冷蔵庫

レス379 HIT数 165400 あ+ あ-


2011/05/23 21:14(更新日時)

19時


「ただいまぁ」

………
まだ帰って来てないのか…

うちの玄関は朝から電気がつけっぱなし

返事のないリビングは真っ暗


エアコンのスイッチを入れながらテレビをつける


ピッピピピッ…

『ママ職場』

プルルルルッ…プルルルルッ…

『もしもし…いつもお世話になってます松下の娘ですが…はい…お願いします』



…お腹空いた

No.1482422 (スレ作成日時)

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No.379

その女の子は『冷蔵庫』にハッピーエンドを求めました

【ハッピーエンド】に向けて

これはあの時応える事が出来なかった…キキが出来る精一杯です


これを貴女があの時くれた【手紙】の返事にさせてください


そして大切な【心友】


まだ時間がかかりそうですが…貴方が誰かと笑って一緒にいる事をキキはいつも願っています


これは『続けて来た事の【変化】を恐れない始まり』です


バランス
タイミング
仕方がない事の中を生き抜く力
サインを見逃さない事

差しのべられた手を握り返す勇気



必ず
幸せになってください


ありがとう


キキ

No.378

『冷蔵庫』に登場する
『広瀬 尚人』

彼にはモデルがいます

キキの【心友】

設定は勿論フィクション

彼にも長年問い続ける疑問があります


『【俺】は必要?』
『【俺】は何?』


彼がこのような疑問に縛られている経緯は伏せさせて頂きますが…

『貴方は必要なの』

ただ…それを言いながら彼を抱き締めるひとはいません

彼がそれを望んでいるのはキキではありません…誤解のないように

それはこの世にたったひとりの女性

叶わない望みです



キキに解く事が出来ない二人の疑問を
『冷蔵庫』で考えてみる事にしました


『尚人』は【心友】

『あい』は…貴女です

No.377

🍀後書き🍀


これはフィクションです

登場する人物名、団体名は実在するものとは一切関係がございません
ご了承ください

尚、『諭さん』につきましてもキキにより創られた『その後』になります



キキがこの『冷蔵庫』を書こうと思ったのはある女の子との出会いがきっかけでした

ご存知の方もいらっしゃると思いますが 『秘密』『時間』を書く中でキキに対し

『なぜ?』
『どうして?』

を心のままにぶつけてきた女の子です

その時キキにはそれに応える事が出来ませんでした

『秘密』『時間』はあまりにも…彼女の閉ざされていた部分を抉り過ぎた

直接的な因果関係は無くとも…それを書くキキに彼女の疑問に応える資格も術もありませんでした


【大人ってズルい】


その通りです

No.376

🍀キキより🍀

長い時間お付き合い頂きありがとうございました

また改めて
『後書き』をつけさせて頂きます


読んでくださったすべての皆様に


🍀感謝🍀🙊


被災地の皆様の復興とご健康を心よりお祈り申し上げます



キキ

No.375

6月


私と希呼は一緒に式を挙げる事になっている

ママと兄貴に挨拶を終えた広瀬さんから 『お泊まり』
も許された

でも…結局家には帰っている


「やばい!遅刻するっ!」


冷蔵庫のホワイトボードに慌ててメッセージを書き込む


『ママへ
昨日、鰯の煮付けを作って持って帰りました
冷蔵庫に入ってます
温め直して食べてね!
いってきます!!あい』


‐END‐

No.374

「…何しに来たの?」

1月…

シンガポールへ旅立つ塔子の見送りに来た

広瀬さんと二人で…


「帰って来るんですよね?」

「いつになるか解らないわ」

「待ってます、広瀬さんと」


塔子は広瀬さんに視線を移した


「尚人、待たないわよね?」

「待たない。もういいだろ?」

「ふふ…初めてね。私を拒否するのは」


塔子の長い指が広瀬さんの髪に触れる


「さよなら、尚人」

「さよなら…姉さん」



塔子が別れ際ギリギリに私に渡してくれた物があった


【桜の形の帯留め】


それは広瀬さんが美桜さんに贈ったものだった

No.373

パパは私達が見えなくなるまで道路端から身を乗り出し見送ってくれた


『また会おう』


って…鼻を真っ赤にグズつかせながら言った



「そっくりだな」

片肘を窓の縁にのせ窓の外を見る広瀬さんは笑っていた


「あぁぁっっ!!」

「なっ何だよ!?」

「通帳と印鑑……返しそびれた…」

「貰っておけよ」

「でも……」

「大事な娘の為に汗水流した愛情の証だ」


それは…ただ単に金に姿を変えた『愛情』


「広瀬さん」

「ん~っ?」

「私と結婚してみませんか?」



「してみるか」

No.372

小さな泡を踊らせた鮮やかなグリーン


メロンソーダなんて…いつ振りだろう


それから…広瀬さんはパパに自分の話をした

彼の人生に起こったひとつひとつの事は知ってはいたけれど…本人の口からそれらが繋がって話されるのは初めてだった


感情の起伏もなく
淡々と話される
【広瀬 尚人】が
かえって物悲しく… 私の心は震えた



「ありがとう」

広瀬さんの話を聴き終えたパパが最初に言った言葉


そして…


「私の娘と…幸せになりなさい」


と…言った


因みに…

【本日のBランチ】

牛すね肉の赤ワイン煮込み

セロリと檸檬の冷製スープ


こんなの…作った事ありません

No.371

「それは……」

パパが口ごもる


「いらなくなったんでしょ?」

勢いに任せて言ってしまった


「いらないなら…正体不明のこの私が…このまま頂きます」

広瀬さんはの顔は…挑戦的に笑っていた

「いらない訳ないだろっ!どれだけ…どれだけ大事な娘だと思ってるんだ!いらないならって…ひとの娘をモノみたいに…!私とこの子の母親は確かに離婚した。それを失敗と言うのかも知れない。だが…あいが私の娘である事は…ある事は…私の生き甲斐なんだよ!私の事を誰がなんと非難しようと、この子が拒否しようと…あいは私の娘だ」


パパの顔は真っ赤になり…目も充血していた


私は…知らないうちに涙が出ていた


「それをお聴き出来て良かったです。私の無礼をお許しください」


広瀬さんは深々と頭を下げた



…親子でこの
広瀬 尚人にはめられた

No.370

カチャンッ…


私までナイフを落としてしまった


「広瀬さんは…あいとそう言う付き合いを?」

パパの視線は広瀬さんに真っ直ぐに向けられていた


「はい、私は初めからそのつもりです」

…初耳だ

「失礼ですが…あいより少し歳上ですよね?」

「かなり歳上です。38です」

「今までずっとお一人で?」

「はい、それが何か不都合がありますか?」

「いや……その歳までひとりでいたのには何か理由があるのかと」

「個人的な理由はありますがあいさんとの今後には…関係ありません」

「ご両親は?」

「母は亡くなりました。父親は訳あって一緒に暮らした事はありません」

「訳あって……不躾だが…広瀬さんには理由や訳が色々あって貴方の事が私にはよく解らないんだが」

「パパ、それは…私達には関係ない」

「…関係ない事ないだろう?あい…ちゃんと考えての事なのか?結婚はそんな勢いや感情だけでするものじゃないぞ?」

「…何?なんでパパがそんな事言えるの?…じゃぁ、パパとママは考えないで結婚したの?だから…私を置いて出て行ったの!?」

No.369

「いただきます」


そう初めに言ったのはやっぱり広瀬さんだった

「さ、冷めないうちに食べようじゃないか」

「はい、いただきます」


カチャカチャとフォークとナイフの音だけがする


私の頭の中は…混乱していた

このまま何を話したら良いだろう

『奥さんは元気?』

とか…おかしいし

パパってこんな感じだったっけ…?
背も…もう少し高かったような

あぁ…私が大きくなったのか


「これ、あいが作ったやつの方が美味いな」

「へっ?」

カチャンッ…

パパがフォークを落とした


「あいさん、料理がとても上手なんですよ」

パパはまた慌ててフォークを拾う

「そ…そうなんだね。良いお嫁さんに……」

はっとした表情でパパは続きを言うのを止めた


「良い嫁さんになってもらおうと思っています」


広瀬さんがフォークとナイフを静かに置いた


なってもらおうって…なるに決まってるじゃない!

……えっっっ…!?

No.368

そしてまた沈黙


「いきなりお邪魔してすみません」

頭を下げ口を開いたのは広瀬さんだった

「あぁいや…その…広瀬さんはあいの…」

「お付き合いさせて頂いてます」

「そう………」

パパがハンカチで汗を拭いながら俯いた

「ママがパパに宜しく伝えてって…言ってました」

「そうか…お母さんは元気か?」

「はい、兄貴も今うちに来てます」

「彰も?…暫くうちに寄りついてないんだけど」

…兄貴…

「パパ、これ…ありがとうございました」

私はバッグからあの通帳と印鑑を取り出し差し出した

「これは…」

「半分、遣わせて頂きました、あの車に」

窓の外

ちょうど真ん中に見える赤い車に視線を移した

「ありがとうございました」

私は通帳と印鑑を差し出したまま頭を下げた

「いや、これはそのまま持っていなさい」

「もう十分です。私もちゃんと…看護師として働いてるから」

「それとこれとは別だよ」


「失礼致します!お待たせ致しましたぁ!」

運ばれて来た3つのBランチに広瀬さんが私の手を引っ込めた

No.367

「パパあのね…」

パパは私の声に我に返ったのか座りかけてた腰をあげ慌てて立ち上がった

広瀬さんも立ち上がる


「初めまして…あいの……父です」

広瀬さんは軽く会釈すると私の隣に席を移動した


沈黙が流れる……


「失礼致します。ご注文はお済みでしょうか?」

店員の声にパパと私は慌ててメニューをめくった

「ご飯はまだだろう?」

「はい」

「何でも好きなものを頼むと良いよ、あぁこれは!?」


パパが指差したのは国旗が立ったハンバーグセット

それ…お子様ランチ

「ひろ…広瀬さんはどれにしますか?」

パパの額には季節外れの汗……しどろもどろに会話を続ける

「私はBランチで」

「の、飲み物は?」

「ホットコーヒーを」

「じゃぁ、私も同じもので…あいは?」

「私もBランチで良いです」

「飲み物は?ああ!分かったこれだな!」


パパが得意気に指でトントンとする


メロンソーダ……

No.366

「あい」

振り返る…パパ

「パパ…」

「ごめん、あい!…先にトイレに行って来る」


パパはそのままキョロキョロしながらトイレを探し『あった!』と言う顔をしながら奥の方へ消えて行った


「あはは、親子だな」

広瀬さんが声を出して笑った

「…すみません」


恥ずかしい…


暫くするといそいそとジャケットを脱ぎながらパパが戻って来た

「ごめん、ごめん」

先ず初めに…なんて言ったら良いんだろう

目を細め笑顔で私を見るパパの前髪には私の知らない白い筋が出来ていた

「元気でしたか?」

思わず丁寧語…

「ああ、遠いところをよく来てくれたね、ありがとう」

パパの口元がお月様のようになる

「ここまでどれくらいで……」

と言いながら私の前に座ろうとしたパパが止まった


「…あい……この方は!?」

今頃かよっ!

きっと私も広瀬さんも心の中で同時に突っ込んだと…思う


「……初めまして小川さん。広瀬と申します」


パパが固まった

No.365

サッと店内を見るとひとりで座っている女性客は3人…

そのうち私と同じ年代くらいの女性が2人


パパには『広瀬さん』と一緒に来ている事を伝えていなかった


「あい」

「はい?」

「会いたかったんだろ?」

「…」

「だったら、それよりも小さな事に拘るな。その時の気持ちのままに動くのがあいだ」


見透かされてたみたい


「生意気だなぁ」

広瀬さんの口真似をした


「仰る通り」


広瀬さんが柔らかな笑顔で応える


その時スッと…私の横を通るひとがいた


あっ…

広瀬さんが私の視線に気付きまた笑った


「パパ、ここ!」

No.364

4人掛けのテーブルに向かい合って座った


「広瀬さん…これじゃぁ…ち、父が来た時にどこに座るんですか?」

「俺が移動する」


「失礼致します。ご注文はお決まりでしょうか?」

「待ち合わせをしてるので後から」

「かしこまりました。またお申し付けください」


広瀬さんが壁の時計を見ながらオーダーを断った


「そろそろ…だな」


待ち合わせは11時

No.363

化粧室のドアを開けると、壁に寄りかかり腕組みをした広瀬さんの後ろ姿を見つけた

そ~っと近づく


「わっ!!」

彼の背中を両手で押した

「…小学生かよ」

…つまらない


「まだ来てないな」

「えっ?」

「親父さん」

広瀬さんの位置からは店内が見渡せた

「会った事ないじゃないですか…」


「解るよ。あいの親父さんくらい。あそこの席にしよう」

「あっ…はい」


広瀬さんは私の手を取り、駐車場が見える窓側の席に向かって歩き出した


大きな手は


『大丈夫』


と…言ってくれてる

No.362

はぁ~…

ほっと一息

あっっ、広瀬さん置いてきちゃった…


鏡の中の【あい】と目が合う


…私の事
見つけられる…?

私はね
直ぐに見つける自信があるよ


口元の同じほくろに触れた



ねぇ

私の事
大切だった?

No.361

『ねぇ兄貴。パパの連絡先を教えて欲しいんだけど』

『えっ、あっ、うん』

『会いに行こうと思って』

『そうか、行って来いよ』

『会って…くれるかな』

『会うよ。待ってたんだから』



兄貴は今、私の家でひとりソワソワしてると思います

ママは…

『宜しく言っといて』

だって



「あい、着いた」


慣れない土地の運転にしびれを切らした広瀬さんがハンドルを握っている


「…緊張してるのか?顔色が良くないぞ?」

「違う……トイレ!!」
「はっ?」


バンッ…


駐車場に呆れる広瀬さんを残し店に駆け込んだ

No.360

高速のお陰で2時間ちょっとで目的地に着いた


「高速初めてって言う割りには…飛ばすなぁ…」

「速く走らなきゃ高速じゃないですよ」

「…そうだな。なんか緊張して肩凝った」

「緊張のせいですか?…それは歳のせいじゃ……」

銀縁のメガネを光らせた広瀬さんの視線

「あいは…肩凝る事はないな」

サッと私の胸に視線を移し直ぐに窓の外を見た


「ご飯抜き!」


「……正直者なもので」

正直者!?
…そうよね、正直者だけどひねくれ者なのよね

自分の答えに妙に納得


「待ち合わせ場所までは…探さないとさすがの俺にも無理」

「ここからそう遠くはない筈なんで……車でぐるぐる探してたら見つかりそうですけど」

とりあえず車が向いている方向に走り出した


「あい」

「はい」

「逆だ。2つ目の信号右」

携帯を見ながら彼が言った


「ついて来て正解。俺の働きに飯宜しく」

No.359

『一緒に行く』


…まさか彼がそう言うとは思わなかった


「何年振り?」

「11年です」

順調に高速を走りこじんまりとしたレストランのあるパーキングで休憩

「…広瀬さん…どうして一緒に来たんですか?」

「あいのDNAの成り立ちに興味があった」

「へっ?」

「それに…生きて来た半分は一緒にいたんだろ?お前の構造を知るヒントになる」

「…あのぉ……もっと普通の言い方出来ません?」


彼がコーヒーを飲み干した


「簡単に言えば…あいの親父さんに会ってみたい」


「それで良し」


「生意気だな」

No.358

「なぁ…やっぱり俺の車で行かないか?」

「どうしてですか?」

「ほら、あっちの方が…広いし」

広瀬さんは親指を立てて自分の四駆を指差す

「えぇっ、ガソリンだって満タンにしてきたし、CDだってお気に入りをたくさん持ってきたし…」

「CDなんて俺の車でも聴けるだろ…」

助手席側の窓に頭を突っ込み運転席を覗き込む広瀬さん

「もしかして…私の運転を信用してないとか?」

「…いや、そう言う訳じゃぁ…」

ヴィーン…

「ばか!危なっ…!」

「乗って!」


助手席の窓を閉めた

彼は渋々乗り込む


「道は解ってるのか?」

「ナビがあるから」

「はっ?どこに」

「ここに!」


彼の頬っぺを指で突く

「……水流の方だろ?高速で行った方が早いな」

「了解です!」

「高速乗った事あるんだよな?」

「初めて!」


彼が慌ててシートベルトを締めた

No.357

『…はい。…はい、解りました。今から伺います』

ピッ…

テーブルに携帯を置き塔子は静かな目で私を見た


「まだ仕事があるの」

「はい、お邪魔しました」


スッと立ち上がり品の良い鞄に書類の束を詰め始めた

独り言のように塔子が話し出す…


「年が明けたら…私…シンガポールに行くの。あっちに店を出す事が決まって。父である会長からの命令よ」

「…」

「私は…ずっとこんな風に生きてきた。今更それを変える気もない。この生き方が私に出来る事だから」


カチャ

『お客様がお帰りになります。お見送りを』

そう内線をかけ電話の受話器を置いた塔子は私の目の前を通り過ぎる

「着物に着替えるから」


私は綺麗にのびた背中に向かって言う


「塔子さん。貴女も誰の代わりでもない…ひとりの香月 塔子として生きてください」

「生意気ね」


振り向かずそう言うと部屋の奥に消えて行った

No.356

「極々…普通の事です。一緒にご飯を食べたり、時々喧嘩したり、仕事の愚痴を言い合ったり、涙が出るくらい一緒に笑ったり。そんな普通の…当たり前の事です」

「そんな事…そんな事で尚人が満足するとでも思ってるの!?貴女と尚人は違うの!」

「そうです。私と広瀬さんは違います」

「それが解ってて…どうして尚人なの」

「…塔子さんからすれば私は普通のどこにでもいる人間だと思います。貴女は綺麗で仕事でも成功してて可愛い子供までいる。同じ女性として…正面憧れます。でも、私は貴女にはなれない…それを解ってます」

「だから…?」

「だから無理をしないで…私に出来る普通の事で一緒にいます。誰かの代わりじゃなく…私は広瀬 尚人じゃなきゃダメだから」

「貴女を…尚人が受け入れるかしら?尚人が大事なのはあの母親よ、死んでもきっとそれは変わらないわ」

「それも広瀬さんなんです」


プルルルルルッ…プルルルルルッ…


塔子の携帯が鳴る

No.355

塔子はテーブルに置かれたシガレットケースから細く長いタバコを取り出し火をつけた


「私、広瀬さんが好きです」

形の良い唇から小さく煙を出す

「…知ってるわよ。今更それが何かしら?」


「広瀬さんと一緒に生きていきたいと思ってます」

瞬きをせずに塔子は私を見ている

「尚人と会ったの?」

「はい、広瀬さんには私の気持ちは伝えました」

「貴女…尚人の母親が死んだのを知ってて会ったのね?」

「はい、偶然でしたが」

「その弱味につけ込んで尚人の寂しさを自分が埋めてあげようとでも?…笑っちゃうわ」


…本当に笑いながら塔子は硝子の灰皿にタバコを押し付け吐き捨てるように言った


「くだらない。貴女に何が出来るって言うの?」

No.354

「お茶頂きます」

15分くらい経ったところで声をかけてみた

「…」

返事なし

温くなったお茶に口をつける


ピピピッ…


『香月です、今送りました。はい…えぇ、えぇ……搬入は予定通り?…解りました。日程が決まり次第連絡します』

ピッ…カチャ


携帯が切られたと同時に塔子が私の目の前に座った

慌ててお茶を置きすっかりソファーに沈んでいた身体を直した

「お待たせしました」

「いえ、こちらこそお忙しい時にすみません」

「忙しくてあまり時間がないの。…3年振りよね。まさか貴女から連絡を頂くとは思っていなかったわ。ご用件は?」


…少し痩せた?

淡々と話す目の前の塔子は変わらず…綺麗だった

No.353

長い廊下を歩き何度か角を曲がり…大きな硝子越しに静かな庭園を眺めたところで女性の足が止まった

重厚な扉をノックする


「失礼致します。松下様をご案内致しました」

その扉を開け私に中に入るよう促す

「失礼します」


部屋の中は風情あるこの建物とはまるで違い、都会的な無駄のない部屋だった


真っ白なスーツ姿の塔子は私を見る事なくパソコンを打つ手を止めない


「急ぎの仕事があるの。そちらに掛けて…」

言われたソファーに座った

暫くするとさっきの女性がお茶と和菓子を出してくれた


静かな部屋にパソコンのキーを叩く音だけがする


私、緊張…してない


この空気は…
広瀬さんと同じ

No.352

【料亭 かづき】


その歴史ある佇まいに圧倒的された

私が気軽に来れるような場所ではない事は…確か


赤紫に銀色の下弦の月が刺繍された大きな暖簾をくぐり中に入った


「いらっしゃいませ」

着物姿の女性が丁寧に迎え入れる


「すみません…香月 塔子さんとお約束していた者です」

「松下様ですね。お待ちしておりました。どうぞ御上がりください」


用意された履物に履き替えた時…正面の壁から天井に続く何かの模様のようなものを見つけた
思わずそれを目で追う

これは…桜……


正面の壁から長く続く廊下に向かって、天井や壁一面に満開の桜の絵が描かれていた

広い廊下はまるで桜のトンネルのよう…


「松下様…?」

「あっ、はい…すみません」

「女将がおります部屋へご案内致します」


私は塔子に向かってそのトンネルを抜ける

No.351

【広瀬さん家の晩御飯】

酢鶏の野菜あんかけ
ほうれん草とエノキのお浸し
玉葱と馬鈴薯の味噌
枝豆ご飯


「あい、最近…何も変わった事はないか?」

「変わった事……そう言えば先月より1㎏太った…えっっ、分かりますか!?」

「…いや……そう言う事じゃなくて」


調剤薬局と病院


似たような時間に仕事が終わる私達は
こうして自然に夜の食卓についている

外泊…したのはあの日だけ


『ちゃんと家には帰れ』

と…うるさい


「その他には…広瀬さんがちょっとだけ素直になってカワイイです。ホントにちょっとだけだけど」

「…もういい」

「あっ、可愛くない」

「…困った事が起きたら直ぐに言って」

「困った事?はい、その時は」


明日私は

塔子に会います

No.350

「…えっ?どうしたの?」


着物の帯を締めながら希呼が怪訝な顔をする


「うん、会いたくて」

「会いたくてって……もしかして尚人さんと何かあった?まさか『付き合ってまぁす』とか言い出す?」


希呼はヒナタとハルタを祐輔さんに見てもらいながら時々お店に出るようになっていた


「うん」

「そう……ってマジ!?」

茄子紺の着物のしっとりとした姿からは想像がつかない声を希呼はあげた

「い…いつから!?」

「先週」

「あのさぁ…実はずっと黙ってたんだけど…尚人さんと塔子さんてね…」

「知ってるよ。だからもう一度会いたいの」

「…知ってたんだ…黙ってて…ごめん。この世界じゃ有名な話らしくて。私は最近…よその女将から聞いて知ったんだけど」

「うん。希呼が言わなかったのは若女将として当然の事。私は随分前から知ってた。私の方こそ…ごめん」

「あい…何か強くなったね」


希呼は居間にある茶箪笥の引き出しから【名簿】を出してくれた


「尚人さんには言わないの?」

「うん、これは私の問題だから。ひとりで会いたいの」


【香月 塔子】
携帯に連絡先を入力した


「あいの好きにしなよ。ずっと…好きだったもんね」

No.349

その日の仕事が終り携帯を見ると広瀬さんからの着信が入っていた


『もしもし、あいです』

『…何も言わないで帰る事ないだろ』

『休みって言ってたから…起こさない方が良いかなぁって…気を遣ったつもりです』

『それだけ?』

『へっ…?それだけって?』

『…いや……』

『何ですか?』

『別に』

『…どうしたの?』

『…』

『広瀬さん?』

『何も言わないでいなくなるから。あれで…最後なのかと思った』

『ぷっ…!』

今までからはあり得ない素直な彼に思わず吹き出した

『腹減ったな』

『今日は何が食べたいですか?』

『作れる物と食えるもの』

No.348

彼は休みらしいけど私は今日も仕事だ


起こしてしまわないように身支度をし静かに家を出た

タクシーを呼んで一度着替えに家に帰る


ゆっくりと走るタクシーから夜が明け始めた街並みを見ながら、これから私がやらなくてはならないふたつの事を考えていた


タクシーでたった二区間の距離

偶然でも三年会わなかったのが不思議なくらい…


諭さんが言っていた

『通勤の便が悪いからって引越したぞ』

は…嘘


理由はこれしかない


塔子と私が会わないように


…私は塔子と会わなきゃいけない


そして…兄貴と約束していたあのひとにも

No.347

彼の家に行き美味しいコーヒーを二人で飲んだ


それからの事は………
はい、ご想像にお任せ…



小さな寝息をたてる彼の腕をすり抜ける

メガネを外した顔をこんなに間近に見るのは初めて

まじまじと観察

この泣きぼくろが…何ともカワイイ


こうして二人の時間を過ごしてみて解った事があった


何も終わらない
何も始まらない


変わりながらも
ずっと続けて行くんだ


『一度しか言わない。初めて会った時から…気になってた』

『えっ…携帯を受け取りに行った…時?』

『その前の日。風邪薬買いに来た時』

『へっ…!?』

『すっごく態度が悪い客だったよな』

…よく思い出せないけど…

『なのに何でか気になった…理由は俺にも解らない』

『それを運命の出逢いって言うんでしょ?認めなさぁい!』

と言ったら…おでこをはじかれました…

遠回りしても良いじゃない

もう、始まっていたのなら
このまま二人で続けよう

No.346

それから暫く…小さな震えが止まるまで私は彼を抱き締め続けた



「…あい」

「はい…」

「重くて腰が痛い…」

………

彼の前に回り込み腰に手をあて言った


「これでも少し痩せたんですけど!?」

広瀬さんは外された銀縁のメガネをかけ直し顔を上げた


「見れば解る」

目を細め彼が笑う

「あっ、コーヒー…」

ジャケットのポケットから冷めた缶コーヒーを取り出し差し出した


「ありがとう」


のばされた大きな手は缶コーヒーと一緒に私の手を包んだ


「…冷たいな」

「…あはは…寒いから…冷めちゃいましたね」

「うちで美味いコーヒー飲むか?」


手は握られたまま


「私、広瀬 尚人が好きです。それでも良いなら」


「知ってる」


答えなのかそうじゃないのか解らない返事を聴きながら、私はそのまま彼に引き寄せられた


「…大人ってやっぱりズルい…私もだけど」


「だよな」

No.345

銀杏並木から自販機までのちょっとした広場を横切りベンチに近づいた

彼の丸まった背中まで1mくらい


「あい」

「はい」

下を向いたまま彼が呟いた


「ありがとう」


「ちぎり絵…広瀬さんの好きなトマトですね。そこに書かれているのは…お母さんの大好きな尚人さんです。亡くなった方の想いを看護師としてお渡しします」


「うん」


大きな背中なのに
今私の目の前にいるのは小さな子供だった


声を抑え静かに震える彼を抱き締めた



「尚人さんは必要とされてた。良かったね」

No.344

自販機で缶コーヒーを二本買った


ここからは暗くて彼の姿は見えない


熱すぎる缶コーヒーをジャケットのポケットに入れ空を見上げた


秋の夜空はどうしてこんなに澄んでいるんだろう…


沈とした冷たい空気の中…見ているとそのまま空に引き上げられそうな感覚になりバランスを崩した



彼が何を思っていようと


そろそろ
放っておくのは終りだ

No.343

陽が落ちた銀杏並木

ぼんやりとした黄色の絨毯の上をサクサク音をたてながら、懐かしいあのひとに向かって歩く


「こんばんは、広瀬さん」

「…こんばんは」

「立ち話も何だから…座りませんか?」

少し離れたところにあるベンチを指差した

「そうだな」

彼が姿勢良く歩き出す

先にベンチに腰掛けた彼に預かって来た封筒を渡した


「…これは?」

「私の勤め先の病院が香月海苑に往診に入ってるんです。昨日、そこの方から預かって来ました」

「何かの書類…でもなさそうだな」

「広瀬さん宛の手紙です…どうぞ開けてください。私、そこの自販機でコーヒーでも買って来ますね!」


彼をベンチにひとり残し私は自販機に向かった


【お母さん】との再会は二人きりで…


…あのちぎり絵を見たあと

広瀬さんの何かが変わるんだろうか…


何かが
終わるのか
始まるのか……

No.342

メールはやめた

声が聴きたかった…

ピッ…ピッ…ピッ……


【広瀬 尚人】


プルルルルルッ…プルルルルルッ…プルルルルルッ………


『はい、広瀬です』

『お久し振りです。あいです』

『…久し振り。元気か?』

『はい、広瀬さんは?』

『元気だよ。どうした…?』

『会ってお渡ししたいものがあります』

『えっ…何?』

『会ってくれますか?』

『…何だよ一体』

『会ってください』

『……解った。いつ?』

『そんなに待てないから明日』

『了解…場所と時間は?』

『銀杏並木に19時』

『…解った』

『広瀬さん…』

『んっ?』

『………』

『どうした?』

『いえ…必ず来てくださいね。じゃぁ、また明日!』



プッ…プーップーップーッ…

No.341

18時半に仕事が終わり家路についた


初めてのお給料で前から欲しかったキーケースを買った

でも家の鍵にはあのサトちゃんを付けている

頭も鼻のところも色が剥げてしまった


「ただいま」

「お帰り~」

明るいリビングから声がする


カチャ…


「今日は早かったね」

「お疲れ様、たまには早く帰らないとママも倒れちゃう」

「お腹空いたぁ」

「ご飯出来てるから手を洗って来てよ」

「うん」

キッチンからは肉じゃがの甘い匂いがしている


「松下看護師長」

「何よ…急に」

鍋をかき混ぜていたママの手が止まった

「良い看護師って何ですか?」

ママが真っ直ぐ私を見た


「良き看護師たる前に『善きひと』である事よ」


「ありがとうございます。精進します」


「私もまだまだその途中です」


松下看護師長がニッと笑った

No.340

「松下さんに預けるのが適切なのか解りません。恥ずかしながら…この事は施設内でも触れてはいけない事になってます。でも…そこに【尚人】って書いてるでしょう?これはどうしても息子さんに持っていて欲しいんです。私にはどうする事も出来なくて」

組織の中のいち従業員
それだけでは動けないくらい…【美桜さんの部屋】は閉鎖されていたんだろうと思う…


「松下さんは息子さんとお知り合いだし……看護師だから」

【解ってくれる?】

彼女の目がそう言った


「お預かりします。必ず…尚人さんにお渡しします」


「ありがとう」


安堵の表情を見せる彼女の背中越しにキラキラした白い波が見える


それは天使の羽のように見えた

No.339

「これは?」

私の問いかけに彼女は無言で封筒を開けた

「葉書ですか…?」

宛名のないその葉書を裏返してみると
ちぎり絵で真っ赤なトマトが描かれていた

「うちのOTが保管してたのが昨日見つかって。美桜さんの作品です」

でこぼこのトマトの下に筆ペンで何かが書かれている

やっと…やっと書いた文字


【尚人 大きくなぁれ】


「…息子さん美桜さんが亡くなる時出張中で間に合わなかったんですよ」

「…じゃぁ、美桜さんは独りで…」

「あっ…いえ…ちょっと事情があってお別れに立ち会った方がいたんですけど…」

歯切れの悪い言い方

「塔子さんですね」

「ご存知ですか」

「はい、話して頂いて大丈夫ですよ」

「…私はご親戚としか聞いてなくて詳しい事情は知らないんですが…塔子さん…息子さんが到着する前に美桜さんの荷物を全部持ち出されてしまって…息子さんにお渡し出来たのは最期に来ていたパジャマだけでした」

葉書を見つめながら俯き加減に話していた彼女が顔を上げた

No.338

「美桜さん…お知り合いですか?」

「美桜さんとお会いしたのは一度だけなんですけど…息子さんと知り合いで」

「そうですか…じゃぁ、まだ聞かれてないんですね」

「えっ…?」

「先月亡くなりました。肺炎を繰り返してて…」

「そう…ですか」

「あっ…ちょっと待っててくださいね、息子さんとお会いする事があればお願いしたい事が…」


そう言いながら看護師さんは2階に走って行った


亡くなった…


広瀬さんの一番大切なものが無くなった


広瀬さん
今…どうしてますか?


「すみません、これなんですけど…」


息を切らせ戻って来た彼女の手には封筒が握られていた

No.337

施設の看護師から申し送りを受けひと部屋ごとに診察していく

ADLは自立でも明らかな認知症がある方
寝たきりでコミュニケーションがとれない方
麻痺があっても車椅子を自分で漕ぎ部屋の外まで見送ってくれる方

『家に帰れるように先生から言ってください』

と…泣きながら訴える方


ここには色々な人生が集められてる


ゆっくりと時間をかけ9人の往診が終わった


「松下君、ちょっと事務長さんと話があるから待ってて」

「はい、私はここで看護師さんと一緒にお薬の確認をしてます」

「うん」

先生が事務室に入って行った

「とても丁寧で優しそうな先生ですね」

「はい!あっでも…怒るとすっごく恐いんですよ」

「うふふ…入所者の表情を見てると先生の人柄が解りますよ」

「そうなんですか?」

「殆どの方に認知症があって、先週も来て下さった先生の事をしっかりと憶えてる方はいないけど…表情を見れば『受け入れてる』のが解ります。こう言ったらなんだけど…以前来ていた先生の往診の時は不穏になる方が多くって」

苦笑いしながら看護師さんがそう言った

「あの…入所者の方に広瀬 美桜さんって方がいますよね?…お元気ですか?」

穏やかで明るい彼女の雰囲気に思わず聞いてしまった

No.336

水曜日…香月海苑に往診に行く事は伝えなかった

連絡をしたところで美桜さんを担当する訳ではない

広瀬さんからすれば

『そう』

くらいの…事だ



「松下君、何か考えごと?」

三年振りにのぼる高台
ゆっくり走る車から海を見ていた

「いえ、何も」

「君には珍しくぼ~っとしてるから」

先生が笑う

「珍しいですか?」

「うん、いつもチャキチャキ動いてよく喋ってよく笑ってるから静かだと…変だね」

「あはは、落ち着きなくてすみません」

「いやいや、それは君の良いところだと僕は思ってるから…ほら、着いたよ」


駐車場に車を停め先生と一緒に正面玄関を入る

あの白い四駆は停まっていなかった


施設内を案内されながら
少しだけほっとしている自分に気が付いた



会えなかった…
会わなかった三年は長い


【仕事】と言う偶然の理由をつけても

…彼に会うのは怖かった



好き過ぎて

No.335

広瀬さんと会わなくなってからもう…三年になろうとしてる

『放っておいて』

放っておき過ぎた…かな


この三年の間に
一度だけメールをした
…それがこれ

【お陰様で無事に国家試験合格しました】


保護していた彼からの返信メールを開く


【おめでとう。今年度は合格者が多かったらしいな。運を味方につけるのも悪くはない。今からあいが思う看護師になれ】


……相変わらずの広瀬節


正直に言うと…在学中に合コンで出会ったひとに押されて少しだけ付き合った


でも
何かを我慢してまで
好きになれなかった

No.334

【香月海苑】に行くのは来週の水曜日…

初診の今日は先輩がつく


表紙をめくり入所者の名前を確認する


往診は比較的経過が良く状態が落ち着いている方を受け持つ

専門性の高い医療や短いスパンで治療をする必要がある場合は他の医療機関を受診してもらっている


渡されたカルテの中には
【広瀬 美桜】の名前はなかった

No.333

【あい】には変わらず行っている

kanonでバイトしながら専門学校の製菓コースに通い出した麻子

『ヒナタが1歳の誕生日に結婚式するわ~』
と、言いながら…
その年の秋には二人目のハルタを産んだ希呼

職場の同僚

看護学校の同期


色々なひと達と色々な話をしながら【あい】で過ごす…

でも…広瀬さんにここで会う事はなかった


『来てるよ』

聞けばそう短く笑って答える諭さん


私も諭さんも広瀬さんについてそれ以上話す事はしなかった

No.332

「松下さん、明日から先生の往診に付いて欲しいんだけど…」

「はい!分かりました」

「じゃぁ、これ…往診先のカルテ。必要な事は書いてあるから解らない事があったら聞いてね」

「ありがとうございます」


看護学校を卒業
勿論、無事に国家試験にも合格

卒業後の就職先に県外の総合病院を勧められたけど、私は地元の小さな診療所に就職した


決め手は…ナース服がカワイイから!


