[クローバー]キンモクセイ[クローバー]

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2015/07/23 03:12(更新日時)

あの時ああすれば…。もっと違った未来があったのか…。

後悔なんてしたくない…一度きりの人生だから。



はじめての携帯小説で未熟な文章ですが時間のある時に少しづつ更新したいと思います☺読んで頂ければ幸いです。


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No.1776650 (スレ作成日時)

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No.201

離れているこの距離が切ない。私はひろくんがやっぱり、好きだ。この気持ちは何にも代えがたい。


電話を切って、部屋に戻ってから考えた。

なんでこんなにギクシャクしちゃったんだろう…と。

私が先週末に帰らなかったから?萩原さんと会っていたから?

考えても、適当な答えは導きだせなかった。

ひろくんはどう考えているんだろう?
私の事、前ほど好きじゃない?怒っているの?


軽蔑!…軽蔑されているのかなぁ。そうだ!

パズルのピースをみつけた気分に近かった。

ひろくんは、きっと私に呆れているんだ。

国会試験を前に、実習期間中に、彼氏以外の男性と会って…。

真面目なひろくんは、そう考えているに違いない。


けれど、模擬試験だってとりあえずは合格点に達しているし、 ひろくんが考えているより私自身は、真面目にやっているのに。

きちんと、弁解をしたくなってきた。

謝るという気持ちではなく“弁解”だ。

明後日、会ったらちゃんと、話をしよう。

No.202

週末は私が実家に帰ると、夕方くらいからひろくんと会うことが多かった。

いつもの様にひろくんから連絡があった。

「いずみ、ごめん。今日、バイト先の飲み会が入って、どうしても断れなかったんだ。」

「あっ、そうなの…。」

「悪い。明日は送って行くよ」

「ひろくん、無理しなくていいよ。私、一人で電車で帰れるから」

「いや、いいよ。明日、また連絡するから」

ひろくんは、申し訳なさそうな口調だったが、私の考えすぎか、それとも引け目があるのか、“先週末の事と今日の事でおあいこだろう”と言われている様に感じた。

そういえば、母の誕生日が近い事を思い出した。

たまには、母とお茶でもするか…。

1階に降りると母が新聞と広告チラシに目をやっていた。

「お母さん、お茶飲みに行かない?」と誘うと、「あら、どうしたの?今日は武ちゃんと、会わないの?」と言われた。

「うん。急に用事ができたんだってさ。」

「あら、他に気になる子でもいるんじゃないの?」母は遠慮なくズケズケと言う。

「そういうんじゃないの。バイト先の飲み会だってさ。」

「ふ~ん。武ちゃんはモテそうだものね。アンタだって最近は、自分で思うよりも、美人になってきたわよ」

母は年甲斐もなく、人の恋愛話に口を突っ込んでくる。基本的には、嫌なのだが、ちょっと嬉しい気もした。

No.203

母と二人で駅まえまで、ぶらぶら歩きパンケーキの美味しい珈琲屋さんに入った。

「アンタ、卒業しても暫くは、あっちにいるんでしょ。」

「うん。奨学金もらっているし、仕方がないよね。」

「それよりまずは、国家試験の勉強は大丈夫なの」

「うん。模擬試験、四回終えたんだけど、クラスの40人中、7~8位ってところかな~。合格点にも十分達しているけど、気を抜かないで頑張るつもり」

「あら、アンタにしちゃ珍しい。まぁ、ヤるときはやる子だから。母さん、放っておいてるのよ。」

「ありがとう。お母さんが、誉めるの珍しいね」

久しぶりに母と長い会話をした。珈琲もパンケーキも、いつもよりも、ちょっとだけ美味しい気がした。


「武ちゃんと、何かあったの?」

珈琲をすすりながら母が聞いてきた。

「なにかあったっていうか、ないっていうか…。一種の気持ちのすれ違いかな」

私は母に聞かれて、今のひろくんとの状況をはじめて整理してみた。

「あらそうなの、まぁ若いウチはいろんな経験をしなさい」

母は相談に載ってくれるのかとおもいきや、まるで他人事だった。
それでも、なんだか、不思議な事に気持ちが少し晴れた気がした。
「お母さん、ありがとうね。誕生日には秋物のカーディガンプレゼントするね」

「何よ急に、変な子ね」母も嬉しそうだった。

No.204

それから、私はひろくんとの事はあまり考えないようにした。

目の前の看護実習と平行して進めている卒業論文、4ヶ月先の2月の国家試験。

その事を中心に生活するように心に決めた。

始めは無理をしているようだったが、すぐにその方が楽に思えてきた。


ある日の循環器病棟の実習で、狭心症の患者さんのリハビリに付き合う事になった。

「発作の時には、ニトロ錠を持たせてあるから、内服したか、出来ない時には介助するように」とナースステーションで説明された。

「私が、飲んだか確認するんですか?」

「もちろんすぐに、ナースコールかドクターコールよ。でも誰か来るまで貴方が薬を飲んだか確認して、傍についていないと。」と言われた。

三年生になるとある程度理論的な考えが求められる。病態を整理して、何が患者さんに起きているのか考えて、対応する力も必要だ。

もちろん、所詮、学生だから自分一人では対応できない。いかにスタッフに伝えるかが大切だ。

私はとても緊張しながらその男性患者さんに付き添った。

おそらく私の不安が、その方に伝わったのだろう。

「人はいつかは死ぬんですよ。でも私は発作を起こしても幸いこうやって生きている。神様から二度もらった命です。貴方も失敗する事を恐れずに、出来る事をやればいい。誰も貴方を責める権利はないんですよ」そう言って私を、なぐさめてくれた。

No.205

私は、その患者さんと一緒に階段を歩きながら、涙がこぼれそうになった。

支えてあげなければいけない立場の私が、こうやって逆に支えられている。失格だ。

いや、“人を助けよう”とか“誰かを救おう”と言う考え自体おこがましい事なのかもしれない。

ナースだってドクターだって、同じ人間だ。

しかもこの患者さんの方が、21歳の未熟な私なんかより、人生経験がずっと豊富で、生きるとは何たるかを知っている。

自分に今、やれる事をやる…。

「胸、苦しくないですか?本当にありがとうございます、いいアドバイスを頂いて。なんだか私が、いろいろと教えてもらいました。」

「私は会社で新人の教育をしているんだよ。私も、若い子達に教えられる事が沢山ある。人と人ってそれでいいんじゃないかな…小久保さんならいい看護師さんになれるよ」

働き盛りのその患者さんは、教職者の様なきっちりとした口調で言い切った。

改めて私は、ますます勉強をして、少しでも頼りになるナースになりたいと思った。

それは自分の知識ではなく、少しでも患者さんに還元できるようにだ。

怒られたって、怒鳴られたって構わない。一つ一つ、私らしくやっていこう。

まずは国家試験に受かりナースとしてのスタートラインに立とう。強くそう思った。

No.206

すっかり秋も深まり、実習も終わりに近づいていた。

卒業論文は何度も推敲を重ねながらそれなりのものが仕上がってきて、来週には発表だった。

ひろくんは、私を気遣ってくれているのか、私にもう想いはないのか、どちらともとれぬ態度だった。

私自身、勉学に勤しむ事で気持ちのやり場をごまかしていた。

怖かったのだ、ひろくんに今の気持ちを聞くのが…。

毎年二人でスキー場で迎えたクリスマスが今年もやってくる。

いや、今年は…。

三年間全ての実習が終わるという週末に、ひろくんが、「お疲れ様会をやろう」と言ってくれた。

そこで、ひろくんにもサヨナラを言われる気がしてならなかった。

メソメソした女は魅力がない。しんみりしていては駄目だ。

自分に渇をいれて週末を迎えた。

何があろうと国家試験までは気持ちを切らさずに行こう。私はいつだって前向きなんだから。

実習が終わった次の日の土曜日の午前中に、何名かの生徒が職員室へ一人づつ呼ばれた。

国家試験を落ちた時の保険として、都道府県試験で准看護師の資格をとっておきなさい、と言うものだった。

私は4月の成績からみれば危ない感じだったが、教員から声はかからなかった。


No.207

まずは合格ラインと判断されたのだ。

授業が終わるとすぐに荷物を持ち学校を出て、駅から電車に乗った。

ひろくんとの、お疲れ様会。 覚悟は出来ていた。

実家で一息つき、待ち合わせ場所に向かう。

花束を持ってひろくんは、立っていた。

ひろくん、カッコイイ…。長身でモデル体型のひろくんは、やっぱりこういうのが似合う。

私は自分宛の花束だと思うと、なんだか急に恥ずかしくなってしまうと同時に涙が目に溜まってきてしまった。

嬉しい気持ちと、これでサヨナラかもしれないと言う気持ちと、何とも説明のつかない涙だった。

私はわざと笑顔をつくった。

「いずれ、実習、お疲れ様な。腹減ってるか?」

「ありがとう。お花、用意してくれたんだ。」

「飯食いにいくのに、邪魔くさいかな?」

「うんん、そんな事ない凄く嬉しい。」

「じゃあ、少し早いけど飯食いにいくか」

二人でぶらぶら歩いてお店に寄った。

ひろくんも、機嫌が良く、とても別れ話を切り出すような感じには思えないが…。

「いずれ、クリスマスの話だけど」

「あぁ…。」

ほら、きた。今年は無理って言われるの…?

