ダンスときどき恋 in USA
ある日、彼女は成田空港にいた。
ダンスを勉強するためにアメリカへ行く。
初めての海外、期待と緊張が入り混じっているが
若い彼女には緊張さえも楽しく感じられた。
ちょっぴりフィクションで書いていきます。
よろしくお願いします。
新しいレスの受付は終了しました
彼女の名前はナツ。20代前半。駆け出しのダンサーで、まだまだレベルも低い。
ただ好きなだけでダンスを続けていたが、もっと勉強しないと、仕事さえももらえないことに気付き、一歩踏み出すことにしたのだった。
幸いにも一緒に行く仲間がいた。事務所の先輩が定期的に行っているダンススタジオを紹介してくれる。
この橋渡しがなければアメリカに行くことも考えられなかった。
住むところも先輩の手配で決まっている。
先輩には本当に感謝。
ナツは、胸が熱くなるのをみんなに悟られないように平静を装いながら、旅立った。
飛行機の手配も先輩まかせだった。
先輩がいつも使っているシンガポール航空。
飛行機に乗り込むと、フライトアテンダントの制服があまりに美しいので感動してしまった。
成田発ロサンゼルス行きの飛行機は予定どおり離陸。
びっくりするほど快適な機内。うっとりしてしまう。
食事がとてもおいしかった。なぜか「茶そば」がついていて日本人好みの味。
これって成田発の便だからなの?
機内ではゆっくり雑誌読んだり映画を見たり眠ったり、快適に過ごして目的地に着いた。
ロサンゼルスから、さらに国際線の飛行機に乗り換えて目的地へ向かう。
国際線とは違って、とても乗り心地が悪い。
フライトアテンダントは、らしくない普通のおばさん。
だけどドリンクのサービスでもらうオレンジジュースが、かなりおいしかった。2杯おかわり。
窓の外を見たりおしゃべりしているうちに目的地に到着。
そこは、ロサンゼルスから少し離れた観光都市だった。観光都市であるが故に、優秀なダンサーが集っている。
空港を出ると迎えの車がきていた。この都市に在主の日本人のKさん。
Kさんは私たちがこれから住む家の管理人、ということだった。
日本人のよしみで、日常生活のちょっとした困り事なども助けてくれる、と先輩が教えてくれた。
Kさんの車にみんな乗り、これから住む家へ向かう。
空港で各自の腕時計の時刻合わせを済ませていた。
夕方で外は少し薄暗くなっていて、街の明かりがひときわ華やいでいた。
尋常な華やかさではない。今まで想像もしたことのないようなきらびやかな街。
あまりの驚きで声も出なかった。無数のネオンがチカチカする中を車はゆっくりと走った。
車は、少し回り道をして、私たちはスーパーマーケットに寄った。
規模の大きさに驚く。やはり声が出ないほど驚いていた。
スーパーマーケットの中がとても広く、棚が大きくて、陳列されている商品の種類も数も多い。
まさにスーパーマーケットだ。
先輩はこの店の名前を「アバソン」と呼んだ。店名をじっくり見ると「アルバートソン」だとわかった。
なぜ「アバソン」って先輩は言うのだろう?疑問だったがナツは黙っていた。
今は、驚きも感動も疑問も、さとられたくない。海外が初めてだから騒いでいると思われたくない、とナツは思っていた。
一行はこれから暮らす家に到着した。
広い家だ。2人部屋が6つもある、しかもその2人部屋が2人用とは思えない広さ。
各部屋にシャワーとトイレがある。トイレも広い。
ナツは見たこともない広い家に驚いていたが、やはり平静を装い続けていた。
驚いたり騒いだりして低く見られたくない。特に先輩には。
簡単な夕食を管理人のKさんが作ってくれた。
みんなそれぞれ緊張していたり興奮したりしてワイワイしゃべっている。
それを先輩がゆっくりと話を聞いてやっている。
ナツより年下のアイ先輩。スラッと背が高く理想的なダンサーのカラダ。
アイ先輩は中卒でダンス一筋だ。だからナツより年下なのに仕事では先輩。
何度か海外留学でダンスを学んでいてダンサーとしても素晴らしいし人柄もいい。
ナツはこの事務所には入ったばかりだった。まさに新入りだった。
だからアイ先輩と一緒に仕事もしたことがない。ナツにとって、今回の渡米が初めてのアイ先輩と一緒の席。
だから頭の軽いヤツと思われたくないという気持ちが強かった。
管理人のKさんが家の中のこまごまとしたものの使い方や注意事項をひととおり彼女たちに教えてから帰っていった。
みんなそれぞれペアになって部屋を決め、寝室へ分かれた。
ナツはショウという少しだけ先輩と同じ部屋だ。ナツより数ヶ月の先輩。
「ショウ先輩、よろしくお願いします。」
「ナツ、先輩なんて呼ばなくていいよ、ショウでいいよ。」
「でも先輩は先輩だから…」
「数ヶ月しか違わないんだから同級生と思ってほしいな。
私、同じ時期に入った人もいないし。
それに、この世界そんなに体育会系でもなさそうだよ。」
「なら、ショウちゃんって呼ぶよ。タメ口でいいね。」
「うん、ナツとは楽しくやれそうな気がしてたからさ」
ナツの肩がスゥっとさがる。平静を装っても、まわりにバレバレなくらい緊張していた。
「それにしても広い部屋だね、ショウちゃん住んだことある?こんな広い部屋、私は初めて。」
「私だって初めてだよ、びっくりしちゃったもん、ホテルならこれくらい広いの泊まったことあるけどね」
「ショウちゃん結構金持ちなのか、お嬢様が稼いでるか、どっちなの?」
「なにそれ~別に何者でもないって~」
ナツとショウは灯りを消すのも忘れておしゃべりした。こうして1日目の夜は更けていった。
2日目の朝。
眠そうにしてる人はいない。時差のせいか夜寝なくても平気だったようだ。
皆、朝はやくからリビングに集まっていた。
リビングは家の南側にあってガラスサッシの引き戸があり、外に出ることができた。
引き戸を開けて出るとそこにはプールがある。
「プールつきの家なんてすごくない?」
ハシャいでプールのまわりを歩きまわる。みな、代わる代わるプールを見に行っていた。
アイ先輩が朝食を作ってくれた。
「今日はみんなのぶん作ったけど、明日からは各自で食べて。
夕食は当番が作ってみんなで食べよう。その方が経済的だからね。」
当番制で料理すると知ってナツは少し嬉しかった。料理はけっこう得意だしメンバーは7人だから作り甲斐もありそうだ。
逆にうなだれているのはナツよりもあとに入った超新人の十代の2人、クニエとコハルだった。
「え~料理苦手なんですけど…」
「大丈夫だって、やれば覚えるから」
だれとはなしにクニエたちを慰めながら朝食をすませた。
朝食が終わると後片付けにサッと動いたのはサヤとリカ。
この2人はショウよりもさらに半年くらいの先輩だった。
「はい、ぼーっと見てないですぐに手伝う。片付けとかはみんなでやる習慣にしとかないと誰かにしわ寄せいくからね。」
アイ先輩の一言で後輩たちがみな動いた。
こういうことをキツくならずにサラッと言えて、しかも適度な緊張感をかもしだすアイ先輩ってすごいな。
ナツはアイ先輩の穏やかな表情を見て感心しながら、洗われた食器を拭いた。
「朝ごはんは自分でやるのか。毎朝なにを食べようかなぁ。」
「トーストがいちばんお手軽だよね。」
「なんにしても買い物にいかないとだね」
「あとでみんなで行く?」
みなガヤガヤと相談しているとアイ先輩が言った。
「片付け終わったらスタジオに挨拶に行くよ。その後アバソンで買い物すればいいから。」
「おお、いよいよスタジオ行くんですね!」
ナツが身を乗り出した。
「おー、ナツ、乗ってきたね、片付け終わったらすぐ行くよ。」
片付けと出かける支度をすませ皆でスタジオに向かった。
これからナツたちがダンスのレッスンを受けるスタジオは、家から歩いて10分だった。
スタジオに着くと、中ではジャズダンスのレッスンが行われていた。
内装はすべて木材が使われていてぬくもりのあるスタジオ。
個人経営の小さなスタジオだが活気があった。
入り口に入るとすぐにデスクがあり、まるで日本の企業の社長が座るような立派な椅子がある。
その椅子から立ち上がってナツたちを迎えたのは、スタジオのオーナー兼バレエ教師のイレーヌだった。
イレーヌは、まずアイの姿を見てすぐに駆け寄り、アイを抱きしめた。
「オー、アイサーン、It's been a long time. I missed you!」
アイも英語で何かイレーヌに答えている。
それにしてもスッゴいおばあちゃんだな、とナツは思った。
推定年齢は、70代とも80代ともとれる、顔も腕もシワシワのおばあちゃんだ。
あごがとんがっている、鼻が高い、西洋の人形劇に出てくる魔女の人形みたいな顔。
目はビー玉みたいな水色をしている。髪は総白髪でウェーブがかかっているが非常に薄い。
それなのに、なんて平和であたたかい、チャーミングな笑顔なんだろう。
ナツがイレーヌに見とれていると、アイがメンバーをイレーヌに紹介し始めた。
アイは、まずサヤとリカをイレーヌに紹介した。
ひとりずつ名前を確認して笑顔で話しかけるイレーヌ。
次にショウが紹介され、そしてナツの番がきた。
イレーヌは両手をナツの方に差し出して
「ナツ?ナツサーン!」
それから自分の胸に両手をあてて
「イレーヌ!」
と、顔の筋肉を最大級に動かして言う。とてもチャーミングだ。
ナツは日本語で
「よろしくお願いします」
と、右手を出した。
イレーヌは笑顔でナツの右手を両手で包み込むように握りしめ、
「Nice to see you!」と答えた。
初対面だけどHow do you doとは言わないんだな、とナツは心の中で思った。
ナツのあとに、クニエとコハルの紹介も終わり、一同はダンススタジオをあとにした。
明日からこのスタジオに毎日通う。
今日はレッスンをうけないでゆっくりする予定だと、アイはみんなに話した。
みんなも同じ気持ちだった。
しかし、ナツは、今見てきたジャズダンスのレッスンがとても気になって、スタジオを離れたくない気持ちだった。
ダンススタジオを出て、みんなで近くのスーパーマーケットへ行った。
前の日に立ち寄った「アルバートソン」という店。
陳列棚の大きさや品物の種類と数の多さに改めて驚きながら、めいめいに、思い思いのものを買った。
サヤとリカはビールも買っていた。
ナツは朝食用の食パンやマーガリン、安いステーキ肉を買った。
牛乳は脂肪分のパーセントによって何種類にも分かれていた。「low」と表記してある少しだけ低脂肪の牛乳を買った。
レジに並んで自分で品物をひとつひとつレジ台に置かなければいけない。
レジの人が品物のバーコードを読取りの機械にかざすと「ピッ」と音がする。
読取りの終わった品物はベルトコンベアでレジ台の端まで流れていき、
別の店員が袋詰めをしてくれる。
割と親切なサービスだな、とナツは思った。
会計をすませてみんなで家に戻った。
帰宅してそれぞれ買ったものを冷蔵庫や自分たちの部屋にしまった。
各自、自分の買ってきた食材を使って昼食をとった。
昼食が終わると、みな眠そうにしている。
これが時差ボケってやつか。
しかしナツは眠いどころか、気持ちがはやっている。
スタジオのレッスンが気になってしょうがない。
「アイ先輩、私、スタジオ行ってレッスン見てきたいんです、大丈夫ですよね。」
「ナツ、ずいぶん元気だね。午後は1時半からだよ、イレーヌも喜ぶね、いってきな。」
「よかった、行ってきます。」
スタジオに向かって歩きながら、ナツは、イレーヌに何と言おうか考えた。
レッスンを見学したいってことを英語で言えばいいんだよな。
ということは、「~してもいいですか?」という、許可を求める文章だな。
中学3年のときに一年間だけ通った英語塾では、英語の基本を厳しく叩き込まれた。
ナツは塾の先生の顔を思い浮かべながら英語のセンテンスを思い出そうとした。
「May I なんとか、だっけ?…そうだよ、May I 何々って覚えたんだった。」
May I の次は…
「見学だからseeではない、じっと見るんだから、えーと、watchだ、そうだそうだ。」
「May I watch the lesson?そうだ、これだ!」
あるきながらナツは
「May I watch the lesson?」と何度も声に出して練習しながらスタジオへ向かい歩いていった。
スタジオのドアを開けて中に入ると、クラシックバレエのレッスンがもう始まっていた。
生徒たちの前に立って教えているのはイレーヌだ。
ナツは思い切って大きな声を出した。
「May I watch the lesson?」
イレーヌと生徒たちがいっせいにナツの方に振り向いた。
次の瞬間、イレーヌが最高の笑顔で叫んだ。
「off course!ナツ!」
このやりとりは、ナツにとってはとてもエキサイティングな会話だ。
初めての海外で初めて話す英語が通じた。胸がワクワクした。
そんなナツの興奮をよそに、イレーヌたちはいつも通りのレッスンに集中した。
基本的な訓練のバーレッスンから始まる、スタンダードなバレエのレッスン。
70歳代とも80歳代とも見てとれるイレーヌだが、キビキビとした動きで手本を示していく。
「アン、ドゥ、トロワ、カツ、」
イレーヌの声は大きいわけではないのに、よく響いている。
バレエ用語はみなフランス語だ。
イレーヌのフランス語はとても美しい。
もしかしたら彼女はフランス人かも。
レッスンはクラシックバレエのベーシッククラス。
このクラスは楽についていけそうだな、とナツは思った。
レッスンが終わるとイレーヌがナツに話しかけた。
「ナツ、How do you feel?」
ナツは英語で話しかけられてドキッとしてしまう。イレーヌの質問を頭の中で文字に置き換えてから日本語に変換する。
「…ベリー、グッド」
やっとの思いで答えるが、何がベリーグッドなのかナツ自身もわからない。ただ答える言葉が見つからなかっただけなのだ。
しかしイレーヌはナツの返答に喜んだ。
「オー、スバラシ、ナツ、I'm so happy you came here to watch the lesson, you will be a good student of mine!(あなたがレッスンを見にきてくれて私は幸せだわ、あなたは私のいい教え子になりそうね)」
イレーヌは嬉しさを全身であらわしている。英語はわからなくてもその喜びが伝わってきて、ナツは幸せな気持ちになった。
午後1時半から始まったバレエのレッスンは2時45分に終わった。
生徒たちは簡単な挨拶をかわして三々五々帰っていく。
午後3時からは上級のジャズダンスということなので、ナツはこのレッスンも見学することにした。
ポウルという教師がやってきた。黒人のよく笑う人だった。
オスマン・サンコンをすごーくすごーく上品にした感じだった。
イレーヌが、ポウルにナツを紹介してくれた。
ポウルは真っ黒な肌の色の顔から真っ白い歯を出してニカッと笑った。
「Nice to meet you ナツ!」
それは上品なイギリス英語のような発音だった。
ポウルは、仕草も話し方も、まるで貴族のように優雅で上品で優しさに満ち溢れている。
顔はサンコンなのにな、とナツは思った。
しかしレッスンが始まるとポウルのかもしだすムードが、ガラリと変わり、
ポウルのダンスはシャープな動きに迫力があって、なおかつスタイリッシュだった。
カッコいい!サンコン先生!
