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少しだけ不幸な私/独り言

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ライカ( 6Rs31 )
12/07/12 07:40(更新日時)

産まれてから
現在までの私。


誰にも聞いてもらえない。

話したとしても
誰も真剣に聞いてくれない。

カウンセリングや
心療内科に行く勇気は無い。


少しだけ、不幸です。
特別どん底ではありません。

「生ぬるい」人生ですが、
読んで頂けたら、幸いです。



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No.1766230 12/03/20 01:39(スレ作成日時)

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No.1 12/03/20 02:08
ライカ ( 6Rs31 )

■誕生■

31年前の3月某日
ライカ 産まれる。

私の両親は、
自営業で飲み屋をやっていた。
営業時間は、
夜8時~
朝方、お客が居なくなるまで。


父親はボンボン育ち。
母親は極貧育ち。

父親の父親(私の祖父)から
「一軒家を建てろ」と
あてがわれた金を
開店資金にし 開いた
父親の「道楽」の店であった。

母親は、元々は
東京で看護職をしていたが

父親の「道楽」に
付き合う為に
泣く泣く看護職を辞め、
父親の地元(北海道)へ移住。

かなり嫌々、
父親の道楽に付き合っていた。


母親が、
私を半日かけ、
苦しんで産んでいた最中

父親は、
「娘が産まれそうだ」
「娘が産まれた!」
「めでたいめでたい」
「今日は全部オゴリだ!」
と、来ていた客と
夜通し飲み明かし
ドンチャン騒ぎを
していたらしい。

(私が産まれたのは
深夜の12時台で
日が変わってから間もなく)



母親が
「産まれたら直ぐに
病院に来て欲しかったよ」
と…
根に持つような言い方をしていた。


No.2 12/03/20 02:22
ライカ ( 6Rs31 )

私が産まれると
当然のことながら、

父親の「道楽」に
私の存在は
邪魔になってくるわけで。


産まれて間も無い私は、
隣の空きテナントに
置き去りにされるようになった。

隣の空きテナント。
よく分からないが
鍵もかかっておらず
簡単に出入り出来たらしい。


店の雰囲気に
かなり拘っていた父親。

乳飲み子をおぶって
接客するのは、
やはり嫌だったのだろう。

赤ん坊(私)が泣き出せば
「赤ん坊がウルサい」
「もう来ない」
と言い出す客だって
居るだろうし。


私は、真っ暗闇の中で
泣き叫び、
ミルクを吐き…

吐瀉物で
よくグチャグチャに
なっていたらしい。


父親が接客中
「マスター、ここ
“出る”のか??」
と、客からよく言われた。

「隣から、赤ん坊の
泣き声が聞こえるんだけど…」

客に指摘され
初めて気付いて

隣の空きテナントに
すっ飛んで行く。

これが
日常茶飯事だったようだ。


No.3 12/03/20 02:29
ライカ ( 6Rs31 )

私が産まれて
しばらく経つと

父親が病気になった。


病名は、母親から聞いたが
忘れてしまった。

兎に角「立ち仕事」がダメだと。



父親は、仕事を休み、
家で私の面倒を見て

母親と
アルバイトの子とで
接客をするようになった。

母親は
「嫌々」接客していたので、
それが客にも伝わり、
クレームが相次いだらしい。


(父親が仕事復帰してから
常連客から、散々
母親に対する苦情が入ったとか)


母親が仕事して
父親は家で 私に付きっきり。

自然と私は
「パパっ子」に
なっていった。


父親が仕事復帰するまで
半年以上かかった。


No.4 12/03/20 02:48
ライカ ( 6Rs31 )

■弟、誕生■

私が2歳半の時に
弟が産まれる。


弟に手がかかる間、
私は
親戚の家に預けられた。

この仕事をしながら、
私と弟、
2人は流石に面倒見れないと。

夜~朝方の仕事だから、
保育園は
当然利用できない。



私は、
全く知らない親戚の家に
約一年間 居させられた。

預けられた先の家主
(母親の兄/長男)が
私にとって「恐怖」だった。


No.5 12/03/20 04:17
ライカ ( 6Rs31 )

胎盤剥離と、
臍の緒が首に絡まったとかで
予定日より1ヶ月早く
帝王切開で産まれた弟。


私は親戚の家で
「お母さん、お腹切った」
「イタいイタいした」
「可哀想、可哀想」
と、毎日毎日、
泣いていたらしい。

毎日泣く私を
鬱陶しく思った叔父は
「うるせぇ!!」

…私を一喝した。


それからと言うものの、
私は極端な「オジサン嫌い」に
なってしまった。

親戚の叔父だけでなく
「壮年男性」
全てがダメになった。


そのうちに、
叔父の取り巻き
(叔父の妻や子供)のことも
信用出来なくなり、

私は
寝室に閉じこもったまま
出て来なくなった。

トイレすら行かなくなり
糞尿も
垂れ流しだった。


唯一、私が心を開いたのは
S子お姉ちゃんだった。
当日、S子お姉ちゃんは
18~19歳。

若くて、優しそうで
素朴な雰囲気の
お姉ちゃん。


多分、S子お姉ちゃんの
見た目と雰囲気が
「怖くなかった」のだと思う。


ご飯、トイレ、お風呂、就寝
S子お姉ちゃんが側に居ないと
全くダメだった。


私が
泣いて泣いて
手がつけられない時は

農家の畑仕事を手伝っていた
S子お姉ちゃんを
わざわざ早退させ
帰ってこさせたことも
何度かあったらしい。


No.6 12/03/20 18:43
ライカ ( 6Rs31 )

弟が1歳になると
私は親戚の家から
呼び戻された。

一年間も
S子お姉ちゃんにしか
気を許さなかった私。

親戚も 辟易していた。
多分、S子お姉ちゃんも…。

私につきまとわれ
かなり大変だったと思う。


私を連れ戻した後、
両親は

まだ1歳の弟と
3歳半の私を 家に残し

仕事に行くようになった。
夜8時前には
私達を寝かしつけ
朝方まで、帰って来ない。

夜8時~朝方まで
私達は
寝ながら留守番をさせられた。


当然、
夜中に目を覚ましてしまうことも
何度かあった。


No.7 12/03/20 18:48
ライカ ( 6Rs31 )

何度か目を覚ました中で
一番記憶に濃いもの。


夜中、喉が渇いて
目を覚ました。
弟は 隣で寝ている。

私は、牛乳を飲もうと
冷蔵庫を開け
牛乳パックを取り出した。

でも
牛乳は新品で
封が切られておらず。
固くくっついたままだった。

両親に 封を開けて貰おうと
両親を探した。

当然、
家に両親は居ない。

居ないと分かると、
途端に
もの凄い不安感に襲われる私。


私は
ギャンギャン泣きながら、
家中、両親を探し回った。


No.8 12/03/20 19:07
ライカ ( 6Rs31 )

