空を見上げて
…パパ
これから
美月のもとへ
行きます
逢えるかは
わからないけれど…
お義母さんにも
美月にも
逢えるかな…?
優月をよろしくお願いします
…ごめんなさい
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翌日
その日は日曜日だったのと前日の疲れからか私と優月はいつもよりも2時間近くも長く寝ていた
一階から弟の子供達がキャッキャと騒ぐ声で目が覚めた
ふと携帯を見るとメールの受信が一件…
……修一からだった
【弟の奥さんを出してくるなんて卑怯だよ】
それだけのメールだった
あれだけにこやかに話していたのに
今さらになってそんな事を言うなんて……
溜め息しか出てこなかった
優月を連れてリビングに行くと
『おばちゃん 優月ちゃんおはよう』
子供達は私達が泊まったことがすごく嬉しかったようで寝起きの優月を一生懸命かまっていた
……いつまでもここにお世話になるわけにもいかない
……家に帰らないとまた何を言われるかわからない
そればかりが頭をよぎる
……どうしたらいいの?
朝起きた瞬間からその事ばかり考えていた
朝食をごちそうになった後
私は弟夫婦に
『……やっぱり私 今日は帰るよ』
そう告げた
修一はよく
勝手に出ていった方が有責配偶者になる
そう言っていた
離婚するにしろ
それまでの間はきちんと妻の役目を果たさないと……
それだけだった
弟夫婦はもちろん反対した
『今帰っても何も変わらないぞ? まず姉ちゃんの心を休ませてやらないと本当に壊れてしまうぞ?』
多分昨日の件を弟は真耶さんから聞いたのだろう
『……でも “勝手に出ていった方が有責配偶者になる”って修一が言ってたから…… 役目を果たさないと……』
家には帰りたくないが
帰らないわけにもいかない
でもどうしたらいいのかわからない
『じゃあ…… 夕食の時だけ高森さんの夕飯を作ってまたうちに戻ってくるっていうのはどうですか?』
真耶さんがそう提案してきた
妻としての役目というのなら食事の用意、掃除さえすれば修一は文句は言えないんじゃないかという事だった
そして
修一は法律を武器にするけれど実際は修一自身が不利になるような事もあって
でもそれは修一自身の保身のためにわざと私には伝えてないんじゃないか
とも言われた
私には法律の事はよくわからないから
修一の言うことを鵜呑みにしていたがそう言われてみればそんな気もしてきた
……法律
その時に以前教えてもらった市民団体がやっている無料の相談所が頭に浮かんだ
弟夫婦からしてみたら私は身内
修一は他人
必然的に私よりの考えになってしまうのは当然だ
お義父さんからしてみたら修一は身内
嫁である私は所詮他人
お義父さんが修一よりの考えになるのもやはりしかたないことだろう
私は身内とかではなく本当に第三者から見た意見を聞きたいと思うようになっていた
『……この前真耶さんが教えてくれた無料の相談所に行ってみようかな』
弟夫婦にそう話すと賛成してくれた
夕方前になると私が弟夫婦の家にいる事を知った実家の母もやってきた
今後の事についてみんなで話し合う
母は
『もう別れて戻ってきなさい』
そう言ってくれた
弟夫婦は
『今すぐ決断を出さなくてもいいから、今はとにかく高森さんから離れた方がいい』
そう言っていた
当事者である私だけがどうしたらいいのかわからなかった
何が正しい道で
何が誤った道なのか
正しい選択すらできなくなっていた
夕方になり私は母と一緒に一度家に戻った
妻としての役目をやはり果たさないといけないという思いが強かった
でも私を1人で修一に逢わせることに反対だった弟夫婦の意見から母も一緒についてくることになった
『高森さんに何か言われたら我慢しないですぐに電話しろよ! そしたら戦闘モードでうちのボスが駆けつけるからな(笑) なっ 真耶(笑)』
『えっ!? ボスって私!?(笑)でも本当に何かあれば私もすぐ駆けつけますからね! 夕食作ったらまたうちに戻ってきてくださいね。待ってますから』
弟夫婦はそう言って私を笑わせてくれた
そんな弟夫婦に私と母はお礼を言って母の車に乗りこんだ
『雅樹…… 随分大人になったね』
あんなに昔チャランポランに見えた弟が今は誰よりも頼れる存在に見えた
結婚する前は修一も頼れる人だと思っていた
誰よりも幸せになれると信じて疑わなかったのにまさかこんな風になるなんて……
ただ真面目というだけで頼れる人だと勝手に思いこんだ私が悪いのか……
それとも私が修一をそんな風にしてしまったのか……
車の窓から夕焼けを見つめながら溜め息をついた
自宅に戻ると修一は部屋で仕事をしていた
私と母と優月の顔をチラッと見たきり何も言わずに
また視線を会社のパソコンに戻した
私も何も言わずに掃除を始めた
母もまた何も言わずにリビングの隣りの和室に座り優月と遊んでくれていた
まったく会話のない重苦しい空気が流れる
この重苦しい空間にいるだけで胸が締めつけられそうだった
母がいてくれなかったらもしかしたら私はまたわけもなく発狂していたかもしれない
掃除を終えて夕食の準備にとりかかる
昨日も今日も弟の家でご飯をご馳走になったから今日の夕食は甘えるわけにはいかない
私は急いで冷蔵庫にあるもので修一と私と優月、そして母の分の夕食の仕度をした
そんな私を見ても修一はまったく何も言わない
私だけならともかく優月にすら何も声をかけないのはさすがに辛かった
無言でも穏やかに流れる自然な空間ならともかく
重苦しくて緊張感のあるこの無言の空間というのがどれだけ辛かったことか……
とにかく早くこの空間から逃げたくて
急いで夕食を作った
簡単なものとはいえとにかく夕食ができた
私はダイニングテーブルで仕事をする修一の前に食事を置いた
そしてそのテーブルに私と優月、母の分の食事も並べた
『お母さん、優月。ご飯できたから食べよ?』
私は隣りの和室にいる母達に声をかける
『優月 ご飯できたって。みんなで一緒に食べようねぇ』
母はオモチャで遊んでいた優月を抱いてリビングに出てきた
修一はその瞬間
会社のパソコンを閉じると自分の食事だけを持ってリビングに置いてある小さなローテーブルに座って無言で夕食を食べ始めた
完全な無視
