ダンスときどき恋 in USA
ある日、彼女は成田空港にいた。
ダンスを勉強するためにアメリカへ行く。
初めての海外、期待と緊張が入り混じっているが
若い彼女には緊張さえも楽しく感じられた。
ちょっぴりフィクションで書いていきます。
よろしくお願いします。
新しいレスの受付は終了しました
彼女の名前はナツ。20代前半。駆け出しのダンサーで、まだまだレベルも低い。
ただ好きなだけでダンスを続けていたが、もっと勉強しないと、仕事さえももらえないことに気付き、一歩踏み出すことにしたのだった。
幸いにも一緒に行く仲間がいた。事務所の先輩が定期的に行っているダンススタジオを紹介してくれる。
この橋渡しがなければアメリカに行くことも考えられなかった。
住むところも先輩の手配で決まっている。
先輩には本当に感謝。
ナツは、胸が熱くなるのをみんなに悟られないように平静を装いながら、旅立った。
飛行機の手配も先輩まかせだった。
先輩がいつも使っているシンガポール航空。
飛行機に乗り込むと、フライトアテンダントの制服があまりに美しいので感動してしまった。
成田発ロサンゼルス行きの飛行機は予定どおり離陸。
びっくりするほど快適な機内。うっとりしてしまう。
食事がとてもおいしかった。なぜか「茶そば」がついていて日本人好みの味。
これって成田発の便だからなの?
機内ではゆっくり雑誌読んだり映画を見たり眠ったり、快適に過ごして目的地に着いた。
ロサンゼルスから、さらに国際線の飛行機に乗り換えて目的地へ向かう。
国際線とは違って、とても乗り心地が悪い。
フライトアテンダントは、らしくない普通のおばさん。
だけどドリンクのサービスでもらうオレンジジュースが、かなりおいしかった。2杯おかわり。
窓の外を見たりおしゃべりしているうちに目的地に到着。
そこは、ロサンゼルスから少し離れた観光都市だった。観光都市であるが故に、優秀なダンサーが集っている。
空港を出ると迎えの車がきていた。この都市に在主の日本人のKさん。
Kさんは私たちがこれから住む家の管理人、ということだった。
日本人のよしみで、日常生活のちょっとした困り事なども助けてくれる、と先輩が教えてくれた。
Kさんの車にみんな乗り、これから住む家へ向かう。
空港で各自の腕時計の時刻合わせを済ませていた。
夕方で外は少し薄暗くなっていて、街の明かりがひときわ華やいでいた。
尋常な華やかさではない。今まで想像もしたことのないようなきらびやかな街。
あまりの驚きで声も出なかった。無数のネオンがチカチカする中を車はゆっくりと走った。
車は、少し回り道をして、私たちはスーパーマーケットに寄った。
規模の大きさに驚く。やはり声が出ないほど驚いていた。
スーパーマーケットの中がとても広く、棚が大きくて、陳列されている商品の種類も数も多い。
まさにスーパーマーケットだ。
先輩はこの店の名前を「アバソン」と呼んだ。店名をじっくり見ると「アルバートソン」だとわかった。
なぜ「アバソン」って先輩は言うのだろう?疑問だったがナツは黙っていた。
今は、驚きも感動も疑問も、さとられたくない。海外が初めてだから騒いでいると思われたくない、とナツは思っていた。
一行はこれから暮らす家に到着した。
広い家だ。2人部屋が6つもある、しかもその2人部屋が2人用とは思えない広さ。
各部屋にシャワーとトイレがある。トイレも広い。
ナツは見たこともない広い家に驚いていたが、やはり平静を装い続けていた。
驚いたり騒いだりして低く見られたくない。特に先輩には。
簡単な夕食を管理人のKさんが作ってくれた。
みんなそれぞれ緊張していたり興奮したりしてワイワイしゃべっている。
それを先輩がゆっくりと話を聞いてやっている。
ナツより年下のアイ先輩。スラッと背が高く理想的なダンサーのカラダ。
アイ先輩は中卒でダンス一筋だ。だからナツより年下なのに仕事では先輩。
何度か海外留学でダンスを学んでいてダンサーとしても素晴らしいし人柄もいい。
ナツはこの事務所には入ったばかりだった。まさに新入りだった。
だからアイ先輩と一緒に仕事もしたことがない。ナツにとって、今回の渡米が初めてのアイ先輩と一緒の席。
だから頭の軽いヤツと思われたくないという気持ちが強かった。
管理人のKさんが家の中のこまごまとしたものの使い方や注意事項をひととおり彼女たちに教えてから帰っていった。
みんなそれぞれペアになって部屋を決め、寝室へ分かれた。
ナツはショウという少しだけ先輩と同じ部屋だ。ナツより数ヶ月の先輩。
「ショウ先輩、よろしくお願いします。」
「ナツ、先輩なんて呼ばなくていいよ、ショウでいいよ。」
「でも先輩は先輩だから…」
「数ヶ月しか違わないんだから同級生と思ってほしいな。
私、同じ時期に入った人もいないし。
それに、この世界そんなに体育会系でもなさそうだよ。」
「なら、ショウちゃんって呼ぶよ。タメ口でいいね。」
「うん、ナツとは楽しくやれそうな気がしてたからさ」
ナツの肩がスゥっとさがる。平静を装っても、まわりにバレバレなくらい緊張していた。
「それにしても広い部屋だね、ショウちゃん住んだことある?こんな広い部屋、私は初めて。」
「私だって初めてだよ、びっくりしちゃったもん、ホテルならこれくらい広いの泊まったことあるけどね」
「ショウちゃん結構金持ちなのか、お嬢様が稼いでるか、どっちなの?」
「なにそれ~別に何者でもないって~」
ナツとショウは灯りを消すのも忘れておしゃべりした。こうして1日目の夜は更けていった。
2日目の朝。
眠そうにしてる人はいない。時差のせいか夜寝なくても平気だったようだ。
皆、朝はやくからリビングに集まっていた。
リビングは家の南側にあってガラスサッシの引き戸があり、外に出ることができた。
引き戸を開けて出るとそこにはプールがある。
「プールつきの家なんてすごくない?」
ハシャいでプールのまわりを歩きまわる。みな、代わる代わるプールを見に行っていた。
アイ先輩が朝食を作ってくれた。
「今日はみんなのぶん作ったけど、明日からは各自で食べて。
夕食は当番が作ってみんなで食べよう。その方が経済的だからね。」
当番制で料理すると知ってナツは少し嬉しかった。料理はけっこう得意だしメンバーは7人だから作り甲斐もありそうだ。
逆にうなだれているのはナツよりもあとに入った超新人の十代の2人、クニエとコハルだった。
「え~料理苦手なんですけど…」
「大丈夫だって、やれば覚えるから」
だれとはなしにクニエたちを慰めながら朝食をすませた。
朝食が終わると後片付けにサッと動いたのはサヤとリカ。
この2人はショウよりもさらに半年くらいの先輩だった。
「はい、ぼーっと見てないですぐに手伝う。片付けとかはみんなでやる習慣にしとかないと誰かにしわ寄せいくからね。」
アイ先輩の一言で後輩たちがみな動いた。
こういうことをキツくならずにサラッと言えて、しかも適度な緊張感をかもしだすアイ先輩ってすごいな。
ナツはアイ先輩の穏やかな表情を見て感心しながら、洗われた食器を拭いた。
「朝ごはんは自分でやるのか。毎朝なにを食べようかなぁ。」
「トーストがいちばんお手軽だよね。」
「なんにしても買い物にいかないとだね」
「あとでみんなで行く?」
みなガヤガヤと相談しているとアイ先輩が言った。
「片付け終わったらスタジオに挨拶に行くよ。その後アバソンで買い物すればいいから。」
「おお、いよいよスタジオ行くんですね!」
ナツが身を乗り出した。
「おー、ナツ、乗ってきたね、片付け終わったらすぐ行くよ。」
片付けと出かける支度をすませ皆でスタジオに向かった。
これからナツたちがダンスのレッスンを受けるスタジオは、家から歩いて10分だった。
