【掌編】白鍵
彼女の家にあったピアノが彼女のすべてだった。少なくともわたしにとってはそう見えた。
まず出会ったのも彼女の奏でる音だった。
あなたも経験があるかもしれない、
住宅地の中で
突然音楽が流れてくるようなことがあるだろう。
あの素朴な音色が、
わたしはある日偶然にもその淵源を見つけたのである。
比較的新しい、真っ白な壁をした直方体の家だった。
二階の窓には隙間があってそれが音の出口だった。
わたしはしばらく立ち止まって聴いていた。
まだクラシックは知らなかった、
ずっと新鮮に窓の奥の音を拾い続けていた。
どれ位たったか、
「聴きますかあ!」
いつの間にか窓は全開されて茶髪の彼女が立っている。
「すごいですね、なんて曲なんですか?」
「ええ! 忘れちゃいました!」
呆気に取られた。
「ずっと弾いてますから!」
帰りかけたわたしへ彼女はその日最後にこう告げた。
言った通り、
彼女はいつも弾いていた。
平日の夜も日曜日の朝も、
残業の帰りにたわむれに立ち寄ってみても、
家の前までくればかすかに音が聴こえる。
わたしは彼女を空想上の存在のように感じた。
空想上の彼女がわたしの心の一角を占めた。
わたしは頻繁にその家の前を通るようになった。
これではストーカーじゃないか、
自分を嘲け笑っていると、
再びあの家の窓が開かれたのだ。
11月の末の晴れた日に彼女は黒い徳利首の服だった、
「聴きますかあ!」
「なんですか?」
「聴いていきますかあ!」
「中で!」
なんという不用心なことだろう彼女は。
しかしわたしももっとうまい言い方があったろうに、
「危ないですよ!」
「どうして!」
「悪人が来たらどうするんですか!」
「ええ! わたし身体は強いですから!」
「………」
彼女はますます幻想の存在のように思われた。
会ってみたい、話してみたい。
わたしは玄関へと歩み寄った。
家具はほとんどなかった。
家の中に物がなかった。
アップライトピアノはそれゆえに同居人のように強い存在感を放っていた。
「椅子がないので・・・」
わたしは正座して彼女の演奏に浸った。
「あ、k.545…?」
「知ってますかこれっ」
「名前だけですけど………」
「うれしいですねー」
「………」
「………」
「あの………」
「なんです?」
「お名前は?」
「名前! ええ! はい、とゆき と もおします」
「とゆきさん?」
「はい?」
「とゆきさんはここで暮らしてるんですか」
「暮らして? 生きてますとも?」
「………部屋が、すっきりしてるなあと思いまして」
「ママが危ないといいますからね!」
「危ない?」
「ピアノは、ピアノだけ! 残してもらいました」
「捨てちゃったんですか」
「ええ!」
挨拶を除けば、これが彼女との最後の会話である。
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わたしは彼女がどこかを病んでいるのではないかと思った、
不純なものだ。
しかし果たしてその予想は当たってしまった。
招かれたあの日の後、次に彼女の家の前に立った夜、
窓の向こうからあふれてきたのはうめき声のような何かとそして破壊の音だった。
あの家自体のほかに壊せそうな何ものかがあるとしたら、
それはピアノ、
だが素手であの巨大な箱をどうにかできるものなのだろうか?
立ちつくしていると背中のほうから光が差した。
軽自動車から小さな、短髪の老女が下りてくる。
「………うちの娘にご用でしょうか」
「いえ! ………ピアノを聴いていたんです」
「家を見ましたか」
「………………はい」
「………あの子はねえ、ずっとああなんですよ、
ずっと、
音楽が好きで好きで、
あんまり弾いて手が痛むものだから、
いらだって、
壊してしまうんですよ。
それでしばらく寝込んだら、
またべったり張り付いてねえ………」
「………」
「とってもいい子なんですけどね………」
それきり彼女はあの家に戻ってこない。
いまは病院で眠っているのかもしれない。
2月、
わたしの町に数年ぶりの雪が降った翌日、
ふと
あの家の前を通った。
溶けかけた雪とアスファルトがまだら模様を描いてまさに鍵盤のような、
道だった、
そこには本当に鍵盤が落ちていた。
どうやって壊したのか、
一本だけ、
着色された部分だけが歯のように痛々しく転がっていた。
わたしはそれを拾い上げた。
血が少しついていた。
冬の真っ白な空と、
しかし決して溶け合うことなく
白鍵は鈍い輝きを放っていた。
了
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