🌻ﾘﾚｰ小説・14の魂🌻

【登場人物紹介】

真壁龍平

綾野真理

バイオレット矢島

鳥を連れた少女

霧島恭介

中丸美姫

盲目の少年(少女)

老人

猫

青年

ガブリエル

妹

エスパー？塔子

不良少女A

(順不同)

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《第一場 不幸なｼｪﾌ》

…不運というのは、往々にして、つづけざまにやってくるものだ。

今朝の占いじゃ天秤座が最下位だったし、

女房は洗い立てのコック服にコーヒーをこぼした。

店に来る途中、車のフロントガラスには鳩にフンを落とされた。

しかし、いつものように店に足を踏み入れると、さらなる不運の幕開けが、おれを待っていたのだった。

「どうして猫を連れてきちゃいけないの？！」

入り口で金切り声が聞こえる。

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>> 2 入り口に向かってドアを開けたとたん…


「イテッ！」


飛んで来た猫に顔を引っ掻かれた。


まったく、ついてない時はとことん、ついてない。


が…例外もあるらしい。


「すみません！うちのタマエが、ここの一番高い料理をお願いします。」


絆創膏を顔に貼って、出てくると飼い主が平謝りしてきた。


さすがに、女房には、爆笑されたが。

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この店のシェフの名は、
霧島恭平――。

料理の腕は超一流ながら、その人間性には誰もが？と思う異端児だ。

厨房に戻った恭平は、一人ごちた。
「ったく、なんで俺が猫なんかに料理を作らなきゃならないんだ。しかも一番高い料理って簡単に言うが、鉄板の上でｼﾞｭｰｼﾞｭｰいってる肉料理をあの猫ちゃんが食べられるのかね？」

熱いものは熱いうちに、
冷たいものは冷たいうちというスタンスの彼に、このオーダーは許しがたい。




ああ、今日は何ていう日なんだチクショウ。

あ、そうだ、タマエとやらの猫ちゃんへスペシャルメニューを出してやろう……

高くて美味いやつをな。

そして恭平が厨房に立ち、料理を作り始めると厨房の空気がピンと張り詰めた。

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>> 4 恭平は まず鰹節と鯖節を 用意した 厚切りにした物を 鍋に入れて火に掛けた

｢最高のスープを 作ってやるよ ﾋﾋﾋ｣

恭平は 一切味付けを せず 魚のダシだけのスープを作って出してきた 熱々のスープを

｢さあ タマエちゃん 飲んでちょうだい どうしたの｣

女性が スープを飲んで見せて 激怒した

｢何よ このスープ 何の味も しないじゃ無い｣

恭平は 厨房から出てくると 猫に 牛の骨を 与えた

｢あなた 何やってるの 犬じゃ無いのよ｣

恭平は ゆっくり話出した

｢奥さん 本当に飼い主なのか 猫が猫舌なのは 子どもでも知ってるよ 猫の舌は ざらざらしてて 骨に付いた小さな肉を こ削ぎ取るんだよ だいたい 塩からいスープなんか 飲むかよ 大事な猫なら 餌ぐらい 自分で 用意しな｣

｢な、なんて失礼な店なの 帰らせてもらいます｣

そのまま 猫を鷲づかみにすると 怒りながら 帰ってしまった

｢へっ ざまあみろ｣

｢こらっ 真面目に仕事しろ｣

恭平は 嫁に大根で どつかれた。

次の方 どうぞ

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>> 5 恭平は殴られた頭をさすりさすり、厨房に戻った。
そして、ため息を付くべく、深々と息を吸い込む。
だが次の瞬間、恭平はそのままはっと息を止めた。

「ハァー　ツイテナイ」
ヘリウムガスを吸ったかのような甲高い声が、恭平のかわりにそう言ったのだ。
恭平はぎょっとして、厨房を見回した。

なんと、黒紫色の小鳥が、ボウルなどを置いた棚にとまっているではないか。

「なっ」恭平は驚きと怒りから、舌を噛みそうになる。「なんでこんなところに九官鳥が！？」
さっきの猫といい、ここは動物園じゃないんだぞ！
内心そう思いながら、恭平は手を突き出して、そうっと九官鳥に迫った。

「サイコウ　ノ　スープ　ヒヒヒ」
「うるさい！　不衛生だ、出て行け！」
恭平は怒鳴って飛び掛ったが、両手は空を掴んでいた。
九官鳥はぱっと飛び立ち、恭平の頭上を越えた。
「あっ」

恭平は小鳥を見上げ、その姿を追って振り返った。
そして、厨房の入り口に、九官鳥を肩に乗せた少女の姿を発見し、再びぎょっとしたのである。

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>> 6 何故恭介がぎょっとしたのかと言えば、少女の持つ比喩し難い印象からだった。
背丈はまだ小学生だった。真っ白のワンピースの上に真っ黒の薄手のカーディガンを重ねている。
少女の肩に九官鳥は大きすぎた。身じろぎする鳥に遠近感が狂う。
ストレートのロングヘアは夜闇を切り出しかの如く漆黒だ。左手の小さな窓から射し込む陽光を反射して完璧な天使の輪を描く。
一方の肌はまるで太陽を知らない白さで、透けてしまいそうなその色は病的にさえ見える。
徹底的……人工物を思わせる徹底的なモノトーンの少女は、唯一彩度を持った深い鳶色の瞳で恭介を見据えていた。
好意も敵意もない、無表情。
不気味だ。普段は強気の恭介も少しばかりたじろいだ。
その上、当然ながら恭介は子供が苦手だった。
今日はやはり、ついてない。
「……何だお嬢ちゃん、一人か？」
流石に子供に暴言を吐くわけにもいかず、恭介は今にも肩を離陸しそうな九官鳥に苛立ちながら、ぎこちなく話掛けた。
少女は返事をせず九官鳥を撫でる。
そしてふと、思い出したように唯一言、こう呟いた。
「貴方……幸せ？」





人物名を設定通り『恭平』➡『恭介』と修正しました。読者の皆様失礼しました。

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>> 7 「幸せかって？」

またも、突拍子も無い言葉に驚き、恭介は言いながら少女を見つめた。


九官鳥を撫でたまま、視線を合わそうともせず少女は続けた。

「うん。　幸せ？って聞いてるの」



相手は少女だ、不幸か幸せか真面目に答えた所で、何も変わりはしないだろう…

「？幸せな気分には、全くなれないね。さっきから苛々しっぱなしだよ！お嬢ちゃん、用が無いならさっさと帰ってくれないかな」

恭介は、面倒臭そうに適当に答えたその時…

バサバサッ

少女の肩から九官鳥が羽ばたき、天井を大きく数回飛び回り、少女の肩に飛び乗りまた

「トーコ！トーコ！」

甲高い声をあげた。

少女は恭介に人差し指を向けた。

視線を辿ると、歳はまだ二十歳くらいだろうか…

美しい少女がもう一人恭介のすぐ後ろに立っていた。

「き、君！？いつの間に？！」

九官鳥を目で追った時にでも入って来たのか？

目を白黒させて驚く恭介に少女はポツリと一言…

「ふふ…　あたし塔子、おじさんよろしくね」

少し大人びた上目使いで恭介を見つめた。

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>> 8 恭介のギョッとした様子に、塔子は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「あたしね…動物の心が分かるんです」

「何を言ってる？だいたいどこから厨房に入ってきた」

「さっきの三毛猫…真理って飼い主に三回捨てられてる。高級なご飯を残したからだって。あなたに感謝してたわ」

(あの状況を見ていれば誰だって言える）

ｶﾞｷと妄想女に付き合ってる暇はない、とばかりに、恭介は二人の背を押して勝手口の戸を開けた。

すると、

ニャー

先ほどの猫が、一万円札を口からヒラリと落とし、走り去っていった。

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>> 9 思わず、後退り戸を閉めた。

有り得ない！
頭を抱えて振り返ると


「だから、言った通りでしょ。はい！忘れ物！」
と、一万円札を差し出した。

え？ビックリして…腰が抜けた。


確かに外へ出したはず…なのに？
なんで？

それも二人とも…おまけに九官鳥まで


「バーカ、バーカ」

九官鳥が頭の上で騒いでいる。

塔子は恭介に語り始めた…

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>> 10 「あのね、動物だって人間と同じ”心”をもっているのよ。ただ動物によっては忘れっぽい子もいるけどね」と塔子はいった。

恭介は塔子の言ってる事が、ようやく理解できたようだ。
　他人に理解されにくい恭介にとって、塔子は遥か上をいってるようだ……
逆に塔子にしてみれば、恭介が変わっていることなど全く意に介さず、当たり前のように接する事ができるのだ。


恭介は警戒しつつも、塔子の器の大きさを感じ取っていた。

「それで」
恭介はいった。
「幸せかどうかなんかあんたに関係があるのか？」



「あるわよ、当然でしょ」 塔子が口を開くと、次の瞬間信じられない事が起こった。


［……こえる？……聞こえるでしょ？］

！！！

［わたしは動物と心を繋げる事ができるの。あなたに幸せになってもらわなきゃならない理由があるのよ］


「なんでだ？」
恭介がようやく言葉を発すると、塔子は驚くべき真実を口にした。




「この九官鳥はね、あなたが幸せになってくれないと身体をなくしてしまうの。要するに死んじゃうってこと――」

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>> 11 少女が、口をはさむ

｢お姉ちゃん、この人何も覚えて無いよ｣

｢あんたは、黙ってな。この九官鳥は、おじさんが昔飼ってた九官鳥だよ。籠から飛び出した後、自由を求めて田舎に行ったんだよ。そこで作物を荒らすカラスに間違われ、猟銃に打たれて亡くなったんだよ。あんたに恩返しもできずに亡くなるのは、嫌だってやっと神様から許しを貰って再生したんだよ、矛盾してるけど、あんたの幸せを見届けてから消えたいって｣

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>> 12 「俺が飼っていた？」
恭介はいぶかしむ様に、少女の肩に舞い戻った九官鳥をじろりと見据えた。
その鳥はビーズのような丸い目を瞬き、神経質に首をかしげている。
恭介にはその仕草が、「どう、私のこと、覚えていて？」とでも言いたげに見え、ますます腹が立った。
それに、自分を見下すかのような子どもらの視線も癪に障る。

「しるか！　大人をからかうんじゃない！」
ついカッとなって怒鳴った途端、少女の肩から九官鳥が飛び立ち、恭介に向かってきた。
「うおぉっ」
驚きのあまり、自分の足を踏んで無様に尻餅をついてしまった。
弾みでずれたコック帽をぐしゃりと踏み潰し、九官鳥が頭上から恭介の顔を見下ろして、オレンジ色の嘴を開いた。

「キョースケ　キョースケ」

九官鳥は、ハッキリとそう言ったのである。
「なんで俺の名前を……」
言いかけて、恭介はその口をぽかんと開いたまま硬直した。

何かを思い出しかけた、気がする。
しかし、その記憶は湖面にゆれる魚のごとく、すぐさま深い澱みへと潜っていってしまった。

「とにかく、この鳥を連れて出ていけ！」
恭介は喚いた。
だが、彼の視線は、少女たちがいたはずの厨房を虚ろに彷徨うこととなった。

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>> 13 公園に人影二つ。
「お姉ちゃん、アイス美味しいね」
白肌の少女が大学生風の女に無垢な笑顔を向ける。
「もうその話し方いいって、産巣日……キモいから」
大学生風の女がゲンナリした声で返す。
「うん？そうか……結構可愛いと思ったのだが」
産巣日―むすひ―と呼ばれた少女の声が転調し、印象が急変する。
「人の先入観とはまこと面倒だな。か弱い少女を装うのも骨が折れる」
産巣日は手にしたガリガリ君を名前の如くガリガリ喰らう。
「私、神様ってもっと上品だと思ってたんだけど」
「それが先入観だ」
産巣日はハズレを確認すると、ごみ箱に棒を投げ入れた。
「それにしても……よりにもよって神に捧げる供物にガリガリ君を選ぶとは、塔子は救い難いドケチだな」
「うっさいな、ケチはそっちでしょ？私タダ働きなんだから」
「塔子に授けた力の対価だ。安いと思え……いや、神である我を手助けできるのだから寧ろ感謝せよ」
塔子は嘆息した。
「でも、あんな風に消えてきて大丈夫かな？」
「あの手の堅物はビビらせる位で丁度良い……それにしても我が力も現国では奇術師程度か。高天原とは勝手が違うな」
「おじさん、上手くやると思う？」
「やって貰わねば困る」

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《第二場　記憶》

目まぐるしく過ぎた出来事を、一つ一つ頭の中で整理しながら、恭介は厨房に散らばった九官鳥の羽を片付けていた。

「俺が飼ってたって？」

落ちた羽を拾い、光に翳してみた…

「………　わからん」

今はそんな事考えてる時間はない。

さっさと掃除を済ませ、嫁が仕入れた材料で、ランチの為の仕込みを始めた。

買い出しだけは、嫁の担当だった。用が済めばさっさと帰ってしまう。

ホールを賄うのは嫁ではなく、開店時間ギリギリでやってくる妹だ…
そろそろ不機嫌な顔でやって来る頃だ。

－ カランカラン －

厨房からは見えないが、妹は開店準備を始めているのだろう…

たいして気にも止めず、恭介は仕込みを続ける。

…それにしても…

挨拶もせず、顔も見せない妹が少し気になった…
「おい？お早うもないのか？………」

ホールに出た恭介の脳裏にフラッシュバックが起こった！


老人 ！

草原　！

鳥　！

目を開けると、そこには
年老いた男が恭介を見つめ座っていた…


「あなたは………」

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>> 15 「ロマーノ先生…！」

「ひさしぶりだな、キョウスケ」

まだ誰もいない店内。窓際のテーブルに腰掛けていたのは、恭介のイタリアでの修行時代の恩師であった。
恭介が日本に帰ってからは、しばらく絵葉書のやりとりが続いていたが、ここ数年は日々の仕事に忙殺されて、連絡が途絶えていたことにも気づかずにいた。

「…渡り蟹のトマトソースパスタをいただこうか」

老人は、メニューも開かずに注文した。
恭介が、イタリアで初めてロマーノに習った料理だ。店のメニューには常に載せてある。


恭介は、緊張した面持ちで、しかし自信を持って、老人の前にパスタを置いた。

「……キョウスケ。すこし、味が変わったか？」
老人は、眉をひそめて言った。

もちろん、メニューは店で何度か改良を加えており、味は変わっていておかしくない。

しかし、この時のロマーノの一言に、
恭介は、記憶の奥底をつかれたような、鳥肌の立つ思いがした。

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>> 16 ロマーノは、納得がいかないらしく…食べるのを辞めた…


「残念だ…君に教えたのが間違いだったとは、これの説明は出来るか？」


厳しい眼差しで今にも切られそうだ。


そうだ何かを忘れてる！

それが…それが…何なのか？


何が変わったのか？

「先生！」


その場に座り込んで頭を床まで落とし頼んだ。

「自分が間違ってました！
慢心から、感謝もなく日々の売り上げばかり考えてました！」

思い出した！

あの頃の事を…九官鳥の事も…
それから…

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>> 17 　ロマーノは唐突にたずねた。

「キョースケ、今日は何月何日かね蓜」

その一言で全てを察した恭介は、今にも消えそうな声で答えた。
「……６月２日です。　渡り蟹は身の詰まる１１月から４月、産卵期の７月から９月が旬です。味の落ちる今は出すなと教えて頂いてました。」

ロマーノは恭介の腕は認めていた。
しかし、それに慢心して《もてなしの心》に少し緩みがあったのを見逃さなかった。

「……わかればいいんだ。」ロマーノは静かにうなずいた。


　イタリアでの修業中、盲目の少女、ロマーノの孫娘と恋に落ちた。
その少女は、恭介が当時飼っていた九官鳥を肩に乗せ、盲導犬代わりに歩き回っていた。

あの時のセピア色の想い出に色が甦る――。

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――
セピア色の街並みの上空には、淡く霞んだ青空が広がっていた。
フィレンツェの旧市街を一望できる、ミケランジェロ広場。
留学してきて間もない恭介を、この場所へ連れて来てくれたのは、ロマーノの孫娘・アリーチェだった。
早くもスランプに陥っていた恭介に、ロマーノが「気分転換しておいで」と、二人のデートを許可してくれたのだ。
もちろん、彼女の盲導犬ならぬ盲導鳥も一緒である。

街並みを臨む鉄柵につかまり、絵葉書さながらの景色に思わず嘆息する若い恭介に、アリーチェが言った。
「どんな景色か、私に教えて」

恭介は少し戸惑いながらも、お世辞にも流暢とはいえないイタリア語で答えた。
「建物はみんな赤い屋根で、大きな聖堂と、川がある。綺麗な街だよ」

すると、彼女は何かを確信したように頷いた。
「今、渡り蟹のパスタを練習しているんですってね」
唐突なその質問に、恭介が「そうだけど？」と首をかしげると、彼女は微笑み、まるで見えているかのように景色を眺めた。

「ソースは真っ赤、ぶつ切りの渡り蟹に、パセリが乗った、おいしいパスタ。そんな表現じゃ、ちっともおいしくなさそう」
そう言って、彼女は笑った。

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>> 19 「どうせ、俺が作ったのは旨くないよ」
恭介がすねた口調で呟くと、アリーチェは花のように笑う。
「恭介のパスタは美味しいわ」
「何かが足りないんだ……自分でもそれ位分かる」
恭介の瞳に映る空は急速に夕闇へと接近する。流線となってアイラインに遠く吸い込まれていく青。紅の油彩絵具を街へ塗り重ねる斜陽。
一分、一秒、一瞬。
刹奈に想起される流体の速度。
どれだけロマーノ先生の元で修業できる？
どれだけアリーチェと一緒に過ごせる？
後、どれだけ？
「さあもう一度、どんな景色か教えて……さっきのがイタリア語の試験なら落第よ？」
そう言われて、恭介が頭の辞書をかきまわして必死に言葉を探していた時だった。
不意に二人の影が重なる。
少女が倒れ込むように青年に抱きついたのは、唐突だった。
「アリーチェ……？」
「大事なのは言葉じゃない」
アリーチェは静かに身を委せる。その耳を恭介の胸に当てて。
「声にならなくても、あなたが懸命に、私のために言葉を探す音が聞こえるもの……それで十分」
動揺だけが恭介を満たした。声が聞き取れない。
「料理も同じ。大事なのは小手先の味じゃなくて、腕を尽くしてもてなそうとするあなたの心よ」

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>> 20 「アリーチェ…」

抱きしめた彼女の温もり、感触までも鮮明に思い出していた。

「ロマーノ先生…
　アリーチェは
　元気にしていますか」

一瞬の沈黙の後、ロマーノは悲しげに微笑み、鞄から一枚の写真を取り出し恭介に渡した。

差し出された写真を手に取り見ると…

背の高いガッチリした青年が、少女と一緒に並んで写っている。

　　…アリーチェ？…

あの頃の面影は有るものの、別人と言っていい程に大人びたアリーチェの姿に少しドキッとした。

「キョウスケ…　
　君が日本に帰ってから
　アリーチェは寂しさの
　せいなのか、元気を
　無くしていたんだ。
　君の事を深く想って
　いたんだろう…
　暫くして、そこに一緒
　に写ってる日本人の男
　と知り合い私の元から
　消えてしまった…　
　日本に行きたいと
　アリーチェから、
　何度と無く聞いてた
　矢先だ。
　もしかしたら、ここに
　来れば何か分かるかも
　しれんと思ってな…」

「この男の人は？」

写真の男を指差し、恭介はロマーノに聞いた。


「うーん…　　確か…　
　リュウ……　そう！
　アリーチェは、リュウ
　ヘイと呼んでいた！」

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>> 21 《第三場　騙される女》

マンションに戻ると、真理は大きなため息をついた。
男に捨てられたのは、これで三度目だ。

しかも、今回は猫を残しての蒸発。

「こいつ、育ちがいい猫でさ。高級イタリアンしか食べないから」

これが男の最後の言葉だった。

（何か…事情があったのね）
決して恨み言を言わない。
真理は、あかるい女だった。
しかし、その人を疑わぬ性格こそが、いつも男に騙される原因となっていることに、本人は気づいていない。

ミャー

心配そうに、愛猫（といってもさきほどからだが）タマエが、真理の手を舐める。

「あなたも、苦労するわね」

そう苦笑いすると、真理はタマエに鰹節のスープを与えた。

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>> 22 数日後…真理はいつものように猫…タマエを抱えて街に出た…
「タマエちゃん、今日はどこいこうか？」

猫に聞いても

「ミャー！」

としか言わない。


ウインドショピングを、楽しみながら歩いていると、後ろから声をかけられた。


「お嬢さん。ちょっといいですか？」


振り向くとそこには、背の高い見た目は、口ひげをはやした男が立っていた…

「え？何か？」
びっくりはしたが、疑うことを知らない真理は、笑顔で応対する。

「私こういう者です。
あなたに損はさせません。
話しを聞いていただけますか？」


貰った名刺には…
株式会社、バイオレット

取締役社長兼営業部長…


バイオレット八島



何？これ？

真理は、少し疑問符がついたが

「えぇ～いいですよ。」


八島はニヤリと笑うと

「じゃあ立ち話もあれなんで、アソコに入りましょう。」

そこは、動物を連れて入れる、喫茶店みたいな所だった。

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テーブルを挟み、改めて対峙した矢島は、古い映画から切り取ったかのような、いかにも紳士らしい雰囲気をかもしている。
怪しいのは否めないが、とりわけ身に危険を感じることもない。
真理は少し緊張しながらも、「話くらいは聞いてもいいか」くらいの、軽い心持だった。

「あなたは、不幸ですか？」

出し抜けに、響きの良い声で矢島が言った。
その不躾な質問に、真理は眼を見張る。
「い、いきなり何なんですか」
思わず声が上ずった。
図星なのだと、真理は自覚する。
その様子を見て、矢島は微笑んだ。
「まぁ落ち着いて。実はその不幸、買い取らせていただけないかと思って声をかけたのです」
「不幸を、買い取る？」
真理が疑念の眼差しを向けると、矢島は書類かばんを膝に乗せ、中を探りながら言った。
「そうです。不幸を集めることが仕事なので」
そして、おもむろに取り出されたのは、２の後ろに０が５個並んだ小切手だった。
「今の貴女の不幸はざっとこのくらいです。おまけに、不幸を売ってしまえば、貴女はもう不幸じゃなくなる」
矢島は再び、ニヤリと笑った。
「どうです、悪い話ではないでしょう？」



＊訂正＊
八島➡矢島　失礼いたしました🙇

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>> 24 まだ迷いの見える真理に矢島は嘆息した。
「そうですね……御理解頂くというのが無理な話」
瞬間、矢島は小切手を破り捨てる。
「あっ……」
矢島は真理の表情の変化を見逃さない。
……脈アリ。現物で押せばイチコロと踏んだ。
「小切手なんて回りくどいのは止めましょう。現金即決」
矢島は鞄から二十万を生で取り出す。人間には生の札が効くという事実を矢島は心得ている。
「更に初取引の祝い金で五万」
追撃。
「更に私と取引して頂いたお礼に個人的にもう五……」
「う、売ります！」
攻略成功。

矢島はすかさず専用契約書を引っ張り出す。
「ではサインを願います……ええ、お名前だけで結構」
「でも……不幸なんてどう取引するのかしら？」
「契約書を媒介に形而上と形而下を変換取引します。面倒な説明は省きますが、まあ、なるものはなるというやつです」
「……はあ」
「理屈はさておき、とにかくこれで三十万は貴女の物です……契約成立」
矢島は笑顔で答えた。


