をきれいにしておくから。父」

No.325

「幸子へ

元気にしていますか?

この間、和典がうちに来てくれました。ありがとう。
ただ、私のせいで和典には嫌な思いをさせました。
申し訳ない。
相変わらず自分勝手な人間だと残念に思っただろうね。
私自身もそう思うよ。

今度和典が訪ねて来てくれたら、この間の詫びをしようと思っています。

あれから私は会社を辞めて、今は富士見台の公園でトイレ掃除の仕事をしています。

いつでも会いに来てください。

いつも幸子と和典の健康と幸せを願っています。常雄」

No.326

書き終えたハガキを見ると、幸子に宛てた文面の余白が少し大きく空いてしまった。


何か絵でも書いて埋めようかな。


幸子が好きだった何かの絵でも…。


『あっ!そうだ!』

No.327

受け取った和典も幸子も複雑な思いだった。


和典『何を今さら…』


幸子『連絡しないでと言ってあるのに…』


と困惑した。

No.328

それから5年。


『母さん、親父どうしてる?』


『あなたに黙っていたけど、少し気になって何度か富士見台の公園を覗きに行ったのよ』


驚いた。


まさか母さんが親父に会いに行っているとは思わなかった。


『それで?』


『……』


『元気だったの?』


『それがね…』

No.329

『何?』


クスッ…。


母さんが急に笑いだした。


『何?どうしたの?』


『お父さん、公園で鼻歌歌いながらトイレを掃除してたのよ』


『鼻歌?親父が?』


『ねっ。びっくりよね』


『それで?』

No.330

『それでお花をね…』


幸子がまたクスッと思い出し笑いをした。


『お父さん、お花の手入れもしてたのよ』


『親父が花!?』


『そう。椿のね』


『椿って母さんが好きな花じゃなかった?』


『あの人、きっとそんなこと知らないわよ…』

No.331

『それでどうしたの?』


『それだけよ』


『それだけって…親父に会ったんじゃないの?』


『なんだかあまりに楽しそうに仕事していたから声かけづらくてね。会わずに帰ってきちゃったのよ。元気な姿を見れて安心したのもあったし』


『そうだったんだ…』


ずっと思っていた。


母さんに言おうかどうか迷っていた。


一緒に親父に会いに行かないかって…

No.332

喉まで出かかっているのを、親父の姿を思い出して笑ってる母さんを前に堪えていた。


母さんはもう、親父を許しているのか?


俺はどうなんだ?


『和典…』


母さんが先に口を開いた。


『何?』

No.333

しばらく俺の顔を見て、母さんは首を振って言った。


『なんでもない』


何?と言おうとした。


母さんもそれを待っているようだった。


だけど言えなかった。


俺はまだ、自分の気持ちが分からなかった。

No.334

俺の心の中の濁りが消えないまま、また5年が過ぎた。


市の広報誌に「富士見台の公園のトイレをいつもキレイに掃除してくれて、椿の花でいっぱいにしてくれたトイレのオジサン。お疲れさま。ありがとう」と親父が紹介されていた。


デッキブラシを片手に作業服を着て、町の子供達に囲まれながら満面の笑顔で笑っている親父の写真があった。

No.335

カラー写真ではなかったが、親父が老けたのがよく分かった。


だけど、10年ぶりに見る親父の顔は、俺が知っているどの顔とも違った。


親父とは思えないほど穏やかで、とても優しい顔だった。

No.336

そして写真の隅に「10年間務められた白井常雄さんが、先日お亡くなりになりました。安らかにお眠りください」とあった。


俺と母さんは、その広報紙を読んで初めて、親父が死んだことを知った。


親父が死んだ……


親父が死んじまった。


何も知らなかった。


何も聞かされていなかった。

No.337

市の職員が言った。


「白井さん、末期の胃ガンでね…。最期まで頑張ってたよ…」



俺も母さんも、何も知らされていなかった。


10年前に年賀ハガキが届いて以来、親父からの便りは無かった。


あんな近況報告よりも、ずっと大事な連絡だったはずなのに、親父は俺たちに病気のことを知らせてくれなかった。


だから俺は、まだずっと時間はあると勝手に思っていたんだ。


勝手に死んじまいやがった。

No.338

死んだら、今までのことが全部チャラになって許されるとでも思ったか?親父…


チャラになんかならねぇよ。


ちゃんと生きてる時に分かり合えなきゃチャラになんてできねぇだろ…なんでその前に死ぬんだよ…親父っ!