居間の
ガラス張りの大窓を開け、
私は外に出た。

雪が降る中
青いツッカケ(サンダル)を
履いて

深い雪を漕ぎながら
家の前を探した。

深い雪に 足を取られ
ツッカケが片方脱げた。

片方裸足のまま
「おとーさんっ」
「おかーさんっ」
と泣き叫びながら
探した。


家の中に戻り、
二階に上がって
二階もくまなく探した。

でも 見つからない。


泣き叫びながら
階段を下りる途中

私は
階段から転げ落ち
額を強打。


そのまま 気絶した。


私が意識を取り戻したのは、
明け方 両親が帰ってきて

私に声を かけた時だった。

「何があったの?大丈夫!?」

驚く両親。
開けっ放しの玄関。

玄関から入り込む
朝焼けの逆光で
両親の顔、表情が
あまり見えなかった。

私は額に怪我をし、
絆創膏を貼って貰った。


居間の大窓は
全開のまま
カーテンがたなびき

タンスの引き出しや
棚の引き戸など
あちこち開いていて
グッチャグチャ

両親は、
家に泥棒が入ったのだと
思ったらしい。



…こんなことがあったのに、

私達2人だけ留守番をさせ、
両親が夜不在になる生活は

全く変わらなかった。


No.9 12/03/20 19:16
ライカ ( 6Rs31 )

父親の「道楽」が
やっと「廃業」した。


母親は
「待ってました」と言わんばかりに
「復帰」を希望。

私達家族は、
母親の両親が居る
母親の地元に引っ越した。


母親は
看護職に戻り、
父親は
レストランのコックをやることに。

この時で、
私は4歳。弟が1歳半。
私達は
保育園に通うことになった。


No.10 12/03/20 19:25
ライカ ( 6Rs31 )

■通園開始■

保育園通いが
始まった。


私は何故か
こんな幼い時から
もう既に
「人付き合い」が
苦手だった。

なかなか友達が出来ず。

出来ないどころか
煙たがられていて、
仲間外れにされていた。

保育園の仲間に
「私と遊んでくれるように
お母さんから頼んで欲しい」
とお願いし、

母親に
「ライカと仲良くしてあげてね」
と、言って貰ったことがあった。


私を一番
弾き者にしていた
女の子の名前は

アベ ユリコ ちゃん。

今でも 不思議と覚えています。



何故、仲間外れに
されていたんだろうか…。

そこまでは
覚えていない。

仲間外れに
されると言うことは、

私自身に
何か 良くない部分が
あったのだと思う。


No.11 12/03/20 19:40
ライカ ( 6Rs31 )

保育園の、1日の終わり。

みんな「母親」が
迎えに来てくれていた。


でも、私の家だけ
「祖父母」が迎えに来る。

私は いつもいつも
「お母さん」に
迎えに来て欲しいと
強く願っていた。


でも、待てど待てど
保育園の玄関に来るのは祖母。

保育園の玄関前にある
広い階段を降りたところに
白いVANが停まってる。
私の祖父の車だ。

運転席で
祖父が待っている。

祖母が玄関に現れると
「チッ…またババァかよ」
と、小声で悪態もついた。



ある日、祖父母のお迎えに
嫌気が差した私は、

弟を連れて
勝手に帰ってしまったことがあった。

夕方5時。
残された園児は
私と弟、2人だけ。


保育園の保母さんに
嘘を付いた。

「今日は、2人で帰れって
言われてるから」と。

保母さんは
「え?本当に??」
と、心配そうに返す。

私は「本当だよ」と
更に嘘を言い、

弟の手を引いて、
早々と、保育園を後にした。


「今日は、お姉ちゃんと帰ろう」

弟は笑いながら
「うん」と答えた。


No.12 12/03/20 19:52
ライカ ( 6Rs31 )

弟の手を引いて
夕焼けの中を
2人で歩いた。

大人の足ならば
徒歩10~15分くらいの
距離だと思う。

4歳と2歳の
子どもが歩いたら

かなり遠い
距離になるのかもしれない。


自分たちだけで
公道を歩くのは
初めてだった。

横断歩道を渡ろうと
青信号を、待っていた時

ビュンビュン
ビュンビュン
通り過ぎる車が、
もの凄い
スピードに見えて、
ちょっと怖かった。

「車って、
こんなに早く走るものなんだ」
と感じた。



無事、家には着いた。

でも、家には入れない。
鍵がかかっているし、
鍵なんて、持たされていない。

「開いてないね。困ったねぇ」
「お父さんと、お母さんが戻るまで
お姉ちゃんと、散歩してよう」

また笑顔で
「うん」と返す弟。

家の前の、細い通りから
メインの通りに出ると

アッと言う間に、
祖父母に見つかる…。


車の窓から

「ライカちゃん!」
「Tくん!(T=弟)」

祖母の声がした。


No.13 12/03/20 19:59
ライカ ( 6Rs31 )

「ライカちゃん、
何やってるの!!」


車の中で
祖母に怒られた。

祖父は
運転しながら
「心配したんだで~」
「おじいちゃんも、
おばあちゃんも。」
と、のんびり言った。


祖母
「勝手に抜け出して!」
「どうして勝手に帰ったの?」

「お父さんと、お母さんが
今日は(弟と)2人で帰れって…」
祖母
「嘘おっしゃい!」



それからは、
よく覚えてないけれど

祖母からは
「お姉ちゃんなのに」
とか
「悪いお姉ちゃんだ」
とか…

そんな感じの言い方で、
祖父母宅に戻ってからも、
ずっと怒られていた。


父親が、仕事を終えて
祖父母宅に
私達を迎えに来て

祖父母が
今日の経緯を
父親に話したと思うんだけど、

父親から 怒られたとか
何か言われたとか、

そこまでの記憶は
残っていない。


No.14 12/03/20 20:06
ライカ ( 6Rs31 )

どうして保育園を
2人で抜け出したのか。


大人たちは
私の行動から、

何かを感じ取ってくれるような
気にかけてくれるような

そんな素振りは
一切無かった。


結局、私は最後まで
口をつぐんだまま。

「お母さんが恋しい」
と言う、
自分の正直な気持ちは
誰にも言わなかった。



「言っても無駄だ」
「何も変わらないだろう」
「私が怒られるだけ」


そう思って
最初から、
諦めていたんだと思う。


No.15 12/03/21 00:06
ライカ ( 6Rs31 )

■小学一年生■

小学校に上がった。

私はやっぱり
人付き合いが苦手だった。

嫌われたり、
逆に 泣かせてしまったり。


小学校での障害は、
「人付き合い」だけに
留まらなかった。


担任だった

シマダ ミツコ先生。

多分、当時40歳くらい。

長い髪の毛。
天然なのか
ソバージュなのか
髪の毛は
ストレートではなく
横に広がって
ボリュームがあった。

小太りで
体格は良かった。

かなりの、厚化粧。


この先生が
「虐待先生」であった。

24~25年前の、当時まま
今現在 教師をしていたら
間違い無く
問題になっているだろう。


給食で使う箸は、
生徒で持参だった。

箸を忘れる生徒が居たら、
給食は抜きにされた。

小学校1~3年生の
低学年の生徒は、
たとえ、歩道であっても
自転車を乗ってはいけない
校則があった。

自転車を乗るなら、
自転車OKの、広い公園のみ。

クラスのムラカミ君が
校則を破って
公園以外の場所で
自転車に乗ってしまった。

それを、誰かが目撃し、
先生に告げ口したらしく

ムラカミ君は
ホームルームの時間
みんなの前で
教壇に立たされ、
パンツを下ろされ、

シマダミツコ先生に
竹の細い棒で、
メッタ打ちにされた。

ムラカミ君のお尻が、
ミミズ腫れのようになり
真っ赤になっていた。


No.16 12/03/21 00:21
ライカ ( 6Rs31 )

他にも、
誰かが何かをやらかす度に

担任は
みんなの前で
見せしめの暴力を振るった。

「○○やったら、こうなるぞ!」
「分かったか、お前ら!!」

私は 毎日毎日、
ビクビク登校するようになった。


そんな私も、
先生からの体罰を
受ける日がやってきた。

体育の時間
運動会の練習をしていた。

他のクラスもまじえて
合同練習。

その時は、
クラス団体競技を終えた後の
退場の練習をしていたのだが

「うちのクラスだけトロい」
と…

シマダ先生は、
私達クラスだけを
グランドに残し、
退場の練習を行った。

何度やっても
先生からは
「もう一回!!やり直し!!」
の声。

何度やっても
シマダ先生は
納得することは無く、

とうとう
先生は ブチ切れ。

クラス全員を
グランドに一列に整列させ
全員、生尻叩きの刑。


「どうして!」

「私が言ったとおりに!」

「動かないんだ!」

「バカ者!!」


一節一節
区切りながら叫び、

生徒一人一人の
生尻を叩く。


ビシーン!!
バシーン!!