自分自身の身体がキュっと固くなるのが分かった。

No.208

「クリスマス、今年は一泊2日だけな。それでもいいか?」

「えっ?」

「だめか?」ひろくんは、白馬の洒落たホテルのパンフレットと借り予約表をみせてくれた。

「ひろくん、予約してくれたの?」

「あぁ。俺もゼミや就職活動のプレがはじまり忙しかっただろう。いずれともすれ違いばかりで、あんまり話せなかったから…。旅行代は、いずれバイトしていないけど1万円出してもらえるか?」

「えっ?だってひろくん負担じゃない?」

「いや、全部俺が出すつもりでいたけど、そうしたら、いずれは気を使うだろう?」

「ありがとう。ひろくん。連れて行ってください。」

「お互いに忙しいけど、離れていても、お互いにちゃんと成長出来ているよな」

「うん。」

ひろくんは、いつも期待に反した嬉しい事を考えてくれる。

二人でご飯を食べた。お酒も飲んだ。でも、お泊まりはしなかった。

身体の関係が嫌なのか、崇高なものをひろくんは時々求める。

そんな時に、ひろくんに抱かれたい…と思う自分がなんだか邪道な生き物の様に感じる事があった。

そして、ひろくんが遠い世界の人の様に思えて、一人ポツンと残された気持ちになるのだった。

その晩はウチのそばで軽いキスをして別れた。


No.209

翌日はいつものように車でひろくんが横須賀まで送ってくれた。

FM横浜を聞きながら、一時間半のドライブを何回繰り返しただろう。

道が混んでいると二時間以上かかるのに、早めに出たために、早く着いてしまった。

ひろくんが「いいよな」と言ってラブホテルに車を入れた。

昨日は、お泊まりしなかったのに…。

求められて嬉しいのだが、何故かひろくんが無理しているような気がしてならなかった。

思い切って聞いてみた「気になる子とかいるの?」

ちょこっとの間があってから「…わからない」と返事が返ってきた。

思いもよらない答えだった。『あぁ』と言われた方が納得が出来たかもしれない。

「分からないってどういう事?」

「自分でも良く分からないんだ。いずみを好きって聞かれたら『好きだ』って言える。でも他にもいるのかって言われたら…。」

「その子の事が気になるの?」

「一人じゃないんだ。多分、俺はお前が初めての女だろう?だから、その…。あ~何が言いたいのか分からなくなってきた…。」

私はバスロープをかけて、背中からギュッとひろくんを抱きしめて「もういいから。」と言った。

ひろくんは、私の事を押し倒して少し乱暴にセックスをした。

それは、ダダっこがお母さんに甘えているような愛情表現だった。

No.210

クリスマス、二人は白馬のスキー場にいた。

お互いの親も旅行をしている事を知っていた。

スキーを楽しんだあと、オセロをした。

ひろくんは、「なぁ、いずみ。今晩はHはなしな。たまには、そういう旅行もいいだろう。」

「なぁに、何かの影響?それとも…。」

ひろくんからは、一種の“賭け”のようなオーラを感じた。

私と、Hをしないで済むか賭けているのだわ。

正直言って、アホらしかった。

ひろくんの性格はとっくに知っている。

私の中でピュアな気持ちよりも挑戦的で挑発的な思いがまさった。

「分かった。お休みなさい」

「あぁ…。お休み」

それぞれのベッドでフトンを被った。

ひろくんが、言い終えて暫くすると私はひろくんのベッドへ潜りこんだ。

「ねぇ、ひろくん。Hしなくっていいから、隣に寝させて。一人だと寒くて…。」

ひろくんの腕に、ぎゅと抱きついた。それから足をからめた。

私の、太ももに硬くなったひろくんのモノが当たっていた。

ひろくんも、我慢出来なかったようだ。

最後は理性より欲望に負けたのだ。


私はもういい…と思った。ひろくんを、楽にしてあげよう。

きっとひろくんは優しいから、悩んでいるのだ。

私を、振る事が出来ないでいる…。

旅行から帰ったら、私からきりだそう…。

スキー2日目の出来事はほとんど覚えていない。

No.211

話のタイミングは難しかった。

まだまだ上手くいっている気がしたからだ。

こういう時期もあるのかもしれない。

お正月、武田家に五目寿司をもってお邪魔した。今年で三回目だ。

お喋りな妹の香織ちゃんがやって来て、「いずみさんって国家試験に合格したらナースとして働くんですよねぇ。何科に就職するんですか?お兄ちゃんは、ハガキ書きまくっているけど、『あそこは俺には向かない』とか偉そうに行ってるから、就職浪人ですよ、きっと」などなど話してくれた。

「香織ちゃん、明後日、一緒に映画に行こうか?お兄ちゃん抜きで」

私が、そういうと「いいんですか~」ととても喜んでいた。

お母さん達も「スミマセン、この子までお世話になっちゃって」と嬉しそうにしていた。

私は別れ話は棚上げにしていたが、回避出来ているとは思っていなかったので、家族と仲良くする事は内心複雑な思いでいた。


ひろくんをチラッとみたが、困った様子には見えなかった。

ただ、お互いにだけ分かる信号のようなものがあって、ずっとそれは黄色のままだった。

No.212

映画を見る約束の当日は良く晴れた日だった。冬の晴天はぐっと冷え込む。

香織ちゃんは待ち合わせ場所からずっとウキウキ、話っぱなしだった。

「いずみさん、お兄ちゃんのどこがいいんですかぁ~?」

「うん、優しいところかなぁ…。」

「え~、ひろちゃんより、まさ兄の方が優しいけど」

ひろくんを香織ちゃんは“ひろちゃん”と呼んでいた。まさ兄とはひろくんの一つ上のお兄ちゃんの事だ。

まさるさんとは、挨拶くらいしかした事がなかった。

ひろくんは、一学年違いの兄の事は少しめんどくさいと思っていた様にいつも感じていた。そういう年頃なんだろう…。

一瞬、ひろくんとの状況を香織ちゃんに言うべきか迷ったが、すぐに6歳も下の娘に相談しても…と我に返りニコニコと対応した。


映画“クールランニング”は痛快だった。

雪の降らないアフリカでボブスレーでオリンピック出場を目指す話だった。

🎵 I'can see clearly now the rain is gone …。🎵

(雨が上がって、今なら全てがはっきり見える)

ジミークリフが歌う主題歌がとても良かった。

香織ちゃんとはその後、お昼を食べてショッピングをした。

No.213

結局、ひろくんとの事は話せずに、武田家にお土産まで買ってしまい、自分が少しだけ辛くなってしまった。

「また、誘ってくださいね」香織ちゃんの屈託のない笑顔はとても素敵だった。


翌日、ひろくんと会った。「昨日、は香織、映画楽しかったって喜んでいたぞ。ありがとうな」

私は構えずに何の気ナシに言ってしまった。「なんか悪い事しちゃった…。もうすぐひろくんと別れるのに…。」

言ってから、しまった!とも、よく言えた!とも思わなかった。

普通の会話の流れだった。

ひろくんは一瞬、私の顔を見て、「何言ってるんだよ、いよいよ、来月、国家試験だろ。いずみ、勉強しすぎて頭がおかしくなったか?」

ひろくんのはぐらかすような言葉に「ひろくんもそう思っているでしょう?」と少しだけ声のトーンが強くなってしまった。

「いずみはそういう心配するなよ、何訳の分からない事を言い出すんだ?」ひろくんはきっぱり言った。

私は不思議な事に泣き出したい感情も、それ以上聞く気持ちも湧いて来なかった。

ひろくんに肩をポンと叩かれ、おでこにキスをされると、まるで小さな子供が、母親にしかられた後に許してもらえた様な気持ちになって安堵感に包まれた。


No.214

今の私には、この安堵感すら、一時しのぎでしかなかった。

ひろくんが好きだ。その気持ちは変わらない。

だから、怖いのだ、失う事が怖い。優しくされればされる程、不安になる。

果たしてそんな小説のような、ドラマの台詞のような感情が本当にあるのだろうか?

