20世紀少年

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2026/01/19 04:17(更新日時)

1961年生まれ

主に昭和の話

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No.4288456 (スレ作成日時)

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No.263

社会人

高校を卒業して、ビール会社に就職した。かつて恵比寿にあったビール工場だ。入社式が確か3月21日だったかな?
だから卒業してすぐ春休みを楽しめなかった。入社式の懇親会でビールを飲まされた。

No.262

下校

中学の時、学校の帰り、4~5人の友達と一緒に帰る時、じゃんけんで負けた奴が全員のカバンや荷物を持って歩くっていうのをやってた。電柱ごとだったかな?次の電柱まで持って歩いて、また電柱でじゃんけんするって感じだった。

No.261

ミルメーク

給食の時に、たまに出たミルメーク。
牛乳に入れるとコーヒー牛乳になる。
牛乳をちょっと飲んでから入れないとあふれてしまう。粉末でなかなか溶けない。ストローでよくかき混ぜて、牛乳瓶を持ち上げて底を見ると、かき混ざってないからまたかき混ぜる。
うまかったなぁ。

No.260

吉野家

牛丼を吉野家で初めて食べた高3の78年
まさに衝撃だった。それまで牛丼って食べた事はなかったし、吉野家の存在も知らなかった。でもこの後、CMで創業80年って言ってるし、浅草には昔から牛めしがあったらしい。でも僕は知らなかったし、浅草の吉野家で初めて食べた牛丼に感動した。まさに うまい 早い 安い だった。並で300円だったかな。
それまでは店に入って食べるとしたら、町中華、どさん子、立ち食いそば屋、まだマックは店内で食べた事はなかった。いつもテイクアウト。店内で食べれる店舗もなかった。そしてこの頃は、まだ松屋もすき屋もなかった。

No.259

給食

小中学校の時は、給食だったけど、僕らの頃(50年前)は食パンがメインだった。食パン2枚におかずと牛乳。食パンにそのままマーガリンを塗ってたべるんだけどうまくない。マーガリンはカチカチの時はうまく塗れないし。たまに出る
きなこやザラメのパンはうまかったな。
あとソフト麺の時も嬉しかった。カレーかけたり。そしてその時にリッツクラッカーが一袋出るんだ。それを最後に食べるのが至福だった。
あと牛乳に入れるとコーヒー牛乳になるミルメークも大好きだった。

No.258

肝油

幼少の頃の事を思い出したので
小学生の低学年頃まで食べてたかな?
カワイの肝油ドロップ
黄色い楕円形の缶に赤ちゃんの写真、水色の蓋だったと思う。昔はCMでもやってた。カワイの肝油ドロップだい♪
幼稚園だか小学校では、一日一粒給食の時に出てた。夏休み前に缶で買った。一日一粒食べるのが基本なんだけど、好きだからいっぱい食べたくなっちゃう。食べすぎて怒られたな。

No.257

ドライブ

友人で車の免許を取ってすぐ車を買ったやつがいたので、友人4人でドライブに行くことになった。房総半島一周しようとみんなで決めた。高速を使ったのか覚えてないが、たぶん茂原、一宮を通って海沿いを走った。勝浦あたりで昼飯を食べたと思う。鴨川から野島崎、館山では一年の時に遠泳を行った時の高校の宿舎の前を通って懐かしくなった。そのまま海沿いを北上、富津岬の展望台に行った。そしてそのまま16号で帰った。

No.256

車の免許

高3で18歳になると自動車教習所に行くやつが増えた。高校の教師も普通科目の教師は高校在籍中は免許を取りに行くなと言い、機械科の教師達はお前ら機械屋なんだから免許取らなきゃ駄目だと言い授業中でも会社訪問という理由にしてくれて教習所に行かせてくれた。
僕は2月生まれだから免許を取るのが遅くなった。

No.255

びん生

今では黒ラベルと呼ばれているビール。
昔はびん生といった。高3の冬頃かな、はじめて飲んだ時に、こんなうまいビール初めてだと感動した。そのちょっと前に、そのビール会社に内定していたから、一緒に飲んでた友人に、俺んとこのビールって自慢した。

No.254

ダウンジャケット

ダウンジャケットを知ったのは、77年頃かな。高2の時だ。それまではジャンパーやダッフルコートとか着てた。ダウンジャケットもどきを高2の時に買った。形はダウンジャケットだけど、中は綿だった。79年か80年頃、松田優作が探偵物語でベージュのダウン着てて流行った。この頃ってダウンは高かったな。
83年頃、ロシニョールのリバーシブルのダウンを買った。スキーメーカーが多かった。確か神保町のミナミスポーツかどっかで買った。

No.253

シャービック

シャービックって今でもあるのかな?
いつ頃まで食べたかな?中学?高校?
子供の頃はアルミの製氷器で作ってたな。今の冷蔵庫は自動で製氷するから容器かないと作れない。それ以前のプラスチックの製氷器で作った記憶があるから大人になってからも食べたかな?

No.252



東京の冬、子供の頃は今よりぜんぜん寒かった。よく軒下につららができたし、土の地面が多かったから、霜柱が毎日のようにあって、そこを踏み歩くのが楽しかった。家はこたつと石油ストーブ、木造家屋の時はすきま風が入ってきた。
学校は石炭ストーブでクラスごとにバケツに石炭が入っていて当番が取りに行きストーブをつけていた。ガンガンに燃やし前の席のやつは暑くて気持ち悪くなったりした。休み時間はストーブのまわりに集まったな。小学生の頃は、真冬でも半ズボンで遊んでたな。手足なんか霜焼けだらけで真っ赤になって痒くてたまらなかった。

No.251

正月

子供の頃の正月は、お雑煮に食べて正月の番組見た。正月にしか出てこないような漫才師や大道芸人とかいたな。2日の日は柴又の祖父母の家に行った。親戚が大勢集まりお年玉も貰えた。最後に行ったのは中2の時かな。いとこの中で一番下で、みんな高校生とかで来なくなったから。正月はよく凧上げとかしたな。
あとこの頃はお店がみんな休みだった。
コンビニなどない時代。正月はへたしたら一週間くらいお店は休みだったから、大晦日に買いだめしてたな。

No.250

紅白歌合戦

ここ10何年か前からまた見るようになった。朝ドラのあまちゃんのミニドラマが紅白歌合戦の中であったから。それ以来朝ドラの出演者のコーナーが楽しみになったから。子供の頃は欠かさず見ていた紅白歌合戦だが、高校生ぐらいから見なくなった。20代から40代の頃はほとんど見ていない。

No.249

大晦日

子供の頃の大晦日は、4時頃風呂入りに行って夜は、レコード大賞、紅白歌合戦を見た。それから柴又帝釈天に初詣行ったり、ゆく年くる年や映画を見た。

No.248

就活

2学期が始まると就活が始まった。一応僕の高校は工業高校の中でトップだったので、いろんな企業の求人があった。自動車会社、電鉄、航空会社、飲料、電機、印刷、テレビ局、精密機器、建設業
そして就職率も高かった。
僕はいろいろ考えた結果、ビール会社を受ける事にした。恵比寿にあったビール工場で願書を出しにいった日に工場見学をさせてくれた。10月1日が試験の日。
筆記試験の内容は覚えてないが、面接で話した事はよく覚えてる。そして合格した。クラスで一番目の合格者だった。
やはり合格率は高く、僕のクラスは機械科なので、自動車関係はトヨタ、日産、日野など。電鉄関係は国鉄、小田急
その他に日本航空、セイコーなど
電気科でNHKに合格したのもいた。

No.247

文通

能登の民宿で知りあった女の子。文通を重ねる度にどんどん好きになっていった。何名かもらった写真を毎日飽きもせずに見た。彼女は長野県の佐久という所に住んでいた。小海線という鉄道があり、小諸や軽井沢も近い。そういった事もあり長野県に興味を持つようになった。

No.246

彼女

高3の夏休みの終わり頃、彼女ができた。中学の時に付き合ってた彼女と再開して付き合うようになった。ところが能登で出会って文通をするようになった長野の子がめちゃめちゃ好きになり、一月ぐらいで自然消滅した。

No.245

北茨城

そういえば高2の夏休みに、中学の時に茨城に引っ越した友達が久々に東京に来た。そしてその友人が茨城に帰る時、一緒に行った。一旦上野まで行き常磐線の福島あたりまで行く列車に乗り北茨城の磯原へ。その友人の家には一週間ぐらいいた。花園渓谷、五浦海岸、常磐ハワイアンセンターなど行った。

No.244

夏休み

高3の夏休み、急に思いついて能登の祖母の家に行くことにした。朝イチで新幹線に乗り米原で北陸本線に乗り換えて金沢へ。金沢から特急バスて富来へ。そこからまたバスに乗り祖母の家へ。祖母の家は民宿をやっている。叔父(母の弟)がオーナー。漁もやっていて船で定置網にかかった魚やサザエをとっている。
僕も漁や民宿の手伝いをした。
そこで長野から来たJKグループと友達になり、そのうちのひとりと文通するようになった。

No.243

バイト

高2か高3の時に、もうひとつビル清掃のバイトをした。高校の親友に紹介され一緒にやったのだが、場所がどこだったかぜんぜん覚えてない。唯一日曜日にやったのが新大久保のビルだった。

No.242

修学旅行

高校の修学旅行は、九州へ4泊5日だったかな?新幹線で新大阪まで行き寝台特急で別府まで行った。別府を観光して阿蘇へ。やまなみハイウェイがよかった。
阿蘇の内牧温泉て宿泊。阿蘇の山に登ったな。2日目は熊本城行って天草へ。フェリーで雲仙。雲仙て宿泊。3日目は長崎で自由行動。市電に乗ってグラバー園へ。その日の宿泊は唐津の虹の松原。
翌日は博多から新幹線で東京へ。

No.241

彼女

高2の終わり頃から、付き合ってた彼女は、ひとつ下の同じ電車で一緒だった子。この頃は喫茶店に何時間もいたり、水元公園や江戸川に行ったり、たまに銀座に行ったり、学校さぼって家に連れ込んだり。夏休み前ぐらいまで付き合ってたかな。

No.240

株式新聞

高3の時にやったバイト。駅の売店に新聞を配達するバイトだった。株式新聞という新聞で、夕方、新橋駅に集合。車が来てそれぞれの受け持ちの新聞を受けとる。僕は600部ぐらいの量だった。受けとると小走りで僕はまず地下鉄へ。ホームで待つ間に新聞を仕分けする。売店の順番で配達する部数が決まってるから、配りやすいように配達部数の向きを変える。夕方の電車はそれなりに混んでるから新聞を入れてる袋を肩に乗せた。最初はまだ配達してないから重い。新橋から四ッ谷、新宿の売店に配っていく。新宿で一回外に出て思い出横丁を通って行く。腹ペコに焼き鳥の匂いがたまらなかった。西武新宿線まで行き高田馬場、池袋で終了だった。改札を通る時は、株式新聞でーすと言って通る。切符なしで通過できる。電車が遅れると売店で待ってる客に遅いぞって文句言われた。
実働時間は1時間ぐらいだけど給料がよかった。ただ休む時に変わりの人間が必要だった。修学旅行の時に友人に頼んだ。前もってコースなど教えなければならない。

No.239

ショーケン

ショーケン、萩原健一のドラマが好きだった。最初は太陽にほえろ、僕は小6の頃だ。マカロニ刑事役で登場した第1回目の犯人役は水谷豊だった。
そしてその水谷豊と傷だらけの天使。中2の時だ。第1回目に真屋順子が出演していた。欽どこでブレイクする前の地味で薄幸な役だった。
そして前略おふくろ様、このドラマで川谷拓三、室田日出男、志賀勝のピラニア軍団がブレイクした。
78年、高3の時のドラマ、祭りばやしが聞こえるがめちゃめちゃ好きだった。
ショーケンは競輪選手役で、相手役がいしだあゆみだった。柳ジョージの曲がめちゃめちゃよかった。でもこのドラマは一度も再放送されてないし、ビデオ、DVD化もされてないのは何か事情があるのか?

No.238

カルピス

カルピスウォーターを初めて飲んだのは、90年代になってから。たぶんその頃発売したと思う。僕はもう30歳だった。
小学生の頃よくカルピスを飲んだ。
その頃のカルピスは瓶に原液が入っていて、グラスに1/3か1/4入れて水で割って飲んだ。だからその都度味が濃かったり薄かったり。水は水道水だし、冷たくないから氷入れて。カルピスのグラスもあった。昔はお中元によくカルピスの詰め合わせをもらった。オレンジ味やグレープ味もあった。
初めてカルピスウォーターを飲んだ時、あまりの旨さに驚いた。水が違うからか
昔の自分たちて作って飲んでた時の味を知ってるから、カルピスウォーターの旨さに感激した。

No.237

ジュース

コカ・コーラにはファンタ
ペプシコーラにはミリンダ
ファンタは今でもあるが、ミリンダはいつ頃まであったかな?どちらもオレンジとグレープ味があったが、どっちかでメロン味、レモン味、ストロベリー味とかあったような
ファンタで辛口、甘口があるって話で瓶の下の方に○か四角の凹みで味が、辛口、甘口があるって当時の子供達は思った。実はこれは生産工場の記しだったらしい。
米屋でしか買えないプラッシー
チェリオにチェスタ、銭湯によくあったフルーツ牛乳やりんごジュース
町中華とかにあった細い瓶のミルクコーヒー
みんな懐かしいです。

No.236

コカ・コーラ

初めて飲んだのって、小学生の低学年ぐらいの時かな?60年代後半頃か。
くびれた瓶のやつ。今でも思うけど、この瓶のやつが一番美味しく感じる。
当時は30円か40円ぐらいだったと思う。その何年か後にホームサイズ(500)が出た。家族用で3杯飲んでもまだ余るってキャッチコピーだった。今なら500なんてひとりで飲んじゃうけどね。コーラのグラスもあったな。
缶が出た頃、当時の缶は独特のニオイがあってあまり美味しくなかった。でもだんだん改良されて美味しくなった。
それから1リットルが出て、ペットボトルの時代になった。

No.235

ポテトチップス

ポテトチップスは、小学生の頃からあったが、ほとんど食べた記憶がない。あまり一般的に売れてなかったような気がする。この頃の家庭は、お茶菓子といって煎餅が主流だった。あと羊羹だったり、スナック菓子はあまりなかった。小学生の高学年から中学の時に、カールやスピンが人気あったが、ポテトチップスはまだ人気がなかった。高校に入ったくらいから徐々に食べるようになった。カルビーのポテトチップスのCMを藤谷美和子がやるようになってから人気が出始めたと思う。この頃円筒形の容器のチップスターやポテルカも発売された。そして80年代になるとお菓子の主流はポテトチップスになった。コンソメパンチの発売。テレビ見ながらだらだら過ごすカウチポテト族なんて言葉も生まれた。

No.234

テレビ

小2(68年)ぐらいまでは、白黒テレビだった。画面も四角くなく楕円形で、サイズも12インチくらいじゃないか?画面の上にセルロイド板のようなのを付けていた。こうするといくらかカラーに近くなる。でもそんなに変わらなかった気がする。チャンネルのつまみが取れてペンチでチャンネルを回してた時もあった。
最初のカラーテレビはサンヨー。18インチだけど本体はその倍の大きさだった。この頃のテレビは真空管だったからスイッチ入れてもすぐには点かなかった。テレビの上にレースを引きケースに入ったフランス人形か博多人形を置いていた。中学ぐらいの時のテレビ、チャンネルが回すやつじゃなくなって、ボタンになった。本体も小さくかりテレビ台とセットになって、テレビ台はプッシュ式の観音扉で中にレコードとか入れていた。

No.233

冷蔵庫

さすがに氷屋で氷を買って冷やす冷蔵庫はなかった。最初から電機冷蔵庫だったが1ドアの小さい冷蔵庫だった。冷凍庫はなく上の方に製氷室があった。氷は作れたけどアイスは溶けてしまうから、買ってきたらすぐに食べてた。この頃の製氷器はアルミ製で、濡れた手で触ると手がくっついて痛くて取れなくて、水をかけて取った。
2ドア冷蔵庫になってのは、小学生の高学年ぐらいの時かな。
19歳の時に会社の独身寮に入った時は、また1ドア冷蔵庫になった。

No.232

洗濯機

家で使ってた洗濯機で、脱水機能がついてなく、ローラーに洗濯物を挟みハンドルを回してしぼる。この洗濯機はいつ頃まで使ってたかな?小3ぐらいまであったような気がする。小3だと69年か。
ローラーに挟んでシャツのボタンが割れたりしたな。固まってでてきたり
チューブの歯磨き最後の方になるとローラーに挟んで中の歯磨き粉出したりしたな。

No.231

いちご

いつ頃から、いちごは甘く美味しくなったのか?小学生ぐらいまでのいちごは、小粒で形も平べったいのとこ不揃いで、色も青い部分が多かったり、そして何より酸っぱかった。だからボウルに入れたいちごに牛乳と砂糖をかけてつぶして食べた。家にはいちごをつぶすスプーンがなく普通のスプーンでつぶした。
何よりいちごよりも最後に飲むいちごミルクが美味しかった。
グレープフルーツも酸っぱくて砂糖をかけて食べた。いちごをつぶすスプーンはないのに、グレープフルーツをすくうギザギザのスプーンは家にあった。
小梅も砂糖をつけて食べたし、コーンフレークにも牛乳だけでなく砂糖をかけて食べた。

No.230

テレビゲーム

テレビゲームが出回ったのって、高2ぐらいの時かな?77年頃
別にハマらなかたけど、友達の家にあったからやらせてもらった。
テーブルテニスとブロックくずししかなかったけど。喫茶店でもそれくらいしかなかったね。

