地獄に咲く花~I'll love you forever~
例え、世界が限りなく終わりに近づいて。
目の前の全ての事象が存在意義を失いかけたとしても。
私はこの世界を愛し続けるでしょう。
だって
世界というものは、こんなにも美しいのですから。
――A.omega
※このスレッドは後編となっています。初めて御覧になる方は以下のリンクから前編、中編を読むことをお勧め致します。
前編
http://mikle.jp/thread/1159506/
中編
http://mikle.jp/thread/1242703/
キィ…ン!
振り払った。3本のワイヤーが行き場を無くしたように宙を舞う。ジュエルはその向こうのグロウの姿を垣間見た。
「流石ですね。」
ぽつりと感情のこもっていない声で彼が呟くと、ジュエルはぐっと眉根を寄せる。一体グロウが何故世界の破滅を望んだのか。その言葉の裏側にある本当の意味は何なのか。ジュエルには何も理解できなかった。
(どうして。)
シュルル…
ワイヤーがクロウに巻き戻される。それが完全に巻き戻る瞬間に、
バッ!!!
ジュエルは風を切って走り出した。剣を構えてグロウの間合いに一気に侵入し、
ブン!!
目にも止まらぬ速さで斬り込んだ。しかし同時にグロウが後ろに軽く跳び、空ぶる。そしてグロウは、更にそこから動いた。
タンッ
飛び退いて着地したところから、上に飛び上がったのだ。ジュエルの真上を通るように――
バシュッ!!
「!」
ジュエルがはっとして上を見たときには、グロウは宙でワイヤーを射出していた。左手から1本、頭頂部を目掛けて。
ザッ!
ジュエルはとっさに前にステップをきかせて避け、すぐに振り返る。ワイヤーはジュエルのいた空間を貫き、石畳を少し砕いて地面に突き刺さった。
そしてグロウはひらり、とこちらに背を向けて着地した。一見それが大きな隙のようにも見えたが――ジュエルがそこで足を踏み込むことはなかった。
何故なら、彼がこんなに分かりやすい隙を作るわけがないと分かっていたからだ。今まで彼と戦った日々が、そう告げていた。
次の瞬間、
それは予測通りに起こった。
シャッ!!
グロウは左から振り向きざまに左手のワイヤーを横凪に解き放った。地面にささったワイヤーも即座に自動式で巻き戻し、
バッ!
右手も放った。左手のワイヤーが5本それぞれ横方向に平行になっているのに対して、右は全て縦方向だった。互いに垂直に交差した10本のワイヤーが、1つの大きな面を形作り、ジュエルに向かっていく!
(――どうして、こうなってしまうんだ――)
ジュエルは奥歯を噛み締めながら、
ジャキッと剣を構えた。
正面から向かって編み目状のワイヤーを免れる術はない。ジュエルは一瞬かがむと地を蹴った。
タムッ!
宙でくるりと回る。その方向は変わったものであった。ジュエルは向かって右側の壁を目掛けて跳び、それから少し高めの位置に右手右足を触れた。だがその高さでは、まだワイヤーを完全に避けることが出来ない。
だから、
タン!!
そこから今度は壁を蹴り、ジュエルは更に高い中空に躍り出た。地上からここまで来るのには2秒もかけず。その下を10本のワイヤーが通り抜けて行った。
(ただ見てみたかっただけだった。)
チャキ!
ジュエルは剣を両手に持って、
大きく上に振りかぶった。
(絶望も争いも無い、
穏やかな世界を夢に見ていただけだったのに。)
グロウがはっとしてこちらをを見上げる。ジュエルの目は確かにその姿を捉えた。
(それなのに、
どうしてこうなってしまうんだ。)
「…ぁあああっ!!!」
そのまま急降下。張り上げた声は、まるで『理由』を問うているかのよう。あるいは、悲鳴と言ってもよかったのかもしれない。
「!」
グロウには、長距離で射出したワイヤーを戻している時間がなかった。
ザン!!!
ブワッ
ジュエルが渾身の力を込めて地へ剣を振り下ろすと、周りの空気が大きく波打つ。その瞬間、時が遅くなったような感覚に見まわれた。スローモーションの中、ジュエルは振り下ろした体勢のままゆっくりと顔を上げてグロウを見る。
グロウはとっさに1歩下がり、何とかまともに攻撃を受けるのは避けたようだった。
「――」
焦った様子は無く、能面のような無表情。だが、その左頬には傷がついていた。頬骨から顎まである、長い縦の傷だ。そこから溢れ出る血が、グロウの雪のように真っ白な肌をたちまち赤に染めていく。グロウは瞼の奥にある眼球を傷の方に向けた後、ジュエルを見た。
互いの静かな目がぴたりと合う。
それから何かが弾けたように、時はまた正常に動き始めた。
シュルルルッ
グロウが指先を少し動かすと再び、勢いよくワイヤーがグロウの手に戻っていった。そしてそこから流れるように。
ジャキィン!
両手に形成した。
鋭く尖ったワイヤーソードを。
シュッ!
5本のワイヤーが絡み合って出来た60cm程の細い円錐形。グロウは1歩踏み込み、片手のそれでジュエルの顔面をめがけて突く。
「!」
ジュエルは左に首を傾けるも、右の首筋をワイヤーソードが掠った。その刃のあまりの冷たさに、ひやりとする。グロウの攻撃には容赦は勿論、躊躇も一切感じられなかった。
何もしないでいれば一瞬も経たない内に命を奪われる。そう確信できる程に。
「…っ!!」
ブンッ
ジュエルはその避けたところから剣を振った。左下から右上へ、大きく袈裟に切り上げる!
ガッ!
だがその攻撃はもう1本のワイヤーソードによって捌かれた。なのでジュエルは少し下がってから、もう1度剣を振り上げた。
「はぁっ!!」
ガキィン!!
また金属同士が激しくぶつかり合う。グロウは、今度は両手のワイヤーソードをクロスさせて剣を防いでいた。そして、小競り合いになる。両者の力が武器に加えられ、ギチギチという音が鳴る。その中で、
「…何故こうなってしまうのか。」
ぽつりと呟いたのは、グロウだった。
「?」
「きっと貴方は、そうお思いなのでしょう。」
「でも、仕方がありません。貴方のしたことが全ての原因なんですから。そして自ら記憶を消して逃げ出した貴方には、僕に殺される理由すら分からない。」
「なら…もう1度、教えて欲しい。」
絞り出されたその一言で、グロウは相当冷え込んだ目をジュエルに向けた。
「リタが何を思って、その罪から逃がれようとしたのかは分からない。でも今の俺は…もう逃げたくない。向き合って、償いたいんだ。」
「…。」
「こんな戦い…もう嫌なんだ!!」
ジュエルはせき込む。剣が少し大きくギチリと鳴った。
「もう『絆』を失いたくない。例え、お前の今までが全て演技だったとしても。ずっと、心から俺を憎んでいたとしても。だから――」
「勝手な都合ですね。それこそ逃げでしょう。」
「…!」
「取り返しは、もうつかないのです。貴方に残されていることはただ1つのみ。僕に消されることだけです。」
――お知らせ――
こんばんは、ARISです。いつも本作品を読んで下さり有り難うございます。
更新のことなのですが、1月の大きなテストが迫っているので一時中断したいと思います。再開は来年の2/1となりますので、どうぞよろしくお願いします。<(_ _)>
最近はリアルの方で色んなことがあってのせいか、夜文章を書いている途中で眠気に負けてしまうことが多くなってきてしまいました…まともな文章が書けなくて中々困った状況です(;_;)更新ペースも落ちてしまって、読んで下さっている方に大変申し訳ないと思っています。
こんなことで本当に完結できるのかと自分でも疑問ですが、少しずつでも続けていこうと思っています。なので…どうかこれからも温かい目で見て下さると嬉しいです(_ _)
…再開したときには明るい時間帯に定期的に更新することも考えてみたいと思います(笑)
それでは、皆さんよい年をお過ごし下さいね(^-^)/今年も『地獄に咲く花』を支えて下さり、本当に有り難うございました。是非、来年でも宜しくお願いします✨
ARISでした。
ガッ…!!!
「ぅあっ!」
ジュエルはまるで体中に大きな重力が働いたかのような物凄い力で押され、弾き飛ばされた。抵抗する間もなく足元が宙に浮き、
ドザザッ!
