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幸せだったわたしの家庭…

レス46 HIT数 14125 あ+ あ-

真琴( 20代 ♀ AeGYh )
10/10/08 06:34(更新日時)

わたしがこれまで生きてきた内容、家庭での出来事を書き連ねていきます。
物心付いた時からの記憶なので、所々曖昧ですし抜けてはいますが…

母からの虐待、学校でのいじめ、リスカ、自殺未遂、家庭内暴力、障害…様々です。

マイペースですが、良ければお付き合いください。

*********


わたしの家庭は、父と母と兄とわたしの4人家族です。同じ市内に母方の祖父母が住んでいます、距離は割と近い方。
父はわたしが産まれる前から稼ぎは少なく、両親はずーっと貧しい暮らしだったそうです。
父はあまり家庭を振り返らない人で、家事や育児は全て母任せ。母は水商売をしていて、カードの支払いもあったそうで生活にはとても苦労したそうです。祖母の所へ助けを求めても嫌味や皮肉しか言われず、父の仕事場は遠く3日でガソリンが無くなって給油が必要だったり…と聞きました。
だけど、微かに覚えているのはそれでも明るい家庭だったということです。兄と喧嘩したり、悪戯をして母に叱られたり、父に高い高いされて喜んだり。
幸せでした、それはよく覚えています。

No.1251835 10/02/19 00:05(スレ作成日時)

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No.1 10/02/19 01:01
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

兄は手のかからない良い子。わたしは手がかかるヤンチャな子だったそうです。
初孫の兄は祖父母からとても可愛がられ、3~4歳頃にディズニーランドに連れて行ってもらったそうです。


「どうして娘は連れて行ってくれないの?いつも遊びに連れて行くのはお兄ちゃんばっかり」

母がそう言うと、祖母は当たり前のように言ったそうです。


「その子はうるさいし、手がかかるから嫌だ」


それを聞いて、母はわたしを可哀想だと思い「ディズニーランドには連れて行ってあげられないけど…」と色々な場所に父の車で連れて行ってくれたそうです。
その頃の記憶は無いけど、初めてそれを聞いた時はとても嬉しかった。

祖母はわたしが産まれた時から、わたしの面倒は少しも見てくれなかったと聞きました。
記憶にありませんが、遊びに行って泣き止まない時には祖母にぶたれたこともあるそうです。

No.2 10/02/19 01:15
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

兄は小さい頃から良い子で、勉強もよく出来る子でした。だからこそ両親も期待しました。
その反面、わたしは勉強はてんでダメ。特に算数は壊滅的。


「バカ、バーカ」


と兄には物心付いた頃からバカにされてきました。それが悔しくて悔しくて勉強しようと思っても、身体を動かしている方が好きだったのでやっぱり壊滅的…。
小学校に上がった頃にはすっかり頭のデキに差が付き、親の期待は全面的に兄へ。
「バカだ、バカだ」と兄には毎日バカにされ、段々両親は兄ばかりを可愛がるようになりました。


ゲームも兄が最優先。
「お兄ちゃんがやってるんだから我慢しなさい」と言われたり、喧嘩をしても「お兄ちゃんは良い子なんだからお兄ちゃんは悪いことしないでしょ、謝りなさい」と悪者にされるのはいつもわたし。

わたしを叱るその母の後ろでいつも兄があかんべーしてほくそ笑んでいたのをわたしは忘れない…。

No.3 10/02/19 01:26
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

小学校の3年生に引っ越しをし、環境が変わりました。
仲良かった友達と離れるのは寂しかったけど、新しい学校ではもっといっぱい友達が出来ました。


「真琴ちゃん、今日も一緒に遊ぼ!」


と言ってくれる友達がいっぱいで、家に居るより友達と遊んでる方が楽しかった。
家に帰れば兄ばかり可愛がり優先する母…バカにする兄…あまりに居心地が悪かった。
たくさんの友達に囲まれて駆け回る毎日が楽しかった、本当に楽しかった。
なのに、それは兄に全部壊されてしまった……




ある日、朝学校に行くと兄の担任の先生がわたしの所に来た。
顔が怖い先生でわたしはただビクビクしてたのを覚えてる。
すると先生はにこっと笑って、


「お兄ちゃん、そんなに具合悪いのかい?」


そう尋ねてきた。
ハッキリ言ってわたしは「ハ?」と目が点になるくらい理解出来なかった。
兄は毎日わたしより早く家を出て学校に行っていた筈だったのに……

No.4 10/02/19 01:39
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

「お兄さん、もう3日も学校に来てないから。お母さんからも連絡が無いし…」


先生の言葉に、わたしはどう反応したかは覚えてない。
ただ混乱して、「お兄ちゃんは毎日わたしより先に学校に行ってます」みたいなことを答えた。
先生は驚いた顔をして「ありがとう」とだけ言って慌てて戻っていった。



その日は友達の誘いも断って真っ直ぐ家に帰った。
家に着くと母がうなだれていました。今考えると泣いていたんじゃないかとも思います。
母は「お兄ちゃんは学校に行ってなかったんだって……今日先生から電話があって、先生方とPTAの皆さんが一生懸命探し回ってくれたのよ」と教えてくれました。結局兄が隠れていたのは団地の、屋上に続く階段の踊場だったそうです…

「トイレも団地の階段脇で済ませて、学校が終わる時間に合わせて何事も無く帰ってきてたんだよ…お母さん情けなくて涙しか出てこない…」

母はそう言って泣き崩れていました。

No.5 10/02/19 01:48
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

「きっと何かあったんだよ、話は訊いた?」

そう訊くと母は更に悲しみました。
学校を無断で休んでいた理由は「友達に借りたゲームを返したくないから」……。


「そんな理由で先生方や色々な人に迷惑掛けて、お母さん情けない…恥ずかしくて仕方無い…」


と母は暫く泣いていました。
そんな中でも兄が別室でゲームをしていたのを覚えています…。
父が帰ってきて、父と母と兄の3人で友達の家まで行きゲームは返したそうです。父も帰ってきたらガックリしていました。