No.339

俺はちゃんと謝って欲しかった。


濁ってしまった俺の心の中は、時間が経過するとともに少しずつ透き通ってきてはいた。


だけど、まだどうしても消せない濁りがあった。


どうせなら完全にその濁りが消えるまで待とうと、会いに行けたかも知れない日を先延ばしにしてきた。

No.340

心のどっかで、親父を待たせたいと思う気持ちがあった。


ずっと待っても来てくれなかった幼い日々の思い出が、そうさせた。


親父に待っても来ない思いを味わせたかった。


そんな怒りの感情が俺の心の中にずっと消えずにあったから…


俺は…

No.341

本当は親父に言いたいことがいっぱいあったんだ…


今更どんなにチャラにしたいと願ったって、もう無理じゃねぇか…


もっと親父らしいことをして欲しかった。


もっと俺を見て欲しかった。

No.342

小学生の時、親父にサッカーの試合を観に来て欲しいと頼んだ。


そんな約束をそれまでに幾度となくした。


けれど、来てくれたのはいつも母さんだけだった。


あんなに約束したのに来てくれなかったことが悔しくて、泣きながらプレーして、監督に交代させられたことがあった。


親父は俺との約束を守ってくれたことがなかった。

No.343

だけど、あの日は県大会の決勝戦。


俺はどうしても、どうしても親父に観に来て欲しくて、何度も何度も約束した。


親父は機嫌よく、必ず行くよと言った。


そして試合当日。


約束はまた破られた。


俺はその時、親父に応援されていないんだと思ったんだ。


その日から、俺の時間はずっと止まったままになった。


そんなことを未だに思ってるなんて子供みたいじゃねぇかよ…

No.344

殆ど大した私物も無かった親父の遺品。


『住んでいたアパートも、とても男所帯とは思えないくらいきれいに掃除されてましてね…』


『なんでも大切な人が来るかも知れないからって言ってたよ』


『あんた達のことだったんだねぇ』


『白井さん、無縁仏になるところだったけど本当に良かった』


そう言うと市の職員は、親父が唯一大事にしていた形見があるよと小さい包み紙を開いた。

No.345

これ………


サッカーボールのキーホルダーだった。


受け取った掌の上で、サッカーボールが少し転がった。


親父が笑った顔が目に浮かんだ。


身体が震えた。


涙が溢れて止まらなかった。


こんなもん、大事にとっておくなんてよ…

No.346

観に来て欲しいと頼んだサッカーの試合。


優勝した記念に県から贈られたものだった。


来てくれなかった親父に渡して欲しいと、母さんに頼んだ。


親父に誉めて欲しくて…


ずっと忘れてた。


20年以上忘れてた。


あの時渡したっきり、見たことが無かった。


ずっと持っていてくれてたんだ…

No.347

他に親父の持ち物なんて殆ど無いのに…


こんなものをずっと…


親父が愛しい…


親父に会いたい…親父に会いたい…


地面に膝をついて、頭を抱えて泣き叫んだ。

No.348

あの時、親父は何も言ってくれなかった。


でも俺があの時求めていた100万倍、今になって誉めてもらえた気がした。


喜んでくれてたんだ…親父…。


親父の温もりが伝わってくるキーホルダーを握りしめながら、やっと思えた。


心から…

No.349

俺は親父の子供だった。


もっと早くそう感じたかった。


こんなに俺を思ってくれていたんだ…


キーホルダーをどれ程握りしめてくれたんだろう。


黒と白のボールの模様だったのに、黒い部分は殆んど消えてなくなっていた。


20年以上もの時間、親父はこれを見て俺に話しかけてくれてたんだ…


模様が消えかかったボールを見て、俺はもう何もかも許そうと思った。


許すどころか、許してもらいたいと思った。

No.350

中学生になってから、俺を見て欲しいって気持ちがどんどん強くなっていって、そんな気持ちを誤魔化そうと、親父を遠ざけるようになっていった。


どうせ俺のことなんか見てくれていないからと…


だけど今なら分かるよ…


仕事、忙しかったんだよな…


酒飲んでした約束は、忘れちまう体質だったんだよな…


そんなこと知らなかったからよ…


言い訳も何も言ってくれなかったじゃねぇか!!

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