生き残った魔女
領太とかえでは、学校帰りに不思議な家を見つける。
家の住人は、やがて領太の周りと、心の中に波紋を広げていく…
「なに?もしかして、彼女と住もうとか思ってるー?結婚するんでしょー?内定も、もらってないのにぃー?」
そこで、かえでの携帯が鳴った。大きなベージュのバックから取り出し、しばらくメールをチェックして、かえでは、あらためて家を見つめ、言った。
「ね、あたし、一緒に住んであげようか?お嫁さんが来るまで」
「冗談じゃねーよ」
「タダ働きでいいよ。そのかわり、家賃払わないよ。料理くらいはなんとかなるでしょ、その気になれば」
「いつまでも、おまえの世話は、してらんねーよ」
「ひどいな。じゃ、彼氏にリフォームしてもらって、一緒に住もうかなー」
「できるわけないだろ」
「おばさん、元気かな」
かえでが、バックをかけ直して、ぽつんと言った。
「さあ。元気だといいな」
と、心から思った。魔女なんだから、たぶん元気だろう。
たぶん、どこかで、ゆっくりと冷ました、熱いお茶でも飲んでるはずだ。
(終)
僕は、中古のスーツの上着のボタンを外し、中からタバコを取り出そうとして、やめた。
「どうだった、会社訪問」
「飽(あ)きた」
「飽きるほど、まわってないじゃん」
ふと、足が止まる。
「覚えてる?ここ」
「え?ああ」かえでの大きなピアスが、耳もとでキラキラ光っている。
「おばさんのとこでしょ」
「うん」
「小谷とかいう」
僕は、木戸のすき間から、中の様子をうかがってみた。
前と同じで、人の気配は、ない。
「ーーーここ、改築したら、住めねーかな」
「え?ここ?マジで?うーん、そうだなあ、費用と人手にもよるよね。最近リフォーム代高そうだし」
「ーーーー」
お母さんは、かえでをおしゃれな子にしようと、いろいろな服を買いに出かける事が多い。たぶん、おばさんの家の事を、忘れさせようとしてるんだと思う。僕と一緒に遊びに出ようとすると、必ず引き止められる。「かえで、お洋服、買いに行こうか」と言って。
ある日、サッカーの試合の後、砂利道を帰っていると、おばさんの家の様子がヘンだった。よく見ると、木の板で、窓がふさがれている。サッシも、木のよろい戸でふさいであった。
薄暗くなっていく夕焼けの最後の赤い色の中で、よく目をこらしたけど、人の気配はない。
もう、いないのかな。でも、もしかしたら、中にいるかもしれない。
中で電気をつけて、ぼんやりと、タバコを吸うか、お茶を飲むかしているのかもしれない。
確かめようがなかった。玄関のガラス戸に、分厚いカーテンがかかっている。たぶん、鍵もかかっていると思う。
少しさみしかった。とにかく、今度の試合こそ、勝とう、と思った。
あれから、10年以上の月日が過ぎた。
「お兄ちゃん」
かえでが、茶色い髪をなびかせて、後ろから走ってきた。
「待って」
かえでが少し熱を出し、その次がお母さん、僕、の順番で寝込んでしまい、お母さんは、このインフルエンザで、体重が3キロ減ったと言っていた。お父さんは最後まで寝込まなかったけど、ある日40℃近く熱がある日に遅くまで残業して、帰ってからすぐトイレで吐き、それでも翌日会社に行っていた。
おばさんの事を、時々思い出した。最後に会った時に、少しせきこんでいたおばさん。
肩掛けをはおって、「バイバイ」と手を振ったおばさんは、確かに、少し、魔女のように見えた。
かえでには、おばさんが魔女であることは、言わなかった。
最近は、「おばさんの家に行く?」と聞いても、首をふる事が多い。
このあいだ、かえでのつめが白く光ってたので、「なんだそれ」と言うと、「お母さんに塗ってもらった」と言って、小さなマニキュアのビンを見せてくれた。お店で、割引で買ってきたらしい。
「どうやって元に戻すの」と聞くと、「これ。エナメルの除光液」と、紫色の四角い小さなビンを見せてくれた。
「じゃ、魔法を手に入れた人間は、魔法使いになれるの?」
「さあ。どうかしら。最近の人間のことは、おばさんもよく知らないんだけど」
髪をかきあげたおばさんの内側の髪が、少し薄い色になっていた。
「でも、全部作り話ってわけじゃないのよ。だって、いまだに、世界中でたくさんの人が、死にたくないのに、死んでるわけでしょう」
「?」
「おばさんもね、たしかに、お金をとって、つかまったこともあるわ。それだけじゃなくて、人を傷つけたこともある。その時は魔法を使えなかったから、いまだにその傷は、残ってるんでしょうね、その人に」
「どうして魔法を使って、傷を治してあげなかったの?」
「好きじゃない人には、魔法は使えないのよ」
話がややこしくなってきた。僕は、少し考えてから言った。
「じゃあ、もし僕が、好きな人に…」
「魔法をかけたら、好きになってもらえるかって?それはないわよ。だって魔法がとけたら、嫌われるわよ、その女の子に」
ウーロン茶が、すっかり冷めてしまった。僕は、恋愛の事を、おばさんに聞くのは、よしておこうと思った。なんだかこわいから。
冬が近くなって、風が冷たくなり、インフルエンザで学級閉鎖になる日が続いた。
「そのうち、お金がある魔女は、つかまえられて、魔法を使うかわりにお金をよこせと言われ、牢屋に入れられた。お金をとるか、魔術をとるか。領太くんなら、どうする?」
「……僕は、魔女にはなれないから、わかりません」
おばさんは、ちょっと笑って、話を続けた。
「そうね。おばさんも、どうしようか迷ったわよ。お金を持ってるより、魔法を持ってたほうが便利だものね。だから、どうせ消えてしまうようなお金なら、いらないと思って、魔法をとったの」
「牢屋に入れられたの?」
「つかまったけど、入らなかったわ。魔法の力を使ったの。他の魔女たちは、ひどい目にあったらしいわよ。いまだに、終わりのない拷問を受けている人たちもいる」
「どんな?」