ナツは心の中で大拍手をした。しかも心の中でポウルにニックネームまでつけてしまっていた。
この先生のクラスはついていけないかもしれない、それでもこのクラスに出たい。ナツの心は熱くなっていく。
サンコン先生は上級クラスしか教えていない。
無理でも、上級クラスに出るしかない。
翌日からは各自それぞれに出たいレッスンを選んで通い始めた。
朝のジャズダンス、ベーシッククラスはみんなで行った。
午後1時半のクラシックバレエ、ベーシッククラスもみんな一緒。
3時のジャズダンス、ハイクラスと、4時半のクラシックバレエ、ハイクラスには誰も行こうとしなかった。
レベルが高すぎる。
ナツはひとまず、この2つの授業を毎日見学することにした。
4時半のバレエが終わると、ダンススタジオは夕食休憩に入る。
午後7時からジャズダンス、ミドルクラス。中級ということで、ナツの仲間たちは出たり出なかったり。
アイ先輩とナツはこのクラスに出る。
午後8時半からは、イレーヌがオリジナルでやっているストレッチのレッスン。仲間たちもみな出る。
こうして1日が終わる。
初日の朝のジャズダンスはヒップホップのクラス。
教師はミシェルという若い女性の振り付け師だった。
一見、ダンサーと言われても「ん?」と思うようなポッチャリ体型。
ゆったりとしたハーフパンツとTシャツ。
ロングの金髪をポニーテールにして、キャップをかぶって、いかにもヒップホップダンサーといういでたちだった。
童顔のミシェルが笑顔になると、とても愛嬌のある魅力的な表情だ。
サンコン先生もそうだが、ミシェルも、普段のムードとダンスを教える時のムードがまるで違う。
ミシェルが教え始めると、その緊張感で空気さえもピリッと張り詰めるようだ。
そんな緊張感の中でも、ミシェルはひとりひとりの生徒のカラダをリラックスさせ、良さを引き出していく。
ミシェルの振り付けもすごくカッコいい。
ナツは自分のカラダを突き抜けるような喜びを感じながら夢中で踊った。
あっという間に時間が過ぎていく。
「good job,everybody」
ミシェルの大きな声が響きわたった。
生徒たちみんなが拍手をする。こうして授業が終わる。
日本とは全然違うなぁ。
ミシェルのクラスが終わると、ナツはミシェルに駆け寄った。
「my name is ナツ. I'm from Tokyo. I will stay here 3 monthe. I'm so glad to take your class!」
突如駆け寄ってきてまくしたてるナツに、最初は驚いたミシェルも、やがて笑顔になり、優しくナツに答えた。
「nice to meet you ナツ. your dance is very good. enjoy my class.」
ミシェルの方からナツに握手を求めたので、ナツは喜んで右手を出す。するとミシェルはナツの右手を強く自分に引き寄せてナツのカラダをギュッと抱いた。
「thank you for comming!」
ミシェルは腕をほどいてナツの顔を見てニッコリ笑った。
「サ、サンキュー…」
急にハグされてナツはびっくりしてしまった。
それでもなんとか笑顔を作ってミシェルに挨拶をして、途端に急に恥ずかしくなってしまい、急いでダンススタジオを出た。
ハグされてしまった。アメリカ人風の挨拶かぁ。
びっくりしちゃったな。
午後1時半からは、イレーヌのクラシックバレエのレッスン。
イレーヌはいわゆるバレエ教師のような格好はしていない。
上下とも白い、フリルなんか付いたりしているフェミニンな服を着ている。
なのになぜか、イレーヌにとってはバレエを指導するのに適しているようだ。
服にほどこされているフリルなどの装飾は、イレーヌのバレエの動きを少しも邪魔しない。
それどころか、却って動きが生かされて、イレーヌの動きを生徒たちも理解しやすいようだ。
かなり深い配慮をもって服を選んでいるようだ。
イレーヌの右足と左足には違う色のレッグウォーマーが使われている。
これによって、左右の足の動きも理解しやすい。
何よりレッスンが楽しいと感じさせる魅力がイレーヌにはある。
そして、クラシックバレエの基本にとても忠実で、ひとつひとつのカラダの使い方に厳しい。
ナツはモダンバレエとジャズダンスやヒップホップをやってきたので、
クラシックバレエの基本を細かく学べることは新鮮で、それがとても嬉しかった。
イレーヌのバレエのクラスが終わり、ナツの仲間たちはみな、家に帰った。
アイ先輩も帰った。
ナツはスタジオに残り、3時のジャズダンス・ハイクラスと、4時半のクラシックバレエ・ハイクラスを見学した。
昨日は3時のクラスは、サンコンに似ているポウル先生だったが、今日は若い女性の先生だ。
彼女は「J.J」と呼ばれていた。
スタジオの教師紹介の張り紙を見ると、どうやら、やたらと長い名前のようだ。
それで略式化して、こういうニックネーム的な呼び方なのだ。
JJは詩的なダンスの振り付けをする。モダンバレエに近い。
モダンバレエ出身のナツは、JJの振り付けを好きになった。
朝のミシェル同様、JJもとにかく声が大きい。
振り付けの動きにも、声の大きさにも、圧倒的な迫力がある。
ハイクラスだけあって、参加する生徒も、ハイレベルのプロのダンサーが多い。
いつか、この人たちと並んで踊れるようになるかな。
かなり時間がかかりそうな気もする。
続いて、ハイクラスのクラシックバレエを見学した。
タラという小柄な女性のバレエ教師。
いかにもバレエ教師といういでたちだった。
手足、カラダ、すべてが細く美しいラインだ。そして小顔。
おそらくプロのバレエダンサーだったのだろう。
その小さいカラダからは想像もつかないような迫力がある。
ただそこに居るだけでもその迫力を感じて、ナツには、タラ先生が別世界の人のように感じた。
前半のバーレッスンなどは基礎的な動作を厳しくチェックしている。
どんなに実力あるダンサーでも毎日、こうやって基礎的な動きを基本どおりできるかチェックしているのかもしれない。
後半のフロアレッスンでは、ナツが体験したこともない複雑な動きをやっていた。
さすがに無理かな。とナツは思った。
でも、このハイクラスのレッスンをあきらめる気持ちになれない。
タラ先生のレッスンも、タラ先生その人も、あまりに魅力的だ。
このレッスンを受けることができるレベルに早くなりたい、とナツは思った。
そのためには、初級でも中級でも、バレエのレッスンをしっかりこなしていかなければならない。
見学している間、イレーヌがナツにいろいろと解説してくれていたけど
ナツには、そのイレーヌの声すら耳に入らなかった。
それほどまでに、ナツはタラ先生のレッスンに集中して見学していた。
高校時代に少しだけクラシックバレエのレッスンを受けたことをナツは思い出していた。
モダンバレエをやっていたナツには、できないことだらけだった。
モダンバレエとジャズダンスを続けてきたけどそれだけでは得られなかった大切なことを
クラシックバレエのレッスンで学べるのかもしれない。
感動と興奮とこれからへの期待で、ナツは気持ちの整理がつかなくなり始めていた。
あまりの嬉しさに、自分の心がついていけない。
家に帰って夕食を済ませてから、ナツはアイ先輩と一緒に、午後7時のジャズダンス、ミドルクラスに出た。
ロック歌手のようなストイックっぽいかっこよさの男性の教師。
ボビー先生の年齢は30代くらいと見受けられた。
ワイルドなかっこよさに、ナツは、ボビー先生を一目見てすっかり惚れ込んでしまった。
「ナツ、目がハートばい」
アイ先輩が笑いながら九州弁でナツをからかった。
ボビー先生は日本人のアイ先輩やナツにも親切に教えてくれる。
ウォーミングアップのエクササイズを教えながら、ナツのところへ来て、ナツの手をギューッと引っ張った。
「もっと伸ばせ」というような意味のことを、英語で言ったようだ。
ナツは一目惚れしたボビー先生の手が触れてドキドキしたが、それ以上に、自分の腕の延ばし方がMAXではなかったことにショックを受けていた。
ボビー先生の振り付けは言葉では言い表せないくらいにカッコ良くて素晴らしい。
ひとつひとつ振りを覚えて動くたびに、ナツは自分の心が燃えていくのを感じていた。
「OK,good job everyone!」
ボビー先生の大きな声の一言でレッスンは終了、みんな拍手している。
ナツはすでに放心状態だ。目はハートのまま…
一日の終わりのレッスンは、イレーヌのストレッチだった。
先ほどのボビー先生のレッスンには来なかった仲間たちもやって来た。
イレーヌのストレッチのレッスンは、イレーヌが考案したオリジナルだ。ストレッチと筋力トレーニングがうまく分散されてプログラムしてある。
音楽は往年のヒットナンバーで日本人にも親しみのある曲ばかりが流れてくる。
時にはリズムに合わせて声も出す。思いっきり声をだしながらストレッチすると不思議と柔軟性が高まっていくような気がした。
前日のスタジオ見学から始まったナツの感激は、
今日のさまざまなレッスンでさらに強められていき、
ボビー先生のレッスンで最高潮に達し、
とうとうイレーヌのストレッチレッスンで爆発する。
これから思う存分ダンスを学ぶことができる喜びが、ナツの胸から熱いものをこみ上げさせ、大粒の涙となって溢れ出した。
イレーヌはナツがなぜ泣いているのかわからないので、驚いて、ナツにレッスンを中断させようとしたが、
ナツはやめようとはしない。
それどころか、さらにカラダを思い切り動かしながら、今やナツは声をあげて泣いているのだった。
イレーヌは英語でナツに問いかける。
「どうしたの?何があったの、ベイビー?」
ナツは泣きじゃくりながらも必死でイレーヌに答えようとした。
ナツはイレーヌに、自分が今、どんなに幸せな気持ちなのかを伝えたかった。
イレーヌはやがてナツの思いを理解し、優しい表情で微笑んでいた。
イレーヌのストレッチレッスンはレッスンそのものもオリジナリティにあふれているが
そのレッスンの終わり方も独特だった。
ハードなストレッチと筋力トレーニングの繰り返しのあと、クールダウンのストレッチ。
そして、フロアに一人ずつマットを敷き、仰向けに寝そべってメディテーションの時間。
イレーヌはリラックスさせるためのイメージトレーニングとなるようにトークしながら
生徒たちにバスタオルをかけていく。何枚も何枚もかけて全身を完全に覆い隠す。
生徒たちは目を閉じてイレーヌのトークを聞きながら、心と身体をリラックスさせていく。
感激で泣きじゃくっていたナツも、クールダウンしてリラックスしていった。
このメディテーションが最後でレッスンは終わる。
すると、イレーヌは皆をフロアに座らせたまま、歌い始めた。
なんと日本語だ!