スタジオに着くと、中ではジャズダンスのレッスンが行われていた。
内装はすべて木材が使われていてぬくもりのあるスタジオ。
個人経営の小さなスタジオだが活気があった。
入り口に入るとすぐにデスクがあり、まるで日本の企業の社長が座るような立派な椅子がある。
その椅子から立ち上がってナツたちを迎えたのは、スタジオのオーナー兼バレエ教師のイレーヌだった。
イレーヌは、まずアイの姿を見てすぐに駆け寄り、アイを抱きしめた。
「オー、アイサーン、It's been a long time. I missed you!」
アイも英語で何かイレーヌに答えている。
それにしてもスッゴいおばあちゃんだな、とナツは思った。
推定年齢は、70代とも80代ともとれる、顔も腕もシワシワのおばあちゃんだ。
あごがとんがっている、鼻が高い、西洋の人形劇に出てくる魔女の人形みたいな顔。
目はビー玉みたいな水色をしている。髪は総白髪でウェーブがかかっているが非常に薄い。
それなのに、なんて平和であたたかい、チャーミングな笑顔なんだろう。
ナツがイレーヌに見とれていると、アイがメンバーをイレーヌに紹介し始めた。
アイは、まずサヤとリカをイレーヌに紹介した。
ひとりずつ名前を確認して笑顔で話しかけるイレーヌ。
次にショウが紹介され、そしてナツの番がきた。
イレーヌは両手をナツの方に差し出して
「ナツ?ナツサーン!」
それから自分の胸に両手をあてて
「イレーヌ!」
と、顔の筋肉を最大級に動かして言う。とてもチャーミングだ。
ナツは日本語で
「よろしくお願いします」
と、右手を出した。
イレーヌは笑顔でナツの右手を両手で包み込むように握りしめ、
「Nice to see you!」と答えた。
初対面だけどHow do you doとは言わないんだな、とナツは心の中で思った。
ナツのあとに、クニエとコハルの紹介も終わり、一同はダンススタジオをあとにした。
明日からこのスタジオに毎日通う。
今日はレッスンをうけないでゆっくりする予定だと、アイはみんなに話した。
みんなも同じ気持ちだった。
しかし、ナツは、今見てきたジャズダンスのレッスンがとても気になって、スタジオを離れたくない気持ちだった。
ダンススタジオを出て、みんなで近くのスーパーマーケットへ行った。
前の日に立ち寄った「アルバートソン」という店。
陳列棚の大きさや品物の種類と数の多さに改めて驚きながら、めいめいに、思い思いのものを買った。
サヤとリカはビールも買っていた。
ナツは朝食用の食パンやマーガリン、安いステーキ肉を買った。
牛乳は脂肪分のパーセントによって何種類にも分かれていた。「low」と表記してある少しだけ低脂肪の牛乳を買った。
レジに並んで自分で品物をひとつひとつレジ台に置かなければいけない。
レジの人が品物のバーコードを読取りの機械にかざすと「ピッ」と音がする。
読取りの終わった品物はベルトコンベアでレジ台の端まで流れていき、
別の店員が袋詰めをしてくれる。
割と親切なサービスだな、とナツは思った。
会計をすませてみんなで家に戻った。
帰宅してそれぞれ買ったものを冷蔵庫や自分たちの部屋にしまった。
各自、自分の買ってきた食材を使って昼食をとった。
昼食が終わると、みな眠そうにしている。
これが時差ボケってやつか。
しかしナツは眠いどころか、気持ちがはやっている。
スタジオのレッスンが気になってしょうがない。
「アイ先輩、私、スタジオ行ってレッスン見てきたいんです、大丈夫ですよね。」
「ナツ、ずいぶん元気だね。午後は1時半からだよ、イレーヌも喜ぶね、いってきな。」
「よかった、行ってきます。」
スタジオに向かって歩きながら、ナツは、イレーヌに何と言おうか考えた。
レッスンを見学したいってことを英語で言えばいいんだよな。
ということは、「~してもいいですか?」という、許可を求める文章だな。
中学3年のときに一年間だけ通った英語塾では、英語の基本を厳しく叩き込まれた。
ナツは塾の先生の顔を思い浮かべながら英語のセンテンスを思い出そうとした。
「May I なんとか、だっけ?…そうだよ、May I 何々って覚えたんだった。」
May I の次は…
「見学だからseeではない、じっと見るんだから、えーと、watchだ、そうだそうだ。」
「May I watch the lesson?そうだ、これだ!」
あるきながらナツは
「May I watch the lesson?」と何度も声に出して練習しながらスタジオへ向かい歩いていった。
スタジオのドアを開けて中に入ると、クラシックバレエのレッスンがもう始まっていた。
生徒たちの前に立って教えているのはイレーヌだ。
ナツは思い切って大きな声を出した。
「May I watch the lesson?」
イレーヌと生徒たちがいっせいにナツの方に振り向いた。
次の瞬間、イレーヌが最高の笑顔で叫んだ。
「off course!ナツ!」
このやりとりは、ナツにとってはとてもエキサイティングな会話だ。
初めての海外で初めて話す英語が通じた。胸がワクワクした。
そんなナツの興奮をよそに、イレーヌたちはいつも通りのレッスンに集中した。
基本的な訓練のバーレッスンから始まる、スタンダードなバレエのレッスン。
70歳代とも80歳代とも見てとれるイレーヌだが、キビキビとした動きで手本を示していく。
「アン、ドゥ、トロワ、カツ、」
イレーヌの声は大きいわけではないのに、よく響いている。
バレエ用語はみなフランス語だ。
イレーヌのフランス語はとても美しい。
もしかしたら彼女はフランス人かも。
レッスンはクラシックバレエのベーシッククラス。
このクラスは楽についていけそうだな、とナツは思った。
レッスンが終わるとイレーヌがナツに話しかけた。
「ナツ、How do you feel?」
ナツは英語で話しかけられてドキッとしてしまう。イレーヌの質問を頭の中で文字に置き換えてから日本語に変換する。
「…ベリー、グッド」
やっとの思いで答えるが、何がベリーグッドなのかナツ自身もわからない。ただ答える言葉が見つからなかっただけなのだ。
しかしイレーヌはナツの返答に喜んだ。
「オー、スバラシ、ナツ、I'm so happy you came here to watch the lesson, you will be a good student of mine!(あなたがレッスンを見にきてくれて私は幸せだわ、あなたは私のいい教え子になりそうね)」
イレーヌは嬉しさを全身であらわしている。英語はわからなくてもその喜びが伝わってきて、ナツは幸せな気持ちになった。
午後1時半から始まったバレエのレッスンは2時45分に終わった。
生徒たちは簡単な挨拶をかわして三々五々帰っていく。
午後3時からは上級のジャズダンスということなので、ナツはこのレッスンも見学することにした。
ポウルという教師がやってきた。黒人のよく笑う人だった。
オスマン・サンコンをすごーくすごーく上品にした感じだった。
イレーヌが、ポウルにナツを紹介してくれた。
ポウルは真っ黒な肌の色の顔から真っ白い歯を出してニカッと笑った。
「Nice to meet you ナツ!」
それは上品なイギリス英語のような発音だった。
ポウルは、仕草も話し方も、まるで貴族のように優雅で上品で優しさに満ち溢れている。
顔はサンコンなのにな、とナツは思った。
しかしレッスンが始まるとポウルのかもしだすムードが、ガラリと変わり、
ポウルのダンスはシャープな動きに迫力があって、なおかつスタイリッシュだった。
カッコいい!サンコン先生!
