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2016/06/05 10:01(更新日時)

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No.1699028 (スレ作成日時)

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No.133

天安門事件とヘイトスピーチ規制法・日本政府やNHKは、民間人を大虐殺した支那政府を支援した!
2016/06/04 10:18
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6244.html?sp
天安門事件(89動乱、64事件、六四天安門事件、北京大虐殺)
6月4日は、「天安門事件」(89動乱、64事件、六四天安門事件、北京大虐殺)があった日だ。
1989年6月4日、天安門近くの「天安門広場」や「長安街大通り」などで、人民解放軍(支那軍)は、銃撃などによって学生を中心とする民間人を大虐殺した!
ところが、当時、支那当局は、「6月4日未明、戒厳軍は天安門広場で、一人の学生も射殺していない。ひき殺してもいない。天安門広場では流血事件は一切なかった。」と発表した。
天安門事件
https://www.youtube.com/watch?v=hNlZiVKDW_4
その後も、支那は、「流血・殺戮は無かった。」と主張しているが、嘘吐き支那人の馬鹿馬鹿しい嘘を信じる馬鹿はどこにもいない。
と思いきや、ところがどっこい、NHKは、視聴者から受信料を巻き上げ、公共の電波を使用し、しっかりと支那が主張どおり報じた!
天安門事件から4年後の平成5年(1993年)に、NHKは、『クローズアップ現代』において、「天安門広場に居た市民や学生は、人民解放軍軍と武力衝突なく、撤退した。」、「新しい証言と映像を基に検証した結果、『広場では一人も死んでいない』という侯 健の証言は極めて信憑性が高く、虐殺というものはなかったとはっきり言える。」と放送した。
NHKが「天安門広場では虐殺はなかった。広場では一人も死んでいない!」などとトンデモ放送をした平成5年(1993年)、支那は日本を除く世界中から制裁措置を受けており、窮地に陥っていた。
NHKは、そんな支那を窮地から救出しようとしたのだ。
3分でわかるNHKクローズアプ現代「天安門事件での虐殺は無かった」.mpg
https://www.youtube.com/watch?v=C-8a255cx5c

No.132

>> 131 ありがとう(*^o^*)

No.131

これ多分姉さんのスレだよな?
放置かもしれないが、一応上げとくよ。

No.130

>> 129 03年の匿名献金は7971万円と巨額。仮に1人当たり4万円献金しても、1年間で約2000人から集めた計算になり、匿名献金の内容に疑問の声が。
資金管理団体は、実際には献金していない「架空献金者」に税制上の優遇がある
「寄付控除」の証明書の交付申請をしており、法律違反の疑いを指摘。
架空献金者への証明書交付は、3年間で延べ75人、寄付総額1186万円に上る。
もしこれが寄付控除に使われていれば、所得税法違反に当たる重大な問題。
様々な疑惑が上がっているのに鳩山本人は説明をせず逃げ回る始末。
前代未聞の偽装献金による現職総理逮捕か??
疑惑継続中 

輿石 東 民主党参院会長の支持母体の山梨県教職員組合が
第20回参院選において、小中学校の教職員らから組織的に選挙資金を集めていたことが判明している。
また選挙対策本部が教員を有権者への電話作戦に動員させていたことも判明している。
これは、学校での政治的活動を禁じた教育基本法や教育公務員特例法の他、政治資金規正法にも違反している疑いがある。
さらに日教組会合にて「教育の政治的中立はありえない」という憲法の精神から外れる暴言を発言している。

No.129

>> 128 ◎06月  東京地裁で19日行われた西松建設の違法献金事件の初公判。
検察側は東北地方の公共工事受注で、民主党の小沢一郎前代表の側から落札業者を決める「天の声」が出され、西松建設はそれを得るためダミー団体も使い2億円を超す違法献金に手を染めていた、との驚くべき構図を明らかにした。
しかし、この件でいまだ小沢一郎は説明をせず逃げ回り、疑惑は本格的に真実味をもち、大久保容疑者の公判で明らかになるであろう。
被告有罪であれば小沢一郎も政治資金収支報告書違反となる。

◎07月  神奈川・相模原市の民主党所属の市議会議員・吉田悌容疑者(41)が2日、口論となった
飲食店(キャバクラ)従業員を殴ってケガをさせたとして、傷害の現行犯で逮捕された。
顔を殴り、打撲などの軽傷を負わせた疑い。吉田容疑者は当時泥酔だった。

◎07月  鳩山由紀夫代表の偽装個人献金問題が発覚。資金管理団体の収支報告書は、個人献金者の8割が偽装。
故人の名義や無関係な人の名義を無断使用するなど悪質。
“個人献金が少なかったので秘書が独断でやり、自分は知らなかった”
と秘書に責任を押し付けていたが、鳩山への個人献金は、10年間で5億9000万円と巨額。
しかも、資金管理団体の政治資金は少ないどころか、毎年、繰越金が出るほど余っており、鳩山氏の弁明と矛盾。
与党の調査で、02年~04年の3年間分に計900万円を超える個人献金の虚偽記載の疑いを指摘。
また、鳩山氏が虚偽記載をしていたとして05年以降、収支報告書で削除した人物の名前が03年に62人、04年に57人も記載されている。
10年間に受け取った個人献金5億9000万円のうち、法律上、名前を出す必要のない5万円以下の
「匿名献金」は実に約6割、3億4000万円に上る。

No.128

>> 127 また、07年にマルチ商法注意の広告を出した三重県内の社会福祉協議会へ、山岡議員・前田議員の名前で抗議書を送付し政治圧力をかける。

◎11月  増子輝彦参院議員・民主党「次の内閣」経済産業大臣が 業務停止命令のマルチ企業の監査役を務め、月額20万円の報酬を得ていたことが発覚。

2009年
◎03月  小沢一郎 代表の公設第1秘書、大久保隆規容疑者が準大手ゼネコン「西松建設」から政治団体をトンネルにして小沢一郎の政治資金管理団体「陸山会」へ事実上の企業献金を続けていたと、東京地検特捜部は3日、政治資金規正法違反容疑で逮捕

◎03月  24日、小沢代表の公設秘書、管理団体「陸山会」の会計責任者である
大久保隆規容疑者政治資金規正法違反(虚偽記載等)の容疑で起訴。 

◎04月  ダイレクトメール広告をめぐる郵便不正事件で、自称・障害者団体「白山会」の刊行物を装ったDMが、JP日本郵便の新東京支店から発送される前、 埼玉県の郵便窓口で一度断られ、牧義夫・衆院議員の秘書が口利きしていたことが発覚。
「白山会」会長・守田容疑者が経営する経営コンサルタント会社は07~08年、牧議員が代表の民主党支部に計24万円を献金。
「白山会」の有利になるよう、ライバル団体の制度悪用の実態を国会で質問したことが判明。
しかし、悪用していたのは白山会も同様で、公平性に欠けると言える。
倉沢白山会創始者から守田白山会長へ、制度悪用の方法伝授がされた場所が牧議員の事務所だと言うのも両者の証言から発覚。

◎05月  11日西松献金問題に関して何も説明できないまま、辞任理由も明確でないままに小沢一郎が民主党代表を辞任。
民主党から提案された党首討論2日前の突然の辞任に党首討論から逃げたという批判も多数ある。
西松献金授受に関して「やましいことはない」の一点張りで詳細の説明はない。
政治家として公設秘書逮捕と多額献金の授受の方法や使途に関する国民への説明責任は厳然と残されており今後、それが果されるかが焦点となっている。

No.127

>> 126 ◎6月  小沢一郎の不動産問題を取り上げた「週刊現代」の記事で名誉を毀損されたとして、小沢と民主党が講談社と著者の長谷川学氏らを訴えていたその控訴審判決で、
東京高裁(柳田幸三裁判長)が「記事は真実であり名誉毀損に当たらない」として
1審の東京地裁判決を支持。
    
小沢の請求は棄却され、講談社側が勝訴。
尚、小沢一郎は最高裁への上告を断念し判決は確定している。

◎8月  那谷屋正義参院議員(比例代表)の公設第1秘書、山村幸雄が群馬県渋川市半田の国道17号交差点で自転車を押して歩いていた福原敏夫さんをはねた。
福原さんは病院に搬送されたが、骨盤骨折による出血性ショックで死亡。
県警渋川署は山村を自動車運転過失致死容疑で書類送検の方向。

◎9月  民主党都議会・大沢昇、岡崎幸夫、猪爪まさみ、大西さとる 各都議会議員が、2006年10月都議会派遣の調査団ブラジル視察の報告書を2007年3月に提出したが、内容においてJETRO(日本貿易振興機構)制作レポートの一部分を、報告書のまとめ部分において101行中95行丸写しという意図的盗用。
ちなみに10日間の視察で視察費用は4人で765万円一人当たり191万円ある。

◎10月  マルチ商法業界と民主党議員の癒着が発覚。
前田雄吉衆院議員は、4年間で約1300万円もの献金などを受け取っていた上、業界擁護の国会質問を数年にわたり繰り返していた。
発覚後離党及び次期選挙への不出馬を表明。同議連を立ち上げ
名誉会長に就任した石井一副代表は計570万円
同議連会長だった山岡賢次国会対策委員長が計190万円
議連事務局次長の牧義夫衆院議員が計90万円
をそれぞれ受け取っていた。 

さらに民主党自体にもパーティー券購入の形でマルチ業界からの資金を受領。
一部政治資金規報告書への未記載も判明。

No.126

>> 125 ◎9月  室井邦彦参院議員(比例)の資金管理団体が、4月2日までに総務省に提出しなければならない
2005年・06年の2年間分の政治資金収支報告書を未提出だったことが判明。
政治資金規正法では、政治団体は収支報告書が2年続けて未提出だと、寄付を受けたり、支出したりすることが認められなくなる。

◎10月  渡部恒三衆議院議員 政治団体「新時代の会」渡部氏の甥である佐藤雄平福島県知事の自宅マンションを実際には使っていないのに「主たる事務所」として1993年から2004年の12年間総務省に届け出ていたことが判明、民主党最高顧問を辞任。政治資金報告書の記録では12年間の事務所費は計約9900万円、人件費、高熱水費などを含めた経常経費は約1億7824万円であった。

2008年編
◎1月  辻恵・前衆院議員で次期衆議院大阪17区候補者の著書、朝日などの新聞記事を無断引用。

◎2月  柿沢未途・東京都議が飲酒運転で事故で警察に検挙。

◎3月  阿部力也・世田谷区議(元小沢一郎秘書)が昨年の統一地方選の選挙中、運動員の女性にわいせつ行為をして、けがを負わせ強制わいせつ致傷の疑いで書類送検。
    
同年9月に被害者の告訴により民事裁判一審判決で賠償金支払い命令にて敗訴。上告中。
また10月、世田谷区議会より辞職勧告決議案を全会一致で可決。未だ辞職の痕跡なし!

◎4月  姫井由美子参院議員(岡山選挙区)を有印私文書偽造、同行使などの容疑で書類送検。

◎5月  平沼諭 橿原市議会議員(発覚後離党) が11年余にわたり市税636万6900円を滞納。
問題が発覚した当初、民主党奈良県連代表の馬淵澄夫衆院議員は同県連内で倫理委員会を開催し、真相解明を断言。しかし平沼が離党届を提出し、同県連は受理、調査や処分をしないまま真相究明も全く行わず党としての責任放棄。

No.125

>> 124 ◎4月  東京世田谷区議選で森 学区議が経歴詐称。6月に書類送検7月辞職。

◎6月  東京渋谷・温泉施設爆発事故発生の夜、まだ救出作業の最中,現場から 約200メートルの飲食店で民主党・渋谷区議7名他で親睦会を開催。

◎6月  大串博志・衆院議員が佐賀市で6月に暴力団組長の葬儀開始前に斎場に出向いて香典を渡す。

◎7月  末松義規・衆院議員が自身のブログで新潟地震被災地視察を渡部恒三を水戸光圀、自身を渥美格之進に見立てて
「黄門様の珍道中」
と表現、新潟県内で行った募金の金額の多寡で募金してくれた人を『差別』
さらに選挙中である黒岩宇洋らと一緒に、同じく選挙中である民主党の名義で集めた募金を民間のボランティア団体に渡したが、この行為が公職選挙法に違反の疑いもある。

◎9月  藤田幸久参院議員の公設第二秘書佐々木明宏容疑者を覚醒剤取締法違反で逮捕。

◎9月  池田元久衆院議員(比例南関東ブロック)、自身の資金管理団体が昨年開催した政治資金パーティー会場費150万円分の領収書を、勝手に作成して神奈川県選挙管理委員会に提出していたことが判明。

◎9月  筒井信隆衆院議員(新潟6区)が代表を務める「民主党新潟県第6区総支部」の05年分政治資金収支報告書と、筒井側が05年総選挙後に提出した選挙運動費用収支報告書に、切手代の同じ領収書のコピー3枚計22万1220円分が重複して添付されていたことが判明。

◎9月  山岡賢次国対委員長(衆院比例北関東ブロック)が約20年間にわたり、事務所としてほとんど使わなくなった東京都世田谷区の自宅を、資金管理団体「賢友会」の「主たる事務所」としたまま、移転手続きをしていなかったことが判明。

◎9月  羽田孜最高顧問(長野3区)は、支持者から事務所無償提供を受け、政治資金規正法で寄付として届け出なければならないにもかかわらず、「慣例になっていた」とずっと政治資金収支報告書に記載していなかったことが判明。

No.124

>> 123 2005年編
◎6月  鳩山由紀夫・衆院議員の私設秘書、寺坂康生容疑者を苫小牧署は酒気帯び運転による道交法違反の現行犯で逮捕。
◎9月  小林憲司前衆議院議員が覚せい剤で逮捕。
◎10月  五島衆議院議員政策担当秘書らが公職選挙法違反 (買収) で逮捕。12月に議員辞職。
◎10月  計屋圭宏前衆院議員 秘書に運動員を買収させたとして、公選法違反容疑で逮捕。
◎11月  西村真悟衆院議員(民主党除籍)弁護士法違反で逮捕。
◎12月  木俣佳丈参院議員(民主党離党)飲食店で女性従業員に暴力を振るい、傷害事件で逮捕。
現在議員辞職せず、現在民主党参院会派に復帰!!
2006年編
◎4月  永田 寿康前衆議院議員メール偽装問題で議員辞職。
◎7月  田中覚三重県議会議員が暴行容疑で津警察署に任意出頭したところを逮捕。
◎10月  細野衆院議員 山本モナキャスターとの不倫問題が発覚。党政調会長代理を辞任。
◎12月  岩手県議会議員で岩手県連の政調会長だった川村農夫氏が飲酒運転で現行犯逮捕されその後、議員辞職。
2007年編
◎1月  角田義一 前参院議員が、2001年参院選期間中に寄付された個人および企業・団体からの献金2500万円ほどが、政治資金収支報告書に無記載で政治資金規正法違法の疑い。
寄付元には連合群馬(日本労働組合総連合会群馬県連合会)(1000万円)、
群馬県教職員組合(600万円)、社民党県連(30万円)の他、政治資金規正法で寄付が禁止されている外国人団体にあたる朝鮮総連系の在日本朝鮮群馬県商工会(50万円)も含まれている。
本人及び党関係者が一端否定をするも資金管理団体「角田義一政治経済研究会」の名義で
領収書を渡していたことが発覚し、責任を取って同年1月26日参議院副議長辞任を表明。
任期満了後に議員引退。

No.123

>> 122 ◎5月  小野裕次郎 東京・世田谷区議 統一地方選での買収容疑で逮捕
◎5月  麻生英市和歌山市議 統一地方選での供応接待容疑で逮捕
◎5月  佐藤観樹衆院議員 公設第2秘書の給与をだまし取ったとして詐欺罪で逮捕
◎5月  佐藤行信 横浜市議 受注業者から政治資金もらった公選法違反で逮捕
◎7月  佐藤行信 横浜市議、入札妨害容疑で再逮捕
◎7月  山田敏雅衆院議員 経歴詐称疑惑が発覚したが、市長選出馬を理由に離党、議員辞職
◎11月  阿部義人北海道議 バーの店員と口論の末、ウィスキーのビンをたたき割り、顔と首筋を切りつけた傷害容疑で逮捕
◎11月  田村謙治(静岡4区で落選)派幹部 後援会事務局長が、10万円を渡して 票の取りまとめを依頼した買収容疑で逮捕
◎11月  浅野真(岐阜1区落選) 報酬を約束し電話で投票の呼び掛けを依頼した買収の約束の容疑で逮捕
◎11月  都築譲衆院議員(愛知15区落選、比例復活当選)の公設秘書ら 公設第1秘書、選対事務-局長(市議)ら5人が買収の約束の容疑で相次ぎ逮捕。連座制により失職する前に辞職
◎12月  鎌田さゆり衆院議員(宮城2区)派労組幹部 労組幹部らが電話作戦を業務委託していたとして再逮捕。連座制で辞職
◎12月  今野東衆院議員(宮城1区)派のNTT労働組合80数万円で電話作戦を業務委託したとの利害誘導容疑で逮捕。05年議員辞職。07年参議院選比例区で当選。

2004年編
◎1月  浅田清喜 愛知・尾西市議会議長 市発注の公共事業への便宜の見返りに現金数十万円を受け取ったあっせん収賄容疑で逮捕。
◎1月  古賀潤一郎衆院議員 学歴詐称で党除籍。2月に外国人からの献金を受けていた 政治資金規正法違反疑惑も発覚。
◎3月  佐藤観樹衆院議員(元自治相) 公設秘書の名義借り疑惑で議員辞職。
秘書給与約1700万円をだまし取った詐欺容疑で逮捕。
◎4月  中山義活衆議院議員(東京2区)の私設秘書 笹野康俊が女性のスカート内を盗撮したとして、東京都迷惑防止条例違反容疑で警視庁に逮捕される。

No.122

【コピペ】不祥事90件以上!逮捕者5..
結党以来9年間で、表立ったものだけで不祥事90件以上!逮捕者50人以上!の極悪民主党の不祥事リスト
 
2000年編 
◎4月  窪田宜昭 国分寺市議 ホームページに知人女性のヌード写真を掲載し名誉毀損容疑で逮捕
◎9月  山本譲二前衆院議員 秘書給与ピンハネの詐欺容疑で逮捕
◎11月  山本譲二前衆院議員の元秘書 覚せい剤所持で逮捕
◎11月  吉田公一衆院議員の元政策秘書 出資法違反で逮捕

2001年編
◎2月  長妻昭衆院議員の元秘書、小川参院議員の秘書ら3人 駐車違反で身代わり出頭
◎3月  阿久津幸彦衆院議員の公設第1秘書 覚せい剤所持で逮捕
◎3月  細野豪志衆院議員の女性政策秘書 不倫のもつれから傷害、住居侵入容疑で逮捕
◎6月  浅尾慶一郎参院議員の私設秘書 痴漢で逮捕
◎8月  西条庄治都議 運動員買収の公選法違反容疑で逮捕

2002年
◎1月  鹿野道彦衆院議員の元秘書 公共工事の口利き事件で、競売入札妨害、贈賄容疑で逮捕
◎2月  鹿野道彦衆院議員(党副代表) 業際研による秘書給与肩代わりが発覚。離党
◎4月  藤井俊男参院議員の元公設第1秘書 元公設第1秘書(藤井氏の長男)が大麻所持で逮捕
◎9月  阿部悠逸 江東区議 バスの走行さえぎり、運転手をなぐった公務執行妨害で逮捕
◎12月  福島寿一都議 ホステスをホテルに連れ込み暴行した婦女暴行傷害容疑で逮捕

2003年編
◎4月  伴野豊衆院議員の公設秘書 愛知県議選で無所属候補の出納責任者を務め、買収容疑で逮捕

No.121

>> 120 新宿区西早稲田2-3-18  にある悪の組織いったいなんなのか!!!!!

