神社仏閣珍道中・改

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2024/09/21 05:50(更新日時)


【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。

自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3964800 (スレ作成日時)

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No.101

物欲もいい加減にして、シンプルに生きていけたらと思うのに、煩悩おばさんの物欲はなかなか手強くて、しかも新たなる物への欲もすぐに湧くので困ってしまう。

今欲しい物の三本の指に入るのが、この御朱印帳と、こちらの神社さんの御朱印。


救いはこちらの神社さんが、配送サービスなどされていないこと。

鎮まりたまえ〜っ。

No.102


十三年前に思いを馳せたとき、抑えられないほどの思いに駆られ、自転車に飛び乗った。

あの日、あの時刻。
私は遅い遅いお昼ごはんを食べていた。
そんなことを思い出しながら。


向かったのはお寺さん。
鐘を撞くことも、御本堂に入らせていただくこともできるお寺さんだ。

あの日。

長女は私を心配して自転車で迎えに来てくれ、後で知ったのだが、その後、橋を渡って、一人暮らしの祖母の元へと向かってくれていた。
義母から聞くまでそれを知らなかった。


そんなことをあれこれ思い出して。


あの時刻を迎えた。


鐘楼の周りにはどなたもおられない。
鐘を一撞きしてから黙祷をした。


…偽善かもしれない。

かつて仕事中に黙祷をしていた私にそう言った人がいた。
手を休めて困るようなタイミングではなかったし、むしろ朝礼でそのように訓示があったくらいだ。


この日の過ごし方はいろいろあろう。

ただ忘れてはならない。

そして。
私はこれからもずっとこの東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りして過ごす。


これからもずっと…祈りと鎮魂の日である。



No.103

(上野東照宮さんの続き)

社殿をぐるりと囲む塀。
『透塀(すきべい)』と呼ばれ、歴代将軍や諸大名らの参拝時に外側から警備できるようにと、内側が透けて見えるようになっているのだといいます。
もちろんガラス張りなわけではなく、そうした役目を果たすぐらいの格子が施されているというものです。

なるほど。塀を通して御神木が見えます。


この透塀、上段には野山の植物や動物が彫られ、下段には海川の水の生き物が彫られています。

上段には圧倒的に小鳥が多く彫られていましたが、昆虫や猪、鹿などの動物もあり、下段には海鳥や魚貝類、鯰や蛙などが彫られていました。
場所場所に、何の生き物が彫られているかわかるようにと小さな貼り紙がされていました。

じつに数多くの種類の動植物が彫られていて、身近によく見掛ける雀や燕、蝶や紅葉などもあり、その一つ一つを確認して楽しんでおられる方々もおられたくらいです。

この彫りはなかなかリアルなもので、極彩色の塗りも美しくたしかにそういった楽しみ方もありかもしれません。

それもそのはず、これらの彫刻は、狩野派の絵師、狩野探幽の指揮のもとに作られたといいます。

スズメやカエルなどといった江戸の庶民にとって身近な生き物が彫られており、なかでも珍しいのがカマキリの彫刻なのだといいます。
カマキリの彫刻があるのはこちらと京都の石清水八幡宮だけなのだとか。
まぁ、私はそこまで詳しくは見て歩きはしなかったのですが。


造営当時からこの透塀は美しい極彩色で彩られていたのですが、一時は弁柄色一色になっていたといい、その後の修復で再び極彩色へと蘇らせたといいます。
その際、数の多い小鳥類は元の色味が不明だったため、上野動物園の協力のもと実物を確認して色付けすることもあったのだそうです。


私が気に入ったのは唐門内側のもの。
リアルにていねいに彫られた鳥の親子は、まるで境内の地面を歩いているかのように感じられるほどでありました。

No.104

(上野東照宮さんの続き)

この透塀の格子は菱格子と呼ばれるもので、文字通り菱形の格子となっています。
この菱形の格子の上下に欄間影刻が あって、上の段には野山の動植物、下の段には海川の水の生き物が283枚飾られていると書きましたが、実は一部現存していない箇所もあるのだといいます。
これは驚くべきことに戦後進駐軍の兵士が興味本位で持ち去った跡なのだといいます。
…驚くことでもないでしょうかね。
戦争、ましてや敗戦国というのはそんな扱いを受けて当たり前のようなもののようです。

多くの人命、そして多くのものを人的な被害において失う戦争は決して起きてはならないし、一刻も早く終息しなければならないのです。


この透かし塀、今回の2009〜2013年の修復まで、今のような極彩色ではなかったといいます。
塗られていたものを剥離させれば元の色が出てくるであろうと剥離させたものの、前回の修理で元あった塗料を剥離して弁柄色になってしまっていたのだといいます。

前回の修復…。
実に昭和の時代でありました。

…何故…。

何故かを知る人は昭和の、それこそ私が生まれる前に、この修復に携わるようなお年の方で。
終戦の物のなかった時代から、勢いづいた頃のことであったようです。

おそらくその当時の上野東照宮の透塀は塗装もほとんど剥げ落ち、あまつは盗難に遭い、今のものとはまるで別物のような見た目であったことでありましょう。

そこで見た目だけでも綺麗にして、これ以上彫刻の彫りまでが傷むことがないように、後世に受け継ごうとしたのかと思われます。

…しかたなかったのかと思われます。
人々の想いなどは一切打ち捨てられ戦争に全てを注がれた時代があって、…ようやく修復にまでこぎつけたことであったでしょう。

むしろその早い段階で修復に取り掛かれる社であったことがこうした悲劇を生んでしまったのかもしれません。

そのため前回下処理をされたものまで剥がして、まっさらな所から、元あった色をいかに再現していくか、そこから始まった修復であったようです。


これは…。
この修復に関わられた方々のご苦労は想像を絶するものでありましたでしょう。

No.105

(続き)

しかしながら、この元の色を失った上野東照宮の透塀の欄間の彫刻の修復。
元の色を探るべく、いろいろな調査や研究が行われいろいろわかったこともあったようです。

たとえばその彫刻の配置なども、特 に上部にある欄間は 東 西 南 北と四季が呼応して配置されていることが考察されたといいます。

たとえば。

東には『山桜にウソ』『梅に鶯』『柳にツバメ』などの欄間があり、春を表しているようだといいます。
南は夏。『茄子に蝶 』『ホタルブクロにカマキリ』『紫陽花に小鳥』などから描かれているといいます。
西には『栗に猿』『葡萄にリス』『紅葉に鹿』で秋を。
北には『榴にツグミ』などなど冬を表す彫刻だといいます。

透塀下部にある欄間は波や水鳥、貝など、水辺を表現したものが主です が 、失われているものが多く、今回の調査や考察では配置にどんな意味合いがあるのか不明な点が多いまま
であったといいます。
鴨、驚、ヨシキリ、カイツプリ、セ キレイ、かもめや千鳥などが表現されています。
彫刻されている植物や生き物、その組み合わせやそれ自体に、なんらかの意図が表現されているのか、現在も考察中だといいます。


また、創立以来幾度となく修復作業がおこなわれた痕跡も確認するこ とができたといいます。

たとえば。
高欄の漆の層からは八回分にも及ぶ漆修復工程をつぶさに見ることが出来たといいます。
これは過去から現在にしっかりと技術や意匠が伝承されている証だといいます。


こうした調査や考察をし、さまざまな方面と連携して割り出され、再び彩られた彫刻たち。


そう思うともう少し時間をかけて見れば良かったと思うのですが…。

あのときは金色に輝く社殿に目を奪われてしまったおばさんでありました。

No.106

(続き)

上野東照宮さんの社殿を拝観させていただく進路は決まっており(拝観料を納めますので、そういった意味でもそのように定められましょうが)、拝殿正面となる唐門は閉ざされておりますので当然ながらそこからではなく、本殿の横から拝することとなります。


神さまが御鎮座されておられる本殿は、通常拝殿よりも豪華に、…たとえば格の高い彫刻を施したり、より細かな彫刻を配したりされています。

道が狭いんじゃないかなどと、ぶうぶう心でつぶやきながら歩いてきた煩悩おばさん、一目その本殿を見て、言葉を失います。
…まぁ、ここのスレ主は元々言語能力のいたって乏しい人物ではありますが。

それにしても…。


金。

金。

〝かね〟ではなく〝きん〟、金色=こんじき、であります。

いやぁ…金色だあぁ。


修復を終えて十年ほど…でしょうか、その神々しいまでの金色は少しも衰えてはいませんでした。

…煩悩のかたまりではありますが、実はこのおばさん、貴金属には一切興味を示さない、特殊にしてある意味お得な女人でありますので、他の方々より金(きん)を見慣れていないという特異性はありましょうが、それにしても突然現れた異空間に立ち尽くすことしばし。
(まぁ、金をあえて括弧して〝きん〟としなくともお金もそんなに見慣れていない、根っからの貧乏人ではありますが。)


いやぁ、金。


なので本当のことを言えば、内側の透塀の彫刻よりも先にそちらに目を、心を奪われていたのが第一であったのでありますが。

金の貨幣価値はわからなくとも、ここ、外気に晒される外にありながら、こんなふんだんに惜しげもなく金箔を、と驚き。

さらにはあの薄い薄い金箔をこれだけ貼り付けるとは、なんと気の遠くなる作業であったろうと、感嘆したのでありました。


No.107

あのぉ〜。

今日こちら無風なんですが、今やたらと玄関の戸がカシャカシャいってまして。
しかも取っ手が。

私は何をしたらよいでしょうねぇ。

とりあえず、お線香とお灯明をあげ読経したいと思います。

No.108

お線香をあげた途端にピタッと音がおさまった怖さといったらありませんが、一応ご報告させていただきます。

お騒がせして申し訳ありませんでした。

なにせビビりなおばさんなもので、家に一人で怖かったんです。

No.109

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


                
人にもよるのでしょうが、私は親戚付き合いかほとんどありません。
親の代からそうであると、下の代はさらにそうなっていくことが多いのかもしれません。
また、昔のようにご兄弟か多いことも減ってきていると、親戚自体が数としても減ってくるのは自然なことでありましょう。

そんな私は、人が亡くなられて後の事をあまり多く知りません。

昔のように隣組が大きく関わってのお葬式自体も激減したこともありましょう。
近所のおばあさんにあれこれ教えていただきながら、その慣習を学ぶ機会も失ってまいりました。

またご近所さんが関わってのお葬式が葬儀社に依頼してのものとなってきたこともあり、葬儀社さんの関わりは大きくなっております。

とはいえ、前回誰かが亡くなった時はこうだった、…などという記憶は残っているもの。

それが違和感となることもあります。


今回はそんな話を書いてまいります。

ある時期、葬儀社、それも葬儀場を備え持つような葬儀社が増えたなぁと感じる時代がありました。

それまでは自宅葬がほとんどでしたでしょうか。
お寺さんで式を執り行うこともあるようですが。
斎場も葬儀告別式を執り行えるものであることもあります。

そんな建物を目にするようになって何年かすると、住宅事情もありましょう、そうした式場を使っての葬儀告別式が増えていき、そうした葬儀の形を見るにつけ、隣組という組織での式の、ご近所への負担を考えたとき、「うちも葬儀社に頼もう」という方が増えていき、今では私の住まう地域においてはそうしたご葬儀がほとんどとなっております。

それどころか自分は知らなかったのですが、どうやらお葬式の形態もだいぶ変わってきていたようでした。


No.110

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。

                

ほんの数日前、義母が亡くなりました。

このコロナ禍、義母の入院先はいまだに、『面会は週二回、一回の面会で会えるのは二人。一回10分』と決められ、面会時には10分とセットされたタイマーを持たされ、回数もそれをきちんと病院が記録してあり、
「今週はもう二回となっています」
と、家族間が密に連絡を取っていないとはねのけられてしまうくらいの徹底ぶりでありましたので、下っ端の私などは面会することもなく、亡くなるその日すらその面会体制でありましたので、私は亡くなってからようやく半年ぶりに義母の顔を見ることとなりました。

葬儀社が祖母の住んでいた家へと着き、義母の遺体が綺麗に安置されてまもなく、私はそこに到着いたしました。

葬儀社の社員はお悔やみを述べることもなく、皆の方を向くといきなり、
「で、お通夜はされますか?」

は?