嫌な音が
グランドに響いた。

私も 叩かれたが、
他の生徒が叩かれる
ビシーン!!
バシーン!!
と言う音を聞いている方が
はるかに傷付いて
しんどかった。


No.17 12/03/21 00:43
ライカ ( 6Rs31 )

ビクビクした
学校生活を送るうちに、

私は だんだん
学校に行きたくないと
言い出すようになった。

登校拒否を始めたのは
枯れ葉が舞い散る、
秋にさしかかってからだ。

「お腹痛い」
「咳が出る」

と言い、
何度もズル休みを狙ったが、
その度に

「じゃあ、病院の先生に
診て貰おうか?」

と返されるので、
ズル休みは出来なかった。

病院なんかに連れて行かれたら
当然、仮病がバレてしまう。


父親に
「どうして学校に行きたくないの?」
と聞かれても、
まだ6歳だった私は、
「漠然とした不安」を
うまく説明することが
出来なかった。


今思えば、
「先生が怖かったからだ」
と説明出来るが、

当時の私は、
自分の気持ちに
気付けずにいた。

「先生が嫌だ」
「先生が怖い」

ではなく、

「何となく嫌だ」
「あそこには行きたくない」
「自分でもよく分からない」

父親を納得させられるような
うまい言葉が
出て来なかった。

だから私は、ひたすら
「嫌だ」「行きたくない」
を繰り返し、泣くしかなかった。


父親が、
泣きじゃくる私の手を引き
一緒に登校した時もあったが、

学校の玄関までは行くが、
中には入ろうとしなかった。



学校に着いた時には
もう 授業が始まっていて、
父親は、嫌がる私を
ムリヤリ教室に
入れようとした時があった。

私は、父親や
担任のシマダ先生に
殴る蹴るの抵抗をし、
頑なに拒否した。



その時に、
私を助けてくれたのが
「児童館」の存在だった。


No.18 12/03/21 01:04
ライカ ( 6Rs31 )

学校の校門を出て
すぐ左側に

児童館があった。

私は、学校帰りに
よく 児童館に寄って
遊んでいた。


登校拒否が始まって

学校まで行ったが、
中に入ることが出来ず、
その帰りに、
児童館に寄ったことがあった。

その時は、母親が一緒だった。

児童館の館長に、
私の登校拒否を
母親が説明した。

その時に、館長が

「学校には、
無理に行かなくてもいいです」
「学校には行かなくていいから、
ここ(児童館)には
いつでも来てくださいね!」


館長のオバチャンが、
私と母親に
優しく言ってくれた。


それからは、
学校ではなく
児童館に通うことにした。
毎日、お弁当を持参。

午前の9時頃
児童館へ行き、

誰も居ない
ホールを独り占め。

縄跳び
フラフープ
つり輪
ジャングルジム
トランポリンなど

独りで、自由気ままに
遊具で遊んだ。

遊具で遊び疲れたら、
プレイルームで

館長と一緒に、
お絵描きや、おはじき。
オルガンを弾いたり、
オセロをやったり。

館長に、
茶道を習ったこともあった。

和菓子と
抹茶が出て来た。

和菓子も抹茶も
凄く美味しかったなぁ。


学校が終わる、
午後3時頃。

沢山の生徒が
児童館に来ると
私は祖父母宅へ帰る。

そんな毎日を送った。


遊具の倉庫の中に、
気になる乗り物があった。

「一輪車」だった。


No.19 12/03/21 01:33
ライカ ( 6Rs31 )

テレビで
一輪車に乗る女性を
観たばかりなのもあり、

私は館長に
「これ、乗ってみたい!」
と頼んだ。

テレビを見ながら
「ペダルが無いのに、
どうやって跨がるんだろ?」
と、不思議に思っていた
乗り物であった。

サドルを手間に
斜めに傾ければ
簡単に跨げるのに。

6歳だった私には
それが分からず、
サドルを垂直に支えたまま
ピョンピョン跳ねていた。


館長は笑いながら
「こうやって乗るのよ」と、
サドルを手間に傾けてくれた。

「これ、乗れるようになるまで
かなり時間がかかるよ」
「とても難しいよ」
「やってみる??」

事前に、
いかに一輪車が難しいかを説明。

でも、私は
テレビで観た、
一輪車の強い印象が
頭から離れず、

「頑張ります!」
と 意気込んだ。


一輪車に出会ってからは、
午前9時~15時までの時間は、
一輪車の練習に変わった。

何度も何度も転んで、
痣を作って。

でも、徐々に少しずつ
乗れるようになっていき、

「今日は○メートル!」

…達成感に
満たされる毎日を送った。


  • << 23 ※訂正※ ❌ サドルを手間に ⭕ サドルを手前に

No.20 12/03/21 01:42
ライカ ( 6Rs31 )

児童館で
楽しく過ごす
毎日を送るうちに、

だんだんと
学校に通う勇気も
湧いてきて、

少しずつ、
登校も復活していった。



参観日の日が
やってきた。

参観日には
母親が来てくれた。

当時の母親は、
今、当時の母親の写真を見ても
思うけれど

実年齢よりも
かなり若くて、
かなり美人だった。

参観日に母親が来ると
かなり目立っていた。

クラスメイトが
後ろを振り返りながら
「あれ、誰のお母さん?」
「凄くキレイ!」
と、ざわついた。



私は全く
覚えていないけれど

件の「体罰先生」が
授業の終わりに、
とんでもない発言をした。


【人間の肉が
一番うまいらしい】


どんな話の流れで
こんな発言をしたのか、
母親も よく覚えていないようで
詳細は、分からず。

でも、ここで
母親は悟った。


【ライカの
 登校拒否の原因は
  コイツだ…。】


No.21 12/03/21 01:55
ライカ ( 6Rs31 )

母親は、その日の夜
真っ先に、父親に報告したらしい。

ライカの登校拒否の原因は
頭のイカレた、
あの担任のせいに
違いないと。


両親は、
「事実確認」をしたらしい。
(後に父親から聞いた)

学校や、担任のことを
色々調べて、
両親で話し合った結果、

隣の区画の学校に
転校させようと
言うことになった。


私は、二年生の新学期から
違う学校に 通うことになった。


これは ハッキリ
覚えているが、

私と同じく、
3月の修了式と同時に
転校していった生徒は

私を含めて
同じクラスで
5人も居た。

これは
たまたま重なったのか、

シマダ先生が 原因での
5人なのか…


それは 分からない。


No.22 12/03/21 02:10
ライカ ( 6Rs31 )

