冥途の土産にやり直すべき日を聞いて逝きます~さようなら~

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2023/05/23 15:04(更新日時)

桜の花が咲き誇る頃、妻が家を出て行った。

No.1695914 (スレ作成日時)

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No.101

5日目。


カシンカシンカシンカシン・・・


昨日と同じ台。


これで3日、私はこの台を占領している。


のっけから、鳥群のお出まし。


のっけから、卵リーチの連発。


しかし、出ない。

No.102

分かってる。その手は分かっている。


低迷してる台が、
緩やかに当たり始めるのではなく、
いきなり大爆発する。


その確率が一番高いのは、
間違いなくこの台だ。


私の前に座った客も、その前の客も皆、
この台に敗れ去った。


そして昨日、一昨日の私も。


だからこの台で、
必ずプレミアムリーチを出してやる。

No.103

周りを見ると、
毎日目にする客がそこら中に座っていた。


ほとんど毎日、同じ客ばかりだったのか。


私も、その一人。


すっかり私も、この店の常連客になってしまった。


店にとってはいいカモだなあ。

No.104

昨日までの4日間、
私は自分の死について、
何も考えなかったわけではない。


ずっと玉を打っていると、
やはりそのことが頭をよぎった。


けれど、暗い気分に陥りそうな私を、
この騒がしい店の軍艦マーチが、
たまに出るリーチが、
一瞬で夢の世界へと引き戻してくれた。


だから私は、負け続けても、ここにいられた。


私に生きる目的を与えてくれたこの場所に、
感謝してるくらいだ。

No.105

こんな私の姿を、幸子や和典が見たら、
どう思うのだろう。


きっと、落胆し、落ちぶれた私の末路を憂い、
私を哀れな目で遠くから眺めるのかもしれない。


いやあ、そんなことはない。


ざまあみろと、冷やかな目で
私を笑うのかも知れんな。


朝、パチンコ屋に並ぶ数十分の間、
彼等や近所の知り合いに見られやしないかと、
内心ヒヤヒヤしていた。

No.106

早く店が開いて、店内に逃げ込みたかった。


店さえ開けば、私は彼等から自由になれた。


幸子や和典は、パチンコなどはしない真面目な人種。


和典は、私が過去にパチンコをこよなく愛していたことも、
知らないはずだ。


彼等がここに来ることは絶対にない。


だから私は顔をふせることなく、
この町で生き生きと最後を迎えることができる。

No.107

『ありがとさん』


騒がしい店内の中、
誰にも聞こえないように、小声で小さく呟いた。


ハンドルを掴む右手に、
少し力が入った。


その瞬間、


「ガラン」


すずめやオウム、カラスやカナリヤの、
変わり映えしない貧相で退屈な画面の中に、


朱色や黄色、黄緑や紫、ピンクやオレンジ色…
色とりどりの花のつぼみが突然出現した。


なんですか?これは…。

No.108

今まで見たことのない展開。


ほとんど鳥しか出てこなかった画面が、
あっという間に華やかになって、
つぼみが一斉に花開いた。


画面中央に一本の道が開き、
やがて川になり、
その川の中に次々と蓮の葉が浮かんで、
あっという間に成長して花をつけた。


これは確実にレアなリーチなのだが、
もはやあまりの画面の美しさに、
これは何なんだと、呆然と見とれた。


私は今、間違いなく、
鳥物語の台を打っているんだよな…。

No.109

やがて蓮の花がしおれ落ち、
残った茎の先端が徐々に膨らみ始めた。


膨らみは、あっという間に大きな金色の卵に変わり、
川に浮かぶ葉の上に、
でっかい卵が茎の先端からポトンと落ちた。


私の台は既に、
先ほどまでの単調な鳥物語の音楽ではなく、
神秘的なラテン音楽に包まれていた。


私の後ろを通った客が、次々と足を止めた。


隣の客が、私の台を覗き見る。


卵に割れ目が入り、
焦らすことなく、きれいにパカッと割れた。


後ろに立っていた客たちが、
私の肩や腕あたりまで顔を近づけて覗き込んできた。

No.110

「ピャー、ピャー」


何だこりゃー!!