「記憶をなくしてしまう薬を飲まされるの。毎日、毎日」
僕は、思わず、ウーロン茶の入ったカップをテーブルに置いた。
「大丈夫よ」おばさんは、おかしそうに笑った。
「昔の話だから。この家の中では、魔法も使えないし」
「昔、魔女はね、たくさんいたの。こうやって、ふつうの家で、みんなと同じような生活をしてたのよ。薬草をとってきて、お薬になるお茶を作って、村人に飲ませたりしてた事もあった。貧乏な魔女もいれば、お金持ちの魔女もいた」
おばさんは、ふっと、窓の外を見た。僕は、話の続きを待った。
「でも、お金が全然なくても、たくさんあっても、関係なかったわ。お金がなくたって、楽しく暮らせる方法はたくさんあるの。たとえ、この世からお金がなくなっても、暮らしていけたでしょうね」
「え、どうやって……」
「魔法が使えるから」
僕は、もう一口、ウーロン茶を飲んだ。少しぬるくなっている。
「おばさん」
僕は、ストレートに切り出した。「おばさんは、どういう人なの?」
ウーロン茶の湯気の向こうから、おばさんが、じっと、無表情な顔でこちらを見ている。僕は、引っこみがつかなくなって、ありのままにたずねた。
「新聞に載ってた、って、みんな言ってる。どうして、ここにいるの?家族の人、いないの?」
「私はね、」
にこっ、と笑うと、おばさんの顔は、なんだかいままで見たことのない不思議な表情に変わった。
「魔女なのよ。生き残った魔女」
僕は、黙ってウーロン茶を飲んだ。おばさんが、冗談を言っているんだと思った。
「領太くん、魔女伝説って知ってる?ゲームとかで…」
「魔女裁判って、聞いたことがある」
「そう」おばさんは、イスをゆっくりとずらして、足を組みかえた。パジャマのような、ゆらゆらした感じの部屋着だった。
せきをひとつして、話が始まった。
なんだか、頭の中がぐるぐる回っている。裕二が、野球?
じゃあ、サッカーは、何人残るんだ?知らないうちに来なくなった部員も何人かいる。そんなんで、勝てるのか?
負けられないから、勝つまでやるって、おまえそう言ってなかったか?
パニックだ。なんだか妙に心がザワザワとして、久しぶりだけど、おばさんの所に行ってみようと思った。
かぜなんかひいてないかな。中国のお茶があるんだっけ。
そう思いながら、「こんにちはー」と、玄関の戸を開けた。
おばさんは、ちゃんと家にいた。白っぽかった顔の色が、少しさえない茶色になっていた。
「お菓子が、なんにもないのよね」と言いながら、あたたかいウーロン茶を出してくれた。
「領太」
「なんだよ」
「ごめん、おれ、サッカーやめるわ」
「は?!」びっくりした。「おまえ、やめて、どーする気だよ!」
「野球する」
「なんで…野球なんだよ」
「練習する日が多いから」裕二は、ぴた、と足を止めた。
「このままだと、サッカーか、塾か、選ばなきゃいけなくなる。野球やれば、塾に行かなくてすむから」
「……」僕は、一生けんめい、サッカー部のエースである裕二を引き止める言葉を探したが、うまく見つからなかった。
「塾なんて、どーでもいいじゃん」
「兄貴がさあ、そのうちいい塾紹介してくれるんだ。だから、おれとしては、それまでに4番打者になる」
「まじかよ」
急に、裕二は走り出し、路地に入り、ぱっ、とふり向いた。
「野球始めたらさあ、市内のサッカー部にくわしいヤツがいるから、次の対戦相手のデータ探って、おまえに教えてやるよ。だから、今度は勝てよ」
おばさんの家に行ってることは、学校の友達には誰にも言ってなかったので、僕は、うそをつくことにした。「小谷とかいう家、あったっけ?」
「あるんだよ。その人さあ、おれのお母さんと同じくらいのおばさんだけどさあ、なんか、新聞に載ったらしいぜ」
「え?新聞?どうゆう事?」
「なんか、金、持ち逃げしたって」
コツンと、靴の先に、小石が当たった。遠くの交差点から、クラクションの音が聞こえてくる。
「持ち逃げって、横領って事?」
「うん。そんな、ものすごい大金とかじゃないんだろうけどさ、小さな会社の金、盗んだらしいぜ」
「へえ、なんかすげーな、犯罪者じゃん」
不思議なことに、あまり、ショックではなかった。最近、おばさんの家には行ってなかったけど、前を通りかかっただけで、なにか沈んだ気持ちになってしまうことが多かった。
僕は、返事をせずに、「おやすみなさい」と、部屋に向かった。
おびえた目をして僕を見ているかえでを、一緒に部屋に連れていこうか迷ったが、なんだか何もかもどうでもよくなってしまって、リビングに置き去りにしてきた。
結局、やっぱり、昨日どれだけ僕がおそろしい思いをしたか、あの二人には、わかってもらえなかった。
新学期が始まり、あまりパッとしない運動会も終わり、一日一日は、なんとなく過ぎていった。
やがて、サッカーの交流試合も行われた。みんなの予想通り、負けてしまった。僕たちは、最後に販売機のジュースでカンパイして、空きカンを思いきりグラウンドの片すみに投げ捨ててきた。
そういえば、裕二から、思いがけない話を聞いた。
「裏道にさあ、小谷っていう人の家があってさあ、そこに、女の人が引っ越してきたらしいけど。おまえんちの近くだよ」
「おれの家の近く?」
お父さんの目とお母さんの目が、じっと、無表情に、僕を見つめている。
僕は、お父さんの言った言葉が、まだうまく理解できなかった。
「悪い人って‥昨日、僕、ヘンな男から声かけられたんだよ。おまえ、関山先生のクラスだろって。それで、こわくて走って逃げて、おばさんの家に逃げこんだんだ。おばさんは、悪い人じゃないよ」
「人間はな、見かけじゃわからないんだ。いくら、普通のやさしいおばさんに見えたって、正体はわからないだろ。毎日、ニュースでも言ってるぞ、今朝だって…」
「あなた」
しばらく、気まずい沈黙がただよった。ナイターの中の応援団だけが、うるさかった。