その仕打ちを痛感した私はテーブルに座ったまま黙ってうつむいていた
『千春…… 食べよ?』
小声で母が言う
私の隣りではベビーチェアに座っている優月が目の前にあるご飯を食べたくて手と足をバタバタさせている
『……いただきます』
小さな声で挨拶をして私は優月にご飯を食べさせた
『優月 ママの作ったご飯おいしいねぇ』
『たくさん食べて優月はいい子だねぇ』
重苦しい空間の中
この状況に気を遣って優月に話しかける母の声だけが部屋にむなしく響いていた
夕食が終わった後
私はあえて食洗機は使わずに手洗いで食器を洗った
お義母さんのために買った食洗機がいつの間にか私に買わされた事になっていたのが許せなかったから
だから私はあえて食洗機を使わなかった
夕食の後片付けが終わった時
母が口を開いた
『修一さん しばらく千春と優月をここへは戻しませんから』
母の修一に対する口調は
今までどんな仕打ちをされても黙って耐えていた母からは考えられないほど強く厳しい口調だった
そんな母に修一は
『わかりました』
それだけを言ってさっさと寝室に入っていってしまった
『千春 とにかく持てるだけの荷物を入れなさい』
私は母に言われるがままに荷物を詰めた
やはりもう私達は無理かもしれない………
荷物を詰め終わった私は修一のいる寝室に入っていった
『あの…… 優月を育てるためのとりあえずの生活費をいただけませんか。』
どのくらい離れて暮らすかは分からないが
1000円だけでは到底やっていけない
オムツなど優月にお金はかかる
とにかく修一に何を言われてもそれだけは何とかして貰いたかった
修一は無言で財布の中からクレジットカードを出してきた
『優月になにか買う時はメールできちんと報告して』
それだけ言ってまた会社のパソコンを開いた
私もまたそれ以上何も言えなかった
とりあえず荷物をまとめて私達は自宅を後にしてまた弟の家に向かった
『離婚してうちに戻ってきなさい』
母はさっきの修一を見て何かを決意したようにそう言った
『…………』
私は返事できなかった
こんな風になってしまっても優月にはやはり父親は必要だと思う
何も仕事をしていない私が今すぐ離婚したとして
一体これからどうやって生活していけばいいのか……
離婚した事を考えても生活への不安しかなかった
実家は競売で売られてしまって母は今借家に住んでいる
築40年は経っているであろう古い民家だ
1人暮らしなのだからアパートや中古マンションも勧めたが
アパートを借りるよりもその民家を借りた方が家賃は安いらしくその家に今も1人で住んでいる
『部屋は余ってるんだから』
母は笑っていたが私にはまだどうしても離婚の決心がつかなかった
それでも今また自宅に戻ったとしても
私達は言い争うだろう
言い争うかさっきみたいな完全な無視かどちらかしかない
そんな重苦しい空気の中にいる優月の環境は絶対にいいわけがない……
『……とりあえず別居してみてから考えるよ』
今は母にそう答えるしかなかった
母も
『優月のためにも2人でやり直せるならばそれでもいいけど……』
とそれ以上離婚については何も言ってはこなかった
弟の家に戻ってから私達はまた今後について話しあった
母はこのまま実家に戻るようにと勧めたが
私はとりあえず無料の相談所に行ってみたかった
実家に戻ってしまえばその相談所まで実家から出てくるのに約2時間はかかる
幼い優月を抱いてその2時間は厳しかった
もっとも予約もとっていない状態だったから相談が受けられるのもいつになるかは分からないが……
『真耶さんと雅樹さえ良ければ後2日くらいお世話になってもいいかな……?』
とりあえずすぐに実家には帰りたくなかった
もしかしたら修一が心を入れ替えて
やり直そう
そう言ってくれるんじゃないかというかすかな期待があったから………
弟夫婦は
『もちろんうちは全然かまわないよ。』
快く私の申し出を受け入れてくれた
『ありがとう……』
私は頭を下げた
そして翌日
私は無料相談所に電話をかけてみた
『あの…… 離婚や別居について相談にのっていただきたいのですが……』
電話口の女性は優しく丁寧に対応してくれる
『いつ頃こちらにいらっしゃる事ができますか?』
『……いつでも大丈夫です』
『ではちょうど明後日キャンセルが出たので明後日の10時にこちらにいらしてください』
中年と思われる女性は最後まで穏やかで優しい口調だった
なんとなくその相談所に行くことで少し希望が見えてきたような気がした
『あのね、運よく明後日の10時に予約がとれたの。 だから明日も泊めてもらってもいいかな?』
電話の側で優月と遊んでくれている真耶さんに頼むと快く受け入れてくれた
弟の家では穏やかな時間が流れていった
ここでは誰も私を無視したりしない
弟の子供達もみんな私と優月がいることを喜んでくれている
弟の家にいるのはほんの2~3日なのに少しずつ私も笑うことが多くなっていった
私は一日中優月をかまう事ができた
鐘に遊んでもらって優月は嬉しそうだ
まだハイハイしかしないけれど
きっと弟の子供達に揉まれることでいい刺激を受けてくれると思った
食事も真耶さんが全部用意してくれた
『手伝うよ? 何か手伝うことない?』
声をかけたが
『大丈夫 大丈夫(笑) お姉ちゃんは子供達を見ててくれたら私はそれが一番助かるから』
そう言ってくれたので私は優月や弟の子供達の様子を見ていた
里桜と野映のケンカの仲裁
野映と鐘のケンカの仲裁
鐘の遊びの邪魔をする優月を止めたりとまるで大家族の母親になったような感覚だった
それは今まで感じたこともなかったような新たな幸せの発見だった
……もしも修一とうまくやり直せたなら優月に兄弟を作ってあげたいな
こんな状況でもやはり私は修一とやり直したかったのだ
みんなで夕食を食べた後
私の携帯からメールの受信を知らせる音楽が鳴った
開いてみると修一からだった
【別居しなければいけない正当な理由は何?】
私にはその意味がわからなかった
別居の正当な理由……?
あの言い争いで修一も私と離れる事を承諾したはずだ
今さら何を言っているのかわからなかった
優月の様子を聞いてくるわけでもなく
意味のわからないメールをよこす修一にまた溜め息が出た
何が言いたいの……?
