冷蔵庫
19時
「ただいまぁ」
………
まだ帰って来てないのか…
うちの玄関は朝から電気がつけっぱなし
返事のないリビングは真っ暗
エアコンのスイッチを入れながらテレビをつける
ピッピピピッ…
『ママ職場』
プルルルルッ…プルルルルッ…
『もしもし…いつもお世話になってます松下の娘ですが…はい…お願いします』
…お腹空いた
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「おいおい…何やってんだお前ら…」
諭さんが溜め息をついた
「ごめん、諭」
啓太さんが申し訳なさそうに謝る
「諭さん、悪いのはぜ~んぶ祐輔だから!」
希呼が祐輔さんの頬をつねった
「痛っ…!俺は悪くないっ!いつもいつも…腹んなか…何を考えてんのか解らない尚人さんにムカつくだけです!」
祐輔さんはそう言って下を向いた
「…尚人のそれは今に始まった事じゃないだろう?何年あいつと付き合って来てるんだ」
諭さんが静かに言った
「…心配なんですよ…ホントに。そりゃぁ…結婚したってずっと変わらない仲間だって俺は思ってるけど…何て言うか…あのひとが益々…独りでいるのを平気になっていくんじゃないかって」
呟くように祐輔さんが言った
「…そっか…ありがとな祐輔」
諭さんが祐輔さんの肩を優しく叩いた
「まぁ…あのご機嫌は暫く直りそうにないな」
啓太さんが小さく笑う
「心配するなって。尚人には可愛い『お友達』がいるんだから」
明るくそう言った諭さんの目は私を見ていた
「えっと……追いかけてみますっ!」
私は【あい】を飛び出した
外は冷たい風が吹き、走りながらほどけかけたマフラーを何度も巻き直した
もしかしたらタクシーで帰ったのかも知れない
それならそれで家まで行ってみるつもりだった
私は…祐輔さんの歯がゆさが何となく解る気がした
どんなに笑っていても
たくさん言葉を交わしても
広瀬さんには鍵が見付からない【箱】がある
その【箱】には…独りを選んでいる理由が入っている
【箱】の鍵はきっと…彼自身も何処にやってしまったのか解らなくなってしまっている
開けたいけど開け方が解らない【箱】
開けたくないから探さない鍵
今までの色々な言葉の端々に感じられたのは……?
『ひとは所詮独り』…?
広瀬さん…
その【箱】には何が入っていますか?
その【箱】は…
どのくらい大事なの?
銀杏並木の手前にあるコンビニにさしかかった時…ちょうど店から出てくる広瀬さんを見つけた
手には小さなレジ袋
声をかけようかと思ったけれど暫くそのまま距離を置きながら彼の後ろを歩く事にした
レジ袋は左手首にかけられ両手ともコートのポケットに入っている
暗い銀杏並木を静かにゆっくり歩く
風が吹くと時折首をすくめながら丸められる背中
淡々と歩く足が止まったのは並木路の終わりにある桜の木の下だった
この地区は【桜木町】
でも何故か…これと言って目立つ桜の木はこの一本しかない
しかも銀杏並木の最後がこの桜の木
勿論冬なので花なんか咲いていない
広瀬さんはその桜の木の根元にしゃがみ込み小さく何かを呟いた
どのくらい時間が経っただろうか
スッと立ち上がると私が隠れている銀杏の木の方へ身体の向きを変えた
「…悪趣味だな。お前はいつから俺のストーカーになったんだ?」
…バレた………
仕方なく木の陰から出てみる
「あはは…すみません」
暗闇の中にいる広瀬さんの顔は…静かに微笑んでいた
「アイス食べる?」
「はっ…?」
左手首にかけられたレジ袋を私に差し出す広瀬さん
「それ…アイスなんですか」
「急に食べたくなって」
それだけ言うとまたポケットに手を入れマンションの方へ歩き出した
『帰らないのか?』
あと5秒…このまま立っていたら…振り向いてそう言うだろう
私は小走りに広瀬さんの隣に並んだ
「冬のアイス。炬燵で食べると美味しいですよね!」
「炬燵!?…俺の家にはそんなものないぞ」
「えっ…そうだったっけ…炬燵で食べないと…寒くないですか?」
「…じゃぁ、持って帰って炬燵で食え」
『じゃぁ、持って帰って』…?