「サーヨナーラー、サーヨナーラー、good~bye~」
どうやらこの歌もイレーヌのオリジナルらしい。歌は続いていく。
イレーヌのオリジナルなストレッチのレッスンの最後は
イレーヌのオリジナルの歌で締めくくられるようだ。
かろうじて歌といえるような非常にシンプルなメロディーでイレーヌは歌い始めた。
その場にいる常連のアメリカ人の生徒たちもイレーヌと一緒にたどたどしい日本語で歌う。
「サーヨナーラー、サーヨナーラー、good bye、アイサーン、サヤサーン、リカサーン、ショウサーン、ナツサーン、クニエサーン、コハルサーン…」
みんながひとりひとりの顔を見て、名前をメロディーに乗せて歌っている。
それも、日本人の名前を優先的に歌い、そして地元のアメリカ人の生徒たちの名前もメロディーに乗せて、全員の名前を歌った。
さほど魅力的なメロディーではなかったが、ひとりひとりの名前を呼ぶ暖かさを感じて
ナツはまた感激してしまう。
歌が終わると、イレーヌがリードして、みんなで声を合わせて挨拶。
「オヤスミナサイ、マタアシタ…」
まず日本語、そして英語、フランス語、スペイン語で挨拶し、レッスンは終わった。
レッスンが終わると、イレーヌはひとりずつ抱きしめて、帰る生徒たちを送り出していく。
とても暖かい気持ちになって、ナツたちは家路についたのだった。
1日に4つものレッスンを受けることができるなんて、貧乏ダンサーだったナツには夢のようだ。
だからこそ今の内に受けられるだけのレッスンをできるだけ多く受けたい。
ナツは、張り切って1日に4つのレッスンをこなそうとしていた。
朝のジャズダンス、
午後1時半のクラシックバレエ
午後7時の中級ジャズダンス
そして1日の終わりはイレーヌのストレッチ。
しかし急激にレッスンの回数を多くしたのでカラダが追いつかず、ナツは激しい筋肉痛になってしまった。
アイ先輩が心配して、筋肉痛用の軟膏を買って、持ってきてくれた。
白い容器には
「cool&hot」と書いてある。
ナツは容器のフタを開けて、筋肉痛の部分に塗ってみた。
「cool&hot」はサラッとした白いクリーム状の塗り薬だった。
塗ると、しばらくして、塗った部分がとても冷たくなった。
寒く感じたほどだった。
しかし、またしばらくたって、こんどはとても熱くなってきた。
心地よく暖められて筋肉痛が癒された。
この塗り薬はナツのここでのダンス生活にとても役立ってくれた。
リビングでナツの様子を見ながら、アイ先輩がストレッチをしている。
「ナツ、無理はいかんよ。1日3レッスンでも充分よ。」
「う~ん、わかってますけど、無理してでも受けたいレッスンがいっぱいありすぎて。」
「ふう~ん、ナツは楽しそうに踊るもんね、あんたみたいに楽しそうにする子は初めて。まるで子どもやん。」
アイ先輩はそう言って笑った。ナツには、プロのダンサーが持つストイックさは全くない。
ただ、大好きな遊びをやりたくてたまらない子どものように
レッスンを楽しんでいる。
それがアイにしてみれば珍しくおもしろかった。
きっとイレーヌもそう感じているだろうな、とアイは想像していた。
テレビがついていて、志村けんのバカ殿のビデオをみんなで見ている。
管理人のKさんが、日本から送られてきたビデオテープを貸してくれたのだ。
みんなビデオに見入って、大きな声で笑っている。
ただ一人、上の空で明日のレッスンのことを思い巡らせているナツを見て、アイは
「ほんとに、あんたはおもしろいね」
と小さな声でつぶやき、クスッと笑った。
朝の初級ジャズダンスは毎日教師が変わる。
ヒップホップ専門のミシェルやモダンバレエ風の振り付けをするJJ、ほかにも曜日によって教師が決まっているようだ。
その中に、リゾーという中年男性の教師がいた。
リゾー先生は、いわゆる昔ながらのジャズダンスを教える。
振り付けは大人っぽい華やかさがあった。
日本で仕事をしたことがあるというリゾー先生は、日本人の生徒にとても親切にしてくれた。
アイ先輩もリゾー先生の振り付けで仕事したことがあるという。
ナツも、ナツと同じ部屋で生活するショウも、リゾー先生の振り付けを一度受けただけで、とても好きになった。
大人っぽいエレガントさと、ほんの少しだけにじみ出て来るセクシーな味わい。
シンプルな動きの組み合わせなのに、皆で踊るとなぜか華やかになる。
なんだか一流ホテルのショーで踊っているかのような気持ちにさえなるのだ。
リゾー先生は初級と中級のクラスを教えていた。
中級には尻込みしていたショウが、リゾー先生の中級だけには出ることにした。
さらに個人的にもリゾー先生にレッスンを受けることにしたらしい。
ナツにはショウの気持ちがよくわかる。きっと、ショウの感性にリゾー先生の振り付けが合っているんだろう。
ナツだけではなく、ショウも急に生き生きとしてきた。
リゾー先生の弟子のマルコスも朝の初級ジャズダンスの教師だった。
白色人種の中でも特に白い肌のマルコス。
スレンダーであまり筋肉質ではない、少し気が弱そうだ。
リゾーの弟子というくらいだからレッスン内容も振り付けもリゾーに似ているのだが、
どこか、そこはかとない繊細さもにじみ出ていた。
マルコスの英語はなぜか聞き取りやすかった。
レッスンも親切丁寧に教えてくれる。初級のクラスには申し分ない教師だった。
しかしナツは、マルコスの気の弱そうなムードが好きになれず、彼のレッスンにはあまり行かなかった。
逆にマルコスは、2~3回のレッスンでナツのことを気に入ったようだ。
レッスンに出ずに時間差でスタジオに来るナツに、マルコスは熱い視線を送っていた。
ナツは彼に興味がなかったのでマルコスの視線には全く気づかないのだった。
午後1時半のクラシックバレエは毎日イレーヌの担当だ。
年齢は70代とも80代とも見受けられるイレーヌが、毎日生き生きとバレエを教えているのだった。
午後3時の上級ジャズダンスを教えているのは、オスマン・サンコン似のボウル、モダンバレエ風振り付けの若い女性JJ、ナツが一目惚れしたロック歌手風のボビー、ほかにも一流のショーケースで活躍している振り付け師が日替わりでやってくる。
中でも、マイケル・ダグラスに似たジェイミーという振り付け師のクラスは
トップクラスのダンサーがいちばん多く集まってくる人気のレッスンだった。
ジェイミーのクラスにトップクラスのダンサーが集まる理由はすぐに理解できた。
かっこいいとかオシャレとかそういう言葉ではとても表現できない、質の高い振り付けだ。
踊るダンサーたちを魅力し、見る人を惹きつける。
好き嫌いの好みを差し引きしても、質の高さは揺るがない。
ナツはジェイミーのクラスを見学しながら、もし無理だとしてもこのクラスを受けたいと、心から思った。
このクラスに来るトップクラスのダンサーの中でも、ひときわ輝いて見える女性ダンサーがいた。
髪は黒く、おかっぱにしている。映画「シカゴ」のときのキャサリン・ゼタ・ジョーンズに似ていた。
彼女は膝まで高さのある茶色い皮のブーツを履いて踊る。
普通は足首までの、とか、くるぶしまでのダンスシューズを履くのに。
皮のブーツは使い込んでいるのか、とても年期の入っているような、シブい光沢があり
踊る彼女の足に、しなやかにフィットしている。
彼女のダンスはメリハリがきいているのに少しも押し付けがましさがない、美しい動きをしていた。
ナツは、このダンサーに「ブーツのひと」という呼び名をつけて、自分の心のうちの密かな目標とした。
それは遠く高い目標だった。
ナツが「金持ち先生」というあだ名をつけたリゾー先生のクラスは楽しかった。
ナツにとっては、難しいと思う要素がほとんどないレッスン内容だった。
しかしオーソドックスだが味のある振り付けには学ぶものがあった。
日本人の生徒たちはみな、こぞって金持ち先生のレッスンに出ていた。
一方、金持ち先生の方では、熱心に集まる割には踊りが生き生きとしないJapanese studentに物足りなさを感じていた。
もっと自分の殻をこわして内なる情熱を全身であらわしてほしい、そんな思いからか、大声で
「エナジー!」と叫ぶことが多かった。
こうしてナツは「energy」という単語を覚えた。
おとなしい日本人の仲間とは対照的に、ナツはすっかり心を解放して、のびのびと情熱的に踊っていた。
毎日、スタジオに通っていると、ほかの生徒たちとも顔見知りになっていく。
もともとアイ先輩と仲の良いひとたちもいた。
大学生のブライアンは背が高くて顔立ちの整った好青年。
大学で日本語を学んでいるらしく、日本語と英語を交えつつ会話してくれる。
アイ先輩をとおして、ナツの仲間みんなが、ブライアンと親しく話すようになった。
ブライアンは誰にでも優しく話してくれる。
顔もかっこいいから、ナツやみんなも、ちょっと会話するだけで、ポーッとなってしまうのだった。
ブライアンはダンスはそんなに特別ではなかった。初級クラスばかり受けていた。
しかし、スタジオの外では、ナツたち日本人にとっては、素晴らしい英語の先生となった。
ブライアンは時にはナツたちの家にも遊びに来た。
ブライアンが勉強に使っている日本語勉強ビデオを、ナツたちに見せてくれたりした。
また、ナツたちのアメリカ生活にいろいろアドバイスもしてくれたりした。
ブライアンは冗談を言うのが好きだった。
日本語の冗談を言ってみたいらしく、ナツたちは簡単なダジャレやその頃日本で流行っていたギャグなどを教えてあげたりもした。
ナツにとっては個人的には、単なる好青年で恋愛対象にはならなかった。
ある日、ナツたちは、とある大きなリゾートホテルのショーを観にいくことになった。
ショーは午後だったので、みんなで午前のジャズダンスのクラスに出てから、午後のショーに出かけることにした。
公共の交通の利用に詳しくない彼女たちは、出かける時にはほとんどイエローキャブという格安タクシーを使った。
朝、みんなでスタジオへ行くとブライアンがレッスンに来ていた。
誰かがブライアンに言った。
「we go *******hotel to watch the show.」
ソレハイイネ、とカタコトで答えたブライアンは、ふと、真剣な表情で彼女たちに質問した。
「how do you go there?」
ブライアンは彼女たちの交通手段を聞いた。
「タクシー、タクシー!」
みんな口々に答えた。
するとブライアンは、タクシー運転手に行き先のホテルを言うときの発音に気をつけるように言った。
その場は即席英会話教室に早変わりし、ブライアン先生は、
ナツたちの仲間全員の発音を、ひとりひとりチェックする。
日本人の女の子7人で出かけるのだから、2人くらいが正しい発音をできれば十分だ。
しかしブライアン先生はひとりひとりに丁寧に教えてくれる。
教わる方も楽しいから、誰も水をさすようなことは言わずに、喜んでブライアンに習うのだった。
このようにして、事あるごとにブライアンはナツたちと楽しく過ごしてくれる貴重な友人だった。
メキシコ人のフェルナンドはダンサー見習いの明るい青年。
身長は低く痩せている。
ジャズダンスの初級クラスと中級クラスの常連だった。
ナツには、最初、フェルナンドがメキシコ人とはわからなかったが、イレーヌとフェルナンドがスペイン語で会話していることに気が付いた。
ナツはフェルナンドに話しかけてみようと思った。
ラジオでスペイン語を少し勉強していたことがあったのだ。
その当時は、フラメンコダンサーになりたくて、スペインに留学するつもりだったのだ。
フラメンコを少し習ったとき、何かピンとくるものがあった。
もしかしたらフラメンコが自分の内面的な性質と合うのかもしれない、とナツは思っていた。
それでもフラメンコへの転向には踏み出しきれず、ダンサーとして生きる道を探っている。
そんな事情もあって、フェルナンドのスペイン語は、ナツの心を特別に惹きつけた。
ナツは思いきってフェルナンドに話しかけてみた。
「オ、ラ!(こんにちは!)」
「oh! you speak spanish!」
フェルナンドがすぐに笑顔で答えてくれた。
フェルナンドは英語だったがナツはスペイン語で続けた。
「ミ、ノエバ、エス、ナツ。(私の名前はナツです)エンカンタダ(よろしく)」
今度はフェルナンドもスペイン語で
「エンカンタド(こちらこそよろしく)」と言った。
「are you Spanish?(スペイン人なの?)」
「no I'm Mexican.(違うよ、メキシコ人なんだ) you speak spanish so good!(君のスペイン語すごくいいね!)」
アメリカに来て、メキシコ人のフェルナンドと日本人のナツがスペイン語で通じ合っている。
ナツにはそのことがとても感動的だった。
2人は、レッスンで会う度にスペイン語であいさつを交わし、英語で友情を深めていった。
小柄で痩せていて、顔も特別には良くはないフェルナンド。
男性として意識するような要素も思いつかないほどだ。
むしろいたずらっ子っぽい性格のフェルナンドを弟のように感じるナツだった。
日曜日のランチタイムにナツたちはバーベキューパーティーを開いたりした。
スタジオで友達になったブライアンやフェルナンドも来てくれた。
フェルナンドは時々、白人の友人を連れてきたが、その彼はダンスをやっている人ではなかった。
時にはリゾー先生が弟子のマルコスを伴って来てくれた。
リゾー先生は知らなかったがマルコスはナツに会うのが目的だった。
しかし師匠の前ということもあり、そして気弱なマルコスは、なかなかナツに話しかけることができなかった。
ナツはスタジオで顔見知りになった人たちと積極的に英語で会話をしようとチャレンジしていた。
ナツの熱心さをブライアンも感じて、特別にいろいろ英語を教えてくれた。
またナツは、フェルナンドとスペイン語で話すのも楽しかった。
以前スペイン語の勉強に使っていたノートを取り出して、フェルナンドに見せたりした。
ほかの日本人仲間たちはカタコトの英語で満足していた。それでもカタコトなりに楽しくコミュニケーションしていた。
料理に音楽、ゲームやスポーツなど、言葉ではなくとも、コミュニケーションのツールはたくさんあった。
庭のプールも大活躍だった。
得意な人は泳ぎや飛び込みをやって見せた。
プールサイドにはビリヤード台があって、腕を競い合ったりもした。
平日はレッスンに明け暮れて、土曜日や日曜日は楽しく過ごすという生活リズムによって、
ナツたちの毎日は充実していったのだった。
スレ主です。ここまで読んでいただきありがとうございます。
20年以上前の記憶をたどりながら書いています。
断片的な記憶に脚色を加えています。
英語の会話などは言葉を間違ってしまうかもしれませんし、英語力が足りないので今後は会話も日本語で書いていきます。
記憶に強く残っている場合は英語で書くかもしれません。
気軽にお楽しみいただければ幸いです。
ナツは朝の初級クラスには出たり出なかったり自由にしていた。
どちらかというと午後7時の中級クラスに重きを置いていた。
スタジオに張り出された予定表を見ると、明日の朝は金持ち先生のクラスだ。
ここ2週間ほどは彼のレッスンがなかったので、ナツは明日のクラスに出ることにした。
初級クラスでも、リゾー先生のレッスンは受ける価値があるとナツは思っていたのだ。
明けて翌日、ナツは仲間たちと朝のレッスンの時間に合わせてスタジオに来た。
日本人はレッスンの15分以上は前にスタジオに必ず入っている。時には教師よりはやい。
ほかのダンサーたちはけっこうギリギリに来たりする。
今朝も日本人のナツたちがスタジオに一番乗りだ。
さっそく良い場所を確保して床にすわり、それぞれにストレッチをしてリゾー先生を待った。
そのうちに他のダンサーたちも少しずつ集まってきた。
ブライアンもフェルナンドもやってきた。
ストレッチを続けながらもおしゃべりなんかして、リゾー先生を待つ。
時計の針はレッスン開始時間を差した。先生が来ない。
ブライアンが
「リゾーの15分遅れなんて当たり前だよ、彼にとっては15分なんて遅刻のうちに入らないからね。」
と、日本人のナツたちに説明してくれた。
フェルナンドや他の人たちはすでに知っているという風で、平然として待っている。
「そんなことあるんだ、ちょっと信じられないけど」
「先生が遅れるなんて聞いたことないよ~」
日本人の女の子たちは口々に驚きやちょっとしたイライラを言うが、誰も気にかけない。
そんなに価値観違うのかな。
でも金持ち先生のほかに遅れる教師なんていなかったよな。
ナツもいぶかしく思った。
そして15分後に現れたのは、金持ち先生ではなかった。
レッスン開始のはずの時間を過ぎて、15分後に現れたのは、リゾー先生の弟子のマルコスだった。
「リゾーは来れなくなった。僕が変わりにレッスンするよ。」
ナツは心の中で
「ええ~?」と叫んだ。
マルコスのレッスンと知っていれば来なかったのに。
しかし誰も不平を言う人はいなくて、ごく自然にマルコスのレッスンが始まった。
