堕落
何時だろう?
外からパトカーのサイレンが聴こえてきて目が覚めた。
うるさい…
寝かしてくれよ…
そして、俺は再び暗い底の無い場所に落ちていった。
遠くの方から、サイレンの音は続いていた。
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頭が重い。
すっきりとした目覚めってやつを最後に感じたのはいつのことだったか…
濃いめのインスタントコーヒーの入ったマグカップを右手に持ち、古びたソファにゆっくりと座りながら左手でテレビのリモコンを持つと電源を入れた。
一口、コーヒーを含んでから画面に目をやる。
映り出されたのは、見覚えのある大きな桜の木が入り口近くにある銀行だ。
ああ、この近くか…
ニュースの内容は、昨日の昼間にこの銀行に強盗が入った。
犯人は3人で、2人はすくに逮捕された。
そして最後まで逃げていた1人が今日の未明に職務質問を受け、逃げ出したところを追い詰められ逃げ込んだアパートの住人である一人暮らしの大学生を人質に籠城しようとしたが、運悪くこの大学生が柔道部の主将で、あっさり取り押さえられて逮捕に至った…と、なんとも間抜けな強盗の逃走劇を大げさな言い回しをする男性キャスターがおもしろおかしく説明していた。
俺は、深夜のパトカーのサイレンの音を思い出していた。
マグカップをソファとテレビのちょうど中間に位置しているローテーブルに置き、立ち上がると北向きのカーテンを開けた。
小さなベランダが、汚れたサッシ越しに見える。
ん?
俺はサッシを開けて、そこにあるゴムのサンダルを履くと、小さなベランダに出た。
なんだ?これ…
大きめの紺色、
ナイロン製のスポーツバッグ
それが、ぽつんとそこにあった。
なんで、こんなもんが?
しゃがみこんで、紺色のバッグをじっと見た。
やはり、このスポーツバッグは覚えの無いものだ。
ゆっくりと、それに向かって手を伸ばした。
その時…
部屋の中からスマホの着信音が聴こえてきた。
俺は立ち上がると、もどかしくサンダルを脱いで部屋に戻った。
スマホには、会社の部下の名前が表示されている。
「はい、ああ。俺だ…何!どういうことだよ?その件は、うちで決まったはずじゃなかったのか?…とにかく、すぐに行く」
通話を終えると、後手にサッシを閉めて俺は会社に向かう準備を急いだ。
「完璧なアリバイ…か」
「はい」
二週間前に起きた殺人事件の捜査本部。
殺された男には5千万円の生命保険が掛けられていた。
聞き込みによると夫婦仲はかなり悪く、受取人の妻による保険金目的の殺害を視野に捜査をしていたが、その妻は夫が殺害されたと思われる時に、高速バスの中にいたというアリバイがあった。
妻が高速バスに乗っていたという複数人の証言があり、完璧なアリバイとなり捜査は振り出しに戻った。
事件は二週間前の早朝に、110番通報が入ったことから始まった。
通報したのは被害者の妻で、一泊二日の旅行に行き自宅に戻ると夫がリビングで胸から血を流し絶命している、という内容だった。
十数箇所の刺創、防御創もあり凶器と思われる刃物は現場には無く、殺害事件として捜査本部が立ったわけだ。
「よし、もう一度ガイ者の交友関係を洗おう。見ず知らずのヤツを自宅に引き入れるには無理があるからな」
そう言ってから、増田警部はこのヤマは簡単に解決しない、そう思った。根拠は無いが。
薄っぺらいことは分かっているが、ただ刑事の勘としか説明できない。
「どうなることか、さすがの俺も焦ったが…」
「須崎課長、すみませんでした」
「いや、君のミスじゃない。競合会社があんな姑息な手を使ってくるとは思いもしなかったからな。迅速に対処できたのは、君のおかげだよ。助かった」
「あ、いえ…」
仕事にトラブルはつきものだ。
今回のことは、乗り切ることができてホッとひと安心、というところだ。
俺はデスクのパソコンを開いた。
そこには、ニュースでやっていた強盗事件の続報が出ていた。
ん?