兄は小さい頃から人に頭を下げることを絶対にしない子だったと聞いたのはその頃です。
友達に謝ることもしなかったと母が言っていました。
幸い、友達が優しい人だったそうでこれからも仲良くしていけるようでした。




だけどわたしはそうじゃなかった…

No.6 10/02/19 02:00
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

翌日学校に行ったわたしに話し掛けてくれる子はひとりもいなかった。
PTAのお母さん方に兄の捜索の話を聞いて、すっかり噂は広まっていた。


「お前の兄ちゃんウ○コたれ~!」

「汚いから寄るなよ~!」


指を指されて大爆笑された。
昨日まで仲良かった友達に話しかけようとしても、「やだ~」、「汚~い」と笑って逃げていった。
わたしの友達はたった1日でひとりもいなくなった……。

それなのに兄は友達に囲まれて楽しむ日々。
毎日毎日、ゲームをやりたい友達をいっぱい連れてきた。
楽しそうな笑い声を聞く度に悲しくて出てきたのは涙。悲しくて悲しくて、部屋に引きこもってひとりで泣いてた。


それからわたしは学校を休みがちになった。
最初こそ具合でも悪いのかと母も心配していたのに、長くなってくると布団叩きで身体のアチコチを叩く毎日……。
耐えきれなくて翌日に学校に行くと、叩かれた痣や青く腫れた腕や足を指されてまた笑われた……。

No.7 10/02/19 02:11
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

そんなことを繰り返していて、兄には毎日罵倒されるようになった。


「ダメな奴。所詮お前なんかその程度だ」

「ザコ」

「バカ」

「役立たず」


兄の所為で、兄の所為で…!と本当に悔しくて悔しくて仕方なかった。


「わたしの所為じゃない!兄ちゃんが悪いんだ!」

「はあ?人の所為にすんなよバーカ!」


そう即答され、バカにされ、何度も何度も頭を叩かれて…。
丁度その辺りから…妹のわたしが逆らえばいつもいつも、泣き叫ぶまで暴力を振るわれた…わたしを殴ってる時の兄はいつも笑ってた、わたしを蔑んで笑っていた。

「どうせお前が悪いんだろう、お兄ちゃんに謝りなさい」

母はいつもそればかり。
学校に行かない娘より、母はあんな情けない理由で学校を無断で休んでた兄の方を可愛がった…。
学校を休んだら食事は1日1食…酷い時は何も食べさせてもらえないこともあった…

No.8 10/02/19 02:22
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

お腹が空いて仕方なくて、空腹から逃れる為に寝ていたら布団を剥がされてまた布団叩きで何度も何度も母に叩かれて。兄はそんなわたしを見て大爆笑…
だけどわたしがひとりで部屋で泣いていたら、いつも母がお風呂に入った瞬間を見計らって父がご飯を持ってきてくれた。

「こんなに痣だらけじゃ学校なんて行けないよな」

「ほら、母さん出て来る前に食べろ」

「ああ、泣くな泣くな。大丈夫だから」

父だけは変わらずに優しくしてくれて…
いつも母と兄にぶたれる頭を、父だけは優しく撫でてくれた…


「辛いなら母さんに言ってみたらどうだ?」
その父の一言に、わたしは母に大事なことを話せてないのに気付いた。
いじめられてるのが情けなくて、行きたくないと意固地になっていたけれど…理由を知ったら母も判ってくれるかも…そんな淡い期待を持った。


後悔することになるなんて、知りもしないで……

No.9 10/02/19 03:26
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

翌日、わたしは兄が学校に行ってから学校で兄のことでいじめを受けているのを思い切って打ち明けてみることにした。
兄が団地の階段脇で用を足したことでいじめられている、と…
これで母からの暴力は無くなる…判ってもらえる…わたしは勝手にそう思ってた…



「うるさい!そんなの理由になるか!」



間髪入れずに即答された。
また布団叩きで頭や腕、背中を何度も叩かれて。
髪を鷲掴みにされてテーブルに叩き付けられ、意識が薄れた。



「お前なんか産まなければ良かった!クソの役にも立たないで面倒ばかり!お前なんか要らない!!」



その言葉が胸に突き刺さって、だけど悲しすぎてショックすぎて涙は出なかったと思う。
頭が切れて、テーブルに血が垂れたのを最後に意識が飛んだ……

その日から、母に毎日繰り返されるようになった。


お前なんか要らない。
お前なんか産まなければ良かった。

…その言葉を。

No.10 10/02/19 04:35
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

目が覚めた時、自分の部屋だった。床に転がされてた。布団にすら運んでもらえなかった。
当然傷の手当てなんかしてなくて、額の左側が切れてた。触るだけで痛くて仕方なくて。
だけど胸が一番痛かった。
要らないって、産まなければ良かったって言われたのが一番苦しかった。
苦しくて苦しくて、カッターを机から取り出して自分の手首や腕を切った。これがリスカの始まり……。

頭の中が真っ白で、死にたい死にたいとそれしか考えられなかった。
ご飯も水も与えられず、与えられるのは痛みと傷と罵声ばかりで。
日に日に母の暴力はエスカレートしていくばかり。
学校に行かない、ただそれだけで。
その理由すら、マトモに聞き入れてもくれないのに。

No.11 10/04/30 17:06
ちょめちょめ ( 30代 ♂ RSjL )

あの~😱
続きまだ❓😭

No.12 10/05/06 06:02
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

>> 11 レス有難うございます…。
ちょっと思い出したら切なくなって、サボってました…😭

また暇を見てゆっくりでも書いていこうと思います。

No.13 10/05/06 06:11
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

気が遠くなるほどの長い期間だった。
だけど有り難いことに、5年生になった頃にはだいぶ兄の噂もなくなり、またちょっとずつ友達が出来た。
でも、家庭は相変わらず。休まなくても母にはちょっとイライラすることがあると暴言、暴力を繰り返され兄には罵倒され続けた。もう心なんてズタボロだった。
死にたいと、まだ思っていたけれど丁度その頃から毎年お盆と正月に楽しみが出来た。

