冥途の土産にやり直すべき日を聞いて逝きます~さようなら~

レス388 HIT数 169624 あ+ あ-


2023/05/23 15:04(更新日時)

桜の花が咲き誇る頃、妻が家を出て行った。

No.1695914 (スレ作成日時)

投稿順
新着順
主のみ
付箋

No.201

ふと目線を上げたところにあった鏡台の鏡。


そこに映っている今の顔とは、明らかに違う。


いつも厳しい顔をして、眉間にシワを寄せながら仕事をしていたし、何より毎日がつまらなかった。


つまらない人生をやめたら、こんなにも明るい顔になれるものなのか。

No.203

ただしこの顔は、人生を諦めたからこそなれた顔。


生きることを続けようと思っていたら、到底なれない顔だった。


何も背負わず、何も期待せず、ただ残りの日々を楽しく過ごそうと思った。


鏡に映った顔を何度も確認した。


私の顔はこんなにも穏やかで、優しい顔をしていたのか…。


両耳を引っ張ってみた。


60歳手前のシミとシワだらけの顔が、あっという間に無邪気な面白い顔になった。

No.204

どの角度から見ても笑っている。


「はじめまして、白井常雄さん」


鏡に向かって言ってみた。


他人のような自分の顔。


これが今の私の顔。


最後にこんな顔に出会えてよかったなぁ。

No.205

台所の椅子を6畳の部屋に運んだ。


昔、幸子が使っていた洗濯物干し用のヒモ。


脱衣所の棚の中にあるのを見つけた。


6畳の2部屋を介している襖の上に、風通しをよくするためにあるのか、壁の代わりに芸術的な木の彫り物がはめ込んである。


椅子に上って隣の部屋からこちらの部屋へ、木彫りの隙間にヒモを通して輪を作り、固く縛った。

No.206

椅子を降りて、吊ったヒモの高さを確認した。


首を吊っても床に足がつかない高さに設置できた。


部屋の上方の宙に、だらんとぶら下がった首吊りヒモ。


はあ...。


こんなものを首に巻いて宙吊りになったら、さぞかし痛くて苦しいだろうなあ。

No.207

痛くて苦しくて、目が飛び出るだろうなあ。


身体中の穴という穴から、いろんなもんが出て垂れ流しになるんだろうなあ...


はあ……。


いったいどのくらいの時間、私は苦しむのだろう。


一分位?


一分苦しんだら、あの世に逝けるか?


首に違和感が走って生唾をゴクリと呑みこんだ。

No.208

想像ならいくらでもできたんだがなぁ。


心臓めがけて包丁をぶっ刺すとか。


解雇された会社があったビルの屋上に忍び込んで飛び降りるとか。


何も口にせず、息が絶えるまで絶食とか。


頭の中ではいくらでも想像できた。

No.209

その中で一番簡単そうだったのが首吊りだった。


しかし、いざやるとなると恐ろし過ぎてなかなか前に進めない。


足がプルプルと震え始めた。


その足の震えが治まるのを待つまでもない。


小刻みな震えを利用して椅子から飛び降りればいいわけで...


緊張で足が固まって動かなくなってしまうよりは好都合なわけで...

No.210

私は注射も嫌いな小心者だから、正直に言うと、こういうことは大の苦手なんだ。


健康診断で血を数本採られる時は、いつも腕から目を反らして壁にかかった時計の秒針の動きだけに意識を集中させた。


大抵、一分もあれば全て採り終わった。


一分か...。


壁にかかっている時計の秒針が、ゆっくりと12を通過した。

No.211

カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ...


カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ...


カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ...


ようやく15秒。


一秒が恐ろしく長い。


カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ...


カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ...


カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ...


ようやく25秒。


一分もがき苦しむなんて長過ぎる。

No.212

気が引けた。


だが今更怖じ気づいてやめる訳にもいかない。


痛くても苦しくても結局やらなきゃならんもんなぁ...。


だったら、さっさと済ませてしまった方がいい。


よし。


大丈夫だ、常雄...


こういう時は、感情を一切シャットアウトして心を無にするんだ。


深呼吸をして腹から「スゥーー」っとゆっくり息を吐いた。


椅子に上った。

No.213

足の震えが尋常ではない。


動悸がしてきて冷や汗が出てきた。


ヒモを掴んだ。


足の震えが腕にまで伝わってきた。


『大丈夫だ。大丈夫だ』


『何も感じない。何も感じない』

No.214

そのまま震える手に力を入れながら、ゆっくりとヒモの輪に頭を通した。


首にヒモが掛けられた。


こんなことは生まれて初めての経験だ。


ほとんど重さのないヒモ。


鎖骨に当たって妙にその存在感を感じる。

No.215

嫌な感覚...