あぁ…そうか
「寒くても我慢するのでお邪魔して良いですか?」
「…寒いからって腹壊すなよ」
私は2棟目を広瀬さんと通り過ぎ3棟目のエレベーターに乗った
少しややこしいけど…広瀬さんは『ストレート』過ぎるのが苦手なんだと思う
自分が『受け身』になる時は尚更…
『皮肉』っぽく言ったり
『冗談』混じりに言ったり
『質問』に質問で返したり……
彼の受け答えは相手の反応を確かめてる 『自己防衛』のように感じる
独りが平気なんじゃない…
独りになるのが
恐いんだ………
「誰がそっちのアイスを喰って良いって言った?」
「普通ストロベリーの方が…私でしょう?…だってこっちは抹茶小豆ですよ!?」
「オジサンは抹茶小豆が普通って言いたいのか?」
「…半分食べますか?」
「食べる」
どうやって…このひねくれ者が出来上がったのか…
私はやっぱり知りたい
この先…絶対に独りにはしません
「で…テストの褒美は何にするか決めた?」
結局…広瀬さんはストロベリーのアイスを二口しか食べなかった
「テストが返って来て結果を見てから……」
「まだ返って来てないんだ」
「えっ!もう採点したんですか!?」
「そんなのとっくに終わってるぞ」
私はこの『ご褒美』の為に今までになく真剣に頑張った
他の教科はさておき…薬理学だけは何としても高得点が欲しかった
「それで!?どうでした私の点数!」
思わず身をのりだし広瀬さんの腕を掴む
銀縁のメガネの奥から無言で私をじっと見つめる彼…
くすぐったいような感覚の…妙な沈黙が流れた
「広瀬さん…」
「秘密」
「はぁ!?秘密?そっちから振っておきながらそれはないでしょう!私、ホントに頑張って勉強したんですよ!」
「大きな声を出すな」
「ケチケチどケチ」
「…どケチって…益々言いたくなくなった」
そう言うと彼はふいっとキッチンに入って行った
何やらカチャカチャと音がする
暫くするとピーッとケトルが鳴り彼がお湯を沸かしていたのが分かった
香ばしい香りと共にキッチンから出て来た彼の手にはマグカップが二つ
「あっ…ミルク忘れた。冷蔵庫から取って来て」
言われるがままキッチンに向かい冷蔵庫を開ける
一人暮らしには似つかわしい大型の冷蔵庫
料理…するのかな
ガチャ…
開けて…絶句した
彼の冷蔵庫には
殆ど『液体』しか入っていない
ミネラルウォーター
ビール
牛乳
炭酸水
冷蔵庫のドアポケットからミルクを取りリビングに戻る
「広瀬さん…普段、何を食べてるんですか?」
「えっ?」
「あんな大きな冷蔵庫なのに飲みものしか入ってない」
「あぁ…殆ど出来合いのもので済ませてる。足りないものはサプリで採ってるから問題ない」
一人暮らしの男のひとってこんなものなのか
いやいや…うちの兄貴は違うぞ
…ん…?うちの兄貴が違うのかな?
「…お前の百面相、いつ見ても面白いな」
テーブルに肩肘をついてる彼と本日二度目の見つめ合い…
照れます
「あのぉ…広瀬さん。ご褒美の件ですけど…」
「あっ?うん」
「実は決めてるんです」
薬理学の講義が終わり『講師と学生』から晴れて『お友達』になる私達
「…何?そのにやけた顔が…怖いんだけど」
「結果を見る前に言っちゃって良いですか?」
「俺にも心の準備があるからな。でも無理な事は無理って言う」
「あの…名前なんですけど」
「名前?」
「はい、私の事を名前で呼んでもらえませんか?それと…」
「まだあるのか?」
「広瀬さんの事も名前で呼びたいなぁ…と……」
友達になるんだもん
好きなひとには名前で呼んでもらいたい
「了解。今度から名前で呼ぶ。でも…俺の事は今まで通りで」
「えぇっ!?みんな名前で呼んでるじゃないですか!」
私の事を『あい』って呼ぶ事の方を躊躇うかと思ってた
「あいつらは昔からそうだから」
「はぁ?今も昔も同じ名前でしょ?」
「そうだよ」
「それが何で急にダメになるんですか?」
「そう言う事もある」
「私もみんなみたいに名前で呼びたいですっ!」
思わず私もムキになる
「広瀬だって俺だろ?何ら変わりない」
「ありますよ!友達なのによそよそしい!」
「俺はそう感じてない」
「私はそう感じてる…名前の事だけじゃない…祐輔さんだってホントはあんな言い方…したくなかったんですよ。でも…広瀬さんが気持ちをちゃんと受け止めてくれないから」
私がそう言うと広瀬さんは視線を外し黙ってしまった
「広瀬さん。前に麻子の事を相談した時に私に言いましたよね?友達でも踏み込んではいけない部分があるって。広瀬さんの言う事は間違ってないと思います…でもね、相手の事を思って自分から踏み込まないのと…相手の気持ちを無視して踏み込ませないのとは違うと思う」
随分と生意気な事を私は言ってる
「……あのなぁ」
「何ですか!?私は間違ってないと思うから謝らないですよ!」
生意気だって自分で感じていたから…私は尚更強気に出た
『お友達がいるから心配ない』って諭さんが私を見た
だから…引けない
「…嫌いなんだ」
広瀬さんが溜め息混じりに言った
「嫌い…?」
「そう、自分の名前が嫌い。尚人って呼ばれると…吐き気がする事がある」
広瀬さんはそう言いながら自嘲気味に笑った
「変だろ?でもこれが呼ばれたくない理由」
「…どうして嫌いなんですか…?」
「どうしても」
【箱】の中身のひとつに…突然触れた気がした
「祐輔との事は何も心配ない。いつものやり取りだからな」
「ホントに?」
「酒が入って気が大きくなってたようだけど」
「だから…そう言う事じゃなくて」
「俺は何も心配される事はない。あいつは今から出来る家族の事だけしっかりやれば良いんだ」
【箱】の鍵は…
どこですか?