「とにかく、もう行っちゃダメよ。これ以上、お母さんの悩みを増やさないで」
これは、お母さんのおどし文句だ。これに逆らうと、しまいにはヘンな具合に話がもつれてしまい、お父さんとお母さんのケンカになってしまう。
「‥…」
「わかった?」
「このあいだ、ちょっと近所の人から聞いたんだけど‥…あなた、最近越してきた、小谷さんっていう人の所に行ってるらしいわね。お母さんたちの知らない間に」
Гえ…」
突然、おばさんの名前が出て、なんだかギクッとした。
お母さんの口から「小谷さん」と聞くと、全然知らない人の名前のように思えてしまう。
「うん…」
「かえでも?」
かえでは、眠たそうだったのに、急にイスの上で背すじを伸ばして、じっとお母さんの顔を見ている。
「うん。僕が一緒に連れて行ってる」
Гそう。じゃ、今度から、もうそこには行っちゃダメよ」
「どうして?」
「どうしても」
「理由がわかんないや。なんで、行っちゃダメなの?」
Гその人はな、このあたりの人とはちがうんだ」
お父さんが、ソファーから起きあがって、言った。
「悪い人なんだ」
お父さんは、知らん顔で、ナイターを見ている。ネクタイも取らず、着替えもせず、ソファーを占領して横になっている。
最近は、お母さんも、「聞いてる?」というつっこみさえも、入れなくなった。聞いてても、聞いてなくても、グチは続くのだ。
「かえで、お風呂に入った?」
「うん。お兄ちゃんと入った」
「そう。お父さんも、早く帰ったなら、かえでをお風呂に入れるくらいしてくれたらいいのにね」
「お母さん」
僕は、お母さんのグチが途切れたすきに、今だ、と思って、口をはさんだ。
「僕、今日テストで、87点だったよ。算数で80点以上とったの、僕と、山口くんと…」
「ああ、領太」
お母さんは、いつもとちがう表情で、僕を見た。
僕は、やっとテストでいい点をとったのに、なんだか、予想してたのとちがう流れを感じて、体がこわばった。
とにかく、僕は、あの変な男から逃げ切った。また、学校帰りに顔をあわせないだろうか。そう考えると、ちょっと怖かったが、事の一部始終を聞いたおばさんから、
「大丈夫よ。もしいたら、またうちに走っておいで」
と言われたら、なんだか、大丈夫だ、という気がしてきた。
めずらしく、お父さんが、お母さんより帰りが早かった。
お母さんは、9時くらいに、疲れた顔で仕事から帰ってきた。
「ああ、もう。食器片付けてないの?」
不機嫌にガチャガチャと食器を重ねて、流し台へと運んで、勢いよく水を出して洗い始める。
「明日もこのくらいだから。もっと遅くなるかもしれない。お店の終了時間が長くなるらしいのよ、やっぱり。夏物の一掃セールが始まるから、その前に在庫の片付けが多くて。
もうちょっとバイトの子たちが夜も入ってくれればいいのに。要領ばっかりいいのよね、最近の子は。いやならやめればいいって感じだから、店長の前でも堂々としたもんよ。堂々とサボってるもの。まったく。バイト代で海外旅行とか行くらしいわよ。いいわね、生活がかかってないから、気楽で」
洗い物の最中も、お母さんのグチグチは止まらない。
おばさんは、タバコを銀のうすっぺらい灰皿でもみ消した。
「…ヘンな人に、会った」
「へぇ」
「あいつ、絶対おかしい。変質者だ」
「世の中は、まともな人間よりおかしな人間のほうが多いのよ」
僕とおばさんは、しばらく見つめあった。そして僕は、木のイスをひいて、ストンと座りこみ、おばさんが今言った言葉を頭の中でくり返した。
─このおばさんは、いったい何者なんだろう。
働いている様子もない。笑ったとき、顔のところどころにしわができるけど、お母さんと同じくらいか、少し若いような気もする。どうやって生活してるんだろう。
なんで、この家に、一人で住んでるんだろう。
これらの疑問は、僕にとって、推理するには難しすぎた。
おばさんは、台所の木製のイスに座って、タバコを吸いながら、窓から外を眺めていた。おばさんがタバコを吸ってるのを見たのは、その時が初めてだった。
「どうしたの?」
僕は、しばらく、息が切れて、何も言えなかった。
ただ、せわしなく、肺から熱い息が吹きだしてくる。
おばさんは、びっくりした様子もなく、タバコを片手に、僕を見つめていた。
その顔を見ていると、だんだん、気持ちが落ちついてきた。
混乱してぐるぐるまわっていた頭の中が、ゆっくりスローダウンして、正常になっていく。僕をとりまく世界が、再び、いつもの色で動き始める。
自分が、何か得体のしれない洞窟に引きずり込まれるような、そんな感覚に襲われ、僕は、勇気をふりしぼって、その男に背中をむけて、一目散に走り出した。
後ろから、男が砂利を踏んで走る音が聞こえてくる。僕は、かつてないくらい猛スピードで、必死に走り続けた。
あちこちの関節が、きしんで、音をたてるような気がする。めちゃくちゃに走って、走って、これ以上走ったら心臓が爆発する、そんな時に、おばさんの家の門にたどり着いた。
「おばさん!」
ころがるように、玄関へ飛び込んだ。あわてて靴を脱いで、台所へと走る。
暑いのに、うす汚れた感じのこげ茶の長そでシャツを着て、変な黒い毛糸の帽子をかぶっている。
すごく、イヤな感じの顔だった。僕をにらんでいる。
わけがわからず、僕は、その場から逃げようとした。その時だ。
「おい」
男の声が、僕をつかまえた。逃げられない力のこもった声だ。
「おまえ、上田小学校だろ」
「…はい」
「上田小の、何年だ?」
「‥…4年です」
Г4年なら、関山のクラスだろ?あ?そうだろ?」
「関山先生は、3組です。僕は、2組の佐藤先生の…」
「ウソつけ。関山だろ?関山に決まってる。おい、おまえ、関山に言っとけ。俺は、あの先公にひどい目にあわされたんだ。リンチだよ、リンチ。わかるか?いじめよりひどいやつだ。俺は、それでな、仕事もまともにつけない。全部、関山のせいだ。