割れた卵から金色の眩しい光線が放たれて、画面を覆いつくした。


な、何も見えない…。


う、産まれたのか???


『何やってるんですか!!これつけないと!!』


隣の客が、私のパチンコ台の横にぶらさがっていたメガネを渡してきた。


気づけば、隣の客も後ろの客たちも、
近くのパチンコ台についていたメガネをかけて、
私の台を見ている。


『えっ!?』


『早くかけて!!画面見てっ!!』


メガネをかけるように促されて、急いで画面を見た。

No.111

うひょーーーーーーーー!!


画面から飛び出てる!!


不死鳥が!!!!!フェ、フェニックスが……


ピャーピャー鳴いてる!!!


不死鳥が羽をはばたく度に、金色に輝く不死鳥が七色に変化する。


おおーーーーーーーーーーー。


『す、すごい…』


呆気にとられて口が開きっぱなしだ。


『き、きれい…』

No.112

ピャーピャー鳴きながら、
七色と金色に包まれた不死鳥が
私に向かって飛んできたと思ったら、


バコンバコンと台が揺れて、画面が一瞬真っ暗になった。


さっきまでの美しい画面が一変して、
画面の奥に火山が出現した。


火山が次々と大噴火して、噴石が私たちに向かって飛んできた。


思わず体をすくませ、噴石を避ける。


『何が始まるんだーーーー!!』

No.113

もう、腹が踊って笑いが止まらない。


想像もしなかったこの展開。


雷がズドーンと3回落ちた。


バリバリバリバリ・・・・・・・


耳を劈くほどの雷鳴が轟いたと思ったら、


「ギャーーーーーーーー」


と何かが鳴いて


不死鳥が・・・・・・・・!!??

No.114

どうした!!??


何だこりゃーーーーーーーーーー!!


へ、変身してる!!!!


覗き込んで見てる隣の客の顔をチラっと見た。


ニヤニヤしてる。


後ろの客もニヤニヤしてる。


「ギャーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」


不死鳥が悶え苦しんで、また落雷が!!!!!!


「バーン」


大きな音が、台の下からつき上がるように鳴り響いて、
画面の中の不死鳥が、な、なんと……

No.115

『えーーーーーーーーーーーっ!!』


隣の客が「確定だ」と言って私の肩を叩いた。


後ろで「オジサンすげぇ」と誰かが言った。


私の3Dメガネの中に、いる……。


いますよ、目の前に…


プテラノドンが……!!


不死鳥が今、プテラノドンになった。


ウルトラ・スーパー・プレミアムリーチ!!


こ、これが…!!