既に圧迫感を感じて気持ちが悪い。


その突っ張り具合から、ヒモが天井付近から吊られて固定されているのが分かる。


鎖骨に触れる細いヒモを両手で掴み、目を瞑った。


そのままゆっくり顔を上げた。


あとは椅子から足を外すだけ。


もう一度大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。

No.216

大丈夫だ。
大丈夫だ。


「せーの」でいくぞ。


「せーの」でな。


よし、いくぞ……


『ふぅー』


『せーのっ』


椅子から足を外そうと全身に力を入れた。


その時――――

No.217

「ピーンポーン」


何!!?


『うおっ……』


片足が宙に浮いて、ヒモが首にめり込んだまま身体がぐるっと一回転した。


『うっ……くっ……』


片足がつかない…

No.218

外れた右足の足場を探そうと、首に食い込むヒモを掴んで必死にもがいた。


もがけばもがくほど首が締まる。


『うぅー…』


顔がうっ血してきて薄く目を開けると、部屋がぐるぐる回っている。


苦しくてもがいているうちに、唯一椅子を捕らえている左足が外れそうになった…


もうだめ…だ…


目がチカチカしてきた。


『うーっ…』

No.219

ジタバタもがいて1,200度ほどぐるぐる回っただろうか…


右足のつま先に堅いものが当たった。


椅子…


朦朧としていく意識の中で、右足のつま先で椅子の表面を手操り、端を捕らえた。


戻ってくるんだ...常雄...


両足で踏ん張って渾身の力で上体を起こした。

No.220

やった…


椅子の上になんとか着地…


ゲホゲホッゲホッ…


よろめきながら、直ぐ様きつく締まったヒモを弛めて外した。


ガクガク震える足が意思とは関係なく勝手に折れて、椅子の上に正座した。


そのまま背もたれを抱えてうずくまった。

No.221

ゼェゼェゼェ……


『し…死ぬかと思った……』


吐きそうだ…


一時遮断された頸動脈の血流が一気に脳へと流れ込んで、頭がグラグラして目が回る。


冷や汗が身体中から噴き出して唇が渇き、顔が真っ青になっているのが鏡を見なくても分かった。


気持ち悪い…


時間にして5,6秒も吊られてなかったと思うけど、こんなに…………

No.222

『ハアハア……』


大きく息を吸って吐いてを繰り返した。


口と鼻から血が混じった胃液と唾液と鼻水が、ダラダラと糸を引いて床に落ちた。


その間、終始静まりかえっている家。


たった今の今まで一人でもがき苦しんでいた私。


私のこの一連の行動を、この家は高みの見物気分でただずっと眺めていたんだろう。


家主が死ぬほど苦しんでたっていうのに、なんて薄情な家なんだ。


あまりの痛苦しさを誰かに訴えたくて、つい、家に八つ当たり心が芽生えてしまった。


だけどこの家、全く静かだったわけじゃない。


確かさっき、ピンポンって鳴った気がするんだが…

No.223

涙目になってふらつきながら椅子から降りた。


床に膝をついてゆっくり息を整えた。


首が痛い…。


頭が痛い…。


ゴホッゴホッ…


咳込んだ。


ヒィハァヒィハァ……


首を擦りながら耳を澄ませた。


胸の鼓動が煩く耳に届いて、周りの音が聞こえにくい。

No.224

呼吸を整えながら耳を澄ませていると、やがてピーンポーンピーンポーンと2回鳴った。


はっきり聞こえた。


やっぱり誰か来たんだ...


誰なんだ?


滅多に人なんか来ないのに...

No.225

まさか、今私が首を吊ろうとしていたのが、どこからか見えてしまっていたのか…?


窓の方を見た。


カーテンはちゃんと閉まっている。


そのまま訪問者が帰るのを待とうと思ったが、なんだか見られている気がして気になった。


口と鼻から出たものを手で拭い、息を整えて立ち上がった。


恐る恐るインターホンに出た。


『はい』

No.226

『俺だけど』


『???』


『親父?俺だよ。和典だよ。会いにきたよ』


何だって?


和典?


なぜ?


頭の中が真っ白になった。


何も言わずにインターホンを切った。

No.227

しばらく呆然としていたが、やがて再びインターホンが鳴った。


「ピーンポーン」


和典なのか…?