なぁんて言うのは冗談で


【個人に自ら歩み寄る医療・看護】

を基本理念にあげているところに惹かれた


「あっ、そうだ!今日からもうひとつ往診に行く施設が増えてるから、良く目を通しておいてね」


先輩看護師に渡されたカーデックスの表紙を見てひとり息を飲んだ


【香月海苑】

No.331

『前から声が掛かってた調剤薬局に行ったぞ。通勤の便が悪いからって引越したけど…あいちゃん…聞いてなかった?』

『はい。知りませんでした』


私の返事を聞いて諭さんが深い溜め息をついた


『…場所教えようか?』

見かねた諭さんがそう言ってくれたけど


『ひとの恋路にとやかく言うのは趣味じゃない…んでしょ?』

私は笑顔でそれを断った


知ったところで
彼が出してる答えに今の私はまだ向き合えない


先ずは彼が言っていた…生き抜く力をつけなきゃ


私が【私】でいる自信がついた時には、もしかしたら…もうずっと手の届かないところにいるのかも知れないけど…


その時は…



その時、私の答えが出せるひとになっておく

No.330

私がその異変に気が付いたのは…基礎実習やテストが終わりほっと一息つけた3月だった


広瀬さんの車が停まっている筈の場所に見慣れない車が停まるようになった


薬局であの真っ白な四駆を見掛けなくなった…



『尚人さん、引越したんだってね~』



希呼からの何気ない電話で私はそれを知った

No.329

塔子はあれから何も言ってこない…

それはそうだろう

あれっきり…広瀬さんと私が絡んでないんだから


学校が始まり
私はまた忙しい毎日を送り始めた


会わなくても
広瀬さんへの気持ちは何も変わらない


ひとつ…私の中で変化があったとすれば


「あいちゃん…何か最近すっごく集中してない?」

「うん」

「とうとう勉学に目覚めた!?」

「うん」

「…だから最近天気が悪いんだね」

「え~っ!?酷いっ」



今ある状況の中で身につけられる事は、とにかく身につけてみようと思うようになった


ひととして女性として…そうする事に損はない気がする


悔しいけど…これは塔子を見て学んだ事

No.328

『希呼~、明けましておめでとう!入籍おめでとう!』

『ありがと~!』


1月1日
希呼と祐輔さんが入籍

祐輔さんは【中野 祐輔】になった


『体調はどう?』

『う~ん、ちょっと悪阻はあるけど元気!祐輔もあれこれ気を遣ってくれるしね』

『仲良くやってるんだね!良かった!』

『あいは?元気なの?…尚人さんとはどうなってる?』

『うん、別にこれと言って変わりないよ!それよりさ~車を買ったんだぁ』

『そうなの!?』


こんな当たり障りない会話をしながら新年を迎えた

親友でありながら姉妹のように育ち
お互いの喜びも悲しみも半分に分け合ってきた私達


大人になっていく過程で…自分よりも大切なひとが出来た時、希呼は私ではなくそのひとと向き合った

私も今それを選んでいる


少し寂しい気もするけど
選ぶと言うのは単純に【順番】や【格】事を決める事ではない…そんな風に思うようになった


出会いや起こる出来事でそれぞれの人生の【ピース】は増えていく

例えその幾つかを棄てたくなっても
誰かの綺麗な【ピース】が欲しくなっても…

同じものはふたつとない

選ぶって…そう言う事のように思う


…そんなに頭が良くないので上手く言えないんですけど…あはは…

No.327

ママの知り合いに頼んで探してもらった真っ赤な小型車

まぁるい形が…トマトみたいでカワイイ


色々な意味で
『危ないから』と…兄貴が車屋さんまでついて来た


バッグの底に忍ばせていた封筒から現金を出す時には…さすがに手が震えた


これだけのお金を貰うにはどれだけ働かなくちゃいけないんだろ…


必要な書類にサインと捺印をし
パパの『愛情』はこの真っ赤な車に姿を変えた


妙に…スッキリした気持ちでハンドルを握る


「…やっぱりさぁ…俺が運転して帰ろうか?」

「なに言ってんの!こう見えても仮免、本免一発合格だったんだからね!」


さぁこれで
誰かさんが困っている時には直ぐに飛んで行ける!


鼻歌を歌いながら左にウィンカーを出した


「あい!家は右!」


ありゃっ

No.326

【松下家の晩御飯】
ガーリックトースト
ビーフシチュー
鶏ササミと温野菜のサラダ
kanonのイチゴタルト

ガチャン…

「…えっ?」

冬休みだからと…今年もクリスマスにやって来た兄貴

「そんなスプーンを落としてまでビックリする話?」

「あっ…いや…」

「兄貴からそう伝えておいてよ」

「う…うん」


私は冷蔵庫に閉じ込めていた『形を変えた愛』とやらで中古の車を買う事にした


「…もう少し先になるけど看護師免許が取れたら…パパにお礼を言いに行くよ」

ママも兄貴も
私のそんな言葉に目を丸くした

No.325

『俺の事は暫く放っておいて』


ご要望通り放っておく

【北風と太陽】だっけ…?

無理強いしちゃダメだよ…みたいな…話だったよね?たしか…


塔子は…勿論、私も…

広瀬さんの箱の中身を広げて観てしまった


丸裸にしてしまった

彼がそれをひとつひとつ整理して
大切なものを選び直すのを持つ


彼が【彼】でいられるようになったその時に
私は何にも惑わされない【私】でいたいと思う

No.324

ひとり自転車を走らせ諭さんから聴いた話をひとつひとつ思い出す


広瀬さんは…
梨乃さんの気持ちに気が付いていたと…私は思う


一回目…二回目に折られた枝と

梨乃さんの為に折られた枝の意味は違う


好き…だったのかな


塔子も強烈だけど…
梨乃さんも手強そうですね


梨乃さん
これからの私を見ててください

No.323

「はい、お待たせしました」

「長々と…お邪魔しました」

ゆかさんから袋を受け取り代金を渡す


「諭さん!最後にもうひとつ…良いですか?」

「んっ?」


「私と…私と梨乃さんて…似てますか?」

「似てないよ」


諭さんがニッと笑った


「あいちゃんはあいちゃん。そのままで良いよ」


「はい…!」



『またいつでもおいで』


諭さんとゆかさんからそんな言葉をもらい【あい】を後にした

No.322

「でもあの看護師さんがあいちゃんのお母さんだったとはね…あっ、ごめん!ちょっと焦げた」

諭さんが慌てて手羽先をお皿に移した

ゆかさんが引き出しからパックを取り出し丁寧に手羽先を詰める


「あいちゃんのお母さんは…立派な看護師だな」

「そうですか…?」

「あぁ、いたいけな高校生が束になって泣き落とし作戦に出ても…頑として自分の職務を全うした。梨乃の命を繋ぐ為に流されなかった」

「…母も…ホントは自分がしている事が正しい事なのか悩んだそうです」

「でも貫いた。梨乃の命を諦めてなかったって事だろ?プロなんだよ。あいちゃんも頑張れよ」

「はい、ありがとうございます…諭さんのお知り合いにも看護師さんがいるんですよね?…広瀬さんが言ってました」

「いるよ」

「…頑張ってると良いですね、そのひとも」

「あぁ~あいつは心配ないない!負けず嫌いだから」

カラカラと諭さんが笑う

No.321

「あの日はさ…俺と尚人一緒にいたんだ。俺の自転車パンクしててさ…尚人の自転車に二人乗りしながら俺の家に向かってた」


二人が嘉乃さんに会ったのはその銀杏並木にさしかかった時だった


「『梨乃が危篤なの…諭君急いで来て』って嘉乃さんに飛びつかれた。勿論、俺も行かなきゃとは思ったけど、梨乃が一番に逢いたがってるのは尚人だと思った…」


嘉乃さんに話を聞いた広瀬さんは…そんな事を思っていた諭さんを突然自転車から振り落とし、あの桜の木に向かって自転車を走らせた


「あっと言う間に戻って来て『諭、急げ』だって。自転車と桜の枝を俺に渡してさ…嘉乃さんも尚人も…梨乃が好きなのは俺だって思ってたんだろうな…ホント馬鹿」


『絶対に言わないで』


広瀬さんへの想いを堅く口止めされていた諭さんは…嘉乃さんを自転車の後ろに乗せ病院に向かった

No.320

梨乃さんは季節毎に何枚もの桜の木を描いた


展覧会で入賞した絵は
まだ蕾しかついていない桜の絵だった


「『何で蕾しかついてない方の絵を出すんだよ?咲いてる方のが見栄えが良いぞ』って俺は言った。そしたらさ…」



『今からこの蕾がひとつひとつ…咲いていくのを楽しみにしてるんだよって…広瀬君にメッセージ』



「あんなに惚れられるって…そうないと思った。ホント…あれには俺もやられたね」


それから直ぐ…梨乃さんは病に伏せた

No.319

「高2になったばっかりの夜、梨乃から泣きながら電話があった『私…あの桜の木を描くから。一生懸命描いて残すから』って。俺は何で梨乃が泣いてるのか…最初は意味が解らなかった」


次の日諭さんは…
また満開の桜の木の枝が折られている事を知った


「…誰がそんな酷い事を」

「あぁ、尚人」

「えっ!?」

「尚人がやった。その年もその前の年も。ホント…クソガキ」


梨乃さんは前の年…
偶然…広瀬さんが枝を折るところを見ていた


「『今年は絶対に折らせないつもりだったのに』って梨乃が言った。桜に花がつき出した頃から夜な夜な張り込みしてたそうだ」


パチパチと音をたてながら香ばしい匂いがする


「それから梨乃はあの桜の木を描き出した」



心臓のあたりがチクチクする…
喉に何か塊がつかえる

泣かずに…聴かなきゃ

No.318

「その頃からかな…尚人が必要以上にひとを寄せ付けなくなったのは」

「真実を知った梨乃さんは…どうしたんですか?」

「尚人に謝ったよ」

「広瀬さんは…?」

「何も言わなかった。仕方ないよな…まだ中坊のガキだったから」


高校に進学したその春…


桜の木の枝が大きく折られると言う出来事があった

『誰かの悪ふざけ』
『誰かの…嫌がらせ』


梨乃さんはそんな中ひとり責任を感じていた


「俺は梨乃から色々相談受けててさ…仲が良かったから付き合ってるんじゃないかって噂もたてられてたけど…あいつが好きだったのは後にも先にも尚人だけ」

諭さんがそれとなく修復を図ろうとするも…広瀬さんと梨乃さんは言葉を交わす事なく次の春を迎える

No.317

「その桜の木は誰が言い出したのか『悲恋桜』って呼ばれてたよ。中3だったかな…梨乃は…その桜の木にまつわる話を古い職人さんから聞いたらしい。それが尚人のお袋さんだとは知らずにね」


諭さんは小さな丸いパイプ椅子に腰掛けタバコに火をつけた



その頃の尚人さんは既に自分の置かれた立場を理解していたと言う

職人さんによって脚色された『悲恋桜』…梨乃さんは学校でその桜の木の話を広めてしまった

勿論、悪気があった訳ではない
彼女には…その桜が『永遠の愛』の誓いに思えてならなかった


年頃の中学生…噂が噂を呼び…興味本意で桜の木の真相を調べ始めた一部の生徒によって

【真実】が明らかにされる事になった


その話は梨乃さんが想いを寄せていた尚人さんの耳にも入る

No.316

諭さんは綺麗な指を器用に動かしながら手羽にチーズを詰めていく


「梨乃に桜の枝を持って行ったのは俺」

「へっ?」

「今から話す事は…尚人には秘密な。梨乃との約束だから」

「…はい」

「梨乃はさ…中学の頃から尚人が好きだった。それは唯一俺しか知らない…。梨乃の実家は大きな園芸屋であの銀杏並木を手掛けた店なんだよ。ちょうど今から35年前、俺達が生まれた時の話」

「そうなんですか…」

「今は市に譲渡されてるけどあの銀杏並木は…当初は香月家所有のものだった。あの一帯は香月家の土地だったからな」

「…じゃぁ、あの一本だけある桜の木も?」

「勿論、その時に一緒に植えられた」

「…何か意味が?」

「うん…尚人のお袋さんの為に植えられたそうだ」

No.315

…広瀬さんと別れた後

誰もいない家に帰った

何度もママに
『ちゃんと消して出てね』
と言ってる玄関の電気が…またつけっぱなしだった


玄関から真っ直ぐ続く冷たく暗いリビングを見て…初めてハッとした


あぁ…そうか
ママは私の為にこの電気をつけてるんだ

色んな気持ちで家のドアを開ける私を暗闇が迎え入れる事がないように…



リビングに入りテレビをつけた

何か材料になるものがあったかな

冷蔵庫を開ける

開けたと同時に何かが床に落ちた


マーガリンの蓋が外れ中から5千円札と通帳…印鑑が飛び出す


冷蔵庫に閉じ込めたままで…冷たくなった通帳を拾いパラパラと頁数を捲る


月毎に増える数字の上に涙がポタリポタリと落ちる


受け入れる強さが
受け入れる優しさが…

私も欲しい

No.314

「…あの時の…梨乃の担当看護師ってあいちゃんのお母さんだったんだ……」


広瀬さんから振られてしまった翌日
ママに頼まれて【あい】のチーズ手羽を買いに来た


kanonでの話の流れから梨乃さんの話になった


「嘉乃さんが探し出した男の子の手に…桜の枝が握られてたって話してました」

「あぁ…それは…」

「広瀬さんの事…?」

複雑な表情を見せる諭さん

「諭さん、私ねいっその事…広瀬さんについて全部知りたいって思うんです」

「…知ってどうするの?」

「過去は変えられないけど…そこに何かしら今からを変えられるヒントがあるなら…それに私も向き合おうって思うんです」

ふっ…と諭さんが笑った


「尚人の今までの彼女はさぁ、塔子さんにやられる前にリタイアしてたぞ。『貴方とは先が見えないわぁ』って。もの好きだねぇあいちゃん」

「はい、はまっちゃってるんです」

No.313

それから直ぐ

『ここからなら歩いて帰れるだろ』

と、車からおろされた

マンションとは違う方向に走り去った車がそのままどこに行ったのかも分からない

…また放置された


…ママから聴いたあの桜の木の話…きっとこの木の事だろうな

ねぇ…梨乃さん、貴女が好きだったのは…もしかして広瀬さんですか?

あはは…私が振られるところ見られちゃいましたね

…梨乃さんは…梨乃さんならどうしましたか?


私…間違ってましたか?


冷たい風が大きく張られた枝の間を通り抜ける


『俺の事は暫く放っておいて』

だっ…て

『絡んできたのはあんた達姉弟の方でしょ!勝手に二人でひねくれてろ!』

って言っちゃったのも聴こえてました?

…最悪ですホント

No.312

そんな私の精一杯は

『ぷッ…』

と…吹き出した広瀬さんに完全に【拒否】された……


『私は真剣です!塔子さんの事はこれから一緒に考えていけば良いじゃないですか!』

『一緒に?』

『はい、広瀬さんが辛い時や苦しい時。…寂しい時には私が傍にいて助けます。ずっとずっと一緒にいます』


『…あい』

『…は…はい』



『俺はあの母親がいる限り…誰とも一緒に生きていくつもりはない。あのひとがあぁなった以上…あのひとの荷物は俺が背負う義務がある』



私は…振られたみたいです

No.311

車が図書館の側に停められた

ちょうど…あの桜の木が見える


「何でそんなにあいが怒るんだ?塔子の事だからきっと…それなりの言葉を並べまくったんだろうけど。19歳の女の子には刺激が強すぎたかな」

広瀬さんはまた笑う

「だから…そんなに笑って話さないでください…!私には笑える話には思えません」

「所詮、他人の不幸な身の上話だ。それでお前が熱くなる事はない」

「友達の事なのに!?…塔子さん言ってました。私が…広瀬さんから離れてくれたらせいせいするって…」

「そう」

「そう!?」

「あいつなりに威嚇したつもりなんだろうな…心配するな。何だかんだ言っても…塔子の矛先はいつだって俺に向いてる」

「じゃぁ…じゃぁ、私が広瀬さんを塔子さんから…守ってあげます!」


ただの【友達】
19歳の【普通のお嬢さん】の私には…

これが精一杯だった

No.310

「聞いたんだろ?」

「へっ?何をですか?」

…とぼけてみた……

広瀬さんはそんなのお構いなしに続ける

「塔子が話した事は事実だ。安心しろ、だからと言ってあいの生活には何も支障はない」

支障はないって…

「同じような洗礼を…過去にも二人受けてるしな。あいだけが特別って訳じゃないから」

「…」

「二人って言うのは諭と啓太。何でだろ…祐輔にはなかったなぁ。塔子の眼中にないって事か…?あはは」

広瀬さんがひとりで笑っている

「…どうして…そんなに…笑えるんですか?」

「え~っ?」

明らかに普段とは違う広瀬さんに声が震える


「あんな…勝手に自分の大事な話をされて…どうして笑っていられるんですか!?」


スカートの裾を握り締め勇気を出して聴けたのが…これ


「笑うしかないだろ」


広瀬さんが静かにそう答えた

No.309

ピッタリ10分で広瀬さんの車が入って来た


ベンチに座っている私に手招きする


ガチャ…


「お邪魔しまぁす」

返事のない広瀬さんに小さくなりながら車に乗り込んだ


ピッ…

…誰に電話?塔子?


『俺。今、会えたから…あぁ…うん。また』

会えたから…私の事か


「今のは諭だ」

おっと…何故に諭さん

「諭に会ったろ?あいつがkanonから出てくる塔子を見かけたそうだが」

タイミング…良すぎ


「偶然会ってお茶に誘われて」

嘘ではない


「楽しくお茶した割には浮かない顔だな」


広瀬さんはそう言うと車を出した

No.308

バスターミナルに着いたところで携帯が鳴った

【広瀬さん】

…出ようか出まいか悩んでいる私がいた

プルルルルルッ…プルルルルルッ…プルルルルルッ………


『はぁい、もしも~し』

努めて明るく出る


『今どこにいる?』

『今ですか?バスターミナル…です』

『東口に10分で行く』

プッ……

それだけ言うと広瀬さんに電話を切られた


…きっと塔子だね


重い足取りで東口に向かった


クリスマスのイルミネーションで色とりどりに飾られた東口の広場


この中で…こんなに沈んでるのは私だけだろう

No.307

…どうしたら良い?

…う~ん……
バスを乗り継いで帰るしかないか

車で20分もかかるところに放置された

これが大人のする事!?

と…いない塔子に心の中で突っ込む


彼女は…広瀬さんと自分が出会った話の辺りからすっかり冷静さを欠いていた


感情のままに


いつ会ってもクールで恐いくらい綺麗で自信に満ち溢れた塔子


そんな彼女が指を震わせ大人でいられなくなるくらい…彼女にとって広瀬さんの存在は大きい


あっ…バスが来た


路線が違うのでひとまずバスターミナルまで行くしかなかった

No.306

「諭さん…」

「あら…二人はお知り合い?」


嘉乃さんが交互に私と諭さんの顔を見る

「あ…うん。どうしたの?ひとり?」

「はい。あの…友達がここでバイトをしてるんです!麻子って言うんですけど!」

傍にいた麻子を諭さんに紹介する

「は、はじめまして」

思わず麻子を諭さんの方へと押した

「よ、宜しくお願いします」


戸惑いながらもとりあえず挨拶を交わす二人


「じゃぁ、諭さん、嘉乃さん、麻子、また!」


「ちょっと、あいちゃん!?」


三人に手を振り店を出た

諭さんが何か言いたそうに私を呼んだけど…立ち止まる事が出来なかった


今日は…私は諭さんに会いたかった筈だ

でも…
塔子の話を聴いてしまったら、自分がしようとしていた事の浅はかさを思い知った


『尚人を否定するのね』


私は…どうしたら良い?

No.305

「…あいちゃん?」

いつの間にか買い物から帰って来ていた麻子に声をかけられ我に返る

「あっ…どう?仕事…」

「うん…楽しいよ」

「良かった。じゃぁ、また来るね」

「あいちゃん…今のひとって…何か困った事でもあるんじゃない?」

「大丈夫だよ」


…ホントは全然大丈夫じゃない


「私が言うのも変だけど何かあったら相談してね!」

「あはは、ありがと」


出口に向かって歩き出した時に…ドアのベルが鳴った


カランッ…


「今日は一段と寒いね」

「あら、いらっしゃい」

嘉乃さんが笑顔で迎え入れる


「あいちゃん!?」

No.304

「…どうしてそんな話を…私にするんですか?」

「貴女…尚人の事が好きなんでしょう?」

「だからって…勝手にそんな話…」

「勝手にじゃないわ。さっきも言ったじゃない…尚人と私は二人で一人だって。尚人の事は私の事なの!」

…このひと…どうかしてる


「あの…私帰ります。今日の事は広瀬さんには言いません。私も忘れます」


全身に力を込めて立ち上がる


「忘れます…?尚人を否定するのね」

「えっ…?」

「貴女の今の答えはそう言う事だわ」

塔子も立ち上がった


「私は貴女が尚人と離れてくれたら…せいせいするけど。さよなら」


サッと伝票をテーブルから取り会計を済ませた塔子は真っ直ぐ背筋をのばし店を出て行った

No.303

「尚人はね自分の生い立ちを知ってた。私が初めて…彼に名前を名乗った時『申し訳ございません』って…頭を下げたの」

塔子は僅かに震える手で髪をかきあげる

「私は…それでもやっぱり尚人が好きだった…だからあの母親を更に憎んだ」

「…もう…もういいです。止めてください…」


そう言うのが精一杯で…椅子から立ち上がる事は出来なかった


「それから私は…父に跡取りとして認めて貰えるよう必至に生きてきた。愛してもいない決められた相手の子供も生んだ……今、私は尚人が生きる事の出来なかった人生を生きてるの。尚人と私は二人で一人。そして尚哉は…私達が生きる事が出来なかった人生をこれから歩いていくの!」



私の目の前で
塔子が広瀬さんの
【箱】の中身をぶちまけた

No.302

「母は私が生まれてちょうど一年後に…尚人が生まれた事を知ったそうよ」

彼女の目は何かを思い出すように瞑られたまま…

「母はね…香月家の嫁のプライドを捨てて…尚人の母親に頼んだ『貴女の子供を私に下さい』って。何度も何度も…でもあの女が首を縦に振る事はなかった…妾のくせに」

カッと開かれた塔子の目は真っ赤に充血していた

「私が尚人の存在を知ったのは高校の時。それが自分の【弟】だとは知らずに出会ったわ」


広瀬さんと塔子は同じ電車に乗ってそれぞれ違う高校に通っていた

塔子は一目彼を見て好きになったそうだ

友達から調べてもらった【尚人】と言う名前にも…彼女は運命を感じた

そんな時
…【尚樹さんと美桜さん】が乗った車が事故に遭う


「偶然…父の…病室から出てくる尚人を見かけた。それで全てが解ったの『彼が…母を苦しめた私の弟なんだ』ってね」

No.301

「…それじゃぁ尚樹って…」

「父の名前よ。香月家は代々跡取りになる男子に『尚』の字をつけるの」

スッと背筋をのばし真っ直ぐ私を見据える鋭い目

「だから私の息子は尚哉」

「…そうですか」

「貴女みたいな普通のお嬢さんには解らない世界だと思うわ」

「はい…解りません」

「私の母は…私を生んだ後、子宮の収縮が悪くて出血が続いてね…泣く泣く子宮を摘出したの。跡取りの男子を生めなくなった母は…その後鬱になったわ…尚人の母親は若い頃から父の恋人だった。でもね家柄の違いで結婚する事が出来なかったの」

まるで…ドラマのような別世界の話が淡々と語られる

「母はそんな尚人の母親の存在を知っていた。自分よりも…父の愛情を受けてる女の事を…」


塔子が静かに目を閉じた

No.300

「そんなに怖い顔をしないで…あいさん」

初めて名前で呼ばれたと思う
どうして私の名前を知ってるのかなんて…今更どうでも良かった


「あらっ…ここもカノンがかかってるのね。私この曲好きよ。繰り返し繰り返し…微妙にズレながら…ただただ同じような旋律が流れる」

「…お話しって何ですか?」


塔子はアールグレイの入ったカップにそっと口をつけた

「広瀬さんの事なら…私は自分で……」

「私、姉なの」

「……えっ?」

「尚人は私の弟。って言っても…うちの父親の時代で言う……妾の子」

「…」

「あらっ、やっぱり聞いてなかったのね」

涼しい表情をしている塔子の目の前で…私は今どんな顔をしてるんだろ

No.299

偶然なのか解らないけどマンションを出たところで彼女に会った


あの日と同じように有無を言わせない雰囲気を漂わせ、車に乗るように促された


「…kanonに行きましょうか?」

このひと…私達があの店に行ったのを知ってる…!?

それからは塔子は何も話さず車を走らせた


カランッ…


「いらっしゃいませ…あらっ?」

嘉乃さんが私に気が付いた

「この前は…ありがとうございました」

「いいえ。麻子ちゃん今は買い物に出て貰ってるの」

「そうですか」

「お連れ様…ですね。どうぞこちらに」

嘉乃さんと塔子は顔見知りではないみたいだった


…あの日…電話で広瀬さんは彼女に冷たくした
『来客中だから』
…その言葉を聴いて塔子はマンションに来てみたんだ


だからこの店を知ってる

No.298

広瀬さんからメールがあった3日後

私は【あい】に行こうとしていた

諭さんに話を聞いてもらう為だ

諭さんはきっと彼の【箱】の中身を知ってる

私はいきなり彼に、その中身を突き付けられるのが…恐かったんだと思う…

諭さんに話をして…諭さんの話を聴いてそれなりに心の準備をしたかった


なのに…


「この前の話の続き…聴きたいでしょう?」


今…私の目の前には
塔子がいる

No.297

それから麻子に連絡をしてクリスマス用にイチゴタルトをホールで注文した


ママと一緒に食べるつもりだけど…広瀬さんが『食べたい』って言えば…あげても良い


わざわざ水曜日を指定してきたのは…何か意味がある


クリスマスに会えるんだから浮かれてウキウキしたって良いのに…何故か心がざわつく


自分から踏み込んだとは言え…私は彼の【箱】を無理矢理こじ開けようとしてるんじゃないのかと…思った

No.296

クリスマスが近づく

友達なんだから…広瀬さんと何かしら約束を取り付けるのも変かぁ…

借りにお願いしたとしてもクリスマスは水曜日

会ってもらえる訳がない


ピロピロピロッ…

メールが入る


【来週の水曜日時間ある?】

広瀬さんから…

【はい!】

【じゃぁ、14時にマンションの駐車場で】

【了解しました!…クリスマスだから誘ってくれてるんですかぁ?】

【俺がそんな事をするやつに見えるか?】

【見えません…あくまで私の希望です】

【即答だな。理由はどうであれクリスマスには違いないから。また水曜日に】


…嫌な……
予感がした

No.295

「病室に入って来た彼の手には…まだ蕾のままの桜の枝が握られてた。後から聞いたんだけど…梨乃ちゃん美術部でね、その桜の木の絵を描いて展覧会で入賞した事があったんだって。『またあの桜の木を描きたい』っていつも言ってたらしいわ」


ママが自分の仕事の話をしながら泣くのを…初めて見た


「あい。私達の仕事って…たくさんのひと達の気持ちを観る事が出来る。特別な仕事だって…ママは思う。だからあなたも頑張りなさい」

「はい」

「さぁ~イチゴタルト食べようかなっ!」

「朝から!?」

「美味しいものに時間は関係ないでしょ?」


ママが元気良く笑った

No.294

「その時ママが梨乃ちゃんの担当看護師だったの…代わるがわるお見舞いに来て食い下がる子達に『主治医の判断ですから』って説明するのが辛くてね…」

「うん…」

「看護師って…何なんだろうってママも悩んだ」


ママが…家で仕事の話をするのは珍しい

【守秘義務】を忠実に守っているひとだから

「ご両親と嘉乃ちゃんの意向で…梨乃ちゃんが息を引き取る時には同級生をたくさん病室に呼んだ。ママが梨乃ちゃんのお母さんから預かってた学校の連絡網で電話をかけまくった。今…出来る事をしなくちゃって」

「そうだったんだ」

「その時に…梨乃ちゃんの好きな男の子にどうしても連絡が取れないって嘉乃さんが泣きながら病院を飛び出して行ったの。探しに行ったのね」

「で…見つかったの?」

「うん…でもね少しの差だった。間に合わなかった。彼も嘉乃さんも」

No.293

朝起きると…二日酔いらしきママがいた

「おはよぅ…」

「おはよう。かなり飲んだんでしょ?」

「あはは…たまには良いじゃないの」

まだお酒が抜けてないのか…肩肘をついてニヤニヤしながら答えるママ

「あい、もしかして昨日kanonに行った?」

「そうそう!イチゴタルト買って来たよ。冷蔵庫見た?」

「うん。嘉乃さんって女のひといなかった?」

「いたよ。ママ…知り合いなの?」

「うん。元気だった?」

「う…ん」

「嘉乃さんの妹さん…ママの病院の患者さんでね。もう亡くなって随分経つんだけど…生きてたら30…35になるのかな」

「…そうなんだ」

「亡くなったのは…高校卒業目前だったの。同級生の子達が『卒業式だけは出席させてあげてください』って主治医に頼み込んだんだけどね…」

「うん…」

「梨乃ちゃん…その時易感染状態で許可がおりなかった」

No.292

『疲れた』


麻子を家まで送りそのまま広瀬さんも家に帰って行った


ベッドに転がった私も何だか疲れがどっと出る


麻子…バイトは上手く見つかったけどこれからどうするのかなぁ……彼の事…もう忘れてちゃうのかな

嘉乃さんって同級生のお姉さんなんだ

あぁ…そうだ!
麻子から電話がかかって来た時…広瀬さんと話の途中だったんだよね

逃げられた


って言うか…塔子

私に何が言いたかったんだろ


『尚樹さん』

と…広瀬さんに微笑む美桜さんの顔を思い出しながら…私はいつの間にか眠りについていた

No.291

「ねぇ?…もし良かったらうちで働いてみない?」

嘉乃さんだった

「あぁ、それが良い」

広瀬さんが賛同する

「ちょうどバイトさんが辞めた後で募集を出すところだったの」

嘉乃さんはブラインドを下ろしながら麻子に笑いかけた

「ホントに良いんですか?」

麻子が遠慮がちに聞く

「ごめんなさいね…ちょっと二人の話が聞こえちゃって…私にも妹がいたの。あぁ、尚人君と同級生なんだけど」

『妹がいたの』…?

「明日から…来れるかな?」

「あっ、はい!宜しくお願いします!」

麻子が椅子から立ち上がり頭を下げた

「お互いにタイミングが良かったわね」


そう言って嘉乃さんは麻子に静かに微笑んだ

No.290

「で…俺にどうしろって?」

「はい!広瀬さんのお店で暫く麻子をバイトさせてください!」


今日、初めて聞いた
麻子にはお母さんも居なかった
お父さんが亡くなってからは、お姉さんと二人で暮らしていた


「…ねぇ…あいちゃん。広瀬さんって薬理学の講師の広瀬さんだよね?」

あぁっ!!!

バイトを探さなきゃって言う麻子を見ていたら、勢いで広瀬さんを引っ張って来てしまった


「えっとね…最近まではそうだったけど今は友達なの!」

「と…友達?」

目を丸くする麻子

呆れた顔の広瀬さん

「残念だがうちは今は人手が足りてる」

「そこを広瀬店長のお力で何とか!」

「無茶苦茶な事を言うな。俺はただの雇われだ」

「あはは…あいちゃん無理言ったらダメだよ。ちゃんと自分で探すから」

「でも…」


私はとにかく麻子が心配だった
私に出来る事をしたかった

って言っても…
こうやって広瀬さんに頼ってるんだけど

No.289

「あいちゃん…気持ち悪いって思われるかも知れないけど…」

「うん…何?」

「その言葉を聴いた時ね…彼とお父さんがダブった」

「…」

「どこか…似てるんだ」


早くにお父さんを亡くした麻子
その事に気付いた時彼女はどれだけ…苦しんだだろうと思う

私も『パパ』がいないから彼女のその時の気持ちはなんとなく解る

決してあり得ない
【代わり】を無意識に探してしまう哀しさや苛立ちや無意味さを…私も解る


「だからね、とりあえず言われた通りに帰って来てみた」

「麻子…私も麻子と同じ立場ならきっとそうすると思う」

「あいちゃんなら解ってくれる気がしてたのかな…私」

麻子が小さく笑った

好きになったひとが…二度と触れる事が出来ないひとの代わりだったと認めるのは…一緒に居たらそう簡単には出来ないよね麻子


苦しい…よね

No.288

「でもね…彼にとってはそれが最後の意味だったの」

「えっ…?」

「その時にはもう…大阪に戻る事が決まってたみたいで…」

「麻子知らなかったんだ」

「うん。戻る2日前に言われた…あはは…ズルいよね」

「うん、ズルい」

思わず同調してしまう

私がもし…広瀬さんにそんな事をされたら……


「でね、あいちゃんに電話かけた日に勢いで追いかけて行っちゃった」

うん!私もそうするよ麻子!


それから彼は…
追いかけて来た麻子を何も言わずに家に招き入れた

だからと言って
また『関係』を持つ訳でもなく…麻子は毎日見知らぬ土地で彼が仕事から帰って来るのを…ひとり彼の部屋で待ち続けた


「夜…彼が仕事から帰って来た時ね、私は彼のワイシャツにアイロンをかけてたの…家中のワイシャツに。それを見た彼が一言だけ言った『帰りなさい。君が今しなきゃいけないのはこんな事じゃない』って」


また麻子の目から大粒の涙がポロポロこぼれる

No.287

42歳 会社員 バツイチ

これが麻子の彼のプロフィール


出向で大阪から来ていた彼は…麻子が高校の時からバイトしていたコンビニの常連客だった


出会い系でも援交でもない…二人の年齢差を除けばどこにでもある『出会い』


「私が先に好きになったんだ。偶然…他のバイトさんが入れ忘れしちゃって。『また行った時にでも受け取ります』って店に電話がかかってきたの。それがきっかけで彼の名前と連絡先が分かったんだ」

そう彼の事を話す麻子は…とても可愛かった

「やっとの思いで気持ち伝えて…高校卒業したら会ってくれるようになった…向こうは私と自分の歳の差を気にしてなかなか恋人同士の様には接してくれなかったけど…夏にね、一度だけ…ホテルに誘ってくれたんだ」

…あの噂の発端になった…あの日だね麻子

「すっごく嬉しかった。これでやっと本当に気持ちが伝わったんだって」


うっすらと赤く染まった麻子の頬がその時の喜びをそのまま表している

No.286

「麻子、元気だった?」

私は彼女の前に座りながら明るく声をかける

そこには髪が伸び…少し大人びた表情をした麻子がいた


「うん…あいちゃんも元気そうで良かった」

それからオーダーを取りに来た【嘉乃さん】に麻子と同じミントティを頼んだ


「あいちゃん…ごめんね」

この【ごめんね】には色々な意味が込められていると…強く組まれた彼女の指から察する事が出来る

「今、どうしてるの?」

「うん…あれから暫く大阪に行ってたんだけど…」

「…大阪に行ったのはどうして?何か…仕事でもしてるの?」

麻子がカップに口を付けた
一口ミントティを飲んだカップにはうっすらと口紅がついている

「麻子?」

彼女の目を見た

目にはにたくさんの涙


「あはは…好きなひとがいて学校を辞めてまで追いかけて行ったのに…帰されちゃった」

そう言って笑ってみせた拍子に彼女の目からみるみる涙が溢れ出した



遠くでまた…あのカノンが聴こえる

No.285

【kanon】

駐車場に車を停める

「広瀬さんは…どうしますか?」

「同席する訳にはいかないだろ?俺もここに来るの久し振りだから中で待ってるよ」

この店…来た事があるのか


カランッ…

ドアを開けると小さなベルが鳴った

「いらっしゃいませ」

「えっと…待ち合わせです」


オレンジ色の照明が店内の緑を優しく照らす

窓際の席に一人で座っている麻子を見つけた


「いたか?」

「はい」

「俺は向こうの席にいるから」

そう言って離れた席に歩き出した広瀬さんに奥から出て来た女性が話し掛けた


「尚人君?」

「久し振り、嘉乃さん」


尚人君って…また…謎の女性!