最後に逮捕された男が、強盗した金を所持しておらず、警察は事情を聴いていたが完全に黙秘。
そして、その男は刑事の隙をついて逃走したという内容だ。
俺は今、単身赴任の身だ。
アパートの一階に部屋を借りている。
あの夜のパトカーのサイレン…
ベランダにあった、覚えの無いスポーツバッグ…
まさか…?
「ちょっと出てくる」
俺はパソコンを閉じると会社を出た。
「この度は…」
「ありがとうございます…」
お悔やみの言葉に、私は無表情で応じた。
私の旅行中に、夫が殺された。
警察の事情聴取は度重なり、ご近所では私が犯人では無いかと、勝手な憶測が広がりアリバイを立証された今でも陰ではあれこれと噂をされている。
火の無いところに煙は立たない
そう。
子供に恵まれなかったことが直接の原因ではないけれど、確かに私と夫の関係は破綻していた。
だけど、そんな家庭はいくらでもあるはず。
もうしばらくすると、生命保険が支払われる。
マイホームのローンの残りは夫の死によって、支払わなくてもいいが、コソコソと噂をされる生活はまるでご近所の全ての人達から監視されているようで、とても心地が悪い。
殺人事件のあった家は、売るには難しいだろう。
私は、建物を取り壊してからコインパーキングにしようかと考えている。
幸いこの辺りには駐車場がほとんど無く、需要はあるはず。
そして、数年が経ち殺人事件のことなど誰もの記憶から薄れた頃合いを見計らって、土地を売り払うつもりだ。
気掛かりなことが一つだけあるが、今はそれについて考えたくは無い。
ニュースには、強盗の被害額は5000万円だと載っていた。
まさか…
しかし、タイミングといい、あの紺色のスポーツバッグがどうしても気になった俺は急いでアパートに帰った。
頭の中では想像が確信に変わり、あのバッグのファスナーを開けると、そこに札束があることを俺は考えていた。
アパートは、一階の一番奥の部屋だ。
スーツのポケットから、キーホルダーの付いた鍵を取り出すと、鍵穴に差し込み回した。
え…?
ドアノブを引くと、閉まっている。
玄関の鍵が、開いていたということか…?
俺はゆっくりと、もう一度鍵を差し込みゆっくりと回した。
カチリ、という音がはっきりと聞こえ手には鍵が開いた感触が伝わった。
ノブを握ると、慎重に回してドアを開けた。
誰か部屋にいるのか?
俺は玄関で音を立てずに靴をぬぐと、部屋に入った。
すぐ右側が小さなキッチンだ。
その向かい側には、バスルーム、隣にトイレがある。
俺は音を立てないように、ゆっくりと進んだ。
一番奥には六畳ほどのフローリングの部屋が一つある。
そこから、カタリとかすかに何か音が聞こえた。
泥棒か?
例え泥棒でも、あの紺色のスポーツバッグのことを考えると警察に通報はできない。
じわじわと、額や背中に嫌な汗が流れる。
俺は数歩キッチンに戻ると、包丁を手にした。
喉が乾く。
ゴクリと唾を飲み込んで、包丁をしっかりと持ち直すと一気にフローリングの部屋に入った!
ちくしょう!
ちくしょう!
ちくしょう!
必死の思いで警察から逃げたはいいけど、この住宅街はどの路地に入っても、同じ風景に見える。
しかも、オレが捕まった時はまだ辺りは暗かった上に、必死で逃げてたから何の目印も無いところに金の入ったバッグを投げ込んだ。
この辺りのアパートの一階の一番端のベランダに投げ込んだことしか覚えていない。
何なんだよ!
今日は平日だぞ。
住宅街っていうのに、やたらと人が多い。
「ねぇ」
呼び止められて、オレの心臓はキュゥっとなった。
「君も、強盗の隠した金を探してんの?」
はぁ?