ナツは心の中で大拍手をした。しかも心の中でポウルにニックネームまでつけてしまっていた。
この先生のクラスはついていけないかもしれない、それでもこのクラスに出たい。ナツの心は熱くなっていく。
サンコン先生は上級クラスしか教えていない。
無理でも、上級クラスに出るしかない。
翌日からは各自それぞれに出たいレッスンを選んで通い始めた。
朝のジャズダンス、ベーシッククラスはみんなで行った。
午後1時半のクラシックバレエ、ベーシッククラスもみんな一緒。
3時のジャズダンス、ハイクラスと、4時半のクラシックバレエ、ハイクラスには誰も行こうとしなかった。
レベルが高すぎる。
ナツはひとまず、この2つの授業を毎日見学することにした。
4時半のバレエが終わると、ダンススタジオは夕食休憩に入る。
午後7時からジャズダンス、ミドルクラス。中級ということで、ナツの仲間たちは出たり出なかったり。
アイ先輩とナツはこのクラスに出る。
午後8時半からは、イレーヌがオリジナルでやっているストレッチのレッスン。仲間たちもみな出る。
こうして1日が終わる。
初日の朝のジャズダンスはヒップホップのクラス。
教師はミシェルという若い女性の振り付け師だった。
一見、ダンサーと言われても「ん?」と思うようなポッチャリ体型。
ゆったりとしたハーフパンツとTシャツ。
ロングの金髪をポニーテールにして、キャップをかぶって、いかにもヒップホップダンサーといういでたちだった。
童顔のミシェルが笑顔になると、とても愛嬌のある魅力的な表情だ。
サンコン先生もそうだが、ミシェルも、普段のムードとダンスを教える時のムードがまるで違う。
ミシェルが教え始めると、その緊張感で空気さえもピリッと張り詰めるようだ。
そんな緊張感の中でも、ミシェルはひとりひとりの生徒のカラダをリラックスさせ、良さを引き出していく。
ミシェルの振り付けもすごくカッコいい。
ナツは自分のカラダを突き抜けるような喜びを感じながら夢中で踊った。
あっという間に時間が過ぎていく。
「good job,everybody」
ミシェルの大きな声が響きわたった。
生徒たちみんなが拍手をする。こうして授業が終わる。
日本とは全然違うなぁ。
ミシェルのクラスが終わると、ナツはミシェルに駆け寄った。
「my name is ナツ. I'm from Tokyo. I will stay here 3 monthe. I'm so glad to take your class!」
突如駆け寄ってきてまくしたてるナツに、最初は驚いたミシェルも、やがて笑顔になり、優しくナツに答えた。
「nice to meet you ナツ. your dance is very good. enjoy my class.」
ミシェルの方からナツに握手を求めたので、ナツは喜んで右手を出す。するとミシェルはナツの右手を強く自分に引き寄せてナツのカラダをギュッと抱いた。
「thank you for comming!」
ミシェルは腕をほどいてナツの顔を見てニッコリ笑った。
「サ、サンキュー…」
急にハグされてナツはびっくりしてしまった。
それでもなんとか笑顔を作ってミシェルに挨拶をして、途端に急に恥ずかしくなってしまい、急いでダンススタジオを出た。
ハグされてしまった。アメリカ人風の挨拶かぁ。
びっくりしちゃったな。
午後1時半からは、イレーヌのクラシックバレエのレッスン。
イレーヌはいわゆるバレエ教師のような格好はしていない。
上下とも白い、フリルなんか付いたりしているフェミニンな服を着ている。
なのになぜか、イレーヌにとってはバレエを指導するのに適しているようだ。
服にほどこされているフリルなどの装飾は、イレーヌのバレエの動きを少しも邪魔しない。
それどころか、却って動きが生かされて、イレーヌの動きを生徒たちも理解しやすいようだ。
かなり深い配慮をもって服を選んでいるようだ。
イレーヌの右足と左足には違う色のレッグウォーマーが使われている。
これによって、左右の足の動きも理解しやすい。
何よりレッスンが楽しいと感じさせる魅力がイレーヌにはある。
そして、クラシックバレエの基本にとても忠実で、ひとつひとつのカラダの使い方に厳しい。
ナツはモダンバレエとジャズダンスやヒップホップをやってきたので、
クラシックバレエの基本を細かく学べることは新鮮で、それがとても嬉しかった。
イレーヌのバレエのクラスが終わり、ナツの仲間たちはみな、家に帰った。
アイ先輩も帰った。
ナツはスタジオに残り、3時のジャズダンス・ハイクラスと、4時半のクラシックバレエ・ハイクラスを見学した。
昨日は3時のクラスは、サンコンに似ているポウル先生だったが、今日は若い女性の先生だ。
彼女は「J.J」と呼ばれていた。
スタジオの教師紹介の張り紙を見ると、どうやら、やたらと長い名前のようだ。
それで略式化して、こういうニックネーム的な呼び方なのだ。
JJは詩的なダンスの振り付けをする。モダンバレエに近い。
モダンバレエ出身のナツは、JJの振り付けを好きになった。
朝のミシェル同様、JJもとにかく声が大きい。
振り付けの動きにも、声の大きさにも、圧倒的な迫力がある。
ハイクラスだけあって、参加する生徒も、ハイレベルのプロのダンサーが多い。
いつか、この人たちと並んで踊れるようになるかな。
かなり時間がかかりそうな気もする。