あとな、小峰ってのもいる。これはな、中学だ。おまえもな、上田中に行けばわかる。小峰のクラスにはなるなよ。
人生、台無しだ。おまえさぁ、関山に言えるか?俺の今言ったこと、言えるか?おい、おまえ、いくつだ?」
僕は、体の芯から、おそろしさがこみあげてきた。
その男の目からは、何かものすごく邪悪な光が出ているように思えた。
おばさんは、いつもはだしだった。はだしでペタペタと、薄茶色の床を歩く。
ガスレンジの横には、ガラスびんの中に、たくさんタバコの吸いがらがつまっていたが、僕たちの前で吸うことはなかった。
かえでは、戸棚に並んだ動物柄の皿が気に入って、よくおばさんに出してもらっては、あきもせずじっと眺めていた。
そして、夏が過ぎた。夏休みが始まってからは、サッカーの練習と試合が忙しく、あまり、おばさんの家にも行けなかった。
あと数日で、夏休みも終わる頃。僕は、野球帽をかぶって、友達の家から帰ってくる途中だった。
ふと、背後に人の気配を感じた。ずっと、後をつけている。
気になってふりかえったら、そこに、鋭い目つきの男がいた。
>> 40
ありがとうございます。
何かと忙しくて、更新が遅れてすいません。
ちゃんと完結させますので、遅い時は申し訳ないですけど、しばしお待ちくだ…
更新ありがとうございます😌完結までしっかり読ませていただきます。
とてもおもしろいです。
おばさんは、僕たちが飲んだり食べたりするのを、ただじっと見ているだけだった。お茶を飲むこともない。
台所のたなには、あんまり物がなかった。木で編んだ大きさのちがうざるや、よくわからない茶色い葉っぱの入ったビン。
ガスレンジのある側の壁のスミに、赤とうがらしがひもでくくってぶらさがっている。石けん受けには、ひび割れてたくさんスジの入った大きな石けんが、どっしりと置いてある。
そういう点で、おばさんは、大人ではなかった。
世の中の大人はみんな、僕たちに、次に何をさせようかと考えて、待ちかまえている。
そんなふざけた鬼ごっこみたいな世界の中で、おばさんは、大人たちから逃げようとする僕たちに、かくれ場所を教えてくれるような人だ。
いつもおやつをもらって食べる台所のテーブルは、まるで雨ざらしになったように、ところどころの茶色がはげていた。表面に、キズまである。
うちのテーブルには、チェックのクロスがかかっていて、いつもごはんのたびにランチオンマットが取り替えられる。えらいちがいだ。
なんだか引き込まれて一気に読んじゃいました。 引き続き、楽しみにしています。
お願いです😣完結させてください‼
ずっと読みますから😣 お願いします。
そういう所が、おばさんは、僕の知ってる他の大人と、違っていた。
「自分の意見」を、押しつけてこない。大人は必ず、僕の話の最後に、「それは領太くんが~
だったからね」とか、「今度からは~したほうがいいね」と、教訓をつける。時々、その一言で、僕のそれまで話してきたことが、いっぺんでぶっこわれることがある。
だから、大人と子供は、あんまり仲良くできないのかもしれない。
おばさんは、家に行くと、いつも、お茶かジュース、それに、おせんべいとかのお菓子を出してくれる。それを飲んだり食べたりしながら、僕たちは、その日学校であったできごとを報告する。
おばさんは、いつも、うなずきながら、僕たちの話を聞いてくれた。
自分から話すことは、あまりなかった。「それは、こうしたほうがいいんじゃない?」ということも、言わない。ただ、「それで?」「なんで?」と、話をうながすだけだ。
何回か行くうちに、玄関の目立たない所に、「小谷」という表札がかかっているのに気がついた。表札は、ボロボロの木の板に、墨で書いてあるので、色があせてしまって、つい見落としてしまう。
おばさんに、「小谷」という名前があるのが、なんだか不思議だった。名前があってもなくても、変わりはなかった。
親戚のおばさんのようで、親戚よりも、昔から知ってる人のように思えた。
カルピスをもらって飲んで、たったそれだけの会話だったけれども、不思議に、心の中がすっきりとなっていった。
帰りがけ、手をふってくれるおばさんに、ぺこりと頭を下げながら、僕は、「また今度、かえでと一緒に来よう」と思っていた。
それから、僕は、ちょくちょくおばさんの家に行くようになった。
サッカーの練習のない日の、帰りがけとかに。
かえでを連れて行くこともあった。「おばさんの所に行くぞ」と言うと、かえではよろこんでついてきた。
「あんまり、楽しくない」
「どうして?」
「すぐ、勉強しろ、って言われるし‥サッカーするのは面白いけど、お母さんも先生も、サッカーより勉強が大事、って感じだし‥」
「ふうん」
そのまま、おばさんは、明るい庭をながめていた。
茶色い髪の毛が、風が通るたびにふわふわする。
「…おばさんは、学校、楽しかった?」
「学校?うーん、どうだったかなあ。そうねぇ、自分が通ってる時は、楽しいなんて思わなかったなあ。でも、こうやってふり返ってみると、あんなに楽しかった時なんてなかったなって思うわね。すごくいい時期だった」
「どんなふうに?」
「言葉にできないくらい、楽しかった」
おばさんの顔は、白っぽく輝いていて、まぶしかった」
こくこくと、少しずつ飲む。カルピスは、水との配分のせいもあるんだろうけど、飲む場所によって、味が変わるような気がする。
このカルピスは、いつものより、まろやかで、なにか特別な味がする。
おばさんは、はだしで、縁側に体育座りをしている。
「領太くん、学校楽しい?」
ふいにそう聞かれて、僕は、カルピスを飲むのを中断して、少し考えた。
雑草も花たちも、ただ、なんとなく生えてきたらここだった、という感じで、そのわりに妙にまとまって、庭の中に並んでいた。
おばさんは、なかなかこない。でも、ただだまって縁側に腰かけてるだけなのに、退屈しなかった。