真理を見送った矢島が逆に進路を取ろうとした時だった。
「また悪どくやってるのう。矢島」
少女の声で似合わぬ台詞が響いた。矢島は瞬時に笑顔を作る。
「これは、産巣日さんじゃないですか」

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>> 25 喫茶店を出た真理は、契約書と五万円の札束を手に、首をかしげた。

彼女の左側には、塀の上を歩いてタマエがついて来る。


「不幸を売るって…どういうことかしら？まぁ五万もらえたからいいけど」

契約書の内容にも目を通さず、三十万のはずが、最後の五万しか受け取っていない点も、気にもとめていない。

真理は、男だけでなく、勧誘やセールスの類も、断れない女だ。
人生において、ことごとく損をしているが、それに気づいていない。
ある意味、もっとも幸せなタイプといえるかもしれない。

「そうだタマエ…臨時収入があったからまたあのイタリアン、行ってみようか。」

真理は、友人の霧島エリが働いている店を、再び訪れることにした。

• << 28 《第四場 不良少女》 繁華街には似合わない格好で歩いてる、女の子がいた。 いつも何人かで連んでいるが、今日は１人で街へ…あてもなくぶらぶらしていた… 少女は、髪はポニーテール。メイクは派手にしている。 見るからに不良とわかる… 目つきもきつい服装もそれなりに、学校へ行っていれば２年生だ。 なぜ不良に？ 理由は…忘れた。名前は…夏美！親は…知らない。 何か楽しい事ないかな？ あ！カモ発見！

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>> 26 喫茶店を出た真理は、契約書と五万円の札束を手に、首をかしげた。 彼女の左側には、塀の上を歩いてタマエがついて来る。 「不幸を売るって…… 《第四場 不良少女》


繁華街には似合わない格好で歩いてる、女の子がいた。
いつも何人かで連んでいるが、今日は１人で街へ…あてもなくぶらぶらしていた…

少女は、髪はポニーテール。メイクは派手にしている。

見るからに不良とわかる…

目つきもきつい服装もそれなりに、学校へ行っていれば２年生だ。

なぜ不良に？
理由は…忘れた。名前は…夏美！親は…知らない。


何か楽しい事ないかな？


あ！カモ発見！

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>> 28 しかし、そのときだった。

ガクンと世界が揺れて、鈍い痛みが肩に広がった。
誰かが後ろから思い切りぶつかってきたのだ。
「いったぁ～！」という夏美の怒りのこもった悲鳴と、「あ、ごめん！」という男の声が重なる。

夏美を追い越したのは、ヒップホップ系のファッションをした青年だった。
だぶついた服装のせいで、ひょろい体系が際立って見える。
だが、それなりに筋肉質であることは、ぶつかった肩の感触からわかった。
その青年は相当急いでいるらしく、謝罪もそこそこに走り去ろうとした。

ふざけんなよ！
夏美が食って掛かろうとすると、青年が突然叫んだ。
「ガブリエル、カムバック！　カモン！　誰かその犬止めてー！」

犬？
青年の向こうに、人混みに紛れるベージュ色の獣がちらりと見えた。
飼い犬に逃げられたのか。

突き飛ばされて怒り心頭の夏美は、同時に、何か面白い予感を感じ取った。
どうせ暇だし、犬好きだし、ランチもおごらせたいし。

夏美は青年を追って走り出していた。
短いスカートが太ももで危なげに乱れるのも、お構いなしだ。
むしろそれより、青年の腰パンがずり落ちないのが不思議でならない夏美であった。

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>> 29 どんな服を着たって、どんなメイクをしたって、スニーカーだけは捨てられない。
夏美は地面を蹴る。速く踏み出す、早く動作する。回転、加速。速く早く……もっともっとっ！
ヒールは最悪。走れないから。走れないのは止まれないよりイヤ。
ここじゃ最高速度には乗れないけど、悪くない。悪くないのは久しぶり。夏美は大気を感じる。前を行く青年の背中を見る。遅くないけど、テンポが微妙。
犬、青年、夏美……三点を結ぶ緩やかなカーブライン。跳び上がる瞳、俯瞰する視点。仮想のトラックを夏美は思う。長いこと忘れていた感覚が、怠惰で無気力な日常に埋もれていたセンスが、一つの興奮と共に還ってくる。
疾走する感触が夏美に還ってくる。
青年の背中がグングン接近する。もっと上げられる、ギアを一段二段……追い付いたっ！
「……そんなんで捕まえられんの？」
夏美は青年の背中を叩いて声を掛ける。息は乱れてない。まだまだイケそうで夏美は嬉しい。
「うわっ!?……ってさっきのコ!?」
夏美が追い付き、しかも余裕の表情でいることが信じられないらしい。
「ほらっ、前見る」
犬との差は殆んど開いていない。逃げ切れるのに逃げない。
……遊んでいるみたいに。

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>> 30 遊んでいるみたいに？
ではなく、完璧に遊ばれているらしい。

青年が距離を縮めると、犬は一瞬、ｷｭｯとお尻を上げて、青年を見据えたまま半歩跳び下がり、また走り出す。

「ちょっと、お兄さん？
飼い主だったら分からないの？　完全おちょくられてんじゃん…」

夏美は足を止め、数メートル先の青年に言った。

「…ﾊｧﾊｧ…　んっ…　……えっ？…」

息も絶え絶えに青年は、大きく肩で呼吸しながら夏美を振り返った。

「……」

「普通にさ、しゃがんで呼んでみたら？」

追い掛ける事に疲れたのか、青年は素直に夏美に従いその場にしゃがみこんだ。

「…　ガブ！　
ガブリエル！カモン！」

キョトンとした顔で青年を見つめていた犬は、追い掛けないと分かったのか、今度は尻尾を大きく振りながら走り寄って青年に飛び付いた。

「お兄さ～ん、走ったらお腹空いちゃったんだよね～…　お礼に、何か食べさせてよ」

犬を撫でながら、夏美は悪戯に笑う。

「お礼って…　」

「あたし夏美。そんなに深く考えないでいいじゃん！ぶつかって来たお詫びも一緒でいいから、早く行こう！」

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>> 31 「…じゃあ、いつもガブと一緒に行ってる喫茶店が近くにあるから、ちょい話しながらパスタでも食べるか？」

「オッケイ！」

繁華街といっても、駅を500メートルも離れると、落ち着いた町並みが続いている。

緑の多い住宅街の中で、カラフルな２人の服装は明らかに異彩を放っていたが、ガブリエルだけは、嬉しそうに尻尾をふって２人にまとわりついてきた。


喫茶店に着くと、夏美たちと入れ替わりに、三毛猫を連れた女が出て行った。

「見て！あの女現ナマ持ってるよ！」

「シッ！」

女を指さす夏美を制して、２人と一匹は店内へと入る。
案内されたのは、窓際の奥の席。

注文を終え、ふと隣を見ると、三揃えのスーツの紳士と、黒髪の少女がいた。

「…相変わらず、悪どくやっているのう、矢島よ」

その外見からは想像もつかない声が発せられたので、２人の目は一瞬、少女に釘づけになった。

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>> 32 「あの子の口調、ババアみたい！」
「聞こえるって」
顔を寄せて言う夏美を、青年が困った顔で諭す。
「お前、礼節ないよね」
「ホントのこと言ってるだけじゃん。さ、何食べよっかなー」
夏美は、疎むような青年の視線などお構いなしで、意気揚々とメニューを開いた。
だが、料理はどれも本格のイタリアンらしく、値段もファミレス並みとはいかない。
「……お金、ちゃんと持ってる？」
貧乏性の夏美が心配になって尋ねると、青年は少し得意げに微笑みながら「好きなだけどーぞ」と答えた。

注文を終えると、夏美は青年の名前を尋ねた。
「漢数字の“七”に仁義の“仁”で、かずみ」
青年は慣れた口調で言った。
「かずみ！？」
予想にもしない名前に、思わず声を上げる。
「変わってるっしょ」
七仁がはにかむ。
「かなり。普通はそう読まないもんね」
夏美は半ば感心しながら言った。
「あ、ところで“ななみ”は、ガブの散歩中だったの？」
「ななみって……」
夏美の冗談に苦笑しつつ、七仁はテーブルの下のガブリエルをなでる。
「散歩って言うか、人探し。塔子って女なんだけど」
そう言って、七仁は尋ねるように夏美を見た。

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>> 33 「彼女？」
「いや……職場の同僚だよ」
予想外の答えが返ってきて夏美はあからさまに驚く。
「マトモに仕事してんの!?」
その反応に、七仁は溜め息で答える。
「……ホント失礼だなあ」
「だってそのカッコ……いかにも親のスネかじって遊んでますって感じじゃん」
「これは単なる俺の趣味」
注文したパスタが運ばれて来た。夏美はカルボナーラ、七仁はジェノベーゼだ。
「ふーん、で？」
夏美はパスタを一口運ぶ。予想通り、値段に見合った味で満足。
「でっ……って？」
「だから話の続き」
「ああ……えーとそれで、俺の仕事はドッグトレーナーなんだけど」
「へぇ、なんかカッコいいかも……盲導犬とか？」
「違う違う。ウチは普通に飼い犬預かってしつけるだけ。トレーナーも社長と俺と塔子しかいないし」
「ショボいね」
「だからその口の悪さ何とかなんないかな……まあショボいのは認めるけど」
「じゃあガブリエルもお客の犬？」
「ガブは俺の相棒。競技会でもかなり強いんだ」
ガブリエルは七仁の手にじゃれている。
「遊ばれてるトレーナーの言うことなんて聞くの？犬って主従意識強いんでしょ、完全ななみが下じゃん」
「うっ……人を傷つけるのばっか上手いな」

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>> 34 「別に傷つけてなんかないよ、素直って言ってくれないかな」

パスタを頬張り、時折、隣の席をチラチラ見ながら夏美が言う。

「で、その塔子だっけ？その人が居そうな場所とか有るの？ただ歩いてた訳じゃないっしょ？」

「そうそう！こいつに彼女の匂いを嗅がせて歩いてたんだけど、突然ガブが走り出してさっきの有様だよ」

食べ終えた七仁が、ガブリエルを撫でながら苦笑いした。

残り僅かな皿の上のパスタを、フォークでクルクル回したまま、夏美は七仁を上目使いで見ながら

「ななみ…？　それってさぁ…　この子遊んでたんじゃないんじゃん？
その塔子って人の匂い感じて走ったんじゃないの？付いて来れない、ななみを気遣かって立ち止まったとか…　」


夏美はわざと大袈裟にため息をついて呆れて七仁を見ている。


「え？そうなのか？ガブ？？」

ガブリエルの顔に自分の顔を近付け、七仁は小さく叫んだ。

「ちょっと～…　勘弁してよ…　マジ、トレーナーやってんの？！あたしでも気付くと思うけど」

食べ終えたフォークとスプーンを雑に置きながら 、夏美はまた呆れて七仁を見ている。

ふと視線をずらすと…

隣席に座る、黒髪の少女と夏美の目が合った。

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>> 35 「うっ…このガキ…？」

少女には似つかわしくない、あまりに無機質な瞳に夏美はたじろいだ。

「あなた……幸せ？」

「は？何言ってんだよオマエ」

「幸せ？って聞いてるの」

「幸せに決まってるだろ？！退屈な学校もやめてやったし、キツい陸上の練習もなくなって、遊び放題だし……」

「お、おい夏美…」
七仁は唖然としている。

わたし、初対面の子供に何言っているんだろ。

自分でも思ってもみない言葉が次々に出てくる。
しかし、肝心なことが記憶から抜けている気がした。

【なぜ、不良に？】

【なぜ、走るのをやめた？】

早口でまくしたてていた夏美が、一瞬言葉につまった、その時だった。

少女の陰から、黒紫の九官鳥がバサッと飛び出した。

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>> 36 「ウソツキ！ウソツキ！」

と言いながら、夏美の頭の上を円を描いて飛んでいる。

「あ！このやろ…」

言いかけたら、七仁のガブリエルがいきなり

「ワンワン、ワンワン！」

吠えた…

「塔子！」

七仁が立ち上がった。

目の前に、少女（むすひ）と、塔子がいた…


「七仁？」

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>> 37 「ななみ、この人が塔子？」
夏美は自分より少し年上くらいの少女を睨みつけた。
「幸せか」という問いに気が立っている。
「そう。私が塔子」七仁が答える前に、塔子が答えた。「ななみの同僚のね」
「だから、ななみって」
「ねぇ夏美ちゃん」
塔子は七仁を無視して続けた。
「あなたの幸せは、苦しいことから逃げることなのかしら？　苦しみから逃げ、やりたいこともできずにいることが、本当に幸福なの？」

夏美の眉間にしわが寄る。
説教垂れてさ、何様なわけ。

「うっせーよ……！」
夏美は震える声を絞り出した。
「お前に私の何がわかんの！？　幸せ幸せって、幸せじゃなきゃ生きる資格ねぇのかよ！」

何を叫んでいるのか、自分でもわからなかった。
気がついたら、鞄を引っつかみ、店を飛び出していた。

「夏美！？」
彼女を追ってドアを開いた七仁が、ふと振り返る。
「塔子、仕事休んでまでやらなきゃいけないことって、コレ？」
「そ。まぁアンタには理解できないでしょうけど」
そう言って、塔子はガブリエルを見下ろし、微笑んだ。
「少なくともアンタたちには、必要のないことね。それより、追うならお勘定――」

「もうおらぬ」
産巣日が静かに言った。

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>> 38 「……騒がしい奴よの」
「まあ、考えるより先に体が動いちゃうのはアイツの癖だからね」
塔子はアイスティーを一口含んで呟いた。
「それでどうしますか、産巣日さん？」
矢島が業務的な笑顔で尋ねた。産巣日は嫌悪を浮かべる。
「問いの意図は？」
「得意の読心を掛けてみたらどうです？」
「……下賤な冗談は大概にせよ。地獄を見るぞ」
「……これは失敬」
二人の間に緊迫した空気が流れる……と言っても、塔子には話の内容の半分も分からない。
産巣日との契約で『獣鳥読心』の能力を得たのは事実だ。だから産巣日が神であることを一応塔子は信用している。
だが話のブッ飛び度が半端ではなく、平民塔子の想像力と理性と常識の範疇では付いて行き難い。
「あの夏美という少女、貴女の手に負えますかね？」
産巣日は矢島を睨みつける。
「……譲れとでも吐かすか、矢島？」
矢島は大袈裟に手を振り、微笑を浮かべた。
「私一人で動かすには、流石に天秤が持ちませんよ……かと言って、産巣日さんの方法では時と力を費やすこと莫大」
産巣日は無言だ。
「手段は違えど目的は同じ、ならばここは共同戦線と行きませんか？二人で割っても充分価値のある手柄だと思いますよ」

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>> 39 かつてイタリアに恋人を置いてきたシェフ・恭介。

男に騙されながらも依存してしまう女・真理。

走ることから遠ざかり、不良になった少女・夏美。

この街に住んでいること以外には、接点のない三人。

しかし、本人達も気づかないところで、彼らは同じ運命に導かれようとしていた。

三人に共通するのは、
【記憶の欠如】。

あまりに辛い体験をした人は、その出来事を心の奥底に沈め忘れてしまうという話があるが、彼らの場合はそれとは違う。

本人ではなく、第三者によって記憶を持ち去られていた、というのが正しい。


三人は、偶然にも（あるいはこれも操作によるものか）街はずれのイタリアンレストランで出逢い、異変に気づくことになる―――ー

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>> 40 《第五場めぐり逢い…》


真理がレストランの前まで来ると、自分を呼ぶ声がして、振り向いた。


「真理～！おはよー！」

友人のエリが手を振りながら、走って来た。

「あ！エリ！おはよー！
あれ？遅刻？」
いつも、この時間は店に出ているから、不思議に思って聞いた。

「そう！兄貴に怒られちゃう！今日は、どうしたの？
ん？なんかいい事でもあった？」

笑みの浮かんだ顔から、何かあったのがわかる。

「そう！あったから、この子と食べに来たの。この子入れてもいいかな？」

タマエをなでながら、聞いてみた。

「ん～？兄貴に聞いて来るから待ってて。」


エリは店の中へ入って行った。

「タマエちゃん、入れてくれるかな？」

と、何処からか犬の声がして、振り向いた…

ひょうしに、誰かとぶつかった…キャッ！

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>> 41 ぶつかってきたのは、派手な髪をした少女だった。
真理はよろけ、少女は勢い余ってアスファルトに伏す。
タマエは驚いて真理の腕を飛び出し、店の前に置かれた鉢植えの陰に身を潜めた。
「ちょっと、大丈夫？」
いつもの真理だったら、ぶつかってきたことを咎めていただろう。
当然彼女にはその権利があるのだが、しかし、そうしなかった。
ところが、上体を起こした少女は真理を冷めた目で見つめ、「ぼーとしてんじゃねぇよ」と、迷惑そうに呟いた。
「えっ」
あまりの不躾さに、言葉が出ない。

するとそこへ、薄茶色の犬が駆けてきた。
「きゃあ！」
襲い掛かったと思いきや、犬は少女の顔をベロベロとなめ回している。
「わ、やめてったら！」
「夏美ー！」
犬の後から走ってきた青年が、膝に手を突いて息を整える。
「きっつー」
「しつこいんだよ、ななみ！」
「だってガブリエルがさー。それより、ぶつかったろ。すみません、大丈夫っすか？」
ななみ、というらしい青年は、少女の代わりに真理に声を掛けてきた。
「え、ええ。……あ、タマエ！？」
我に返った真理は、慌てて周囲を見渡した。

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>> 42 恭介はディナー用のビーフシチューを鍋に掛けながら、ふと時計を見やった。エリが遅刻するのは珍しくない。
ランチは予約限定でやっているから、エリが居なくても回すのは楽だ。
あれ……と恭介は何か不自然な感覚に気付く。
エリが遅刻すると、俺はもっとイライラしてたもんだが……
「兄貴ごめんっ！」
エリが勢いよく扉を開ける音に荒い謝罪が重なって、店の静けさを破った。
「……ああ」
「……いつもみたいにキレないの？」
「……うーん」
恭介は曖昧に答えながら鍋の火加減を微調整する。火は生きているように不規則に揺らめく。それは鏡のように見えて、恭介は小さく溜め息をついた。
「……フニャア」
嘆息に妙な声が重なって、恭介は視線を向けた。
猫だった。
見覚えがあるなと思い、この前の客の猫だと恭介は思い出す。
「タマエ？……真理ってば、ボーっとしてるから……」
エリが猫を抱き上げる。猫は何やら眩しそうに目を細めて、フガフガ言っている。
「お前、その猫知ってるのか？」
「うん。友達の」
じゃああの女はエリの友人だったのか。世間は狭い。
「あれ……兄貴って、動物嫌いだった……よね？」
「……ああ」
恭介はまた気のない返事を返した。

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>> 43 「兄貴？火、大丈夫？」

鍋の前で恭介は、何かを考える様にボーッとしている。

「ねぇ！兄貴！」

エリの声ではっと我に返り、ビーフシチューの出来映えを確認し火を消した…


「一番～っと！」

ズカズカと厨房に入り込んだ夏美が、何処から持って来たのか、出来立てのシチューにスプーンを
突っ込みズズッと吸う。
「美味～い」

恭介とエリは、呆気に取られ言葉も出ない。

追い掛ける様にして、厨房に入って来た七仁…

「夏美！！何やってんだよ！お前って奴は…」

頭をを抱えしゃがみ込んだ。その後ろから、犬、ガブリエルまでもが入って来たのだ…

「いい加減にしてくれ！　ここを何処だと思って　るんだ！貴様ら！！こ　んなんじゃ、店は開け　られないじゃないか」

怒り心頭で、恭介は怒鳴り付けた。

数秒の沈黙を破ったのは【Close】の掛札を持って入って来た塔子と、九官鳥を肩に乗せた少女。

「揃ったみたいね。
　今夜は初めての晩餐。　そのシチューで
　始めましょう」

少女は受け取った札を、ドアに掛けながら怪しげに微笑んでいた。

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>> 44 「お前らは……この前の！」

騒然としていた厨房の面々の視線が、塔子と少女に集まる。

少女は、にっこり笑顔を浮かべ、例の少女らしからぬ口調で恭介に告げた。

「高天原という名で予約が入っているはずだ。人数は、七人。シェフの気まぐれランチコース」

確かに、今日の予約は、一件だけ。
電話を受けた時、変わった名字だと思ったのでよく覚えている。

「七人……」

恭介は、順に指さしてみた。

塔子。

産巣日（と九官鳥）。

夏美。

七仁（とガブリエル）。
真理（とタマエ）。

「料理は他の者に任せ、お前ら二人も加わってもらおうか」

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>> 45 恭介は厨房を任せると、円卓へエリの隣へ座った。


産巣日を囲むように、右側から塔子、恭介、エリ、真理、夏美、七仁の順番で座った。


「あ！あと二人席が開いてるのですが？」


恭介が予約が９人と聞いていたので、確かめた。


「あとで、スペシャルゲストを用意してるから、よろしく！」
産巣日はニヤリと笑って言った。

「私お腹空いた、まだかな？」
夏美が言う。

「どういうことかしら？
エリ、わかる」
真理がエリに聞いた。

「真理、わたしもわかんないよ。」

「ガブリエル、やめなさい。」
七仁は、ガブリエルに遊ばれてた…

産巣日に代わり塔子が口を開いた。

「食事の前に、皆様にご説明致します。…

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>> 46 「私は塔子、彼女は産巣日。怪しい者だけど、敵意はないわ」
塔子は現状を把握しかねる面々をぐるりと見回した。
「恭介さん、真理さん、夏美さん。私たちがあなた方に『幸せ』について尋ねたことは覚えてるわね？　そうそう、矢島も私たちの仲間だと思っていただいて結構よ。厳密には違うけど、目的は同じなの」
一同の反応を見つつ、塔子は続ける。
「私たちには、あなた方に幸せになってもらわなければならない理由がある。そうでないと、ある記憶が永遠に失われてしまうから。その記憶とは――真壁龍平」

「リュウヘイ？」
聞いたことのある名前に、恭介が険しい顔をした。
「そう、アリーチェを連れて蒸発したリュウヘイと、同一人物よ」
塔子が頷く。
「その正体は、幸せを喰らう貪欲な龍。人の幸せを奪い、かつ記憶を封印することで証拠を隠滅する魔物。私たちは、高天原――産巣日の住む世界とだけ言っておくけど――そこから逃げ出した、その龍を追っているの」

「ぬしら３人は龍平に会ったことがあるはず。ヤツの居所を掴むには、その記憶が必要となる。不幸によって閉ざされし記憶を解き放つ、それが我らの目的だ」
産巣日が後をついで言った。

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>> 47 一同は絶句……というより、飛び過ぎた話に反応できないようだった。
「言ってる意味が分からん……第一、矢島って誰だ？」と言ったのは恭介。
エリと真理は変な新興宗教ではないか、と密談している。
「まあ、人の子ならば自然な反応よの……」
産巣日の言葉の尻は、椅子が思いきり倒れる音に掻き消される。
「意味分かんないし、アンタら何言ってんの？龍平って誰？……知らないし」
立ち上がって、荒い口調で吐いたのは夏美だった。
「塔子……お前どうしちゃったんだよ？」
今度は溜め息混じりの七仁の声が響く。ガブリエルもタマエもそわそわして落ち着きが無い。
「もう帰る、アンタらといたくない」
夏美は扉に向かって早足に歩き始めた。
「止まれ」
「……ちょ、何コレ……」
突然に動作をやめる夏美の足。静まりかえる場。
「これ、アンタがやってんの……？」
呆気に取られて言う夏美の声は震えている。
「我らも帰ってもらっては困るのだ」
産巣日は深く息をついた。夏美の体は自由を取り戻したが、もう帰ろうとはしない。
「言葉では伝わるまい……見せるとしようか」
産巣日の言霊が、世界を融解した。
「何処だ……ここは」
「高天原、事の始まり、我が記憶」