溜め息をついて携帯を閉じる私に
『どうした? なんかあったか?』
弟は心配そうな顔をしていた
『修一からメールで“別居する正当な理由は何?”だって。 ホント嫌になっちゃうよね(笑)』
弟には明るく振る舞ったが私にはその言葉が重くのしかかっていた
『明日相談所に行くんだろ? そのメールの事も話してみたらいいんじゃないか?』
弟には私の明るさの裏側が見えていたのか
まだ心配そうにしていた
翌日
真耶さんに車で送ってもらい私は優月を抱いて相談所に行った
部屋に通される
私を待っていたのは母くらいの年齢の女性だった
『離婚を考えているそうですね。 何か相談したい理由があるのかしら?』
優しくて穏やかな口調のその女性に私は修一との事を話した
その女性は最後まで話しを聞き終わると
『高森さん それは間違いなく精神的DVですよ』
前に真耶さんに言われた事と同じ事をその女性にも言われた
『……その昨夜受け取ったメールについても正当な理由があった場合の別居には配偶者にきちんと生活費を渡さなければいけない法律があるんです。 ご主人はそれを知って高森さんに別居の正当な理由を聞いたのだと思います。』
『……それは私が主人が納得するような正当な理由を言わなかった場合には……主人から生活費はもらえないという事ですか?』
そんな事まで考えていたんだ………
そんなにお金が大切……?
そんなに私にお金を渡したくないの……?
その女性は
『ご主人はそう考えていると思います……』
みるみるうちに曇っていく私の表情に気を遣いながら
少し言いにくそうにしてそう言った
精神的DVがある場合には慰謝料を修一からとる事もできる
その証拠集めのために今後修一から送られてきたメールは保存すること
また直接言われた言葉はメモに残しておくこと
そんな感じの離婚にむけた対策をその女性は詳しく教えてくれた
とりあえず次回の相談の予約をいれて私は弟の家に戻った
精神的DV………
やっぱりそうなんだ………
精神的DVや肉体的DVを受けている人は
“自分が悪いからそうされてしまうんだ”
と思いこんでしまうと今日教えてもらった
私の話しや気持ちを聞いている限り
間違いなく精神的DVを受けているとも言われた
そして
あなたは何も悪くないのよ?
とも………
………そうなのかな
………私は悪くないのかな?
私は悪くないと言われた事は本当に救われたが
それでもやっぱり私にも悪いところがあるような気がしていた
弟の家について真耶さんに今日の相談所での話しをした
『とりあえず修一とは連絡をとらないように言われたの』
そう言うと
『私もそれが一番だと思うよ』
そう言って私の好きなお茶をいれてくれた
その日の夜
【風邪をひきました。パパの体調がこんなに辛いのに看病もしないなんて妻として失格ですね】
修一からメールが送られてきた
私は相談所の人に言われた通りにメールを保存した
……風邪ひいてるなんて今始めて知ったんだけど?
相談所の人に連絡をとらないように言われたので私は修一に
【身体をゆっくり休めてください。 それとしばらくは連絡してこないでください。私もゆっくり考えたいので】
そう送信した
修一からのメールにもしも優月の様子を聞いてきたり優月を気遣う文章があったのならば私は具合の悪い修一の元へ帰っただろう
相談所の人の言うことを無視してでも帰ったと思う
でも修一は自分の事ばかりだった
私の送信したメールに返事はこなかった
……もう本当に距離を置こう
私の中で覚悟を決めた
そして母に電話をかけた
『明日からしばらくそっちに帰るからよろしくお願いします』
いつまでも弟夫婦に世話になるわけにもいかない
私は明日実家に帰ることを決めた
そのまま弟夫婦にも明日実家に帰る事を伝えた
弟夫婦も本当に別居する事に応援してくれた
『本当に今までありがとう…… お世話になりました』
深く頭をさげた
弟夫婦は
『いつでもまた遊びにくればいいよ』
と笑ってくれた
……ありがとう
……雅樹と真耶さんがいてくれなかったら私は本当に今頃自殺していたと思う
……救ってくれてありがとう
私はその夜弟夫婦に手紙を書いた
たくさんの感謝の言葉を書いた
そして受け取ってもらえなかったデパートの商品券も一緒にいれた
鐘が産まれた時なにもしてあげなかった
里桜や野映にも今まで何ひとつ買ってあげなかった
せめてこの少しの商品券が子供達に何かを買う足しになれば……
私はその思いも手紙に書いて封を閉じた
翌朝
午前中の早いうちに母が私を迎えに来た
私は真耶さんに見つからないようにテレビのリモコンの隣りにその手紙をそっと置いて
そして真耶さんに挨拶をして母と一緒に弟の家を出た
実家に戻る前に自宅へ行き私と優月の荷物を全部車に積んだ
もうしばらく修一には逢わない
そう決意して自宅を後にした
実家に戻ってからは本当にゆっくりできた
母は相変わらず飛んで歩いていたが
私は私で優月を抱いて散歩に出かけたりして
毎日ゆっくりと穏やかな時間が流れていきそれなりに充実していた
母も
『やっと精神的に安定してきたね』
と私の姿を見て安心していた
日曜日になれば弟の家族が遊びにきてくれた
優月もすっかり弟の子供達が大好きになり
居間に飾ってある里桜や野映、鐘の写真を見ては
『うー うー』
と声を出していた
1人暮らしをしていた母は相変わらず部屋が散らかっていて大変だったが
弟夫婦が私と優月のために母が出かけている合間を見計らって物置と化している洋間をキレイに掃除していてくれたりもした
そんなゆったりとした穏やかな生活は1ヶ月ほど続いた
優月はやっとつかまり立ちをするようになりますます目が離せない
でも母と一緒に育児と家事をしているので精神的にはかなりラクだった
私もたくさん笑えるようになっていた
でもそんな日が続いたある晩
……修一からメールが届いた
【戻ってきてくれないか】
そのメールに私は激しく動揺した
……それはやり直そうという事?