続いて、ハイクラスのクラシックバレエを見学した。
タラという小柄な女性のバレエ教師。
いかにもバレエ教師といういでたちだった。
手足、カラダ、すべてが細く美しいラインだ。そして小顔。
おそらくプロのバレエダンサーだったのだろう。
その小さいカラダからは想像もつかないような迫力がある。
ただそこに居るだけでもその迫力を感じて、ナツには、タラ先生が別世界の人のように感じた。
前半のバーレッスンなどは基礎的な動作を厳しくチェックしている。
どんなに実力あるダンサーでも毎日、こうやって基礎的な動きを基本どおりできるかチェックしているのかもしれない。
後半のフロアレッスンでは、ナツが体験したこともない複雑な動きをやっていた。
さすがに無理かな。とナツは思った。
でも、このハイクラスのレッスンをあきらめる気持ちになれない。
タラ先生のレッスンも、タラ先生その人も、あまりに魅力的だ。
このレッスンを受けることができるレベルに早くなりたい、とナツは思った。
そのためには、初級でも中級でも、バレエのレッスンをしっかりこなしていかなければならない。
見学している間、イレーヌがナツにいろいろと解説してくれていたけど
ナツには、そのイレーヌの声すら耳に入らなかった。
それほどまでに、ナツはタラ先生のレッスンに集中して見学していた。
高校時代に少しだけクラシックバレエのレッスンを受けたことをナツは思い出していた。
モダンバレエをやっていたナツには、できないことだらけだった。
モダンバレエとジャズダンスを続けてきたけどそれだけでは得られなかった大切なことを
クラシックバレエのレッスンで学べるのかもしれない。
感動と興奮とこれからへの期待で、ナツは気持ちの整理がつかなくなり始めていた。
あまりの嬉しさに、自分の心がついていけない。
家に帰って夕食を済ませてから、ナツはアイ先輩と一緒に、午後7時のジャズダンス、ミドルクラスに出た。
ロック歌手のようなストイックっぽいかっこよさの男性の教師。
ボビー先生の年齢は30代くらいと見受けられた。
ワイルドなかっこよさに、ナツは、ボビー先生を一目見てすっかり惚れ込んでしまった。
「ナツ、目がハートばい」
アイ先輩が笑いながら九州弁でナツをからかった。
ボビー先生は日本人のアイ先輩やナツにも親切に教えてくれる。
ウォーミングアップのエクササイズを教えながら、ナツのところへ来て、ナツの手をギューッと引っ張った。
「もっと伸ばせ」というような意味のことを、英語で言ったようだ。
ナツは一目惚れしたボビー先生の手が触れてドキドキしたが、それ以上に、自分の腕の延ばし方がMAXではなかったことにショックを受けていた。
ボビー先生の振り付けは言葉では言い表せないくらいにカッコ良くて素晴らしい。
ひとつひとつ振りを覚えて動くたびに、ナツは自分の心が燃えていくのを感じていた。
「OK,good job everyone!」
ボビー先生の大きな声の一言でレッスンは終了、みんな拍手している。
ナツはすでに放心状態だ。目はハートのまま…
一日の終わりのレッスンは、イレーヌのストレッチだった。
先ほどのボビー先生のレッスンには来なかった仲間たちもやって来た。
イレーヌのストレッチのレッスンは、イレーヌが考案したオリジナルだ。ストレッチと筋力トレーニングがうまく分散されてプログラムしてある。
音楽は往年のヒットナンバーで日本人にも親しみのある曲ばかりが流れてくる。
時にはリズムに合わせて声も出す。思いっきり声をだしながらストレッチすると不思議と柔軟性が高まっていくような気がした。
前日のスタジオ見学から始まったナツの感激は、
今日のさまざまなレッスンでさらに強められていき、
ボビー先生のレッスンで最高潮に達し、
とうとうイレーヌのストレッチレッスンで爆発する。
これから思う存分ダンスを学ぶことができる喜びが、ナツの胸から熱いものをこみ上げさせ、大粒の涙となって溢れ出した。
イレーヌはナツがなぜ泣いているのかわからないので、驚いて、ナツにレッスンを中断させようとしたが、
ナツはやめようとはしない。
それどころか、さらにカラダを思い切り動かしながら、今やナツは声をあげて泣いているのだった。
イレーヌは英語でナツに問いかける。
「どうしたの?何があったの、ベイビー?」
ナツは泣きじゃくりながらも必死でイレーヌに答えようとした。
ナツはイレーヌに、自分が今、どんなに幸せな気持ちなのかを伝えたかった。
イレーヌはやがてナツの思いを理解し、優しい表情で微笑んでいた。
イレーヌのストレッチレッスンはレッスンそのものもオリジナリティにあふれているが
そのレッスンの終わり方も独特だった。
ハードなストレッチと筋力トレーニングの繰り返しのあと、クールダウンのストレッチ。
そして、フロアに一人ずつマットを敷き、仰向けに寝そべってメディテーションの時間。
イレーヌはリラックスさせるためのイメージトレーニングとなるようにトークしながら
生徒たちにバスタオルをかけていく。何枚も何枚もかけて全身を完全に覆い隠す。
生徒たちは目を閉じてイレーヌのトークを聞きながら、心と身体をリラックスさせていく。
感激で泣きじゃくっていたナツも、クールダウンしてリラックスしていった。
このメディテーションが最後でレッスンは終わる。
すると、イレーヌは皆をフロアに座らせたまま、歌い始めた。
なんと日本語だ!