・片山やめろネットワーク 新宿区西早稲田2-3-18
・ホンダを許さない!吉本緊急集会事務局 新宿区西早稲田2-3-18
・河本を守る市民の会 新宿区西早稲田2-3-18
◆西早稲田2-3-18 がすごい件。
13 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/04/13(金) 00:30:51.34 ID:8+fOxLMZ0
・在日外国人の人権委員会 新宿区西早稲田2-3-18
・在日韓国基督総会全国青年協議会(全協)新宿区西早稲田2-3-18
・在日韓国人問題研究所 新宿区西早稲田2-3-18
・在日本大韓基督教会 新宿区西早稲田2-3-18
・在日韓国基督総会全国青年協議会(全協) 新宿区西早稲田2-3-18
・外登法問題と取り組む全国キリスト教連 新宿区西早稲田2-3-18
・外国人学校・民族学校の制度的保障を実現するネットワーク 新宿区西早稲田2-3-18
・平和を実現するキリスト者ネット 新宿区西早稲田2-3-18
・キリスト者女性のネットワーク 新宿区西早稲田2-3-18
・女たちの戦争と平和資料館 新宿区西早稲田2-3-18
・戦時性暴力問題連絡協議会 新宿区西早稲田2-3-18
・キリスト教アジア資料センター 新宿区西早稲田2-3-18
・難民・移住労働者問題キリスト教連絡会<難キ連> 新宿区西早稲田2-3-18
・石原やめろネットワーク 新宿区西早稲田2-3-18
・歴史歪曲を許さない!アジア連帯緊急集会事務局 新宿区西早稲田2-3-18
・国際協力NGOセンター(JANIC) 新宿区西早稲田2-3-18
・日本キリスト教海外医療協力会(JOCS) 新宿区西早稲田2-3-18
・アジアキリスト教教育基金 新宿区西早稲田2-3-18
・財団法人日本クリスチャンアカデミー 新宿区西早稲田2-3-18
・宗教法人日本バプテスト同盟 新宿区西早稲田2-3-18
・株式会社アバコクリエイティブスタジオ 新宿区西早稲田2-3-18
・移住労働者と連帯する全国ネットワーク 新宿区西早稲田2-3-18
・日本キリスト教協議会 新宿区西早稲田2-3-18

No.120

>> 119 これは役所が悪いわけではありません。また昭和29年時点の厚生省が悪いわけでもありません。生活保護の制度にこういった抜け穴があり、結果として外国人に有利な制度になっているまま、外国人の数が今のように増えてしまったとういうことなのです。
これに対して、おかしいと思う日本人が声を挙げることが大切です。今までは「外国人のほうが生活保護をもらいやすいのではないか」という話はネット上の噂レベルでした。しかしこの調査結果によって、目で見える形で証拠資料ができました。この調査結果をどんどんひろめていくことで、制度の見直しを要求していきましょう。
例えば…
・お住まいの市や区に対して、「こういう調査結果を見たがおかしい」という投書をしてください。匿名よりも実名・本当の住所を出しての投書が効果的です。(個人情報保護は徹底していますので安心)自治体は市民の声があって初めて動くことができます。
・ご自分の選挙区の議員さんにコンタクトが取れる方は、ぜひ調査結果を渡して問題提起をしてください。
・ご自分の日記やつぶやきなどで広めてください。

No.119

💸【証拠あり】外国人のほうが生活保護を受給しやすいことが調査で明らかになりました

日本人が生活保護申請を却下されて餓死している一方で、外国人への生活保護受給は垂れ流しに行われています。
生活保護を申請すると、どのような調査を経て支給が決定するのかご存じですか?申請者が日本人の場合には、まず所有財産の調査が行われます。銀行口座も調べられますので、普通の人の場合には財産を隠しておくことは難しいです。また親族への調査も行われます。絶縁状態であっても役所で調べることができ、3親等内(親、子、兄弟姉妹、おじ、おば、甥、姪など)の親族に対して扶養可能かどうかの調査票が送られます。必要があればこれらの親族の所得状況の調査も行われます。
では、外国人の場合にはどうなるのでしょうか。
※生活保護法では生活保護の対象を国民に限っていますが、昭和29年に出された厚生省からの通達により、「永住・定住外国人に対しても準用すること」となり、それからずっと支給が行われています。
ここに、生活保護の事務を行っている地方自治体に対する調査結果があります。有志の皆さんの協力により、各地の自治体に問い合わせを出して得た回答をまとめたものです。
この調査結果により、外国人が生活保護を申請した場合、
■日本国内にある資産(不動産、貯蓄)の調査は行っている。
■本国にある資産については一切調査を行っていない。(追跡不可能)
■日本国内に親族がいる場合、申請者が「いる」と申し出た親族に対して調査を行っている。(戸籍がないので追跡不可能)
■本国にいる親族については一切調査を行っていない。(追跡不可能)
であることが分かりました。
従って、外国人本人が「お金ない、親戚いない」と言えば、役所としては申請を阻止する理由がないということ。「お子さんに仕送りしてもらえるでしょ」などと申請を却下されることの多い日本人と比べて、外国人のほうが受給しやすいことは明らかです。
調査結果はこちら(調査団体:愛国女性のつどい花時計)
URLが載せられないので検索して下さい
※無断リンク、転載OK

No.118

>> 117 実際、東京都が尖閣諸島を買って、それで事が解決するわけではなく、第一歩にすぎないでしょう。
中国が永久に尖閣諸島を取りに来ようと思わないようにするには、どうしたら良いか。そう考えたとき、石原氏が講演の中で触れている「コンベンショナル・ストライク・ミサイル」の装備は非常に有力だと思います。
たとえば他国の指導者が「やろうと思えば核攻撃で貴国の全土を焼尽せるんだが?」と言ってきたとしても「ほんとですか。でもそんなことしようものなら、他の人はともかくあなただけは確実に倒せますけどいいですか」と言える。
外交交渉の後ろ盾として、これほど効果的なものがあるでしょうか。しかもこれ、相手が独裁的であればあるほど効果的では。
(これを有効たらしめるには人的な情報力も問われるだろうけど)
ちなみに、青山繁晴氏(独立総合研究所所長)も、日本の核装備については「武士道にそぐわない」と反対していますが、その代わりにこのようなピンポイント型の通常兵器と原子力潜水艦を組み合わせた装備を推奨しています。大いに考えられますよね。
そして、その前にクリアしなければならないのが「占領憲法」という主要矛盾です。
以上のようなことを見据えた上で、まず「出来る事を着実にやっていく」その一つとして、今度の尖閣諸島購入があるということだと思います。
その大きな見通しも含めて、私は支持します。
<以上マイミクのmihaさんの日記より転載>

No.117

>> 116 アメリカがやってくれと言えば、日本はすぐにやったらよろしい。』
次に石原氏は
『アメリカはもうそろそろ日本を対等なパートナーとして扱ったらいいと思うねえ』
と述べて、日本の航空機産業と戦闘機開発がアメリカからの弾圧を受けてきたことを、いくつかの具体例を交えて示した上で、日本は戦闘機を自力で開発するべきだと主張します。
『いずれにしろ、日本は自力でやれることはやるぞという、日本の持っている軍事力の技術的なポテンシャルというものを見せる必要がある。』
『とにかくそうでもしませんとね。中国はあれでしょ、尖閣諸島を、日本の実効支配をぶっ壊すために、もっと過激な運動をやると言い出した。・・・どういうことですかね?』
石原氏は沖縄返還交渉のときに自身も立ち会っており、そのとき決められた域内の海上の突起物は全て日本に返すという条文にしたのだといいます。
ここから、例の発表に繋がります。
『この尖閣を「俺たちのものだ」と(中国が)言い出した。とんでもない話だ。
でね、東京都はあの尖閣諸島を買います。買うことにしました。本当は国が買い上げたら良いが、国が買うと中国が怒るからか、外務省がびくびくしている。』
続けて、購入に至った経緯などを説明し、最後はこのようにして締めくくります。
『東京が尖閣諸島を守ります。あそこは立派な漁場になりますしね。沖ノ鳥島だってね、支那や台湾、朝鮮が乱獲していたけれども、東京都が魚礁を作って日本の漁船が行くようになったら支那朝鮮の船を追い払えた。
尖閣はもっといろんな意味があるでしょう。
ということですよ。 日本の政府が嫌がるか、どこの国が嫌がろうと、日本人が日本の国土を守るために島を取得するのに何か文句がありますか?ないでしょみなさん。』
『ね、ということでね、やっぱやることを着実にやってかないと、政治も信頼を失うしね。
これからそういう認識をしあうことで・・・
まさか尖閣を東京都が買う事でアメリカが反対することはないよな。ないでしょ?
(場内笑い)
これで安心して終わります。』
------------
講演の概要は以上の通りです。
この講演の全体を聴くと、石原都知事は尖閣諸島の案件を、解決すべき眼前の問題であるだけではなく、もっと大きな、日本が抱えてきた「主要矛盾」につながる問題として捉えていることがわかります。

No.116

>> 115 このように、領土を奪われたり、国民を拉致されたりしている、この三つの国に囲まれて、日本だけ核を持っていない。こんな劣悪な地政学的条件に置かれている国家が世界にありますか? このことも、一つの「主要矛盾」と言える。
日本の防衛問題は、これから益々重要になる。なんでもアメリカにお願いする「お妾さん」状態は卒業しないといけない。』
石原氏は次に核兵器について語ります。
『現在はキッシンジャーやシュレジンジャー(ともに元国務長官)も日本の核装備に賛成しているそうだ。
オバマ大統領は核兵器を無くす宣言をしてノーベル平和賞を受けたが、その2ヶ月後に新たなシミュレーションを行った。
日本もシミュレーションをやったら良い。 やると言うだけでも、周辺に緊張が走るだろうが、それが抑止力になる。
核兵器は、国際関係における「イーファン」(麻雀用語。役がついて得点が2倍になること。)である。
たとえば、ミャンマーは軍事政権だが核がないので欧米に徹底的にいじめられた。一方、北朝鮮は核を持ったがためにアメリカを翻弄している。』
日本が核兵器を持つということには様々な困難も予想されますが、
『しかし日本には他にもできることがある』
と石原氏は指摘します。
『日本には「はやぶさ」(小惑星探査機)を40億キロの旅から帰還させた技術がある。この正確な軌道修正などの技術を使えば、何ができるか。』
『アメリカが、次の戦略兵器として開発している
「コンベンショナル・ストライク・ミサイル」。
これを日本なら簡単に作れる。やるかやらないかは日本の政治家の度胸の問題だ。通常兵器なんだから。核弾頭積んでないんだから。二千キロ三千キロ先の目標を正確に攻撃する技術が現在は可能だ。』
『かつてアメリカは、核を持とうとしたリビアのカダフィ大佐をやっつけるために、カダフィの居住地を空爆した。その結果、カダフィの第三夫人と子供が殺害され、ショックを受けたカダフィはその後核開発を諦めた。
その当時に比べれば遥かに高度な技術をアメリカも日本も開発している。
だから、その頃(この新兵器が開発された頃)支那の大将が何て人でどこに住んでいるか、そんなことは調べればわかるので、「あんた変なこと言ったら、ベッドルームに爆弾落としますよ」と言える。その「コンベンショナル・ストライク・ミサイル」を、日本だったらやれるんですよ。

No.115

>> 114 『黄色人種が作った唯一の近代国家である日本。その日本との戦争に手を焼いたアメリカは、これを徹底的にバラバラにしようとして法律(憲法)を作った。』
『第二次大戦でドイツが降伏したとき、ニューヨークタイムズの論説はこうだった。「ドイツはナチスによって道を誤ったが、優秀な民族による国家ドイツの復興に、我々は協力を惜しまない」
一方、日本が降伏したときは、同紙には漫画が載った。大きなナマズのような怪物がひっくり返っている。大きく開いた口の中に米兵が3人入って行って、怪物の牙を抜いている。そして論説はこうだ。
「この醜くて危険な動物は倒れたが、いまだに生きている。我々は世界の平和のために、この怪物を徹底的に解体しなければならない」
その後、朝鮮戦争をきっかけに日本は立ち直るけれども、アメリカの基本的な考え方は差別的だった。』
『有色人種の日本人が近代国家を作り、アメリカに次ぐ世界第2位のロイヤルネイビー(帝国海軍)を持った。欧米人の想像を超えたであろうし、誇りに思う。
トインビーは「日本の近代化は人類の歴史上の奇跡だ」と言った。トインビーは褒めたつもりだろうが、日本の近世を理解していない。江戸時代は世界で最も成熟した時代。江戸は世界最大の都市であり、上水道を備えていた。当時の日本には寺子屋を含め3万の学校があった。』
『そんな日本が近代国家を作り、軍事大国になり、やがてアメリカと戦争することになったが、マッカーサーが後に議会で証言している。「日本が起こした戦争は自衛のためであった。我々が経済封鎖したためにやむを得ず開戦した」と。これは日本の教科書(副読本)に載せる。
その後紆余曲折があるが、「主要矛盾」である憲法が、日本の手かせ足かせになっている。』
ここで、集団的自衛権を行使出来ないことや、自衛隊が国際貢献活動に行く際ライフルしか持っていけないなど「手貸せ足かせ」の具体例に触れた後、現在の日本の官僚による政治支配の問題などに話が移りますが、再び安全保障の話題に戻り、東アジアにおける日本の立場に言及します。
『世界地図で、日本の部分を逆さにして見ると、中国・朝鮮・ロシアから見ると日本が邪魔である。数百人の日本人を拉致した北朝鮮は核兵器を開発している。ロシアは勝手に条約を破って北方領土を奪った。支那が核実験を行ったときには日本に放射能が降り注いだ。

No.114

🆙【尖閣だけじゃない】石原都知事のワシントンDC講演

『東京都が尖閣諸島を買います』
この発表に対して、ほとんどの新聞と地上波テレビの報道は批判的な論調で反応しました。
しかし国民は必ずしもマスコミに同調してはいません。
東京都が募集を開始した寄付金はハイペースで集まっています。多くの国民に賛同の意思が拡がっている証でしょう。私も賛同する一人であり、先日振込みを行いました。
振込みに関しては此処参考
http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/senkaku.htm
ところで、報道ではこの石原慎太郎東京都知事の「尖閣購入」発言ばかりが取り上げられていますが、その発表が含まれる、ワシントンDCのヘリテージ財団における講演の全体を聴くと、より刺激的であり、なおかつ意義深い内容を含んでいると私は思いました。
講演はノーカットの動画で聴くことが出来ますが(正味40分ほど)
http://m.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&client=mv-google&rl=yes&v=b90cZQOOAnw
ここでは、その概要をまとめてみます。その後で私の感想を短く述べます。
(引用部分はメモを元にしており、省略や細部の表現の相違がある場合があります)
『私は共産主義は嫌いだが、毛沢東は論文の中で良いことを言っている』
石原氏はこのように語り出して、次のように続けます。
『目の前に解決しなければならない問題があるとき、その背後にはより大きな矛盾が存在している。これを毛沢東は「主要矛盾」と呼んだ。』
そして、現在の世界が直面する大きな問題(環境問題、キリスト教対イスラム教の対立、ヨーロッパの経済問題など)に触れた後、石原氏は日本が抱える「主要矛盾」に言及します。
『日米間のことを考えるときに必要な、背景にある主要矛盾、それはまず「憲法」だ』
石原氏は、日本国憲法の前文のことを「非常に醜い」と評します。元々文筆家である氏らしい表現と言えるでしょう。確かに、下手に翻訳されたSF小説みたいな文章だと私も思います。
『アメリカによる占領を遂行するための憲法を、独立回復後もずっと堅持している。こんなことは世界のどこにもない。そこから、いろいろな問題が派生している。こんなものは改正ではなく、破棄して新しい憲法を作れば良い。』
そして、この憲法の成立の背景に話が及びます。