親しげな二人の事を気にしながら私は麻子に近づいた

No.284

「今日はなんだか騒々しい日だな…」


広瀬さんが真っ直ぐ前を見ながら呟いた

「すみません…付き合わせてしまって」

言った後に
『これはお互い様』
だろう…と思った



『今ね、こっちに帰って来てるんだ』

『そうなの!?で、今どこから電話してるの!?』

『橘町のkanonってお店』

『分かった。今から行く!』

『へっ?今から…?』


麻子が電話の向こうでそう言った後…広瀬さんも

『今からか!?』

って顔をした


橘町はここから車で20分はかかる


「俺に運転手をさせるなんて良い度胸だ」

「別に頼んでないです」

「『場所が良く分からないんですけど…』って言われたら連れて行くしかないだろ」

「まぁまぁ」

「貸しだからな」

「え~っ友達なのに!こんな事で!?」

「…また飯作ってくれたらそれで良いよ」


まぁ!!

No.283

ブーッ…ブーッ…ブーッ…

今度は私のポケットの中で携帯のバイブが鳴る

「出たら?」


彼は椅子から立ち上がりキッチンに入る


もうっ!


携帯を取り出し相手を確認せずに出た


『もしもし?』

『…もしもし?あいちゃん?』


誰…だっけ…この声

小さな声の後ろで静かな音楽がかかっている

『う…ん、もしもし?』

『久し振り。分かる?』


あぁそうだ!!


『麻子!?』

『うん』


コーヒーを淹れたカップをテーブルに置き広瀬さんが私の隣に座った

No.282

「すみません!すっかり長居しちゃって!」

自分でも驚くくらい明るい大きな声が出た


「今日は…悪かったな」

クルッと椅子の向きを変えた彼が小さく笑う

「あはは…」

彼の顔を見たら私もそう笑うしかなかった


「…二度と…お前に絡まないようにあいつに言っておくから」

「広瀬さん」

「んっ?」

「それは…私が迷惑してると思うから言ってるんですか?」

「迷惑だろ?見ず知らずの奴に訳の解らない事されて。ごめんな、あいつも大人げな……」

彼の言葉を最後まで聞かずに…言ってしまった


「迷惑なのは私じゃなくて広瀬さんでしょう?」


広瀬さんの眉間に皴が寄る


「私は広瀬さんの事が知りたい。それは…ずっとずっと言ってきてる」

No.281

プルルルルルッ…プルルルルルッ…

テーブルの上に置いてあった広瀬さんの携帯が鳴る

彼はパソコンの側から離れない


「…携帯鳴ってますよ?」

「誰?」

誰?って…

携帯を開けてディスプレイを確認する


…【香月 塔子】


「塔子さんから…です」

「そう」

プルルルルルッ…プルルルルルッ…

鳴り続ける携帯を彼のところに持って行った

「出ないんですか?」

私の顔をチラッと見たあと彼が携帯を受け取り通話ボタンを押した

「はい」

低い声

私はまた元いたソファーに戻った


『悪いけど今…来客中だから。話があるなら別の日にしてくれないか』


カチャッ…


静かに携帯が閉じられた音がした

No.280

「…帰らなくて良いのか?」

パソコンから目を離さず彼がそう言ったのは、片付けを終えて1時間後だった

「平気です」

ママは病院の忘年会

…酔っ払って帰って来るんだろうなぁ…

私は本棚から大学の薬理学のテキストを拝借し暫く眺めていた

意味が解らないからホントに眺めるだけ…


「テスト…頑張ったな…みんな」

みんな…か

「先生が『来年も講師をお願い出来ないかしら~』って言ってましたよ」

「あはは…冗談。俺も何だかんだ忙しいから無理」


『広瀬さんが来る水曜日だけはお昼ご飯もちゃんと召し上がります』


施設のスタッフが言っていた

美桜さんは…いつからあんな状態なんだろう

…病気?…それとも何かの後遺症…?


『尚樹さん』を否定せずに自然に演じていた彼を思い出して…胸が苦しくなった

No.279

ご飯を食べながら何でもない普通の会話をした


お互いに話さなきゃいけない事があるのは解っていたけど、私は彼が話し出したら話そうと決めていた

それは…友達として
『入って来て良いよ』
の【サイン】を待つ事


『俺、ちょっと仕事しなきゃ』


ご飯を食べ終わり彼はそう言ってベッドの横にあるパソコンに向かっている

私は食べ終わった後の片付け


パソコンのキーを叩くカタカタと言う音と…
シンクに落ちる水の音だけ響いている


これは……

根比べになるかな

No.278

【広瀬さん家の晩御飯】

豚汁
五目かみなり豆腐
鮪ステーキ
ご飯


スーパーに寄って一緒に買い物をした

彼に何が食べたいか聞いてみた


『…作れるものと食えるものなら何でも』


…可愛くない


「広瀬さん、豚汁にはおろし生姜入れてくださいね!」

「はい」

「足りないものはサプリなんてカッコつけずにちゃんとバランス良くたべましょう!」

「はいはい」


自炊はしないって言ってた割には必要な調理器具や調味料は何故か揃っていた

塔子が…作る事もあるのかな

それとなく探りを入れてみる


「俺、とりあえず形から入るから。揃えてみたら…それで満足した」

ほっ……


「…美味いな…豚汁」

「ホントに!?」

「良い嫁さんに……」

うんうん…その続きは?
期待で胸が高まる

「なれる…か!?」

「はぁ!?」


『美桜さん』…
この天の邪鬼どんな風に育てたんですか……?

No.277

すっかり陽が傾き外はうんと冷えていた


「……手、離してくれる?」

「そんなに嫌がらなくて良いじゃないですか」

「運転出来ないんだけど」


あぁそうか!

慌てて手を離す

彼は笑いながら助手席のドアを開けてくれた


私が握った手は…微妙な加減で握り返された

自分からこの手を離してはいけない気がした


車に乗り込みエンジンをかけた彼が短い溜め息をつく


「…さて、何から話してもらおうか」

「はっ話すのは私の方なんですか!?」

話を聴きたいのはこっちの方だ

あはは
と…彼が小さく笑う

「晩飯食うか」

「それなら私が作ります!」

彼の驚いた顔が
愛しい

No.276

『少し待ってて』
は…1時間だった

その間…いつもの午後に突然起こった出来事を整理してみた


広瀬さんの大切な場所は塔子の叔父さんが経営してる施設

ここには…広瀬さんのお母さん『美桜さん』がいる

広瀬さんが一番大切なのはお母さん
塔子が一番憎いのも…彼のお母さん

それは…塔子が広瀬さんを好きだから?
振り向いてもらえない事をお母さんのせいにしてるの?


お母さんは彼を『尚樹さん』と呼んだ
広瀬さんはそれを受け入れてる


お母さんが病気だから?

『尚樹さん』って…誰?


「何考えてるんだ?小さな脳みそが蒸発するぞ」

ふいに頭に乗せられた大きな手
自分でも良く解らないけど思わず…その手をそっと握った


「帰ろう」

「はい」

No.275

「美桜さんこんにちは、気分が良さそうですね」

お母さんから差し出された手を両手で包み返し広瀬さんは微笑んだ

「広瀬さんがいらっしゃる水曜日だけはお昼ご飯もちゃんと召し上がります。美桜さん、嬉しいんですよね」

若い男性スタッフがお母さんに話しかける

「尚樹さん、お茶菓子があるからお部屋にどうぞ」

「えぇ、頂きます」

広瀬さんとお母さんはそんな会話を交わし車椅子の方向を変える

…私は…正直頭が混乱してる
そのままさっきまで座っていた椅子に座り込んだ


「あい」

彼に名前を呼ばれ振り向いた


「そこで少し待ってて」

「…はい」


ゆっくりと車椅子を押す彼の後ろ姿を見えなくなるまで見送った


誰もいなくなったラウンジ…囁くようにカノンが鳴っている事に気が付いた

No.274

「ちょうど良かったわ」

塔子が独り言のように呟き椅子から立ち上がった

「今日は突然ごめんなさい。また続きを話せたら良いわね」

言葉は私に向けられながら…視線は私の頭の上を通り越している

…愛しい眼差し


「何してる」


冷ややかな声に振り向いた


「広瀬さん………」

「私、店に戻らないといけないから彼女の事送ってね」

塔子が広瀬さんに笑いかける

「…何の真似だ」

彼が彼女の腕を掴んだ


「この前の御返しよ…尚人、お母様がいらしたわよ」

そう言うと彼女は顔色ひとつ変えずに車椅子の横を無言で通り過ぎて行った


「尚樹さん」

車椅子を押されながら近づいて来たお母さんは満面の笑みで…広瀬さんをそう呼んだ

No.273

「お待たせ致しました」

レモネードが運ばれて来た

「どうぞ」

塔子に言われストローに口を付ける

喉がカラカラだった

少し甘いレモネードを半分飲みまた彼女を見る


「尚人の事好きなの?」

「はい」

「そう。私と同じね」

そう言うと彼女が静かに笑った

どこか…知ってる気がする彼女の笑顔に見とれてしまう

「広瀬さんは…塔子さんの気持ちを…知ってるんですか?」

「伝えてるわ」

細く長い指でストローをつまみ太陽の光を受けたレモネードをかき混ぜる

不思議だ…
あんなに強引に連れ出されたのに…このひとの空気に馴染んでいる自分がいる

…どうしてだろう

「でもね、私の気持ちも貴女の気持ちも…尚人には伝わらない」

「どうしてですか?」

彼女の目を見た

「尚人が一番大切なのは…あの母親よ。そして……」

塔子が指でストローを弾いた


「私が一番憎い相手が…尚人の母親」


そうだ…塔子は
広瀬さんと似てるんだ

No.272

塔子はそのまま何も言わず…無表情で広瀬さんのお母さんを見ていた

スタッフが車椅子に近づきお母さんに何かを話しかけている

お母さんがにこやかに微笑んだ

それと同時に車椅子の向きが私達の方へと変えられた


「行きましょう」


塔子は何かに弾かれたようにお母さんに背を向け…また建物の中に入る


「お茶でも飲みましょうか」


玄関の前を通り過ぎロビーを抜けると小さなラウンジがあった


海が見える窓際の席に通される


「何にする?」

「…一緒のもので」

「レモネード2つ」

「かしこまりました」

白いストライプのブラウスにタイトスカートをはいた女性が応えた


「あの…広瀬さんのお母さんとお話ししなくて良かったんですか?」

大きな目を細め海を見つめる彼女に聞いた

「ここは私の叔父が経営してる施設なの」

私の質問には答えず塔子が言った

No.271

足早に塔子の後ろを歩いた

突然彼女が立ち止まる

白いバルコニーから見下ろす視線の先を追う

綺麗に手入れされた芝生の庭

天気が良い今日はそれこそ日向ぼっこにちょうど良い


「…あの……」


声をかけるのを躊躇うくらい…塔子の顔は無表情だった


「あそこ…」

「えっ?」

その方向を指差しながら塔子は続けた


「あそこの木陰の車椅子の女性…見える?」


ここからは横顔しか見えない

白髪混じりの肩までの髪
海風でなびくのが嫌なのか…しきりに手ぐしを通している
痩せた身体に車椅子が大きく見える


「あのひとは…誰ですか?」

自分の声じゃないような震えた声が出た


「尚人の母親」



広瀬さん
貴方の【箱】の鍵を持っているのは……

No.270

高台をのぼり切った拓けたところにその場所はあった


「降りて」


そう短く言うと塔子も車を降りた

私の数歩先をヒールの高い靴を鳴らしながら歩く彼女の後ろ姿は…綺麗だった

自動ドアがゆっくり開き静かで清潔なロビーに入る

ロビーの大きな窓ガラスからは暖かな陽射しが入りキラキラした海が一望出来る


「塔子さんお疲れ様です」

「お疲れ様」

薄いピンクのポロシャツを着たスタッフが出迎えた

「お会い出来るかしら?」

「はい、今日はお加減も宜しいようです。今は…庭をお散歩されています」

「ありがとう」

塔子は建物の中をどんどん歩いて行く


【香月海苑】


広瀬さんの大切な場所は…
【介護施設】だった

No.269

希呼と電話で話してから結局…広瀬さんに塔子の事を聞く勇気が出なかった

彼女の事を知りたい気持ちは希呼との会話で高まったけど

特に彼女について話す事をしてこなかった広瀬さんに…何かしら決定的な事を言われるのが恐かった

その私が勝手に抱えてる不安が何のか解らないけど………



「今から貴女を連れて行きたい場所があるの」


暫く車を走らせた後塔子が口を開いた

「…どこですか?」

車は海岸沿いの国道を抜け学校とは反対側の高台の方へと走っている


「尚人の大切な場所よ」

「大切な…場所?」

「貴女も知りたいでしょう?…彼の事。きっと彼は自分からは話さないと思うから私が教えてあげる」


塔子の大きな目は
遠くを見ていた

No.268

冬休みに入る前日

午前中で講義は終わり友達と
『お昼に何食べる?』
『クリスマスの予定は?』とか…
『可愛いブーツが欲しいね』

なぁんて他愛もない会話をしながら学校を出た時…

校門の側に見慣れない黒い外車が泊まっていた


「ヤバそうな車だね」
一緒に歩いていた由美が囁く

車の前に来たその瞬間に…中に乗っているひとと目が合った

車の窓が静かに開く


「お久し振り」

「…こんにちは」

由美が驚いた顔をしている

「良かったら乗らない?」


穏やかに聞こえるその声は…
『乗りなさい』
と言っている


「由美、ごめん。今日は…パス」

「えっ…あいちゃん?…知り合いなんだよね、大丈夫?」

「うん、心配ないよ」


私は由美にそれだけ答えると促された助手席に乗った


きっと…これから先も避けては通れない

私も貴女が誰なのか知りたかったんです…塔子さん

No.267

『…そうかぁ…やっぱり』

『やっぱりって?』

『うん…昨日さぁ寄り合いでね香月 塔子に会ったんだ…』

『う…うん』

『『最近尚人が貴女のお友達と仲良くして頂いてるみたい』って言うもんだから』

……塔子
暫くその存在すら忘れてた

『別にあのひとには私達の事は関係ないよ』

『まぁそうなんだけど…一度…尚人さんにちゃんと塔子さんの事さ…聞いておいた方が良いんじゃない?』

『そう?』

平静を装う

『うん…彼女いないって言ってても実際は分からない訳でしょう?塔子さん…無表情で言うから正直厄介だなぁって思った』

『…解った。機会があったらそれとなく聞いてみるよ』

『あい…やっぱり尚人さんが好きなの?』

『好きだよ』


私は言い切った

No.266

『でね…最近尚人さんと会ってる?』

『えっとね…1週間くらい前に急にご飯食べに連れてかれた』


そう…急だった


1週間前


『もしもし?』

『急だけど今から出られる?』

『今から?ちょうどご飯食べるところなんですけど』

『解った。じゃあ飯食いに行こう』

『はっ?』


…それから諭さんのお店でご飯を食べた

それだけ

No.265

『あい~元気?』

『うん!希呼は?悪阻とかないの?』

『全然平気!まだお店に出てられるくらいだもん』


希呼と祐輔さんは1月1日に籍を入れる
結婚式は子供が生まれてからするそうだ


『せっかく子供が生まれるんだもん!家族になるお祝いは子供も一緒に!』


そう祐輔さんと決めたらしい…勿論、希呼のお父さんは…怒った

『お前ら二人はものの筋の通し方が解っちゃいない』

って…


『お父さんと…大丈夫?』

『あはは~!大丈夫だよ。祐輔がうちに婿に入る事で決着』

『え~っ!?』

『あいつ男ばっかの3人兄弟の末っ子だからさ~うちの事情を話したらご両親が許してくれて』


…『俺が貰われたんじゃなくて俺が希呼を貰ったんだ』
って…叫んでたよね

『まっ、祐輔はしぶしぶなんだけど。私と子供への愛情が勝利したってとこね』

『はいはい…ご馳走さま』


希呼と祐輔さんのこれからを想像してみる………


かかあ天下

No.264

広瀬さんと出会ってからもう直ぐ1年になる


君からあいちゃん
お前から…あい

希呼の知り合いから広瀬さん
広瀬さんから講師
講師から…友達の広瀬さん


少しずつ少しずつ縮まっていく距離


これから先
私は貴方の何かになれますか?


友達ではなく

他の誰かと一緒じゃない

特別な何かに


どうしてだろう……広瀬さん
私は貴方が好きです

No.263

【松下家の晩御飯】

【あい】のチーズ手羽
カレイと野菜のイタリアンドレッシングがけ
きのこスープ
ご飯


「へぇ~希呼ちゃん結婚するんだ!」

「そうなのよ!お母さんもビックリしちゃった」


久し振りに兄貴が帰って来ました


「お兄ちゃん、彼女がいるんだったらちゃんと紹介しといてね。突然、結婚するなんて言われたら困るから」

「あはは…残念ながら彼女はいません」

「えっ!?兄貴…彼女いないの?大学、女の子ばっかりじゃん」

「そうだけど」

「…お兄ちゃんまさか…女の子に興味がないとか…」

ママがわざとらしく心配そうな顔をする

「何を変な勘繰りしてるんだよ!忙しいだよ!勉強で手一杯!」

「ムキになるところが怪しい~」

「あいの方こそちゃんと勉強ついていけてるのか?」

「はいはい、ぼちぼちやってます」


松下家は色んな話をする方だと思う
『パパ』のように頼りになる大黒柱のママ
『ママ』のように優しく料理が上手い兄貴
『一人っ子』のように二人の愛情を独占する私


『パパ』の愛情…の代わりの通帳は変わらず冷たい冷蔵庫の中

No.262

学校の帰り道【あい】に寄る


「いらっしゃいませ」

諭さんの奥さんが迎えてくれた

「もう少しで出来ると思うからカウンターに座って待っててね」


夕方の店内にはまだお客さんは入っていない

「いらっしゃい!あと…5分くらいな!」

【あい】で唯一お持ち帰りが出来る『チーズ手羽』を頼んでいた

「この前はありがとね、うちの天の邪鬼を追いかけてもらって」

「友達として当然です!」

甘辛い匂いのする調理場に向かって答える

「尚人ってちょっとずれてるだろ?頭も良くて常識人のくせに自分の事が絡むとてんでずれてる」

諭さんが笑う

「そこが友達のやり甲斐があるところです」

諭さんの笑いが大きくなった

「あいちゃんって…面白いな!尚人の相手をやり甲斐って…さすが看護師の卵!看護師むいてるよ」

「むいてますかね…って言うか広瀬さんのあれは病気じゃないですよ!」

「そっか」

笑いながら諭さんは手羽先を丁寧に詰めていく

「諭さん、広瀬さんの家族って近くに住んでるんですか?」

「え~どうして?」

「…広瀬さんから家族の話を聞いた事ないから。ほら、あんな性格…どんな家族の中で育ったんだろうって思うじゃないですか」

手羽先がパックに詰められオレンジ色の紙でくるまれた

「あいちゃんって…確か兄貴がいたよな?お父さんとお母さんもいるんだろ?」

「いえ…父と母は随分前に離婚してます」

「そう。あいちゃんみたいに素直で明るい子も…それなりに事情がある家庭で育ってる。みんなそれぞれ。何かしらあるのはみんな一緒」

手羽先が入った袋が渡された

No.261

【91点】

久し振りに見た点数だった

返された答案用紙を何度も見る


「今年度の薬理学のテストはいつになく平均点が高いです。みなさん良く頑張りましたね」


担任が笑顔で言う

「薬理学で赤点がいないなんて珍しい!広瀬先生が素敵な先生だったからかしら?」

今年40歳独身の担任が顔を赤らめる

見渡せば…点数が良いのは私だけではなかった

100点も4~5人いるようだ


「広瀬先生の講義、解りやすかったよね」

「うん、ラッキーだったね」


前年までの薬理学の講師は『おじいちゃん先生』と呼ばれている

黒板の文字は崩し過ぎて読めない
質問しても耳が遠くて伝わらない
テストは…専門色が強く赤点続出

歴代の先輩方は薬理学のテストで相当苦労したらしい


「また広瀬先生が来てくださらないかしらねぇ」


ニコニコしながら担任が教室を出て行った

No.260

「…嫌いなんだ」


広瀬さんが溜め息混じりに言った


「嫌い…?」

「そう、自分の名前が嫌い。尚人って呼ばれると…吐き気がする事がある」


広瀬さんはそう言いながら自嘲気味に笑った

「変だろ?でもこれが呼ばれたくない理由」

「…どうして嫌いなんですか…?」


「どうしても」


【箱】の中身のひとつに…突然触れた気がした


「祐輔との事は何も心配ない。いつものやり取りだからな」

「ホントに?」

「酒が入って気が大きくなってたようだけど」

「だから…そう言う事じゃなくて」

「俺は何も心配される事はない。あいつは今から出来る家族の事だけしっかりやれば良いんだ」



【箱】の鍵は…
どこですか?

No.259

「えぇっ!?みんな名前で呼んでるじゃないですか!」


私の事を『あい』って呼ぶ事の方を躊躇うかと思ってた


「あいつらは昔からそうだから」

「はぁ?今も昔も同じ名前でしょ?」

「そうだよ」

「それが何で急にダメになるんですか?」

「そう言う事もある」

「私もみんなみたいに名前で呼びたいですっ!」

思わず私もムキになる

「広瀬だって俺だろ?何ら変わりない」

「ありますよ!友達なのによそよそしい!」

「俺はそう感じてない」

「私はそう感じてる…名前の事だけじゃない…祐輔さんだってホントはあんな言い方…したくなかったんですよ。でも…広瀬さんが気持ちをちゃんと受け止めてくれないから」

私がそう言うと広瀬さんは視線を外し黙ってしまった

「広瀬さん。前に麻子の事を相談した時に私に言いましたよね?友達でも踏み込んではいけない部分があるって。広瀬さんの言う事は間違ってないと思います…でもね、相手の事を思って自分から踏み込まないのと…相手の気持ちを無視して踏み込ませないのとは違うと思う」

随分と生意気な事を私は言ってる

「……あのなぁ」

「何ですか!?私は間違ってないと思うから謝らないですよ!」

生意気だって自分で感じていたから…私は尚更強気に出た

『お友達がいるから心配ない』って諭さんが私を見た

だから…引けない

No.258

「あのぉ…広瀬さん。ご褒美の件ですけど…」

「あっ?うん」

「実は決めてるんです」


薬理学の講義が終わり『講師と学生』から晴れて『お友達』になる私達


「…何?そのにやけた顔が…怖いんだけど」

「結果を見る前に言っちゃって良いですか?」

「俺にも心の準備があるからな。でも無理な事は無理って言う」

「あの…名前なんですけど」

「名前?」

「はい、私の事を名前で呼んでもらえませんか?それと…」

「まだあるのか?」

「広瀬さんの事も名前で呼びたいなぁ…と……」


友達になるんだもん

好きなひとには名前で呼んでもらいたい

「了解。今度から名前で呼ぶ。でも…俺の事は今まで通りで」

No.257

何やらカチャカチャと音がする

暫くするとピーッとケトルが鳴り彼がお湯を沸かしていたのが分かった


香ばしい香りと共にキッチンから出て来た彼の手にはマグカップが二つ


「あっ…ミルク忘れた。冷蔵庫から取って来て」

言われるがままキッチンに向かい冷蔵庫を開ける

一人暮らしには似つかわしい大型の冷蔵庫

料理…するのかな

ガチャ…


開けて…絶句した


彼の冷蔵庫には
殆ど『液体』しか入っていない

ミネラルウォーター
ビール
牛乳
炭酸水

冷蔵庫のドアポケットからミルクを取りリビングに戻る

「広瀬さん…普段、何を食べてるんですか?」

「えっ?」

「あんな大きな冷蔵庫なのに飲みものしか入ってない」

「あぁ…殆ど出来合いのもので済ませてる。足りないものはサプリで採ってるから問題ない」

一人暮らしの男のひとってこんなものなのか

いやいや…うちの兄貴は違うぞ

…ん…?うちの兄貴が違うのかな?

「…お前の百面相、いつ見ても面白いな」


テーブルに肩肘をついてる彼と本日二度目の見つめ合い…


照れます

No.256

「で…テストの褒美は何にするか決めた?」

結局…広瀬さんはストロベリーのアイスを二口しか食べなかった


「テストが返って来て結果を見てから……」

「まだ返って来てないんだ」

「えっ!もう採点したんですか!?」

「そんなのとっくに終わってるぞ」


私はこの『ご褒美』の為に今までになく真剣に頑張った
他の教科はさておき…薬理学だけは何としても高得点が欲しかった


「それで!?どうでした私の点数!」

思わず身をのりだし広瀬さんの腕を掴む

銀縁のメガネの奥から無言で私をじっと見つめる彼…


くすぐったいような感覚の…妙な沈黙が流れた


「広瀬さん…」


「秘密」

「はぁ!?秘密?そっちから振っておきながらそれはないでしょう!私、ホントに頑張って勉強したんですよ!」

「大きな声を出すな」

「ケチケチどケチ」

「…どケチって…益々言いたくなくなった」


そう言うと彼はふいっとキッチンに入って行った

No.255

少しややこしいけど…広瀬さんは『ストレート』過ぎるのが苦手なんだと思う

自分が『受け身』になる時は尚更…

『皮肉』っぽく言ったり
『冗談』混じりに言ったり
『質問』に質問で返したり……


彼の受け答えは相手の反応を確かめてる 『自己防衛』のように感じる


独りが平気なんじゃない…


独りになるのが


恐いんだ………



「誰がそっちのアイスを喰って良いって言った?」

「普通ストロベリーの方が…私でしょう?…だってこっちは抹茶小豆ですよ!?」

「オジサンは抹茶小豆が普通って言いたいのか?」

「…半分食べますか?」

「食べる」



どうやって…このひねくれ者が出来上がったのか…

私はやっぱり知りたい


この先…絶対に独りにはしません

No.254

「アイス食べる?」

「はっ…?」

左手首にかけられたレジ袋を私に差し出す広瀬さん

「それ…アイスなんですか」

「急に食べたくなって」


それだけ言うとまたポケットに手を入れマンションの方へ歩き出した


『帰らないのか?』

あと5秒…このまま立っていたら…振り向いてそう言うだろう

私は小走りに広瀬さんの隣に並んだ


「冬のアイス。炬燵で食べると美味しいですよね!」

「炬燵!?…俺の家にはそんなものないぞ」

「えっ…そうだったっけ…炬燵で食べないと…寒くないですか?」

「…じゃぁ、持って帰って炬燵で食え」

『じゃぁ、持って帰って』…?

あぁ…そうか


「寒くても我慢するのでお邪魔して良いですか?」

「…寒いからって腹壊すなよ」


私は2棟目を広瀬さんと通り過ぎ3棟目のエレベーターに乗った

No.253

銀杏並木の手前にあるコンビニにさしかかった時…ちょうど店から出てくる広瀬さんを見つけた

手には小さなレジ袋

声をかけようかと思ったけれど暫くそのまま距離を置きながら彼の後ろを歩く事にした


レジ袋は左手首にかけられ両手ともコートのポケットに入っている


暗い銀杏並木を静かにゆっくり歩く

風が吹くと時折首をすくめながら丸められる背中


淡々と歩く足が止まったのは並木路の終わりにある桜の木の下だった


この地区は【桜木町】

でも何故か…これと言って目立つ桜の木はこの一本しかない

しかも銀杏並木の最後がこの桜の木

勿論冬なので花なんか咲いていない


広瀬さんはその桜の木の根元にしゃがみ込み小さく何かを呟いた



どのくらい時間が経っただろうか

スッと立ち上がると私が隠れている銀杏の木の方へ身体の向きを変えた


「…悪趣味だな。お前はいつから俺のストーカーになったんだ?」

…バレた………

仕方なく木の陰から出てみる

「あはは…すみません」


暗闇の中にいる広瀬さんの顔は…静かに微笑んでいた

No.252

外は冷たい風が吹き、走りながらほどけかけたマフラーを何度も巻き直した

もしかしたらタクシーで帰ったのかも知れない

それならそれで家まで行ってみるつもりだった


私は…祐輔さんの歯がゆさが何となく解る気がした

どんなに笑っていても
たくさん言葉を交わしても

広瀬さんには鍵が見付からない【箱】がある

その【箱】には…独りを選んでいる理由が入っている

【箱】の鍵はきっと…彼自身も何処にやってしまったのか解らなくなってしまっている

開けたいけど開け方が解らない【箱】

開けたくないから探さない鍵


今までの色々な言葉の端々に感じられたのは……?

『ひとは所詮独り』…?


広瀬さん…

その【箱】には何が入っていますか?


その【箱】は…
どのくらい大事なの?

No.251

「おいおい…何やってんだお前ら…」

諭さんが溜め息をついた

「ごめん、諭」

啓太さんが申し訳なさそうに謝る

「諭さん、悪いのはぜ~んぶ祐輔だから!」

希呼が祐輔さんの頬をつねった

「痛っ…!俺は悪くないっ!いつもいつも…腹んなか…何を考えてんのか解らない尚人さんにムカつくだけです!」

祐輔さんはそう言って下を向いた

「…尚人のそれは今に始まった事じゃないだろう?何年あいつと付き合って来てるんだ」

諭さんが静かに言った

「…心配なんですよ…ホントに。そりゃぁ…結婚したってずっと変わらない仲間だって俺は思ってるけど…何て言うか…あのひとが益々…独りでいるのを平気になっていくんじゃないかって」

呟くように祐輔さんが言った

「…そっか…ありがとな祐輔」

諭さんが祐輔さんの肩を優しく叩いた

「まぁ…あのご機嫌は暫く直りそうにないな」

啓太さんが小さく笑う

「心配するなって。尚人には可愛い『お友達』がいるんだから」

明るくそう言った諭さんの目は私を見ていた


「えっと……追いかけてみますっ!」


私は【あい】を飛び出した

No.250

「さぁ、あと残ったのは尚人さんだけっすね!」

「…何がだ」

希呼と二人で抱き合いながら涙してる時だった

「ほら、俺もこうして結婚する訳だし」

「余計なお世話だ」

広瀬さんは無表情だった

「いつまで独身貴族でいるつもりなんすかぁ?」

「祐輔、飲み過ぎ」

啓太さんが割って入った

「啓太さん、この人は、はっきり言ってあげないと分かんないんですよ!いつまでもそんなんだから良からぬ噂だってたつんだし」

「良からぬ噂?…あぁ、あれか」

「あれか?はぁ?あんな噂たてられて腹がたたないんすか?こっちは先輩を心配して言ってんのに」

祐輔さんが笑った

「ちょっと祐輔…」

希呼が祐輔さんの腕を掴んだ

「それは有難い話しだな…まぁそれ以上に迷惑な話しだが」

広瀬さんが祐輔さんに冷たい視線を向けた

「尚人も…よせよ」

啓太さんがオロオロしている

「希呼ちゃん、こんな単細胞の後輩を貰ってくれてありがとう。俺、明日も早いから失礼するね」

そう言うと広瀬さんは祐輔さんの方を見ずに個室から出て行ってしまった

「俺が貰われたんじゃねぇ!俺が希呼を貰ったんだよっ!」

立ち上がり個室のドアに向かって叫ぶ祐輔さん

広瀬さんと入れ違いに料理を運んで来た諭さんがキョトンとしていた……

No.249

「でもね、でもね、こう言ったら何だけど…どうしてこうなったの!?」


すっかり酔っ払ってワイワイしている男性陣を横目に希呼に聞いてみた


「あはは…きっかけはね、諭さんが結婚した事なんだよねぇ。祐輔がさぁ…やけに私の事を心配してくれて。自分ではそんなに落ち込んでたつもりはなかったんだけど…妙に優しく構われちゃって」

あの…あの希呼がはにかみながら話す

「もっと早く言ってよぉ…!水くさいなぁ」

「だってほら…諭さんの事をきゃあきゃあ言ってた手前、言いにくくて…軽いなぁって思われたら…」

「えぇっ!私は希呼の事、そんな風に思ったりしないよっ!」

「うぅん…私じゃなくて祐輔。祐輔が…落ち込んでる私につけ込んだんだって…皆に思われたくなかったんだ」

そう言って祐輔さんを見る希呼の目はとても優しかった

「それにさ、あんなに喧嘩して仲が悪い印象しか与えてなかったでしょ?自分でもビックリよ!ホントに不思議」

希呼がおどけて見せる

「希呼…私が知ってる中で一番良い顔してるよ」

私はそう言いながら涙が止まらなかった

ちょっと生意気で少し大人びてて…でも思った事は言いたい放題の希呼が…
自分の事よりも何よりも…先ず『祐輔さん』の事を心配してた


きっとね、そう言う気持ちを…『本物』って言うんだよ、希呼

No.248

「はぁ~っ!?」

「えっ………」

「…マジかよ……」

「……」


ここは諭さんのお店
【あい】の個室

今日は何故か
私、広瀬さん、啓太さん…そして諭さんが…目の前に座っているこの二人にお呼ばれしていた


「まっ、そう言う事なんで宜しくお願いします!」

私達に明るく無邪気に挨拶する祐輔さん…
その隣には恥ずかしそうに希呼が座っている


「…女将さん…なんだって?」

諭さんが恐る恐る口を開いた

「喜んでくれましたよ」

祐輔さんが笑顔で答えた

「親父さんは?」

啓太さんが心配そうに言った

「軽く殴られましたけど、あれくらいなぁんて事ないですよ」

「…その頭の弛みが無くなるくらい殴ってもらえば良かったのにな」

広瀬さんが呟いた

「希呼…おめでとう!」

「ありがとう、あい!」


希呼と祐輔さんが結婚します

夏には希呼はママになります


あぁ…ビックリ……

No.247

そう言えば…暫く希呼に会ってないなぁ…そう思い電話をしてみた


『希呼~元気?』

『うん、元気だよ~ちょうど私もあいに連絡しようと思ってたところだったんだ』

『そうなの?…え~希呼…何かあった?』

『あはは…会って直接話したいからさぁ…時間作れる?』

『あ…うん、分かった』


私のテストが終わる週末に諭さんのお店で会う事になった


希呼にしては珍しく歯切れの悪い電話


気になりつつも…会って話したいと言う彼女の意思を尊重する事にした


諭さんの結婚以来

『平気!』

と、明るく振る舞っていた希呼を…私もずっと気になっていた


諭さんの事でまだ落ち込んでいるとも思えないけど


悪い話じゃなければ良いな……


ん……?

諭さんのツレだったあの女性は…今…どうしてるんだろう

No.246

【講義お疲れ様でした!】


11月
広瀬さんの『薬理学Ⅰ』の講義が終わった


『麻子の事…学校を辞める事になってごめんなさい。単位の事や講義の予定も教えてくれてたのに…』


気に掛けてくれていた広瀬さんに言った


『彼女が決めた事だろう?どうしてお前が謝るのか…俺にはさっぱり解らない』

広瀬さんはそう言って笑った


ピロピロピロッ…

メール受信


【講義は終わったがテストはまだだ
俺が追試験を作らなくて済むようにしてくれ】


あはは……


【もし…この私が良い点数をとれたとしたら…何かご褒美なんかありますか?】

ピロピロピロッ…


【その時は考えてやっても良いぞ。まぁ…追試験を作る確率の方が高いけどな】

まぁ!ご褒美あり!?


【頑張りますっ!】

No.245

それから…

麻子が学校を辞めた事を担任から聞かされると、例の噂話に火がついたけど…短い夏休みを挟むと、みんな何事も無かったかのように…最初から麻子は居なかったかのような…変わらない毎日が過ぎて行った


テストや課題提出に追われながらもそれなりに楽しい学生生活


そんな中でも私は
ふと…麻子の事を思い出す事があった

長い付き合いの友達ではなかったけど

電話で話したあの時に麻子は本当は何が言いたかったのか…

私がもっと早く連絡しておけば何かが変わったのか


『落ち着いたらメールするね』


秋の入り口…
麻子からのメールはまだありません

No.244

『…もしもし!?』

返事のない携帯に向かって呼び掛ける

『……麻子?』

迷いながらも彼女の名前を呼んだ


『………うん…あい…元気?』

『元気だよ。何してるの?…携帯変えたんだね』

『うん…ごめんね。ずっと連絡しなくて』


麻子の携帯から…賑やかなひとの声と何かのアナウンスが聞こえてくる


『麻子、今どこにいるの?…誰かと一緒?』

『…一人だよ。今ね駅』

『駅って?』

『あいちゃん頑張って看護師になってね』

『えっ…?』

『もう時間がないから…私、今から大阪に行くの。学校も辞める』

『大阪!?麻子…?』

『あい、電話…私からって…解ってくれてありがとう。落ち着いたらメールするね』

『ねぇ!どうしたの?何があったの?』

『心配しないで!私が自分で選んだ事だから。もう…行かなきゃ』


麻子の後ろで電車の出発を知らせる音が響いている


『あい、またね!』


プーッ…プーッ…プーッ…


7月…
こうして麻子は理由も言わず…さよならも言わず…学校を辞めてしまいました

No.243

「あいちゃん、急に飛び出して…どうしたの?」

「あっ…うん。ちょっと電話しなきゃいけなかったのを思い出して……」


プルルルルルッ…プルルルルルッ…


ジーンズのポケットの中で携帯が振るえる


慌てて取り出しディスプレイを見た


あの番号!