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>> 48 「もう、随分昔のことだ――」

産巣日が映し出したのは、とても小さな池と、それを取り囲む数人の老人達のイメージだった。
老人達は池を覗いている。
その池には、巨大な都が映し出されていた――


――《今から、

千年以上も昔のことだ。
当時、人間達は、『平安京』と呼ばれる都を築き、政を行っていた。
その頃、流行病や飢饉など……人間達が恐れおののくことは数多くあったが、
中でも、特に恐れられていたのが『物の怪』だった》


産巣日は、月の光に照らされた闇夜の平安京を、上空視点で映し出した。
それと、都の上空を舞う、
一匹の物の怪の姿を……


《中でも、
特に人々を怯えさせていたのが、この『鵺（ぬえ）』と呼ばれる物の怪だった》


頭は虎のようだが、体は黒い靄が掛かっていて視認できない。
見れば見るほど奇抜な姿をした物の怪だ。


《毎夜毎夜、都中を不気味な鳴き声で飛び回るこの化け物に、当時の天皇もすっかり病んでしまった。
そこで、あるとき一人の祈祷師が、我々、高天原の神々に救いを求めてきた。
鵺は大陸から来た化け物で、
彼らでは手に負えないからとな。

そこで我々は、鵺を退治するために、ある神獣を下界に放った……》

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>> 49 「それが……真壁龍平って人ですか？」

タマエの背中を撫でながら聞き入っていた真理は、すっかり産巣日の話を信じ込んでいた。

エリはそんな真理を、呆れた顔で見つめる。
男に騙されるたびに、今度の人は運命の人だ、と目を輝かせる真理を毎回たしなめきた。
そう簡単に他人を信じない用心深さは、この親友のおかげで身についたものかもしれない。

産巣日は、真理を制して続けた。

《その表現は、半分は正しく、半分は誤りだ。
高天原が遣わした龍は、現国では、龍の名を持つヒトの肉体を借りて姿を現す。
当時は、徳龍という僧の姿をしていた。
真壁龍平は、今、偶然に龍が入っている器に過ぎない。

恭介、真理、夏美。
そなたたち三人は、龍の名の付く人間とどこかで関わっているはず。
しかし、その記憶が抜け落ちているのだ》

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>> 50 不意に産巣日が白い腕を上げ、空を指差した。

霞がかった青空は明るいのに、太陽が見当たらない。
そのはるか上空に、踊りくねる蛇のような影があった。

「あれが龍？」
七仁が呟き、目を凝らす。

その姿が、見る見る大きくなっていく――頭を下にして、こちらへ下降してきたのだ。

炎を思わせるタテガミ、黒光りする硬いウロコ。
ぎょろりと剥いた目玉は黄金色に光っていて、小さな瞳がぐりぐりとせわしなく泳いでいる。
不気味な容姿もさることながら、その大きさときたら、新幹線が降ってくるかのようである。
一同は恐怖を覚え、後ずさった。

龍は雷鳴を思わせる轟音で吼えると、老人たちが囲んでいる池に頭から突っ込んだ。
思わず悲鳴をあげる七人の客人たち。
池の水が噴水のように跳ね上がり、肌を刺すような冷たいしぶきが彼らに降り注ぐ。

龍の尻尾の先が池の中に吸い込まれたところで――あたりはもとのレストランに戻っていた。

「さて、話の続きだけど」
塔子の声が、七人の戸惑う者たちを現実に引き戻した。

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>> 51 「……って塔子お前、何サラッとしちゃってんだよ!?」
七仁はあんぐり口を開けたまま、塔子に詰め寄った。
「まあ……慣れ？」
塔子の七仁をあしらう声は面倒そのものだ。
「何だ今のは……催眠術か？」
瞬きを繰り返す恭介。
「まあ、そういう類の力で説明出来ないことはないが……今のは正真正銘、我が記憶。出来れば信じてもらいたい」
産巣日はそう言って軽く頭を下げた。小学生並の外見なので不自然極まりない。
「信じられるわけないでしょ!?そんな話！神獣だ物の怪だって、有るわけないじゃん、思いっきり想像の世界じゃんかよ！」
夏美がいささか興奮しすぎのテンションでテーブルをバンバン叩く。怖がって椅子をずらす真理。
産巣日の視線は無色に冷静だ。それでいて自然だ。いかにも一人だけ突飛なシナリオの全容を把握しているという顔だ。エリは逐一、産巣日の様子を観察していた。
頭のイカれた子供と、頭のイカれた大人の笑えないコンビがわざわざ仕掛けた笑えない冗談……と断言するには流石におかしくなってきたとエリは感じる。
「たとえ信じなくとも、流れは不可避よ。お前らは大局の中に居る。枝葉を風に遊ばせるは易いが、幹を揺るがすは出来ぬ相談」

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夏美はバリバリと頭を掻くと、深いため息をついて、両腕で頭を抱え込んだ。ひどく混乱しているようだ。
一方、他のメンバーはと言うと、こちらも、非現実的すぎる展開に、やはり脳内の許容範囲がパンクしているらしかった。
皆、唸っている。

「ちょっと、説明が唐突過ぎたんじゃない?」

塔子がダメ出しする。
産巣日は相変わらずの無表情のまま、

「受け入れて貰うしかない」

とだけ呟いた。
しばし沈黙が続いた。

「……あのぉ……」

だが突然、開口一番に沈黙を破った者がいた。
真理だ。

「……結局のところ、
私たち三人はどうすれば良いんですか?」

「簡単よ」

塔子が即答した。

「あなた達の不幸を、私たちが買い取ってあげるの」

そう言った塔子の背後に、
突然、背の高い口髭の男が、
まるで魔法でも使ったかのように現れた。

「はい、どぉもぉ～」

「……あなた……」

真理達の前に突如現れたのは、手品師でも、微妙な悪魔でもなかった。
そう、バイオレット矢島だ。

「……ただのオッサンじゃん」

夏美の冷静なツッコミに、矢島はコホンと咳払いをした。

「人を見掛けで判断してはいけません」

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>> 53 「バイオレット矢島とはこの世での仮の名。何を隠そうその実体は……」

「矢島、簡潔に話せ。こやつは、高天原に住む蛇の化身だ」

産巣日が矢島の話に割りこむ。

「はぁ…なるほど…」

「へびぃ？ショボっ」

「向こうは龍だろ？大丈夫なのか」

壮大な神の話を聞いた後で、一同の反応は薄い。

「えー、ゴホン。それでは、不幸を買い取る、ということについて具体的に説明しましょう。これから、私の力を使い、お三方の記憶の中に入らせていただきます。そこで、龍に持ち去られた、不幸な記憶の手がかりを探し、龍の居所をつきとめます」

「オッサン…アンタがやるのかよ？」

さすがに激しく抵抗することはあきらめた夏美だが、不信感をあらわにする。

「ご安心ください。記憶に入るのはわたくしではなく、こちらの塔子さん、それと……三匹の動物たちです。夏美さんの記憶にはガブリエル、真理さんにはタマエ、そして恭介さんには、九官鳥のパロに、共に入っていただきます」

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>> 54 《第六場　真理の記憶～怒り》

「真理さん。まずはあなたから」
塔子に名前を呼ばれ、真理ははっと身を強張らせた。
「あなたが、この中で一番現状を受け止められているわ。私を信じて、心の声に耳を澄ませて。今から、あなたとタマエの心を繋ぐから」
真理は膝に乗っているタマエを、怯えつつそっと撫でる。
「ニャー」
無垢な瞳が、真っすぐに彼女を見上げていた。

タマエ。
私、幸せになれるのよね――。

「いいわ」
真理は皆に見守られる中、静かに目を閉じた。

[……こえる？聞こえる？]

やがて、澄んだ声が真理の胸に広がった。
それは、彼女にしか聞こえない声。
「聞こえるわ」
その途端、真理は柔らかくて暖かい何かが、優しく寄り添うのを感じた。

[あなたの幸せは、怒りの向こう]
歌うように、柔らかな気配が言う。
[騙されたと思うのが恐くて、傷つきたくなくて、あなたは怒りを忘れた]

「私、騙されてなんか……」

[いいえ、あなたは騙された。自分に嘘をついている限り、あなたは幸せになれないの。あなたの怒りを、あなたが認めなければ]

そのとき、真理を包んでいる景色が歪んだ。
そこは、封印されていた彼女の記憶の世界――

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>> 55 「これ……大丈夫？」
気を失った真理と塔子をエリが見下ろす。猫のタマエも、身じろぎ一つしない。
死んだ様だが、耳を澄ませば深い息遣いが聞こえた。
「ご安心を」
矢島が微笑んだ。
「……お前らに訊きたいことがある」
そう口を開いたのは恭介だった。
「ええ、何なりと」
「お前らの話は矛盾しすぎている。最初にその塔子という女は、龍平は『魔物』だと言った。しかし産巣日の記憶では『神獣』だとされている。アンタの話では、龍平が持っていったのは『不幸な記憶』だ。だが塔子は最初に、龍平は『幸せを喰らう』と言った。龍平の本当の正体は、魔物か？神獣か？喰らうのは幸せか？不幸か？そもそも、物の怪退治に遣わした龍平が逃げた理由は何だ？」
恭介は疑問点をすらすらと述べた。矢島が苦い表情で産巣日に向き直る。
「これはまた、随分乱暴に端折りましたねぇ……」
「……うるさい」
矢島は嘆息した。
「回答から申せば、彼の龍は過去は神獣、現在は魔物と言えます。喰らうのは幸せですが、痕跡を潰すために不幸をも持ち去ります。そして彼の龍は、恐らく自らの意志で逃げたのではなく……鵺に取り込まれた」
「詳しく聞かせてくれ」
矢島は頷いた。

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>> 56 「ではまずは、龍について語らせていただきます。
そもそも龍というものは、もともとは現国にのみ生息していた生き物なのです。
現在、高天原にいる龍も全て現国産です。
彼らはとても温厚で、そして純粋な種族なのです。ですが、その純粋な性格が現国での彼らの生態系を脅すこととなったのです。

永い年月を経るウチに、環境が変わり、彼らにも天敵が現れたのです」

「天敵?」

恭介は眉間にシワを寄せた。
矢島は、少し間を挟んでから、続きを話し始めた。

「人間ですよ。
龍は純粋で温厚だと申し上げましたが、それ故に、人間は彼らにとって最大の脅威でした。
龍はとても敏感な生き物です。生物の感情の高ぶりや、生死に強く反応します。
彼らの個体数が著しく減少し始めたのも、ちょうど人間が知恵をつけ、各地で國を作り、殺し合いを始めた頃のことでした。
憎しみや悲しみが各地で蔓延し、多くの龍が病み、死に絶えました」

矢島がそこまで語る頃には、
既に一同の関心は、完全に龍の話題へと向けられていた。

「……話が矛盾してないか?
現国で暮らせないから、龍を高天原に棲まわせてるんだろう?
だったら何で、鵺退治に使ったりしたんだ」

恭介が問う。

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>> 57 「それは……」

矢島はチラリと産巣日の顔を伺った。

黙って皆を見守っていた産巣日が、重い口調で語り出す。

「致し方なかったのだ。ぬえは、死者の魂を呼ぶ妖怪。現国の術者では、倒すことはできても、取り込まれた人間の魂もろとも消滅させてしまう。高天原の龍ならば、ぬえの心を奪い、姿はそのままに無害なものにできるはずだった。ところが……」

「逆に精神をぬえに乗っ取られた龍は……龍の名のつく人の姿を借りながら、千年もの間、死者の魂を取り込みつづけている、というわけです」

矢島が産巣日の言葉をつないだ。

「ななみ、アタシもうギブ。あとよろしく」

夏美はついに机につっぷしてしまった。

「おや失礼、夏美さん。少し話が難しかったですね。ではここで、皆さんに簡単なクイズです」

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>> 58 「死者の魂を喰う鵺が、何故記憶を喰うのか？」
「元々じゃないのか？」
「違いますね」
「なら簡単だ。鵺の性質じゃないなら、それは取り込まれた龍の性質だ」
「御明察」
矢島は指を鳴らした。
「龍は元来、幸福な記憶を主食とする種族です……だから現国では生きられなくなった」
「……人間が争い、不幸が蔓延したからか」
「ええ、食糧不足という訳ですよ。逆に台頭したのは鵺を初めとする物の怪たち」
「物の怪が尊ぶは不幸と死者。奴等は不幸を巣とし、死者を糧とする」
「どういう意味だ？」
「例えば……エリさん、貴方が鵺を見たとします。どう感じますか？」
「えっ!?……恐い、とか？」
「そう。『鵺を恐れる』という記憶の中に鵺は住むわけです。物の怪は実体を持たず、無数の恐怖の記憶として氾濫し……死者の魂を喰う」
「そんなのどうやって倒すんだ？」
「喰えば良い」
「喰う？」
「鵺は恐怖の記憶です。記憶ごと食べてしまえば良いのですよ。そして最後の一体となった鵺から『鵺である』という記憶――心を喰えば良い。これで鵺に記憶された死者の魂も無事回収できる」
「だが、龍は不幸を喰えないんだろ？」
「昔はね。ですが生物は進化するものですよ」

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>> 59 「今の龍は、人間の不幸な記憶を喰べることが出来る」

「……しかし、その肝心の龍は鵺に精神を乗っ取られたじゃないか」

「……あああああ!!!
もう、ぜんっぜん分かんない!!!
つまりどういうことなのよ!?
分かり易く説明しなさいよ!!!」

ついに、夏美がキレてしまった。あまりにも唐突なことだったので、一同は思わず唖然としてしまった。

「……ちょっとややこしかったですかね。
つまりですね……」

「つまりじゃ、
《鵺》を捕まえようにも、ヤツは人間の魂を人質にとっておる。その魂を無事に解放させるには、《龍》の力を借りるしかない。
ところがじゃ、その《龍》が逆に人質にされてしまった。
《鵺》は《龍》を使い、悪事の限りを尽くしておる。しかも、その証拠は全て《龍》の力を使って隠蔽しておる。
我々は《鵺》と、《鵺》に利用されている《龍》を探すために、現在捜査をしておるのじゃ。
そしてその捜査の途中段階で、お主達に辿り着いた。お主達の記憶は、《龍》の居場所を知るための重要な証拠なのじゃ」

「……なんか、三流刑事ドラマみたいな話だな」

「刑事ドラマか、ふふ……
まぁそう考えて貰った方が分かり易いかも知れぬな」

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>> 60 「これでご理解いただけましたかな？長い解説でシチューもすっかり冷めてしまいましたね。さぁ皆さん、食事をとりながら真理さんの記憶の続きをたどるとしましょう」

「最後にもう１つだ。矢島とやら、お前は産巣日とは違う目的で動いていると言った。それを教えてもらいたい」

「なあに、わたしはしがない蛇……じつにくだらない生業ですよ。現国ではね、珍しいいきものは高く売れるんです。ましてや、数百年前に絶滅したはずの龍の鱗ともなれば……国を動かすほどの値がつくでしょうね。もっとも、わたしはそんな額は欲していない。一生遊んで暮らせればいいんです……」

矢島の目が一瞬、蛇の目に変わったことに、誰も気づかない。


ガブリエルだけが、伏せ、の姿勢のままグルルと唸り声をあげた。

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>> 61 強烈な光が走った。
支えを失ったように、突如として真理は急速に下降する。
フラグメントが、まるで鳥の群れのように流れていく。
そして瞳は映す。
自分の記憶を。

まず見えたのは、タマエの飼い主だった男の姿だ。別れたのはつい最近だったのに、霞が掛ったように顔が思い出せない。
それは想起する間も無く流れてしまう。
自分を捨てた男たちの姿。自分を騙した男たちの姿。その数多の残滓、飛沫。
連なり、絡み、裂け、走り去る記憶の流星群。繰り返す接近と離脱。
感傷は無い。それは忘れたいからかそれとも忘れてしまったからか。真理には分からない。
限界量のホログラムが視界を埋め尽す。圧倒的な、たった一人の記憶。
真理は今の今まで、自分の人生は酷くつまらない物だと思っていた。回想の仕様も無い物だと思っていた。
それがどうだろう、この海より膨大な記憶の粒子は。私という歴史を構築する無数の建材は。記憶とはなんというスケールを持っているのだろう。

真理が一種の感慨に包まれていた時、突然タマエが腕の中から飛び出した。
「あっ、タマエ！」
タマエは記憶の海を抜けて闇へと乗り出す。真理は飛び交う記憶の欠片を避けながら、タマエを追った。

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>> 62 「タマエ!」

記憶の欠片の間を、タマエが器用に駆ける。
その後を、真里が必死に追う。

「待ってよ!!」

しかし、タマエとの距離は
どんどんと開いて行くばかりだ。記憶の欠片が、真里の視界を遮る。

「タマエ!」

もう一度大声で、タマエの名を叫ぶ。しかし、
真里はとうとうタマエの姿を見失なってしまった。

「タマエ!?タマエ!?」

何度もタマエの名を呼ぶが、
その姿はどこにも見当たらない。途方に暮れる真理。
まるで、一人だけ遊園地のミラーハウスの中に置いてけぼりにされたような……まさしくそんな状態だった。

成す術もなく、ただ呆然と立ち尽くす真理。


「……いったい……どうしろってのよぉぉｯｯ!!!」


苛立ちと焦りが限界に達し、
とうとう真理はキレてしまった。
すぐ傍を流れて行く記憶の欠片を、力いっぱい叩こうとする。
ところが彼女の手は記憶の欠片を粉砕することなく、そのまますり抜けてしまった。
手に体重をかけ過ぎたため、彼女は思わずバランスを崩してしまい、そしてそのままスッポリと、体ごと欠片に突っ込んでしまったのだった。
案の定、彼女の体は記憶の欠片を透過したのだった。

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>> 63 「やはり、肝心の龍の記憶は、表層意識からは奪い去られているようだな。だが、真理自身のたどり着けない深層意識レベルで探れば、【欠片】が集められるはずだ。……塔子、準備はよいな」

「……はい。これから、私がタマエの意識を追いかけます」

塔子は、凜とした表情で産巣日の問いに答え、ゆっくりと目を閉じた。

鳥獣にのみ触れることのできる、ヒトの深層意識ゾーン。タマエは、真理の記憶の中へと旅立った。塔子は、タマエの見たもの、聞いたものをメッセージとして受け取れる力を授かっていた。

「塔子は…大丈夫なんですか…？」

七仁がおずおずとたずねた。つい数日前までの同僚は、自分の理解の範疇を越えた世界に踏みこんでしまっている。

「案ずることはない。塔子自身は、以前と何も変わっていない。わたしは、塔子のもともと持っていた才能を最大限に引き出しただけ。こいつは、動物の心を感じることに長けているのだ」


たしかに、七仁は、自分にないドッグトレーナーとしての適性を、塔子に感じていた。

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>> 64 無数の記憶の破片が漂う中で、真理は突っ伏していた。
唯一の手ごたえを返すその地面に、握りこぶしを押し付ける。
無性に腹が立つ。
「わからない……！わからない、わからない！」
なぜ怒りがこみ上げるのか解らず、真理はひたすら叫び、涙を流した。

「わからないなら、探しにいきましょう」
どこかで、塔子の声がする。
「本当にわからないの！」
真理が言い返す。

「答えをいきなり見つけようとしないで。今から、私がヒントをあげるから」



――塔子の思念は、見覚えのある街に立っていた。
アスファルトから陽炎が立ち上っているが、暑さは感じない。
タマエが、とことこと前を歩いていく。
それに続いて、彼女は真理の記憶の中を進み始めた。
「ここは隣町ね。タマエが向かっているのは……スーパーだわ」



「スーパー……？」
真理は目を開く。
見慣れた看板が見えた気がした。
前のパート先だ。
これまでに思い出すこともなかったので、遠い昔に辞めたように思っていた。
「先月、そこを辞めたところなのに。なんだか懐かしい」



タマエがスーパーの裏手に向かって歩いていく。
塔子はそれに続いた。

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>> 65 「……私？」
裏にある従業員用の出入口から姿を現したのは、真理だった。
「お疲れ様でした」
自分の声、自分の姿。鏡映しじゃない、本物の自分。それがそこにはあった。
塔子とタマエは、それを少し遠くから眺めていた。

ゆっくりと進む真理の背中。塔子はタマエを抱えて、それに従った。
夕焼けが空を包んでいた。少し丸まった自分の背中は、真理にはいかにも頼りない物に見えた。
細長いシルエットが、カツンカツンと靴音に沿って揺れる。影さえも、ふっと何処かに消えてしまいそうに真理は思う。
自分は、こんな風に見えていたのだろうか？こんな姿を、いつからしていたのだろう？
何が、とは言えない。けれど厳然とそこにある、消え入りそうな微かな雰囲気。その正体は諦めだろうか？それとも悲しみだろうか？
真理は自分が何から作られているのか、不意に恐ろしくなった。
さっき見た無限の記憶の奔流は、確かに真理を勇気付けた。しかし今は、海馬の奥底に眠る欠片たちの姿に、自分の経験してきた全ての不確かさに、真理は脅えていた。
真理は背筋に寒さを感じた。今の自分には体すら無いというのに。
今の自分には、自分すら満足に感じることが出来ないというのに。

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>> 66 自分は一体、何なんだろうか。
目に浮かぶのは、ただ惨めな姿が映った、自分の記憶ばかり。
真理は、自分と言う存在が発する虚無感と、更にその虚無感が発する精神への圧迫感に、恐怖や不安すら覚えていた。

それらから逃れたいがために、真理は何度も自問を繰り返し、ただひたすら模索する。
――いつから自分は、自分を見失い始めてしまったのか。なぜ自分は、自分を見失い始めてしまったのか――

今の彼女が持ち合わせる答えは、ただ一つしかなかった。

それは――他人への依存だ。
本当の自分を押し殺し、男に好かれたいがために作り上げてきた仮初めのﾞ自分ﾞ。相手に従順に尽くすことで、少しでも必要とされたいと願ったﾞ自分ﾞ。

その過剰なまでの執着は、彼女自身を苦しめる一番の要因にもなり得たが、それと同時に、そうすることで、彼女は自分に自信をつけてきた。

常に新しい男性に見初めて貰うために、誰よりも綺麗でありたいと願い、過去の自分を新しいﾞ自分ﾞで塗りつぶしてきた。
辛い記憶も、昔の自分も、
全てを記憶の彼方に封印してきた。

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>> 67 「なんだかとても寒いわ。早く…帰りたい」

真理はうつろな表情で言った。

季節は夏の終わり。物理的な寒さではない。
恋人にも家族にも、自分にすら見せてこなかった真理自身を、文字通り直視せざるを得なくなり、身を引き剥がされる思いがしていた。

「真理さん、ここで逃げてはダメです。確かに私たちの目的は、龍の形跡を探すこと。でも、タマエは、いつでもあなたの味方よ。あなたの幸せを、ここにくる前からずっと探していたんです」

タマエは、という表現は、いかにも塔子らしい。

塔子が言い終わるのと同時に、タマエが塔子の腕からひらりと飛び降り、駆け出した。と同時に、毛皮から金色の光を放ち、虎ほどの大きさになった。タマエ（もはやタマエというがらではないが）は、真理と塔子を振り返り、背中に乗るよう促した。

