立体のアドバルーン
亜衣と、家庭教師の陵(りょう)。
狭い空間の中で、二人の閉ざされた人生が、つかの間交錯する物語。
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亜衣が、初めて陵に会った時感じたのは、自分と同じ匂いだった。
ダルそうに世の中を渡っていく人間特有のけだるいムードが、二人の間に立ち込めた。
家庭教師としてのスケジュール、この子は理数系が弱いから、そこを集中して教えてやってほしい… と、母親が説明して、部屋を出ていく。
「よろしく」
陵が頭を下げると、かすかに、コロンの香りが漂った。
「よろしくお願いします」
亜衣は、机の前で、椅子に座ったまま頭を下げる。 「学校では、どういうことやってるの」
「どういうことって」亜衣は、固い枠組みの椅子に座って脚を組んだ陵を見ながら、「部活とか?」と、尋ねた。
「うん」
「今は何も。前は、バスケとかやってた時もある」 陵は、しばらく黙って、「バスケ、オレの友達もやってたよ。ちゃんと成績も出してた」と、テキストを開く。
「中間テストどうだった?」ひと月ほどして、陵が、全国模試の結果のプリントを見ながら、尋ねる。
「うーん… 微妙です」答えながら、亜衣は、陵の前髪を見ていた。
窓から入ってくる光線の具合で、茶髪にも見える細い髪を、額の生え際から分けている。きっと、遊ぶ時は、鼻の頭につくくらい髪の毛をおろしているのだろう。
「その髪」「期末には」と、二人の声が重なった。 少しわらって、陵が、「いいよ、先に言って」と、うながすと、亜衣は、「どうやって色つけてるんですか?」と聞いた。
「色? 最近はつけてないよ」
「前は?」
「前は… 茶色くしてた時もあった」
「ふーん。私は、もともと色つきだから、染めてもあまり変わらない」
「亜衣ちゃんは髪の毛がきれいだからさ、染める必要ないんじゃない?」
「みんなそういうけど」亜衣は、薄い紺色のジャージの胸元を引っ張り、次に右手で髪をひとふさ無造作につかんだ。「見た目だけ。派手な色にしてもすぐ落ちちゃう。芸能人とか、どうしてるんだろう、って思う。真っ黒い髪の人なんか、黒いやつで光沢出してんのかな、って思って見てる」
「もともとみんな生まれつき髪質が違うからさ」
陵は、亜衣の髪から目をそらして、テキストをめくる。
「期末の話だけど。今度の全国模試は一週間早く始まるから、学校の授業のペースと合わせると… 」
それからしばらくの間、雨が長く降り続いた。
「雨っていやだよね」
問題集のページをめくり、何か書き込みながら亜衣が言う。
陵は、ノートに赤いボールペンでチェックを入れながら、黙っていた。
「いやな事ばっかり思い出す。中学校の時、成績が下がった事とか… うちの親は勉強はあまりうるさくないけど、学校から呼び出されたら機嫌が悪くなって、食事がまずくなるんだよね。私より成績悪い人たちなんていっぱいいるのに」
陵は、ノートをめくって、「やり直し」と、亜衣に手渡した。
「数学だって、塾に行ってる人たちは先に解き方がわかってるから、テキトーにやって遊んでる。みんな、先生の話なんて聞いてないし。はっきり言って、学校でやる勉強って、全然おもしろくない」
「… お母さんは? 成績が悪いと怒るの?」
「怒んないけど、しばらく口聞いてくれない」
亜衣は、消しゴムで答えを消し、新しい答えを書き込んだ。
陵は、少しうつむいて、まぶたをこする。
「眠いの? 先生」
「ん… 大学入試控えてる子がいて、最近、集中してやってるから。他にも、オレ、アルバイト掛け持ちしてるし」
「そこのベッドに寝れば? 別に汚なくないから」白いベッドのほうをふり向き、陵は、「なんか、ぬいぐるみがいるけど」と、笑う。
「それ、先輩からもらった。文化祭の時。ネコだって」