「がっ!」
背中から石畳に叩きつけられ、体中に信じられないほど大きな痛みが走った。そのまま勢いで体が地面の後方へと引きずられ、呻きが漏れる。
「終わりです。」
グロウの冷え切った声が耳をついた。距離は離れたはずなのに、やけに大きく。するとジュエルは痛みで霞んでいた目を無理矢理見開いた。
そして瞳に映ったのは、丁度真上から伸びてくる黒い植物の蔓のようなものだった。その蔓は普通より何百、何千倍もの速度で成長する。数本束になった1本1本の茎が螺旋状に絡まりながら、伸びていく。
仰向けになった自分の胸へと。
ザッ!!!!
大量の血飛沫が狭い路地裏の壁に飛んだ。ジュエルは、もう悲鳴を上げはしなかった。ただ左手の剣を握りしめて、
その両足でぐっと立ち上がった。
ボタボタッ
重たそうな血の雫が何滴も地面に落ちる。――横一文字に刻まれた、ジュエルの背中から。
そう、ジュエルは反射的に左方向に転がるようにして蔓を避けたのだ。だが少し遅かった。蔓は胸を貫かなかったが、背中を深く抉り地面に突き刺さったのだった。
「…おぉ!!」
ジュエルは傷に構わず、剣を勢いよく振りかぶった。
ヴン!!!
それは空気を低く振動させると、
キィン…!!
斬った。地面に垂直に刺さっている蔓、もといワイヤーの束を切断した。
今まで弾くのがやっとだった。ましてや5本が束になっていたのに。そのワイヤーの断面は、今の一閃が相当気の入ったものであることを物語っていた。
ワイヤーは当然の事ながらグロウの手に繋がっている。見ればグロウは空中の随分高い位置にいた。地上から10m程だろうか。地面に刺さったワイヤーで支えられていたが、そのバランスがぐらりと崩れ、たちまち体勢を維持できなくなる。四肢が宙に遊び、頭から真っ逆さまに地面へと落ちていく――
刹那、ジュエルは跳んだ。
タッ!!
グロウへと真っ直ぐに向かって。互いに、かなりの速さで近づいていく。グロウは軽く舌打ちしながら切断されたワイヤーを巻き戻し、防御の体勢をとろうとした。しかしジュエルが懐へと飛び込んだのが先だった。ジュエルは、そのまま剣でグロウの腹を斬り上げ、致命傷を与えることは十分に可能だった。
だが、
「はあぁ!」
ドゴッ!!!
「…っぐ!」
そこで放ったのは、蹴りだった。体全体を大きく宙で捻り、右方向からグロウの脇腹を思い切り打ったのだ。それは宙返りを応用した形に近かったかもしれない。グロウの体は壁の下の方に向かって飛ばされた。
ドゴォッ!!
「っが!」
グロウは体を打ちつけた。それは重い一撃だったらしく、珍しく声を上げる。丁度、石畳と壁の境目だった。固い煉瓦で出来ている筈の壁は大きく割れ、破片がガラガラと周りに落ちる。
シュタッ
すぐ目の前に着地音がして。グロウがゆっくりと上目を使いながら首をあげると、そこには薄い影に染まったジュエルの姿があった。その手に握られている長い剣の先が、グロウの顔のすぐ近くに向けられていて。
「分かってますよね。」
「……。」
「この状態。貴方が全く優位になってないことくらい。」
ジュエルの背中から、黒ずんだ血がどろりと溢れ出る。あの蹴り技で先程出来たばかりの傷が更に深くなったらしく、地面には既に血だまりが出来上がっていた。
「立っているのがやっとでしょう。貴方にもう勝ち目はない。僕は次の一瞬に指1本動かすだけで、貴方を簡単に殺すことが出来るんですよ。」
「……それなら、それでもいい。」
グロウはその一言に、少しだけ眉を潜める。そしてジュエルはこうも言った。
「多分、信じたいだけだと思う。」
「?」
「どんなにその願いが叶わないと言われても。希望がないと言われても…信じたくなる。それだけのことだと、俺は思うんだ。」
「……。」
ちろ…ちろ…
グロウの瞳の中で
赤がくすぶった。
「さっきその剣を使わなかったのも。信じたいからですか?」
「ああ。」
「…それはそれは。」
グロウは失笑する。
「自分の仲間を殺した相手の何を信じるのやら。」
「別に、お前が殺したわけじゃない。」
「…は?」
何かとんでもない事を聞いた。とんでもなさすぎて理解が追いついていかない。そんな表情をグロウは浮かべた。それから、今にも笑いそうだった。頬がひくっと1回痙攣する。
「あのすみません。今何て言いました?」
だがジュエルは決してグロウを笑わせないつもりらしかった。真剣で、しかも切ない面もちで一言発した。
「もう理屈じゃ、ないんだ。」
「…はぁ?………。
ぷっ、
くくく、あはは、あっはははは!!
あっはっはっはっはっはっはっは!!!」
グロウはついに笑いだした。今度は本当に、冗談を思い切り素直に笑っているようだった。そこには全くと言っていいほど邪気が感じられない。
「くく…じゃあ何ですか?どんな悪事でも、直接やってないならジュエルは何でも許してくれるわけですか?ふふふっあっはっはっは!確かに理屈の欠片もないですね。あっはははは!…ちょっと…お腹が、痛いですって…あは、あはははは!!」
「きっと、こうなるはずじゃなかった。俺達は元々仲間だった。本当に、いい仲間だった。だけどある日、突然何かどうしようもない事が起こって。お前はこんな風になるまで変わらなければならなかった…。」
ぽろり、ぽろりと。まるで物語か何かを聞かせるように、ジュエルは言葉の断片を1つずつ静かに足元に零した。たとえそれが、すぐに笑い声にかき消されてしまっても。
「ははは、僕のさっきの説明は何だったんですか?」
ちろ、ちろ、
またグロウの瞳が赤く点滅した。よく見れば、それは段々と強くなっていっているようだった。
「お前が最初から裏切っていたとしても。それでも一緒に生きてきた。こんな何もかも終わっているような世界で、手を取り合って戦っていた。…なぁ、もう嘘でも何でもいいんだ。せめて――」
すると、涙がつぅとジュエルの頬に伝った。表情は動かない。動かすまいとしているようだった。その上を、押さえきれない感情だけが静かに零れ落ちる。
「信じさせてくれ…。」
そこで思い起こされるのはやはり、3人の日々。ロイを失った時とよく似ていた。それはこれから起こることの予兆なのかと、いう考えがジュエルの頭を埋め尽くそうとしていたが、ジュエルはそれにさえ抗い、もがいた。
「あの日々で、少しでも。一瞬でもお前が心から笑えていたって。昨日一瞬でも、お前が1人になるのが怖いと感じてたって。
信じさせてくれないか…
頼むよ。なぁ……」
ちろ、ちろ
ちろり。
「あはははは……はは……」
赤の点滅は見る見るうちに激しくなり。やがて、グロウの瞳は完全に赤く染まろうとしていた。
その時、
パシッ…
軽めの音が響いた。それは何かが皮膚に当たる音だ。その音を発したのは――グロウの手だった。
「…、」
グロウは壁に寄りかかったまま、右手を自分の顔面に押し当てていた。それを見たジュエルは少しだけ驚いたようで、言葉を失ってしまう。すると、しばらくの間が生まれた。
ぽちゃり。
灰色の空から落ちてきたある1滴が、たまたまその下にあった水溜まりに消える。どうやら再び、雨が降り出しそうだった。
ぽちゃ
「――随分と、笑いはしましたよ。」
ぽちゃり。
「何しろ、貴方達のお人好しぶりを毎日近くで見させて頂いたのですから。…今も。」
さっきの笑い声が嘘のように。グロウは右手で自分の目を覆ったまま、静かに呟いた。
「僕には理解できません。
どうしてそこまで言えるんですか。…憎いと思わないのですか?僕は貴方とって大切な仲間を消した。そして今、貴方達が持っていた希望を消そうとしている。長い戦いを終えて、安らいだ世界で生きるという希望を。それは憎いからです。貴方達あまりに勝手な人間が憎くて憎くて、仕方がないからです。」