ナツのテンションは最悪だ。
まずレッスン開始時間が遅れただけでも気分悪いのに。
その上、金持ち先生のかわりにマルコスだなんて。
もう今すぐ帰りたい。
しかし、ほかの仲間たちが黙ってマルコスのレッスンを受けているのに、ナツひとりだけ帰るのは気が引けた。
マルコスはどうでもいいけど、先輩や後輩がとどまっているのに帰るのは、申し訳ないと思った。
仕方ない。せっかく来たんだし、やる気をだそう。
そう決めればすぐに全身全霊全力だ。
限りある留学生活。時間を無駄にしたくないと思っていたナツ。
そして日本人の仲間たちも同じ気持ちだった。
代理教師マルコスのレッスンが終わった。
マルコスはナツに目線を合わせて何か言いたそうだったが、ナツは誰よりもはやくスタジオを出た。
マルコスを無視するつもりはなかったが今朝だけは気分を害されて、マルコスとは話したくなかった。
飛び出すようにしてスタジオをあとにしたナツを、ブライアンが追いかけてきた。
「ナツ!今朝も全力だね!」
ナツは立ち止まってブライアンの方に振り向いた。
「ああ、ブライアン。ありがとう。ただ私は、みんなの忍耐強い態度に答えただけだよ」
「リゾーは特別だよ。彼は平気で遅れるしドタキャンもある。僕らはそれがわかっていて、それでも彼のクラスをとるんだ」
「そう、金持ち先生の魅力なのかな、私もそう思えるかな?」
「それはナツの気持ち次第だよ。それより、マルコスがナツに話しかけていたの知ってた?」
「まあね、申し訳ないけど今日は話す気分じゃないんだな」
「ナツ、マルコスだってたいへんなんだよ。リゾーは急にキャンセルして、マルコスに電話して、彼にレッスンを任せるんだからさ。急に電話もらってレッスンしなきゃいけないマルコスの身にもなってあげないと」
「なるほどね。確かにマルコスの責任じゃないよね。」
「それに、マルコスの気持ちをナツもわかるだろ?」
「マルコスの気持ち?」
ブライアンは話を続けた。
「ナツ、実はこの前のバーベキューパーティーで、僕はマルコスに相談されてね」
「相談?」
「マルコスははっきり言ったよ、ナツのことが好きなんだ」
「ええ~?ノーサンキュー!」
「本当にノーサンキューなの?別に恋人にならなくても、食事したりちょっと出かけたり、友情を深めるだけでも彼は喜ぶと思うけどなぁ」
「友情?でもマルコスはちょっと~」
「君や君の友達は、家でバーベキューパーティーしたり、スタジオで知り合った友人を家に招待してお茶したり語り合ったりしてるだろ?その延長だよ」
「あっそう、わからなくもないけど、でもね~」
「ナツは誰か好きな人がいるの?それとも日本に婚約者か恋人でもいる?」
「そういうのはないよ、恋人が欲しいわけでもないし。だからマルコスとも個人的に仲良くしたいとは思わないよ、その気がないのに、かえってマルコスに悪いじゃん」
「ナツ、もし君が、このアメリカで何かしらのチャンスに巡り会った時には、マルコスとの友情が役に立つかもしれないんだよ。その時には、彼は君にとって適任者になるはずだよ」
「ブライアン、言ってる意味がさっぱりわからない。」
「まあいいさ。マルコスとの友情の可能性をゼロにしないように考えておいてね」
「そういうブライアンは誰か好きな人いるの?あんただって年頃の青年じゃん」
「え!?僕?僕は…」
ブライアンは突然真っ赤な顔になった。
目線の先は、すぐに帰らずにそのあたりでおしゃべりしているナツの仲間たち…
「ブライアン、私の仲間の中の誰かなの?」
ブライアンは、ナツの質問にハッとして、目線をナツに戻した。
さっき赤くなったブライアンの顔から赤みが消えて、防御的な厳しい表情に変わっている。
「ああ、僕は君の友達の誰かを好きかもしれない、僕には答える権利もあれば答えない権利もある。今は答えない権利を選ぶよ。サヨナラ」
そう言うと、ブライアンは踵を返してすごい速さで歩いて帰ってしまった。
なんだよ、他人のことには首を突っ込んでさ、自分のことは言わないってどうよ。
変なヤツ。
近くでおしゃべりしていた仲間の中から、ショウがナツに近づいてきた。
「ずいぶんしゃべってたね、すっかり英語ペラペラじゃん、ナツ~」
「たいした話してないって。でもブライアンの恋愛ちょっと聞いてみちゃった」
「なになに~?それ興味ある!どんな話?」
「いや、結論から言うと収穫なし。誰か好きな人いるのか聞いてみただけさ。」
「そうなんだ~私たちの面倒みてくれて親切だし、けっこうフランクな人だと思ってたけど」
「僕のプライベートに踏み込まないでくれよみたいな(笑)」
「なに、秘密主義ですか(笑)」
「年頃の青年はなに考えてんだかサッパリわからんよ」
「お前はオヤジか!」
ナツとショウは笑いあってから突然、空腹に気づいて、足早に家に帰っていった。
ナツは毎日、午後3時の上級ジャズダンスのクラスを見学していた。
火曜日担当のポウル先生は、いつも見学しているナツを見て、気に留めていた。
ある日ナツは、イレーヌに呼び止められた。
「ナツ、ポウルが彼のクラスに出るように言っているわ。」
「本当に?嬉しいけど私の実力では無理なんじゃないですか」
「そう、ナツの実力では本当なら無理だけど、ポウルがとにかくあなたのことを見てみたいって言ってるのよ。
もし実力が追いつかなくても助けてあげると言ってるから、まずは来週火曜日の3時に出てみなさい」
ナツは驚きと嬉しさでどうしたらいいかわからなくなった。
しかし喜んでばかりもいられない。まだスタート地点にも立っていない。
これからが勝負だ。
ナツは翌週のポウル先生のクラスのことを考えながら、ひとつひとつのレッスンを丁寧にこなしていった。
実力で言えばナツとそんなに変わらないショウは、ナツのことを喜んでくれた。
「ショウも一緒に来てよ、私が受けられるクラスならショウも同じだよ」
「それはダメだよ、ナツ、あんたが熱心に見学したから、実力が伴わなくても呼ばれたんだからさ。
それに私は実力違いのところで恥ずかしい思いするのはイヤだから。
地道にゆっくりタイプ。
あんた期待されてんだからしっかりやりなよ。きっとこれからたいへんだよ。」
「うん、そうなんだよね、やるからには厳しい要求も覚悟しないと、だよなぁ」
「まずは楽しんできなよ、ナツが先のこと心配して暗い顔なんて、似合わないし絵にもならないよ(笑)」
「そうだね、ま、気楽にいくかな、やってみないとわかんないしね」
その日が来て、ナツは初めてポウル先生のレッスンに出た。
うまくついていけずに冷や汗をかきながら、それでも、出来る限りのことはやった。
やはりあまりの実力の足りなさのために、このクラスはナツにとっては居心地悪い。
レッスンが終わりポウルがナツを呼んだ。
「ナツ、グッジョブ!君の今の実力でベストを尽くしたことがよくわかったよ。
僕のクラスに来てくれてありがとう。来週も待ってるよ。」
「ポウル先生、私のダンスどうですか?これから何をすればいいですか?」
「ナツ、バレエのレッスンでピルエットをやっているね」
(※ピルエットとは、片足を軸にその場で回転すること)
「ピルエット、やってます」
「シングルで回っている?それともダブル?」
「時にはダブルもやりますけどシングルの方が安定してできます。」
「OK、今日からシングルは禁止だ。失敗してもいいからダブルでやりなさい」
「えっ今日から?」
「もちろん。そして、2週間後には完璧にできるように練習しておきなさい」
「ええ?」
「いいかい、プロの仕事でシングルのピルエットなどありえない。安定しているからといってシングルばかりでは次に進めない。」
「…はい」
「2週間後までにダブルのピルエットが完璧になったら、ナツをほかの先生の上級クラスに紹介するよ。
君はいつでもベストを尽くすことができるはずだ。信じているよ。トライしてみなさい」
「わかりました。ポウル先生ありがとう。ベストを尽くしてみます。」
「君ならできるよ。私は信じているよ、ナツ。」
ポウル先生は穏やかな笑顔と優しい語りかけでナツを励まし、
ナツと握手を交わして、帰っていった。
覚悟はしていた、乗り越えなければいけない壁を必ず示されるということを、ナツ自身も思い巡らしていた。
それがピルエットダブル。
2週間で完璧な2回転をマスターしなければならない。
自分が望んだことだ。チャレンジする機会が与えられたことを喜ぼう。
ナツは猛練習を始めた。
イレーヌはポウルがナツに出した課題をわかっていて
ナツに個人的にアドバイスしたり、バレエのレッスンに重点的に取り入れたりした。
「回る練習よりも軸足で立つ練習が大切よ、ナツ。軸足でまっすぐに立って、長くバランスを保てなければ、いつまでも回れないのよ。」
イレーヌのアドバイスは的確だしとてもわかりやすい。
「ナツ、右足でも左足でも、同じようにバランスよく長く立てるようにするのよ。
どちらかが得意でどちらかが苦手というのではプロの仕事はできないわ。」
イレーヌのアドバイスを聞き、ナツは軸足でバランスよく立つ練習に集中した。
ポウル先生は、
「バレエもジャズダンスもどんなレッスンにおいても2回転すること」
というルールをナツに与えたので、ナツはどのレッスンでも2回転に挑戦し、よろけたり派手に転んだりした。
一週間が過ぎても、ナツのピルエットは全く上達しなかった。
ポウル先生から課題を出されてから一週間、ナツの猛練習の成果は微塵もあらわれない。
あと一週間で本当に回れるようになるのかな。
不安が大きくなってきたナツに、朝のレッスン後、ブライアンが声をかけてきた。
「ナツ!今日も君は全力だね」
「ハーイ、ブライアン!あんたの恋が実るのを待ってるんだけどどうなの?」
「オー、ナツ…僕の個人的な話は言わせないでくれよ、ブライアンは日本人よりシャイだって辞書に書いてなかった?(笑)」
「そりゃ失礼(笑)あとで辞書見とくよ。」
「ナツ、新しいことにチャレンジしてるんだね」
「え?ああ、ピルエットダブルのことね、転んでばかりだけどね。」
「君はいつも楽しそうに踊るのに、最近笑顔が少ないよ、チャレンジのせいなのかな?」
「あ~そうかもね。ピルエットダブルを完璧にするようにポウル先生に言われたから。
期限があと一週間なんだ」
「あと一週間、そうなんだ」
「でも無理なんじゃないかな?スッゴく練習してるのにさ、全然上達しないんだ」
「ナツ、たった一週間の練習で結論なんか出ないだろ」
「だけど期限はあと一週間…」
「君の努力があと一週間で成功するかしないかは僕にはわからない。
ただ僕が言いたいのは、君は成功するから努力して、成功しないなら努力しないの?
そんな理由で踊っているの?
違うだろ。
君のチャレンジが成功したとしても、踊るための手段を手に入れるだけさ。
チャレンジの成功を目的にしてはダメだよ。」
「お~、ブライアン、すごいいい話聞かせてくれてありがとう。ブライアンは正しいよ。今の話、よくわかったよ。」
「良かった。わかってくれて嬉しいよ。ナツ、スマイル!」
「OK、スマイル!」
ここまで英語で話していたブライアンは、急に日本語で
「ナツサン、マタアイマショ、ゴキゲンヨ~」
と言って、深々とお辞儀をして帰っていった。
そのブライアンの仕草がちょっと笑えて、ナツはニヤリと笑った。
いい友達だな。ちょっとお節介なとこあるけど。
ナツがポウルに課題を与えられて10日たった。
アイ先輩に仕事が入ったので、明日、急遽日本に帰ることになった。
ナツたちは慌ただしい送別会を開いた。
アイ先輩にとってはそんなに特別なことではないが
ナツたちにとれば、初めてのダンス留学で頼りにしていたアイ先輩は特別な存在だ。
「大丈夫、みんなそれぞれ自分の力で頑張ってるんだから、その調子でやればいいよ」
アイ先輩の優しい励ましの言葉を聞いて、みんなは気持ちを新たにしたようだ。
「ナツ」
アイ先輩に小さい声で呼ばれてナツはそばに言った。
「今やってるチャレンジがこれから必ず役に立つよ。あんたならできるよ。信じてる」
「はい。う、う、う~」
ナツはすでに涙をこらえきれず子供のような泣き声をあげそうになっていた。
「ホント泣き虫だよね、ナツ」
「だって~う、う、う~」
「このチャレンジだけじゃないよ、この先もっとレベルの高い壁をいくつも越えるんだよ、だから今回しっかり成功することだよ。」
「は、は、はい…うわぁ~!
うぇっうぇっうぇ~~~」
大きな泣き声がリビングルームに響き渡って、真剣に泣いているナツを見てみんな大いに笑った。
大泣きしてるナツも、それを見て暖かく笑っている後輩達も、みんないいヤツだな、とアイは思った。
翌日、アイは午前のジャズダンスクラスが終わる頃にスタジオに顔を出し、
イレーヌや顔見知りの生徒たちに帰国の挨拶をした。
挨拶を済ませてスタジオを後にしたアイを、ブライアンが追いかけた。
2人は駐車場の隅で話し始めた。というよりブライアンが一方的に何か言っているようだ。
ショウとナツは2人の様子を遠くから見ていた。
「ナツ、この前のブライアンの秘密はこれなのかな」
「これだとしか思えないよね、好きな人が誰だか私らに言わなかったのも、わかるよね」
「さすがにアイ先輩のこと好きだとは言えないよね~」
「ショウ、ブライアンの恋はうまくいくと思う?」
「さあどうだろ、でもアイ先輩にはブライアンは子供っぽくないか?」
「確かにね~」
アイとブライアンはしばらく話していたが、ブライアンがうなだれて足早に去っていく様子が見えた。
「あ~ブライアンが泣きそうになって帰っていくよ」
「ナツ、こんど会ってもあんまりブライアンからかっちゃダメだよ、あれは深刻だよ」
「うーん、わかってる、ブライアンすごいいい友達だし、優しくしたいけど、ついからかいたくなっちゃうんだよなぁ(笑)」
「自分のときはビービー泣くくせにさぁ、友達のこととなったら笑いの種にしちゃうんだからね~、ブライアンにどんだけ助けてもらってるかわかってる?この性悪オンナ!(笑)」
「わかってるよ~(笑)」
アイ先輩の帰国後、誰もブライアンの恋には触れなかった。
ブライアンはしばらく落ち込んでいたが、ゆっくりと立ち直っていった。
課題の期限まであと2日。しかしナツの状態は最悪だ。
ピルエットを回るときの軸足は爪先立ちだ。バランスよく立ち続けるには微妙な感覚を必要とする。
それがどうしてもつかめない。
焦りとイライラでナツの気持ちはどうにかなりそうだ。
午後のバレエクラスにフェルナンドが来ていた。
ナツは相変わらず2回転に挑戦しては転んでいた。
転んだナツにフェルナンドが手を貸した。
「グラシアス」
ナツはフェルナンドにスペイン語で感謝を表したが、表情はさえない。
「ヘイ、ナツ、笑顔をどこに置いてきたの?」
フェルナンドは明るく話しかけたがナツには答える元気もなかった。
レッスンが終わると、フェルナンドが話しかけてきた。
「ナツ、マクドナルドでコーラ飲もう。おごるよ。ただし一杯だけ」
そう言ってウインクするフェルナンドの明るさに引っ張られるようにして、ナツはフェルナンドについていった。
彼は言葉通りにコーラ一杯しかおごってくれなかった。
ナツはそこに友情を感じて、かえって嬉しかった。
「ブライアンから聞いてたけど、ナツがそんなに苦しそうな顔でレッスンやってたとはね。」
「ブライアンも励ましてくれて、一度は気持ちも落ち着いて頑張ってたんだ。でも…」
「でも、どうしたの?」
「あと2日なのに全然できないんだ、できないどころか、下手になってる気がする」
「ナツ、ビデオカメラある?」
「ないよ」
「残念。まあ僕も持ってないけどさ。もしナツがビデオカメラを持っていて、毎日の練習を撮影していたら、今のナツについて気が付くことがあるはずなんだ。」
「今の私について?どこかダメな所があるとか?悪い部分を見つけるってこと?」
フェルナンドはナツの質問に驚いた表情をして、すぐに笑った。
「悪い部分?驚いた!ナツは本当に気が付いてないんだね!」
「え?なになに?どーゆーことなの?」
スレ主です。ここまでお読みくださり感謝です。
感想スレを立てますので良かったら書き込みよろしくお願いします🙇
自分でも時々、裏話など書き込みたいと思っています。
では引き続きよろしくお願いします🙇
フェルナンドは話を続けた。
「ピルエットの軸足のバランスが少しずつよくなってきてるのがわからない?
それだけじゃないよ。ウォーキング、ステップ、ほかにも、とにかくすべての動きがよくなってきてる。
ピルエットダブルも時間の問題だよ。
ナツのダンスは変わったよ、良くなったんだ」
フェルナンドの言っていることがよく理解できないナツはポカーンとした顔でマクドナルドの壁を見つめた。
上達してるって?私が?
自覚もないのに?
「フェルナンド、私のダンスが変わったって、いつから感じていたの?」
「アイが日本に帰る前の日だったよ。あの日突然にナツが変わったのがわかったんだ」
「まだ理解できないなぁ。全く実感がわかないよ」
「ナツは友達の言うことも素直に信じないタイプ?