「今はお通夜をしないお葬式がかなり増えているんですよ」

えっ、そ、そう?

直葬という形もあることは知っております。
一日葬というのもたしかに聞いたことはありました。

か、…増えているという感覚はまだ私の中にはありませんでした。
今までそうした葬儀をお一人、一件しか知りませんでしたし。

そもそもがコロナ禍以降家族葬が圧倒的に増えていましたので、そのせいもありましょう。


…でもですよ。
いきなりこのような聞き方はどうかと思います。

今、身内を失って病院から帰ってまもない遺族にいきなりこの発言、その神経を疑うばかりです。

発言もさることながら、口調もまさにそのまま。
今後のスケジュールを早く決めたい、という姿勢が丸出しです。

何かの販売員だってもっと丁寧です。

私は軽い苛立ちをおぼえ、気持ちを落ち着かせようと部屋を見まわすべく、あたりを見渡すともなく目を走らせると、仏壇、そして神棚へと自然に目が行きました。

仏壇の戸は閉じられていたのですが、こうした状況下必ずされているはずの神棚の前に半紙を貼る『神棚封じ』がなされていないのです。

は?

これ葬儀社のみならず、御遺体が安置された部屋に神棚があったら一番にするべきことなはず。
なに?忘れてる?
だとしたらプロ意識が無さすぎです。


No.111

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


神棚封じをご存じない方もおられることかと思います。
わが家もそうですが、神棚のないお宅もだいぶ増えているのが、現代の家庭ではないでしょうか。

私の育った家庭には神棚はありませんでしたが、両祖父母の家には神棚がありました。
私は子どものころからこの神棚というのが大好きで、祖父母の家に行っては、…まぁ、それは子どもですから、真っ先にということでは当然ありませんが、よく神棚を見上げては
(いいな♡素敵だなぁ♡)と思ってしばし見上げている、そんな子どもでありました。

榊を変える日であれば、
「どうして木の葉っぱを神さまに上げるの?」
と納得がいくまで聞く。
納得のいく答えをくれる大人がいなかったため、それはそれは何度も聞いたものです。

神社も好きでした。
母方の祖母の家は近くに神社さんがあり、外に遊びに出ることがあると決まってそこに行っていたような、…そんな記憶があるくらいです。

無宗教の両親は神社さんに連れていくようなことはありませんでしたが、手を握って連れて行くような、そんな幼少の時分には祖父や叔父がよくお縁日の神社さんに連れて行ってくれました。
でもそうした人混みの神社さんより、好きなだけお社を見て過ごせる、普段の日の神社さんの方が好きではありました。
まぁ、そもそもお縁日の神社さんでは小さな子どもにはお社すら見えず、そんなことよりたくさんの露天商の屋台であれこれ買ってもらえることの喜びやら嬉しさやらが優っていたのは当然のことですが、ね。


閑話休題。

『神棚封じ』とは、家族に不幸があった際に、家の中の神棚を封じること。

白い半紙を張り付け、忌中の間はお供えや参拝を避けます。
日本古来の宗教である神道では、仏教とは異なり『死』を穢れ(けがれ)ととらえます。

神棚封じは、『死』という穢れを神さまに近づけさせないために行うものです。
神道においては、神さまは穢れを嫌うため、近づけてはいけないという考え方があるためです。

家族が亡くなった時から『忌中』となるので、この間、神社への参拝を控える必要があるとされているということはご存じの方がほとんどかと思います。

同様に自宅の中の神社である神棚を穢れから遠ざけるために、神棚封じを行うのです。



No.112

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください


この神棚封じ、昔ご近所の方々がお手伝いくださっていた時代には、その知らせを聞いて真っ先に行なった行為の一つとして聞いております。

神棚封じの方法そのものはシンプルで簡単なもの。

まず、神棚の神さまに対して挨拶をし、家族の誰が亡くなったかを報告し、報告が済んだら、神棚に供えてある米や酒などのお供え物や、榊などをすべて下げ、そして神棚の扉を完全にしめ、正面を隠すように白い半紙を貼り付ける、といったものです。
こうして書くとなんだかいろいろ手間がかかっているように感じるかと思われますが、ものの数分もあればできてしまう簡単なことです。

ただ。
神棚封じを行う人は穢れと関係が深い家族ではなく、他人が行うのがいいとされています。

そのため、昔はご近所の方が、今葬儀社に頼むような場合であれば、葬儀社の方が行うこととなっています。

そうなんです。
その『神棚封じ』がなされていない状態で、葬儀の打ち合わせを始めていたのです。

その、神棚に向ける私の視線に気づいたもう一人の葬儀社の方は顔を伏せました。
ああ、ちょっと困ったことではあったけれど、まぁこれで神棚封じをしていただける。

ペラペラと話を続ける品のない営業マンの方の話が終わるまで、もう一人の葬儀社の方と私は思いを共にして待ちました。
…思いを共にしていたと思っていたのは私だけでした。

話が終わったあと、
「神棚の方は明日10時にきた時必ずいたしますので」


は、はあぁ?

あ、明日ぅ?

な、なんでです?
コロナ禍でそんなことまで変わってきたというの?
そんなの困ります、その家その家の希望に沿っていただきたいです。
…と、喪主の妻でもない私は心の中で叫んでいました。


「夜寝る時や出かける時は必ず火は消して、線香も折って火を消して下さいね。今は夜通し火を絶やさないなんてことありませんから」

品のない人間が去る手本のように、どすどすと遺体の枕元から横を通って歩き、遺体に手を合わせることもなく、遺族にお辞儀すらせず去っていくペラペラおじさん。
へいこらへいこらお辞儀をして後から退座した(退散した)もう一人のおじさん。


な、なにぃ?!








No.113

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


「神棚封じが明日ってどういうこと?」

「ああ、セロテープありますかって言われたんだけど、一緒に住んでないとわからないこともあるじゃない?探したんだけど見つからなかったんで、そしたら「じゃ明日持ってきます」ってことで」
と夫。

「ええっ?そんなの葬儀社として必要物品で、それこそ大事な一つを忘れてきてるってことなのに」
「まぁ、明日10時に来てしてくれるって言うんだから」

…この時まだ五時台、祖母の住んでいた自宅と車で五分とかからない場所にある葬儀社です。
なんて誠意がない!
というか、いろいろトータルして常識がない。教育がなっていない。
…と瞬間湯沸かし器の次男の嫁、たいそう立腹しておりましたが、ここはそういう場ではないとすぐに反省いたしました。

その神棚封じの時にはまだ私は義母の家にいなかったのですが、時を変え違う方がお見えになった時も、「こんにちは。〇〇ですが、ドライアイスを替えに来ました」


…なんかもう葬儀社の方とは見ないほうがよさそうです。
義父の時にはこんなじゃなかったんですけれど、ね。

なんでもこの葬儀社さん、義祖父さんのお友だちの家だとかで、ずっとこちらさんなのですが、正直、ダメだこりゃ。

もっともっと若いスタッフさんであっても、言葉遣いから立ち居振る舞いまで、それはそれは丁寧にそれでいて親身に心に寄り添おうという姿勢の葬儀社さんはいくつもあります。
むしろそれが当然です。(だと思うのです)


義祖父さんのお友だちの先代(先先代?)はさぞかしお嘆きのことでしょう。


No.114

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


「ねぇ?枕経には来てくださったの?」
「何それ?」と夫。

枕経はもちろん葬儀社ではなくお寺さんが御遺体の安置された場所でお唱えになるもの。

それはこの家に嫁いで、義祖母さんの亡くなったときに初めて知った(初めて認識した)ものでありました。
そんなに長いものではありませんでしたが、早い段階からこうして僧侶が関わってくださるということに、私はたいそう感動し、心癒されたものでありました。


実母の亡くなった時には、「枕経は断ったから来ないよ」と喪主に言われて、その無謀さに恐れ慄いたものです。
…断ったって、独断で。

まぁ、喪主のすることにケチはつけられませんので、「ああそうなんだ」とそれ以上の言葉はのみましたが、私はそれを畏れととらえ、亡き母には詫びたものでありました。

まぁ、母は基本無宗教で、ただ単にこのお寺さんは自分の実家の菩提寺であったから、という単純な理由でこちらを菩提寺と定め、墓所を購入していただけのことで、のちに知ることに、特段年会費等も納めていなかった、その時はまだごくごく薄い関係であったようなのですが…。

でも最初に魂となられた御霊に、大丈夫だよと、お坊さんが道を示してくださるこの儀式を私はたいそうありがたく思っていたものでありますから、私としては結構ショックでありました。


まぁ、ご自宅に安置されて然るべきときに、なようですので、あるいはこれから、納棺前にお越しになられるかもしれませんが。
まず、遺族側が若く(は決してないけれど)そうしたものを知らないと、お寺さんももはや依頼でもなければ枕経に訪れることはないのかもしれません。

私のように煩悩の塊は、きっとその時が来たとき、おろおろと迷っているに違いありません。

私は枕経をして欲しいな。


あれ?
そもそも私まだ仏教徒ともなっていなかったわ。

No.115

【枕経】

枕経とは、亡くなられた方の枕元で唱えるお経のことを指します。

亡くなられた方を仏さまのお弟子として迎え入れてもらうためのお経とされており、そのためかつては、ご臨終の間際に読んでいただくものでしたが、今は亡くなられた後へと変化しています。

かつては自宅で亡くなられるケースが多かったため、危篤の際に菩提寺へ連絡し、ご臨終の前に読んでもらえておりました。
しかし近年は病院で亡くなることが増え、ご遺体を搬送し安置した後に枕経をあげることがほとんどとなっています。

またどうしてもお経というと、亡くなられた方に向けてのものととらえる方が圧倒的に多く、縁起が悪いと思われることも一因であったかもしれません。

枕経は、「必ず実施しなければならない」というものではないといい、近年は枕経を省略する家も増えてきているといいます。

その一因に、このコロナ禍において、ご遺体の安置所で面会時間を制限されていたところ、面会自体が禁止されているところがあったことが挙げられるとされます。

また核家族化が進み、菩提寺を持たない世帯が増えていることもあります。
小規模なご葬儀の形態が増えている背景も関係しているといわれています。

枕経自体を知らない方も増えていることもそこにあるかと思われます。
本来枕経は依頼してお越しいただくものでありますので。


しかしながら、本来、枕経は亡くなられた方が極楽浄土へたどり着けるように祈る大切な儀式であります。
ご冥福を祈るためにも、なるべく実施してあげるのが供養となる、とはされているのですが…。