No.229

喫茶店

高2ぐらいから喫茶店によく行くようになった。ほとんど毎日のように行っていた。彼女と2時間、3時間ずっといたり
よく行ってたのは、浅草にアドロという喫茶店。それから金町に時計台って名前だったかな?あとは名前は忘れたが浅草橋の喫茶店もよく行った。知ったばかりのウインナーコーヒー。ミルクセーキとか好きだったな。なんかレモンスカッシュをレスカって言ったりしたな。

No.228

原付

誕生月が2月だから、免許を取るのがまわりの友達より遅い。まわりが免許を取ってバイクに乗ってるのが羨ましかった。誕生日が来てとりあえず原付の免許を取った。知り合いからヤマハのRDをもらい毎日走り回った。一番遠出したのは千葉の富津岬。半年ぐらい乗って友人にあげた。その後はしばらく乗らなかった。ずっと後になってパッソルを乗るようになった。

No.227

煙草の話

前にも言ったが70年代のドラマ、ほんとに喫煙シーンが多い。普通に会話するシーンでも絶対っていうくらい煙草に火をつけ吸う。台本に煙草吸うって書いてあるのか?演出?役者が自ら吸ってるのか?いずれにしても煙草吸うシーン必要か?って思う。でもそれは今の時代だから言ってるわけで、当時はそんな事ぜんぜん思わなかった。電車や飛行機の中でも吸えた時代。喫茶店に何時間もいて制服のまま何本もスパスパ吸ってた自分。

No.226

煙草

高1の終わりくらいから、煙草を吸うようになった。過去に小6の時、友達の家で興味本意で吸った事がある。6本くらい吸った。その日の夜気持ち悪くなり
ダウンした。煙草なんてもう二度と吸うもんかって思ったが
高校生になってまわりで吸う友達が増えた。またまた興味本意で家にあった煙草を吸った。それからやがて買うようになった。セブンスターだったかな?マイルドセブンはこの翌年発売されたと思った。キャビンも78年に発売されたかな?セブンスターは150円、何年か前まで一番吸われてたハイライトが120円。
この後吸うようになったショートホープは2箱で150円で1箱でも買えた。
金がない時は、シケモクも吸った。部室の机の引き出しにシケモクがぎっしり入っていて、その中から選んで吸った。

No.225

横溝正史

角川文庫で横溝正史フェアがあってから初めて八つ墓村を読んでハマリ、片っ端から横溝作品を読むようになった。僕は本陣殺人事件が好きだった。映画も犬神家の一族、獄門島、八つ墓村、悪魔の手毬唄、悪魔が来たりて笛を吹く すべて見た。それからテレビでも横溝正史シリーズが始まって毎週楽しみにみていた。
ドラマのエンディング曲のまぼろしの人が好きだった。

No.224

エレキギター

高1の時にエレキギターを買った。秋葉原の楽器店で、聞いたことのないメーカーのストラトキャスター、色はサンバースト、アンプは友達から借りて弾いていた。ディープパープルとかよく弾いていた。

No.223

70年代ドラマ

最近70年代の中学や高校の頃に見たドラマを、再放送やサブスクでよく見る。
パパと呼ばないで、気になる嫁さん
水もれ甲介、気まぐれ天使、おれは男だ
夕日が丘の総理大臣、俺たちの旅
その頃は夢中になって見ていたし、青春物などは憧れた。
でも今見るとあり得ないような内容が多い。
まず喫煙シーンが多すぎる。所かまわずどこでもスパスパ。子供の前だろうが、教師が教室の中とか
おれは男だの森田健作、当時は大好きだったが、今見ると裏返った大声で喚き散らし、自分の意見を押し付けてるだけ
俺たちの旅は、こんなにみんなクズだったっけと思った。特に田中健のオメダ
くよくよウジウジ、死んだ目をして、俺はダメなんだよってばっかり、そうかと思うと自分の思うとうりにならないと妹を殴ったり、グズ六も最初の頃はひどいクズ野郎だったけど、だんだんよくなってきた。かーすけは調子がよくて図々しいが一番人間味がある。そしてエンディングのただお前がいいは泣けるんだな~

No.222

宅配の本屋さん

小学生の頃、定期購読している本を毎月宅配してくれる本屋さんがあった。金町にあった個人書店で、店主のおっちゃんが自転車で宅配してくれた。僕の社宅に住んでたほとんどの家庭は宅配してもらっていたと思う。僕は小学1年生を毎月購読してた。母親は婦人倶楽部か何かだったと思う。このおっちゃんは子供の名前もひとりひとり覚えていて、社宅のお祭りとかにも参加していた。
この頃は酒屋も御用聞きに来て注文を取り配達してくれた。米屋も米がなくなる頃に来て勝手に米びつに米を入れていた。あとクリーニング屋も御用聞きに来てたな。

No.221

小学生の時、学研の科学と学習という月刊誌があった。業者が毎月、学校に来て販売していた。科学の方が実験の教材とか付いていて男子に人気があった。僕はどちらかといえば理数系より文系なので、学習が好きだった。小4の時に1年近く毎月買ってたが、いつしか買わなくなってしまった。

No.220

またまた小学生時代の話を思い出したので
昔は小学校の前て胡散臭い商売をしてるおっさんがいた。
カタ屋、カラーひよこ、飴細工
こち亀の漫画で、カタ屋の話が出てみんな何度も騙された話があったけど、一度もやったことないと思う。小3ぐらいの時で、一日のこづかいなんて10円ぐらいだからできなかった。お金ためてやりたいとも思わなかったし。こういうおっさん達っていつしかいなくなっちゃったね。

No.219

ラーメン屋

70年代のラーメン屋って、今みたいなラーメン専門店ってぜんぜんなかった。町中華かチェーン店のどさん子ぐらいかな。どさん子は高校の帰りにたまに食べに行った。能登に8番ラーメンってあって、高1の時に一度食べた事がある。今でもある有名チェーンらしい。

No.218

バンド

バンドを作って放課後とか練習してた。
僕はボーカルだった。最初はクイーンの曲をメドレーで繋いでやっていた。
それからツェッペリンの天国への階段をコピーして文化祭でやった。
ギターはまだこの頃そんなに上手くなかった。しばらくしてだんだん上達していきフォークソングをやるようになった。

No.217

バッド・カンパニー

76年頃、バッド・カンパニーも人気のあったバンドだ。元フリーのポール・ロジャースがボーカル、ヤマハのギターを弾いていたミック・ラルフスがギターだった。ツェッペリンのスワンレーベル在籍。そこで3枚目のアルバム、ラン・ウィズ・ア・パックを買った。
良くも悪くもない、いい曲もあるが感動はなかった。刑事ドラマで夜明けの刑事というのがあって、その主題歌をポール・ロジャースが日本語を交えて歌っていた。

No.216

ディープ・パープル

高1の秋頃、またまた衝撃を受けたグループに出会った。
ディープ・パープルだ。
最初は2年生のバンドがディープ・パープルを演奏していた。その時初めてディープ・パープルの曲を知った。
スモーク・オン・ザ・ウォーターとブラックナイトだった。
カッコいいリフに痺れた。
そしてレコードを買った。24カラットというベスト盤でほとんどがライブ曲だった。スモーク・オン・ザ・ウォーターのカッコよさに感動した。さらに感動したのはスピード・キングだった。
高1の時、どんどん新しい曲を取り入れる事ができた。でもみんな過去の曲なんだけどね。

No.215

新宿

彼女とデートで新宿に行った。新宿に行ったのはこの時が初めてだったと思う。
住んでたのが葛飾区だから新宿はけっこう遠い。だから行くのは上野とかが多かったと思う。渋谷は小学生の頃、プラネタリウムに行った事があるがその一度だけだと思う。デートで新宿に行ったのは、彼女が太陽にほえろが好きで、新宿の街が舞台だからだ。どこをどう歩いたとか、どんなお店に入ったのかぜんぜん記憶にない。新宿は社会人になってからはよく行ってたけどな。

No.214

彼女

高1の2学期が始まってすぐに彼女ができた。京成金町駅のホームでいつも見かけ同じ電車に乗っていた。僕は高砂駅で降りて西馬込行きに乗り換えていた。彼女はそのまま上野行きに乗ったままだった。僕の方から声をかけ付き合うようになった。彼女は年上で女子高の2年生だった。あまり休みの日にデートした記憶はなく、お互いの文化祭に行ったり、街ぶらしたぐらいかな。確か2~3ヵ月で自然消滅したような。

No.213

文化祭

僕が通っていた高校の文化祭は、他の高校の文化祭に比べるとつまらなかったと思う。工業高校だから製作者した物の展示だとか実験とか。機械科だったから旋盤とかで作ったボルトとか。そんな物見たっておもしろくないだろう。校庭で自分らが作ったゴーカートを乗せたり
模擬店は、喫茶店がひとつぐらいあったかな。僕は2年の時に、音楽部としてバンドをやった。ツェッペリンを何曲かやった。3年の時はフォークソングクラブで、風やアリスをやった。

No.212

読書

読書が好きだった。今でも必ず毎日30分くらいは読書するようにしている。活字を読むのが好きだから小説だけじゃなく、雑誌や漫画も大好きだ。高校生になって横溝正史に出会い夢中になって詠むようになった。それ以外では星新一にも夢中になった。あとは松本清張、森村誠一、小林信彦 創元推理文庫という海外のミステリーの文庫本があり、コナンドイルやエラリークイーンなどたくさん読んだ。純文学も夏目漱石や芥川龍之介などもけっこう読んだな。

No.211

映画

映画館で映画を観るのは、中学の頃は家族と寅さんをよく見に行った。小学生の頃はガメラとか見に行った。まだ金町にも映画館があった頃。洋画は試写会が多かったけど、ジョーイという映画を見に行って泣いた。高校の頃は高砂に300円の映画館に何度か見に行った。京成名画座という映画館だった。高校で年に一回映画を見に行く活動があった。1年の時はロッキー、2年の時はカプリコン1、3年の時は棟方志功のドキュメンタリーかなんかだった。それからレッド・ツェッペリンの永遠の詩は何度も見に行った。
デートで見に行ったのは、くるみ割人気やチャンプだったな。

No.210

試写会

初めて試写会に行ったのは、中3の時に有楽町にサウンド・オブ・ミュージックを見に行った。チケットは当選したのか誰かにもらったのかは覚えてない。
高校に入ってから小学校の時の友人に何度か誘われて行った。その友人は試写会に応募してよく当選していて、何度か誘われた。3~4回一緒に行ったが、覚えているのは大陸横断超特急?って映画ぐらいであと何の映画を見たか覚えていない。

No.209

バイト

高1になってすぐにイトーヨーカ堂でバイトした。夏休みまでやってたが時給が安かったから辞めて、次にビル清掃のバイトを始めた。場所は東銀座、高校が浅草橋の近くだったから学校が終わってから都営地下鉄で行った。何ヵ月かやって六本木のビルの方に回された。東日ビルだったと思う。ビル清掃は主にモップ掛け中心だったな。給湯室でOLからお菓子をもらうのが嬉しかった。

No.208

体育祭

高校の時の体育祭では毎年、盆踊りを踊った。体育祭の始まる1ヶ月ぐらい前から体育の授業はいつも盆踊りの練習だった。体育祭当日は学年別の対抗だったのかクラス別の対抗だったのか覚えていない。他のクラスと合同で練習した覚えがないからクラス別対抗だったのかな?
他の種目の記憶がないから体育祭はほとんど盆踊り大会だったのか?でも一度走り高跳びの代表になった事があるから、他の種目もあったのだろう。

No.207

景信山

高1の時か高2の時か忘れたけど、学校登山で景信山に登った。この山は高尾山や陣場山の先の方にある山で、中央本線の小仏の近くの駅で降りて登ったのかな?あまり道中の事とか覚えていないが、帰りの電車の中でかわいい女の子がいた覚えがある。

No.206

天国への階段

ツェッペリンは最初にプレゼンスを買って、その後ⅣかⅡどちらが先かは忘れたけど買った。そしてこれこそツェッペリンなんだなと思った。
天国への階段を初めて聴いた時の感動は今でも忘れない。特に前の曲、限りなき戦いからの流れは素晴らしかった。
天国への階段を知ってからハードロックバンドがやるアコースティックナンバーがお気に入りになった。

No.205

北千住
 
北千住は近いわりには、ほとんど行ったことがなかった。中3の夏休みに夏季講習で来たくらいだった。高校に入ってから東武線を使ってる友達がいたのて、北千住によく行くようになった。この頃マコト商会というレコード屋がありたまに買った。レコードを買うと好きなポスターがもらえた。

No.204

洋楽

70年代はラ組が少なかった。たまにNHKでライブる番組があり、ストーンズやイエスのライブを見ることができた。そしてぎんざnowの木曜日が洋楽ヒットをやるようになった。そこでボストンやあらたに知ったストもたくさんいた。そしてイーグルスのホテルカリフォルニアに出会った。
ぎんざnowは月曜日から金曜日まで夕方5時から放送されており、せんだみつおがパーソナリティーだったが木曜日は完全に洋楽だけになり、だんだん出る日がなくなってきた。
この頃の洋楽アーティストはまだPVがあまりなくほとんどライブ映像だった。
こぞってPVの時代になるのは、80年代に入ってから。ベストヒットUSAやMTVが始まってからだ。

No.203

秋葉原

今までレコードは地元で買っていたが、秋葉原の石丸電機でよく買うようになった。まずレコードの多さが魅力的だった。買うと必ず特典で何か貰えたり、点数の券を集め点数の数と同じ金額のレコードを貰えたりした。秋葉原は今と違い電機街でたくさんの電機屋があった。
楽器店もあったのでよくギターを弾きに行った。小学生の頃は交通博物館に何度か行き初めて地下鉄に乗ったのが、秋葉原から北千住までの日比谷線だった。

No.202

彼女

高1の2学期が始まってすぐに彼女ができた。電車の中でいつも見かける子で、高砂で乗り換えるまで同じ電車に乗ってる女の子だった。制服で私立の女子高だとわかった。声をかけいつも一緒に話をしてデートの約束をした。彼女はひとつ年上の高2だった。半年くらいつきあった。別れてからは同じ電車に来なくなた。

No.201

横溝正史

もともと読書は好きだった。特に江戸川乱歩が好きだった。高1の時に角川文庫で横溝正史フェアがあって、どんな物か一冊買った。八つ墓村だった。おもしろくて一気に読んだ。そして横溝正史にハマった。それから犬神家の一族、本陣殺人事件、獄門島、悪魔の手毬唄など片っ端から読んだ。それから映画館、テレビもすべて見た。

No.200

サンオイル

この頃、サンオイルって資生堂の黄色い容器、オレンジ色のもあったな
これしかなかった。コパトーンとかあったかもしれないが、売ってなかったし存在事態知らなかった。ソニープラザみたいな所では売ってたかもしれないが
コパトーンを知ったのは19ぐらいだったかな?とにかく資生堂のサンオイルしかなかった。500円ぐらいだったかな
中学ぐらいまでは、プールとか行く時は透明なサンドバッグみたいな形のバッグにタオルとか入れて行ったな。

No.199

ソノシート

幼稚園の頃から小1ぐらいの頃かなぁ?
ソノシートを何枚か持ってたなぁ
雑誌の付録とかにも付いてたな。
アニメの主題歌やそのままストーリーが録音された物とかだった。
覚えてるのが、ウルトラマンの怪獣島の話、レッドキングやピグモンが出る話をまんま録音されてるやつを持っていた。

No.198

ウィスパーカード

小学生の頃の話をいくつか思いだしたので・・・
小6の頃、声の出るウィスパーカードというのがあった。ソノシートで当時のアイドルが、生まれ育った場所の話などを5分ぐらい喋ってたりしている。文房具屋で売っていて300円ぐらいだったかな?何故か僕は小柳ルミ子のウィスパーカードを買った。

No.197

阿字ヶ浦

親友の母親の働いてる会社の旅行に連れていってもらった。慰安旅行かな?場所は茨城県の阿字ヶ浦、海水浴を兼ねた旅行で、バスで行った。中学の時の同級生の女子2人も一緒だった。この頃は常磐道はまだないから下道(水戸街道)で行った。民宿に泊まった。茨城の海の水は真夏なのにめちゃくちゃ冷たかった。
僕と親友と女子2人とずっと一緒に遊んでた。

No.196

クイーン

高1の時に一番ハマったクイーン。76年当時は4枚のアルバムがあり、まず最新アルバムのオペラ座の夜を買い衝撃を受け、しばらくしてサードアルバムのシアーハートアタックを買った。キラークイーンやナウアイムヒアが入ったアルバムで、キャッチーな曲とプログレっぽい曲があってたまらない。それからクイーンⅡ、ファーストアルバムの戦慄の王女を買った。当時僕はこの2枚がお気に入りだった。戦慄の王女ははっきり言って荒削りで音も悪い。でも曲がよかった。マイフェアリーキングは素晴らしい。
そしてクイーンⅡ、このアルバムで音がめちゃめちゃ良くなった。コンセプトアルバムでA面がホワイトサイド、B面がブラックサンド、プログレ感満載で素晴らしかった。当時はまだイエスを知らなかったが、このアルバムはイエスみたいとよく書かれていて、イエスに凄く興味を持った。

No.195

田舎へ

高1の夏休みに母の実家、能登の田舎に初めて車で行った。行きは東名、名神を使い滋賀県から福井を通り石川県に行った。帰りがたいへんだった。ずっと下道で富山、新潟、長野、群馬、埼玉と行ったが、渋滞が多く14時間ぐらいかかった。76年はトラック野郎の影響で国道
17号などはデコトラが多かった。