そのメールに対しての嬉しさはもうあまりない
……でもこのハッキリしない別居という形のまま母にずっと甘えているわけにもいかない
確かに実家にいれば私の精神的な部分はかなり落ち着いていた
でも…………
どうしたらいいのかわからなかった
戻ることが正しいのか
戻らないことが正しいのか……
やり直したいから戻ってきてくれないか
というメールならまだわかる
でも
戻ってきてくれないか
ただそれだけのメール………
私は悩んだあげくに
そのメールに対しての返事はせずに優月がつかまり立ちを始めたことだけを返信した
でも返事はこなかった……
あの日々を思いだすと帰るのを拒否してしまう自分がいる
でも戻らなければ何も前進しないと思う自分もいる
経済的にも食費や光熱費など母に頼りきりなのも気がひける…
その晩はその事で頭がいっぱいでほとんど眠れなかった
翌日
母に修一からメールが来たことを話した
『……どうするつもり?』
母の問いかけに私は何も言えなかった
まだどうしたらいいのかわからなかったから
『……でもいつまでもこの状態ではいられないから』
それだけは私の中でハッキリと決まっていた
でもそれが今自宅に戻ることが正解なのかはわからない
ずっと答えはでないままだった
でもその日を境に修一からは毎日戻ってきてほしいとメールが来るようになった
その度に私は揺れる
このまま悩んでいても何も前進しない
私は強くなりたい……
今度こそきちんと向き合わなきゃ……
私は家に戻ることを決意した
『明後日ちょうど相談所でのカウンセリングがあるからその日に帰るよ』
その晩それを母に伝えた
弟にも戻ることのいきさつをメールした
母は
『大丈夫なの?』
と心配していたし弟も
『まだ早いんじゃねーか? せっかく落ち着いたのに……』
とすごく心配してくれていた
でも私の決意は揺るがなかった
……大丈夫
私には私を心配してくれる母も弟もいる
そしてなにより大切な優月がいる………
修一には明後日戻る事をメールで伝えた
戻るのだから本当は電話で話した方がいいのだろうが
まだ勇気がなかった
修一からも
【わかった】
その返事だけだった
不安はもちろんたくさんあるが
それでも実家にいては何も進まない…
そして自宅に戻る日がやってきた
この1ヶ月で優月はすっかり母に懐いていたので相談所に行く時も母に優月を預けた
相談所の人に
今日別居を解消することを伝え
今後のアドバイスを求めた
『身体的DVはないようですから… やはり高森さん自身がご主人に気持ちをきちんと伝えることが一番大切だと思います。 そして何を言われても“私が悪いんだ”と責めてはいけませんよ。』
相談所の人はそうアドバイスをしてくれた
その言葉を胸に相談所の帰りにそのまま自宅に戻った
『お母さん本当にありがとう…』
荷物を運び終えてお茶を飲む母に私は頭を下げた
『……これからどうするつもり?』
いざ私が自宅に戻るとなると母はやはり心配そうにしていた
『……今はまだわからないけど後悔しないように優月を最優先に考えるつもり』
私にはそれだけだった
母が帰った後私はひとつの書類をテーブルに置いて家事を始めた
修一は自分で自炊していたらしく冷蔵庫の中にはそれなりに食材もある
仏壇にもきちんと花がいけてありお茶も水も供えられている…
掃除機をかけ
お風呂を洗い
実家に帰る前までの日常が戻ってきた気がした
夜になり修一が帰ってきた
『……おかえりなさい』
『……ただいま』
私と優月の姿を見ても特別喜ぶわけではなかった
相変わらず仏壇の前に座り続ける修一…
……なにも変わってはいなかった
ダイニングテーブルに座る修一に私は書類を渡した
『私……仕事をしようと思っているの』
実家にいる1ヶ月で考えた事
それは医療事務の資格をとって働くことだった
この先の不安の一番の原因はやはり経済的な事だ
4年制の大学を卒業しているとはいえ資格も何もない私に安定した就職先を見つけるのは厳しい
真耶さんのお友達も何人か資格をとって働いていると聞いた
まず私は修一を説得して資格をとる費用が欲しかった
『……なんのために?』
いきなりその話しを切り出された修一は少しとまどっていた
『こんな不景気な時代だしパパだけに甘えていてはいけないと思ったの』
私は修一が納得するような理由を実家でずっと考えていた
『医療事務の時給は結構いいらしいのよ。私が働けばまたさらに貯金もできるじゃない?』
私の話しを聞く
貯金が趣味の修一の表情はまんざらでもなさそうだった
『で、見てもらえばわかると思うんだけど学校に通うとなると資格をとるまでに約8万くらいかかるんだけど…… 必ず返すから貸してもらえないかしら……』
学校は週に2回朝から夕方まである
費用も約8万ほどかかる
通信で資格をとるより少し金額は高いが通信で勉強するよりは学校で勉強した方が合格率は高いらしい
私はその事も修一に話した
通信で勉強していつ合格するかわからない状態ならば学校に行き勉強して早く合格して就職をした方が修一にとってもいいに決まっている
『……学校に行っている間優月はどうするつもり?』
修一は優月の事を気にしていた
『優月はその間は保育園で一時預かりしてもらうから』
私はその書類の袋から保育園のパンフレットもだした
『優月もいろんな子供達と触れ合うことで成長する部分もあると思うの』
これは実際にそうだと思う
弟の子供達と遊んでからは優月は確かにいろんな面で成長していた
医療事務の学校の近くにある保育園のパンフレットを眺めながら
『……それならいいんじゃないかな』
修一は納得してくれていたようだった
『きちんと返してくれるなら優月の保育料も含めて15万貸すよ』
修一はそう言って明日お金を渡すと言ってくれた
少しだけ未来が見えてきたような気がしてすごく嬉しかった
その後の夕食は特別会話もなく
やはり無言のままで夕食を食べた
ひさしぶりの家族での夕食なのに
なんでこんなにぎこちなくて重苦しい雰囲気なのかわからなかった
それでも私はとりあえず修一が資格をとることに納得してくれたことが嬉しかった
……とりあえず一歩を進めた
それが今の私には本当に嬉しかった
それからも私達はぎこちない空気が続いたまま一緒に暮らした
重苦しい空間に息が詰まりそうになりながらもなんとか一緒に生活していた
修一には私や優月は見えていない……
でもそんな状況だからといってまた別居するのも逃げているようで嫌だった
家族であって家族でない
私達は単なる同居人だった
話すことと言えばお金のこと
『優月が風邪をひいて病院に行きたいからお金をください』
『優月の洋服が小さくなってきたので買いたいからお金をください』
相談所の人にもそれはある意味DVの一種だと言われていた
それでもその事は言えなかった