国家試験の前だからナーバスになっているのか…、爪を噛みながら考えていた。

考えれば、考えるほど、私がしてきた数々のわがままを許してくれた感謝の気持ちと、自分がひろくんにふさわしくない女性だ…という答えにしか辿りつかなかった。

また爪をかんだ。昔はこんな癖なかったのに…。

新年の華やかな空気よりも、真冬の鉛色の空の方が今の自分の胸の内にぴったりだった。

なんで、こんな気持ちになってしまったのだろう…。

私は以前に『他に好きな子いるの?』と聞いて『分からない…。』と答えたひろくんが、素直で可愛く思えた。

本音なのだ。彼は本心でそう言っている。

ひろくんも私との関係は以前と違うと感じているハズ…。自分の時間、世界が欲しいのだ。私は、そこにおそらくは必要ない…。

私を嫌いになった訳ではない事も分かっていた。自惚れではなく。

No.215

年が明けるとホントに受験生なのだという自覚に目覚め、がむしゃらに、過去問題と答えを頭の中に詰め込んだ。

“くも膜下出血を起こした患者の急性期の看護で正しいのは次のうちどれか、二つ選べ”

私は、実習で担当した患者さんを思い出しながら問題を解いていた。

おそらく、他の看護学生もみんなそうだ。とはいえ、試験に出てくる症例をすべて担当したハズもなく、友達の担当の患者を思い出したり架空の患者をイメージしながら問題に取り組んだ。

学校はほとんどフリーで、授業はなかった。みんな朝から問題集や自己でまとめた受験用ノートを開いたりしていた。


ひろくんは、なんとなく私に気を使いつつも、距離感を保ったまま付き合いは続いていた。

正直、恋だ愛だ言っている暇はなかった。

試験に落ちたらナースではないのだ。無資格で働いて来年の受験までまたなければいけない。

私の通う看護学校は優秀で過去数十年、不合格者はたった一名だけだったそうだ。

大丈夫。大丈夫。模擬試験も十分にこなしたし…。




あっという間に2月に入った。試験当日は小雪がチラついていた。

ひろくんがくれた御守りをポケットに入れて私は、試験に臨んだ。

No.216

都内の某有名私立が試験会場だった。

他の寮生達と一緒に早朝の電車に乗り、会場までやってきた。

学校でまとめて受験申し込みをしたので、周りの席は同級生ばかりで緊張はしなかった。


試験後にクラスメイト達と、問題集や参考書で答え合わせをしてみた。

8割以上の割合でほぼ正答出来ていた。


やっと終わった。まずは一段落だ。

どっと疲れが出た。
非常に眠い。仲良しの数名でお茶を飲んで雑談し、帰った。帰りの電車でうとうとと寝てしまった。

寮に戻ると、ひろくんに電話をかけた。

「ひろくん、私。…うん、終わった。ありがとう、手応えあったから大丈夫だと思うけど…。ひろくんのくれた御守りが効いたんだと思う。」

「良かったな。俺もバイト中、ずっと気になっていたんだ。」

「ひろくん来週は、バイト?」

「あぁ、悪い。夜は、少しなら会えるよ」

来週はバレンタインだった。バイトなんだ…。

「うん。また、連絡するね、疲れたから今日は早めに寝るね。お休みなさい」

「うん。お休み」

バレンタインデーなのに、バイトなんだ…。ぜんぜん気にしてくれてないのかなぁ。

私は、ベッドに入ると、その先を考えて悩む間もないほど早く、疲労感と共に深い眠りに落ちて行った。

No.217

ピンクや赤のハートのバルーンやSt.Valentineの看板が恋する女の子達をウキウキした気分にさせていた。

私は、中学生の頃の懐かしいバレンタインの想い出を思い出していた。

一つ年上の他の中学校の先輩のウチまで、自転車でチョコレートを届けに行ったっけ。

日差しが強くて暖かい日で手作りのトリュフチョコレートが溶けちゃったんだよね。

箱詰めした時には、上手くできたのに。

あの先輩は、引越して兵庫県の高校に通うことになってしまい、2、3度手紙のやりとりをしたけれどそれっきりだったなぁ。

急に妙子の声が聞きたくなった。寮から妙子の家に電話をかけた。

「いずみ~、そっかぁ、国家試験終わったのね。お疲れ様。」

妙子もサークルでスキーに行ったり、歯科の受け付けのバイトをやったりと忙しいみたいだった。

ひろくんがバレンタインもバイトなの…と愚痴を言うと「普段、大事にしてもらっているんでしょ~、他のカップルとおんなじじゃなくてもいいんじゃないの?」と妙子らしく返答をしてくれた。

私は、気を取り直した。けれど、試験が終わったら別れようと考えている事は妙子にも言えなかった。

何故だろうか…。


No.218

私は、試している…。そうだ、こんな卑怯なやり方でひろくんの気持ちを試そうとしているのだ。

バレンタインの前日、萩原さんから連絡があった。

「いずみちゃん、国家試験、先週だったんだよね。お疲れ様、どうだった?」

「ありがとうございます。何とか手応えがあったから、大丈夫だと思うけど、合格発表までは分からないですよね。」

「お疲れ様会やりたいね。明日はどう?あっ、急かな?…そうだバレンタインだから、彼氏と約束か。俺も、バカだな」

萩原さんは、いつもタイムリーに連絡をくれるのだ。こんないじらしい事をいいながら私の心の隙間に暖かい風を吹きこんでくれる。

この週末、萩原さんと約束したら…?と心の中の悪魔が囁いた。

私の気持ちはぐらぐらだ。私は、萩原さんに何もしてあげられない。きっとひろくんにもだ。

「……。ごめんなさい。」

「なにぃ?いつものいずみちゃんらしくないよ。俺、困らせちゃったかな…ゴメンごめん。」

「違うんです。私…。」

自分でもを言いたいのかわからなかった。

寮の電話で泣きじゃくる何てイヤだ。

萩原さんの優しさが、辛い。いえ、優しさに思いっきり甘えられたら楽になれるのか…。

明日は、会えない事とお礼だけ伝えて受話器を置いた。

No.219

その週末はゆっくりと15時すぎの電車で帰った。

ひろくんと約束がある土曜日は、荷物を持ったら小走りで駅まで行き、12時台の電車に飛び乗って帰るのに。

最近はひろくんからは、手紙も電話も少なくなっていた。

手作りのチョコレートを送りたかったがなんとなくやめた。

恋は好きな気持ちが強い方が負けなのか?

負け?そもそも勝ちとか負けなんて恋愛にあるのだろうか?