【91点】
久し振りに見た点数だった
返された答案用紙を何度も見る
「今年度の薬理学のテストはいつになく平均点が高いです。みなさん良く頑張りましたね」
担任が笑顔で言う
「薬理学で赤点がいないなんて珍しい!広瀬先生が素敵な先生だったからかしら?」
今年40歳独身の担任が顔を赤らめる
見渡せば…点数が良いのは私だけではなかった
100点も4~5人いるようだ
「広瀬先生の講義、解りやすかったよね」
「うん、ラッキーだったね」
前年までの薬理学の講師は『おじいちゃん先生』と呼ばれている
黒板の文字は崩し過ぎて読めない
質問しても耳が遠くて伝わらない
テストは…専門色が強く赤点続出
歴代の先輩方は薬理学のテストで相当苦労したらしい
「また広瀬先生が来てくださらないかしらねぇ」
ニコニコしながら担任が教室を出て行った
学校の帰り道【あい】に寄る
「いらっしゃいませ」
諭さんの奥さんが迎えてくれた
「もう少しで出来ると思うからカウンターに座って待っててね」
夕方の店内にはまだお客さんは入っていない
「いらっしゃい!あと…5分くらいな!」
【あい】で唯一お持ち帰りが出来る『チーズ手羽』を頼んでいた
「この前はありがとね、うちの天の邪鬼を追いかけてもらって」
「友達として当然です!」
甘辛い匂いのする調理場に向かって答える
「尚人ってちょっとずれてるだろ?頭も良くて常識人のくせに自分の事が絡むとてんでずれてる」
諭さんが笑う
「そこが友達のやり甲斐があるところです」
諭さんの笑いが大きくなった
「あいちゃんって…面白いな!尚人の相手をやり甲斐って…さすが看護師の卵!看護師むいてるよ」
「むいてますかね…って言うか広瀬さんのあれは病気じゃないですよ!」
「そっか」
笑いながら諭さんは手羽先を丁寧に詰めていく
「諭さん、広瀬さんの家族って近くに住んでるんですか?」
「え~どうして?」
「…広瀬さんから家族の話を聞いた事ないから。ほら、あんな性格…どんな家族の中で育ったんだろうって思うじゃないですか」
手羽先がパックに詰められオレンジ色の紙でくるまれた
「あいちゃんって…確か兄貴がいたよな?お父さんとお母さんもいるんだろ?」
「いえ…父と母は随分前に離婚してます」
「そう。あいちゃんみたいに素直で明るい子も…それなりに事情がある家庭で育ってる。みんなそれぞれ。何かしらあるのはみんな一緒」
手羽先が入った袋が渡された
【松下家の晩御飯】
【あい】のチーズ手羽
カレイと野菜のイタリアンドレッシングがけ
きのこスープ
ご飯
「へぇ~希呼ちゃん結婚するんだ!」
「そうなのよ!お母さんもビックリしちゃった」
久し振りに兄貴が帰って来ました
「お兄ちゃん、彼女がいるんだったらちゃんと紹介しといてね。突然、結婚するなんて言われたら困るから」
「あはは…残念ながら彼女はいません」
「えっ!?兄貴…彼女いないの?大学、女の子ばっかりじゃん」
「そうだけど」
「…お兄ちゃんまさか…女の子に興味がないとか…」
ママがわざとらしく心配そうな顔をする
「何を変な勘繰りしてるんだよ!忙しいだよ!勉強で手一杯!」
「ムキになるところが怪しい~」
「あいの方こそちゃんと勉強ついていけてるのか?」
「はいはい、ぼちぼちやってます」
松下家は色んな話をする方だと思う
『パパ』のように頼りになる大黒柱のママ
『ママ』のように優しく料理が上手い兄貴
『一人っ子』のように二人の愛情を独占する私
『パパ』の愛情…の代わりの通帳は変わらず冷たい冷蔵庫の中
広瀬さんと出会ってからもう直ぐ1年になる
君からあいちゃん
お前から…あい
希呼の知り合いから広瀬さん
広瀬さんから講師
講師から…友達の広瀬さん
少しずつ少しずつ縮まっていく距離
これから先
私は貴方の何かになれますか?
友達ではなく
他の誰かと一緒じゃない
特別な何かに
どうしてだろう……広瀬さん
私は貴方が好きです
『あい~元気?』
『うん!希呼は?悪阻とかないの?』
『全然平気!まだお店に出てられるくらいだもん』
希呼と祐輔さんは1月1日に籍を入れる
結婚式は子供が生まれてからするそうだ
『せっかく子供が生まれるんだもん!家族になるお祝いは子供も一緒に!』
そう祐輔さんと決めたらしい…勿論、希呼のお父さんは…怒った
『お前ら二人はものの筋の通し方が解っちゃいない』
って…
『お父さんと…大丈夫?』
『あはは~!大丈夫だよ。祐輔がうちに婿に入る事で決着』
『え~っ!?』
『あいつ男ばっかの3人兄弟の末っ子だからさ~うちの事情を話したらご両親が許してくれて』
…『俺が貰われたんじゃなくて俺が希呼を貰ったんだ』
って…叫んでたよね
『まっ、祐輔はしぶしぶなんだけど。私と子供への愛情が勝利したってとこね』
『はいはい…ご馳走さま』
希呼と祐輔さんのこれからを想像してみる………
かかあ天下
『でね…最近尚人さんと会ってる?』
『えっとね…1週間くらい前に急にご飯食べに連れてかれた』
そう…急だった
1週間前
『もしもし?』
『急だけど今から出られる?』
『今から?ちょうどご飯食べるところなんですけど』
『解った。じゃあ飯食いに行こう』
『はっ?』
…それから諭さんのお店でご飯を食べた
それだけ
『…そうかぁ…やっぱり』
『やっぱりって?』