私はただ医療事務の資格をとるまでは修一に養ってもらわなければいけないから……
覚悟している事とは言え、それでも重苦しい空気は徐々に私を萎縮させていった
私はそんな空気がたまらなく嫌で朝は修一が起きる2時間前に起きて夜は修一が帰ってきて食事を出したらすぐに眠るという生活パターンに変えていった
もう別居はできない
自分の身を守るために考えた策だった
それからしばらくして私は医療事務の学校に通い始めた
医療という名前がつくだけあって
聞いたこともないような病名、それに伴う検査項目など覚えなきゃいけない事がたくさんあった
ニキビひとつ取ってみてもカルテに記載する時は【尋常性ざ瘡】という正式名称でなければいけない
最初は何がなんだかわからなかった
それでも私にはもうとにかく頑張るしかない
自宅で勉強していてわからない事があれば看護師をしている真耶さんに聞いたりして必死に勉強した
とにかく一発で試験をパスしなければ……
それだけだった
万が一試験に落ちたら修一に何を言われるかわからない
それはものすごいプレッシャーだった
優月がいるとなかなか勉強もはかどらないので朝はさらに1時間半ほど早く起きて勉強していた
資格さえとれれば………
今までの高校受験や大学受験の時よりも必死に勉強した気がする
自分で決断した事とは言え
家事や育児に手を抜くことも許されず
空いた時間で勉強をする
それは身体的にも精神的にもかなり過酷な日々だった
それでも弱音を吐かなかったのは
資格さえとれれば何かが変わる
そう信じていたから……
そんな日々が続いて私はなんとか一発で医療事務の試験に合格することができて
医療事務の資格をとった
資格をとってからはとにかく仕事と優月を預ける保育園を探した
今まで一時預かりをしてもらっていた保育園は自宅からは遠すぎる
自宅から近い保育園
そして自宅から近い職場を探した
人材派遣会社にも登録してみたもののなかなか条件に合う病院が見つからない
早く働かなきゃ……
修一に早く15万を返さなければいけない焦りがあった
保育園は無認可ではあったが一応優月を受け入れてもらえる保育園を見つけることができた
後は仕事………
なかなか仕事が見つからず焦りを感じていたある夕方
人材派遣会社から連絡が入った
『病院の事務の募集があるのですが面接してみませんか?』
話しを詳しく聞くとそこは自宅から自転車で行ける範囲にある病院の薬剤科の事務だった
時給1000円
土・日曜日休みで平日の朝9時から夕方5時まで
条件的には絶対にいい
『……頑張りますから面接の方をよろしくお願いします』
私は受話器を持ったまま深く頭を下げた
今までも何度か求人募集している病院や薬局に職安を通して履歴書を送ったことはある
経験がまったくないせいか
その度に書類選考の時点で落ちていて面接までこぎつける事ができなかった
でも今回は人材派遣会社の人も
『私も頑張りますからね! 高森さんも頑張ってくださいね!』
その人が頑張ってなんとか面接までこぎつけてくれると言ってくれたのがすごく心強かった
『お願いします!』
私もなんだかすごく力が湧いてきた気がして嬉しかった
その夜
私はまだ面接すらしていないのに少し興奮気味に
『川東病院で面接になるかもしれないの!』
と条件もいい事を修一に話した
『ふーん……』
修一は私の話しには興味はまったくない
『俺は15万さえ返してもらえればそれでいいから』
私は興奮気味に修一に話したことを後悔した
……私なに興奮してるんだろう
後悔と恥ずかしさと情けなさで私はそれ以上は何も言わなかった
面接の日が来た
派遣会社の人が頑張ってくれたおかげで私は面接までこぎつける事ができたのだ
とにかく頑張らないと………
すごく緊張した
そして面接が始まる
あまりの緊張に何を聞かれて何を返事したのかよく覚えていない
ただ
『どうしてもこちらで働かせていただきたいんです』
それだけは言わないといけないと思っていたので
それだけはきちんと言えたのは覚えている
面接を終えて結果は派遣会社に3日後に通知が行く
結果を待つ3日間はとにかく緊張と不安ばかりだった
こんな時修一にそんな私の心境を話せたらどんなに気持ちがラクになるだろう……
でもそれはできなかった
できないというよりも
言っても無駄だと思っていたから
別居を解消したと言っても修一は考え方を改めるわけではない
自分は絶対に正しいと思っている人を変えるなんて私には無理だと思っていた
話すことがないのは確かに辛いが
話さなければ言い争いになることもない
夫婦として成り立っていなくても
とりあえずもう私達が言い争う姿だけは優月には見せたくなかった
3日後
派遣会社から連絡が来た
『高森さん! 採用ですよ! 良かったですね!』
派遣会社の担当の人もすごく喜んでくれた
………採用?
信じられなかった
経験の全くない私が採用されるなんて…
夢でも見ているんじゃないかと思うほど嬉しかった
『頑張ります! 本当にありがとうございました!』
私は何度も何度も担当の人にお礼を言って電話を切った
仕事は来月の1日からという事になった
……優月 ママ頑張るからね
隣りでヨチヨチ歩きをするようになった優月をギュッと抱きよせた
保育園も決まり
就職先も決まった
これはかなりの前進だ
私は修一の帰りを待って就職が決まったことを伝えた
『じゃあ来月には貸したお金の半分を返してね』
……修一には貸したお金の事しか興味はない
貯金が大好き
趣味もなく友達もほとんどいない
一番信頼できたお義母さんが亡くなった今
修一が信じられるのはお金だけなのだろう
私や優月は同居人
私はもう円満解決することはあきらめていた
今の生活に耐えながら私と優月にとって一番いい方法を探している状態だった
翌月から私は仕事を始めた
薬剤科の医療事務という事で採用されたものの実際は事務というよりも薬剤師さんの助手のような仕事だった
周りの方もみんないい方ばかりで優月が熱を出したと保育園から電話がくれば
『私達は大丈夫だから。お子さんにはママしかいないんだから一緒にいてあげて』
と子供を持つ私にもすごく優しくしてくれた
『3年派遣で働けば正社員になれるから頑張ってね!』
こんな私でも必要としてくれているようですごく嬉しくて充実していた
確かに慣れない仕事で心身共に疲れていて
専業主婦の時に比べれば家事に仕事に育児にと時間に追われる毎日で夜は早いうちからウトウトしてしまっていたが
優月と早く寝てしまえば修一と顔を合わせることもしなくて済んだのでそれはそれで私にとっては都合が良かった
それに私が別居からこの家に戻ってきてからというもの修一は一切の家事をしなくなった
自分で毎日かけると宣言していた掃除機もかけなくなった
だからやっぱり私の負担は大きかったが
以前のように家に閉じこもっていた頃に比べれば今の大変さは肉体的なものだけだから気持ち的にはラクだった