「愛は勝つ」というタイトルが嫌いだった。何に勝つのか?勝ちや負けなんてあるのか…。

相手に惜しみなく与える事が人を愛する事…。私は、それがひろくんに対して出来ているのか…。

電車の窓から流れる景色を見ながらぼんやり考えていた。

横浜駅で乗り換える時にチョコレートを買った。「いつもありがとう!大好きです。」カードをつけた。いい言葉が浮かばない。

それから、ひろくんのバイト先の人達にシュークリームを差し入れ用に買った。

バイト上がりに立ち寄る時にはいつもそうしていたからだ。


夜、10時半頃に、チョコレートとシュークリームを持ってひろくんのバイト先に寄った。

No.220

「よっ、来てもらって、悪いな」ひろくんはパリッとした白いシャツに黒いベストとスラックスが決まっていた。長い脚がスラリとして素敵だった。

私は、ひろくんのこの格好が好きだった。

「うんん、大丈夫。お疲れ様ね、これ、バイト先の人に…。」

「いつも悪いな。もうお客さんいないから中で待ってろよ」

「うんん。あっ、それから、これ…はい。ごめんね、今年は手作り出来なかったの」

「ありがとう、そうだよな、今日はバレンタインだもんな。バイトいれちゃって悪いな。実はさ、俺、もう3つも、らっちゃったんだ」

「そうなの…。私は、最後だったのね。良かったね…。じゃあ。」

「なんだよ、中入って行かないのか?みんな義理チョコだよ。いずみ怒ったの?」

ひろくんは、私を何だと思っているのか?無神経さに呆れていた。

このまま帰るのはシャクだったので「じゃあ外で待ってるね」うつむいてそう言った。

こう言うのが今の私には、精一杯だ。

本心はひろくんを突飛ばして、いやチョコレートを投げつけて帰りたい気分だった。

私は、ポケットのカイロで指先を温めながらバイト先のそばのアーケードの下でひろくんの出て来るのを待っていた。

No.221

待ちながら考えていた。“男女の別れ”にはぴったりのシチュエーションな気がした。

私は、この雰囲気に酔ってる?悲しいヒロインにでもなったつもりか?いや、前から決めていた事だ。

待っている間に大学生のグループや、酔っ払いのサラリーマン、数組のカップルが通り過ぎた。

ひろくんはどう思っているのだろうか…?もう私の事好きじゃない?女なんてめんどくさい?

なんとなく、ひろくんの良さを思い出していた。真面目なところ、以外に硬派なところ、優しいキス。

これから別れ話をしようと思っているのに、ひろくんの良さを思い出している自分がちょっと滑稽に思え、笑いたいのか、泣きたいのかわからない気分になった。

程なく彼が現れた。
「悪いな。待たせたな。寒かっただろ。いずみは相変わらず、意地っ張りだな、店の中で待っていれば良かったのに」

私の事をなんでも知ってるような口調で話すひろくんが、大好きだ。

「マックにでも寄って行くか?」

ひろくんは、泊まろうとは言わなかった。

「うんん。ひろくん、今日は帰るね。」

「そっか、じゃあ送って行くな。」

電車がまだ間に合ったので、二人でホームへ駆け込んだ。

No.222

ホームにちょうど電車が到着し、ひろくんが先に飛び乗ると、私は手を引っ張られた。

繋いだ手を離すと、階段をかけ降りてきた為に、ハァハァとかるく息を整えた。

俗に言う世間話をしながら帰る、いつもの二人だった。

電車で2駅ゆられ、改札を出ると、ぶらぶらと二人で歩いた。

「ちょっと歩かない?」ウチの前に着いたが、私から切り出して、家を通り過ぎてサイクリング道路の方へ向かった。

サイクリング道路は外灯が一晩中ついているので、夜道の散歩にはちょうど良かった。

「ひろくん、ありがとうね」

「別に送るくらい…いいよ。それより、俺の方がチョコレートありがとうな」

「…。違うの…。今までありがとう。…これからは自分に時間を使ってください」

一瞬、間をおいてから、ひろくんは、否定せずこっくりとうなづいて「いずみ…。ごめん。悪い。」

そう言って私をぎゅっと抱きしめた。

涙が溢れてくるはずなのに、泣いているのはひろくんだった。

私より30cm近く背の高いひろくんと抱き合う時は、いつも足がつりそうなくらい背伸びをした。

「いずみ…最近、爪噛むだろう、…寂しい思いさせているんだ。俺が悪い…。」

涙声でつぶやくようにそう言ってハンカチを探している様子だった。

No.223

私はタオルハンカチを手渡した。

ひろくんは、こうなる事を分かって国家試験前だから、はぐらかしていたのだ。

「俺じゃあ駄目だ。俺ももっとがんばって、希望の会社で自分の夢に向かって頑張る、それが出来たら、いずみにまともに会えるよな」

ずっと胸の奥にしまっていたその台詞を吐き出す様に彼は言った。

「私…そんな。そんな大した人間じゃない…。ねぇ、待ってる。その日まで、ひろくんをずっと待っています。」

別れようと決めたのに、気持ちはぜんぜん吹っ切れていなかった。

「…駄目だ。それじゃあ、俺が本気になれないんだ。いずみが待ってるという状況じゃ駄目なんだ。」

結局はひろくんに、これ以上は一緒にいられないと言われたも同然だった。

私も泣いていたが、ひろくんは、更に鳴き声が激しくなり、「なぁ、毎年…言ったスキー覚えて、いる…だろう?」

途中、息をつまらせながら、思い出話を続ける。

私も、泣いていた。

「それから、いずみ、成人式の時に40度も熱を出してさぁ…」

そうだった。ひろくんにずっとエスコートしてもらったのだった。みんなには熱々に見られたっけ。

「もう、きりがないからやめましょう…。」

そう切り出したのは、私のほうだった。


No.224

思い出話をしたらしたらきりがない。

去年のバレンタインデーは、手作りチョコレートを渡した。

その後で、2人で夕飯を食べに出かけると、駅ビルのイベントスペースでヒロ・ヤマガタのちょっとした絵画展がやっていた。

一枚とても気にいった絵があり、その絵の前で釘付けになっていると「気にいったの?」とひろくんが、聞いてきた。

私は「うん。なんとなくね。」と答えた。

パリ郊外のアパートの路地裏に雪が降り、ソリ遊びや雪遊びをしている子供達の奥にエッフェル塔が描かれていた。

ニューヨークを描く事の多いヒロ・ヤマガタにしては珍しいなぁ…と言った興味もあった。


翌月のホワイトデーに、ひろくんはケーキと共にテレビ程の大きさの包みを持ってきた。
その絵画だった。

「俺もこれいいなって思ったよ。寮の部屋に飾るところある?」

「ひろくん、ありがとう!」

私は、その絵画は寮をでるまでは飾らないでおこうと梱包にしまっておいた。

「なぁ、いずみ。記念日っていうのは、そこにあるんじゃなくて、“あの日は記念日になったね”って後で思うものじゃないかな」

私は、ひろくんのこういう所もたまらなく好きだった。

でも、もう今となっては……。

No.225

目の前のひろくんは、一年前のひろくんと変わりなかった。

いや、変わってしまったのに私が気付けずにいたのか。

そんな事を考えていたら、ふいをつかれた様に、ひろくんから言われた。「俺より、横須賀にいる防大の奴がいずみには合ってるよ」

とっさのその言葉を理解するのに間が必要だった。

「えっ?何?ひろくん、なんでそんな事言うの?」

もはや、捨て台詞なのかやきもちなのかどうでも良かった。ただ、検討違いないな発言には間違いないと、強く感じた。

「本当にそう思っているの?」

「あぁ。思っている」

そうなんだ。そう思われているんだ。

とてつもない寂しさが襲ってきた。

確かに、萩原さんとは親しい仲かも知れないが、こんな時に彼の話が出るなんて…。

ひろくんの気持ちは離れてしまったのだ。
私は、「分かったわ」ひろくんの言った事は正解だと言わんばかりに首をコクリとした。

とぼとぼと来た道を引き返した。

私の家の前に着くと、「じゃあ…。」とひろくんは言い、私も間髪入れずに「うん。お休みなさい、元気でね。」と答えた。


大通りに出るまでのひろくんの後ろ姿をずっと見続けていたら、涙がとめどなく出てきた。

No.226

走り出して、“ひろくん、行かないで!!”そう背中に泣いてすがれば、この先も続いているのだろうか?