「グロウ…」
「…どうしてですか。どうしてなんですか。どうして貴方達は……」
グロウは同じ問を繰り返す。
「お前にだってある。」
「何が…ですか。」
「お前にとって、守りたいものだ。」
「!」
グロウの息が一瞬止まる。そして指の隙間から目を見開くと、まるでそこに誰かの姿があったかのように一点を見つめる。瞳はもう、完全に赤く染まっていた。
「…あるんだろう。だって、さっきお前は言っていたじゃないか。」
「………」
「それと一緒なんだ。何があっても守りたい思っている。俺にとっては絆だった。俺達3人の、絆。それを守るためにはお前を信じるしかない。」
ジュエルは突きつけていた剣先を力無く下げる。そして喉の奥からまだ上ってくる激しい感情をぐっと飲み込んで、こう言った。
「グロウ。お前は同じなんだ。」
「――?――」
「お前が本当は何者なのか、俺には分からない。…もしかしたら人間じゃないのかもしれないとも思う。けど、確かに言える。お前は俺達人間と同じに、あるんだ。お前は今までずっとそれがないふりをしていたようだったがな。」
すると、
「……何の、事ですか……」
気付けばグロウの手はかたかたと小さく震えていた。瞳孔も大きく開いて、何だか酷く落ち着かない様子だった。
ジュエルは少しの間、何も言葉を発さなかった。言いたい事は分かっているのに、それを一言で表せる言葉は限りなく少なかったのだ。
「………願いが。」
サアアァ……
雨が降り出した。小さな小さな雨粒が、2人を静かに濡らす。
「他人の幸せを願う。
自分の幸せを願う。
全ての幸せを、願う『意志』が。」
その時、グロウが大きく息を呑んだ。
グロウの意識の中で、今見えている世界が激しい光に包まれる。そして、一瞬にして周りには何もなくなった。
あまりに突然のことに、グロウは放心した。真っ白な、無音の世界に投げ出されたのだ。だがそこで1つだけ、耳についたものがあった。
――それは、『意志』だからだ。――
誰かの声だった。ジュエルのものではない。聞こえるはずのない、どこか遠くから聞こえてくる優しい声。
――『意思』とはあらゆる生命の極限の本能なのだ。――
その声でやけに懐かしい気持ちになった。いつかどこかに置いてきてしまった自分にまた会えたような。
そんな気がして、グロウは目を細めた。
――それが何かお前には分かるか?いや。お前はもうそれを知っている。――
グロウはふと何かを悟ったように微笑むと、ただただ耳に入ってくる声に向かってこう話しかけた。
「僕は、……分からないよ。」
すると、答えは予想通りに返ってきた。
――心では、知っている筈。
それは……――
「………」
ジュエルはまた1つ涙をこぼして、静観する。グロウは両膝を自分の方に寄せて、縮こまっていた。頭を抱えていて、顔は下に向かって垂れる長い銀髪に隠れていて。それだけだった。そんな時間が止まったような沈黙はどれくらい続いたか分からなかったが。
やがて、
「…ふふ、認めたくないものですね。」
グロウはゆっくり、
ゆっくりと顔を上げた。
「今までの自分を、否定したくないのでしょうかね。」
そして互いに真っ直ぐ目が合うと、ジュエルは思わず目を丸くした。何故なら、グロウの頬が血だらけだったからだ。何かの傷が気付かないうちに出来ていたのかとも思ったが、そんな傷はどこにもついていない。グロウはそのまま困ったような笑顔で独り言を呟いた。
「参ったなぁ。参ったなぁ…青い鳥の童話じゃないんですから。こんな馬鹿げた話は勘弁してほしいものです。本当に…」
そう、それは血涙であった。先程顔を膝にすり付けたのか、べったりと頬全体が酷く汚れている。
「その血…」
「ジュエル、僕は昔から『それ』をずっと探していたんですよ。でも、その行為は無駄でしかなかった。そしてそれに気付くのも、どうやら遅すぎたようです。」
ジュエルは膝を折り、身を乗り出す。
「遅すぎるなんてあるもんか…まだやり直せる!生きている限り、何度だって!」
だが、グロウがその呼びかけに頷くことはない。代わりに彼は首を小さく横に振った。
「言ったでしょう。残念でしたねと。」
「っ!…どうして…!」
「もう取り返しがつかない所を、大きく踏み越えてしまいましたから。それに、戻りたくても戻れないんです。この先、僕の憎しみが消えることは永遠にないでしょう。
例え僕自身の憎しみが消え去ったとしても。『僕』がそれを許してくれないからです。」
「どういう事だ――」
ジュエルが眉を潜めた時だった。
……ピシッ……
どこからか乾いたものがひび割れたような音がした。それが皮切りだった。グロウが少し呻いてぐっと背中を丸めると、
ビリリリリリ!!!
「?!」
突然何かが激しく裂ける音がして、それと殆ど同時にブワッと強い風が下から押し上げるように巻き起こった。ジュエルは思わず両腕で顔をかばい、1歩後ずさる。
「くっ!……」
目を擦って、すぐに顔を上げた。するとそこには――
白が、あった。ジュエルの視界いっぱいに、壁一面に白が広がっていた。
「あっ…?!」
始めに1枚の白い羽が、目の前をふわりとよぎる。その後にいくつも同じものが、あちらこちらの宙から舞い落ちていく。ジュエルはその場に硬直した。
グロウは目に血涙を溜め――俯くと、頬につっと2筋溢れ出した。見ればその肌はみるみるうちに赤みを失い、完全に真っ白になっていくようだった。そして
背中から生えた大きな鳥の羽が、
ゆっくりと手を伸ばして天を掴もうとするかのように成長していく。
ジュエルははっと我に返ると、殆ど動かなくなったグロウの両肩をつかんだ。
「グロウ…グロウ?!」
返事がない。その瞬間、ジュエルは激しく戦慄に駆られたようだった。まるで心臓に電気が走ったように、鼓動が驚くほど速くなっていく――
「おい!グロウ!!」
しかし、ジュエルの耳に一言掠れた声が届いた。
「…もう、用済みのようです。」
「何を、言ってる…」
「…『僕』が…しびれを切らしたのでしょう。僕は…もう。」
「……お前が何を言ってるのか、俺には分からない!!全部!!!」
ガッ!
ジュエルは吠え、涙を流して怒る。肩を掴む手をぎゅっと強め、うなだれたままになっているグロウの体を自分の方に引き寄せた。
互いの顔が真正面、まさに目と鼻の先にあるというのに、グロウが俯いているせいで視線が合うことはない。ジュエルは何か、越えることのできない見えない壁を感じ、それが無性に悲しかった。涙は止まることを知らず、次から次へと目から零れてくる。
「ふざけるなよ……こんな訳の分からないまま。お前は俺だけ残していくつもりなのか?」
「…ジュエル…」
「ふざけるな…ふざけるな…っ!許さない、俺は…そんなの許さない!!」
「ジュエル。」
グロウはすっかり熱くなっているジュエルを制するように、掠れながらも落ち着いた声で名前を呼んだ。
「大丈夫、ですよ。」
「?」
「……ジュエル。実は、ずっと僕はただの人形だったんです。僕が消えても、本当の『僕』はこの現実世界にいます……消えません。だから、」
グロウはぎこちなく顔を上げると
「僕らはまた、会えます。」
血塗れの上で、いつもそうしていたようににこりと微笑んだ。
「お前…この上何を…」
「僕と『僕』は、同じですから。その時また…ゆっくりとお話ししましょう。それまで少しの間、」
その時。
ドンッ!
「?!」
グロウが、片手でジュエルを突き飛ばした。とても強い力で、向かいの壁へ。
ドッ!!