それとも、こういう類のことは実感がわくまで時間がかかるのかな?」
「さあね、わからないよ。私が疑り深い性格なのかも(笑)」
「まあいいさ。ナツが実感ないなら、それがナツにとっての真実なんだろ」
「うん、まあねぇ」
「だとしても、君はあまりにも簡単に落ち込み過ぎだよ。
練習、練習、練習の毎日を送っているのは君だけじゃないよ」
「そうだね、フェルナンドの言うとおりだね」
「目に見えるものを欲しがってそのために努力するならサーカスのクマと一緒だよ」
「え~そこまで言わなくても…(汗)」
「もっと高度な喜びのために僕らは踊ってるはずだよ。
それを忘れなければ小さなことでクヨクヨしない。」
「厳しいなぁ~」
「あと2日って言ったね」
「そうだよ」
「ポウルの前でチャレンジが成功したら、そのとき何かわかるかもしれないね。
ポジティブな気持ちで練習すればいいよ。恐れないで、ナツ」
「ありがとうフェルナンド。あと2日、信じて練習してみる」
「次のときのコーラはナツが支払いする、いいね?」
「もちろん、フェルナンド、グラシアス!」
ナツは飲み干したコーラの紙カップの底にたまっている氷を、ストローでグルグルかきまわした。
「OK、僕は帰るよ。君は?」
「私も帰る。あと2日練習しなくちゃね」
2人はマクドナルドを出てそれぞれ帰った。
ナツは帰宅するとすぐにピルエットの練習をした。
その日は夜のイレーヌのストレッチの授業までは、ほかのレッスンには出ず、ひたすら家で練習を続けた。
練習しながら、ナツの頭の中でフェルナンドの顔がチラチラした。
いいヤツだな。フェルナンド。
ブライアンもいいヤツだけど、フェルナンドはなにか違う。
「もっと高度な喜びのために」と彼は言っていた。
あの瞬間、ナツの心の中で小さな事件が起きていた。
しかしナツ自身もそれがどんな事件なのかわからない。
なんとなく、なんとなく気になるんだよな、フェルナンド。
ほかの友達とは違う、不思議な気持ち。
ナツは心の中のつかみどころのない気持ちをどうすることもできずに、黙々と練習を続けた。
ポウル先生と約束の日。
ナツは前日の練習を思い出していた。
ピルエットを完璧な状態で2回転するには軸足でバランス良く立ち、重心をキープしなければならない。
昨日の練習でも100%成功とはいえない出来だった。
それでも、軸足(片足)で立ったときの重心の感覚が、つかめてきたような気がしている。
ポウル先生にそれが伝わるだけでも大きな進歩だ。
深く息を吐き出してナツはスタジオへ入った。ポウル先生が待っている。
他の生徒も何人かいたが、いつものポウルのクラスにしては少ない。
緊張しないわけではなかったけど、緊張を超える感慨がナツの心からあふれていた。
中身の濃い2週間を過ごした。イレーヌも協力してくれたし、ブライアンやフェルナンドが励ましてくれた。
そうだった。フェルナンド…
ナツはフェルナンドのことを思い浮かべてボーっとなりかけたその時、
ポウル先生の声がスタジオに大きく響いた。
「OK、ナツ、楽しんで!」
いつものポウル先生の授業が始まっていく。
フロアでのウォーミングアップ、ストレッチ、筋トレ、
それからダンスシューズを履いてウォーキングや足挙げや回転などをする。
スタジオの隅から対角線上の隅まで歩いたり、いろいろな動きをしながら進んでいく。
スタジオの後方の隅から、前方の隅へ向かう対角線上を、ポウルが手本を示しながら移動していく。
皆が2列になってポウルの手本通りにカラダを動かして進む。
前方の対角線上の隅にたどり着いたら、そちら側の後方の隅へ歩いていく。
こうして何周も移動しながらいろいろな動きを手本通りにやっていく。
このエクササイズが終わると、ポウルの短い振り付けが始まって、音楽に合わせて踊る振りをみんなが覚えていく。
ポウルは振り付けを始めるときに、ナツの立ち位置を、一番前の中央に指定した。
「ナツ、come here」
いよいよだな、とナツは思ったが、自分の緊張を誰にもさとられたくなかった。
ポウル先生は、振り付けの中にピルエットの要素を必ず入れてくるはずだ。
落ち着け。ただ振り付けを覚えて踊ることに集中しよう。
案の定、ポウルは振り付けにピルエットの要素を入れてきた。
しかも曲の中で一番盛り上がるところでピルエット。
振り付けのクライマックスの部分だ。ポウルの意図はナツにはじゅうぶん過ぎるほどわかる。
しかも、ピルエットにとっている間が長い。
これでは、1回転じゃ絶対に間がもたない。せめて2回転以上回らないと不自然になる。
まわりにバレたくないと思っていたが、ナツの緊張はピークに達していた。
ポウルは生徒たちを2グループに分けて交互に踊らせた。
ナツは2番目のグループ。
1番目のグループが踊る。ピルエットの部分は、それぞれが思い思いに、2回転や3回転をしている。
そうだ。この人たちの中で私は踊るんだ、生半可な気持ちでは振り落とされてしまう。
ナツがそんなことを考えているうちに、2グループの番がきてフロアに並んだ。
ポウルに言われなくてもナツは一番前の中央に位置をとる。
腹が決まった。やるしかないという気持ちになった。
そんな思いが湧き上がるとともに、胸の内に余計な緊張や心配がなくなって、スッキリした。
2グループのダンス。
ポウルがうなった。ナツの踊り方が急に変わって表情が豊かになっている。
クライマックスのピルエット。
「oh!no!」
ポウルが叫んだ。
「どうしたんだナツ!」
ナツのピルエットは2回転半になってしまい、ナツは他のダンサーと反対方向に、後ろ向きになってしまった。
しかしナツはめげずに、すぐに向きを前に変えて、最後まで踊りきった。
「何が起こったんだ?
でもいいよ。君はやり遂げたよナツ!」
ポウルは片手をあげてナツに近づいてきて、ナツとハイタッチをした。
2回転半してしまったことが、嬉しい反面、悔しさもあって、ナツは複雑な気持ちだった。
ただ達成感だけは、はっきりとしていた。
レッスンが終わると、ナツはすぐにポウル先生に近づいて、何か言おうとしたが、言葉がでなかった。
ポウルはナツをねぎらった。
「グッジョブ!ナツ。君はやり遂げた。この2週間で何かが変わったよ。」
「ありがとう、ポウル先生。なんだか、ピルエットだけでなくダンスのどんな動きをしても、今までと違う感覚なんです。」
「わかるよ。当然のことだ」
「どうしてですか?私は確かに練習したけど、ピルエット以外の練習は何もしてないのに。」
「ナツ、ピルエットの練習ってどんなことをしたの?」
「軸足でまっすぐに立つ練習です。」
「それだ!」
「それって…」
「ナツ、私たちが普段の生活をしていて、片足または両足で完全にまっすぐ立つことはほとんどないと思わないか?」
「それは…そうですね」
「普段まっすぐに立つことをしないのに、ダンスをするときに急にまっすぐに立つことができると思う?」
「ん~できない。」
「しかしダンサーがまっすぐに立てなければ踊りが美しくはならないよね。」
「はい…」
「つまり、ピルエットで2回あるいはそれ以上回転しようとして、軸足でバランス良く立つ練習は、ダンスのすべての動きにつながるんだ」
「ほ~なるほど!」
「つまりナツは、ピルエットの練習をしたつもりだったが、その練習が他のすべての動きにも効果があったんだよ」
「じゃ、先生は最初からそれを期待して…」
「もちろんだ。私の出した宿題が間違いないことを、君が努力して証明してくれたんだよ。
今日のナツを見て、私は私の考えが良いアイデアだったとわかったんだ。本当に素晴らしいことだよ、ナツ、ありがとう」
「あ、ありがとうございます…今、本当の意味がわかって嬉しいです」
「明日の3時のクラスに出てみなさい。私から話しておくよ」
レッスンを終えてスタジオの外に出ると、不意に声をかけられた。
「ナツ、頑張ったお祝いに、コーラを飲みにいこう!」
「フェルナンド!」
「いい表情してる。うまくいったんだね。」
「もちろん!いや、回り過ぎてダブル&ハーフになっちゃったけどね」
「ナツらしいね」
フェルナンドは屈託なく笑う。この笑顔にいつも友情を感じていたはずなのに…
ナツは戸惑っていた。
フェルナンドはナツの肩に手を回して
「OK!マクドナルド!」
と言うと、ナツからサッと手を話して歩き始めた。
一瞬のことだった、しかしナツはポカーンとしてしまい、少しの間動けなかった。
いやまてよ。
奴はメキシコ人だし、ここはアメリカだ。
友だちにもこういうことするよね。驚くようなことでもない。
必死に自分に言い聞かせながらフェルナンドの後をあわてて追いかけていく。
マクドナルドで2人はコーラを飲み、フェルナンドはナツをねぎらった。
「僕は信じてたよ。ナツはダンスを愛しているからね」
「そんなこと、わかるの?」
「ナツを見れば多くの人はそう思うよ。」
「フェルナンドもダンスを愛してるの?」
「そうだよ」
「ダンス以外には何を愛してるの?」
「どういう意味?」
自分でも思いがけない言葉が口から出てしまったナツは、困ってしまった。
「どういう意味って…その…」
言葉を探す。
「人とか、それ以外の何かとかいろいろあるでしょ」
「ナツ、自分以外の他人を愛するという意味なの?」
「ま…まあね。そうだね…ただそれだけじゃなくってさ、人じゃなくても何かとか…」
「僕はメキシコを愛している、生まれ育った町を愛してるよ」
「あ、うん。そうだろうね」
「それからメキシコの家族。特に母親。とても愛してる」
「そ、そうだろうね、だよね」
「それで全部」
「それで終わり?」
「もちろん、他に何かあるの?まったく考えもつかないけど」
「いや、つまり、フェルナンドが言っていた、家族とかママとかじゃなくてさ、その、つまり本当の他人とかさ」
「ナツ?」
もう、自分でも何いってるかさっぱりわからなくなってしまったナツ。
フェルナンドが話を続けた。
「ナツ、人が誰かを愛するとしたら、それは命がけなんだよ、簡単にはできないよ」
「そう…そうなのか。」
「それとも日本人は家族以外の他人にも命がけで愛するの?」
「わからないけど、そうでもないかな、愛って言葉が命がけっていう強い意味があるとは思わなかったからさ」
「ナツは何を知りたいの?」
「その…つまり、フェルナンドはいつもみんなに優しい、日本人の私たちにも親切だから、つまり、愛しているのかと…」
ナツは、ここ数日のなんともいえないザワザワした気持ちを、うまく話すことができない。
コーラを飲んでも喉の渇きがいやされず、ナツはすでに飲み干してしまっていた。
「オー、ナツ、僕はみんなのこと好きだよ、だから喜んだり笑ったりしてほしいだけさ」
「あーloveじゃなくlike…」
ナツの心の中にあるザワザワとしたものが、少しずつなくなっていく。
フェルナンドはいつも通り平然としている。
「そうだよ」
「つまり友情…」
「そうだよ、命がけで愛することはできないにしても友情は素晴らしいものだよ、だろ?」
「もちろん!」
「友情はいつも対等だよね、そこが素晴らしいんだ」
「だよね~わかるよ」
「ナツと僕もそういう素晴らしい友情の中にいる」
「あ…ああ、そうだね…」
ナツのザワザワはほとんどおさまってきた。
ガッカリのような、ホッと安心したような…
「まあ、君はほかのコとはちょっと違うけどね」
おさまったはずの鼓動が急に高くなる。
「違うって?」
フェルナンドはいつも通り屈託なく笑った。
「君がスペイン語をほんの少しでも話してくれるからね。スペイン語を話すとなんだか元気が出る。」
一瞬意識したことが恥ずかしくなって、ナツは力なく笑った。
「あ…ああ、スペイン語ね…」
「君のために僕も少し日本語を話すようにするよ、きっと君の仲間も喜んでくれるよね」
ナツは自分の独りよがりの滑稽さが急に笑えてきた。
思わず吹き出して笑った。
「何?どうして笑うの?」
「なんでもないよ、知らない国に来て、わからないことがいっぱいあって、無駄な心配ばかりしていたから、それがおかしくてさ。」
「そっかぁ、僕は地続きの国境だけど、ナツたちは海を越えて遠い国から来ているからね」
ナツとフェルナンドはマクドナルドを出た。
「ナツ、明日は上級クラスに行くの?」
「行くよ。ポウル先生がプッシュしてくれたからね。明日、誰だっけ?明日の3時の先生に私のこと話しておくってさ。」
「そうか、いつものナツでやればきっとうまくいくよ。」
「OK。ベストを尽くすよ!」
「じゃ、帰るね。またね」
そう言ってフェルナンドはナツを抱きしめた。
これも友達の挨拶か。
ナツは自分でも気づかないうちにフェルナンドに期待してしまっていたことが残念だった。
勝手な期待…フェルナンドに失礼だよなぁ…
気持ちを切り替えて明日のレッスンに備えなければならない。
今日のポウル先生のレッスンで得た、ピルエットの感覚を、何度も思い出しながら、
ナツは再び練習に打ち込んでいった。
翌日の午後3時のクラスに合わせて、ナツがスタジオに行くと
ポウル先生とジェイミー先生が話していた。
今日はジェイミー先生のクラスだったんだ!