No.113

>> 112 36条
公務員は刑罰とかでえぐいことすんなよ。絶対な。

37条
俺達は犯罪を犯したと疑われてもきちっとした裁判所でさくっと裁判を受けられるよ。もちろんその様子は公開されるよ。
37条2項
俺達はその裁判で証人にきっちりものごこを確認することができるし、自分に有利になる証人を国の金で求めることができるよ。
37条3項
俺達は裁判を受ける時はどんな時も弁護士を呼ぶことができるよ。金がなくて呼べないなら国が金を出すよ。

38条
俺達は裁判で自分に都合の悪いことは言わなくてもいいよ。
38条2項
拷問とか無理矢理させられた証言は意味ないよ。
38条3項
自分の自白しか証拠がない時はもう無罪ね。

39条
俺達はあとでできた法律で裁かれないよ。あと同じことで二回責められることはないよ。

40条
裁判で無罪が証明されたらその間に受けた損害を要求できるよ。

No.112

>> 111 31条
俺達はちゃんと法律に従った手続きによらない限り刑罰とかで拘束されないし、殺されないよ。

32条
俺達はちゃんとした裁判を受ける権利があるよ。

32条
俺達は、ずばり現場を抑えられない限り、ちゃんとしたところが発した命令書とその理由を知らされない限り逮捕されないよ。

33条
俺達は、ずばり現場を抑えられない限り、ちゃんとしたところが発した命令書とその理由を知らされない限り逮捕されないよ。

34条
いきなり逮捕して、しかも弁護士を呼ぶ権利が与えられないのは違法だよ。あとちゃんとした理由がないと拘束されないし、国とかは要求があったらちゃんと公開の場ですぐにその理由は言わないとダメだよ。

35条
俺達はちゃんとした理由と手続きがない限り自分の財産とか書類とか持っていかれないし、家とかに勝手上がり込まれないよ。
35条2項
犯罪の捜査はちゃんとしたところが出した命令に従ってやれよ。

No.111

>> 110 26条
俺達は自分の能力に見合った教育を受ける権利があるよ。詳しくは別の法律見てね。

26条2項
あと自分の子供には限らないけど面倒みてる子供がいたらちゃんと中学までは教育を受けさせろよ。これは大事だぞ。

27条
俺達は働く権利もあるし同時に義務もあるんだよ。
27条2項
続きは別の法律で☆

27条3項
子供にきつい仕事させるなよ。

28条
俺達は仕事する上で不満があったらみんなで集まって会社とかと交渉する権利があるよ。

29条
自分の財産は自分のものだよ。
29条2項
まあとはいっても色々問題がおこりかねないからその辺はまた違う法律でね。
(ry)

30条
いいか、お前ら、税金は払えよ

No.110

>> 109 21条
みんなで集まって考えたり行動したり、自分の考えを本とかにしたりとかは自由だぜ。どんな表現でもそれはお前の権利だから胸張ってやれよ。
21条2項
国は検閲しちゃだめだよ。あとどんな話をしたとか考えを持ってるとかを探っちゃだめだよ。通信の秘密と検閲の禁止な。
このあたりがいわいる表現の自由な

22条2項
外国に引っ越したり、日本人やめるのも自由だよ。

23条
みんななにを勉強しても自由だよ。自分のしたい勉強をしろよな。

24条
まず言っておくけど男女はどっちが偉いとかないからな。結婚はお互いがこの人と一緒になりたいなと思ったからするもんだ。結婚したらちゃんとなんと仲良く助け合って幸せに暮らせよ。

25条
俺達はみんな健康で人間らしい最低限の生活を行う権利があるよ。

25条2項
国はこのためにできることちゃんとやれよ。

No.109

>> 108 16条
俺達はもし国のしたことで受けた被害や、公務員をやめさせてほしいかったり、法律の不満を言って直したり廃止してほしいとかを要求することができるよ。もちろんそれで嫌がらせとかはされないよ。

17条
もし国のしたことで被害や損を受けたら、国とか公的なとこにその保障をしろって要求できるよ。その法律はまた別に決めるから詳しくはそっち見てね。

18条
俺達は絶対に奴隷みたいなひどい扱いはされないよ。でも、しかし、悪いことやって刑務所とかに入る時はちょっとされるかも。まあしょうがないよね。

19条
どんな考えでもそれはお前の大事な考えだから大事にされるよ。国に良心に反することを要求されても無視していいよ。

20条
どんな宗教を信じてもお前の自由だよ。
あとなどんな宗教も国は特別扱いしちゃだめだよ。俺達が平等なら神様もみんな平等な。
20条2項
俺達は参加したくない宗教の儀式とか(ミサとか)は参加しなくてもいいよ。
20条3項
国は宗教っぽい教育とか、特定の宗教に関わることをしちゃだめだよ

No.108

>> 107 12条
この憲法で決めた国民の権利とか自由は俺達国民がきっちりがんばって守っていくぜ。あと権利があるからっていって横着するなよ。

13条
俺達国民はみんな人間としてちゃんと扱われるよ。すべての男も女もみんな幸せになる権利があるよ。このために政治家がんばれよ。
でも権利があるといって横着すんなよ。俺に権利があるように人様にも権利があるんだから。

14条
俺達はみんな平等だよ。人種とか考え方とか性別とか身分とか出身地で差別する法律や政治は認めないよ。
14条2項
貴族とか華族はだめだよ。
14条3項
いいことやったやつは褒めるけど、それはお前がなんか偉いってことじゃなくてお前がいいことやったからで、自慢していいのはお前だけだよ。子供とか関係ないからな。

15条
公務員っていって国の仕事をやるやつを選んだり辞めさせたりするのは俺達国民だよ。
15条2項
公務員っていうのはみんなのために仕事するんであって、一部のやつのために仕事しちゃだめだよ。
15条3項
選挙は成人してるやつならみんな投票できるよ。
15条4項
選挙で誰に投票したかとかは内緒にしてていいよ。誰に入れてもお前の自由だし、そのことでやいのやいの言われることはないよ。

No.107

>> 106 3条
天皇が天皇の名前ですることはみんな内閣が認めたことに限るよ。で、その責任は内閣がおうんだよ。

4条
天皇はこの憲法で決めたこと以外はしないよ。政治に参加しないってことだよ
(ry)

第二章 戦争の放棄
9条
俺らは筋と話し合いで成り立ってる国と国の間の平和な状態がいいと思う。だから、国として武器をもって相手を脅かしたり、直接殴ったりしないよ。暴力で問題を解決することはもう絶対しないよ。
9条2項
で、この目標のために軍隊持たないよ。
なにかと論争になる条文だけど、問題はこれは如何に解釈して運用するかってことで文言自体はフラットだというのが俺の所見

第三章 国民の権利及び義務
10条
日本国民の基準はまた別の法律で決めるね。

11条
俺達国民はちゃんと人間として生きていけるんだよ。これはずっと続いて、俺達の子供とかその子孫まで全ての国民の権利だよ。これがいわゆる基本的人権ね。

No.106

🇯日本国憲法を口語訳してみた

2012.05.24
1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/05/24(木) 01:04:16.31 ID:YRD9Rr/d0
前文
俺らはちゃんとみんなで選んだトップを通じて、うちらのそのガキのまたガキのために、ご近所さんと仲良くして、みんなが好きなことできるようにするよ。
また戦争みたいなひどいことを起こさないって決めて、国の基本は国民にあることを声を大にして言うぜ。それがこの憲法だ。
そもそも政治っていうのは、俺ら国民が政治家を信頼して力を与えてるものであって、本質的に俺達のものであるんだ。あれだ、リンカーンの言った「民衆の民衆のための民衆による政治」ってやつ。
この考え方は人類がみんな目標にするべき基本であって、この憲法はそれに従うよ。そんでそれに反するような法律とかは認めないぜ。
俺らはやっぱ平和がいいと思うし、人間って本質的にはちゃんとうまくやっていけるようにできてると信じるから、同じように平和であってほしいと思う外国を信頼するぜ。その上で俺達はちゃんと生きていこうと決めたっちゃ。
平和を守って、奴隷制度みたいな酷いこととか、偏見とか差別をなくそうとしている世界の中でちゃんと活動したいと思うのね。名誉ある地位っていうかさ、かっこいいじゃん。
その上で声を大にして言うよ。
「全世界の人は、みんな、なににも怯えることなく、飢えることもなく、平和に生きる権利を持っている」ということだ。
この理想は俺達の国だけじゃなくて他のあらゆる国にも通用するもので、このことを守ることは各国の義務だよ。

第一章 天皇
1条
天皇は、日本のシンボルだよ。これは国民がまとまってるってことを示すためのアイコンってうかそんな感じ。
2条
天皇は家系で決めるよ。世襲ね。これは国会で決めた皇室典範っていうのに従って決まるよ。

No.105

>> 104 自民党時代であれば今回の災害について
「総理が竜巻の発生を知ったのはいつだ!?」
「まだ対策案のひとつもないのか!」
「対応が遅すぎる!閣僚は何をしてたんだ!」
とかマスコミが叩くことは間違いなかったでしょう。
民主党はマスコミが守り続けてくれるおかげで
‼死人が出てものんびりとしています。‼
ついでに、今回竜巻が発生したつくば市ですが、2009年の選挙でこの茨城6区の人たちは民主党の大泉博子を当選させました。
今は選挙区より便利な守谷市に引っ越しています。
選挙の時だけ地元の人間というフリってすばらしいですね。
大泉博子議員の紹介動画を載せておきます。
http://m.youtube.com/watch?v=Y3Wb4kn29Cg

つくば竜巻の動画
http://m.youtube.com/watch?v=nV87QZ66KP8

No.104

>> 103 5月5日
午前10時現在、公邸。朝の来客なし。
午前中は来客なく、公邸で過ごす。
午後も来客なく、公邸で過ごす。
6日午前0時現在、公邸。来客なし。
5月6日
午前10時現在、公邸。朝の来客なし。
午前中は来客なく、公邸で過ごす。
午後も来客なく、公邸で過ごす。
実に丸二日間以上公邸に引きこもって何もしていませんでした。
比較用として平成18年の竜巻被害の際は・・・
4.政府の対応
11月7日 14:30 総理官邸内危機管理センターに情報連絡室を設置
14:30 内閣府情報連絡室設置 → 14日 12:00 解散
17:50 防災担当大臣を北海道佐呂間町に現地災害調査のため派遣
(竜巻は2006年11月7日午後1時30分頃竜巻発生)

今回、全く動きのなかった民主党が、いかに無能であるかはっきりとわかると思います。
民主党政権になってからはゴールデンウィークには、外遊と称して閣僚がそこかしこへ旅行へ行くようになりました。
そうした中には口蹄疫を放置して野党の警告も無視して中米へゴルフ等に行っていた赤松広隆。
なんていうのも忘れてはなりません。
(総理とともに、五穀豊穣を祈念する正月の伊勢参拝についても赤松は家族とハワイ旅行をするためにサボってます。
鹿野大臣も今年の同様の行事を欠席しています。ちなみに年頭記者会見等は普通に出ていたので健康の問題ではないでしょう)
今回も野田を含めて12閣僚が連休中に外遊に出ました。
北朝鮮情勢などもあり野党側は外遊を控えるように求めていましたが、スケジュールを未定と公表しておいて出発直前に外遊と発表するなど
(古川元久など)
批判をセコイ方法で交わしてまで海外旅行へと出ました。
(仮に直前に決まるような外遊なら内容は超緊急事態かどうでもよい内容以外ありえません。受け入れる相手側だって昨日の今日で受け入れられるわけではありません。しかも政府要人と来ているので余計に準備期間が必要です。)

No.103

🆕連休中は東北の集中豪雨災害

茨城や栃木での暴風と豪雨、そして茨城はつくば市の竜巻災害など、本当にひどい災害が発生していました。
ところによっては大きいものでピンポン球近いサイズの雹も降っていたようです。
3日から6日までどこかしらで豪雨が降っており、
(野田は昨年の集中豪雨被害のときも動かなかったという失敗をやらかしています。ただ、マスコミは擁護するためにほとんど報じませんでしたが。)
そんな中、自民党の豪雨被害地域の議員の一人のツイート。

(5月4日)小野寺五典 ㊙itsunori510
昨夜来の大雨懸念して、気仙沼の事務所にて災害対応していました。
市街地の道路が冠水、一時四百人に避難勧告が出されました。
神奈川からボランティアできた方20人が大島にわたれず、私の事務所で夜を明かすことに。
(5月5日)小野寺五典 ㊙itsunori510
先日の大雨で被災地はさらに被害をうけましたが、残念なことに石巻で子供が
仮設住宅のそばで水死するという痛ましい事故がありました。私も当日、気仙沼で警戒にあたりましたが、震災による地盤沈下で今後も災害が心配です。一日も早い復興に努力します。

さてそれでは野田は。
まず5月4日
午前10時現在、公邸。朝の来客なし。
午前11時51分、公邸発。同54分、東京・永田町のザ・キャピトルホテル東急着。同ホテル内の日本料理店「水簾」で古賀伸明連合会長、増田寛也元総務相と会食。
午後1時2分、同ホテル発。同4分、公邸着。
5日午前0時現在、公邸。来客なし。

5月5日
午前10時現在、公邸。朝の来客なし。
午前中は来客なく、公邸で過ごす。
午後も来客なく、公邸で過ごす。

6日午前0時現在、公邸。来客なし。
5月6日
午前10時現在、公邸。朝の来客なし。
午前中は来客なく、公邸で過ごす。
午後も来客なく、公邸で過ごす。

No.102

>> 101 昭和17年3月17日。怪傑ハリマオとして名を馳せた谷豊は永眠します。享年30歳。
臨終を見守っていた配下のマレー人が日本軍に求めたのは白い布2枚だけだったそうです。
それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものでだった。
豊の棺は、部下たちに担がれて病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬されました。
その頃、藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていた。
そこで豊の訃報を受け取ります。
---------------------------------
北部マレーの虎として泣く子も恐れさせた彼は、マライの戦雲が急を告げるころ、翻然発心して純誠な愛国の志士に還った。
彼は私の厳命を遵守した。
彼は勿論その部下も、私腹を肥やすことも、一物の略奪も、現住民に対する一回の暴行も犯すことがなかった。
(前掲書)
---------------------------------
近年マレーシアのテレビ局が、ハリマオ=谷豊の特集を放映したそうです。
その番組の最後には、次のような言葉が流れたそうです。
イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。
心を捉えたのは、 マレーを愛した一人の日本人だった・・・


谷豊の御霊は、いまも英霊として靖国に祀られています。
(おわり)

No.101

>> 100 -----------------------------
お母さん。豊の長い間の不幸をお許し下さい。
豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配しております。
お母さん。日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。
豊は日本軍参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くこととなりました。
お母さん喜んで下さい。
豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
豊は近いうちに単身英軍の中に入って行ってマレイ人を味方に思う存分働きます。
生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。
お母さん。豊が死ぬ前にたった一言、いままでの親不幸を許す、お国のためにしっかり働け、とお励まし下さい。
お母さん。どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。
そしてお母さん。長く長くお達者にお暮らし下さい。
-----------------------

No.100

>> 99 ---------------------
私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った。
見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは、
「充分な働きが出来ないうちに、こんな病気になってしまって申し訳がありません」と謙虚に詫びた。
私は「いやいやあまりり無理をし過ぎたからだ。お母さんのお手紙を読んでもらったか。よかったね」というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。
両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。
私は更に「谷君、今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったぞ」と伝えると、ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ、
「私が! 谷が! 日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!」と叫ぶようにいった。
ハリマオの余りの喜びに、むしろ私が驚き入った。
(前掲書269頁)
------------------------------
官吏というのは、今の国家公務員です。
盗賊として日本人から白眼視されていた豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだったのです。
開戦の1ヵ月前、豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いています。
日本を離れて長い年月を過ごした豊の手紙は、たどたどしいカタカナで綴られています。

No.99

>> 98 マレーにおける特務機関の長である藤原は、当然、豊の過去の悲劇を知っています。
どこまでの謙虚でいじましい豊の態度は、藤原の心に涙を誘った。
しかしこのとき豊の体は、すでにマラリアに冒されていたのです。
----------------------------
初めての対面からおよそ1週間経った頃、藤原参謀のもとに「谷豊がマラリアを再発し危篤です」という報せが届きます。
藤原は、豊と行動を共にしている神本に、即時ジョホールバルの陸軍病院に移すよう命令します。
藤原は語ります。
「一人として大切でない部下はいない。
しかし、わけてハリマオは、同君の数奇な過去の運命と、このたびの悲壮な御奉公とを思うと、何としても病気で殺したくなかった。
敵弾に倒れるなら私もあきらめきれる。けれども病死させたのではあきらめきれない。
私は無理なことを神本氏に命じた。『絶対に病死させるな』と」
(同247頁)
-----------------------------
シンガポール陥落から数日経ったある日、藤原参謀は豊を見舞います。

