携帯小説「二番目の悲劇」

レス500 HIT数 23393 あ+ あ-


2009/08/18 18:34(更新日時)

「二番目の悲劇」

🔯 作者@ りん
🔯 演出@ ホロロ

で、進めて参ります、長編小説です。

新しい試みですので、優しく見守って下さるようお願いします🙇

No.1159104 (スレ作成日時)

新しいレスの受付は終了しました

投稿制限
スレ作成ユーザーのみ投稿可
投稿順
新着順
主のみ
付箋

No.351

やっぱり来るんじゃなかった――。
レンガ造りの古いビルを見上げながら、駐車場に停めた車の中で和美はぐずぐずしていた。

昨夜はオーディション前の新米女優のように眠れなかった……と言いたいところだが、気が付くと顔にシーツの跡がつくほどぐっすり寝ていた。

この歳になって、しかも波瀾万丈の半生を送って来たのだから、何も恐れるものなんかない……わけない。

しかし、ここに和美が来たからといって、誰かがテストを科すわけでも裁きを与えるわけでもないのだ。
彼女は勇気をふるって、もう一度看板を見上げた。

『原久オバマのモザイクの世界・再生の空』

もしも、香月の事がなかったら、絶対にこんなところには来なかっただろう。

だが、弟が死んだ今、和美はどんな思い出も辿らずにはいられない。
あの時、二人がオバマの『天を走る』に、どんな形にしろ繋がれたという事実には、いつか向き合わなければならないのだ。


あの頃は日本でしか知られていなかったが、今やオバマは国際的なモザイクアーティストになっていた。

No.352

彼の作品はヒーリングモザイクと呼ばれ、世界中で様々な人種に大量の涙を流させた。
そのため各国の大会社や一流ホテル、富豪らから、オバマが盛んにラブコールを送られたことは言うまでもない。

だが、彼が大金に動かされなかったことは、世界に点々と残されている作品からも知れた。

貧民街の小学校、

倒産寸前の遊園地、

戦地の病院、

各国の孤児院、

ホームレスが葬られる集団墓地、

ヒマラヤ山中の寺院までモザイクを作っている。

オバマの私生活は謎に包まれ、どこに暮らしているのか誰にもわからないということだった。

そんなオバマがロサンゼルスのダウンタウンにある廃ビルの改装に着手していると耳にしたのは、三ヶ月前だった。
おかげで90日も和美はうじうじと悩まなければならなかったが、ついにこうしてやって来てしまった。

しかも開館初日に。

和美はため息をついて車を降り、こそこそと入り口に向かった。

オバマフリーク達がデパートのバーゲンのように列を作っているものと思って来たのだが、まだ他の客の姿はない。



どうやら一番乗りのようだった――。

No.353

ちゃんと宣伝してるのかしら――和美はつい余計な心配をしてしまった。

モザイクで蘇ったビルは一ヶ月間の公開後、障がい児の施設として使用される予定で、入場料はそのまま寄付に回されるという。

入り口への緩やかなスロープを上がりながら、和美は既に頬がじんとなっていた。

まるで天国への入り口のような、精巧なモザイクで彩られたドアが和美を待っていた。

和美はその前に立ち、タイルの放つ心地よいオーラにしばし包まれた。
ドア一枚で、既にノックアウト状態だ。

一体この向こうにはどんな世界が待っているのだろうか。
和美は震える手を銅のノブにかけた。



開かない。
押しても引いても開かない――。

和美はたちまち現実に戻り、何度もノブに力を込めた。



そして、かたわらの立て看板をもう一度見て、
とんでもないミスに気付いた。




信じられない――。


緊張のあまり、開館日を一日間違えたのだ。

まるで初デートでカチコチになった少女のように。

和美は一人でカアーッと顔を熱くした。

No.354

良かった、誰にも見られなくて。
関係者が来ないうちに早く帰ろう――。
そそくさと後ろを向いたとたん、和美は驚いて倒れそうになった。
そこには既に、鍵を手にした一人の男が立っていたのだ――。


はっとするほど綺麗な日本人。しかも、それは和美が今まで見たことのない種類の男だった。

ロスに20年も住んでいれば、スシレストランでオーラの強いハリウッドスターに出会う事があるし、講演会でノーベル賞をとった天才を見たり、街で宇宙人のような人間を見かける事もある。

だが、目の前の男ときたら、人間離れしているというか、まるでクリスタルでできた人間がそこに立っているようだった。

年齢もわからない。

時は彼だけを避けて通っているのか、見えないベールを通して別の空間の中にいるようだ。
そして、その目に見つめられた時、和美はまるで自分がその一瞬のために今まで生きてきたような気がした。