それは、親戚の叔父さんと叔母さんに逢えること。
ふたりは兄も可愛がっていたけれど、わたしのことはもっと可愛がってくれた。いつもわたしの好きなお菓子を買って持ってきてくれて。遊びに来たときは帰る時間になるまでいっぱい話をしてくれて、遊んでもくれた。
それがちょっとした心の支えになっていた。


だけど、その陰である障害が進行してるのをその時はまだ知らなかった…。

No.14 10/05/06 06:18
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

6年生の…確か夏頃。
給食時間だった。

食事中に突然具合が悪くなった、気持ち悪くて吐きそうで仕方なくて。
「大丈夫?」と友達や先生が心配してくれたけど、ただただ笑って小さく頷くしか出来なかった。早退なんか間違ってもしたくない、あんな家に帰りたくなかった。
不思議なことに家ではそんなことは無かった。

ただ体調が悪かっただけ、そう思った。






家庭は相変わらずだったけど、小学校を卒業する頃にはまたそれなりに多くの友達が出来た。
兄の一件で離れた友達は二度と戻っては来なかったけれど、今となってみればそれで良かったと思う。子供とは言え、本当に友達なら、時間を置いても戻ってきてくれると思うからだ。

新しい友達も出来た、中学生になればもっと友達が出来るに違いない。
そう思った、そしてそれはその通りだった。

No.15 10/05/06 06:25
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

中学生になって、友達がとても増えた。男子女子問わず賑やかで、勉強は相変わらずで数学が特に壊滅的だったけど、家庭での嫌なことを忘れられるくらい楽しい日々を送っていた。

そんなある日、またあの症状が出た。


給食中にまた吐きそうになって、今度はトイレに駆け込んだ。結局は出なかったのだけど。
先生や友達が心配する中、やっぱり帰りたくなくて大丈夫としか言いようがなくて。きっと風邪気味なんだ、と憂鬱になった。




その数日後。
母が珍しく機嫌が良く、近所の人からミ○タードー○ツを貰ってきた。
中学校は真面目に行っているからか、母がドーナツをふたつくれて。おやつに食べた。


……それが悪夢の始まりだった。

No.16 10/05/06 06:37
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

その晩。
何だか食欲がなくて、夕飯は一口か二口程度しか食べれなかった。それを見て母が突然テーブルを叩いて怒った。


「また明日休む気か?」

………そんな気無いのに、何も言ってないのに。
悔しくて腹が立って、そのまま席を立って部屋に籠もった。母が何か言っていたのだけど覚えていない。

お風呂に入る気力も無くて、ムシャクシャするからそのまま不貞寝を決め込んだ。



そこからだった。

1時間くらいで、目が覚めた。
理由は口の中が唾液まみれで気持ち悪くて。
イヤになるくらい唾液が溢れてくる、口全体が唾液を出しているようだった。
胸がムカムカして、ゴミ箱を引っ張り寄せて盛大に胃の中のものを吐いた。
それにはやっぱり母がやって来て、わたしを見下ろす。心配するんじゃなく、明らかに怒りを露わにしていた。

母はわたしの長かった髪を鷲掴みにして、机の引き出し部分に頭を叩き付けた。


「何で吐かなきゃならない!面倒ばっかり増やしやがって、死んでしまえ!!」


そんなのわたしが聞きたかった、吐いた理由や原因が判らなかった。

No.17 10/05/06 06:48
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

その間にも胃液は上がってくるし、気持ち悪くて仕方なくて。
せり上がってくる嘔吐感に勝てなくて、母の目の前で吐いてしまった。すると母はあろうことか、わたしの頭を胃液や吐いたモノを出したゴミ箱の中に突っ込んだ(汚くてゴメンナサイ…💦)

臭くてなま暖かくて気持ち悪くて、余計に吐き気がしてただただ泣き叫ぶしか出来なかった。



「死ね!!」


母はそう吐き捨てて部屋を出て行った。
わたしはもう心が真っ白だった、実の母に死ねとまで言われて、気持ち悪いのは収まらないし何より臭いし、苦しいのと悲しいのとで涙しか出て来なくて。
それから明け方まで、15分置きくらいに延々吐き続けた。胃液しか出ないのに、終わり頃には胃液だって無くなってしまったように出すのが苦しくて苦しくて、だけど嘔吐が収まらない。上手く呼吸も出来なくてこのまま死んじゃうんじゃないかと本気で思った。


そこからだった、吐くのが怖くて人前で食事が出来なくなったのは。

No.18 10/06/19 18:42
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

それから、学校の給食時間が苦痛になった。
匂いを嗅いだだけで、気持ち悪くなる。勿論、用意される給食は一口も食べれなかった。
最初こそ、周りのみんなも先生も心配していたけれど、給食が嫌で休みがちになっていくわたしのことを、みんな徐々に無視していくようになった。
母に『食べ物の匂いを嗅いだだけで気持ち悪くなる』と伝えても、殴られるだけだった。学校に行きたくないからそうなるんだ!!と、何も考えてくれなかった。

今考えると、これが鬱とパニック障害だったんだと思う。
ちなみに人前では、24歳になった今でも食事が出来ない。



1週間に数回だけ、母のご機嫌取りの為に学校に行く。
誰もわたしに話し掛けてくれなかった、だけどもう良かった。
陰でみんなが陰口叩いてるのは知ってた。当時は太ってたから、わたしが給食を食べないのは『ダイエットしてるんだ』とバカにしていたんだ。
そんなんじゃないのに、食べたくても食べれないだけなのに。

あの子、ダイエットしてる。
痩せたって見れたモンじゃないだろうに。

いつもそう言われてたの、知ってた。

No.19 10/06/19 18:51
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

男子にも女子にもバカにされ、何もかも嫌だった。だけどもう色々なものが麻痺していたんだ。
体重は見る見る内に落ち、60キロあった体重は一気に37kgまで落ちた。
流石に母はわたしを内科に連れて行ったけれど、身体に特に異常は無い。点滴を打たれただけだった。だからまた怒られた。そんなに学校に行きたくないのか!!…って。
当時は鬱も精神的な病も、まだ一般的ではなかったから、誰も理解なんてしてくれなかった。