No.194

地獄の軍団

高1の夏ぐらいに買ったキッスのアルバムだ。友達曰くキッスはライブバンドだからライブアルバムの方がいいのにと言われたが、なかなかどうして今でもキッスの中で一番好きなアルバムだ。
すでにシングルで狂気の叫びがヒットしていてそれでこのアルバムを買った。
原題はデストロイヤーだが、日本ではアルバム名に地獄の○○と必ずつけた。
今でこそ音楽や映画は原題どおりだが、この頃はイメージでぜんぜん違うタイトルをつけた。このアルバムに地獄の遺産という曲があり、ベートーベンのピアノソナタのメロディを使っていてなかなか名曲だ。後にビリージョエルも自分の曲に使っている。

No.193

CBSソニー

学校の帰りに金町の駅前を歩いていたら、女の人に声をかけられた。CBSソニーの音楽のモニターになってくれないかという事だった。月に1回市ヶ谷のCBSソニー本社で、音楽のいろんな事のアンケートを受けるとCBSソニーのアーティストの好きなLPが貰えるという事で即OKした。
アンケートやモニタリングが約1時間
1回目の時は迷わずエアロスミスのロックスをゲットした。
2回目の時はあまりほしいのがなかたが、シカゴのシカゴⅩにした。
毎回その時の最新アルバムなので、CBSソニーアーティストでほしいのがないから次から行かなくなった。

No.192

赤い疑惑

山口百恵と三浦友和主演の赤いシリーズ
僕が高1の時のドラマだ。赤いシリーズは、この後も赤い激流など何本かあるが、よかったのは赤い疑惑だ。このシリーズって大映ドラマだったのかな?金曜日にやってたと思う。

No.191

合宿

東京駅集合だったか忘れたけど、内房線で館山まで行った。内房線は昔、房総西線っていってたかな?電車は各駅だったから館山までけっこう時間がかかった。神宮プールの時に同じ班で仲よくなった違う科の奴と電車の中で一緒だった。
高校の合宿所が海の近くにあった。
合宿は4泊で、朝はランニング、昼に遠泳の練習。最終日が遠泳本番。大学の水泳部のコーチが何人かいた。
遠泳は海岸からだいぶ離れた岬の近くまで行って戻ってくるコースで1時間ぐらいかかった。距離は5キロぐらいだったかな?BやCのクラスはもっと短かったらしい。

No.190

水泳

高1の6月から体育の授業は水泳になった。まだ水が冷たかったからきつい。
何故この時期から水泳かというと、夏休みに千葉の館山で合宿して遠泳を行うためだ。高校にはプールがないから隣の中学のプールを使った。夏休み前に一度、神宮のプールで練習して合宿でのクラス分けを決めた。Aが上級者、Bが中級、そして下級のCで、僕は水泳が得意だったからAだった。夏休みが始まってすぐAクラスから開始だった。5日間ずつAが終わるとBという日程だった。だから合宿中はBとCとは顔を合わさない。

No.189

バイト

高校へ入ってからすぐにバイトを始めた。イトーヨーカ堂で、時給は300円 学校終わってからだから1日3時間なので千円いかない。最初は文房具、おもちゃ売り場。一週間ほどでインテリア売り場にまわされた。1ヵ月でやめてビル清掃のバイトに変えた。時給もヨーカ堂より高かったし仕事も気楽だった。場所は東銀座のビルで、しばらくして六本木のビルになった。バイトで得たお金でレコードをたくさん買えるようになった。

No.188

バンド・オン・ザ・ラン

ポール・マッカートニー&ウイングスのアルバム。ビートルズのソロメンバーで初めて買ったアルバムだ。
バンド・オン・ザ・ランからジェットの流れは圧巻だ。バンド・オン・ザ・ランは三部作の構成になっていて、見事としか言い様のない素晴らしさだ。こういう三部作構成は元々ジョンが得意で、ビートルズのハッピネス・イズ・ウォームガンなどそうだ。ポールはそういうジョンの作品に嫉妬していたらしい。ここでポールはやってやったぜと得意だったのか?ビートルズ解散からこの頃、ジョンとポールはお互いを皮肉るくらい嫌っていたから。

No.187

ロック名盤カタログ

ミュージックライフなどのロック雑誌で、よくロック名盤100などの企画やカタログがあった。ビートルズ以外でやっとツェッペリンやクイーンを知ったばかりだったので、ものすごく新鮮で期待に満ち見てるだけでワクワクした。
ジミヘン、クリーム、ストーンズ、ピンクフロイド、イエス、デレク&ドミノス
まだ一度も聴いたことがない、でも必ず名盤に入っているアルバムのジャケットや解説を見ては早く聴いてみたいと期待に胸を膨らませた。
今のようにサブスクなどで簡単に聴ける時代ではない。テレビでは洋楽などほとんど流れないし、ラジオはいわゆるシングルのヒット曲中心だった。レコードを買うにもお金がなかったから聴くまでに時間がかかった。

No.186

プレゼンス

レッド・ツェッペリンで初めて買ったアルバムだ。これを買うまでツェッペリンの曲はぜんぜん聴いたことがない。76年当時ロックの王者を君臨していたツェッペリン。そして買ったのがその頃最新アルバムだったプレゼンス。高1の6月頃だったと思う。買った頃、友人に普通最初に買うんだったら、ⅣかⅡだろって言われた。でも僕はこのアルバムが気にいっていた。最初からアキレス最後の戦いでの疾走感、重量感、無駄のない音
ツェッペリンとの出会いだった。

No.185

オペラ座の夜

友人の影響でクイーンにおもいっきりハマることになる。中3の時にボヘミアンラプソディーがヒットしてよくラジオから流れてた。いい曲だとは思ったが、別に揺さぶれなかった。ラジオだから丸まる一曲聴いてなかっただろうし。
まず最新アルバムのオペラ座の夜を買った。一曲目からガツンと衝撃を受けた。
ハードロックだけどイントロのピアノが美しく感動した。特に感動したのはB面だった。10分近くある予言者の歌の中間部のコーラスは衝撃的だった。そのままメドレーのように続く美しいバラードのラブ・オブ・マイ・ライフ
ボヘミアンラプソディーはアルバムで聴いて感動が倍増する。続くインストゥルメンタルのゴッド・セイブ・ザ・クイーンで静かに幕を閉じる。
時代や年齢的もあるが、これ程感動したアルバムはない。

No.184

高校で

最初に友達になった奴の影響で、いろんなロックを知る機会を得た。そいつは足立区に住んでるSという奴だった。現在僕が住んでる所から歩いて10分ぐらいの所に住んでいた。今はもう住んでないし連絡も取れないが。
中学生までは、買うレコードはビートルズかサイモン&ガーファンクルぐらいで、あとはラジオから流れる曲しか知らなかった。こづかいも限られてるからビートルズやサイモン&ガーファンクル以外までは買えなかったのが現状。
そいつと出会ってクイーン、レッド・ツェッペリン、キッス、エアロスミスなど
いろいろ知って聴くようになり、俄然興味を持つようになった。そしてバイトを始めてレコードも買えるようになった。

No.183

通学

高校は電車通学。京成金町から都営浅草線の蔵前まで。金町は始発駅だけど、すべて上野行きなので高砂で乗り換え。西馬込行きに乗って蔵前まで。押上までが京成でその先から都営浅草線だ。京浜急行も乗り入れてるので、三崎口行きや羽田空港行きもあった。京成金町は朝は10分間隔だが、それ以外は20分間隔だったから帰りなど高砂で金町行きが行ったばかりだと20分待たされた。
京成の電車カラーは肌色と赤だが、古い車両で汚い深緑と黄緑の車両があった。
僕が通ってた頃は国技館は蔵前にあり、高校の向かいに国技館があったから相撲の場所中は下校の時に混んだ。キャンディーズがここでライブを行った。

No.182

ボウリング場

小6の頃から中学生ぐらいまで、ボウリング場も溜まり場だった。ボウリングをするためではなく、ピンボールマシンをやるためだ。この頃はまだゲームセンターなどなくボウリング場にピンボールマシンが何台かあるくらいだった。

No.181

ゲーム盤

小学生の頃は、いろんなゲームがあった。巨人の星野球盤、サッカーゲーム、
ボウリングゲーム、バスケットゲーム、
ホッケーゲーム、魚雷戦ゲーム
サッカーとホッケーはほとんど似たようなゲームだった。あとツイスターゲームなんてあったな。それからボードゲームの人生ゲームやバンカース、ダイヤモンドゲームなんていうのもあった。今はもうトランプもやらなくなってしまったが、この頃は何人か集まると必ずトランプやったな。大貧民とかうすのろまぬけとかおもしろかった。神経衰弱も。

No.180

境内

小学生の頃(3年生ぐらいまで)
神社の境内でよく遊んでいた。社宅内にあった稲荷神社だ。いろんな遊びをしたな。缶けり、かくれんぼ、鬼ごっこ、
靴かくし、馬乗り
いろいろゲームとかあって、どんなやり方だったかぜんぜん覚えてないが
駆逐水雷とか豚の小間切れとかあったな

No.179

肉屋

小学生の頃、肉屋でコロッケ買ってその場で食べるのが旨かった。ピンク色の紙の袋に入れてくれて、置いてあるソースかけて食べる。🎵伊達ちゃんコロッケ食べたい🎵じゃないけど、旨かったな。小6の頃で、それまでの駄菓子屋からちょっと大人になった感じがした。
その頃はコロッケ10円、メンチ20円、
ポテト揚げが5こ10円だった。
今では考えられない値段だが
サラミも缶のような入れ物に入って置いてあって、生まれて初めて食べた。
その旨さに感激した。

No.178

ワカナ堂

レコードはいつも金町のワカナ堂で買っていた。ワカナ堂は金町に3店舗あった。昔は買わなくてもレコードをいろいろ見てるだけで楽しかった。今度はこれ買おうかなとか、これいいのかな?とかいろいろ思いながらレコードを見るのが好きだった。ビートルズのLP買った時に2枚あるポスターをどちらか選んで貰えるのだが、どっちもほしいっていったら両方くれた女の店員さん。レコード買うとレコードマンスリーやカタログとかいろいろ付けてくれたな。
いつのまにかこのレコード屋もなくなっていた。

No.177

サウンド・オブ・サイレンス

中3の終わり頃買ったアルバムだ。
元々知ってた曲は4曲ぐらいで、あとは知らなかった。わりと地味な感じなアルバムだった。キャシーの歌は以前より大好きな曲で後にギターで完コピして、よく弾いていた。

No.176

受験

中3の冬ぐらいから一応勉強して高校受験を目指した。夏休みに夏季講習を受けたけど何にも身につかなかった。北千住にある女子高が会場だったな。冬ぐらいからちゃんと勉強するようになった。そういえば三者面談ってこの頃やったんだよな。受験の面接の練習とかもやったな。都立と私立二つ受験して両方合格し都立を選んだ。工業高校で一番トップの高校だった。

No.175

太陽にほえろ

確か始まったのは72年。僕は小6の時だ。マカロニ、ジーパン、テキサス、ボン、ロッキー、スコッチ 見てたのはこの辺までかな。80年代に入る前くらいかな。あとは殉職シーンとか見たかな。
最初の頃の新人刑事の名前はみんなジュンって名前だった。何故お茶汲みの女の子がいたのか不思議。最初は飛び出せ青春に出てた青木なんとかって女の子
それから関根惠子、木村なんとか
中3の時に太陽にほえろのレコード買った。20曲ぐらい入っていた。それから20年以上たって完全サントラCDを買っ
た。ドラマで使われたすべての曲が入っていて2枚組CDが3こあった。

No.174

俺たちの旅

中村雅俊主演の俺たちの旅は、75年の秋から始まった。前の年に、われら青春で初めて中村雅俊を知った。はじめは変な顔って思ったけど、後にカッコいいって思うようになった。俺たちの旅は主題歌がよかった。エンディング曲の ただお前がいい はもっとよかった。どちらも小椋佳の曲だ。この頃から小椋佳が注目され始めた。この年のレコード大賞は布施明のシクラメンのかほり この曲も小椋佳だ。そしてドラマの音楽、この頃からトランザムが多くなった。井上バンドとトランザムの音楽が目立った。
70年代はドラマやバラエティーでヌードは当たり前のようにあった。俺たちの旅でも金沢碧のヌードが見られる。
後に中村雅俊の生徒役だった清水博昭が同じ大学の後輩役、松田優作の探偵物語で刑事役だった山西道博も大学生役だった。

No.173

4曲入りレコード

70年代の頃、4曲入りのEP盤があり、お得感がありよく買った。ビートルズも初期の曲で何か買ったけど忘れた。
マカロニウエスタンの4曲入り確か、星空の用心棒、ガンマン無頼 あとは忘れた。レッドサンと他3曲何だっけな?
友達が太陽にほえろの4曲入り持ってて借りて録音したな。メインテーマ、愛のテーマ、青春のテーマ、追跡のテーマ
みんなに人気があったのはジーパン刑事の青春のテーマだった。追跡のテーマも人気あった。

No.172

修学旅行

中学の修学旅行は、中3の秋に京都へ行った。確か3泊4日の日程だったと思う。旅行に行く前にもらった京都までの道中のガイドブック的な本が好きだった。途中の新幹線からの車窓を写真と説明文があって、京都と奈良の神社仏閣や観光地など詳しく書かれていて、この本をいつのまにか棄ててしまった事を悔やんだ。
東京駅集合だったか忘れたけど、こだまで米原まで行った。新幹線はこの時初めて乗った。米原から琵琶湖を通り比叡山延暦寺へ。その後大徳寺大仙院へ行き、そして宿へ。三条大橋の近く鴨川沿いの宿だった。京都は金閣寺、清水寺、平安神宮、三十三間堂 二条城は行ったかな?奈良に行く途中で平等院、奈良は法隆寺、薬師寺、東大寺、春日大社
奈良は1日で回れたのか?それとも2日行ったのか?覚えてないが、京都から往復だからな~おみやげも何を買ったか覚えていない。旅行に行く前にカメラを借りたな。ハーフサイズで倍撮れるカメラだった。

No.171

ビートルズ!

昔は国によってレコードが違っていた。
今では全世界同時発売とか当たり前だが
一部そうでない国もあるが
60~70年代、ビートルズやローリングストーンズは、UK盤、USA盤と同時期の発売なのにタイトル、曲目、ジャケットと違っていた。ビートルズは日本盤もあった。オリジナルはUK盤。でも日本盤はアルバムには入っていないシングルヒットが全曲入っていたので一番魅力的だった。日本盤のビートルズ!は抱きしめたいやシーラブズユーが入っていた。
日本盤にはビートルズNo.2、ビートルズNo.5があり、No.5にはドイツ語の抱きしめたいなど入っていた。

No.170

パセリ・セージ・ローズマリー&タイム

次に買ったサイモン&ガーファンクルの
アルバム。これは名盤だ。すべての曲がいい。スカボローフェアはもちろん、夢の中の世界、エミリーエミリーが特に好きだ。アルバムの完成度では明日に架ける橋が最高傑作だが、10代の頃はこのアルバムが一番好きだった。

No.169

卒業

サイモン&ガーファンクルのレコードを買おうと思って何にしようか悩んだ末に買ったのが 卒業 だった。
同時持っていたのは、以前2枚組のベスト盤を録音したテープと、シングル盤の明日に架ける橋とコンドルは飛んで行くだけで、LPが欲しくなり卒業を買った。何故卒業にしたか、知らない曲ばかりだったから。それもそのはず、映画のサントラ盤だから、サイモン&ガーファンクル以外の劇中の音楽が大半を占めていて聴いてがっかりしたのだった。全曲サイモン&サンシャインだと思って買ったのである。サイモン&ガーファンクルの曲も映画用のショートバージョンだったり、買う前と後の落差が大きかった。

No.168

ギター

家には父親のクラシックギターがあり、たまに弾いていた。弾くっていっても単音でメロディを弾くぐらいしかできなかった。学校でギターが流行りはじめ、教師もギターを持ち込み授業中に弾いたりしていた。エレキギターが欲しくなり、ちょうど親戚のおじさんからエレキギターを貰えた。この頃はアンプもなくラジカセにつないで弾いていた。
高校に入る前にアコギを買ってもらう。
モーリスの18000円のギターだった。

No.167

ソウルミュージック

74~76年頃ソウルミュージックが流行った。まず73年にスティービーワンダーの迷信やコモドアーズのマシンガンがヒットして、翌年ぐらいからオージェイズ、ヴァンマッコイ、スタイリスティックス、スリーディグリーズなど多くのヒットがあった。ハッスル、愛がすべて、
チャイニーズカンフー、セクシーバスストップ、レコードの解説とか書いてある場所に踊りのステップの解説も書いてあった。75年にはKC&サンシャインバンドのザッツ・ザ・ウェイ、スリーディグリーズの天使のささやきなどヒットした。
76年以降は運命76、ソウルドラキュラ、ソウルフランケンシュタインなんていうのもあった。恋は火の鳥/5000ボルトはもうちょっと前だったかな?