居心地がいい、っていうのは、こういう感じをいうんだろうか。
「はい。お待ちどうさま」
カラン、と、氷がコップにあたる音がした。
「カルピス好き?」
「はい」
さし出された氷入りカルピスのコップを受けとりながら、うなずく。
とろんと白い液体に浮かんだ氷が、ごつごつして大きくて、氷山をちぢめたような形をしている。
縁側に腰かけ、しばらくじっとして、ちょっと迷ってから、ランドセルをおろした。肩と背中が軽くなる。
すごく静かで、遠くから車とか、人とかが行き交う街の音が、かすかに聞こえてきた。
目の前の庭には、雑草が生えていて、ところどころに赤かったり黄色かったりする花がまぎれている。
おばさんは、ごわごわした白い長そでシャツのすそをジーパンの上に出している。このあいだより、少し顔の色が白っぽく見える。 「入ったら?」
「え?」
「今日は、ジュース出してあげる」
とまどいながら、僕の足は前へふみ出した。心の半分は、まだ警戒している。 「宿題があるから、帰ります」と言ってしまおうか、と、頭の中がぐるぐる回転する。
「さぁ。遠慮しないでおいでよ」
それでもまだ、玄関に近づこうとしない僕を見て、おばさんはちょっと笑い、 「じゃ、縁側で飲む?」と言った。
なんとなく、その笑顔を見てると、言われたとうりにしたほうがいいような気がして、「はい」と答え、うながされるまま、縁側へと向かう。
おばさんは、はだしにはいた青いサンダルをカタカタいわせて、玄関の中へ消えた。
しばらく歩くと、このあいだ中国のお茶をすすめてくれたおばさんの家にさしかかった。
今日は、いるのかな… と、何気なく門から中をのぞくと、おばさんは、庭に立っていた。最初、後ろ向きだったけど、僕がおばさんの姿を見つけた、その数秒後、ふいに、僕のほうをふり返った。
「 …… 」 僕は、門のこちら側で、ちょっとギクッとした。おばさんは、そんな僕の気持ちにおかまいなく、明るく声をかけてくる。
「あら、領太くん、こんにちは」
「こんにちは」
「今、学校の帰り?」
「はい」
「かえでちゃんは?」
「1年生だから、お昼までで帰りました」
「そう」
もうすぐ夕方だけど、まだ日射しは明るい。
サッカーの練習は休み。友達の祐二と、昨日見たアニメのヒーローたちの決め技について、しゃべりながら帰る。
「だからさぁ、あそこで、スペシャルバトルローリングダウンを使わなかったのが、失敗だったよなぁ… 」
そのうち、祐二の家へと続く曲がり角に着く。
「明日、コンパスいるんだっけ?」
「当分いるっていってたじゃん」
「方眼用紙もいるよな」「うん」
「あー、かったりぃなぁー、最近の算数、全然おもしろくねー、毎日サッカーだけやってたいぜ」
嘆く祐二。僕は、思わず笑って答える。
「ありえねー 」
「ありえねーな 」
僕たちは、顔を見合せて、ニッと笑い、「じゃ、バイ、」と、言って別れる。 やがて、近道へ入る。アスファルトの道から、じゃり道へと変わり、まわりも、木造の古びた家並みが多くなる。
「領太君、最近、どの教科も成績が下がってるでしょ? ちょっと、心配なんだよね。サッカーに熱中するのもいいけど、勉強も、大事だからね」
「 …… 」
視界のはしに、友達の祐二の姿がうつる。すぐそこにいるのに、すごく遠くに感じる。
「領太君は、もともと頭はいいから、余計、そう思うんだよね。そういった事でお話したかったんだけど… しょうがないな、そのうち、また機会があれば、その時に… とにかく、勉強、がんばりなさいよ」
「はい」
返事をしたと同時に、チャイムが鳴った。解放の、チャイムだ。
でも、解放されたとたんに、また、教室の席に座って、先生の授業を受けないといけない。
授業って、時々ニュースで言ってる、「軟禁状態」なんじゃないかな、って思う。自分の自由が、取り上げられてしまって、強い相手(先生)の指示に、従わないといけないから。
その日は、算数とか、音楽とか、嫌いな科目ばかりで、なんだかしんどい気持ちで放課後になった。
小さい頃、お母さんが、僕にとって、すべての女の人の中で「基本」となる存在だった。
にっこりと、やさしく笑ったお母さんの顔、それが、僕が初めて女の人を「きれい」だと思った顔なんじゃないかと思う。
そんなとりとめのない事を、僕は、先生が考えこんでいる短い間に、ふっと思った。思いめぐらした、のではなく、小さい頃の記憶が、パッ、と感覚的に、頭に浮かんだのだ。
「… ちょっと、お母さんと、お話したかったんだけどな」
やっと口を開いた先生は、困った顔のままだ。先生のまわりを、少し重たいオーラが取り囲んで、僕のほうにまで伝わってくる。
「…… 」 重たいオーラが伝染した僕の心が、固くじわじわと沈んでいく。
廊下や、教室のあちこちから、ふざけあうみんなの声が響いてくる。はやく、このいやな空気から逃れて、あの明るいところへ行ってしまいたい。
その日の休み時間。トイレに行って、廊下を一人で歩いていたら、担任の、若い女の先生から呼び止められた。
「領太君、今度の父兄参観は、おうちの人、来るの?」
「いいえ」
「お父さんもお母さんも、お仕事?」
「はい」
「そう」
先生は、サラサラした長い髪を後ろで一つに束ね、ちょっと困ったような顔で腕を組んだ。お化粧は、あまりしていない。女子が、「先生、もっとオシャレしたら、きれいになるのにね」と、ウワサしているのを聞いたことがある。
でも、きれいな人って、どんな人なのか、僕にはよくわからない。
テレビの中で、「きれいですねぇ」と言われている女の人の顔を見て、そうかな、と思うことがよくあるからだ。
僕はその間に、学校に行く支度を済ませ、さっさと玄関で靴をはく。
「おにいちゃん、待ってー!」と言うかえでの声に、少しだけうんざりする。