黒々とした、星のような目。

この人は、
この人は、原久オバマだ。

No.355

死にそうになっている和美から目をそらし、オバマは綺麗な手を伸ばして鍵を開けた。

この手ならどんなにモルタルにまみれても、血が流れても美しいだろう。

何か言わなければいけない。ここにいる言い訳を、少なくとも挨拶を。

だが、和美は口のきき方を忘れてしまった人間のように、情けないほど何もできずに突っ立っていた。

ゆっくりと秘密の扉が開いた。 オバマの目がどうぞ、といった。

あえぎながら、それでも和美はその奥にあるものに目を向けずにはいられない。
開け放たれた空間に思いがけない一面の空が、圧倒的な空が見えた時、和美はもう泣いていた。

一歩、一歩、夢遊病患者のようにモザイクの間を歩き回った。
ずっと避け続けていた芸術のありとあらゆる快感が和美を取り巻く。
どうして、今まで自分はそれなくして生きてこられたのだろう蓜

あれほどの創作を知ってしまった後でさえ。

そして、どうしてこんな天才と同じものを自分が受け取れたのだろう蓜

No.356

どうして、どうしてと思っていたのは、最初だけだった。
後はただ夢中でモザイクを見て回り、呼吸し、味わい、泣いた。

胸にたまっていた重い悲しみが涙と共に流れていく。

そのうちに、香月の死によってもたらされた深い喪失感が、いつの間にか軽くなっていることに気付いた。


ヒーリングモザイク――
和美はそれが決して大袈裟なネーミングではない事を知った。
和美は自分の目に入ってくる全てのものが、さっきよりも光り輝いているように見えた。

オバマの空は、死の向こうに広がっている空だった。
そして見る者は、いつの間にか死を乗り越えた向こうにそれを見る。

オバマを通して生み出されたモザイクは、そんな流れのようなものを持っているらしい。
それは言葉による納得よりも速やかに人を運ぶ事ができる。

おそらく彼の才能とは、
彼の中に形作られた心の道。
それをモザイクに込められることにあるに違いない。

No.357

全てを見終え、ぼーっとしたまま一階へと降りていったとき、和美の心にはまだオバマの目が焼き付いていた。

それはあまりにも強烈で、もう一度目を合わせるのが怖いほどだ。

にもかかわらず、和美は迷子の子供のように彼の姿を求めていた。

オバマはホールの片隅に立ち、和美を待っていてくれた。

そして、彼が手にしているその作品を目にしたとき、思わず悲鳴を上げ、床に崩れ落ちていた。

「ご、ごめんなさい」
和美はおののきながら、
「どうして……どうして『天を走る』がここに――」

和美はオバマの前に置かれている『天を走る』を貪るように見た。

二十数年前、自分の運命を狂わせる事になった作品を。

それは和美のあらゆる感情を揺さ振り、抑えようもない涙がとめどなく流れた。




「あなただったのか」
オバマがぽつりと言った。
あの盗作騒ぎの事を知っているのだろうか。

そのことを言っているのだろうか。



「あなたが呼んだんだ、このモザイクを」


オバマは静かにいった。

No.358

「ぼくは最近どうしてこのモザイクが頭に浮かぶのか、不思議に思ってた。この建物のコンセプトとは違うのに。だから今日、最後にここに持ってきてみたんだ」
オバマはいった。