プテラノドンが「ガーガー」鳴きながら羽ばたく度に、
確変ゾロ目が揃っていく。


私は衝天した。

No.116

高揚がおさまらない間に数時間経って、
その間ずっと確変が出続けている私の台。


ドル箱が、私の腰の高さまで上がってきて、
塔が三棟立った。


フィーバーが私のところにやってきた。


これを味わいたかった。ずっと。


20年越しの夢が叶った。


ようやく叶った。

No.117

玉が溢れる。


そしてガラガラガラガラ・・・と玉を開放する。


その度に、周りの客の視線を感じる。


音が煩くならないように、
掌で受けてから箱に落とした。


なんだか、恥ずかしい。


店中の玉が、私のところへ吸い込まれてくるようだった。


有り難いのだが、思い出した。


私には、もう金はいらないのだ。

No.118

店が閉店時間をむかえる20分前、ようやく確変が途切れてくれた。


このまま打ち続けても、まだまだ出るだろうな。


だが、もういい。


十分喜びを味わえた。


これから高く積まれたドル箱の棟を換金しなければならない。


店員の手を借りて、席を立った。


振り返り、数日座り続けた椅子と打ち続けた台に


心の中で「ありがとさん」と言った。

No.119

自宅に着いて、ソファに腰を下ろした。


穏やかな気分だった。


『常雄、やったなあ』


鏡に映った自分に言ってみた。


通勤電車の中で、朝見た夢を思い返すだけでニヤけていた自分。


そんな過去の自分が愛しく感じる。


『夢が叶ったんだなあ』


目的を遂げた。


長らく味わっていなかった充実感だ。


しばらくぼんやりと壁を見つめていた。

No.120

プテラノドン。


「ぷっ」


飲んでいたお茶を、思わず吹き溢してしまった。


20年以上の時を経て鳥物語は、
ウルトラ・スーパー・プレミアムリーチなるものまで出現する進化を
遂げていた。


知らなかった。


プテラノドンって


恐竜じゃないか……。


進化じゃなくて、退化してるじゃないか…。


面白い展開だったなあ。


プテラノドンにお目にかかれたことは、
とてつもなく奇跡的なことだった。

No.121

もしかしたらもしかすると、
日本中のパチンコ屋で、今日プテラノドンを出したのは、
私だけかも知れない。


この喜びを伝えられる家族や知り合いはいないのだが、
少なくとも隣と後ろの客は、
この思いを共有してくれたはずだ。


彼らはきっと、今夜、明日、明後日と、
このことを彼らの友人たちに熱く語ってくれるに違いない。


近々、人知れず果てるしかない私の元へ、
奇跡が訪れてくれた。


実に楽しい五日間だった。


40万使った甲斐があった。


もう十分だ。


薄汚れた壁に向かって呟いた。


『これで思い残すことなく、パチンコを卒業できます』

No.122

五日目が終わった時点で、残金20万円だったはずが、


プテラノドンが出たおかげで40万円になってしまった。


勝ち過ぎた。


この金の使い道はどうしたものか。


あと二日で40万円を消化せにゃならん。


買ったことのない、高価なブランドの靴やカバンでも買いに行くか。


近々あの世に逝くのに、そんなもの持っていても仕方がない。


何か美味いものでも食べに行くか。


一人で40万円分も食べきれんなあ。


どうするかなあ…。

No.123

やることがなくなってしまったら、
私はこの40万を手に、あと二日、どう生きればいいんだ?


この部屋の中で、二日間何もせず、
首を吊るその瞬間まで、悶々とただ時が過ぎるのを待つのか?


ただ心が暗く沈むだけの苦痛の時間じゃないか。


どうせ死ぬのに、後悔とか挫折とか、
そんな今さら考えても仕方のないことに最後の時間を使いたくはない。


何かやることはないのか。


押し寄せてきた不安と焦りが頭を活性化させた。


ああ!そうだ!

No.124

競馬があったじゃないか!


私にはまだ死ぬ前にやりたいことがあった。


そうだ!私はパチンコだけじゃなく、競馬もこよなく愛していた。


欲望を抑えつけてきた時間が長過ぎて、
自分が競馬好きだったということを忘れてしまっていた。


ああ。よかった。


本当によかった。

No.125

楽しむことがあるというのは、実にありがたいことだ。


暗闇に支配されそうだった私の心の中に、
再び平穏が戻ってきた。


よかったと、心から思った。


この40万円を、人生最後の競馬に使おう。


ちょうど明日、明後日は土日。


早速、コンビニに競馬新聞を買いに行った。


これが私の、人生のラストランだ。

No.126

母さんから電話がかかってきた。


すかさず出た。


『和典!どうして電話に出ないの』


『ごめんごめん。仕事が忙しくてさ』


『で何?』


『何じゃないわよ、ちゃんと電話しなさい』


母さんの愚痴に始まり、次は俺の健康チェック。


その次は食べてる物チェック。


そろそろ終了か?