ところで。

枕経、枕経と一言で申しておりましたが、実は宗派によってはその呼び方自体が異なる場合があるようです。

臨済宗では『枕経諷経』と呼ぶといい、曹洞宗では『臨終諷経』と呼ぶのだといいます。

また宗派によりお唱えするものもさまざまなようです。

今年の涅槃会は曹洞宗のお寺さんに参列させていただきましたが、その際お唱えになっていた『遺教経』を葬儀でもお唱えになるとおっしゃっていました。
枕経、『臨終諷経』でも『遺教経』または『舎利礼文』を読誦するとされたものがあり、同じ宗派であってもお寺のご住職さまのお考えで変わることもあるようです。


No.116

(続き)

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


記憶をたどってみると、私はもっと枕経の席に参列させていただいていた記憶があるのです。
しかしながら親族としての葬儀など五本の指にも余るほどで、親しくさせていただいていた方といっても枕経にとお呼びいただいた記憶はありません。

何故だろう。

…思い出しました。
お通夜の席で枕経も兼ねて執り行われることも増えているようです。

そして、前レスでも申し上げましたように宗派によって枕経でお唱えするお経はそれぞれ異なるようですが、と同時にその儀式の執り行い方も異なっているようです。


記憶の中、通夜の儀式の冒頭に剃髪の動作をして、故人様が三宝に帰依できるようにするとおっしゃっておられたご住職さまがおられます。
宗派は思い出せませんが、これを拝見して、その昔平安や鎌倉時代の書物を読んだ折に書かれていた臨終のシーンを思い出し、たいそう感動いたしました。
これこそが枕経の形であろうと思うので。

そしてまた、やはりお通夜の冒頭に、仏さまをお招きする儀を執り行う宗派もありました。


なるほど。
たしかに大切な儀式の一つである枕経を略していいとはお考えにはなりませんよね。
こうして形を変えて、枕経はお唱えいただけていたようです。

…なにせ私、ビビりなものですから 笑。


義母の葬儀告別式まで日時に間があったものですから、義母の家のそばを歩くことがありました。

大変良い香りが漂っているお宅のお庭があり、見上げると木蓮の花がもうすでに咲いていました。
お彼岸前だというのに、もう木蓮が咲く…。

それでも、花の好きだった義母の亡くなったときにこの香りを嗅がせていただき、正直とてもありがたく思いました。
春の訪れを肌で、そして香りで、目で感じながら、義母を送ることができます。

No.117

【がたぴし】

たてつけが悪くてガタガタ音がする様子を言いますが、実は語源ではなく【我他彼此】と書くのだといいます。
【我他】は自分と他人、
【彼此】はあれとこれの意味となるといいます。

仏教ではすべての物事には原因があり、縁によって関係し調和していると考えます。
それが崩れると争いごとや対立が起きる。
その状態を仏教では我他彼此と言うのだといいます。


葬儀の納棺の際、靴を脱いで和室に入りました。
靴箱とかないため、似たような黒い靴ばかりが並びます。
一瞬、(間違えられないといいな)と思いました。
子供の靴のように名前が書けるようなものでもなく、それどころかオール黒。
私はこの日初めておろした靴でした。
ざっと見やるに同じメーカーの靴はなく、これならば間違えられることもないだろうと少し奥まったところに置きました。

納棺が終え出棺。
(靴がない!…嘘でしょ?)

見れば私の靴を履いた人が目の前に。
「あの、それ私の靴です」
よかった。
勘違いは誰にもあるし、すぐに気づいて交換できる、…そう思ったのも束の間、
「えっ?これ私のだけど?」

えっ。
…残っているのはだいぶ傷んだ同型の靴。
たしかにヒールの高さも大きさもほぼ同じではあるのですが、明らかに間違いようがないはず、なのですが。
それでも脱いでさえもらえれば、メーカーの違いでわかってもらえる。

…そう思ったのに。

「これ、私の靴よ」
いやいや、履いた感触とかの違い、わからないかなぁ、新品のクッション性と、履き込んだ自分の足にあった靴の違い、わかるはずでしょ?

なおも言い張るその方に、メーカーやサイズ等見せて
「これはサイズからも私の靴です」
と説き伏せてその靴を私が履いたのです。

…納得しない。 
残った靴を履いて、なおも
「履いた感じが自分の靴じゃない」と言い張る。
もうこうなったら聞かない、聞こえないふりをするしかない。

そこへ夫。
「ねぇ、この靴、朝箱から出してくれたじゃない、このメーカーの靴だったでしょ?」
「そんなの覚えてないよ」


…味方はいないんかい。

相手方の旦那さんは、
「靴は大丈夫?」と奥さんに聞き、
「私のじゃない気がする」
となおも言い続けている。

メーカーまで違うのに?

明日会うの嫌で眠れない。

自分の靴を自分のものだと主張して、泥棒扱いされている気分です。

No.118

タイの寺院で覚醒剤を使用して暴れ回っていた男に仏像が刺さり死んでしまったという信じられないニュースが入ってきているようです。

それを聞いて何を思うかは人それぞれではありますが、なんとも凄いニュースであります。


ちなみに。

私は仏罰とはとらえてはいません。
御仏は、この危険な行為を止めようと、…周りの人たちを護ろうとはしておられたとは思います。

ただ、決して御仏は人の命を奪うようなことはなさらないと思っております。

なぜならば御仏は命を大切にと教え、守ってくださる存在と考えるからです。

仏像は御仏そのものでは無いと思っております。
もちろん依代とされることもありましょうが、基本、もっと上のところで見守っておられる存在なのだと思っております。

それならば何故と問われれば、その男の命はすでに尽きていたのだと思うます。
そこで終わる命であったのだと。


そうして…。
こうした人の命であろうと向かうべき道に導くのだと思っております。


まぁ、仏教徒ではないおばさんの独り言であります。




No.121

(誤字脱字がひどいので同じものを訂正して再レスします。すみません)

今日お参りしたお寺さんに貼られていたお話です。


【周梨槃特(しゅりはんどく)の悟り】

これはお釈迦さまの弟子となり、掃除一筋で悟りを開いた僧のお話です。

「ほんとにお前は何にも出来ないな。修行なんてやめちまえよ。このクズ!」
周梨槃特は物覚えが悪く、朝聞いたことは夜には忘れ、お釈迦さまのお話も全く覚えられません。
いつもみんなに小馬鹿にされ、耐えきれず門の外で泣いていました。

「なぜお前はそんなに悲しんでいるのだ」
お釈迦さまはそっと声をかけました。
「私はもう僧を辞めたいです。どうしてこんなにも愚かに生まれて来たのでしょう」
周梨は泣きながら一部始終を話しました。

「お前は自分の愚かさをよく知っている。世の中には自身の愚かさを自覚しない者が多い。
自分の愚かさを知ることはとても大切な事なのだ。
お前は毎日掃除を頑張っているね」
「はい、お釈迦さま。私は掃除をすることが大好きなんです」
「ならばお前にこの一本の箒(ほうき)を与えよう。『ほこりを払い、垢を除かん』と唱え、毎日一生懸命掃除に取り組むが良い」

周梨は来る日も来る日も掃除を続けました。雨の日も雪の日も『ほこりを払い、垢を除かん』と唱えながら。何年、何十年という長い長い時が過ぎました。
そんな中で、何かが目に見えて変わり始めました。
周梨の身の回りや立ち振る舞いが美しくなり、そして、どんな時でも地道にやり遂げる周梨の姿が今までさんざん小馬鹿にして来た仲間たちの心を変えたのです。
「お前は凄いな」皆が一目置き、心から尊敬する様になったのです。
そしてついに周梨は箒一本で、「悟り」の境地に辿り着き、ほこりや垢とは自らの心にある偏見や執着であったと気がついたのです。

周梨ははじめ自分は愚かで何も出来ないと決めつけた負の感情に心が支配され、上手にコントロールすることが出来なくなっていました。

お釈迦さまはそんな周梨を見て【ただ一心になること】を促し、周梨は【今の自分にできること、何をなすべきか】と気がつき、積極的な姿勢に変わることが出来たのです。


迷い多きこの世の中で、不安になることはたくさんあります。
ただ漠然とこの不安に怯えるのではなく、出来ることを一心になって取り組むことで一筋の光明が見えてくることでしょう。

No.122

周利槃特はこうして箒一本でひたすら掃除をする事で【阿羅漢(アラカン)】の境地に到達したのです。
【阿羅漢】とは、修行を行い、心の汚れや曇りを落とし、悟りを得ることです。

そんなある日、お釈迦さまは大勢の人々を前にして、
「悟りを開くということは、なにもたくさん覚えることでは決してない。たとえわずかなことでも、徹底して行い続けることが大切なのだ」
と話されました。

周利槃特はひとつの物事だけに取組み、それを一度も欠かさず行ったことで悟りを得たのです。



ところで、周梨槃特は自分の名前も忘れてしまうほど物覚えが悪かったといいます。
そのため自分の名前を書いた板を持って歩いていたくらいだといいます。
自分の名前は何?
『名』『何』
それに草かんむりをつけて『茗荷(ミョウガ)』
「茗荷」はそんな周利槃特の墓から生えてきたといわれています。

そこから茗荷を食べると物忘れをしやすくなってしまうと言われるようにもなりました。

もちろん実際には茗荷にそのような効果はありません。



周梨槃特のお話は有名ですので、初めて知ったお話ではありませんでしたが、いつ聞いても、私のような愚かな人間にも大きな希望と勇気を与えてくれます。

…まぁ、そんな周梨槃特の話も忘れて過ごしているということでもありますが。


あれ?
もしかして私、周梨槃特の生まれ変わりだったりするのかしら。

しかしながら私、周梨槃特のように阿羅漢の境地に至ることはなく、みんなにデクノボーと呼ばれ、褒められもせず、鼻つまみ者のままこの世を去ることとなりましょう。

周梨槃特のように名を残すこともなく、茗荷のような食べ物を後の世に残すこともなく。

せめて苦にされないような存在でありたい、そう願うばかりです。

あら?
これまさに負の感情ですね。
うーん。

苦にされない存在。
それはやはり宮沢賢治の『雨ニモマケズ』のように生きること、でしょうか。

東へ西へ南へ北へと、日々困っておられるひとのために生きること。

それを覚えていて実行できれば…もはやそれは悟りを得ているのでは?