『うん…昨日さぁ寄り合いでね香月 塔子に会ったんだ…』
『う…うん』
『『最近尚人が貴女のお友達と仲良くして頂いてるみたい』って言うもんだから』
……塔子
暫くその存在すら忘れてた
『別にあのひとには私達の事は関係ないよ』
『まぁそうなんだけど…一度…尚人さんにちゃんと塔子さんの事さ…聞いておいた方が良いんじゃない?』
『そう?』
平静を装う
『うん…彼女いないって言ってても実際は分からない訳でしょう?塔子さん…無表情で言うから正直厄介だなぁって思った』
『…解った。機会があったらそれとなく聞いてみるよ』
『あい…やっぱり尚人さんが好きなの?』
『好きだよ』
私は言い切った
冬休みに入る前日
午前中で講義は終わり友達と
『お昼に何食べる?』
『クリスマスの予定は?』とか…
『可愛いブーツが欲しいね』
なぁんて他愛もない会話をしながら学校を出た時…
校門の側に見慣れない黒い外車が泊まっていた
「ヤバそうな車だね」
一緒に歩いていた由美が囁く
車の前に来たその瞬間に…中に乗っているひとと目が合った
車の窓が静かに開く
「お久し振り」
「…こんにちは」
由美が驚いた顔をしている
「良かったら乗らない?」
穏やかに聞こえるその声は…
『乗りなさい』
と言っている
「由美、ごめん。今日は…パス」
「えっ…あいちゃん?…知り合いなんだよね、大丈夫?」
「うん、心配ないよ」
私は由美にそれだけ答えると促された助手席に乗った
きっと…これから先も避けては通れない
私も貴女が誰なのか知りたかったんです…塔子さん
希呼と電話で話してから結局…広瀬さんに塔子の事を聞く勇気が出なかった
彼女の事を知りたい気持ちは希呼との会話で高まったけど
特に彼女について話す事をしてこなかった広瀬さんに…何かしら決定的な事を言われるのが恐かった
その私が勝手に抱えてる不安が何のか解らないけど………
「今から貴女を連れて行きたい場所があるの」
暫く車を走らせた後塔子が口を開いた
「…どこですか?」
車は海岸沿いの国道を抜け学校とは反対側の高台の方へと走っている
「尚人の大切な場所よ」
「大切な…場所?」
「貴女も知りたいでしょう?…彼の事。きっと彼は自分からは話さないと思うから私が教えてあげる」
塔子の大きな目は
遠くを見ていた
高台をのぼり切った拓けたところにその場所はあった
「降りて」
そう短く言うと塔子も車を降りた
私の数歩先をヒールの高い靴を鳴らしながら歩く彼女の後ろ姿は…綺麗だった
自動ドアがゆっくり開き静かで清潔なロビーに入る
ロビーの大きな窓ガラスからは暖かな陽射しが入りキラキラした海が一望出来る
「塔子さんお疲れ様です」
「お疲れ様」
薄いピンクのポロシャツを着たスタッフが出迎えた
「お会い出来るかしら?」
「はい、今日はお加減も宜しいようです。今は…庭をお散歩されています」
「ありがとう」
塔子は建物の中をどんどん歩いて行く
【香月海苑】
広瀬さんの大切な場所は…
【介護施設】だった
足早に塔子の後ろを歩いた
突然彼女が立ち止まる
白いバルコニーから見下ろす視線の先を追う
綺麗に手入れされた芝生の庭
天気が良い今日はそれこそ日向ぼっこにちょうど良い
「…あの……」
声をかけるのを躊躇うくらい…塔子の顔は無表情だった
「あそこ…」
「えっ?」
その方向を指差しながら塔子は続けた
「あそこの木陰の車椅子の女性…見える?」
ここからは横顔しか見えない
白髪混じりの肩までの髪
海風でなびくのが嫌なのか…しきりに手ぐしを通している
痩せた身体に車椅子が大きく見える
「あのひとは…誰ですか?」
自分の声じゃないような震えた声が出た
「尚人の母親」
広瀬さん
貴方の【箱】の鍵を持っているのは……
塔子はそのまま何も言わず…無表情で広瀬さんのお母さんを見ていた
スタッフが車椅子に近づきお母さんに何かを話しかけている
お母さんがにこやかに微笑んだ
それと同時に車椅子の向きが私達の方へと変えられた
「行きましょう」
塔子は何かに弾かれたようにお母さんに背を向け…また建物の中に入る
「お茶でも飲みましょうか」
玄関の前を通り過ぎロビーを抜けると小さなラウンジがあった
海が見える窓際の席に通される
「何にする?」
「…一緒のもので」
「レモネード2つ」
「かしこまりました」
白いストライプのブラウスにタイトスカートをはいた女性が応えた
「あの…広瀬さんのお母さんとお話ししなくて良かったんですか?」
大きな目を細め海を見つめる彼女に聞いた
「ここは私の叔父が経営してる施設なの」
私の質問には答えず塔子が言った
「お待たせ致しました」
レモネードが運ばれて来た
「どうぞ」
塔子に言われストローに口を付ける
喉がカラカラだった
少し甘いレモネードを半分飲みまた彼女を見る
「尚人の事好きなの?」
「はい」
「そう。私と同じね」
そう言うと彼女が静かに笑った
どこか…知ってる気がする彼女の笑顔に見とれてしまう
「広瀬さんは…塔子さんの気持ちを…知ってるんですか?」
「伝えてるわ」
細く長い指でストローをつまみ太陽の光を受けたレモネードをかき混ぜる
不思議だ…
あんなに強引に連れ出されたのに…このひとの空気に馴染んでいる自分がいる
…どうしてだろう
「でもね、私の気持ちも貴女の気持ちも…尚人には伝わらない」