『そういえばさ、親父どうしてるの?』

No.127

母さんの返事は意外だった。


いつか聞かれると予想していたかのように、
まったく動揺する様子も見せずに答えた。


『お父さん?知らないわよ』


『俺さ、今度親父に会いに行ってもいい?』


『そんなこと、どうして聞くの。
 あなたにとっては父親なんだから、
 私にお伺い立てずに、勝手に会いにいけばいいじゃない』


俺が親父に会いに行くと言ったら、
不愉快な気持ちになるんじゃないかと心配したけど、
聞いたことが不愉快だったようだ。


『わかった。
 じゃあ今度の休みに、親父が元気でいるのかどうか見に行ってくるよ』

No.128

拝啓 読者の皆様へ

いつも寛大なお心で、
このまとまりのない、
小説などとは口が裂けても言えないものをお読みいただき、
心から感謝しています。
ありがとうございます。

私事ではございますが、
この度、投稿に使用している端末機器が故障し💣
修理の為、工場へ一人旅をさせることとなりました。
12月20日頃に、この端末クンは元気に回復して私の元へ帰ってくる予定でございます。

それまで皆様、みかん野郎😸あっいえ、
甘酸っぱいみかん🍊でも食べながら、
時折、工場で一人寂しく過ごしている端末クンのことを思っていただけたら
嬉しい限りでございます🙇

こんなことをお知らせするのも甚だ恥ずかしく躊躇いたしましたが、
御一人でも読んでくださっていたらと思い、
身の程もわきまえず、ご連絡差し上げる次第でございます。

20日頃に何事もなかったかのように再開いたしますので、
それまで、しばしのお別れでございます。敬具

No.129

今日、会社でトチってしまった。


休みに親父に会いに行くことで頭がいっぱいだったから、
いつもと思考回路が違ったのか、
有り得ないミスをしてしまった。


『白井、集中しろ!』


上司に怒鳴られた。


退社時間間際にそんな事件が起こったものだから、
名誉挽回する間もなく、
ミスしたことをひたすら謝って、
不穏な空気が漂う中、帰宅の途につくこととなった。

No.130

明日出社したら、
親父に会いに行くことは一旦忘れて仕事に集中するぞ。


気を引き締め直した。


ただ、こんな若干苦い一日はなぜか、
母さんが作った芋の蒸かしが食べたくなった。


それで、「これ味が全然無いよ」と文句を言って、
「だったら食べなくていいわよ」と言われながら、
そんな当たり前の空気の中で、
何かに安心しながら目を瞑ってホクホク食べたい気分だった。


結局、いつものようにコンビニ弁当を買ってきて、
温めて食べた。

No.131

翌日、なんとか失敗をせずに無事に仕事をやり終えて、
上司の機嫌が回復したのを確認できた。


名誉挽回とまではいかないが、
汚名を返上するくらいの仕事はできたのではないかと…。


これで休日を不安なく過ごせる。


明日は土曜日。


ゆっくり計画して、日曜日に親父に会いに行こう。


親父はどうしているんだろう。


会っていない二年半の年月が、
親父に対して抱いていた裏切られ感や失望感を確実に薄めていた。

No.132

土曜日の夜、母さんから電話があった。


『もうお父さんに会いに行ったの?』


『まだだよ。明日行くよ』


『そう、わかった』


『それだけ?』


『うううん。明日はお父さんとご飯でも食べるの?』


『いや、酒でも飲みながら話したいなって思ってるよ』


『もうお父さんに連絡したの?』


『いや、電話してないよ。
 明日突然行って驚かせてやろうかと思って』


『そう。気をつけて行ってきなさい』


『わかった』

No.133

電話を切る時、一瞬、
母さんは寂しがっているのかと気になったけど、
俺はとにかく明日、親父に会いにいくことで既に緊張していたから、
母さんから電話があったことは、その場で直ぐに忘れた。