ナツの緊張は一気にMAXになってしまう。
ジェイミーは上級クラスの中でも格別にレベルの高いレッスンをする。
レベルの高いプロのダンサーが最も多く集まるクラスだ。
ポウル先生は真っ黒な肌から真っ白い歯をニーっと見せて、笑顔でナツに声をかけた。
「ナツ、ジェイミーに君のことを話したよ。」
マイケル・ダグラス似のジェイミーもナツを笑顔で迎えた。
「ナツ、今、君の話を聞いたところだよ、歓迎するよ」
ジェイミーはナツに手を差し出し握手をした。
「先生のクラスに出ることができるなんて、本当に嬉しいです、ありがとうございます。」
「ありがとう、私のクラスで君がベストを尽くしてくれるよう祈るよ」
こうしてナツは極度の緊張の中でジェイミーのクラスを受けることになった。
スタジオを見回してみる。
ジェイミーのクラスということは、あの人は来ているのかな、
あの人と一緒にレッスンできるなんて…夢のようだ。
来てるかな、あの人…
あの人…ナツのあこがれの女性ダンサー、「ブーツの人」
彼女は膝まで高さのある茶色い皮のブーツを履いて踊る。
皮のブーツは使い込んであり、とても年期の入っているようなシブい光沢。踊る彼女の足に、しなやかにフィットしている。
彼女のダンスはメリハリがきいていて押し付けがましさのない美しい動き。
「いた!やっぱり来てるんだ」
ブーツの人がスタジオの壁に脚を上げてストレッチをしているのが見えた。
ナツはさりげなく彼女に近づいて、隣でレッスンを受けられるように場所をとった。
ジェイミーのクラスがいよいよ始まった。最初はシューズをはかずにストレッチ。
両手を大きく動かす深呼吸、首のストレッチや肩の上げ下げ、どれも桁違いに美しいジェイミーの動き。
まだウォーミングアップの段階なのに、ナツは、ジェイミーのひとつひとつの動きに感動してしまう。
人間ってこんなに、しなやかに美しく動けるものなのか。
私もこんな風に動けるようになるのかなぁ。
ふと隣を意識すると、ブーツの人もジェイミーに劣らず美しい動きをしているのがよくわかった。
ウォーミングアップが終わるとジェイミーの声。
「put your shoes on!」
すると皆がジャズシューズを履く。もちろんあの人はブーツを履いた。
シューズを履いたらフロアの対角線上をいろんな動きで移動していく。
ジェイミーのお手本の動きは実に優雅だ。それでいて情熱的でもある。
ダンサーたちは2列になって、ジェイミーのお手本を真似て動いていく。
最初はウォーキングから。
ナツも、最高の緊張を味わいながら必死になって動く。
動きが少しずつ複雑になっていくが、何とかついていける。
しかし、何か違和感がある。それはジェイミー先生の目線。
ジェイミーはダンサーひとりずつを丁寧に見てくれる。
しかしナツの方をいっさい見ようとしない。
ナツの手前の人までは丁寧に見ていながら、
ナツの方だけは目線を外し、
ナツの後の人になると再び丁寧に見る。
最初は気のせいなのかとナツは思っていたが、次第に気のせいではないことがわかってきた。
フロアエクササイズが終わり、振り付けが始まると、ジェイミーはナツにハッキリ言った。
「go back」
それは、スタジオのいちばん後ろのいちばん隅へ行け、という命令だった。
あたかも、俺の視界に入るなと言わんばかりの態度だ。
レッスン前の、あの優しい言葉は何だったんだろう。
ブーツの人は、ジェイミーに指定されて、いちばん前の中央で振り付けを受けている。
いちばん前の中央は、ブーツの人の決まったポジションのように見受けられた。
ナツはジェイミーの振り付けに必死でついていこうとしたが、ほとんどうまくいかなかった。
しかも、踊っている途中で派手に転んでしまった。
ジェイミーがナツを後ろの隅へ行かせた理由がわかってきた。
レッスンが終わり、ナツは挨拶をするためにジェイミーに近づいていった。
ジェイミーはナツに気が付いて彼の方から声をかけた。
「このクラスにはいいダンサーが多く集まっている、彼らの邪魔にならないようにしてくれ。意味わかるよね。」
ジェイミーの冷静な口調と言葉の内容に、ナツはたじろいだが
すぐに気を取り直して
「わかりました。先生のクラスにこれからも来ます」
そう言ってすぐにスタジオを出て行った。
うまくいかなかった。何もかもうまくいかなかった。
それは自分の力不足以外のなにものでもない。
ナツは自分の不甲斐なさに思いが集中していた。
ジェイミーに無視されたことは少しも気にならなかった。
緊張と敗北感からくる重い疲労がナツを支配していた。
重いカラダを引きずるようにしてナツは家に帰ってきた。
上級クラスのレッスンを受けているのはナツだけだ。
他の先輩2人も、後輩の十代の2人の女の子たちも、上級クラスには全く興味がない。
しかも、レッスン以外の時間はあまりダンスのことは考えていないようだ。
ナツの同室のショウだけは違っていた。ナツほどのチャレンジはできないけど、コツコツと努力を積み重ねるタイプの上昇思考を内に秘めていた。
そして、ショウは本気でナツを応援している。
今日の上級クラスがジェイミーのクラスであることも、ショウは知っていて、期待と心配を繰り返しながら家で待っていた。
「おかえりー!ナツ、3時のクラスどうだった?」
「ああ、ただいま…」
「どうした?ジェイミーにやられた?」
「やられたって何のこと?」
「何ってさ、無視されたりしなかった?」
「ん!なんでわかる?」
「ブライアンがさっき来てたんだけどさ、今日、ナツが3時のクラスに行ったって話したら、ブライアンがジェイミー先生のこと教えてくれたんだ」
ショウの話によると
ブライアンはジェイミーが日本人嫌いであることを話してくれたという。
ジェイミーは過去に日本で振り付け演出の仕事をしたが、失敗を笑ってごまかすダンサー達に腹を立てて、その仕事をキャンセルして帰国してきたのだ。
その事があるために、いまだに日本人のダンサーを信用できないらしい。
「ふ~ん…」
「相当ダメージ受けてるね、かなりいじめられた?ものすごい日本人嫌いだっていうしさ、もうジェイミー先生のクラス行かない方がいんじゃない?」
「さあね、心配してくれてありがと。ちょっと寝るわ、晩ごはんいらないから」
「ありゃあ~これは重症だね、まあゆっくり寝なさい」
ナツはベッドに寝て目を閉じたが眠れるわけでもなく、ただ何度もジェイミーの冷たい表情と声を思い返していた。
ナツと仲間たちは夕食を当番制で作っていたが、朝食と昼食は各自それぞれ、別々に食べている。
ナツの朝食は毎日同じメニューと決まっていた。
日々工夫して違うメニューを考えることはナツには苦手なことだった。だからワンパターンに決めている。
朝食は、白飯、ブロッコリーの味噌汁、そして1ドルで売られている薄い牛肉ステーキ。
胃腸が丈夫で規則正しい生活をしているナツにとって、朝からステーキを食べることはごく自然なことだ。
そして、ジェイミーのクラスを受けた疲れで夕食抜きで寝てしまった翌日の朝は、
いつも以上の空腹を感じて、ステーキを2枚焼いた。
ナツより少し遅く起きてショウがダイニングルームへ来た。
「おおっと!食欲旺盛だね、もう立ち直ったわけ?」
「さあね、昨日の晩ごはん抜いたからおなか空いちゃったよ」
「ナツの生命力すごいよね。あんたきっと長生きするよ」
「願ったり叶ったりだよ、もしそうなったらね。どうせなら思いっきり長生きして有名になりたいもんだ」
ステーキの2枚目をたいらげながら笑うナツを見てショウは
「なんか、心配して損した気分だな~」
と、呆れ顔だ。でも内心は、元気なナツの姿が嬉しかった。
「それで、ナツはこれからどうすんの?またジェイミー先生のクラスに行くの?」
食べ終わった食器を台所の流しに運びながら、ナツはショウに答えた。
「行くよ。やめる理由なんかないじゃん、別に。」
「え~?だって、ずっと無視されることになるじゃん、それでもいいの?」
「無視されるのは慣れてるから別に大丈夫だよ、それより、せっかくポウル先生がキッカケ作ってくれたのに、やめたらもったいなさすぎ。」
「いや、そうかもしれないけどさ、教師に無視されて受ける授業って、成り立つのかな?意味あんの?」
「意味があるかないか、やってみないとわかんないんだって、教師に無視されるからそのクラスに行かない、なんて言ってる場合じゃないんだよ。」
「そうかなぁ?」
「うまくいくからやるんじゃなくて、もっと高度な目的のためにやるんだよ、なんてね。これは、フェルナンドの受け売りだけどさ。
ジェイミー先生やレベルの高いダンサーを見るだけでも、かなり勉強になるし、とにかくあの場所でカラダを動かしてみたいんだ。カッコ悪くてもね。」
「ふぅ~ん、あんたって面白い人だね、ホント、変わってる」
ショウに言った言葉通り、ナツはジェイミーのクラスに通い続けている。
それだけではなく、午後3時のハイクラスにすべて行くようにした。
最初はナツを心配していたショウも今は全く心配しない。ナツの覚悟を理解したのだった。
自分の実力が全く追いつかないレベルの高いクラスで、知力体力と気力を尽くしてカラダを動かしていく。
今のナツにはそれしか方法がなかった。それでも、上級クラスに行く意味があると、ナツは確信していた。
スタジオに出入りする一部のダンサーたちは、ナツに
「ストレンジ ジャパニーズ」(奇妙な日本人)
というあだ名をつけて噂した。実力もないのにずうずうしく上級クラスに毎回やってくる日本人は、
彼らの目には確実に奇妙に映っていたのだ。
ジェイミーはナツを完全に無視し続けた。
ジェイミーのクラスにおいてはナツは、あたかも存在しないかのように扱われたのだった。
6人の日本人の女の子が暮らす家は、日本語と日本の文化であふれている。
管理人のKさんやその知り合いの人たちからもらう物もある。
本棚にも本がたくさんあった。
日本の連続ドラマのビデオもたくさんあった。
Kさんは、日本の知り合いから、お笑い系の番組やドラマの録画ビデオをたくさん送ってもらっていて、見終わるとナツたちに貸してくれていた。
仲間たちが特に楽しみにしていたのは、トレンディードラマだった。
中でも、「101回目のプロポーズ」はみんな夢中になった。
ナツもこのドラマは好きで、次に送られて来るビデオを心待ちにしていた。
主題歌もすっかり覚えてしまった。チャゲアスの「Say Yes」が頭の中でグルグル回る。
家の中では、まるで日本で生活しているかのようだ。
ナツはこのムードを物足りなく感じていた。
「なんか足りない気がする…でもいったい何が足りないんだろう、何だろうなぁ…」
「映画が見たい!」
ナツは、以前見たことのあった映画を、また見たいと思った。
中学生の時にみたフットルースや、高校生の時に見たコーラスライン。
ほかにも昔の名作のミュージカル映画。
ナツは、レンタルビデオの店を探すことにした。
まずは、スタジオで会うダンサーたちに話を聞いてみる。
「映画のビデオを見たいんだけど、ビデオを貸しているお店を知ってる?」
女性ダンサーが
「movie&pizza」という店を教えてくれた。
ダンススタジオに面した大通りをひたすらまっすぐ行けばいいという。
ナツはそれを聞いて、すぐに歩いていこうとした。
「ちょっと待って!ナツ!歩いていくつもりなの?」
店を教えてくれた女性ダンサーに呼び止められた。
「うん、歩いて行くよ。」
「遠いよ、歩いたら2時間はかかるよ、大丈夫?」
一瞬迷ったがナツは行きたい気持ちが強かった。
「大丈夫、2時間くらい。子供の頃は一日中歩いたもんだよ。
教えてくれてありがと。」
ナツは笑って彼女にバイバイと手を振って、歩き始めた。
彼女の言うとおり、2時間以上かけて「movie&pizza」にたどり着いた。
「映画のビデオを借りたいんです。これ、パスポート持ってきました。」
ナツは身分証代わりにパスポートを見せた。
店員はパスポートを受け取らない、そしてすぐに、奥に入ってしまった。
どうしたんだろう、パスポートじゃダメなのかな。
ナツは店員が戻ってくるのを待った。
しばらくすると、店員が受付に戻ってきた。
「すみませんが、IDカードを持ってない人には、会員カードを発行できません」
アメリカ合衆国の国民か、この国に永住権を持っている人が持っている身分証、IDカードが必要なのだ。
しかし、ナツは全く引き下がる気持ちになれない。
「確かに私は観光ビザで来た旅行者みたいなもんだけど、3ヶ月同じ家で暮らしてるんです、
住所と電話番号を書きます。ここに確実に私は住んでいます。だから会員カードを発行してください。」
「ダメです、先ほど言ったとおり、IDカードがない人には発行できません。」
「ほら、見て、これが私が今住んでいる家の住所、そしてこれが電話番号。
ここに確実に住んでいますから絶対にちゃんと返しますから」
「ダメ。パスポートは身分証の代わりにはならないんです」
「だって、本当にここに住んでいるんですよ。レンタルしたまま逃げたりしないから、必ず返すから、本当に、お願い!」
店員は困って、再び奥へと入っていった。
しばらくすると、店員が受付に戻ってきた。
「すみませんが、IDカードを持ってない人には、会員カードを発行できません」
アメリカ合衆国の国民か、この国に永住権を持っている人が持っている身分証、IDカードが必要なのだ。
しかし、ナツは全く引き下がる気持ちになれない。
「確かに私は観光ビザで来た旅行者みたいなもんだけど、3ヶ月同じ家で暮らしてるんです、
住所と電話番号を書きます。ここに確実に私は住んでいます。だから会員カードを発行してください。」
「ダメです、先ほど言ったとおり、IDカードがない人には発行できません。」
「ほら、見て、これが私が今住んでいる家の住所、そしてこれが電話番号。
ここに確実に住んでいますから絶対にちゃんと返しますから」
「ダメ。パスポートは身分証の代わりにはならないんです」
「だって、本当にここに住んでいるんですよ。レンタルしたまま逃げたりしないから、必ず返すから、本当に、お願い!」
店員は困って、再び奥へと入っていった。
今度は、お店のボスらしき男性が出てきた。
「ハロー、もう一度お話聞かせて下さい。」
「私は、ビデオレンタルの会員カードを作って欲しいんです、
ここにパスポートがあります。住所と電話番号を書きます。
この住所の家に確実に住んでいます。だから作って下さい。」
ボスは忍耐強くナツの話を聞いてから、少しため息をつき、ナツを説得しようとした。
「映画のビデオを貸すためには私たちは、その人を確実に知っていなければなりません。
だから、私たちは、IDカードを持っているお客様だけに、会員カードを発行します。
先ほどから、店員がそのことをあなたに説明しました。
それ以上のサービスはできません。わかって下さい。」
ナツも引き下がらない。
「お話はよくわかりますよ。
でもパスポート見て下さい。
住所も電話番号もちゃんと書きます。ビデオも必ず返します。
どうしても会員カード作ってほしいんです。」
ボスは再び穏やかに説明する。
「あなたはアメリカ人じゃないから知らないかも知れないが、
私たちにとってIDカードは非常に重要なものなんですよ、
身分証としては実に確実なものです。パスポートとはちがうんです。」
「わかります、わかりますよ。でも私にはパスポートしかないんです。ただの旅行者かもしれないけど、でも信頼してほしいんです。
絶対に迷惑かけるようなことはしませんから。約束します。」
「なんと言われても無理なんです、お帰り下さい。」
「いえ、帰りません。会員カードを作って下さい。」
お店のボスとナツの押し問答はしばらく続いたが、ボスが黙り込んでしまい、しばしの沈黙。
そしてボスが再び口を開いた。明るい笑顔のボス。
「OK、会員カードを私の責任において作ります。そのかわり、
あなたはこの店を絶対に裏切らないでほしいんです。
それから、この特別なサービスを言いふらさないで下さい。」
「本当ですか?ありがとう!必ず言われたとおりにします!