「どうしてですか?」
彼女の目を見た
「尚人が一番大切なのは…あの母親よ。そして……」
塔子が指でストローを弾いた
「私が一番憎い相手が…尚人の母親」
そうだ…塔子は
広瀬さんと似てるんだ
「ちょうど良かったわ」
塔子が独り言のように呟き椅子から立ち上がった
「今日は突然ごめんなさい。また続きを話せたら良いわね」
言葉は私に向けられながら…視線は私の頭の上を通り越している
…愛しい眼差し
「何してる」
冷ややかな声に振り向いた
「広瀬さん………」
「私、店に戻らないといけないから彼女の事送ってね」
塔子が広瀬さんに笑いかける
「…何の真似だ」
彼が彼女の腕を掴んだ
「この前の御返しよ…尚人、お母様がいらしたわよ」
そう言うと彼女は顔色ひとつ変えずに車椅子の横を無言で通り過ぎて行った
「尚樹さん」
車椅子を押されながら近づいて来たお母さんは満面の笑みで…広瀬さんをそう呼んだ
「美桜さんこんにちは、気分が良さそうですね」
お母さんから差し出された手を両手で包み返し広瀬さんは微笑んだ
「広瀬さんがいらっしゃる水曜日だけはお昼ご飯もちゃんと召し上がります。美桜さん、嬉しいんですよね」
若い男性スタッフがお母さんに話しかける
「尚樹さん、お茶菓子があるからお部屋にどうぞ」
「えぇ、頂きます」
広瀬さんとお母さんはそんな会話を交わし車椅子の方向を変える
…私は…正直頭が混乱してる
そのままさっきまで座っていた椅子に座り込んだ
「あい」
彼に名前を呼ばれ振り向いた
「そこで少し待ってて」
「…はい」
ゆっくりと車椅子を押す彼の後ろ姿を見えなくなるまで見送った
誰もいなくなったラウンジ…囁くようにカノンが鳴っている事に気が付いた
『少し待ってて』
は…1時間だった
その間…いつもの午後に突然起こった出来事を整理してみた
広瀬さんの大切な場所は塔子の叔父さんが経営してる施設
ここには…広瀬さんのお母さん『美桜さん』がいる
広瀬さんが一番大切なのはお母さん
塔子が一番憎いのも…彼のお母さん
それは…塔子が広瀬さんを好きだから?
振り向いてもらえない事をお母さんのせいにしてるの?
お母さんは彼を『尚樹さん』と呼んだ
広瀬さんはそれを受け入れてる
お母さんが病気だから?
『尚樹さん』って…誰?
「何考えてるんだ?小さな脳みそが蒸発するぞ」
ふいに頭に乗せられた大きな手
自分でも良く解らないけど思わず…その手をそっと握った
「帰ろう」
「はい」
すっかり陽が傾き外はうんと冷えていた
「……手、離してくれる?」
「そんなに嫌がらなくて良いじゃないですか」
「運転出来ないんだけど」
あぁそうか!
慌てて手を離す
彼は笑いながら助手席のドアを開けてくれた
私が握った手は…微妙な加減で握り返された
自分からこの手を離してはいけない気がした
車に乗り込みエンジンをかけた彼が短い溜め息をつく
「…さて、何から話してもらおうか」
「はっ話すのは私の方なんですか!?」
話を聴きたいのはこっちの方だ
あはは
と…彼が小さく笑う
「晩飯食うか」
「それなら私が作ります!」
彼の驚いた顔が
愛しい
【広瀬さん家の晩御飯】
豚汁
五目かみなり豆腐
鮪ステーキ
ご飯
スーパーに寄って一緒に買い物をした
彼に何が食べたいか聞いてみた
『…作れるものと食えるものなら何でも』
…可愛くない
「広瀬さん、豚汁にはおろし生姜入れてくださいね!」
「はい」
「足りないものはサプリなんてカッコつけずにちゃんとバランス良くたべましょう!」
「はいはい」
自炊はしないって言ってた割には必要な調理器具や調味料は何故か揃っていた
塔子が…作る事もあるのかな
それとなく探りを入れてみる
「俺、とりあえず形から入るから。揃えてみたら…それで満足した」
ほっ……
「…美味いな…豚汁」
「ホントに!?」
「良い嫁さんに……」
うんうん…その続きは?
期待で胸が高まる
「なれる…か!?」
「はぁ!?」
『美桜さん』…
この天の邪鬼どんな風に育てたんですか……?
ご飯を食べながら何でもない普通の会話をした
お互いに話さなきゃいけない事があるのは解っていたけど、私は彼が話し出したら話そうと決めていた
それは…友達として
『入って来て良いよ』
の【サイン】を待つ事
『俺、ちょっと仕事しなきゃ』
ご飯を食べ終わり彼はそう言ってベッドの横にあるパソコンに向かっている
私は食べ終わった後の片付け
パソコンのキーを叩くカタカタと言う音と…
シンクに落ちる水の音だけ響いている
これは……
根比べになるかな
「…帰らなくて良いのか?」
パソコンから目を離さず彼がそう言ったのは、片付けを終えて1時間後だった
「平気です」
ママは病院の忘年会
…酔っ払って帰って来るんだろうなぁ…
私は本棚から大学の薬理学のテキストを拝借し暫く眺めていた
意味が解らないからホントに眺めるだけ…
「テスト…頑張ったな…みんな」
みんな…か
「先生が『来年も講師をお願い出来ないかしら~』って言ってましたよ」
「あはは…冗談。俺も何だかんだ忙しいから無理」
『広瀬さんが来る水曜日だけはお昼ご飯もちゃんと召し上がります』
施設のスタッフが言っていた
美桜さんは…いつからあんな状態なんだろう
…病気?…それとも何かの後遺症…?