「考えることは、みんな同じだよな。ニュースを見たやつらが宝探ししてやがる」
そうか…
それで、人が多いのか。
オレは未成年だから、ニュースに顔は出てないようだ。
声をかけてきたそいつは、スーツ姿だ。
会社をサボって、オレの隠した金を横取りしようとしてるわけだ。
オレが黙っていると、そいつは続けて
「なぁ、手分けして一緒に探さね?その方がぜってー効率がいいし。見つけたら、半分ずつってのはどーだ?」
半分?
あれは、全部俺のものだ!
だけど、怪しい態度はヤバいな…
「それ、いいね!じゃあオレは、あっちの方を探すよ」
「おい、待てよ。電話番号、教えろよ。連絡取りながら探そうぜ」
そいつは、スマホを取り出した。
オレのは警察にある。
「あ、オレ…スマホ忘れてきた…」
「ええ?チッ、じゃあ連絡取れねーし、もしそっちが見つけても独り占めだな。もういいよ、じゃーな」
くそっ、ムカつく。
もしもアイツが見つけても、ぜってーオレに連絡なんかしてこねーくせに!
とりあえず、人が多い理由がわかった。
ヤバっ!
制服を着たポリの姿を見つけて、俺はそっとその場を離れた。
ちくしょーっ!
誰かにネコババされる前に、見つけねーと!
冗談じゃないわ!
生命保険が下りたら、1000万円を報酬として渡す約束だったのに、今になって2000万円を要求してきた!
こうして…
きっと、こうして…
あの女は全額をゆすり取るつもりね!
全額どころか、私は一生あの女から脅されるわ。
なにもかも、取り上げられてしまう。
どうしたらいい?
あの女を…殺す?
夫をそうしたように…
出会いは、ちょっとした愚痴を書き込むSNSだった。
そこで出会った、あの女。
渡辺美香、、
多分、偽名ね。
渡辺美香とは、お互いの夫の愚痴を書き込むことで、しばらくの間はそれでストレスを解消できた。
ある時から、渡辺美香からの'もしも'の問いかけが増えた。
もしも、離婚したら?
もしも、海外旅行に行くなら?
もしも、恋人ができたら?
もしも…
もしも…
もしも…
その度に、私は'もしも'離婚したら…
海外旅行に行くなら…
ときめくような恋をしたら…
それらを想像して、膨らむイメージは止まることはなかった。
そして…
渡辺美香から届いたレスは、
'もしも夫が死んで生命保険が入ったら?'
私の想像は、想像の域を超えて現実味を帯びるようになった。
ぼんやりと、でも常にそのイメージが頭の中を駆け巡る、、
ドン!…カシャン!!
いきなりの衝撃に、私は現実に戻った。
デパートで、何を買うでもなく商品をぼんやりと眺めながら歩いていた私は男性とぶつかってしまった。
男性は、購入したワインを落としてしまい、しゃがんでいた。
あの音…
割れちゃったんだわ。
デパートのスタッフが、モップを持ってきて手際よく割れたガラス片や赤いワインを片付けた。
「あ…あの、ごめんなさい!私、ぼんやりしてて…」
我に返って、条件反射のようにお詫びの言葉を伝えてから、男性の顔を見た。
男性は、少し困ったような微笑を浮かべて
「いえ…僕もよそ見をしていたので」
そう言って、私の目を見た。
瞬間…
渡辺美香の
'もしも恋人ができたら…?'