学校に 未練は無かったが、

児童館とのお別れは
かなり辛かった。

児童館の最後の日は、
閉館の時間まで 遊んで

母親に
迎えに来て貰った。


母親と 私は、
館長に、深々と頭を垂れ、
お礼を言った。


館長は、明るく
「また、いつでもいらっしゃい!」
と言ってくれた。

児童館の館長は、
細身で、
頭は短髪パーマ。
大阪のオバチャンみたいな
感じの人で、

良いものは良い
ダメなものはダメ

褒める時は
シッカリ褒めてくれるし、

叱る時は
ビシッと叱る。

私にとって、
「母」のような存在でした。


No.23 12/03/21 04:41
ライカ ( 6Rs31 )

>> 19 テレビで 一輪車に乗る女性を 観たばかりなのもあり、 私は館長に 「これ、乗ってみたい!」 と頼んだ。 テレビを見ながら 「ペダルが無い… ※訂正※

❌ サドルを手間に
⭕ サドルを手前に


No.24 12/03/21 06:39
ライカ ( 6Rs31 )

■小学二年生■

新学期から
別の学校へ通った。

引っ越して、
家も
広い一軒家になった。


新しい学校は、
先生には馴染めたが

相変わらず、
クラスメイトとは
うまく行かなかった。


ある日を境に、

「ライカに触ると
 カビ生える~♪」

突然、クラス全員から
爪弾きにされた。

なぜ、「カビ生える」なんて
言われ始めたのか、
全くもって、分からなかった。

大人になった今でも
分からない。


私を爪弾きにしている
クラスメイトの中で、
リーダーのような
存在の女の子が居た。

名前は、サワダ アキコさん。

艶やかな長い髪と、
整った顔立ち。
綺麗な女の子だった。

長い髪で
足も速かったことから
あだ名は「ジョイナー」


とある日の、昼休み。

サワダさんを中心に、
3人程の女子に
取り囲まれ、
虐められていた。

私は、泣きながら
ずっと耐えていたが
とうとうブチ切れ。

サワダさんの腹を
3回も 蹴って
抵抗してしまった。


「うわ~!!」
「ライカ最っ低!!」
「サワダさんに謝れ!!」
「ライカ、怖い怖いっ(笑)」


周りの取り巻きは
散々私を責め立て、
「怖い怖い」と
笑いながら逃げていった。

なぜ 理由も無く
虐められていた私が
謝らなくちゃ ならないのか…

私は、謝ることはせず。
そのまま5時間目に突入。

サワダさんは泣いていたが
その時点で
先生に言い付けることは
しなかった。

5時間目が終わると
私は早々に、家に帰った。


サワダさんが
ちくったのは
次の日の
朝礼の時だった。

日直が
「今日、具合悪い人は
いますか?」
と、毎日必ず聞く。

この時に、サワダさんが

「ライカさんに
3回蹴られた
お腹がまだ痛いです」

と みんなの前で言った。


No.25 12/03/21 07:01
ライカ ( 6Rs31 )

勿論、それを
担任の先生も 聞いていた。

「ライカさん、
 サワダさんに、謝った?」

先生に聞かれ、
私は無言で
首を横に振る。

「なら、ちゃんと謝ってね」

私は渋々
サワダさんの方を向いて

「スミマセンでした…」

と 謝った。
サワダさんは
無言で着席した。

私が蹴ったのも
勿論悪かったけど

私を取り囲んで
虐めるのは
許されるんだね…


取って付けたように
言い訳がましいような気がして
私が、複数人に囲まれて
虐められていたことは
先生には言えなかった。

そもそも
「虐められている」ことが
自分でも、情けなくて
惨めで、恥ずかしくて、
両親にすら言えなかった。



担任の先生のことは
とても大好きだった。

だから、
サワダさんを蹴った事実を
先生に知られたことが
とても恥ずかしくて
気まずくて
辛かった。


No.26 12/03/21 07:10
ライカ ( 6Rs31 )

小学二年の時の
担任の先生は

当時24歳の
「サンカク」先生。
苗字が「三角(みすみ)」だから
「サンカク」先生。

字も、絵もうまくて、
スポーツマンタイプの
格好いい先生だった。

イラストと一緒に
100個マスを描いて
コピーしたものを
クラス全員に配った。

「マラソンカード」と
書かれている。

昼休み時間や、放課後に
学校の周りを何周走ったか。
頑張って走った分だけ
先生は丸いシールをくれて。

それを、マスにペタペタ
貼っていく。

丸いシールが
30個集まったら
「銅メダル」
60個集まったら
「銀メダル」
100個集まったら
「金メダル」と
「胴上げカード」をくれた。

金・銀・銅のメダルは
先生の手作り。
プラバンで作ったもの。

※プラバン
薄いペラペラの
プラスチックに
絵や文字を書く。
それを
オーブントースターで焼くと
アッと言う間に縮んで
厚みのある、
小さなプラスチックになる。
一時期流行った(?多分)。


メダルと言っても
形は丸くなく、
角の丸い、長方形だった。

メダルには
鉢巻を巻いた男の人が
笑いながら、
ゴールテープを
切っている絵が
描いてあった。


胴上げカード一枚で、
サンカク先生の胴上げを
一回させて貰える。

一回の胴上げで、
3回、持ち上げてくれた。

胴上げカードは、
マラソンの他にも、
何かを頑張った時に
先生はくれた。

胴上げカードを
まとめて3枚使って、
一度に たくさん
胴上げして貰っていた
クラスメイトも居た。

誰からも好かれる
人気の先生であった。


No.27 12/03/21 16:40
ライカ ( 6Rs31 )

サンカク先生のお陰で、
学校には通えた。

クラスメイトには
相変わらず嫌われていたけど、
私は 笑顔で登校出来た。



学校生活は
担任の先生のお陰で
何とか、楽しいものになった。

でも また
私の障害になるものは
表れた。


祖父母宅に
パラサイトしている
母親の兄(次男)である。


No.28 12/03/21 16:58
ライカ ( 6Rs31 )

私は、最初は「鍵っ子」だった。
学校が終わると、
だいたいの日は、
真っ直ぐ家に帰っていた。



同じクラスの男子で
ハヤシシタ君と言う
友達が居た。

「ライカに触ると
 カビ生える」

これを無視して、
お構い無く接してくれた
数少ない友達の中の一人。

私は この頃、
もの凄く「ファミコン」に
憧れていた。

リカちゃん人形や
リカちゃんハウスなどは
クリスマスや
誕生日に買って貰えたのに、

ファミコンだけは、
買って貰えずに居た。

ハヤシシタ君は
たくさんの
ファミコンカセットを
持っていた。

勿論、
ファミコン目当てで
ハヤシシタ君と
友達になった訳ではない。

もともと
ハヤシシタ君は
とても明るく、剽軽で、
冗談ばかり言って
みんなを笑わせてくれる
面白い子で。

そんなハヤシシタ君と
一緒になって笑っているのが
楽しくて、好きだった。
(恋愛感情は無い)