ありがとう!本当にありがとう!嬉しい!ありがとう!」
「ところで」
ボスは再び神妙な顔つきに。
「店の看板見ました?」
今、大喜びしたナツも、つられて神妙な顔に。
「ええ、見ましたけど…あの、movie&pizzaって。」
「そう、映画のビデオ貸すだけじゃなく、ピザを売ってます。
そして、会員カードを作った記念に、ピザをプレゼント!」
そう言ってボスはイタズラっぽく笑った。
「オー!いいの?」
「あなたのような奇妙な日本人に、初めて会いましたよ。
だから、その記念に、ピザをプレゼントすることにしました」
そう言ってボスがウインク。
「わーステキ!」
「ピザのメニューから好きなのを選んで下さい。」
「じゃ、トマトとベーコンのピザにします!やったね!」
「OK、これからピザを焼くから映画ビデオを選んで下さい。」
「あ、そうだった…」
交渉に夢中になりすぎてビデオを選ぶのを忘れていたナツだった。
こうして、ナツは会員カードを手に入れ、ビデオを2つ選び、
トマトとベーコンのピザをプレゼントされて、タクシーで帰宅した。
こうして、ナツはダンスのレッスンも、余暇の時間の過ごし方も充実して過ごした。
movie&pizzaには自転車を使って行くことにした。
家にガラクタと化していた古いスポーツタイプの自転車があったのでそれを使った。
ビデオを借りる時はピザを必ず買った。わりと美味しいのだ。
子どもの頃に見たミュージカル映画や、もっと古い、
ジーン・ケリーやフレッド・アステアの名作と言われるもの、
ダンスや歌のある映画を次々と借りては見た。
日本で借りるビデオと違って日本語の字幕がついていない。
それで英語のセリフを必死に聞くので、英語の勉強になる。
家の中の、まるで日本にいるかのようなムードからも解放されてナツは充分に楽しんだ。
季節の行事が近づいていた。それはハロウィンだ。
1990年代、日本でハロウィンのイベントは広まっておらず、
ナツもナツの仲間たちも全く知らなかった。
ブライアンが、ナツたちの家に来て教えてくれた。
「カボチャを君たちの人数分買うよ。くりぬいてランプを作るんだ。」
ナツたちはブライアンと一緒に近くのスーパーマーケット「アルバートソン」へ行った。
カボチャの代金はブライアンが支払ってくれるという。
「みんな、自分の好きなカボチャを選んでね。」
ブライアンの声が明るい。何週間か前に失恋したとは思えないほど。
「すっかり元気じゃんブライアンさぁ。次の恋でもしてるのかなぁ?」
ショウがナツに小声でささやいた、ナツは吹き出したくなるのをこらえるのが精一杯。
みんな、めいめいにカボチャを選んで、カートへ入れた。
ナツは小ぶりだがしっかりと重さのあるカボチャを選んだ。
ハロウィンか。何のお祭りなんだろう。
考えてもわからないし、ブライアンに質問する気もおこらないが、
日本では体験したことのないイベントを味わうことが、ナツは嬉しかった。
家に戻ったら、さっそくみんなでカボチャのランプ作りが始まった。
カボチャの中身をスプーンで削り出して、外側から思い思いの形にくりぬいていく。
ナツも張り切ってスプーンを駆使し、カボチャの皮が誰よりも薄くなるようにした。
目鼻口もうまく形ができた。興奮している上に大満足なので
かなりテンションが高い。
「OK、カボチャのランプは庭に出して乾かしておこう。」
ブライアンの指示に従って、みんな自分の作ったランプを庭に置いた。
次は料理だ。
ブライアンが小さな冊子を取り出した。
「この本を見ながらみんなで協力してカボチャ料理を作ろう」
普段は料理をしないというブライアンが精一杯の準備をしてきてくれた。
料理に必要な、カボチャ以外の材料も買ってきてあるという。
さっそくエプロンをして張り切っているブライアンを見て、
みんなも楽しくなってきた。
カボチャのクッキー、カボチャのプディング、カボチャシチューを料理した。
「おっと忘れてた!お菓子を買いに行かなきゃ!」
ブライアンが慌てているので、みんなもワケがわからないなりにも、慌てて一緒にお菓子を買いに行った。
「夜になると子供たちのグループがいくつか訪問してくるよ」
「へぇ~子供たちが?」
ブライアンは説明を続けた。
「みんな仮装してくるよ、子供たちが訪ねてきたら、お菓子をあげるんだ」
「それでお菓子を買いにきたっていうわけね」
「けっこう大勢いるからね、子供たちは。ひとりずつあげなくてもいいんだよ」
「じゃ、どうすんの?」
「代表の子が箱か袋を持ってるから、そこにお菓子を入れてあげるんだ」
「なるほどね~」
「彼らは、あとでお菓子をみんなで分けるから、なるべく小さなお菓子をたくさんあげる」
「小さなお菓子って何?」
「キャンディとかチョコとか、一個ずつ包んであるやつさ」
「なるほど、わかった!」
みんなスーパーマーケットの売り場に散らばって思い思いのお菓子を買った。
ブライアンがナツの隣に来た。
「ナツ、お菓子少ないんじゃないの?」
「あ、ブライアン、いや、イベントとはわかっていても、
知らない子供にお菓子をあげるなんてもったいないからさ」
「ふ~ん、ナツはおおらかな性格だと思ってたけどね」
「けど?」
「けっこうケチなんだね」
「ま、ケチと言われたらケチかもしれないね。」
「子供の頃からケチなの?」
「他人に何かあげるのがイヤなの。どうせ子供たちは、あちこちでいっぱいもらうでしょ。
私がいっぱいあげなくてもいいよね。」
「ショウが家で待ってるんだから、ショウのぶんも買っていってあげたら?」
ショウは腰が痛いと言って家で休んでいる。
「それはブライアンがやってよ、私はそこまでやらない。」
「本当にケチだな、ナツは。」
ナツたちとブライアンは、それぞれ買ったお菓子を手に、帰宅した。
「ただいま~ショウ、ブライアンがさぁ、お菓子買ってきてくれたよ、ショウ?」
リビングルームのソファに横たわっているショウの様子がおかしい。
額に汗がびっしりと見え、表情は苦痛にゆがんでいる。
もと看護師のリカがただごとではない様子を察して駆け寄る。
「ショウ、ショウちゃん!どうしたの!?しっかりして!」
途切れながらも答えるショウ。
「息が…苦しい…息が…できない…お腹が…焼けそう…」
「ショウ…なになにどうしたのさぁ…」
オロオロしながらナツもそばに行った。
「お腹が…熱い…熱くて…焼けそう…」
ショウの両手が押さえているのは胃のあたり。
「熱い?熱いの?水、水飲んだらどうかな…」
水を持ってこようとするナツをリカが強く制した。
「水飲んだらダメ!よけい悪くなるよ!」
そう言いながらも辺りを見回して、リカは事態の原因を探っていた。
「ショウちゃん!あんた…まさか…」
テーブルの上には、ショウが先日診療所から処方された、痛み止めの薬があった。
そして傍らには、セブンナップという炭酸飲料。
「あんた…まさか…薬をセブンナップで飲んだの?」
リカの問いかけにショウがかすかにうなずいた。
「たいへん!病院にいかないとダメだ!誰かKさん呼んで!」
ナツの仲間のうちの2人が管理人のKさんを呼びに走った。
ショウは管理人Kさんの車で病院へ行くことになった。
ブライアンがショウを抱きかかえて車に乗った。
「ナツ!」
車の中からブライアンがナツを呼んでいる。
「え、私でいいの?リカ先輩が行った方がいいんじゃ…」
リカがナツの言葉をさえぎる。
「私は何もできないから、仲のいいナツが行きな。」
リカはナツの背中を強く押す。
「ほら、急げ!」
ナツはオロオロしながらもあわてて車に乗り込んだ。
ブライアンはすぐに助手席に乗り換えた。
車の後部座席に横たわるショウの頭を膝で支えて、ナツはどうすることもできない。
車は静かに走り出した。
ショウが先日行った診療所に向かっている。
ショウは相変わらず苦しそうな息をしている。
誰か人の様態急変を目の当たりにするのは初めての経験で、ナツは心底オロオロしていた。
自分が無力なのはわかりきっているけど、それだけじゃない、平常心でいられない弱虫…
ショウちゃん、ごめん。私すごいオロオロしてるよ。
心の中でショウに謝りながら、ナツはショウの髪を撫でた。
神様…どうかショウちゃんを助けてください、私の大切な友達を助けてください。
ナツは心の中で、何度も何度も祈った。
車は診療所に到着した。
まずKさんが診療所の受付に行って交渉をする。
救急の対応をしていない診療所だが、交渉次第ですぐに診てもらえるという。
ナツもショウもその診療所をすでに利用していた。
ナツたちは医療保険がないので診察や処方の全てが自己負担になる。
そういう時はまず最初に100ドル前払いしなければならない。
今は急いで診察してほしいのでもっと多く前払いしなければならないかもしれない。
Kさんはその交渉に行ったのだった。
ほどなくしてKさんが診療所のスタッフと一緒に出てきた。
診療所のスタッフがストレッチャーを持ってきた。
スタッフの人たちはなぜか、それぞれ変わった格好だ。
腕や足にヘビのオモチャを巻きつけていたり、頭に斧が刺さった風だったり、アフロヘアのピエロだったりする。
そんな格好などまるで構わない様子で彼らはテキパキと動く。
ショウは診療所のスタッフによってストレッチャーに乗せられて、すぐに診察室に入っていった。
「良かった、すぐに診てもらえるんだ。それにしてもあの…」
ナツは、スタッフの変な格好とその事をまるで気にしない様子をいぶかしく思っていた。
「ナツ、今日は何の日か覚えてる?」
ブライアンが平然とした口調でナツに問い返した。
「え…ハロウィン!?」
「いかにも」
ブライアンはいたずらっ子っぽくニヤリと笑った。
そこへKさんが
「診療所の中に入ろう。しばらく待つかもしれない。」
と言ってきたので、ブライアンとナツはKさんと一緒に中に入った。
診療所の待合室の光景に、ナツは目を見張った。
ドクター、ナース、掃除スタッフから事務職までみんな仮装している。
セサミストリートのキャラクター、ドラキュラやフランケンシュタインなどのモンスター系、
バルーンアートや様々な動物系の仮装もある。
しかも、彼らは仮装していることを全く忘れているかのように普通に仕事をしていた。
ナツはKさんの交渉のことが気になっていた。
「Kさん、ショウの診察の手付け金はいくらだったの?」
「今すぐ診察してくれって言ったらダメだって言うから、300ドル出した。それであっちも
コロッと態度が変わっちゃってさ、すぐに診察ってことになったよ。」
「300ドルかぁ…高いなぁ」
ショウがナースに支えられて待合室に出てきた。歩けるまでに回復したようだ。
「ショウちゃん!」
ナツはショウに駆け寄った。
「ナツ、ありがとう、心配かけてごめんね。」
ナースはKさんに何か説明している。
「ショウ、ゲンキナリマシタ、ヨカッタデス!」
ブライアンが日本語でショウに話しかけた。
「ブライアンありがとう、せっかくのハロウィンなのにごめんね。」
「モンダイナイ!ハロウィン、マダ、オワテナイ!」
ショウがブライアンの日本語を聞いて吹き出して笑った。
ナツもブライアンも笑った。
ナースの説明を聞いたKさんが会計カウンターへ行き、診療費の精算をした。
「ショウちゃんは急性の胃けいれんをおこしたそうだよ、処置は点滴で済んだみたいだね」
「Kさん、すみませんでした。いろいろやっていただいて…」
「大丈夫だよショウちゃん。でも、もう炭酸飲料で薬は飲まないでよ。こっちの薬は強いから特に危険なんだよ。」
「はい…すみません。」
ショウは事の責任を感じたのか沈んだ様子だ。
そんなショウをKさんが優しく慰めた。
「そんなにしょんぼりしなくていいよ、さあ、みんな待ってるんじゃないか?