No.98

>> 97 私がダム破壊工作の成功を称えると、谷君はこう答えた。
「いいえ。大したことはありません。
ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。
それから山づたいに英軍の背後に出て参りましたが、日本軍の進撃が余りに早いので遅れがちになって思う存分働けなかったのが残念です。」
「この付近では英軍の電線を切ったり、ゴム林の中に潜んでいるマレイ人に宣伝したり致しましたが、日本軍のためにどれだけお役に立てたことでしょうか」
「君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や、兵にも優る功績なんだよ」というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、
「有り難うございます。
豊は一生懸命働きます。
私の命は死んでも惜しくない命です。
機関長の部下となり、立派な日本男児になって死ねるなら、これ以上の本望はございません」としみじみ述懐した。
(同177頁)

No.97

>> 96 昭和16年12月の大東亜戦争開戦からちょうど一ヶ月が経った頃、日本陸軍の藤原岩市参謀は、マレー北部の小さな村で、豊に会います。
藤原は、そのときのことを著書「F機関」にこう書いています。

「なに。谷君が待っているのか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」
私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。
数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。
私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、
「谷君。藤原だよ。よいところで会ったなあ。御苦労。御苦労。ほんとうに苦労だった」と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。
谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。
(F機関 176頁)

No.96

>> 95 英軍は、大東亜戦争開戦に先立って、タイ南部から上陸する日本軍を水際で阻止するためのマタドール計画も進めていた。
これは英軍の精鋭部隊が密かに国境を越えて、日本軍がやってくるのを待ち伏せ、一気にせん滅を図るという作戦です。
この作戦もハリマオ団によって、事前に詳細が洩れ、日本軍は開戦後、英軍を避けて悠々と上陸を果たしている。
ちなみに、この作戦にも明らかなように、大東亜戦争は「日本の一方的な真珠湾攻撃によってまるで騙しうちのように始まった」という左翼や反日の宣伝は、まるで嘘八百です。
英米豪は、ABCD包囲網を作り、日本がもはや開戦以外に選択の余地がなくなるように仕向け、開戦と同時に、徹底的にこれを粉砕しようと、事前に十分に体制をとって、手ぐすねひいて待ち構えていたのです。

No.95

>> 94 ちなみに、この頃のハリマオ団は、実数は約300名だったそうです(三千名というのはデマ)。
そして配下のメンバーは、ひとりひとりが特殊技術の技能集団だったそうです。
実際、付近の漁民の船が壊れると、それを無償で修理したり、困っている人たちへ無償で様々な奉仕活動をしていた。
神本の説得に応じた豊のもとには、藤原機関から軍資金も出るようになる。
豊は、受け取った資金を、ほとんど近隣の村人たちのために遣っています。
昭和16(1941)年、日本との開戦を予期していた英国軍は、日本軍がタイからマレー半島を縦断して進撃してくると想定し、マレー北部・タイ国境から30キロ南の小さな集落ジットラに防禦陣地を建設します。
英国のシンガポール防衛のための防衛ラインです。ジットラ・ラインという。
この陣地建設現場に、ひそかに現地人としてハリマオの一党が浸透する。
そしてマレー人労働者によびかけ、仕事に微妙に手を抜き、トーチカの場所や地形などを調査し、詳細な地図を日本軍に送った。
このジットラ要塞について英国軍は「いかなる攻撃でも3ヵ月は持ちこたえる」と豪語していたそうです。しかしどんなに見かけが立派でも、中身が手抜きで腐り、内部の情報が筒抜けになっていたら、腐った老木と同じです。
いざ戦端が開かれると、わずか2日でジットラ要塞は堕ちてしまう。

No.94

>> 93 特務機関の田村大佐は、神本に白羽の矢を立てます。
マレー国内に、日本軍と連携し行動を共にしてくれる仲間を作る。
それには、ハリマオ義賊団を巻き込むのがいちばんよい。
神本は、密命を帯びてマレー半島を南下します。
そして道教のネットワークを使い、ハリマオ=谷豊の居場所を難なく突き止めます。
そしてタイ南部の監獄に収容されていた谷豊を解放し、日本軍への協力を依頼した。
このとき豊は「俺は日本人ではない」と、マレー語で叫んだといいます。
「違う!、お前は日本人だ」という神本に、豊は複雑な胸中を語ったそうです。
妹の殺害事件で日本政府に陳情しても「あきらめろ」と言われる。
やむなく盗賊となって復讐をはじめたが、俺は人殺しは一切しなかった。
盗んで得た金品も、みんな貧しい人々に分け与えた。
しかし日本人は、「盗賊など恥晒した」と俺を非難した。
豊は、日本から見捨てられたと感じていたのです。


神本は説得した。
「まもなく、この半島は戦場になる。
 俺は、マレーをマレー人に戻したいと思っている。
 そのために君の力を貸してくれないか」
「マレー半島は、これまで白人に400年間もの間、支配され続けてきた。
反政府運動は、バラバラで、すべて簡単に弾圧されてきた」
「だがな、日本軍に現地人が協力してくれるなら、日本は必ず英軍を駆逐して植民地支配を終わらせることが出来る。必ずできる」
「豊、小金を奪えば盗賊だが、国を奪えば英雄だ」
豊は、神本の人間的な魅力に、ぐいぐい引き寄せられる自分を感じたといいます。
さらにイスラム教の信者となっている豊の前で、道教の信者のはずの神本は、イスラムのコーラン第一章アル・ファティファ(開端章)全文を暗誦してみせた。
豊は決心します。
「わかりました。あなたについていきます」

No.93

>> 92 神本利男(かもととしお)
この神本利男という人物は、昔、テレビドラマ「大岡越前」で主演した俳優の加藤剛にちょっと似たタイプの男かもしれない。
戦史的にはまったくの無名人物なのだけれど、異彩を放つ快男児です。
もともと神本は警察官です。満州で甘粕正彦憲兵大尉から絶大な信頼を得ていた男だった。
そして彼は警察官を退官すると、道教の満州総本山である千山無量観(せんざんむりょうかん)で3年間の修行を積んだ。そして満州の影の支配者とも呼ばれた葛月潭(こうげったん)老師の門下生となっています。
当時の満洲道教会の超大物である葛月潭(こうげったん)老師の門下となることができた日本人は、神本と大馬賊として有名な小日向白朗しかいない。神本は、よほどの人物だったとみえます。
大東亜戦争開戦が近づいた頃、バンコクに駐在する特務機関の田村大佐は、開戦を睨んでマレー工作を命じられていました。
当時は、まだ支那事変の最中でもあります。支那では、蒋介石が国民党を率いて支那各地で乱暴狼藉略奪強姦虐殺強盗の限りを尽くしていた。
日本軍は、蒋介石を追い込み、支那各地に平和と安定、治安の回復をもたらしていたけれど、その蒋介石が北京・上海から南京へと逃れ、そこからさらに逃亡して支那とビルマの国境付近である雲南省にまで逃げていく。
その雲南の蒋介石のもとには、英米豪が軍事物資や兵器、食糧を送り込む。
支那が無政府状態となり、支那全土で略奪暴行が日常的に行われていた時代です。
農地は荒らされ、家畜は殺される。庶民はこれでは食えません。
食えなくなった庶民は、日本軍怖しとデマを飛ばされ、英米から食料支援を得ている蒋介石のもとに集まる。蒋介石軍の人数が増える。国民党軍の勢力が盛り返す。
この悪循環を断つためには、日本は、英米豪の蒋介石への支援ルートを断たなければなりません。
日本が英米豪に宣戦布告すれば、日本は軍をマレーからビルマに北上させ、援蒋ルートを遮断することができる。

No.92

>> 91 マレーで床屋を営んだ豊は、この時、21歳です。
豊は、統治者の英国官憲に強く抗議した。「無罪」とは何事か。事実関係はちゃんと調べたのか。犯人の居場所を教えろ・・・
しかし、しつこく食い下がろうとする豊は、不審者とみなされ、逆に英国官憲に投獄されてしまう。
ツテを辿って日本の政府関係者にも陳情するけれど、誰も取り合わない。まるで拉致被害者に対するいまの日本政府と同じです。
味方が居ないことを知った谷豊はひとりで復讐を開始を決意します。
そしてマレーに帰って一年を過ぎたころ、豊は突然店を閉めて、姿を消してしまう。
それからしばらくして、英国人と支那人の事務所だけを襲う盗賊が出没します。
最初の事件は、昭和12(1937)年トレンガヌ州政府土地局でした。
ここでは、土地証文や債券、手形など時価3万ドルが盗まれた。
次に起こった事件は、タイの国境の町スンガイ・コロです。
白人経営の金鉱山で、純金八本が金庫から盗まれた。手口は同じです。
人の殺傷は一切ない。
同様の犯行は次々と続いた。
裕福な英国人の豪邸に忍び込み、金品を盗み取る。
そしてその金品が、付近の貧しいマレー人の家にばらまかれる。
豊のもとには、マレー人の仲間が続々と集まります。
やがて豊を頂点とする盗賊団は、支那人華僑の豪邸や商店も標的にするようになった。
殺しはない。しかしときには金塊を積んだ鉄道車両を爆破するなど大規模な犯行も行った。

この頃になると、豊はマレー人達の間で「ハリマオ」と呼ばれるようになります。ハリマオというのは、マレー語で「虎」という意味です。
幼い子供時代と青春時代をマレーで過ごした豊は、マレー語が堪能で、そのためマレー人の新しい部下は、ハリマオが日本人であるということを、まったく知らなかった者も多かったそうです。
昭和16(1941)年4月、豊はパタニで逮捕され、留置所に収監されます。
そこに神本利男(かもととしお)という日本人があらわれる。
神本は、豊の身柄を引き取ると、数回にわたり豊と長時間の接触をもった。

No.91

>> 90 要するに支那人というのは、古来、「やったもの勝ち」で「勝てば官軍」で、どんな非道も許され、「赤信号みんなで渡れば怖くない」を地で行っているだけでなく、それを武器を持って軍隊レベルでやっている。
このときも、支那人の暴徒たちは、妹の●を持ち去り、さらしものにまでしたそうです。記録はないけれど、暴行もされていたのかもしれない。
夜になって、繁樹と隣家の歯科医は、妹の生●を奪還します。
そして泣きながら●と胴を縫い合わせた。

事件後、母と弟は、マレーの家を引き払い、日本に引き揚げてきます。
当時は、いまのように携帯電話もなければ、郵便事情も整っていない。
豊は、帰国した母親から、この事件の詳報を聞きます。
そのときの豊の気持ち。。。。
大好きな可愛い妹を、自分のいない、異国の地で殺され、首まで切られた。
救うことができなかった。助けることができなかった。悔しくて、悲しくて、どうしようもなくこみ上げる気持ち。
豊は、復讐のために冷たく血を冷やし、昭和9(1934)年7月、単身マレーシアへ向かいます。
マレーのクアラ・トレンガヌへ帰ってきた豊は、昔の家の近くで理髪店を営みます。
店は結構、繁盛します。
豊は、床屋を営むかたわら、妹殺害の犯人探しを始めます。
妹を殺した支那人は、逮捕され、裁判にかけられたものの無罪放免となり、消息不明になっていたです。
なんで? と思うかもしれません。
要するにこの時期、マレー国内の経済は・・・それは今もだけれども・・・支那人の華僑が牛耳っていた。
そしてマレーという国の形がどうあれ、支那人たちは支那人の理屈で動く。
簡単にいえば、カネで買収して裁判の判決を無罪にしてしまった。
欧米は、いわゆる「契約社会」です。結婚も神との「契約」だし、官と民の関係も「法」という名の「契約」に基づく。民間どうしの関係も同じです。すべては契約に基づく。
支那人は異なります。「人治社会」です。人が判断するものだから、人次第で判決なども、どうにでもなる。
ついでにいえば、日本は「相互信頼社会」です。嘘をいうこと、信頼を損ねることが不実とされる。
悪いことをしても、捕まれば「おそれいりました」となるし、従容として裁決に従う。

No.90

>> 89 そして給料をもらうと友人たちをと博多に飲みに出かけ、気になる女性もいたという。
さらに豊は、自分名義の田を六畝相続で持っていたのですが、これをいつの間にか売り払った。
その代金を貧しい家庭の友人に恵んでいます。
気風(きっぷ)が良くて、頭が良くて、喧嘩が強くて、あたたかくて色男。
豊のまわりには、いつも友人が集まった。

その頃のことです。
マレーシアでは、在マレーの支那人たちが、いたるところで排日暴動を起こしていました。
支那人は、戦前も戦後も変わりません。彼らは要するに中華思想が根っこにあるわけで、それは、東亜は、すべて支那が世界の中心の国であり、周辺国である日本やウイグル、チベットなどは属国である、という思いこみです。
だから欧米はハナから敵対国だから支那を侵略してくるのは、ある意味仕方ないことだけれど、自分たちより目下の日本が支那より強かったり経済力があったりするのはケシカラン!という。
非常に次元の低い観念だけど、人間というのは、とかく次元の低い感情ほどムキになるし熱くなる。
支那人たちは、マレー国内で暴徒の集団を作り、日本人を襲います。
各所で、日本人の営む商店や家屋を襲い、金品を奪い、男を殺し、女を強姦し、残酷な方法で殺害した。
そして昭和7(1932)年11月、マレーシアの小さな床屋だった谷家も支那人暴徒の襲撃にあいます。
襲撃の少しまえに、谷家では、一家の大黒柱だった父親が急逝しています。
家には、母と、妹のシズコと、弟の繁樹がいた。
この日、母親はたまたま出かけていて留守だった。弟は英語学校に行っていた。そして家には、病気で寝込んでいた妹のシズコがいた。
支那人たちの暴動がはじまったとき、たまたま英語学校から帰宅途中だった弟の繁樹は、近所の人の「逃げなさい!」という声を聞いて、近所の医者の家に駆け込んだ。
そして支那人の暴徒たちが、手に「生●」をぶら下げて歩いて行く様子を覗き見た。
暴徒が去ったあと、自宅に戻った繁樹が見たものは、荒らされ、血まみれとなった室内と、●のない妹の惨●死体だった。

支那人のこうした残虐性というのは、ほんとうに今も昔もかわりがありません。
いま、汚沢や鳩ポッポが人民解放軍を日本に呼び込み、自衛隊と合同演習させようなどと、ゴタクを並べているようだけれど、米軍と異なり、規則決まりをまったく守らないのが支那人です。

No.89

🏆【日本人の英雄】実在した怪傑ハリマオー

ブログ「ねずきちの ひとりごと」より
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-731.html
(怖い話が苦手な人は読まないでください。一部伏字にしています。)
「怪傑ハリマオ」は、実在の人物です。本名は、谷豊(たにゆたか)といいます。
谷豊は、妹を支那人に惨殺され、復讐のため300人の呼ばれる地下組織を持つ義賊となり、支配者である英国人や支那人を襲い、奪った金品は私有せず庶民に与えた。
マレー人になりきっていたけれど、陸軍中野学校出身の藤原機関員神本利男に日本人であることを覚醒され、日本軍のマレー作戦に協力し、30歳で亡くなっています。


谷豊は、明治44(1911)年、理髪店を営む父・谷浦吉の長男として生まれます。
豊が生まれてまもなく、一家はマレーシア北東部のクアラ・トレンガヌという大きな街に移住します。
ここは美しいマレーシアの島々への玄関口として、いまでも多くの日本人観光客が訪れる地です。
「教育は日本で受けさせたい」という親の意向で、豊は、大正5(1916)年、5歳で日本に帰国します。
そして祖父母の家に滞在し、福岡市立日佐小学校に入学した。
小学校を卒業した豊は、大正13(1924)年、再びマレーシアへ戻ります。
そこでマレーの友人たちと青春を過ごした。
マレー人の友人たちと一緒にタコを作って揚げたり、ボクシングをしたり。
天性の運動神経と、気の強さで、これがめちゃめちゃ強かった。
加えて喧嘩っ早い。豊のまわりには、いつも人が集まっていたといいます。
そして19歳でマレー人のワンシティさんと結婚。イスラム教に改宗します。
昭和6(1931)年、二十歳になった豊は、祖国の役に立つために軍人になろうと、単身、再び日本に帰国します。ところが身長が足らず「丙種合格」となった。要するに不合格です。
豊はかなりショックだったようです。
やむなく豊は、福岡のアサヒ足袋で働くようになり、その後、福岡市内の鉄工所に就職する。
この頃、豊は、美野島や柳町の飲み屋によく出かけています。
そこでもよく喧嘩をした。
小柄で細い豊は、相手に舐められるのだけれど、サッと懐に飛び込んで、ボディやチンを強打する。たいていの相手は、これでノックアウトされた。

No.88

>> 87 エンペラーに代表される歴史。普通の神経してたらこんな国怖くて関わりたくない。

No.87

🇯【日本】歴史

元気の出るコピペ:外人が日本人を特別視してるってのは、自分の歴史少しでも知ってたら誰でも分かる
コピペ。
外人が日本人を特別視してるってのは、自分の歴史少しでも知ってたら誰でも分かるだろ。
まず、資源が全くないってことはすごいこと。もう両手両足もがれたぐらいのハンデ。
しかもすごいのは、米国の3分の1の人口、わずか25分の1の領土で、その上そのただでさえ極小の国土の7割が山、山、山。なーんにもない、山・・・。
だから農業で輸出して食べていくことすらできない。条件からして最貧国でもおかしくない国。
そんな国が、100年ほど前で当時世界最強クラスだった露助とか清をあっさり倒して、非白人国家で普通に白人常任倶楽部仲間入りしちゃってて、おまけに米国敵に回して
ガチで戦争して、世界で唯一米国本土爆撃して、英国の無敵艦隊フルボッコにして、オランダ倒して、世界で唯一原爆落とさせるほどてこずらせて。しかも二発だよ。二発。
考えられない。敗戦とか言ってるけど日本のせいでアジアから白人の植民地全部消されたし。
 