『尚樹さん』を否定せずに自然に演じていた彼を思い出して…胸が苦しくなった
プルルルルルッ…プルルルルルッ…
テーブルの上に置いてあった広瀬さんの携帯が鳴る
彼はパソコンの側から離れない
「…携帯鳴ってますよ?」
「誰?」
誰?って…
携帯を開けてディスプレイを確認する
…【香月 塔子】
「塔子さんから…です」
「そう」
プルルルルルッ…プルルルルルッ…
鳴り続ける携帯を彼のところに持って行った
「出ないんですか?」
私の顔をチラッと見たあと彼が携帯を受け取り通話ボタンを押した
「はい」
低い声
私はまた元いたソファーに戻った
『悪いけど今…来客中だから。話があるなら別の日にしてくれないか』
カチャッ…
静かに携帯が閉じられた音がした
「すみません!すっかり長居しちゃって!」
自分でも驚くくらい明るい大きな声が出た
「今日は…悪かったな」
クルッと椅子の向きを変えた彼が小さく笑う
「あはは…」
彼の顔を見たら私もそう笑うしかなかった
「…二度と…お前に絡まないようにあいつに言っておくから」
「広瀬さん」
「んっ?」
「それは…私が迷惑してると思うから言ってるんですか?」
「迷惑だろ?見ず知らずの奴に訳の解らない事されて。ごめんな、あいつも大人げな……」
彼の言葉を最後まで聞かずに…言ってしまった
「迷惑なのは私じゃなくて広瀬さんでしょう?」
広瀬さんの眉間に皴が寄る
「私は広瀬さんの事が知りたい。それは…ずっとずっと言ってきてる」
ブーッ…ブーッ…ブーッ…
今度は私のポケットの中で携帯のバイブが鳴る
「出たら?」
彼は椅子から立ち上がりキッチンに入る
もうっ!
携帯を取り出し相手を確認せずに出た
『もしもし?』
『…もしもし?あいちゃん?』
誰…だっけ…この声
小さな声の後ろで静かな音楽がかかっている
『う…ん、もしもし?』
『久し振り。分かる?』
あぁそうだ!!
『麻子!?』
『うん』
コーヒーを淹れたカップをテーブルに置き広瀬さんが私の隣に座った
「今日はなんだか騒々しい日だな…」
広瀬さんが真っ直ぐ前を見ながら呟いた
「すみません…付き合わせてしまって」
言った後に
『これはお互い様』
だろう…と思った
『今ね、こっちに帰って来てるんだ』
『そうなの!?で、今どこから電話してるの!?』
『橘町のkanonってお店』
『分かった。今から行く!』
『へっ?今から…?』
麻子が電話の向こうでそう言った後…広瀬さんも
『今からか!?』
って顔をした
橘町はここから車で20分はかかる
「俺に運転手をさせるなんて良い度胸だ」
「別に頼んでないです」
「『場所が良く分からないんですけど…』って言われたら連れて行くしかないだろ」
「まぁまぁ」
「貸しだからな」
「え~っ友達なのに!こんな事で!?」
「…また飯作ってくれたらそれで良いよ」
まぁ!!
【kanon】
駐車場に車を停める
「広瀬さんは…どうしますか?」
「同席する訳にはいかないだろ?俺もここに来るの久し振りだから中で待ってるよ」
この店…来た事があるのか
カランッ…
ドアを開けると小さなベルが鳴った
「いらっしゃいませ」
「えっと…待ち合わせです」
オレンジ色の照明が店内の緑を優しく照らす
窓際の席に一人で座っている麻子を見つけた
「いたか?」
「はい」
「俺は向こうの席にいるから」
そう言って離れた席に歩き出した広瀬さんに奥から出て来た女性が話し掛けた
「尚人君?」
「久し振り、嘉乃さん」
尚人君って…また…謎の女性!
親しげな二人の事を気にしながら私は麻子に近づいた
「麻子、元気だった?」
私は彼女の前に座りながら明るく声をかける
そこには髪が伸び…少し大人びた表情をした麻子がいた
「うん…あいちゃんも元気そうで良かった」
それからオーダーを取りに来た【嘉乃さん】に麻子と同じミントティを頼んだ
「あいちゃん…ごめんね」
この【ごめんね】には色々な意味が込められていると…強く組まれた彼女の指から察する事が出来る
「今、どうしてるの?」
「うん…あれから暫く大阪に行ってたんだけど…」
「…大阪に行ったのはどうして?何か…仕事でもしてるの?」
麻子がカップに口を付けた
一口ミントティを飲んだカップにはうっすらと口紅がついている
「麻子?」
彼女の目を見た
目にはにたくさんの涙
「あはは…好きなひとがいて学校を辞めてまで追いかけて行ったのに…帰されちゃった」
そう言って笑ってみせた拍子に彼女の目からみるみる涙が溢れ出した
遠くでまた…あのカノンが聴こえる
42歳 会社員 バツイチ
これが麻子の彼のプロフィール
出向で大阪から来ていた彼は…麻子が高校の時からバイトしていたコンビニの常連客だった
出会い系でも援交でもない…二人の年齢差を除けばどこにでもある『出会い』
「私が先に好きになったんだ。偶然…他のバイトさんが入れ忘れしちゃって。『また行った時にでも受け取ります』って店に電話がかかってきたの。それがきっかけで彼の名前と連絡先が分かったんだ」
そう彼の事を話す麻子は…とても可愛かった
「やっとの思いで気持ち伝えて…高校卒業したら会ってくれるようになった…向こうは私と自分の歳の差を気にしてなかなか恋人同士の様には接してくれなかったけど…夏にね、一度だけ…ホテルに誘ってくれたんだ」
…あの噂の発端になった…あの日だね麻子
「すっごく嬉しかった。これでやっと本当に気持ちが伝わったんだって」
うっすらと赤く染まった麻子の頬がその時の喜びをそのまま表している
「でもね…彼にとってはそれが最後の意味だったの」
「えっ…?」
「その時にはもう…大阪に戻る事が決まってたみたいで…」
「麻子知らなかったんだ」
「うん。戻る2日前に言われた…あはは…ズルいよね」
「うん、ズルい」
思わず同調してしまう
私がもし…広瀬さんにそんな事をされたら……
「でね、あいちゃんに電話かけた日に勢いで追いかけて行っちゃった」
うん!私もそうするよ麻子!