「ネコ? 犬かと思った」 陵は、ベッドに横たわり、ぬいぐるみを窓側に寄せて、死んだように目を閉じた。
しばらく亜衣は問題集に計算式を書き込んでいたが、寝息もたてずに横たわっている陵のほうを見て、また話し始めた。
「ママは、いないほうが楽。勉強もはかどる。専業主婦なんて、ムリがあるんだよ、あの人。私を産んだ後、会社に戻れなかったからって、うじうじ家の中で機嫌悪くされても、私も迷惑だし」
「――― お父さん、いつ帰ってくるの?」
「知らない。いつかは帰ってくるんじゃない?」
椅子を半回転させて、亜衣は、ショートパンツの脚を組んだ。陵は、天井のライトの明かりをさえぎるように、両手をクロスさせて顔を覆っている。
「私のママって、もともと愛人なんだよ。私が生まれた後、パパは離婚してママと結婚したけど、いまだに元妻と切れてないみたい。単身赴任中に会ってるんだよ、きっと。だって全然帰って来ないし。
かわいそうなママ。ママと私は、パパから捨てられたんだよ」
「…… ドラマみたいな話だな」
「ドラマみたいな話? 全部ほんとの話だよ。パパと電話しながら、ママ、よく泣いてるし」
しばらく、部屋の中を、沈黙が通り過ぎた。
亜衣は、陵に向き直り、
「ね、アルバイトって、夜の仕事?」と聞いた。
「うん… 夜勤の時もある… 」
「セックスの仕事?」
片目で驚いて亜衣を見つめ、陵は、「そんな仕事じゃないよ」と答えた。
「セックスの仕事してる人って、珍しくないよ。お金持ち相手だったらさ、普通の会社に入るより稼げるんでしょ?」
「初体験とか済んでるの?」陵は、じっと白い天井を見つめて聞いた。
「まだ。友達とビデオ見て、なんとなくマネした事はあるけど、最初はお金くれる人とやろうと思って」 「まず学校に行ってちゃんと勉強しろよ」
ぽつりと陵が言うと、問題集に視線を落として、「勉強だけやってても、お金は入ってこないよ」と、亜衣がつぶやいた。
「先生は、ずっとまじめに学校行ってたの? 親は、仕送りとかしてくれないの?」
「オレも… 父親がいないんだよ」
「うそ? 離婚?」
「いや、生まれた時からいない」
「へーえ、そういうの、私生児っていうんだよね?」 机の上の問題集から向き直った亜衣の目が、輝いている。 「私と似たようなもんじゃない」
「ちがうよ。オレ、父親の顔も知らないんだぜ」
「私も、パパがどんな人だったかほとんど忘れてるよ」
陵は、少し笑って、「あと、次の単元まで終わったら、今日の分は終了にするから」と言い、ベットの上で目を閉じた。
「亜衣、このごろ調子いいじゃん」
学校帰り、路上のカフェでドーナツを食べた後、Lサイズのコーヒーを友達と飲んでいるときに、話しかけられた。
「うん。家庭教師がいるから」
「亜衣の家、お金持ちだからね」
「パパが単身赴任してるんでしょ?」
「来年は帰ってくるみたい」 ふっと、ストローから口をはなした亜衣の目に、陵が歩いている姿が見えた。
女連れだった。
「ねぇ、服見に行こうか」
「バーゲンとか、まだやってるの?」
携帯を右手に持ち、口々にメールをチェックしながら話す友達を横目で見ながら、亜衣は、「彼氏に買ってもらえばいいじゃん」と、笑った。
ジーンズのポケットに手を入れ、片腕にモヘアのハーフコートを着た女のうでをからませている陵は、ゆっくりと雑踏の中にまぎれていった。
「卒業式が終わったら、買い物に行かない?」
母親が、部屋のドアを開けて入ってきた。
「買い物?」
亜衣は、机の上に置いてある鏡を見た。鏡に映った母親は、白っぽいガウンを着て、今日も父親からもらった金色のピアスをつけている。
外せばいいのに、と思って、うつむいたまま答えた。
「幸代おばさんと一緒でしょ? 行かないよ」
「どうして?」
「受験のこと聞かれるのいやだから」
「…… 推薦が通ったんだから、いいじゃないの。何かお祝いに買ってもらえば?」