そのハヤシシタ君が
たまたま、
私の憧れだった「ファミコン」を
持っていた、と言う話。


学校帰り、
ハヤシシタ君の家に
お邪魔して

ハヤシシタ君がプレイする
ファミコン画面を
見せて貰っていた。

やらせて貰ったことは
勿論あるけれど、
ハヤシシタ君の家でしか
触ったことのない、ファミコン。

下手過ぎて、
私は全然クリア出来ず。

結局
「私には出来ないよ」
「ハヤシシタ君、やって」
と言う流れに。


No.29 12/03/21 17:21
ライカ ( 6Rs31 )

そんなある日、
私は、鍵を無くした。

その日も、
ハヤシシタ君の家に
お邪魔していた。

夕方、家に戻ると
鍵が無いことに気付く。

私はすぐさま
ハヤシシタ君宅へ
また向かった。

「またごめんね!」
「私の鍵、見なかった!?」

ハヤシシタ君も
一緒になって、
真剣に
鍵を探してくれた。

ハヤシシタ君の
家の中は勿論、

学校の帰り道を
くまなく歩いたり、

学校に行って
落とし物に鍵が無いか
聞いてきたり。


それでも見つからず。

日も落ちてきて
ハヤシシタ君の
お姉さんも帰ってきた。

お姉さんは
学生ではなく社会人だった。

ひとまわり、
年の離れた姉だと聞いた。

お姉さんに事情を話し、
お姉さんも
必死になって探してくれた。

そのうち
ハヤシシタ君の
お父さんまで帰ってきて…。

ハヤシシタ家
一家総出で鍵探し。


…それでも、やっぱり
見つからなかった。


No.31 12/03/21 17:41
ライカ ( 6Rs31 )

仕方無く、私は
父親が帰ってくる時間まで
ハヤシシタ君の家に
居させてもらった。

夜の7時くらいまで
だったと思う。

ハヤシシタ君の家で
私はビクビクしていた。

「どうしよう?」
「どうしよう?」
「お父さんに
メチャクチャ怒られる…!」

ハヤシシタ君は
「まぁまぁ、落ち着けよ」
「正直に話せば
父ちゃんも許してくれるって」
と 元気づけてくれた。


夜7時過ぎ、
家に戻ると、明かりがついてる。


案の定、
父親、頭に角を生やして
仁王立ち。

「お前、こんな時間まで
どこに行っていたんだ」

私は、ハヤシシタ君の
言った通り
正直に、事情を話した。

父親は、メチャクチャ怒鳴った。

「鍵を拾った人間が
ここの家の鍵を開け、
盗みに入ったらどうするんだ!」

鍵に、家の住所が
書いてある訳じゃあるまいし
そんな「低確率」なことを
怒鳴り散らされても……。

それとも、泥棒ってヤツは、
鍵を拾ったら
そこら中の家という家の
鍵穴を、差して回って
ドアが開くかどうか
確認をするのだろうか?


【ハヤシシタ君が
鍵を取ったんじゃないのか!?】

私は
一番言われたくないことを
激しく言われてしまった。

「ハヤシシタ君は
そんな友達じゃない!!」
「やめてよ!!」

泣きながら
強く言い返したが
父親の怒りは収まらず。

私はゲンコツを貰った。


怒鳴り散らされたことよりも
ゲンコツを貰ったことよりも

ハヤシシタ君に
疑いの目を向けられたのが、

一番傷付いた。


No.32 12/03/21 17:51
ライカ ( 6Rs31 )

結局、家の鍵は
学校の落とし物に
届けられることも無く。

どこで消えたのか
分からず仕舞いに終わる。


鍵を無くした私は
両親から

「お前には、もう二度と
家の鍵は渡さない」

「学校が終わったら
ここの家には寄らず
真っ直ぐに
おじいちゃん・おばあちゃん家に
行きなさい」

と 言い渡された。


もともと、
弟と私 2人だけで
留守番させておくのも
不安だったし、

弟と私が
両親不在の家に
友人を連れて来るのも
イヤだったらしい。

私達が 3歳と1歳だった頃、
夜中置き去りにして
仕事に行っていたクセに…
今更何を言うのか。


鍵を無くしてからは、
祖父母宅に、帰宅することになったが、
ハヤシシタ君の家に
遊びに行くのはやめなかった。


No.33 12/03/21 18:05
ライカ ( 6Rs31 )

二年生の時の初夏から

地獄の日々が
続くようになった。


祖父母の家。
兎に角 暇なのだ。

昔ながらの
「質素」な家。

全く、娯楽が無い。

唯一ある娯楽は
囲碁将棋のみ。

囲碁将棋は
弟が好きで
おじいちゃんとよく
指していたが

私は
全く興味持てず。


祖父母の家だから、
好き勝手遊べない。

祖父母が心配するし、
帰りが遅いと
両親に告げ口されるかも
しれないから

ハヤシシタ君の家にも
自由には行けなくなった。


祖父からの
「勉強しなさい」
「漢字を覚えなさい」
の言葉が 苦痛だった。

テレビも
相撲・野球・ニュースのみ。

お陰で私は、
クラスメイトの話に
ますます付いて行けなくなった。

テレビアニメ
バラエティー番組
アイドルや、歌

私には、何が何だか
全く分からなかった。


「地獄」は
これだけでは 済まなかった。


No.34 12/03/21 18:21
ライカ ( 6Rs31 )

祖父母宅には

祖父母の次男が
パラサイトしていた。

この叔父、
若干の知的障害があり、
普通には働けるものの
人を疑うことを知らず。

いつも、他人に騙されては
金を巻き上げられる。

このことが
無職と関係があったかもしれないが…

よく分からないが
叔父はずっと家に居た。


この叔父から
私は

性的虐待を
受けるようになった。

この時 私は
まだ7歳。

叔父は
所謂「ロリコン」と言うヤツだ。


「性的虐待」の切欠は、
叔父に見せられた
無修正のパンフレット。

「ライカちゃんに、
“イイもの”見せてあげる」

そう言いながら
机の引き出しから
取り出した。

叔父は、その無修正モノを
「バスの運転手に貰った」とか
言っていた。
運転手が、赤の他人なのか
知り合いなのか、友人なのかは
定かではないけども。

「お父さんや、お母さんには
絶対に内緒だよ!」


パンフレットの内容は、

バスタブの
縁に座った 裸の女性が
指でパックリ
陰部を開きながら
放尿。

男に、陰部を舐められている。
これが2ページ。

他にもあったが、
他の内容は忘れてしまった。


7歳の私からすれば
衝撃的な内容だった。

ただただ衝撃的で…
でも、
意味は当然 分からなかった。


No.35 12/03/21 18:34
ライカ ( 6Rs31 )

叔父は更に

「こうすると、
男の人は、気持ち良くなれるんだ」

そう言いながら
私の前で ブツを晒し
しごいて射精。


私は 意味も分からず
ただただ 見せられた。

子供の作り方すら知らない
7歳の私。

セックスの意味も
方法も、当然知らない私。


叔父からは
そのうちに

されるがままに
なっていった。


触られた、舐められた
キスされた。

意味の分からない
私からすれば

「これは一体、何なの?」
「私は何をされているの?」

この程度だった。

でも、
脱がされて、
裸にされていたから
何となく

「叔父さんは
お父さんと、お母さんには
絶対に言うなって、言ってるし」
「私は多分
いけないことをしているんだ」

と言うことは、分かっていた。
言おう、言おうとは
何度も思った。

「叔父さんが、私に
変なことをしてくる」と。

でも、

「誰かに話したら
私は、激しく怒られる」
「私は軽蔑される」
「お父さんに、
ゲンコツされる」

そう思って
とてもとても怖くて
言えなかった。

自分は
「被害者」ではなく
「共犯者」だと思っていたから。


No.36 12/03/21 18:50
ライカ ( 6Rs31 )