バタバタと忙しい毎日を送っているうちに優月は1歳半になった
やっと普通に歩けるようになったものの家の中での移動はハイハイばかりだった
明後日に1歳半検診を控えて
その日に持っていく用紙を記入することにした
【ママ ワンワンなど意味のもつ単語をいくつか話しますか?】
その質問事項に私は止まった
……優月は何も話さない
ママすら言わない
『あっ』とかいう言葉を発することすらなく
『うー うー』
と犬が甘えて鼻を鳴らすようなそんな感じでしか意思を伝えたりしない
【指さしをしますか?】
これもあまりしないように思う……
……あまり今まで気にもとめていなかった優月の知能的な発達がその用紙を記入していく事で急に不安になり始めた
『優月』
と呼べば振り返ったりしていたから耳は聞こえていると思う
でも喃語すら話さないことに私の不安は段々大きくなって
焦りを感じ始めていた
夜修一が帰って来るのを不安な心を抱えながら待った
何も知らずに帰ってきた修一はいつものように仏壇の前に座る
『あの…』
待ちきれずに話しかける私の言葉は修一には聞こえない
いや 聞こえないというよりは聞かないと言った方が正解なのかもしれない
…そう修一にとってこの時間は何より大切なお義母さんとの時間
私が邪魔することは許されない
修一が仏壇の前から離れるのを待って私は修一に優月の発達の話しをした
『俺にはわからないよ』
修一の口ぶりはまるで
優月のことはキミに任せてるだろ
そんな感じだった
私もまたそれは充分すぎるほどわかっていたので
これ以上言えば優月の発達の事も私の育て方のせいになるような気がして何も言えないままだった
“保育園の先生からも何も言われてないから大丈夫”
自分で自分に言い聞かせるしかなかった
そして1歳半検診の日がきた
それまでにいろんな育児書を読んでみたがやはり1歳前後には意味をもつ言葉がひとつかふたつ出てくるのが普通らしい
落ちこみながら会場につけばみんなが優月よりも随分大人に見える
受付を済ませ呼ばれるのを待つ
『14番 高森優月ちゃんどうぞ』
若い保健師さんに呼ばれて中へ入る
私が記入した用紙に目を通すと
『言葉もでてこないし指さしをしたりもしないんですね…』
その口調は今までよりもワントーン下がっていた
それから私は優月の普段の行動についてものすごく細かく聞かれた
“そんなところまで細かく見てないんですけど…”
と言いたくなるような事まで聞かれた
私の指示することを理解しているか
具体的にその指示ができた時には自分一人で喜んでいるのか私の方を見て喜んでいるのか…
そんな感じのことをいくつも聞かれた
医師による診察は正常という診断だったし
歯科検診も異常はなかった
ただその後の保健師さんによる話しが長かった
言葉の発達の相談員という中年の女性を保健師さんにその場で紹介された
その人が言うには
優月は吸うことはできるが息を吐いて発声することができないらしい
だからいつも犬が鼻を鳴らすような感じになってしまうのだと言われた
いろいろな話しを聞いた後にとりあえず2歳まで待ってみて
それでも言葉がでないようならまた連絡をくださいという事になった
検診からの帰り道
優月をおんぶしながらなんだかわからないけれど泣けてきた
他の子供はみんな検診が終わるとさっさと帰るのに検診が終わった後に相談員の人と話す私をみんなが好奇の目で見ている気がしたのも耐えられなかった
今日の検診で私の不安はさらに巨大化したのに
修一はきっとまともに話しも聞いてくれないだろう…
優月の父親なのに
一番話しを聞いてもらいたい人なのに
それを話してしまえばまた私は責められる…
どうしたらいいのかわからない
オンブをしながら歩いた30分の距離が果てしなく長く辛く重く感じた
自宅についた私は背中から優月をおろしソファにもたれかかった
優月はハイハイしながら私の足下にまとわりついてくる
その優月の姿をただじっと見つめていた
夜になり修一が帰ってきた
仏壇の前に座ってお義母さんと何かを話す修一を見つめていると
本当に私達が夫婦であり続ける意味がわからなくなってきていた
『…今日1歳半検診だったの』
修一の前に食事を並べながら私は話し始めた
相談員の人に言われたことを詳しく話す私に
『食事中にそんな話しをしないでくれ』
修一はその言葉を冷たく吐き捨てた
…ねぇ 優月
…パパのこと好き?
…ママだけじゃダメかな?
…ママがパパの代わりになるから
…誰よりもあなたを幸せにしてあげるから
修一の言葉に何も言い返せずに
逃げるように視線を優月にむける私の目に涙がたまっていった
次の週の金曜日の夜
夕食を終えてパソコンに向かっている修一がボソッと
『別居していた方がお金がかからなかった』
と言った
優月と遊んでいた私にもその言葉はハッキリと聞こえた
……信じられなかった
確かに別居中の修一1人分の生活費に比べれば
私や優月がいた方が食費も光熱費もかかるに決まっている
そんな事わかりきっていた事だろう
それに今は私だって仕事をしている
1ヶ月14万程度の収入とはいえ
優月の保育料だって私の収入から払っている
残ったお金から生活費として3分の2を修一にも渡している
だから経済的には前よりもラクになったはずだ
それに戻ってこいと言ってきたのは修一の方だ
いまだに何のために戻ってこいと言ったのかわからないままだったが
修一がそう言ったから私は戻ってきたのに……
『…どういうこと?』
私の問いかけにも修一は答えない
……私達を養う気はもうないという事なんだね
不思議だけれど私は今までみたいに泣いたり取り乱すことなくものすごく冷静だった
私はそのまま何も言わずに家を出る支度を始めた
もう暖かいこの季節
荷物も前回の別居の時よりもかなり少なくすんだ
都合よく今日は金曜日
明日と明後日は仕事も休みだ
…とりあえず実家に帰ろう
私は寝室に行き実家の母に電話をかけた
……でも母の電話は何度かけても留守電に切り替わる
どうしよう……
私は次に弟に電話をかけた
私が頼れるのは母と弟夫婦しかいない……
『もしもし?』
弟が電話に出た
『私だけど…。 あのね良かったら今日泊めてくれないかな……』
私の言葉にまた修一と何かあったことを察知した弟は何も聞かずに
『これから迎えに行くから外で待ってろよ』
そう言ってくれた
電話を切った後
私名義の通帳や保険証に母子手帳をカバンにつめている私を見て
『…また家出?』
修一がパソコンをしながら横目で私をみていた
『…家出するのはかまわないけど何度そんな事をされても俺にはそのたびに不信感しかないからね』
もう返事すらしたくなかった
何も返事もせず
私は優月を抱いてそのまま家を出た
弟の家につくと相変わらず子供達は私と優月が来た事をすごく喜んでくれた