ひろくんは、優しいからやり直せるかもしれない。

でも駄目。私は、ずっとひろくんの優しさに甘えてきたんだもの。

“一人になって、やらなきゃいけない時がある。”

彼のその一言は、半分は別れる口実かもしれない。でも半分は本心だろう。

それならば、これでおしまいにしなくっちゃいけない。

私は、流れる涙をぬぐう事しかでかなかった。

振り返はらない。ひろくんは、こちらを振り返えらずに角を曲がっていった。


嗚咽混じりの鳴き声を押さえながら、玄関を開け家族に気づかれないように自分の部屋にこもった。




泣きながら眠ってしまった。

夕べの事は夢のような現実のような…目覚めると、そんな感覚に襲われたが、全部本当だった。

泣きすぎて、まぶたが腫れているのは言うまでもないが、頭も痛かった。

くたくたの洋服を脱ぎ、少し熱めのシャワーを浴びた。

ひろくんに電話をかけ、待ち合わせの時間を決めて寮へ送って貰うのが大概の日曜日の過ごし方だった。

それもないのだ…。荷物をまとめ、早めに横須賀の寮へ戻ろう…。

No.227

荷物と言ってもシャツと下着とタオルくらいだったので。大きめのかばんがあれば十分だった。

横浜で乗りついだ。駅降りてから、駅前をぶらぶら歩いた。

防衛大学生たちが休日を過ごしていた。また、基地で働いている米兵も何名か見かけ、少しノスタルジックな雰囲気を醸し出していたた。

フラれた私にはなんとなくあっている気がした。

そう、フラれたんだ。別れようと切り出したのは私のほうだけど、ひろくんも間違えなく、この先やっていけないと感じていたはずだ。

ひろくんの気持ちは痛いほど良くわかった。

妹の香織ちゃんとの約束も果たせないな…。

ウィンドウショピングをしながらぼんやり考えていた。

ウィンドウに飾られた春物のパステルカラーの洋服が私をとても惨めな気持ちにさせた。

わざとショーウィンドウに向かって笑顔をつくってみた。

まだ腫れぼったい酷い顔だ。


私の後ろを防大生3人と女の子3人のグループが通り過ぎた。

あれ、萩原さん?…もしかして彼女?

私は、今日は会いたくないと思い、気づかないフリで過ぎようとしていた。


No.228

神様は意地悪だ。なんたってこんな日に…。

気持ちの整理がついたら、萩原さんには、いろいろと愚痴を聞いて貰ったり迷惑をかけてしまったのできちんと報告するつもりだった。

それにしても、萩原さんが連れている女性は誰?やけに親しそうだ。

私は、ウィンドウの方を見ながらその場をやり過ごそうとしていた。

「あれ?小久保さん?」

最悪だ。素通りして欲しかった。いや、心のどこかで気づいて欲しいと思っていた?

「あっ、こんにちは。萩原さん、お久しぶりです」

ぜんぜん久しぶりでもない。伏し目がちにバツ悪そうに私がしているのを気にして、萩原さんは「大丈夫?何かあったの?週末は地元に帰っているでしょ?」

私に聞きたい事が、山積みな様子で声をかけてきた。

私は、今にも泣き出しそうな気持ちを押さえて「こういう日もあるんです」とちぐはぐな事をいびつな笑顔で答えた。

私の答えとほぼ同時かそれより早く、萩原さんは「悪い。吉田たち、麻衣ちゃん駅まで一緒に連れて行ってくれないか?ちょっと友達が…。」と言った。


手荷物を連れの女性に渡しながら「麻衣ちゃんありがとうね。お疲れさま、僕が上手くなくてごめんね。最後まで照れちゃってさ。じゃ、元気でね」と帽子を取って会釈した萩原さんは、自衛官の制服が決まっていて、いつもより凛々しく見えた。


No.229

私は、この場から立ち去りたい気持ちと、すがりたい気持ちと何故だか妙子とリエに助けに来て欲しい気持ちの狭間で、ぼんやり萩原さんと連れの女性のやりとりを見ていた。

萩原さんの連れの女性の名前なんて気にとめる余裕なんて無かったし、気にならないと言っては嘘になるが、今はどうでも良い事だった。

先に口火を切ったのは、萩原さんの方だった。

「今日、防大の卒業前のダンスパーティーだったんだ。」

あっ、ウチの寮で防大の彼氏がいる子が言ってたかも!

「あぁ…。」思わず興味があるのか、ないのか分からないような返事をしてしまった。

「それでさ、あの子、僕のパートナーで…。」

“パートナー”ひろくんが良く使っていた言葉だ。私は、涙が出そうになり下唇をギュッと噛んだ。

小学生の頃、男子とケンカして、コイツの前では絶対に泣くもんか…と思った時に使った方法だ。

それとは違うが、絶対に泣きたくない気持ちは一緒だった。

「僕、彼女いないだろ、だから友達に紹介してもらって、あの子に秋くらいから練習に付き合ってもらっていたんだ。」

「そうだったの。」

「ほら、小久保さんは彼氏いるから頼めないし、ダンスパーティーの為に慌てて彼女作るのもなんだしなぁ…って思って。」

萩原さんは言い訳めいた釈明の様な説明をしている。

私は、なんだかそれがおかしくて顔がほころんだ拍子に涙が頬をつたってしまった。

No.230

もうこうなると駄目だ。私は、一つ大きなため息ともつかないような深呼吸をしようとしたが、涙を押さえる事が出来ずにうつむいていた。

萩原さんは私の肩に手をかけて「話聞くから…。」といい近くの喫茶店に連れて行ってくれた。

階段を上がりドアをあけると薄暗い店内は奥に細長く、コーヒーの香りが立ち込めていた。

萩原さんはカウンターから一番離れた奥の席に私を座らせた。

お客さんは他に二人しかいなく、マスターはカウンターの中でクルマ関係か何かの雑誌をめくっている。

ジャズが静かなボリュームで流れていたが、時々低音のリズムが響く。



「どうしたの?」

「…。」

「寮で何かあったの?それとも…。」

萩原さんは心配していたが遠慮がちに聞いてくれた。

私は、声をあげない様に泣いていたが、夕べから泣き通しで目が痛い。

何か話さないと…と思い頑張って呼吸を整えた。

「フラれちゃった…。」

店内のBGMのベースとドラムシンバルが上手いタイミングで響く。
萩原さんは驚いた様子もなく、ボソリと「そうか、それは辛いね…。」とコーヒーに入れたミルクをかき混ぜた。

私は、横を向いて鼻をかんで「涙ってこんなに沢山、出るものなんだわね。水分取らないと脱水になっちゃうよね」と言った。

No.231

「無理するなよ」

萩原さんはコーヒーをすすりながら上目遣いに、そう言ってカップをソーサーに置く。

お店の雰囲気のせいか、昨日たくさん泣いたからか、萩原さんと一緒にいる為か不思議なほど気持ちが落ち着いてきた。

「分かっていたの。こうなるのかなぁ~と。彼には今、私は、必要ないの。」

「そうなの。いずみちゃん、なんでそんなふうに思うの?」

「うん、ずっと見てきたから何となく分かる。」

「後悔してるの?ホントに彼が好きなんだね…。」

萩原さんは口調も全てが暖かかった。

また涙が滲んできたが、今度は自分が辛いからと言うよりは、萩原さんの優しさがありがたかったから、泣けてきたのだった。

少しの間、沈黙が続いた。店内には“A列車で行こう”が流れていた。


「待っていたいの…。彼を待っていたい。待っていて欲しいんだと思う」

誰にも言わずにいようと思っていた胸の内を何故だか明かしてしまった。

「…。待っていなくていいんじゃないの」

萩原さんの返答は以外なものだった。

そしてすぐに
「だから、無理にそんなふうに決めなくてもいいんじゃないかな。いずみちゃんの好きにすれば。」と続けた。

No.232

萩原さんはいつも、私の話を、頷きながら聞いてくれて、背中を押してくれる。

身内にも近い存在だと感じている。

だから、この返答が自分の考えを否定された様に感じ、心のどこかで“分かってもらえない”と思ってしまった。

「…。待っていたら駄目なの?つまりは、彼とはもうどうにもならない…って事…。」

私は、男の人の意見を是非聞きたかった。しかも、今、聞きたかった。

「そうじゃないよ、待っている事は自由だけど…。縛られなくてもいいんじゃないかと。」

「私が自分の気持ちを、縛っているの…?」

「難しく考えないでよ、まだ彼の事、好きなんだね。この先もずっと好きなのかな…。彼はこんなに思ってもらえて幸せだな…。」

「私って、切り替えが下手で…。頑固で、嫌になる。彼には、まだ未練だらけなんだわ…。」

「いいんじゃない。」

「えっ?」

「それで、いいんじゃないのかな…。」

どうして、もっとしおらしく可愛い女性でいられないのか…。

こうやって、私の話に耳を傾けてくれている萩原さんがいることが嬉しく感じ、また自分の事ばかりで申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「あのう…。ありがとう…。ごめんなさい…。」