叔父からの性的虐待は、
小学校3年生の
終わりまで続いた。

小学校4年生から
遠くに引っ越して
祖父母宅から
離れることが 出来たからだ。


学校も
小学校二年生までは
何とか通えた。

でも
小学校三年生に上がると
私の好きだった
サンカク先生は、
別の学校へ 行ってしまった。

三年生からは
コムカイ先生と言う
髪の長い
綺麗な先生が担任になったが

コムカイ先生は
新学期早々「おめでた」なり
産休に 入ってしまった。

コムカイ先生の代わりに来た
○○先生…。
女の先生で。
名前を忘れてしまった。

担任の先生で
唯一、名前を忘れてしまった先生。

それだけ 印象に残らない
「どうでも良い」先生だった。

三年生に上がってから

クラスメイトからは
ますます虐められるようになり、

祖父母宅に帰るので、
ハヤシシタ君とも
前ほど遊べなくなり、

学校から 祖父母宅に戻れば
叔父からの
「虐待」が待っていた。

父親が
祖父母宅に
私達を迎えに来るのは
夜8時過ぎ。

母親は、父親よりも
遅く帰って来るので
迎えに来るのは
必ず父親だった。


家に戻ると、
「さて、子供は寝る時間だ」と
早々に 寝かし付けられた。


虐め、性的虐待、
両親に触れ合えない毎日…


この頃の私が
今までの人生で、
一番辛かった時期かも
しれない。


No.37 12/03/21 19:10
ライカ ( 6Rs31 )

この頃の私は
今思い返すと、
かなり荒んでいた

…のかもしれない。


まず、
散々、万引きをした。
「これでもか!」ってくらい
万引きをした。

毎月の小遣いが無く、
お正月に貰ったお年玉を
少しずつ 切り崩して使う。

そのお年玉ですら
自由には使えなかった。

学校の校則で
「子供だけで、
1000円を超える買い物禁止」
と言うものがあった。

一度だけ
クラスメイトに

「消費税3%」ぶん
1000円を超えて
会計しているところを見られ、
担任に
チクられたことがあった。

かと言って、
親同伴で買い物をすると

「ライカ!
こんな物を買うのか!」
「一体、ナニに必要なんだ?」
「お年玉をくれた
親戚の叔父さん・叔母さんが
悲しい顔をするぞ!!」
「もっと有意義に使え!!」

お年玉で
私の好きな物を買おうとすると、
父親に、メチャクチャ怒られた。

こうなったらもう、
盗むしかないと。
そう思った。

物欲がとどまることを知らず。
毎日爆発していた。


ローラー付き消しゴム
香り付き消しゴム
消しゴム付きの鉛筆キャップ
色んな色が揃ったマジックペン
ビー玉に、おはじき。
スナック菓子。


文房具(特に消しゴム)を中心に、
万引きの限りを尽くした。


たっくさん万引きしたものを
お菓子の缶の中に入れ、
「うほー♪」
「ザックザクだ~♪」
と、ほくそ笑むのが
好きだった。


  • << 39 ※訂正※ お菓子は 万引きしたことが無いのに 「スナック菓子」と 打ってしまいました。 万引きは、 手のひらに隠れる 消しゴムがメインでした。

No.38 12/03/21 19:44
ライカ ( 6Rs31 )

弟の お小遣いも
盗んで使った。


弟は、コツコツと
100円玉貯金をしていた。
「肝油」の丸い空き缶に、
100円玉を、少しずつ入れて。

弟が、
どうやって貯金していたのか
それは忘れてしまったが。

家の手伝いか何かを
していたのかもしれない。


居間にある
高い位置の戸棚に
肝油の空き缶があるのは
知っていた。

踏み台を使って
ギリギリ届く場所に
隠してあった。


私は、
弟が 100円玉を
肝油缶に 足していく度に
バレない程度の枚数を
盗んで使っていった。
一度に、300円程度。

盗んだお金を使うのは、
買い食いをする時だけだった。

かさばるお菓子は
万引きには
向かなかったから。


万引きや、弟の貯金。
私はすっかり
「盗み癖」がついていた。

知り合い宅に行って
小銭があると、
すかさずポケットへ。

バレたら面倒だから
直ぐに使ってしまう。

盗んだ小銭は、
スナック菓子や
アイスクリームに
消えていった。


No.39 12/03/21 19:50
ライカ ( 6Rs31 )

>> 37 この頃の私は 今思い返すと、 かなり荒んでいた …のかもしれない。 まず、 散々、万引きをした。 「これでもか!」ってくらい 万引きを… ※訂正※

お菓子は
万引きしたことが無いのに
「スナック菓子」と
打ってしまいました。

万引きは、
手のひらに隠れる
消しゴムがメインでした。


No.40 12/03/22 03:50
ライカ ( 6Rs31 )

サワダさんよりも
タチの悪い、
悪戯や 虐めを
してきた女子が居た。

名前は
タカハシ リカ。

この子は
サワダさんなんかより、
うんと最悪だった。


サワダさんは
みんなから好かれていたが、
タカハシさんは
みんなから嫌われていた。

小太りで、つり目気味。
一重の細い目。
ショートカット。


なぜ私をターゲットにしたのか
分からないが

タカハシさんからの
無言電話。

連絡網を見て、
散々、私の家に
無言電話をかけてきた。

タカハシさんの仕業だと
分かった理由は、

無言電話中、
家族と話している
タカハシさんの声が、
受話器越しに
聞こえてきたからだった。

母親「リカー?誰に電話してるのー?」
リカ「誰とも(電話)してないよ」

暫くしてから
ガチャンッ…
ツーッ、ツーッ、…

こんな失敗をやらかしたのに、
執拗に無言電話を繰り返してきた。

単純なプッシュフォンか
リンリン電話が
主流だった時代。
「着信拒否」なんてマネは
当時出来なかった。


学校で会った時に
「タカハシさんでしょ?無言電話」
「分かってるんだから。止めてよね!」
と、問い詰めたことは
何度もあったが、
当然、タカハシさんは
しらばっくれる一方。

ニヤニヤと笑いながら
「何言ってるの?リカじゃないよ?」

…完全に、私をバカにしていた。


いい加減、頭に来て
父親に頼んで、
電話に出て貰った。

父親、一喝。
ドスの利いた声で

「コラァーーーーー!!!!」
(ゴルァー!!に近い発音)


…それっきり
無言電話は
一切無くなった。

でも、嫌がらせは
無言電話に留まらなかった。


No.41 12/03/22 04:14
ライカ ( 6Rs31 )