No.166

アメリカンクラッカー

アメリカンクラッカーが流行ったのは小4の頃だから1970年頃かな。
僕らの間では、カチカチクラッカーって呼んでいた。僕も買ったのか、もらったのか覚えてないが持っていたが、ブームはすぐ去り半年ぐらいで誰かにあげたのかな?
ペプシコーラかコカ・コーラでもらったやつで、5センチぐらいのコーラの瓶の形で中に紐が通っていて、吹きかけると紐がくるくる回るやつがあった。
四角いカードみたいなのを角を指で挟み吹きかけると回るのもあったな。

No.165

カルピス

小学生の頃によく飲んだカルピス
家にはお中元でもらったカルピスがあった。どこかの家にお邪魔して出された飲み物たいがいカルピスだった。
瓶に入ったカルピス。カルピスの原液だからコップの4分の1ぐらいカルピスを入れて水で割って飲む。だから毎回味が違うし水道水で割って飲んでたから、20数年後にカルピスウォーターを飲んだ時は、うめえって思った。
昔はカルピスのグラスもあった。黒い女の子の絵がついたグラスだった。
小3ぐらいの頃、オズモンドブラザースがCMに出てた。その後は中原ひとみファミリーがCMに出ていた。

No.164

ゴリラ

またまた小学生の頃に戻ってしまうが
小6の時だったかな?
明治製菓でゴリラのぬいぐるみがあった。「俺、社長の息子」とか言ってCMにも出てた。チョコレートとかに付いてた応募券か何か送って抽選で、そのゴリラのぬいぐるみが当たるってやつで、当時はすごい人気で、僕も応募したけど当たらなかった。

No.163

プラモデル

プラモデルは小学生の頃から好きでよく作っていた。田宮の軍艦や戦車とか
中2の時は友達の家に集まってプラモデルを作った。全員が戦闘機を作っていた。プラカラーを塗り、部品が付いてた側を火で炙り伸ばしてアンテナを作った。よく行ってたプラモデル屋は駄菓子屋に行くような感じで毎日のように行っていた。

No.162

Gパン

小中学校の時はGパンが流行った。ベルボトムの事をラッパと言った。やれエドウィンだ、ビッグジョンだ、ボブソンだなど言いつつ何故かリーバイスとリーは出なかった。
僕は中2~中3の頃、黒のスリムをよく履いていた。この頃カラージーンズでスリムが流行った。
僕がスリムを履いてると、近所のおじさんはマンボズボンかって言っていた。

No.161

中学の遠足

1年の時は確か筑波山だったかな?
2年の時は三浦半島の荒崎だった。
3年の時は思い出せない。バスな中で話した内容とかは覚えているのに、何処に行ったか覚えていない。首都高を走ったのは覚えている。そうだ、思いだした。
多摩動物園だ。

No.160

カレースタンド

中2~中3の頃、金町の公団の近くにあったカレースタンドでカレーをよく食べた。本当の店名は知らない。僕達はカレースタンドと呼んでいた。カウンターだけの小さな店で、ビーフ、ポーク、チキン、エビ、エッグなどの種類があって、
300円ぐらいの値段だった。
僕が高校生ぐらいの時はもうその店はなかったような気がする。
その後はスナックになっていた。

No.159



バスケをやるようになって足も早くなったのと、もちろん運動神経もよくなり、そして背も伸びた。小学校の卒業アルバムに自分の身長は153センチと書いてあった。中2になって173センチになる。
2年間で20センチ伸びたわけだ。
顔もニキビ面になった。

No.158

土曜映画劇場

中2の頃、土曜映画劇場のエンディングテーマ曲いいなって、よく友達と話した。この頃は何ていう曲かわからず、今みたいに簡単に調べる事もできなかった。その曲の題名がわかるまで5年ぐらいかかった。というかすっかり忘れていてあるレコードを買って聴いたらその曲があった。
そのレコードは、富田勲の惑星。
惑星の中の木星。僕が17~18歳ぐらいの頃、シンセサイザーミュージックが流行り始め、富田勲がその筆頭だった。
そしてその頃大好評だった惑星のレコードを買った。ロケット発射のカウントダウンから発射音すべてシンセサイザーの音。当時はアナログ時代たから驚異の世界だった。その時オルゴールみたいな音であの曲が流れた。あれ、この曲・・・
そして木星の途中でもまたあの曲が
あの大好きだった土曜映画劇場のエンディング曲が甦った。待てよ、待てよ
そしてちゃんとクラシックの曲として聴いてみたくなった。
そして買ったのが
カラヤン指揮ベルリンフィルの
惑星
そこにはあの美しい木星があった。

それから30数年たってジュピターのヒットがある。

No.157

モデルガン

中1~2の頃、モデルガンが流行った。
マカロニウエスタンが好きだったから、僕が持ってたのは、コルトフロンティアだった。薬莢に平玉の火薬を詰めて撃ち合いごっことかした。
上野にMGCというモデルガンショップがあってよく行った。
持ってたコルトフロンティアも中3の時には、もうなかった。誰かにあげたのか売ったのかぜんぜん記憶にない。

No.156

上越線

中2の夏休みに母の実家の能登に行く時に乗ったのが、特急白山だった。
はくたかが信越本線経由だったのに対し、白山は上越線経由だった。
初めて群馬から谷川連峰を越えて新潟県へ。信越本線だと直江津から北陸本線へ入ったが、白山は柏崎から入った。
この頃、駅弁の富山のますのすしを食べるのが楽しみだった。箱を抑える竹を持ち帰った。

No.155

水戸黄門

小中学生の頃は、水戸黄門をよく見ていた。月曜日の夜8時からの放送で、ナショナルが提供だった。僕が見ていた頃の光國は、東野栄治郎、その後に西村晃でそれ以降は見ていない。助さんは里見浩太朗、あおい輝彦。 格さんは横内正、大和田伸也。風車の弥七とお新も最初は光國の命を狙っていたが、改心して一緒に旅をするようになった。
悪役の刺客に天津敏や成田三樹夫がいた。
水戸黄門と交互に大岡越前をやっていた。その後に江戸を斬るもあった。

No.154

謎の円盤UFO

僕が小学生の時に放送されていた海外ドラマだ。残念ながら一度も見たことがない。家にはテレビが一台しかない時代。
親が違う番組を見ていて見れなかった。
クラスでは見てる奴が多くて、翌日はその話題で持ちきりだった。だから見てないのに、ムーンベースやインターセプターなどの名称を知っていた。
再放送もやった記憶がないし、レンタルビデオ全盛の頃にもビデオ屋になくて、見たかったのに、いまだに見ていない。

No.153

カンフー映画

ブルース・リーの人気でカンフー映画が流行ったのは、74年の始めの頃で、俺は中1の終わりの頃だ。
もうブルース・リーは亡くなっていたし、まだ映画も見たことがなかった。
ちょっと前に燃えよカンフーという、デヴィッド・キャラダイン主演のドラマを見ていた。アメリカのカンフードラマだった。
初めてカンフー映画を見たのは、3時のロードショーで、復讐のドラゴンというのを見た。香港のB級カンフー映画だ。
だいたいカンフー映画はB級映画だった。タイトルもマカロニウエスタンみたいなタイトルが多かった。
この頃唯一名作だったのは、燃えよドラゴンぐらいだ。ブルース・リーもこの映画だけアメリカ制作で後は香港映画だった。ジャッキーチェンのヒット作品もまだ5年後だし、その後に少林寺などあった。

No.152

ジョギング

バスケをやるようになってから、足が速くなった。でもとちらかというと短距離より長距離の方が得意だったからマラソンが好きだった。1500メートル走ではクラスで一番になり、体育祭では選手に選ばれ、2000メートル走で全校6位だった。上級生には勝てなかった。
よく自宅から水元公園までジョギングをした。

No.151

海外アニメ

昔は海外アニメも多かった。
夏休みの午前中とかに、チキチキマシン猛レース、キングコング、トムとジェリー、トムとチャック、シンドバットの冒険などよく見ていた。
そして東京12チャンネル
夕方6時、他の放送局はニュースなどやってる中、12チャンネルはアニメを放送していた。まんがの国という番組の中にいろんな海外アニメがあった。亀の腹に電話があって、事件が起きると、突貫進めーって言って事件を解決する。
動物園のワニのワーリーと飼育員の話
スーパー3、ぼよよんのコイル、バラバラのマイク、スイスイの何だったかな?
それから人間と恐竜達のアニメで、ヒューヒューポーポー?とかっていた
そういえばNHKは夕方6時に人形劇やってたな。

No.150

海外ドラマ

僕が小学生の頃、両親はよく海外ドラマを見ていた。
スパイ大作戦、ベンケーシー、逃亡者
僕は、名犬ラッシー、わんぱくフリッパー、奥様は魔女などよく見ていた。
奥様は魔女は、観客の笑い声が入っていた。これは後にドリフ大爆笑などに使われるよぅになる。
ルーシーショーは見たことないが、続編のアイ・ラブ・ルーシーは見ていた。
土曜の夕方6時、同じ時刻に海外ドラマが放送されていた。
ニューヨークパパ、パパと3人娘
僕はニューヨークパパをメインで見て、たまにパパと3人娘も見ていた。

No.149

かぐや姫

中1だった73年
かぐや姫の神田川がヒットした。
当時は4畳半フォークと言われた。
神田川の次の赤ちょうちん、妹もヒットした。歌謡曲以外のフォークなど聴くのがカッコいい時代だった。吉田拓郎とか。ガロも前の年に学生街の喫茶店がヒットした。73年はチューリップも心の旅がヒットした。
南こうせつは、僕が小4の時に全日本歌謡選手権で初期のかぐや姫メンバーで歌ってる姿を初めて見た。この番組は10週勝ち抜くとプロになれる番組で、五木ひろしや八代亜紀が勝ち抜いている。
かぐや姫は4週勝ち抜いてから翌週から出なくなってしまった。僕は最初の時から南こうせつが好きだったから残念だった。翌年の71年にアニメの海のトリトンのエンディング曲を女性歌手と歌って出演もしていた。この女性は後にウィークエンダーのリポーターで人気になった須藤?でした。

No.148

ヤングおー!おー!

小6の頃、日曜の夕方6時に見ていた番組。関西の番組、日清食品提供で東京12チャンネルで放送されていた。
カップヌードルもこの番組でより有名になった。司会は桂三枝
文珍、八方、きん枝、小染のパンダが人気があった。後に売れる前のさんまもレギュラーになった。

No.147

ラブレターと交換日記

50年以上前は、好きな人に告白するのに手紙を書いたりした。僕は小5の時に同じクラスの隣の席の女の子が好きで好きで、思いきって手紙を書いて渡した。
相手も僕の事を好きだとすぐ返事をくれた。だからつきあうとか何もなかったが
中1の時に隣のクラスの女の子からラブレターをもらった。同じクラスの女子は2年になった時に別のクラスになりラブレターをもらい、僕もその子が好きだったから、その後交換日記をするようになった。何を書いてたのかは覚えていない。当時は携帯も何もない時代。
家の電話で好きな子の家に電話かけると、父親が出て間違い電話のフリして
きっちゃった事とかあった。

No.146

CB無線

中1から中2の頃、友達に影響されてCB無線をやっていた。僕のはトランシーバー型の無線機でベランダに同軸ケーブルを張りアンテナにしていた。
チャンネルも2チャンネルで受信範囲も5kmもなかったから交信する相手も少なかった。それでも交信した相手のことをノートに記入したりした。友人達は本格的に23チャンネルの無線機に八木アンテナなど設置して羨ましかった。
僕もアンテナを譲り受け屋上に設置したが、設置の状態が悪く危険なのですぐに外してしまった。それからだんだん飽きてきてやめてしまった。

この頃、よく秋葉原に行き、ラジオの部品とか売ってる小さな店が集まってる所に行って、碍子や同軸ケーブルなど買いに行った。

No.145

マカロニウエスタン

僕らの少年時代は、マカロニウエスタンが好きな少年が多かった。
僕は中1から高校に入るくらいまで、マカロニウエスタンにハマり、特に曲にハマりサントラ盤も何枚か買った。
映画の方は、クリント・イーストウッド、ジュリアーノ・ジェンマ、フランコ・ネロがマカロニ三大スターで、後に僕はリー・バン・クリーフが好きだった。タイトルが荒野の○○、夕陽の○○、用心棒、ガンマン、一匹狼、無頼
配給会社で用心棒だったり、ガンマンというタイトルを付けていたようだ。
それから荒野の用心棒と続荒野の用心棒はいっさい関係がない。
むしろ荒野の用心棒の原題が、ひとにぎりの金貨のために、夕陽のガンマンの原題が、もうひとにぎりの金貨のために
どちらもイーストウッド、セルジオ・レオーネ監督、音楽エンニオ・モリコーネで関連がある。
なにしろ関係ないのに、続と新がつくタイトルが多かった。
マカロニウエスタンの魅力は音楽だった。特にモリコーネの音楽は素晴らしかった。ギター、口笛、トランペット、コーラスの使い方が見事としか云えない。モリコーネには、ペイネ愛の世界
ニューシネマパラダイスなど素晴らしい曲が多い。 

No.144

立ち食いそば屋

小6から中学の頃
たまに立ち食いそばを食べにいった。
金町の北口をヨーカドーの方に向かって右の路地に入った所にあった。
この頃、かけそば一杯100円ぐらいだった。
老夫婦がやってたから、僕が18ぐらいの時には、もうお店はなかったような気がする。
この近くに文房具屋をやってる友達の家があったが今はなくなっていた。
ラジカセを買ってもらった電気屋も今はない。

No.143

リボルバー

ビートルズで青盤の次に買ったLPが
リボルバーだった。
青盤はベストアルバムなので、普通のアルバムを買うのはリボルバーが最初。
何故、リボルバーにしたのかは・・・
一番知らない曲が多かったから
たぶんこの当時知ってる曲は
イエローサブマリンとエリナーリグビーだけ
アルバムは、めちゃめちゃ気に入ったけど、アバンギャルドっていうか、実験的な曲のトゥモローネバーノウズの良さはこの頃まだわからなかった。

No.142

テレビ局

いつ変わったのかは忘れたが
テレ朝は以前は、NETテレビという名称でチャンネルは10だった。
テレ東は東京12チャンネル
フジテレビはお台場にできたのは、97年頃で、それ以前は新宿区河田町
六本木ヒルズのけやき坂を上った上の通りをテレ朝通りといった。広尾に向かうと有栖川宮記念公園がある。

No.141

映画劇場

中1の頃から映画にハマり毎日のようにテレビの映画劇場を見るようになった。
70年代ゴールデンてやってた映画劇場は必ず解説者がいた。
日曜映画劇場 淀川長治 
月曜ロードショー 荻昌治 
水曜ロードショー 水野晴郎
木曜映画劇場 途中から女性の解説者
ゴールデン映画劇場 高島忠夫
土曜映画劇場 増田貴光→筈見?

水曜ロードショーは金曜ロードショーになった
土曜映画劇場はこの頃90分枠で、荒野の七人や大脱走は2回に分けて放送さ、れた。
3時のロードショー?だったかな?
よくマカロニウエスタンやカンフー映画のB級作品を放送していた。

No.140

アラン・ドロンとブロンソン

70年代始め
アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンの人気は凄かった。
ブロンソンのCMマンダムが特に人気があり、あごに手をあててる奴がいたら、
ウーン、マンダムって言っていた。
アラン・ドロンのCMは、もうちょっと後にレナウンのダーバンがあった。
ふたりの映画を初めて見たのは、中1の終わりの頃だったと思う。
ブロンソンは、荒野の七人、大脱走を夢中になって見た。
アラン・ドロンはボルサリーノや太陽がいっぱいとか見たかな。
レイモンド・ラブロックという若い俳優が凄く人気があったけど、日本だけの人気だったのかすぐに忘れられた。

No.139

ラジオ体操

朝、ラジオ体操をしてたのって
小学生の時だけかな?
中学になってからは一度もやってないかな?
小学生の時はカードに毎回スタンプを押してもらい、皆勤賞は何かもらえたのかな?
小6の夏休みは、グループのリーダーで毎朝、ラジオを持って行った。

No.138

電車カラー

昔の電車の色
例えば今の山手線の色は
シルバーに黄緑だけど
昔は黄緑一色だった。
京浜東北線は水色一色
総武線は黄色一色
中央線はオレンジ一色
常磐線快速は緑一色
常磐快速は千代田線ができる前は
快速ではなく、色もチョコレート色だった。
そして僕が小学生の頃の山手線は
黄緑と黄色の2種類あった。
では総武線は?
やっぱり黄色だったと思う。
この頃中距離電車は
オレンジと緑、よく湘南電車と呼ばれた。
横須賀線などに使われた白と青
常磐線で使われたピンク色は赤電と呼ばれてた。その後は白電。
特急は赤とベージュ ひばり、ときなど
前が長いタイプと前が垂直のタイプがあった。
はつかりなどの青とベージュのタイプ
気道車の車両は赤とベージュだった。

No.137

ルパン三世

またまた小6の時に戻るが
小6の終わり頃、ルパン三世を夢中になって見ていた。でもそれは再放送で土曜日の夕方に放送されたのを見ていた。たぶんその半年くらい前に放送されたと思う。その時はあまり評判にならなかったような気がする。そして再放送で初めて見た。僕は後にも先にもルパン三世は、第一シリーズが好きだ。曲も最高だ。
五右衛門の声優もこの時の大塚周夫が一番いい。第一シリーズだけ全曲入ったサントラCDがあり持っている。

No.136

アイドル

中1の頃(73年)のアイドル
天地真理は、前年に比べ人気が落ち始めたようだ。この年の新人賞は桜田淳子、浅田美代子、アグネス・チャン
あべ静江、安西マリアで最優秀新人賞を取ったのは桜田淳子だった。
男性アイドルは、郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の新御三家。フィンガー5もこの頃、山口百恵もこの年デビューだけどヒット曲は翌年になってから

この年は麻丘めぐみが好きだった。

No.135

73年洋楽

73年の洋楽で一番印象に残ってる曲は
カーリー・サイモンのうつろな愛
あとは
ポール・マッカートニーのマイ・ラブ
エルトン・ジョンのダニエル
グランドファンクのアメリカンバンド
当時は中1、こずかいも少ないからなかなかレコードなど買えない。
お金をためて買うのもビートルズ優先だった。