二日後くらいに、漸く果肉入りのジュースを少しずつ飲めるようになって、食事はそれから部屋でひとりで食べるようになった。
前までは大丈夫だったのに、もう家族の前でも食べられなくなっていた。

こんなことが永遠に続くなら、もう死にたいと思って深く手首や腕をカッターで斬ったりもした。
だけど、わたしはチキンだから死ぬくらい深くは出来なかった。

No.20 10/06/19 19:02
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

ゆっくり、少しずつ食事をしてやっと体重が40キロになった。
ムチムチに太っていた身体はすっかり痩せ細り、伸びをすると肋がくっきり判るようになっていた。勿論、制服はユルユルに…。

丁度その時期は新しい季節。
春を迎えたことで、わたしは二年生になった。
其処から、わたしの立場が徐々に変わっていく。




兄は有名な高校に合格し入学したが、3日で行かなくなった。
わたしの兄は、両親や祖父母に大事に大事に育てられてきたから、精神的に打たれ弱かった。中学生の時も高校生にカツアゲされたらしく、家に逃げ帰って来たらしい。其処までは普通だったり、仕方無いだったり、無事で良かったと思えるかもしれない。
だけど兄はそれ以来、護衛無しでは学校に行けなかった。歩いてたった5分の道を。毎日代わる代わる友達が迎えに来てくれたらしい。しかし、ゲームに熱中し過ぎて宿題を忘れたりした時はトイレに閉じこもって頑なに学校を休んだ。
母はその度に団地の階段を降り友達に謝りに行っていた。それでも、兄を叱ることはしなかったが。

No.21 10/06/19 19:38
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

兄は引きこもり、わたしは母と兄が居る家が嫌だから学校に行くようになった。
新しいクラスも最初は良かったが、やっぱり給食を食べないことを不審がられた。
でも、逆にひとりで居る方が気楽だった。


父は引きこもりの兄を何とかしようと、仕事に連れ出すことにした。
結局兄は、高校を辞めた理由を口にはしなかったが母は『額の黒子をバカにされたんだよ』と言っていた。本人から聞いた訳ではないらしいが、兄は額の真ん中に黒子があることを嫌悪している。
真実はきっとずっと判らないだろうが、わたしもそうなんじゃないかと思う。

兄も最初こそ仕事に行っていたが、現場を父と離されると行かなくなった。
これまでは周りが何を言っても父が上手くフォローしていたのだろうが、父と離されると兄は他人の中にひとり。恐らくそれが嫌だったんだろう。


また、兄は引きこもりになった。

No.22 10/08/07 05:35
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

やがてわたしは高校生に。
昼食が困るから、高校は全日制ではなく工業の定時制を選んだ。
勿論、高校進学も母のご機嫌取りの為に行くようにしたのだけど。

工業の、しかも定時制だから生徒は素晴らしく少ない。わたしのクラスは全部で10人。女子はわたしを含めて3人しか居なかった。

わたしのトンチンカンな学力でも上位に食い込めるほど勉強は楽で、気楽だった。
クラスの男子の中に、中学校での同級生が居たけれど特に話はしない。

出来るならみんなと仲良くしたい、友達がほしい。
そうは思ったけど、怖かったのもある。
取り敢えず話しかけてきてくれた女子二人とそれなりに付き合っていくようにはした。
でも、直ぐにとても仲良くなってそれなりなんて範囲は越えた。

小学校、中学校で失った友達の喜びを改めて感じることが出来た。
一年生の時にある宿泊研修はとても楽しく、充実していた。人数が少ないから、余計に。

相変わらず男子達との関わりは、同じクラスながら皆無だったのだけど。

No.23 10/08/07 05:43
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

炊事遠足というわたしにとっては試練の行事もあったが、わたしは其処でとても心がほっこりと暖かくなったのを今でも覚えている。
わたしだけ何も食べないのを見ても、誰も不審がったりしなかった。みんな和気藹々としていた。
担任の先生は、変なヤツを見るような目で見ないで、逆に冗談を言って笑わせてくれた。


わたしは、段々と高校が楽しみになっていったんだ。
相変わらず男子とは会話もしないけど、険悪という訳じゃない。みんな好き勝手遊んで楽しんでいる。授業中にカップメンを食べたり、小型のゲーム機を持ち込んだりしてるヤツも居た。それでも叱らず笑い飛ばす先生達(中には厳しい先生も居たけど)

毎日が楽しくて仕方が無かった。



だけど、学校が上手くいっていると家庭は上手くいかなかった。

父が埼玉に居る親戚を頼りに、兄を連れて働きに行っていた。
向こうに行けばもっと良い仕事がある、と言って。
どうやら親戚のおじさんがそう言っていたらしい。

No.24 10/08/07 05:51
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

でも………

結果は違った。



『仕事なんかないよ』


父は親戚のおじさん本人にそう言われたらしい。
数年は埼玉で働いて兄を何とか社会に出させようと決めていたのに、それは脆くも崩れ去った。
話が違う、とおじさんに言っても、おじさんは鼻で笑うだけだったのだとか。

埼玉に渡る旅費だって無理をして作ったもの、勿論働きに来たのだから帰る旅費なんて持って行っていないし、此方で用意するのも難しかった。
仕方無く、父も兄も最低賃金でおじさんの会社でこき使われ始めたそうだ。


だけど、約1ヶ月後……
父が救急車で病院に運ばれたと連絡が来た…兄本人から。






結果は、十二指腸潰瘍。
兄のことで随分悩んだ結果なのかもしれない。
ちなみに我が家には金が無い。
手術代も入院費も全て親戚のおじさんに立て替えてもらった。毎月、返していく約束をして。