和美はア然とした。

何かが通じたのだ。

会ったこともないこの人と、再び――。



和美はいつの間にか口走っていた。

「わたしは……二十数年前にこれと同じ絵を描いてしまったんです。
そして盗作と言われました」


……こんな事を話すつもはなかったのに。

和美はオバマの眼差しに誘われたように、今まで自分にあったことを全て吐露していた。

それで彼の目の色が変わったとしても仕方がないだろう。

だが、その眼差しは深く、いっそう深くあり続けた。


和美はついに話し終わり、口を閉じた。
自分がひどく醜くなったような気がした。

それでもオバマから目を離す事は出来なかった。
たとえ、どんな批難の言葉を聞かされても――。




「……あなたは」

オバマが口を開いた。





「……あなたはまぎれもなく、創造したんだ」

その瞬間、奇跡が起こったのだ――。

No.359

和美の過去の行いは、彼女の中でいっぺんに肯定され、抑圧されていたものが大空にかかる虹のように解き放たれた。


彼女は、世界中の創造の息吹を感じた。
絵、モザイク、イラスト、音楽、小説、映画……
あらゆるものを生んでいる意識という力を。

それは世界を動かしてる。あるレベルで、芸術にしかできないやり方で。

人生はまさしく創作そのものだ。

だが、同じところをぐるぐる回っているのは芸術ではない。
和美はそのように理解した。

芸術は――
今までと同じ場所を一歩踏み出し、自分を広げたその瞬間にこそ生まれる。



そして、人は大きくなり続けるのだ。



いつかあの宇宙の源に届くまで――。

No.360

「……ありがとう」
素直に和美は頭を下げた。

「時のかなたでミューズはいつも発信している」
オバマはいった。
「僕たちはそれを、ほんのちょっと前後して受け取ったのかも知れない」


コインシデンス――
和美はその言葉を思い出していた。

オバマと、このオバマとコインシデンスが起きた。だったら、どうしてそれが不幸であろうか。
たとえ、それで青春時代がめちゃくちゃになったとしても。

今ならもう一度それを体験してみたいくらいだった。


もう思い残す事はなかった。和美はその一秒、一秒を惜しみながら立ち上がり、オバマに別れを告げた。

ドアを開けようとした時、和美はまたひどい失敗に気付く。

こんなにじっくりと独占鑑賞して、まだ入館料を払っていないではないか晙

あたふたとバッグから寄付金込みで百ドルを取り出し、後ろを振り返ると、オバマが『天を走る』を両手に持ってすぐ後ろに立っていた。

和美は何が起ころうとしているのかわからなかった。入館料を徴収しにきたのではなさそうだ。

と、オバマはゆっくりと和美にパネルを差し出して、こう言った。



「あげる」

No.361

 和美の百ドルは宙に浮いた。
彼女はAの発音のように口をあけたまま、本当に腰を抜かしそうになった。
今や国際的なアーティストであるオバマの作品が、一体どのくらいするものなのか見当もつかない。

いや、金額の問題じゃない。これほど貴重な作品をオバマは、さっき会ったばかりの赤の他人、しかも今は芸術家でも何でもない主婦にくれるというのだ。

この人は、実は頭がおかしいのだろうか。


「運命に立ち向かうんだ」オバマはいった。
「今度は自分から」


自分から……蓜
何を言っているのだろう、と和美は思った。
わたしはあなたとは違う。全てはもう終わってしまった事なの。
過去の、一瞬のパッションの輝きはもう――。




「創作するんだよ」
オバマはいった。


「あなたが」



悪魔だってその目に逆らう事は出来ない。

今の眼差しは一生忘れられないだろうと思いながら、和美は催眠術にかかったようにオバマの魂の結晶を受け取っていた。








『天を走る』は彼の言葉と同じくらい、ずしりと重かった。

No.362

和美に秘密の日課ができた。


朝、夫と子供を送り出し、車が坂の下に見えなくなるのを確認すると、猛スピードで食洗機と洗濯機をセットすると、いそいそと寝室に戻る。

まるで愛人をクローゼットに隠している女のように。

チェストミラーを力を込めて外し、その下に潜んでいるモザイクをこの世界に引っ張りだすと、もう和美はこの世の人間として使い物にならない。

麻薬中毒患者のように、
時を忘れてぼんやりとへたり込むのだった。

『天を走る』――
少女時代、和美を地獄に突き落としたその作品は、今や命の泉としてそこにあった。
まるでオバマが今もそばにいてくれるように。
オバマがこれをくれた事は、猫に小判だと思われたが少なくとも彼女が『天を走る』を一番愛する人間だった事に間違いない。