ふりきって行ってしまいたい気持ちを押さえつつ、もどかしく靴をはくかえでをじっと待ち、「行ってきます!」と、二人、もつれ合うように玄関を飛び出す。
かえでの全速力に合わせて、学校をめざす。走っていると、カタカタいうランドセルのリズムの中で、周りの風景が、次々と後ろへなびいていく。
チャイムの5分前に、校門へとたどり着いた。
最近、家の中で一人きりになった時、ほっとして、心の中がスッとする。
かえでは ―― 最近だいぶ一人で遊ぶようになって、だんだんうるさくなくなってきた。
お人形の着せ替えなんかをしてるかえでの気配を感じると、少し、やわらかくてあたたかい気持ちになる。やっぱり、兄妹だからかな。
好きな女の子がそばにいても、こんな気持ちになんかなれない。ドキドキしてしまうだけだ。とても居心地が悪くなる。
やがてやっと朝ごはんを食べ終わったかえでが、相変わらずむすっとした顔で、のそのそ着替えをしている。お母さんにうるさくせかされながら、すっきりしない感じで、水色の長そでシャツに紺色のスカートというかえでの着替えが終了する。
お父さんがそう言っても、お母さんは、まだなんとなくすっきりしない表情をしてたけど、ちらっと時計を見た瞬間、その表情はふっとんだ。
「いやだ、もうこんな時間!? ほら、はやく支度して! かえで、はやく食べなさい!」
かえではといえば、おもしろくなさそうな顔で、もそもそとトーストを口にほおばっている。
「まだ食べてるの、かえで。学校に遅れるわよ」
せかされても、かえでの様子は変わらない。
ふてくされた顔つきで、ゆっくりとアゴを動かしている。朝、不機嫌なのは、お母さんゆずりだ。
僕も、朝はあまり好きじゃない。家族がみんなそろうからだ。
お父さんとお母さんは、いつも、なにかピリピリとした会話をやりとりしている。くすぶり続けて途切れてしまうバクダンの導火線のようだ。
お母さんは、黙って洗い物とかをしている時でも、そのピリピリ感を周りに漂わせていたりする。それで、なんだか、一緒に部屋の中にいたくなかったりする。
お母さんの機嫌がますます悪くなりそうだったので、僕は、コーヒーカップとお皿を片付けながら、言った。
「別に、二人とも仕事なら、いいよ。どうせ、クラスの半分くらいしか来ないんだし」
お父さんとお母さんが、じっと、僕を見ている。お父さんは、ひろげた新聞を手に持ったまま、お母さんは、コーヒーポットを持ったまま。
こういうとき、二人とも、すごく顔が似ている。兄妹みたいに、とかいうんじゃなく、なんか、同じキャラクターの、フィギュアの人形同士みたいに。
「… でも、先生から、お母さんたちに、お話とかあるんじゃないかしら」
「わかんない。別に、そんなこと言ってなかったみたいだけど」
「まあ、ほんとに大事な話だったら、あらかじめそういう連絡があるだろう。仕事の都合をつけてでも来て下さいって。そうじゃないんだから、大丈夫じゃないか?」
「80点めざしてがんばりなさいって、先生が、言ってくれたんでしょ?」
「…… うん」
「領太は、やればできるんだから」
さっきから、ずっと新聞を読んでいたお父さんが、「おい、コーヒー」と、カップをお母さんに渡す。お母さんは、す早くコーヒーをついで、トン、と、お父さんのランチオンマットに置く。
「お父さんからも、ちゃんと言ってよ。最近、この子、サッカーばっかりやって、宿題忘れたりすることがあるんだから」
「学校の事は、お母さんに任せる」
「あら、もうすぐ父兄参観もあるのよ」
「たぶん仕事だから」
「え? 今度は行けるって言ってたじゃない。私も、仕事入れちゃったわよ。この間、佐藤さんの奥さんと交替してもらったから、休めないわよ」
「時間ずらしてもらえばいいじゃない。店長さんにお願いして」
「簡単に言うけど… パートの仕事も人手が足りなくて大変なのよ」
僕は、ぼんやりと、宿題のことを考えながら歩いていた。
中国のお茶の味が、まだ舌の先にヒリヒリと残っている。
地図帳の中で、中国はどこにあったっけ?
ふりむくと、夕焼けの中で、僕とかえでの二つの影が、後ろからゆっくりとついてきていた。
翌日の、理科のテストは、56点だった。
「56点? どうしたの、領太。理科は、得意でしょう?」
お母さんは、朝から不機嫌そうだ。
「でも、クラスの中で、平均点より上だったんだよ」
「平均点とかじゃなくって」
コーヒーカップが、トン、と、緑のランチオンマットの上に置かれる。
僕は、そーっと、角砂糖をつまんで、2つ、コーヒーの中に入れる。
「帰るぞ」
僕が強く言うと、かえでは、ゆっくりと立ち上がって、おばさんに聞いた。
「また、おうちにきてもいい?」
「いいわよ。また、学校の帰りにでも、おいで」
そして僕は、「おじゃましました」と言って、かえでの手を引っ張った。
「バイバイ」と手をふるかえで。おばさんは、湯のみをカタンと流しに置いて、「バイバイ」と微笑んだ。
開けっぱなしの玄関の外に出ると、夕焼けになっている。
赤い色がまぶしくて、ちょっと、目をつぶった。まぶたの裏がぼんやりする。 「おにいちゃん」
僕は、赤い夕焼けの中で、いつもの道を歩き始めていた。
「おにいちゃん」かえでが、ぐいっと、シャツをひっぱる。
「…… なんだよ」
「おなかいたいの、なおった」
「ふぅん」
「おばさん、どこからおひっこししてきたの?」
かえでが、湯のみをテーブルに置きながら聞いている。
「遠い町よ」
「とおい町? 笹山町より、もっととおく?」
「もっと、ずーっと遠い町」
窓の外から、雑草が風に吹かれて、揺れてるのが見える。
僕は、ふっと、ここにいちゃいけない、と思った。 もしかしたら、このおばさんは、この家の人じゃないかもしれない。引っ越してきた後、そのまま残っている親せきの人とかかもしれない。
家の中が片付いて、この家の人が帰ってきたら、僕たちは、怒られてしまう。子供は、もう家に帰ってないといけない時間だ。