そして、父が退院すると、出た給料で父と兄は帰ってきた。

No.25 10/10/08 03:11
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

父が働けないから、保険金と働きに出た母の収入での生活。
父はそんな生活の中で、わたしとよく話してくれた。

「学校はどうだ?楽しいか?」

「建築の勉強してるか?」

など、色々。
ちなみにわたしは建築科だったのだけど、別に将来それ系の道に進みたい訳じゃなかった。ただ母のご機嫌取りの為に選んだ道だったからだ。卒業したら、わたしは声優を目指して専門学校に入る予定でいた。


学校は本当に楽しかった。
女子が三人集まれば…と言うように喧嘩をしたりもしたけれど、なんとか三人で仲良く出来ていた。
中学の同級生も、男友達ととても仲良く楽しそうにしていた。
高校にしては珍しい家庭訪問で、わたしは担任の先生にべた褒めされていたらしい。あの当時の母の口から、そう聞いた。

「先生、すごく褒めてたよ!真面目でよく出来た子です、って!」

担任の先生は若い男の先生。
陽気で少しお調子者。自分のことはふざけて「妻夫木聡に似てるだろー?」とか言ってた。だけどクラスのみんなは「ビビる大木さん似」とのこと(笑)

No.26 10/10/08 03:21
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

でも、楽しい高校生活の中でも異変は起きた。
唐突に起きる吐き気、体調不良。
高校はずっと休まず真面目に通っていたし、先生方から好感を持たれていたのもあって1日、2日体調不良で休んでも母は文句を言わなくなった。高熱を出した時は自分の寝る間も惜しんで看病してくれたこともあり、その時に初めて本当の母の優しさを感じた。

だから高校は勉強も頑張った(数学はやはり壊滅的だったけど…)
お陰で成績は学年トップ。

「定時制でトップでもどうしようもないや」

と洩らした私に、でも母は、

「定時制だろうが何だろうが、トップなら良いじゃない!」

と、それはそれは喜んでくれた。
ご褒美にケーキまで買って、褒めてくれた。初めてだった、勉学のことで母に褒められたのは。
それからと言うもの、わたしは学校では「真面目な優等生」として見られ、何せ狭い定時制の範囲、知らない先生からも軽く冗談を言われ絡まれる事も多くなった。


でも、約半年が過ぎた頃。
中学卒業の頃に仲良かった子が、

「学校辞めて定時制に行きたい」

と、わたしに言ってきた。

No.27 10/10/08 03:27
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

「学校でいじめられて、もう行きたくない。真琴ちゃんの話聞いてたら、定時制って楽しそうなんだもん」

と言って。
ちなみにその子は中学の二年で同じクラスになった子。言いたいことはハッキリと言う子で、どちらかと言えばリーダーシップを取るような子だった。中学の頃に仲良くしていたが、些細なことで険悪になり一度は彼女と彼女を取り巻く女子達からいじめを受けたことがある。
上靴を隠されて、スリッパで過ごした1日。忘れない。
上靴隠されちゃったみたい、と彼女に笑って話し掛けた時、犯人だった彼女は内心でどう思っていたんだろう。

何故彼女が犯人か判ったキッカケは、長期休み。確か冬休みだった。
冬休み中の部活、それを理由に校舎に入り別の子の靴をまた隠そうとしていた所を先生に見付かったらしい。担任の先生から連絡が来た。

No.28 10/10/08 03:33
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

「また真琴ちゃんと仲良くしたかったの、でも嫌われちゃったんじゃないかと思うと悔しくて」

そんな手紙を貰った。
彼女と、彼女の取り巻きから。
わたしが靴を隠されて、もう随分経っていたし、気にならなくなっていたから仲直りをして。それから彼女とは親友になった。
嫌なことは綺麗に水に流して、笑い合える大事な友達だった。


そんな彼女が、いじめられてると聞いた時はとても驚いた。
夏頃に農業から転校してきた男の子が居たから彼女も出来るのではと担任の先生に相談したら、今から編入や転校は無理だと言われて。だから仕方無く彼女は翌年、工業の定時制へ編入すると決めた。
でも、彼女は裏であまり良くない事をしていたらしい。万引きの噂も、聞いていた。ダメなことだよ!としっかり伝えたが、改善されたかは今現在では確かめようが無い。

No.29 10/10/08 03:42
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

秋を過ぎた頃には父もすっかり働いていた。ずっと病院から出る薬は飲んでいたけど、いつも「大丈夫」と笑っていた。
母はすっかり笑顔が戻り、わたしに対してすごく優しくなった。
兄は……相変わらず引きこもり。アニメ、ゲーム三昧。


高校生活も充実し、二年生もあと僅かと思った頃。
クラスの仲良くしていた女の子二人、香織ちゃんと千絵ちゃん(※勿論仮名)が喧嘩をした。お互いがお互いを無視して、でも香織ちゃんが一方的に千絵ちゃんを無視しているようだった。わたしは完璧に板挟み状態。
それだけならまだしも、香織ちゃんには当時年上で先輩の彼氏が居て、あろうことか彼氏とその友人達が千絵ちゃんに嫌がらせをするようになった。それこそ中学でわたしがされたように上靴を隠されたり、聞こえるように悪口を言われたり。
千絵ちゃんのお母さんは身体が悪かったから、きっと泣きつく事も出来なかったんじゃないかと思う。わたしは今もまだ思う、わたしがもっともっと親身になっていれば良かった、って。

No.30 10/10/08 03:48
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

「三年生の秋頃にある修学旅行がすごく楽しみ」

「色々付き合ってね!」

「いっぱい楽しもうね!」

そう言ってくれた千絵ちゃん。
わたしの前では「辛い、嫌だ」と隠さずに零してくれて。わたしも、何故女の子の問題に彼氏達が割り込んでくるのか疑問だったし腹が立ったから、香織ちゃんに電話した。