和美はただ、それを見ているだけで満たされ、幸せだった。


単なる一ファン……
和美は謙虚心ではなく事実としてそう認識していた。

オバマはあんな恐れ多い事をいったが、創作なんて二度とできる訳がない。
なぜなら香月はもう、
死んでしまったのだから……

No.363

あの日、オバマのモザイクに触れ、ささやかながらわかった事の一つは、芸術には大量の感受性が必要だということ。

香月ならそれを情報量といったかも知れない。
それは、普通の人間が一人で受け取れるような量ではなく、束になっても敵わないものだ。

芸術家とは、何らかの方法で、あるいは資質でそれを蓄積する器を手に入れている人のことではないか。
文字通り”器が違う”のだ。

和美はただ、モザイクを見る。感じる。ひたる。


やがて、電話の音、ドアのチャイム、餌をねだる猫の声などが、モザイクの夢から彼女を引きはがすまで。

ごめんなさい、オバマ。
と、謝りながら和美はまたミラーを戻してモザイクを隠す。

もう少しだけ独り占めしたら、あなたの作品はどこかに寄贈するから。

それまで、もうちょっとだけわたしのそばにいさせて下さい、どうぞお願いです――。



日が暮れて、やがて夜になり疲れた家族が戻る。

秘密の時に充電された和美の、美しい笑顔に迎えられながら……

No.364

しかし、それから五年が経過しても、和美はまだモザイクを独り占めにしていた。

その至福感は驚くほど持続し、倦怠期はまだ訪れない。
まるで一日も顔を見ずにはいられないくっつきたての恋人のように。

和美はひとりきりになると、いそいそとオバマのモザイクに逢いに行くのだった。

これがある限り何が起こっても、何が起こらなくても彼女は幸せだった。

その日、いつものようにベッドのへりに座って陶酔している女を呼び起こしたものは、窓ガラスにあたる雨の音だった。

和美はモザイクから目を離し、ぼんやりと灰色の空と海を眺めた。
潮まじりの雨の匂いが小窓から流れ込んでくる。


眠い……
和美は大きなあくびをした。
アメリカに来ても、中年太りになっても、この雨の匂いに弱いという訳のわからない体質だけは変わらなかった。

ゴロンとベッドに横になると、サイドテーブルの上の手紙が目に入る。
それは大学に入学したマリナから送られてきた、アパートの賃貸契約書だった。

No.365

武史は既にNYで日系企業へ就職し、洋史はハリウッドの映画制作会社でADをしている。

末っ子がやっと家を出て、和美はユウと二人きりに戻った生活を楽しみながら、のんびりと暮らしていた。

料理以外に何か作るといえば、ボランティア団体に寄附するニットか、ビーズアクセサリーくらい。
それもどんなにセンスをふるっても、『がんばったわね』と言われるくらいの代物だった。

北村ミチは今年、映画での演技が話題となり、各国の映画祭で主演女優賞をとった。

紫苑は三つ子の魂百までというか、とうとうニューヨーク近代美術館に作品が収蔵されたという。

しかし、彼女達の達成と和美の円熟は逆報告にあるものだった。

もうこれから先、和美の人生にあるのは当たり前の平穏だけに違いないのだ。


芝生にあたるしめやかな雨音がいっそう眠気を誘う。和美はゆったりと目を閉じた。

今日、特に予定はないということは、なんと贅沢な自由なのだろう。
彼女は子供のように眠りの波に自分を委ねた。

No.366

浅い穏やかな眠りの中で、夢を見た。

静かな暗闇で誰かが何かを囁いていた。
耳にあたる言葉の感触が音楽のように心地良い。

和美はうっとりと言葉の海を漂い、いつまでもそれを聞き続けたいと思った。

視覚はただ深く、安らぎに満ちた黒だ。


その世界では言葉だけが輝き、生きて、うねっていた。宇宙の果てから響いてくるような声。

陶酔。

夢中で言葉の流れを追っていた和美は、そのうち、それが物語のようなものである事に気付いた。



誰かが……

話を語ってる……

わたしに聞かせている。

この聞き覚えのある女の声は―― わたしだ。

和美ははっと目を開けた。


もがくようにベッドの上に起き上がった和美は、大変な事態を見いだした。



言葉……言葉。


喉元まで……耳元まで、


今聞いたばかりのモノが一杯に詰まっている。



いくら鈍感な和美でも、今度ばかりは何が起こったのかわかるまでには、
時間はかからなかった。











”あれ”がきたのだ。

No.367

『あれがきたのだ』

今度は言葉の洪水が。

まるで自分にゆとりができるのを待ち構えていたように。


でも、どうして蓜
こんな事はあり得ないはずなのに。

香月は死んだのだ――。

なのに…… なぜ蓜

わたしは一人で受信しているの蓜 この言葉は一体どこからくるの――蓜



和美はオバマのモザイクを振り返った。

『運命に立ち向かうんだ』

しまい込まれていたオバマの言葉が、まるで昨日言われたように胸の奥底から立ちのぼってくる。

それは、おそらく五年間もずっと和美にそう囁き続けていたのだ。

そして和美は五年間その言葉に心を閉ざしていた――。

それが今、あの黒い瞳とともにハッキリと形をなして和美に迫る。


創作するんだよ。


あなたが――。


気がつくと、和美は挑むように立ち上がっていた。

頭に渦巻く言葉を繰り返しながら、それをこぼさないように屋根裏部屋への階段を昇る。


まるで創作への険しい道を昇るかのように――。


書きとめておかなくては、これを、今、一句も失わぬうちに――。

No.368

ああ、まだこんなわたしにも『創作の嵐』を受け取ることができるのか。

役割を終え、もうすぐ50歳になろうとしている自分にも、まだ――。

書斎のデスクには白いパソコンが待っていた。

震える手でパソコンを立ち上げると、あとは無我夢中だった。
指が自分のものではないようにキーボードを滑る。


最初の言葉。そして、次は蓜 心でまた鳴り響く自分の声を追う。
そのうち声が変わる。香月の声に。
それは和美が思い出すからなのか、それともあの世から香月が送ってくるのか。