教室の時計は次の講義の始まりを知らせようとしていた


「あいちゃん!?」

「ごめん!次の講義無理!」

「無理って!?」


隣の席の由美の驚いた声を聞きながら
私はまた教室を飛び出した

教室のドアを閉めながら鳴り続ける携帯を開き通話ボタンを押す


『もしもし…!?』


携帯を耳にあてながら…またひと気のない非常階段に向かった

No.242

🍀お知らせ🍀

キキです🙊
『冷蔵庫』を読んでくださっている皆様
『冷蔵庫の部屋』に来てくださっている皆様
いつも本当にありがとうございます🙈✨

…私事ではありますが病気療養の為
暫く本編の更新をお休みさせて頂く事になりました🙉⤵

元々…持病があり内服で治療していましたが…検査の結果、手術が必要となりました🙉💦

ちょっと入院してきます🙈💨

本編はゆっくり丁寧に書きたいのでひとまず休載させてください🙈💧

『冷蔵庫の部屋』はこのまま皆様の交流の部屋としてお使いくださいね🙈✨
キキも…遊びに行きますので……


皆様❗
再開出来たその時は…また宜しくお願い致します🙊🎵


あい🍏尚人🍏キキ🙊

No.241

非常口を開けて階段に出るとむっとした湿度の高い風が吹き上がる

照りつける日射しを避け影になっている場所に腰掛けた

もう一度着信履歴を開く


麻子でありますように…


ダイヤルボタンを押した


プルルルルルッ…プルルルルルッ…プルルルルルッ…プルルルルルッ………


何度かコールが鳴り
電話は留守電に切り替わった…


私は…メッセージを残さずそのまま電話を切った


麻子だったら…
私の着信を見てまたかけてきてくれる
…そう信じて

額にうっすらとかいた汗を拭い
目下に広がる真夏の街並みを暫く眺めていた

No.240

「麻子ちゃんから借りてた本を返したくて電話したんだけど…なんか番号変わってるみたい」


偶然にもそんな会話が聞こえてきたのは翌日の教室

「え~そうなの?私も知らなかった!」

「…このまま学校…辞めちゃうのかな?」


クラスメイトのそんな会話を聞きながら私は課題のプリントを仕上げていた


あれ……?


ふと…夕べかかってきた知らない番号からの電話を思い出す


もしかして
麻子?

ポケットから携帯を取り出し着信履歴を見る


………

『サインを見逃さなければ良い』


あの時の広瀬さんの言葉が頭に響いた


ガタッ……

「あいちゃん、ちょっと…どうしたの!?」

急に立ち上がった私にビックリした友達が言った

「ちょっと急用!」


そのまま私は携帯を握りしめ学校の非常階段に走った

No.239

知らない番号に出るのを躊躇った…

最近…ちらほら聞く 『ワン切り』詐欺

悪徳業者が電話に出たりかけ直してきた事をいい事に……
色んな『請求』をしてくる…恐ろしい電話


私にかかって来たその電話は…
『ワン切り』ではなく
5回程コールが鳴ったあとに切れた


「出なくて良かったの?」

携帯を見つめる私にママが聞く

「う~ん…知らない番号からだったんだよね…」

「あら…変な電話じゃなきゃ良いけど。ママの職場のひとにもね………」


それからママは
私が躊躇った理由と同じ被害に遭いかけた同僚の事を延々と話し出した


「本当にあいに用事があったならまたかかってくるわよ」

「うん、そうだね」


…結局…その夜は
その番号からの電話がかかってくる事はなかった

No.238

…水で少し濡れてしまったあの紙に…
ドライヤ‐をあて…
優しく優しくアイロンをかける


…危なかった

『洗濯しちゃいましたぁ!』

なんて広瀬さんに言ったら…


アイロンでほんのり温かくなった紙…

彼なりの優しさの温度を感じる


「なんなの…その紙と…あなたのにやけた顔は……」

ママが不審そうに私を見た

「べ…別に何でもないよっ!」

「100点でも採った大事な答案用紙かなぁ~?」

ママが意地悪な顔をした

ふんっ!


プルルルルルッ…プルルルルルッ…

私の携帯が鳴る


…知らない番号


誰…だろ?

No.237

>> 236 『松下家の晩御飯』

豚こまと長芋のオイスター炒め

トマトと豆腐の肉味噌サラダ

玉子スープ

ご飯


…結局…今日も麻子は学校に来なかった

薬理学が休めるのはあと3回…

それとなく私も先生に聞いてみた…
今のところ『薬理学Ⅰ』が一番単位数が少ない…

単位を落としても来年度、その教科だけ別枠で講義を受ける事も可能らしいけど……先生が言うには

『単位を落とした理由にもよる……』

と言う事だった

『出席日数不足』
の生徒の大半は…そのまま学校を辞めてしまうらしい


ザァッ…………


「あぁ~良いお風呂だったわぁ~ビール、ビール」

風呂上がり…そのまま冷蔵庫を開けビールを取り出すママ

オヤジだわ…
んっ……?

「ママ、もしかして洗濯してるの?」

「うん、明日は天気が悪いらしいから夜のうちにしておくわ」

「ふ~ん」

………

「あぁぁぁっ!!」

あの紙!
スカートのポケットに…

入れっぱなしっ!!

バタバタバタバタッ…

No.236

「…これ…昨日の電話の後に作ったんですか?」

そう聞きながら私は彼を見た


「講師として俺が出来る事だ。こっちは真剣に講義をしてる。欠席を理由に単位を落とされるのは俺としても不本意だ」

「広瀬さんって…なんだかんだ言って…優しいですよね」

「…夜中にあんな電話を受けるのもご免だ。ほら、配る時間がなくなるぞ」


そう言って彼は先に部屋を出て行った


私はコピーの束を机に置き直し彼から預かった紙を四つ折りにしスカートのポケットにしまった


厳しいような…意地悪な言い方も全部彼の照れ隠し…


私の【迷いのサイン】をちゃんと受け取ってくれた


そう…思っても良いよね…?


広瀬さんっ

No.235

「手伝って頂きたい事があります。今日の日直はどなたですか?」


薬理学の講義前
広瀬さんが教室を覗いて言った


「はい、私です」

…私ですよ広瀬さん

「配っていて欲しい資料があります。コピー室までお願いします」

「分かりました」


そのまま教室を出て彼の後ろを歩く

コピー室に着くと5つのコピーの束が置いてあった

「講義が始まるまでに一枚ずつ配ってください」

「はい」

そのコピーの束を交互に重ね部屋を出ようとした

「…今日も欠席か?」

麻子の事…

「はい…まだ来てません」

そう答えると彼は鞄から一枚の紙を出し束の一番上に乗せた

「他の教科の事までは把握してない…これは薬理学だけの分だ」

紙を見ると…麻子の今までの薬理学の講義の出欠と…
これからの講義予定が書いてあった

「*印がある分は…講師として絶対に外して欲しくない講義だ。単位が欲しいなら…その子が欠席出来るのは今日を含めてあと4回」


広瀬さん……

No.234

『明日も早い…もう寝るぞ』


…そう言って電話を切られました

広瀬さんは臨時講師なので本業の薬局での仕事の合間を縫って講義に来てくれてます……


「サイン…ねぇ」


麻子にメールをしてみようかと思ったけど…

広瀬さんの言葉を信じて待ってみようと思い直しました



麻子がまだ看護師に成りたいなら…

私の力が必要なら…

【サイン】が出る



あぁ…もう1時

私も寝ます

No.233

『お前は…他の奴らと同じ目で見てるのか?まぁ…話だけを聞けばその可能性は高いけど』

『私はちょっと…違う。その…援交や出会い系がどうのより麻子が看護師になりたがっていたのを私は知ってるから…それがこのまま叶わなくなるのが本当に良いのかなぁ…って』

『…それなら待て』

『えっ…?』

待てって…待っててどうなるの!?

『その子が…本気でそう思ってたら…まだその気が残ってるなら…そのうち何かしらサインを出してくる』

『サイン?』

『お前には看護師になりたかった理由を話したんだろ?』

私に語りかけるように話す広瀬さんの声は…諭すような穏やかな声だった

『彼女がお前の力を必要とするならきっとサインを出す。お前はそれを見逃さなければ良い…でも彼女が看護師になる事を辞めたなら…それも彼女の道だ。お前とは別の道だ』

No.232

『で……こんな夜中に…俺にどうしろって言ってるんだ?』


…時刻は24時35分
非常識な時間だとは重々承知してます……

『広瀬さんじゃなくて…私はどうしたら良いんでしょう?』

麻子の事を考えてたら眠れなくなった
…彼女が講義を欠席している事を気にしていた広瀬さんに…思わず電話をした

『どうしたら良いんでしょう?って……お前にどうにか出来るのか?…放っておけ』

『えっ…友達なんですよ!?放っておけなんて…』

『…本人が何も言って来ないんだろ?…いくら友達でも他人だ。踏み込んで良い事とそうでない事とある』

『…皆が噂してる事が本当なら…止めさせなきゃ』

…そうしなきゃ
麻子はきっと学校を辞めてしまう……


看護師になりたかった彼女の気持ちを…私は知ってる…

No.231

「夕べさぁ…蒲田さんを見かけたんだよねぇ」

一限目が終わった休み時間…結子が口を開いた

「えっ…?」

結子は週末、居酒屋でバイトをしている

「うちの店の場所知ってる?3つ先の交差点を左に曲がったらホテル街なんだけど…」

「う…ん」

「あそこを通った方が家まで近いんだ。で……23時過ぎに通った時にホテルに入る蒲田さんを見たの!」

「…彼氏いるみたいだし…別に良いんじゃない?」

私は結子にそう返した

「彼氏!?あれが?」

「あれがって?」

「どう見てもオヤジ!親子くらい離れてるよっ!」

「…」

…『ちょっと年上』

と…歯切れ悪く答えた麻子の顔を思い出した

「あれは援交か出会い系に違いない!あり得ない組み合わせだったもん」

興奮気味に顔を紅潮させる結子…

「そうと決まった訳じゃないから…色々詮索しない方が…」

そう言ったけど…
一緒にこの話を聞いていた子達は勝手な想像を膨らませ…笑っていた


…麻子……?

No.230

【今日は…すみませんでした】

一応…謝りのメールを送っておく


ピロピロピロッ…

直ぐに返信がきた

【テストが楽しみだな】

きゃぁぁ~っ

【大丈夫!絶対に赤点は採りませんから!】

【まぁいい…ところで聞きたい事があったんだけど、蒲田って子がいるだろ?
暫く講義の欠席が続いてるんだけど】

…気付いてたんだ

【広瀬さんの講義だけじゃなくて…学校自体を休む事が多くて…】

【そうか…俺の講義が面白くないのかと思ってた】

あれっ…あれれ?
そんな事を気にするひとなんだ…
意外…!

【大丈夫ですよ!広瀬さんの講義は解りやすくてすっごく面白いです!】

ちょっと励ましてみる


ピロピロピロッ…


【でも寝るんだな】


………


だから謝ってるでしょうが!


でも…そんな事を気にする『普通』なところに安心してしまう


…可愛い

No.229

「セフェム系抗生物質はペニシリンとよく似た化学構造をしていて、便宜上第1第2第3世代にわけられる……第1世代は……」


広瀬さんの頭の中は一体どうなってるんだろ…

教科書を延々読み続ける講師
プリントをやらせて終わる講師
雑談が殆どの講師


色んな講師がいる中で彼は必要以上に教科書を読まない


「教科書何ページの何段目にライン」


彼がそう言ったそれは…
テストや国家試験に良く出される箇所
…だそうだ


最初は緊張した彼の講義も、回数を重ねるうちに彼の声や立ち振舞いを楽しむ余裕すら出てきた


パコッ…

痛っ……!

気がつくと…隣に彼が立っていた

「…随分と余裕がありますね。65ページから読んでください」

慌てページを巡る


すみません…

寝てました

No.228

「麻子、何かバイトしてるの?」

「えっ…?してないけど…何で?」

「うぅん。バイトしないと欲しい物も買えないなぁって思って。そのお財布可愛いね」

「あぁこれ?自分で買ったんじゃないよ」

「そうなの?えっ…もしかして彼?」

「うん」

麻子は照れくさそうに笑った

「上手くいってるんだぁ!良いなぁ羨ましいっ!どんなひとなの?」

「う~ん…普通のひとだよ…」

「歳はいくつ?」

「ん…ちょっと年上」

「へぇ~、じゃぁ、仕事してるひとなんだ!そうだよね、そんな可愛いお財布プレゼントしてくれるんだから」

「うん」


…?

何だか…麻子の態度に歯切れの悪さを感じ私はそれ以上話を聞くのを止めた



7月に入ると
麻子は学校を休みがちになった

No.227

学校と家を往復するだけの単調な毎日

勉強は…不思議と面白い
と言っても、テストの成績は真ん中辺り

『普通』ってとこ

そろそろまたバイトでも始めようかな……

スーパーでバイトしていた時の貯金は、働いてないんだから減る事はあっても増える事はない


それでも…うちの冷蔵庫…『金庫』に入れてある通帳と印鑑は絶対に遣わない


新しい洋服も欲しいなぁ……

そんな事を考えてる時…
麻子がバッグから出したブランド物のお財布とキーケースが目についた

No.226

【塔子に会ったんだって?】


そんな短いメールが彼から届いたのは夜遅くなってからだった


【はい。スーパーで偶然。
あっ!その前は水沢町にあるサロンで会いました】

【何か話した?】


話したけど…
何と言って良いやら…

【まぁ…挨拶程度です】

【…何か言われたんだろ?塔子の言う事は気にしなくて良いから】


気にしなくて良いからってアナタ!
あれは誰だって気になるでしょうが!


【はぁい、気にしません!】

【講義しっかりついてこいよ。赤点採ったら追試に2千円かかるらしいからな】

【絶対に払いませんっ】

【まっ頑張って】


…広瀬さん……

ホントはね…
講義よりも聴きたい事がたくさんたくさんあるんだよ

No.225

彼の講義が終わり希呼にメールをする


【元気?今日は広瀬さんの初めての講義でしたぁ~!
…希呼…ホントに元気?】

…送信


暫くして希呼の返信が届いた


【講義どうだった? 厳しそうだよね、尚人さんってぇ!
私はホントに大丈夫だよぉ!
心配してくれてありがとっっ!
またイイ男探すわ】


良かった…


私も『ウダウダ』なんてしてられない


ひとりであれこれ考えたって…答えなんて出ないもの!


…まずは約束通り
ちゃんと彼の講義を受けて………

No.224

ガラツ…

ざわついていた教室が彼の登場で一瞬にして静かになった…

日直の号令で講義が始まる


「今日から薬理学Ⅰの講義を担当する薬剤師の広瀬です」

私は目が合わないように下を向く

「…出席を取ってから講義に入ります」

彼の低い声が静かな教室に響く

「…松下 あい」

「…はい」

返事をした時に目が合った

銀縁のメガネの奥…
彼の感情は何も映らない


90分の講義は淡々と進められた


黒板に書かれた文字は…彼自身を表しているかのように整然としていた

No.223

『松下家の晩御飯』

カップラーメン
おにぎり


「ちょっと~あい?今日はこれだけ?」

「そっ…これだけ」

「な…何?何か怒ってるの?」

ママが顔を覗き込む

「何でもない……」

ズルズルと麺をすする

ママは物足りないらしく冷蔵庫を開け、何か他の物がないか物色している

「あい~、厚焼き卵食べる?今から作るから」

「いらない」

「あっそ」


ママが卵をかき混ぜる音がする

チャッチャチャッチャッ…


…塔子の自信満々な態度……
やっぱり二人は何かがあるんだ

子供も…家に連れて行ってるんだ


私は今はただの生徒

それが終わっても…

ただの友達

No.222

「…結婚されてるんですね」

「結婚してたの」

「えっ?」

「シングルよ。この子が生まれてからずっと」

「はぁ…」

「だからこうして尚人の所にも行けるの」

「……」


返す言葉がない

「貴女は尚人の何?ただの…ご近所さん?」

「…友達…です」


言ってしまった
後から広瀬さんに怒られるだろうか…


「ふふ…そう、お友達なのねぇ…」

彼女は長い髪を耳にかけた

「ねぇ~ママ行こうよ」

「はいはい、ごめんねぇ尚哉。行きましょう」

なおや…?


「お友達なら…きっとまたお会いするわね」


そう言って塔子は男の子の手をひきレジに並んだ

No.221

「…貴女、尚人と同じマンションに住んでるらしいわね。良かったら送りましょうか?」

「えっ?」

「今から行くから」


今から…行く?

「行くって…広瀬さんの…ところにですか?」

ふっ…と彼女が笑う

「そうよ」

「…結構です。自転車で来てますから」

「あら…そう」

「ママ~ッ!お菓子、これが良いよっ」

さっきの男の子が走って塔子に飛び付く

「良いわよ」


彼女は男の子に柔らかな笑顔を見せその子の髪を細く長い指でかきあげた

「……お子さん…ですか?」

「えぇ。可愛いでしょう?」

No.220

どう言う…事?

塔子は結婚してるの?

頭が軽いパニックを起こした……

見てしまった事実に出せる答えがないか…色々な事を思い出してみる


彼のネクタイを直した塔子

彼を『尚人』と呼ぶ塔子

彼の家に来た塔子

…塔子の手を掴み帰って行った

広瀬さん……


「あら…こんにちは」

ふいに掛けられた声に、はっ…とする

気が付かないうちに私はその塔子に見つかっていた

「あっ…こんにちは」

塔子はやっぱり怖いくらい綺麗だった

「お買い物?」

「はい…」

じっと私を見る彼女

「…髪…生え際と随分色が違うわね。そろそろサロンに行った方が良さそうよ?」

「…分かってます」

No.219

学校の帰り

夕飯の買い出しにバイトをしていたスーパーに寄った


「あいちゃ~ん、久し振りだねぇ元気?」

「店長、お疲れ様です」

「学校どう?楽しい?暇ならまたうちでバイトしちゃう?」

「あはは…忙しくしてます」

「そっかぁ残念だな」


店長の丸い肩越しに見覚えのあるひとを見つけた


…塔子…


「店長、また来ますね!失礼します」


彼女から見えない位置に移動しもう一度確認する


あ…れっ?


さっきは店長で良く見えなかったけど…
塔子の左手は小さな男の子と繋がれていた

あの子…誰?


「ねぇ~ママ!お菓子見てきて良い?」

「良いわよ。ちゃんとそこにいてね」


ママ……!?


子供…!?


隠れた私の傍を走り過ぎたその男の子…


4歳くらい?

とても利発そうな子だった

No.218

学校の講義はそれなりに面白かった

『未知の世界』を覗いてる気分

勿論…眠たくてたまらない…つまらない講義もあったけど


ヒトって…不思議
生きてるって不思議


純粋にそう思う


明日からいよいよ6月

『薬理学』の講義は
火曜日と金曜日


ドキドキする


考えると
勝手に顔が弛む


最初の講義が終わったら…希呼に報告しなきゃ


希呼は強いから…
大丈夫だよね

きっと頑張って
女将修行してる

No.217

「麻子、なんか…ニヤニヤしてない?」

「えっ?そう?」

携帯を閉じながら麻子は笑って答えた

「うん、良い事でもあった?」

「えへへ……気になるひとがいるんだけど…もしかしたら上手くいくかも知れない」

「そうなの?良かったね!上手くいったら紹介してよ~」

「あは、その時はね」


最近の麻子は少し変わった気がする

高校の時のような校則がある訳じゃないから当然なのかも知れないけど……

化粧は濃いめ
この前は…3つ目のピアスを開けてきた

学校にはちゃんと来て講義も受けている


でも…いつもひとりで携帯をいじっている


私は…麻子の他にも仲良くなった友達がいて
その子達と一緒にいる事が多くなっていた


学校には来てるし…それにひとは見た目じゃないよね


麻子は私なんかより…ずっと看護師になりたい気持ちが強いんだから


もう…高校生の子供じゃないんだもん

No.216

希呼からそのメールが入ったのは…諭さんのお店に行った日から
3週間が過ぎた雨の日の夜だった


【諭さん結婚したんだって…】

えッ……えぇぇぇぇ!

【誰から聞いたの!?
希呼…大丈夫?今からそっちに行こうか?】

【一緒にお店に行った日…希呼と尚人さんが帰った後に祐輔から聞いたの。心配しないで私は大丈夫だから!】

【…ホントに大丈夫?】

【うん。始めから私みたいな子供…相手にしてくれるとは思ってなかったし…ホントに大丈夫。連休で忙しくてさぁ、連絡するの遅くなってごめんねぇ!また今度遊びに来てよ】

【うん…何かあったらいつでも連絡してよ?
直ぐに行くから!】

【了解しましたぁ!
またね!学校頑張って!】



…希呼……

No.215

マンションまで徒歩15分

とくに何を話す訳でもなくゆっくり歩く

春の終わりの夜風は生暖かく、葉桜になってしまった桜の木の下のアスファルトには、色褪せ茶色くなった花びらがこびりついている


「…広瀬さん、友達って…皆に言っちゃって良かったんですか?」

「良いよ」

「…変に思わなかったですかね…啓太さんや祐輔さん」

「事実なんだし。隠しておく方が変だろ?あっ…もう一度言っておくけど…」

「友達は講義が終わったら…でしょ?」

「それだけ解ってれば何の問題もないよ」


…そう言いながらも

『お前も帰るか』


って言う彼が…

好きです

No.214

「…パセリ…好きなんですか?」

「嫌い」

「まじまじ見てるから…好きなのかと思いました…」

「…小学生の時…うちの母親がさベランダのプランターでパセリを育てだしたんだ。『自分で可愛がって成長するのを見れば好きになるはずだから』って言われて水やり係を頼まれた事が…ある」

「毎日、お水をあげても…好きにならなかったんですか?」

「…嫌いだから…わざと水をやらないで枯らした」

げっ……

「あはは……怒られました?」

「…いいや。次は俺の好きなトマトを植えた」

「好きなら水やり…したんですよね?」

「母親がね。…パセリ…水くらいやれば良かったよな」

そう言うと彼はすくっと立ち…寂しそうに…笑った


「帰るか」

「…はい」

No.213

個室を出ると調理場の諭さんに軽く手を上げた広瀬さんが見えた


「諭さん、ご馳走さまでした!また来ます、必ず来ます!」

「ありがとう、気をつけて帰れよ」

「はい!」


こっちを振り向く事なく表に出てしまった彼

ちょっと、待ってよっ

「ありがとうございました。またいらしてくださいね」

祐輔さんの知り合いらしき店員さんに声をかけられ会釈する


急いで後を追い表に出た


あれっ…?
どこに行った!?


あっ…いた……


彼はしゃがんでオレンジの陶器の鉢に植えられたパセリを…見ていた


「広瀬…さん?」

No.212

「じゃぁ、明日早いから俺は帰るわ」

そう言うと彼は立ち上がった

「えぇ!尚人さん、次、行きましょうよ~」

祐輔さんの誘いに

「どうせお前の『次』はあの店だろ?悪いがあそこの女には興味がない」

と笑い返した……

「啓太これ」

そう言いながら啓太さんにお金を渡す

「……お前も帰るか?」

彼は私を見た

「あっ…はい」

「じゃぁ、帰るぞ。近いから今日は歩きな」

彼は個室から出て行く

「希呼…」

「良いよ!また…連絡するからねぇ」

ニヤニヤ笑う希呼

「啓太さん…お会計…」

私がバッグから財布を出そうとすると

「あいちゃん、尚人からもうもらってるから良いよ」

啓太さんはそう言って笑った

「でもそれは……」

「良いの。ほら行って」

「ありがとうございました!また…」


慌てて私も個室を出た

No.211

「あっ…えっと…ですね…その……」

何て答えたら良いか解らず広瀬さんを見る

「…別に隠す事ないだろ?」

彼が意味ありげにニヤリと笑った

「えっ!?何?何かあるんですかっ?」

祐輔さんが興味津々な顔で食い付く

「ほら、説明して」

彼が私を見た

「…友達……です」

「ちょっと違う。俺が講師をする事になった看護学校の生徒だ…今は」

「はぁ?」

希呼が驚いた声を上げた

「隠してた訳じゃないの!言うタイミングがなくて…ごめんね希呼」

「いやいや…講師はさておき…友達って何?」

「あぁ…それは……」

「俺の講義が終わったら俺たち友達になるんだよな?」


彼のその言葉に
啓太さんがグラスを倒した……


「…何やってんだ啓太」

「あぁ…いや…ごめん」


希呼が慌ててテーブルを拭いた


「そんなに驚く事か?」

彼はそう言うとグラスに残っていたビールを一気に流し込んだ

No.210

それから…啓太さんが合流し……まるで夫婦漫才のような、祐輔さんと希呼の会話に皆が笑い諭さんが作ってくれる美味しくて楽しい料理に大満足した


私が一番好きだったのは…

『カリパリプチサラダ』

パリっとした細ぎりレタスの上に、貝割れ大根とプチトマト、揚げたての細ぎりジャガイモがのっている

添えられた青じそドレッシングが良く合っていて…すっごく美味しかった


「…お前…良く食うな」

「だってすっごく美味しいだもん!広瀬さんも飲んでばかりいないで、野菜もちゃんと食べてくださいね」

「…そのコロコロしたやつ…何?」

「里芋のコロッケ!中に明太子が入ってて美味しかったですよ」

「もう…食ったのか。…それ取って」

「はい、どうぞ」


「……あのさ…さっきから少し気になってたんだけど…」

啓太さんが遠慮がちに口を開いた

「はい?」

「…尚人と…あいちゃんって…知り合いだったっけ?」


…あっ……

No.209

「さっ、先にビール飲んでようかな。二人は何にする?」

「烏龍茶」

「えっと…私も」

「…ビールがダメなら酎ハイにしたら?」

「…あんたってホントに馬鹿。未成年にアルコール勧めてどうすんの?」

「へぇ~…真面目なんだね二人とも…」

祐輔さんがニヤニヤ笑いながら呼び出しブザーを鳴らした

「生をひとつと烏龍茶をふたつ…後は…諭さんに任せるわ」

「かしこまりました」

店員さんがオーダーを取って部屋から出ようとした時にタイミング良く個室の扉が開いた

「……祐輔?」

「尚人さん、お疲れさまですっ!」

「お邪魔してまぁす」

祐輔さんと希呼が広瀬さんに挨拶をした

「いらっしゃいませ」

店員さんが微笑む

「…今日の約束は…このメンバーだったか?」

「たまたまです!堅い事言わないでくださいよ」

「そっ、偶然だから気にしないで!」


何故か…さっきまで喧嘩していた二人の息が妙に合っていて思わず笑いが出た

広瀬さんと…目が合った

「こんばんは。お邪魔して…ます」

「……はい」

No.208

「…奥に個室がひとつだけあるから、そっちに移動したら良いよ」

諭さんはそう言うと店員の女性に目配せした

「ご案内致します。こちらへどうぞ」

「ありがとうございます」

「あぁ、ごめんな、ゆか」

祐輔さんはその店員さんと知り合いらしく、個室に通された後も部屋の外で話し込んでいた


「あい~、尚人さん来るんだってぇ!良かったねぇ」

「うん…でも…良いのかな…勝手に同席しちゃって」

「諭さんが通してくれたんだもん、良いに決まってる」

「あはは…」


…ビックリするだろうな広瀬さん……

講義が終わるまでは大人しくしてる約束だったけど……

偶然だもん
良いよね?


まだ希呼に話せていない『事情』があったのを…思い出した


また今度…ゆっくり話そう

No.207

「…だからさぁ…何であんたが隣に座るのっ!?」

「だってまだ来ないんだもん」

「まだ来ない?誰が?」

「えっ?啓太さんと尚人さん」

「えっっ!広瀬さん来るんですかっ!?」

「あっ…うん…」


思いかけず出た広瀬さんの名前に声が上ずった
祐輔さんは…ビックリした顔をしている


「あぁ…良かったら同席どうぞ」

「ホントですか!?」

「私はやだ」

「なら、希呼ちゃんは来なくて良いよ。お友達だけで」

「はぁ?!」

「おいおい…祐輔。希呼ちゃんに絡むな」

諭さんが二人に呆れた顔をした

No.206

「何であんたがここにいるのよっ」

「つれないなぁ希呼ちゃん……諭さん、説明してやってくださいよぉ」

「あはは…ここの工事、祐輔の親父さんに頼んだんだ。ちょっと不具合があったからこいつに直しに来てもらってたとこ」

「分かったぁ?希呼ちゃん」

「ふん…終わったなら帰ればぁ?」

「希呼…ここは夕顔じゃないんだからっ」


この二人は…きっといつもこんな感じなんだろう


「はい、お通し」


諭さんが小鉢を出してくれた

胡瓜と玉葱の和え物

薄く細ぎりされた胡瓜と玉葱が叩いた梅と鰹節で和えてあった


「その梅はうちの母親がつけた梅…どうぞ」

「いただきます」


あっ…美味しい~

No.205

調理場をぐるっと囲むように出来たカウンター席

諭さんは私達が席に着くと直ぐに調理場の中に入った

希呼はうっとりした顔で諭さんを見ている


「希呼、そんなに見たら諭さんが仕事しにくくない?」

「えぇっ!見たいからカウンターに座ったんだもん」

だもんって…
さっきの大人な希呼はどこ行った!?

「えっと…決まった?」

お品書きよりも諭さんに目が行く希呼は注文を決めていない

「ほら、希呼決めなきゃ!諭さんが待ってるよ」

「ホントだ~、困りますねぇお客さん。早く注文してくださいよ」

はっ!?

「げっ……祐輔」

「こんばんは~」


振り返ると祐輔さんが真後ろに立っていた

No.204

「ありがとうございます。お時間がございましたら是非、夕顔の方へもお立ち寄りくださいと女将が申しておりました」

「はい、今後とも変わらぬお付き合いを宜しくお願い致します」


おぉ~…!

二人の大人な会話に感動してしまう……

希呼は…ちゃんと
若女将になっていってる…


「あいちゃん、来てくれてありがとう」

諭さんが声をかけてくれた

「あっ…オープンおめでとうございます」

「…席は…テーブルが良いね」

「いえっ!是非とも諭さんが見えるカウンターでっ!」

希呼が言った……

「あはは…じゃぁ、カウンターにどうぞ」


苦笑いしながら諭さんは席に案内してくれた

No.203

引戸を開けると店員の女性が迎えてくれた

「いらっしゃいませ。2名様でしょうか?」

「はい」

「テーブル席とカウンター席とございますが、どちらになさいますか?」

「…お忙しいところ大変申し訳ございません。私、夕顔の若女将をしております中野 希呼と申します。お時間を頂けるようでしたら、加藤様にご挨拶をさせて頂きたいのですが」

「…夕顔の中野様ですね。かしこまりました。暫くお待ちください」

店員はそう言うと奥に入って行った


「希呼!何だか…女将さんを見てるみたいだった!大人…みたい」

「…ちゃぁんと挨拶してから入らせてもらわなきゃね。それがこの辺りの筋ですから」

「へぇ~っ…凄いっ」


「お待たせ致しました。…いらっしゃいませ」


私達に頭を下げ諭さんが現れた…

「オープンおめでとうございます」

希呼はそう言うとやっぱり頭を下げた

慌てて私も頭を下げる

「ありがとうございます。その節は夕顔の女将には大変お世話になりました。どうぞごゆっくりお過ごしください」

諭さんは柔らかな笑顔で姿勢良く立っている

あぁ…やっぱり……
諭さんは素敵なんだ

No.202

橋をおり2つ目の交差点手前のマンション1階

お店に看板はなく
入口になっている引戸の磨り硝子に控えめな感じで書かれた

【あい】


白い外壁から少し離れた位置にチョコレート色に塗られた木の板が小さく格子状に張られ
外から中をうかがう事は出来ない

外壁とそのチョコレート色の木の壁の間には白い玉砂利が敷かれ、そこには等間隔に柔らかな光のライトが埋め込まれている
…所々に置かれたオレンジ色の陶器の鉢にはパセリが植えられていた


「オシャレなお店だね」

「さすが諭さん!…でも店の名前が『あい』って所が……」

「偶然だもん!って言うか私の『あい』の方が先なんだからね!」

「あはは、冗談だよ~あぁ~ドキドキするっ!諭さん、暫くうちにも来てないから会うの久し振りなんだぁ」

「…希呼…騒いじゃダメだからね」

「失礼ね!…じゃぁ、開けるよ」


カラカラカラッ……


「いらっしゃいませ」

No.201

4月も下旬になり希呼から久し振りに連絡があった……


『もしもし!あい?元気にしてるっ?』

『うん!希呼は?』

『私?元気に決まってるじゃん!あのねっ、ついに諭さんのお店がオープンしたのぉ!女将に頼んで休みが取れたから一緒に行こうよ』

『そうなんだ~分かった!一緒に行くよ』


希呼はかなりテンションが上がっていた

オープンしたんだ…

良かった
これで希呼への秘密がなくなる……


偶然会ったあの日以来、諭さんとは会っていなかったけど…広瀬さんから聴いた話のせいか…諭さんに対して妙な親近感が芽生えいた


諭さんの『過去』を勝手に覗いてしまい…罪悪感に似た気持ちも少しあったけど…


何だろう……
諭さんやあの女性が羨ましい気持ちもあった


あの時の複雑な二人の気持ちに寄り添っていた広瀬さんに……

私の事も知ってもらいたい…

そう思うようになっていた

No.200

それから私は順調に学校生活をスタートさせた

広瀬さんの『薬理学Ⅰ』の講義は6月から入ってくる
週2回…11月まで


楽しみな反面……
講義が終わるまでは約束通り
『大人しく』
しておかなきゃならない


何もそんなに心配する事ないのにねっ…


麻子とは直ぐに仲良くなった
私とは少し違って…
心から『白衣の天使』を目指している

麻子は病気でお父さんを亡くしていた

その時の担当の看護師さんの献身的な看護にいたく心を動かされたそうだ


純粋な麻子の志に…
少し自分が恥ずかしくなる


『お手本』となるひとが近くに二人もいながら……

私は……



広瀬さんが言うように
『看護師にはまる』んだろうか……

No.199

『松下家の晩御飯』

デリバリーピザ
サラダ


…久し振りにピザを頼んでしまった

冷蔵庫のマーガリンの空容器からお金を払う


『とにかく俺の講義が終わるまでは大人しくしておくように』

そう釘を刺されて帰って来た


はいはい…解りました


ご飯を作る気になれなかったのは…
複雑な事を聴いてしまったから

考え過ぎて頭がパンクした……


大事な想いがあるのに…我慢したり
無理したり
隠したり……


伝えたい相手がいるのに…それを出来なくしちゃうのは何なんだろう


…現に私にも
そんな相手がいる


そのひとは…私にとって代わりがいない『ひと』


……広瀬さんはこれから私にとって
どんな『ひと』になっていくんだろう…?


代わりがいても…いなくても…
想いが伝えられないのは苦しいです

No.198

「…俺が解ってたのは彼女の方の気持ちだけ。諭は…何も言わなかったからあの時…聴いた」

「何か…複雑ですね」

「そうだな…あのまま想いが残れば、ますます二人の今後は…それぞれの場所で複雑になってたかもな」

「なってたかもな?」

「あぁ…あの二人は男女の仲ではなかったよ。だから…尚更想いが残るんだと俺は思う。お互いの代わりを見つけようがないと言うか…だからこそもう終わらせなきゃいけなかった。少なくとも…あの二人が別々の道を選んだ後だったからな。俺がした事は余計な事だったかも知れないけど」

「…じゃぁ、あれで終わったんですか?」

「俺は…二人を信じてる。あいつらは大丈夫だよ」

「…想いがあるのに別れるって…私は…寂しい…」

「あはは、お前が気に病む事じゃないだろ?って言うか…それこそ思わず余計な事を喋り過ぎた」


彼はそう言うとタバコに手をかけた
でも…その手は一瞬止まり
結局タバコを吸う事はなかった



広瀬さん…?
質問です


『男と女』に変わらない想いってない…の?


永遠って…ないの?