しかも信じられないのは、戦争に負けてただでさえ何にもない国がさらに
インフラまで全部叩き潰されて、多額の賠償金まで背負わせて100%再起不能に
しといた極貧衰弱国家で、今度こそ生意気なイエローモンキーが消えて数百年は
ウザイ顔見ないで済むと思ってたら、直ちに再び白人社会に経済で参戦して来くさって、参戦どころかごぼう抜きでたった2,30年であっという間に米国さえ抜いて世界第一位。
東京の土地だけで米国全土が買えるほどの呆れた価値になっちゃう程の超絶経済力で
世界中( ゚Д゚)ポカーン・・・状態。その後もずーっと二位維持。頭一本でそれ。
しかも経済の80%が内需。内需だけでそれ。金融とかでまだ全然進出してないし
車や家電、工業製品ももまだまだ進出しきってなくてそれ。もうキチガイの域。
伸びしろありすぎワロタ。戦後60年一発も打たずに侵略せずにこれ。
何気に世界最長寿国とかなってる。
んで今度は漫画・アニメ・ゲーム。気がつけばハリウッドの規模とっくに超えてる。
アメリカの検索で一位になってるのが日本のアニメとか。
世界中で一番人気の映像作品が日本のアニメとか。
極めつけは世界一長い国号、2000年のどの白人より長い王室ならぬ、その上の皇室保有。

No.86

>> 85 秋篠宮殿下の皇位継承権を剥奪しない限り、愛子天皇は実現しない。それは秋篠宮に皇統が移った瞬間に、眞子さま佳子さまの立場が愛子内親王より上位になるからである。
ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論追撃篇(サピオ連載中)で勝手に両陛下と秋篠宮殿下の意思を忖度し、強引に皇室全体の女系天皇容認を結論付ける小林よしのり。悠仁親王殿下までの皇位継承権は確定しており、陛下はもちろんだが、秋篠宮殿下が自分自身や悠仁殿下の皇位継承権剥奪に賛同するとは考えづらい。女系容認問題が討議されるのは、悠仁殿下がご結婚後、男子に恵まれず、尚且つそれまでに旧宮家の復帰がなかった場合に限定される。小林は一体何をそんなに急ぐのか?

【参考動画】世界最強の天皇陛下
http://www.youtube.com/watch?v=lsOFxj9To-o&featplayer_embedded

No.85

>> 84 皇統=男系(父系)であり、自分に言わせれば歴史上、一人も存在していない女系(母系)天皇(女性天皇とは別物)を認める女系継承など皇統ですらないが、女系容認論者は皇統存続云々以前に、秋篠宮殿下の権利剥奪を画策する逆賊であるということである。彼らに皇室や皇統を語る資格はなく、小林ばかりか、同様の主張を行っている高森某や笠原某も逆賊だということだろう。
保守とは保ち守ると書くが、一体保守が何を守るべきかといえば、強いていえば、それは2000年以上の世界最古の歴史を持つ神武朝日本ということになる。神武朝日本を守るとは、姓を持たない一系の天皇家を頂点とする日本を守るということであり、その国民を守ることということになるだろうか。
神武朝を終焉させ、佐藤王朝や鈴木王朝が出現する女系容認の思想は保守でも何でもない。ましてや秋篠宮殿下の皇位継承権を奪う発想など、一人の日本人としても狂気の沙汰だ。小林がいくら悪あがきをしようが詭弁を弄そうが、もはや勝ち目はないのであり、男性皇族の皇位継承権剥奪を主張する一方で、皇室を大事にするくさいパフォーマンスなどいい加減、やめてもらいたいものである。

No.84

>> 83 女系容認論議をしたいのであれば、愛子天皇の可能性を除外して議論するのが前提であり、それが出来ないのであれば、彼らが主張するのは実際には女系容認論ではなく、愛子天皇容認論、秋篠宮からの皇位継承権剥奪容認論ということになる。愛子天皇の可能性を除外して女系容認論を語る人間を自分は見たことがないが、女系容認論者の正体が国賊であることの何よりの証明だろう。

No.83

>> 82 法改正によって何ら瑕疵のない男子皇族から、一方的に皇位継承権を奪うことは許されないが、こういったことを堂々と主張していた有識者会議のメンバーいかに皇室に敬意を持たず、秋篠宮殿下の権利を軽く踏みにじろうとする連中だったか、思い出すと不快感を禁じえない。メンバー自体がキチガイ極左の集まりであり、秋篠宮殿下の権利が話題にもされなかった当時の状況は異常としか言いようがなかった。
小林よしのりの主張は有識者会議の主張をほぼ踏襲しており、作品の中でもチャンネル桜の討論番組の中でも、愛子天皇を待望する意思表明を行っている。皇太子以降の皇位継承は、愛子さまか悠仁さまか、ではなく愛子さまか秋篠宮さまか、と表現するのが正しい。愛子内親王と秋篠宮殿下、どちらが天皇にふさわしいかと問われれば、議論の余地もなく秋篠宮殿下である。愛子天皇を実現させるためには秋篠宮殿下の皇位継承権を剥奪しなくては不可能であり、皇室存続の観点から女系容認を考えるのであれば、実際に議論の対象になるのは悠仁親王殿下以降の皇位継承についてである。
小林よしのりの主張は皇室護持、女系容認の主張のフリをした、秋篠宮殿下からの皇位継承権剥奪の主張であり、どう考えても小林よしのりは保守というよりは、似非右翼にしか見えない。女系容認論者は天皇陛下の大御心を捏造し、愛子天皇ありきの女系容認論の正当性を主張することが過去に何度もあったが、天皇陛下が秋篠宮殿下の皇位継承権剥奪を容認するはずもなく、実際、これらの“大御心”はその後の調査で全部捏造だったことが判明している。

No.82

🇯小林よしのりが主張する女系容認論の正体

ブログ「日本が好きなだけなんだよ」より
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-646.html
2010.05.11 Tue 14:30
女性セブン(2009/8/6)に掲載された愛子天皇を待望する小林よしのりの漫画
小林よしのり
漫画家・小林よしのりといえばゴーマニズム宣言シリーズなどで、保守の先駆けとして分かりやすい漫画という媒体を通して、読者を啓蒙し人気を博したこともある人物だ。しかし、この小林よしのりは、自分の作品をパチンコ業界に提供したあたりから主張がおかしくなり、昨年の総選挙前に民主党への投票を勧めたり、嫌韓流を批判したりして、その主張に齟齬が目立ち始めてきた。
極め付けは皇位継承問題における女系容認論であり、将来、男系男子が減少し皇統が危ういので女系を容認すべしというのが小林を始めとする女系容認論者の主張だが、これらの女系容認論者の特徴は、必ずと言っていいほど「愛子天皇」ありきの主張しかしないということである。現在の皇室典範で、皇太子→秋篠宮→悠仁親王という皇位継承の順序が確定されており、悠仁親王殿下が御誕生される前に起こった女系容認論議の発端は、皇太子→秋篠宮→眞子さま or 佳子さま?という、皇位継承者不在の危機だった。
女系容認論議の最後の方になると当初のコンセプトはすっかり忘れ去られ、小泉政権時代に設置された皇室典範改正の有識者会議の最終報告書には、いつの間にか直系優先、第一子優先が打ち出されており、実質、秋篠宮殿下から皇位継承権を剥奪し、愛子内親王に皇位継承権を与えることがうたわれていた。

No.81

>> 80 余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。
皇祖皇宗の神霊は、天にましまし、余は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに英米による禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
http://jiritsusaisei.blogspot.com/2011/02/blog-post_12.html

No.80

>> 79 《現代語訳》

天の神々のご助力を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、はっきりと忠誠にして武勇ある汝ら国民に示す。
余はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。余の陸海軍の将兵は、全力を奮って交戦に従事し、余の政府関係者・官僚・役人のすべては、つとめ励んで職務に身をささげ、余の国民は、おのおのその本分をつくし、億兆の心をひとつにして、国家の総力を挙げ、攻め戦う目的を達成するために、手ちがいのないように心がけよ。
そもそも、東アジアの安定を確保し、それをもって世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その大いさを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、余も日頃、かたときも忘れずに心がけている事である。
そういう理由であるから、各国との交流を篤くおこない、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要諦とするところである。今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか(このような事態は、余の本意ではない。)
中華民国政府は、以前より帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を攪乱(かくらん)し、遂(つい)に帝国に武器をとらせる事態(慮溝橋事件)にいたり、現在まで四年が過ぎた。さいわいに、国民政府は、汪清衛・南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するに至ったが、重慶に残存する蒋介石政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟であるはずの南京政府と、いまだに相互の境をはさんでせめぎあう姿勢を改めない。
米英両国は、蒋介石政権を支援し、東アジアの戦禍と混乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋を征服する非道なる野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには禁輸措置を意図的におこなって、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

No.79

>> 78 朕は、政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延(せんえん)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威を増大し、以って我を屈従せしめんとす。
斯(かく)の如くにして、推移せんか。東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉(ことごと)く水泡に帰し、帝国の存立、亦(またこ)正に危殆(きたい)に瀕せり。事既(ことすで)に此(ここ)に至る帝国は、今や自存自衛の為、蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうがい)を破砕するの外(ほか)なきなり。
皇祖皇宗の神霊、上(かみ)に在(あ)り、朕は、汝、有衆の忠誠勇武に信倚(しんい)し、祖宗の遺業を恢弘(かいこう)し、速(すみやか)に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全せんことを期す。

No.78

>> 77 《読み下し文》

天佑(てんゆう)を保有し、万世一系の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝、有衆(ゆうしゅう)に示す。
朕(ちん)、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦(たたかい)を宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)は、励精職務を奉行(ほうこう)し、朕が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)其(そ)の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算(いさん)なからむことを期せよ。
抑々(そもそも)、東亜の安定を確保し、以って世界の平和に寄与するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考(こうそこう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述(さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう)にして、朕が拳々(きょきょ)措(お)かざる所。
而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤くし、万邦共栄の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(これまた)、帝国が、常に国交の要義と為す所なり。今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る。洵(まこと)に已(や)むを得ざるものあり。豈(あに)、朕が志(こころざし)ならんや。
中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解せず、濫(みだり)に事を構えて東亜の平和を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(かんか)を執(と)るに至らしめ、茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(いま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)めず。
米英両国は、残存政権を支援して、東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋制覇の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国を誘い、帝国の周辺に於(おい)て、武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存に重大なる脅威を加う。

No.77

🇯大東亜戦争 開戦の詔勅 (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)《原文》

天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ
中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス
米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ
朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス
斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス
御 名 御 璽
昭和十六年十二月八日

No.76

>> 75 はずの南京政府と、いまだに相互の境をはさんでせめぎあう姿勢を改めない。
米英両国は、蒋介石政権を支援し、東アジアの戦禍と混乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋を征服する非道なる野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには禁輸措置を意図的におこなって、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。
皇祖皇宗の神霊は、天にましまし、余は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに英米による禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
http://jiritsusaisei.blogspot.com/2011/02/blog-post_12.html

No.75

>> 74 《現代語訳》

天の神々のご助力を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、はっきりと忠誠にして武勇ある汝ら国民に示す。
余はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。余の陸海軍の将兵は、全力を奮って交戦に従事し、余の政府関係者・官僚・役人のすべては、つとめ励んで職務に身をささげ、余の国民は、おのおのその本分をつくし、億兆の心をひとつにして、国家の総力を挙げ、攻め戦う目的を達成するために、手ちがいのないように心がけよ。
そもそも、東アジアの安定を確保し、それをもって世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その大いさを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、余も日頃、かたときも忘れずに心がけている事である。
そういう理由であるから、各国との交流を篤くおこない、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要諦とするところである。今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか(このような事態は、余の本意ではない。)
中華民国政府は、以前より帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を攪乱(かくらん)し、遂(つい)に帝国に武器をとらせる事態(慮溝橋事件)にいたり、現在まで四年が過ぎた。さいわいに、国民政府は、汪清衛・南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するに至ったが、重慶に残存する蒋介石政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である

No.74

>> 73 重慶に残存する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(いま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)めず。
米英両国は、残存政権を支援して、東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋制覇の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国を誘い、帝国の周辺に於(おい)て、武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存に重大なる脅威を加う。
朕は、政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延(せんえん)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威を増大し、以って我を屈従せしめんとす。
斯(かく)の如くにして、推移せんか。東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉(ことごと)く水泡に帰し、帝国の存立、亦(またこ)正に危殆(きたい)に瀕せり。事既(ことすで)に此(ここ)に至る帝国は、今や自存自衛の為、蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうがい)を破砕するの外(ほか)なきなり。
皇祖皇宗の神霊、上(かみ)に在(あ)り、朕は、汝、有衆の忠誠勇武に信倚(しんい)し、祖宗の遺業を恢弘(かいこう)し、速(すみやか)に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全せんことを期す。

No.73

>> 72 《読み下し文》

天佑(てんゆう)を保有し、万世一系の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝、有衆(ゆうしゅう)に示す。
朕(ちん)、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦(たたかい)を宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)は、励精職務を奉行(ほうこう)し、朕が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)其(そ)の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算(いさん)なからむことを期せよ。
抑々(そもそも)、東亜の安定を確保し、以って世界の平和に寄与するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考(こうそこう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述(さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう)にして、朕が拳々(きょきょ)措(お)かざる所。
而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤くし、万邦共栄の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(これまた)、帝国が、常に国交の要義と為す所なり。今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る。洵(まこと)に已(や)むを得ざるものあり。豈(あに)、朕が志(こころざし)ならんや。
中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解せず、濫(みだり)に事を構えて東亜の平和を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(かんか)を執(と)るに至らしめ、茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携するに至れるも、

No.72

🇯大東亜戦争 開戦の詔勅 (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)《原文》

天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ
中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス
米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ
朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス
斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス
御 名 御 璽
昭和十六年十二月八日

No.71

>> 70 余は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、余の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、余の心より深く憂うるところである。思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。汝ら臣民の真情も、余はそれをよく知っている。しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。
余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、余のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。
http://jiritsusaisei.blogspot.com/

No.70

>> 69 《現代語訳》

余は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと欲し、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。
余は帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。
そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、余はそれをつねづね心がけてきた。先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより余の志すところではない。しかるに、交戦状態はすでに四年を過ぎ、余の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、余のすべての官僚役人の精勤と励行、余の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。
そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。この上、なお交戦を続けるであろうか。ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。そのようになったならば、余は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。以上が、余が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。

No.69

>> 68 おもうに今後、帝国の受くべき苦難は、もとより尋常にあらず。汝臣民の衷情も、朕よくこれを知る。しかれども、朕は時運のおもむくところ、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。
朕はここに、国体を護持しえて、忠良なる汝臣民の赤誠に信倚(しんい)し、常に汝臣民と共にあり、もしそれ情の激するところ、みだりに事端をしげくし、あるいは同胞排擠(はいせい)、互いに時局を乱り、ために大道を誤り、信義を世界に失うがごときは、朕もっともこれを戒む。よろしく挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ。

No.68

>> 67 《読み下し文》

朕(ちん)、深く世界の大勢と、帝国の現状とにかんがみ、非常の措置をもって、時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ。朕は、帝国政府をして、米英支ソ四国に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)をはかり、万邦共栄の楽を共にするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の挙々おかざるところ。先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに、出でて他国の主権を排し、領土を侵すがごときは、もとより朕が意志にあらず。しかるに、交戦すでに四歳をけみし、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局、かならずしも好転せず、世界の大勢、また我に利あらず。しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用し、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ、まことに測るべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか。ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、のべて人類の文明をも破却すべし。かくのごとくむは、朕、何をもってか、億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。
朕は帝国とともに、終始、東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるをえず。帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉し、非命に倒れたる者、及びその遺族に想を致せば、五内ために裂く。かつ戦傷を負い、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)するところなり。

No.67

>> 66 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日

No.66

🇯大東亜戦争終結ノ詔書 (大東亜戦争終結に関する詔書)
《原文》

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

No.65

>> 64 ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。
私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。
殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。
だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。
しかし、そんなことは聞かない。
だからすでにこの世におられないと思っていた。
ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。
天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。
しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。
陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。
平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。
それでも暗殺される王様や大統領がある。
それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。
国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。
しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。
こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。
われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。(オットーカロン博士 ボン大学教授 昭和25年)

No.64

>> 63 大東亜戦争の敗戦
圧倒的な武力で日本軍を壊滅させ、原子爆弾と無差別攻撃で日本の国土を蹂躙した米軍でさえ、天皇の統治には触れることは出来なかった。
国際法を無視したGHQに押し付けられた日本国憲法では国民統合の象徴とされるが、形式的、対外的は国家元首であり、その立場は制限を受けながらも維持されている。また、日本は敗戦後も、実質的にはともかく、形式的には植民地とならず、独立を維持した。
日本は敗れはしたが、日本の奮戦により、欧米白人の非人道的な植民地支配が打破され、有色人種は白人の奴隷的な立場から解放された。
戦勝国であるはずの欧米諸国は、アジア・アフリカの植民地の大部分を失い、凋落した。