No.134

石立鉄男

71年~78年頃まで
石立鉄男のドラマをよく見ていた。 
最初は、奥様は18歳
その後は同じ日テレのシリーズで
おひかえあそばせ
気になる嫁さん
パパと呼ばないで
雑居時代
水もれ甲介
気まぐれ天使
気まぐれ本格派

TBSの大映ドラマシリーズなどから、脇役で悪役とか多くなった。

No.133

行動範囲

中学に入ってから行動範囲が増えた。他の小学校から来た子達の住んでる方とか、今まで行った事のない場所も行くようになった。葛飾区の北部は陸の孤島で、50年以上前なんて茅葺きの屋根の家とかあった。葛飾清掃工場のまわりは沼や畑がいっぱいあった。埼玉県の八潮から来てる子もいて、遊びに行ったら実家が養鶏場だった。50年以上前の八潮や三郷は、舗装されてない道も多かった。

No.132

ビートルズ

中1の夏頃
ビートルズの2枚組LP1967~1970を買った。いわゆる青盤だ。
毎日夢中になって聴いた。初めて買ったビートルズのLPレコード。レット・イット・ビーとヘイジュードぐらいしか知らなかったから、どれもいい曲で感動した。レコードを聴きながら何度もジャケットを見たり中の写真を見たりライナーを読んだり。この頃のLPって中にいっぱい写真があったり、アルバム紹介があったり、中にはポスターが入ってたりして豪華だった。

No.131

ハンドル

やはり小6の時の話だが
友人達の間で自転車の変形ハンドルが流行った。僕は別に興味なかったが、やっぱり友人達と行動するのが好きだから、ハンドルを探しに松戸や四つ木の方の自転車屋まで自転車に乗って探しに行った。変形ハンドルはU地型のカマキリみたいなハンドルで、どこにも売ってなかった。ある友人は自分で変形にしてる子もいた。パイプ2本を使い絞りこんで形を変えていた。ハンドルがつぶれないようハンドルの中に砂を入れていた。
ある友人はイージーライターのチョッパーに改造してる子もいた。
僕は自転車の後ろのフレームに緑と赤のランプをつけた。

No.130

土器

またまた小6の時の話を思いだした。
土器を見つけに松戸の矢切に行った事がある。友人達に誘われて行ったのだが、僕は一回行っただけだが、友人達は何度も行ってたのだろうか?それまでは友人達が土器を掘りに行ってる事など知らなかった。僕は友人達と行動するのが好きだから、つきあいで行ったけど土器には興味はなかった。矢切は市川の方まで高台になっていて、たぶん上矢切あたりの山の下あたりの土を堀ったと思う。

No.129

パンフレット

またまた話が小6の時に戻りますが
忘れていた記憶、思いだしたりするので

小6の冬ぐらいの頃、自動車メーカーのショールームに自動車のパンフレットをよく貰いに行った。水戸街道沿いにショールームが多く自転車で金町から青戸あたりまで行ってたかかな?
トヨタ、日産、三菱、マツダ、いすゞ
1972年の事なので、ケンメリのスカイラインのパンフレットもあった。
たぶん一年もしないうちに棄てちゃったと思う。ケンメリのパンフレットだいぶ価値があったのでは?

No.128

田舎

中1の夏休み
田舎へ。母の実家の能登に行った。
東京から行くのは小4以来だ。その間は青森からだったから。上野から初めての特急はくたか。以前は夜行の急行で通路に新聞を引いて寝る人や、網棚に寝る人もいた。特急はくたかは信越本線経由。
初めて昼間の景色を味わえた。夜行の時は埼玉県から新潟県ぐらいまでは寝ていたから。この時はいとこ夫妻とその友人の女性2人も一緒だった。田舎は民宿をやっていたが、この時は客を取らなかったような気がする。祖父もバンガローの
管理人をやめていた。この頃から金沢から特急バスで行き、途中で普通バスに乗り換えてたのかな?

No.127

ヤングタウン東京

小6から中1ぐらいまで、ラジオ番組
ヤングタウン東京 桂三枝の大放送をよく聴いていた。土曜の夜10時ぐらいだったかな?たしかTBSラジオだったと思う。アシスタントにマリ・クリスチーヌと杉田二郎。杉田二郎のコーナーにまだ売れる前のオフコースがよく出演していた。小田和正と鈴木康弘のデュオで、僕の贈り物、でももう花はいらない など歌っていた。僕の贈り物の最初のコーラスの部分は、この後、日清?のCMで使われていた。

No.126

バスケ

3歳年上のいとこの影響で、バスケ部に入部した。○○のいとこといとことで注された。3年間頑張ったが、高校の時はやらなかった。

No.125

親友

中学に入って最初に友達になったU君。
彼には高校生の兄がいたから、洋楽のレコードもいっぱい持っていてかなり影響を受けた。U君の家に遊びに行くと、U君の兄貴がバンドの練習をしていた。
クリームのサンシャインラブをよく演奏していたが、その曲は誰の何ていう曲か知らなかった。だいぶ後になってラジオで聴き、あっあの時の曲だって思った。
そういう曲の巡り合わせって、この後たびたびある。
中1の俺たち。俺はビートルズに夢中だった。でもU君はサンタナとかエマーソン・レイク&パーマーとか聴いていた。
サンタナのしかも魂の兄弟という、かなりジャズっぽいスピリチュアルなアルバムを聴いていた。中学1年で・・・
でも俺といる時は一緒にビートルズを聴いてくれた。

No.124

ピッグ

話を遡るが、GS(グループサウンズ)が流行ったのは、67~68年頃だから僕は小1~小2ぐらいだった。タイガース、テンプターズ、スパイダース、ブルーコメッツ、ワイルドワンズなどなど
ヒット曲の大半はGSだった。
話題もGS中心だったような気がする。
この頃の自分写真で、しゃがんで指を指す写真、よくジュリーのポーズだって言われた。近所のお姉ちゃんとの会話で、タイガースで誰が一番好き?とか
そんなGSブームも後期にはサイケだったり、洋楽志向だったりと陰りが見え始める。71年頃だったかな?GS残党組の
ピッグとうバンドがあった。タイガース、テンプターズ、スパイダースのメンバーが集まったバンドだ。沢田研二と萩原健一が組んだバンドだったが売れなかった。でも沢田研二の歌はよかった。何より声がいい。花・太陽・雨は名曲だ。
帰ってきたウルトラマンで流れて、曲の良さに感動した。僕は約30年後にピッグのCDを買った。あらためて花・太陽・雨にシビれた。でもショーケンの良さは伝わらなかった。その他の曲で、この後、太陽にほえろなどドラマの曲でブレイクする井上バンド。大野のハモンドオルガンが既に、太陽にほえろっぱかった。

No.123

洋楽

ラジオを聴くようになり、洋楽のヒット曲を耳にするようになった。この頃72~73年は、ミッシェル・ポルナレフが人気あった。フレンチポップと呼ばれていて、シェリーに口づけ、愛の休日などヒット曲があった。僕はエルトン・ジョンやカーペンターズ、ギルバート・オサリバンなど好きだった。ビートルズ解散後のそれぞれのソロになってからのヒット曲はもちろん大好きだった。グランドファンクのアメリカンバンドもカッコよくて好きだった。ポールサイモンの母と子の絆のイントロが、ちあきなおみの喝采に似ていて、友達をよくだました。
ラジオでは、シングル盤のヒット曲を中心に流していたから、いわゆるロック名盤 ジミヘンやツェッペリン、キングクリムゾンなどはずーっと後になるまで聴かなかった。

No.122

ラジオ

ラジカセを買ってもらってからは、ラジオをよく聴くようになった。みのもんたは文化放送、久米宏、小島一慶はTBSラジオ、まだテレビには出ていなかった。
みのもんたのワイドNo.1でよくビートルズ特集をやっていた。日曜の朝、久米宏と小島一慶が洋楽と邦楽で競う番組があってよく聴いていた。
まだ中1ぐらいの頃は、深夜放送は聴いていなかったかな

No.121

ローラースケート

僕はローラースケートは、ほとんどしたことない。小学生の頃、近所の子供のローラースケートを借りて何回かやったぐらい。その頃のローラースケートは、靴と一体化したのではなく、自分の靴にベルトで止めるやつだった。ガチャガチャうるさくて、昔はコンクリートもでこぼこしてたから、滑りにくくてただまっすぐ滑ってちょっとターンするぐらいだった。

No.120

中学

1973年
昭和48年4月
中学に入学
中学は小学校3校から集まっていたから
小学校の時は、1学年3クラスから、中学では1学年9クラスあった。
違う小学校から来た生徒は新鮮な感じがした。かわいい女子もいたし

No.119

万年筆

中学に入る前に万年筆を買ってもらった。確かセーラーの万年筆だったと思う。しばらくしていとこからパーカーの万年筆をもらい、その万年筆が気に入りメインで使っていた。高校生になっても使っていた。やがて万年筆は使わなくなり、いつのまにかなくなってしまう。今の子は万年筆など使わないから、万年筆の需要ってどれくらいなのか、僕らの子供の頃は、ほとんど皆持っていたから

No.118

卒業式

小学校の卒業式、あんまり覚えてない。
女子たちが泣いてたような記憶がある。
卒業制作でタイルを作ったのを覚えてる。卒業アルバムに載せる集合写真を撮った時の事も覚えてる。

No.117

シカゴ

もう一枚、小6の終わり頃持ってたレコード
シカゴ クエスチョン67/68
日本語バージョンだった。
これも誰かにもらって中学の時に誰かにあげてしまったレコード
ピーターセテラが日本語で歌うバージョン  たいへん貴重で価値のあるレコード 今までCD化されてるかわからないけどYouTubeでは聴くことができる。

No.116

レコードマンスリー

10代の頃、レコードを買うとレコードマンスリーなる小冊子をくれた。新譜情報やアーティストの活動情報など細かく載っていた。他にもレコード会社のアーティスト別にレコードの解説など載っている小冊子などもくれた。CBSソニーの小冊子は特にお気に入りだった。まだ聴いたことのないサンタナやシカゴなど、レコードジャケットや解説にワクワクした。だから聴いたことはないけど生意気は知ってるアーティストはいっぱいいた。小学生の僕には、大いに参考になった。

No.115

レコード

小6の終わり頃に買ったレコード
ショッキングブルー
   悲しき鉄道員
   ヴィーナス
フィフス・ディメンション
   輝く星座
その他に誰かに貰ったレコードで
スリードックナイト
   オールドファッションド・ラブソング
カーペンターズ
   スーパースター
家にあったレコード
ビートルズ
   ヘルプ
   ロックンロール・ミュージック
このビートルズの2枚のシングル盤
ODEON盤で定価も370円の表記が
リアルタイムで買った物ではないか?
すごい価値のあるレコードだったかもしれない。残念ながら中学の時に誰かにあげてしまった。

No.114

ローラーサーフィン

小6の冬の頃、何人かの友達でローラーサーフィンか流行った。
ローラーサーフィン
スケボーの事で、当時はローラーサーフィンとかサーフローラーっていった。
ただ坂道を滑って、ターンするだけだったけど面白かった。
買った記憶もないし、貰った記憶もない。どうやって手に入れたのだろう。
中学入学前には、もうやらなくなっていたと思う。

No.113



小6の頃、ストライプ柄のズボンをよく履いてた記憶がある。あとは普通の格好だったな。だいたい親が買う服を着てた。でもこの頃の男子って皆、野球帽かぶってたな。ジャイアンツのワッペンカッコ悪いからって、タイガースのワッペンに付け変えてる奴もいた。

No.112

ゲバゲバ90分

70年頃、僕が小4の頃
ゲバゲバ90分っていうバラエティ番組があった。大橋巨泉と前田武彦が司会で、ハナ肇や宍戸錠、藤村俊二などいた。
ショートコントが多く、ここで生まれたコントに、あっと驚くタメ五郎があった。短縮版のゲバゲバ30分もあった。

No.111

ペナント

小3ぐらいから小6ぐらいまでペナントを集めた。壁にななめに貼ったり天井にも貼ったかな 20枚近く集めたかな
ほとんど観光地だった。十和田湖とか
兼六園とか おみやげでもらったのもあった。小6ぐらいで興味がなくなったのと、アイドルのポスター貼るためはがしてしまう。その後捨てたのかは記憶にない。

No.110

ローラーゲーム

テレ東は、昔は東京12チャンネルという名称だった。昭和48年頃、ローラーゲームという番組が12チャンネルで放送されていた。ローラースケートでリンクをぐるぐるまわり得点をかせぐ、プロレスばりの反則、タックルしあり殴ったりする。東京ボンバースにはササキヨーコというエースがいた。対するチームはニューヨークサンダーバードだったかな?

No.109

ラジカセ

小6の冬の夜、父親に連れられ近所の電気屋に行った。ラジカセを買ってもらえるため。その電気屋は日立の家電を主に扱っていたため、ラジカセも日立だった。本音を言えばソニーのラジカセが欲しかったけど、まー仕方ない笑
最初は、ステレオの前にラジカセを置いて録音した。レコードをかけ録音ボタンを押し音をたてないように静かにしてたが、母親が帰ってきたりしてよく失敗した。そのうちコードを買って録音するようになった。穴の大きさが違うからジャックも買った。それからは録音が楽しくなったが、当時のラジカセはモノラルだったから、ステレオの片方の音が聴こえなかった事がよくあった。
ラジカセでラジオを聴くのも楽しみになった。この頃はラジオドラマもあり、江戸川乱歩の短編のドラマとかあった。提供がオリベッティタイプライターだったというのを覚えてる。

No.108

ジャンケンケンちゃん

今でもよく覚えてるのが、小3ぐらいの時に見たジャンケンケンちゃん。
ケンちゃんの家族で美ヶ原に旅行に行って、地元の少年よったんと出会う。その少年とのふれあいが描かれていた。その後、山の上から見た風景、ケンちゃんがあれなあに?と聞くとお母さんが、東名よと答えた。ケンちゃんは帰りはあれで帰ろうと言ったのを覚えているが、当時は東名高速なんて知らないから、透明?何それって思ったし長野の山の方からいつのまにか愛知か静岡の方に行ったのか今にして思うと不思議だ。まー60年近く前のドラマだから忘れてる方が多いだろうけど
すし屋のケンちゃんだったかな?まんがさんっていう人がいたな。あと江戸家子猫もいた。

No.107

チャコちゃん、ケンちゃん

このシリーズはよく視ていた。
最初はチャコちゃん。たぶんこの時から見ていたと思う。やがてケンちゃんという弟ができた。そしてケンちゃんが主役になってトコちゃんて妹ができた。この頃お母さん役を吉行和子さんが演じていた。やがてケンジという弟ができ、その後二台目ケンちゃんになり、妹にチャコがいた。そしてもう見なくなった。

No.106

禁じられた遊び

小4の時だと思うが、親に欲しいレコードあったら買ってきてあげると言われて
禁じられた遊びと答えた。
ヨーロッパ映画音楽集だったかな?
12曲入りで、禁じられた遊びの他に、太陽がいっぱい、鉄道員などあった。
僕は、汚れなき悪戲と太陽は傷だらけが好きだった。汚れなき悪戲の静かなギターで奏でる曲が好きで、中学の時にサントラ盤を買ったらミュージカル風な曲でがっかりした。

No.105

ヘイジュード

ビートルズのシングル盤を買おうと思いレコード屋に行った。小6の12月か1月頃だったと思う。その頃ビートルズの曲は、レット・イット・ビーとほんのわずかな曲しか知らなかった。だからレコード屋に行ってビートルズのシングル盤をあれやこれや眺め、これにしようと決めたのがヘイジュードだった。もちろん聴いたことはない。さっそく家に帰って聴いてみた。するとその曲は知っていたのである。それはビートルズではなくオーケストラの曲として。確か森光子さんのドラマの曲で、オーケストラにアレンジされた曲として。それがビートルズの聴いてだったとは。なんだか感動した。

No.104

サイモン&ガーファンクル

小6の冬ぐらいから、サイモン&ガーファンクルに夢中になった。クラスの女の子に借りたサイモン&ガーファンクルのすべてという2枚組のベストアルバム
それとビートルズの写真集も貸してくれた。それ以前にサイモン&ガーファンクルの曲を知っていたか覚えてないが、この2枚組のLPレコードにすっかり魅せられてしまった。

No.103

スケート旅行

父の会社は、いろいろイベントがあって年に1回スケート旅行もあって、小6の時と中1の時に参加した。確か河口湖と伊香保のスケートリンクに行ったと思う。
バスに乗って行き50人くらい参加したと思う。

No.102

アイススケート再び

東京に来たら、もうアイススケートは出来ないと思っていたが・・・
同級生の友人で同じ社宅に住んでた子達でスケートをやっていた。そのうちの一人は、スケートを固定する台や砥石を持っていて、スケートに行く前の日によく刃を研いでくれた。
行くのは松戸のサニーランドかスターランドだった。どちらか忘れたけど送迎のバスで、乗客は僕達4人しかいない時に運転手が回り道して、野球バットを作ってる工場の前を通り、長嶋のバットはここで作ってるって教えてくれたのを覚えてる。スケートリンクに小さなフードコートがあり、お金があんまりなかったからご飯に味噌汁だけ注文して食べてたら、犬のエサみたいだねと友達にからかわれたのを覚えてる。
友人達の靴はみなホッケーで、僕だけハーフスピードで、ハーフスピードの男と呼ばれた。

No.101

大晦日

小学生の頃から中学生ぐらいまで
大晦日はレコード大賞を見た後、紅白歌合戦を見るのが楽しみだった。もうこれが決まりみたいに見た。この頃の裏番組は懐メロとかあったぐらいしか覚えてない。紅白を見た後に柴又帝釈天に初詣に行った。夜中に映画をやるのも楽しみだった。