「さあ、行きましょう」

塔子が真理の手を取る。

「行くってどこに…？」
「もう少し古い記憶。あなたが、この街に来る前に住んでいたところよ」

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タマエの背中にまたがった途端、景色が早送りのように移ろい始めた。
爆風が髪を殴る。
タマエが走っている様子はなく、彼女たちを取り巻く空間が快速列車のように流れていくのである。

やがて――。
ぴたりと停止した景色は、都心にある広い公園だった。
日が暮れて間もない空は、ピンク色から濃紺へのグラデーション。
明星が凛と輝いている。
公園には誰もいない。
何の音もなく、まるで静止画のような景色だった。

真理は、心臓が萎縮するような、鳥肌が立つような感覚を覚え、思わず自分の身体を抱きしめた。
「知らないわ、こんな場所」

そのとき。

――ぽつり。
ベンチに座る老夫婦の姿が浮かび上がった。

――ぽつり。
犬に散歩をさせている子供。

――ぽつり。
木陰の野良猫。

徐々に、公園は現実味を帯び始める。
遠くに車のクラクション。
近くを走る鉄道。

「記憶がよみがえっているのよ」
塔子が言った。
「嘘よ、知らない」
真理はかたくなに首を振る。
しかし、その言葉こそが嘘だった。

ふっと、涼しい風が吹き抜ける。
（ああ、そうだ。あの日は少し肌寒かった……）

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>> 69 夏と秋、紙一重の境目。
いつからか、寒さを感じることには慣れていた。真理はベンチに座る、少しだけ若い自分を見た。
下を向いたままの表情を窺い知ることは出来ない。ちょっと好きな男に、ちょっと冷たくされたのかもしれないし、ちょっと大事な仕事で、ちょっとミスったのかもしれない。
覚えていない。
その時私の見なかった、この空、この光。
過去のカンバスに引かれた飛行機雲は、心なしか危うげな明度を見せる。
真理はその白さが深い藍色の底に落ちるまで、じっと虚空を見上げていた。
闇は人を遠ざける。本能的に恐怖するのかもしれない。一つ、また一つと人が消えて、代わりに漆黒が横たわった。
そうして、私は独りになった。
雨が降ってきた。
躊躇いがちに私の頬を濡らす滴は、鏡のようで怖い。
刹那、公園の入り口に人影が映った。
彼は私の元に歩いてくる。覚えている。知っている。
私を覆ったスカイブルーの傘を、確かに覚えている。
「寒いね」
彼は何も訊かずに一言、ごく自然に呟いた。
瞬間に分かった。初めてそう感じた。
特別だと。
もうこの一瞬に、私と彼の間の全てが決められてしまったのだ。
忘れるはずないのに。
真壁龍平は、私の恋人だった。

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>> 70 ――「……!!」

次の瞬間、地面に叩きつけられたような衝撃が、真理の身体を駆け巡った。
と同時に、彼女の意識が現実の世界へと引き戻された――。











――目を開けると、
呆然とした表情で一斉に彼女の方を見つめる、一同の姿がそこにはあった。


「……大丈夫か?」


恭介が、心配そうな表情で彼女に声をかけた。
真理は自分の顔に触れ、頬が濡れていることに気づいた。
溢れ出した記憶と感情は、無意識のうちに彼女の涙腺を緩ませていたのだ。


「……大丈夫」

「ほら、ハンカチ」


エリはバッグからハンカチを取り出すと、真理の頬を拭った。
突発的なものだったらしいこの涙は、どうやらすでに止まっているらしかった。
真理は、まるで夢でも見ていたかのような、不思議な気持ちに包まれていた。


「記憶は……戻ったのか?」

「えぇ、成功よ」


恭介の問いかけに、塔子が満足げな表情で返事を返した。
産巣日が真理に声を掛ける。


「気分はどうじゃ?」



「……変な感じ」

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>> 71 「真壁龍平は真理さんの恋人となって、彼女を隠れ蓑に人間の魂を――。そして立ち去る直前に、真理さんに不幸を植え付けたようです」
塔子が説明する。
「記憶を消し去ったのではないのか？」
恭介が尋ねると、産巣日が頷く。
「人間は不幸の思い出を無意識に消去しようとする。その現象を利用して、鵺は記憶を封じるのだ」

そのとき、エリが「真理、大丈夫！？」と大きな声を出した。
「塔子！」と七仁が呼ぶ。
真理は頭を両手で覆い、うずくまって、泣き叫んでいる。

「心配はないわ。心が解き放たれた証拠」
塔子が真理の背中をさすった。
「とはいえ、今までないものと思っていた心の傷を、突然目の前に突きつけられたんだものね……」

「私の出番ですな」
言ったのは矢島だった。
矢島は真理の前に膝をつくと、彼女の顔を覗き込んだ。
「シー……」
彼の唇の間から漏れる空気の音が、真理から混乱を奪っていく。
「あなたの不幸を、買い上げます」
矢島は真理の頭に手のひらを押し当てた。
「記憶を奪うのではありませんよ。あなたの治癒力を高め、傷を過去に帰すのです」

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>> 72 「目を閉じて……」
真理の瞳が次の瞬間に捉えたのは、ただ白の空間。
在るのは真理と矢島だけだった。
不意に矢島が指を鳴らす。
その瞬間に展がる無数の光。鮮やかに蘇る記憶のギャラリー。
「失礼だとは思いますが……龍平と真理さんの思い出を集めさせて頂きました」
龍平。真壁龍平。
さっきまで忘れていた男の顔が、どうしてこんなにも愛しく見えるの？
真理は寒さに似た困惑を覚えながらも、目を凝らした。
そうだ。彼も猫を飼っていたんだ。彼の笑顔。それを見る私の笑顔。
美味しいはずないのに、笑って全部食べてくれた下手な手料理。
ベッドの中、窓から射す月明かりに照らされた寝顔。
そして……別れを告げられた朝。
その瞬間が恐ろしくて、怖くて、冷たくて、だから全部失ってしまった。
彼は鵺だ。だから多分、私の事を愛してはいなかった。彼の見せる表情も、仕草も、言葉も、全部空言だったのかもしれない。
それでも、私が彼を愛した気持ちはきっと本物で、掛け替えの無いモノ。
別れが全てを消してしまうわけじゃない。
大切な物を消していたのは、むしろ私。
「忘れてた……私、こんなにも幸せだったのね」
真理は一筋の涙と一緒に、言葉を落とした。

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>> 73 《第六.五場 小さな約束》

「みき。手を出してごらん」

龍平は、ランドセルのままブランコに腰かけた少女の目の前に、握りこぶしを出してみせる。

「何だろうなぁ…」
美姫は、嬉しそうに目をつぶってあれこれと予想をめぐらせる。


【シャリン】


少女の手のひらに、小さなガラスの小瓶が転がった。
中には、ビーズのような透明の玉が、角度によって色を変えながらきらきら光っている。

「きれい！ねぇリュウ兄、これなあに？」

「これはね、僕と美姫をつなぐお守りなんだ。美姫がこれを大切に持っていてくれれば、いつでも会える」

「……リュウ兄ちゃん、またどこかへ行ってしまうん？」
少女は、小瓶をぎゅっと握りしめ、青年の顔を必死に見上げた。

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>> 74 龍平は優しげな笑みを浮かべると、美姫の前にしゃがみこんで小瓶を握る手を包み込んだ。
「すぐに、戻ってくるよ」
「ほんまに？」
「ああ。その瓶、なくすんじゃないぞ。次は青い玉をお土産に持って帰ってこよう。少しずつその瓶に貯めて――」

そのとき、何かの気配を感じたのか、龍平がサッと曇天を仰いだ。
「どうしたん？」
美姫はこわばった龍平顔を見上げる。

「……。いや、もう行かなきゃ」

ビュオウと旋風が走った。
砂が眼に入らないよう俯いた美姫が、次に眼を開いたとき、そこには龍平の姿はなかった。

「もういっちゃった」

美姫は小瓶を握ったまま、キィーキィーとブランコを揺すった。
ゴロゴロ――。
遠くで雷の轟きが響く。

「雨」

ぽつりと、美姫が呟いた。

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>> 75 《第七場 夏美の記憶～諦め》

気付かない内に、雨が降ってきたらしい。滴が地を叩く音が微かに店内に響いた。
「……やっぱり今回も、ハズレってことかぁ……」
塔子が嘆息する。
「どういうこと？」
自分に非があるのかと、真理の尋ねる声は不安げだった。塔子はすぐに手を振った。
「真理さんのせいじゃないんだよ……私たち、龍平の手掛りを探してるって言ったでしょ？」
「ええ」
「真理さんの記憶には、それが無かったってだけのこと」
恭介は怪訝な表情を浮かべた。
「さっきから気になってるんだが……手掛りって具体的にはなんなんだ？」
「実物をお見せしましょうか？」
「見れる物なのか!?」
驚きの声を上げる恭介に、矢島は笑顔で頷いた。
矢島は右手をおもむろに突き出す。開き、握り、そして開く。
次の瞬間には、その中に小さな玉が一つ。
「凄い綺麗……宝石みたい」
「世界最大のダイヤよりは、遥かに価値ある品ですよ……小さいこれでもね」
エリの感想に矢島はそう付け足した。
矢島の掌で輝くそれは、まるで海をそのまま閉じ込めてしまったかのような、果てしない深さを思わせる青を湛えている。
「我々は、これを『想玉』と呼んでいます」

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>> 76 「想玉……」

気付くと一同は、すっかりその玉に魅入ってしまっていた。
その玉が放つ魔的とも言えるほどの美しさが、一同の心を虜にしたのだ。
ただ一人、真理だけはその誘惑に反応を示さなかった。

「……ねぇ、
それは一体……何なの?」

それどころか、まるで警戒心を顕わにしているかのようだった。矢島は真理に、ニコリと微笑んだ。

するとその直後、彼の手のひらに乗っていた想玉が、いきなり宙に浮かび上がった。
すでに何度も見せられているイリュージョンを前に、一同の反応は薄かった。

宙に舞った想玉は青白く輝き始め、やがて強い光を放った。
そして今の今までレストランの中にいた一同の前には、先ほどまで真理が見せられていた、記憶の中の情景が広がっていた。
そこには元気のない真理の姿と、もう一つ、彼女の傍に佇む青年――真壁龍平の姿があった。

「この記憶はおそらく、最近のものではありません。もっと以前のものです」

「こいつが……真壁龍平なのか?」

「そのようです。
私も、実物を見るのは初めてですが……。
それにしても、コレは確かに見事な変身術だ。ほほほ」

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>> 77 「たしかに、真理がこの街に越してきたのは六年前のことだから……少なくともそれよりも前の記憶になりますね」


エリが、想玉による幻影と実物の真理を交互に見ながら、指折り数える。今、自分の隣にいる親友は、不安げな表情ながらも、今朝よりもずっと、しっかりとした足取りでそこに立っているように、エリには見えた。

「龍平の手掛かりをつかむには、さらに新しい記憶が必要なのですが……」

矢島の視線が、夏美を捉える。思わず、椅子からガタリと立ち上がる夏美。

「ア、アタシ？アタシは遠慮しとくよ……ほら！真理サンと違ってカレシなんかいたことねーしさ、だいいち、妖怪とかって信じないから、うまくいかねーよ！なあ、ガブ…」

さすがの夏美も、もう真っ向から抵抗するわけにはいかなかった。
乾いた笑いを浮かべながら、必死に手をブンブン横に振っている。


不意に、ガブリエルが夏美の右膝をペロッと舐めた。

「！！！」

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>> 78 ガクンッ。
驚いて足を引いた途端、膝の力が抜けた。
「わっ」
「危なっ……！」
隣にいた七仁が慌てて夏美の腕を掴み、彼女はどうにか転倒を免れた。

その瞬間、夏美の脳裏に閃光が走る。
――あまりの眩しさに、目の前が真っ白なのか真っ暗なのかわからない。
けたたましいホーン、迫る巨大な気配。耳を貫くブレーキ音。
横から誰かが、叫びながらこちらに飛び出し、手を伸ばして――。

「いやああ！」
夏美は思わず顔を覆い、しゃがみこんでいた。
「ぶつかる……！」
「え？」
突然わけのわからないことを叫んだ夏美に視線が集中する。
うずくまる彼女と、それを見守る一同。
一瞬、シンと時間が止まったかのようだった。

「夏美？」
やがて、恐る恐る七仁が声を掛けた。
七仁の呼びかけに、夏美は我に帰る。
「あ……れ？」
顔をあげ、辺りをしげしげと眺めた。
「今の……何？」
車？
横から出てきたのは誰？
ひかれたのは誰？

夏美は１人困惑して、視線とともに周囲に答えを求めた。

「今のは、途切れた記憶の糸口だわ。今度はもっと早くアイツのところに辿り着けそうよ」
塔子はそう言い、ガブリエルを見下ろして微笑んだ。

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>> 79 不意に矢島の手が伸びた。夏美の意識は否応無しに記憶の海へと引きずり込まれて行く。
青。一面の青。
深海の泡沫に似た記憶の欠片が泳ぐ、始まりから今までの大海。
「ガブリエルが、貴方の記憶を辿ってくれるわ……」
塔子の声が聞こえる。夏美はそれを拒絶する。
私の記憶。私だけの記憶。思い出すのも、忘れるのも、私の勝手でしょ？
どうして引き出そうとするの？どうしてそっとしておいてくれないの？
記憶の奔流を縫うガブリエルの背中を追う瞳が、陰りを帯びた。
「どうしたの？」
塔子の声。夏美は思う。それは偽善者の声だ。
違う、偽善ですらない。それは悪意だ。
夏美は見ていた。「アイツのところに辿り着けそう」と言って見せた塔子の微笑を。
打算の透いた顔を。
塔子は私の事なんか知ったこっちゃない。ただ情報源にしたいだけ。人の記憶をズカズカ土足で踏みにじって、好き勝手荒し回って、目当ての品を見付けたら、放り出して、終わり。
あいつら、皆そうだ。勝手だ。人の気持ちなんか考えちゃいない。
見たいのは、記憶だけ。
見てる、見てるの？
笑ってる？嘲ってる？
……ふざけるなよ。
「お前ら……自分勝手な都合で……アタシの記憶を見るなぁっ!!」

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>> 80 夏美の怒号が、空間内にﾞ歪みﾞとなって響き渡る。
まるで、水面に大きな石を叩き込んだときのような、巨大な波紋が、夏美を中心に精神世界に広がった。
直感的に、ただならぬ事態であることを察知した塔子は、すぐに夏美との意識を切り離した。


――「っ……!!」

「どうした、塔子」

産巣日は塔子の様子がおかしいことに、いち早く気づいた。
いきなり意識を切り離したため、精神的なエネルギーが塔子の体に逆流してきた。その衝撃で軽い頭痛に見舞われたのだ。

「おい……大丈夫かよ!?」

「……平気」

とは返したものの、七仁の目に映る塔子の姿はとても平気そうには見えなかった。
塔子はチラリと産巣日に視線を移した。まるで助けを求めているような上目遣いをしていた。その目には、僅かながらの不安が宿っていた。
産巣日は小さく溜め息をつき、少し呆れた表情で塔子を見据えた。

「……で、何があった?」――





――「……なるほどな」

塔子は事情を全て説明した。
その姿はいつになく動揺しているように、周りの目には映った。

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>> 81 「……どういうことですか？僕らにも分かるように、説明してください」

七仁は、できる限り冷静を装い、低い声で産巣日に詰め寄った。
正直言って、龍だぬえだの話はあまりに突飛すぎて、七仁には実感がわかない。映画を見るような気持ちで、皆の様子を呆然と眺めていた。
しかし、自分の友人や愛犬に危害がおよぶとあっては、黙ってみているわけにはいかない。

「七仁、大丈夫、私から話すわ」
塔子が青ざめた表情で、グラスを水に口をつけた。ガブリエルが心配そうに、塔子の膝に前足を乗せ、フッフッ、と鼻を鳴らす。「彼」もまた、塔子の動揺とシンクロするように、薄茶色の背中の毛を逆立てていた。

「この子……過去にぬえの姿を見ているわ」

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>> 82 「ハハッ……あんたら何様？」
全員の目が瞬間に夏美を捉えた。
「夏美……」
伸ばした七仁の手を、夏美は撥ね除ける。近付く全てを拒絶するように。
「いいわよ、別にあんたが本物の神様だってアタシはそんなのどうでもいいよ……でもさ、神様なら何したっていいの？……何したって許されんの？……ねえ？」
うつ向いた顔に髪が落ちて、表情は窺い知れない。
体が震えている。それは悲しみにも、怒りにも見える。七仁は両方だと思う。せめて片方だけでも、自分が肩代わりしてやれたら。
そう考えてから、それすらも今の夏美は拒むのかも知れないと思った。
だから声が出なかった。誰にも言葉が無かった。
……産巣日以外には。
「甘えるなよ……小娘」
低く冷たい声が響く。
「貴様独り、何も知らずに居れれば良いか？……鵺は今も災厄を振り撒いておる。貴様の如き不幸を生んでおる。貴様の軟弱な身勝手で、それらから目を反らすことは許さんぞ……」
「そんなのアタシには関係無いじゃないっ！」
「それは誰でもない、貴様の記憶だ！」
「だから何っ!?」
夏美はもう、雨の中へと駆け出していた。
「待てよっ！」
追い掛ける七仁。
更に追おうとした塔子を産巣日は制した。

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>> 83 「追わなくても良い、塔子」

「っ……だけど……!」

「今は、お前の出る幕ではない」

「…………」

塔子は上唇を噛み締め、その場に立ち尽くした。開いたままのドアからは、冷たい風と、雨の飛沫が吹き込んできた。
産巣日は窓の外に目を向ける。
外は激しい雨で、視界が霞んで見える。曇天の空に一筋の稲妻が走った。直後、激しい轟音が辺りに響き渡った――



――激しい轟音が辺りに響き渡った。夏美は驚きのあまり、
思わずその場にしゃがみ込んでしまった。雷の轟音が、彼女の頭に響いた。夏美は頭を抱え込んだ状態で、その場にうなだれた。

暫くすると背後から、七仁が息を切らしながら駆け寄ってきた。視界に夏美の姿が映った瞬間、七仁は異様な不安を覚えたのだった。
何故なら彼女は、雨の中で一人、頭を抱え込んだ状態でしゃがみ込んでいたからだ。
彼女の名前を叫んだ。返事は無い。近づいてみると、夏美はしゃがみ込んだ状態で、小刻みに震えているのが分かった。

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>> 84 ふたたび雷鳴が轟いた。ガブリエルが背中の毛を逆立てて、ブルッと身震いする。

不意に、店内の照明が消えた。
「停電？！」
「大丈夫だ、非常灯がある」
そう言うと恭介は席を立った。

薄暗い店内に、重い沈黙が流れる。

口火を切ったのはエリだった。
「夏美さんを……連れ戻さなくて、良いんですか？さっきワンちゃんが触れたのは、記憶の欠片でしかないんでしょう？夏美さん本人がいなければ、これ以上の手がかりは……」


「だからこそ、出て行かせたのでしょう？」
矢島が、悪戯っぽい笑みを浮かべながら産巣日を横目で見る。

「私が言うのもなんですがあなた悪趣味な人だ！記憶がフラッシュバックするよう、仕向けましたね？そう、恐らくその日もこんな雨と雷……古より、ぬえがもっとも好む空もよう……」
矢島は唄うように話した。

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>> 85 「……そうなの、産巣日？」
塔子の陰りを帯びた声が響く。
「……矢島の言うた通りだ」
雷が一瞬に照らし出した産巣日の顔は、陶器のように青く儚げに見えた。
その光が消えてしまえば、産巣日の小さな体はまた闇に沈む。
「我は何と謗られようとも構わぬ……ただ、鵺を捕える事のみが何物にも代え難き我が悲願」
「どうして？」
塔子が自分に問い掛けるように呟いた声は、窓を撃つ雷光の中に消え失せた。
それでも塔子は言葉を継いだ。
「……何でそんなに鵺にこだわるの？」
塔子の声は、堪えきれない叫びの色を持って仄暗い店内を染めた。
「……人の子であるお前には、分からぬよ」
「私はさ、神様とか抜きで、産巣日のこと結構好きだよ。だから助けたいって思う。でも……産巣日は何も話してくれないんだね？」
「……尚更に詮無き事」
産巣日は諦めたように、声無く笑った。
音の無い部屋を、絶え間無い雨足の靴音だけが満たした。
時を追うにつれて雫の速度だけがゆっくりと変化した。
「……俺も降りる」
不意に恭介の一言が静止を破った。
全員が影に埋もれた恭介の表情を窺った。風が強く吹いて軋むドア。振り返る顔は無い。
「産巣日、俺はあんたを信用出来ない」

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>> 86 そう言うと恭介は、席を離れて厨房へのドアを開いた。

「兄貴……」

エリの制止にも耳を貸さず、そのまま恭介は厨房の奥へと姿を消した。
誰も追う者はなかった。
ただ、張り詰めた空気だけが、部屋の中を支配していた。
そんな中、唯一、矢島だけがニコニコとほくそ笑んでいた。
それに気づいた塔子が、キッと矢島を睨みつけた。
だが矢島は、ひょうひょうとした口調で、塔子を宥めた。

「まぁまぁ……そんなに睨まないで下さいよ、塔子さん」

「……あんた、この状況を楽しんでない?……人の不幸が大好きなんでしょう?」

「いえいえそんな、滅相も御座いません」

塔子の鋭い言葉にも一切動じることなく、矢島はニコニコとしていた。
だが、場の空気は張りついたままだった。
そのとき、不意に真理が口を開いた。

「……私は矢島を信じるわ」

一同は一斉に、真理の方に視線を向けた。

「……産巣日も信じる」

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雨の中、夏美の震えは止まらない。 それはやがて、痙攣にすら見えてきた。

そして

「いやああぁぁぁああ！！！」
「！！」

甲高い悲鳴が響く。七仁はそれに大きく反応した。

ドサッ

夏美は、そのまま横に倒れる。それで、七仁はようやく我に帰ったようだった。

「お、おい！夏美！夏美？！」

夏美に駆け寄って、上半身を抱き起し…名前を呼ぶ。だが、夏美は返事をしない。ただ、開いたままの瞳に、必死に呼び続ける七仁の顔を映しているだった。





夏美は、闇の中で立っていた。

「ここ…どこ？」

途方に暮れていると、黒い風景の中、遠くに一つだけ姿が見えた。夏美は目を凝らす。それは、一匹の犬だった。

「ガブリエル？」

だが、ガブリエルの姿は一瞬で消えてしまった。
思わずあっと声を出した、その時。今度は微かに声が聞こえてくる。

「…？」

耳を澄ましてみると、あまり聞き取れないが、怒鳴り声だと分かった。

…すると夏美は不思議な感覚に陥る。

（…私に、怒鳴ってる？あ、れ…この声。聞き覚えがある…お母さんの、声…）

そして、最後にはっきりと声が聞こえた。


『死のう。』
「え」


夏美は、驚いた。
何故なら、その声だけは

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>> 88 鼓膜を通して聞こえていた母の怒鳴り声ではなく、

また夏美自身の声でもなく、

ひどく透き通った男の声で、

夏美の脳内から直接発せられたように感じられたからだ。

（誰……？！）

また、闇が夏美を包み込む。


ふたたび目を開くと、夏美は交差点の真ん中で倒れていた。急ブレーキをかけた拍子にスリップして、斜めに停まっている車。人だかりができている歩道。野次馬が指さす方を見ると、見覚えのある薄茶色のラブラドールが目に留まる。