和典はお父さんとお酒を飲みたいと思っていたのね…。
男同士、やっぱりそういうことがしたいのかしら。


あなたはいいわよね…。
私は和典に一緒にお酒飲みたいなんて、言われたことないわよ。


いつも「ごはん食べにいらっしゃい」って私から誘うばかりで…。


常雄のことを羨ましく思った。


男の子じゃなく、女の子を産んでおけば良かったわ…。

No.134

明日、和典と元夫が楽しくお酒を飲みながら過ごしている間、
私は仕事から帰宅して一人で夕食…。


一人で夕食なんて、いつものことなのに、
あの二人が一緒に過ごすと思った途端、
急に孤独感が押し寄せてきた。


どうしちゃったのかしら、私…。


いつも私と和典が一緒にご飯を食べて、
あの人の方が一人だったから、
なんだか今は、私があの人の気持ちを味わっている感じね。


あの人、ずっとこんな気持ちだったのかしら…。

No.135

日曜日の夕方。


親父に会いに、昔三人で住んでいたアパートへ向かった。


昨夜は遅くまで、親父の家に何時に行こうか、ひたすら考えた。


結局、午前中は寝てるだろうと判断して、
腹も減ってきそうな夕方過ぎに戸を叩く結論に至った。


俺が突然行ったら、親父はどんな顔をするだろう。


何か手土産でも持っていった方がいいかな。


何がいいか…

No.136

やっぱ酒だよな。


昔、親父は帰宅するなりビールを飲んでいた。


たまに夜中にトイレに起きた子供の俺は、
暗い家の中で流し台の上の明かりだけ点けて、
親父がビールの缶のふたをカチッと開けてゴクゴク飲む瞬間を、
度々キッチンのドア越しに目撃した。


親父にとってあの時間は、一日の中で一番至福の時だったんだろう。


「おかえり」とか「おやすみなさい」とか声をかけて、
こっちを向いて欲しかったが、
そんな至福の空間が出来上がっている中に、
俺が入っていってブチ壊しにするのも拒まれて、
静かに音を立てずに部屋に戻って布団をかぶった。

No.137

幼少の頃の俺は、
親父が家にいるってだけで、
ソワソワして嬉しかった。


親父が立てる物音に耳を澄ませ、
親父がいる気配を感じながら、
次第にまた深い眠りの中に落ちていった。


早朝。


ソファで寝ていた親父は、母さんに叩き起こされていた。


「飲んだビールの缶は片付けてって言ってるじゃないですか!」
「こんな所で寝ないで下さい!汚れるじゃないですか!」
「何度言えば分かるんですか!」


朝から怒鳴りまくってる母さんの側で、
寝癖をつけながら小さく縮こまって、
無言でビールの缶を片付けてる親父…。


幼い頃はそんな親父を情けないと思っていたけど、
今はなんだか思い出すと笑える。


親父は完全に母さんの尻に敷かれていたんだな。

No.138

だけど親父は今、何を飲むんだ?


ビールかウイスキーか日本酒かワインか、
今の親父のことはさっぱり分からない。


酒はあとで一緒に買いに行けばいいか。


じゃあ、つまみでも買って行こう。


たまたま目の前に青果店があった。


果物でも買っていくか?


いやいや、病人じゃないしな。


親父が好きな物ってなんだったっけ?


うーん…

No.139

乾きものとか、新香とか、佃煮とか、
しょっぱいものが好きだったな。


駅のデパートで時間をかけて選んだ。


美味そうな漬物をいくつか買った。


こんな物、生まれてこのかた買ったことないよ…。


『贈り物ですか?』と店員に聞かれた。


思わず『はい』と言ってしまった。


『お名前をお付けいたしましょうか?』


漬物に名前?と思ったが、この際だ。


『お願いします』

No.140

「白井常雄」と書いたメモを渡した。


『白井常雄様への贈り物ですね?』


『はい』


漬物が包装紙に巻かれて、
親父の名前の下に「様」が書かれた帯がつけられた。


ちょっと値が張ったが、そこいらのスーパーには売ってない代物だ。


社会人になってから、初めて親父に買った贈り物。


そもそも親父に贈り物なんかしたことがない。


初めての贈り物が漬物。


随分ジジ臭い物になってしまったな…。

No.141

季節はすっかり秋めいて、夜になると少し肌寒く感じた。


今度の正月は、親父と一緒に過ごそうかな。


そしたら母さんが可哀想だ。


なんなら、俺の狭いワンルームの部屋に二人を呼んで、
久々に三人で年を越すっていうのはどうだろう。


いいアイデアじゃないか。


気持ちが先走ってるが、親父が元気でいるのかさえ分からない。


あれから音沙汰ないし、少し心配だ。


アパートが近づくにつれて、緊張してきた。


もし留守だったら…

No.142

何も趣味を持たない親父のことだ。
休みの日の夜に出かけることはまず無いだろう。


学生の頃、俺は遅くまでバイトしていた。
たまに日曜に家に居ると、
一日中親父と顔を合わせなきゃならないことがわかって、
迷うことなくバイトや友人との予定を入れることにした。