No.100

好きだったタレント

小3ぐらいの時は、ピンキー(今陽子)が好きだった。ピンキーとキラーズがサイケ模様のバスに乗って旅しながら事件に巻き込まれたり活躍するドラマを見てから、
小4の時は、奥様は18歳の岡崎友紀さん
小5の時は、森田健作さん
小6の時は、天地真理さん
初めて買ったLPレコードが天地真理さんのベスト版だった。平凡、明星、近代映画といった芸能雑誌に付いていたポスターを貼り、不二家メロディというチョコレートで貰えた写真スタンドを飾っていた。でも1年ぐらいで熱は覚めみんな棄ててしまった。

No.99

木下恵介アワー

小学生の頃、木下恵介アワーというのがあった。脚本家の名前なのか 30分物のホームドラマだった。
おやじ太鼓、三人家族、二人の世界
あおい輝彦さんがよく出ていて、主題歌も歌っていた。
中学の時に 思い橋 というドラマがあり主題歌が好きだった。去年再放送されていて50年ぶりで見た。内容は初めて見るぐらい記憶になかった。

No.98

ホームドラマ

やはり母親が見てたから一緒に見てたと思う。肝っ玉かあさん、つくし誰の子、ありがとう
京塚昌子さん、池内淳子さん、森光子さんなど主役は、お母さんが多かった。
出てる俳優も同じ人が多かった。
相良直美さんや沢田雅美さん、岡本信人さんなどはよく出ていた。
ありがとうは好きだったな

No.97

朝ドラ

母親が朝ドラを欠かさず見ていたから、一緒に見ていたけど、記憶に残る一番古い作品は、おはなはん ではないか?
でも僕はまだ4~5歳だからほとんど覚えてない。次の 旅路 はなんとなく覚えてる。それ以降もなんとなく見ていたが、学校がある時は見ていない。夏休みとかしか見れなかったと思う。中学ぐらいまではなんとなく見ていたが、それ以降はまったく見なくなった。でも今何を放送してるか、タイトルとかは知っていた。20何年たって、98年の 天うらら から再び見るようになった。

No.96

社会科見学

小学生の時、遠足の他に社会科見学があった。2~4年生の時に金町消防署、森永乳業、野田キッコーマン醤油に行った。金町消防署は徒歩で行ったのか記憶にないけど、火の見櫓に登ったのを覚えてる。森永の工場見学では牛乳を飲んだ。キッコーマンの工場見学の後に清水公園に行ったような気がする。
6年生の時は、九段にある科学技術館に行った。それとは別に日生劇場で人形劇を見た。

No.95

子供料金

小学生の頃は、まだ国鉄で国電って呼んでいた。初乗り料金は大人30円、子供(小人)10円だった。京成は大人30円、小人15円だった。散髪は300円だったかな?中学の時は600円だったような気がする。映画はいくらだったかな?中学の時ロードショーが千円だったかな?
この頃タクシーもラーメンも100円ぐらいだった。

No.94

水元

以前住んでた社宅があった場所は
新宿(にいじゅく)戻ってきて住んだ社宅は水元小合町だった。5分ぐらいの距離だけど。昔、水元は小合町、東水元、水元猿町、小合上町、小合新町とあった。
今は水元、南水元、東水元、西水元になった。当時の水元は、田畑や沼がいっぱいあった。

No.93

ホコ天

小6の秋頃、銀座に行った。生まれて初めての銀座かどうかはんからないけど
この時は日曜日で歩行者天国だった。
銀座4丁目のマクドナルドで、生まれて初めてハンバーガーを食べた。その横でカップヌードルを販売していた。お湯を入れてくれて3分待って食べた。ハンバーガーは80円、カップヌードルは100円だったかな?
そして銀座から日本橋、秋葉原を通って上野まで歩いた。

No.92

千代田線

僕が小4の時までいた頃は、金町は常磐線が停まっていた。茶色の車両だった。
6年生で戻ってきた時には、新しい路線、千代田線があった。常磐線は快速になり綾瀬、亀有、金町は通過するようになり、車両も緑色になった。上野に行くには、北千住で常磐快速に乗り換えるか、西日暮里で山手線か京浜東北線に乗り換えるかだった。西日暮里という駅も新しくできた駅だった。

No.91

学校

東京の小学校は、以前通っていた小学校だから、ほとんど全員知ってるし、すぐにまた友達になって楽だった。

No.90

東京

東京に戻ってきて暮らす所は、以前の社宅と違う場所。社宅は以前3ヵ所あったが以前住んでた所は取り壊され会社の倉庫になり、もう一ヵ所はボウリング場とスイミングクラブになっていた。
残る一ヵ所は一番規模も大きく団地タイプと木造の平屋タイプがあり、団地タイプに住む事になった。
引っ越しの片付けてをしていると、以前の親友が学校帰りに遊びに来た。
学校も以前通ってた学校だからほとんど全員知っている。
またあらたに東京での生活が始まった。

No.89

東京へ

東京へ引っ越す日の事は、よく覚えてる。住んでた所は明け渡したので、最後の1時間ぐらいは近所の家にいた。学校の友人ともお別れを済ませ、何人かの友達から箱におもちゃなど入った物をもらった。一番の親友だったT君はずっと一緒にいた。八戸駅までバスで行ったかタクシーで行ったか忘れたけど、見送りの人も一緒に行った。みんなとホームでお別れ。寝台車が走り出すとT君もホームの端まで走って見送ってくれた。
僕はおもいっきり泣いた。

No.88

北海道

東京へ再び引っ越すとわかってから、家族で北海道に旅行する事になった。東京に行ったらなかなか行く機会がなくなるから
修学旅行の時と同じように、青森まで列車で行き青函連絡船に乗った。すぐに函館市内の旅館に行き、夜になって函館山の夜景を見に行った。次の日は五稜郭に行ってから、札幌まで、おおぞらというディーゼル特急で行った。札幌は滞在時間があまりなかったから時計台しか見ていない。次の日はバスで登別温泉まで行った。観光バスなので途中、定山渓、オロフレ峠、洞爺湖、昭和新山と立ち寄りながら行った。オロフレ峠で札幌ラーメンを食べ、途中で食べた焼きとうもろこしが旨かった。登別温泉に泊まり、クマ牧場も行った。そして函館まで行き連絡船と列車に乗り帰宅した。

No.87

おくさまは18歳

小4か小5ぐらいの頃の当時好きだった岡崎友紀のドラマだ。次のなんたって18歳、ママはライバルも見ていた。
岡崎友紀の夫役は石立鉄男で、後に主演ドラマは欠かさず見るようになる。

No.86

電気屋

いわゆる町の電気屋さんだが、大概の家電製品を買ってる電気屋があった。
御用聞きみたいな感じで2~3ヵ月に1回家まで来て、新しい製品を勧めたりいろいろ話をして30分ぐらいいたかな。僕が小学校から高校ぐらいまで定期的に来ていた。僕が住んでたのは水元で、電気屋は確か小岩だったと思う。車で夜7時頃来ていた。うち以外でもお得意さんの家をまわると思うから大変だと思う。
僕が小3ぐらいの時に、旅行に招待されて母親が京都に行った。たぶんこの年にカラーテレビを購入したからだと思う。
母親の旅行の写真を見たら、京都の葵祭の時で、電気屋に招待された人は30人以上いた。全部費用は電気屋が負担しているから相当な額だと思う。
いつも家に来てくれるから、店舗は見たことないし、いつまで利用していたかもわからない。

No.85

スポ根ドラマ

最初に見たのは、サインはVかな?
小3ぐらいの時だったから69年頃か?
岡田可愛さん、岸ユキさん、笵文雀さんのジュン・サンダースがカッコよかったけど骨肉腫で亡くなってしまう。
X攻撃とかあったな。
スポーツではないけど、同じ曜日の時間帯にアテンションプリーズがあった。
元祖スチュワーデス物語って感じでした。
柔道一直線、野球のガッツじゅん
ボウリングの美しきチャレンジャー
水泳の金メダルへのターン

昭和は根性、スパルタ
まずは うさぎとび笑

No.84

青春ドラマ

青春ドラマの第1作の、青春とはなんだ
65年~66年の放送。僕は幼稚園児だけど、何となく覚えてる。再放送を見たのか?夏木陽介さんが先生役だ。
次のこれが青春だ その次のでっかい青春 竜雷太さんが先生役。この頃よく生徒役やってた凸凹コンビの男性2人、だいぶ後に太陽にほえろで見かけた。女子生徒役で岡田可愛さんとか出ていた。
その次のドラマは、進め青春 浜畑賢吉さんが先生役でナポレオンというあだ名だった。それからしばらくして おれは男だが始まる。

No.83

おれは男だ

小5の時にやっていた青春ドラマ。
おれは男だ 当時は夢中になって見ていた。森田健作は大人気で、この頃一番好きな俳優だった。以前から再放送で見たいドラマだった。それは鎌倉が舞台で、七里ヶ浜とかよく出ていた記憶があり、もしかしたら当時のサーファーとか映ってるんじゃないかな?という思いがあった。
嬉しい事にサブスクで見れるようになり、再放送も始まった。
今見ると、森田健作の裏返った声で偉そうに喚き怒鳴り散らす声に嫌悪感を抱いた。

No.82

ボウリング

小5~小6の頃、71年~72年の頃だ。
ボウリングブームがあり、テレビで毎日のようにボウリング番組があり、プロボウラーもたくさんいて、なかでも中山律子さんはCMにも出るくらい人気があった。スポ根ドラマでも、美しきチャレンジャーというのがあった。
青森にいた頃は、バスで30分の街中まで行かないとできなかったから1~2回やったぐらいだった。

No.81

再び

6年の夏休みが終わった頃、再び東京に引っ越す事がわかった。父親の転勤で元いた職場に、僕も元いた小学校へ。
元いた所へ戻るのは、嬉しかったけど、
今の学校の友達と別れる方が悲しかった。好きな子もいたし

No.80

特急
 
2度目の東京に行った帰りに、はつかりという特急に乗った。
東北本線は、他にゆうづるというのもあった。初めて乗った特急がブルートレインの日本海だったから、はつかりは2番目だったかな。

No.79

ライダーカード

仮面ライダーを見ていた頃、小5から小6のはじめの頃、仮面ライダーのスナックを買ってカードを集めた。スナックは20円だから、毎日一個は買えた。ラッキーカードが出てアルバムももらった。
能登の田舎の駄菓子屋でスナックを買った時に、そこのおばあさんがカードをくれないから、カードくださいって言ったら当たらないとダメと理不尽な事を言われた。結局もらえないで悔しい思いをした。6年生の途中で仮面ライダーもウルトラマンも興味なくなって、ライダーカードも誰かにあげたのかも記憶にない。

No.78

修学旅行

6年生の5月頃に修学旅行に行った。
函館へ1泊の旅行だった。
生まれて初めての北海道。
この時は八戸駅集合だったか、全員でバスで八戸駅まで行ったか覚えてない。
八戸から青森まで普通列車。
青森から青函連絡船で函館まで
函館にはもう夕方近くの時間だと思うから、そのまま旅館へ行ったと思う。
たぶん湯の川温泉だったと思う。
翌朝、担任の先生が朝食前に近くの海岸に連れて行ったので
着いた日の夜は函館山の夜景を見に行った。
翌日は、五稜郭に行った。
青函連絡船は4時間近くかかるし、青森から八戸まで1時間以上かかるから、お昼頃もう帰り始めたと思う。
青函連絡船ではイルカを見つけられるか、友達と海ばっかり見てた記憶がある。帰りの列車の中で、女の子でお土産に買ったマリモを落として割ってしまった。僕が買ったお土産は、その頃集めてたペナントと、石川啄木の像を買った。
10センチぐらいの銅像で、東海の小島の磯の白砂に、我れ泣き濡れて蟹と戯ると書いてあった。

東京だと5年生で千葉の保田に臨海学校
6年生で日光へ林間学校だった。

No.77

江戸川乱歩

5年生の終わり頃か、6年生になった頃か、友達の勧めで江戸川乱歩を初めて読んだ。図書室にあったポプラ社の少年探偵シリーズだ。怪人二十面相が20冊ぐらい、殺人物が10数冊。
最初に何を読んだか忘れたが夢中になって読んだ。
全部、明智探偵と助手の小林少年の活躍が描かれている。殺人の方には出てこないが、二十面相の方には少年探偵団の活躍も。
後でわかった事だが、殺人物は元々あった物語を少年向けに書き直した。探偵役も明智以外が多い。
二十面相物もタイトルや内容を変えたのがいくつかある。

二十面相シリーズでは、青銅の魔人が好きだった。
殺人物では、赤い妖虫(原題:妖虫)が好きだった。

No.76

えんぶり

八戸やその周辺(南部地方)に、えんぶりという郷土芸能があり、2月に祭りがある。5年生の3学期頃に、えんぶりの絵を描いて入選した。

No.75

八戸駅

僕が初めて青森に行った時、降りた駅は
東北本線の尻内といった。八戸駅はローカル線の八戸線に八戸駅があった。
尻内から2~3こ先の駅だったと思う。
それから1年後ぐらいに、尻内駅が八戸駅に名前を変えた。そして八戸駅は本八戸駅になった。
八戸線は岩手県の久慈まで行ってたのかな?鮫という駅はウミネコ神社で有名な蕪島神社がある。その先に種差海岸
種差海岸の手前に白浜海岸があり、ちょっと前のレスで海水浴に行った海岸は
種差海岸ではなく白浜海岸だったと思う。
僕の住んでた団地から見えた東北本線
八戸駅から2つ先の陸奥市川あたりだ。

No.74

スケート

スケートも2年目になると、かなり上手くなった。高台の下は田んぼがいっぱいあり、冬は凍るのでそこでもスケートをやった。稲の刈った後が出ていて引っ掛けて転んだりしておもしろかった。

No.73

海水浴

青森に住んでた時、一度だけ海水浴に行った事がある。いとこが来た5年生の夏休み、種差海岸だったかな?車ないから
列車で行ったと思うけどぜんぜん記憶にない。それと奥入瀬川を河口まで歩いてそこの海で服のまま海に入った事がある。パンツの中が砂だらけになった覚えがある。

No.72

初恋

5年生の時、隣の席の女の子を好きになった。4年生の時は、別のクラスだった。その頃その女の子が僕の事を好きだという事を噂で知っていたが、僕は別な子が好きだった。5年生になって同じクラスで隣の席になり、いろいろ話してるうちに少しずつ好きになっていった。顔もかわいいし頭もよく明るくて、どんどん好きになり、ラブレターを渡した。
確か土曜の午後だったと思う。家に行き渡した。渡すまで何十分もうろうろしてたと思う。勇気を出して渡す事ができた。ちょっと待っててと言われ彼女も手紙を書いてきて渡された。わたしも好きと書いてあった。その子の家には友達の女の子がいて、その後みんなで外に出てぶらぶらした記憶がある。50年以上前の小学生の恋愛だから、それ以上に進展するわけもなく自然消滅した。

No.71

いとこ
 
5年生の夏休みに、東京から親戚が遊びに来た。3歳年上のいとこふたりと叔母。いとこふたりとは毎日プールで泳いだり八戸の街まで行ったり、この時レコード屋に入り、いとこ達が僕に、あの素晴らしい愛をもう一度の曲を店員にかけてもらうように言ってと言われたが、僕が恥ずかしがって言えずにいた。でも女の店員が会話を聞いていて、レコードをかけてくれた思い出がある。
この時かは忘れたが初めて自分でレコードを買った。ビートルズのレット・イット・ビーだ。これもいとこの影響だ。
それからみんなで十和田湖に行った。

No.70

田舎

青森に引っ越してから田舎に行った時は、まず八戸まで出て、そこから普通列車で青森駅まで行く。それからブルートレインの日本海で金沢まで行った。金沢は朝4時くらいに着いた。叔父が車で迎えに来ていた。車で2時間。
田舎の家は民宿をやっていたので、お客ともなかよくなったりして、一緒に海で泳いだりした。叔父は夕方になると舟で沖に出て仕掛けの網を上げに行く。魚なサザエがかかっていた。中学生でひとりで泊まりにきてた子となかよくなり、一緒に舟に乗って漁を見せてあげたりした。田舎から帰る時、金沢に向かっている時に車が故障して、何とかギリギリ金沢駅に着き発車ベルが鳴る中列車に飛び乗った。帰りは寝台ではなく昼の急行で時間もかかり疲れた覚えがある。

No.69

碓氷峠

田舎に行く時は、いつも夜行列車だったが、初めて昼間に行った。その時に信越本線で横川で機関車を連結するのに15分くらい停車した。碓氷峠の急勾配を登るのに機関車を連結するのだ。その待ってる時に峠の釜飯を買った記憶はない。
富山のますのすしは何度も食べた。大好きだった。竹の棒を捨てずに持っていた記憶がある。
そういえば祖父は能登金剛の巌門という景勝地でバンガローの管理人をしていた。この場所は松本清張のゼロの焦点の舞台として有名になった。
僕が4年生の時に青森に引っ越しが決まって、その前に田舎に行った。
のと鉄道はその年に廃線になったと思う。
母の弟も品川の病院を退院して田舎で暮らしていた。
この弟は外国に行くたびに、キスチョコやお土産を買ってきてくれた。まだ禁止になる前、珊瑚を持ってきた。
これは水槽に入れて熱帯魚を飼っていた
母の弟が田舎に暮らし、田舎の家では民宿を始める事になった。