うーん。
…とりあえず家のお掃除、がんばりましょうか。




前レスを訂正したため、次のレスも再掲載といたしました。
申し訳ありません。
ついでにこちらは加筆もしておりますことを添えさせていただきます。

No.123

かつて宮沢賢治の【雨ニモマケズ】について触れ、長々とレスをしたことがあります。
ある、という記憶だけで、正直どんな内容を書いたものか、まるで覚えてはおりません。

見直そうにも挫折するほどに長くこの珍道中録を綴ってまいりましたため、どこにそれが記されているか、探すのも苦になるほどの量となっておりました。
ただただぐだぐだと書かれたものが、ミクルさんの片隅とはいえ、それほどの量となっており、何か申し訳ない思いがいたします次第です。


と、ぐだぐだと書いておりますが、要は【雨ニモマケズ】について、以前書いた内容も確認せず今一度綴ろうとしているということのほかならないのですが…。


正直、宮沢賢治の作品全てを知るほど読んだ人間では決してありません。
ファンの方におかれましては不快な思いを抱かれる表現もするかと思うのですが…。
宮沢賢治を知れば知るほど、彼はなによりも仏の教えを学び、それをできれば自らも伝えられる存在であれたならと思い生きていたのかも知れないと思えるのです。

私が宮沢賢治の作品を初めて知ったのはこの【雨ニモマケズ】です。
ええ、【注文の多い料理店】でもなく【よだかの星】でもなく。

といいますのも、この全文の書かれた飾りものがまさにちょうど私の目の高さに飾られていたから、なのです。
それは昭和の家ではよくみられた、サイドボードに思い出のお土産物を飾る習慣によるもので、どこの家も所狭しと日本全国、あるいは外国のお土産物や名産品を飾ってあるのが常でした。

私の実家はそんなサイドボードなどという洒落た家具などはありませんでしたので、それを真似て本棚の一部をサイドボード風にして飾っていました。

本棚と言っても、昔はガラス戸のついたものがあり、実家はまさにそうした本箱であったので、そのガラス戸の中、赤べこや木彫りのクマに〝マケズ〟目立つ位置にかざられていたのがこの【雨ニモマケズ】の飾りものでありました。

それは黒く塗られた二つ折りにできるよう蝶番がつけられた木の板に、金色の文字で書かれたものでありました。
字も読めぬうちから、毎日のように見ていたその文章をいつか自分で読むんだと思って過ごしていたのを覚えております。

No.124

(『雨ニモマケズ』続き)

宮沢賢治の【雨ニモマケズ】は、カタカナで書かれています。
それがまた幼児であった頃、不思議でなりませんでした。
絵本や童話はひらがなで書かれており、よほどのこと、…たとえば外国の人や物、土地の名前以外はあまりカタカナを使うことはないからです。
幼児ではカタカナがやっと読める程度。

そして、小学校に上がってもなかなかこの『雨ニモマケズ』の全文を読める日は来ませんでした。
小学校では習わない漢字が含まれており、今のようにスマホやタブレットでロングタップして調べる、ような簡単な調べ方はありませんでした。
それなので漢和辞典の使い方を習う高学年(…中学年だったでしょうか?)まで、読めない漢字もありました。

そうしてようやくこの『雨ニモマケズ』の全文を読むことができるようにはなりましたが。
それはちょうど生意気盛りの頃。


『…(前略)
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
…(後略)』


などとあると、
まだこれから未来に向かって、こうした大人になりたい、などと大志をいだく頃でもあり、なんだか情けないような気がしてしまうのでありました。

そもそも、この全文が読めるようになったところで、小学生にはまだまだ難解な点が多く、
またまたいつものように周りにいる大人たちにあれこれと聞いて手を煩わせたものです。

私「ねぇ『ケンクヮヤソショウガアレバ』ってなに?」
「それは喧嘩やそしょうがあればって読むんだよ」
私「そしょうって何?」
「訴訟っていうのは相手を訴えて裁判したりして争うことだよ」
私「相手がわるいことをしたってこと?」
「そう」
私「じゃあ、つまらないからやめろっておかしいじゃない。相手が悪いことをしたならちゃんと謝らなければでしょ?」
「…そうだねぇ」

ああ、なんとめんどくさい子供であったことでしょう。

そんなこんなから、私は長いことこの『雨ニモマケズ』に対して好感を持つことができず、ひいては宮沢賢治に対しても好感を持てずにいました。

小中学生の頃の同級生が、この『雨ニモマケズ』をやたらとパロディにしたのもまた、好感を持てなくなった一因であったのも事実ですが。

No.125

(『雨ニモマケズ』続き)

そうして。
大人になって、母となり、子どもに童話を読むころとなって、再び宮沢賢治と向き合うこととなります。

『注文の多い料理店』
『どんぐりと山猫』
『やまなし』
『雪わたり』
『よだかの星』
『なめとこ山の熊』
   ・
   ・
   ・
…思っていた以上に宮沢賢治の作品を読んでいたことを知ります。

でも、宮沢賢治の作品には独特の言葉が出てきて、それがまたあまり好きではないことを再認識したり。
なかなか宮沢賢治の理解には繋がりません。

例えば
「どっどど どどうど どどうと どどう」
など、新米の親として、子どもに読み聞かせるとなるとなかなか、自分で理解できないものを子どもに伝えることに抵抗があったり。

でも、子どもたちって柔軟な頭で、素直な心で、それを楽しいととらえるんですけれど、ね。

NHKの子供番組でもこの『どっどど
どどうど』は取り上げられていましたし。


そんな私が宮沢賢治のことを深く知りたいと思う時がきたのは、この珍道中を始めてからのことでありました。


この『雨ニモマケズ』に続くかのように書かれたものが存在していたことを知ったのもその一因でありました。

それは
『…サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩』

と綴られているといいます。

このうちの【南無妙法蓮華経】の文字は【雨ニモマケズ手帳】と呼ばれる手帳のページの中央にひときわ大きく書かれているのだといいます。

【法華経】は、正しくは『妙法蓮華経』といい、【南無】は『帰依します』と意味であるといいます。


『…サウイフモノニ
ワタシハナリタイ』

この【雨ニモマケズ手帳】は賢治没後、最初の全集発行の際、遺稿整理中に発見された貴重な資料であり、この手帳の中に代表作の『雨ニモマケズ』が収録されています。

実はこの『雨ニモマケズ』は病床での悲願自戒の記録だったというのです。



No.126

(『雨ニモマケズ』続き)

『…息子の死が近いことを悟った父が病床の賢治に向かって
「何か言い残すことはないか」と尋ねたところ
「最後に一つ頼みがあります。自分が死んだら『国訳妙法蓮華経』を一千部印刷して、私が親しくしていた人たちに分けてください」
と頼み、経文の巻末に次の言葉を付け加えるように言い残したという。
 

【合掌 私の全生涯の仕事は此(この)経をあなたの御手許に届けそしてその中にある仏意に触れてあなたが無上道に入られん事を御願いするの外ありません。

―昭和八年九月二十一日 臨終の日於いて、宮沢賢治 】

これが聞き入れられるとにっこりとほほえみ、母に頼んで持ってきてもらった水をおいしそうに飲んでから、自分で首や手などをオキシフルで洗い清めて静かに亡くなったといわれている…」

これはひろさちや氏が書かれた本にある求道者宮沢賢治の姿の一部であります。


宮沢賢治はここに書かれているように、昭和八(1933)年九月二十一日に亡くなっています。
賢治が生まれたのは明治二十九(1896)年八月。

亡くなったのは実に三十七歳という若さでありました。

その臨終の間際が、ここまでのものであったということに私は強い衝撃を受けました。

私は三十七歳という歳をどう過ごしていただろう。

いやいや、そんなどころか、今、
今であっても、このような生きざまをしてきておらず、死にざまについても、何一つ私は考えてもおらず、
ただただ恥いるばかりです。




No.127

(『雨ニモマケズ』の続き)

賢治と法華経との出会いは、実に十八歳のときといいます。
十八歳の秋に島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読んで体が震えるほどの感動を受け、以後、法華経信仰を深めたのだといいます。
島地大等は盛岡の願教寺二十六代住職で、近代日本を代表する仏教学者だといいます。

その島地大等との出会いはさらに遡り賢治が十五歳の時、願教寺における仏教夏期講習会で、島地大等の法話を初めて聞いたといいます。
大正七年に賢治は盛岡高等農林学校を卒業、同九年に、田中智学(たなかちがく)が指導する日蓮主義の在家集団『国柱会(こくちゅうかい)』に入会したのだそうです。

ちなみに、賢治の実家は実は真言宗(一説によると浄土真宗)であったといいます。
しかしながら賢治のお墓は、岩手県花巻市にある日蓮宗のお寺だとのこと。

まあ、死の間際の床において、「『国訳妙法蓮華経』を一千部印刷して、私が親しくしていた人たちに分けてください」というものであったというくらいであり、当然賢治はそこまで帰依していた日蓮宗の寺に埋葬して欲しいと懇願したことでありましょうが。
とはいえ当時の檀家寺と檀家の関係は今よりももっとずっと密なものであったと思うので、ご両親はさぞかし大変な思いをなされたのではないかと思うのです。


さて。

『雨ニモマケズ』の後に書いてあります【上行菩薩】【無辺行菩薩】【浄行菩薩】【安立行菩薩】は法華経の「従地湧出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五」に登場する四大菩薩だといいます。
大乗仏教では、悟りを求める人や求道者を菩薩といい、菩薩は修行を始めるに当たって、四つの誓いを立てます。
それを四弘誓願文といい、四大菩薩は、菩薩としての四つの誓いを代表しているのだといいます。

【四弘誓願文】

 『安立行菩薩』衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)「生きとし生けるものを救うことを願う」
 『浄行菩薩』煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)「すべての煩悩を断つことを願う」
 『無辺行菩薩』法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)「仏の教えをすべて学ぶことを願う」
 『上行菩薩』仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)「無上の悟りを得ることを願う」

ということ、なのだとか。

正直言ってちんぷんかんぷんですが…。

No.128

(『雨ニモマケズ』の続き)

【雨ニモマケズ】は、病床に伏した宮沢賢治が記した詩です。読めば読むほど奥の深い文章です。


南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩


法華経と釈迦牟尼仏という存在を、多宝如来と四菩薩が囲んで、まるで文字で書かれた曼荼羅を見ているような気すらしてまいります。


そして。


東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ


何気なく読んでいたこの東へ西へ南へ北へと向かう記述に、ある物語が重なって、思わず鳥肌が立ちました。
おそらくは賢治はそれを意識してこの『雨ニモマケズ』を書いているのだと私は確信します。

その物語とは他ならぬお釈迦さまが豊かな暮らしを約束された城を捨て家族を捨てて、出家なさるときを描いたシーン、【四門出遊】であります。


あるとき、お釈迦さまは家臣を連れて東の門より城外へと出かけようとします。
このときはまだ釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタであり、隣国の王女ヤショーダラ姫を妻に迎え、お子さまであるラフーラ(のちに悟りをひらかれたお釈迦さまに弟子入りをする羅睺羅のこと)が生まれて順風満帆に見える頃のことであります。

シッダールタが東の門から出ると、年老いた醜い老人の姿がありました。
「あれは何者だ」
とシッダールタが問うと
「老人でございます」
「誰でもあのようになるのか」
「はい、人は誰しもやがて年老いて衰えるものであります」
そう聞かされて、シッダールタは暗い気持ちになり城へと戻ります。

またある日は南の門より出かけて病人を見、西の門から出かけ死人を運ぶ行列を見、やはり暗い気持ちとなって城へと戻ります。

そうして、シッダールタが北の門より出かけた折に、出家して修行に励んでいる一人の沙門(しゃもん)の姿を見ます。
この沙門の清々しい姿に感動したシッダールタは出家する決意を固められたといわれています。


そう、まさに東、西、南、北。

一見ただあちらこちらへと歩くさまをこうした具体的な方角を入れてリアル感を出したかに思われますが、さにあらず、四門出遊を意識したものてありましょう

No.129

(『雨ニモマケズ』の続き)