ジュエルが背中を打ちつけた、その一瞬に。
シャキッ
鋭い音が聞こえた。
「お別れです。…もう僕が存在することに、意味はありませんから。」
「…!」
ジュエルが思わず閉じていた目をかっと開くと、そこには異様な光景があった。
鋭い音の正体は、やはり金属だったようだ。グロウが左手に持っているのは、細長い剣だ。今、ジュエルの手に剣はない。突き飛ばされたときに落としてしまったらしい。その剣はグロウのすぐ傍らにあったのだ。彼はそれを逆手にとっていて、やがて右手も添える。
切っ先は真っ直ぐ、
自分の喉元に向いていた。
「―――」
「中々楽しかったと言えば、そうでしたかね。」
ジュエルの中で何かが凍りついた。それは心かもしれない、あるいは他のものなのかも分からないが、そのせいでジュエルの何もかもが動かなくなった。足も腕も、指先さえぴくりとも動かない。ただ景色が目に入ってくるだけで、
「…では、後程。」
何も――
しとしと、と雨が降っている。けれどやけに辺りが明るい。そこで空を見上げてみると、重たい色をした雲と雲の隙間から白い光がいくつか射していた。
放射状に伸びる光の一筋は今まで薄暗かった路地を嘘のように明るく照らし出している。周囲に沢山散らばっている鳥の羽と、2人向き合っている少年を。
1人は壁に寄りかかったように座っていて。もう1人は、立っていた。
立ち尽くしていたのは、勿論ジュエルの方だ。先程の事から彼の思考は止まったままである。もはや見えているものさえ分からなくなったのか――その眼球はまるでただの濁ったガラス玉のようだった。
石畳に落ちた1振りの剣も、じわじわと広がっていく血溜まりも、ゆっくりとうなだれていく大きな翼も。果たして本当に見えているのか、怪しい。
喉が大きく縦に裂けて真っ赤に染まったその姿も。力の抜けたその四肢も、眠りについて閉じたその瞼も。
しとしと
しとしと
ジュエルは知らず知らずのうちに空を見上げていた。雨の雫が顔面を打つが、そんなものは無いに等しい感触だったらしい。それからずっと、灰色の雲と白い光だけが目に入っていた。
しかし不意にそれらが黒く霞み、全てが遠ざかるような感覚をジュエルは味わった。
「………」
目は自然と重くなり、閉じる。
同時に大きく体が傾き――
…ドシャッ
小さく水しぶきをあげて、ジュエルはその場に横たわった。見れば大きく傷ついた背中からはまだ血が流れているようで、石畳をまた赤く汚した。
しとしと
しとしと
雨は降り続ける。何も変わること無く、何を知ることも無く。ただ2人の空間を優しく包み込むように。
しとしと
しとしと
―――
…ゴォーン…
…ゴォーン…
ある日、地平線に朝日が覗いた時の事。『国』から少し離れた場所にぽつりと建っている、無人時計塔の鐘の音が鳴っていた。ほぼ毎日鳴っているその音は微かだが、いつだって乾いた風に乗って『国』全体へ届く。上層部へ、スラムの大通りへ、裏路地の隅々へ。それは今日も変わっていないようだった。
――それを、聞いていた。
ここは古ぼけた教会の中。真っ白な朝日がいくつか並んだ窓から音も無く射し込んでいて、所々穴の開いた白いフローリングや薄汚れたパイプオルガンを柔らかく照らし出していた。そう、この教会は以前シスターのマリアにジルフィールを預けた所だ。
そこにジュエルの姿はあった。
横長のベンチが何列も並んでいる中、一番前の真ん中の方に座っていた。その姿は力無い。背もたれに身を完全に預けていて、両手の平は前の方に組んでいるものの、腕も足もだらりとしている。視線は何もない天井の方に向けられていて、鐘が鳴っている間はずっと同じ所から動かなかった。
そしてその脇にある壁に、1本の剣が立てかけられていた。赤い血が拭き取られているようだったが、まだ微かに残っている。
あの時――グロウの最期を見てから気を失った後のジュエルの記憶は曖昧だったが、何とかここまで来たことは覚えている。どうやら自然と、足がこの場所に向かったらしかった。
それから日が少し上り完全に辺りが明るくなっても、ジュエルが動く様子はなかった。彼はただ静寂に溶け込んでいるようだった。口は勿論開かないし、思考も何もない。まるで中身が空っぽの人形のように。度重なる死に直面し、もう動く気力も考える気力も、彼には残されてはいなかったのだ。
昨日の雨が無かったことになっているかのように、空はからりと晴れ渡っていた。砂の地面は渇ききり、照りつける日光がゆらゆらとした陽炎を生み出している。そんな中で『国』上層部を見張る兵士達は見ているだけでかなり辛そうだった。
何しろ全身に真っ黒な服やチョッキを纏い、頭をすっぽりと覆うヘルメットまでかぶっているのだから。しかも、近くある戦車等の重機が日光を周囲に反射するので余計に酷い。だから兵士の中には倒れるものも少なくなかった。
その時少しばたばたと周りの数人が動くだけ。あとの人間は兵器を整備しているか、遠くを見張っているだけで殆ど動いていない。
「おい。またあっちで1人倒れたらしいぜ…。」
その中の、巨大なミサイルの近くにいた兵士が隣の兵士ににうんざりしたように話しかける。すると、その兵士も同じ様な口振りで答えた。
「無理もないよなぁ。皆ある程度の熱に耐えられるよう遺伝子操作してもらったとは言え…今日は厳しすぎる。一体何度だって言うんだ?」
「予想で最高74度だとよ。俺達でもほぼ限界だろ…遺伝子操作しない奴らは部屋に引きこもりだ。全くいいご身分だよなぁ。俺たちがこんな無意味な見張りをしてるってのによ!」
「無意味ではないだろ。もう人造生物の大群がここに襲来する頃だって言われてるし…無意味だったら、誰がこんな仕事してるかよ…」
ヘルメットの下の汗を拭うことも出来ずに、2人は溜息をついた。
最初に話しかけた兵士は続けた。
「そもそもこれから人造生物の大群が来るって情報、あの餓鬼どもからだよな?…あぁ気に食わねぇ。何で俺らがあんな奴らの下で…」
「またいつもの愚痴パターンかよ…言ってるだろ。あいつらは俺らのかなう相手じゃないって。」
「そりゃもう分かってるんだがよ。俺はな、餓鬼の言うことに従うのが気に食わねえって言ってんだ。腕のいい殺し屋だろうが大統領のお守り役だろうが関係ねえ。」
「お前…本当に殺されても知らないぞ。」
「とにかく俺は嫌だ。皆も何だって少しは疑問に思わねえんだ…」
「大統領のお墨付きだからな。隊長も実力を認めているようだし。実際地下から検出されたっていう変な音波は、あの銀髪1人にしか分からなかったんだろ。」
そう言った兵士は、はたと気がついたように両手にもっていた銃器を下げた。
「…そういえば、」
「何だよ?」
「俺、昨日見たんだよ。その銀髪の奴が隊長と話してから、ゲートを抜けてふらーっとスラムに歩いていったの。」
「あ?スラムは危険区域だからゲートは開けないだろ?まさか…これも特権ってやつかよ。」
「さあな、でも珍しいだろ?KKにお目にかかれるなんて。しかもそれだけじゃないぜ。そのすぐ後、さらに別の仲間がスラムの方から歩いて来たんだ。」
「別の奴が、スラムから?」
「ああ。黒髪で白いパーカーの、双剣使ってたあいつだよ。ほら、ルノワールの時にさ。覚えてないか?」
「最初の方ちらっとは見たが、奴らとは別の区域の担当だったからな…良く覚えてねえよ。しかし、スラムの連中は全員集めて本部の地下に保護した筈じゃなかったのかよ?大統領のお使いにでも行ってたのか?」
「うーん…KKは裏の方でやってるからなあ。そこら辺の事実ははっきりしてないけど、俺は今朝知らされた『SALVER』の壊滅と関係があるんじゃないかと思ってるよ。」「奴らが全員始末したのか?おぉーそりゃ恐ろしいね。めでたく任務を終えて帰ってきたってわけか。」
「知らないけどな。で、そいつもゲートを通るなり隊長会ってと話して…その後、またスラムの方に戻っていったんだ。」
「始めに出て行った1人を追いかけていったんだろ?」