No.197

「誰って…諭のツレ」

「…彼女とか?」

「違う。前の職場の部下だよ。あいつ2年くらい前までよそに行ってたから」

「そうなんですか…わざわざ諭さんに会いに?」

「あぁ…詳しい事は解らないけど…あいつらにしか解らない事情があったんだろう」

「事情…ですか」

「ん~…そうだな…彼女が言った事を思えばそれは仕方がない事情だったのかな」

「…お二人は…それっきり…なんですか?」

「俺が知る限りでは。…きっとあれが最後だったんだと思う」


そう言うと彼は静かに微笑んだ


「私には……とても寂しく見えました」

「えっ…?」

「ごめんなさい…偶然…お二人が別れる所に居合わせちゃって…見ちゃったんです」

「…あぁ…あの時ね」

「…仕方がない事情だと解ってて…どうしてあの時…広瀬さんは諭さんに声をかけたんですか?」


『諭…本当にこれで良いんだな?』
って……

No.196

「それにしても…看護師ってそんなに魅力的な仕事なのか?」

「えっ?…私の場合は母も兄も看護師で…だからって訳じゃなくて私なりに目的もあるんですけど…」

「ふぅ~ん…俺から見たら割に合わない事だらけの職業だけど…はまる奴はそんなの関係なく働いてるんだろうな」

「…ん~…看護師のお知り合いでもいるんですか?」

「知り合い…じゃないな。諭の…ツレが看護師になった」

諭の…ツレ?
それって…もしかして

「…今年の始めに皆さんで夕顔に来た時にいた女性ですか?」

「あっ…うん。彼女と…お前会ったっけ?」

「あっ…えっと…見ただけですけど…」


あの時の事を聴くなら今だと思った


「あのひと…誰なんですか?」

No.195

「口が裂けても『友達なのぉ』とか言うなよ。引き受けた以上俺はきっちりやりたいから」

「はぁ…友達…だったら何かマズイんですか?あっ…歳が離れ過ぎてるから変な誤解をされるとか…?講師と生徒の禁断の……」

「…あのなぁ~」

彼は溜め息混じりに私の続きの言葉を遮った

「お前が困るんだよ。講師になったって事はテストも作る。当然その出来が評価になる…頑張って良い成績を取っても…『友達だから』って変な勘繰りされたくないだろ?」

「なるほど!あっでもその辺は心配ないですよ!きっと期待にそえる結果は出ないんで」

「はぁ~…」

今度は深く大きな溜め息をつかれた

「そんなんで…ホントに看護師になれるのか?」

「頑張りますよ!って言うか…薬局の店長さんってやっぱり薬には詳しいんですね!講師になれちゃうんだもん」

「…俺は店長だけど一応…薬剤師だ。だから講師をする」

「へぇ~そうなんですか!薬局の店長だからかと思ってました!」

「…お前…天然…か?」


広瀬さん…何か顔がひきつってる!?

No.194

「はい、お待たせ」

私の前に置かれたカップにはコーヒーが淹れてあったけど…ブラックを飲んでる彼とは違い、ちゃんとミルクと砂糖が添えられていた


「何で言わなかった?」

「へっ…?何をですか?」

「看護学校の事」

「言わなかった訳じゃなくて…今まで言うタイミングがなかったと言うか」

「だよな。ごめん」

広瀬さんが笑う

「実はさ…臨時で講師を頼まれたんだ。あの学校の元々の講師が俺の大学の先生だったんだけど急に体調崩してね…」

「そうだったんですか…ホントにビックリしました!」

「俺もだよ。まさか…友達が教え子になるとはね…そこでだ…ひとつ言っておくけど」

「はい?」


彼はあらたまった感じでソファーに座り直した

No.193

ピンポ~ンッ…

彼の部屋のチャイムを鳴らす……ドキドキし過ぎてチャイムを鳴らせず、玄関ドアの前に5分以上立っていた


カチャッ…


「こ…こんにちは」

「どうぞ」

久し振りに会った彼に人見知りに似た感覚を覚える

「お邪魔します」

部屋には柔らかな春の陽射しが入り、ベランダの窓際に立っている彼の髪が薄く透き通ってキラキラしていた

広瀬さんって…
綺麗だなぁ………


「何飲む?」

「えっと……広瀬さんと同じもので」

「了解」

そう言って彼はキッチンに入った

私はこの前と同じ場所に座った


「今日は仕事お休みだったんですか?」

「うん」

ソファーの前にあるテーブルの上に灰皿とタバコが置いてあった


…タバコ…吸うんだ

No.192

【広瀬さんって…何者なんですかっ?!】

慌ててメールを送る

【…突然メールで何だ?意味が解らない】

そうだよね
失礼しました

【『薬理学Ⅰ担当講師 広瀬 尚人』って…なってるんですけど…】

【なってるんですけどって…今どこにいる?】

【今日は看護学校の入学式で学校にいます!】

【そう。学校終わったらうちに来て】

え~っ!!
お邪魔します喜んで

【14時頃行きますね】


「あい、彼にメール?」

麻子が聞いて来た

「彼じゃないよ~友達だよ」

「ふぅ~ん…でも、あいはそのひとの事が好きでしょう?」

「えっっ?どうして?」

今日初めて話した麻子に…いきなり突かれて声が裏返ってしまった

「そんな顔してる。すっごく嬉しそうだもん」

「あはは…ホントに友達なんだよ」


…このひとは


講師名簿に書かれた
彼の名前


薬局の店長さんじゃなかったの!?

No.191

4月…


『仕事が忙しくなる』
と言っていたので…
特にメールを送る訳でもなく静かにしていた

看護学校の入学式が終わり、教室では教科書や参考書の配布が行われている

今までクラスは違ったけど…同じ学校から入った子もいた


「普通Bクラスにいた…松下さんだよね?」

「うん、えっと…情報科の蒲田さん…だよね」

「うん!蒲田 麻子。麻子って呼んでよ!宜しくねっ」

「宜しくね!私は…あいで良いよ」


今までずっと当たり前のように希呼がいたから考えた事がなかったけど…

ひとりはやっぱり不安だ

麻子が声をかけてくれて少しほっとした

「あい、これ取った?」

「あっ、まだ。ありがとう」

麻子から手渡されたのはカリキュラムと担当講師の名簿だった


へっっっ……!?


『薬理学Ⅰ』
【担当講師 広瀬 尚人】


えぇぇぇぇっっ!!

No.190

広瀬さんから返信が来たのは次の日でした


【昨日の…まるで告白のような回答だな…】


げっ……
お…重かった?


【思った事をそのまま送りました。ダメですか…?】

【いや、面白かった。
回答、受け取ります】


…これって
Okって事……?

【これからどうぞ宜しくお願いします!…で…良いですか?】

【こちらこそ。
具体的に何をどうしたら良いか俺も解らないんだけど…
とりあえず今月末から少し仕事が忙しくなるから。
それだけ宜しく】

【了解しました!】


こうして無事に?!
広瀬さんとの
『お友達交渉』は成立しました

No.189

【こんにちは!今日はお仕事ですか?
…さて…先日の課題ですが…
『友達になってどうするの?』
そんなの私にも解りません。
友達になりたいって言うのは単に口実です。
私は広瀬さんの事を知りたい。
それだけです。
『どうするの?』は
これから知っていく中で
『どうしたい』
に変えていきます。以上 】


………送信…



ピッ…

No.188

とは言ったものの……やっぱり気にはなる

二人が『親しい間柄』であるのは一目瞭然


ちゃんと…友達になれたら聴いてみよう

答えてくれるか!?

与えられた課題…


『友達になってどうするの?』


って…そんなの解らない


そう……だ
『解らない』から知りたいんだ


それじゃ…ダメですか?

No.187

希呼は…塔子が自分ではなく私の方に話しかけた事にとりあえずショックを受けていた


「話しかけられたらそれなりに困るんだけどさぁ~、私なんて…あんなビックなひとからは覚えても貰えてないんだろうなぁ……」

「気が付かなかっただけだよ」

「まぁねぇ…うちには女将がいるから、まだ直接絡む事はないんだけど……お正月に挨拶してるんだけどなぁ…担当のひと紹介してもらいたかったな」

「ごめんね…勝手に断って」


結構…そこのサロンで私達には『新人さん』らしきスタッフがつけられた

私にはその方が気が楽だったけど

「でもまさか尚人さんの相手が香月 塔子だったとはねぇ…あい…こう言っちゃなんだけど相手が悪いわ」

「あはは……やっぱり凄いね…あのひと」


まだ、広瀬さんと塔子に『何かある』と決まった訳じゃない

色は柔らかなピンク系 緩やかなパーマがかかったボブを私はとても気に入った


塔子に気後れなんてしない

No.186

「…ここのお客様?」

ふっ…と鼻で笑いながらそう言った塔子の大きな目は…希呼ではなく私を見ていた

「…今日が初めて…です…」

塔子の質問に答える私を驚いた様子で希呼が見る

「そうよねぇ。高校生?良かったら…私の担当を紹介してあげましょうか?」

「高校生…じゃありません。紹介も結構ですっ…」

馬鹿にされてる気がしたので断った


「あら…そう。そのままじゃぁ…とてもじゃないけど尚には相手にされないから。綺麗になって帰ってね」

「はい、そうしますっ」


そう返した私に塔子は……驚くくらいの魅力的で綺麗な笑顔を見せた


「またお会いしましょうね」


塔子が去った後は薔薇の香りの道が出来ていた

No.185

その『塔子』が席から立ち上がった


「ありがとう」

「不具合があればいつでもお申し付けください」

店員が深々と頭を下げ受付カウンターまで案内する……

私と希呼はと言うと…カウンターに近いソファーで隠れるように身体を小さくしていた……


「香月様、次のご予約は2週間後で宜しいでしょうか?」

「えぇ」

サラサラで艶々した髪をかきあげ彼女が答える


…すっごく手入れしてるんだろうなぁ…

思わず見とれる私を希呼が肘で突く


「ありがとうございました」

会計を済ませ店員にそう声をかけられた彼女が私達の方に身体の向きを変えた


「あらっ…あなた…」

彼女の声に隣に座っていた希呼の身体が緊張したのが伝わった

No.184

「あっっ!」
「あぁ~っ!!」


希呼と私…
ほぼ同時だった


ここは…市内でも有名な『カリスマ美容師』がいるサロン

敷居が高くて今まで入った事がなかったけど…


『本格的に若女将デビューをするから、どうしても行きたい』

と言う希呼と今日初めて予約を入れた


「えっ…?どうしたのあい?」

「希呼の方こそ」

「いやね、ほら…あそこの窓際に座ってるお客さん……老舗料亭の女将兼女社長なの…うわぁ~会いたくなかったっ」

「……あの席に座ってる髪の長いひと…だよね?」

「そうそう!うちらの間じゃぁ超有名人…」


その窓際の席に座っていたのは


「香月 塔子って言うんだけどねぇ……」


そう…その席に座っていたのは
あの『塔子』だった

No.183

【こんばんは!この前は色々とお世話になりました…】

……消去…ピッ…

広瀬さんにメールを送ってみようと試みるも…何を打っても不自然で消去を繰り返している

【お疲れさまです!この前はありがとうございました。お陰様で家族とも…】

消去……ピッ…

…う~ん…


ピロピロッ…ピロピロッ…

ベッドの上に投げ出した携帯が鳴った

あっ……あぁぁ~っ!ひ…広瀬さんっ!

震える手でメールを開く

【課題は出来た?】

はっ…?課題とは?

【課題…ってなんでしょうか…?】

送信

ピロピロッ…

【お友達になってどうするのか…の課題】

【…まだ…です】

送信

ピロピロッ…

【自分で言い出した事なんだからちゃんとクリア‐するように。じゃ、また】


えぇぇぇっっ

『お友達になる』って…そんなに大変な事なのっ!?

No.182

『松下家の晩御飯』

手羽元とじゃがいもの酸っぱ煮
春菊としめじのお浸し
小松菜と大根のお味噌汁
ご飯


「これはさぁ…ばぁちゃんが教えてくれたんだ」

兄貴が手羽元を器に盛りながら言った

「『男だからって家事をしなくて良いって事はない。覚えておけば、働くお嫁さんを見つけた時にお前もお嫁さんも助かるから』ってさ」

「…そうなんだ」


意外…だ

おばぁちゃんは…
仕事をしてるママを疎ましく思ってたとばかり思っていた

『仕事を選んで妻である事を放棄した』

そう言ってたから


「俺は…仕事をしてる母さんを尊敬してる。自分の嫁さんが仕事をしてたら…やっぱり一番に応援したいな。だから俺も力をつける」

綺麗な緑のお浸しの上に鰹節がかけられた


…聴いてみないと解らない事も…
やっぱりあるもんです

No.181

「生き方ですか…何かそんな感じの事を広瀬さんに言われました。生き抜く力をつけろって」

「あの子らしいわね…さぁ、尚人の話はこれでおしまい!あいちゃん、希呼、女将にも守秘義務があるのよ」

そう言っておばさんは奥の部屋に入って行った


「あっ!そう言えば理人君見たよ!女と一緒だった」

「へぇ~良いんじゃない?私にはもう関係ないよ」

「だよね。って言うか…あい…ますますハマッたね尚人さんに」

「うん」

「即答ですか!?」

希呼がのけぞった


「まずは友達からね」

「友達!?」

希呼が不思議そうな顔をした


「うん、始めてみないと解らないからね」

No.180

「あいは別に何もやましい事はないんだけどねぇ~」

「希呼っ。あなたね…尚人が店に来た時にこの話を出したら承知しないよ。お客様のプライベートを詮索するような言動は女将として言語道断!」

「分かってるよ」

「分かってますでしょ」

「あはは…」


やっぱり…携帯の事は暫く黙っていよう

「おばさんと広瀬さんって長い付き合いなんですか?」

「そうよ~あの子が大学生の時からだから…10年以上になるわね。大人になっちゃったわぁ」

「へぇ…」

女将さんは懐かしそうに言った

「広瀬さんって…前からあんな感じのひとなんですか?」

「あんな感じ?」

「…何て言うか…人当たり良さそうだけど…冷たそうで…でも優しい。広瀬さんって反するものが…微妙なバランスであると言うか…」

「あはは、それはあいちゃんよりもずっと大人だし。そうね…そう見えるのはあの子の生き方の表れなのかな」

女将さんは優しく微笑んだ

No.179

今日の夕顔の賄いは鰹のたたきの丼とあら汁だった


「いただきます」


客席の方には従業員さん達が座っているので私と希呼はカウンター席についた

女将さんはカウンターの中で帳簿の整理をしている


「おばさん…夕べはご迷惑をおかけしました」

「お母さんと彰ちゃんとは仲直り出来た?」

「あはは…はい。家に帰ってから…少し話しました。まだ…整理出来てない事もあるけど…私にはもう少し時間が必要な気がします」

「そう。あいちゃんももう子供じゃないしね。自分で答えを見つけなさいね」

そう言って女将さんは笑った

「で…おばさん…広瀬さんの事なんですけど…」

「私は尚人の事を信用してるからあいちゃんを頼んだんだけど…お母さんはきっと知らない男の所にいたなんて知ったらビックリするだろうからね。言わないわよ」

「ありがとうございます」

No.178

「で……話しだけ聞いてもらって帰ったの?」

「うん」

「マジで!?」


希呼の疑いの眼差し

「希呼が思ってるような事は何もないよっ!」

「別に私は何も言ってないよ~?でもさぁ、ドラマなんかじゃあるパターンじゃん…慰めてるうちに…みたいな」

ニヤニヤしてる希呼の顔を見てると…
何を言われるか想像がつくので
『携帯番号とアドレス』の事はまた今度話す事にした



「希呼~あいちゃ~ん、賄いが出来たから表にいらっしゃい」


店の方から女将さんの声がした


「はぁい」

希呼が返事をする

「女将も心配してたからさっ」

「うん…」

No.177

【夕べは大変だったらしいね!大丈夫?連絡してくれたら良かったのにっ!女将が今日うちに来なさいだってぇ!!ほら…尚人さんの事もあるし…ウフッ】

朝早く希呼からメールが入りました

ウフッって……

【心配かけてごめんねぇ…お昼に行くよ。女将さんにはお店が中休みの時に話すね】


…送信


ママは結局、寝ずに仕事に行きました


兄貴は美味しいお味噌汁とおにぎりを作ってくれました


私は今から洗濯です

No.176

それから私は朝方までママと兄貴と話をしました


ママが…『パパ』から私の養育費を受け取ってこなかった事を知りました

『ママは自分の力であいを育てる覚悟を決めてたから…ママが選んだ道だったの』

ママはそう言いました

兄貴は…私には『権利』があると言いました

『受け取るのも返すのもあいの自由だから』

…まだ答えは出せませんでした


『本当はね…パパはあいに会って直接渡したかったらしいの。でもね…勝手だけど…ママが断った。あいのパパへの気持ちが解らなかったから』

…これを聞いてしまったからです


『単に金に姿を変えてるだけの想い』


が…あったとしたら?


通帳には毎月同じ様な時期に積立てがしてありました

…『保留』と言う事で『パパ』には兄貴から伝えてもらいます


通帳はうちの『金庫』に入れました

No.175

「…ただいま……」

家に帰るとママと兄貴が待っていました


『あい…殴って悪かった!俺の事も殴れ』

兄貴は開口一番そう言いました
勿論…お返しはしなかったです

私を追いかけて来てくれた兄貴
兄貴を傷付けたのは解ってます


『希呼ちゃんのお母さんから電話があったわ』


ママに言われてドキッとしました
広瀬さんの事をどう説明しようかと……

でも…

『遅い時間までご迷惑かけちゃったわね。ママからも希呼ちゃんのお母さんに謝っておくから』


どうやら私は
今まで希呼の家にいた事になっているようでした

No.174

「あはは」

彼が大笑いしている

「そんなに笑う事…ないじゃないですか…」

私は出した手を引っ込めた

「ごめん、ごめん!この歳になって…まさか…お友達にしてくださいって言われるとは思わなかったから」

「変ですか?」

彼を見た

「あぁ…いやぁ~…オジサンと友達になってどうするの?」


そんなの上手く答えられない

カラオケ行ったり
ご飯を食べに行ったり
買い物に行ったり…?

やっぱり…おかしいか


「じゃぁ、考えておいてよ。あいちゃん」


そう笑いながら…
彼は携帯の番号と
メールアドレスを教えてくれました

No.173

「とにかく……これからの事を大事にすれば良い…過去に縛れる事は…ないよ」


彼はそう言って笑った

…その顔にドキッとする

何だろ……
凄く寂しい


「あのっ、広瀬さん!お世話になったついでと言ったら何なんですがっ」

「んっ?」


「もし…もし良かったら…これから仲良くしてもらえませんかっっ?」

「……はっ?仲良くって…?」


恥ずかしくてまともに彼の顔が見れない

でも…これのタイミングを逃したらきっと後悔する!


「広瀬さんの…お…お友達にしてくださいっ!」


「……」


勢い余って
『手』まで差し出してしまった

No.172

二人でエレベーターに乗りふと…思う


広瀬さんってどんな家族の中で育ったんだろ……


整頓された部屋
冷静沈着な言動
ひととの微妙な距離感
面倒…が口癖

だけど…さりげなく
優しい……


「…降りないの?」

そんな事を考えてたらいつの間にか1階

「すみませんっ」


ほらっ…やっぱりドアを押さえてくれてる

「玄関まで送るから」

「いえいえっ!それは大丈夫です!」

「ちゃんと…帰るか?」

「はい…」

そう言いながら2棟目のエントランスまで一緒に歩く


「何か……」

突然彼が呟いた

「はい?」

「さっきは余計な事を喋り過ぎた気もするんだけどさ……」

そう言うと彼は家に上がるエレベーターの前に立ち止まった

No.171

彼がソファーから立ち上がった時だった

「あっ…遅くなったけどチョコありがとう」

「いえっ!こちらこそ…雪だるまとサトちゃん…ありがとうございました」

「あはは、あの雪だるまは我ながら力作だった」

「希呼がサトちゃんのペンを欲しがってましたよ」

「あれね、従業員用に貰ったもので余りがないんだよな。希呼ちゃんには何か別なもの考えとくよ」

そう言うと彼はテーブルの上にあった携帯をポケットに入れた

「送るよ」

…『そこだから大丈夫です』

と…ホントは言えたけど…
もう少し一緒にいたい気持ちが勝ってしまった

あぁ…私も勝手だ

こう言うのも
『ずるい事』なのかな


「行くよ」

「あっ…はい!」

No.170

「その…仕方がない事の中で私はどうしたら良いんでしょうか?」

「そうだなぁ…それを変えていくのも、それに流されていくのも君の自由だ。いずれにしてもその中を生き抜く力をつけなきゃな。大人は君が言うようにずるい。でも君だって大人になっていく。どんな大人になるのかは…君が今からつけていく力次第だ」


生き抜く力…
どう言う事なんだろ

「やっぱり難しくて今はまだ良く解らない…でも……」

「でも?」

「ずるい大人にはなりません」

力を込めて言った

「あはは、これからが楽しみだな。とりあえず目の前の事からどうにかした方が良い」


広瀬さんが壁の時計に目をやった
もうすぐ日付が変わる


「短い家出だったけど…そろそろ帰った方が良いな。面倒な事をこれ以上拗れさせる事はない」

「…はい。ご迷惑おかけしました」

No.169

「俺が言えるのは…世の中大抵の事は金でケリがつく。金で解決させる事が最終手段になる事もある」

「それって…寂しすぎませんか?お金で買えないものはどうしたら良いんですか!?…ひとの気持ちってそんなものなんですかっ!?」


冷静な広瀬さんに思わずカッ…となる


「金を問題解決の結果ととるか、手段のひとつとするかで意味合いは変わるよな」

「えっ…?それはどう言う意味ですか?」

「…ん~俺は憶測でものを言うのは好きじゃないんだけど。…親父さんが君にあげた金がただの金だったのか……金では買えないものが単に金に姿を変えてるだけなのか……要するに毎月その積立てをする瞬間に、君の事を思い出し何かしらの気持ちを込めてた可能性もあるって事だ」

「そうだとしても…随分と…勝手ですね…大人って」

「そうだな。勝手だよな。でも…世の中仕方がない事で溢れてる」


彼はソファーにもたれ掛かり天井を見つめた

No.168

「了解」

彼は短くそう答えると私が座っていたソファーの隣に座った


「…は…話して良いですか?」

「…あはは、何か緊張してる?良いよ。自分が話したい事を話したいだけ話せば良い」


それから私は…
『ママとパパの事』
『兄貴と私の事』

『それぞれの今の家族の事』

そして…家を飛び出してしまった『経緯』を話した


彼は時々相づちを入れるだけで話し終わるまで…特に何かを言うような事はなかった


「…これが今までの事です」

「そう。君は…親父さんに会いたいの?」

「えっ…?」

「俺には…君が兄貴に嫉妬してるように聞こえた」

「…そうなんでしょうか…?」

「自分が無くしたもの、持ってないものを兄貴は持ってる。それは…君にとって金じゃ買えないものなんだろ」

No.167

「…あの~…」

「んっ?…何?」


電話を切ってからかれこれ小1時間が経つ……

彼は奥にあるベッドの横の机でパソコンをいじっている


「あの……」

「……うん、どうした?」

「何も聞かないんですね」

「…あぁ…何を聞けば良い?」

「何をって…どうして喧嘩になったの?とか…何で家出したの?…とか」

…何を言ってるんだ私


「俺に話して気が済むなら話せば良い。そうじゃないなら…自分で納得いくまで考えた方が良い。何があったかは解らないけど…その事に対して俺が言ってやれるのは所詮他人の言葉だ。君の家族の事も、君自身の事も…一番良く解ってるのは君だろ?」

彼はそう言って微笑んだ


「…すみません…言ってる事が難しくて良く解らなかったんですけど……」

あはは…と彼が笑った


「じゃぁ、俺にどうして欲しいの?」

「…あっ…出来れば…話を聞いて欲しいです。その広瀬さんが言う…他人の言葉で良いんで…広瀬さんに何か言って欲しいです」

No.166

「どうぞ」

そう出されたのはホットミルクだった

…広瀬さんはコーヒーかな…芳ばしい香りがしている


「…連絡くらい入れとけば?兄貴のあの勢い…捜索願いなんて出されたら面倒だぞ?」

「……」

「出来ないのか?」

「なんて連絡したら良いか…分からなくて」

私がそう答えると彼は暫く何かを考えている表情をしていた

沈黙が続く……


「悪いけど一ヶ所だけ連絡を取らせてもらうから」

彼はポケットから携帯を取り出した


『女将さん?広瀬です…はい、今日は休みでしょ?知ってますよ。希呼ちゃん卒業式だったそうで………はい、おめでとうございます。えぇ…えぇ…はい』

連絡って希呼のとこ!?

『実はですね……うちで今、女の子を預かってまして…希呼ちゃんの友達のあいちゃんです…はい』


それから彼は
『きっと家族が心配している』
『お兄さんがそっちに来るかも知れない』

そして…

『落ち着いたら私が責任を持って送り届けます』

と言って電話を切った

No.165

広瀬さんの後から歩きエレベーターに乗る

直ぐに閉まるはずがないのにドアを手で押さえてくれていたのを…私は見逃さない


「どうぞ」

部屋のドアが開けられた

「お邪魔します…」

いざ部屋に通されるとやっぱり無防備過ぎた気がした……

ママや兄貴がこれを知ったら…

うぅん…私は『家出』したんだから…!思うままに動こう

彼の部屋はうちとは違って広い1Rだった

彼のイメージ通りと言えばそれまでだけど…
綺麗に片付けられた無機質な部屋は『出来過ぎ』ていて何だか寂しかった


「適当に座ってて」

「はい」

彼はそのままキッチンに入りお湯を沸かし始める

「…猫ちゃんは?」

「あぁ…俺が家を空けなきゃいけなかったのもあるんだけど諭のところに帰ったよ」

……残念
可愛がられてたアナタに一度くらいお目にかかりたかったです

No.164

「…広瀬さん?」

彼の顔を見上げた

「あぁ~あ…行っちゃったよ…君の兄貴」

行っちゃったよって…私を隠したのは…広瀬さんですよねぇ


はぁ…と深い溜め息をつき彼は車の陰から出た

「じゃぁ、さようならって訳にはいかないよな。家に来るか?…とりあえず」

「はい!」


即答した
面倒臭そうな言い方だけど…顔が笑ってたから


「…もうちょっと警戒しろよ女子高生…」

「もう女子高生じゃないです。今日が卒業式だったんで」

「そうなんだ…おめでとう。めでたい日に家出なんて…一生忘れられない日になるな」

そう笑いながら彼は歩き出した


「…来ないのか?」

彼が振り向く


「行きます!」


こうして…私は『保護』されました

No.163

「…こんばんは」

そう返した私をジッと見ている
泣き顔を見られたくないので…また下を向く

「…こんな時間に…散歩?…な訳ないか…どうしたの?」

「……」

「家族と喧嘩して…家出なんて言わないよな?…おい、それは面倒だぞ」

「…面倒なので…放っておいてください」

頭を下げ広瀬さんの横を通り過ぎる


「あい~!?」


エントランスの方から兄貴の声がした

追いかけて…来た

反射的に脚が走り出す


「ちょっ…おい!」

広瀬さんに腕を掴まれ動けなくなった

「離してください…」

「…あれ…兄貴か?」

「…はい…今は会え…ない」


私の返事を聞いてしまうかしまわないかのうちに…広瀬さんはマンションの高い塀と車の間の死角に私を引っ張り込んだ


広瀬さんの身体ですっぽりと隠れる私


私達に気付かず敷地を走って出て行く兄貴の足音だけが聞こえていた

No.162

1階に着き暫くエレベーターを見ていた


…動かない


追いかけては来ないのか


エントランスを出てマンションを見上げる

自分から飛び出しておきながら追いかけて来るのを待つのも変な話だ

希呼の家には行かない事にした
今頃…卒業祝いで家族団欒だろう
のこのこ行って水を差す訳にもいかない


私には…行くところなんてないんだなぁ


図書館横の道路へと続く舗道
道路まで規則的に並ぶ煉瓦の模様を数えながら歩いた


ふと…小学校の合唱会で歌った
『上を向いて歩こう』
が頭を過った


上を向いて歩けば…
この涙は止まるのか!?


ドンッ…


「あっ…すみません」

「いえ、こちら…こそ」

下を向いて歩いていたら誰かにぶつかった

「こんばんは」


前に立っていたのは広瀬さんだった

No.161

家を飛び出してそのままエレベーターに乗った

静かなエレベーター…1階に着くまでに妙に冷静になってきた


お財布も自転車の鍵もない……かろうじてスカートのポケットに携帯が入ってるだけ


希呼のところに行こうか……私が彼女の家に行くのはママも兄貴も察しがつくだろう…


って言うか…
あんな事を言った私を二人が迎えに来るんだろうか


迎えに来たら?
迎えに…来なかったら?


『家出』なんて初めて
兄貴のあんな怖い顔も…勿論…殴られたのも初めて
ママの…あんな声も


ありきたりな
つまらないホームドラマのような展開に少し笑えてきたけど


冷静になっていく頭とは裏腹に
エレベーターの床には…涙で不規則な模様がたくさん出来ていた

No.160

「何…コソコソしてるの?ママが会った事…このお金の事…相手の…今の奥さんは知ってるの?…もう他人なんだよ?」

「あい!!母さんを責めるな」

今まで聞いた事のないような強い口調で兄貴が言った


「責めようにも…当の本人がいないじゃない!離婚してから8年…私に一度も会いに来てないよ?何…?今までの事は300万でチャラって訳?」

止まらない……

通帳を兄貴に投げつけた

「お金なんていらないっ……私は…棄てられたんだから。こんな中途半端な事しないで欲しい…棄てたものの事はさっさと忘れてって言っといて!ママも…解ってるの?もう他人のものなんだよ…あのひとはっ」

パンッ…

兄貴に…頬を叩かれた

「お兄ちゃんっ!」

ママの悲鳴に近い声が響いた

「…兄貴は良いよね。新しい家族とも…お古の家族ともこうして自由に会えるんだからさ…」

ママが泣いてるのを横目で見ながら私は家を飛び出した

No.159

「…あいの看護学校の費用は心配しなくて良いからね。ママがちゃんと準備してるから」

「…じゃぁ…これはいらない」


私はテーブルの上に通帳を置いた

「私には必要ないお金だし…兄貴から返しといて」

「あのな…あい…」

困ったような顔の兄貴

「それはあいが受け取って良いものなのよ…学校の合間にバイトも出来るだろうけど実習や国家試験前にはそんな暇なくなるんだから。そうだ!今から車だって欲しくなるはずよ」


ママが…無理して明るく振る舞ってるのが解った


「この通帳…兄貴が持って来たの?」

「違う…」

「えっ…?」

「ママが直接…パパから預かったの」

「…ここに来たの?」

「うん…こっちで仕事があったのもあるんだけどね」


あの日だ…
ママが私よりも早く帰ってた日


「……最低」

思わず口をついて出た私の言葉に二人が止まった

No.158

テレビを消したリビングは一気に静かになった


「あい…これ」

ママが鞄からおもむろに出してきたのは
『貯金通帳』と『印鑑』だった


「通帳…?」

「うん」

兄貴が返事をする

手に取り見てみると…その通帳には
『パパ』の名前が書いてあった…


「……何…これ?」

「パパからの…卒業祝いよ」

ママが静かに言った

「パパからの?」

中を開けて見ると
300万円の積立てがしてあった


「父さんが…あいの自由にして良いって言ってる」


「…自由に…?そんな事…急に言われても…」

そうだ…いきなり
何なんだ……

No.157

『松下家の晩御飯』

神戸牛のすき焼き
紅白なます
赤飯


「あぁ~…もう無理!食べられない…」

「…よく食ったなぁ…多めに頼んで正解だった…」


こんなご馳走、滅多に食べられないからね!しっかり戴いとかなきゃ

ママは今日は兄貴と一緒にワインを開けた


「さて…あい。今から少しママとお兄ちゃんから大事な話があるんだけど」

「なぁに?改まって」

…どうせ
『もう高校生じゃないんだからね』とか
『今からはちゃんと勉強しなさい』とか
『看護師って言うのは』とか…でしょ?

「はいはい、頑張りますよ今からは」

「まぁ良いから…こっちに座れよ」


ママと兄貴、私の三人でリビングのソファーに座った

「ちょっと…テレビ消すわね」

ママがリモコンを手にした


えぇぇぇっ…
観てたのにっ!!

No.156

卒業式が終わり家に帰ると既に兄貴が来ていた


「あい、卒業おめでとう!」

「ありがとう!色々とお世話かけました。このまま引き続き宜しく!」

「何だよそれ…『今後は心配かけないようにします』だろ…普通」

「ほらほら、あい!凄いよこれっ」

ママが興奮しながら冷蔵庫から何かを取り出した

「おぉぉぉっ!」

「神戸にいる友達に頼んで送って貰ったんだ…可愛い妹の為に奮発させて頂きました」

箱の中に綺麗に折り畳んである霜降りが素敵な神戸牛…!

「赤飯も炊いたからさ。今日はすき焼きにしような」

「やったぁ!!」

持つべきものは
料理上手で太っ腹な兄貴よね

No.155

それから暫くは広瀬さんと会う事はありませんでした

薬局の前を通っても
マンションの駐車場を覗きに行っても…車がない……

どこか旅行にでも行ってるのかな…?


卒業式

やっぱり希呼のお母さんは豪華な着物姿

「あいちゃんこれからも希呼と仲良くしてやってね!頑張って看護師さんになるのよ」

「はい!」


うちのママは入学式でも着ていた黒のフォーマルなスーツ…

でも…一応美容院には行ってきたみたい


「お互いちょっとだけ肩の荷が下りたわね」


なぁんて希呼のお母さんと話してました

希呼は…めずらしく目をウルウルさせて式に臨んでいました


私は……
大泣きしてしまいました


今日で女子高生は終了


『良い大人の女』
を目指します!!

あと
『白衣の天使』ね

No.154

『松下家の晩御飯』

お豆と豚肉のトマトカレ‐
オニオンスープ
カリカリベーコンとベビーリーフのミモザサラダ


今日は帰りが早かったママが晩御飯を作っていました


「随分帰りが早かったね。めずらしい!」

「うん。今日はちょっと用事があって午前中で帰って来たの」

「ふ~ん、そうなんだ」

「卒業式の日、お兄ちゃんが来るんだって」

「えっ!?兄貴卒業式に来るのっ!」

『パパ』がいないからってそれはちょっと…

「あはは~、式には出ないわよ!大学が休みに入るし卒業式に合わせて来るって。何のご馳走作ってくれるだろうねぇ!」

おぅ、兄貴シェフ!
これは期待出来ます!

「ママは卒業式の日は何着てくるの?」

「入学式で着たスーツよ?」


…希呼のお母さんは勿論…派手な着物なんだろうな

うちのママは贅沢をしません
看護師と言えども…
女手ひとつ

今までお金の心配はした事がなかったけど……きっとママは色んなものを我慢してくれてたんだろうなぁ……

No.153

「ただいまぁ」

あれっ…リビングの電気がついてる

カチャッ…

「おかえり!ちょっと…冷蔵庫の中…あれ何!?」

今日はめずらしくママの方が帰りが早かった

「雪だるま」

「…見れば分かるわよ…自分で作ったの?」

「あっ、うん。雪も…終わりそうだったし」

「まるで小学生ね。出してちょうだいよ」

ママは呆れたように言った

「はぁい」

冷蔵庫を開けると朝より少し頭が傾いた雪だるまが座っていた

暫く眺めたあと…思い切って3棟目の方に向けてベランダに出した

…名残惜しゅうございますっ…雪だるまさま!!

明日の朝は…もう形を留めてないかも知れない


でも…あなたの事は絶対に忘れないからね

No.152

今日は一日中フワフワした気分だった


『サトちゃん』のボールペンを希呼が欲しがって困ったけど…
頑なに拒む私に

『私も尚人さんに貰らっちゃおっと!』

と悪戯っぽく笑った


言えばきっとくれるよ
私には『これ』じゃないと意味がないんです


『それにしても…やっぱり掴めないひとだよ尚人さん。雪だるまなんて…すっごく意外!!』


希呼はそう言って大きな目を丸くした


そう…!

きっと広瀬さんは希呼が想像してるようなひとじゃない!


一日中…
雪だるまを作ってる彼を想像してニヤニヤしながら過ごした


でもホント…

どんな顔しながら作ったんだろ…?

No.151

次の日…
マンションのエレベーターを降りてそのまま広瀬さんの車を覗きに行った

今朝は出勤が早かったのか既に駐車場には車がなかった

…ちゃんと気付いてくれたかな…
手渡しは出来なかったけど…少しでも気持ちが通じてますように……

そんな事を考えながら駐輪場に向かう

3日間…降ったり止んだりした雪は完全にやみ今日は快晴

これなら自転車で行けそうです


自転車のカゴにバッグを入れようとした時に何かが入っているのに気が付いた


……雪だるま!?