優月も嬉しそうだ
私は優月や子供達が隣の部屋で仲良く遊んでいるのに安心して弟夫婦に今までの事を話し始めた
『…もう無理なんじゃねーか?』
弟は言う
……もう無理だろう
私もそう思う
私が頑張る事で優月を修一が愛してくれるならば私はいくらでも頑張る
でも……
もう修一には優月にも興味はない
そんな父親と一緒に暮らすことが優月のためなのかわからない
それでも亡くなった父親を思い出せば
あんなに大嫌いな父親でも亡くなる時は辛かった
優月のことを考えるとどうする事が一番いいのかわからなかった
黙る私に弟は
『とにかくしばらくまたうちに泊まってうちから仕事に通えばいいよ。ゆっくり考えればいいから』
そう言ってお風呂に入りに行ってしまった
『お姉ちゃん…』
今まで黙って私の話しを聞いていた真耶さんが口を開いた
『…私ね雅樹に逢うまでにいろんな辛いことがあって…… だからお姉ちゃんの気持ちよくわかるよ』
真耶さんはいつになく真剣な感じだった
『…前にお姉ちゃんに“デキ婚で弟をハメた”って話しを聞いたけど、まぁそれに話しは通じていくんだけどね』
私はなんだかバツが悪い気がして恥ずかしかった
『詳しくは言えないけど、でもね私は雅樹と出逢ったことで辛い毎日から本当に大きな一歩を踏み出すことができたの。
だから… お姉ちゃんもその一歩を踏み出すことができれば絶対に幸せになれると思うよ…』
今の私にとっての大きな一歩………
『それは離婚……って事?』
私は真耶さんに聞いた
『………うん』
うなずく真耶さんに私もなぜか何度もうなずいていた
……本当はもうとっくに分かっていた
……もう無理なんだってことを
でも……
やり直せるならやり直したかった
修一を愛していたからこそ
私は修一に私だけを見て欲しかったのだと思う
でも………
真耶さんの言う通りもういい加減に大きな一歩を踏み出さないと……
『………ありがとう』
私は真耶さんに頭をさげてお礼を言った
その夜
私は優月と同じ布団に入り
優月の顔や頭をずっと撫でていた
……優月
ママねあなたからパパを奪ってしまう
ママねパパにずっとずっとママと優月だけを見ていて欲しかったの
でも無理だった…
あなたからパパを奪ってしまうかわりに
ママ優月にひとつだけ誓うね
……この先のママの人生
ママは優月を幸せにすることだけを目標に生きていくよ
誰かに愛を求めたりなんてしない
誰かに支えを求めたりしない
ママは優月がいればそれで幸せだから
……ママの命をかけて約束するよ
だから……
あなたからパパを取り上げることを許してね………
天使のような顔で眠る優月を優しく抱きしめながら
私は優月にこれからの事を誓った
優月から父親を奪うのだから
私はこれから一生女として誰かに愛されることを棄てる
それが私が優月に約束できる唯一のこと………
………それで許してね
自分の決意を胸にして
私は優月の隣で目を閉じた
次の朝
朝食をとりながら私は弟夫婦に離婚を決意した事を伝えた
『俺達にできることがあればサポートするから遠慮しないで何でも言えよ』
弟夫婦は私の決意に特別驚くこともせずに協力してくれると言ってくれた
『ありがとう…とりあえず優月と二人で暮らす家を探さないとね……』
職場や優月の保育園のことを考えるとやはりここら辺で探さないといけないだろう
実家に戻ることも考えてみたが距離的にあまりにも遠すぎる
車も持っていない私の交通手段はこれから買うママチャリしかない
せっかく採用してもらえた職場を簡単に辞めたくはないし、優月もやっと保育園に慣れたのに簡単に保育園を変えて環境を変えたくはない
『……古いし狭いけど安いアパートならあるよ。』
弟は何かを思いついたように話し始めた
『会社の社長の知り合いがアパートを持ってるんだけど、結構長い間空き部屋になってるんだ。 社長に聞いてみようか?』
そのアパートはここから自転車で5分くらいのところにあるらしく家賃も4万もしないらしい
古くても安いにこした事はない
私は弟に社長に聞いてもらえるように頼んだ
その話しを聞いた真耶さんは
『ま…… まさか……』
と弟の顔を見ながら意味深な顔をしていた
その顔を見た弟は
『そっ そのまさか(笑)』
と笑っていた
『お姉ちゃん! 本当に古くてボロだよ!? 想像以上だと思うよ?シャワーなんてチョロチョロしか出ないんだよ?いいの!?』
聞けば弟が昔一人暮らししていたアパートだという
でもとりあえず住む場所があれば私はそれで良かった
弟も今日社長に聞いてくれると言って仕事に出かけていった
朝食が住むと私はカバンの中から私達が住む市で受けられる母子家庭の支援内容が書いてあるパンフレットを取り出した
以前区役所に行った時に万が一の事を考えもらってきたものだ
まさか本当にこれをよく読むようになるなんて………
悲しい気持ちや辛い気持ちは確かにあるが
私は昨日の夜優月に誓った
もう前だけを向いてしっかり歩いていきたい
私はそのパンフレットの隅々まで見落とさないようによく読んだ
その日の夕方には母も来てくれた
優月は母に逢えて嬉しそうに甘えている
離婚を決意した事を話すと
『こっちに戻ってきたらいいのに』
と実家に戻ってくるようにと言ってくれたが
私は仕事や保育園の事を話してこちらでアパートを借りることを母に伝えた
『仕事なんてこっちにもあるわよ。保育園だってあるし』
母はそう言ってくれたが
医療事務の仕事についているとはいえ保険の点数計算などいまだにした事のない私が他の病院で医療事務として勤まらないのは目に見えてわかっている
それに今の職場の人達はみんな親切にしてくれる
人付き合いが苦手な私がまたイチから新しい職場で人間関係を築いていくのは考えただけでも気が重い……
私はこちらに残ると母を説得した
しばらくすると弟が仕事から帰ってきた
『社長が話しておいてくれるって言ってたから』
とりあえずアパートはなんとかなりそうだと安心した
古くてもお金が貯まり次第新しいアパートに引っ越せばいいだけだ
……後は修一に話すだけだ
弟夫婦も母も修一に離婚を切り出すにあたって
財産分与の件をきちんと話し合った方がいいと言っていた
私はまた
有責配偶者とか修一に言われるのが嫌で財産分与とかしなくても離婚できればもうそれでいいと思っていた
養育費さえもらえればそれで充分だと思っていた
母も弟夫婦も私は慰謝料をもらう権利があると言っていたが
修一にはいつも
セックスレスは私の責任で
離婚した場合私から慰謝料をもらえると言われていたので
修一から慰謝料をとれるなんて全く期待もしていなかった
むしろ慰謝料をとられなければそれで良かった
だから財産分与もしなくてもいいし
慰謝料をとるつもりもなかったが
『子供一人を育てあげるには莫大なお金がいるものだよ』