「サーヨナーラー、サーヨナーラー、good~bye~」
どうやらこの歌もイレーヌのオリジナルらしい。歌は続いていく。
イレーヌのオリジナルなストレッチのレッスンの最後は
イレーヌのオリジナルの歌で締めくくられるようだ。
かろうじて歌といえるような非常にシンプルなメロディーでイレーヌは歌い始めた。
その場にいる常連のアメリカ人の生徒たちもイレーヌと一緒にたどたどしい日本語で歌う。
「サーヨナーラー、サーヨナーラー、good bye、アイサーン、サヤサーン、リカサーン、ショウサーン、ナツサーン、クニエサーン、コハルサーン…」
みんながひとりひとりの顔を見て、名前をメロディーに乗せて歌っている。
それも、日本人の名前を優先的に歌い、そして地元のアメリカ人の生徒たちの名前もメロディーに乗せて、全員の名前を歌った。
さほど魅力的なメロディーではなかったが、ひとりひとりの名前を呼ぶ暖かさを感じて
ナツはまた感激してしまう。
歌が終わると、イレーヌがリードして、みんなで声を合わせて挨拶。
「オヤスミナサイ、マタアシタ…」
まず日本語、そして英語、フランス語、スペイン語で挨拶し、レッスンは終わった。
レッスンが終わると、イレーヌはひとりずつ抱きしめて、帰る生徒たちを送り出していく。
とても暖かい気持ちになって、ナツたちは家路についたのだった。
1日に4つものレッスンを受けることができるなんて、貧乏ダンサーだったナツには夢のようだ。
だからこそ今の内に受けられるだけのレッスンをできるだけ多く受けたい。
ナツは、張り切って1日に4つのレッスンをこなそうとしていた。
朝のジャズダンス、
午後1時半のクラシックバレエ
午後7時の中級ジャズダンス
そして1日の終わりはイレーヌのストレッチ。
しかし急激にレッスンの回数を多くしたのでカラダが追いつかず、ナツは激しい筋肉痛になってしまった。
アイ先輩が心配して、筋肉痛用の軟膏を買って、持ってきてくれた。
白い容器には
「cool&hot」と書いてある。
ナツは容器のフタを開けて、筋肉痛の部分に塗ってみた。
「cool&hot」はサラッとした白いクリーム状の塗り薬だった。
塗ると、しばらくして、塗った部分がとても冷たくなった。
寒く感じたほどだった。
しかし、またしばらくたって、こんどはとても熱くなってきた。
心地よく暖められて筋肉痛が癒された。
この塗り薬はナツのここでのダンス生活にとても役立ってくれた。
リビングでナツの様子を見ながら、アイ先輩がストレッチをしている。
「ナツ、無理はいかんよ。1日3レッスンでも充分よ。」
「う~ん、わかってますけど、無理してでも受けたいレッスンがいっぱいありすぎて。」
「ふう~ん、ナツは楽しそうに踊るもんね、あんたみたいに楽しそうにする子は初めて。まるで子どもやん。」
アイ先輩はそう言って笑った。ナツには、プロのダンサーが持つストイックさは全くない。
ただ、大好きな遊びをやりたくてたまらない子どものように
レッスンを楽しんでいる。
それがアイにしてみれば珍しくおもしろかった。
きっとイレーヌもそう感じているだろうな、とアイは想像していた。
テレビがついていて、志村けんのバカ殿のビデオをみんなで見ている。
管理人のKさんが、日本から送られてきたビデオテープを貸してくれたのだ。
みんなビデオに見入って、大きな声で笑っている。
ただ一人、上の空で明日のレッスンのことを思い巡らせているナツを見て、アイは
「ほんとに、あんたはおもしろいね」
と小さな声でつぶやき、クスッと笑った。
朝の初級ジャズダンスは毎日教師が変わる。
ヒップホップ専門のミシェルやモダンバレエ風の振り付けをするJJ、ほかにも曜日によって教師が決まっているようだ。
その中に、リゾーという中年男性の教師がいた。
リゾー先生は、いわゆる昔ながらのジャズダンスを教える。
振り付けは大人っぽい華やかさがあった。
日本で仕事をしたことがあるというリゾー先生は、日本人の生徒にとても親切にしてくれた。
アイ先輩もリゾー先生の振り付けで仕事したことがあるという。
ナツも、ナツと同じ部屋で生活するショウも、リゾー先生の振り付けを一度受けただけで、とても好きになった。
大人っぽいエレガントさと、ほんの少しだけにじみ出て来るセクシーな味わい。
シンプルな動きの組み合わせなのに、皆で踊るとなぜか華やかになる。
なんだか一流ホテルのショーで踊っているかのような気持ちにさえなるのだ。
リゾー先生は初級と中級のクラスを教えていた。
中級には尻込みしていたショウが、リゾー先生の中級だけには出ることにした。
さらに個人的にもリゾー先生にレッスンを受けることにしたらしい。
ナツにはショウの気持ちがよくわかる。きっと、ショウの感性にリゾー先生の振り付けが合っているんだろう。
ナツだけではなく、ショウも急に生き生きとしてきた。
リゾー先生の弟子のマルコスも朝の初級ジャズダンスの教師だった。
白色人種の中でも特に白い肌のマルコス。
スレンダーであまり筋肉質ではない、少し気が弱そうだ。
リゾーの弟子というくらいだからレッスン内容も振り付けもリゾーに似ているのだが、
どこか、そこはかとない繊細さもにじみ出ていた。
マルコスの英語はなぜか聞き取りやすかった。
レッスンも親切丁寧に教えてくれる。初級のクラスには申し分ない教師だった。
しかしナツは、マルコスの気の弱そうなムードが好きになれず、彼のレッスンにはあまり行かなかった。
逆にマルコスは、2~3回のレッスンでナツのことを気に入ったようだ。
レッスンに出ずに時間差でスタジオに来るナツに、マルコスは熱い視線を送っていた。
ナツは彼に興味がなかったのでマルコスの視線には全く気づかないのだった。
午後1時半のクラシックバレエは毎日イレーヌの担当だ。
年齢は70代とも80代とも見受けられるイレーヌが、毎日生き生きとバレエを教えているのだった。
午後3時の上級ジャズダンスを教えているのは、オスマン・サンコン似のボウル、モダンバレエ風振り付けの若い女性JJ、ナツが一目惚れしたロック歌手風のボビー、ほかにも一流のショーケースで活躍している振り付け師が日替わりでやってくる。
中でも、マイケル・ダグラスに似たジェイミーという振り付け師のクラスは
トップクラスのダンサーがいちばん多く集まってくる人気のレッスンだった。
ジェイミーのクラスにトップクラスのダンサーが集まる理由はすぐに理解できた。
かっこいいとかオシャレとかそういう言葉ではとても表現できない、質の高い振り付けだ。
踊るダンサーたちを魅力し、見る人を惹きつける。
好き嫌いの好みを差し引きしても、質の高さは揺るがない。
ナツはジェイミーのクラスを見学しながら、もし無理だとしてもこのクラスを受けたいと、心から思った。
このクラスに来るトップクラスのダンサーの中でも、ひときわ輝いて見える女性ダンサーがいた。
髪は黒く、おかっぱにしている。映画「シカゴ」のときのキャサリン・ゼタ・ジョーンズに似ていた。
彼女は膝まで高さのある茶色い皮のブーツを履いて踊る。
普通は足首までの、とか、くるぶしまでのダンスシューズを履くのに。
皮のブーツは使い込んでいるのか、とても年期の入っているような、シブい光沢があり
踊る彼女の足に、しなやかにフィットしている。
彼女のダンスはメリハリがきいているのに少しも押し付けがましさがない、美しい動きをしていた。
ナツは、このダンサーに「ブーツのひと」という呼び名をつけて、自分の心のうちの密かな目標とした。