小さな雪だるまがカゴの中から私を見上げている…

誰かのイタズラ?!

あっ…!


雪だるまの傍に
『サトちゃん』の人形がついたボールペン…


ボールペンには紙が挟まっていた


『ありがとね』


広瀬さんからだ!!

嬉しくて嬉しくて
飛び上がってしまった

雪だるまをそっと持ち上げ急いでエレベーターに乗る


溶けちゃうかもしれないけど…!


その雪だるまを冷蔵庫に入れ温度設定ダイヤルを『強』にした

No.150

今日はバスで帰る

運良くバスには直ぐに乗れた

…夜のバスって何だか怖いよね…

薄暗い電気の車内…
乗っているのは私と会社帰りに見える女性の二人だけ

あまりに静かで…どこか違う所に連れて行かれそうな錯覚さえする…

曇った窓ガラスに
『ハート』をひとつ描いた

図書館前のバス停で降り真っ直ぐマンションの3棟目を目指す

…あっ車が…ある

ボンネットから微かに湯気がたっていた

帰って来たばっかりなんだ……


チョコが入った袋の中にカードを入れる


『この前はご馳走様でした!チョコ…猫ちゃんにはあげないでくださいね』


雪が入らないように袋の口をしっかり縛り運転席側のサイドミラーにぶら下げた


サクサクサクサクッ……


家々の灯りで金色に光った雪を踏みしめて歩く


おやすみなさい…

No.149

私も…幼稚園の時には鏡文字に苦労した
『おがわ』の【お】と
『あい』の【あ】…

3つ上の兄貴にからかわれて悔しくて泣いた

ママは
『そのうち書けるようになるわよ!』
と…笑って励ます

『パパ』は……
私が癇癪を起こして投げた鉛筆を静かに拾い…私を膝に抱っこすると一緒に鉛筆を持ち、何度も【お】と【あ】を書いてくれた


そんな『パパ』が…
私も大好きだった


そのうち単身赴任になり…『大好き』だったはずの『パパ』がいない事に馴れて……離婚…


私の『パパ大好き』は…どこに置いて来ちゃったんだろ……


「あいちゃん、今日はありがとねぇ!上がって良いよ」


結局、バイトが終わったのは21時だった…

No.148

バーコードのシールを外し包装紙を選ぶ

「それがいい!!」

カウンターの下から顔を覗かせた女の子は赤地に金色の星がついた包装紙を指差した

「これね」

箱の大きさに合わせて紙を切る

「これも一緒にいれてね!」

小さな紙にクレヨンで描かれたたくさんの『ハート』…たどたどしく書かれた文字は
『ぱぱだいすき』…

【き】が鏡文字になってる……


なんか良く解らないけど……それを見たら熱いものが込み上げた

「可愛く包んであげるから…待っててね!!」


心を込めてラッピングする

「はい、どうぞ!このシールを持って隣のレジに行ってね」

「ありがとっ!」

満足気な笑顔を見せ女の子はお母さんの手を引っ張りレジに並んだ

No.147

断れなかったのは…私が悪い…

バレンタインの駆け込み客の為にひたすらチョコを包装する…

1個105円の義理チョコにだって小さなリボンを留める


「ちぃちゃん、パパにあげるのはこれで良いよ」

「ダメダメ!それはちっちゃいからダメ!」
幼稚園くらいの女の子とお母さん
お母さんの手には315円のチョコ…
女の子の手には1050円のチョコ……

「こっちで充分なの!」

「ちぃちゃん、お小遣い持って来たもん!ちぃちゃんがパパにあげるんだもん!」

女の子の手にはピンクのお財布が握られている
女の子は頬を膨らませ頑と譲らない


「はい、これ!」

強引にも女の子はその1050円のチョコを私の所に持って来た

「…えっと……どうしましょうか?」

お母さんを見る

「はぁ~…適当に包んでください」

「はい。分かりました」

No.146

お昼休み

何故かバイト先から着信が入っていた

…なんか…嫌な予感
このまま見なかった事にしようかな……

やっぱり気がひけて電話をかける


『…もしもし?松下ですが』

『あぁ~あいちゃん!今日は学校?ごめんねぇ~』

『いえ…何ですか?』

『いやね、今日さパートさんが3人休んでてさぁ~インフルエンザなんだけど。都合つくなら学校終わったら出てきてくれないかなぁ』

げっ……

『他に誰もいないんですか?』

『いないんだよね。お願いっ!ねっ?今日は忙しいんだよ』

……なんだかんだ言っても…ずっとお世話になったバイト先
今月いっぱいで辞める訳だし……

『……分かりました。でも、なるだけ早く帰らせてください』

『ありがとう!あっ…今日はバレンタインだもんねぇ…もしかしてデートかなぁ?』

店長のやらしい言い方に少しムッとする

『じゃ、切ります。お疲れさまです!』


…断れなかった…

No.145

それから…雪は本降りになり…歩くと
サクサク音がするくらいまで積もった…

あと半月もすれば3月だと言うのに厳しい寒さは続く


バレンタイン当日
マンション前で渡そうと決めたけど…いつ会っても良いように学校までチョコを持ち込んだ

今日はバイトが休みだから学校が終わったら一応薬局に寄ってみよう

今日仕事だったら… さりげなく聞くんだ

『仕事は何時までですか?』

って…

もし…休みだったら?

それでもし出掛けてたら?


…勿論…待つしかない


とにかく
渡す事だけ考えよう!

No.144

「希呼!私…広瀬さんの事頑張ってみるっ!!」

朝いちで希呼を掴まえ堂々宣言

「…あはは…了解。援護させて頂きます…」

希呼はやっぱり
『仕方ないなぁ』と言うような顔をした

「でね、実はバレンタインのチョコも買っちゃったんだぁ」

「早っ!って…もう明後日か…今年は相手がいないよ私は」

「え~っ、諭さんにあげないの?」

「諭さんはそんなチャラチャラしたもの受け取らないよ!だって硬派だもん」

希呼はキラキラした目で言った

…そうかなぁ?
普通に受け取ってくれそうだけど

早くあのお店の事を希呼に教えてあげたいけど……
仕事の邪魔をさせる訳にはいかないのでもう少し我慢

「バレンタインが終わったら…もう卒業だね」

「ホントだねぇ…」

袖口が少し擦れたブレザ‐も…直ぐにプリーツがとれちゃうこのスカートも…もうすぐ終わり


「うわっ!雪だよあい」

窓の外はチラチラと白い雪…校庭が…粉砂糖を振りかけたお菓子のようになっていた

No.143

『松下家の晩御飯』

厚揚げとキノコのそぼろあんかけ
松イカのカレ‐粉炒め
枝豆ご飯
長芋と人参の味噌汁


解凍しておいた枝豆を冷蔵庫から取り出し皮をむく

ご飯が炊けたら混ぜるだけ

カレ‐粉の良い香りが部屋に充満してる


チョコは…薬局じゃなくてマンション前で渡そう
ご近所なんだし仕事場まで行くよりずっと自然だ


ピロピロッ…ピロピロッ…

『ママ』

【後15分くらいで帰れそうです!今日のご飯は何かなぁ~お腹空いてまぁす】

【了解!気をつけて帰って来てね】

…送信

丁度良い感じでご飯が炊けそう!


…諭さんのお店
広瀬さんと行ってみたいなぁ……


出汁と具が入った鍋を火にかけ煮たったら火を止め味噌を溶かし味見……


ちょっと…味噌が多かった?!

No.142

プルルルルッ…プルルルルッ…

「ちょっとごめん……はい、もしもし?お疲れさまです…はい……」

電話で話す諭さんを見てると…あの日の出来事を聴いてみたくなった

自分で決めて納得する……


あの日…諭さんとあの女性は抱き締め合った時に…何かを決めて…何かを納得したんだろうか……


「分かりました。今から行きます」

電話が切られた

「俺、今から行く所があるから」

「あっ…はい!お邪魔しました。ありがとうございました!」

「今日の事は…希呼ちゃんと尚人には秘密な」

ストーブを消しながら諭さんが言った

「はい」

「…えっと…名前は?聞いてなかったよね?」

「松下 あいです」

「へぇ~あいさん。どう言う字を書くの?」

「平仮名です」

「そうなんだ。この店も『あい』って名前なんだ。宜しくな」

No.141

「…後悔したけど…結果は同じだった。第三者がとやかく言ったところで…本人が納得しなきゃ何も変わらないし何も始まらない」

「…はい……」

「君が尚人の事をどんな風に見てるのか俺は解らないけど…納得するには自分で決めた方が良い…言ってる意味…解るかな?」

「解ります」

「軽く口を挟むなら…なんで16も離れたオヤジなんだよ!?って感じなんだけどさ」

カラカラと諭さんは笑う

「…ですよね…こんなに歳が離れてて…相手にしてもらえるのかなって…思います」

「あはは~、まぁ俺らからすると犯罪レベルではあるよな。でも君は今から大人になっていくし…君次第なんじゃない?焦らず良い女になりなよ」


そっか…今からなっていけば良いんだ…

色んなものがごちゃごちゃになって重くなってた心が軽くなった

No.140

「まだ電気系統の工事がちゃんと出来てないから…」

そう言って諭さんは壁に設置された工事用の明るい電気をつけ石油ストーブに火を入れた

「はい」

手渡されたのは少し温い缶コーヒーとビールケース
諭さんはケースをひっくり返すとストーブの近くに座った

「お邪魔します」

私もストーブの前に座る

「…18……だっけ?」

コーヒーを飲みながら諭さんが聞いてきた

「はい、18です」

「羨ましいなぁ~…じゃぁ卒業もうすぐだな…卒業したらどうするの?」

「看護学校に行きます」

「……看護学校…」

「はい、マ…母と兄が看護師で…」

「…そっか。頑張らなきゃな」

諭さんはタバコに火をつけた

「俺はひとの恋路にとやかく言うのは基本的に趣味じゃないんだよね」

「…はい」

「でも……前にそれで少し後悔した事があって」

そう言うと諭さんはストーブの火を見ながら暫く黙ってしまった

No.139

「あのっ…諭さん!広瀬さんと…広瀬さんと仲良くするにはどうしたら良いですかっ?」

「えっ…!?」

驚いた顔の諭さん…
勢い余って大変な事を口走ってしまった

「……えっと…」

諭さんは困った顔をした

「あぁ~…すみません!変な事を聞いて…!忘れてくださいっ!ホントにすみません…」

自分の顔が真っ赤になってるのが分かる

「あはは、仲良くしてやってって言ったのは俺だもんな。謝らなくて良いよ…丁度一服しようと思ってたとこ…良かったら入って。缶コーヒーくらいしか出せないけど」


そう言うと諭さんは入口のドアを開けてくれた

No.138

「…ここは…?」

私は工事中のビルに視線を移した

「あぁ~俺の店が出来るんだ」

「そうなんですか!何のお店ですか?」

「創作料理の店」

「へぇ~!」

「あっ!希呼ちゃんにはまだ秘密にしといてな。忙しいから今は絡まれると困るんだ」

諭さんは苦笑いした

「あはは、分かりました。でも…オープンしたら呼んであげてくださいね!希呼も夕顔の若女将ですから」

「分かってるよ。俺の方がこの辺りじゃ新入りだからな。ちゃんと挨拶はする」

まだ工事が始まったばかりなんだ…

ガランとしたビルの中を腕を組みジッと見る諭さんの横顔は真剣だった

「そう言えば…尚人と同じマンションなんだって?」

「あっ…はい。建物は違うんですけど」

「そうなんだ。まっ、仲良くしてやって」

仲良くってそんなっ!勿論…出来たらしたいですっ!

No.137

「じゃぁ、明日も宜しくお願いします」

車道に出たトラックに向けて頭を下げるひと…

プップッ…

トラックがクラクションを鳴らし走り出す

そのひとはまた軽く会釈すると後ろのビルに向きを変えた
その時に…目が合う

「諭さんっ…ですよね!?」

諭さんは目を細め眉間にしわをよせた

「…えっと…この前スーパーの駐車場で助けてもらった者です!」

「スーパー…?」

「あっ、希呼の…」

「あぁ!あの時の」

思い出したとたん諭さんは笑顔になった

「あの時はありがとうございました!お礼が言えなくて…すみませんでした」

「あはは、そんなに恐縮しなくても。俺も忘れてたから」

カラカラと笑う諭さん
…忘れてた…助けた側なのに…凄い!

ホントに『情に厚い』ひとなんだろうな

No.136

そんな事を考えながら自転車をこぐ

緩やかな傾斜になっている橋を立ちこぎで渡りきり今度は勢い良く下る

おぉ~っ寒いっ!!

そのまま止まる事なく青信号を突っ切った

次の信号…このまま止まらずに渡れたら…きっとチョコを渡せる!

時々…私はこうやって『賭け』をします

信号を渡れたらとか…
購買部に人気のクリームパンが売れ残ってたらとか
学校に着くまでに犬を3匹見たらとか……


おっ!この調子だと渡れそう!

そう思った時に少し前のビルからトラックがバックで出てきて道をふさいだ

……あぁ~…

トラックが車道に出るまで進めない

建物に目をやると何か工事中だった


…ここは…そうそう!古いコンビニがあった所だ

1階がテナントになっているビル
2階から上は賃貸マンション

何かお店が出来るんだ…

No.135

希呼の家から帰る途中…デパートに寄って買い物をしました


『この前はご馳走さまでした。これお礼です』


そう言って彼に
『バレンタインチョコ』を渡してみよう…と


甘いものが好きか分からないから…小さめのビターチョコを選びました


『好きです』
『付き合ってください』


…それはまだまだ言えないです

せめて…彼がチョコを食べる時に少しだけ『私』の事を思い出してくれたらいい


そう思います


あっ…!
猫ちゃんにはあげないでくださいって言わなきゃね


でも……
どうやって渡そう…?

No.134

「…でもやってみないと解らないじゃん」

「付き合うのは面倒って尚人さんは言ってる…『身体だけの関係なら良いよ』って言われても良いの?…あいさぁ…理人君が他の女に声をかけただけで別れたよね?要は…絶対に自分のものにはならない相手なんだよ。尚人さんは」

…確かにそうなんだけど…自分で確かめないと解らない

「…ひとって変われるよ…私はそう思う」

「完全にやられちゃってるねぇ……解った!あいの好きにしたら?…仕方ないから私もそれに付き合ってあげる!」

「うん、ありがとう希呼。心配してくれて」

「でも…ひとは変われるけど…何かが欠落した部分を埋めていくのは大変だよ」

「欠落…?」

「完璧そうに見える…見せてる尚人さんには何かが足りない気がするんだ…私」

…何かが足りない?希呼は時々…私には難しくてよく解らない事を言う…

「…あいは…変わってしまわないでね。私の大事な親友なんだから」


そう言うと希呼は私の手をぎゅっと握った

No.133

「早い話…彼女はいらないけど『女』はいるって事でしょ」

希呼が言った

「どう言う意味?」

「尚人さんが自分で言ってるじゃん。付き合うのは面倒だって。割り切った『女』なら良い。つまり身体だけって事」

「えぇぇぇっ…!」

「そんなに驚く事ないんじゃない?いるよそんなヤツ」

サラッと言われてしまった

「あいには…無理だよ。諦めな」

「まだホントにそうだって決まった訳じゃないもん!それに……」

「それに?」

「…私にはそうは思えない。広瀬さんは違うと…思う…」

「はぁ~…恋は盲目って言うけど……尚人さんの事、何にも知らない訳じゃん?深入りする前に止めておきなよ?…泣くのはあいだよ」

希呼は真面目な顔をしていた
希呼は『うちの事情』を良く知ってる
私が『普通の家庭』に憧れてるのも……寂しい思いをしてきたのも…

「あい?…わざわざ自分から面倒な相手を選ぶ事ないよ。今からだって色んな出会いがあるんだからさ。尚人さんは…無理だよ」

No.132

誰もいない部屋に向かって『ただいま』と言う気にもなれず…無言でリビングに入る


…喉が渇いた

冷蔵庫からミネラルウォターを取り出しその場で一気に飲んだ


『誰あなた?』

…塔子さん貴女こそ誰ですか?

『彼女はいない』って広瀬さんは言ってたけど…
ただならぬ雰囲気…

悔しいけど『お似合い』だった


塔子さんは広瀬さんと同じような『匂い』がしてた


今日は広瀬さんについて色んな事が解った

でも…『塔子』の出現で彼がますます解らなくなった

No.131

カツカツカツカツッ…

静かなマンションにヒールの音が高く響く


「…尚どこ行ってたの?…誰?その子」

サッと私に視線を移し広瀬さんを見る
…あの…ロングヘア‐のひとだった


間近に見ると…もの凄い迫力…やっぱり綺麗だ…


「…何しに来た?」

冷ややかな彼の声に私が硬直してしまった

「今日行くって言ってたでしょう?」

「そうだったかな…」

「何回も電話したんだから!」

「悪い。音、切ってたから」

「…で…誰あなた?尚…いつからこんな子供を相手にするようになったの?」

そのひとは広瀬さんの腕に自分の腕をまわした…

「塔子。…ごめんじゃぁ…」


そう言うと彼は『塔子』の手を掴んでマンションに入って行った


私は暫くその場から動けなかった

No.130

『じゃぁ、あの時のあのひととあの時のあのひとは誰?』

…さすがにそれは聴けない

「広瀬さんは…理想が高そうですね」

「あはは、そんな事ないよ。カワイイ女の子はみんな好き」

「あはは…」

上手くかわされた

「モテそうなのに何で彼女作らないんですか?」

「…女子高生は質問が好きだな。そんなに気になる?」

「はい、とても気になります」

情報は自分で収集しないとね


「付き合うって形をとるのが……苦手。早い話…面倒」

「……はぁ…」

これは…撃沈…か?

「あっ…!」

急に彼が声をあげた

「なんですか!?」

「思わず2棟目通り過ぎた…」

残念…もう着いちゃった

「良いですよ。直ぐそこだからここで降ります」

「ごめん」

そう言いながら彼は車を駐車場に停めた

ステップに足をかけ降りる

「あはは、そんなに飛び降りなくても」

「…慣れてないもので」

んっ…?
マンションのエントランスの入口に人影が見えた

No.129

「なんかすみません…ご馳走になったうえに送ってもらっちゃって」

「気にしないで。同じ所に帰るんだから」

同じ所…嬉しい響き!
まぁ…厳密に言えば違うんだけど…

神様がくれたチャンスだと思って…思い切って聴いてみる

「広瀬さんは…付き合ってるひといないんですか?」

「いない」

「そうですか」

心の中で万歳!
でも…冷静に…

「俺もいい歳だから。時々…変な趣味でもあるんじゃないかって疑われるけどね」

「変な…趣味?」

プッ…と彼が吹き出した

「この間…ある子に『女に興味がない』って言ったら真面目な顔して『そうなんだ』って返されてさ…まさかあの子…まだ信じてたりして」

楽しそうに思い出し笑いをする広瀬さん

「好きなひとも…いないんですか?」

「…いないよ。そんなにオジサンに興味があるの?」


あります…かなり

No.128

「あの時の元彼…あれから大丈夫?」

「あぁ…大丈夫です。その節はありがとうございました」

「いやいや、割って入ったのは諭だから」

「あはっ、『売られた喧嘩はきっちり買うことにしてる』って言ってました」

「そんな事言ったのあいつ…子供相手に何言ってんだか…」

広瀬さんは苦笑いした

「でも…ホントに助かったんです。感謝してます」

「あいつは昔からそうなんだ。クールな割には見て見ぬ振りが出来ない。何だかんだ言っても情に厚い」

「…素敵なひとなんですね諭さんって」

「そうだな…俺には真似出来ない」

「…そうかなぁ。広瀬さんも優しいですよ」

「あいつの優しさとは…俺のは違うよ。そろそろ、出ようか」


そう言って広瀬さんは話を終わらせた…

何だろう…この僅かな引っ掛かり感…

No.127

「…30代と10代が食う物ってやっぱり違うんじゃない?ホントにこんな和食で良かった?」

「はい!あっさりしてて美味しいです」

広瀬さんは食べ方がとても綺麗だった
お箸の使い方もお茶碗の持ち方も…
こう言うのを『品』って言うんだろうか…

「……何?そんなにジッと見て」

彼の箸が止まる

「広瀬さん綺麗だなぁ…と思って」

「はっ?」

はっ…!『箸使い』が抜けてた

「お箸の使い方が綺麗だなって…!」

「ありがとう。いきなり『広瀬さん綺麗』って言うからビックリした」

「男のひとに綺麗は失礼ですよね。広瀬さんはカッコイイです」

どさくさ紛れで言ってみた

「あはは、オヤジをからかうなよ」

「全然オヤジじゃないです!カッコイイです!」

言葉に力を込める

「18の子にそんな事言ってもらえるとは…俺もまだまだ捨てたもんじゃないな」

広瀬さんはニッっと笑った

No.126

「…あいちゃんって…希呼ちゃんと付き合い長いの?」

「はい。幼なじみです…小学校からだから12年くらいです」

「へぇ~そうなんだ」

驚いた顔の広瀬さん

「どうしてですか?」

「ん~?…随分とタイプが違う二人だなぁと思って」

「あはは、ですよね。広瀬さんも諭さんと幼なじみなんですよね?希呼が言ってました。私達とは比べものにならないくらい長い付き合いですね」

「…あぁ。うん」

そう短く答えた彼…一瞬『間』が空いた気がした

何か…マズイ事でも言ったかな…


「失礼します。お待たせ致しました」


タイミング良く食事が運ばれてきた

「ほら、食べて」

そう言う彼の顔を見る…笑顔だった

気のせいだったのかな…何だか…ホッとする


「いただきます」

「どうぞ」

彼が返事をしてくれた

No.125

ここは1階のレストラン街

「何が食べたい?」

二人で色んなお店を見てまわる

「何でも…良いです」

広瀬さんとならっ!

「…若い女の子ってあんなのが良いの?」

広瀬さんが指差したのはパスタのお店

「まぁ…すきですけど…ホントに何でも良いです」

「…そっ、分かった。じゃぁ、ここにする」


広瀬さんが選んだのは『和食』のお店


「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?お煙草は吸われますか?」

「二人で…禁煙席に」

「かしこまりました。こちらへどうぞ」

店員さんに案内され広瀬さんが歩き出した
彼の後ろをついて行く

何だか…デートみたい

テーブルに着くと広瀬さんがメニューを広げてくれた

「好きなもの頼んで」

「はい…」

緊張して…頭がまわらない…選びきれないっ

「俺は…これ」

『鱈と野菜の黒酢あんかけ五穀米定食』ですか

「私もこれで…」

広瀬さんが店員さんを呼びオーダーが取られた

No.124

「ふ~ん…面白そうだな…これ俺が買って良い?」

本を覗き込んだ態勢のまま…目が合う

顔が…近いっっ!

「勿論です、どうぞ!」

慌てて本を渡し一歩距離をとった

「ありがとう」

広瀬さんの手には他に何冊かの本が握られていた

「…本読むの…好きなんですか?」

「あぁ…好きだよ」

やんっ…『好きだよ』の部分だけ切り取りたいっ

「……何か顔が赤いぞ…?」

「あはは~、ここって暖房が良く効いてますよねっ」


ダメだ…突然過ぎて完全に舞い上がってる


「あのさ…飯食った?」

「へっ…まだ…です」

「良かったら今からどう?」


マジですかっっ!?

No.123

「こんにちは。何してるの?」

頭の上から声がした

「あぁっっ!」

驚きのあまり…静かな書店に似つかわしい声が出てしまった

近くにいたお客さんがジロッとこっちを見る…すみません…

「こ…こんにちは」


広瀬さんだった


「学校は…サボリ?」

「違いますよ。入試で休校なんです」

「そっか」

にこっと…広瀬さんが笑った
…この笑顔にヤられる

「『猫のご飯』…もしかして調べてくれてるの?」

あぁ~っ、『そうです』なんて…あからさま過ぎて恥ずかしい

「…たまたま…見つけて」

「ふ~ん…で、何か良い案はあった?」

彼は私の広げていた本を覗き込んだ


あっ…すっごく良い匂いがします…

No.122

『ペット』

本棚には『ペット』に関する書籍がずらり…
『猫のご飯』をキーワードに本を探す

私は喘息持ちだから今までペットを飼った事がない
だから…これと言って興味もなかった


へぇ~、こんな物まで食べるんだ…


猫って魚を食べるのかと思ってたけど…実は『肉食』なのねっ

本には手作りの
『猫ご飯』が書いてあり…鶏肉で出汁をとったりジャガイモやカボチャなんかも使っている

あっ…鰹節って猫用があるんだ…


カゴの中に大量に入れられたあの鰹節を思い出したら…笑いが出てしまった


…葱とかチョコは中毒を起こすのか……


『恋』をすると
世界が広がるものなんですね

No.121

街じゃなくてこっちに来てみて良かったぁ!

希呼が付き合ってくれれば街の方に行ったけど…一人だったので私は郊外のこのショッピングモールに場所を変更しました


…ちょっとお財布が寂しくなったし…買い物はこのへんで


次に向かったのは2階の奥にある大きな書店


予算オーバーしちゃったから立ち読みになっちゃうけど…少し調べものをしたいので…


えっと…どこかな


店内の『書籍案内』に従って探す


あったあった!

No.120

「ご自分に似合うものはわざわざ外さない方が良いですよぉ…だってその方が一番素敵に見えるんだからっ!」

アニマル柄のタイトなワンピースにファーを巻いたその店員さんが言ってくれた


彼女にその服はとっても似合う
でも…私には着れない

そして…この服は彼女には着れない


「ありがとうございましたぁ。また来てくださいねぇ」


ショップの入口まで見送られ店を出る


…ちょっと高い買い物だったけど

またバイト頑張ります!


結局、私は彼女が揃えてくれた『一式』を購入してしまいました

でも良い気分

No.119

「失礼しまぁす。開けても大丈夫ですかぁ?」

「あっ、はい」

カチャッ…

「ほらぁ~、やっぱりカワイイですよぉ!!」

店員さんは睫毛をバサバサさせながら笑った

セータ‐は袖口が広く長く作ってあり思ったよりザックリとした薄手のセータ‐だった
選んでくれたボトムスはライトグレ‐のショートパンツ

「でねぇ…」

そう言いながら私の首に黒のキラキラしたビーズと白のパール…白い花のコサージュが付いたネックレスをかけてくれた

「靴はタイツにパンプスでも良いし…外してワークブーツでもカワイイ!」


テンションが上がってる店員さんを見てると…実はなかなかいけるんでは…そう思ってしまう


改めて鏡を見てみた


あっ…いいんじゃない…私

No.118

「…子供っぽくないですか?」

この系統が自分に似合うのは…分かってます
目指すは…せめて希呼くらいの感じ

紫とか黒とか…グリーンとか…そんな感じが『大人っぽい』のかなぁと…


「えぇ~、そんな事ないですよぉ。良かったら合わせてみません?」

店員さんはセータ‐を持ったまま時折私に視線を向けると店内をあちこち歩きまわった

「こちらにどうぞ~、これと合わせてみてくださいね」


言われるがまま…試着室に通される


着るだけなら…


店員さんが選んだ
『一式』を着てみた

No.117

いわゆる…『大人っぽい』服や小物が揃ってるショップに立ち寄る

店員さんはタイトなカットソーにミニスカート…ヒールの高いパンプスやニーハイブーツ。キラキラした派手なアクサリー……
見てるだけで気後れしちゃいます


「いらっしゃいませぇ。何かお探しですかぁ?」

その中でも…これくらいなら着れるんじゃないか!?と…思った服を見てる時に声をかけられた

「…いぇ…大丈夫です」

「その色もキレイだけどぉ…お客様は色が白いからこれなんかも似合いそぅ」

睫毛バサバサで金髪の髪をボブに切ったお人形のような店員さん…

手にはピンクのモヘアのセータ‐が握られていた

No.116

【今から買い物に行くんだけど暇?一緒に行かない?】

希呼にメールを打つ
…送信

ピロピロ…

【ごめ~ん、今日はお昼に団体さんが入ってて行けそうにないよ】

【分かった!頑張ってね】

…送信


他の友達を誘ってみようかとも思ったけど……仲が良い友達はみんな彼氏がいる

やっぱり止めておこう


バスに乗り15分

少し離れた郊外にあるショッピングモールに着いた


…あぁ…

来週はバレンタインかっ…

色とりどりのハート型の風船で飾られた入口から中に入った


『行事』の時に独りは虚しい…です

No.115

薬局まで自転車を走らせる

図書館の横を通り銀杏並木が続く公園の側を通る

大通りに出て5分

大きな看板の薬局


あれっ…いないのかな

駐輪場には白い車がなかった

一応…中に入って確認

もしかしたら…また送ってもらってるのかも知れない


店内を見渡してみたけど彼の姿はなかった


残念です


また自転車を走らせバスターミナルに行く


バイト代も入った事だし…街に買い物にでも行こう

No.114

大人びた希呼と違って私は…良く言えば
『可愛らしい』
はっきり言えば…
『子供っぽい』


仕方なくグレ‐地でVネックのアーガイルのセータ‐に細身のジーンズを合わせブーツを履いた

…コートは…
やっぱりお気に入りの赤いコートにした


…玄関先の姿見に映る私は『普通の女子高生』



『早く大人になりたい』

大人びた希呼でさえそう言ってた


広瀬さんや諭さんに私達はどう映ってるんだろ……


これがホントに『恋』と呼べるものなのか…正直よく解らないけど


知りたいって思う

知って欲しいって…思う

No.113

今日は入試の為
『休校日』…

冷蔵庫のホワイトボードを確認

『おはよう。今日は研修会があるので帰りが遅くなります。ご飯は作らなくて良いからね。火の元、戸締まり宜しく ママ』


…う~ん…
バイトも休みだし…暇だなぁ


そうだ…ちょっと行ってみようかな
薬局に…


いつもより少しだけオシャレして…
よく考えたら…制服か部屋着バイトの格好しか見せてない

やっぱり今日はちゃんとオシャレしよう


クローゼットを開けてベッドに服を広げる


こう言うの…
やっぱり『恋してる』って言うんだよね


…それにしても
『子供っぽい』服ばっかり
こんなのしかなかった!?

これじゃぁ
謎の『あのひと』にもロングヘアーの『あのひと』にも…とてもじゃないけど勝てません

No.112

『ママは…失敗しちゃったけど…あいにはホントに好きなひととタイミング良く幸せになって欲しいなぁ』


ママはそう言いました

勿論…まだまだ
『結婚』を真剣に意識してる訳ではありません…まだ18だし

でも…『付き合う』事の延長には『結婚』があるのかなぁ…とは思います

好きだから
『付き合う』んだし
好きだから
『結婚』する訳で……


ママの言う
バランスとタイミングが上手く合えば…
『困難』な事も乗り越えて行けるような気がします


『あいちゃん』


広瀬さんが呼んでくれた声を思い出しました

年齢差…16歳

バランスが良いとは言えないか…

でもタイミングはまぁまぁ良い気がしてます

とりあえず
『一人暮らし』だったし…

No.111

「いただきまぁす」

ママは…私が作った卵混ぜチキンライス

私のオムライスにはケチャップで『ハート』が描かれている


「見た目は違っても…うん、味は同じよ」

ママは笑って言った

あぁ…あのクリスマスケーキの時と同じ
ママは『こう言うひと』なんだと…改めて思う


「…ママってさぁ…離婚してから誰か良いひとはいなかったの?」

「えぇ~っ?そりゃぁママって美人じゃない?『結婚してください』って言ってくれたひとの一人や二人いたわよ」

フフン…と笑うママ

「じゃぁ、どうして独りなの?私に遠慮してた?」

「あはは、違うわよ!求婚してくれたひと…患者さんでね、ママよりウンと歳上だったの。いくら良いひとでも…結婚もねバランスとタイミングがあるのよ」


…バランスとタイミングか

No.110

『松下家の晩御飯』

鯖とブロッコリーのチーズ焼き
オムライス
人参とえのきのコンソメスープ


「うわぁぁっ~、ママやっぱり無理!」

「どれどれ?」

フライパンの中は…チキンライスと上手く巻けなかった卵がぐちゃぐちゃになっている

「欲張ってご飯を置きすぎなのよ」

ママはそれをサッと炒め直しお皿に移した …冷蔵庫から卵を取るとボールに手際良く割りかき混ぜる

「油は少し多めに…」

フライパンに卵を落とすと菜箸で素早くかき混ぜる

「何でもねバランスとタイミングが大事なの」

卵の上には上品な量のチキンライスが置かれた

「そろそろ…かな」

広めのお皿に滑らすように卵の端を移動させる

「わぁ~、キレイ」

「でしょう?」

黄色が鮮やかな楕円形のオムライス

No.109

「えっと…あいちゃん」

呼び止められた
しかも『名前』で

「はい!」

嬉しくて明るく返事をしてしまった自分が悲しいです…

「猫…好きなの?」

「へっ…?」

猫…ですか?何故に今…猫でしょう?

「いやね…なかなか飯食ってくれなくてさ…猫缶ばかりじゃ飽きるだろうと思って…これ買ったんだけど」

広瀬さんは買い物袋から『鰹節』を取り出した

………同居人って
猫ちゃん…でしたか

勘違いが嬉しいっ

「猫に鰹節って…単純な気がするけど…ご飯とお味噌汁を混ぜて振りかけるとか…」

私の言ってる事も…単純だ『猫まんま』そのまんま…

「あはは、ありがとう」

そう言うと広瀬さんは車に乗り込み帰っていった

No.108

「驚かせるつもりはなくて…すみません」

凹んだ缶ビールを手渡した

「…また鍵でもなくした?」

「いやいや…ちょっと…お聞きしたい事が」

「…何?」

不思議そうな顔をする広瀬さんに…聞く

「あの~さっき言ってた同居人って…もしかして諭さんの…」

一瞬…えっ!?
と言う顔をする広瀬さん

「…何で…君が知ってるの?」

あぁ~そうだ!
『あの時』私は…隠れて見てたんだった

「…えっと…そのぉ………」

「諭が早く迎えに来てくれると良いんだけどね。あまり長く一緒にいると…こっちも情が移るからさ」

一緒にいると情が…移る…ですか
そうだよね…ご飯まで作ってあげちゃうんだもん…

「…それがどうかした?」

「いえ…お引き留めしてすみません」

頭を下げて裏口に向かった


『それがどうかした?』

大人の広瀬さんにはその程度の話なんだ

No.107

段ボールを荷台に載せて倉庫にそのまま突っ込む


もし…まだ車があったら…その時は


店長の目を盗み裏口から駐輪場に出る

広瀬さんの白い車が真ん前に停まっていた


よしっ…まだいる!

裏口のドアの側で彼を待った

ドキドキ…します…

店の建物の角を曲がって広瀬さんが歩いて来るのが見えた

私に気付かずに真っ直ぐ車に向かう

ドキドキ…ドキドキ…

車の鍵が開けられる

今しかないっ!

「あ…あのっ、広瀬さんっ」

暗闇からいきなり声をかけられたのがよほど驚いたのか…広瀬さんは買い物袋を地面に落としてしまった


「…おぉ~ビックリした」

「あぁ~っ…ごめんなさい!」

二人で転がった缶ビールを拾う

No.106

広瀬さんはまたメガネをかけると

『じゃ、ありがとう』

と言って別の売場に向かった


お菓子を並べながら考えてみる……


『一人暮らしだけど同居人がいる』


はぁ~さっぱり意味が解らない…


!!

まさか…諭さんのツレ?

『うちに泊まる』

って言った日から…そのままいるんじゃ…

そう思ったらやっぱり確かめたくなった


『なかなか情報なんて入らないって』

希呼が言った言葉が頭を過る


私が自分で動かなきゃ…きっと何も解らない


何も始まらない

No.105

思わず…胸を隠した

「…慌てて隠す程のものじゃないだろ…」

「はぁ~っ?失礼ですねっ、女子高生掴まえて胸何か見てっ!!」

何なのよっ…このひと

広瀬さんがキョトンとした後…突然笑い出した

笑って笑って…目には涙が滲んでた

「なっ…何で笑うんですか?」

銀縁のメガネを取り涙を吹きながら胸にあてられた私の手をほどく

ドキッ…とした


「松下 あいちゃん…失礼しました」

どうも…私の胸につけられていた…名札…を見ていたらしい

とんだ勘違い
穴があったら入りたいっっ

「顔が真っ赤だよ」

広瀬さんはまだ笑ってる

あっ…

メガネをとった広瀬さんの目元に…


小さな泣きぼくろ

No.104

広瀬さんを『鰹節』まで案内する…

「ん~っ…」

また暫く考えた後…色んな種類の鰹節をカゴに入れた

「そんなに…どうするんですか?」

「鰹節が好きな同居人に食べさせる。…出来合いの物ばかりじゃ飽きるみたいで。どれが好みか分からないから…とりあえず色々と」

同居人に…ご飯を作るんですか!?