No.68

田舎

母の実家は石川県、能登。金沢と輪島の間あたり能登金剛と言われてるあたり。
僕にとって田舎である。祖父母が住んでいた。物心ついた頃から夏になると田舎に行っていた。上野から信越本線周りで金沢の手前の津幡で降り羽咋まで七尾線、そこからこの後廃線になる、のと鉄道?で三明まで行き、バスで田舎の家まで行った。僕が5歳くらいまでは、祖父の母親も健在だった。おばばと呼んでいた。母の兄弟、弟ふたりは船員で外国航路の船員で、妹はこの後東京で就職して家に住んでた事もあった。母の弟が出航する時に晴海に見送りに行った記憶がある。体を壊して品川の船員病院に入院して何度か見舞いに行った。
上野からはいつも夜行列車だった。必ず冷凍みかんとお茶を買ったな。硬い垂直の椅子、僕はそこで横になって寝た。他の乗客は通路に新聞引いて寝たり、網棚に寝る人もいた。大宮の先まで覚えていてだいたい糸魚川あたりで目が覚めた。僕が小1か小2の頃、母の妹とふたりで田舎に行った時によく覚えている事がある。近くの座席のお兄さんが見ていた漫画にウルトラマン的なのが載っていて、すごく興味があった。当時の少年マガジンとか巻頭カラーでウルトラシリーズやゴジラとかの図解とかが載っていた。
まだ見ぬウルトラシリーズが載ったマガジンを見ていた。母の妹が上野駅で漫画でも買ってきてあげる、ウルトラマン?って言われた。そして買ってきてくれたのが知らないお兄さんが見ていた少年マガジンだった。そしてそれはこれから始まるウルトラセブンの予告と図解だった

No.67

仮面ライダー
帰ってきたウルトラマン

71年4月、仮面ライダーが始まる。今までにない等身大ヒーローだ。怪人も不気味でよかった。
同じく4月、帰ってきたウルトラマンが始まる。ウルトラシリーズや怪獣物が衰退していた時にあらたな怪獣ブーム再来となった。
仮面ライダーは最終回まで見ていない。
6年生になってだんだん興味がなくなり
途中から見なくなった。地獄大使あたりまでだと思う。
帰ってきたウルトラマンは1年間だったので最後まで見た。次のウルトラマンAの途中で見なくなった。
6年生になって、少しずつ大人びて、音楽や他の事に興味が出始め、怪獣とか幼稚に思いはじめた。

No.66

自転車

71年頃、サイクリング自転車が流行った。中でもブリジストンや宮田のサイクリング車は高嶺の花だった。荷台の部分にウインカー。変速機、ライトの上に電子ホーン。でも荷台の部分のウインカーは大きな電池ボックス。単1電池を6個ぐらい入れる。重たいし電池の消耗も早いだろうし、でもカッコよかったわけだ。そうした中クラスで自転車でつるん
で走るのが流行った。みんな普通のサイクリング車だったが、そして僕も自転車を買ってもらう事になった。僕は当時出たばかりのミニサイクルを買ってもらった。女子に人気があって乗せてあげた。

No.65

5年生

5年生になったと共に、新校舎になった。担任の先生も新しく赴任してきた女の先生だった。
朝、授業が始まる前に必ず宮沢賢治の
雨ニモ負ケズを朗読した。

No.64

ラジオ

すごく覚えている事があって、小3ぐらいの時に床屋で散髪している時にラジオがかかっていて、パーソナリティーの女性アナウンサーが、ピンキーとキラーズの土曜日が一番という曲の紹介をしてた。日曜日よりも明日休みの土曜日が一番と言っていた。その頃はまだ週休2日制ではなく、土曜日も仕事(もしくは半ドン)
55年も前のラジオ放送をよく覚えている。土曜日の午後だった。
小4の時にも近所の家でラジオが流れていて、ビートルズが解散しましたとアナウンサーが言ったのをはっきり覚えている。

No.63

東京へ

4年生が終わり春休みに東京へ遊びに行く事になった。家族の中では僕だけで、近所のYさん家族と一緒に連れていってもらった。Yさんも同じ時期に東京から青森に転勤で引っ越してきた。東京にいる頃から家族ぐるみで仲良しだった家族で、僕のひとつ上とふたつ上の姉妹がいた。八戸から夜行列車で上野まで行った。僕の親戚は柴又に父の実家があり、一番仲のいい3歳年上のいとこ達が、それぞれ水元と金町にいて、一週間ほどそれぞれの家に泊まった。何して遊んだ記憶はないが、金町のいとこの家にはレコードがいっぱいあり、いつも聴かせてくれて、それが洋楽との出会いだった。

No.62

壁画

小4と小5の時にクラス全員で壁画制作をした。4年生の時は宮沢賢治のよだかの星。5年生の時は何を描いたか覚えてないが、テレビ局が取材に来て放映された。

No.61

スケート

青森での冬の遊びは、スケートだ。
体育の授業でもスケートをやった。
リンクは、社宅の中央にあるコンクリートのトラックに夜、水を撒き凍らせる。
夏に盆踊りをやるトラックだ。リンクはこの1ヶ所しかないから体育の授業もここまで来て行った。
僕は今までスケートをしたことない。
ハーフスピードのスケート靴を買ってもらい早速練習した。最初は転んでばかり、でも1週間もするとどうにか滑れるようになった。リンクは夜の9時ぐらいまで使えた。夕飯をすませてから滑った。友達や社宅の人も来るから社交場のような感じで楽しかった。

No.60

アノラック

青森で、防寒ジャンパーとしてアノラックを買ってもらった。初めて聞く名前のジャンパーだった。大概の人はアノラックかヤッケを着ていた。ダウンもない時代、とても暖かかった記憶がある。

No.59



青森でも太平洋側だから雪は少ない。でも北国だから、12月から3月までは降る回数は少なくても、溶ける事はない。

No.58

登山

4年生の時に学年で登山をした。名久井岳という山だった。5年生の時は階上岳だった。いずれも岩手県との県境の山だったと思う。6年生の時は行ってないので、僕が東京に転校した9月以降にあったのかもしれない。

No.57

湖水浴

4年生全体で小川原湖に湖水浴に行った。バスで1時間ちょっとぐらいだったと思う。湖で泳ぐのは初めてだった。5年生と6年生の時にも行ったと思う。いつも雲っていた気がする。

No.56

テレビ

青森に行って一番驚いたのは、テレビの放送局の少なさだった。NHK,教育テレビの他に民放は青森放送の1局しかない。しばらくしてUHFのアンテナを取り付け青森テレビとテレビ岩手が見れるようになったが、同じ番組がダブってたりした。何よりも番組の曜日や時間が違うし、一週間ぐらい遅れての放送だったり。東京のキー局でないと一切見れなかった。東京12チャンネル(テレ東)、フジテレビの番組は見れなかった。

No.55

盆踊り

東京にいた頃も盆踊りは好きだった。
なぜなら夜に外に出れるからだ。
華やかな雰囲気も好きだったけど、子供たちで暗い所を探検したり。
だから踊りはしなかったけど、盆踊りの曲はよく覚えてる。葛飾音頭というのがあった。
青森では、社宅の中央にプールとスケートリンクがあった。スケートリンクは冬に水を撒いて凍らせる、冬以外はコンクリートのトラックで、主に子供たちの遊び場で、盆踊りはここに櫓を組み行われた。社宅内で各棟で対抗の盆踊り大会があり、各棟で6人だか8人選ばれ、何故か僕もメンバーだった。曲は炭鉱節だった。

No.54

夏休み

青森の夏休みは、東京に比べて短かった。東京は40日あったのに対し青森は25日ぐらいだった。8月の16日ぐらいから2学期が始まった。そのかわり冬休みは長かった。長いといっても東京より1週間ぐらい長かったぐらいかな。

No.53

奥入瀬川

僕が住んでた町は、奥入瀬川の河口の近くだった。歩いて買い物に行ってた街も奥入瀬川を越えた所にあった。河口まで歩いて30分ちょっとぐらいで太平洋に出る。

No.52

十和田湖と奥入瀬渓流

青森に来て最初に行った観光地
十和田湖と奥入瀬渓流だ。
父親の会社の同僚の運転する車で
確かこの時に6人いたと思うけど、普通自動車に6人乗ったのか記憶にない。
うち2人は子供だったから、後ろに4人乗ったのか?
奥入瀬渓流では、父親の同僚が車を止めては、ひとつひとつ滝の説明をしてくれた。阿修羅の流れや銚子大滝では、車から降り遊歩道を歩き写真を撮った。
十和田湖では、休屋で昼食を取り周辺を散策した。帰りに焼山でリフトに乗って山の上まで行った。
十和田湖、奥入瀬渓流は青森にいた2年3ヵ月の間に3回行った。

No.51

高台

僕が住んでた町は市のはずれ、市の中心街からバスで30分。国道も通る高台に1キロ四方ぐらいの街だった。僕が住んでる社宅以外にも別の会社の社宅があった。他に県営住宅、市営住宅、あとは一般の民家が半分くらいあった。スーパーは2件、クリニック、個人のお店(床屋、薬屋など)5、6軒ぐらい
高台のまわりはすべて森だった。
国道、県道以外は森の中に階段や坂道がいくつかあった。
高台なので海が見えた。

No.50

小学校

転校先の小学校は、プレハブの1階しかない校舎だった。各学年2クラス。東京の学校は、各学年3クラスだった。社宅の同じにクラスが一緒の子がいて、一緒に通学した。新しい校舎が来年度に出来上がり5年生からは新校舎だ。

No.49

団地

青森に引っ越して、こちらの社宅はすべて5階建の団地だった。東京にあった社宅は、3ヶ所のうち1ヶ所だけ団地が3棟だけで、あとは木造の平屋だった。青森では10棟あって2棟新たに建築中だった。はじめて自分の部屋を持てた。東京にいた時は、一応自分の部屋みたいのはあったが、玄関あがった3畳ぐらいの部屋に勉強机とかあったが、客もみな玄関から入って部屋を通し、隣の部屋と仕切りもなかった。
団地は風呂があったし、トイレは水洗だ。今までは風呂はなくトイレは汲み取りだった。団地がある場所は高台にあり
部屋は5階だった。高台の下は田園が広がり遠くに山が見えた。夜、東北本線の列車の灯りが遠くに見えた。

No.48

プラネタリウム

話は遡るが、小2か小3の頃に渋谷のプラネタリウムに行ったことがある。
東急文化会館にあったプラネタリウムだと思う。東急文化会館はヒカリエの場所にあった。プラネタリウムを見た後に、東急のレストランでお子さまランチを
食べたと思う。

No.47

風呂

青森に引っ越す前の東京で住んでた社宅には風呂がなかった。
社宅は、ちょっと離れた場所に3ヶ所あり、共同浴場が2ヶ所あった。片方はかなり古く浴室も暗かった。もうひとつは新しくて明るかった。交互でどちらにも行っていた。母親は恥ずかしいからと古い方の浴場に行っていた。暗くてあまり見えないから 僕は小3ぐらいまで女湯に入っていた。新しい浴場の方では男湯に同級生の女の子が父親と入ってきた。
青森から再び東京に戻ってきて、その頃社宅には風呂があったけど、僕は家の風呂には入らず友達と浴場に行った。他の友達にも会えるから浴場は社交場だったのだ。中学3年まで入りに行った。そしてその後取り壊された。

No.46

レーシングカー

小学生の低学年の頃、近所にレーシングカーで遊べる所があった。何台かで競争するわけで、6レーンぐらいで8の字とかのコースを走るだけ。車の下に針金みたいのが出ていてレーンに引っかけ走る。ちゃんとしたスタジオみたいな所にコースを作ったお店もあったけど、自宅でやってる所もあった。コースの半分が部屋の畳の上だった。でもみんなあっという間になくなったような気がする。

No.45

卓球場

話は遡るが、幼稚園の頃か小学校の低学年の頃か、金町に卓球場があった。看板だったか窓に、ピンポンって書いてあった。親に何度か連れて行ってもらった。
当時はよくこういう卓球場があったらしい。いつの間にかなくなっていたが、いつなくなったかの記憶もない。

No.44

青森へ

小4の6月に転校することになった。
父親の転勤に伴い、青森県の八戸市に引っ越す事になった。小学校に行って別れの挨拶をする時、僕は大きな声で、さようならって一言言った。何人かの女の子が泣いていた。その日の夜の夜行列車で行ったかは忘れたけど、初めての寝台列車だった。常磐線経由の寝台急行だったと思う。ちょうど金町の手前に父親が働いていた工場があり、そこを通過する時に父親が窓を開け、懐中電灯を振り始めた。工場からも3つの灯りが振られていた。父親がその灯りに気がつくと懐中電灯を早く振り始めた。向こうも気がつき早く振り回し始めた。感動の場面だった。翌朝、八戸市内の旅館に行った。他に何組かの転勤の家族がいた。旅館で時間をつぶし(引っ越し荷物が着く時間に合わせてたと思う)引っ越し先に行った。初めての団地だ。

No.43

遠足

小学校の時の遠足(青森に転校する前の小4まで)どこに行ったか記憶にない。房総の鋸山に行ったような気もするが
バスで行くような所が思い浮かばない
あと思い浮かぶのは筑波山ぐらい?
前の日に友達とおやつを買いに行くのが楽しかった。100円で何を買うか
遠足の他に社会科見学があって、そっちの方がよく覚えてる。同じ葛飾区にある森永乳業、野田のキッコーマンの工場見学。この頃って車酔いがひどくてバスに乗るのが嫌だった。乗る前によくトラベルミンという酔い止めの薬を飲んだ。高学年ぐらいになっていつの間にか酔わなくなった。

No.42

駄菓子屋のくじ

駄菓子屋には、いろんなくじがあった。
一枚取りめくると当たりやハズレが書いてある。箱に押す所があり場所を選び押すと中に景品が入っている。ハズレってたいがい粉末ジュースの素。粉のまま口に入れて飲んでたな。

No.41

地下鉄

初めて地下鉄に乗ったのは、小3の時
1969年の事だ。秋葉原の交通博物館に行った帰りだ。行きは確か常磐線と山手線で行ったと思う。帰りは父親が地下鉄で帰ろうと言って日比谷線に乗った。
生まれて初めての地下鉄にワクワクした。先頭車両に乗り地下を走る景観を楽しんだ。特に駅に到着する前の灯りに感動した。南千住の手前で地上に出る。そして北千住で常磐線に乗り換えた。

No.40

常磐線

小学生の頃は、常磐線は各駅だった。
金町、亀有、綾瀬も停まった。なぜなら
まだ千代田線がなかったからだ。僕が青森県にいる間の70年から72年の間に千代田線が開通して、常磐線は快速になり
金町とかには停まらなくなった。
この頃(まだ国鉄)の初乗り運賃、大人30円、小人10円だった。

No.39

霞ヶ関ビル

36階建ての霞ヶ関ビル
1970年頃までは、日本一高いビルだった。僕は70年の6月から72年の9月まで
父親の転勤で青森県にいた。その間に世界貿易センタービルが出来て日本一じゃなくなった。僕が3年生の頃、37階の男ってドラマがあったな。
72年9月に再び東京に戻ってきて、同じ小学校に通うようになった。その葛飾区の小学校の屋上から貿易センタービルや東京タワーが見えた。高い建物がない時代だった。

No.38

ステージ101

僕が小4から小5ぐらいの頃、土曜の夜8時は、NHKのステージ101を見ていた。
まだ8時だよ全員集合がなかった頃だ。
司会は黒柳徹子だったかな?
ヤング101というスクールメイツみたいなダンサーが踊り、ゲストが歌ったりコントをしたりするバラエティー番組だった。渥美清もよくゲストで出ていた。
小6の頃に全員集合が始まり、そちらを見るようになってしまった。

No.37

ヤング720

60年代後半
朝の7時代に放送されていた番組
この時間は普通、朝の情報番組、ニュース、ワイドショー的な番組が普通だけど
当時はこの時間に音楽バラエティー番組があった。うちも毎朝見ていた。
そしてテレ東(当時は東京12チャンネル)ではアニメを放送していた。

No.36

野球

小3ぐらいの頃は野球に夢中だった。
ユニフォームも持ってたし、メンバーなんて3~4人しかいないのに、よく野球をやった。その頃はグランドもいっぱいあったし空地も多かったからどこでもできた。プロ野球は巨人のV9時代で、もちろん巨人が好きだった。誰もが野球帽被ってた。売ってるのはジャイアンツの帽子。ジャイアンツのワッペンを取り阪神のワッペンを付けるのがカッコよかった

No.35

行動範囲

自転車に乗れるようになったのは、幼稚園の頃か、小1ぐらいだったか忘れたけど、その後自転車に乗ってる記憶がない。小3、小4の頃は自転車を持ってなかった記憶はある。自転車がないから行動範囲は狭かったと思う。だいたい毎日の遊びは社宅の中の広場かグランドで野球だった。

No.34

切手ブーム

小学生の頃、切手を集めるのが流行った
切手を入れるアルバムなんかもあって、
持っていたがぜんぜん集まらなかった。
よくある封筒に張る切手が主で、記念切手など貰った切手が数枚程度。友達でいっぱい持ってる子は人気者だった。
よく新しい記念切手が発売されると、シートで買ってる子とかいた。
近所に切手を販売してる所があった。
都営団地の普通の住まいで切手を販売していた。家の中に上がりカタログを見て
欲しいのを言って買う。僕は高校野球の記念切手を買った。50円ぐらいだったかな?後にも先にも記念切手を買ったのは、この時だけだったかな?
この頃最も高価な記念切手は
見返り美人
月に雁
蒲原