No.63

>> 62 元のクビライは本格的に3度目の日本侵略を計画し、1287年に一旦解散した征東行省を再度開設し、高麗忠烈王が丞相に就任したが、この時期に元の内部でも反乱が続き、また大越国への侵攻の失敗などもあって日本へ軍が出せる状態ではなくなり、クビライの死と共に完全に頓挫した。
(参考 Wikipedia「元寇」)

No.62

>> 61 外敵編
呉の孫権
『三国志』で有名な呉の孫権は、皇帝の位についた翌年の黄龍二年(二三〇)、徐福の子孫が住むという亶州と夷州とを求めて将軍の衛温と諸葛直に兵一万を与え、東海へと船出させた。
しかし、二人の将軍は夷州[台湾]から数千の住民を連れ帰ったが、肝心の亶州[日本]には行き着けず、帰国後に命令不履行ということで孫権に殺されてしまった。
元寇
日本の文永11年・元の至元11年10月(1274年11月)に、忻都、金方慶らに率いられ、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人など非戦闘員を含む3万人を乗せた船が朝鮮の月浦(合浦。現在の馬山)を出発し、10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、元軍はその後、博多を占拠したものの、日本側の反撃に遭い、終日の激戦で矢が尽き、軍の編成が崩れた。
このため、大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにしたが、夜中に暴風雨に見舞われ、艦船が難破するなどして大損害を蒙り、十一月二十七日(12月26日)に合浦に帰還した際には、派遣軍の不還者は1万3500余人に登ったという。
1281年(日本の弘安四年・元の至元十八年)、元・高麗軍を主力とした東路軍4万と、旧南宋軍を主力とした江南軍 10万、計14万の軍が日本に来襲。しかし、防衛体制を整えていた日本側は、博多沿岸に約20kmにも及ぶ防塁(元寇防塁)を築いてこれを迎えた。この時の日本側の兵力は4万だった。
江南軍は、総司令官が病気のために交代したこともあり、東路軍より遅れてやってきたが、両軍は、平戸鷹島付近にて合流した。
しかしここで暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの状態となった。
これを好機と見た武士らは元軍に襲いかかり、これを殲滅した。
元軍で帰還できた兵士は、のちに解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言われる。
この戦いによって元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損した。

No.61

>> 60 女系天皇容認論議の頓挫
小泉元首相が、皇統断絶、家系乗っ取りを意味する女系天皇容認論をぶちあげ、マスコミを始めとする反日勢力もそれに賛同。
反対したのは自民党内の保守派だけだった。
皇室典範改正の一歩手前までいったが、不思議なことに、あわや女系天皇容認が実現するかという時、秋篠宮家に悠仁親王殿下が御誕生し、その後、女系天皇容認論議は頓挫。
小泉の背後にはロックフェラーがいたという噂もあるが、その後、ロックフェラーはサブプライム問題で大損害を蒙っている。

No.60

>> 59 織田信長
戦国時代後期、織田信長は足利義昭を将軍として上洛を行ったが、程なく信長と義昭の間に対立が生じ、その結果義昭は追放され室町幕府は滅亡した。

また信長は、時の正親町天皇とは当初協調路線をとっていたが、しだいに自らを神格化するような行動を取り、さらには朝廷が決定する暦の制定にまで口をはさむようになった。
朝廷は、まず信長を右大臣とし、更には太政大臣、関白、征夷大将軍のいかなる官位をも授けると打診したが、信長はそれを辞退。
その一方で京都で馬ぞろえ(軍事パレード)を行い、朝廷を威嚇したとされる。この様な行動から、信長は天皇を廃して自身が日本の王になろうとしたのではないかという説がある。
そのため、朝廷を敬う明智光秀によって本能寺の変で殺されたとされる。
いわゆる「朝廷陰謀説」である。(同上)

No.59

>> 58 皇位簒奪の挫折
蘇我氏
蘇我氏は大王家(後の天皇家)を凌ぐ権勢を誇り、遂には自身が大王になろうとしたため、乙巳の変により滅ぼされた(Wikipedia「皇位簒奪」)。

道鏡
弓削道鏡は、「聖武天皇の出家(神⇒仏)、孝謙太上天皇の再即位(仏⇒神)など神仏混交が進み天皇の地位が変質するなか、孝謙天皇(称徳天皇)の看病禅師として宮中に入り、寵愛されるようにな」り、「天皇に準ずる法王に即位し、家政機関も設置されるなど事実上の女帝との共同統治者となり仏教事業や神祇を司った」。
「更に二人の二頭体制によって皇太子を経ず形式的に天皇に即位すべく準備が行われた」が、「間もなく女帝が死去した為実現しなかった」。(同上)

平将門
平将門は、「八幡大菩薩の使いを称する巫女が宣託を告げ、興世王から「新皇」の号を進呈されたという。
新皇位への即位は京都朝廷へ奏上を行っており、相対する新たなる天皇という意味で新皇を名乗った。」しかし、「敵対勢力への対応に忙殺されて翌年には討たれ」た。(同上)

足利義満
足利氏は、「南北朝の動乱により、天皇家と公家勢力の権力及その権威が低下すると共に、足利幕府の成立以来、その権威は天皇家に迫り、実質的に日本の君主としての役割を担った。
とりわけ三代将軍足利義満は朝廷への影響力を強め、公武を超越した権威と権力を持つに至った。」「晩年には、実子義嗣を親王に準ずる形で元服させた。
しかしその直後に義満は後継者不指名のまま急死し、四代将軍となった足利義持や幕府重臣により先例無しとして太上法皇位の追号も取りやめられ、朝貢貿易も停止された」。(同上)

No.58

>> 57 連綿と続く日本の歴史。
国号が変わらないのは万世一系の天皇家の存在ゆえである。

No.57

🇯『神国 日本』

ブログ「棚からぼたもち」より転載。

日本は歴史上、世界最古の国家だが、その根拠は一系の天皇家が建国以来、実権はともかく形式的には頂点に君臨し続けてきたことによる。
一系の家系とは、男系継承で続いてきた家系のことで、いわゆる万世一系のことである。
女系天皇などというおかしな概念が生まれたせいで、男系継承などという言葉が生まれたが、一部の例外を除けば、世界共通で家系は父方の血筋を元に記録されている。
遺伝子的にはY染色体の受け渡しで継続される家系のことだが、これは男女差別云々以前に、男女の役割の差に過ぎないと思われる。
日本の歴史上、天皇の地位に成り代わろうとしたり、万世一系を脅かし、天皇による統治を脅かしてきたものは、ことごとく挫折してきた。
現在の日本の教育では当たり前のように教えられ、特に解説もされていないので、何の感慨もない人も多いと思うが、その辺りの事象をまとめてみたのでご覧いただきたい。

No.56

>> 55 (4)教育基本法改正と「教育勅語」の理念復興
 平成18年(2007)12月22日、改正教育基本法を公布・施行。戦後GHQの指導下で制定された旧教育基本法を抜本的に改正
 この頃から、教育勅語の理念復興を求める意見が見受けられるようになり、現在に至る。
■結語 : 教育勅語の理念を今に
 積極的に語りはしませんが、現在70代後半以上の世代は、皆教育勅語を暗唱できるはずです。
 そして、この世代に代表される「道徳性の高さで知られる日本民族」さらに「世界に誇る道義国家・日本」の精神的バックボーンとなってきたのが、教育勅語であり、それゆえに国会での失効決議以降も60年以上に渡って、これを称揚し、守り伝えようとする方々が絶えなかったのであります。
 我々も率先して「教育勅語」の理念・精神を学び、次の世代にきちんと伝えていこうではありませんか。 

No.55

>> 54 両院の決議を踏まえて、文部省より「教育勅語等の取扱いについて」を通達。通達内容は以下の通り

両院が国民教育の理念としての「教育勅語」の失効確認を表明したこと

小学校で持っている「教育勅語」の謄本は当局に返還すること
(2)教育勅語の持つ普遍的価値は不易
 以上のように、教育勅語は「日本の教育の指導理念」としての役割を終えましたが、教育勅語の内容は、誰もが良心的に認めることのできる、何時の時代にあっても普遍的な真理性を有していることに変わりは有りません。
 国会決議は、GHQの強要により「教育勅語を指導理念とすること」を否認したのであり、「教育勅語の内容自体を否定」したのではありませんし、まして、これを「(仏典や聖書のような)一般の道徳訓」、あるいは「(聖徳太子の『十七条憲法』、福沢諭吉の『学問ノススメ』のような)歴史的文書」として学校教育で使用することを否定したものでもありません。
 現に教育勅語は、現在でも、地方の素封家や名望ある教育者によって「純然たる道徳訓」として大切にされています。
(3)社会党議員による「教育勅語」攻撃
 昭和58年(1983)に、社会党・本岡昭次議員(参院)が、島根県のある私立校での教育勅語使用を問題視する発言を、当時の文部大臣であった瀬戸山三男氏(自民党)に対して行い、瀬戸山氏が曖昧な回答に終始したため野党・マスコミの攻撃を受ける事件がおきました。
 これも社会党が消滅した今となっては、逆に「教育勅語」の正しさを示すエピソードといえましょう。

No.54

>> 53 ■戦後の教育界・マスコミによる一方的否定を排す

(1)教育勅語失効への経緯
昭和20年(1945)10月22日、GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を発令
 占領目的に立ち、「日本の教育の民主化・平和主義化のため、あらゆる軍国主義的な極端な国家主義的政策を払拭」することを宣言
昭和21年(1946)春、アメリカから第一次教育使節団が来日
 日本の教育制度について、抜本的な改造のための調査を実施
昭和21年(1946)8月 アメリカ教育使節団の指導を受けて、文部省が日本の教育制度を改変する「教育刷新委員会」を設置
昭和21年(1946)10月8日 文部省より「勅語及詔書等の取扱いについて」を全国の官/公/私立の大学・高等専門学校長、各県都道府県知事宛に通達。通達内容は以下の通り

教育勅語を以て我が国唯一の教育の淵源とはせず、教育勅語と共に広く、古今東西の倫理・哲学・宗教等に教育の基礎を置くこと

式日においては捧読しないこと

勅語の保管・捧読に当たっては、その神格化を避けること
昭和22年(1947)3月31日、教育基本法公布
昭和23年(1948)5月、GHQが国会に「教育勅語の無効を明確化する措置」を要求
 参議院文教委員会委員長(田中耕太郎)などが「日本は(先の文部省通達で)既に教育勅語を教育の基本とする方針を破棄しており、特に無効であると国会で決議する必要はない」として抵抗したが、GHQに押し切られる
昭和23年(1948)6月19日、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」が為される

No.53

>> 52 明治23年(1890)10月30日、「教育勅語」煥発、内外の高い評価を受ける。

No.52

>> 51 (1)勅語とは : 詔書との違い
明治40年公布『公式令』(勅令第六号)
「 皇室ノ大事ヲ宣告シ及大権ノ施行ニ関スル勅旨ヲ宣告スル ハ、別段ノ形式ニ依ルモノノ外、 詔書 ヲ以テス」(第一条)
「 文書ニ由リ発スル勅旨ニシテ、宣告セサルモノ ハ、別段ノ形式ニ依ルモノヲ除クノ外、 勅書 ヲ以てテス」(第二条)
※「宣告」の「告」は正しくは「言」ヘンに「告」で、「政府の公式な申し渡し」のこと。
明治憲法(明治22年(1989)公布・翌23年(1890)10月30日施行)下の立憲君主制では、
<1> 国務大臣の副署を添え 、天皇のお名前を冠したご文書に、 公式な法的効力 を持たせたものを 「詔」 と申し上げ、(例:終戦の詔書)
<2> 国務大臣の副署がなく 、御製と同じように 天皇ご自身のご意見・御心を、直接に親しく国民にお示しになられたご文書 を「勅書」「勅語」など 「勅」 を冠して申しあげます。(例:軍人勅諭)
(2)教育勅語煥発の経緯
明治5年(1872)、欧米の教育制度に倣った「学制」を導入
 ※明治初期の教育内容(特に高等教育)については、英米の教科書の直訳を使用したため、「学問は身を立てるの財本(もとで)」とする英米流の功利主義に靡き日本伝統の美風を軽んじる悪弊が生じ、心ある人々の間に道徳教育の在り方について改善を求める動きが沸き起こった。
明治19年(1886)10月29日、明治天皇、帝国大学に行幸
 ※このとき、明治天皇は教育における人格育成、ことに我が国の歴史・伝統・文化軽視の風に関して重大な懸念を、侍講(進講を司る官)元田永孚(のちに教育勅語の文案作成に協力)に示される。

明治21年(1888)、帝国大学文学部史学科に初めて「日本歴史」の講義を設置。翌22年(1889)、帝国大学国史学科を新設
明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法発布。翌23年(1890)11月29日施行
明治23年(1890)2月、地方官会議にて道徳教育の在り方について指針を求める要望が強まり、かねてより教育問題に深い関心を寄せられていた明治天皇の思し召しに即して、「国民誰もが拝読できる道徳教育の根本理念」を「教育勅語」として起草する作業を開始。芳川顕正・中村正直を経て井上毅が大部分を起草し、元田永孚が明治天皇のご意見を挺して文案完成に協力。

No.51

>> 50 現代語訳 
但し現代語(口語)訳では、原文の持つ深い含蓄が伝わりません。初学者は現代語訳を読了して教育勅語の大意を掴んだ後は、是非とも原文を音読されることをお勧めします

私(明治天皇)が思うに我が皇室の御先祖様が国をお始めになったのは、遥か昔のことであり、その恩徳は深く厚いものです。
我が臣民は忠と孝を守り、万人が心を一つにしてこれまでその美をなしてきましたが、これこそ我が国の最も優れたところであり、教育の根本も実にこの点にあります。
あなたたち臣民は父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友人は信じ合い、人には恭しく、自分は慎ましくして、広く人々を愛し、学問を修め、仕事を習い、知能を伸ばし、徳行・能力を磨き、進んで公共の利益に奉仕し、世の中のために尽くし、常に憲法を重んじ、法律を守り、もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けるようにしなければなりません。
このようなことは、ただあなたたちが私の忠実で良い臣民であるだけではなく、あなたたちの祖先の昔から伝わる伝統を表すものでもあります。
このような道は実に我が皇室の御先祖様がおのこしになった教訓であり、子孫臣民が共に守らなければならないもので、今も昔も変わらず、国内だけではなく外国においても理に逆らうことはありません。
私はあなたたち臣民と共に心に銘記して忘れず守りますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを切に願っています。

No.50

>> 49 読み下し文(現代仮名遣い)
教育ニ関スル勅語
朕(ちん)惟(おも)フニ、我ガ皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。
我ガ臣民(しんみん)、克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ、世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ、此(こ)レ我ガ國体ノ精華(せいか)ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)、亦(また)実ニ此(ここ)ニ存ス。
爾(なんじ)臣民、父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、学ヲ修メ、業(ぎょう)ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ、進ンデ公益(こうえき)ヲ広メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重(おもん)ジ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急(かんきゅう)アレバ、義勇公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以テ天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。
是(かく)ノ如(ごと)キハ、独(ひと)リ朕ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風(いふう)ヲ顕彰(けんしょう)スルニ足ラン。
斯(こ)ノ道ハ、実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓(いくん)ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所、之(これ)ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之(これ)ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)ラズ。
朕、爾臣民ト倶ニ拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ咸(みな)其(その)徳(とく)ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。
明治二十三年十月三十日
御名 御璽(ぎょめい ぎょじ)

No.49

🇯教育勅語🇯

教育ニ関スル勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風を顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名 御璽

音読
教育勅語を諳んじる台湾のご年配者(12分過ぎからご覧下さい)
http://m.youtube.com/watch?desktop_uri=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D_vg5wn-EF9k&v=_vg5wn-EF9k&gl=JP

No.48

>> 47 昭和天皇論 「マッカーサーとの会見」

昭和20年9月27日、
その朝、皇居内は異様な静けさに包まれていた。
昭和天皇は無言のまま、深刻な表情で玄関に向かう。
香淳皇后も表情をこわばらせて見送る。
昭和天皇「ごきげんよう」
香淳皇后「ごきげんよう」
交わした言葉はこれだけ。
この後、何が起こるか誰にも分からない。
これが永遠の別れの挨拶になるかもしれなかった。
昭和天皇は、
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと初めて会見するのである。
まだ連合国の占領方針は明確にされておらず、そのまま天皇が拘束され、
戦争犯罪人として裁かれる可能性もないとは言えなかった。
マッカーサーは玄関に出迎えも見送りもしないと決めていた。
天皇とマッカーサーは握手し、挨拶を交わした。
正装で直立不動の天皇に対し、ノーネクタイで姿勢を崩したマッカーサー。
天皇より自分が格上だと画像で示し、日本人に敗戦の事実と、
我こそが日本の支配者だということを実感させる為の写真がある。

昭和天皇
「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、
私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」
昭和天皇が責任逃れをするだろうと見くびっていたマッカーサーは、
昭和天皇のこの態度に衝撃を受けた。
マッカーサーとの会見は予定を15分ほど超え、35分にわたった。
そして会見後は予定を変え天皇を玄関に見送った。

昭和天皇・マッカーサー会見の時に、
マッカーサーの側近だったフォービアン・バワ―ズは、
会見後のマッカーサーの様子をこう証言している。
「会談が終わり、天皇の一行をお送りした後、
元帥に呼ばれて部屋に行くと、
元帥は本当に感動した様子でぐったりイスにもたれていた」
「我々が玄関のホールに戻った時、
元帥ははた目にみてもわかるほど感動していた。
私は彼が怒り以外の感情を外に出したのを見た事がなかった。
その彼が今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた」