が、私の心を満たした。
「あー、びっくりしたぁ!」
「びっくりしたのは、こっちだよ。来るなら連絡してくれよ」
妻が、座り込んで洗濯物をたたんでいた。
「えー、メールしたじゃない。見てなかったの?」
そういえば…
仕事のトラブルがあって、妻からメールが届いていたことを忘れていた。
俺は包丁をキッチンに戻した。
「ちょっとバタバタしてたんで、悪い」
「そう、仕方ないわね」
「今夜は泊まっていくだろ?仕事の資料を取りに戻っただけなんだが、いったん会社に戻るけど早く帰って来るから、メシでも食いにいくか?」
「それがね、明日、町内会の集まりがあるのをすっかり忘れてて…ほら、ウチが今年の役員に決まって最初の集会だから、いきなり欠席って気まずいじゃない?私は泊まるつもりで来たんだけど…」
「そっか。家のこと、任せっきりで悪いな」
妻はいつもの笑顔をこちらに向けると、
「気にしないで」
と、微笑んだ。
「コインランドリー、行ってきたのか?」
「うん。せっかく来たついでにね。洗濯機、買う?」
「いや、男一人だとそんなに量が出ないし、ワイシャツはクリーニングだから、今のところ要らないよ」
「そう?じゃあ私は掃除が終わったら帰るね」
「ああ。次の週末には帰れそうだよ」
「じゃあ、ごちそう作って待ってるわね」
俺はベランダのスポーツバッグの確認をするタイミングを逃したまま、パソコンデスクのそばに置いてある用紙を空々しく通勤用の鞄に入れるとアパートを出た。
洗濯機はベランダに置くタイプのアパートだが、とりあえず、洗濯機を買わずにいたことがラッキーだと思った。
妻が洗濯をするために、ベランダに出ることはないってことだ。
「ねえ…」
女はコーヒーカップをソーサーに置くと、少し身を乗り出すような姿勢で、テーブルの向かい側に座っている私に声を落として話した。
近くに、喫茶店のウエイトレスがいる。
「ね?そろそろ生命保険のお金が入るんでしょ?いつ?
「入ったら、連絡するって言ってるでしょ?」
「あのさあ、あなたって私のおかげで住宅ローンを払わなくてもいいのよね?私が手伝わなかったら、あなたは一生ダンナから飼い殺されていたでしょうね」
SNSで出会った私達。
私が夫の愚痴を話したことから、だんだんと近しくなった。
そして、夫を殺害する計画を2人であれこれとやり取りをするようになった。
もちろん、それは想像の中で…
でも、この女の話は日を追うごとに現実味を帯びてきて、繰り返し聞く夫の殺害計画をいつしか私は現実的に考えるようになった。
束縛の無い自由な生活。
永遠に続くような気がしていた、冷め切った夫との生活。
楽しみも何もなく、ただ空虚な朝を迎えるだけの日々。
そして、とうとうあの日。
私は高速バスのツアーに参加してアリバイを作り、その間にこの女が髪の毛一本も落とさずに完全犯罪とも言える殺害を実行した。
報酬は、生命保険の5千万円の半分だと約束していたが、犯行後になってこの女は3分の2を請求してきた。
そして今…
「あのさあ、あんたはただバスに乗ってただけでしょ?私は人を殺したのよ。わかる?あんたは自由と貯金と一戸建てを手に入れたんだから、充分でしょ?保険金、出たら全額もらうからね。あくまでも主犯はあんた。私は殺人教唆。どっちが罪が重いか分かる?あんまり欲張らない方がいいと思うけどね」
欲張ってるのは、あなたでしょ!
言葉は返さず、私はテーブルの下で両手をぎゅっと握った。
この女は、きっと私に一生つきまとうだろう。
あの時、そうだ!
思い出した!
追われていた俺は、金の入ったバッグをこの辺りのアパートの一階の角部屋に投げ込んだ。
そこには、そうだ!
洗濯機が無かった。
その部屋のヤツがカバンに気付く前に取り戻さないと…
それにしても、がめついヤツばっかだな。
周辺の俄かトレジャーハンターは、数を増している。
急がねーと。
誰かに先を越される前に、アパートの一階角部屋、そして洗濯機の無い部屋を見つけねーと…
俺はパーカーのフードを深くかぶって、また歩き出した。
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