ハロウィンはまだまだ終わりじゃないからね。」
「もちろん!」
Kさんの言葉にブライアンが答えて、ショウとナツの顔を見てウインクした。
ショウが帰宅したので仲間がみんなで出迎えた。
「ショウちゃん、良かった!」
もと看護師のリカがまず最初に声をかけた。
「リカ先輩、心配かけてすみません、みんなも…ごめんなさい。」
「まさかセブンナップで薬を飲むとはね。もう懲りたよね。」
「はい…気をつけます」
ダイニングには夕食の支度が出来ていた。
今夜はみんなで作ったカボチャのシチューとピザだ。
ショウも、胃に優しいものなら食べてもいいので、シチューを食べることにした。
Kさんは帰宅し、ナツたちとブライアンは一緒に、楽しい夕食の時を過ごした。
それから、カボチャランプを外に並べ、ローソクを入れて火をつけた。
暖かい光が広がって、みんなは優しい気持ちになった。
そして、午後6時頃から子どもたちがやって来始めた。
玄関のチャイムがなるたびにみんなで玄関へ走っていく。
ドアを開けると10数名の仮装した子どもたちが口々に何か言っている。
代表の子どもが、デコレーションされたかわいいバケツを差し出す。
ナツたちは思い思いにお菓子を入れた。
ショウの体調もひとまず落ち着いて、みんなハロウィンを楽しんでいた。
家の外回りに置かれたカボチャのランプも、暖かい光で今夜のイベントを演出している。
しかしナツは時計が気になってしょうがない。もうすぐ午後7時になろうとしている。
ショウがナツに声をかけた。
「ナツ、行ってくれば?」
「え、何?行くって…」
「金持ちリゾー先生のレッスンだよ。行くつもりだったよね」
「あ、うん。でもショウを置いて行くのもなぁ…」
「なに、心配してんの?」
「まぁね、今日の今日だし」
「私なら大丈夫だよ、ナツがレッスンに命かけているのは、私がいちばんよく知ってるし」
「うん…」
「私の体調気にしてとか、みんなに気を使ってとか、そんな理由でレッスン我慢するの?」
「いやあ…」
「行きたいんでしょ、もじもじしてるなんてナツらしくない」
「うん…久しぶりの金持ち先生だし、ホントはショウと一緒に行きたかったけど」
「私は今日はゆっくり休むからさ、ナツ、行きなよ。」
「ん、そうと決まれば急いで支度だ!」
ナツは大急ぎで支度をして、自転車に乗った。
今夜のレッスンが代理のマルコスにならないよう祈りながら。
ナツは大急ぎで自転車をこいで、7時ギリギリにスタジオに着いた。
ハロウィンのせいなのか、ダンサーたちも数人しかいない。
その中にフェルナンドがいた。
ナツとフェルナンドはいつものようにスペイン語で挨拶を交わした。その後の会話は英語だ。
「今日は私たち、ハロウィンの行事をやったんだよ。料理もしたよ。フェルナンドは?」
「今夜ハロウィンのイベントがあるって友達に誘われたんだ。でも今日はレッスン優先だ。」
「やっぱりね。金持ち先生のレッスンは最近なかったよね」
「そうだね。リゾーのレッスンにショウが必ず来てるはずだけど、今日は一緒じゃないの?」
「ショウは体調がよくないんだよね。彼女、今日は急病で診療所に行ったんだ。」
「そうか、早くよくなるといいね。ショウがいないとリゾーも心配するんじゃないかな。」
「そうだね。ショウはリゾー先生の個人レッスンも受けてるからね。」
ナツとフェルナンドは会話をはずませながらもストレッチをしてレッスンに備える。
他の2~3人のダンサーたちもストレッチしながらレッスンが始まるのを待っていた。
しかし、リゾーは来ない。
「あ~あ、いつもの遅刻かな、それとも代理かな。」
「ナツはマルコスが来ると、はっきりと嫌な顔するよね。」
「え、そうかな~」
「ナツは無表情を装ってるかもしれないけど、はっきり顔に出てるよ。気をつけた方がいい」
「そうかぁ、気をつけるよ」
時計の針が15、30と進んでもリゾー先生はあらわれない。
レッスンが始まる時間を30分以上過ぎた頃、ダンススタジオのスタッフがやって来た。
「先ほどリゾーから電話があって、今日のレッスンは中止だと言ってきたよ」
みんなさほど驚いていない。金持ち先生のいつものドタキャンには慣れている。
ナツは、代理のマルコスが来ないので、そのことにホッとしていた。
「スタジオは8時まで自由に使ってくれ。8時に閉めるよ。」
スタッフはそう言って去って行った。他のダンサーたちも帰っていった。
スタジオのフロアを自由に使えるなんてめったにないチャンスだとナツは思った。
だから時間ギリギリまで、不得意な動きを練習した。
フェルナンドも同じように何か練習していた。
それぞれ自分の練習に没頭して会話もしないほどだった。
時間になって。スタッフがスタジオの施錠に来た。
2人は外に出た。
「あ~あ、久しぶりの金持ち先生のレッスンだと思ったのに、残念だったな~」
「そのうち、またリゾーのレッスンがあるさ。ナツ、空を見てみなよ、今夜は星がはっきり見えるね。」
フェルナンドに言われてナツは空を見上げた。彼の言うとおり空は晴れて星がきれいだ。
「ホントだ。ここに来て夜空を見上げたのは初めてかも。空に星があることさえ忘れてた。」
「まさか!ホントに?」
「ホントだよ。アメリカに来て星を見上げたことなかったよ。一つのことに夢中過ぎて。」
「オー、ナツ、君っておもしろい人だね。」
フェルナンドの左手がナツの右手を握った。
フェルナンドに手を握られてもナツは驚いたりドキドキしたり緊張もしなかった。
それはあまりにも自然な状況で何の感激もないくらい。
2人とも黙ってしばらくそのまま立っていた。その沈黙さえも至って自然だ。
ナツは、ただ夜空の美しさに心奪われていた。
そして、今日の充実した1日を思い返していた。
朝からハロウィンの準備でカボチャのランプやカボチャの料理を作ったり、
お菓子を買うためにスーパーマーケットに行ったり。
そして、ショウの急病で診療所へ行き、ハロウィンの仮装に驚いたり。
ショウが無事で本当に嬉しかったし、安心感で心がいっぱいになっていた。
そして、どうしても金持ち先生のレッスンを受けたくてスタジオに来たのに、無しになり。
なんだか怒涛のような1日だったよな。
ナツがそんなことを思い返していたら、フェルナンドが突然、沈黙を破った。
「ねえ、車で送ってあげるよ」
「車で…?」
ナツの頭の中でいろんな思いが駆け巡っていく。
しかし自分でも何をどう考えたらいいのか、よくわからない。
それに、今日はハロウィンのことや、ショウの体調のことや、
リゾーのレッスンが中止になったことなどが、ナツの頭の中で
大きく幅をとっていて、今のこの状況をうまくとらえられない。
フェルナンドの親切は嬉しい、でも、自転車をここに置いていくことは
できない、とナツは思った。
「うん、ありがとう、でも、今日は自転車で来てるから。」
フェルナンドは黙っている。
「ね、自転車で来たから、自転車で帰るよ。
はやく帰ってショウの顔が見たいし。」
フェルナンドがナツの手を離した。
聞こえるか聞こえないかくらいの小さなため息をナツは感じた。
「OK,サヨナラ。」
そう言って、フェルナンドはナツのおでこにキスをした。
そしてあっという間に車に乗り込んで帰ってしまった。
ナツは突然胸騒ぎを覚えたが、その胸騒ぎもすぐに過ぎ去り、
ショウのことが気になって、急いで自転車をこいで帰宅した。
「ただいま~」
ショウはベッドルームでのんびりしていた。顔色もよさそうだ。
ナツはホッとした。やっぱり急いで帰ってきてよかった。
「ナツ、おかえり、金持ち先生元気だった?」
「ショウちゃん、彼は来なかったよ」
「マジで?じゃあマルコスは?」
「代理のアイツも来ない。レッスン中止。」
ショウがベッドから起き上がる。
「あれ、じゃあ今までなにやってたの?」
「ん、スタジオ解放されたから練習した。フェルナンドもいたよ。」
「そうだったのかぁ、残念だったね。」
ナツは突然フェルナンドの顔が思い浮かんだことにちょっと戸惑う。
「それでさ…」
「うん、どうした?」
「ん~…やっぱりいいや。」
「なにさ~言いかけたんだから言っちゃいなよ!」
「うん、フェルナンドが車で送るとかって言ってきて」
「お!じゃあ、自転車置いて車で帰ってきたんだ、だよね?」
「なんで!自転車置いてなんて帰ってこれないじゃん!」
「は?なに言ってんの?ナツ!」
ショウが半ば怒り口調になった。
ナツはショウの態度の理由がさっぱりわからない。
「ショウちゃんこそなに言ってんの?そんなコワい顔して。」
「なにって、あんたフェルナンドが何言ったかわかってる?」
「なんでもないでしょ、車で送るって言っただけだよ。」
「それだけだと思ってんの?本気?」
「ん、たぶんそれだけだろうと思ってるけど。」
「信じらんない!バカじゃないの?」
ショウの語気がさらに荒くなった。
ナツの心の中に、フェルナンドが去っていった時の胸騒ぎがよみがえる。
「ショウちゃん、ホントによくわかんないんだよ、私はどうすれば良かったわけ?」
あ然とした顔でナツを見つめていたショウが、顔を伏せて大きなため息をついた。
フェルナンドの小さなため息がナツの頭をよぎる。
「あんたはダンスへの情熱とかは最高だけど、それ以外はホンットにボンヤリだね」
「そうかなぁ…」
「ナツ、今までのフェルナンドとの中で、一回も意識しなかったわけじゃないでしょ?」
「そりゃあ、まあ、そうだけどさ…でも自分のひとりよがりだと思ったからさ…」
「なんていうか、そーゆー勘がニブいのね、あんたは。」
「…」
ショウはゆっくり諭すようにナツに語りかける。
「誰が見てもフェルナンドはナツのこと大好きだってわかる、そんな感じだったよ」
「ふ~んそうだったの…」
ナツの返答には力がない。
「シャイなフェルナンドが勇気振り絞ってナツを誘ったんだと思うよ」
「…」
「車で送るよって、それが彼の精一杯の告白だったかもしれないよ」
「あぁ~…それでかなぁ?」
「なに?」
「私が断ったら、おでこにキスして、サッと帰った。」
「うわ~!完全に告白だったじゃん!バカだねぇナツは!」
ナツは自分の胸騒ぎの理由がだんだんわかってきた。
「あぁ~…」
こんどはナツが深いため息をついた。ナツは自分のベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
「いくらあんたでも、さすがに彼の気持ちくらいはわかってると思ってたよ」
「うぅ~…」
ベッドにうつ伏せになったままナツはうなり声をあげている。
「もっとはやくフェルナンドのこと話しとけばよかったなぁ」
ショウも心を痛めている。
「もうダメだ。私がボンヤリしてたからダメになったんだ~」
「ちょっとちょっと~絶望するなって、次に会ったらなんて言うか考えときなよ」
うつ伏せていたナツが突然起き上がった。
「そうか!次!」
「そうだよナツ。次会ったら最初の一言が大事だよ。」
「あ~うまくいくかなぁ~」
ナツは再びベッドに倒れこむ。
「ダンスに向かう情熱がちょっとでもこっちに向かえばいいのになぁ、残念!」
ショウはベッドに横たわり、うなり声をあげているナツを見つめていた。
ナツにとって、信じられないほどの長い1日だった。
一夜明けて、いつものように朝が来て、仲間はそれぞれ自分の朝食を作っている。
ナツもいつものように起きて朝食の用意をした。
相変わらず、毎朝、1枚1ドルの薄い牛ステーキを焼き、みそ汁を作っている。
「あきれた、食欲とかはなくならないわけ?」
ショウは朝の挨拶もすっ飛ばすくらい、ナツの様子に驚いた。
「なんで?色恋沙汰と食欲は無関係に決まってるじゃん。」
いつもと変わらずステーキを美味しそうに食べるナツ。
「昨日あんなに落ち込んでいたのにねぇ。」
「ショウちゃんこそ、大丈夫なの?昨日は急病人だったけど」
「私は胃に優しいものを食べるよ、助けてくれたみんなに感謝しつつね。」
「ショウちゃん元気になって嬉しいよ、無理しないでね。」
「ナツも元気だし言うことなしだね、ナツ、昨日はアリガト。付き添ってくれて」
ほかの仲間もショウの回復を喜んでいる。
「ショウちゃん、なに食べてるの?お粥作ってあげようか?」
「リカ先輩、ありがとうございます。でも大丈夫、カボチャのシチューが食べれるから」
キッチンの大鍋に昨日のカボチャシチューが残っていた。
「そっか、私も食べよっと。」
ほかの仲間たちもシチューを食べて、鍋は空に。
「さて、今日は朝イチからレッスンに出るぞ」
ナツは誰にともなく大きな声で言って、素早く支度して早めに家を出た。
「なに、朝イチから出るっていっても、まだ早すぎるけど、どうしたんだ?ナツ?」
リカが不思議そうに呟いた。
「あいつはたぶん、朝から夜までずっとスタジオにいるつもりなんじゃないかな」
ショウには、ナツの思惑がわかっている。
「一日中スタジオにいるつもりなの?どんだけレッスン好きなのよ?」
「レッスンじゃなくて、他の目的があるんですよ」
ショウも内心は祈るような思いなのだ。
2人がちゃんと会えて話をする事ができるように。
ナツは一日中スタジオにいた。
昼食と夕食はマクドナルドで大急ぎで買ってきてスタジオで食べた。
ナツはフェルナンドが現れるのを待ったが、彼は来ない。
今日最後のレッスンも終わり、家路につく。
何か予感めいた悲しみがわきあがり、涙がでそうになる。
ダメ、今泣いたら、あきらめたことになっちゃう!
ナツは必死に涙をこらえた。
一週間待っても、フェルナンドは来なかった。
それどころか、フェルナンドの知人友人さえも、彼に連絡がつかないという。
ダンススタジオのオーナー兼バレエ教師のイレーヌも心を痛めている。
ナツは寂しさと悔しさと自己嫌悪で胸がいっぱいだ。
しかしそのことをあまり表に出さず、懸命にレッスンに励み、明るく振る舞っていた。
「一週間だね」
ショウの語りかけは、短い言葉でもナツには深い意味が感じて取れた。
「まあね~」
ナツは平静を装った。
「もういいの?」
「いいも悪いもないじゃん、彼は来ないわけだし。」
「ナツはあきらめられる?」
ショウが心底、ナツのことを心配していることがわかる。
フェルナンドのショックで胸が痛んでいるナツには、ショウの優しささえも苦しい。
「あきらめられるかどうか。
どうでしょうねぇ~」
ナツはおどけてみせたあと、ベッドにうつ伏せた。
もう動けない。流れて止まらなくなった涙を誰にも見られたくなかった。
ナツは声も出さずに泣いた。
ショウがそっとささやいた。
「しばらくはお一人でどうぞ」
そう言ってショウは部屋から出て行った。
ハロウィンから一週間がたっていた。
「ナツ、人が誰かを愛するとしたら、それは命がけなんだよ、簡単にはできないよ」
ナツはフェルナンドの言葉を思い返していた。
フェルナンドはアルバイトしながらダンススタジオに通っていた。
決して裕福でもなく、いつも仕事やレッスンに追われていた彼が、
ナツやナツの仲間のために、貴重な時間を割いてくれていた。
ナツのチャレンジには、いつもフェルナンドの視線が後押ししてくれた。
短い2ヶ月。だけど、この濃い2ヶ月の間に、ナツとフェルナンドの間には
ほかの誰とも結べない絆が結ばれていたのかもしれない。
フェルナンドの言う命懸けの愛ってなんだろう?
ナツは必死に考えたが答えはでない。
マクドナルドの看板が秋の日差しを反射して光っている。
そのまぶしさが、せつない。
スタジオの駐車場から見える、マクドナルドの看板を眺めながら、
ナツはしばらく思い出に浸り、そして家に帰ってきた。
フェルナンドのことは、なんとなく吹っ切れるような気がしてきていた。
ここに来た本来の目的に集中できる。そう思った。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップについで、好物のバナナマフィンにかじりつく。
「ナツ、電話だよ」
リカがナツを呼びに来た。
「え?電話?」
「国際電話だから、はやく!」
リカに急かされてナツは電話の受話器をとる。
それは日本の所属事務所からの電話だった。
「ナツ、急だけど、来月の仕事決まったから、来週帰ってきてくれる?」
「えぇ~~~~~~!?」
ナツが電話のそばで叫んだ声が大きくて、リビングの仲間がみんなナツを見た。
「そんなぁ…来週って…」
「チケットの手配は済んでるから、空港に行けばOKだから」
「は、はぁ…」
「じゃ、詳しいことはまた連絡するから。支度しといて。」
「はい…」
急だった。
あともうしばらくはここに居てレッスンに専念するつもりだったのに。
「ナツ、帰るんだ?」
ショウが、うつむいたナツの顔をのぞきこんだ。
「うん、帰る…」
「どうした?心残りか?」
ショウにからかわれてナツの気持ちの抑えていた部分がチクッと痛む。
「そんなのないって!」
珍しく声を荒げてナツは部屋へサッと歩いて行った。
なんだよ!なんだよ!
急に日本に帰るなんて!
あまりにも急過ぎる!
なんだよ!
ベッドに倒れ込んで、ナツは手足をバタバタさせた。
苦い思いがナツの心とカラダ全体を支配していた。
最後の一週間。
ナツは出られる限り、なるべく多くのレッスンにでた。
もちろん大人気のジェイミーのクラスもとった。
ジェイミーはいつもと変わらずナツを無視していたが、
それでもナツには重要なレッスンだった。
スタジオで仲良くなったダンサーにも日本へ帰る挨拶をした。
ヒップホップの教師ミシェルはナツの突然の帰国にショックを受けていた。
「ナツはここにいるべきだよ、私のショーにも出て欲しかったし、残念だよ。」
ミシェルはなんとかしてナツの帰国を阻止したかった。
「ナツ、永住権をとればここで暮らして、仕事もできるんだよ。」
「でも永住権なんて簡単にとれないでしょう?」
ミシェルの気持ちは嬉しいけどナツは永住権をとるなんて考えたこともない。
「方法はあるよ。しばらく軍隊に入るか、結婚するか。」
「結婚?」
「そう、ここで結婚すれば永住権とれるよ。」
ミシェルは真剣だが、ナツにとってはとんでもない話だ。
「結婚って言ったって、誰とすればいいのか…」
戸惑うナツにミシェルはきっぱり言った。
「anybody(誰でもいいから)」
ついていけない。この国のダンサーたちはこんな感覚なのか…
ミシェルの発言に絶句したナツだったが、
気を取り直してミシェルに挨拶し、スタジオを出た。
ブライアンが声を掛けてきた。
「ナツ、日本へ帰るんだね」
「あ、ブライアン。」
「寂しくなるよ」
「私も寂しいよ。さっきミシェルに永住権のこと言われたよ」
「ああ、以前からみんな話していたよ、ミシェルは特に、ナツに帰ってほしくないのさ」
「だからといって、誰でもいいから結婚しろって言うか?」
「ナツ、永住権のために結婚の手続きするダンサーは多いよ」
「へぇ~この国はすごいところだね、でも私は誰とも結婚しないよ」
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