No.47

>> 46 🇯以降マッカーサーは、昭和天皇を「Your Majesty」(陛下)と呼ぶようになりました。

昭和天皇は生涯平和主義者でした。
昭和天皇は、軍事史及び歴史全般にも詳しく、
フランス革命の研究家でもあり、古今東西の歴史を深く認識していました。
皇太子時代の6ヶ月にわたるヨーロッパ外遊時、
第一次世界大戦の戦場を見てまわり、
「戦争とは実にひどいものだ」と涙したそうです。
それが生涯にわたる平和主義に繋がったと言われています。
ですから、昭和天皇は日独伊三国同盟にも戦争にも反対していました。
昭和19年には空襲が激しくなり、
防空壕として急増された吹上御文庫に移転して住まわれましたが、
日当たりが悪く、湿気の多い、とても快適とはいえばない居所でした。
戦後、何度か新築の話があったそうですが、
昭和天皇は「国民の住宅事情がよくなるまでは」と、
新しい居所を作る事を許さず、
戦後16年もその御文庫での暮らしを続けました。
敗戦後、昭和天皇はマッカーサーと計11回会談しています。
その第一回目が昭和20年9月27日、場所はアメリカ大使館。
マッカーサーは天皇を出迎えもしませんでした。
その会談で、天皇はマッカーサーに対してこう語ったと言われています。
「戦争責任は私にある。私の身の処置は貴方に任せる。
私を絞首刑にしてもかまわぬから国民を助けてほしい」
昭和天皇の言葉を聞いたマッカーサーは驚き、
以後、天皇を信頼、尊敬するようになります。
昭和天皇を出迎えなかったマッカーサーですが、
その会談に感動し、見送りをしています。以降、出迎えもするようになりました。
以降マッカーサーは、昭和天皇を「Your Majesty」(陛下)
と呼ぶようになりました。

No.46

>> 45 <中略>国民は、御不例になって以降、陛下をただ静かに見守り続けた。戦後日本において、天皇陛下に対する自らの気持ちを発露させたのは、このときが初めてではなかったか。
 なかには、御不例が秋だった関係で、日本全国の学校で運動会を中止する動きが広まるなど、行き過ぎた自粛もあった。「陛下のお心に沿うものではない」と過度の自粛を避けるよう政府から呼びかけたが、それも国民の陛下を思う気持ちゆえのことだった。
 陛下の御崩御から大喪の礼までのひと月余り、警備態勢の確認や交通規制のシミュレーションで国民に多くの負担を強いながら、一切、クレームがなかった。
 沿道に集まった20万人もの人々、テレビの前で静かに見つめていた全国の人々。昭和天皇を静かに見送りたい――この日、日本中がその気持ちで一つになったのだ。(談)

No.45

>> 44 ■[ワイド]我が心の昭和天皇 日本中が一つの気持ちになった「大喪の礼」の舞台裏/石原信雄

【平成元年2月24日、「大喪の礼」が執り行なわれたこの日は、朝から霙(みぞれ)混じりの雨が降りしきるこの年一番の冬日となった。石原氏は竹下政権下で、事務方の内閣官房長官。それは「大喪の礼」の実務を取り仕切るという大任を与えられることを意味していた】
 昭和天皇の御遺骸を載せた霊轜(れいじ)が、会場の新宿御苑に到着する。
 「参列者、沿道の人もコートや合羽を着用して構いません」
 常に国民を第一に考えていた陛下を思い、そう異例の通達を出していた。しかし、霊轜が近付くと参列していた国民も、警備担当者もコートや合羽を脱ぎ、傘を閉じて拝礼した。ちなみに、後に暗殺されたパキスタンのブット首相は、生前の陛下を偲び、あえて薄着の民族衣装の礼服を身にまとい、翌日、風邪をこじらせた。

No.44

>> 43 ■[ワイド]我が心の昭和天皇 陛下の自然体のご威光を受けながら日本は驚異の復興を遂げた/平沼赳夫

 私は終戦の翌年に小学校に入学し、戦後教育を受けた人間である。そのため、一時期は皇室の存在自体に疑問を抱くほどリベラルな思想に染まっていた。だが、中学3年生の頃、谷口雅春氏らの著書を読んで昭和天皇のお人柄、事蹟に触れ、目から鱗が落ちるように感激した。
<中略>全国を行幸されたときのエピソードにも感銘を受けた。例えば、地方によってはまともな宿泊施設がなかったため、焼け残った民間の建物や学校の教室にお泊まりになることも厭わなかった。また炭鉱では労働者が皇室制度に反対する演説をぶとうと待ち受けていたが、いざ昭和天皇がこられると、自然と万歳を唱えていた。昭和天皇の持つ、言いようのないご威光を感じたに違いない。
<中略>今上陛下まで数えれば125代という、世界で唯一無二の家系の重みを背負いながら、一瞬にして人を包み込むおおらかさをお持ちになっている。それがご威光になるのである。そのお姿を間近に拝見するたびに、私には、自然に万歳を唱えた炭鉱労働者たちの気持ちが理解できた。
 敗戦、そして復興という、我が国の歴史の中でもとりわけ激動の時代に、昭和天皇という偉大な存在を戴いたことは、日本人にとって幸福なことだった。(談)

No.43

>> 42 ■[ワイド]我が心の昭和天皇 「柔道は骨が折れますか?」事件の真相/山下泰裕

【皇居の園遊会に招かれ、昭和天皇から「柔道は、骨が折れますか(柔道は、大変ですかの意)」と尋ねられ、「はい、昨年骨折しました」と答えて周囲の爆笑を誘ったエピソードについて】
 怪我の功名といえばいいのか。失敗を悔いる間もなく意外な展開が待っていた。私の勘違いがおかしかったのだろう。陛下と私の会話に静かに耳を傾けていた他の出席者から笑いがおこった。さっきまでのピンと張り詰めた緊張が一瞬で解け、会場には和やかな空気が漂った。陛下も楽しげな笑みを湛え「今日はよく来てくれました」と私をねぎらってくださった。
 あの勘違いのおかげで、私は運良く陛下の自然なお姿と笑顔を知ることができたと思っている。私にとって大きな体験だった。陛下の慈しみ深い表情を目前で拝見したとき、こう感じたのだ。
 陛下は、常に世の中の平和や人々の安らぎを心から願っているのだ、と。
 私は、いくら言葉を重ねても相手には届かない「思い」というものがあると考えている。そんな陛下の「思い」が、表情、立ち居振る舞い、雰囲気から私の心に響いてきた。(談)

No.42

>> 41 <中略>実は背景には厳格な政教分離の考えがあった。当時の事情を知るOBによれば、「戦前の宮内省時代からの生え抜き職員たちがそろって定年で退職し、代わって他の省庁から幹部職員が入ってくるようになったことが原因」だという。新しい職員たちは国家公務員であるという発想が先に立ち、皇室の伝統に対する理解は乏しかった。宮内庁内に厳格な政教分離の考えがはびこり、「なぜ祭祀に関わらなければならないのか」などと側近の侍従職までもが声を上げるようになり、祭祀から手を引き始めたのだという。

No.41

>> 40  たしかに祭祀はご負担である。例えば新嘗祭では座布団もない硬い畳の上に長時間お座りになり、御直会(おなおらい)をされる。そのため、新嘗祭が近づくと、陛下は居間でテレビをご覧になる時、普段はソファに座ってご覧になるが、座布団を敷いて正座してご覧になっていた。当日は午後3時に始まり、すべての祭儀が終わるのは翌日の午前1時頃だったといわれる。しかし、周囲が「ご高齢」「ご負担」を繰り返したのには違和感を覚える。
 負担軽減が必要であれば、国事行為を皇太子に代行させたり、憲法には記載のない公的な行事へのご臨席を減らすという方法もあったはずだ。だが、現実には公務が優先され、宮中祭祀が犠牲となった。

No.40

>> 39 <中略>昭和天皇は祭祀を重んじたというよりも、歴代天皇がそうであったように、天皇第一のお務めとして、粛々とこなされたのだと拝察する。
 その陛下が、「ご高齢」を理由に簡略化が推し進められる状況をどう思われたのか。明言されていないが、陛下のお心を察することができる言動がいくつかある。前述の通り新嘗祭が簡略化された時、陛下は「これなら何ともないから急にもいくまいが暁(の儀)もやってもいい」とおっしゃったと『入江相政日記 第 4巻』(朝日新聞社)に記されている。このお言葉を受けて入江は「ご満足でよかった」と書いているが、そうではないだろう。これは“祭りを正常化せよ”という意思表示であったと捉えるのが自然である。
 実はその翌年から夕の儀も掌典長が執り行なう予定であった。入江日記では57年6月には「お祭りすべてお止めということですっかりお許しを得」たはずなのに、陛下は病床に伏される直前の61年まで親祭(天皇が自ら執り行なう)を貫かれたのだ。
 争わずに受け入れるという至難の帝王学のもとで、最大限抵抗されたのだろう。

No.39

>> 38 ■[祭祀]「神事優先」の伝統を重んじる陛下は「宮中祭祀の簡略化」に反対だった/斎藤吉久

 宮中祭祀の簡略化は昭和40年代以降、入江相政侍従長が具体的に着手しているが、これは正確には「簡略化」ではなく「破壊」といっていい。
 宮中祭祀は、天皇自らが祭典を執り行なう「大祭」、掌典長(しょうてんちょう)が行ない天皇が拝礼する「小祭」、毎月1日、11日、21日に行なう「旬祭(しゅんさい)」などに分けられる。このうち、まず旬祭が昭和43年に簡略化された。1日は親拝(天皇自ら拝礼すること)だったが、それが5月と10月の年2回に削減された。さらに45年には宮中祭祀第一の重儀である「新嘗祭(にいなめさい。11月23日)が簡略化されている。新嘗祭は天皇が神嘉殿(しんかでん)において新穀を天神地祇に捧げ、自らもお召し上がりになる祭儀であり、「夕(よい)の儀」と「暁の儀」がある。このうち親祭(天皇が自ら執り行なう)は夕の儀のみとし、暁の儀は掌典長が執り行なうこととなった。
 簡素化は続く。<中略>これらは、陛下の「ご高齢」に対する配慮ともいわれるが、果たしてそうか。簡略化が始まる43年、陛下はまだ60代であった。しかも46年にはイギリスなど欧州7か国を訪問し、50年には訪米している。理由は他にあったのではないか。

No.38

>> 37 ●いずれも日本の家庭で失われつつある文化、心構えを大膳課では誰もが持ち、天皇の食卓にはそれが受け継がれているのである。

No.37

>> 36 ●もう1つ、守るべき基本があった。それは秋山さんの後を継いで主厨長となった中島伝次郎さんがよくおっしゃっていたことで、「明治の料理の三大原則」だった。こういうと何やらものすごく難しいことのように思うが、実は非常にシンプルで、「焦がすな」「捨てるな」「腐らすな」である。つまり商品にならないものを作るな、余った食材を捨てる前に何かに使えないか考えろ、在庫を把握して常に鮮度を見ろ、というものだ。

No.36

>> 35 ●大膳課では料理人として多くを学んだが、その1つに、食材は常に余すことなく使い切る、ということがあった。例えば鶏肉は御料牧場から丸ごと1羽仕入れるのだが、これをさばいて胸肉2枚、もも肉2枚、手羽、ぼんじりと分ける。胸肉、もも肉はグリルするなどして主菜にし、残った手羽は後日、軽く湯がいてカットしスープの具にする。骨はスープの出汁を取るのに使う。ぼんじりは軽く揚げてから薄いコンソメで煮て、付け合わせにする。野菜の皮は後でスープの具にし、葉物だったら漬物にするといった具合だ。これは「一物全体食」といって、食材を全部使うことで栄養バランスが偏らないようにする考えで、大膳課が長年守ってきた伝統であり調理の基本となっている。

No.35

>> 34 ●大膳課で働くようになってまず驚いたのが、使っている調理器具が、いずれも年代物と言ってよい古い物だったことだ。<中略>調理にはミネラルウォーターではなく、水道水を使った。食器も金箔が押してあるようなものではなく、菊の御紋はあるものの、それ以外はどこの家庭にもある食器と違わなかった。
●洋食の内容は、古典的なフレンチだ。フレンチというと、すごいご馳走だと想像する方もいるだろうが、過剰なデコレーションもなく、シンプルな家庭料理だ。肉か魚が1品あり、それにスープ、パン、温野菜、生野菜というのが通常のパターンだった。スープはつかないこともあった。<中略>担当ではなかったが、和食も焼き魚にごはん、味噌汁、付け合わせ、といったシンプルなものだった。

No.34

>> 33 ■[食生活]「焦がすな」「捨てるな」「腐らすな」が御所の厨房の三大原則だった/工藤極
【工藤極氏は昭和49年から54年まで宮内庁管理部大膳課に勤めた。この特殊な職場に勤めたいと思ったのは、主厨長の秋山徳蔵氏が高齢を理由に勇退される、という新聞記事を読んだことがきっかけだった。工藤氏は第二係(洋食)に配属されていた】
●聖上(おかみ)――われわれ大膳課の職員は天皇陛下のことをこうお呼びした――の朝食には毎日オートミールとコーンフレークが交互に出されていた。普通の家庭の食卓と大して変わらないのだ。これは昼食、夕食においても同様で、宮様との会食や、要人が招かれた饗宴ではそれ相応の料理が出されたが、普段の食事は非常に地味で慎ましいものだった。

No.33

>> 32 ●「陛下は国体などの開会式などに出席される場合、30分でも40分でも姿勢を崩さず、セレモニーをご覧になっていました。この点はどんな場面でも、ご高齢になっても変わりませんでした。まさに公人。それ以外の何物でもないという方でした」(20年以上にわたり皇室取材を手掛けてきた元カメラマンの瓜生浩氏)

No.32

>> 31 ■[素顔]陛下はどんなときにご機嫌を損ねられたか/本誌編集部
●昭和43年から崩御まで内舎人(天皇身辺の雑役)として仕え続けた牧野名助(もりすけ)氏も、陛下はきめ細やかな配慮やお気遣いを忘れない方でしたと追憶する。
 「ある総理大臣が宮殿行事で陛下に拝謁した後のことです。陛下は、総理の退出の車が車寄せにいるのか確認したうえで『それならば歩いて帰ろう』とおっしゃられたんです。陛下が車を呼んで総理の車とすれ違えば、総理はおそらく車を降りられて陛下をお見送りするだろうというご配慮からのお言葉でした。また、たとえば東京都知事と会うときは、八丈島の織物・黄八丈のネクタイをご使用になるなど、お会いになる方へのご配慮も忘れませんでした。皇族の方と会う場合ですら、必ずその方から贈られたネクタイをご使用になっていました」

No.31

>> 29 ● 「敗戦直後の9月、米国では真珠湾の騙し討ちに対する非難が高まり、国際法規を守ることに気を配っていた天皇を懸念させていました。真珠湾攻撃は… ●終戦直後、フランス領インドシナ、東南アジアなどはイギリス軍の管轄下で約50万人、グアムなどアメリカ軍管轄下にも多くの日本兵がいた。
 ノンフィクション作家、工藤美代子さんがロンドンにある国立公文書館で発見した外交文書によれば、天皇が個人の資金から赤十字国際委員会に5万円を寄付したというのである。その目的は「敵国にいる日本人の帰還が円滑に行なわれるのを助けるためと、彼らを勇気づけるため」に寄付を申し出たという。現在の貨幣価値に換算すると7500万円くらいになる。
 当時の皇室財政は莫大なものといわれるが、天皇にとって皇室財政は国民のためのものであり、私するものではないという思いが沁(し)みついていた。
 だが、戦争に負け、終戦を迎えると遠い異国で捕虜となっている日本兵の身の上が気がかりでならない。おそらく赤十字国際委員会に託した5万円は、天皇がご自分の意志でなんとか自由になる財産だったに違いない。
 それは天皇が個人としてできる最大の心遣いだったのである。

No.30

>> 28 ●昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた昭和3年11月だった。天皇…  午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。
 やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。
 天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。
 当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。

No.29

>> 28 ● 「敗戦直後の9月、米国では真珠湾の騙し討ちに対する非難が高まり、国際法規を守ることに気を配っていた天皇を懸念させていました。真珠湾攻撃は東条英機がやったことだが、すべては私に責任があると、天皇はいったのです。
 忘れてはならないのは昭和天皇が何を語ったかの議論に隠れている事実です。そもそもマッカーサーに天皇を免責するしないの選択はできませんでした。天皇を免責するという米国の基本方針は1943年に内々に決まり、トルーマンが大統領になっても変わりませんでした。マッカーサーはそれに従ったのです。
 マッカーサーが天皇に好意を抱いたのは確かでしょう。ただその好意を日本向けに度々見せたことには、外交上の狙いもあったと考えたほうがいいでしょうね」
 一方、昭和天皇は、この会見については「マッカーサーと、これはどこにもいわないと約束したから」と、最後まで語らなかった。昭和52年夏の記者会見で記者の質問に答え、その約束を守ることを「男子の一言」と表現している。