「明日、千絵ちゃんに謝って。それから、彼氏達は関係無いんだから嫌がらせをやめさせて」

そう約束した。
なのに嫌がらせは止まない、香織ちゃんからの謝罪は無かった。
ついには先生にも相談したけど、あまり効果は無かった。先生も、とても悩ませてしまったと思う。
でも、まだわたしに出来ることはいっぱいあった筈だ。香織ちゃんではなくて、いつも千絵ちゃんの傍に居たのだから、もっと登下校の時とか気をつけることは出来たと思う。気をつけていれば良かった。



千絵ちゃんは、嫌がらせに耐えきれなくて、1月の下旬に学校を辞めてしまった……
楽しみにしてた修学旅行にも、行けず…

No.31 10/10/08 04:00
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

千絵ちゃんは、わたしが体調不良で休んでもわたしを嫌いにはならなかった。文句も言わなかった。
寧ろ逆に「大丈夫?ツラくない?」と気遣ってくれる優しい子。

香織ちゃんは、わたしが休んだ翌日は必ず文句を言った。「なんで昨日来なかったの」と。香織ちゃんは、一人で居るのが嫌なタイプだったのかもしれない。
彼氏が出来てからは特に変わった、態度がデカくなった。それは日頃から交流も何も無いクラスの男子達の目にも入っていたらしい。帰る時に必ずバイクで二人乗りをして行く香織ちゃんと彼氏の背中に「2ケツで暴走して捕まっちまえ」と零していたのを覚えている。



千絵ちゃんが辞めてから、香織ちゃんの彼氏達のいじめの矛先は当然のようにわたしに向いた。
犯人はもう自分達以外に考えられないからか、わたしは上靴を隠されたりはしなかったけど嫌がらせは始まった。聞こえるように悪口を言われたり、大の男が数人集まってボソボソと内緒話をし合うように此方をチラチラ見ながら話したりしていた。

No.32 10/10/08 04:10
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

小中学で慣れていたから最初は何とも思わなかったし、大の男が情けない、とも思って気にしないでいた。
でも時を重ねるごとに大きくストレスとなってのし掛かり、段々学校が嫌になった。無事に編入出来た子や色々言い合えるようになった母に愚痴を洩らしても一時的、学校に行けばまたストレス。
母はいつも、

「負けないで、見てる人はちゃんと見てるよ」

と、励ましてくれた。
でも、もういい加減限界が来ていた。
毎日毎日、毎時間ごとに飽きもせずに教室まで来ては香織ちゃんと一緒になって悪口陰口を叩く男共。先生方も注意はしてくれていたようだが、先生方には軽い冗談で返す連中。
言いたいことがあるなら直接言いに来れば良いのに、とも思った。大半は聞こえてはいたのだけど。
千絵ちゃんが退学してしまってからは、わたしはずっとひとりだった。移動も、休み時間もずっと。休み時間はたまに編入した彼女(仮名、桜ちゃん)の所に顔を出したが、彼女は彼女でクラスの付き合いがあるし邪魔をしたくなかった。

だから、ずっと学校ではひとりぼっち。
話しかけてくれるのは、先生方だけ(嬉しかったけど)

No.33 10/10/08 04:20
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

家は母はすっかり優しくなったし、暖かい。パチンコで帰って来ない父に「離婚するかもしれない」とは言ったが、実行には移すことは無かった。
だから、わたしも学校を辞めたいと思うようになった。

ひとりぼっちは切ない、苦しい。
声を掛けてはくれても、先生は助けてはくれない。勿論立場があるから難しいのだとは理解していたけど、どうしようもなく苦しかった、誰も助けてくれないのは。
でも、そんなことする香織ちゃんと仲直りしようなんて気も、当然ながら起きなくて。


三年生になる前に辞めよう。

でも頑張ってきたのに、勿体無い。

そんな気持ちがあった。
高校を頑張ったお陰で、母からの暴力も無くなり母が優しくなったのに。
何だか辞めたら負けな気がして、結局ズルズルと惰性で通っていた毎日。



そんな毎日も、三年生になる直前で変わった。

No.34 10/10/08 04:36
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

「あーウザい!」

ある休み時間に、トランプをしていたクラスの男子のひとりが言った。
あまりに大きな声だったから最初こそ何のことだとそちらを見た。それは香織ちゃんやその彼氏と友人達も同じだったらしく、その男子を見ていた。
すると、その近くにいた男子が、

「毎日毎日よく飽きないモンだよ」

と、トランプをする手は止めないままそう言った。
最初はよく判らなかったが、香織ちゃんや彼氏達がバツ悪そうに教室を出て行くのを見て判った。


『あいつらに言ったんだ…』


と。
それがとても嬉しかった。
その場はそれで終わったけど、その日の体育の時間。
わたしの通っていた定時制は授業も結構いい加減だったから、動きたくない人は座って好きなことをしていた。わたしもぼけーっと座って携帯をいじっていた。
でも男子達は体育の時間が大好き、バドミントンやバスケで生き生きと身体を動かしていた。


そんな時。
ウザいと言った男子が駆け寄ってきて、

「一緒にバドミントンやらない?」

と誘ってくれたのだ。
そこから、また高校生活はガラリと変わった。

No.35 10/10/08 04:52
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

そこから男子達と漸く関わりが出来た。
同年代の男子達と話すのは中学以来だったからぎこちなかったけど、香織ちゃんや彼氏達が悪口を言いに来たらそれ以上の騒音を立てて聞こえないようにしたり、トランプやらないかと誘ってくれて、気にならないようにしてくれた。
それからは、やがて香織ちゃんの彼氏達ももう通じないと判ったのか嫌がらせに来なくなった。
わたしは彼等の助けがあって、漸く平穏を取り戻せたのだ。
見てる人は見てる、お母さんの言う通りだと思った。

それからと言うもの、立場はすっかり変わりクラスで香織ちゃんの居場所がほとんど無くなっていた。完全に無くなることは無かったけど、きっとツラかったと思う。
香織ちゃんが小さく見えて声を掛けたりはしたけど、ずっと一緒に居ることはもう無かった。
合わない、と根本的に思ってしまったからだ。