（……ガブ……？）

夏美の数メートル先に転がっていた犬は、姿勢を整え、ブルルと泥水を払って小走りに去っていった。
勇敢な女子高生が、犬をかばって車道に飛び出した。そこに居合わせた誰もがそう思っただろう。みな感心したように顔を見合わせている。

（違うよ……アタシは……うっ！）

右膝にするどい痛みが走った。

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>> 89 不自然に湾曲した脚を見て、夏美は意識を失いかけた。
踝から口が生え、甲高い笑い声を上げる。
静止する時間。夏美は車のナンバーさえも鮮明に思い出す。傍らで急速に色褪せる景色。モノクロ写真を瞳に張り付けたように、夏美の意識だけが文字盤の針を回す。


夏美は走るのが好きだった。
限界の過酷が好きだった。無呼吸の眩みが好きだった。
夏美には、思い出したくない事が多過ぎたのだから。
母の事、父の事。
本当は全部覚えていた。父が他に女を作ったこと、母がアタシと共に棄てられたこと、母はそれでも父を愛していたということ。
アタシよりも父を愛していたということ。
だから、母は死んでしまったのだということ。
全て知ってる。その一つ一つの記憶の意味を知ったのはもっと後のことだけど。
辛すぎる記憶の一切を夏美は所持していた。呪われた絵画の如く、どこに捨て置くことも許されずに。
だから夏美は何も知らない『ことにした』。だってそうでしょ？子供の頃の記憶なんて、皆忘れるものなんだから。アタシだって、忘れてもいいんだから。
それでも、記憶は真夜中に行進する影絵のように夏美を付け回した。
だから走った。全ての余裕が消える程に。

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>> 90 雨は勢いを強め、雨音がより一層激しくなる。地面を流れる雨水は、泥を含んで茶色く濁っている。
遠くの建物や山が、雨で霞んで見える。

七仁は、なんとか夏美を立たせて、建物の影へと移動させた。古びた木造建築の建物には、人の住んでいる気配はなかった。
この辺りには古い日本家屋が建ち並んでいる。しかしどの建物にも、おおよそ人が住んでいると言う気配はなかった。
先ほどまで夏美が座り込んでいた道路にも、未だに車の一台すら通ってはいない。
それに比べて街の中央は賑やかなものである。中央には国道が通っており、車の交通量も多い。国道の近郊には、人もたくさん住んでいるし、店だってたくさん建ち並んでいる。

しかし、このような町外れに来ると、無人の家屋や車のほとんど走っていない道路が多い。
それがこの街の、もう一つの顔なのだ。


雨は一向に止む様子を見せない。冷えた空気が、七仁から体力を奪って行く。隣では、相変わらず座り込んだ状態で、夏美がうなだれている。
先ほどから何度も声を掛けているのだが、彼女からの返事は返ってこない。このままでは二人そろって、仲良く風邪をひいてしまうだろう。
最悪、肺炎にもなりかねない。

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（これで何とか雨は凌げる。でも店に戻らないと、このままじゃ…）

七仁がそう思った瞬間。

ゴオオォォ…ン！！
「！」

激しく雷鳴が響き渡り、フラッシュを炊いたかのように、一瞬辺りが雷光に包まれた。七仁は思わず空を見上げる。

上を向いた状態のまま、しばらく雨の音を聞いた後…ふっと夏美の方を見た。

「夏美。………？」

その時。七仁は何かを感じた。
それが既視感だと気づくのには、少し時間がかかった。目の前でうなだれている、この少女を…自分は見たことがある。そう思った。

（まさか。初対面のはずだ。あの時、この子が逃げるガブを捕まえてくれて…。その前は会ったことなんて！でも、何だ？この感じは…雨…夜…車の音…そこにうずくまっている…）

「ぅ…。」

夏美が小さく呻いた。七仁はそれを聞くと、即座に思考する事を止めて、呼びかける。

「夏美？」

しかし夏美はそれ以上何も言わなかった。再度呼びかけるが、反応はない。

「くそ…！」



夏美は立っていた。今度は蒼い空間だ。下を向いていると、目の前に気配を感じたので、のろのろと顔を上げる。

…それは塔子だった。

「夏美さん。まだ早いわ。…記憶の扉を閉じるのは。」

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>> 92 塔子は確信していた。
夏美の記憶には、まだ肝心なところに【穴】があることを――。


あの雨の日の事故で、夏美は右膝の靱帯を断裂。二週間後に控えていた県大会への出場を断念し、陸上部も退部した。

しかし、なぜそのまま学校までも辞め、不良になったのか。

陸上の夢を奪われ、自暴自棄になったから？
否。
インターハイは諦めざるを得なかったが、夏美は、もっと根本的なところで、走ることを愛していた。それがたとえ記録への挑戦でなくとも、できることなら自分の限界まで、走り続けたかったはずだ。

【デハ、ナゼ不良ニ？】
夏美は、まだ気づいていない。あるいは、思い出していない。高校を退学し、内心ホッとしていた自分に。

【あいつの顔は、二度と見たくない……】

そこには、ある男の姿があった。夏美の心に侵入し、「偶然」事故に遭うよう仕向けた男。怪我をした夏美につけこみ、癒えることのない傷を負わせた男――真壁龍平――の姿が。

• << 95 空と海が繋がってしまえば、きっとこんな風景になる。そう夏美は思った。 そこは閉じた世界で、自身の記憶。夏美の目前には塔子が立っている。彼女の髪は濡れていて、それを見て夏美は寒さと震えを思い出す。 「……入ってくんなって、言ったでしょ？」 夏美は絞り出すようにして呟いた。 「どうして学校を……走ることをやめたの？不良になったの？」 塔子は静かにそう尋ねた。 夏美は不良という言葉に酷く動揺した。不良……良くない。悪い、悪いこと。 悪い子。 「アタシは悪い子じゃないっ！」 夏美は自分がそう叫んだことに驚いて、口を噤んだ。 「多分」 そう答える塔子。夏美は視線を反らす。 その先に、ガブリエルがいた。 ガブリエルは夏美の足元に擦り寄った。温かい。痺れが解けるような心地がした。 「ごめんなさい」 突然、塔子がそう言って頭を下げた。 「私は、あなたの気持ちをちゃんと考えていなかった」 夏美は塔子を睨んだ。 「謝るのってさ、ずるいよ」 「……確かに」 塔子は言った。 「だからあなたが決めて。記憶を辿るか、閉ざすか。あなたの記憶だから、あなたの自由。私はそれに従う」 夏美は冷たく笑った。 「ずる過ぎるよ、それ」

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>> 93 塔子は確信していた。 夏美の記憶には、まだ肝心なところに【穴】があることを――。 あの雨の日の事故で、夏美は右膝の靱帯を断裂。二週間後に… 空と海が繋がってしまえば、きっとこんな風景になる。そう夏美は思った。
そこは閉じた世界で、自身の記憶。夏美の目前には塔子が立っている。彼女の髪は濡れていて、それを見て夏美は寒さと震えを思い出す。
「……入ってくんなって、言ったでしょ？」
夏美は絞り出すようにして呟いた。
「どうして学校を……走ることをやめたの？不良になったの？」
塔子は静かにそう尋ねた。
夏美は不良という言葉に酷く動揺した。不良……良くない。悪い、悪いこと。
悪い子。
「アタシは悪い子じゃないっ！」
夏美は自分がそう叫んだことに驚いて、口を噤んだ。
「多分」
そう答える塔子。夏美は視線を反らす。
その先に、ガブリエルがいた。
ガブリエルは夏美の足元に擦り寄った。温かい。痺れが解けるような心地がした。
「ごめんなさい」
突然、塔子がそう言って頭を下げた。
「私は、あなたの気持ちをちゃんと考えていなかった」
夏美は塔子を睨んだ。
「謝るのってさ、ずるいよ」
「……確かに」
塔子は言った。
「だからあなたが決めて。記憶を辿るか、閉ざすか。あなたの記憶だから、あなたの自由。私はそれに従う」
夏美は冷たく笑った。
「ずる過ぎるよ、それ」

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>> 95 「ずる過ぎるよ、それ」

「……」

塔子は無言のまま、真っ直ぐと夏美の目を見据えていた。
夏美は少し視線を落として、口を噤んだ。キュッと両の手で服の袖を掴み、人差し指で服の布地をなぞった。
彼女がそうするのは、何か深く考え事をするときの癖なのだ。
暫くして、夏美が視線を上げた。その表情には、先程までのような動揺の色は含まれていなかった。

「……良いわ」

第一声。それから少し間を置いて、彼女の口から更に言葉が紡ぎ出された。

「私の過去……もう一度だけ、探してみましょう」＿＿



＿＿暗闇、雨音。
最初に視覚と聴覚が甦ってきた。
冷たい。寒い。怖い。痛い。
次に触覚と痛覚、そして恐怖が甦ってきた。

「……い…おい!……おい!大丈夫か!!?」

……声。男の人の声だ。
真っ暗だった視界に、微かに人の顔が映る。ぼやけてよく見えないが、どうやら若い青年のようだ。
視界はそこで途切れた。意識を失い始めたようだ。
聴覚も、痛みも、肌を刺す冷たさも、徐々に薄らいでいく。
何もない真っ暗闇の中、痛みから開放されるという安心感を覚えた。
だが同時に、まるでそれに比例するかのように、恐怖心が増長していくのが分かった。

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恐怖。死ぬことへの…恐怖。
死ぬことが、こんなに恐ろしいものだったなんて。暗闇の中で、夏美はそれを感じていた。あの眩しい光が自分の目の前に迫ったその瞬間まで、気づかなかった。

横からあの誰かが自分を突き飛ばしてくれなければ…自分は間違いなく死んでいただろう。夏美はそう思った。


死んでしまったら、もう走ることが出来ない。

足なんてなくなるのだから。

足だけじゃない。
…全部なくなる。

身体は勿論、魂も。
自分の夢や希望の全てが、簡単に無に帰してしまうのだ。


その恐怖は、人間の本能として当然のことと言えるのかもしれない。でも、そんなことを今まで忘れていた。

忘れて、自らあの道路に立っていたのだ。



…何故、自殺なんてしようとしたのか。



夏美は心の中で笑った。

（…バッカみたい。自分で決めたことなのに。でも、いつからだったかな…。こんなこと…しようと思ったの…。）

意識が消えてしまう前に、夏美は自分の中でその答えを探し出した。


（アイツが…学校に、来てから。）




その思考が最後にして、夏美は意識を失う。だが、その時、声が聞こえた。

…『アイツ』の声が。


「君は、悪い子だ。」

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>> 97 そう言いながら、アイツは体育倉庫で何度もアタシを殴ったんだ。

薄れていく意識とは裏腹に、夏美の頭の中には、ハッキリと声が聞こえていた。

「一学期より記録が落ちているのは君一人だ。これは罰だよ」

「だって…それは膝が……」

「怪我のせいにするな！君はいつも言い訳ばかりだな。事故にあったから。父親が浮気したから。母親が自分を見てくれなくなったから……」

「！！なんでお前が……」

そしてアイツは、

アタシの気持ちを見透かすように笑って、

この上なく楽しそうに、

アタシを殴ったんだ。

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>> 98 「怯えることはないわ。過去は所詮過去、それだけの力しか無いんだから」
不意に塔子の声が聞こえて夏美は振り返った。いつの間にか彼女はそこにいて、ガブリエルも一緒だった。
醜悪な記憶は既に主観性を失っている。
それは記録。
「アイツが龍平……」
薄光の体育倉庫は救いの無い事実の象徴にも思えた。振り上げられる掌、顔は見えない。その男を照らす明かりは存在しない。
でも、それが龍平。
恐らく。
「見覚えは？」
塔子の質問に夏美は首を振る。
目前で殴られる少女はまるで自分とは思えなかった。その隔絶には確かに、何物かが存在した。夏美はまるで映画を見るような調子で自らを認識していることに困惑する。

これはアタシじゃない……それなら誰？

「何かが変わっちゃってる」
夏美はそう呟いた。
「変わった？」
塔子の問いに夏美は頷く。
「なんかよく分かんないけど、学校に居た頃のアタシと今のアタシは……ちょっとだけ、でも、カンペキに何処かが違ってる」
子供の頃に好きだった鏡映しの間違い探し。それを夏美は思い出していた。
「事故の瞬間、それと……産巣日が言ってた鵺を見たって時。アタシの忘れてる、大事なコトがそこにある気がするんだ」

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>> 99 夏美がそう口にし終えると、塔子はすぐさま別の記憶を探り始めた。時間という概念が存在しない精神空間において、それはほんの一瞬の作業だった。
夏美が言葉を口にし終えた数瞬後には、映像は新しいものに切り替わっていた。

「事故の瞬間よ」

それは、冷たい雨が降り注ぐ夜のこと。橋の上の歩道に一人、呆然と佇む少女の姿があった。傘は差していない。
何人か通行人はいたが、彼女に声をかけるものはなかった。
何台かの車が橋の上を横断した。交通量は疎らだった。
暫くすると、どこからか一匹の子犬が歩み寄ってきた。首輪を付けているが、飼い主と思わしき人影はない。
子犬は雨でびしょ濡れになっているのにも関わらず、嬉しそうに尻尾を振って、少女の足元に歩み寄ってきた。
少女は子犬に視線を落とした。子犬も少女を見上げ、両者の目が合った。
子犬は興味深そうに少女の顔を見上げていたが、それとは対照的に少女の方は、冷めた表情で子犬からすぐに視線を逸らした。
彼女はふい、と体の向きを変えると、そのままどこへともなく歩を進め始めた。
すると、それに倣うかのように、子犬がちょこちょこと彼女の後を付いて来た。
少女は歩を止め、子犬を見下ろした。

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「…ついてこないで。アタシには、やらなきゃいけないことがあるの。」

少女は何の抑揚もない口調で呟く。そして、先程と同じ方向に一歩踏み出した。子犬も同じ様についていったが、無視する。

ゆっくりと、歩いていく。


『そう…やらなければならない。』
「………やら…なきゃ。」
『お前は、やらなければならないんだ。』


…その声は、笑いを含んだ男性の声だった。少女にしか聞こえない、声。それが聞こえる度に、少女はいつもそれに従うのだった。

足が自然と動く。

「ウゥウ…ゥ！」

突然、子犬が唸り始めた。さっきまでの楽しそうな雰囲気はない。まるで少女の中に響く声が聞こえていて、それに警戒しているようだった。
しかし、少女は構うことなく歩を進める。ただ、前に…前に。

そして、立ち止まった。
橋を丁度渡り終える辺りだった。

『さあ…行こう。』

少女はゆっくりと体の向きを変える。歩道から、道路の方へ。

「キャンキャン！キャン！！」

子犬が激しく鳴いた。しかし、その声が少女に届くことはなかった。

「行、く…。」

※>>99　訂正　
「～産巣日が言ってた…」
→「～塔子が言ってた…」

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>> 101 「夏美さん！！」
塔子は思わず、目の前の少女に呼びかけていた。だが、当然声は喉から先に出てこない。

「負けちゃダメ……ぬえに心の隙を見せたら……」今度は俯き、独り言のように呟いた。自分が触れているのが夏美の意識（あるいは無意識というべきか）だという事実はすっかり抜け落ち、塔子自身がぬえへの恐怖を覚えていた。

「そこまでだ、塔子」
「産巣日！！」
不意に、すべての情景が動きを止めた。

「塔子、お前は下がってよい。ここから先は、我が術により意識を捜索しよう。ぬえはやはりこの少女にたいし……記憶の改竄をおこなっている。少女が不幸と感じ、封じ込めていた記憶は、本来のものではないようだ」

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>> 102 塔子は産巣日の小さな肩に手を伸ばした。
「そうやって、また一人でやるの？」
産巣日の視線は氷水を思わせる色に陰る。
「……下がれ、塔子」
「嫌だよ……置いて行かないでよ、産巣日。私の知らない所で勝手に苦しまないでよ」
塔子は掠れた声で呟く。産巣日はゆっくりと、塔子の掌を解いた。
「足手纏いだ……邪魔をするな」
産巣日の背中が遠ざかる。行ってしまう。
塔子は思う。
私は産巣日と一緒だった。その時間は短いかもしれない。
それでも、それでもこんな風に、ただその小さな後ろ姿を見送る為に費やした時間じゃない。
「足手纏いでも、邪魔でもっ！それでも私はっ……」
塔子の言葉が途切れた。
産巣日の涙を見るのは、初めてだった。
「もう……戻れぬかも知れぬのだぞ？」
産巣日の声は滲んでいた。
「鵺は恐怖の記憶に住む。鵺の記憶は鵺其の物。龍平本体に非ずとも真の物の怪……意識を取り込まれれば、永劫に眠りから醒めぬかもしれぬのだぞ？」
塔子は頷いた。
「分かってる」
「ならば……」
「それなら守ってよ。それでも行きたいんだよ。産巣日だけに、背負わせたくないんだよ……それだけ」
塔子はそう精一杯笑った。震える足を精一杯進めた。

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>> 103 「……好きにしろ」

産巣日はそれ以上、何も言わなかった。そして再び映像が動きだした＿＿


＿＿「行、く……」

まるで催眠にでも掛かったように、少女は言葉の通りに、右足を車道に下ろした。
すると、まるでそれを待ちかまえていたかのように、車のライトが彼女の姿を捕らえた。
彼女は車のライトに気づいていないのか、また一歩、車道に歩を進めようとした。

彼女の背には、黒い靄が掛かっていた。形はハッキリとしないが、まるでその靄が、彼女を
背後から後押ししているように映った。

『――産巣日、あれ!!――』

『――あぁ、間違いない――』


《鵺》だ。


彼女は虚ろな目で、また一歩、車道に歩を進めた。車は、
スピードを緩める様子がない。
このまま行けば、最悪の事態は免れないだろう。産巣日と塔子は、思わず固唾を飲んだ。

だがその直後、突然、黒い物体が彼女の足元に駆け寄った。

子犬だ。
子犬は彼女のスカートの裾に噛みつき、彼女を必死で車道の外へ引っ張り出そうとした。

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子犬は引っ張る。精一杯の力で。しかしその時、

バッ！
ドガ！！
「キャィン！！」

少女の左腕が、スカートにまとわりつく子犬を物凄い力で剥がし、コンクリートの地面に叩きつけた。子犬は全身に走る痛みに、悲痛な鳴き声を上げた。

『――…！！――』

塔子は両手で顔を覆い、産巣日は黙って後ろの影を睨む。過去の映像を見ているだけなのに、二人とも少女を助けることが出来ないもどかしさを感じていた。

が、その時。


「ガブ…？ガブリエル！そこにいるのか？！」

少し遠くの方から突然男性の声がした。

「キャン！…キャン！！」

子犬は、その声に応える。いや、呼んでいると言うべきかもしれない。

産巣日は声のした方を見る。
すると、闇を薄ぼんやり照らす街灯に一つの人影が浮かび上がった。必死でこちらに走ってくるのが見える。塔子は、それを見たとき思わず声を上げた。

『――あれは！――』

その男性は子犬の元へ駆けつけると、見た。…立ち尽くす少女に迫る一台の車を。

男性は　走った。

「危ない！！！」





…産巣日は、呟く。

『――そうか、ここで来たか。――――――七仁。』

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>> 105 「そう。ここで彼が現れた。彼が叫ばなければ、夏美が苦しむことは無かったのにね」
その言葉に、彫刻のように記憶が動きを止めた。
「命を失うよりは余程良い」
そう産巣日は呟いた。
「そうかい？」
交差点の中央で、夏美と背中合わせに長身の男が立っていた。
龍平だった。
彼の発する澄んだ声は産巣日の心を冷たく尖らせた。
「何故、夏美を殺そうとした？」
産巣日の問に龍平はこう答えた。
「彼女はとても大きく、美しい想玉を持っていたよ。その根を断つ為には鋭い刃が要る」
「想玉を切り離すために、命を奪おうとしたと言うのか？」
龍平は自嘲気味に話を続けた。
「こうして邪魔が入ってしまったけれどね。代わりに僕の真の姿を晒すことで想玉を引き出した。その行為が痕跡となって君に感付かれてしまったのだから、皮肉な事だと思わないか？」
産巣日は醒めた瞳で龍平を捉えた。
「貴様、変わったな」
「変わった？」
「貴様は見境無く記憶を喰らう。それでも……仕様も無い欲に憑かれても、命の重さだけは心得ていた」
「……そうだったかな？」
龍平は躊躇いがちに返事をした。
「一体何者がお前を突き動かす？何故想玉を求めるのだ？」

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「………。その問いに、答える必要はないね。」
「何だと…？」

産巣日は龍平を鋭い目で睨み、低い声で聞き直した。しかし龍平は動じることはなく、ただ薄く笑っている。

「君達は僕を捕まえたい。それだけだろう？だったらこんなところでモタモタしてないで早く次の僕の手掛かりを見つけることだ。…さて。いつまでもこんな所で話してたら、彼女に迷惑だろう。」
「っ！貴様逃げる気か！」
「ははっ逃げるも何も。これは僕の実体じゃない。本当の僕はとっくの昔に、ここにはいない。分かってるはずだろう？………それにね。僕は君に構ってる暇なんて、ないんだよ。」

その時だった。

バッ！
「…！」

突然、夜の闇と曇天が光によって引き裂かれる。産巣日はその眩しさに、思わず顔の前に手をかざした。

「ほら、彼女が目を醒ます。…僕は行くよ。意識を取り込まれなかっただけでも有り難いと思えよ。」
「くっ…待て！！」

産巣日が叫ぶが、光は辺りをどんどん白に染め、龍平の姿はあっと言う間に見えなくなってしまった。そして、産巣日の体も。

光に　包まれていく…

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>> 107 あの嵐の日、助けることのできなかったこの少女を、今度こそ救いたい。七仁は冷え切った夏美の手を力をこめて握った。ガブリエルもまた、二人に体をピッタリと寄せ、夏美の頬を舐めた。

「うっ……」

雲間から徐々に光が差し込んでくるのと同時に、夏美がゆっくり目を開けた。その茶色がかった瞳には、七仁とガブリエル、そして失っていた自らの記憶が、はっきりと映っていた。

「夏美！！」

「ななみ…。アタシ、アタシね、全部思い出したよ。怪我のことも、親のことも。それと……完璧じゃないけどぬえのこと」

七仁には、分からないことだらけだ。が、何より、夏美の無事に安堵する気持ちが大きかった。

「アタシの母さんは、病気だったんだ。中学にあがったくらいかな。好きだった料理もしなくなって、窓の外を眺めてぼんやり過ごす時間がだんだん増えてきて……アタシや父さんの顔も忘れちゃってさ。父さんは、そんな母さんの姿に耐えられなくなって、家を出たんだ。でも…でもさ。アイツが言うように、アタシには不幸しかなかったわけじゃない。父さんは母さんを好きだったし、母さんも、アタシが走るのを見ると、すっごく嬉しそうな顔をしてたんだ」

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>> 108 夏美は目を細めた。
まるで遠い日の記憶に、焦がれるかのように。

「ねぇ……ななみ」

「ん？」

夏美は七仁から目をそらすと、まるで躊躇うかのように、ユックリと口を開いた。
そして、掠れたような小さな声で、七仁に問いかけた。

「私……独りじゃ……ないよね？」


少しの沈黙が流れた。
それは、僅か数瞬の余白だった。だが夏美にとっては、それは何十分にも感じられるような、長い沈黙だった。彼女は無意識に、七仁の服の裾を強く握りしめていた。