私のお金や
持ち物を、

盗んで、使う。
堂々と、やってのけた。

私の筆箱から
消えたものを、
私の目の前で、
堂々と使っていた。


「それ、私の筆箱から取ったよね?」
リカ
「いいや、私が買ったんだよ」
…コレの繰り返し。
私の筆箱から消えたものが
翌日、
タカハシさんの、手元にある。

何度も何度も
同じことがあった。


お金は、
「盗まれた」のではなく
「ネコババ」だったが。

タカハシさんと、私は
同じスイミングスクールに
通っていた。

級が違うので、
一緒に習うことはなかったが。
私は、
スイミングスクールの
送迎バスの中に、
赤い小銭入れを
忘れてしまった。

結構、パンパンに入っていた。

でも、
バスの運転手から
「これ、忘れ物だよ」
と 渡された時、

小銭入れが
かなり薄くなっていた。

私が置き忘れた小銭入れを
運転手に渡したのが、
タカハシ リカだった。

私は、運転手に聞いた。
「小銭入れ、
もともとこんな感じでした?」
「ん?どういう意味??」
「もっと、パンパンだったんですよ」
「渡された時から、こうだよ」

バスの運転手よりも、
無言電話で嫌な思いをさせられた
タカハシさんを疑ったし、

99%、タカハシさんの仕業だろう。

小銭入れには、
私の名前が書いてあった。

ライカの財布(金)か…
堂々と使ってやろう。

そう、思ったのかもしれない。

このことについても、
勿論、本人に問い詰めた。


「私のお金、使ったよね?」
リカ
「いいや、使ってないよ」

「バスの中でアンタが拾ったんだから、
アンタしか犯人居ないんだよ(笑)」
リカ
「勝手に犯人にしないでよ」

「だから~、盗めるの、
アンタしか居ないんだって(笑)」
「アンタ、馬鹿でしょ?(笑)」
「馬鹿だよね(笑)」


“盗めるのは
 アンタしか居ない”

そういうワケではないけれど、
タカハシさんの態度
(強く否定しない)から
「コイツが犯人に違いない」と、
散々見下して、
散々言ってやった。


私だって、
弟の金を盗んだり、
万引きしたり。

最低なのは、
お互い様だった。


No.42 12/03/22 04:34
ライカ ( 6Rs31 )

父親から受けた
嫌な思い出を
綴っておく。

いずれも、
小学2~3年生の頃の
出来事になります。



父親には兄弟姉妹が多く、
必然的に
親戚も多くなる。

父親の兄弟姉妹(叔父叔母)に
会いに行くために、

遠出(旅行)をすることが、
年に数回あった。


父親の姉の家に行った時、
私は、この叔母と
街中を散歩した。

街中といっても、
寂れたショッピングモールで、
歩道にはアーケード(屋根)が。

叔母と一緒に歩いていると、
おもちゃ屋があった。

何となく、
フラリと立ち寄った。

そこには、
私が、欲しくて欲しくて
たまらない
「LEGOブロック」があった。


私は、つい口をついてしまった。
叔母の前で
「…いいな~…」と。
つい言ってしまった。

叔母は
「ライカちゃん、
コレが欲しいのかい?」
と聞いてきた。

「…。」
私は無言のまま
LEGOブロックを通り過ぎ、
おもちゃ屋を出た。


後日、驚いたことに、
この叔母から
私が「いいなぁ」と言いながら
眺めていた
LEGOブロックが届いた。

私はビックリし、
大いに喜んだ。


…でも、
父親は、カンカンだった。


「お前が、余計なことを
言ったんだろう!?」
「叔母さんに強請ったんだろう!?」
「叔母さんに、今すぐ電話しろ!!」
「電話して、謝れ!!」
「今すぐにだ!!」

父親に、頭を殴られた。

私は、少し飛んで、
床に倒れ込んだ。


メチャクチャ痛い頭を
押さえながら、
メチャクチャ泣きながら、

私は叔母に、電話した。

電話に出た叔母は、
凄く驚いていた。

「ライカちゃん!?
どうして泣いてるの?」
「何があったの??」

父親に殴られた
とは言わず、
私は、LEGOブロックのお礼と
謝罪だけした。

「叔母さん、ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ブロック、
ありがとう御座いました」

父親と電話を変わってから、
父親は叔母(姉)に

「姉ちゃん、ゴメンな」
「ライカが余計なこと言ったんだろ?」

と、話していた。

私は、強引に強請ったわけでも、
タダをこねたわけでもない。

口をついて
「いいなぁ」と
漏らしてしまっただけなのに。


体が浮くまで
殴るなんて…。


No.43 12/03/22 04:59
ライカ ( 6Rs31 )

父親から
ムリヤリ見せられた
テレビ番組があった。

「カメラは見た!決定的瞬間」
…だかって番組。


その番組で、

スタントカーが、
縦列駐車した
4台の炎上バスを

縦に突っ切る

と言う内容のものが
放送された時があった。

父親が
「こういうのは大事だから」
「いいから見なさい」
と、ムリヤリ見せてきた。

縦列駐車した4台のバス。
炎上してる。

車のドライバーは
確か、ドイツ人だと思った。

スタントマンの、
奥さんと、
まだ幼い子供も
見に来ている。



スタントカーが
バスを突っ切った。

スタントカーは
バスから出て来たけど、

失敗して、
スタントマンは
亡くなった。

スタントカーの屋根と一緒に
ドライバーの首も
スッ飛んでしまった。

バスに突っ込んだ時、
車の位置が高過ぎて、
バスの屋根に、
ぶつかったようだった。

普通の車だったのに
バスから出て来たら、
「オープンカー」に
変わっていた。


「車のペダルに見える、アレ」
「アレは、ドライバーの肩だよ」

父親が、ニヤニヤと笑いながら
説明した。


…私は、
渋い、苦い顔をしながら
番組を見ていた。

スタントマンの奥さんが、
泣いていた。


こんなモノ、
見たくなかった。

今でも、忘れられない。
トラウマ気味。


この番組(内容)の
一体ナニが「大事」なのか。

「親」になった、今の私にも
全く 分からない…。


No.44 12/03/22 05:25
ライカ ( 6Rs31 )

>> 43 調べてみました。

スタントマンの名前は、

ベルギーの
アラン・バンクスさん。

YouTubeで
映像見られます。


私は 怖くて
とてもとても

クリックする勇気は
ありません…。

No.45 12/03/23 01:35
ライカ ( 6Rs31 )

父親から
ムリヤリ見せられたものが、
もう一つ あります。

それは、
教育の一環(?)として
読まされた、

丹波哲郎の
「大霊界」だかって本。

どんな人間が天国に行って、
どんな人間が地獄行きなのか。
文章と、
イラスト・写真を使って
説明されていた。

天国のことは、
よく覚えてない。
地獄のことばかり、
頭にこびりついてる。

転がってくる大岩。
剣山。
煮えたぎった血の池。

血を流しながら、
地獄で苦しむ魂達。


地獄に行くのは、

性欲にまみれた人間。
詐欺師など、嘘を付く人間。
(“嘘も方便”は入らず)
自殺者と、殺人者。

ほかにもあったと思う。

私は、
「自分は間違い無く
地獄行きだな…」
と思った。

弟の金を盗み、
万引きを繰り返す。

そして、
「叔父」との関係。


「神様、私は悪い子です」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」

毎日毎日、
そう思いながら暮らした。

地獄のことを考えると、
怖くて怖くて、
涙が止まらなくて、
眠れない日もあった。

壁の模様や、
電気の傘の模様が、
(松の絵が描いてあった)
地獄で苦しむ
魂の歪んだ顔に見えた。

夜が、とても怖かった。


でも、
私の盗みや万引きは、
留まることを知らず。

叔父からの虐待も、
相変わらず続いた。


No.46 12/03/23 02:08
ライカ ( 6Rs31 )