なぜ和典が来たのか、全くもってその理由がわからない。


「コンコン」


玄関の戸を叩く音。


急に焦り始めた。


とにかく和典が家に入るのだけは阻止しなければ...。

No.228

閉めきった部屋は埃まみれで、とにかく散らかり放題。


不用意に歩くと蹴ってしまう、転がっているビールの缶。


人間らしい生活をしているとは到底思えない澱んだ空気。


さっきまで気づかなかった部屋の汚さがやたらと目についた。


そして宙にぶら下がった首吊りヒモと、そのための椅子。


常人には見るも耐えがたい異様な光景だ。

No.229

こんな部屋を和典に見せられる訳がない。


何度もインターホンが鳴った。


どうしよう...


狼狽した。


仕方なくインターホンに出た。

No.230

『帰ってくれ』


『え?親父?俺だよ、和典だよ。開けてよ』
 

『帰ってくれ。二度と来ないでくれ』


どうしたって今の私の姿を和典には見せられない。


見せたくない。


絶対に見せてはならない。


祈るような気持ちだった。


頼む和典、早く帰ってくれ...

No.231

『開けて』と言う和典の声を遮り、インターホンを切ってその場に座り込んだ。


「ドンドン」と和典が玄関の戸を叩いて『親父、親父』と叫んでる。


音を立てずに和典が帰るのを必死に祈った。


帰ってくれ、頼む...


もう私は、君たちに会えるような、君たちが覚えているような人間ではないんだよ...


そのまましばらく息を潜めていると、ドアの向こうで「バン」と大きな音がした。


そしてアパートの階段を勢いよく降りて行く足音が聞こえた。

No.232

忍び足で玄関に近づき、覗き穴を覗き込んだ。


ドアの外にはもう誰もいなかった。


ゆっくり扉を開いてアパートの通路を見ると、そこら中に紙袋が破れて散乱していた。


外はもう暗い。


通路の電灯だけが散らかった紙袋を照らしていた。

No.233

散らばった包み紙に「白井常」の文字が見えた。


これは…


近寄って見ると「白井常雄様」と書いた帯と、その下に「和典より」とあった。


隣の家のドアの前まで散乱している。


破れた包装紙や品物を一つ一つ拾い集めた。


どうしようもなく情けない気持ちが胸に込み上げてくる。


すまない…


いろんな思いが葛藤した。


謝りたい…


アパートの階段を下りて走った。

No.234

和典はどこにもいなかった。


あてもなく歩いて公園の入り口に着いた。


誰もいない公園の中に入った。


片隅にあった冷たいベンチに腰をかけた。


暗闇に身を委ねて、ただボーっと時間が過ぎた。


いったい私は何をしているんだろう…


もういいだろう…


これ以上…


公園を出て線路沿いを歩いた。


真っ暗な道を。

No.235

カンカンカンカンカンカン…


踏切の前に立った。


誰もいない。


ゴーッと線路から車輪の音が響いてくる。


電車の光が眩しく目に入ってきた。


もし、やり直すべき日があったとしたら、それはいつだったんだろうな。


教えて欲しかったよ…


涙が落ちた。


踏切の中に入って電車の正面を見た。


眩しい光が体を包んだ。


目を瞑った。


さようなら。


上巻終(上・下)

No.236

下巻始まり


「コト」


薄く目を開けると、眩しい光が飛びこんできて、思わず顔を背けた。


ここは...?


天国...?


違う。
あからさまに違う。


だってナイター中継が聞こえる。

そりゃあもうはっきりと。


『阪神対巨人戦を
 お送りしておりますが...
 おっと!?
 これは大きいー!
 レフトスタンド一直線!

 あーっと、
 思ったより伸びませんっ!!
 スタンド手前でキャッチー!
 スリーアウトチェンジ!!
 
 7回裏巨人の攻撃が
 終わりましたー』


ど、どうでもいい...。


ということは...

No.237

そうなのか...。


私はまだこの世に生きている。


死ななかったのか...
絶望感が襲ってきた。


死ねなかった。
死なせてもらえなかった。
苦痛が心を蝕み始めた。


生きていたなら、確認しなければならない恐ろしいことがある。

No.238

電車にはねられた衝撃で、身体のどこかがはずれているのではないかということだ。


頭の中に不安が駆け巡ったが、どうも変なのが、電車にぶつかった記憶が無い。


不思議だ...