『雨ニモマケズ手帳』と呼ばれる黒い革の手帳。
この手帳に、『雨ニモマケズ』とともに書き込まれてあった釈迦牟尼佛は言わずと知れた仏教の始祖であるお釈迦さまのことであります。

梵語のシャキャムニ・ブッダの音写で、釈迦は種族の名、牟尼は聖者の意、佛は仏陀の略。「仏陀 」とは「目覚めた者」「真理を悟った者」の意味であります。

そしてそこに侍仏のように書かれた『多宝如来(たほうにょらい)』は、法華経の『見宝塔品(けんほうとうほん)第十一』に登場する仏さまだといいます。
お釈迦さまは、空中にあらわれた「七宝の塔」の中に入り多宝如来とともに座して「法華経を信じ持つことは非常に難しいと」と説いているとのこと。

…うーん。
法華経かぁ。
法華経、…長いんですよねえ。

でも昨年からずっとこうして法華経に関することに触れることが増えているということは、…法華経を読めということなのでしょうか。
うーん。

法華経は一世紀から二世紀頃に編まれた経典で、初期大乗仏教の代表的な経典とされています。
釈迦を語り手に、多くの菩薩や阿修羅、龍といった神々を聞き役に据えて、壮麗な舞台設定のもとで説法を繰り広げる、というもののようで理解できればそれはそれはたしかに私の実りとなることはたしかです。
が。全二十八品(章)とかなり長い。
うーん。

御写経させていただいたときにも、何が書いてあるのかさっぱりわからなかったし。
…まぁ、それはどのお経にしてもそうなのですが、ね。

それでも般若経をまとめた『般若心経』くらいの長さであればとりあえず読むことくらいはできるというものですが…。

また『観音経』は『法華経』の【観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五】の略称であるのだといいます。
ここでは、観音菩薩は、さまざまな姿に変身してすべての人々のあらゆる悩みや苦しみを救ってくれる万能の救済者である、と説かれています。

法華経…。

十八歳の賢治が体が震えるほどの感動を受けたという法華経。


うーん。
そういえばこの間鶯の鳴く音を聞きました。
あれ?

No.130

【浄運寺】

群馬県桐生市にあります【浄運寺】さんへ参拝いたしました。

この浄運寺さん、
天正七(1579)年に『織田信長』公の命により開かれた安土城下の【浄巌院】での宗論(しゅうろん)で、日蓮宗の僧侶を説破し、法名を一躍世に馳せた【玉念(ぎょくねん)上人】が、永禄元(1558)年に開創された寺としてその名を知られます。

正式名称は【田中山栄照院浄運寺】。

玉念上人が天文年間(1532~1554年)に広沢村後谷(現在の広沢町1丁目)に庵室を持ったことに始まり、その後、渡良瀬川の対岸にある新宿(しんしゅく)に、永禄元(1558)年に【哀愍(あいみん)寺】を建立。
この哀愍寺を継いだ二世『聞岌』の頃、桐生新町の町立てに際して慶長十(1605)年、現在地に移転します。

江戸時代、幕府直轄の土地であった桐生の町づくりを行った際、桐生新町の南を守る寺として、こちらへ移された、ということのようです。

その際哀愍寺から【浄運寺】へと名を変えています。


浄運寺さんには、この開基の玉念上人の宗論の成果を示す『安土宗論記録(桐生市指定重要文化財)』が、いまなお大切に保護されているといいます。

そんな浄運寺さんの寺宝のひとつに、平安期作の古仏・木彫聖観音像があり、かつては山門近くの観音堂内にお祀りされていたといいます。
今は御本堂に安置されておりましたが、それも修復工事に入ったため、檀信徒会館の奥の方に場を設えて安置なされています。

この観音さまの御像、
制作された年代が大変に古いというだけではなくて、もとは下総国(千葉県)古河城主・本田公の奥方さまの護持仏だったといい、歴史的にもなかなか素晴らしい由緒をもった像なのだといいます。

No.131

(浄運寺さんの聖観音像)

下総国古河城主の本田公の奥方さまは、生来とても体の弱い方でした。その奥方さまにある年のこと、懐妊の兆しがみられたのです。
奥方さまが本田公のもとに嫁いで来られて以来、とにかく初めての懐妊でしたので、本田公は大変お喜びになられました。
でも、その反面、大きな不安も同時にお持ちになられました。それは、病弱な奥方さまの体が、「出産という大役に耐えられるのだろうか」という、何とも言いようのない不安でした。

奥方さま自身も、「わらわも、これで正真正銘の本田家の奥(妻)になれる。」と、懐妊を喜びながらも、やはり、自身の病弱のことが気がかりで、眠れない夜が多くなりました。

しかし、「いくら、わらわが心配をしたからとて、どうなるものでもありますまい。ここは日ごろ信心している観音様のお慈悲におすがりするよりしかたがないであろう。」と、心を決められ、近くのお寺に詣でることにしました。「病弱なわらわにも、なにとぞなにとぞ、お慈悲を!安らかに子供を産ませ給え。」と、17日間の安産祈願を必死にお続けになられました。

やがて満願の日になりました。
奥方様の必死の祈願・真心が観音様に通じたのでしょう。その満願の夜、ふしぎな霊験があらわれました。奥方様の夢枕に一人の老婆が立たれたのです。

その老婆は、厳かに、「われは、秩父の里に縁づきて、衆生済度のため今は本郷大仏師・右京の家に在り。汝、安産を願うならば、われを懇ろに迎え館の内に置くべし。
われは聖観世音菩薩なり」と、お告げになられ、姿を消されたのだといいます。

夢のお告げのあった観音さまの像は、翌日、仏師・右京のもと出向いた家臣たちに手によって、直ちに秩父から本田公の館の内に安置されました。

奥方さまは、身近にお迎えした観音さまに、「なにとぞ、ご加護を……。」と、朝な夕なに手を合わせ、祈願を重ねました。

月満ちて、いよいよ奥方さまの出産の日となりました。
心配された十月十日(とつきとうか)でしたが、その間が無事に過ごせただけでなく、出産そのものも、本田公や奥方さまの願いどおりの安産が得られました。しかも、産後のひだちも素晴らしくよくて、奥方さまは、生来の病弱が、まるで夢だったかのようについえ去り、その後の健康までもが得られたのです。


(続く)

No.132

(浄運寺さんの聖観音像・続き)

奥方さまは、観音様のご利益によって得られた健康のお陰で、以来、日々恵まれた生涯を送ることができ、大変な長寿を全うされました。が、さすがに寄る年波にはかてずに、晩年は床の中で過ごすことが多くなりました。

そんなある日のこと、奥方さまは、いよいよこの世に別れを告げるときが近付いたことを知りました。そこで奥方さまは、日ごろとても目をかけておられた老女を枕元に招いて、今後のことをこまごまと頼みました。

その上で、「わらわの命は、今日限りなり。わらわ亡きあとは、上野国桐生の浄運寺に観音さまを安置し奉れ。
そなたは観音さまの供をして桐生に参り、剃髪し、観音さまを末永くご守護せよ」と、遺言しました。

奥方さまが、世を去られますと、間もなくして観音さまは桐生・浄運寺に安置されました。
すると、それを待っていたかのように、安産祈願の人々が、近隣からドッとお参りするようになりました。


古河での観音様のあらたかな霊験は、すでに遠い桐生の里にまでも聞こえていたのです。

それにしても、夢のお告げで秩父から古河へ移られ、そして遺言によってはるか桐生の地にまでも移り来られた観音さま。
どこかで見えない糸によって結ばれていたような、不思議な縁(えにし)を強く感じさせます。

奥方さまの遺言により、観音さまと一緒に桐生へ来られた老女とは、
浄運寺十世・光誉玉円和尚の養母となられた『栄寿尼』その人だったと伝えられています。



浄運寺は、天和三(1683)年に観音堂を作って仏像を安置いたしました。
それ以来、安産祈願の観音さまとして長いこと信仰を集めてきました。

昭和二十九(1954)年に仏教美術史の研究者が調査し、特徴などから平安朝の仏像だと分かったといいます。

聖観音菩薩像は、ヒノキの寄せ木造りで高さは約67センチ。
傷みが激しかったため、二年ほど前に京都市の京仏師、村上湛雲氏に修理を依頼し、昨年十一月に修理を終えました。

鼻先やまぶた、耳たぶ、指先などの欠けていた部分は補った。脚部は補強し、台座や光背は塗り直した。手にしているハスなどは新たに作られたといいます。

その胎内には多くの文書があったといい、今回の修理を記した名札と共にまた胎内に戻したといいます。




No.133

(浄運寺さんの聖観音像・続き)

浄運寺さんは今年一月、報道陣にこの観音像公開したといいます。
実はこの観音さま、これまで『秘仏』でありました。
ご住職さまはこの席で、
「この観音様はお寺の守り本尊であります。
このたび修理を終えたので、今後は多くの方にお参りしていただきたいと考えます」
と話されたといいます。

しかしながら御本堂はこの三月から大規模な改修工事に入っており、屋根瓦は下ろされ、床板もはずされた状態で、観音さまは今、檀信徒会館の奥の間に厨子に入ってお祀りされておりました。

そのお姿は、なんともお美しく、優しく微笑まれておられました。
軽く背を曲げ前屈みとなり、その優美なことといったら。
左手にはやや大きめな未敷(みふ)蓮華をお持ちになられておられます。

この未敷蓮華とはまだ蕾の蓮の花であり、これは観音菩薩さまが蕾のごとくに閉じている人の心、仏心を開かせる存在であることを表しています。

これは今回新たなものを作ったとのことなので、少し大ぶりなものとしたのにも何か意味があるのかもしれません。


お背の高さは六十センチほどでありましょうか、しかしながらもっと大きく感じられるずっしりとした存在感があります。

お召しになられた薄衣に透ける肢体はなんとも艶やかで…。
私などもっとずっとここにいたいくらいであります。

経年されて濃い茶褐色をされておられるのがまたお美しく、ぜひまたお会いしたいと強く思うおばさんでありました。


惜しまれるのは、まだこちらの御本堂におられるときにお会いさせていただきたかった。

あ、でも、この今の状態でおられるからこそお側に寄って拝することができているのかも…。


ちなみにご本尊であられる阿弥陀三尊もこちらの間にお移りになられておられます。

ご住職さまは焼香の香炉をご用意くださり、その後は私たちを残してこの間を立ち去られました。

ゆっくりと拝観できるようご配慮くださったようです。

なんともありがたいご配慮です。

こんなどこの馬の骨ともわからない初めて会った人間にそこまでお心をお許しくださる懐の大きさに、私はたいそう感動いたしました。
(私どもにしたらこちらのお寺さんを訪れるのは初めてではありませんが…)

思い出してもほんのり心温まる思いがいたします。

ありがとうございました。



  朝日新聞画像

No.134

【曹洞宗の葬儀】

※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。



曹洞宗の葬儀に初めて参列した、ということはないはず…。
昨年友人の御母堂がお亡くなりになられた際のご葬儀が曹洞宗であったし、そもそも十八年前の義父の葬儀が当然のことながら曹洞宗であるのだから。