「帰ろう、かえで」
かえでは、赤いオーバースカートをひろげて、ぺたん、と、赤ん坊のように床に座り込んでいる。
どうしようかな… と思っていると、おばさんが、湯のみをさしだした。
「どうぞ。おにいちゃんも飲んだら?」
「いいえ… 僕は、おなか痛くないから」
「お茶だから、遠慮せずに飲んでいいのよ。お菓子も食べる?」
僕は迷ったけど、お茶だけはもらって飲むことにした。
お茶を渡してくれたおばさんのつめが、細く、白く、光っている。
この人は、どういう人なんだろう。どこから、やってきたんだろう。
近所にいるおじさんやおばさんたちとはちがう、なんだか、得体のしれない感じがする。
お茶を一口飲むと、確かに、ちょっと苦くてあまりおいしくなかった。なんだか、サイダーが飲みたくなった。
せまい廊下のつきあたりに、台所があった。何か大きな丸いやかんの中から、こげくさい匂いがする。
「はい」
かえでが、おばさんから、小さな湯のみを受け取っている。
何のためらいもなく、一口お茶を飲むかえで。
「…… へんな味」
おばさんは、顔をゆがめて、ちょっと笑った。
「これはね、夏になると白い花が咲く草なのよ」
「おばさん、お花を育ててるの?」
「おばさんは、育ててないの。おばさんの、妹が、育ててるの。 …… お名前は? なんていうの?」
「かえで。おにいちゃんは、領太」
「そう」
窓から夕陽がさしこんで、木のかべが、明るい茶色になっている。
動きまわりながら湯のみのお茶を飲むかえでが、テーブルの影の中で見えなくなる。
「おにいちゃん、おなかいたい」
「いいから帰るぞ」
「おなか痛いんだったら、お茶飲んでいく? お薬は今ないんだけど、病気がよくなる中国のおいしいお茶があるのよ」
かえでの目が、輝いている。飲みたい、といわんばかりだ。
「おいで。中に入ったら?」
かえでが、とことこと、そのおばさんの後をついて中に入っていく。
僕は、あわてて、止めようとしたが、つられるように、結局家の玄関まで来てしまった。
セメント色の小さな玄関に、ぽつんと、女物の赤いサンダルがそろえてある。その横に、ほうりなげるように脱ぎすてた、かえでのビニールのサンダル。
奥のほうから、カタカタと何か音がしている。
僕は、ためらったけど、かえでの事が心配だったので、ゆっくりと、きしむ廊下を歩きだした。
そんな事を考えていたら、前から人がやってきた。 「こんにちは」
「こんにちは」
近所の人だと思って、あいさつして顔をあげたら、見慣れない女の人だった。 お母さんと同じくらいの年の人で、少しパーマがかかった濃い茶色の髪が、肩ぐらいまで伸びている。
もしかしたら、この人が―――
「今、学校の帰り?」
その人は、にっこり笑って、僕に聞いてきた。
「いいえ。妹の友達の家に行ってきて… 」
かえでは、いつのまにか僕のすぐ後ろにきている。 「妹さん? こんにちは」 「… こんにちは」
僕が答えようとすると、かえでが、
「おばさん、この家の人?」
と、聞いた。
「そうよ」
「いつ、おひっこししたの?」
「…… つい最近」
僕は、かえでの手をとって、「もう、帰るぞ」と言った。
夕陽がさして、あたりが明るいオレンジ色になっている。
「帰るぞ」
僕が言うと、かえでは、わざとらしくおなかをおさえながら、「バイバイ」と、みのりちゃんたちに手をふった。
「ケーキと、バナナと、ジュース飲んだら、おなかが痛くなった… 」
「ふーん」 僕は、相手にしなかった。どうせいつもの仮病(けびょう)だ。
まだ、夕陽が出る前の明るい道を、てくてくと歩いて行くと、裏道の途中に、あの家がある。
かえでがなかなかこないので、しばらく立ち止まって、木戸のすき間から家をながめていた。
そういえば、小さい頃、このへんで、みんなと紙ひこうきを飛ばしたことがあった。たぶん、あの草むらのあたりに落っこちた紙ひこうきが、たくさんあったと思うんだけど、町内の清掃委員の人が、拾って捨ててくれたのかな…
あー、遠くへ行きたいなあ、
聞いたこともない街の名前をたどっていると、電話のベルが鳴り響いた。
受話器を取ると、いきなり、
「あ、領太くん? かえでちゃん、眠たそうだから、迎えにきてねー 」
と、明るい声が飛び込んできた。たぶん、みのりちゃんのお姉さんだろう。
正直なところ、宿題がまだ途中なので、断りたかったけど、一方的に電話が切れてしまったので、しぶしぶ家の鍵を持って玄関に向かう。
なんだか、幼稚園の先生になった気分だ。
みのりちゃんの家に行くと、かえでは、かなり機嫌が悪くなっているようで、何かグズグズ言っていた。「もう、おうちに帰る…
」
玄関に集まってきたお姉さんたちが、心配そうに、 「かえでちゃん、おなかが痛いみたい」
と、かえでの手をひいてきた。
パタンと、玄関のドアが閉まった。一人になった僕は、もくもくと、パサパサのパンを食べる。
テーブルの上のパンくずをはらって、ノートを広げる。
ランドセルの中から地図帳を取り出して、パラパラとめくって、学校で教わった山の名前を探す。
しばらく、社会科のテキストの問題を解いていたけど、なんだか眠たくなってきて、シャープペンシルをテーブルの上に置く。
地図帳を、パッ、と開いたら、外国の地図が、ページいっぱいに、のっている。
「そう。それじゃ、留守番してて。かえでは?」
「みのりちゃんとかいう子の家で遊んでる」
「ふぅん。あとで、迎えに行ってくれる? 家、知ってるんでしょ?」
「 … 宿題すんでからでいい?」
「ええ。お母さん、ちょっと銀行にも行かないといけないし、今日は忙しいのよ」
僕は、黙って、ランドセルを台所の椅子の上に置き、テーブルの上の菓子パンの袋を破った。
「じゃあね。行ってくるからね。宿題、ちゃんとしなさいよ」
「うん」
どんな人が住んでるんだろう?