「うん、自然に考えたらそうなんだろうけど…でも、あいつら。聞いたところによるとまだ帰ってきてないみたいなんだよ。」
「帰ってきてない?」
「隊長はあれだけスラムには近付くなって俺達に念を押してただろ。ならきっとKKだって…2人目はともかく、1人目には言ってあったんじゃないかと思うんだ。」
「あぁ、スラムに用があるなら最悪日没までには帰ってこいってあれか?…言ってたな。しっかし誰があんな何もない所に用があるってんだか。」
「俺達の中にはスラム出身の奴だっているだろ。もう二度と自分の家に帰れないかもしれないとなりゃ、何もないとも限らないさ。」
「その割に結局誰1人としてスラムに行こうとしねえぜ。」
「…まあ。」
「俺には分かる。あそこにはよっぽどの用がある奴じゃねえ限り戻らねえよ。何しろ本当に何もねえんだ。今やどこの家も最低限の壁と屋根があるだけだからな。」
「分かるってお前…まさかスラムの出身なのか?」
「そうだが悪いか?」
「…え?!ぁ…いや…」
最初は冗談めいた口調だったのに、その短い即答に、兵士は動揺を隠し切れないようだった。余談だが、スラムは上層部に蓄えてある物質でしか生活出来なくなっていることで、上層部から少し差別されている傾向にあるのだ。それが彼にとって複雑だったのだろう、黙り込んでしまった。するともう一方も少し気まずくなったのか口を閉ざしてしまう。
じわじわと嫌な熱気が2人を包む中、やがてバタバタという足音がこちらに近づいてきた。2人ともそれに気付くと、一瞬でだるそうにしていた体勢を直してそちらに視線を向ける。見ればそれは複数の兵士だった。その中の1人が2人に歩み寄り、言った。
「隊長から新たな指令だ。」
そうして集められたのは10数名程の兵だった。彼らはその後人目のつかない場所でジェームズの前に集められ、前もってリーダー格の兵士から聞かされた指令内容を改めて聞かされる。
ジェームズが具体的な行動内容を細々と指示している間、兵士は皆背筋をピンと伸ばしたまま固まっていた。それに何か言われた時に返す言葉は「は」とか「了解」しかない。ほぼ全員、まるで単純な言葉を機械的に発する聞き分けのいい――あるいは出来の悪いヒト型ロボットのように見えるが。そのヘルメットの下では怪訝そうに眉間にしわを寄せているのが殆どで、先程の2人もそうだった。
「…頼んだぞ。」
10分程の説明がその一言で終わり、兵士達が揃って立派に敬礼した後。兵士達はすぐに出発の準備を始めた。各々装備を確認し合い、点呼、整列。
そして出発。門番が片手に持っているスイッチのタッチ1つで鉄柵のゲートを開けると、彼らはぞろぞろと2列になってその中を通っていった。勿論ゲートの先にあるのは――立ち入り禁止区域である、スラムだ。形だけの、寧ろ死んでいると言っても過小な表現の街並みが、遠くから彼らを待っているようだった。
ザッ
先頭のリーダー格が1歩踏み出すと、乾いた砂の音が鳴りその場に響いた
ゲートから真っ直ぐ北へ、道なりに進むようだった。その先は大通りへ続いている。広い1本道なので勿論迷うことはなくどんどん進んでいける筈なのだが、兵士達は辺りを警戒しつつ慎重に進んでいた。今人造生物に遭遇したら大掛かりな兵器には頼れない。自分たちの力のみで撃退しなくてはならないという緊張が、彼らを自然とそうさせているのだろう。
そして大通りに入ってくるとますますその緊張感は高まった。左右ははごちゃごちゃした建物やテントが沢山並んでいて非常に見通しが悪く、どこから何が出てきても可笑しくない。風が吹いてそこら辺のガラクタが倒れようものならその瞬間全員が一斉にそちらに銃を向ける、といった状況だった。
しかし何も起こることはなく、大分奥まで進んできたところで列が止まった。十字路のど真ん中だった。リーダー格がベルトに取り付けてあった薄型の小さな機械を外し、その画面をタッチしてみると、そこにパッと地図が表示される。どうやらそれは一種のナビゲーションシステムのようだった。緑色で表示された地図に現在地が小さな赤の点滅で示されている。
それを確認した後、彼は皆の方に振り向いてぼそりと呟いた
「これから街の内部を目指す。…はぐれるなよ。」
他の兵の反応を待たないまま、その兵士はナビゲーションに従い、十字路を右に行く。部下の兵士は少し途方に暮れたようにその場に立ち止まっていたが、やがて何人かと顔を見合わせると、最終的に仕方無さそうに全員それに続いた。
そうして兵士達が見つけたのは昨日ジュエルが入っていったのと同じ、街の裏通りに続く入口だった。高い壁に囲まれてるため日の光も満足に届いていない、酷く狭い路地を今度は1列になって入っていく。最後に入った1人が歩きながら密かに口を開いた。
「ったく、お前が仕事中にあんな話するからだぜ。まさか普段無能な俺らがこんな面倒な任務に駆り出されるたぁな。」
ひそひそとした声だったが、うんざりとした雰囲気を醸し出しているのは先程と全く同じだった。その前を行く兵士が小さく振り向いて横顔だけ見せた。
「流石に関係ないだろ…あの時の俺たちの話、誰かに聞かれてたとも思えないし。まあ単に暇そうな奴を集めただけかもな。ああ、無能なのも認めるさ。」
「無能にしても暇人にしても勝手に家出した餓鬼探しのために、部下を危険区域に平気で送り出すってのはどうなんだ。うちの隊長さんはよ。」
「仕方無いさ。きっと他にこの仕事に適してる奴がいないんだろ。…どうでもいい奴らが、さ。」
少しの皮肉を込めたつもりか、答えた兵士はヘルメットの下で微笑を浮かべた。
そして数分もしない内に、彼らは目的地に辿り着いた。即ち、あの3人の住処の前だ。しかし周りの兵士はやけに落ち着きがなく、小さくざわついていた。
「げほっ…んだよこれ…」
一番後ろの兵士が思わず悪態をつく。無理もなかった。辺りには酷く生臭い臭いが立ちこめていたのだから。
「この臭いはどこから?」
リーダー格の兵士は住処のテントを前に、ふいっと左の方を見る。すると、臭いのもとらしきものがすぐに目に入ってきた。
「?!」
他の裏路地と違って、比較的明るく開けた煉瓦の敷き詰められた道。その少し遠くの方に、大量の血に塗れた何かがあったのだ。ここからではまだ『それ』が人間なのか何なのか判別できない。彼はそれから少し絶句していたが――はっと我に返ると、右手を軽く振り上げた。
「…続け!」
バタバタバタ…!
リーダー格の合図で、皆足早にその現場へと向かうと『それ』はさらに鮮明に彼らの目に映った。床も壁もどす黒い血の海だ。周りのざわめきが一層強くなる。
やはり、とリーダー格は思った。血に塗れた何かなんて普通は人間の死体しか有り得ないだろう。この世界には他に生物などいないに等しいのだから。しかし先程遠目で見た時。彼は『それ』がはっきり人間の形だとは分からなかったのだ。
ヒトの形に近かったが、決してヒトではない。彼は『それ』が何なのか、良く知っていた。
真っ白な肌の色と長い手足。それに背中に大きな翼を持った――死骸。それが壁に寄りかかるように存在していたのだが、その姿はかなり無残なものだった。細い首の上にある頭は全て腐り果てていて原型を留めていないし、何より喉元から胸の下部にかけて肉が深く裂けて内部が露呈していたのが強烈だった。内臓らしきものも腐り始めていて、それらが臭いの元になっていたらしい。
「…人造生物が…」
そこらじゅうに散らばっている無数の白い羽を踏みしめながら、彼はぐっと唾を飲みこんだ。見れば背中の翼は両方とも根元からぽっきり折れているようで、石畳の血溜まりににべったりと面が接している。
だがその時、ふと彼は気付いた。
この人造生物は、普通とは少しばかり違うということに。
まず、死骸の状態についてだ。普通、人造生物はその生命を断たれるとすぐに砂になって消えていくという性質を持っている。しかし、この人造生物は肉が腐り落ちる程になってもこうしてしっかり残っているのだ。そしてもう1つ――
(これは……何だ?)