するとそれを解すかのように、彼女の体は、優しい温もりに包み込まれた。
気が付くと、彼女は七仁に強く抱きしめられていた。
七仁もまた、掠れたような小さな声で囁いた。



「……独りじゃないさ……」



七仁はそれっきり口を噤んでしまったが、両の腕でしっかりと、夏美のことを抱きしめていた。
夏美もまた、握りしめていた手を解いて、七仁の背に回した。
涙腺が緩み、大粒の涙が止めどなく溢れるのを、彼女は制することができなかった。

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店内は静寂に支配されていた。
産巣日と塔子は椅子に座って目を閉じたまま、微動だにしない。エリと真理はずっと、それを緊張した面持ちで見つめていた。
「ねえ、まだ目を醒まさないの？もう1時間は経ったと思うのだけど。」

真理が不安げにエリに話しかけた。エリは少し沈黙してから応える。

「…待つしか、ないよ…。」
「その通り。私達には待つことしか出来ません。」

背後から聞こえた声に、エリと真理は振り向いた。そこでは矢島が足を組ながらグラスに注がれた水をのんびりと飲んでいた。

「心配ないですよ。仮にも神様である産巣日さんがついてますからね。全員夏美さんの記憶に残存している真壁龍平の思念体に意識を取り込まれる…と言ったことはないと思います。少々時間がかかっているようですが…。」

矢島がそう言い、全員が産巣日に視線を注いで沈黙した。…その時。

産巣日の目が、カッと見開かれた。一同は一瞬驚き、真理は思わず立ち上がる。

「…あ！産巣日さん、よかった！大丈夫ですか？！」

しかし産巣日は真理の言葉が聞こえなかったかのように、空を睨んだまま言った。

「くそ…取り逃がした！！！」

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>> 110 同時に、塔子が緩やかに目を開いた。
その手には、瑪瑙色の想玉が握られている。真理のそれとは違い、中でチラチラと炎が揺れるように、赤い輝きを放っていた。

塔子は産巣日の手を取り、想玉をポトリとその掌に落とした。
産巣日はそれをしばらく見つめ、自分を取り戻すため頭を振った。
「……塔子、すまぬ。取り乱していたようだ」

「産巣日さん、『取り逃がした』っていうのは……？」
エリがすかさず尋ねる。

「時間がない、端的に言おう。我々は、夏美の記憶の中で、ぬえの思念と接触した。が、それを捕らえる前に夏美は目覚め、思念はぬえ本体のもとへと帰ってしまったのだ」

「でも！あそこで七仁が現れたからこそ夏美さんは……」

「言わずともよい塔子、分かっておる。我とて、娘の命と引き換えに目的を遂げようなどとは考えておらぬ。それに……」

「ぬえに関する収穫は皆無ではない。ですよね？産巣日さん」
産巣日の言葉尻をとらえ、矢島が会話に割って入った。

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>> 111 産巣日は頷いた。
「龍平は恐らく、すぐ近くに居る」
厨房の奥から訝しげな表情で恭介が姿を現した。
「随分と話が飛躍したな」
産巣日は横目に恭介を見た。
「根拠はある……お前の取り戻した記憶に、龍平は居たか？」
「……いや、居なかった」
恭介はロマーノから見せてもらった写真を持ち出した。真理と夏美は頷いた。写っている男は龍平に間違いない。
「やはりな」
「どういう事だ？」
産巣日の肩に九官鳥のパロが留まった。
「我はお前と因縁の深いパロを転生させてまで記憶を蘇らせた。それはお前の記憶に、鵺が関わった痕を感じた故の事……何故取り戻した記憶に龍平の姿が無い？」
矢島が話を継いだ。
「龍は人の姿にして人に非ず……恭介さんに接触した時には、お二人の記憶にある龍平とは違う姿だった、という事ですか」
それを聞くと恭介はハッとした。
「俺の記憶に出てきたのは三人……俺自身と、龍平と写っているアリーチェを除けば……」
恭介は首を振った。
「有り得ない……ロマーノ先生が鵺だったって言うのか？だって、先生はこの前店に来たばかりで……」
「そう。わざわざ店にやって来て、写真という手掛かりを残していった」

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>> 112 恭介の顔色が、徐々に変わって行く。焦りと戸惑いが混ざり合った表情で、恭介は産巣日に詰め寄った。

「う……ｯウソだ!!
そんなバカなことがあってたまるかｯｯ!!!先生だぞｯ!?
ロマーノ先生が……鵺なわけ……」

恭介はそこまで言葉を紡ぐと、全身から力が抜けて行くかのように、ガクリとその場に座り込んでしまった。頭の中では、様々な思惑が渦巻いている。
やがて沈黙がその場を包み込んだ。
しばらく間を置いてから、突然、産巣日が恭介の頭の上に右の手のひらを翳した。
そして、まるで呪文でも唱えるかのように、『大丈夫。何も心配するな』と、静かに、諭すように呟いた。
恭介はゆっくりと顔を上げ、産巣日の顔を見つめた。産巣日は包容力に満ちた表情で、恭介を諭す。

「お前の師は、鵺に身体を乗っ取られてはいるが、それもつい最近のことだ。
大丈夫、きっとすぐに救いだしてみせる」

「……本当か……?」

「あぁ。我は神だぞ、信用するが良い」

そう言うと、産巣日は恭介の頭をスッと撫でた。すると恭介は、パタリとその場に倒れ込んでしまった。
どうやら気を失ったようだ。

「ほぅ、神通力ですね」

矢島がすかさず呟いた。

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>> 113 《第八場 追跡》

「さて……偉大なる神の産巣日さん。さしあたりどうアプローチするつもりです？」

「黙れ、矢島。お前も気がついているであろう。これより先にぬえが龍の名を持たぬ者の肉体に取り憑いた例は無い。これがどういうことか解るか？」
恭介にロマーノを救ってみせると告げた時とはまるで違う、沈痛な面持ちの産巣日だった。

「龍の性質は徐々に失われ、ぬえの完全体に近付いている、というわけですか……これはこれは、楽しんでいる場合ではありませんな」
矢島は取り繕うように咳払いをした。

しばし、沈黙が流れる。

エリが食器を片付けるカチャカチャという音だけが店内に響いた。

「私達にできることはある？」
不意に、塔子が立ち上がった。私たち、という表現に、真理とエリも顔を見合わせた。

「実はな……ここからは、お前たち現国の人間にこそ、動いてもらわねばならぬのだ」

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>> 114 「俺たちに、奴と戦えとでも言うのか？冗談じゃないな」
恭介が鼻で笑い、そう言った。産巣日は首を振る。
「人の力では坑う事叶わぬ……正直に言えば、我の力でも磐石とは言えぬだろう」
「元々の鵺でさえ、当時最強の陰陽師達をして倒せなかったのです。そして討つ為に送った龍をも取り込んだ……今の力は、平安時代の比ではないでしょうから」
矢島はそう言って、薄く笑った。
「お前達の『目』を貸して欲しい」
産巣日はおもむろにそう言った。
「目って……この目？」
エリは自分の右目を指差して訊いた。産巣日はコクンと頷いた。
「何、易い事だ……これから外に出て、出来るだけ多くの人と、互いの目を見て話をしてきて欲しい」
「……それだけ？」
「それだけだ」
一同は拍子抜けに沈黙した。
「……何となく、分かったかも」
突然真理がそう呟いた。
「この街中の人を、監視カメラにする……そんな感じ？」
夏美も頷いた。
「そっか。人の意識の中に入れるんだから、その人の視覚を借りるくらい簡単ってことか」
矢島は堪えきれないという風に笑った。
「いやいや。皆さん随分とこの常軌を逸した世界に慣れてしまったようですね」

• << 117 矢島の言葉に、真理とエリは互いに目を合わせた。 そして、少し自嘲混じりの笑みを、どちらからともなく浮かべた。 「さ、時間が惜しい。すまぬが早速始めてくれるか?」 産巣日の言葉に、二人は、いつでもOKだと、返事を返した。 「好機は今しかない。 現時点での鵺の姿が分かっただけでも、大きな収穫だ。 ヤツは一度姿を変えると、暫くは他の体に移れないからな」 「……なるほど、確かにそれは好都合ね」 真理の言葉に、産巣日はコクリと頷いた。 鵺が恭介に接触してから、まだそんなに時間は経ってない。 運が良ければ、まだこの街にいる可能性が高い。 真理とエリは店の裏から自転車を二台、押して出て来た。 恭介が趣味で集めている自転車で、晴れの日には店の入り口に、立て掛けて飾ってある。 「じゃあ、行ってくるわ」 エリと真理は自転車に跨ると、そのままスイーっと滑り出した。 「……それで、私たちはコレからどうするの?」 塔子が産巣日に問い掛けた。

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>> 115 《訂正》
No.115のレスで恭介のセリフのシーンがありましたが、
誤りです🙇💦


真理、或いはエリのセリフで、
『私たちに戦えとでも言うの?冗談じゃないわ』
と訂正させて頂きます🙇💦


引き続き、本編をお楽しみ下さい。

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>> 115 「俺たちに、奴と戦えとでも言うのか？冗談じゃないな」 恭介が鼻で笑い、そう言った。産巣日は首を振る。 「人の力では坑う事叶わぬ……正直に言え… 矢島の言葉に、真理とエリは互いに目を合わせた。
そして、少し自嘲混じりの笑みを、どちらからともなく浮かべた。

「さ、時間が惜しい。すまぬが早速始めてくれるか?」

産巣日の言葉に、二人は、いつでもOKだと、返事を返した。

「好機は今しかない。
現時点での鵺の姿が分かっただけでも、大きな収穫だ。
ヤツは一度姿を変えると、暫くは他の体に移れないからな」

「……なるほど、確かにそれは好都合ね」

真理の言葉に、産巣日はコクリと頷いた。
鵺が恭介に接触してから、まだそんなに時間は経ってない。
運が良ければ、まだこの街にいる可能性が高い。

真理とエリは店の裏から自転車を二台、押して出て来た。
恭介が趣味で集めている自転車で、晴れの日には店の入り口に、立て掛けて飾ってある。

「じゃあ、行ってくるわ」

エリと真理は自転車に跨ると、そのままスイーっと滑り出した。

「……それで、私たちはコレからどうするの?」

塔子が産巣日に問い掛けた。

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産巣日はふぅ、と息をつくと椅子に深く腰掛けた。 そしてしばらく目を閉じて沈黙したあと…一言、言った。

「休む。」
「…は？」

予想していなかった答えに、塔子は素っ頓狂な声を上げた。

「…お前も今のうち体を休めるがいい。あやつらの作業には、少し時間が掛かる。」
「ちょっ…何言ってるのよ？時間が惜しいんじゃなかったの？！休んでなんかいられないでしょ！！」
「塔子。さっき夏美の記憶に入ったとき…我らはだいぶ鵺の邪気を受けた。特に、人間であるお前の精神は大きく消耗しているはずじゃ。」

やれやれといった風に、産巣日は塔子にゆっくりと視線を向ける。そして目を閉じた。

「いざという時に使えぬ体など、役に立たぬも同然。我は少し眠ることにするぞ。」
「…ちょっと！産巣日！産巣日ってば？！」

…もう返事はない。産巣日は小さな息を立てているだけだった。

「…何て呑気な神様なのかしらね。」

塔子は完全に呆れてそう言った。


だが、


産巣日は眠っていなかった。
目を閉じて…考えていた。


（鵺…やはり…私のことを忘れてしまった、か…。）

心で、虚しく呟いた。

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>> 118 《第九場 罠 》

翌朝。

「やっぱり、一番手っ取り早いのはコレよね！」
駅からほど近い、市内ではもっとも人通りの多い交差点。
エリと真理は、ニヤリとしながら互いの服装を見つめあった。
赤いサンバイザーに、鮮やかなストライプのシャツ。手にしているのは、新店オープンのファーストフードのクーポン券だ。

「おはようございまーす、ジャックスバーガーでーす！新発売のハワイアンバーガーはいかがでしょうかー！」
信号の向かい側には、すでにハツラツとした様子でクーポンを配る青年がいた。

「おいおい、ななみまで何やってんだよ……」

「いや、ほら、塔子いないとトレーナーの仕事できないしさ……やってみると意外に楽しくって……夏美も一緒にやればいいのに」

「そんなしょうもないことやってられるかよ！アタシは普通にやるよ。ガブの散歩ついでに、ちょっと走ってくるわ！行こ、ガブ！」
そう言うと、夏美は信号の点滅する横断歩道を軽快な足取りで走り去って行った。

「俺は店で続けてみるから、エリ、営業までには戻れよ」
恭介もまた、自らの持ち場へと足を向けた。

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>> 119 「おいでおいで」
店の近くの公園は、異様かつほのぼのとした光景を見せていた。
しゃがんだ塔子を中心に50匹もの野良猫が集会を開いている。
「……うん。そうそう……出来るだけたくさん……やってくれる？……うん、ありがとう」
塔子が手を振ると、猫たちはパッと四方に散っていった。
「ほう、読心だけでなく伝心も身に付けましたか」
矢島がいつもの微笑を浮かべて歩いてきた。
「何かよく分からないけど、出来るかなって思ってやってみたら、案外アッサリ」
塔子の言葉に矢島はクスクス笑った。
「稀代の動物使いですねえ」
「笑い事じゃないと思うんだけどなぁ……人間が神様からこんな力貰っちゃうのは」
塔子は足元の砂をいじりながら呟いた。
「それは貴方の力ですよ。貰ったのではなく、掘り起こしたと言うべき物です」
「常識的に考えてこんなの人間には無理でしょ」
「人は自身を過小評価し過ぎですね。常識を捨てれば、人の可能性は存外広いものですよ？」
「随分人を誉めるんだ……蛇なのに」
塔子がそう言うと矢島は首を振った。
「いやね、私にはどっちの事も分かるんですよ。蛇というのは人でも神でもない、中途半端な存在ですから」

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>> 120 東側のロールカーテンを巻き上げると、朝日が客席のテーブルに降り注いだ。恭介は眩しさに目を細め、軽くのびをした。こんな時間の出勤は久々だ。今朝は女房とも顔を合わせていない。

（あれからまだ一週間も経っていないのか……）
厨房に塔子と産巣日が初めて現れた時のことをふと思い出し、恭介は苦笑した。一度にいろいろなことが起こりすぎて、急に歳を取ったような気分だ。

ロマーノ先生を救わなければ。

そう焦る反面、この一週間のできごとはすべて幻で、このまま何事もなかったように日常に戻ってしまいたい思いもあった。

〈……ョウスケ……〉

（……？）
ふいに、誰かに名を呼ばれたような気がして、恭介は入り口に顔を向けた。

しかし、誰の姿もない。

（気のせいか……。）

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>> 121 恭介は厨房に戻り仕込みを続けようと思った。
しかし妙にもやもやした感じが恭介の踵を止めた。どうしてか気のせいにしてはいけないような雰囲気を、恭介は脈絡も無く感じた。
恭介は客席を振り返った。窓の先には日常の風景がある。何処にでもある道路と街路樹。
何か違う。
突然、違和感が走る。歩道に立つ人影の仕業だと、恭介は一瞬に理解する。
知っていた。確かに知っていた。
多少、歳を感じさせたかもしれない。髪型も違うかも、体型も少し位変わったかもしれない。
第一、朝日越しに窓から見たディテールなんて分かるはずもない。
それでも見間違いではないと確信できる。きっとそれは、本当に特別な間柄にしかない何かの作用だ。
「……アリーチェ」
人影が車道を渡る。恭介は弾き出されたように入り口のドアを開け放つ。乱暴な動作がけたたましく鈴を鳴らす。恭介の耳に響いたのは高い音だけ。彼女が振り返る。
「アリーチェ！」
叫んだ。大声で呼んだ。彼女が何故そこに居るのか、龍平やロマーノ先生と関係があるのか、恭介は考えようとした。
「キョウスケ」
全てを遮る一言が耳を埋めた。
理由や因果が無くてもアリーチェはただ、そこに居た。

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>> 122 振り向いたアリーチェの姿に、恭介は思わず見とれてしまった。
そこにあったのは、イタリアにいた頃の幼さの残る少女の姿ではなく、すっかり大人の女性に成長したアリーチェの姿だった。
彼女は焦点の合わない虚ろな眼差しで、もう一度彼の名を呼んだ。

「キョウスケ……?」

恭介はゆっくりとアリーチェに歩み寄った。そしてアリーチェの目の前まで来ると、カタコトのイタリア語で、そっと彼女に語りかけた。

「久しぶりだね、アリーチェ」

彼女は、恭介のその声を聞くや否や、表情をほころばせて満面の笑みを浮かべた。

「キョウスケ、やっぱりキョウスケなのね!」

アリーチェの手が恭介の顔に触れる。

「おっ、おい……アリーチェ!」

戸惑った恭介がそれを諫めようとするが、彼女はそんなことなどお構いなしに、恭介の顔を懐かしそうになぞった。

「……目は見えないけど、この顔の形はハッキリと覚えているわ」

アリーチェは目を閉じると、恭介の頬を撫でながら静かにそう呟いた。恭介は口を噤むと、そっと彼女の手に触れた。
彼女の手はイタリアにいた頃と変わらず、白く、そして綺麗な色をしていた。

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>> 123 「アリーチェ。今は店の準備があるんだ。いや、実はそれ以外にもいろいろあって……」
恭介は、すこし焦りながら単語を繋いだ。
聞きたいことも、言いたいことも、山のようにあるようでいて、どこから言葉にしていいかわからない。

「今夜、店が終わったら、またここに来てもらえるか」

アリーチェは悲しげな顔で俯いた。
「……キョウスケごめんなさい、私、もう行かなくちゃ。約束があるの」

「行く、って……イタリアに帰るのか？そうだ、ロマーノ先生は？一緒に日本に来たんだろ？！」

「いえ、祖父は今重い病で……ベネチアの療養所にいるの。私が日本に行くと言ったら、キョウスケに逢えないのが残念だって言ってたわ」

「？！」

（どういうことだ……）

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（ロマーノ先生が日本にいない…？！そんな馬鹿な！！）

恭介は混乱していたが、必死に記憶を探った。…そう、ついこの間。先生がここに来たことを。

自分が出したパスタを、味が変わったと言った。穏やかで、厳しい眼差しを自分に向けて。あの時、アリーチェの記憶と共に…自分は気付かされたのだ。


料理を食べてもらう人へのもてなしの心。それを忘れていたことに。


（昔から何も変わっていなかった。修業時代も、先生はあの眼差しでいつも自分に大切なことを教えて下さった。…あれは、ロマーノ先生だったはず！そうじゃなければ…誰なんだ？！）


「キョースケ。」

そこに響いた透き通った声が、恭介を現実世界へ引き戻す。

そして、次の瞬間

アリーチェは、恭介をふわりと包み込んだ。

「！…」
「一目でも。会えて…よかった。でも、もう行かないと。約束に遅れてしまう。」
「……。誰との、約束なんだ？」

彼女は答えない。ゆっくりと両腕を解き、出口に向かう。


…恭介は、妙な胸騒ぎを感じた。


「アリーチェ…！」

彼女は最後に振り返ると、寂しく微笑んだ。


「さようなら。キョースケ。」

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>> 125 「アリーチェ？！」

呼び止めたが、すでに彼女の姿はなかった。

目の前に現れた時と同じように、まばたきほどの間に姿を消したのだ。

（幻……？いやまさかな）

頬にも手にも、まだアリーチェが触れた温度が残っている。
恭介は、ふとこれと似た感覚を味わったことを思い出した。ロマーノ先生。あの時も、かれは風に乗って現れたかのようにいつの間にかテーブルに腰掛け、恭介を呼んでいた。

アリーチェとロマーノ先生、どちらかがぬえの見せた虚像であったのか。あるいはその両方か。
恭介は、深呼吸し、もう一度記憶を整理しようと、フロントに置いてあったメモ帳とペンを取り、椅子に腰かけた。

（そうだ。想玉に触れれば、何か分かるかもしれない……）
恭介の想玉は、中身の見えない漆黒だった。夏美や真理のものとはずいぶんイメージが違った（エリに言わせると、俺の腹黒さが出ているという）が、念のため産巣日から預かり、店の金庫に保管しておいたのだ。

恭介は、慎重にダイヤルを回し、扉を開けた。
（……？！）

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>> 126 想玉が無い。
恭介はそれが信じられず、何度も手で金庫内を探った。
内部に触れた形跡は全く無い。それなのに想玉だけが忽然と姿を消している。
「今……何か来たな」
恭介が振り返ると、いつの間にか産巣日が立っていた。
「いや、アリーチェが……それより見てくれ。俺の想玉が無くなってる」
「アリーチェ？」
産巣日は想玉の事を無視してそう訊いた。
「……ロマーノ先生の孫娘だ。写真で見ただろ？」
産巣日は一頻り考え、それから頷いた。
「ならばその者がお前の想玉を盗み出したのであろうな」
「アリーチェはそんな事はしない！」
恭介は反射的に声を荒げた。産巣日は冷たい目で言った。
「我は『その者』と言った。アリーチェと言ってはおらぬ」
それを聞くと恭介は青ざめて呟いた。
「じゃあやっぱりあれは本物のアリーチェじゃない……」
「が、鵺ではない」
産巣日はそう継いだ。
「鵺の気配は強大。幾重に隠そうともこの距離で我が気付かぬ筈は無い……写真の件からも鵺はロマーノで間違いない」
「じゃあアリーチェは一体……」
「分からぬ。『目』の監視に力を割いていた故、気取り損ねた。しかし……人ならざる者であったのは確かだ」

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>> 127 人ならざる者。
その言葉を聞いた瞬間、恭介は、何か不吉な予感を覚えた。
何か良くないことが起こる。そんな気がした。

「とりあえず、このことは他言無用だ」

「えっ……」

突然の産巣日の提案に、恭介は言葉を詰まらせた。

「ちょっ……ちょっと待てよ、なんで」

「想玉が奪われたとあっては、皆の不安を煽るだけだ。不安は鵺に隙を与えかねない。だからこのことは、他の連中には知られるな。良いな?」

産巣日の一方的な進言に、恭介はまた言葉を詰まらせた。

「……だけど、これからどうする!?もし想玉が鵺の手に渡ってるとしたら……ッッ!!」

「渡ってるとしたら？」

産巣日が冷静に訊ね返す。

「……えっと……どうなるんだ？」

冷静になって考えてみると、実際にどれほどの実害が及ぶのか、恭介には知る由もなかった。
産巣日は呆れたように、小さくため息をついた。

「想玉はお主の心から生まれた産物だが、別に壊されようが汚されようが、お主に害は無い」

「あぁ……そうですか」

そう言われると、想玉が盗まれたことに対し、産巣日があまり関心を示さなかったのも納得が出来た。

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深い闇の中でのことだった。 そこがどこだかは分からない。

「…ご苦労様。」

龍平が右手をさしのべ、そこに女性の手が重なる。…アリーチェの手だった。その手は透けていて、今にも消えてしまいそうだった。
龍平は甘く囁く。

「いい子だ。さあ、戻ろうね。」

そう言って左手に取り出したのは、蒼い光をぼんやりと放っている…想玉だった。
すると、アリーチェの体はみるみる青みを帯びていく。終いには体の形も無くなり、もやもやした霧のようなものになった。
そしてすぅっと、それは左手の想玉に吸い込まれていった。想玉は全ての霧を取り込むと、よりいっそう深い輝きを増したように見えた。