たしかに十八年前の葬儀のこととなると、この記憶力の乏しい私、忘れていることが多いのですが、でも昨年の友人の御母堂のご葬儀はまだまだ記憶に新しいもの。

なのにこのたびの義母の葬儀では驚くことばかり。

それは葬儀社さんによるものではなく、あくまでも〝曹洞宗の葬儀〟について、でありました。

「お導師様入場となります。参列者の皆さまは合掌してお迎えください」

チリン。
チリン…。

鈴の音とともに衣擦れの音が、…それはさすがに聞こえはしませんが、鈴の音が近づくのがわかります。




…被り物を被られるんだ。

友人の御母堂のお通夜では特にそのようなことはなく、お坊さんと言ったら、とでもいいましょうか、まさにトレードマークのような剃髪された頭のままのお姿でありました。

今回、義母の菩提寺のご住職さまは被り物をなされていました。
その被り物を例えるならば、…雪吊り?。
三角帽子とは違います。もっと長く耳も隠れ肩まで覆うような金糸銀糸の美しい織物で作られた被り物でありました。

…き、きっとこれが正装なんだろう。
義父の時のことは、正直ほとんど覚えてはおりませんでした。






No.135

(曹洞宗の葬儀の続き)

※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関


これは百人一首の蝉丸の歌ですが、ここで念のため申し上げておけば、子どもの頃から〝記憶する〟能力の少ない人間だったので、『百人一首の歌を全て覚える』…などという目標を立てても頓挫して坊主めくりをすることくらいしかできなかった人物です。

坊主めくりといえば坊主が出ないことを祈って遊ぶものですが、この蝉丸、一人だけ頭に被り物を被っており、子どもたちはまず蝉丸を覚えることが多かったりします。

今回もありがとう僧侶の被られた被り物ということで、懐かしい〝蝉丸〟が頭に浮かんでまいりました。
そうして、(蝉丸は曹洞宗の僧だったのだろうか)、…などとぼんやり考えたりしたものであります。

お通夜を終え、次ぐ日は葬儀・告別式。
合掌する中、また、チリン、チリンと鈴の音が近づいてまいりました。
(今日は別にびっくりしないぞ)そう思ったような思わなかったような…。



…びっくりしたんです、私。

昨夜の被り物とはまた違う形の被り物をかぶっておられるではないですか。

…このおばさん、厳粛な席で何を見てなにを考えているのだ、と思われましても、しかたがないですが、それが事実であるという悲しい人間であります。

この日の被り物は、頭の大きさよりやや大きいくらいの円をご想像いただき、そこを中央に布が縫い付けられたヴェール状のものを思い浮かべていただけば、それに近いものかと思います。
ええ、おそらくそんな感じであったかと…。

この葬儀社、通常とだいぶ変わっておりまして次男の嫁という立場でありながら親族席でのほほんと座っていたのであります。

本来なら前に立つのが一般的である立場でありましょうが、そうではなかったため、心にゆとりが生じ、なおかつ一番前の席という、他の参列いただいている方々の様子は見られず、自然お坊さんの後ろを見るともなく見ていた次第でございます。

でもさすがにその時〝蝉丸〟なことは一度も頭に浮かぶことはなったのですが…。


No.136

(曹洞宗の葬儀の続き)

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…便利な世の中になりました。
検索するとアッという間もなく、この被り物の名前がわかります。

一つは【立帽子(たてもうす)】
曹洞宗の儀式の時、正式に冠られるもの。
こちらが後ろから見た時、例えるなら〝雪吊り〟のように見えたともうしあげた、すそは長く腰まで掛かるという長いもの、…だったような。

もう一つは【鼓山帽子( くざんもうす )】
やはり曹洞宗の儀式の時冠られるもの。
頭部が太鼓のように窪んでいる。後ろの部分はやはり襞(ひだ)をとった一枚布である。
立帽子よりやや略である。
…太鼓の、ですか…。いやたしかにそう言われてみれば、まさに、昔の子供のおもちゃの太鼓の鼓面と胴のようです。

正式な名称が〝鼓山〟、太鼓の鼓面を山とした帽子、ですから、文句のつけようもありませんが、この先この鼓山帽子を冠られた僧を見て、『太鼓の帽子』などというワードが頭に浮かんだなら、ちょっとだけ笑ってしまいそうな気がするんですけれど…。
いやいや、太鼓は仏具でありますから、そこは決して笑うところではありませんし。
ただ、私が先ほど〝子供のおもちゃの太鼓〟を思い浮かべてしまったのがいけません。…子供ってなんでも試したがるじゃないですか?
太鼓だって両面張られた太鼓の鼓面が破れたら…、…被りません?

これはもう、ひとえに私の生活のレベルの低さがいけない、私の笑いの沸点が低いのがいけない、ただそれだけでございます。


それにしても。
こんなに言葉の乏しい人間が入力したワードでも、ちゃんと答えを導き出して教えてくれるんですから、まさにスマート。

それに比べて自分はといえば、この『立帽子』や『鼓山帽子』という名称をいつまで覚えていられらるのだろうか、…比べる時間すらがもったいないですね。





No.137

(曹洞宗の葬儀の続き)

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仏教には様々な宗派があり、各宗派によって葬儀を行う意味も内容も異るようです。
又、同じ宗派であっても、その地域によって違いも生じますし、ご住職さまの考え方でも内容は変わってくるもののようです。

その中でも、曹洞宗の葬儀は他の宗派と違う特徴があると、ネットにも書かれています。

十八年前の義父のときとは私どもの状況もだいぶ変わり、まだ小学生で泣きじゃくっていた娘も今は社会人。
その後始めた神社仏閣巡りで、ほんの少し仏教について学んだりもしていました。
しかも今回前に立つことも無かったこともあり、ご住職さまのお話をゆっくりお聴きする余裕がありました。

曹洞宗の葬儀について書き残しておこうと思います。

曹洞宗において、葬儀は『故人が仏の弟子となる儀式』であるといいます。
ご住職さま=お導師さまは時折説明を加えつつ進めてくださいました。

曹洞宗の葬儀は、二部構成となっているよう感じます。

葬儀の前半は、まさにその仏の弟子になるための儀式で、亡くなった故人が戒名や戒法を授かるための「授戒」を行い、その後悟りを開くために故人を仏の世界へと導く「引導の儀式」を行なってくださっておられました。


まずお導師さまはご入場されたのち、静かに座られました。


私がやたらとこだわっておりました『枕経』、曹洞宗では『臨終諷経(りんじゅうふぎん)』と呼ぶといいます。

今は自宅やご遺体を安置されたところへ出向いての枕経はあまりなくて、このタイミングでまず枕経=『臨終諷経』をお唱えになるようだと知り、目を凝らし耳をすましてお導師さまの様子を拝見しておりました。


また、このタイミングで剃髪をする葬儀もあり、そのようなご葬儀では、僧侶が棺のふたを開けて、剃髪する仕草をなさっておられました。

義母の場合においてはお導師さまは設えられた祭壇のまえに座られ、棺のそばに寄られることもありませんでしたので剃髪は無しで。

洒水(しゃすい)されるご様子が見えました。

あ、【舎利礼文(しゃりらいもん)】をお唱えです。

お釈迦様の遺骨である仏舎利を敬う気持ちを述べた『舎利礼文』、臨終諷経ではこれを唱えられることもあるようです。


よかった。
臨終諷経をお唱えくださいました。

No.138

【洒水】

前レスで【洒水(しゃすい)】をなさった、と書いております。
『灑水』とも書くようです。

洒水は、身をはじめ、道場や、いろいろな物を清めるときに行われています。
【散杖(さんじょう)】あるいは【洒水杖(しゃすいじょう)】と呼ばれる木の棒で、器から少し洒水用の水を取り、注ぐように撒いたり、散布するように撒きます。

洒水は身や心を清め、仏性を呼び起こすので、加持香水(かじこうずい)とも呼ばれるのだといいます。
仏さまの智慧の水をそそぎ、菩提心の種を成長させる、という考え方であるようです。

『洒水』は【香水(こうずい)】を使用します。
この香水は、洒(灑)水器と呼ばれる専用の器にきれいな水を入れ、さらにお香を入れ、ご真言や印を結びながら作るといいます。

洒水するときも、ご真言や印を結んで加持して執り行われます。
柳や梅の若枝などで作った散杖(又は洒水杖)で行います。

洒水器は塗香を入れる器と、通常セットで使われ、器の形は同じですが、お香を入れる塗香器の方が少し小型であるといいます。
塗香器は、身体を清浄にするために塗る粉末のお香=塗香を入れておく器です。
この二つ合せて『二器』と呼ぶといいます。

お護摩での車載は『洒浄(しゃじょう)』と呼ばれ、他の洒水とは区別されるようです。
洒浄はお護摩の進行中にも一定の区切りごとに行われ、散杖(又は洒水杖)の振り方やかき回す順序は流派によって異なるといいます。


No.139

(曹洞宗の葬儀の続き)

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【授戒】
授戒とは故人が仏さまの弟子になるために、必要な戒名や戒法を授かるための儀式となります。

授戒は細かな儀式によって構成されているといいますが、この儀式はずっと連続しているため、私には一つの儀式のように見えていました。


その儀式は、毎日お経をお唱えする際、一番最初に唱える、
【懺悔文(さんげもん)】を繰り返しお唱えになられるところから始まりました。
そう、繰り返し繰り返して。
これは『懺悔文』を唱えて、生前の罪を反省し、成仏を祈願するためのものといいます。

この前後でまた『洒水(しゃすい)』をなさっておられました。

この後は
【三帰戒文(さんきかいもん)】
【三聚浄戒(さんじゅじょうかい)】
【十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)】 法性水を用意、位牌や自らの頭に注ぐ
【血脈授与(けちみゃくじゅよ)】
と、それぞれに名称のある儀式を連続して執り行っておられたのですが、見ていたときには一連のものととらえておりました。

『三帰戒文』はお釈迦様の教えを守って修行者に帰依することを誓うもの。

南無帰依仏(なむきえぶつ)
南無帰依法(なむきえほう)
南無帰依僧(なむきえそう)

とお唱えになっておられたのがこの三帰戒文であったようです。

さらに続いておとなえになった『三聚浄戒』『十重禁戒』。
ここでは法性水と呼ばれる水を位牌や自らの頭に注ぎながらお唱えになられるようです。
私はここでお唱えになられるものを聞き逃さないことに重きを置いていたため、そこは見逃しておりましたが、ここでも聞き覚えの、では無く見覚えのある文言がお唱えになられていました。

後に調べたところ、『三聚浄戒』では
・摂律儀戒(しょうりつぎかい) 一切の悪事を行わない
・摂善法戒(しょうぜんほうかい)すすんで善行に努める
・摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)他者のために行動する

というものであるといい、さらに続く『十重禁戒』では、

・不殺生戒(ふせっしょうかい)いたずらに生き物を殺さない
・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)人のものを盗まない
 ・
 ・
と続いていたようです。
もう少し私にもわかる言葉であったような気もするのですが…。



No.140

(曹洞宗の葬儀の続き)

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『十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)』では