セリフがそれしか浮かばなかった。

No.233

「なあに、それ。」

萩原さんはそう言うとクスクス笑いだした。

しばらくすると、クスクスからゲラゲラになった。

「ごめんなさい…。って僕に何を誤ってるの?」

笑いながら、そう続けた。

「私、場違いな事言いちゃった?自分の気持ちばっかり話して、質問ばかりで、何て言うか…正解なんてないのに…。」

「自分の事ばかりって当たり前だよ、いずみちゃんの話しているんだもの。」

「はぁ…。ハイ」

萩原さんの言うことは、真面目でいちいち正論だったので、私は間の抜けた返事をしてしまった。

「萩原さんって、マッサージ師になれば絶対に人気が出ると思う。」

「なんだよ、それ」

「だって凄く、気持ちがほぐれたもの。萩原さんに聞いてもらったら、みんな心も体もリフレッシュして帰れるんじゃない」

「アハハ…。いつものいずみちゃんに戻ったね。誉めてくれてありがとう。僕、でもさ、パイロット志望だからさ。」

「あっ、アハハ。、そうだよね。」

「4月からは霞ヶ浦、その後は帯広の空かなぁ。」

「千葉と北海道に?」

「うん。そうなんだ、その先の予定はどこに配属されるかで…まだ分からないんだ。」

「そっかぁ…。」

萩原さんとは、この先もずっとこうやって会える気がしたのに…。

No.234

「いずみちゃん、僕が入院していた時に、実習中にミーティングルームの前で教員に怒らていただろう?“貴方に病棟に来る資格はありません!自分で良く考えなさい!”って」

「あぁ、あれ、見られていたの…。」

「その後もニコニコして患者さんのところに行っていたから、はじめは“懲りない子”なのかなって思っていたんだ」

「打たれ強いのよ、私。」

「違うよね。あとから飲み会で美穂ちゃんから聞いたけど、『あれ、私のせいで怒られちゃったの。実習の実技の参考書忘れたら、“昨日、美穂怒られて、目つけられているでしょ?佐藤先生、機嫌悪そうだからマズイよ、これ使いな”っていずみが自分の貸してくれたのよ…。』って言っていたよ。」

「やだ、美穂ったら、おしゃべり。」

「それから、いずみちゃんは飲み会の時に、盛り上がっていない子の隣に行って“飲んでるぅ?”って声かけていたでしょ…。あぁ、いい子だなって思っていたよ」

「あはっ、ありがとう…そんなこと言われると、照れちゃうけど…。」

「いずみちゃんの明るい優しさに沢山の人が救われているんだよ」

「やだ、そんなんじゃないんです。救われているのは私のほう。今日だって、萩原さんがいなかったら…。それに、この三年間彼がいなかったら…。ずっと助けてもらってきたの、彼に。周りのみんなにも」

No.235

「そうか…。また連絡するよ。いずみちゃんの中森明菜のモノマネみたいし。」

「うん。磨きをかけておくから。萩原さん…。私、あのね」

あのね、に続く言葉が出て来なかった、というより忘れてしまった。いや、用意していなかったのか。

なんとなく会話を続けていたかったのか。

萩原さんは「なあに」と言ってカーキ色の制服をちょっとだけ正す素振りをみせた。

「ごめんなさい、何を言おうとしたか忘れちゃった。」

「なんだよ、アハハ。」

「ホントに忘れちゃったの。」 まるで自分に言い訳をしているようだった。

それから少しだけ間があって、萩原さんは「そろそろ行くかな。」と帽子を被った。

「あ、うん。いろいろと聞いてくれてありがとう…。がんばってね」

「いずみちゃんも夜勤とか大変だと思うけどがんばってね。春休みは実家で過ごすの?」

「うん。でも寮を出て引越しもあるから…。こっちにいる事も多いと思う」

「分かったよ。」

二人とも立ち上がると萩原さんは会計を済ませた。

「今日は、私が払います」

「じゃ、今度は、いずみちゃんがご馳走してよ」

「じゃ、ご馳走さま。」

店を出ると大した会話もないまま、寮のそばまで送ってもらった。

「元気でね」

「うん、元気で…。」

なんとなく握手を交わしてその場を別れた。

No.236

寮に帰ると、言い知れぬ空虚な思いに襲われた。

夕べからずいぶんの時が経っているようだった。

部屋で荷物をおろして、共同の給湯室に行きお湯を沸かす。

休日の寮には寮生はほとんどおらず、お湯の沸騰する音がぽこぽこと鳴っている。病院から近いため救急車サイレンも遠くで響いていた。

ポットにお湯を入れ部屋に戻った。

テーブルにティーパックとカップを用意すると、あぁ…、ここにもひろくんの思い出のかけらが…。

寮で使っているマグカップとティースプール、ヒメフォークは以前に“実家から離れて暮らしても寂しいくないように”とひろくんがショッピングの途中で買ってくれたものだった。

思い出なんていうにはまだ早すぎる。

お湯を注いでいると、目に涙が滲んできた。

さっきまでの萩原さんの優しさが、私を余計に寂しい思いにさせた。

“ひろくんはどう思っているだろう”“声が聞きたい…。”

極当たり前の感情で、胸が苦しくなった。まだひろくんの事がこんなにも好きだ…。

オーディオの横には桜の木の下で二人並んで撮った写真があった。

写真立てから写真を抜いて、机の引き出しにしまった。

あと数日後には、この部屋も出て行くんだ…。

そう考えると殺風景なこの部屋も少しだけいとおしく思えた。


No.237

あれから二週間、ひろくんからは連絡はなかった。

一度くらいくれても良いのに…と思うほど何もなかった。


妙子は心底心配をしてくれて、もうじきくる春休みにはレディースプランを利用してホテルに泊まろうと言い出した。

美味しいものを食べて、エステをしてもらうんだから!と張り切っていた。

リエには手紙を書いた。


明日は卒業式だ…。とりあえず式が終わったら実家へ帰ろう。

母が電車で来てくれると言っていた。

実習のプリントや文献、テスト用紙やらを段ボールにまとめた。

粗方片付けの済んだ部屋は、一層、殺風景になった。



卒業式の当日、スーツを来て講堂へ向かった。

滞りなく式が終わり「アンタ、このまま帰るんでしょ?荷物取ってらっしゃいよ」と母に言われて寮へ戻ると、寮長から「いずみさん、お花届いていますよ」と声をかけられた。

バラやスイートピーの春らしい大きな花束が談話室に置いてあった。

贈り主は“武田宏之”とあった。ひろくんからだ。

プリントされた文字のメッセージカードに『ご卒業おめでとうございます。夢に向かい羽ばたいて下さい。』とあった。

私は、すぐにお礼の電話をかけたが、あいにく留守番電話だった。

“お祝いの花束ありがとうございました。3月20日までは実家で過ごします。”とだけメッセージを残した。

No.238

そうだよね、ひろくん、こんな昼間にいないよね…。

がっかりしたような、ホッとしたような気分だった。

ひろくんが電話に出たらなんて話しただろう…?

元気?どうしてる?

たった2週間なのに…。

母を待たせていた事を思い出して、荷物を取りに部屋に戻り、ジーンズに履き替えた。

あと半月もすれば、病院を挟んで寮とは反対側のマンションに引っ越すので、大きな荷物はそのまま置いて行った。

いろんな事が入れ替わる。新緑が芽吹く様に、私も、立ち止まっていちゃ駄目だ。

荷物のバックと大きな花束を抱えて玄関から出てきた私の姿を見て、母は「あら素敵。ひろくんからでしょう?」間髪いれずに聞いてきた。

「うん、そう…。すぐ分かったね」

「だって、ひろくん、『いずみの卒業式、俺も出ていいですか?』って言っていたのよ。あの子なりに、自分が看護学生のいずみを支えてきた自負があったみたいだったのよ」

「お母さん、それ、いつ頃の話?」

「2月の頭くらいかしらね…まぁ、縁がなかったのか…縁があればまた巡り逢えるものよ」

この人はいつもそうだ。さばさばと物事の本質を切り捨てる様に言い放つ。

興味があるのかないのか、娘の事だからか?年の功ってやつか?