それは穴だった。人造生物の切り裂かれた胸の中心部に、ぽっかりと球型の穴が綺麗に空いていたのだ。その見えない球のサイズは大体ボーリングの球程だろうか。
見れば心臓や肺などの臓器らしきものはその空洞を避けたように存在していたかのようで、今はその部分から外にはみ出していたり千切れていたりしているようだった。
「まるで何かが抜き取られたように見えますね。」
すぐ近くにいた兵士が低い声で呟いた。リーダー格はそちらを全く見ない代わりに、人造生物の正面に跪くとそのよく出来た空洞を凝視する。そのまま静かに答えた。
「…確か人造生物は、胸部に核と呼ばれるものを持っていたんだったな?」
「ええ。最近分かった生態ですが、人造生物は核を使って分裂し、その個体を増やすのです。核は球体ですから恐らくそれが抜き取られた可能性が高いでしょうね。」
「だがこれはかなり大きいぞ。見てみろ、この臓器は完全に押しつぶされていた痕跡がある。最近出没した人造生物の記録を見ても、核は大きくても手に軽く掴める程度だった筈だ…新種か?」
「分かりません。しかしルノワールの記録を見ても、これ程の奴はいなかったようですね。」
そう言いながら、その兵士はベルトのポーチからタッチ式の機械を取り出して操作し始める。リーダー格はそれを横目に腰を上げた。
「しかし…これがKKの仕事か。恐ろしいものだ。」
「おい、そんなことよりその肝心の餓鬼共はどこなんだよ。」
後ろの方から半ばヤジを飛ばすような声がして皆そちらに振り向くと、例によって1番後ろの彼が人混みから外れ、銃器を片手にだらしなくぶら下げていた。あたりをゆっくりと見回している。そしてもう1人が、ひょっこりとテントからこちらに顔を出した。勿論、後ろから2番目の彼だ。
「今中も見ましたけど、もぬけの殻みたいです。」
「そこの2人。勝手な行動をするんじゃない。危険だぞ。」
「…ああこりゃすみませんね。」
リーダー格にいさめられると悪びれもせずテントから出て、片手で自分のヘルメットを2、3度軽く叩いた。
「ただまあ、さっさとやること済ませて帰りたいんですよね。俺ら。」
「おい、何だその口のききかたは。」
「いやいや、そう熱くならないで。少し考えても見て下さいよ。こんな危険区域でこんな無駄に油売ってる方がよっぽど危険だとは思いませんか?」
「人造生物の動向に関しての調査も任務の一環だ。隊長の命令を忘れたのか!」
「それはいいんですけどね、自分はもうちょっと命を大切にした方がいいと思うんです。…正直、自分は上の捨て駒ってことで人生終わりたくないんで。」
「何?」
最期の方がよく聞き取れなかったようだ。彼の言葉でリーダー格が眉を潜めた時。
彼だけが、見た。
こちら側を向いているリーダー格他、殆どの兵は気付いていない。彼らの真後ろに――何か大きな影が、立っていた。それは一瞬人間のように見えたのだが。
ファサ
比較的優しい翼のような音が、1つ。それが最後だった。
彼は失笑する。
「いわんこっちゃない。」
全員が気付くと場は騒然となり、罵声やらいくつかの銃声が響きわたったのだが――それから少しもしない内に路地は静かになった。何が起こったか分からなかった程に短い時間だった。辺りにはもう、そこに居た兵士達が各々体の随所から大量の血を噴き出ながら倒れていて、ぴくりとも動かないでいた。言葉を失った分、誰がどの兵士なのかは全く区別が付かない。もはやそれは、ただの死骸の山としか言えなくなっていた。
「うぐ…がはっ…!」
しかし、まだ生きている者が1人いた。血の海の中俯せになり、時折血を吐きながら喘いでいる。その苦痛に歪んだ目には、この惨事を起こした元凶がヘルメット越しに映っていた。
緩く開いていた大きな白い翼が折りたたまれ、背中に取り込まれて消えていく。それは死骸の山の中でぽつんと立っている、背の高い後ろ姿だった。姿としては本当に人間のようで、髪もあるしちゃんと服も着ているのが兵士にとって驚きだった。
「ぉ前は……だ、れだ…」
視界がぼやけてしまい細部はよく分からなかったようだが、彼は思わずそう言っていた。
そしてよく見れば、その人間のようなものの両手にはボーリングのような比較的大きな球体が抱えられている。球の周りは肉質が取り囲んでいたが、彼はその裂け目から、微かにエメラルドグリーンの光を見た気がした。とても鮮やかで、綺麗なエメラルドグリーン。
それが彼にとっての
最後の光であった。
―――
ギ…ィイイ
無音の部屋に突然響きわたったその音に、ジュエルは閉じていた目を開く。すると一瞬にして夕日の色に染まった室内が視界に映し出された。そして、その虚ろな眼球を少しだけ音のした方に動す。
どうやら音は、後ろにある入口の大扉が開いたものようだった。その後古い木の床をゆっくりと踏みしめる足音も耳に入った。続いて、
「?、…どなたかいらっしゃるのですか?」
比較的高めの声…女性だった。しかしジュエルは1日中座ったまま動いていないせいか、まるで体が椅子と同化しているような不思議な感覚に支配されていた。おかげでちっとも体が動かず、入ってきた者を確認することが出来なかった――まあ本人はあまり興味はないようだったが。
「あ…。」
女性が奥まで来たところで、ようやくジュエルと目が合った。彼女は少し驚いたように口元に軽く両手を当てる。当然の反応だった。そこにあったのが随分と久し振りな顔だったのだから。
「あなたは……ジュエル、さん?」
「…。」
「どうしてここに?この街は昨日から危険区域に指定されたのに――」
勿論ジュエルは横目でそれを見ているだけだったが、彼女の事は記憶に残っていた。20代程で背中まである栗色の髪と身にまとっている修道着。他でもない。ジルフィールを預かるよう頼んだ、マリアという女性を。
「あ…あの、…?」
ジュエルがいつまでたっても返事をしないのでマリアはおずおずと声をかけ直す。元々内気な性格で人と話すのが苦手な面もあったかもしれないが、何よりジュエルの抜け殻のような表情が目に付いた。とてつもなく、話しかけづらい。
「どうかなさったんですか?」
「…」
「あ…そういえば。以前私が預からせて貰っていた、ジルフィールさん。随分前に本部の方に保護してもらったんですよ。今はどうされてるのか、ご覧になりました?」
「、……。」
「貴方のお友達が『国』へ連れて行って下さったんですよ。でもその後は何の連絡もなくて。少し心配だったんですけど…。」
ジュエルは何も言わずにマリアから顔を背け、軽くうなだれた。
「ジュエルさん?大丈夫ですか?」
それからマリアは何度も呼びかけてみるが、ジュエルはこちらを見ようともしない。その内ただの独り相撲と化してきたところで、彼女は返事を貰うことを諦めた。
「どうして?」
どうしようもなくなり、マリアはジュエルのもとを1歩離れる。事情が分からなくて困ったように、ただただ辺りを見回すだけになってしまった。だが彼女はこれだけは直感的に分かった。ボロボロの服に、頭を垂れたその姿。恐らく、ジュエルは何かに絶望しているのだ――ということが。
その時、マリアの目に入ってきたものがあった。
それはちらちらと光を反射しながら舞う埃の中でひっそりと佇んでいる、天井まで届きそうな程大きなパイプオルガンだった。
「……。」
マリアは少し迷ったようにそこに立ち尽くしていたが、やがて思い立ったようにパイプオルガンの前へ向かい、その幅と同じ長さの椅子に腰掛けた。
木の椅子が軋む音が無くなると、しんとした沈黙が生まれる。その時マリアは天に向かって伸びているパイプを見上げていた。ふー…と息を吐いて、しばらくそのままなのかと思いきや、今度は目の前に並んでいる鍵盤へ視線を移した。
そして両手が鍵盤の上に添えられ。
――演奏が始まった。
重いような、けれど柔らかいパイプの音が空間一杯に響きわたった。始めは高音域の静かな出だしで、1音から5度の和音へ展開していくハーモニーが印象的だった。更にそこに、足で奏でられる低音がすっと入ってくる。優しい、賛美歌のようなメロディー。だけど荘厳な鎮魂歌のようでもあった。マリアは同じ節を畳みかけるように、輪唱させるかのように、メロディーを何重にも折り重ねていく。
それはジュエルの耳に届いていた。音という刺激は聴覚から脳へと伝わり、少しずつ意識を目覚めさせていく。ジュエルは重たそうに顔を上げて天井を見上げると、その瞼を閉じた。そして感じていた。今までにあったこと全ての記憶――出会いや戦いや死が、メロディーと共に心の中で交錯していくのを。
3分程経って、その曲は終わりを迎えるようだった。合唱をつけるのだったらAmenと歌い上げられるのだろう。長い短調の和音の後、そのまま第3音だけを半音上げた長調の和音が響き渡る。まさに聖女が神に捧げるに相応しい清らかな和音が、最後。
ふっ、と音が消える。
長い余韻が残った。
余韻が消えていくと共に、2人は曲が始まる前と同じ、何も音のない空間に戻されていく。ジュエルはうっすらと目を開いた。まるで夢から現実に引き戻されるような、言葉にしがたい感覚があった。
「よく、1人で弾いていたんです。この曲。」
マリアは背中を向けたまま、誰に見せるでもない静かな笑みを浮かべた。ジュエルはぼんやりとしながらも首にゆっくりと力を入れ、その背中を見つめた。
「私がこの教会に勤めることになった時、まだ神父様がこの世にいらっしゃった頃。神父様に始めに教わったパイプオルガンの曲なんです。題名や作者などは分からないのですが…この曲には、あらゆる魂を癒す力が込められているのだと聞きました。御葬式やミサで演奏することが殆どだったのですけど、その内自分でもこの曲が段々と好きになっていったんです。何だか――弾いてると、心が暖かくなるようで。」
「……。」
やはりジュエルが黙っていると、マリアは椅子を立った。ロングスカートに少し手間取りながらパイプオルガンから降りて。その後ジュエルに向き直ると、彼女は自信が無さそうな表情で軽くうつむいた。