No.33

用水路

僕が住んでた社宅の横に用水路があった
小合溜(水元公園)から旧中川まで流れていたと思う。
学校行くのも駄菓子屋行くのも、この川の橋を通っていた。駄菓子屋で買ったスーパーボールをすぐ川に落としてしまったり、風で帽子が飛んで川に落ち母親が物干し竿で取ったりした。たんなるドブ川だけど思い出はいっぱいある。
そんな用水路だけど、いつの間にか埋め立てられて暗渠になった。
僕は小4の6月から小6の9月まで青森県に住んでた。その間に埋め立てられたから工事の過程など見ていない。再び東京に戻ってきたら川がなくなっていた。
川の横にあった道は川の分広くなった。

No.32

アポロ11号
 
月面着陸したアポロ11号
テレビで毎日夢中になって見ていた。
1969年の夏、僕は小3だった。
アームストロング船長の名前はよく覚える。コリンズという名の宇宙飛行士は20世紀少年でわかった。

No.31

カブスカウト

小3の時にカブスカウトに入団した。
確か236団だったかな?父親の働いていた工場が運営していた。隊長もこの工場で働いていた。隊員の小学生も皆、父親が工場で働いていて同じ社宅に住んでいた。入隊するきっかけは、同級生やいとこが入ってたから。いとこは3歳上でもうやめていたから、隊服などすべて貰った。カブスカウトは小2から小5まで
それぞれ階級があって、2年生はリス、3年生はウサギ、4年生はシカ、5年生はクマ。それぞれワッペンがあり一年ごとにもらって隊服に付けるのだが、いとこに貰った隊服だからすべて付いていた。
リス、ウサギ、シカ、クマの歌もあった。デンマザーという隊のお姉さん的な人もいた。やはり全員工場の事務員で僕の叔母もいた。叔母といっても二十歳ぐらいだけど。活動は月に2回程度。赤い羽の募金活動などボランティアとか多かった。餅つきやアスレチック、年に一度合宿があり、僕は一回しか参加してないが、草津に行った。3泊ぐらいだったかな、とにかく毎日山の中を歩いた。
解散する時にみんなで円陣を組み親指と小指で手をつなぎ、みんなで元気よく、いつも元気って叫んで解散した。
僕は4年生の時に転校したので、1年ぐらいの活動でした。

No.30

社宅

小1の頃に引っ越しをした。
同じ社宅内で1分ぐらいの距離だ。
今まで2部屋しかなかったのに、4部屋になった。今までみたいに直接玄関ではなく塀があり扉を開け、ちょっとした庭がありそれから玄関だ。4畳の部屋2つに6畳と8畳、奥に廊下とトイレ、そして庭、庭もいちぢくだか柿の木があった。台所は部屋から降り土間のようだった。前庭の左奥は物置、手洗い場、洗濯機が置いてあった。ここに3年ぐらい暮らしただろうか。何故同じ社宅内で引っ越しできたのかはわからない。

No.29

空撮

小2ぐらいの頃かな
校庭で全校生徒が集まり
小学校の名前を人文字で作った。
それをヘリだかセスナで空撮した。
その写真ってまだあるのかな?
たぶん実家のアルバムにあるかもしれない。
そういえば同じ頃、夕方の番組で
東京の空の下だったかな?
5分ぐらいの短い番組で東京を空撮する番組があった。今日は○○区○○何五丁目ですみたいで、23区全地域を空撮していた。僕の住んでた葛飾区も空撮された
もう一度見てみたいな
ビデオも何もない時代、ドラマなどは再放送で見れる可能性あるけど

No.28

ポーラ連続テレビ小説

TBSだったかな?
昭和40年代から、お昼の12時45分から
15分ドラマがあった。朝はNHK、昼はポーラって感じで我が家でも見ていた。
この頃NHK朝ドラは昼に再放送してなかったのか記憶にない。
NHK朝ドラに比べると、ポーラの方は地味な感じだったが、さかなちゃん、元気です 話題作はけっこうあった気がするがぜんぜん覚えてない。
唯一覚えてるのが、遥くらら主演の花火師の話ぐらいかな。
ポーラ連続テレビ小説
昭和の終わり頃に終わったみたいだけど
終わったのも気づかなかった。

No.27

連続テレビ小説

朝の連続テレビ小説
いつから朝ドラって言うようになった?
母親が毎朝見てたから自然に見るようになった。最初に見たのは旅路かな?
その前のおはなはんは、後から知ったのか、リアルタイムでは見ていないと思う
明日こそ、信子とおばあちゃん、繭子ひとり、虹 内容は全く覚えてないが見ていたと思う。中学2~3年ぐらいまで見ていたと思う。よく覚えてるのは鳩子の海かな。でも子役時代の頃だけで、あまり覚えてないか…
それからは全く見なくなった。どういう作品やってるか、タイトルだけは知っていた。30代後半になって職場で朝ミーティングが始まる前に見るようになった
天うららだったのを覚えてる。
そしてちゅらさんに夢中になった。
それから何年かして職場が変わり見なくなった。ゲゲゲの女房が始まる時から録画して帰宅してから見るようになった。
それからはずっと見るようになった。

No.26

ミスター長嶋

僕が小学生の頃、巨人はV9時代
小4ぐらいまでは、野球に夢中で毎日野球ばかりしてた。ユニフォームも持ってたし。新聞を切り抜きスクラップ帳を作ったりした。巨人の星第1話、長嶋が巨人入団の時に星飛雄馬が長嶋に魔走球を投げた。小6の時によく松戸のスケートリンクに行ってた。送迎バスに乗った時に運転手のおじさんが寄り道して、バットの工場の横を通り、長嶋のバットここで作ってるって教えてくれた。
1974年に引退した。僕は中2
その後、巨人の監督になったがいきなり
最下位。今まで万年最下位だった広島が優勝。赤ヘルブームになった。
でも長嶋は翌年リーグ優勝を果たす。

No.25

江戸川

家から一番近い川は、中川だったけど
中川には河川敷がなかった。
江戸川は小学生の低学年には、ちょっと遠かったけど、近くに親戚の家があったからよく行った。
河川敷も広いし、グランドとかもあった
土手を段ボールで滑ったり
小1の時に、いとこ達と河川敷でキャンプをした。テントを張ったり楽しかった
そして江戸川の水を飯ごうで沸かしラーメンを食べた。
その頃だって、そんなにきれいなわけでもない江戸川の水
当時の子供達は道に落ちた物でも平気で食べていたからな

No.24

区民プール

昔、金町に区民プールがあった。
柴又との境にあった公園に
公園の隣に父親の実家があったから
夏にはよくプールに行った。
初めて泳げるようになったのも
このプールだった。
小1ぐらいの時だったと思います。
当時このプールの料金は、小学生で10円だったと思います。
いつまでこのプールに行ってたかな?
中1ぐらいまでだったかな?
そしてこのプールがいつなくなったか
わからない。

No.23

自転車

初めて自転車に乗れるようになったのは
幼稚園の時だったかな?
それまでは補助輪付きの自転車だった。
近くのグランドで泣きながら練習した記憶がある。
父親に後ろから押されては、ひっくり返りの繰り返し
でもいつしか乗れるようになるんだよね

No.22

空き地

僕が生まれ育った葛飾区
葛飾区でも外れの方だったから、原っぱなどの空き地が多かった。
グランドとかもやたら広くて、半分は草むらだったり。公園や広場も境界線がなかったり。
これから造成するような空き地も、そのまま砂山やジャリ山がそのまま放置されたままだったから、登ってよく遊んだ。
大きな土管も放置されたままで、中に入って遊んだりした。
小学生の頃は、道路も舗装されてない道も多かった。土の道はぬかると滑るし、砂利道は自転車で走りづらかった。石が跳ねてガラス割ったりしたな。

No.21

文房具屋

文具店
学校の前に必ずあった
駄菓子屋ほどではないが
けっこう行った。
ボールとか こま も売ってたし
小1だか小2の頃に
スパイ手帳なるものがあった
任天堂だかで発売していて
CMでやってて欲しかった。
手帳の紙は水に溶けたり
なんかいろんな機能がついてたけど
忘れた。
高くて買えなくて
安いバッタもんを買ったて
ぜんぜん優れてなくて
がっかりした。

No.20

ステレオ

最初に家にあったステレオは
ビクターだったと思う。
なぜなら犬の置物があったから
足付きで上の蓋を開ける
左右スピーカー、中央にスイッチや
ラジオ一体型
この頃はレコードの回転数が
78回転もあった
家にあったレコードは
世界の音楽集があって、タンゴやマーチ
などがあり、後によく聴くようになった
古賀メロディーとかあったな
僕が持ってたレコードはソノシート
ペラペラのレコードで、雑誌の付録に付いていた。
ウルトラマンなど、そのままドラマの話が入っていたりして、挿入歌なども入っていた。

No.19

カラーテレビ

わが家にカラーテレビが来たのは
小2の時でした。
サンヨーの20インチだったと思う。
昭和43年当時で20万円以上していた。
僕が就職した昭和54年
初任給が9万円ちょっと
なので父親の月給の倍ぐらいしたのではないか。
やはり当時のテレビはやたら大きかった
ブラウン管の画面に倍以上の外枠
上に母親が作ったレースを引き、その上にフランス人形かなんか飾っていた。

No.18

テレビ

物心ついた頃から
小2ぐらいまで
家のテレビは白黒だった
画面も14インチぐらいなのに
枠が大きく足がついていた。
よくカラーテレビのある家に
ある番組を見るためにおじゃました。
覚えているのは、隣の家に
ジャイアントロボを見に行っていた。
他にもいろいろ番組があるのに
何故ジャイアントロボなのか
記憶にない
毎週決まった時間に隣の家に行き
そこの家族とジャイアントロボを見た。

No.17

童話
 
幼少の頃に家にあった童話全集
金色の箱形ケースに入った童話全集
イソップ物語、グリム、アンデルセン
世界中の童話があった
全10冊だったか、20冊だったか
忘れたけど、もう一度読んでみたい
本って、手にとってながめたり
ページをめくる楽しさがある

No.16

漫画週刊誌

少年ジャンプが登場したのは
僕が小3の頃だったと思う
それまでの三大誌は
マガジン、サンデー、キングかな?
月刊誌で、冒険王、ぼくら
付録が多くて巻頭カラーで
サンダーバードの基地の図解や
ウルトラ怪獣の解説など掲載されて
楽しかった
ぼくらマガジンというのは週刊だったのかな?
少年マガジンには巨人の星
少年ジャンプは、男一匹ガキ大将に夢中になって読んだ

No.15

エレベーター

金町の駅前に高層の公団が出来た。
僕が小1か小2の頃だから
1968年(昭和43年)頃だと思う。

エレベーター乗りに行こうと
近所の3歳年上のお姉ちゃんに誘われた
幼い頃からよく一緒に遊んでいた姉みたいな女の子だった。
当時はエレベーターが珍しかった。
デパートで乗ったぐらいだ。
自分でボタンを押すのがおもしろかった
上に行ったり下に行ったり
ずっと乗り続けた。
友達に自慢したくて別の日に友達を誘った。
得意気になり全部の階のボタンを押した
途中で乗ってきた大人に怒られた。

60年近く経った今でも
この公団は健在だ。

No.14

映画館

金町にも映画館があった
すずらん通りに2軒あったような
記憶がある
どっちの映画館かは忘れたけと
ガメラの映画を見た
確かガメラ対ギロンだったかな
小1か小2の頃
この頃は
どこの駅でも
近くに映画館が
1つや2つあった
たいがい2本立、3本立
ロードショー作品は
上野や有楽町まで
行かないと
見られなかった

No.13

ゴジラ

最初に見たゴジラって何だったか?
小学生になった頃には
怪獣大進撃とか上映されていた
小学生の頃は、まともにゴジラシリーズ
見ていないと思う
映画館でも見ていない
テレビで三大怪獣やゴジラ以外の
バランやモスラを見たぐらいだ
初めてレンタルビデオ屋の会員になったのは、24歳頃だったかな
30過ぎてゴジラシリーズ、東宝特撮物を片っ端に借りて見た

No.12

ウルトラマン

ウルトラQが終わり
次に始まったのが
ウルトラマンだ
初の巨大ヒーロー
人間が変身するのも
これが始めてかな
今まで怪獣と戦ってきたのは人間
自衛隊や一般の人達だった
今度は怪獣と同じぐらいの大きさの
ウルトラマン
そして科学特捜隊
宇宙人も多く出てくるようになった
ピグモン、ジャミラ、シーボーズはかわいそうだったな
科特隊のバッジ持ってた奴多かった
写真に写る時にスペシウム光線のポーズとったな

No.11

ウルトラQ

ウルトラQは
1966年放送開始
5歳の僕はリアルタイムで
見ていたかわからない
第1話、ゴメスを倒せ
後でわかったが
ゴメスはゴジラのスーツを改造
予算の関係で怪獣の使い回しが多かった
生まれたばかりのリトラが
ゴメスと戦い死んでしまうのがせつない
主役の少年の声は本人の声なのかな?
この声は映画やアニメでよく聞く
声優の声だから

それまで映画でしか見れなかった怪獣
テレビで毎週見れることに
当時の少年達は歓喜したそうだ
でも怪獣の出ない回もあった
悪魔っ子は怖かった
開けてくれもシュールで不気味な感じ
空を飛ぶ電車はロマンスカーだった
鳥を見たの少年は、後にウルトラマンの
星野君だ。エンディングのギターの曲が、せつなくていい
ケムール人の電子音と走り方、そして笑い声が好きだった
虹の卵の少女が可愛かった
いつも出てくる博士がいる研究所の
ブーンっていう音がSFっぽくて
好きだった

そして成人してから
ウルトラシリーズの話をして
ウルトラQが一番よかった
とよく話した

No.10

駄菓子屋

家の近くには
何軒の駄菓子屋があっただろう
よく行ってたのは
2軒あった
小学生の何年かまでは
一日10円のこづかい
何を買うか楽しみだった
お金がなくても
友達が何買うか見てたり
駄菓子屋は
子供たちの
社交場だった

No.9

船橋ヘルスセンター
 
最後に行ったのは
いつかな?
たぶん
小2か小3ぐらいか?
だとしたら
1969年あたりかな
それまでは毎年のように
行っていたな
たしか京成の大神宮下で降りて
おみやげ屋が並んでる所を
歩いた気がする

でっかいプールの
ゴールデンビーチや大滝すべり
海にも行けたな

最後に行った時は
柴又の高木屋老舗の家族も
一緒に行って
帰ってきて金町の
双葉會館で食事した
思い出がある

楠トシエが歌うCMもあったな

1978年に閉園したらしい
その後は
ららぽーとができた

谷津遊園もヘルスセンターも
いつのまにか
なくなっていた感じ

No.8

蒸気機関車

幼稚園ぐらいの時に
千葉の海に
海水浴に行く時に
蒸気機関車だった
記憶がある
保田あたりの海水浴場へ
行ったと思う
金町の近くに住んでたから
小岩あたりから乗ったのか
そのあたりの記憶はないが
総武線・内房線の記憶はある
トンネルに入る前に
窓を閉めたりしたなぁ
たぶん内房線がまだ
電化されてなかったのかな?

No.7

アニメ再び

人呼んで
遊星仮面
なんていうのもあったな
宇宙エース
W3
戦闘もの以外だと
ハリスの旋風は、何年か後に
国松様のお通りだい
っていうのもあったね
おばけのQ太郎
Qちゃんは、その後
パーマン、怪物くんに続く

No.6

アニメ

1964年ぐらいからの
アニメは
ほとんど見ていたと思う
エイトマン
ビッグX
宇宙少年ソラン
スーパージェッター
レインボー戦隊ロビン
遊星少年パピイ
SF、悪と戦う少年ヒーローが多いね
主題歌もみんな覚えてるな

No.5

幼稚園

幼稚園は
送迎バスで
15分ぐらい
近所の友達も
同じ幼稚園に
行ってる子が
多かった
送迎バスは2台
水色とピンク
僕が乗っていたのは
水色だったと思う
社宅の前まで
迎えにきた
幼稚園は2年保育
1年目はすみれ組で
篠原先生
2年目はたんぽぽ組で
千葉先生
千葉先生は明るく活発で
印象に残っている
学芸会の劇に使う
小道具を母親達と買いに行って作ったり
谷津遊園に遠足に行った
記憶が鮮明に覚えている

No.4

鉄人28号

鉄人28号の放送も
1963年から1966年だから
初回からは見ていないだろう
でも鉄腕アトムにしても
かなり記憶に残っているから
かなり印象深かったと思う

鉄腕アトムも鉄人28号も
それ以前に実写版があったなんて
知ったのは後のこと

No.3

鉄腕アトム

鉄腕アトムの放送開始は
1963年らしい
まだ2歳だから
見ていたかどうか
ぜんぜん記憶にない
1966年まで放送していたから
途中から見たのだと思う


No.2

1964

1964年は
昭和39年
東京オリンピック開催
でもこの頃の記憶はない
家にオリンピックの関連雑誌や
記念硬貨はあったけど

幼稚園に入園する前の記憶は
あまりないなぁ
たぶん3歳ぐらいの時に
熱を出して
親父におんぶされて
病院に行った記憶がある

No.1

1961

生まれは
東京葛飾
駅でいうと金町
親父が働いていた
大きな工場の隣に
社宅があった
木造の長屋だった
共同の洗濯場があり
広場があった

ガラス戸を開けると玄関
下駄箱の幅ぐらいの狭い玄関
小さな3畳ぐらいの部屋
その横に粗末な台所
奥は8畳ぐらいの部屋で
その部屋で寝て食事をしていた
その奥に小さな廊下とトイレ
トイレはもちろん汲み取り式
風呂などなかったが
小さいけど庭があった

そこに生まれてから
小学1年生ぐらいまで住んでいた



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