まさか、と思うと、香月の声が消え、そのうち誰のものかわからなくなる。

誰でもいい語れ、もっと
ここにわたしがいる。

わたしがあなたを聞いている――。


書きかけているもの。

それは一遍の小説だった
和美は呆然と画面を見つめる。
小説はしばらく語った所で途切れている。

続きが読みたい。
いや、書きたい。
書けるものなら……

今度こそこれは創作だと信じたい。


しかし、悲しいことに、これもきっと誰かの盗作と言われるに違いないのだ。

No.369

真夜中、軽いいびきをかいて眠っていたユウは、隣で寝ていた和美が起き上がった気配でぼんやりと目を覚ました。

最近トイレが近くなったようだが、やはり歳のせいか。

ユウは目を開けることもなく、すぐにまた眠りこんだ。

それからどのくらい時間が経っただろう。
救急車のサイレンで再び起こされ、寝返りをうった彼は、ダブルベッドがやけに広々としているのに気付いた。

ユウにとって和美の体は、それがないと寝つきが悪い愛用の枕のようなものだ。主張の強くない和美は彼にとって、なくてはならない安らぎの存在だった。

彼が見込んだとおり、結婚生活もおおむね理想的だった。
たまには妻への感謝を口にしてもいいと思い、
『生まれ変わったらまた夫婦になってもいいな』
と言ったら、複雑そうな顔をされた。

正直な女だ。

ユウはもそもそと手を伸ばし、妻の温もりの残っていないシーツを感じた。

やっと目が開く。
ユウは急に心配になり、ガウンに手をかけながら起き上がった。

No.370

「和美……蓜」
廊下に出てダイニングルームを見回り、リビングの電気を点けた。

どこにも妻の姿はない。

不安になって真っ暗な庭を覗き込んだ時、頭の上でカタリと音がした。

ユウは天井を見上げた。
 書斎だ。
そんな所で和美は今頃一体何をやっているのか蓜

ドアの隙間から怪しい光が漏れている。

カシャカシャカシャ……
絶え間なくキーボードを叩く軽い音。

そっとドアを開けてみると、パソコンに向かって何かを書いている和美の姿が見えた。

この夜中にパジャマのままで家計簿をつけているとは思えない。

その時、ユウはふと昼間の和美の様子を思い出した。
そういえば少しくたびれたような顔をしていたが、歳のせいだと思った。

「和美、何やってるんだ」ユウは声をかけた。

キャア、と驚いて飛び上がる……と思ったら、和美の大きなお尻は一センチも動かなかった。

完璧に無視されたユウはもう一度呼びかけたが、
その声は和美の鼓膜を震わせなかったか、脳に弾き飛ばされたかどちらからしい。

No.371

怪訝に思ったユウは、恐ろしいほど熱中している和美の顔を見ようと、そっと机の前に回り込んだ。

「どうした――」
そう言いかけて、ユウは息をのんだ。

今までに見たことのない、別人のような妻の顔があった。
紅潮し、若々しく、どこか激しいものを放っている。

それは美しくもあり、またある意味では常軌を逸している者のようでもあった。

異様な輝きに満ちた目は一体どこを見ているのか、ユウの姿は全く映っていないようだ。その指ときたらまるで何かがとりついているように、キーボードの上を物凄いスピードで動いていた。

目の前で起きている事は、自分の理解を超えている。
そんな事は和美にあってはならない。
我が妻には――。

「和美晙」
ユウは妻の肩を掴んで必死に揺さぶった。
「しっかりしろ、おい晙」
和美ははっと我に返った。同時にロウソクを吹き消したように目の輝きが消え、皮膚に年相応のシワが戻る。