「ごめんなさい。私、こんなことくらいしか出来なくて。でももし貴方がここにいたいのならどうぞ、いつでも休んで下さって構いませんから。まあ本当は危険区域指定でスラムからは立ち退かなければならないのですが…私も、ここに残ってますので。そういう意味では、私達共犯ですね。」
くすりと、ほんのちょっぴり悪戯っぽく笑った。けれど結局ジュエルの心が開くことは無かったという思いからか、多少の落胆の色も伺える。ジュエルを直視する事が出来ず、自分は一体何をやっているのだろうと憂鬱そうに思い返している風にも見えた。
「…あ、そうそう。もう夜になりそうですし何か召し上がりますか?前に貴方から頂いた缶詰の余りと少しの合成パンしかないのですけど。あと水も、昨日の雨水を濾過して浄水器にかけたものならありますよ。」
今持ってきますね、と付け加えてマリアは部屋の左奥の方にある扉へと向かった。どうやら食料庫等がその向こうにあるらしい。古い木の扉の前に立ち、錆び付いたノブに手をかけるのだが、
「どうして?」
後ろの方から低い掠れた声がして、マリアはぴたりと手の動きを止めた。
「――え?」
そして考えるより先に振り向く。景色の変わり映えはあまり無かったが、ジュエルが横目でこちらを見ていた。その口元が、小さく動く。
「どうして、お前はここに残ってるんだ?」
その時にはまさか声をかけられることは思っていなかったらしい。しかも、それがまるで地の底から這い上がってきたような酷く暗い声色だったものだからマリアは絶句するしかなかった。そのまま、互いにその空間に固められたように動かないで見つめ合う。
「……、私は…」
マリアが沈黙に耐えられなくなるのにさほど時間はかからなかった。
「…人造生物によって天に召された神父様の遺言で、どうしても守らなくてはならないものがあるんです――ここで。貴方こそ、どうして上層部に避難しないのですか?そっちの方が絶対安全ですよ?」
「……行ったところで、誰もいない。」
「は…はい?」
「意味が無い。どこに行っても、同じなんだ。何も変わらない。だから俺は俺の好きなようにしている。もう『国』の下にいる理由もなくなった。…それだけの事だ。」
「…、」
今にも消え入ってしまいそうな掠れ声にマリアは1つ1つ耳を傾けている内に、何となく悟った。誰もいない、という言葉が彼女の胸に残響しているようだった。
「貴方も、お1人になってしまわれたのですか?」
「さっきあんたが言っていた連中は、みんな死んだよ。」
「!…」
もう、ジュエルは感情を使い果たしたと言ってもいいのかもしれない。だからマリアが息を呑んだその言葉は、形だけあって、感情も抑揚も何もない。抜け殻のような、言葉だった。
「…お気の、毒に。」
痛い沈黙の中やっとマリアから絞り出された一言に答えず、ジュエルは自分の手元に視線を移す。その手には何も握られていず、ただ空っぽの手のひらが2つあるだけだった。
「何を守ってるんだ?」
「え?」
「自分の命を危険にさらしてまで、守るものがあるのか。」
ジュエルの静かな質問で、マリアは言葉に迷っているようだった。空気が重い。この問いに適当に答える事は許されない。気付けば、そんな張り詰めた空気が漂っていた。
「最後の、言葉だったんです。身よりのない私をここに住まわせて下さった。私にとって最愛の方でした。」
マリアは胸に両手を当てて目を閉じる。何か辛い事を思い出しているのだろうか。その手は微かに震えている。だが少しして、彼女は不意に顔を上げると、ある所へ真っ直ぐに目をやった。
「あれです。」
自然とジュエルもそれにつられて、見上げる。それはさっきから2人の視界に入っていた。ジュエルの目の前にある段差の上の祭壇。
その向こう側にある、高さ5mをゆうに超えているであろう大きな扉は。
「ジルフィールを連れて来た時から、ずっと気にはなっていた。…どこに、繋がってる?」
「私は聞かされていませんが、ただ必要になる時が来るまでは絶対に開かれてはならないと。そう、あの方は仰っていました。」
「この扉は開きません。どんな方法を使っても、開かないんです。開く方法を知っているのは、過去にこの扉を閉じた者だけですから。」
固く閉ざされているその扉は、この部屋の中でも一際重厚な作りだった。恐らく相当な大木を加工して出来ているのだろう、扉の両端にあるどっしりとした柱が一番に目に付く。取っ手らしきものは無く、分厚い面全体に彫り込まれている細かなレリーフがどことなく神聖な雰囲気を醸し出していた。
「誰が、何のために扉を閉じたのか。以前、調べようと思ったことがあって。その時神父様の遺した過去の日記を見ましたが、それについてはっきりとは書かれていませんでした。ただ気になったのは…よく分からない言葉が書いてあったんです。
私達は二度とオメガに触れてはならない、と。」
どくん。
ジュエルの肩がぴくりと動く。聞き慣れた単語。今まで嫌と言うほど自身の目で見てきた、その存在。もう止してくれ――そう哀願するかのように、ジュエルは両手をぎゅっと握り合わせた。
「そしてこうも書いてあったんです。『その時』が来るとしたら、それは人間が滅びゆく時だけだと。」
「……。」
「扉の先に何があるのか、私には見当もつきません。でも私は扉を守るものとして、最後までここに残ります。だって、もうすぐそこでしょう?
私達人間が、この世界から絶える日は――。」
やがて街を照らし出す真っ赤な夕日は、
音も無くゆっくりと沈んでいった。
あれから、ジュエルはまた口を閉ざしたままになってしまった。
オメガ
この存在に関わるだけで、次から次へと犠牲者が出る。そんなものなどもう見たくない、聞きたくもないという思いが出てくるのはあまりに自然なことなのかもしれない。もはやあの扉が目に入るのも抵抗が生じるようで、扉を見ないように完全にうなだれたままになってしまった。
更にジュエルを襲うのは『無気力』だ。何もかも、行動する意欲が湧いてこない。今まで彼にとって生きる意味はたった1つだった。即ち、仲間と共に戦って互いに生を分かち合う事だ。
その心の軸となるものが消失してしまったのだから。今や彼は何をしようとも、行動の意味が自身で理解出来ない。そもそも始めから意味はないと感じるに違いなかった。
マリアの手当ても出された食事すらも拒否して、そのまま2、3日座り込んだままだった。彼女の声を聞くことすら拒み、ジュエルはずっと無音の中にいた。時折鼓膜をつんざくような耳鳴り以外は――何も耳に入らなかったのだった。
そんな日々を過ごし始めて1週間程経った頃の、ある日。
いつもと変わらない、天気が良すぎる日の昼下がりの事だった。
相も変わらず大きな兵器がひしめいている上層部。毎日同じ風景で、兵士達の大半はいい加減見張りに飽いていた頃だった。しかし先日スラムの探索に駆り出された数人の兵士達が戻ってこないらしいという噂は既に彼らの間で蔓延していたので、やはり多生の緊張と不安は残されていたようだ。
じっとりとした嫌な静寂が、辺りを支配している。その中で1人、双眼鏡を片手に戦車の上で見張りをしている兵士がいた。
「ん?」
その時、彼は何かに気が付く。双眼鏡に映っていたものは砂漠の遙か向こう、東の上空に広がっていた。何だか良く分からない黒いもやに見える。かなり大きく広範囲に広がっているようで、彼は一旦双眼鏡を外してそれを肉眼で確認してみた。
「…雨雲、か?」
1人呟きながら、先週も雨があったのに珍しいこともあるものだなと彼は感じた。少しだけ眉をひそめながら、もう1度双眼鏡を覗いてみる。
そしてよく見てみると、雨雲は結構な速さで膨張していくようだった。この勢いでは、ここが覆われるのもすぐだと十分に予測できる。ああ、これは今日中に雨が降るに違いない、これで少しは気温が下がるかな――と軽く嬉しく思った、次の瞬間。
「うわああああぁ!」
…ドサッ!…
静寂を破いて響いた悲鳴。何事かと、声のした方に殆どの者が注目した。一体誰の声だったのか?降り注ぐ無数の視線の先には、
「ぁ?…え、」
戦車の上で無様にも尻餅をつき、その際に落としたのだろうか。先程まで覗いていた双眼鏡を傍らに放り出して呆然としている彼の姿があった。彼自身、どうしてあんな悲鳴を上げたのか分からなかった。ただ気がついたらこうなっていて、皆が怪訝そうにこちらを見ている。認識できるのはそこまでの筈だった。
それなのに、
「…!!…」
体の奥から、形のないひんやりとしたものがこみ上げてきて肩が震え始めていた。始めは小刻みだったが、やがてガタガタと全身が大きく震え出すのにさほど時間はかからなかった。再度気がつけば筋に力が入らなくなっていて、もう彼はその体勢を維持するのがやっとになっていた。
「おい、どうした!」
右の方から誰か――彼が声から推測するに、この区域を取り仕切る班長――が、こちらに駆け寄ってくる。だが、彼にそれを見る余裕は残されていなかった。
「ああ…ああぁあ…っ!」
自分が双眼鏡越しに何を見たのか。体の震えがじわじわと、おぞましい記憶を脳裏に目覚めさせていく。その途中。錯乱寸前の所で、先程の者が戦車を上り彼の元へと駆けつけた。
「おい、何をしているんだ!しっかりしろ!」
他と比べ、かなりがっしりとした体格の持ち主だ。彼の推測どおり、やはり班長のようだった。班長は彼の両肩を押さえて何とか彼を落ち着かせようとしているように見える。
「何か見えたのか?!」
「あ…ああぁ、」
すると、彼はゆっくりと班長の腕の下から左腕をあげる。その後震える5本の指をもつれさせながらも、何とか人差し指だけを突き出した。そのぶれる指がさすのは、向こう。
「あれ…。」
刹那、班長は落ちている双眼鏡を乱暴に取って彼が指さしている雨雲を覗いてみる。
「……まさか。」
思わず言葉を失っていた。しばらくの沈黙の後我に返ったのは、双眼鏡を外した時の事だった。その際、一言だけ発した。
「あれが全部?!」
そして。
「――き、きた……
来たああぁーーー!!」
まだ震えの止まらない彼の叫びで、
辺りは一気に騒然となったのだった。
ウウウウウゥゥゥゥーーー!!!