それは遠く高い目標だった。
ナツが「金持ち先生」というあだ名をつけたリゾー先生のクラスは楽しかった。
ナツにとっては、難しいと思う要素がほとんどないレッスン内容だった。
しかしオーソドックスだが味のある振り付けには学ぶものがあった。
日本人の生徒たちはみな、こぞって金持ち先生のレッスンに出ていた。
一方、金持ち先生の方では、熱心に集まる割には踊りが生き生きとしないJapanese studentに物足りなさを感じていた。
もっと自分の殻をこわして内なる情熱を全身であらわしてほしい、そんな思いからか、大声で
「エナジー!」と叫ぶことが多かった。
こうしてナツは「energy」という単語を覚えた。
おとなしい日本人の仲間とは対照的に、ナツはすっかり心を解放して、のびのびと情熱的に踊っていた。
毎日、スタジオに通っていると、ほかの生徒たちとも顔見知りになっていく。
もともとアイ先輩と仲の良いひとたちもいた。
大学生のブライアンは背が高くて顔立ちの整った好青年。
大学で日本語を学んでいるらしく、日本語と英語を交えつつ会話してくれる。
アイ先輩をとおして、ナツの仲間みんなが、ブライアンと親しく話すようになった。
ブライアンは誰にでも優しく話してくれる。
顔もかっこいいから、ナツやみんなも、ちょっと会話するだけで、ポーッとなってしまうのだった。
ブライアンはダンスはそんなに特別ではなかった。初級クラスばかり受けていた。
しかし、スタジオの外では、ナツたち日本人にとっては、素晴らしい英語の先生となった。
ブライアンは時にはナツたちの家にも遊びに来た。
ブライアンが勉強に使っている日本語勉強ビデオを、ナツたちに見せてくれたりした。
また、ナツたちのアメリカ生活にいろいろアドバイスもしてくれたりした。
ブライアンは冗談を言うのが好きだった。
日本語の冗談を言ってみたいらしく、ナツたちは簡単なダジャレやその頃日本で流行っていたギャグなどを教えてあげたりもした。
ナツにとっては個人的には、単なる好青年で恋愛対象にはならなかった。
ある日、ナツたちは、とある大きなリゾートホテルのショーを観にいくことになった。
ショーは午後だったので、みんなで午前のジャズダンスのクラスに出てから、午後のショーに出かけることにした。
公共の交通の利用に詳しくない彼女たちは、出かける時にはほとんどイエローキャブという格安タクシーを使った。
朝、みんなでスタジオへ行くとブライアンがレッスンに来ていた。
誰かがブライアンに言った。
「we go *******hotel to watch the show.」
ソレハイイネ、とカタコトで答えたブライアンは、ふと、真剣な表情で彼女たちに質問した。
「how do you go there?」
ブライアンは彼女たちの交通手段を聞いた。
「タクシー、タクシー!」
みんな口々に答えた。
するとブライアンは、タクシー運転手に行き先のホテルを言うときの発音に気をつけるように言った。
その場は即席英会話教室に早変わりし、ブライアン先生は、
ナツたちの仲間全員の発音を、ひとりひとりチェックする。
日本人の女の子7人で出かけるのだから、2人くらいが正しい発音をできれば十分だ。
しかしブライアン先生はひとりひとりに丁寧に教えてくれる。
教わる方も楽しいから、誰も水をさすようなことは言わずに、喜んでブライアンに習うのだった。
このようにして、事あるごとにブライアンはナツたちと楽しく過ごしてくれる貴重な友人だった。
メキシコ人のフェルナンドはダンサー見習いの明るい青年。
身長は低く痩せている。
ジャズダンスの初級クラスと中級クラスの常連だった。
ナツには、最初、フェルナンドがメキシコ人とはわからなかったが、イレーヌとフェルナンドがスペイン語で会話していることに気が付いた。
ナツはフェルナンドに話しかけてみようと思った。
ラジオでスペイン語を少し勉強していたことがあったのだ。
その当時は、フラメンコダンサーになりたくて、スペインに留学するつもりだったのだ。
フラメンコを少し習ったとき、何かピンとくるものがあった。
もしかしたらフラメンコが自分の内面的な性質と合うのかもしれない、とナツは思っていた。
それでもフラメンコへの転向には踏み出しきれず、ダンサーとして生きる道を探っている。
そんな事情もあって、フェルナンドのスペイン語は、ナツの心を特別に惹きつけた。
ナツは思いきってフェルナンドに話しかけてみた。
「オ、ラ!(こんにちは!)」
「oh! you speak spanish!」
フェルナンドがすぐに笑顔で答えてくれた。
フェルナンドは英語だったがナツはスペイン語で続けた。
「ミ、ノエバ、エス、ナツ。(私の名前はナツです)エンカンタダ(よろしく)」
今度はフェルナンドもスペイン語で
「エンカンタド(こちらこそよろしく)」と言った。
「are you Spanish?(スペイン人なの?)」
「no I'm Mexican.(違うよ、メキシコ人なんだ) you speak spanish so good!(君のスペイン語すごくいいね!)」
アメリカに来て、メキシコ人のフェルナンドと日本人のナツがスペイン語で通じ合っている。
ナツにはそのことがとても感動的だった。
2人は、レッスンで会う度にスペイン語であいさつを交わし、英語で友情を深めていった。
小柄で痩せていて、顔も特別には良くはないフェルナンド。
男性として意識するような要素も思いつかないほどだ。
むしろいたずらっ子っぽい性格のフェルナンドを弟のように感じるナツだった。
日曜日のランチタイムにナツたちはバーベキューパーティーを開いたりした。
スタジオで友達になったブライアンやフェルナンドも来てくれた。
フェルナンドは時々、白人の友人を連れてきたが、その彼はダンスをやっている人ではなかった。
時にはリゾー先生が弟子のマルコスを伴って来てくれた。
リゾー先生は知らなかったがマルコスはナツに会うのが目的だった。
しかし師匠の前ということもあり、そして気弱なマルコスは、なかなかナツに話しかけることができなかった。
ナツはスタジオで顔見知りになった人たちと積極的に英語で会話をしようとチャレンジしていた。
ナツの熱心さをブライアンも感じて、特別にいろいろ英語を教えてくれた。
またナツは、フェルナンドとスペイン語で話すのも楽しかった。
以前スペイン語の勉強に使っていたノートを取り出して、フェルナンドに見せたりした。
ほかの日本人仲間たちはカタコトの英語で満足していた。それでもカタコトなりに楽しくコミュニケーションしていた。
料理に音楽、ゲームやスポーツなど、言葉ではなくとも、コミュニケーションのツールはたくさんあった。
庭のプールも大活躍だった。
得意な人は泳ぎや飛び込みをやって見せた。
プールサイドにはビリヤード台があって、腕を競い合ったりもした。
平日はレッスンに明け暮れて、土曜日や日曜日は楽しく過ごすという生活リズムによって、
ナツたちの毎日は充実していったのだった。
スレ主です。ここまで読んでいただきありがとうございます。
20年以上前の記憶をたどりながら書いています。
断片的な記憶に脚色を加えています。
英語の会話などは言葉を間違ってしまうかもしれませんし、英語力が足りないので今後は会話も日本語で書いていきます。
記憶に強く残っている場合は英語で書くかもしれません。