それから彼は…
追いかけて来た麻子を何も言わずに家に招き入れた
だからと言って
また『関係』を持つ訳でもなく…麻子は毎日見知らぬ土地で彼が仕事から帰って来るのを…ひとり彼の部屋で待ち続けた
「夜…彼が仕事から帰って来た時ね、私は彼のワイシャツにアイロンをかけてたの…家中のワイシャツに。それを見た彼が一言だけ言った『帰りなさい。君が今しなきゃいけないのはこんな事じゃない』って」
また麻子の目から大粒の涙がポロポロこぼれる
「あいちゃん…気持ち悪いって思われるかも知れないけど…」
「うん…何?」
「その言葉を聴いた時ね…彼とお父さんがダブった」
「…」
「どこか…似てるんだ」
早くにお父さんを亡くした麻子
その事に気付いた時彼女はどれだけ…苦しんだだろうと思う
私も『パパ』がいないから彼女のその時の気持ちはなんとなく解る
決してあり得ない
【代わり】を無意識に探してしまう哀しさや苛立ちや無意味さを…私も解る
「だからね、とりあえず言われた通りに帰って来てみた」
「麻子…私も麻子と同じ立場ならきっとそうすると思う」
「あいちゃんなら解ってくれる気がしてたのかな…私」
麻子が小さく笑った
好きになったひとが…二度と触れる事が出来ないひとの代わりだったと認めるのは…一緒に居たらそう簡単には出来ないよね麻子
苦しい…よね
「で…俺にどうしろって?」
「はい!広瀬さんのお店で暫く麻子をバイトさせてください!」
今日、初めて聞いた
麻子にはお母さんも居なかった
お父さんが亡くなってからは、お姉さんと二人で暮らしていた
「…ねぇ…あいちゃん。広瀬さんって薬理学の講師の広瀬さんだよね?」
あぁっ!!!
バイトを探さなきゃって言う麻子を見ていたら、勢いで広瀬さんを引っ張って来てしまった
「えっとね…最近まではそうだったけど今は友達なの!」
「と…友達?」
目を丸くする麻子
呆れた顔の広瀬さん
「残念だがうちは今は人手が足りてる」
「そこを広瀬店長のお力で何とか!」
「無茶苦茶な事を言うな。俺はただの雇われだ」
「あはは…あいちゃん無理言ったらダメだよ。ちゃんと自分で探すから」
「でも…」
私はとにかく麻子が心配だった
私に出来る事をしたかった
って言っても…
こうやって広瀬さんに頼ってるんだけど
「ねぇ?…もし良かったらうちで働いてみない?」
嘉乃さんだった
「あぁ、それが良い」
広瀬さんが賛同する
「ちょうどバイトさんが辞めた後で募集を出すところだったの」
嘉乃さんはブラインドを下ろしながら麻子に笑いかけた
「ホントに良いんですか?」
麻子が遠慮がちに聞く
「ごめんなさいね…ちょっと二人の話が聞こえちゃって…私にも妹がいたの。あぁ、尚人君と同級生なんだけど」
『妹がいたの』…?
「明日から…来れるかな?」
「あっ、はい!宜しくお願いします!」
麻子が椅子から立ち上がり頭を下げた
「お互いにタイミングが良かったわね」
そう言って嘉乃さんは麻子に静かに微笑んだ
『疲れた』
麻子を家まで送りそのまま広瀬さんも家に帰って行った
ベッドに転がった私も何だか疲れがどっと出る
麻子…バイトは上手く見つかったけどこれからどうするのかなぁ……彼の事…もう忘れてちゃうのかな
嘉乃さんって同級生のお姉さんなんだ
あぁ…そうだ!