狭い家の中で、親父と母さんの喧嘩を聞くのは疲れたし、
逆に静まり返った部屋の中で三人無言でいるのも苦痛だった。


時を経て俺は今、
親父と話がしたくてアパートに向かっている。


話す内容なんてなんだっていい。
思い出話でも、今のことでも、これからのことでも。
少しくらい話が途切れたって構わない。
親父との関係をこれから少しずつ築いていきたい。


希望と期待…いろんな気持ちが入り混じっていた。

No.143

大学卒業するまで俺も住んでいたこの町。


懐かしい気持ちより、ドキドキしていた。


久々過ぎて、親父の容姿は少しは変わってしまっているんだろうか。


最初に会ったら何て言おう。


「親父、会いに来たよ」


それで親父はどんなリアクションをするのかな。


多少反応が悪くても、それが親父だから気にしないさ。


買った漬物を一緒に食えれば…
一緒に酒が飲めれば…


俺は特別なことを期待していたわけじゃなかった。

No.144

親父の住むアパートに着いた。


集合ポストの「白井」の名。


まだ親父はここに一人で住んでいる。


親父に会える。


階段を静かに上った。


ドアの前に立った。


このドアの向こうに親父がいる。


気持ちを落ち着かせようと深呼吸した。


自分の父親に会うだけなのに、なんで俺はこんなに緊張してるんだ…。

No.145

心臓がバクバクしていた。


右手に持っている漬物が入ったデパートの紙袋を
左手に持ち替えた。


持ち替えた後で、
最後にもう一度だけ息を整えようと思っていたのに、
はやる気持ちが右手の人差し指に、
インターホンのボタンを押させていた。


「ピーンポーン」

No.146

結構大きな呼鈴の音に少し驚いた。


10秒ほど経った。


出ない。いないのか?


もう一度ゆっくりボタンを押した。


「ピーーーンポーン。ピーーーンポーン」


カチャ。


出た!


『はい』


親父だ!!


『俺だけど』


『……』


あれ?親父の声が聞こえない......。


『親父?俺だよ。和典だよ。会いにきたよ』


プツ。


インターホンの音が切れた。

No.147

え?

どういうこと?


俺って分かったのかな?


数秒口を開けてドアを見ていた。


あっ、そっか。


母さんが俺が来ることを親父に連絡したんだ。


だからきっと親父は驚かなかったんだ。


直ぐにドアを開けてくれるってことなんだな。


玄関ドアが開く軌道を確保するために、
一歩後ろに下がって待った。


後ろを見ると、上った階段を照らしてくれた暁の空が燃え尽きて、
今まさに、暗い夜へと変わるところだった。

No.148

暗くなった空を何度も振り返り見ながら、
もう確実に三分は経った。


目の前のドアを眺めながら思った。


このままずっと待っていて、このドアは本当に開くのだろうか?


少し心配になった。


もう一度呼鈴を押した。


「ピーンポーン」

No.149

虚しく音が響いただけで、中から親父が出てくる気配がない。


なぜだ…?


ドアをノックした。


『親父?俺だよ、和典だよ』


何の反応もない。


確かにさっき、親父が出た。


絶対に中にいるはずなんだ。


なんで出てこないわけ…?


意味がわからないまま、呼鈴を鳴らし続けた。

No.150

カチャ。


暫く鳴らし続けて、ようやくインターホンが繋がった。


『......』


『親父?』


『帰ってくれ』


『え?俺だよ。和典だよ。開けてよ』


『帰ってくれ。二度と来ないでくれ』


プツ。


インターホンが切れた。

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