・いたずらに生き物を殺さないこと
・人のものを盗まない
・不貪婬戒(ふとんいんかい)淫欲を貪らない
・不妄語戒(ふもうごかい)騙したり嘘をつかない
・不古酒戒(ふこしゅかい)酒に溺れない
・不説過戒(ふせっかかい)人の過ちを責めたてない
・不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)慢心をもたず人をけなさない
・不慳法財戒(ふけんほうざいかい)人の為になる施しを惜しまない
・不瞋恚戒(ふしんいかい)怒りで我を失ったりしない
・不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)仏法僧の三宝を謗らない

と続いています。

やはりどう思い返しても、私が聞いて何をお導師さまがおっしゃっておられるかすぐにわかる言葉であったように思えるのですが、この式のビデオを撮ってはいないので、これはもう確認のしようが無いのですが。

ただ本当にそこで何をおっしゃっておられるかわかったので、私はこれを聴きながら、(ああ、ここでは、生前に犯したであろう罪を全て挙げて反省していることを述べているのかな?)などと考えられたのですから、やはりもっと仏教に詳しくない者にも伝わる言語であった気がしてなりません。

しかしながら。

授戒とは、あくまでも亡くなられた方が仏弟子となる為、約束事を交わす儀式であって、これが全部で十六条。
仏弟子として歩んでいくときに必要な自らが保つべき戒めのことを意味したことをお導師さまが授けておられるのであります。

それゆえ「しない」という言葉を用い、善い行いを積み続けることを誓うものが述べられていたのです。

つまりはこれはかつて、臨終の床にある者に対して剃髪をし、この授戒をしていたことから来ているもののため、すでに亡くなられた方にも、『この律戒、浄戒、禁戒を守り、仏弟子となります』と言い聞かせる儀式となってきた、ということのようでしょう。

かつては生前にこの剃髪から授戒、そして
【血脈授与(けちみゃくじゅよ)】ということで【血脈】を授かり、さらには戒名をここで授かった上で、残された日々を送っていたのです。

…そんな様が古典と呼ばれる日本文学、ひいては大河ドラマ、時代劇などにも描かれています。


今はそうした方は少ないでしょう。

No.141

(曹洞宗の葬儀の続き)

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【授戒】により授かる仏弟子としての証は二つ。

そのひとつが【血脈(けちみゃく)】でありました。


血脈にはお釈迦さまから始まり、お釈迦さまからの教えを相承してきた歴代の弟子たちの名前(曹洞宗では達磨大師や道元禅師など)が書かれており、最後から二番目には故人さまに戒律を授けるお導師さま(=菩提寺ののご住職さま)、そして最後に故人の名前が書かれているのだといいます。

お釈迦さまから故人まで一本の赤い線が引かれているようで、血縁という言葉通り、赤い線は血筋を表しており、正しい教えが代々相承されてきた証となるのだそうです。

つまり血脈とはお釈迦さまと決して切れることのないご縁が故人と結ばれた証、故人が釈迦さまの弟子になった証明書 と言えるものであります。
この血脈は『曹洞宗』や『臨済宗』で主に使われており、全ての宗派に血脈というものが存在する訳ではないといいます。

義母の祭壇の一番目立つ中央に置かれたこの『血脈』は、上に書いたような『お釈迦さまからの長い長い系図に赤い線が引かれた』ものでは無くて、白い紙の中央に何やら黒い墨で描かれたものの上に同じく大きな朱印が捺され、その両横に墨書きで四文字の文字がそれぞれ書いてあるものでありました。
その中央に描かれていましたものは『血脈』という文字をレタリング(と書くと何やらたいそうバチ当たりな気がいたしますが)したものでありました。

葬儀に参列しているときにはその目立つ白い厚手の紙に見えていたものは、実はどうやら封筒、袋であったようです。

つまりこの中に本当の意味の血脈が入っていた、ということになるようです。

この、実は封筒に書かれていた『血脈』以外の文字二つも、覚えようと必死に見てきた、きていたはずでしたが、やはりどこかへ置いてきてしまったようで。

この血脈(の封筒)は棺に納められ義母と共に荼毘にふされましたので、きっと煙となって消えたのでありましょう。


もうひとつが【戒名】です。
戒名は仏弟子の証である名前であり、仏法つまり仏の教えが込められているといいます。


No.142

(曹洞宗の葬儀の続き)

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曹洞宗と云えば「チン・ドン・ジャランのお葬式」と呼ばれるほど、古くから音楽供養として奏でられてきたといいます。
…はて。
当然のこと、義父の葬儀・告別式も同じ曹洞宗、同じお寺さん、同じご住職さまでありましたが、全く、記憶に残っていません。
一ミリも、どころか微塵も記憶しておりません。

…でも、ですね、この『ジャラン』と表現される音を聞いたら、絶対忘れることはない、絶対忘れないものだと思うのですよ。
…いやぁ、世の中には〝絶対〟というものは存在しないものなのですね。びっくりです。
(いや、むしろその自分の記憶力の笊さに驚くばかりですが)

この、『チン・ドン・ジャラン』と呼ばれる由来は仏具である鳴らしものの音であります。

〝チン〟が『引鏧(いんきん)』と呼ばれる持ち手の付いた小さな鐘のような、御鈴のような仏具の奏でる音。

〝ドン〟は太鼓。

〝ジャラン〟は『鐃祓(にょうはち)』もしくは『妙鉢(みょうはち)』と呼ばれるシンバルに似た仏具の奏でる音であります。

この鐃祓(もしくは妙鉢)の音が大きくて、『ドキッ』とか『ビクッ』とか、とにかくびっくりするのです。

そう、だからこの曹洞宗の葬儀で鐃祓が使われることをすっかり忘れていたことが、我がことながら本当に、本当に、信じられない。
それこそ、鐃祓でびっくりした以上にびっくりであります。


実は。
お釈迦さまが亡くなられた際にも多くの人々によって音楽が奏でられていたことが経典に記されております。
そこからこの鳴らしものが奏でられることへとつながっているようです。

そして。
これらの鳴らしものは、故人を仏さまの世界へと導くためのお経【大宝楼閣善住根本陀羅尼だいほうろうかくぜんじゅうこんぽんだらに】の前後に鳴らしておられるといいます。

ゆったりとした間隔で交打を始め、次第に間隔を短くしながら厳かな調べを奏でます。この音色で諸菩薩をお招きし道案内をお願いするのだといいます。


No.143

【瑠璃唐草】

わが家の庭のプランターに気の早いネモフィラが一輪咲きました。
毎年毎年、知らずのうちにこぼれた種から、芽を出す時期がくると、ひょい、ひょいっと小さな双葉を芽吹かせ、しばらくすると特徴的な本葉が顔を出すのです。

植えてあったプランターなどは当たり前、隣りにあった鉢、それどころか自転車置き場、洗濯物を干すテラス屋根の下、駐車場のコンクリートの隙間や公道のアスファルトの隙間までまで、つまむのも至難の業のようなケシ粒のような種ですので、びっくりするようなところまで飛んでいて、芽を出すのでありました。

ネモフィラといえば近年人気の花。
ネモフィラ畑を見るため多くの人が集うようです。


ネモフィラの日本名は、『瑠璃唐草』だといいます。
花びらが瑠璃色をしていて、葉っぱが唐草模様に似ているためそのように呼ばれているのだとか。
なんとも安直な気がいたしますが、瑠璃といえば『お薬師さま』。

薬師如来さまの正式な御尊名は【東方浄瑠璃教主薬師瑠璃光如来】、
であります。

『東方』というのは、太陽が東から昇る…、つまりは私たちが生きている世界のことを示すといい、今生きている私たちを救い導いてくださる仏さまが薬師如来さまであるということ。
しかしながら薬師如来さまのおられる世界は、
〝東の方向へ、十劫(ガンジス川の砂の数の十倍)という果てしないくらいたくさんの仏国土を通り過ぎたところにあるという浄瑠璃という世界〟で、そこの教主が薬師如来さまであるのです。

また、『瑠璃』とは、深い青色の宝石(ラピスラズリ)。
昔は御仏の功徳を様々な宝石に譬え、薬師如来さまは瑠璃。
それゆえに〝浄瑠璃世界〟、〝瑠璃光如来〟と表現されているのであります。


ネモフィラの青い花は中心が白いので、英語では『赤ちゃんの青い瞳(Baby blue eyes)』とも呼ばれているのだとか。

"可愛い" だけではない、強い生命力を持ち、多少の日陰やアスファルトの隙間でもへっちゃら。
厳しい環境でもぐんぐん育っていく丈夫な一面も持つネモフィラ。

今年は、こぼれ種から芽吹いて、ぼわぼわにあふれるプランターのネモフィラを間引いて、空いている植木鉢やプランターに植えたものだから、庭のあちこちにネモフィラが。


このネモフィラが全て咲いたら、ネズミの額のような庭も可愛らしく見えるかもしれません。


No.144

【大河ドラマと御真言】

このような大それたタイトルでレスをしようとしてはいますが、私が観た大河ドラマなどここ三年の三作品だけです。

どうもその時間に睡魔が来るような体内時計のようで、前作の『どうする家康』などは三分の一、いや四分の一くらいしか観られていないかと。

それなのに?


…時代が時代ですので、今などよりもずっとずっと神仏を崇め、それこそ生活の中にまず神仏がおられ、畏れつつも頼ってすがって生きていたでありましょう。

だから僧侶が御真言を唱えて、仏に祈るのはごくごく当たり前のように見られることであったかとは思うのです。

ただ、…なんだかちょっと…。

御真言を台詞にするっていうのはいかがなものかなぁ、と、思ったりする自分もおりまして。

たしか今放映している大河ドラマの前々回でも、お薬師さまの御真言を何度も何度もお唱えして祈願しているシーンがあったよう記憶しております。

リアルを追求してのことではありましょう。

でも、どうなのかなぁ…。

私は別段仏教徒ではないので、それについてとやかく言う資格もなければ、そもそもそれが良いのか悪いのかすら分からないような存在です。

でもねえ。

…。


私はあまり好ましいと思えないのです。

なぜならば、『真言とは偽りのない仏の言葉であるから真言である』として崇められるものであるから、であります。

その場面において、たしかに僧はこの御真言を唱えるであろうと理解はできても、その場面とはあくまでもまがいもの。

私がテレビのドラマの一シーンで唱えられている御真言を聞いて、(あ、お薬師さまの御真言だ)とわかるくらい、薬師如来さまの御真言は唯一のものです。

人が御真言を唱えるときは心からの祈願を、祈りを捧げているとき。

ドラマの一シーンはどんなに切迫していようが、祈るしかないシーンであろうが、まがいものに過ぎないのに、そこで宗教上大切にされている〝真言〟という言葉を用いてしまうのはどうかと、思うのであります。

まあ、それについて、どこからも苦言がないのであるから、私ごときがここで熱く語るようなことでもないのかもしれませんが。

一言で言えば、ちょっとあまりにバチ当たりなのでは?
といった感じでありますか。

まぁ、おばさんはビビりなので、そう頭が働くだけなんでしょうがね。

No.145

【今日はなんの日】

本日三月二十七日は
『さくらの日』
『世界演劇の日』
『仏壇の日・祈りの日』
だといいます。

はて?
さくらの日?