同時に、龍平は握っていた右手をゆっくり開く。そこには黒い想玉が在った。

「ふぅん。珍しい色だね。」

そう言いながらじっと見つめていると

「…？」

漆黒の想玉が微かに反応しているのが見えた。脈打つように、光ったり消えたりしている。

「……。」

龍平は左手の蒼い想玉を見る。…同じ様に反応していた。それも、黒い想玉とほぼ同じ間隔で光っている。

「…共鳴、しているのか。」

そこで、龍平はフッと笑った。

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>> 129 「僕に無駄な希望を持たせようとしているのかな」
龍平がそう呟くと、後ろから一人の少女が姿を現した。龍平の肘より下の小さな子だ。丸く大きな栗色の瞳が龍平を見上げている。
「誰と話してるん？」
「ああごめん、独り言だ」
「リュウ兄、一人で話すの好きやもんなあ」
少女は屈託なく笑う。
「別に好きなわけじゃないよ……ほら美姫、新しいのと借りていたの、今日は二つ」
龍平は美姫の持っているビンに黒い想玉と蒼い想玉を入れた。
「黒いの初めて見た……綺麗やなあ」
「ああ、綺麗だ」
「一緒に光ってる。黒いのと青いのって仲良しなんかなあ？」
「そうみたいだね」
「ええなあ、友達がおって」
龍平は笑いながら、ビンの底に視線を落とした。想玉はもう三つしか入っていない。
「好相性の想玉同士、相乗効果で多少は長く時間を稼げるが……しかし一から魂の鎖を創るにはやはり力の絶対量が……」
「また独り言なん？」
龍平はハッとして美姫を見た。美姫はしかめ面で龍平を睨んでいた。
「美姫な、リュウ兄の独り言、嫌や」
「どうして？」
「だって……顔怖なるもん」
「……そうかな」
「鏡持ってくる？」
龍平は笑って美姫の頭を撫でた。

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>> 130 「なぁ、美姫」

「うん？」

龍平は撫でていた手を止めると、しゃがんで美姫と向き合った。
美姫は首を傾げて龍平の目を見つめた。

「……リュウ兄は……また遠くに行かなくちゃいけないんだ」

冷静に、諭すように、龍平は美姫にそう告げた。
彼が美姫の前から唐突に消えるのはいつものことだが、今日はいつもとは少し様子が違っていた。美姫もその違和感にすぐ気付いたらしく、咄嗟に龍平を問い詰めていた。

「どこ……どこに行ってまうん?」

「……遠いところだよ、すごく……遠いところ」

「どこ?……どこそれ!?」

「言えないんだ」

「なんで!?なんで言われへんのん!?」

「……」

「もう会われへんのん……?」

「……」

美姫の問い掛けに、龍平からの返事はなかった。
幼いながらも、美姫にはその沈黙が何を意味するのか、だいたいは察しがついた。
だが心のどこかでは、それを受け入れまいとする葛藤が生じていた。

「リュウ兄……」

美姫の呼びかけに、龍平は視線を落としたまま、何も答えなかった。

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龍平はしばらくして美姫にすっと背を向ける。そして闇の向こうへと歩き出した。しかし、その途中で振り向く。…とても優しい表情で、こう言った。

「大丈夫。今いなくなるわけじゃない。また会えるよ。」
「リュウ兄。行っちゃ…嫌や。もう行かんといて！ここに…居て！」

美姫は、目からぽろぽろと涙をこぼしてそう訴える。…しかし。

「………ごめんね。美姫。」

その訴えが届くことはなかった。龍平は振り向くのを止め、歩く。…歩く。そこには、すすり泣きながら龍平の名を呼ぶ、1人の少女だけが残された。



…龍平は



（もう少し。）


笑っていた。



（もう少しなんだよ、美姫。…僕の望みが、叶うのは。）



自分の手の平を見つめ、



（僕の前からいなくなってしまったあの人を…僕の手で、蘇らせる。）



ぐっと握り拳を作る。



（美姫。協力してもらうよ。……次に会うときが、最後になっちゃうね。）






龍平は、闇に消えた。

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>> 132 《第十場 彼の地にて》

時を遡ること十数年。

龍平とアリーチェがはじめて出逢ったのは、港町ジェノヴァのはずれにある、小さな教会でのことだった。

このとき、龍平は真壁龍平そのもの。つまり、ぬえに肉体をとられる以前の、いたって純粋な青年である。


龍平は、初めてみるこの街の風景に心躍らせ、夢中でシャッターを切っていた。数多くのクルーズ船や漁船が行き交う港にも憧れたが、龍平がもっとも好んだのは、石造りの古い街並みだった。
気に入った店や建物を見つけると、好奇心に任せて次々入っていく。

そして偶然足を踏み入れた教会で龍平が見たのは、礼拝堂にたった一人、祈りをささげる儚げな少女の姿であった。

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>> 133 ステンドグラスから差し込む七色の光。その中に跪く少女はほのかな輝きを帯び、音の無い空間は時を刻む義務を忘れる。
それは龍平に言わせれば無二の瞬間だった。
龍平は何も考えずにカメラに手を掛けた。しかし龍平の両手はそれ以上動かなかった。
「……どなたですか？」
少女の高く清らかな声が響いた。
「ごめん。邪魔するつもりは無かったんだ……何て言うか、その、凄く絵になっていたから」
少女は立ち上がって龍平の方に振り向いた。
龍平は息を飲んだ。自分がどうしてカメラを構えることが出来なかったのか、瞬時に理解した。
純白のローブに包まれた少女の姿には他とは決定的に違う、人とは違う何かがあった。
例えば本物の聖女。実在するのなら。
「……絵になる？」
少女の声は楽器の音色のように美しい。龍平は迷い無く答えた。
「祈りを捧げる君の姿が、美しい絵画みたいに様になっていたから」
……怪し過ぎる。
龍平は言ってから気付いた。これでは自分が不審人物のようだ。
「あっ、誤解しないでほしいんだけど、別に僕はあやし……って、あれ？」
弁解を聞く少女の様子に、龍平は微かな違和感を覚えた。
「君、もしかして目が見えない？」

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>> 134 少女は、一瞬不意を突かれたように、目を見開いた。

「えぇ」

「……それはすまなかった」

「まぁ、何故謝るんですか？」

少女は首を傾げ、龍平に問いかけた。

「いや、あの……何となく」

「おかしな人」

少女はクスクスと微笑んだ。その柔らかい表情が、彼女の美しさをより一層引き立てた。
ステンドグラスの光が差し込み、彼女の無垢な笑みを照らしだす。
もしも女神というものが実在するのなら、今、目の前にいる少女こそがまさにそれだろう。
龍平は心の底からそう実感した。


「あっ……大丈夫なのかい？見えないんじゃ……」

少女は杖も使わずに、まるで見えているかのように、突然龍平の方に歩み寄ってきた。
それを見た龍平は、動揺を隠すことが出来なかった。


「大丈夫です。この教会には小さい頃から通いつめているので、杖がなくても、どこに何があるのか分かるんです」

そういうと、彼女は歩幅を崩すことなく、ついには龍平の目の前まで歩み寄ってきた。
そして二・三歩手前で立ち止まると、少し好奇心の混じった表情で訊ねてきた。

「観光……の方ですか？」

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「そう、観光できたんだ。それでたまたまこの教会を見つけてね。」
「そうですか。…………。」

少女は少し黙り込む。何かを考えているようだ。…しばらくの間の後、こう言った。


「もしかして、日本の方ですか？」


その問いに、龍平は驚いた。

「そうだけど。…何故分かったの？」
「…いえ。言葉のアクセントが、以前親しくしていた日本人に似ていたので…。」

少女は…何か昔を懐かしむような表情で、目を閉じる。


「あなた…名前は何とおっしゃるのですか？」
「！…龍平だけど。真壁、龍平。」
「リューヘイ…さん。もし宜しければ、私にこの街を案内させて頂けませんか。」
「え、それは有り難いね。…でも君…まさか外も自由に歩けるのかい？」
「ふふ、盲導鳥が必要ですけどね。」
「盲導…鳥？？」
「連れてきましょうか。少し待っていて下さいね。」
「あ…ちょっと、」

少女は龍平が止める間もなく、奥へとかけていった。

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>> 136 「それ……本物の九官鳥？」

「ふふ…驚いた？」

少女の肩には漆黒の鳥がちょんととまっていた。一瞬置物かと見紛うほど微動だにしない。

「あ、自己紹介がまだだったわね。私はアリーチェ。家は港の近くのレストラン。この子はパロ。今は私の友達よ」

アリーチェは龍平を気遣い、簡単な単語を選びながらゆっくり話した。

「パロ、この人はね……」

少女が龍平を指差した途端、九官鳥はいきなりバサバサと宙を舞った。

「キョースケ！キョースケ！！」

「！！パロ……」

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>> 137 「頭が良い九官鳥なんだ。日本の知り合いの名前？」
龍平は笑って訊いた。
「ええ……そう」
アリーチェの表情は一瞬に悲しく変わった。空気が重くなる。
「ごめん……訊かない方が良いことだったみたいだ」
「……そんなことないわ」
「そうだ、って顔をしてる」
そう龍平が苦笑いで言うと、アリーチェははっとして顔を触った。
「昔から要らないことばかり言っちゃうタチでさ」
「要らないこと？」
「昨日は撮影禁止の場所でカメラ出して警官に呼び止められ、逆ギレして交番で一時間説教食らったよ」
「バカ、バカ、リューヘイ、アホ！」
「こいつ、頭が良すぎるんじゃないの？」
アリーチェは笑った。龍平はほっとして呟いた。
「町、案内してくれるんだよね？」
「……ええ」
アリーチェは明るい声で答えた。
「でも、僕もめぼしい所は見ちゃったしな。地元の人しか知らない穴場とか……」
そう龍平が訊いた時、突然遠くからバイオリンの音色が響いてきた。
「ラ・カンパネラ……誰だろう？」
「ラ・ヴォーチェ・デル・ドラゴよ」
龍の声。アリーチェはそう呟いて一人で笑った。龍平には訳が分からない。
「パガニーニの墓は行ってないでしょう？」

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>> 138 「えっ……あぁ」

龍平がそう答えると、アリーチェは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

「それじゃあ、今から行きましょう！」

そういうと、まるで無邪気な子供のように、アリーチェは龍平の手を引いた。
先ほどまでの、大人しそうなイメージとは打って変わって、少女はとても元気が良く積極的な性格だった。
きっとコレが彼女の素の姿なのだろう――



――「リューヘイ……は、日本のどこから来たの？」

アリーチェは色々な質問をしてきた。
おかげで二人の会話が途切れることはなかった。

「長崎だよ」

「ナガサキ……？どんなところ？」

「綺麗な港町さ。西洋風の建物もたくさんあるんだ」

「へぇ……」

アリーチェは目を輝かせて、異国長崎の町を思い浮かべた。
異国の地の風景を想像することは出来なかったが、代わりに、彼女は町の空気や香りを想像していた。
温かい風、どこからともなく運ばれてくる潮の香り……。

簡単なイメージだが、そんな港町のイメージが、彼女の中には出来あがっていた。

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2人が会話しているうちに、目的地は見えてきた。…パガニーニの墓。そこで、龍平は何かに反応して立ち止まった。

「まただ。」
「えっ…何がですか？」
「バイオリンの音だよ。…さっきも、教会で。」

龍平は、音がする方向を探るようにきょろきょろとする。アリーチェはああ…と言うと、くすりと笑った。

「ラ・ヴォーチェ・デル・ドラゴ…龍の声。」
「…さっきも言ってたね。それって、何なの？」
「ここに昔から伝わっている都市伝説よ。まずはお墓の前に行ってみましょう。」

龍平は、はしゃぐアリーチェに手を引かれて墓のすぐ近くまで走る。龍平は戸惑っていた。

（都市…伝説？）

バイオリンの音は…確かに。今。はっきりと聞こえているのだから。近くまで来ると、より大きく聞こえてきた。優雅で、切ない…この音色が。


「これが、かの有名なパガニーニの墓。知ってる？彼の奏でるバイオリンの技巧は、悪魔に魂を売って手に入れたものだと言われるほどに素晴らしかったの。」
「うーん聞いたことがあるような、ないような…あはは、僕音楽はよく分からないから。」
「…龍の声は、それに関係しているのよ。」
「？」

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>> 140 「パガニーニの奏でるヴァイオリンの音色はね、“ドラゴの鳴き声”とも呼ばれたの。彼の演奏はドラゴにしか聞こえない響きを持っていて、その旋律にドラゴが共鳴して歌いだす……」

アリーチェは、その細い指先を指揮者のようにリズムに乗せて動かした。

「リュウヘイのリュウ……ドラゴの意味なんでしょ？日本語は、前にすこし覚えたの」

「おいおい、僕はドラゴじゃないよ？」

龍平は冗談ぽく受け流したが、胸の奥でわずかに動悸が速まるのを感じた。

この場所に来たのは初めてだし、パガニーニという名も、聞いたことがある程度だ。何の縁もないはずの音楽。

しかし、龍平の耳には、懐かしさをもったヴァイオリンの音色が、今なおはっきりと流れていた。

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>> 141 「……リュウヘイ？」

「え？」

突然のアリーチェの呼びかけに、思わず声が裏返る。
笑われるかと思ったが、アリーチェの表情はいたって真面目なものだった。

「リュウヘイ、どうかしたの？」

「え……どうって？」

「手が震えてる」

指摘されて、初めて、自分の手が震えていることに気付いた。
小刻みに震える左手。
すると、その左手をそっと、アリーチェの手が包み込んだ。
龍平は思わずたじろいだ。一気に、胸の鼓動が高まるのを感じた。
いくら親しくなったとは言え、まだ出会ってから一時間も経っていないのだ。
おまけに異性に対する免疫も乏しかったため、突然手を握られたことに対する衝撃は尋常ではなかった。

龍平の左手を包み込むアリーチェの手は、温かかった。
龍平は不思議な安らぎを覚えた。
アリーチェの手から流れ込んできた熱が、全身を伝って、龍平の動悸を落ち着かせる。

『龍の声』の演奏が、どんどん遠くなって行く。
龍平は、一瞬夢を見ているような錯覚に襲われた。

映像が見えた。
――美しい、見たこともないような幻想的な宮殿。
――神々しい老人達の姿。

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>> 142 辺り一面に霧がかかってはっきりは分からないが、老人達は下界を見下ろすような格好で、ひそひそと話をしているようだ。

【現国……】

【海を渡ったか……】

【やはり黄泉の……】

遠くの話し声は、どこか日本語のようにも思えたが、聞き慣れない単語が多い。

龍平が目を閉じて、この白昼夢に身を委ねかけた時だった。

【龍の文字……】

突然、落雷のような音がして目の前が真っ白になる。

「！！！」

「リュウヘイ？！」

アリーチェは、一瞬びくりとした龍平の手を驚いて振りほどいた。

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>> 143 龍平は数回強く瞬きする。景色は変わらない。
「具合が悪いの？」
「大丈夫だよ……何て言うか……とにかく大丈夫。何ともないから」
アリーチェの覗き込む瞳に龍平は笑顔を作った。
「私が都市伝説なんて言ってあなたをからかったから……」
「からかった？」
龍平ははっとして耳を澄ませた。ヴァイオリンの演奏は曲を変えて今も続いている。
「そうだ。さっきからこのヴァイオリン……」
「ええ、私にもちゃんと聞こえているわ」
アリーチェは舌を出して笑う。
「若いヴァイオリニストが交代で弾いてるの。伝説を実現させようってね」
「それって……ああ、そういうことか」
龍平は溜め息をついて下を向く。
「この町の連中は、そうやって観光客を騙して楽しんでるわけだ」
「そう言われるとちょっと辛いなあ……伝説もこうやって実感した方が印象的でしょ？」
「トラウマになるという意味では」
「本当に悪かったわ……お詫びに家でお昼を食べない？」
「演技上手の上に商売上手だね」
「お詫びに代金取るほどケチじゃありません」
アリーチェは少し怒った口調で言う。
しかし、ただ担がれただけなのだろうか。龍平には微かな引っ掛かりが残っていた。

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>> 144 ――アリーチェに案内され、龍平はジェノヴァ市内のレストランにやってきていた。
外観はとても古風で、結構な年季の入った石造りの建物だ。
店の看板には『ﾗｰｸﾘﾏ・ﾃﾞｨ・ｽｨﾚｰﾅ《Lacrima di Sirena》』と書かれている。
【人魚のしずく】と言う意味だ。

「先に聞いておきたいんだが、ここが君の家なのかい？」

「えぇ、そうよ」

そういうとアリーチェは、何のためらいもなく店のドアを開けた。
この時間は開店していないらしく、『準備中』と書かれた看板がドアに掛けられていた。

「おじいちゃん、いる？」

アリーチェは誰もいない店内に呼びかける。
すると奥の方から、一人の老人が姿を現した。

「おぉ、アリーチェか。また客を連れてきたのか？」

「えぇ、日本の方よ」

「あっ……どうも、真壁龍平です」

老人は特に驚いた様子もなく、『そうか』と言う味気のない返事が返ってきた。

「……あるもので良ければ、何か作ろう。まぁ、ゆっくりしていきなさい」

矢継ぎ早にそう呟くと、老人はそそくさと店の奥に消えて行ってしまった。

「ごめんなさいね。人見知りが激しいの、うちのおじいちゃん」

「……そのようだね」

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アリーチェはくすっと笑った。

「でもね、おじいちゃんのパスタは天下一品なのよ。」
「へぇ。イタリアと言えばやっぱりパスタなんだね。」

龍平が少し古びた店内を見回しながら言う。すると、アリーチェは少し心配そうな顔を龍平に向けた。

「お気に召さないかしら…」
「えっいやいや！そういう意味じゃないよ。僕パスタ大好物だから。」
「そう？」
「タバスコをかけて食べるのが好きなんだ。」

龍平は明るく言った。心なしかうっとりとした表情を浮かべているように見える。そんな様子を見ていたアリーチェは、安心したように…また笑った。

「良かった。でもかけすぎはダメよ？パスタ本来の味を損ねてしまうから。」
「…うーん、僕結構かけちゃうんだよなぁ。」

頭を掻きながら苦笑いした時。


キイィ…ン
「っ」

龍平は微かに表情を歪めた。
…そう。それはパガニーニの墓を出た時からずっと付きまとっていた。


（何なんだ…この耳鳴り…。）


頭に当てていた手をこめかみに持ってくる。そしてぎゅっと指を折り畳んだ。アリーチェはそんな龍平の様子にまだ気付いていないようだ。


「パスタ、すぐ出来ると思うわ。」

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>> 146 程なくしてパスタが出来上がった。
「……どうぞ」
「渡り蟹ですか？」
「ああ、ちょうど旬だからな」
龍平は渡り蟹のトマトソースパスタを一口運ぶ。途端に蟹の身の甘さとトマトの爽やかな酸味、生き生きとした新鮮な香りが口いっぱいに調和して広がった。
「……美味い」
それはお世辞や意識的な物ではなく、本当に自然にこぼれた言葉だった。
「渡り蟹のトマトソースはウチ一番の看板メニューだもの」
「でも、これはホントに美味いよ。日本じゃ食えそうにない」
龍平は半分真面目にそう言ったつもりだったが、アリーチェは笑顔で首を振る。
「いいえ、日本でも食べられるわ。私が保証する」
「どうして分かるの？」
「それはね、日本にはキョウスケがいるから。彼がおじいちゃんの味を知ってる」
龍平は納得して頷いた。
「そっか、彼は料理修業で来てたんだ……でもやっぱり食べられないかもしれないな」
「どうして？」
「こんな美味いんじゃ行列が凄くて食えないかも。僕、並ぶの苦手なんだ」
「何それ？」
「冗談のつもり」
不意に無言だったロマーノが口を開いた。
発せられた言葉は酷く意外なものだった。
「君の名前……字はどう書く？」

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>> 147 「はい？」

龍平は呆気にとられたように、視線をロマーノに向けた。

「名前だよ、どういう字なんだい？」

「えっと……」

龍平は、テーブルの上の紙ナプキンを一枚取ると、上着のポケットからボールペンを取り出し、『龍平』と言う文字を書き滑らせた。
アリーチェがそれを、横からジッと見ている。

「……字が汚いとか言わないように」

「気にしないで、見えないから」

「おっと、そうだった……失礼」

紙ナプキンをロマーノに手渡すと、彼は食い入るように、それに視線を落とした。
何やら『龍』という文字を凝視している。

「ふむ……この『カンジ』と言う奴はどうも形が複雑だな」

「どう書くの？」

アリーチェはロマーノの一言に、すっかり興味をそそられたようだ。
突然龍平の手を取ると『私にも書き方を教えて』とせがんできた。
龍平はアリーチェの嘆願に戸惑いを隠せずにはいられなかった。

「あっ……えっと……」

「おぉ、ちょうど良い。私もアリーチェも日本語の勉強をしていてね。
良かったらもう少し教えてくれないか？」

「あ……えぇ、良いですよ」

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「それじゃあいいかい？『龍』を大きく書いてみるからね。」
「ええ、大丈夫よ。」

アリーチェは龍平の手に自分の手を重ねたまま、にっこりと頷いた。ロマーノはじっとナプキンを見ている。

1分程経って、『龍』の1文字が出来上がった。

「書けたよ。アリーチェはこれだけで、もうどんな字か分かるのかい？」
「凄く難しいけれど、何となくどんな字かは分かったわ。」
「…アリーチェってホントは見えてるんじゃ？」

そんな龍平の冗談を、アリーチェは「想像にお任せするわ」と軽く流してみせた。
その内、

「これが…リュウか。」

ロマーノが感心して呟いた。

「はい。まぁ、日本でも普段はそんなに使わない漢字ですよ。」
「少しアリーチェから聞いたのだが…この『龍』はここで言う『ドラゴ』の意味なのかね？」
「そうみたいですね。」

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>> 149 それから三人は、たわいない世間話をして過ごした。港で働く男たちの話。アリーチェの子供の頃の話。レストランの変わったお客さんの話。
龍平が時折手ぶりを交えそうになると、ロマーノがアリーチェを指さしてせき払いをした。

「では……僕はそろそろホテルに戻ります。アリーチェ、また会えるかな」
「ええ、もちろんよ、リュウ。よい旅を」
龍平は店の入り口の扉に手をかけた。

「ああ……待ちなさい、リュウヘイ。これを持っていくといい」
そう言うとロマーノは、棚から出してきた小さなガラスの小瓶を一つ、龍平の手に乗せた。

「……？」
「お守りだよ。これから先に起こる大きな災いから、お前を守ってくれる……」
「はは…まるで、僕に何かあると決まっているみたいな言い方だ」

ロマーノは急に真面目な顔になった。

「心当たりがないならいいさ。とにかく持っていけ」
「でもこれ、何も入っていませんよ……？」

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>> 150 「これから、入れることになる。これから」
「……はあ」
曖昧な返事で龍平は受け取った。
その瞬間に、全ては終わった。完了した。外から見えるやりとりはそれだけだった。
その時ロマーノから龍平へ、鵺は乗り移った。
「そうですね。これから入れる」
龍平はまるで当然という風に、迷いなく瓶を上着のポケットに収めた。
「……リュウヘイ？」
アリーチェは目に見えない、けれども決定的な変化を敏感に感じ取ったようだった。
いや、感じた。
龍平には人の感情が手に取るように分かっている。まるで目に見えるように、不安、疑念、そんな色が見える。
「どうしたの、アリーチェ？」
龍平は平然を、以前のままを装って訊いた。
アリーチェは何も答えなかった。ただ、閉じられたまぶたを龍平に向けるだけだった。
真摯に何かを確かめるように。
何かに気付いている？
アリーチェの顔を見た時、龍平にそんな勘が走った。勘なんて何の意味もないのに。感情の見える今の龍平にとっては。
気付くはずはない。想像が及ぶはずもない。ロマーノとして生きた時間にも龍平として生きる時間にも。
自分の……鵺としての時間はどこにも残らないのだから。