「うん。ありがとうね、お母さん。」

私は、よいこらしょっとかばんを背負い直して母と寮を後にした。

No.239

それからの1ヶ月はあと言う間だった。

約束どおり、都内のホテルに妙子とレディースプランを利用して泊まった。深夜まであれこれ語り合い、翌日のエステでは二人とも、グーグーと眠ってしまう羽目に。

さすがに一流ホテルだけあって、おもてなしも料理も最高だったが、何よりも妙子の優しさに癒された。

それから、親戚に卒業の報告をしたり、看護学校の友人達とは京都へ卒業旅行に行った。

あわただしく引っ越しを済ませ、役所などの手続き、足りない家具などの買い物。

4月に入ると新入職者の研修、オリエンテーション。

あれ以来、ひろくんから、留守番電話の返信はなく、私も、忙しさにかまけて連絡をとれずにいた。

…嘘だ。忙しいからではない。ひろくんの事を考えない日なんて1日もない。

いつだって、ひろくんなら何て言ってくれるが、そればっかり考えているくせに…。

不安なのだ。連絡をしてもし、迷惑だったら…。それに過去の事として扱われたら…私は耐えられないだろう。

ひろくん、就職活動どうなのだろうか…。

一見、優男(やさおとこ)風に見えるが、実は芯が強くて曲がった事が大嫌いなひろくん。

どうかひろくんの誠実さが、面接官にも理解されます様に…。

ひろくんの成功を祈る。これが今の私にできる精一杯の事だと思っていた。


No.240

そう、私に出来る事…。そうだ、メソメソ暗い気持ちのままじゃ駄目。

そんな女の子はひろくんだって好きじゃない。自分らしくキラキラと、いつも新しい事を追いかけて、前に進まなきゃ。

そう思うようにした。なかば自己暗示だった。


なんとなく引越しの荷物も片付いた。ひろくんの写真や思い出の品は、一まとめに段ボールに入れて、クローゼットの一番奥にしまった。


“引越しました。お近くにお越しの際はお立ち寄り下さい。…新住所…”

猫と家のイラストのハガキを友人の何人かに送った。ひろくんにも、友だちの一人として。

ひろくんのハガキには、余計な文言はいれたくなかったが、何も書かないのもかえって変だと思い“就職活動頑張って下さい”とだけ添えた。

アドレス帳や年賀状を整理しながら、ふと懐かしい連絡先を見つけた。

以前のバイト仲間の石井さんだ…。

バイト仲間?そうじゃない。あんなに恋焦がれていた憧れの人。

時間の流れ、人の心と言うのは不思議なものだ。

まだ、この電話番号が通じるのかなぁ…。

何気なくかけてみた。

トゥルル…“ただ今出かけて…”留守番電の電子音の途中でガチャと切り替わり「もしもし…」と男性の声がした。

No.241

多分、石井さんの声だ、自信がなかった。「あのぉ…石井さんですか?」

「はい。」

「小久保です。ご無沙汰してます。小久保いずみです。」

「あぁ…いずみちゃんか!」

ついこの間会った様な口調で石井さんは応える。

不思議と緊張したりドキドキもしなかった。

「ご無沙汰してます。まだこの連絡先で大丈夫だったんですね」

「おう。引越ししたんだけど、同じ市外局番だったから、番号そのままにしたんだよ。」

それから近況報告をお互いにしあい、とりとめのない話をした。

「ところでいずみちゃん、少しは綺麗になったのかぁ~?」

「もう、子供扱いして!馬鹿にしてるでしょ?少しぐらいはね…。」

変な自信があった。
それに私、今、もしかして石井さんと対等に話している?