「このあいだ服買ってもらったから、いい」
「じゃあ、ママと一緒に行こうか?」
亜衣は、イスに手をかけて母親をふり向いた。
「いいよ。ママだって忙しいじゃん」
少し笑って、母親は髪を揺らして瞳をふせた。
そうすると、金色のピアスがライトに反射して光る。
「忙しくないわよ。ずっと家にいるし」
「パパは帰ってくるの? パパと行けば?」
「そのうちお花が届くと思うわ。このあいだ電話したから」
母親はしばらく黙って、ガウンの前で腕を組んだ。
「家庭教師の先生にもお礼しないといけないし」
「いいよ。そんなの」
「そういうわけにはいかないでしょう」
「いいって、気をつかわなくても」
「… 亜衣、あなた、どうしてそう反抗的なの? もう少しお母さんの言うことを聞きなさい」
「大学まで行かせてやるんだから?」
亜衣は、しばらく母親を見つめ、机に向き直ってプリントを取り出した。
「… 大学に入りたいんだったら、もう少しちゃんとした格好して、門限くらい守りなさい」
亜衣は、黙り込んで、プリントに書き込みを始めた。
たたみかけるように、母親が言う。
「サークルとか、合コンとか、遊びまわるような真似はやめなさいよ。そのうちママが、会社訪問のセミナーを紹介してあげるわ。パパにも相談して、気に入ったら通えばいいから。わかった?」
黙っている亜衣の背中を見つめ、母親は、
「あなたの人生だけど、パパとママの人生でもあるのよ」
と言い、ドアを閉めた。
デスクに向かって、亜衣は、今までの回想にふけっていた。
大学を卒業した後、一年間アルバイトして、初めてきちんとした恋人ができた。
ベットの中で、恋人は未来の夢を語り、「よかったら、オレの仕事を手伝わないか?」と誘ってきた。
亜衣はマネジメントや商品管理を受け持ち、恋人は開発を担当した。やがて学生の頃の友達が協力してくれるようになり、インターネットの普及と共に、商品は少しずつ利益を上げていった。
ふっと、事務所のベルの音が響いている事に気がつく。
「… はい」
「すいません。お届けものです」
「あ、すいません。そこに置いてください」
紺色のスーツ姿の亜衣は、イスの上で脚を組んだまま、配達員に指示した。
配達員は、黒いストッキングの亜衣の右脚をちらりと眺め、段ボールを一箱、床に置く。
デスクだけの室内の中で、ずっしりとした段ボール箱をはさみ、配達員と亜衣は見つめあった。
「… 代引きですか?」
「いえ、料金は代表者の方から頂いてます」
高校の時の家庭教師に似ている、と思いながら、亜衣は、「殺風景でしょ? ここ」と聞いた。
「… そうですね」
「逃げちゃったのよね、代表が。またオフィスになるかどうなるかわからないんだけど、いろいろな手続きが面倒で、そのままになってるの」
配達員は、黙って、広いガラス窓からビル街を見つめている。
「何だと思う」
「え?」
「あの赤いやつ」
亜衣に言われて、配達員は、ななめ向かいのビルの上空にある丸い物体に視線をうつした。
「… 宣伝用の、飾りじゃないですかね」
「アドバルーンかしら」「ビルに付随して設置してあるんですよ」
「そう。おもしろい形してるなあと思って見てたんだけど」
しばらく黙ったあと、配達員は、「あっちのビルの事務所も、いくつか閉鎖してるみたいですよ。不景気だし」と、言った。
伝票にサインして、亜衣は、「ごくろうさま」と、配達員に渡した。
配達員が頭を下げてドアを出て行った後、亜衣は、しばらく、赤い球体を見つめていた。
やがて、携帯電話を取り出し、ダイヤルを押す。
「…… ママ? うん。今日は、パパ、帰ってくるの…?」
誰もいない空間の中で、亜衣の話し声が、いつまでも響き続けていた。
〈 END 〉
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