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>> 151 《第十一場　ジレンマ》

恭介の前にアリーチェが現れて、すでに二日が経過していた。
未だにロマーノの姿は見つかっていない。
それでも一同は、捜索の範囲を広げていた。

「……今日で二日。
本当に見つかるんですかねぇ？」

すでにこんな愚痴をこぼす者まで出てきた。
矢島だ。

「黙れ矢島」

産巣日が睨みを利かせて彼を諌める。
矢島はいつもの愛想笑いで、それを受け流す。

「おや失礼、ちょっと疲れ気味でして……つい弱音を吐いてしまいました」

「無理もないよ。アタシも同じこと考えてた」

「夏美……！」

夏美の言葉を制するように、七仁が口を開いた。
だがその先の言葉は何も出てはこなかった。
現在、一同は恭介のレストランに集まっている。
時刻は夕方五時。
今日は定休日で、レストランは営業していない。

「だってそうでしょ？
こんだけ手分けして探してるのに、犯人の尻尾すら掴めてないし。
みんなでこうやって集まっても、誰からも有力な情報が出てこないじゃん。
これじゃただのディナーパーティーだよ」

タダで飯が食えるからいいけど、と夏美は付け足した。
恭介は苦笑いを浮かべている。

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「何か一つでも手掛かりがあればな…。」

恭介が呟く。それから一同はしばらく沈黙した。誰も何も言わないという、非常に気まずい空気が流れている。ある者は別の者にちらりと視線を送り、ある者は間を潰すためにグラスの水を飲んだりしていた。
しかし、3分程経った後その話の場に一条の光が射し込んだ。その声が聞こえた直後、全員の視線がそこに集まった。


「……そう言えば。」


声を上げたのは産巣日だった。

「恭介。この間店にきたモノは想玉を奪っていったのだったな？」
「モノ…って、アリーチェのことか？あんたも見ただろう。金庫にあった俺の想玉がなくなっていたんだ。」
「…そやつが想玉を持ち去った。何故持ち去ったのかは分からないが…」
「想玉を欲しがるのは、少なくともヒト以外のものでしょうね。」

産巣日の言葉の途中で矢島が割り込んでくる。続いて塔子が、

「鵺が繋がるとしたら、そのアリーチェさん擬きが一番怪しいじゃない。せめて、その人がどこに行ったのか分かればいいのに！」

産巣日は二人の言葉に少し考え込む。その後はっと顔を上げた。

「待てよ。恭介の想玉とパロを使えばあるいは…！」

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>> 153 「エリ、パロをここへ連れてくるのだ」

産巣日の指示を受け、エリはテラスから鳥籠を持ってくる。恭介が倒れてからは、彼女がレストランを手伝う傍らにパロの世話をしていた。

「何日か前から元気がないんです。餌も食べなくなって……」
エリの言葉通り、パロは籠に寄りかかるように静かに止まっていた。エリの呼びかけにも、羽を僅かに動かすのみだった。

「転生させた命の期限がせまっているのだ。しかし、パロは恭介の想玉に入っていた記憶を見てきた唯一の存在。こいつを使えば、黒の想玉の在処、すなわち敵の居場所に近づける可能性はある」

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>> 154 「その可能性の根拠は？」
「我が勘、唯其れのみ」
産巣日は低い、心なしか小さな声で答える。
皆、言葉の意味を再確認するように無言になった。
「って、えっ、ちょ!?……勘なんですか!?」
エリの驚きが沈黙を破る。産巣日はこくんと頷いた。久しぶりに見る子供らしい仕草だった。
「勘の何が悪い」
「いや、別に悪くはないですけど……でも本当に勘、だけですか？」
「だから勘の何が……」
「分かった！うん、神様の勘だもんね。ご利益あるから大丈夫！きっと上手く行くって」
塔子がそう言って遮る。妙な静寂が一同を包んだ。
「……可能性があるならやってみるべきよね」
真理の言葉に皆まばらに頷いた。
「でも、パロは飛ぶ気力も残ってないみたいなんだけど」
「我の力で一時的に活力を戻すことは出来る。ただそれは命の前借り、目前の死期を更に早める事になろう」
産巣日は静かに言う。
「おい、適当な勘で……勘でコイツに死ねって言うのか!?」
恭介は叫ぶ。
「コイツに命張らせても、それでも空振りするかもしれないんだぞ!?」
「その通りだ」
「お前、ふざけ……」
「待って！」
塔子は恭介の言葉を遮った。
「パロが何か言ってる」

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>> 155 その場は一気に静まり返った。
一同の視線は、パロの方に向けられていた。

「……リューヘイ……アリーチェ……ドラゴ……」

よく見ると、パロはうっすらと目を開けてはいるが、どうやら意識が朦朧としているようだ。
その様はまるで、

「夢を見ているようだな……」

産巣日がそう呟いた。
恭介が心配そうに産巣日に問いかける。

「夢？」

「走馬灯と言った方が正しいか……」

「……『そーまとう』って何？」

夏美が難しそうな顔をしながら、産巣日に質問する。

「記憶のリピート現象のことだ。死の間際に家族や生まれ故郷、幼いころの記憶などが突然脳内を駆け巡ることがある。パロは今、前世の記憶を見ているのだろう……」

「ちょっ、ちょっと待てよ!!
それじゃ、つまり、パロはもう……」

「……残念ながら」

一同の視線は再びパロに向けられた。
今、目の前で、小さな命の灯が消えようとしている。
枯れてしまいそうな小さな声で、その命は夢の中の誰かと会話をしていた。

「リューヘイ……ドラゴ……

アリーチェ……ナガサキ……行く」

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その時だった。

ブッ……ブツ、ブツ。
「？」

恭平は少し眉を潜めた。何かの音が、どこからか聞こえてきたような気がしたのだ。一瞬気のせいだと思ったが、

「ねえ。この音何？」

真理が言った。続いてエリが。

「何か、無線みたいな音が聞こえるけど…。」
「…本当だわ。」
「確かに鳴っていますね。」
「へ？音？」

塔子も、矢島も。声には出さないが七仁も同意した。…1人例外もいたが。

「これは…もしや！」

産巣日はそう言うと素早く塔子の方に目を向けた。

「塔子。獣鳥読心を使え！」
「え、何…？」
「いいから早く！」

塔子は、慌てて自分の胸に手を当てた。パロの心と自分の心を繋ぐ。同時に、産巣日が空気を斬るように右手を水平に動かした。すると、

ゴオォ…！

空間が変わった。レストランの部屋は消え、何か黒いものが渦巻いているだけの可笑しな空間になった。

「何だ、これ？！」
「塔子に流れ込んだパロの心を具現化したものだ。」
「産巣日が言いたいこと、分かったわ。パロは最後の力で私達を導こうとしてる！これは……風景？どこ？！」

塔子がそう言った瞬間

辺りは閃光に包まれた。

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>> 157 産巣日以外の全員が、思わず目をつぶった。恐る恐る瞼を開くと、一同は小高い丘の上に立っていた。(実際には、レストランにいながらにしてその風景を見せられていた。)パガニーニの墓のある丘だ。

「どこだここは？」
「外国？」
当然ながら、パロ以外にこの場所に来たものはいない。皆顔を見合わせ、驚きを口にした。

恭介一人を除いて。

「この景色、どこかで……」

老人。

草原。

鳥。

初めて来る場所のはずだった。だか確かに、見覚えがあった。恭介は必死に記憶を巡らせた。

「！」

（ロマーノ先生が店に来た時だ！）
あの時も、これと同じ景色が脳裏に浮かんだのだ。

「ねぇあそこ！誰かいる！」不意に夏美が叫んだ。
「しっ！隠れよう」
七仁が慌てて彼女の口を塞ぐ。
「その必要はない。これはパロが我々に見せている過去の幻影。向こうからこちらの姿が見えることはない。」
産巣日が静かに言った。

人影は二つ。
老人と少女、それに肩に止まったパロの姿があった。

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>> 158 葉を透かす太陽の光が静かに輝いている。空と海の境目から、晴れの匂いが風に乗り丘を流れていく。少女は麦藁帽を片手で押さえ、仰ぐように空を見上げる。閉じられたままの少女の瞳が映した世界は、少女にしか分からない。
「本当に、あの男と日本に行くつもりなのか？」
少女の隣に立つ老人は、寂しさと険しさの混じった声で尋ねる。少女はそっと頷く。
「彼を、放ってはおけないもの」
「一人で来たんだ。一人で帰ればいい」
「そういうことじゃないの」
「お前はキョウスケを……好きだった男を一人で日本に帰したじゃないか」
老人は、自分の口調が思わず咎めるような色を帯びたことに戸惑った。
「……すまない」
「いいの。おじいちゃんの言葉は、本当のことだから」
少女は笑った。無理をしているようには見えなかった。
「思い出すとね、おかしかったの」
「おかしい？」
「キョウスケがいた頃のおじいちゃん」
「私が？」
少女は頷く。
「何処がって言われてもこれとは言えないけど、何かが以前とは違っていた。そしてつい最近、元に戻った」
「何の事か分からないが……」
「私にも分からない。でも今はその違和感をリュウヘイから感じているの」

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>> 159 「違和感？」

「うまく言えないんだけど……」

少女の曖昧な返事に、老人は眉をひそめ、困惑したような表情を浮かべた。
その様子を黙っていた産巣日が、不意に恭介に問いかけた。

「恭介、この者達に見覚えがあるだろう」

「……あぁ」

恭介は落ち着いた様子で返事を返した。
視線はずっと、目の前の光景に釘づけになっている。
まるで、何かを羨望するかのような、そんな表情だった。

「アリーチェ、お前一人で日本へ行くのは無理だ……」

「……パロが付いてるわ」

「……そういう問題じゃないだろう。お前は……」

「『まだ子供』？」

一見、冷静なやりとりに見えるが、この状況は一種の修羅場と言えるだろう。
老人の返事は無言だった。

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>> 160 「……もう何も言うまい。いや、わたしにはその資格がない」

「おじいちゃん？」

「お前を子供だなんて思っちゃいない。わたしはねアリーチェ。恭介にはお前と結婚し、あの店を継いでもらいたいと思っていたんだ。かれは若いが才能にあふれていた。そして何より、お前を愛していた」

(先生……)
産巣日たちにイタリア語の通訳をしていた恭介は言葉に詰まった。

「しかし、わたしの中には得体の知れない悪魔が棲んでいたのだ。時折、殺してしまいたいほど恭介が憎くなった。何度も教会で懺悔を繰り返したよ。だが、神はわたしを赦しはしなかった……」ロマーノは唇を震わせた。

アリーチェは、かつて祖父に感じていた違和感の正体を垣間見たような気がして背筋を凍らせた。恭介の腕に触れた時に見つけた深い火傷の痕。厨房から聞こえる祖父の怒鳴り声。床に散らばったグラスの破片……。


「結果として、わたしはお前たちを引き裂くことになってしまった……」

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>> 161 老人の、ロマーノの言葉は、今にも消え入ってしまいそうなほど弱々しいものだった。
恭介には、ロマーノの言葉の意味するところが何なのか、すぐに理解することが出来た。


無意識に、恭介は右腕の火傷痕を左手でなぞっていた。

やがて長い沈黙が訪れる。
目の前の二人は勿論、それを傍で見守る一同にも一切の会話は無かった。
ただ時間だけが静かに流れて行く。



――「行くわ……」

暫く口をつぐんでいた少女から、やっと出てきた一言だった。
アリーチェは踵を返すと、その場から一歩、また一歩と歩み始めた。
ロマーノはそれ以上、何も言うことは無いと言った様子で、ただ静かに、その場に立ち尽くしていた。

恭介はつい数日前に、ロマーノが店を訪れた時の事を思い返していた。
あのときのロマーノが本物だったのかは定かではない。
だが、あのときのロマーノの複雑そうな表情は、決して造り物などでは無かったと確信できた。

パロは、アリーチェの肩の上で口を噤んでいる。
おしゃべりな割に、こういった気まずい雰囲気には敏感な鳥だ。

と、恭介が思ったのも束の間、パロはいつもの調子で口を開いた。

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「リューヘイドラゴ！ナガサキ、イク！」

静かなその草原に、パロの声だけよく響いた。それと同時に辺りの風景は焦点が合わないようなぼやけたものになっていった。空の青、草原の緑、そして老人と少女も。何もかもが曖昧なものになっていく。そんな中、パロの声が最後に聞こえた。


「キョースケ、アウ！アリーチェ、アウ！」


その後、再び辺りは一瞬で強い光に包まれ、何も聞こえず何も見えなくなった。



「あ…。」

最初に声を上げたのは恭介だった。それからエリや真理も周りをきょろきょろと見回す。そこは元の古びたレストランだった。水の入ったグラスの位置も、椅子の位置も先程と変わらない。全員の立っている位置も、先程と同じだった。
その時、

「あ！パロ！！」

夏美が突然声を張り上げた。全員が夏美の指さす方を見ると、そこにパロが倒れていた。黒い羽が床に散っていて…その時点で、全員が同じ事を理解した。即ち、

パロの命の火が尽きてしまった
ということを。

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>> 163 恭介はパロの亡骸を抱き抱えた。
「ふむ。確かに彼は十分に力を尽してくれました。しかし……」
「ああ。日本までの足取りが分かっても手掛りにはならないな」
恭介はそう答える。
「でも……お疲れさん」
恭介がパロに掛けた言葉は全員の思いと同じだった。
程無く、パロの体に異変が起こり始めた。
「……コイツ、体が溶けていく」
「仮初めの命に仮初めの体、現国に在るべからざる生。其れ故に骸は残らぬ。ただ消えゆくのみ」
「……そうか」
「悲しいか？」
恭介は首を振った。
「俺、動物が嫌いだったんだ。だけどコイツは一緒にいても悪くない奴だった。何も残せないコイツの生きた証が、もし俺たちに残る記憶なんだとしたら、俺は悲しい記憶より楽しい記憶を留めておきたい」
「……らしくないね」
小さな声でエリが呟いた。
やがてパロの体は消失した。しかし全てが消えたわけではなかった。
パロは想玉を残した。
「……体は黒いくせに、真っ白じゃないか」
恭介が呟いた途端、想玉が強く明滅を始める。
「何だ!?」
「共鳴している……近くの想玉と互いに引き合っているのですよ！」
矢島の言葉に恭介はハッとした。
「……アリーチェだ」

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>> 164 アリーチェ(もしくはアリーチェの姿をした何者か)が店に来たとき、持ち去った恭介の想玉だ。

「まだアリーチェが近くにいるってことか！」
恭介はガタリと椅子から立ち上がった。

「……落ち着け。事を急いて再び敵の罠にはまるのは得策ではない。現在の鵺が龍平であると分かった以上、アリーチェは恐らく想玉を盗むために仕掛けた偽物。奴が想玉を集める目的は判らぬが、向かう先は……ナガサキ」
産巣日はゆっくりと全員の顔を見渡した。

「ここは二手に別れるとしよう。二名は我と共に長崎へ。残りのものは、この町で【監視】を続けてもらう」

「鵺の放った幻影を捜すのね。わかったわ。で、その二名は？」

「恭介と……妹のエリに同行してもらう」

「え、わ…わたし？」

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>> 165 突然の指名に、エリは動揺を隠せなかった。

「ちょっ……ちょっと待って、いきなりそんなこと言われても……」

エリは困ったように視線を泳がせる。
恭介もそれに同調するかのように呟いた。

「悪いが産巣日、あまり頻繁に店を空けることは出来ないんだ……。
だいたい、この街から長崎までは結構な距離もあるし……そもそも、そんな簡単に済む用事じゃないだろ？」

時刻は夕方六時を回っていた。
これから行ってすぐに帰ってくるなど、現実的に考えて不可能だ。
新幹線で半日は掛かる距離である。

恭介とエリの訴えに、産巣日は口を噤んで黙り込んだ。


「この店、言うほど繁盛してないじゃん」


そこに助け舟……とは到底言えない、夏美の横やりが入ってきた。
店内が一気に静まり返る。
この状況で一番言ってはいけない言葉だ。

恭介とエリは目が点になり、産巣日は眉をひそめている。
一同が気まずそうな表情をしている中、ただ一人矢島だけが、肩を震わせていた。
顔を隠しているので確認出来ないが、おそらく笑っているのだろう。

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恭介はつかつかと夏美の方に歩み寄る。そして、

「繁盛してなくて悪かったな！」
ごつん！

夏美にげんこつをお見舞いした。瞬間、その場に「イッタァ！！」という高い声があがった。

「何だよ？！事実を言っただけじゃん！」
「ああそうさ、ウチには客がいない。けどそれは運が悪いせいさ！店がボロいとか、味が悪いとか高いとかでは断じてない！だいたいにして、」
「ちょっと兄貴。いつもの癖はそこら辺にしておいてよ。…恥ずかしいじゃない。」

エリの冷めたような一言で、恭介は奥歯を噛み締める。どうやらそれで、恭介の暴走は止まったようだった。エリは疲れたような溜め息をついて呟いた。


「…ここが繁盛してないのは、動かせない事実なんだし。」


再びシンとした。この上火に油を注ごうとする者はいないからだろう。皆、むしろ沈黙の方が心地いいようだった。




「……それで。」

一段落して、産巣日が切り出した。

「恭介、エリ。我と共に行くか？それとも行かないのか？」

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>> 167 「分かった。分かったよ……いいさ、店は数日閉める。もう他人事とは言えない、行けるとこまで行ってやる」
恭介は溜め息をついて言った。
「兄貴一人で行かせらんないし、仕方ないから私も行く」
産巣日はエリの言葉に、微かな笑みで頷いた。
「決まりだ」
「では新幹線の席を手配しましょう」
矢島が携帯を取り出し、慣れた様子で操作する。
「あんたさあ……人間じゃないんだよね？」
「おや？今更ですか夏美さん」
「出張慣れしたサラリーマンにしか見えないんだけど」
「サラリーマン……なるほど確かに。ところで優秀そうに見えます？」
「全然」
「即答ですか」
「三流企業の窓際の臭いがする」
「哀愁漂う表現ですねえ」
矢島は苦笑する。
「冗談言ってる場合かよ」
続いて七仁の嘆息。
「えー、マジで言ってんだけど」
「嘘つけ。矢島さんは見た目は立派だろ。見た目は」
「鮮やかなコンボで私の心はズタズタです」
矢島の笑い声。
「無駄話はそこまでだ……矢島」
話を切ると、産巣日は真剣な顔で矢島を見た。
「……何ですか？」
「もしもの時は頼む」
「どういう意味？」
塔子の問いに産巣日はこう答えた。
「戦になるやもしれぬ」

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>> 168 一瞬、店内に沈黙が流れた。

「……それは物騒な話ですね」

「他人事のように言うな」

「失礼……ですが御安心を、後のことはちゃんと私が責任を持ちますから」

「ちょっと待ってよ、『もしもの時は』ってどういう意味……!?」

エリが割って入るように、会話に加わった。

「そのままの意味だ。
――正直、今の鵺は力を付け過ぎておる……今回ばかりは、我にもまともに太刀打ちができるかわからぬ」

産巣日の返事は実に明確でハッキリとしている。
この場にいるメンバーの全員が、その言葉の意味するところを実直に感じ取ることが出来た。
暫く無言が店内を包んだが、それを打破するように、産巣日が口を開いた。

「さっ、こうしている間にも時間が惜しい。
恭介、エリ、最小限の荷物をまとめて裏庭に来てくれ」

「……裏庭？」

「新幹線では時間が掛るからな」



――――――



「……ウチの裏庭に、魔法陣なんてあったっけ？」

荷物を固め、店から出てきた恭介とエリが目にしたのは、産巣日を中心に描かれた直径二メートル弱の魔法陣だった。

「これは“口寄せ”と言うのだ」

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エリは怪訝そうな顔をする。

「口寄せ…って、イタコがよくやるっていうあの？」
「それとは異なる。あれは自信の肉体に天界の魂を呼び込むものだ。今呼ぶのはそういった霊の類ではないし、肉体を呼び込んだ者に貸すわけでもない。」

恭介はしばらく魔法陣を座った目で見ると、ボリボリと頭を掻いた。

「つまり…何だ。まさか何かをここに召還するってんじゃないだろうな？」
「正に、その通り。」
「冗談じゃない！凶暴な化け物が出てきてうちの店を滅茶苦茶にされたらどうしてくれるんだ！」
「凶暴な化け物を今呼ぶ理由があるか？我にとってはそのような低級なものを呼ぶほうが寧ろやりにくいぞ。」

恭介と産巣日が言い合っている間にも、


「召還…かぁ。」


エリは放心していた。『召還』なんて、何かのゲームや小説でしか聞いたことがなかったからだ。

「ねぇ、産巣日さん。何を呼ぶの？ペ…ペガサスとか？！」

言葉の最後のほうが上擦る。それにエリの瞳は心なしか輝いているように見えた。そんな様子に恭介は少し呆れ、産巣日は少しニッと笑った。


「西洋の獣は呼ばない。…我が今から呼ぶのは、高天原に住まう神獣じゃ。」

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>> 170 言い終わるや否や、産巣日はゆっくりと眼を閉じ、低い(といっても少女の)声で祝詞を唱え始めた。

「神獣って……」
意外にも、もっとも動揺していたのは夏美であった。青白い顔でジリジリと後退りし、無意識に七仁のシャツの裾をギュッと掴んでいる。

「おい、夏美……お前さっきかまで魔法陣見て旅行し放題だなーとか言ってたくせに！」

「無理ないわ。私と夏美さんは、ぬえを間近に見ているのよ。神獣なんて言われたら…」
そういう塔子の手も頑なに握られ、汗が滲んでいた。

突如、雷のように辺りが真っ白に光り、産巣日の足下から霧のようなものが沸き上がった。
一同は、固唾を飲んで様子を見守る。

「………？」
次第に視界がはっきりしてくる。

「……神獣……は？」
「ここにいる」

手のひらほどのサイズの亀が一匹、カサっと魔法陣の外に這い出した。

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>> 171 「……カメ？」
塔子の言葉に産巣日は頷いた。
「ずいぶん……カワイイのが出てきたね」
「見掛けと力は別の物。此奴が本気を出せば此処等一帯を米粒程に圧し潰すことも易い」
「マジで？このちっこいのが？」
夏美がつつくと亀はくすぐったそうに首を引っ込めた。確かにそんな力があるとは思えない。
「使役の誓約によって自由に力が出せないのですよ」
矢島は苦笑する。
「使役の誓約？」
真理が尋ねる。
「労働契約みたいなものです。まあ産巣日さんの誓約と言えば好き勝手に呼び出し無限にコキ使う、ブラック企業を遥かにしのぐ生き地獄ですから『労働』なんて健全な代物ではありませんがね」
「矢島、貴様も我が地獄の労働組合に加えてやろうか？」
「四霊と席を並べる器じゃありませんよ私は」
矢島は笑って首を振った。
「四霊ってのは何だ？」
恭介が訊く。
「四霊が一柱、蓬莱霊亀。本来ならば山より巨大な体躯を持ち一万年を越える時を生きたそれはそれは有難いお姿をしているのですが……」
「さっきの使役の誓約とやらで、こんなミニっこい体にされちまってるわけか。不憫だな」
「山を口寄せては近所迷惑だろう？お前の店も崩れるぞ」

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