私なんて、相手にしてもらえないって思っていた三年前。

懐かしい気持ちは石井さんに対してだけでなく、あの頃の自分に対しても浮かんできた。

「ふふふ。」

「なに?いずみちゃん可笑しいの?」

「うんん。石井さんは変わらないなぁ~って。」

「久しぶりに会うか?」

「…ちょっとは綺麗になったかどうか確認してみる?」

半分冗談で、半分本気で私も切り返した。

No.242

実際、石井さんと会うことになった。

妙子を誘ったが、ゼミの友達との飲み会があるとので断られた。

久しぶりに会える事はうれしいが、それ以外に下心だの恋心だのはなかった。

まだずっとひろくんが好きで、こうやって引きずって行くのだろうか…。

ただ、石井さんと会うにあたり同窓会に行くようなワクワクした感じはあった。


当日、待ち合わせ場所に私のほうが先に着いた。5分ほど過ぎて石井さんが現れた。

若造は大人の男の人になっていた。もう、26歳だものね。


「いずみちゃん…だよね?」

「やだ、石井さん。お久しぶりです。」

「あぁ良かった。そうだと思ったけど、痩せたし、化粧しているから…。」

そっかぁ~、当日の私はすっぴんだし、部活で日焼けして健康優良児だったものねぇ。

「いずみちゃん、ちゃんと食べてるの?40kgある?」

「え~、ありますよ~。着痩せして見えるのかも。脱いで確かめてみます?」

「アハハ。じゃあ後で確かめさせてもらうよ」

思わせ振りな冗談も違和感なく言えた。

石井さんが美味しい割烹居酒屋を知っていると言うので連れて行ってもらった。

お刺身や魚の煮付けが絶品で、石井さんも私もいい気分に酔っ払っていた。

No.243

ケラケラ笑いっぱなしだった。いつ以来だろうか、こんなに長い時間笑っていたのは…。

不思議と、彼氏いる?彼女いる?と言う会話はしなかった。避けていたわけではない。

10時をまわったところで、「もう一軒行く?」と石井さんに誘われた。

私はもちろん気分上々に2つ返事をした。

「あ~、こんな楽しいお酒なら、妙子も来られたら良かったのにぃ」

「妙子ちゃんって、前に一度、一緒に飲んだ子かぁ~。来られれば良かったな」

石井さんは女性に慣れている。相変わらず会話もスマートだった。

お店を出た後、どこの居酒屋に行くか、カラオケ店に入るか二人でブラブラと散策していると「俺のウチにくるか?そんなに遠くないから」と聞かれた。

私は、機嫌よく「ホントに~?じゃあ、石井さん家で飲み直そう!!」

そう言いながら、ぴょんぴょん、彼の周りをまわりながら、石井さんの腕に絡みついた。

それから、コンビニに立ち寄りビールやサワー、ワインとチーズなどのおつまみを買うと、程なくしてアパートについた。

「散らかっているけど、上がって。」そう言って部屋の電気をつける。

1LDKの部屋は男の人にしては片付いていた。

あまりじろじろと見ては失礼だと思い、靴を脱ぐとすぐに奥の部屋に向かった。

No.244

私は、酔いが醒めないながらも、荷物を置くと両方の袖をまくり上げ、「このコップとお皿借りていいです?」と手際良く飲み直す準備をした。

「いずみちゃん、お酒強いんだね~」と言いながら石井さんはワインを注ぐ。

よく冷えた小樽の白ワインは美味しい。

「う~ん、遺伝かなぁ~。父方の親戚が漁師町の出のせいかみんな飲兵衛でね…。」

「そっか。…しかし、女って変わるよな。マジにいずみちゃん綺麗になった。」

「アハハ、お世辞でもありがとー。ハイ、乾杯ぃ。石井さんは相変わらず良い男ですね!」私は、お酒の勢いもあり言いたい事を言っていた。


雑談をしながら、ワインと缶酎ハイ数本を空けるとテーブルのおつまみもなくなり、片付けをはじめた。

「トイレ借りていい?」

「あぁ」

洗面所に行くとブルーとピンクのの歯ブラシが並んでいた。ピンクのはきっと彼女のだわ…。

「石井さん、歯ブラシ二本あったね…。」

「おう…。朝用と夜用だ」

「ぷっ。もう少しマシ言い訳があるでしょ?」といい、私は、半分にやけながら彼のほっぺたをつついた。

その拍子に腕をグイっと引っ張られ、一瞬で石井さんの膝の上に抱かれた。

艶っぽい目で石井さんに見つめられ身動きできずにいた。

No.245

「彼女に悪いでしょ…。」

8割は本気で、残りの2割はドキドキをごまかす為に、そう言った。

「…別れたんだよ」そう返事をした石井さんの表情からは、嘘か本当か読み取る事が出来なかったし、その言葉を信じるしかなかった。


そのまま髪の毛をなでられ、口づけをされた。

片手は腰にまわっており、私の胸をまさぐる。

キスは激しさを増し、舌を絡ませ、強く吸ったり軽く吸ったり…。

心地よい酔いのなかで、石井さんの愛撫を受け入れた。

キスも、5ヶ月ぶりだったので、私の中で欲求もあったのか…。いや、ぬくもりが欲しかったのかもしれない。

そして何より、憧れていた人に、3年前は女性としてすら見てもらえなかった彼の腕の中に、今はいる…と言う不思議な充足感があった。

「覚悟して来たんだよな」石井さんは意地悪っぽく再確認する。

「うん。そのつもり」

今は石井さんが本命ではない。

ボンヤリした頭だったが、それは自分でも良くわかっていた。


私は、自分でジーンズを脱ぐと下着姿になった。

「いい子だ…おいで。」

石井さんはキスをしながらブラのホックを器用に外した。


No.246

慣れた手つきでショーツの上から触ると、アソコが熱くなるのが分かり自分でも恥ずかしくなった。

「もう、欲しいの?」

私は、恥ずかしくなり答えずにいると、下着を脱がされ、固くなった石井さんのモノが入ってきた。

石井さんが…あんなに想っていた彼に今、抱かれている。

でも、違う…。あれから3年の間に変わってしまった。

彼の事は好きだ…。でも愛していない。

認められたい、彼に女として認められたい。

その気持ちが私を官能的にさせた。

「こうして欲しかった?」

「あぁ……だめ。いやぁぁ」

「しっ!壁薄いから隣に聞こえるだろ」

とっさに口を手でふさがれた。

懸命に声を殺すが、思わず声が漏れてしまう。

「あぁん、らめぇ…。」 アルコールのせいもあり、抑えがきかない。

今度はタオルを口に押しあてられた。

「はぁん。はぁぁ…。」

「いずみちゃん、嫌いじゃないんだろう?こういうの。」

挑発的な口調に私は、更に感じていた。

くるりと後ろを向かされた。私のウエストに手を当てて、彼は激しく腰を動かす。

「くあぁ…。俺もそろそろ…いずみちゃん。」

二人でほぼ同時にイってしまった。


No.247

いや。イっていない?心も身体も十分に満たされたわけでないことは私が一番良く分かっていた。

毎回と言うわけではないのだが、ひろくんとセックスで、オーガニズムに達した時は、自然に涙が滲んで頬をつたうのだった。

めんどくさい女と思われるのが嫌で泣いている素振りを見せない様にしていたが…。

悲しいとかセンチメンタリズムからくるものではなく、セックスのあとの“安堵感”が私は好きだった。

そのまま、腕に抱かれて、おでこキスをしてもらい、ぐっすりと深い眠りに落ちてゆく…あの感じが好きなのだ。

もう、あの感じは二度と味わう事は出来ないのだ。

皮肉にも石井さんとの行為で、それが分かってしまった。

ベッドの縁に腰掛けて煙草に火をつける石井さんの背中をぼんやり見ていた。

彼は私のブラウスを掴んで“ほら”といった具合に私に渡す。

私は、それを羽織って洗面台で手を洗った。

ベッドに戻ると、石井さんは“寝るのにシワになるよな…”といいTシャツを一枚貸してくれ、それを着て眠った。

自分がどうしたいのか、誰を好きなのか、半分どうでもいい気持ちになっていた。

No.248

新聞配達のバイクの音、鳩の鳴き声、車の通り過ぎる音。

雨戸用シャッターが閉まっていたので、部屋は暗かったが、朝が来た事を耳で感じた。

2、3時間眠っただろうか?ひどい二日酔いではないが、少しムカムカする。

私は、ベッドで寝かせてもらい、石井さんはローソファーに横になっていた。

メモ用紙に『夕べはご馳走さまでした。楽しかったです。鍵はポストに落としておきます。』と書き記してテーブルに置いた。

まだ、石井さんは眠っていた。時々スースーと寝息が荒くなる。

寝顔を見ると、夢中だった頃の気持ちと、なんとも言えない愛しさ(これは石井さんに対してだけでなく、寝顔と言うものは万人の母性本能をくすぐるのだろう)と、夕べの余韻とが入り雑じった感情でキスをしたくなった。

…がその気持ちを抑え、石井さんの髪を軽くなでて、バッグをもって部屋を出た。

今でも、好きなのは、ひろくんなのに…。分かってるのに。

うんん、ひろくんの代わりになって欲しかったんじゃない。

誰でも良かった訳でもない、石井さんだから…。

でもこの先、石井さんとどうかなりたい訳じゃなかった。

頭の中がぐちゃぐちゃだ。

後悔とかそういうものでなく、自分に納得のいく言い訳を探していた。

No.249

「…で?そのまま最後までしちゃったの?」

「うん…。」

「ふ~ん。いずれは、それで満足できた?身体がじゃなくて、気持ちの方でね」

「満足って言うか…後悔はないつもり。」

「念願が叶ったって感じ?」

受話器越しの妙子は、半分、意地悪そうに聞いてきた。

そう言われても仕方ないか。

あれこれ言われるのは覚悟して、むしろ“バカ女”と罵って欲しくて電話しているんだもの。

「念願ていうかさぁ…。まぁ認めて欲しかったって気持ちは、多分あると思う」

「いずみは、どうせ私に叱って欲しくて電話してきてるんでしょ」

相変わらず、ズバズバ言うな、さすが妙子。

「そんなんじゃ、忘れられないよ、武ちゃんのこと。でも寝た相手が萩原さんじゃなくて良かったよ。萩原さん、いい人だから可哀想だもの」

妙子は萩原さんとは面識がないが、私の話から彼を良く知っているようだった。

なんで萩原さんが出てくるの?まぁいいや。
「妙子は私にどうしろって言うの?」

「それはこっちの台詞。いずみは、どうしたいわけ?」

「……。ひろくんの事まだ好き…。でも、重い女になりたくない。」

「ほらね、誰かに聞かなきゃ、自信ないのかねぇ」

「妙子だって自分の事は。」

「今はいずみ、アンタの話でしょ!」


No.250

「まぁ、これ以上言わないわ。いずみが一番良く分かってるでしょ?ところで国家試験の合格発表って今月末頃だって言っていたっけ?」

「うん。明後日の日曜日の朝刊に載ると思う。月曜日に院内の講堂で、改めて辞令を頂くのよ。多分、大丈夫だと思うけど、ドキドキするね…。妙子は就職活動は順調?」

「うん。何とかね、内定貰えそうなところが一社あるの。」

「ホントに?やったぁ。内定もらったら初任給でご馳走するからね。リエも帰ってこないのかなぁ。」

「ありがと、楽しみにしてるわ。ホント、久しぶりにリエのボケぶりに癒されたいよね。オーストリアでがんばってるのかな。リエっコアラに似てない?いずみも夜勤とか始まったら忙しくなるね」

「アハハ、似てるかも。うん、私、体力だけは人一倍あるからね」

二人で笑って、短い沈黙のあと妙子が明るい声で言ってきた。

「まぁ、あの石井さんとそうなるとはね…。武ちゃんの事、無理に忘れる必要ないからね、自分に嘘をつくのはやめなね。」

「うん。妙子ありがとうね。相変わらず、石井さんはポーカーフェイスだったよ。でも楽しかった。」

「楽しかったなら良かった。そろそろ切るね、おやすみ。」

「また電話する。おやすみ。」

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