気軽にお楽しみいただければ幸いです。
ナツは朝の初級クラスには出たり出なかったり自由にしていた。
どちらかというと午後7時の中級クラスに重きを置いていた。
スタジオに張り出された予定表を見ると、明日の朝は金持ち先生のクラスだ。
ここ2週間ほどは彼のレッスンがなかったので、ナツは明日のクラスに出ることにした。
初級クラスでも、リゾー先生のレッスンは受ける価値があるとナツは思っていたのだ。
明けて翌日、ナツは仲間たちと朝のレッスンの時間に合わせてスタジオに来た。
日本人はレッスンの15分以上は前にスタジオに必ず入っている。時には教師よりはやい。
ほかのダンサーたちはけっこうギリギリに来たりする。
今朝も日本人のナツたちがスタジオに一番乗りだ。
さっそく良い場所を確保して床にすわり、それぞれにストレッチをしてリゾー先生を待った。
そのうちに他のダンサーたちも少しずつ集まってきた。
ブライアンもフェルナンドもやってきた。
ストレッチを続けながらもおしゃべりなんかして、リゾー先生を待つ。
時計の針はレッスン開始時間を差した。先生が来ない。
ブライアンが
「リゾーの15分遅れなんて当たり前だよ、彼にとっては15分なんて遅刻のうちに入らないからね。」
と、日本人のナツたちに説明してくれた。
フェルナンドや他の人たちはすでに知っているという風で、平然として待っている。
「そんなことあるんだ、ちょっと信じられないけど」
「先生が遅れるなんて聞いたことないよ~」
日本人の女の子たちは口々に驚きやちょっとしたイライラを言うが、誰も気にかけない。
そんなに価値観違うのかな。
でも金持ち先生のほかに遅れる教師なんていなかったよな。
ナツもいぶかしく思った。
そして15分後に現れたのは、金持ち先生ではなかった。
レッスン開始のはずの時間を過ぎて、15分後に現れたのは、リゾー先生の弟子のマルコスだった。
「リゾーは来れなくなった。僕が変わりにレッスンするよ。」
ナツは心の中で
「ええ~?」と叫んだ。
マルコスのレッスンと知っていれば来なかったのに。
しかし誰も不平を言う人はいなくて、ごく自然にマルコスのレッスンが始まった。
ナツのテンションは最悪だ。
まずレッスン開始時間が遅れただけでも気分悪いのに。
その上、金持ち先生のかわりにマルコスだなんて。
もう今すぐ帰りたい。
しかし、ほかの仲間たちが黙ってマルコスのレッスンを受けているのに、ナツひとりだけ帰るのは気が引けた。
マルコスはどうでもいいけど、先輩や後輩がとどまっているのに帰るのは、申し訳ないと思った。
仕方ない。せっかく来たんだし、やる気をだそう。
そう決めればすぐに全身全霊全力だ。
限りある留学生活。時間を無駄にしたくないと思っていたナツ。
そして日本人の仲間たちも同じ気持ちだった。
代理教師マルコスのレッスンが終わった。
マルコスはナツに目線を合わせて何か言いたそうだったが、ナツは誰よりもはやくスタジオを出た。
マルコスを無視するつもりはなかったが今朝だけは気分を害されて、マルコスとは話したくなかった。
飛び出すようにしてスタジオをあとにしたナツを、ブライアンが追いかけてきた。
「ナツ!今朝も全力だね!」
ナツは立ち止まってブライアンの方に振り向いた。
「ああ、ブライアン。ありがとう。ただ私は、みんなの忍耐強い態度に答えただけだよ」
「リゾーは特別だよ。彼は平気で遅れるしドタキャンもある。僕らはそれがわかっていて、それでも彼のクラスをとるんだ」
「そう、金持ち先生の魅力なのかな、私もそう思えるかな?」
「それはナツの気持ち次第だよ。それより、マルコスがナツに話しかけていたの知ってた?」
「まあね、申し訳ないけど今日は話す気分じゃないんだな」
「ナツ、マルコスだってたいへんなんだよ。リゾーは急にキャンセルして、マルコスに電話して、彼にレッスンを任せるんだからさ。急に電話もらってレッスンしなきゃいけないマルコスの身にもなってあげないと」
「なるほどね。確かにマルコスの責任じゃないよね。」
「それに、マルコスの気持ちをナツもわかるだろ?」
「マルコスの気持ち?」
ブライアンは話を続けた。
「ナツ、実はこの前のバーベキューパーティーで、僕はマルコスに相談されてね」
「相談?」
「マルコスははっきり言ったよ、ナツのことが好きなんだ」
「ええ~?ノーサンキュー!」
「本当にノーサンキューなの?別に恋人にならなくても、食事したりちょっと出かけたり、友情を深めるだけでも彼は喜ぶと思うけどなぁ」
「友情?でもマルコスはちょっと~」
「君や君の友達は、家でバーベキューパーティーしたり、スタジオで知り合った友人を家に招待してお茶したり語り合ったりしてるだろ?その延長だよ」
「あっそう、わからなくもないけど、でもね~」
「ナツは誰か好きな人がいるの?それとも日本に婚約者か恋人でもいる?」
「そういうのはないよ、恋人が欲しいわけでもないし。だからマルコスとも個人的に仲良くしたいとは思わないよ、その気がないのに、かえってマルコスに悪いじゃん」
「ナツ、もし君が、このアメリカで何かしらのチャンスに巡り会った時には、マルコスとの友情が役に立つかもしれないんだよ。その時には、彼は君にとって適任者になるはずだよ」
「ブライアン、言ってる意味がさっぱりわからない。」
「まあいいさ。マルコスとの友情の可能性をゼロにしないように考えておいてね」
「そういうブライアンは誰か好きな人いるの?あんただって年頃の青年じゃん」
「え!?僕?僕は…」
ブライアンは突然真っ赤な顔になった。
目線の先は、すぐに帰らずにそのあたりでおしゃべりしているナツの仲間たち…
「ブライアン、私の仲間の中の誰かなの?」
ブライアンは、ナツの質問にハッとして、目線をナツに戻した。
さっき赤くなったブライアンの顔から赤みが消えて、防御的な厳しい表情に変わっている。
「ああ、僕は君の友達の誰かを好きかもしれない、僕には答える権利もあれば答えない権利もある。今は答えない権利を選ぶよ。サヨナラ」
そう言うと、ブライアンは踵を返してすごい速さで歩いて帰ってしまった。
なんだよ、他人のことには首を突っ込んでさ、自分のことは言わないってどうよ。
変なヤツ。
近くでおしゃべりしていた仲間の中から、ショウがナツに近づいてきた。
「ずいぶんしゃべってたね、すっかり英語ペラペラじゃん、ナツ~」
「たいした話してないって。でもブライアンの恋愛ちょっと聞いてみちゃった」
「なになに~?それ興味ある!どんな話?」
「いや、結論から言うと収穫なし。誰か好きな人いるのか聞いてみただけさ。」
「そうなんだ~私たちの面倒みてくれて親切だし、けっこうフランクな人だと思ってたけど」
「僕のプライベートに踏み込まないでくれよみたいな(笑)」
「なに、秘密主義ですか(笑)」
「年頃の青年はなに考えてんだかサッパリわからんよ」
「お前はオヤジか!」
ナツとショウは笑いあってから突然、空腹に気づいて、足早に家に帰っていった。
ナツは毎日、午後3時の上級ジャズダンスのクラスを見学していた。
火曜日担当のポウル先生は、いつも見学しているナツを見て、気に留めていた。
ある日ナツは、イレーヌに呼び止められた。
「ナツ、ポウルが彼のクラスに出るように言っているわ。」
「本当に?嬉しいけど私の実力では無理なんじゃないですか」
「そう、ナツの実力では本当なら無理だけど、ポウルがとにかくあなたのことを見てみたいって言ってるのよ。