たしかに、七十二候の一つ【桜始開(さくらはじめてひらく)】にあたる時期ではありますが…。
どうやらこれは「咲く(3×9)=27」の語呂合わせなのとか。
これを調べる前、夫は
「2+7=9だから? 三月の3と(2+7)=9で〝さく〟ら?」
と名推理をしておりました。
いずれにしてもかなりひねった語呂合わせでありました。

これは公益財団法人 日本さくらの会が1992年に定めたものといいます。


桜は夢のように美しくも儚く散ってしまうことから【夢見草】とも呼ばれています。

奈良時代以前には『和歌』の『花』といえば『梅の花』でありました。
平安時代に国風文化が育つにつれ桜が人気の花となり、『花』といえば『桜』となり、日本の国花にも位置付けられています。

開花だけでなく散りゆくさままでが美しい桜。
今年の開花の日も近いことでしょう。



では『仏壇の日』『祈りの日』とは?

【仏壇の日】とは

奈良時代に書かれた日本最古の歴史書である「日本書紀」に、お仏壇の起こりについての記述があり、それが仏壇の日の由来になったとされています。

日本書紀に、西暦686年、三月二十七日(旧暦)、仏教を広めるため、天武天皇が
「諸国の家ごとに佛舎(ほとけのみや)を作り、即ち佛像と経とを置きて礼拝供養せよ」
という詔(みことのり)を出した、と記されています。
この仏舎がやがてお仏壇となり、日本各地にお仏壇へ手を合わせる文化が広められた、と考えられているといいます。

この文化を広めた出来事に由来し、詔が出された三月二十七日(新暦)を「仏壇の日」とし、のちに毎月二十七日の記念日となっています。


では【祈りの日】とは

やはりこれもまた日本書紀に書かれている同日の天武天皇の同じ詔、によるものでこの仏壇の日、祈りの日はともに平成二十九(2017)年に、
全日本宗教用具協同組合(全宗協)が制定、日本記念日協会により認定・登録されたものであるといいます。

『祈りの日』は身近な人の日々の幸せや、遠くで暮らす大切な人の無事を祈ることで、心の平穏と思いやりの心を育むことを目指すものとのこと。

なんだかそれだけでもうとても良い日に思えます。




No.146

(曹洞宗の葬儀についての続き)

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授戒の儀が終わると本来であれば【入棺諷経(にゅうかんふぎん)】という入棺の儀式が行われます。

しかし現代の告別式ではすでに入棺は済んでいるので、『大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)』といわれるお経と回向文をお唱えになられます。
親族や参列者はこのタイミングで【焼香】を行います。

お焼香とは、一般的には葬儀や法事などで、『抹香(まっこう)』を使って行う儀式のことをいいます。
お寺の御本堂でご本尊さまなどに参拝するときにもお焼香することがあります。

『抹香』は、『樒(しきみ)』の葉や皮を粉末にしたお香で、これに香木などを加えたものであります。

お焼香ではこの抹香を手で摘み、香炉の中に置かれた火種である『香炭』に抹香を落として香りを出します。

お焼香は宗派により作法や回数は異なるようですが、右手の親指、人差し指、中指の三本の指で香を摘み、香炉に落とすのは同じです。

お焼香は香りをその場に立たせる事を目的としており、その香りには様々な意味が含まれています。

とはいえ焼香が発祥したインドなどのようには、香りに重きをおく歴史はありませんが、
主に三つの意味があるとされています。

一、自分の汚れを払い、体を清める
香の匂いによって自身を浄化し、邪気を払って体を清めるための行為。

二、御仏への敬意
香を焚くという行為は謙譲の意を表すもので、仏さまへの敬意を込めて行われます。
それとともに葬儀では故人を浄土へ導いてくださいと祈願しています。

三、故人への弔い
故人の現世での行いを称え、香を手向けて成仏を祈ります。


仏教では極楽浄土は良い香りに満ちていると言われており、極楽浄土から御仏が故人を迎えに来るときには、香りを持ち運んでくるとされています。
そこで、その状況を再現すべく通夜・葬儀で抹香の良い香りを漂わせるわけです。

また香りが空中に満遍なく広がることは、仏教の教えが広がることを意味しています。

さらに、香りは時間とともに良い香りがなくなり、灰になってしまいます、これは人は皆いずれ消えていく存在であることを表しており、仏の悟りを教えてくれているのだといわれています。

No.147

(続きとなります)

お焼香の作法は、宗派によって異なります。
抹香を香炉にくべる回数、額に押しいただくのか?、いただかないのか?
宗派によりそれぞれの考えがあり意味合いが変わるのだといいます。

様々な宗派がありますが、抹香をくべる回数は1〜3回です。


お焼香の回数が一回という宗派の考えは、『一に帰る』という仏教の教えを大切にしているのだといわれているようです。


お焼香の回数が二回という宗派の考えは、『主香』と『従香』という考えを大切にしているといいます。

ここで一回目の『主香』についての見解もまた異なるものがあり、
一つは『主香』は御仏に、『従香』は故人の成仏を願うため、とする説と。
もう一つは、一回目は故人の成仏を願うため、二回目は一回目の香を絶やさないためにという思いが込められているというもの。

これは実は曹洞宗がまさにこの二回。
一回目は押しいただき、二度目は、押しいただかないというものであります。なので今後の法要でご住職さまにお聞きできれば、と思っております。
ただ、なかなかその機会があるかどうか…、何よりその時私が覚えているかどうか、…うーん。


そして仏教では『三』という数字が重視されていることから、お焼香を三回行う宗派もあります。



また、お焼香の回数だけではなく、『押しいただき』の回数についても制限されている宗派もあるようです。
『押しいただき』とは前にも述べた、右手の親指・人差し指・中指の3本で抹香をつまみ 額の高さまで掲げ、指をこすりながら香炉に落とすという行為をいいます。
額の高さまで上げないのを『押しいただかない』。

お相手の宗派に沿って行うというほうが丁寧であろうかと思うのではありますが、参列させていただいてもそのご葬儀の宗派を知ることはなかなか困難です。

事前にわかればネット等で調べてから参列することも可能ですが、それには御遺族か、あるいはご利用になられる葬儀社がわかればそちらに問い合わせることとなり、これもなかなかハードルが高い。


ご自身の信仰している宗派があるなら、その宗派に沿ったやり方でも問題ありません。
むしろそれを推奨する説もあります。

あとは…自分のお焼香スタイルはこれ、と決めてしまうのも一つかもしれません。
堂々と心を込めてお焼香させていただくことが何より大切だと思うからです。

No.148

(曹洞宗の葬儀についての続き)

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かなり前となりますが、この一連の曹洞宗の葬儀についてで、曹洞宗のそれは二部構成となっているよう感じると書きました。

葬儀の後半は、その場で実になんと火葬の真似事をなさるのです。
真似事、などという言葉を用いるとあるいは失礼にあたるやもしれませんが、でもそれは言葉を知らぬ私がそう表現しているというだけで、実際お導師様は作り物の松明を用いてそれを大きく振り上げ、「火葬に付す」とおっしゃっておられます。
…これもかなりびっくりです。
この一つ一つを臨場感あふれる語りで「組み上げた焚き木」ですとか「赤々と燃え上がり」とか「やがて」とかお話をされながら進めていかれるのです。

たぶんこの解説が無ければ、赤い何かを巻き付けた木の棒を高く振り上げ大きく回しておられる、としかとらえないこと。
いつしか記憶から消えていきましょう。
か、火葬って…。

たしかにこれから一時間二時間後には荼毘に付すこととなりますが、なんともまぁ、ショッキングな…。

ちなみに私は曹洞宗の葬儀においては必ず執り行われているこの一連の儀をまるで覚えてはおらず、まるで初めてのことのようにショック遠受けたものです。
ええ、同じお導師様のお手で、十八年前義父の葬儀を執り行っていただいておるというのに。

でもきっと今度こそは忘れない。
自信があります。
なんならこの珍道中録もありますし…。


とはいえもうすでにだいぶ記憶から薄れてきております葬儀後半。

おぼろげな記憶をたどりつつ記しておきます。


参列者全員のお焼香が終わると、まずは棺前念誦(かんぜんねんじゅ)と呼ばれるものから始まります。
 
故人が諸行無常をさとれるよう、諸々の仏様のご加護とお導きを願い、仏様の名号「十仏名(じゅうぶつみょう)」をお唱えし、舎利礼文(しゃりらいもん)を読経し、仏様を一心に礼拝し故人のさとりの成就をご祈願くださっておられました。

その後、曹洞宗の葬儀を指してチンドンジャランと呼ばれる由来となっている、三つの仏具(楽器)を鳴らされました。
邪気を払い、仏の境地への道を開くお経をお唱えになられます。

No.149

(曹洞宗の葬儀についての続き)

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…そのあとに執り行われたのが、先ほど申し上げた儀式にあたる
『引導法語(いんどうほうごう)』と呼ばれるもので、松明(または線香)にて大きく円を描き点火(火葬)の儀式でありました。
払子(=ほっす 僧が所持する棒先に白いふさふさの細い毛がついた道具)で迷いと邪気を払い、お導師様は故人へ法語(ほうご)という言葉を贈ります。
ここで悟りの心境を表し、故人の生前を偲び、徳を称え、そして迷わず仏の道に進むことが出来るように導く「引導(いんどう)」を渡されます。

このあとは山頭念誦(さんとうねんじゅ)と呼ばれる儀へとつながって、仏弟子となった故人がこの死の縁に随って火葬され、一路悟りの境地に入られますようにと祈願します。
山頭(さんとう)とは火葬場(土葬の場合は墓地)を指します。

この一連の儀式、見事なまでのお導師様の語りで、まるで夜の山中で野辺送りをしたかのような不思議な感覚につつまれておりました。
まるでその場のヒヤッとした冷気や草いきれまで感じたような錯覚にとらわれたものです。

No.150

(続き)
※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


引導を渡し一連の葬儀の儀式を終え、この後は告別式となります。
ここから先は曹洞宗における特徴的なものはほとんどないため割愛いたします。

ここで『引導を渡す』という言葉が出てまいりました。
引導とは、すべての生きるものに対して、仏の道へ導くことです。
仏教の葬儀においては、導師(僧侶)が法語を唱えて故人をあの世に送り出す儀式を指します。

一般的に使われる『引導を渡す』という慣用句は、あきらめるように最終的な宣告をする場合などに用いるため、よくない意味に取られがちですが、葬儀では仏さまのもとへ導いて差し上げるという前向きな言葉なのです。

葬儀は故人の冥福を祈り、今生での別れを告げるものです。
宗派によって、葬儀の流れなどが違う場合もありますが、最後に行うのが、引導の儀式です。
故人を称え、彼岸へと導く法語を唱え、松明を模したものを棺や祭壇に置くこともあります。

松明を模したものを使用するのは、古来は葬儀のときに僧侶の手によって火葬が行われており、実際に本物の松明を葬儀で使用されていたとの説から来ています。

仏教が生まれたインドでは、火葬をして身を清めるという考え方がありました。仏教の基となるヒンドゥー教でも、魂が煙となって天に昇っていくという考え方です。お釈迦様も火葬でしたので、仏教ではそれにならって、火葬が主流となっています。

引導は、故人を仏のもとへ導く、つまり、今生への別れを告げる儀式となります。この儀式が葬儀の意味であり、宗教的な意味ではお別れとなるのです。

引導の場面には僧侶が法語を唱えます。法語とは、広い意味で言えば仏教で正法を説く言語です。







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