鰹節が…そんなに好きなんですか…そのひと!?


「……俺が言ってる事…何かおかしいかな?」

「えっ!?」

「さっきから…一人で百面相してるから」

あぁ~恥ずかしいっ 私…どんな顔してたのっ


ふと…気が付くと広瀬さんが私の胸の辺りを見ていた……


なっ…何!?

No.103

段ボールの山の上から覗き込むひと…

「…また…会ったね」

広瀬さんっっ!!

「あぁ~っ、ホント…いつも…ありがとうございます」

「これ…積みすぎでしょ…?」

「あはは…また取りに行くのが面倒なんで」

私は荷台から段ボールを下ろした


「…これ、美味いの?」

広瀬さんは新商品のスナック菓子を指差した

「売れてますね。私は食べた事がないけど」

「ふ~ん」

彼は暫く袋を眺めそれをカゴに入れた

カゴの中は…ビールとお惣菜…台所洗剤

これは…チャンス!?


「…広瀬さんは一人暮らし…なんですか?」

「…あぁ…一人って言えば一人かな。同居人がいるけど」

はっ?…意味が解らない

「そうだ…鰹節ってどこにあるかな?」

「…こ…こちらです」

No.102

学校が終わりバイトに入る

…理人は…良かった今日は休みだ

少しホッとする


「あいちゃん、悪いけどお菓子の品出しお願い!」

入って早々パートのおばちゃんに頼まれた

お菓子棚をチェックし倉庫から商品を荷台に載せて店内に出る


ちょっと…欲張り過ぎたかな


自分の背丈よりも高く積んだ段ボールがユラユラしている

ゆっくり…ゆっくり荷台を押しお菓子コーナーの角を曲がる

ドンッ…

後ろから走って来た子供が私にぶつかった

段ボールがバランスを崩す…

あぁっっ!

バンッ…

前の方から手が伸びてきて…崩れそうだった段ボールの山が…元に戻された


「すみませんっ」

No.101

『…もしかして…アッチ系なのかな…』

希呼が言った…アッチ系

『それはないんじゃない!?』

激しく反論してしまった…

『だって…タブーだなんてさぁ…他に何が考えられる?良い男だから尚更…怪しいよ』


…希呼は知らないから

諭さんに抱き締められた女性を…タクシーに乗せた時の彼の手を…

ロングヘアーの女性が彼のネクタイの曲がりを直した時の事を…


車から降りる私のカバンを何も言わずに持ってくれた…彼を


広瀬さんは…
きっと馴れている…女性の扱いに


私はそう思う


…はぁ~…難しい…

No.100

…昼休みの屋上…

『もしもし?私。あのさぁ聞きたい事があるんだけど…』

希呼が携帯で電話をかけ出した

『えっ?どうせ暇なくせに。良いから質問に答えてよ』

…誰と話してるんだろ

『今後もうちの店に来たければ答えなさいよ!…尚人さんって彼女がいるんだっけ?』

えっ…えぇぇっっ
希呼!?

『はぁ~?分からないって何よ。あんた尚人さんのツレでしょうが…うん…うん…へぇ…そうなんだ。分かった、ごめんね仕事中に!えっ?はいはい、またのお越しをお待ちしておりますっ』

希呼は携帯を閉じると私の方を見た


「誰と話してたの?」

「祐輔。ほら…諭さんのツレのうるさいヤツ」

あぁ~あのひと

「って言うか希呼!何て事を聞くのよっ」

「だって知りたいでしょ?こうでもしなきゃなかなか情報なんて入らないって」

カラカラと希呼は笑う

確かにそうだけど

「で…どうだった?」

「ダメだ祐輔じゃあてにならない。分からないんだって…その辺は…啓太さんか諭さんなら知ってると思うけどって。尚人さんの女関係の話は………」

「話は…?」

「タブーらしい」


タブー!?
一体…どう言う事なんだ!?

No.99

「………」

希呼が急に黙りジッと私の顔を見ている

「な…何?」

「…ねぇ…あい。まさかとは思うんだけどさぁ…」

「う…うん」

広瀬さんの事…気になってるの…バレたかな

「これがきっかけで諭さんに惚れちゃったとか…ないよね?」

そっちですかっ!

「ないない!それはない」

「そんなに全力で否定されるのも納得いかないけど」

希呼はプゥ~っと頬を膨らませた

「じゃぁ、やっぱり尚人さんか」

希呼がニヤリとする

突然の事に顔が真っ赤になった

「否定しないんだね」

「…いやぁ~否定しないとかじゃなくて…あはは」

「う~ん…マジ?」

希呼が顔を覗き込む

「よく解らないんだけど…気になって仕方がないんだ」

「…尚人さんの事が気になるのは解らないでもないんだけど…どうだかなぁ…」

始業のチャイムが鳴り希呼は席に戻った

…どうだかなぁ…

No.98

「でっ?諭さんに助けてもらったってどう言う事!?」

…鼻息が荒い希呼に笑いが出てしまう

「実はね……」

夕べの理人との経緯を話す

「…で…間に割って入ってくれたの。諭さんが」

うんうんと…目を輝かせて希呼は私の話を聴いている

「諭さんが…『売られた喧嘩はきっちり買うぞ』って言ったら…理人帰ってった」

「きゃあぁぁ~見たかった!見たかった!ねっ、やっぱり素敵でしょ?さすが諭さんっ」

希呼のテンションは上がりっぱなし…

「……その後なんだけどね…広瀬さんが家まで送ってくれたんだ。自転車を車に乗せて……」

「マジですか!?」

「…うん。実は同じマンションだったみたい」

「へぇ~っ、尚人さんあそこに住んでるんだ」

「…もしさぁ…またお店に来たら…希呼からもお礼を言っててね。諭さんと…広瀬さんに」

「勿論よ!あいがお世話になったんだからっ…って言うか…私も助けられたいっ!誰か私に絡んでくれないかな?」

…いやいや…
希呼なら自分で撃退しそうですから

No.97

「えぇっっ!マジ?」

「…中野…何がマジ?なんだ!?」

…はぁ~やっぱり授業中に言うんじゃなかった

私が渡した手紙をサッと隠し希呼は先生に向かってエヘっと笑った

先生が黒板の方を向くと斜め後ろの席の私に向かって
『後から詳しく聴かせて』
と囁いた


秘密にしておく話じゃないし…私が広瀬さんに送ってもらえたのは『希呼の友達』だったからなんじゃないかと…夕べ考えた


勿論…諭さんがどれだけ格好良かったか…希呼にも話して聴かせたかった


広瀬さんの事も…
話したかった


考えるとまた
ドキドキしてくる


授業終了のチャイムが鳴ると希呼は私の隣を陣取った

No.96

『松下家の晩御飯』

豆腐ハンバーグおろし大根添え
蒟蒻と油揚げのきんぴら
しめじとキャベツの味噌汁
ご飯


ピロピロ…ピロピロ…

『ママ』

【今日は帰りが遅くなりそうです。先にご飯食べておいてね】

【了解。気をつけてね】

送信…

ピロピロ…ピロピロ…

【戸締まりと火の元確認ヨロシク】

【冷蔵庫におかずを入れてるから温めて食べてねぇ】

送信…

ピロピロ…ピロピロ…

【ありがとう】


…ママの分のご飯を冷蔵庫にしまう


リビングのカーテンを開け広瀬さんが住んでる3棟目を見た

出掛けたから…電気がついてない部屋だよね


…どの部屋かなんて分からないんだけど


…待てよ……

一人暮らしとは…限らないか


もたもたしていた私とは違い…
車から颯爽と降りたロングヘアーの女性を思い出す…


あの車は広瀬さんのものだった
やっぱり彼女と一緒に住んでるのかも…

カーテンを閉めてご飯を食べた


…おっ
結構、美味しく出来ました

No.95

ピロピロ…ピロピロ…

家に着くとメールが入った

…『理人』

【さっきはごめん…でも…マジであいとやり直したいと俺は思ってる】

……

【ごめんなさい。ホントにそれは無理】

送信…

ピロピロ…ピロピロ…

【…何で?俺の事嫌い?…俺、カナちゃんとは何でもないし】

【そう言う事じゃなくて…私もう好きなひとがいるから。ごめん】

……送信


理人からは返事が来なかった


『好きなひとがいるから』って送っちゃったけど…


だって…すっごく
ドキドキしてるんだもん


『無理』だと解っていても…重なる偶然に理由をつけたくなる


偶然を…運命に変えてみたくなる

No.94

「はい」

カバンを手渡される

「本当にありがとうございました」


ドキドキしながら何度も頭を下げた

ふっ…と広瀬さんが笑った

「そうそう、こう言う時は『ありがとう』が一番。じゃぁ…」


…携帯を拾ってもらった時の事を思い出した…

『すみません』よりも
『ありがとう』
なんだよね


運転席にまわる広瀬さんに声をかける


「この敷地は行き止まりになってるから…ここでUターンした方が…」

「あぁ…知ってる。俺の家はそこだから。ちょっと家に寄る」


そう言うと3棟目の方に車は走って行った


…こんなに近くに住んでたんだ


きゃぁぁ~っ


心の中で叫んだ


私はこの時…勝手に
『運命』を感じてしまいました


それから…10分位してまた出て行く広瀬さんの車を隠れて見送り…静かな我が家に帰る


ドキドキ…ドキドキ…

No.93

「…マンションってあれだよね?」

図書館の横を過ぎ3棟建っているマンションの敷地に入る


「何処?」

「2棟目…です」


車は何の迷いもなく私のマンションの入り口に着いた

広瀬さんは車を駐輪場に横付けすると自転車を降ろした


……こんな車は
降りる時が大変


ステップに足をかけ降りようとした時に広瀬さんが助手席側にまわってきた

何も言わず…スッと伸ばされた手は私のカバンをとり
片方の手で車のドアを動かないように押さえてくれている


…このまま降りたら…かなり接近してしまいますっ……


「…どうした?降りられないのか?」

「いえっ…大丈夫です」


動揺を悟られまいと慌てて降りた

地面に足が着くと…やっぱり急接近


すっごく…背が高い

No.92

真っ白な…あの四駆の車に私の赤い自転車が積まれた


「助手席に乗って」

広瀬さんはそう言うと運転席にまわった

ステップに足をかけ…やっと乗り込む


「…家は桜木のどのあたり?」

エンジンをかけると暖かい風がエアコンの吹き出し口から勢いよく出てくる

「図書館の側のマンションです…」

「……そうなんだ」


広瀬さんはそれだけ言うと車を出した


なんて…なんて
タイミングだろう…


…あの諭さんに助けてもらえるなんて

まさかこうして…
広瀬さんに送ってもらえるなんて……

希呼に言ったら…
妬まれそう


車の中は沈黙だったけど…不思議と気持ちは落ち着いていた

No.91

「ところで…何があったの?」

広瀬さんの質問に答える


「…で…自転車の鍵はないまま?」

「…あはは…ないです」

「ホントによく物を落とす子だな…家はどこ?」

「桜木です」

「桜木なら…尚人と一緒だな」

諭さんが言う

…一緒なんだぁ

「…何だよ諭…その顔は…」

「俺は先に行ってるから送ってやれよ」

諭さんは広瀬さんから買い物袋を受け取りながら言った

「えっと…希呼ちゃんのお友達、こいつの車なら自転車積めるからさ。送ってもらいな」

そう言うと諭さんは自分の車に乗って走り去った……


「自転車…どれ?」

「あれです…」


軽々と私の自転車を持つと広瀬さんは黙々と歩き出した


「……帰るんだろ?」


立ち止まったままの私に振り向きながら広瀬さんが言う


「…はいっ」


走って彼を追いかけた

No.90

そうだ…このひとは…諭さんっ!!


「…で…クソガキ。どうする?俺は売られた喧嘩はきっちり買うことにしてるんだが…」

理人は諭さんと広瀬さんを見ると…舌打ちをして車に乗り込む

思いっきりエンジンを吹かして駐輪場を出て行った


「…若いなぁ…」

諭さんは笑って呟いた


「…あ…ありがとうございました」

頭を下げてお礼を言った

「…諭。子供に絡むなよ」

「絡んだ訳じゃない」

「諭さんは…私が絡まれてるのを助けてくれたんですっ」

広瀬さんに向かって言った

「…えっと君……何処かで……あぁ~」

広瀬さんはまじまじと私の顔を見た

「希呼ちゃんの友達だよね?」

「はい」

思い出して…くれた

「えっ…希呼ちゃんの!?」


さっきまで冷静だった諭さんの声が…
上ずった

その様子が妙におかしくて笑ってしまった

No.89

「嫌がってるんじゃないか?…その子」

そのひとは理人の腕に手をかけると私を引き離した

「何すんだよ…おっさん」

理人は…喧嘩っぱやい

これは非常にマズイ状況です…

「…おっさんって…おいクソガキ。喧嘩売ってんなら買うぞ」

そのひとは…笑って言った


あぁ~マズイっ!!


「…諭…お前は一体何をやってんだ?」


後ろから声がした


振り返ると…


広瀬さんが両手に買い物袋を持って立っていた

No.88

必死に抵抗する

「何でそんなに嫌がるんだよ。…あんなに甘えてきてたくせに」

「…もう好きじゃないから」

「そんな事ないだろ?」


私達の横を何人かのひとが通って行った

恥ずかしいっ…

若いカップルの痴話喧嘩くらいにしか…見えないんだろうな


「お願いだから止めてよ。離してっ」


大きな声を出す


「はぁ~っ!?何でそんなに怒るんだよっ」

理人も声を荒げた
また掴まれた腕に力が入る

…恐い…



「もしもし…?これってただの喧嘩?」

私と理人の間に誰かが割って入る

「はっ!?あんた誰?」

理人が苛ついた声を出した

「…通りすがりの者だが…」

そのひとは冷静な声だった
…あれっ…誰だっけ…このひと?

「関係ねぇやつは引っ込んでろよ」

No.87

腕を強く掴まれた事にビックリして…思わず振りほどく

「歩いて帰るから」

「遠慮しなくて良いじゃん。送ってくって言ってんだから。ちょっとドライブでもしようよ」

理人は私の前にまわり込み道をふさいだ


…付き合い始める頃は理人のこんな強引なところに惹かれた

「ホント…歩いて帰るから」

私は顔をそむけたまま彼の横をすり抜けようとした


「俺さぁ、やっぱりあいと戻りたいんだよね。彼氏いないんだろ?良いじゃん」


兄貴が店に何度か来るうちに、実は『彼氏』ではないとバレていた


また腕を掴まれる


「…離してよ」


力が強すぎて今度はなかなかふりほどけない


「ねぇ、あい…」

理人の顔が近づく


「止めてよっ」

No.86

…自転車の鍵…何処にいったんだろっ

バイトが終わり暗い駐輪場でカバンの中やポケットの中を探す…

…う~ん…
ない……

店のロッカーに入れたままかなぁ…


店に戻ろうとした時に裏口から理人が出て来た


「どうしたの?」

「…あぁ…自転車の鍵がなくて。多分、ロッカーだと思う。」

私は理人の横を通り店に入った

ロッカーを開けてみるけど…やっぱりない

仕方なくまた外に出る
…歩いて帰るしかないなぁ…

駐輪場に戻ると理人が待っていた


「鍵、あった?」

「ない…家に帰れば合鍵があるから」

私はそのまま歩き出す
よりを戻すのを断った手前…あまり理人とは話をしたくなかった


「寒いし送っていくよ。今日は車で来てるから」


理人に腕を掴まれた

No.85

それから私は…希呼の言う通り
『無理』なので広瀬さんの事を考えるのを止めた

私の夢は…『普通のお嫁さん』『普通のお母さん』…

ママの生き方を認めても…これは変わらない

ママの事を愛してるからこそ、私がそうなる事が一番の親孝行な気がする


せっかく作った
『会員カード』を使う事なく…必要な物があれば、わざわざ遠くの薬局まで足を運んだ


1月も終わりますます寒い2月がやって来た


学校でも殆どする事がなく…


ただ『卒業』を待つのみ


これから私には…


どんな事が起こっていくんだろ…

どんなひとと出逢っていくんだろう


寒さも手伝って
寂しさが増します

No.84

『難しい…って何が?』

『ん~っ?…人当たりは良いんだけどさぁ…本心を見せないと言うか…実際は何を考えてるのか解らないタイプだと私は思う』


希呼はそう言いました

彼女には…観察力があります
『女将』をやってるお母さんの血筋なのか…ひとをよく見てます

思いつきや感情で動いてしまう私とは全然違います

同じ歳でも…希呼の事をどこかで『姉』のように思ってきました


『ただでさえ大人だし…一筋縄ではいかないな…尚人さんは。あいには向かないね』


希呼はそう言って笑いました


…だよね

No.83

「ねぇ、希呼…諭さんって…彼女とかいないの?」

お昼休みに聞いてみる


「えぇ~?その辺りは知らないんだよね。聞いてもはぐらかされるし…でもあれだけ良い男だもん。いるんじゃない…彼女」

「えっ…彼女がいても平気なの?」

「う~ん…まぁね、本気で相手にしてもらえるとは思ってないからさぁ~憧れって言うか…一度で良いから1日一緒に過ごしてみたい」

希呼は窓の外を見ながら溜め息をつく


…そうか…そのレベルの話しか…


「あいは…あの中にタイプのひといた?あぁ…彰ちゃんみたいなひとは啓太さんだけど」

「ひとをブラコンみたいに言わないでよっ」

「えぇ~違うの!?」

希呼はからかうように笑う

ブラコン…じゃないですホントに

「でも…尚人さんは…ないな。あいには」

「えっ…!?」

声が裏返ってしまった

「あのひと…難しいよ。泣かされそう」

…マジですか

No.82

『松下家の晩御飯』

鶏の唐揚げ変わり衣
豆腐サラダ
十六穀米
小松菜と油揚げの味噌


「上手く出来てるじゃないの」

唐揚げを頬張りながらママが笑う

「でしょう?やれば出来るの、私だって」


ママが喜んでくれると凄く嬉しい


「ねぇ、あい。今、彼氏はいないの?」

ママがニヤニヤしながら聞いてきた

「残念ながらいないよぉ」

「そうなんだ」

「どうしてそんな事聞くの?」

「えぇ~?だって急にお料理なんか始めるから…作ってあげたいひとでも出来たのかなぁ…って思ってね」

「あはは~、それだったら良いんだけどね」

「彼氏が出来たらちゃんと紹介してよ」

「はぁい」


…ママには…私がキッチンに立つ事にした理由を言ってません

…何だか照れ臭くて

大事なひとの為にご飯を作る

とても楽しいです


…ふと…広瀬さんの顔が頭に浮かんだ

…謎だらけだから気になるだけです
多分…

No.81

「ただいまぁ~」

返事のない真っ暗なリビングに向けて言う

エアコンとテレビをつけて冷蔵庫を開ける


…冷蔵庫の中って
何でこんなに明るいんだろ


学校に行く前に下ごしらえしていた鶏肉を取り出した

今日は兄貴から教えてもらった唐揚げ

兄貴は戻る前に
『レシピ』を書いてくれていました


ありがとうございますっ兄貴

水が冷たくてお米を研ぐのが辛いけど…

考えても仕方がない広瀬さんの事を頭から消そうと…

お米を研ぐ事に集中する


ザッザッザッザッ……


でも…

やっぱり気になります

No.80

どんよりとした気持ちで自転車をこぐ
あぁ…ペダルが重い


…そりゃそうだ
結婚してないんだから彼女がいたって不思議じゃない

あの女のひとは…
広瀬さんが家に違うひとを泊めたのを知ってる…のかな


この前のひとにも
今日のひとにも…とてもじゃないけど…太刀打ち出来ない


どう考えても
私は『お子様』だよね


…んっ……?


別に広瀬さんの事を
『好き』とかじゃぁなかった


気になるだけだ


早く帰って…ご飯
作らなきゃ…

No.79

ふと…駐車場に目をやると真っ白な四駆の大きな車が入って来た

助手からロングヘアーの綺麗な女のひとが降りて来る


…モデルさん…みたい


運転席から降りて来たのは

…広瀬さん…だった

「尚人また後で」

「あぁ」

「…曲がってる」


その女のひとは…当たり前のように広瀬さんのネクタイを直し…今度は自分が運転席に乗り込んだ


パァ…ンッ…

短くクラクションを鳴らし車は駐車場から出ていく

車を見送る事はせずに広瀬さんは歩き出した


…一瞬
こっちを見た気がしたけど…
勿論…何も言わずに店に入って行った


…あのひとは
あの時の女性とは違う


この前といい
今日といい…何て
タイミングだろう……

No.78

…ここは例の薬局前

学校帰りに寄ってみる

タイミング良くリップクリームがなくなったし…
『鍵』を拾ってくれたお礼も…言いたいし


もう一度『会いたい』口実なんだけど



「いらっしゃいませ」

明るい店内に入る

レジには…いない

店の中をゆっくり歩いてまわり背の高い彼を探す

…いない………

うちの『店長』みたいに殆ど事務所にいるのかなぁ

暫くウロウロしてみたけど…怪しまれそうだからこの辺で…

リップクリームを買い残念な気持ちで店を出た

今日はここの
『会員カード』を作った

常連さんになるのが彼に近づく近道かなぁ…なんて

No.77

帰ってからは…なかなか寝つけなかった

ツレって言ってたけどあの女性はどこから来たんだろ

諭さんと抱き合ったのは…何だったんだろ

…どうして…広瀬さんと一緒に…帰って行ったんだろ


知らないひと達の事を考えたって仕方がないけど…

不思議な光景
不思議な関係だった

…知りたい
あれが何だったのか


離れた二人を抱き合わせた
広瀬さんが……


どんなひとなのか…

No.76

祐輔さんの抗議をよそに尚人さんは早々にタクシーを止めた


…広瀬さんはさりげなく女性の肩に触れ…タクシーに乗せる

「じゃぁ、啓太またな」

「あぁ…諭…は…」

「心配いらない」


広瀬さんはそう一言だけ言うと自分もタクシーに乗り込み…帰って行った



………

映画か…ドラマのワンシーンを観てる気分だった

この…5人の関係性が全く解らないけど…


このひと達からは…切なくて苦い『大人の匂い』がした

…希呼が見なくて良かった……


きっと…私達には
まだ理解が出来ない『事情』があるんだ…

No.75

「ありがとうございました」


店の方から『女将さん』の声がして我に返る…


暗闇に潜んでいた私の前を祐輔さんと…啓太さんらしきひとが通った

「あれ~、諭さんは?」

「明日…早いから帰ったぞ」

広瀬さんが答えた

「もう帰ったの?せっかく来たのにねぇ…」

啓太さん…が女性に話しかけた

「大丈夫です。今日は…とても良い1日でした。ありがとうございました」

…ツレの女性はとても…声がキレイなひとだった

「で、ホテルはどこなの?」

「今日はうちに泊まる」

…えっ……

広瀬さんの言葉に…部外者の私が動揺した

「そうなんだ。宜しく尚人」

と…啓太さん

「えぇ~っっ!何で尚人さんのとこなんですか!?」

祐輔さんが大声を出した

私も…そう思うっ
事情は…解らないけど…

No.74

いきなり飛び込んで来たその光景は衝撃的…だった


見てしまった事を気付かれないように息をひそめる…

私の心臓は…バクバクしてる


諭さんは女性を抱き締めたまま…何かを言っていた

ただ抱き締められたままだった女性の腕が…諭さんの身体にまわされたのが見えた


…女性がより小さくなり諭さんの腕に力が入ったのが解る


…それから直ぐ…
二人は離れ…さっきと同じように諭さんは一人でその場から去って行った


残された…ツレの女性はその場に立ち尽くしたまま…ずっと…ずっと…

一人で歩く諭さんの後ろ姿を
見ていた…

No.73

内容までは良く解らないけど…何やら話し込んでいる


諭さんが広瀬さんとその女性を置いて一人で歩き出した

諭さんは振り向かず手を振っている


「…諭…本当にこれで良いんだなっ!?…今度ウダウダしたらただじゃ済まないぞっ」


諭さんに向かって…急に広瀬さんが叫んだ…


……あっ…

諭さんはその言葉に立ち止まり…ゆっくりと振り返ると真っ直ぐ歩き出し…



その女性を


抱き締めた……

No.72

そのまま店に出る二人の後ろ姿は本当に良く似ていた


私は『家』の方の玄関から外に出た


…寒い…

建物の塀沿いを歩くと自転車を停めた場所に出る


えっと自転車の鍵は…

ふと…顔を上げると少し離れたところに広瀬さん達が見えた

広瀬さんと…諭さん

…あの女のひとが…

ツレ…?


そのツレと呼ばれる女性は後ろ姿しか見えない

でも…『大人の女性』だと言う事は解る

背格好からだけど…広瀬さん達より少し年下なのかな…

No.71

「希呼~、ちょっと店に出られる?」

店の方からおばさんの声がする

「…はぁい…新年会が多くてさぁ、ごめんねぇ…あい」

「えぇ~良いよ!私もそろそろ帰らなきゃ」


二人で部屋から出るとおばさんが立っていた

「あいちゃん、帰り大丈夫?泊まって行けば?」

「大丈夫です、また来まぁす」


希呼と私は幼なじみ
ママが仕事で家をあけなきゃいけない時はよく泊めてもらった


「お母さん元気?」

「はい、お陰様で元気です」

「今度はお母さんといらっしゃいよ」

「ありがとうございます」


いつも綺麗な希呼のお母さん
母親が仕事をしてると言う共通点から…お互いの『寂しさ』を理解し合いながら…支え合いながら一緒に成長してきた私達


希呼も私も…
これから『母親』の後を歩いて行くんだ

No.70

「あぁ~でもホント…あのひと誰なんだろ?」

「あのひとって…ツレって言ってたひと?」

「そう!あの人達が女を連れてくるなんて初めてだからね…ん~…」

希呼は難しい顔をする

広瀬さん達はこの店の常連さんらしい
希呼の想い人…諭さんは彼女のお母さんの知り合いのお店で経理をしながら、板さんの修行中だとか…


「こんなに想ってるのになぁ…早く大人になりたい」

希呼は足を大きく投げ出した

「あはは…16の年の差は…厳しいよね」

「愛があれば年の差なんてっ!あっ…理人君とはどうなったの?」

「えぇ~?別にどうもならないよ。別れたまま」

「そっか。ちょっとあいつ軽かったもんね。甘えん坊のあいには…大人の男が良いよ~あっ、でも諭さんはダメよ」

「希呼とライバルになる気はないもん」


…無理だろう
あり得ないだろう…
そう思いつつ…

広瀬さんの事が気になってしょうがない

No.69

それから暫く…希呼は諭さんの事を喋りまくった…


「やっぱさぁ…高校生ってだけでガキでしかないんだろうねぇ~こんなに色気があるのにっ」

確かに希呼は少し大人びている
スタイルも良いし…ハッキリとした顔立ちに化粧も良く映える

「…あのさぁ…諭さんって幾つなの?」

「34だよ」

「…勿論…独身なんだよねぇ?」

「うん…離婚したらしいけど」

「…へぇ……広瀬さんも…同じ歳?」

「そうだよ。幼なじみ。あぁ~あのうるさい祐輔は2つ下の後輩。もう一人啓太さんってひとが来てるんだけどそのひとも諭さんと同級。結婚してるけどね」

「そうなんだ…広瀬さんも結婚してるの?」

「してないよ」


…34歳
独身…なんだ

No.68

「ごめん、ごめん」

希呼が着物の裾をたくしあげて部屋に入って来た

「…希呼…その格好」

「あはは~、着物って走りにくいね。そうだった!あい、家の鍵落としてない?」

希呼の帯の間に
『サトちゃん』が付いた鍵が刺さっている

「それ、私のだ」

「良かった、はい」


「どこにあったの?」

「尚人さんが外で拾ったみたい。きっとあいの鍵だからって…尚人さんとあいって…知り合いだったっけ?」

「知り合いじゃないんだけど…携帯を拾ってくれたのは広瀬さんなんだ」

「あぁ~あの時の!尚人さんだったんだ。だからか…『よく物を落とす子だな』って言ってたの…」

希呼は納得と言うような顔をした

No.67

希呼がお客様の応対をしている隙を見て広瀬さんと祐輔さんは個室に消えて行った


…広瀬さん…希呼の知り合いだったんだ

…私に気付いたかな


「もうすぐ女将も帰ってくると思うから部屋で待ってて」

希呼が私に耳打ちする


私は店の奥の通路を通り『家』に入った


心臓がドキドキしてる

待ってたのは
彼女じゃなかったんだ


…待てよ

『独身』なのか…?

No.66

ガラガラッ…

「こんばんは~」

「きゃん、諭さんっ」

希呼が舞い上がった声を出した

振り返えると…
『広瀬さん』とその『諭さん』が立っていた


「…き…希呼ちゃん。今日は…店番…?」

諭さんは一歩後ろに下がる

「そう…って言うか…啓太さんが個室に連れてったあの女のひと…諭さんの何!?」

希呼が諭さんに詰め寄る

「何って…ツレだよ」

「ツレって何…私の誘いは断るくせにっ」

「…あのねぇ…希呼ちゃん…だからそれはさ」

諭さんはそう言いながら…個室の方に走った…

追いかけようとする希呼を広瀬さんと祐輔さんが制止する


ガラガラッ…

タイミング良くお客様が入って来た


「…いらっしゃいませ。ようこそお越し下さいました。何名様でしょうか?」

希呼はガラッと『女将代理』に変わった…

No.65

ガラガラッ…

「いらっしゃいませ…あい!」

「遅くなってごめんねぇ」

「全然大丈夫だよぉ~女将もまだ帰って来てないし」

希呼は黄色地に大きな華の柄の入った着物を着ていた

「希呼ちゃんの友達?」

彼女の隣には30代前半に見える男のひとがいた

「気安く話しかけるな祐輔!」

希呼が睨み付ける

「ホント…最近の高校生は生意気だよな。だから諭さんにも相手にされない…イタッ」

希呼が…『祐輔』の足を蹴った

「あんたに言われたくないっ!彼女もいないくせに」

……やっぱり希呼の女将修行は…前途多難なのかも…

No.64

店に着き邪魔にならない端の方に自転車を停めた


私…ちゃんとCD持って来たよね

歩きながらバッグの中をゴソゴソ探す


あぁ~良かった
入ってた…ずっと借りっぱなしだったからね


『…もしもし?先に着いてるぞ…あぁ、寒いからさぁ中で待ってる』

店の前で携帯で話をする背の高い男のひとの横を通る…


あっ…『広瀬さん』だ

訳も分からず急な再会にドキドキする


『待ってる』って…
誰なんだろう…

彼女…かな…

No.63

『もしも~し、あい?今どこ?』

『ごめん、ちょっとバイトが終わるのが遅くなった!後…10分くらい!』

『良いよ~、私も女将に店番頼まれちゃったから。表から入って来てよ』

『分かった、じゃぁねぇ』

プーッ…プーッ…


クリスマスイヴの日に風邪をひいてしまい会えずじまいだった希呼

彼女の家は料理屋さん

お父さんは板さん
お母さんは女将さん

卒業後、希呼はそのままお店に入って
『女将修行』をする

『東京で女子大生になりたい』

って言ってたけど…
『女将』の猛反対にあい…仕方なく店を継ぐ事になった

『一人娘だからさぁ…』

そう言って希呼は女将修行を選んだ


最近は楽しそうにお店に入ってるけど

気が利き明るい希呼には向いてる仕事なんじゃないかと…私は思う

No.62

ママと二人の新年を静かに迎えた


ちょっとしたきっかけで、色んな事が私の中で少しずつほぐれていき
私は『大人』の入り口に立つ


上手く言えないけど…ママの生き方を大事にしようと思う

兄貴の優しさを学ぼうと思う


でも『パパ』の事は…やっぱり解らない


理人とカナは結局付き合う事はなかった

【やり直したい】

って理人からメールが何度かあったけど…それほど好きじゃなかったからそれは止めた


私に心から愛するひとが出来た時に…『パパ』の事が解るのかな


今は…そんな気がしてる

No.61

私の発作も治まり…
兄貴は予定通り自分の『家』に帰って行きました

『また来るよ』

って…


『来ないで良いよ』

って言っても…きっと兄貴は来るだろうな…

だって『家族』だもん


兄貴が帰った後は私がキッチンに立っています

私が今までこの場所に立たなかったのには理由があるんです

ここは…ママの『場所』であって欲しかったから

私が看護師になる事を決めたのにも理由があります

『看護師』をしながらでも…しっかり自分の『家族』を護り
『妻』『母親』でいられる事を証明したかったから…

ママに対する挑戦状のようなものでした

『不幸』な考え方だったと…今は反省してます

ママの事を愛してるのにね

No.60

「…兄貴…知ってた?」

「何を?」

「今の話し」

「あぁ~…あいが父さんのところに遊びに行きたいって泣いた時に…聴いた事があるけど」

そっか…全然知らなかった…
気付かなかった

ママは仕事が一番大事で…その仕事があるから…
『家族』がバラバラになったんだと…心のどこかで思ってた


「…あい?」

兄貴が驚いた顔をしてる


私の頬には涙が流れていた


自分勝手な思いを引き摺って生きてきた
『反省』と『後悔』

私に何も言わず…頑張って生きてきたママへの『感謝』


…私は…ちゃんと
大事なひとに愛されてる…

No.59

小学生の頃は季節の変わり目や風邪をひく度に発作が起こって…夜中や朝方に病院に駆け込んだっけ…


「師長もあいちゃんの発作にはいつもハラハラしてたものね」

「『喘息でも死んじゃう事があるのよっ』てよく言ってたもんな」

兄貴が静かに言った

「お父さんの単身赴任先は大きな工業地帯の側だったから、とてもじゃないけどあいちゃんは連れて行けないって言ってたし…心配かけてきた分、親孝行しなきゃね」

黒木さんはそう言うとカーテンを閉めた


えっ……

ママが…『パパ』と行かなかったのは…
『仕事』の為じゃ…なかったの…?