異性ではあったけど、声を掛けて冗談を言って笑わせてくれる男子達と居る方がずっと気楽で、楽しかった。
修学旅行は香織ちゃんは欠席、女子はわたしひとりだったけど彼等のお陰で物凄く楽しかったのを今でも覚えている。

No.36 10/10/08 05:02
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

彼等は、わたしが人前で食事が出来ないのを不審がったりバカにしたりせず、「あーそっか」と軽く流してくれた。初めてだった、だから余計に安心出来たのかもしれない。
ちなみにわたしの通っていた定時制は四年生まであったから、もう一年あった。
四年生になってからは、産休で休んでいた一個上の女の子がクラスに編入してきて、更に賑やかになった。彼女は明るく、年齢の違いなんか感じさせない気さくな女性で、驚くほどの美人!スタイルも良くて気さく、気遣いも出来るしっかりママさんだった。車も持っていたから、わたしはよく送迎をしてもらった。されるばかりでは悪い、と母が彼女に色々と贈り物をしたり、すっかりわたしの母とも親しくなった彼女。わたしもそんな彼女が大好きで、本当のお姉さんみたいに慕っていた。彼女も、わたしが人前で食事出来ないと知っても理解してくれた。

ハッキリ言って、わたしが高校を卒業出来たのは、男子達やお姉さんのお陰だと思う。
卒業の時は、初めて卒業式で泣いた。

No.37 10/10/08 05:09
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

在学中にバイトを探したり数日働いたりはしたけれど、わたしは匂いに敏感なのか直ぐに気持ち悪くなってしまってなかなか働けなかった。だから当然、本来の進路であった専門学校には行けなくて、結局近くの結婚式場で働くことに。
でも、やっぱり食べ物の匂いを家以外の場所で嗅ぐと眩暈がして、ダメだった。直ぐに辞めることになってしまった。

幸い、しっかり高校を卒業したから両親も祖父もわたしのことを認めてくれて咎められたりはしなかった。


でも、だからこそ兄からの嫉妬はより一層強くなって。
両親が共働きだったから体調を崩して仕事を辞めてからは、昼間は兄とふたりきり。
毎日昼頃に起床し居間でご飯を食べる兄の恰好の的。
家は団地だから部屋同士が密接していて、わたしの部屋は丁度食堂テーブルの間近だった。少しの物音でも聞こえるくらい近い。

だから、兄には快適なイジメの時間だった。

No.38 10/10/08 05:16
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

「クソが!!」

「くたばれ!!」

「死ね!!」

憎々しげに何度も何度もそう繰り返し床をダンダンと思い切り踏みつけたり、食堂テーブルを叩いたり、わたしの部屋の襖を蹴りつけたりして大きい騒音を立てる兄。
ちなみに兄はその時もずっと引きこもり。当然ながらそんなことを言われる謂われは無い。
だけど兄の中には未だに『自分は兄だから偉い』と言う安直な考えがあるようだ。兄なら兄らしく少しは妹に優しくしてほしいと、未だに思う。


そんな憎悪に満ちた言葉ばかり聞くのが嫌で、仕事をしたかったがわたしは匂いに弱い。何も出来ない。
だが、もうそんな家に居るのも限界だった。

そうして、母に相談して派遣の仕事として単身茨城へ仕事へ向かった。

No.39 10/10/08 05:25
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

茨城での仕事は大変だった。
何度も具合が悪くなったけど、帰るのは嫌だから必死に頑張った。友達も出来て、仕事も挫折はあったけど頑張って、とても充実していた。
そしてそこで、生まれて初めて彼氏なんていうのも出来た(笑)

仕事で疲れて寝ていると、いきなり携帯に知らない番号から着信があって出てみるとわたしの大好きな親戚の叔父さんだったり。
就職祝いとして、ノートパソコンとスキャナー付きのプリンタを茨城の寮に送ってくれた。叔父さんも叔母さんも市役所で働いていたから、ボーナスでとても裕福な生活をしていたと母さんから聞いた事がある。


でも、わたしは昼食を摂れない。
それに加え毎日の過酷な労働で体重は見る見る落ちていった。それに重なった体調不良……母さんに連絡したら、「家のことはなんとかするから、身体壊す前に帰って来なさい」と言ってくれた。
でも、そのことで事務係とモメた。
来月一杯で契約期間が終わるから仕事を辞めさせてほしい、と頼んだのが気に入らなかったらしい。

「寝言は寝てから言え!」

と、思い切り怒鳴られた。

No.40 10/10/08 05:33
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

そんなことを言われたら、当時は若かったわたしの頭は一気に噴火した。
他の人達もしていたように、誰に何も言わずに翌日荷物を纏め、朝早く飛行機で単身実家へ帰った。
過酷な仕事だった為か、他にも何人も蒸発した人が居たらしい。今思えば最低なことをしたと反省はしているが、後悔はしていない。
ちなみに彼氏とは1ヶ月も保たなくて(笑)別れていたからそっちの問題は無かった。

実家に帰り着いた時のわたしの体重は、36キロしかなかった。
空港で、ガラス越しにわたしを見て嬉しそうに笑う母の姿をきっとずっと忘れないと思う(荷物が出て来るまで待ってる間の/笑)
勿論、その日の晩に事務係から何度も電話があった。時間が深夜だったから、「時間を考えろ!」と父が怒鳴りつけていたのを覚えてる。父に対しては穏やかだったらしいが、わたしが電話に出ていたら何と罵られていたか判らない、と思った。
話したいとは思わなかった。

No.41 10/10/08 05:42
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

茨城に渡ったのは僅か3ヶ月とちょっと。
母は痩せ細ったわたしを見てちょっと泣いた。


家は相変わらずで、父や母が何か言ってくれたのかもしれないが、変わらなかった。だからまた仕事を探さなきゃな、と思っていた。

その矢先だった。

寝ようと思って仰向けに寝ていた時、右足の太股が痺れた。
なんだろうと思って触ると感覚が無い。母の仕事の送迎で車の運転の疲れが出たかと思って気にはしなかったのだが…。
正確に言えば、気にするような余裕や暇が無かったのかもしれない。