いつもの中年女に戻って夫を眺めた表情は、いかにも残念そうだった。

No.372

「あ……あなた」
彼女はぼんやりといった。「あなたじゃないよ、どうしたんだ、え蓜」

和美は今になって辺りの冷たさに気付き、パジャマの腕のあたりをこすった。口ごもり、夫の顔から目を背けて深いため息をつく。

「何でもないの。すぐ寝るから、あなた先に行ってて」


その時、ユウはかつてこの家で一度も経験したこともない、奇妙な感じを覚えた。


――疎外感。


まるで自分は重大会議の途中に侵入してきたよそ者だ。

和美は夫という邪魔者に背を向けたまま、黙々と書いたものを保存していた。


心配したのに……
なんだこの態度は――。

ユウは何だか面白くない気分になり、憮然として書斎を出て行った。



ユウはパートナーに興味をなくした夫ではない。

和美の好きな食べ物も知ってるし、誕生日にはピッタリサイズの洋服を買って来ることだってできる。




なのに、その時、妻が何を書いていたのかという疑問は、この男の頭には全くよぎらなかった。

No.373

次の夜、午前3時に目を覚ましたユウは、またしてもベッドの隣から和美が消えているのを発見した。

いつ起きたのか全く気付かなかったから、おそらくそっと抜け出したに違いない。

ムカつきが目覚ましになってユウを起き上がらせ、真っすぐに書斎へと向かわせた。


そういえば新聞で、子供が自立すると母親が寂しさで鬱になるとかいう記事を読んだが、この奇行もその症状のひとつなのだろうか蓜

しかし何を思いついたか知らないが、いい年をして止めさせなくては。

寝不足になって体を壊す。健康には規則正しい生活が一番なんだ――。


「和美、おまえちょっと、いい加減にしなさい」

ユウはそういうとドアに手をかけ……
それからノブをしげしげと見つめた。

自分の手の感触が信じられない――。

ユウはしばらく呆然とその場に立ち、キーボードの音に翻弄されながら、やっとのことで事実を把握した。


ちくしょう――。


鍵が掛かってる。


和美は締め出したのだ。



自分を――。

No.374

ユウは自分をないがしろにされた気持ちを押し殺し、寝室に戻った。

結婚してから、ただの一度もこのような事がなかったので戸惑いを隠せないままユウは再び眠りについた……


翌朝――。

和美はうつむき気味で、
けだるそうにコーヒーをいれている。

赤い目、

疲れた顔、

足元もふらついていた。


ユウは朝からそんな妻を見るのは我慢ならなかった。
(なんてザマだ、心配してた通りじゃないか。僕はハリウッド通りにたむろしている夜の女と結婚したんじゃないぞ……)


「そんな事してたら、体を壊すだろ。どうしてそんな無茶するんだ蓜」

苛立ちの向こうから和美がコーヒーを運んできたが、いつものダイエットシュガーがついていない。
しかし妻はウェイトレスではないと思い直し、自分でシュガーを取りに行くと、ますますイライラが高まった。

「そんなに熱中してるなら、昼間書けばいいだろ」ユウはいった。

ちらっとこちらを見た妻と目があった。
そのとたん、ユウは和美が昼間も書いていることを悟った。

No.375

「……わかったわ、ちゃんと話す」

和美はすまなそうな顔でユウの前に座った。

「実はね、わたし、小説書いてるの」


「小説蓜」
ユウが意外に思ったとしても無理もない。
だいたい妻は小説を書くどころか、読んでいるところもあまり見たことがない。マイペースな女だから、誰でも知ってるベストセラーを読んでなくても平気だ。

夢中になって書いているのは、どうせ日記かなんかだと思っていたのだ。


「小説ったって……」
ユウの声に疑いが混じる。「おまえ、そんなもん書けるのか蓜」

「お願い、あなた」
和美はすがりつくような目をした。

「何も言わないでわたしにこの小説を書かせて。わたし、どうしても書かなくちゃ――」


……そんなたいそうな事なのか。
食事をしなければ人は死んでしまうが、小説を書かなければならない理由なんて一つも考えつかない。だいたい和美が書いたものを読みたがる人間がいるとも思えなかった。


少なくとも、自分でないことは確かだ。

No.376

そういえば……ユウは首をひねった。

結婚前、和美は歌かなんかを作ったような気がするが、すっかり忘れてしまった――。

「小説なんか、書く必要があるとも思えんけどな」
ユウは思ったままを口にした。

「なんだってそんな事をしなくちゃならないんだ蓜」

「必要だから作るんじゃないのよ、芸術は」
和美はいった。


「芸術蓜」
ユウは和美の言った芸術という言葉に違和感を感じた。

「ね、いいでしょ蓜 子供達もいなくなったんだし、他にすることもないし。あなたには迷惑かけないようにするから。
わたし書きたいの。どうしても、あの子のためにも――」

「あの子蓜」
口を滑らせた和美はごまかすように白髪の混じった乱れ髪に手をやった。

「あの子って誰だ蓜」
ユウは追及の手を決して緩めない。
律儀な性格で未処理をそのままにしておけないからだ。
そして、和美は嘘のつけないバカ正直な女ときている。

繰り返しの問いに、和美はやがてギブアップした。

「……香月」

No.377

それを聞いたとたん、ユウはがらりと態度を変えた。
彼は理想的な夫の見本のようなスマイルを浮かべ、気味の悪いほど優しい声で、冷めないうちにコーヒーを飲むことを妻にすすめた。