No.58

片付けをする白衣姿のママ…

これを見るのもどれくらい振りだろ…


「ママ、着替えてくるね。お兄ちゃん宜しく」

ベッドのカーテンを閉めながらママが言った

そうだ…兄貴も看護師なんだ


「あいちゃん、どうかな…?」

点滴の様子を見に来たのは小さな頃よく私の髪を結ってくれた看護師さんだった

『外来主任 黒木 紘子』

…主任さんになってるんだ

「大丈夫そうです。ありがとうございました」

兄貴が椅子から立ち上がり頭を下げた

「…二人とも…大きくなったねぇ…私が年をとるはずね」

黒木さんはそう言うと懐かしい笑顔を見せる


「あいちゃんもこんなに大きな発作なんて久し振りでしょう?小学生の頃は良く来てたけど…」

「はい…私もビックリしました…」

あっ…喋れる

No.57

点滴とマスクのお陰で…少し呼吸が楽になってきた


「サーチュレーションも上がって来たし…大丈夫そうだね」

院長先生が微笑んでいる

「あいちゃん、暫く見ない間に大きくなったね」

…院長先生は白髪が目立ってきていた…


「先生、ありがとうございました」

ママが頭を下げる


「点滴が入ってしまえば帰って良いと思うよ。何かあったら呼んで。あいちゃん、薬出しとくからね。たまには遊びにおいで」


院長先生は私の頭を撫でると部屋から出て行った

No.56

病院に着くと夜間の入り口に車椅子を用意したママが待っていた

「いつから?」

「2時間前だって」

ママは聴診器をあて脈をとる

「チアノーゼが出てる」

兄貴が言った

ママは私の指先に洗濯バサミみたいな器械をつけ車椅子を押し出した

「あい、大丈夫よ。心配いらない、ママがいるから」


息が出来なくて気が遠くなる……


明るい部屋に着くと懐かしい顔


「あいちゃん、きつかったね。今、楽にしてあげるよ」


院長先生だ……


「ルートとります」

ママは私に点滴を刺した

別の看護師さんによって私の口にはマスクがはめられた


…頭の上で色んな薬の名前が飛び交う


発作…どれくらいぶりだっけ…

No.55

私は小さな頃から
『喘息』の持病があります


「母さん?あいが発作起こしてる…うん、今から連れて行く」

電話を切った兄貴は自分が来ていたブルゾンを脱ぎ私をくるんだ


「歩けるか?」

「…ぅん…」


兄貴に支えられ歩く

上手く呼吸が出来ない

肩が上がったままゆっくり細く息を吐き出す

エレベーターを待つ間に兄貴はタクシーを呼ぶ


…風邪ひいてたからかな…発作なんて久し振りだ


「独りできつかったろ?ごめんな、遅くなって」


兄貴は…
本当に優しいひと

No.54

外は真っ暗になった

…電話…してみようかなぁ…
携帯…部屋かぁ…


「ただいま」


兄貴の声がする…

カチャッ…
リビングのドアが開き兄貴が見えた


「…ぉか…えり」

「…あい!?」

兄貴が私にかけよりソファーから身体を起こす
兄貴は私の背中に自分の耳をあてた


「…発作起こしてるな。いつから?」

「…2時間…くらいかなぁ…」

「何で電話しなかったんだよっ!」

私の気管支はヒューヒュー不快な音をたてている

「苦しいか?吸入器は?」

「…暫く…発作なかったか…ら…」

「薬、ないのか?」

私は声が出なくて頷いた

「待ってろ」

兄貴が携帯をかける

No.53

ダラダラと独りの時間を過ごし…夕方になった

外の空気が冷たいのが分かる


兄貴…どこに行ったんだろ
ママは…今日も帰りが遅いのかなぁ


冷蔵庫のホワイトボードにはいつもの
『メッセージ』
はなく………

訳の解らない不安を感じる

こんな風に少し『家族』の時間があると独りでいる事が揺らいでしまう



息苦しい…


あぁ…この感覚…


身体に異変が起こる前兆を感じる


マズイなぁ…


部屋の空気が乾燥しないように加湿器を入れた


リビングのソファーにもたれかかる


…早く
帰って来てくれないかなぁ…

No.52

『パパ』の単身赴任先は、おばぁちゃんの家からそんなに遠くはなかったので兄貴は『パパ』の実家でおばぁちゃん、兄貴、『パパ』の3人で暮らす事になりました

兄貴が高校生になる頃『パパ』は好きなひとと再婚

新しい家で…新しい…『ママ』と『パパ』と暮らし始めた兄貴


それからは…おばぁちゃんの目を盗んではうちに泊まりに来る事が多くなりました


兄貴が言うには『新しいママ』は良いひとだそうです
でも…
『家族』ではないとも言っていました


…みんな…

我が侭だからこんな事になったと思っています…

No.51

『パパ』はそれなりの家の『一人っ子長男』でした

ゆくゆくは『小川家』の後継ぎになる兄貴を
おばぁちゃんは離しませんでした


暫くはママが『パパ』の所に行けば解決出来たのに…そう思っていたけど…

『パパ』には好きなひとがいたみたいです

おばぁちゃんがママに

『律子さんが仕事なんかしてるからこんな事になったのよ。単身赴任させたのは…貴女が仕事を選んで妻である事を放棄したようなもの。そんなひとに彰は育てさせられない』

と…言っていたのを聞いてしまった事があります


…悪いのは…
ママなの?

『パパ』が約束を破ったんじゃないの?

『帰ってくるからね』

って…『パパ』言ってたよ

No.50

『パパ』とママが離婚したのは私が10歳
兄貴が13歳になる時でした

『パパ』の事は大好きだったけど、単身赴任で既に離れて暮らしていたので
『居ない』事にそんなに違和感はなかったです

ただ…
兄貴がうちから居なくなるのは理解が出来ませんでした


『どうしてお兄ちゃんと別々になるの?』

『…ごめんね…』

『あいは…ママとお兄ちゃんと一緒が良いよ』

『仕方がないの…ずっと会えない訳じゃないから』

『……パパもそうやって言ったけど…帰って来ないじゃん』

『……あい、ごめんねぇ…』


いつも明るいママが泣いてるのを見たら…それ以上何を言っても無駄なんだと…仕方がない事なんだと子供心に思いました

No.49

次の日…

結局、終業式に出られないまま冬休みに入った

バイトも休み

ママも兄貴も出掛けているうちは静かだ

机の上に置きっぱなしになってたストラップを開けてみた

『サトちゃん』

何気にカワイイ

携帯につけてみる

…う~ん…

やっぱり止めて家の鍵につけた


生姜の葛湯とやらを飲んでみる

…身体には良さそうだけど……微妙…


兄貴って…明日、帰るんだったかなぁ


兄貴は『パパ方』のおばぁちゃんの家から大学に通っています

おばぁちゃんは3年前に亡くなりました

実質…一人暮らし


だから自立してます

No.48

「見てもいい?」

冷蔵庫からケーキの箱を出す

「落とさないでよ」

「はぁい」


テーブルの上に置き慎重に箱を開ける


艶々とした真っ赤なイチゴが敷き詰められているパイ生地の綺麗なケーキ


「わぁ~超豪華!」

「でしょう?奮発しちゃった」

「先に飯食ってしまえよ」

「はい、はい」



…『パパ』と最後に食べたのがイチゴのケーキだったとしたら…

鰯の煮付けと一緒でやっぱり食べられなくなったのかな


シンクの三角コーナーの中に捨てられた鰯を思い出した

No.47

『どうしたの!?』

ママが私の泣き声に驚きキッチンから出てくる

『…ごめんなさい…ぶつかった…』

半泣きの兄貴
大泣きの私

ママは床からそっと箱を拾い中身を確かめる

スポンジとクリームに頭から突っ込んだサンタさん…
潰れたイチゴ…
割れたMerryX'masの板チョコ…

ますます哀しくなった

『大丈夫よ、形は変わっちゃったけど食べられる』

ママはクリームの中からサンタさんを救出してケーキ載せ直した

『そんなの嫌だぁ~わぁぁん~』
『…ごめんなさい…』

『あい、彰、パパがもう一度ケーキ屋さんに行ってくるから…もう泣くな』

『パパ』は雪が降るなかケーキ屋に走ってくれた


夜遅くに再度買いに行ったケーキにはイチゴがのってなかった

No.46

「あい…あんま食べ過ぎるとケーキが食えなくなるぞ…」

「えぇ~ケーキもあるのっ!」

バタッ…

冷蔵庫を開けると白い箱に真っ赤なリボンがかかったケーキの箱が入っていた



『パパ』と最後に過ごしたクリスマス

9歳の時だ

クリスマスに合わせて単身赴任先から帰って来た『パパ』

嬉しくて嬉しくて
玄関先からまとわりついた

『あいの好きなイチゴのケーキだよ』

『わぁ~い』

ケーキの箱を受け取り『パパ』の手をひきながらリビングに入る

『パパ』に駆け寄って来た兄貴とぶつかり私はケーキの箱を逆さに床に落とした…


『うわぁぁぁん』

No.45

『松下家の晩御飯』

トマトとマッシュルームの煮込みチーズハンバーグ
ミックスベジタブルのピラフ
コールスロー
キャベツとベーコンのスープ


「あいが一番好きなものにしたからね」

「ありがとう」

「これ立ててやるよ」


兄貴が爪楊枝と紙で作った『国旗』をハンバーグの上に立ててくれた

「お子様ランチじゃないんだから…」

「…でも…これも好きだったろ?」

「…うん、ありがと」

「今日はシャンパン開けちゃお」

ママはニコニコ
兄貴もニコニコ


サンタさん

ママの料理をありがとうございます


「いただきまぁす」

No.44

家に帰ると珍しくママが早く帰宅していた


「あい~体調はどう?食欲は?」

「うん、まだ咳は出るけど熱は…ないと思う」

「食欲はどうなの?何でも食べられそう?」

「…うん、お腹空いてる」

「良かった!今日はクリスマスイヴだし…ママが腕によりをかけて作るからねっ」

「ホント!?」

「期待しててね。お兄ちゃん、手伝って」


…兄貴が手伝うんかい

あぁ…でも良い

ママが作ってくれるなら…仮に『卵焼き』のクリスマスになったって

イイ!!

No.43

ストラップと生姜の葛湯を受け取り

「すみません」

とお礼を言った

「こう言う時は『ありがとう』の方が相手は喜びますよ」

広瀬さんが笑顔で言ってくれた


向けられた笑顔が妙に照れくさい


「…ありがとうございます」

「どう致しまして。気をつけてお帰りくださいね」


そう言うと広瀬さんは店の奥の方に歩いて行った


…あんな…

『あんな大人なら…ちょっとイイかも』


これが初めて彼と出逢った時の感想です


『もしもし?希呼?ごめんねぇ…実はね…』


希呼に事情を説明し予定をキャンセル

彼女も急に親が経営してる店の手伝いが入ったそうで一件落着…


…帰ろう…

No.42

「ゴホゴホ…すみません」

携帯を受け取り確認をする

やっぱり…希呼から何度も着信やメールが入っている…

怒ってるかも…

「かかって来る電話にでようか何度か迷ったのですが…勝手に触るわけにはいきませんでしたから」

「そうですか…ゴホツ…すみません」

「先程はディスプレイに『兄貴』と出たので私が電話に出ました」

もう一度その男性を見てみる


背が高い…180㎝くらいある!?
銀縁の細いメガネをかけ見た目も話し方も『インテリ』…30代かな…

私が知ってる
『店長』とは…全く違う

良かった…拾ってくれたのがこのひとで

「本当にすみませんでした…ゴホツ…」

頭を下げて帰ろうとした時に呼び止められた

「これどうぞ」

差し出されたのは
製薬会社のマスコットキャラクターのストラップと…

「生姜の成分が入った葛湯です…試供品ですが。早く風邪が治ると良いですね」

…さりげなく『店長さん』の名札をチェック

『店長 広瀬 尚人』

…ちょっと
イイかも…

No.41

「すみません、さっき携帯の忘れ物の事で電話したものですっ…ゴホツ…」

レジにいる女性に声をかけた

「…携帯…あぁ!」

そう言うと女性は電話をかけだした


『店長、携帯の忘れ物をされたお客様がいらっしゃってます…はい』

さっき電話に出たのは『店長さん』か

「お待ちくださいね。直ぐに参りますから」

「ゴホツ…はい」


ここの店長もうちの
『店長』みたいなひとなのかな…嫌だなぁ

まさか…勝手にひとの携帯見てないよねぇ…

女子高生の携帯には
『秘密』がいっぱいなんだから


「お待たせ致しました」


顔をあげると薄いブルーの白衣にネクタイ姿の男のひとが私の携帯を持って立っていた


「こちらで間違いございませんか?」



はい!間違いございませんっ

No.40

プルルルルッ…プルルルルッ…
プルルルルッ…プルルルルッ…
プッ…

出たっ!!

『もしもし?!』

『…はい』

男…!?

『今、貴方が話してる携帯、私のなんです!どこにありますかっ?』

『そうですか、店でお預かりしています』

携帯は夕べ寄った
薬局にあった

『直ぐ取りに行きますっ!』

『そうして頂けると助かります……朝から鳴りっぱなしなんですよ…貴女の携帯』

あぁ~希呼だ

私は部屋着の上にコートを羽織り鼻の上までマフラーをぐるぐる巻いた

「取りに行ってくる」

「俺が行くよ」

「大丈夫っ」



…これが

私の『大事なひと』
との出逢いになります

No.39

「兄貴っ、私の携帯知らないっ!?」

「携帯?…さぁ見なかったけど…」

「ゴホゴホ…ないのっ、携帯がないのっゴホツ…」

バイトして貯めたお金で買ったばっかりなんですっ

「どうしよう…ゴホゴホゴホツ…」

「ほら、また咳が出てるぞ。俺の携帯から鳴らしてみるよ」

プルルルルッ…プルルルルッ……………

「…家にはなさそうだなぁ…」

兄貴がうちの中をあちこち歩きまわり『音』が鳴ってないか探してくれる

「あっ…留守電になった」

「携帯貸して、もう一回かけてみる」


兄貴から携帯を取り上げリダイヤルする

No.38

有難い朝ごはんを頂き薬を飲んだ

暫くするとウトウト…

お布団…暖かい……


目が覚めたのは夕方だった…

あぁっっ!!

今日は…今日は

24日…
クリスマスイヴ

理人と別れた私を不憫に思った希呼がカラオケに誘ってくれていた

ヤバイっ
電話しなきゃっ

バッグの中を見る
制服のポケットを見る

ない…

携帯が…携帯が…


ありませんっっ!

No.37

兄貴が部屋を出てからゴソゴソと布団から出る


お盆の上には温かそうな湯気をあげた一人用の土鍋




…昨日の残り物で作ったのか…


土鍋の中には
『トマトリゾット』

シャケも丁寧にほぐしてありチーズがかかっている


「いただきまぁす」


美味しい…
これは暖まる


兄貴はどうしていつも
『出来る』んだろ…

No.36

「あい、おはよう。具合はどう?」

ママの温かい手が首筋にあてられる

「大丈夫…」

「熱はそんなに高くないみたいだけど…病院行こうよ」

「…寝とく…」

ふぅ~っと溜め息をつきママは仕事に行った


こんなの全然平気

今までだって…
こうやって独りで耐えてきた


…トントンッ…

「あい?入るよ」

兄貴が部屋に入ってくる

「夕べは何も食べてないんだからさ…気分が良ければ食えよ」

机の上にお盆が乗せられた


布団を被ったまま返事をする


「ありがとね…兄貴」

「どういたしまして」


…パタンッ…

No.35

『松下家の晩御飯』

シャケのホイル焼き
チンゲン菜とベーコンのオイスター炒め
カブと白菜のトマトスープ
ご飯


「あい、飯食ってから薬飲んだ方が良いぞ」

「ゴホゴホ…食欲ない…」

「明日、ママと一緒に家を出て診てもらおう?」

「大丈夫…薬飲んで寝る」

「そんなになるまでどうしてバイトしてたのっ」

「…ママがっゴホゴホ…ティッシュなんか頼むから…ゴホツ…帰りが遅くなったんじゃん…ゴホゴホゴホツ」

「あい…もう寝ろよ」

「うるさいなぁ……ゴホツ…さっきから寝るって言ってるでしょっ」

バタバタバタバタ…

バタンッッ…


…辛い時に優しくされると腹がたつのは
何でだろ……

No.34

暫く私をじっと見る男性店員

「早くしてもらえますかっ?」

「かしこまりました」


スッとカウンターに赤い箱の風邪薬が置かれた

「漢方薬が主な成分です。眠気もあまりきませんし…」

「それで…ゴホツ…良いですから…ゴホゴホ」

他に何か言いたそうだったが店員の言葉を遮った

早く帰りたい


「1854円になります」

「…」

レジにちょうどのお金を置き商品を受け取る


「お客様…レシートは…」


返事をしないまま店を出た


さっきより風が強く吹いてる


…息苦しい

No.33

…やっと…
終わった…帰ろう
さぁ…帰ろう

携帯を開くとママからのメール


『帰りにティッシュを買って来てください』

……ここのは高いからなぁ…
薬局に寄るか…風邪薬も買って帰ろぉ


マフラーをぐるぐると首に巻きマスクをする

「ゴホゴホゴホツゴホツ」

寒い寒いさむ~い

自転車をやっとこぎ…今月始めにオープンしたばかりの
『大手ドラッグストア』
に寄る


明々とした電気とやたら賑やかな音楽

今の私には正直
辛いだけの『明るさ』


5箱組のティッシュを持ちレジに急ぐ


「いらっしゃいませ」

「ゴホゴホ…風邪薬…ください」

「どのような症状ですか?」

見て解らないっ!?
『咳』よ『熱』よっ

「とにかく一番効く薬で良いですから…ゴホツ…」

…早くしてください

No.32

「ゴホツ…ゴホゴホッ…」

「あいちゃ~ん、風邪ひいてるんじゃないの?」

外で段ボールを潰していた私のところに店長がやって来た

「大丈夫です…すみません」

「…ちょっと顔が赤いよ?熱があるんじゃ…」

店長の毛むくじゃらの手が私のおでこに近づいて来た

「平気ですっ、ホントに!熱なんてないですからっ」

やんっ!
触らないでっっ

サッとその手を避け潰し終わった段ボールをまとめる

「ゴホゴホゴホツ…」

「あいちゃん…今日はもう帰って良いよ。何なら送って行こうかぁ?」

「ホントに大丈夫ですから」

送ってくれなくて良いですからっ

急ぎ足で店内に戻る


クリスマスソングが流れる中…

ベーカリーコーナーで仲良く話す理人とカナを見つける


…あの二人…
早く付き合っちゃえば良いのに

…ダルい…

No.31

……ぃ…
ぁ……ぃ……


「あいっ!?」

ガバッ…

……夢か

「…なんかうなされてたけど…大丈夫か?」

「…あぁ…うん」

「こんなところで寝ると風邪ひくから」

「ありがと…部屋で寝るね」



兄貴が来るととても嬉しい

家が賑やかになるし

ご飯は美味しいし

安心する…


安心するのと引き換えに

気持ちが弛む…


弛むと見てしまう

この『夢』

No.30

『ママ、今日はパパが帰って来るんだよね』

『そうよ~、帰りに夕飯のお買い物に行こうね』

『うんっ』



プルルルルッ…プルルルルッ…

『はい小川です…はい、はい…子供達も楽しみにしてたんですよ?……分かりました』

『…お兄ちゃん、あい…パパねぇ今日は帰れなくなったんだって…ごめんね…』

『えぇ~ずぅっとパパと会ってないよ?』

『…うん…ママもずっと会ってないよ…』


ザッッ…
ジャッー…


ママ…?

どうしてお魚捨てちゃうの?

『パパが大好きな鰯の煮付けにしようね 』

って…あいと一緒にお買い物したのに


ねぇ…ママ?
どうして…捨てるの?

No.29

『松下家の晩御飯』
パプリカとレーズンの鮮やかドライカレー
大根とコーンのマヨサラダ
玉葱と人参のコンソメスープ


「お兄ちゃん、大学はどう?」

「思ってたよりハードだなぁ…やるしかないんだけどさ」

「大勢の女の中に男2人ってツラいね兄貴」

「仕方がないよな…そう言う世界だから」

「まっ、自分で決めた事なんだから頑張りなさい」

「うん」


そうそう!

うちの兄貴は『准看』をとったあと今年の春から
『看護大学』の学生になりました


ホント頑張るわ…このひと


…あぁ~

お腹いっぱい

満足…満足

No.28

ジャッーッ…
パチパチパチパチッ…


挽き肉と玉葱を炒めながらオシャレな野菜…
赤や黄色のパプリカを切る兄貴


「冷蔵庫からレーズン出してお湯に浸けて」

「はぁい」


兄貴は鮮やかな手つきでフライパンの中にカレーパウダーを振っていく


「ねぇ兄貴…何でそんなに料理が出来るの?」

「…何であいは出来ないの?」

「私だってやれば出来るよ。やらないだけで」

「何でやらないんだよ」


「だってまだ私の仕事じゃないもん」

「意味が解らん…」


だってそれはママの仕事だもん…

No.27

「ただいまぁ」


バタバタバタバタッ…


「おかえり。手洗ってうがいして」

「はぁい…」

「面倒くさそうな顔するなよ。風邪ひく方が面倒だろ?」

「はい、はい」


洗面所に行き言われた通り手を洗い
うがいをする


鏡に映る自分と
目が合う


私の口元にある
小さなほくろ


きっと…

『パパ』

と同じだ

No.26

それから直ぐだ


いつものように詰所で遊ぶ私の耳に入った大人達の会話


『小川さんのところ単身赴任なんだって』

『そうなんだ。婦長が彼女を主任に推したばっかりだったもんねぇ』

『でもさぁ、主任の代わりはいても奥さんの代わりは居ないでしょ?私だったらついて行くけど…』

『小川さんにとっては仕事の方が大事って事でしょ』



その時は意味がよく解らなかったけど…

あまり良くない事を話しているのだけは…解った


『ママはパパよりお仕事が大事なの?』


返ってくる言葉を想像すると…怖くて…一度も聴けなかった

No.25

小学1年の冬『小川家』に転機が訪れる…


『パパ』が隣の県の大きな市へ転勤になる事が決まった

新しい支店


転校するのかなぁ…
嫌だなぁ…


ママと『パパ』の話を盗み聞きしながら思った



でも…何故か私が転校する事はなく

『小川家』から
『パパ』だけが居なくなった


ママと『パパ』が出した結論は


『単身赴任』


車で3時間弱


『休みは帰って来れるからね』


そう言いながら笑った『パパ』の口元が忘れられない

No.24

3歳上の兄貴は『男の子』だから…と言う理由で、放課後は友達と遊びに行くのを許されていた

ママは看護師
『パパ』は医療機器を扱うプロパー

『半職場結婚』


ママの職場のひと達は
そんな共働きの二人の事情を理解してくれて、みんなで小さな私を育ててくれた


『婦長さん、ママは?』

『ママは今、大事なお仕事をしてるから詰所で宿題してなさいね』

『はぁい』

詰所に行くと若い看護師さん達が迎えてくれる

宿題も手伝ってくれた
ぐちゃぐちゃになった髪を結い直してくれたり
お絵描きや折り紙をして遊んでくれた


小さな田舎まちの病院

私のもうひとつの

『家』

No.23

小学校1年

学校が終わり私が真っ先に向かうのは『病院』だった

今のように
『学童保育』や
『児童クラブ』
なんかがまだ普及してない頃

ランドセルをしょって病院の正面玄関から入ると受付のお姉さんに手招きされる

『あいちゃん給湯室の冷蔵庫にケーキが入ってるよ』

『ありがと』


受付横のドアから我が物顔で入り給湯室の冷蔵庫に直行する

『患者さん』からの頂き物が小さな私のおやつだった


『小川 あいちゃん。食べる前に何をするんだったかな?』

いつも『院長先生』にこうやって言われてたっけ…

『手を洗いまぁす』

手を洗うとアルコールで消毒

『食べていい?』

『どうぞ』

No.22

「おい、松下」

担任から声をかけられる

「何ですか?」

「お前どうせ暇だろ?卒業文集の係、手伝ってやってくれよ」

「えぇ~っ」

「えぇ~じゃない。頼むぞ」


まぁね、『進路』が決まってる私は
『大学進学組』からするとかなり『暇』なんだけど…



『松下、やっぱり大学はいかないのか?』

『はい、お金がかかるし…私の成績じゃ奨学金も微妙なところでしょ?』

『…で…どうする?』

『看護学校に行きます』

『そうかぁ…まぁ手に職つけて資格があれば…仮にお前が子供を抱えて離婚してもとりあえず食っていけるからな』

『そうですね』


…このひとは
うちの事情を知ってて言ってるのかしら…

高2の秋

この担任の有難いアドバイスのもと

私はママと同じ道を選んだ

No.21

『松下家の晩御飯』

鰤の照り焼き春菊添え
白菜と韓国海苔ベビーチーズの和え物
大根葉ご飯
根菜の味噌


「いただきまぁす」

「これ…あいが作った…筈はないか…」

「買い物は一緒にしたよ」

「お兄ちゃん、ありがとう」

「どういたしまして…ほら温かいうちに食べよ」


松下家は

お陰様で暖かい


今日もご馳走様

No.20

「誰?」

「バイトの先輩」

「ふ~ん、挨拶くらいしなきゃいけなかったなぁ」

…しなくて良いよ
理人はきっと『彼氏』だと勘違いしてくれた筈ですから

「鰯が安いから煮付けにしようか?」

「鰯…嫌だ」

「嫌いだったっけ?」

「うん。ママも食べないよ」

「そうかぁ…じゃぁ、こっちにするか」

兄貴は鰤の切り身を手にした


私は…
『鰯の煮付け』
が食べられません


それは『パパ』を思い出すから…

正確に言うと

私にとって思い出す事が少ない筈の『パパ』を思い出すから…


きっと…
ママもそれは一緒だと
思います

No.19

「お疲れ様」

後ろから声をかけられ振り返える

理人だった

ベーカリー担当の理人は殆ど店内には出て来ない

「お疲れ様です」

普通に挨拶をする


理人は大学2年
『大学生』って…それだけで無条件に『大人』に見えた

実際は…
大して『大人』ではなく
ちょっと私と喧嘩してる間に…同じバイトのカナに言い寄った

だから
『バイバイ』


「あれ…誰?」

少し離れたところで 『魚』を見てる兄貴に目をやる理人

「誰でも良いでしょ?」

「あい~」

タイミング良く兄貴に呼ばれる

「はぁい、…じゃぁね理人」

No.18

『もしもし?あい。バイト終わったよ』

『店の前に来てるからさ、夕飯の買い物して帰ろうか』

『了解。今から行く』


電話を切り店の正面にまわる


………

自動ドア横に貼ってある売り出しの広告を食い入るように見てる兄貴


「奥さん、今日は何がお買得ですか?」

「おぉ…びっくりした」

「そんな物見なくたって私が中で教えてあげる」

「…それがあてにならないから見てるんだろ…」

まぁ失礼しちゃう

兄貴と二人で店内に入る

「おっ、大根葉が安い」

「もっとオシャレな野菜にしてよ…パプリカとか…ベビーリーフとか」

「…オシャレな野菜って…」

「今日は何にするの?」

「魚かな」

魚かぁ…

No.17

『店長』は…
私の『パパ』くらいの年齢だと思う

『セクハラ』
『パワハラ』
『モラハラ』

…見事な三拍子…

あんな『パパ』なら
いりません


せっせと品出しをし
レジが混んでればレジに入り

人手が足りなければ
惣菜の陳列までやる

高1から続けてるこのバイト…勿論…お小遣いの為

特に好きではないけど…『時間潰し』にはちょうど良い

「あいちゃん、良かったらこれ持って帰る?」

惣菜部のおばちゃんが時々こうやって『余り物』をくれる事もある

「今日は大丈夫です。ありがとうございます」

「お母さん、帰り早いの?」

「兄が来てるんで」

暫くご飯には
困りません

No.16

「お疲れ様で~す」

家から自転車で10分…ちょうど学校と家の中間地点にある大型スーパーでアルバイトをしてる私

「お疲れ様。あいちゃん今日も宜しくねぇ」

ニタニタするこのひとは『名ばかり店長』

『ヅラてん』って…惣菜担当のパートさんは言ってる

『ヅラの上からでもスキャン出来るかしら?』
『バーコードでも残ってれば出来るんじゃない?』

レジ担当のおばちゃんが言ってるのを聞いた事も…ある…

女を敵にまわすと
大変な事になるのだ


「あいちゃん、頑張ってさぁ3月いっぱい来てよ」

「すみません、色々と準備がありまして。2月いっぱいで…」

ニタニタ近づいてくる『店長』の脇をすり抜け表に出る

No.15

朝起きると
ひとりだった…

朝って言っても10時だけど


いつものように冷蔵庫に張ってあるホワイトボードを見る


『おはよう、いってきます。今日は早く帰れると思います。晩御飯はお兄ちゃんと相談してね。頑張ってあいが作るように!お金はいつものところです ママ』

『出掛けます バイトが終わったら電話して 兄』


「了解で~す…ご飯は作らないけど」

独り言を言いながら
コーンスープをいれる

友達の多くは大学受験の真っ只中

地元の看護学校に行く私は、秋の終わりには進路が決定していた


ママと同じ道を選ぶのは…最初は嫌だった

『母親が看護師だから』って思われたくなかったし

『大学生』になる事に憧れもあったし



何より…
『普通』のお嫁さん…『普通』のお母さんになりたかった

No.14

鍋に少し残っていた豚汁を温めなおす

パタッ…

あったあった生姜

「あれ…母さんは?」

「呼び出しがあって行ったよ」

「そっか」

「ねぇ兄貴、今の電話ってもしかして彼女?」

「元彼女」

「…失礼しました」

もう直ぐクリスマスだって言うのに
私も兄貴も寂しいもんだ…

「ところでいつまで居るの?」

「正月はバイトがあるから…一週間くらいかな」

一週間!
まともな食事にありつけるっ

「そうだ、あい…はいこれ」

「何?」

兄貴から手渡された緑の小さな箱を開ける

「…何これ?」

「ナースウォッチ。春から頑張れよ」

白い文字盤にクローバーが描かれた不思議な時計

「胸のポケットやサロンのポケットにはめるんだ」

へぇ…

私は春から天使の卵になります

No.13

「あい、ごめんね」

「はい、はい、いってらっしゃい…でも少し顔が赤いよ」

冷蔵庫を開けミネラルウォーターをイッキ飲みするママは今から

『看護師長』

に変わる


バタバタとひっくり返した鞄の中身を入れ直しコートを羽織る

「お兄ちゃんにもごめんって言っておいて。先に寝ててね。火の元と…」

「戸締りね」

「いってきます」


バタバタバタバタッ…

カチャッ…



………


さっきまで『家族』が揃ってた我が家

テレビの音…
こんなに大きくしてたのか



…豚汁

おかわりあるかな

No.12

ブーッ…ブーッ…ブーッ…

「ママ、携帯鳴ってる」

「ホント!?」

慌てて鞄をひっくり返すママ

「もしもし、松下ですお疲れ様…はい…はい…ご家族と連絡は取れましたか?」

真剣な顔をしながら玄関の方に歩いていくママ…


ママの携帯は常に

『オンコール』


休みであろうと

ビールを呑んでくつろいでいようと

久し振りに『家族』が揃っていようと…

私のママは

『コール』が鳴ると

『松下 律子看護師長』

になります

No.11

プルルッ…プルルッ…

兄貴がポケットから携帯を出す

「ちょっとごめん…もしもし?…うん…」

話ながら隣の部屋に消えて行った

「誰からだろう?」

ママはニヤニヤしている

「…あの話し方…女とみた」


兄貴に彼女がいるのかは…知らない

まぁ…見た目は悪くないし、がっついてないし優しいし…何より料理が上手いっっ…


でも…何故か今まで 『彼女』ってひとは見たことがない

見る機会がなかった…って言った方が良いかな


兄貴と私は名字が違います

それはママと『パパ』の都合

ママが言うには
『仕方がない事だった』

そうです

No.10

ピロピロ…ピロピロ…

ソファーの上に投げ出した携帯が鳴る


『理人』……
【明日、バイトが終わったらカラオケ行かない?】

【ごめん無理。あい】

送信…

ピロピロ…ピロピロ…

【えぇ~っ何か用事?たまには遊んでよ】

【用事はないけど忙しいから。カナでも誘ったら?あい】

送信…


「…あい、飯食ってる時は携帯は…」

「はい、はい、もう終わった」


…ほらね

返事が来ない


また携帯をソファーに投げる

「なぁに?彼氏なの?」


「彼氏じゃないよ、ただのバイト先の先輩」


『ただの』に降格した

『元カレ』

No.9

『松下家の晩御飯』

豚汁
長芋鉄板焼
ピーマンと人参の塩昆布和え
私が炊いたご飯


「ん~っ、チーズと韓国海苔が入ったこの長芋鉄板…ビールに合うわぁ」

「豚汁の…さりげないおろし生姜が効いてますねぇ」

「…ありがとう」



うちは少しズレてるけど

絶妙なバランスとタイミングで成り立っている


「あい…このご飯何か変だぞ」

「そう?」

確かに…ちょっとベタベタ…お米が立って…ない

「お前…まさかとは思うけど…お湯で洗わなかったか?」

「…ダメだった?」

「ダメだろ…」


…やっぱり
兄貴がお嫁さんになったら
口煩さそうっ

No.8

「ただいまっ」

「良いタイミングで帰って来たな」

兄貴が出来上がった料理を次々とテーブルに運ぶ


「お兄ちゃんお帰り、あい、ただいま」

「ママお帰り」
「母さん、お疲れ様」

「あら、あなた達ピザ頼まなかったの?」

手にぶら下げた袋にはビール

「あいがさ、豚汁食べたいって言い出して」

「ありがとねお兄ちゃん…あい…少しはお兄ちゃんを見習ってよ」

「はいはい、お腹が空いて死にそうだから早く食べよ。ママ、早く手を洗って来てよ」


久し振りに揃ったこれが私の…『当たり前』の家族


「わぁ~、美味しそう」

「いただきまぁす」

「…召し上がれ…」

No.7

「あい、もう少し時間がかかるから先に風呂入れば?」

「えぇ~っ、これ以上お腹を空かせたくない」

「…」

トントントントンッ…
キュッキュッ…ジャッー…

カウンターキッチンを自由自在に操る兄貴


「良いお嫁さんになれそうだよね…兄貴って」

「それって変だろ…」

「うん、残念だね」


うちには『当たり前』じゃない事がたくさんある

『パパ』の席がない分テーブルは広々使えるし
洗濯物を別にする必要はないし
トイレにいつも消臭剤を振る事もない
あぁ…あと『彼氏』の事を口煩く言われる事も…


その変わり

『家族』の役割が微妙にズレている

『パパ』のような
『ママ』

『ママ』のような
『兄貴』

『一人っ子』のような振る舞いの

No.6

兄貴が言うには
お米を研いで少し時間を置いてから『炊いて』欲しかったらしい…

炊飯器はもう直ぐ
『炊けました!』
の音楽が鳴る


「はっきり、何分経ったら炊いてって言わないからだよ」

「…お前…本気で言ってるのそれ…」

それが…何か?


軽く溜め息をつきながらもしっかり手を動かす兄貴


トントントントンッ…
ジャッ…ジャー


まな板を叩く包丁
鍋に入る材料の音


これが『家庭』の音だ


ピロピロピロリ~

ご飯が炊けましたぁ

しゃもじを濡らし
炊飯器を開ける

まだ暖まりきっていない部屋に勢い良く白い湯気が立つ


…ちょっと水が多すぎたかな

ご飯を混ぜながら思う


はいはい
蓋を閉めて蒸らしてみましょう

振り返えると冷蔵庫を開け兄貴が何やらブツブツ言ってる

でも何も心配いらない

今までも兄貴は充分に私のお腹を満たしてくれていた

No.5

ピンポ~ン…

「開いてますよぉ」

寒い玄関に行くのは面倒なのでリビングから叫ぶ

って言うか…自分の家なんだからそのまま入ってくれば!?

「あい、兄ちゃんいつも言ってるよな?」

「はいはい、鍵でしょ?たまたま忘れてただけ」


片手に大きめのスポーツバッグ
もう一方にはスーパーの袋


「今日は寒いな。やっぱり…豚汁だな」

「でしょう?」

「でしょう?って…それくらい自分で作れよ」

「人間…向き不向き、適材適所があるのよ」

「意味が分からない…お前の適材適所って何だよ…」


さぁ…?


ブツブツと小言を言いながらも直ぐにキッチンに入る兄貴


「もうご飯のスイッチ入れたのか!?」

えっ?
ダメでしたか…?


…お腹空いた…

死にそう…

No.4

…う~ん…何でだろ

なんか…『米粒』が割れてるような…

気のせいだよね

水加減…は…よし!

ピッ…
ピロピロピロリ~



後は兄貴の帰りと『豚汁』を待つのみ


真っ暗になったベランダに目をやる

あぁ…


ガラッガラッ…


冷たく湿気ってしまった洗濯物を取り込み、エアコンの風が当たる場所に移動させる



風に微かに揺れる
『女物』の洗濯物



うちには友達が
『別々に洗ってるよ』って言う

『パパ』の洗濯物がありません

No.3

プルルッ…プルルッ…

『兄貴』…

『もしも~し』

『あい、俺。もう飯食った?』

『まだ。ママねまだ仕事から帰ってないよ。ピザ頼んでだってさ』

『…ピザか…』

『私ね豚汁食べたいんだ、今日は』

『何で豚汁?…冷蔵庫何が入ってる?』

『ちょっと待ってね』

ガラッッ…

『えっとねぇ…人参、白菜、葱…大根…あとピーマン』

『…豚汁にピーマンはないよな。肉は?』

ガラッ…

『…冷凍庫に鶏肉があるよ』

『…分かった。あい、米くらい研げるだろ?ご飯だけ炊いといてよ』

『了解』


プッッ…


冷たい水で米研ぎ…

辛いなぁ…


どうせ炊くんだから…


『お湯』で研いでも一緒だよね

No.2

今日の気分は…

『豚汁』だった



冷蔵庫を開け一番上の段の奥から『マーガリン』を取る

マーガリンの空の容器を開けると…『お金』


『冷蔵庫は家庭の金庫』


誰だったか…偉い料理人が言ってたっけ


うちは
その通り『金庫』だけど

No.1

『もしもし?ママ?』

『おかえり。ごめんねぇまだ帰れそうにないの。ピザでもとってよ。お金はいつもの所にあるから…あぁ~そうだ!今日、お兄ちゃんが来るからね』

『そうなんだ…って言うかさぁまたピザ?』

『あなたもお兄ちゃんも好きじゃないピザ』

『…好きっていっても今月何回目!?』

『じゃぁ、あなたが自分で作ってよ』

『それは普通、ママの仕事でしょ?』

『自分が出来ないなら文句は言わない!仕方ないでしょう?…ママの子供なんだから』




世の中…

『仕方がない』事で溢れてる

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