小学校3年生の夏、
やっと、父親から
ファミコンを買って貰えた。

一緒に買ったカセットは、
「忍者じゃじゃ丸くん」
「スーパーマリオブラザーズ3」

ファミコン本体と、
じゃじゃ丸くんは
中古で買ったが、

マリオ3は
新品で買った。

ゲームのお約束。
「1日一時間までだぞ」

1日一時間と言っても、
ほとんどの時間を
祖父母宅で過ごしていた私達には、
ゲームをやる時間なんて
あまり無かった。

ゲームを出来たのは、
週に1~2度。
父親の仕事が休みの日と、
母親の仕事が休みの日、
どちらかだった。

父親が休みの日は、
たいてい、家族で外出なので、
ゲームは殆ど出来なかった。

でも、
母親の規制が緩かった。
母親自身が遊びたくて
「PCエンジン(ヒューカード)」
を買ってきていて、

母親が休みの日は、
母親の自室で
ファミコンや PCエンジンを
好きなだけやった。

それでも、
母親の公休は少なく、
好きなだけゲームが出来たのは
月に2~3日だった。


ここからが、嫌な思い出。

マリオ3を買った時、
父親から、また怒鳴られた。

「ちゃんと、
取扱説明書を読みなさい!!」
「全部読み終わるまで
遊んだらダメだ!!」

…そう怒鳴られて、
私は、マリオ3の取説持たされ
子供部屋に、閉じ込められた。

弟も、ファミコンで遊ぶのに。
何故か私だけ…。
(弟はこの時、小1だから
読めないと判断されたんだろう)

まだ昼の時間だったけど、
子供部屋に閉じ込められて、
凄く怖かったし、

せっかく「念願」の
ファミコンなのに、
物凄い 嫌な気分にさせられた。

私は、グチャグチャに泣きながら、
取説を読んだ。


ゲームなんて、
「体」で覚えるもの。

取説を読むのは、
どうしても分からない時だけだろう。

ムリヤリ閉じ込められて、
泣きながら取説を読んだって、
頭に入るはずもなく。

取扱説明書は、
文章より、
イラストばかりを見ていた。

30分くらいしてから、
やっと部屋から出して貰えた。


大人になってから
母親に このことを話したら、
ゲラゲラ笑いながら
「うわ~…最低だねw」
「あの人らしいわ!屁理屈屋!」
と、散々言っていた。


No.47 12/03/23 02:32
ライカ ( 6Rs31 )

ほぼ毎日、祖父母宅に
預けられていた 私達。

家族との時間は
少なかった筈なのだが、

父親から
「監視(軟禁?)」されている
記憶が多い。

勉強1つでも そうだった。
私は、父親から
「勉強しなさい!」と、
子供部屋に閉じ込められることが
とても多かった。

当然、子供部屋に一人だから、
勉強なんて、絶対やらない。
眠くて眠くて、しょうがない。
欠伸を沢山して、
目に涙を溜めてばかりいた。

でも、
油断してサボっていると
ドアを少~しだけ開けて
父親が
細い目をして見ている…。


祖父母宅で、祖父から
「勉強しなさい」
「漢字を沢山覚えなさい」
と、散々言われ

自宅でも、
子供部屋に閉じ込められ、
勉強を強制された私は、

どんどんどんどん、
勉強嫌いになっていった。

「いかにサボるか?」
「いかに勉強してる風を装うか?」
「ゲームの時間を増やすには
どうすべきか?」

こんなことばかり
考えるようになった。


勉強嫌いは、結局
ず~っと勉強嫌いのまま。

テストの前日に、
ムリヤリ詰め込む。

…なんてことすらしない。

私は所謂「低学歴」と
言うヤツです。


No.48 12/03/23 02:58
ライカ ( 6Rs31 )

■小学四~六年生■

父親が、椎間板ヘルニアになった。
暫くの間、
父親はほふく前進状態で、
車の運転も、ままならなかった。

私はよく、
父親の体を支え、歩くのを手伝ったり、
父親の職場(レストラン)の
本社に行って
書類を届けたりした。
(売上の報告だと思う)

どこの病院に行っても
溜まった水を抜いて
痛み止めを出されて終わるか、

「手術ですね~」と
直ぐに切るように言われるか。

「医者は直ぐに切りたがる!」
「冗談じゃない!」
父親は、医者に嫌気が差し、
自分でヘルニアに関して勉強。

なんと、
椎間板ヘルニアを、
自力で治してしまった。

腰にキツくバンドを巻いたり…
よくわからないが
何か色々やっていたと思う。

ちなみに、今現在に至るまで、
ヘルニアの再発はしていない。



父親と母親が、
離婚することになった。

離婚を機に、父親は、
自分が勉強を始めた
「カイロプラクティック」を
本格的に覚えて、
それを自分の仕事にしようと考え、

カイロプラクティックの
専門学校がある、大きな街に
引っ越すことになった。

父親と母親の離婚の事実は、
私も、弟も、
「離婚」とは聞かされず。

父親は、
「お母さんは
仕事が忙しくて辞められない。
一緒には来られないんだ」
と説明。

私は
「単身赴任みたいなモノか」
と解釈した。

母親も、
私達が引っ越した後、
時々休みを取っては
私達に会いに来ていたので、

私達姉弟は、しばらくの間
「両親離婚」の事実に
気付かなかった。


No.49 12/03/23 03:08
ライカ ( 6Rs31 )

私達は、父親に引き取られたが…


実は、私は
母親から見捨てられたのだと、
父親から知らされた。

母親は
「仕事だけをしていたい」
「自分で稼いだ金を、
家族に使いたくない」
「子供達の面倒なんて、もう嫌!」
「特に、ライカが面倒臭い」

そして、別れ際…

「おとなしい、Tちゃん(弟)なら、引き取ってもいいけど?」

と、母親は言ったらしい。
父親は、大激怒したと。

「姉弟を引き離すなんて!」
「この大馬鹿者が!!」

娘は面倒だから要らない。
大人しい息子なら引き取る。

姉と弟、同じ我が子なのに
「差」を付けて見ていた母親に
父親は、切れまくったと言う。


  • << 51 ※補足※ 母親から 見捨てられた話を 父親から聞いたのは 18歳以降です。 母親と別居して、 直ぐではありません。 読み返してみたら、 分かりづらかったので 補足させて頂きます。

No.50 12/03/23 03:21
ライカ ( 6Rs31 )

そんな言い方をしていたのに、
いざ、引っ越しです、
お別れです、

となった時、母親は泣いていた。
引っ越した後になって、
「やっぱり寂しい」と
電話も架かってきたらしい。

父親は
「今更ぬけぬけと」
「よくそんなことが言えるな」
と、母親を責めたと。


両親離婚の事実を知ったのは、
私が18歳の時であった。

「母さん家に遊びに行ったら
“旧姓”で届いてる封書を
何通も見つけてさぁ」

と、私が言い出したのが
切欠だった。

父親は、
「ライカももう、18歳だし…」
と、真実を教えてくれた。

「実はもう、
籍は抜いたんだけどね」と。

私は、
「ああ、やっぱりね」と、
特に驚かなかった。

旧姓で届く封書もそうだし、
母親は、一軒家を建てて
独り暮らしをしているし。

母親と離れてから、9年。
「今更」な話であった。


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