そして、しばらく関係のない子供達の話をして、雰囲気がなごんできたところでこう切り出した。

「なあ、和美。 僕の知り合いにいいやつがいるんだよ」

そういって、ユウは笑顔を保ったまま和美の肩に手をかけた。愛情表現が苦手で、滅多にこういう事をしない男が、たまにアメリカナイズされるとかえって警戒心を招く事に思い到らない。

「いいやつって蓜」
和美は怪訝そうな顔でいった。

「今度紹介しよう。ああ、早い方がいいかもしれない。」

「だから、いいやつって誰なの蓜あなた」

「フレッドっていうんだ。僕が思うに、おまえちょっと疲れてんだよ。女ってさ、子育てが終わると生き甲斐を失って、急に無気力になったりするんだ。いや、よくある話さ。」


和美は人間の言葉がわからない猫のように、ただ悲しそうにユウの顔を見つめていた。

「しまった、急がないと」ユウは立ち上がった
「時計……いいよ、自分で取りに行くから」

No.378

ノイローゼになりかけている妻の手をわずらわせないよう、ユウは寝室に走り込み、チェストの上に置いてあった時計を取り上げた。

と、慌てて手が滑り、時計はチェストの後ろの隙間に落ちてしまった。

こんな時は嫌な事が続くもので、さんざんな一日を予感しながら、チェストの後ろに手を突っ込んだ彼は、そこに不自然な隙間があることに気付いた。

「なんだ……これは」
ユウは隠し扉を発見したFBI捜査官のようにつぶやいた。

彼の人生において隠すという事があるとしたら、それはトランプの手の内くらいだ。
つい今まで妻もそうだと思っていた。
恐る恐るミラーを外した彼は、居間の絵と双子の兄弟のようなモザイクの前で棒立ちになった。


いつからこんな所にあったのか。
誰が作ったのか。
何故うちにあった絵とそっくりなのか。


一体これは何を意味するのか――。

あんぐりと口を開けた彼は、一瞬そのモザイクの世界に引き込まれそうになり、慌てて目をつむった。

過去に捨てたはずのゴミ箱から、不穏な二文字が蘇ってくる。


盗作……蓜

一体何が起こっているんだ。何かとんでもない事の前触れか――。

No.379

顔をひきつらせてダイニングに戻ると、和美が人生最後の一杯を味わう死刑囚のようにコーヒーをすすっていた。

ユウは埃のついた腕時計をちらりと見た。

彼が一番なりたくないのは、夫婦喧嘩で重要会議に遅れてくるサラリーマンだったが、まさしく今、自分はその危機に瀕している。しかし、彼には足を踏み外す勇気が今一歩足りなかった。


「今夜話そう」
ユウは冷静な夫を演じ、
時計をはめながら部屋を出て行った。
「大丈夫だ、フレッドを連れてくるから。うちで話した方がおまえもリラックスできるだろ蓜」


しかしその夜、セラピストと一緒に帰宅したユウが発見したのは、明かりの灯っていない我が家だった。

家中をひっくり返した結果、パソコンと大きなスーツケース、あの謎のモザイク……


そして妻が消えているという事実が明らかになった。


結論は、顔に同情を浮かべているフレッドの手を借りなくても容易に導き出された。




妻は家出した――。



ただ一つの救いは、今まさにセラピストを必要としているユウのそばに、フレッドが立っていることだった。

No.380

町外れのホテルの窓から下を覗くと、レンガの歩道を行き交う人はわずかだった。

静けさ、そしてここには時間がたっぷりとある。
今はどんな高価な財宝よりも、時間が欲しかった。

和美はデスクにパソコンを置くと、すぐに起動させて次の真剣勝負に備えた。
いつ、また言葉の嵐が吹き荒れてもいいように。

それから毛布にくるんだモザイクをうやうやしく取り出し、壁に掛かっていた静物画と取り替える。
すると、古びたホテルの部屋は美術館の一室に変わった。

今の和美ならわかる。
創作に必要なことは、このオバマのモザイクが教えてくれていたのだ。
無言で、ありのままに。

家出なんて、良き妻にとってはありえない事だが、要するにそれしか道がなければ大胆も何もない。
しかしそれによって、
和美はぐるぐる回りの日常を大きくはみ出してしまったのだ。

変則的な芸術の境地に向かって。しかも、今回は一夜の嵐ではすまなかった。
それは和美にとっては、踊り回りたいくらい幸せなことだったが、夫を傷つけるのは本望ではなかった。