麻子から電話がかかって来た時…広瀬さんと話の途中だったんだよね
逃げられた
って言うか…塔子
私に何が言いたかったんだろ
『尚樹さん』
と…広瀬さんに微笑む美桜さんの顔を思い出しながら…私はいつの間にか眠りについていた
朝起きると…二日酔いらしきママがいた
「おはよぅ…」
「おはよう。かなり飲んだんでしょ?」
「あはは…たまには良いじゃないの」
まだお酒が抜けてないのか…肩肘をついてニヤニヤしながら答えるママ
「あい、もしかして昨日kanonに行った?」
「そうそう!イチゴタルト買って来たよ。冷蔵庫見た?」
「うん。嘉乃さんって女のひといなかった?」
「いたよ。ママ…知り合いなの?」
「うん。元気だった?」
「う…ん」
「嘉乃さんの妹さん…ママの病院の患者さんでね。もう亡くなって随分経つんだけど…生きてたら30…35になるのかな」
「…そうなんだ」
「亡くなったのは…高校卒業目前だったの。同級生の子達が『卒業式だけは出席させてあげてください』って主治医に頼み込んだんだけどね…」
「うん…」
「梨乃ちゃん…その時易感染状態で許可がおりなかった」
「その時ママが梨乃ちゃんの担当看護師だったの…代わるがわるお見舞いに来て食い下がる子達に『主治医の判断ですから』って説明するのが辛くてね…」
「うん…」
「看護師って…何なんだろうってママも悩んだ」
ママが…家で仕事の話をするのは珍しい
【守秘義務】を忠実に守っているひとだから
「ご両親と嘉乃ちゃんの意向で…梨乃ちゃんが息を引き取る時には同級生をたくさん病室に呼んだ。ママが梨乃ちゃんのお母さんから預かってた学校の連絡網で電話をかけまくった。今…出来る事をしなくちゃって」
「そうだったんだ」
「その時に…梨乃ちゃんの好きな男の子にどうしても連絡が取れないって嘉乃さんが泣きながら病院を飛び出して行ったの。探しに行ったのね」
「で…見つかったの?」
「うん…でもね少しの差だった。間に合わなかった。彼も嘉乃さんも」
「病室に入って来た彼の手には…まだ蕾のままの桜の枝が握られてた。後から聞いたんだけど…梨乃ちゃん美術部でね、その桜の木の絵を描いて展覧会で入賞した事があったんだって。『またあの桜の木を描きたい』っていつも言ってたらしいわ」
ママが自分の仕事の話をしながら泣くのを…初めて見た
「あい。私達の仕事って…たくさんのひと達の気持ちを観る事が出来る。特別な仕事だって…ママは思う。だからあなたも頑張りなさい」
「はい」
「さぁ~イチゴタルト食べようかなっ!」
「朝から!?」
「美味しいものに時間は関係ないでしょ?」
ママが元気良く笑った
クリスマスが近づく
友達なんだから…広瀬さんと何かしら約束を取り付けるのも変かぁ…
借りにお願いしたとしてもクリスマスは水曜日
会ってもらえる訳がない
ピロピロピロッ…
メールが入る
【来週の水曜日時間ある?】
広瀬さんから…
【はい!】
【じゃぁ、14時にマンションの駐車場で】
【了解しました!…クリスマスだから誘ってくれてるんですかぁ?】
【俺がそんな事をするやつに見えるか?】
【見えません…あくまで私の希望です】
【即答だな。理由はどうであれクリスマスには違いないから。また水曜日に】
…嫌な……
予感がした
それから麻子に連絡をしてクリスマス用にイチゴタルトをホールで注文した
ママと一緒に食べるつもりだけど…広瀬さんが『食べたい』って言えば…あげても良い
わざわざ水曜日を指定してきたのは…何か意味がある
クリスマスに会えるんだから浮かれてウキウキしたって良いのに…何故か心がざわつく
自分から踏み込んだとは言え…私は彼の【箱】を無理矢理こじ開けようとしてるんじゃないのかと…思った
広瀬さんからメールがあった3日後
私は【あい】に行こうとしていた
諭さんに話を聞いてもらう為だ
諭さんはきっと彼の【箱】の中身を知ってる
私はいきなり彼に、その中身を突き付けられるのが…恐かったんだと思う…
諭さんに話をして…諭さんの話を聴いてそれなりに心の準備をしたかった
なのに…
「この前の話の続き…聴きたいでしょう?」
今…私の目の前には
塔子がいる
偶然なのか解らないけどマンションを出たところで彼女に会った
あの日と同じように有無を言わせない雰囲気を漂わせ、車に乗るように促された
「…kanonに行きましょうか?」
このひと…私達があの店に行ったのを知ってる…!?
それからは塔子は何も話さず車を走らせた
カランッ…
「いらっしゃいませ…あらっ?」
嘉乃さんが私に気が付いた
「この前は…ありがとうございました」
「いいえ。麻子ちゃん今は買い物に出て貰ってるの」
「そうですか」
「お連れ様…ですね。どうぞこちらに」
嘉乃さんと塔子は顔見知りではないみたいだった
…あの日…電話で広瀬さんは彼女に冷たくした
『来客中だから』
…その言葉を聴いて塔子はマンションに来てみたんだ
だからこの店を知ってる
「そんなに怖い顔をしないで…あいさん」
初めて名前で呼ばれたと思う
どうして私の名前を知ってるのかなんて…今更どうでも良かった
「あらっ…ここもカノンがかかってるのね。私この曲好きよ。繰り返し繰り返し…微妙にズレながら…ただただ同じような旋律が流れる」
「…お話しって何ですか?」
塔子はアールグレイの入ったカップにそっと口をつけた
「広瀬さんの事なら…私は自分で……」
「私、姉なの」
「……えっ?」
「尚人は私の弟。って言っても…うちの父親の時代で言う……妾の子」
「…」
「あらっ、やっぱり聞いてなかったのね」
涼しい表情をしている塔子の目の前で…私は今どんな顔をしてるんだろ
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