  • << 31 ●終戦直後、フランス領インドシナ、東南アジアなどはイギリス軍の管轄下で約50万人、グアムなどアメリカ軍管轄下にも多くの日本兵がいた。  ノンフィクション作家、工藤美代子さんがロンドンにある国立公文書館で発見した外交文書によれば、天皇が個人の資金から赤十字国際委員会に5万円を寄付したというのである。その目的は「敵国にいる日本人の帰還が円滑に行なわれるのを助けるためと、彼らを勇気づけるため」に寄付を申し出たという。現在の貨幣価値に換算すると7500万円くらいになる。  当時の皇室財政は莫大なものといわれるが、天皇にとって皇室財政は国民のためのものであり、私するものではないという思いが沁(し)みついていた。  だが、戦争に負け、終戦を迎えると遠い異国で捕虜となっている日本兵の身の上が気がかりでならない。おそらく赤十字国際委員会に託した5万円は、天皇がご自分の意志でなんとか自由になる財産だったに違いない。  それは天皇が個人としてできる最大の心遣いだったのである。

No.28

>> 27 ●昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた昭和3年11月だった。天皇は27歳。
 翌月の15日、東京の皇居前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の諸団体から、青年男女約8万人が参加する大礼奉祝の式典が行なわれ、天皇が御親閲されることになった。天皇は大会の開催に同意されるとともに、天候を心配された。
 「もしも当日、雨が降ることがあったら、青年たちに雨具を着用させるようにしてほしい。また、いかような大雨になっても、わたしが立つ場所に天幕を張ってはならない」
 とお命じになった。当日は早朝から大雨であった。そこで、御座所の位置の上に天幕が張られた。宮内大臣をはじめ側近たちは天皇のご健康を思いやってのことだったが、天皇は「天幕を取りに除いてほしい。司令官も時と場合によっては第一線にたつことがある。今日はわたしのいうことに従ってほしい」と要望された。

  • << 30  午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。  やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。  天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。  当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。

No.27

>> 26 ●御訪米時にお迎えしたのが、ジェラルド・フォード大統領だった。両陛下がお泊まりだったホワイトハウスの向い側にある迎賓館「ブレアハウス」にフォード大統領が訪ねて、予定時間よりも長く歓談された。両陛下は翌日にアメリカの国民的スポーツであるアメリカン・フットボールをご覧になる予定だった。そこで、フットボール談議となった。
 フォード大統領が「スポーツのゲームを(大統領として)観覧しますときには、どちらかのチームを応援することができないので困ります」と申し上げた。
 すると、天皇が相づちを打たれて、「とくに明日、あなたが出場されていたら、困りますね」とすかさず答えられた。
 天皇はフォード大統領が学生時代にアメリカン・フットボールの名選手としてならしていたことを、知っておられたのだった。
 この話は私が直接フォード大統領から聞いたものである。フォード大統領は昭和49年に国賓として訪日したときにはじめて天皇と会ったが、天皇の真摯(しんし)なお人柄にすっかり魅せられていた。
 昭和天皇のお人柄によって、深く魅了された外国の元首や政治家は多かった。

No.26

>> 25 ●天皇の機知にあふれたユーモアは外国でも大いに発揮された。
 昭和50年、天皇皇后両陛下はアメリカを訪問された。カリフォルニア州のディズニーランドを行幸啓され、居合わせたアメリカの子どもたちとも交歓されて大いに楽しまれた。このときにミッキーマウスの腕時計を贈られ、帰国後にこの時計を腕にはめられるという茶目っ気も御披露された。

No.25

>> 24 ●昭和のはじめ、陸軍大演習のため名古屋地方へ行幸された際、演習終了後に名古屋市内にある愛知時計電機の工場を視察されたその夜、30名ばかりの地方の民間功労者を晩餐(ばんさん)に招かれた。
 時計が話題となった。すると陪食(ばいしょく)を賜(たまわ)った一人が、チョッキから金鎖を手繰(たぐ)り、金時計を取りだし、得意げに「陛下、これは外国製で御座居ますが、実によく合います。国産のものはどうしても不正確で、まだまだとうてい外国製には及びません」と申し上げた。
 天皇はそれを聞かれると、ご自分の右ポケットから懐中時計を取り出された。
 「わたしのこの時計は12円50銭の国産品だけどもよく合うよ」
 と嬉(うれ)しそうに示された。その時計は侍従が天皇にいわれて東京・銀座のシチズン時計店で買ってきたものだった。高価な外国製時計よりもはるかに安価だったが、天皇はお使いになって外国製に負けないことを心から喜ばれていたのだった。

No.24

>> 23 ●皇太子が学習院初等科を卒業された昭和21年3月、天皇はお祝いに写真機を贈ることを思いつかれた。侍従に「市場にあるものは、闇市でたかいことだろう。(宮内省)写真部に中古はないか」と写真部から中古品を一つ取り寄せられた。
 「これでよろしい。皇太子にはこれが手ごろだよ。あまり立派なものや、高いものを与えては、将来のためにならない」
 といわれた。今上天皇のカメラ好きはこのときに始まる。

No.23

>> 22 ●天皇は酒を飲まれなかったし、美食を好まれることもなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。

No.22

>> 21 ●昭和24年から東宮御教育常時参与となった小泉信三博士は、皇太子(今上天皇)の教育係を引き受けるに当たって、昭和天皇に拝謁した。
 そのときに、「陛下の御態度は、侍臣のおすすめ参らせた結果によるものでしょうか、あるいは古の聖人の書や明哲の伝記などをお読みになって、そういう習慣を御身につけられたのでしょうか」とうかがった。
 すると、天皇はいとも簡単に「それは人のすすめによったものでもなく、読書の結果でもない。これはわが家の伝統である」とお答えになった。

No.21

>> 20 ■[エピソード]
ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「五つの佳話」/加瀬英明

●昭和天皇は生涯にわたって、ご自分が行なわれたことを自慢されたことなど、一度もなかった。また、終生にわたって名誉や栄誉を求められたことも、まったくなかった。ご自分についてはじつに無欲な方だった。
 天皇は敗戦の年の昭和20年12月に、松村謙三農林大臣を皇居に呼ばれてこういわれた。
 「戦争で塗炭(とたん)の苦しみを受けた国民に、このうえ餓死者を出すことは自分には耐え難い。政府が要請をしたのにもかかわらず、アメリカは食糧を与えてくれないという。だが、考えれば、当方に代償として提供すべき何物もないのだから、いたしかたがあるまい。
 それで聞けば、皇室の御物(ぎょぶつ。天子の所有物、あるいは皇室の所蔵品)のなかには、国際的に価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡して食糧に代えて、国民が飢餓を一日でもしのぐようにしたい」
 そして帝室博物館の館長に命じてつくらせてあった皇室御物の目録を農相に渡された。天皇の意向は幣原喜重郎首相(在任昭和20年10月~21年5月)を通じてマッカーサーに伝えられた。
しかし、マッカーサーは「それは皇室の人気取りだ。そのようなものは必要ない。私が責任を持って、かならず本国から食糧を輸入する方法を講じよう」といって、緊急食糧を日本に放出するようワシントンに求めた。
 昭和54年8月、宮内庁記者団とのご会見のときに、記者団から当時のことについて質問が出された。
 「そういうことがあったのは事実です。しかし、自分のしたことですから、あまり公にしたくはありません」
 これが天皇のご返事であった。

No.20

>> 19 ■[会見秘録]マッカーサーが「思わずキスしようとした」ほど興奮した昭和天皇「男子の一言」/本誌編集部

(昭和20年9月27日、昭和天皇とのマッカーサーとの第一回会見について)記録が公開されず、後に種々の資料が登場したことで、「何が語られたか」が論争になっているのは周知のとおり。もっとも有名なのは、『マッカーサー回想記』(1964年刊)のこの記述だ。
<天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。
 「私は、国民が戦争遂行するにあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」
 私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私を骨のズイまでゆり動かした>
 回想記の出版以前にも、昭和30年9月、重光葵外務大臣が、天皇の言葉を受けたマッカーサーが「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスをしようとしたくらいです」と語ったと紹介している。
 こうした発言の真意をめぐり、「作文だ」「日米合作の天皇免責だ」などの意見もあるが、鳥居民氏(歴史研究家)は、「これまでの記録を見れば、発言の輪郭は明らか」という。

No.19

>> 18  「奉仕はだんだん進んで正午近くなった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになってこちらをご覧になっておられます。(中略)お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取り次ぎで、いろいろ御下問を賜りました。(中略)やがてご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の眼にも涙がいっぱい光っていました」(木下道雄氏「皇室と国民」)
<中略>「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我れも我れもと次々に奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌二十一年には早くも百八十八の奉仕団が名乗りをあげ、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは昭和二十六年で、何と四万人近くの国民が参加した(奉仕団は八百三十一団体)。

 こうした動きに対し、GHQもさすがに疑念を抱き、背後に強力な組織があって、巨額の資金を投じ、彼らにとって良からぬ策謀をめぐらしているのではないかと、独自の調査を行なったらしい。その情報をキャッチした海外のメディアが奉仕団に取材をかけるようなこともあった。総力戦に敗れた国の君主制は第一次大戦時のドイツや第二次大戦時のイタリアのように滅びるのが通例だ。なのに日本の皇室の場合、滅びるどころか多くの国民がボランティアで皇居の清掃活動を行なっている。彼らが不審に思うのも当然だ。だがもちろん、そこには何の背後関係もなかった。人々のひたむきな皇室への思いだけがあったのだ。
【皇居勤労奉仕への参加は現在ももちろん受け付けています。詳細は宮内庁のHPを】

No.18

>> 17 ■[皇居清掃]GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話/高森明勅

【皇居勤労奉仕はいつ、どのような経緯で始まったか?
 木下道雄侍従次長(当時)の証言によれば、昭和20年12月に宮城県内栗原郡の60人の青年グループが皇居の坂下門にやってきて、「二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れていると聞き、草刈りやお掃除のお手伝いのために上京しました。どうかお手伝いをさせて下さい」と申し出たのが最初。
 実際は60人が突然やってきたのではなく、これ以前にグループのリーダー二人が上京、応対した筧素彦総務課長(当時)との間で勤労奉仕の受け入れをめぐるやりとりがあった。当時は占領下にあったため、筧氏は上の方に迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え、一切の責任を負って自分の独断で受け入れを決意した】
 宮城県栗原郡の若者たちは「みくに奉仕団」と名乗った。正確には男性五十五名、女性七名の計六十二名で、団長の鈴木徳一氏と副団長の長谷川峻氏(東久邇宮内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった。のちに衆議院議員)を除き、ほとんどが二十二、三歳の若さだった。過酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず、「娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる」という(木下道雄侍従次長(当時)証言)。
 むろん、占領当局によって拘束されることはなかった。ばかりか、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。みなの前に昭和天皇が姿を現されたのだ。
 鈴木氏の証言を紹介する。

No.17

>> 16 ■[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥

 当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
 後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。(談)

No.16

>> 15 🇯
■[戦後]国民の心を抱きとめ、慈しみ、祈る「記憶の王」昭和天皇の「畏るべき」姿/松本健一

 戦後の日本再生のなかで、わたしは昭和天皇のさらなる「畏るべき」要素を垣間見た。
 昭和50(1975)年5月、イギリスのエリザベス女王が来日したときのことだった。天皇のアメリカ訪問の半年ほど前である。
 エリザベス女王とにこやかに並んで立つ天皇の間には1人の通訳官が立っていた。この通訳官は「二・二六事件」の重要な脇役だった真崎甚三郎大将(軍事参議官。もと教育総監)の息子だった。
 このことは何を意味していたのか。二・二六事件を起こした青年将校らを、天皇は「反乱軍」とみなしていた。その事件に関わった人間の息子を自らの通訳として立たせることによって、決起した青年将校のことは許さないが、その心情ぐらいは察してやってもいいとの意志表示ではなかったのか。
 ここに、わたしが「記憶の王」と呼ぶ昭和天皇の「畏るべき」姿がある。昭和11年の事件から40年近くが過ぎ、天皇もすでに74歳になっていた。肉体は衰えても天皇の記憶は少しも衰えていなかった。
 天皇が、二・二六事件において決起青年将校から一時は軍事政権の首班として推(お)された、真崎大将の息子とにこやかに並んでみせたのは、「記憶の王」が40年ちかくの時間をかけて判断を下した天皇政治だったのではないか、とわたしは考えている。
 天皇家として、天皇制が国内の権力闘争を超えて存続するシステムとなるための、天皇自身の判断だったのではないだろうか。

No.15

>> 14 ――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか?
殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。
 ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、
 「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」
 とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。
 また、伯父様はこうもおっしゃっていました。
 「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」
 まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。

No.14

>> 13 ――国民に対するお気遣いも有名でした。
殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。

No.13

>> 12 ――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。
殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(編集部注:信子妃殿下は麻生太郎現首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。
 義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、
 「太賀吉は元気でおるか?」
 とおっしゃったのです。
 実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。

No.12

🇯戦後の昭和天皇を振り返る

ブログ「ぼやきくっくり」より転載
(SAPIO  【歴史を振り返れば現代が見える 第2弾 昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々】より)

■[巻頭言]「公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王
――昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?
 
殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
 またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。

No.11

>> 10 ■10.復興のエネルギー■
九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになった。
御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8年半の間に昭和天皇は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、お立ち寄り箇所は1411カ所におよんだ。奉迎者の総数は数千万人に達したであろう。

戦のわざはひうけし国民を思ふこころにいでたちてきぬ
わざはひをわすれてわれを出むかふる民のこころをうれしとぞ思ふ
国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし

(*なりはひ=しごと)
大日本帝国が崩壊して、始めて国民は間近に天皇を拝する機会を得た。驚くべき事に、それは人々と共に悲しみ、涙を流す天皇であった。一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみに、天皇が涙を流された時、人々は国民同胞全体が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑張ろう、という気持ちが芽生えていった。戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれた。
昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。40数年前の御巡幸で昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。
昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われた。医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

No.10

>> 9 ■9.天皇陛下さまを怨んだこともありました■
因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。
昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。「どなたが戦死をされたのか」
「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」
老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。
引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。
天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。
この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」
シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。
今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。

No.9

>> 8 ■8.子らに幸あれ■
昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県を巡幸された。5月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。孤児たちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。
昭和天皇は、その女の子に近づかれて、「お父さん、お母さん?」と尋ねられた。「はい、これは父と母の位牌です」とはっきり返事をする女の子に、さらに「どこで?」。
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は引き上げの途中病のためになくなりました。」
天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にいったら、きっともう一度会うことができるのです。・・・」
昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫でながら、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。
みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ

No.8

>> 7 ■7.ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ■
12月5日、広島に入られる。広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われた。原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられた。周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣く。
爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万の奉迎を受けられた。周囲には黒こげの立木、あめのように曲がった鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のように語られた。
このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。
本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献せねばならぬ。
ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなおる見えてうれしかりけり
この中国地方行幸にお目付役として同行していた占領軍総司令部民政局のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一人天皇を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであった。
もともと天皇制廃止を目論んでいた民政局は、兵庫県で小学生達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。
しかし、御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会決議が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模様で、翌々年に再開が許可された。

No.7

>> 6 ■6.老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて■
この年、11月から12月にかけてには、さらに鳥取、島根、山口、広島、岡山をまわられた。島根県では新川開拓村で3万人の奉迎に応えられた後、伊波野村で農作業をご覧になられた。
農業会長が、働いている老夫をさして、「我が子を二人とも失いましたが、村人の助けも得て、屈することなく働いております」と説明すると、天皇は次のようなお言葉とお歌を賜った。
この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるものがあった。このやうな涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろいろ苦しいこともあらうが、努力を続けて貰ひたい。
老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて
    いそしむすがたたふとしとみし

No.6

>> 5 ■5.浅間おろしつよき麓にかへりきて■
この2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に出られた。最初に浅間山の初雪の中を2キロも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪問された。大日向村は満洲への分村移民を全国で最初に実行した村である。しかしソ連の満洲侵略により、移民694名中、ようやく半数の323名が生き残って、村に帰ってきた。そして標高1095mの荒れ地を切り開いて、入植していたのである。
天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙でとだえた。昭和天皇のお顔も涙に濡れた。
浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人とふとくもあるか 

No.5

>> 4 ■4.あつさつよき磐城の里の炭山に■
昭和21年には、関東、東海地方の各県を廻られ、22年6月には、大阪、兵庫、和歌山。そして8月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望された。側近が驚いて、涼しくなってからでは、と延期を願ったが、「東北の運命(食料の増産)は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」と許されなかった。
敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や、学校の教室に泊まられた事もあった。「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われて、行幸を続けられた。
出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地福島県の常磐炭坑では、地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背広、ネクタイ姿で、上半身裸の鉱夫たちを激励された。深い坑内で万歳の声が轟いた。この時の御製(お歌)である。
あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしとぞ見し

No.4

>> 3 ■3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」■
昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・ 川崎工場であった。食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧に努めていた。
一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まって泣いているものも多かった。案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、宮中で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に深い親しみを感じた。
二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。大空襲で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こった。昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、車道にまでなだれこんだ。これ以降、巡幸される先々で、このような光景が繰り返された。

No.3

>> 2 ■2.全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい■
昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、敗戦直後、昭和20年10月であった。宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。
この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい。宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。
御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、冒頭で紹介したような魂胆もあって、許可した。

No.2

🇯終戦後の昭和天皇🇯全国御巡幸

■1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ■
ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。
それが生きた民主主義の教育というものだよ。
昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。
しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。
イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。
日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。
イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。

No.1

🇯「天皇の真実」

ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。
私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。
殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。

だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。
しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。
ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。
天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。
しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。
陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。
 
平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。
それでも暗殺される王様や大統領がある。
それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。
国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。
いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。
しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。
こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。
われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。

オットー・カロン、ボン大学教授 「天皇の真実」より

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