通行人が誰もいないのを確認して、そっと、木でできた門のかげから中をうかがう。
なんだか、何十年も前からあるような古びた家。前に見た時あちこちに空いてた穴は、目立たないように板でふさいである。
よく見ると、庭には、まだ雑草がけっこう生えている。
セイタカアワダチソウのような黄色い花をつけた変な草。その他いろいろ。
木戸のすき間を横にたどって見ても、それ以上、その家のことはよくわからなかった。
「ただいま」
「おかえり。領太、今日は宿題あるの?」
パートが休みのお母さんが、家にいた。
「うん」
かえでが早く歩けないから、うでをぐいっと引っ張ると、また、こいつは怒りだす。
「そんなにはやく歩かないでよー !!」
「おまえが寄り道するからだろ!」
「サッカーで負けたくせに!」
僕は、かえでのうでをふりほどいた。「じゃ、1人で帰れ!」
怒鳴った後、しばらく早足で歩いて、後ろめたい気持ちになって、かえでをふり返ると、あいつは、じっと、さっきの道ばたの所で立ちすくんでいる。
しかたなく後戻りして、うらみがましそうな顔のかえでの手をとる。
「ほら、帰るぞ」
そう言うと、やっと、かえでは歩きはじめた。
砂利道を1人で走ってたら、ころんでしまい、ズボンのひざが汚れてしまった。
土ぼこりをはらって、絵の具入れのバックを拾い上げ、ふと前を見る。
この間通りかかった時、あの家は、カーテンが開いてた。
「誰か、いるのかな… 」 僕がそう言った時、すっと、窓を何か影のようなものが横切った。
思わずギクッとして後ずさりして、かえでの足をふんでしまった。
「あいたっ!」
「あ、ごめん… 」
その時、草がじゃましてよく見えなかったけど、確かに、人影が見えた。髪の長い女の人みたいだった。 僕は、泣きべそをかきはじめたかえでの手をにぎった。
「帰るぞ」
「うっ… おにいちゃんが、足、ふんだ… 」
「いいから、帰るぞ!」とにかく一刻もはやくこの場を立ち去ろうと、僕とかえでは、帰りみちを急いだ。
「ここ、このあいだまで、空き家だったよな」
「うん。草が、いっぱい生えてた」
「誰か、住むことになったんだよ」
「こんなおうちだったんだ… 」
かえでが、とことこと、すい寄せられるように、その庭に向かって歩きはじめる。僕も、つられて、木戸のすき間から中をのぞく。 「かえで、中に入っちゃだめだぞ」
僕たちは、薄っぺらい木目の板にじっとおでこをくっつけ、古い一軒の家を観察した。
前に見た時は、もっとボロい家だったような気がする。
今、こうして見てみると、新しい茶色の細長い板が窓のまわりについていて、中のガラスの汚れがとれてきれいになってるので、なんだか感じがちがう。
かなりテンションが下がっていた僕は、憂うつな気持ちになり、少し足を早めた。スニーカーの底が、じゃりじゃり音をたてる。
車の通らない裏道を歩いているので、まわりが、すごく静かだ。
コンクリートでふたをしたみぞのわきに、小さな草がたくさん生えている。
しばらく歩いていると、かえでが、
「おにいちゃん」
と、声をかけてきた。話したくない気分だったので、そのまま黙って歩いていたけど、かえでの足音が後ろから聞こえてこないので、くるっ、と、ふり返ってみた。
赤いオーバースカートのかえでが、曲がり角に立っている。
「何やってるんだよ」
かけよってみると、かえでは、小さな人さし指で、 「このおうち、だれか住んでるの?」
と、向こう側を指さした。木造の家にはさまれて、小さな庭が見える。
「… アイス、食べたいなぁ」
「… 宿題する間、おとなしくできる?」
「うん」
「よし。帰って、ランドセル置いたら、アイス買って来てやる」
「私も行く!」
「そしたら買わない! おまえは留守番してろ!」
かえでが、怒って上ばき入れをぐいっとひっぱる。 僕も負けずにひっぱり返して、小さな妹の力が、強くなってることに気がついた。
次の日曜日。サッカーの試合でチームがボロ負けして、予定より早く終わったので、僕は、応援に来ていたかえでと、トボトボと家へ帰っていた。
「残念だったね、おにいちゃん」
「 …… 」
「ねぇ、ユニフォーム、やぶれてるよ」
「うるせーな」
「お母さんにおこられるよ」
泣き虫のかえでは、しゃくり上げながら、左手でしっかりと上ばき入れをつかんで、ゆっくりと、僕の後から歩いてくる。
小学校に入って、やれやれ、これでやっと妹の世話から解放される… と思っていたら、なんだかあっという間に、こいつは、幼稚園を卒業して、小学校にやってきた。
「おにいちゃん、今日は、サッカーに行くの?」
「行かない。帰って、宿題する」
「ねぇ、アイス買って!」
「だめ!」
大きな声で言うと、また、かえでの目がうるんできた。僕は、イライラしてきて、この上ばき入れを放り投げようか、と思うけれど、ため息をついて、しかたなく、帰りみちを急ぐ。
遠くで、のんびりと鳴き続ける鳥の声がする。
風があたたかくなって、下校の時は、汗が出るくらいだ。
「おにいちゃん、待ってー !」
後ろから、妹のかえでが走ってくる。
僕は、早く家に帰ってテレビを見たいから、無視しようかと思ったけど、お母さんから、
「ちゃんとかえでの面倒をみてあげてね」と、いつも言われてるので、しぶしぶ、立ち止まる。
かえでが、僕に追いつき、黄色い上ばき入れにしがみつく。
「何すんだよ」
僕が上ばき入れをふり回すと、それがかえでの頭にあたって、
「じゃあ、お手手つないでよー !」と、泣き出してしまう。
めんどくさい… と思いながら、僕は、
「そしたら、これにつかまれ」と、上ばき入れにかえでをつかまらせる。
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