大音量の、かなりうるさい警報音が『国』中に響き渡る。もっとも、その音によって忙しく動き出したのは上層部の連中だけだったが。彼らは各々の配置につこうと、もしくは情報を伝達するために走り、入り乱れる。
「ジェームズ隊長。エリアAとCの配置は全て整ったようです。兵器の方角は7割西へ回転させました。」
「ああ。距離は、今どうなってる?」
「現在、人造生物の密集地帯は『国』中心部から50kmほど離れている模様。数は軽く見積もっても3万を超えるかと。」
「…くそ、何て大袈裟なんだ。ルノワールの時と比べるのも馬鹿げてる!こんなものにたった200程の兵器で対応しきれると思うか?!」
「我々は出来ることをするだけですよ、隊長。例え無理でも、我々にはこの道しか残されていない。」
「……っ」
「あるいは。もう決まっている事、なのかもしれませんね。」
喧騒のなか、彼は他人事のように呟いた。
その頃、教会は依然として様子は変わっていなかった。ただ外で鳴っているサイレンがけたたましいだけで、後は同じ。マリアはパイプオルガンの鍵盤に乗せていた両手を外した。
「…始まったみたいですね。」
そして、席を立つ。見れば、ジュエルは大分やつれているようだった。座った体勢は勿論のこと変わっていないが、バサバサになってしまった髪で完全に表情が見えない。ただ痩せた頬と顎が髪の隙間から僅かに覗いているだけだった。焼け焦げたパーカーの袖から出ている右腕も、元々ほっそりとしているのに、更に細くなっている。火傷の痕は以前より良くなっているようだったが、所々大きな赤黒い痕や傷になっているのがとても痛々しい。
そんな姿で、彼はぴくりとも動かない。それはもはや、一目見ただけでは生きているのか死んでいるのか判別がしずらい状態にも等しかった。だが、マリアは構わず話しかける。
「ここも、もう駄目かもしれません。ジュエルさんはこれからどうしますか?……と言っても、きっと答えて下さらないのですよね。」
マリアは1人で苦笑を浮かべた。
「私も、残ります。扉が開かれることはないかとは思いますが、やっぱり最後まで、ここにいたいですから。」
そう自己解決した後、小さく溜め息を零す。そして言葉は返ってこないと分かってはいても。やはり、聞かずにはいられなかったらしい。
「……あなたは、本当にこれでいいんですね?」
ここで死ぬことになっても――という言葉は呑み込んで、彼女は質問した。
マリアは待った。だがいくら待っても結果は変わらない――そんなことは十分に分かっている筈なのに。その後マリアは目を伏せ、諦めたような微笑みを浮かべた。
「…もう…何も出来ない、という事なのですね。」
何を対象にそう言ったのかは分からない。自分の事なのか、ジュエルの事なのか、あるいは両方なのか。ただその言葉の後に生まれた酷く虚しい間を、サイレンの音が淡々と埋めていくだけだった。マリアは両手を持ち上げて合わせ、小さく祈った。
「主よ、どうか我ら罪人に幸あらんことを。」
その祈りが一瞬にしてサイレンに掻き消されたことを確認すると、彼女はついにジュエルに背を向けて歩き出す。そして最後に右脇の小さなドアの前まで来たところで少し立ち止まって、そのまま一言だけ残した。
「また…会いましょう。」
キィ、
バタン。
そうして、ジュエルは残されたのだった。扉――それ以外は何もない、この聖堂に。
――度々、私は思っている。
『生命』という存在は、不思議だ。
一体どこから来たというのか、何もない時の流れから生まれて。その瞬間から『生きる』という力を得ていた。
初めはかなり小さいものから。地球という土塊の上であらゆる種が成長し、繁殖し、進化して、高度な知能を持った生物を生み出すまでに栄えてきた。…これだけで考えても、生きるという事がどれほど膨大なエネルギーを生み出すのかが分かる。何十億年という長い間、彼等はその力のみで存在を保ち、拡大していったというのだから。
生きる事は多分、彼等の本能なのだろう。そう感じ始めたのは、実は最近のことだ。何も彼等は全員が全員――寧ろ殆どが、自分らの種を繁栄させるという理由を持ち合わせて生きているわけではない。勿論繁栄は『生命』が存在する上で重要なことかもしれないが、彼等にとっては付加価値に過ぎないのかもしれないと私は思っている。
本能には理由なんてない。
生きてこそ、満たされる。
生きることに、自らの幸福を見つける。
生きていないと、そもそも『生命』ですらなくなってしまう。
きっと彼等はそういうものだったのだと。だから、彼等はどんなに辛い状況に追い込まれても生きようと足掻く。例え何もかも失おうと、死の間際であろうと。死を望んでさえ、根本は変わらない。
生きたい、その無意味な意志。
そこにに秘められた巨大な力は途切れることなく、これから先もずっと存在していくのか。もしかしたら私が消えて無くなっても続くのかもしれない。
まあ途切れる事になった所で、大体なにが起こるのか想像はつく。『生命』が辿り行く道は1本しかないのだから。
逞しいのか、愚かなのか。
やはり、『生命』というものは不思議でならないのだ。
――A.omega
雨雲が見つかってから、僅か3日。いよいよ、その実体がはっきりと肉眼で捉えられるようになってきた。群になって蠢く無数の翼の生えたヒト型の生き物が、今まさに『国』全体を取り囲もうとこちらに向かってきている。何もかも喰い尽くすために。
ドゴォン…!!
『国』に響いた1発の空砲、それは合図だ。いつでも戦いの火蓋を切り落とせる、という合図。国軍の隊長であるジェームズはずらりと天を向いて並んだ巨大なミサイルを背に真剣な面持ちで立っていた。今日で決着をつけるという決意を胸に抱いていただろうか。それとも、あまりに無謀な戦いを前に諦めてきっているだろうか。
いずれにせよ、これだけは分かっていた。直感と呼べるものだろうか。即ち、生きるも死ぬも今日を境に平穏の日々は完全に失われるのだと。
ジェームズは比較的すっと5km先の群の方に手を伸ばしたはいいものの、ぎゅっと口をつぐんでいた。これから自分の出す合図で、本当に始まってしまう。だから怖かった。
「――っ」
気付けば唇が震えている。だが後戻りなんて出来ない。もう自分達は突き進むしかない。
「…撃てえええぇぇ!!!」
迷いを振り切るように、
彼は腹の底から叫びを上げた。
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