もし実力が追いつかなくても助けてあげると言ってるから、まずは来週火曜日の3時に出てみなさい」
ナツは驚きと嬉しさでどうしたらいいかわからなくなった。
しかし喜んでばかりもいられない。まだスタート地点にも立っていない。
これからが勝負だ。
ナツは翌週のポウル先生のクラスのことを考えながら、ひとつひとつのレッスンを丁寧にこなしていった。
実力で言えばナツとそんなに変わらないショウは、ナツのことを喜んでくれた。
「ショウも一緒に来てよ、私が受けられるクラスならショウも同じだよ」
「それはダメだよ、ナツ、あんたが熱心に見学したから、実力が伴わなくても呼ばれたんだからさ。
それに私は実力違いのところで恥ずかしい思いするのはイヤだから。
地道にゆっくりタイプ。
あんた期待されてんだからしっかりやりなよ。きっとこれからたいへんだよ。」
「うん、そうなんだよね、やるからには厳しい要求も覚悟しないと、だよなぁ」
「まずは楽しんできなよ、ナツが先のこと心配して暗い顔なんて、似合わないし絵にもならないよ(笑)」
「そうだね、ま、気楽にいくかな、やってみないとわかんないしね」
その日が来て、ナツは初めてポウル先生のレッスンに出た。
うまくついていけずに冷や汗をかきながら、それでも、出来る限りのことはやった。
やはりあまりの実力の足りなさのために、このクラスはナツにとっては居心地悪い。
レッスンが終わりポウルがナツを呼んだ。
「ナツ、グッジョブ!君の今の実力でベストを尽くしたことがよくわかったよ。
僕のクラスに来てくれてありがとう。来週も待ってるよ。」
「ポウル先生、私のダンスどうですか?これから何をすればいいですか?」
「ナツ、バレエのレッスンでピルエットをやっているね」
(※ピルエットとは、片足を軸にその場で回転すること)
「ピルエット、やってます」
「シングルで回っている?それともダブル?」
「時にはダブルもやりますけどシングルの方が安定してできます。」
「OK、今日からシングルは禁止だ。失敗してもいいからダブルでやりなさい」
「えっ今日から?」
「もちろん。そして、2週間後には完璧にできるように練習しておきなさい」
「ええ?」
「いいかい、プロの仕事でシングルのピルエットなどありえない。安定しているからといってシングルばかりでは次に進めない。」
「…はい」
「2週間後までにダブルのピルエットが完璧になったら、ナツをほかの先生の上級クラスに紹介するよ。
君はいつでもベストを尽くすことができるはずだ。信じているよ。トライしてみなさい」
「わかりました。ポウル先生ありがとう。ベストを尽くしてみます。」
「君ならできるよ。私は信じているよ、ナツ。」
ポウル先生は穏やかな笑顔と優しい語りかけでナツを励まし、
ナツと握手を交わして、帰っていった。
覚悟はしていた、乗り越えなければいけない壁を必ず示されるということを、ナツ自身も思い巡らしていた。
それがピルエットダブル。
2週間で完璧な2回転をマスターしなければならない。
自分が望んだことだ。チャレンジする機会が与えられたことを喜ぼう。
ナツは猛練習を始めた。
イレーヌはポウルがナツに出した課題をわかっていて
ナツに個人的にアドバイスしたり、バレエのレッスンに重点的に取り入れたりした。
「回る練習よりも軸足で立つ練習が大切よ、ナツ。軸足でまっすぐに立って、長くバランスを保てなければ、いつまでも回れないのよ。」
イレーヌのアドバイスは的確だしとてもわかりやすい。
「ナツ、右足でも左足でも、同じようにバランスよく長く立てるようにするのよ。
どちらかが得意でどちらかが苦手というのではプロの仕事はできないわ。」
イレーヌのアドバイスを聞き、ナツは軸足でバランスよく立つ練習に集中した。
ポウル先生は、
「バレエもジャズダンスもどんなレッスンにおいても2回転すること」
というルールをナツに与えたので、ナツはどのレッスンでも2回転に挑戦し、よろけたり派手に転んだりした。
一週間が過ぎても、ナツのピルエットは全く上達しなかった。
ポウル先生から課題を出されてから一週間、ナツの猛練習の成果は微塵もあらわれない。
あと一週間で本当に回れるようになるのかな。
不安が大きくなってきたナツに、朝のレッスン後、ブライアンが声をかけてきた。
「ナツ!今日も君は全力だね」
「ハーイ、ブライアン!あんたの恋が実るのを待ってるんだけどどうなの?」
「オー、ナツ…僕の個人的な話は言わせないでくれよ、ブライアンは日本人よりシャイだって辞書に書いてなかった?(笑)」
「そりゃ失礼(笑)あとで辞書見とくよ。」
「ナツ、新しいことにチャレンジしてるんだね」
「え?ああ、ピルエットダブルのことね、転んでばかりだけどね。」
「君はいつも楽しそうに踊るのに、最近笑顔が少ないよ、チャレンジのせいなのかな?」
「あ~そうかもね。ピルエットダブルを完璧にするようにポウル先生に言われたから。
期限があと一週間なんだ」
「あと一週間、そうなんだ」
「でも無理なんじゃないかな?スッゴく練習してるのにさ、全然上達しないんだ」
「ナツ、たった一週間の練習で結論なんか出ないだろ」
「だけど期限はあと一週間…」
「君の努力があと一週間で成功するかしないかは僕にはわからない。
ただ僕が言いたいのは、君は成功するから努力して、成功しないなら努力しないの?
そんな理由で踊っているの?
違うだろ。
君のチャレンジが成功したとしても、踊るための手段を手に入れるだけさ。
チャレンジの成功を目的にしてはダメだよ。」
「お~、ブライアン、すごいいい話聞かせてくれてありがとう。ブライアンは正しいよ。今の話、よくわかったよ。」
「良かった。わかってくれて嬉しいよ。ナツ、スマイル!」
「OK、スマイル!」
ここまで英語で話していたブライアンは、急に日本語で
「ナツサン、マタアイマショ、ゴキゲンヨ~」
と言って、深々とお辞儀をして帰っていった。
そのブライアンの仕草がちょっと笑えて、ナツはニヤリと笑った。
いい友達だな。ちょっとお節介なとこあるけど。
ナツがポウルに課題を与えられて10日たった。
アイ先輩に仕事が入ったので、明日、急遽日本に帰ることになった。
ナツたちは慌ただしい送別会を開いた。
アイ先輩にとってはそんなに特別なことではないが
ナツたちにとれば、初めてのダンス留学で頼りにしていたアイ先輩は特別な存在だ。
「大丈夫、みんなそれぞれ自分の力で頑張ってるんだから、その調子でやればいいよ」
アイ先輩の優しい励ましの言葉を聞いて、みんなは気持ちを新たにしたようだ。
「ナツ」
アイ先輩に小さい声で呼ばれてナツはそばに言った。
「今やってるチャレンジがこれから必ず役に立つよ。あんたならできるよ。信じてる」
「はい。う、う、う~」
ナツはすでに涙をこらえきれず子供のような泣き声をあげそうになっていた。
「ホント泣き虫だよね、ナツ」
「だって~う、う、う~」
「このチャレンジだけじゃないよ、この先もっとレベルの高い壁をいくつも越えるんだよ、だから今回しっかり成功することだよ。」
「は、は、はい…うわぁ~!
うぇっうぇっうぇ~~~」
大きな泣き声がリビングルームに響き渡って、真剣に泣いているナツを見てみんな大いに笑った。
大泣きしてるナツも、それを見て暖かく笑っている後輩達も、みんないいヤツだな、とアイは思った。
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