突然連絡が来たのだ。
わたしの大好きな叔父さんが、入院したと。


ちなみに叔父さんは母方の叔父さんで、わたしの母の実のお兄さんに当たる人。
わたしのことも凄く可愛がってくれて、優しい叔父さん。
そんな叔父さんが、右肩から脇腹に掛けての痛みを訴えて検査入院したと連絡が来た。

No.42 10/10/08 05:51
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

ちなみに叔父さんは病院が大嫌いで、何があっても寄りつかなかったらしい。
そんな叔父さんが病院に行く程だったのだから、余程痛かったのだと思う。どの病院でも原因が判らず、結局行き着いた大きな病院で、検査入院。

数日して出た結果は………肺ガン。

祖母は泣き崩れた。
毎日毎日電話が来て、泣いていた。
叔母さんは仕事を辞め、毎日叔父さんに付きっきりだった。
母さんとお見舞いに行く度に叔父さんはにこにこ笑って『大丈夫だよ』、『いつも悪いね、ごめん』と言っていた。
そして一度、引きこもりの兄を連れてきてくれと言った。

わたしは一緒に行かなかったから知らないが、一緒にお見舞いに行った父が言うには叔父さんに働かないで好きにしていることをしこたま怒られたらしい。
叔父さんのように優しくても厳しい面がある父だったら、兄もああはならなかったのかもしれない。



だけど、それが最期だった。

No.43 10/10/08 06:00
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

叔父さんは翌年の秋。
わたしの誕生日が終わった数日後の昼過ぎ、息を引き取った…。
その日は叔父さんと叔母さんの、結婚記念日だったらしい…。

亡くなる前日、叔母さんの手を取って『死にたくない、助けてくれ』と言ったそうです…。
母さんや祖母が叔父さんの手を取って一生懸命に声を掛けると、目は開かなかったけど眦からは涙が零れた。
意識は無くてもちゃんと聞こえてるんだ、と…思い出すと涙ばかりが出る。
本当に大好きだった叔父さん、居なくなったなんて今でも思えない。
不思議なことに、叔父さんが飼っていた犬もその後を追うようにその直ぐに亡くなったとのこと…。

叔父さんは長男で、祖父母の面倒をひとりで見ていたから精神的なストレスは莫大なものだったんだと思う。
祖父母は若い時から険悪で、母が言うには『毎日のように卓袱台がひっくり返った』とのこと。ちなみにそれは今現在も変わらず、不仲なまま。
叔父さんはそんな板挟みの中で、必死に必死に頑張ったんだと思う。だから、早死にする事になったのだとも。

肺の検査は死ぬより苦しいとも言っていました…。

No.44 10/10/08 06:16
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

でも、だから言えなかった。
叔父さんの件で母は忙しそうで、余裕が無さそうで言えなかった。

わたしの右足は、激痛を訴えるようになっていた。

市販の鎮痛剤を飲んで誤魔化したり、悪い病気でこのまま死ねば叔父さんの所へ行けるかなとか考えた。
だけど、やがて鎮痛剤も効かなくなり、痛みで夜も眠れないようになっていった。
それで漸く母に言えたのだ、病院行きたい、と。


検査結果は、特に異常無し。
骨も何ともなく正常、とのこと。
痛みが膝に集中していたから、膝のレントゲンを何枚も撮った。何カ所も整形外科に掛かったが、何処でも何も異常は見つからない。
でも、母さんはわたしのことを疑わなかった。医者は本当に痛いのかとしつこく訊いてくる人も居たが。

ちなみに、この膝の痛みには今現在も詳しい理由や原因が判らずに苦しめられている。
そんな中で働いて悪化させてしまったらしく、歩く時はほとんど杖をついて歩いている。

No.45 10/10/08 06:26
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

結局医者にも匙を投げられてしまって、色々な病院に行くのも疲れたから病院には行かないことにした。何人もの医者が問題無いと言うのだから、悪い病気ではないのだ。
「働くより、母さんの仕事の送迎してほしい」との母の希望でわたしは鎮痛剤を飲みながら母の送迎役になった。
母との時間は本当に楽しくて、送迎の車の中では会話が絶えない。昔が嘘のようにすっかり仲良くなり打ち解けていた。茨城から帰って数日後に出た給料で二人で旅行にも行った。
家が相変わらずだったから、母の迎えの時間まではほとんど車で過ごし、夏の暑い日は車を走らせて暑さを誤魔化し、冬の寒い日は車の中で暖を取った。家には帰りたくなかったからだ。
携帯で出来る仕事なんかを探したりもしたが、成果はなかなか出ない。年末は足の痛みを誤魔化しながら一週間だけバイトに行くこともあった、正月の小遣い稼ぎと、母へのクリスマスプレゼントを買うお金を稼ぐ為に。
ダイヤのペンダントをプレゼントしたら、物凄く喜んでくれた。

No.46 10/10/08 06:34
真琴 ( 20代 ♀ AeGYh )

でも、わたしが頑張れば頑張るだけ、兄からの風当たりは強くなっていく。
部屋はジュースをぶちまけられたり、枕元に唾らしきものが落ちていたり、朝食の残りをベッドにひっくり返されていたり、お気に入りの本はズタズタにカッターか何かで破かれていたり…。
言葉と行動で訴えてきた、消えろと。
父や母が問い詰めても本人は『知らない』の一点張り。すました顔で黙り込む。
段々、命の危険さえ感じるようにもなっていた。いつか殺されるんじゃないかと。

そんな時、父の働いていた会社の状況が思わしくなくなり、父はリストラ。
なかなか次の仕事を探さずに借金ばかりが嵩んだ。約半年後に仕事は見つかったが、それまでに嵩んだ借金はわたし達家族にとっては大きなものだった。
亡くなった叔父さんの遺産200万があったのだが、父はそのお金をアテにして働かず遊び歩きたかったらしい。その期間で遺産は全て無くなり、逆に借金しか残らなかった。

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