『1円でも多くもらえるならもらった方がいい』
とみんなに言われたことで
これから自分一人で優月を育てていく現実が少しずつ見えてきたような気がした
でも私一人では多分…いや絶対にいろんな法律用語を使われて修一にうまく丸めこまれるに違いない
下手をすれば慰謝料請求もあり得る
弁護士を雇う費用も私にはない……
どうしたらいいのかわからなかった
とりあえず私はその日も弟の家に泊めてもらうことにした
……明日修一に離婚を切りだそう
この決意が揺らがないうちに……
頭の中で何度も修一に離婚を切りだす練習をした
とりあえず自分の伝えたいことだけはきちんと話さないと………
私はこの決意が揺らがないうちに修一に
【明日の午前中に帰ります 話しがあります。家にいてください】
とメールをした
しばらく起きて待ってはみたもののやはり修一からの返信はなかった
……優月
明日もしかしたらパパとママはケンカしてしまうかもしれない……
でも何も心配しなくていいからね……
幸せになろうね……
優月がたくさんたくさん笑えるように
ママ頑張るからね……
明日への覚悟をしっかり心に決めて
眠っている優月の小さな手に私の人差し指を握らせて目を閉じた
……明日
………頑張らなきゃ
翌朝
天気が良かったのでみんなで朝食を食べに近くのパン屋さんまで歩いて行った
すっかり弟になついた優月は弟に肩車をされている
産まれて初めての肩車
優月は最初怖そうにしていたが
少しずつ慣れてきたようで初めて見る高さからの風景をキョロキョロしながら見ていた
『……真耶さんにお願いがあるんだけど……』
私は私の隣を歩く真耶さんに話し始めた
『もし…… 財産分与の話しで揉めたら…… フォローしに家まで来てもらいたいんだけど……』
修一はなぜか真耶さんにはいつも丁寧な対応をしていた
私が家を出たあの日も
母を無視した修一が真耶さんにはきちんと対応していたし
三人で穏やかに話しあえた
だからまた三人で穏やかに話し合いたかった
キレイ事とか理想でしかないかもしれないけれど
最後は穏やに話し合いたかった
『……私で良ければ。 あ、じゃあまた私スッピンで行きましょうか(笑)そしたら高森さん怖がってすんなりお金出すかも(笑)』
私の気持ちを聞いてくれた真耶さんはそう言って快諾してくれた
『心強いよ(笑) ありがとう』
私は歩きながらお礼を言った
みんなでパン屋さんでパンを食べた後
私は自宅に戻る用意を始めた
弟は
『話し合いが終わったらまたうちに戻ってくればいい』
と言ってくれたが
離婚するまでの間しか優月は私達両親と一緒にいられない
こうなった今ですら少しでも優月に家族一緒で過ごさせてあげたかった
『ありがと。 何かあったらまた頼むね。アパートの件がわかり次第連絡ちょうだい』
弟にお礼を言って私は真耶さんの車で自宅まで送ってもらった
最初は自分の力で頑張って伝えなきゃ………
自宅に近づくにつれて緊張が強くなり動悸がする
『……何かあったらすぐ連絡してね』
私の緊張が伝わったのか真耶さんがそう言ってくれた
『………ありがとう 頑張るから………』
自宅の前につき私は優月を抱いて車から降りた
自宅のチャイムを鳴らして鍵を開けると修一はリビングにいた
私が大きな荷物を抱えて優月を抱いていても手伝うことすらしない……
もう………終わりだね
私は無言でリビングへと入った
『……話しってなに?』
私がリビングに入るなり修一が口を開いた
私は無言のまま
優月をおろして荷物から洗濯物を出して洗濯機をまわした
リビングに戻ると修一はダイニングテーブルに座っている
私も優月を抱いて椅子に座った
『離婚しましょう』
私はその一言だけを伝えた
修一はしばらく無言だったが
『本来は有責配偶者からの離婚の申し立ては認められないんだけどね……』
いつもの冷めた視線と口調でそう言った
『…でもキミがそういうならばそうしようか』
修一はゆっくり立ち上がると修一がいつも会社に持っていく カバンを出してきた
そしてその中から
『サインしてあるから』
そう言って離婚届けを出してきた
……愕然とした
一体いつもらってきたの?
いつからこれをカバンの中に入れておいたの?
いつ………サインしたの?
……………いつ?
私の目から一気に涙が溢れだした
『……泣く意味が分からないんだけど』
修一は私をバカにしたように首を傾げていた
『サインしてくれないか?』
修一はご丁寧にボールペンまで出してきてくれた
『……優月の親権は私がもらいます』
こうなった以上サインする前にきちんと 条件を話さないといけないと思った
今はとにかく優月の親権が欲しい
お金よりも親権しか頭になかった
でも私の思いとは反対に
『もちろん。 親権はキミでいいよ。』
修一はあっさりしていた
そんな修一に拍子抜けしてしまったが
とにかく親権をもらえた事は嬉しかった
『で、慰謝料だけど……』
修一は案の定慰謝料を請求してきた
こんなに淡々と離婚の話しが進んでいくとは夢にも思わなかった私は
その話しの速さに頭と心がついていけなかった
……とりあえず真耶さんを呼ばないと
焦る中私の頭の中はそれでいっぱいだった
私は慌てて携帯を取り出し電話をかけた
『……真耶さん? お願い! すぐに来て!』
さっき送ってもらってから一時間も経たないうちに私に呼ばれて真耶さんはかなり驚いていたが
すぐに来てくれると言ってくれた
『また弟の奥さん?』
修一の顔はあきらかに怒っていた
私は真耶さんが来るまでの間
修一のサインした離婚届けを見ていた
……保証人の欄
……お義父さんとお義姉さんの名前
……いつの間に?
そこで視線が止まっている私を見て
『お父さんも姉さんも了解済みだよ』
私との別居中に修一は高森の実家に1人で行って二人にサインをしてもらったらしい
サインをしたという事はお義父さんと修一の二人の間に当然親権の話しも出ただろう
あれだけ優月をかわいがっていたお義父さんが親権を私に渡すことを簡単に承諾するわけがない
『お義父さんは優月のこと……なんて言ってたの?』
一番気になる事を聞いてみた
『……“また俺が再婚すればいいだけだ”って話したら納得してくれたよ』
……言葉もなかった
あんなにかわいがっていたのに………
そんなたった一言で
一瞬で優月を忘れられるものなの?
その程度の愛情だったの?
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何も知らずに私に抱かれてニコニコ笑ってる優月を見たら
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……ごめんね
……ごめんね
優月を強く抱きしめて泣いた
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