普通私はバラバラになっているはずなんだが、それにしてもバラバラ感が無い。


ここに浮遊する空気に、緊迫感のかけらも無い。


何故か毛布らしきものを掛けられて、ソファらしきものに仰向けに寝かされている。

No.239

例え生きていたとしても、病院に運ばれていなきゃならないはずだ。


どういうことなのか、未だに理解できない。


恐る恐る右足を1センチほど上げてみた。


ちゃんと動いた。


左足も上げてみた。


これも大丈夫。


右手、左手もちょびっとだけ動かしてみた。

No.240

問題なさそうだ。


見た目には分からないくらいにちょっとだけ身体を横に傾けてみた。


腰も大丈夫だ。


バラバラどころか、痛みがまるで無い。


分かりやすく言えば、線路に飛び込む前と何ら変わらない。


もっと言えば、さっきまで寝ていたから、飛び込む前より頭が冴えて元気になってしまったみたいだ。

No.241

私は確かに電車にひかれたはずなんだが...。


これから私はどうすればいいんだろうか...


もうはっきりと目が覚めてしまっているんだが、この体勢のままずっと寝たフリを続けた方がいいんだろうか...。


この部屋には間違いなく誰か一人居る。


さっき私は誰かが「コト」っとコップを置いた音で目が覚めた。

No.242

そして恐らく、背もたれにもたれかかる度にガチャガチャと音が鳴る回転式の事務椅子に、その人は今も座っている。


起き上がって声をかけようか…


ナイター中継を見ているか聞いているかしている人の邪魔をするのは気が引けた。


野球ファンというのは、とにかく試合の途中で茶々が入るのを嫌がるものだ。


とりあえず、もう少し寝たフリをしながら様子を伺おう。


そう思ったら、つい家の布団で寝ているかのような気になって、毛布を足で上げて横向きに寝返りをうってしまった。


あっ…やってしまった…

No.243

『起きたんか?』


ドキッ!


心の準備ができてない。


だけど聞こえなかったフリをするのはあまりにも変過ぎる。


『起きたんか?』と言われた瞬間、私は横向きになろうとしていた身体の動きをピタッと中途半端に止めて、そのままフリーズしてしまった。

No.244

聞こえなかったフリをすれば、私はこの中途半端な苦しい体勢で寝たフリをし続けなければならない。


明らかに声が聞こえた反応をしておいて、聞こえなかったことにするのはおかし過ぎるだろ。


頭の中が戸惑っている間に、『起きたんか?』と言われてもう確実に5、6秒は経ってしまった。


その男性はきっとまだこっちを見ている。


起きるしかない。

No.245

閉じた瞼は既に部屋の明るさには慣れてしまっていたが、いかにも今目が覚めましたという「非常に眩しい感」をおもむろにアピールしながら目を開けた。


『うぉっ!』


驚いてつい、声を出してしまった。


椅子に座っていたであろうその人が私のすぐ側にいて、わずか15センチほどのところまで顔を近づけて私の顔を覗き込んでいたからだ。


『おはようさん』


どこかで見覚えのあるその目。


黒目が真っ黒な白髪の男性だった。

No.246

『ここは...?』


『ここ?駅長室』


男性はナイター中継のラジオを消して、棚から湯呑みを一つ出した。


『自分の状況、理解できたんかいな』


その年配の男性が私に言った。


『ワシ誰かわかる?』

No.247

首を振った。


『あんたが突然目の前に飛び込んできた貨物列車の運転手』


『...』


気まずさが漂った。


この人が私を助けたのか...。


だけど助ける…?

No.248

私の記憶が確かなら、列車はあの距離からでは到底止まれないスピードが出ていたはずだ。


電車に跳ねられるのは必至だと思った。


なのに何故、私は怪我も無くこうして生きているんだろう...


それにあの線路に貨物列車なんか走ってたか?


しかもあんな夕方過ぎの時間に...


やっぱり腑に落ちない。


不思議だ...


ソファに横になっていることに違和感を感じた。


起き上がって床に足を下ろした。

No.249

ソファの脇に、私のサンダルが揃えて置いてあった。


和典を追いかけた足で、そのまま電車に飛び込んだ。


『あんた、またえらい恐ろしいことをしたねぇ。


大体ねぇ、そんなことされるこっちの迷惑ってもんを考えたことあるん?』


『......』


どうやら電車に飛び込んだことを言ってるようだ。


答えようがない...


穏やかそうに見えた男性が、咳を切ったように話し始めた。

No.250

『自殺するんならねぇ、自分で死んで下さいって話ですよ。そういうことに巻き込まんで欲しいね、まったく...。

だってそうでしょう?


自殺の方法って言ったらまず何を考えるかって...


だいたいの人がまず、飛び込み考えるでしょ?あなたみたいに...


一位じゃなくても三位くらいには入ってるでしょ?


文明が発達した世の中になってもまだ「飛び込み」って…

投稿順
新着順
主のみ
付箋
このスレに返信する

関連する話題

小説・エッセイ掲示板のスレ一覧

ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