かといって、ユウを説得するには百年かかるだろう。

後で誠実一色の手紙を書くつもりだった。

No.381

力は使うためにある。

どこかから降ってくる力を、ラップをして冷凍したり、圧縮袋に押し込めてクローゼットに突っ込んでも意味はない。

みなぎる力を押さえ込む事なく放ち、もう数分後には夢中で書き出していた。
欲望と同じレベルで言葉が押し寄せ、アウトプットしなければ気が狂ってしまう。

あの絵、あの歌の時と同じだった。


これまで苦境を二度味わい、また三度目を味わうかも知れない。
だが、創造の爆風で恐れもぶっ飛んだ。

今はこの現象の訳やこの小説がどうなるかも考えずに、ただ書く事に身を捧げよう――。
和美はそう決心していた。

そのあとがどうなっても構わない――。

和美は語りかけてくる何かに対し、信じられない位真摯だった。


書き進めば進むほど先が読みたくてたまらなかった。

肉体的疲労は激しく、文字通り骨身が削られ、
中年太りだった体は程よくシェイプアップされた。

No.382

そしてある夜明け、とうとう声は物語の終わりを告げた。

震える指でエンドマークを打ち込むと、和美を隙間なく包んでいた強い肯定感が薄れていく。

”お別れだ”と彼女は悟った。



もう逢えないの蓜


いかないで――。


私を置いていかないで。





――薄れかけた意識の中で、和美は狂おしく求めた。

それは、創造というものへのまぎれもない『愛』だった。



和美はキーボードに涙を流しながら気を失った。


二十四時間の昏睡状態から目覚めると、ようやく完成した物語と一緒にホテルを後にした。



別人のようにスリムになった和美は現実の街に舞い戻り、夜明けのがらんとした通りに立った。












家を出てから、既に二ヶ月が経過していた――。

No.383

サンタモニカの教会の扉は、治安の悪さにもめげず『来る者は拒まず』というように開いていた。

そっと中に入っていくと、牧師がひとりで朝の祈りを捧げているところだった。

和美は彼の腕に見覚えのある、しかしかなり弛んだタトゥーを確認した。

この場所で同じようにたたずんだ、若き日の自分。そして、ここまで自分を連れてきてくれたユウを思い出す。

その結婚を後悔したことは一度もない。
和美は急に、めまいがするほどユウが恋しくなった。


「あなたは……」
振り向いた牧師は、和美の顔を記憶の中からたぐりよせ、にっこりと笑った。


和美は黙ってオバマのモザイクを差し出した。

牧師は青い目でじっとそれを見つめていたが、やがておごそかに十字を切ると、聖なる生き物を抱くように、うやうやしく受け取った。

No.384

ただいま、わたしの家。
わたしの人生――。

和美はおつかいの済んだ子供のように、家に飛んで帰った。

中は想像以上にすさんでいた。
キッチンは散らかり放題、空気は生ゴミの臭いでよどみ、汚れ物に埋もれて洗濯機が見えない。

和美はたちまち主婦意識に目覚め、大急ぎで家の中をキレイにし、よい香りの花を飾った。
そして、ユウの好きな料理を山ほど作り、帰りを待った。

だが、ユウは帰って来なかった……
電話にもメールにも応答はない。

和美はダイニングテーブルの上にプリントアウトした原稿を載せ、なすすべもなくユウを待ち続けた。

なにしろ自分は二ヶ月も待たせたのだから、文句の言える立場ではない。

しかし、この出来上がった原稿を読んでくれれば、きっとわかってくれると信じていた。
何より、”ユウだけ”には読んでもらいたいのだ。

No.385

ほろ酔い状態のユウがやっと帰宅したのは三日目、それも真夜中近くになってからだった。
窓からのぞくと、車の運転席には赤い髪の女が乗っていた。
一度会社のパーティーで会ったことのある若い秘書だ。


「おまえ、なんでこんな所にいるんだ」
明かりの点いた家に入ってきて妻を一瞥すると、
ユウは素っ気なく言い放った。
ことさら重要な事でもないように。


「ごめんなさい、本当に。もうどこにも行かないから」

しおらしく頭を下げて謝る妻に冷たい視線をくれ、ユウは無言でキッチンに入った。
グラスをとって黙々と水を飲む。

久しぶりに見る夫の横顔は暗く、老け込んでいた。


「……もう演技はいい」
彼はぼそりと言った。

「今度の事でよくわかったよ。おまえは、僕の思っていた女じゃなかったってことが。……ストレスがたまってたんだろ蓜」

「そんなことない」
和美はいった。
「わたしはただ、小説が書きたかっただけ、それだけよ」



小説という言葉を発したとたん、ユウの顔が嫌な匂いを嗅いだように醜く歪む。
彼はテーブルの上の原稿を見つけると、目を細めて近づいていった。

No.386

「これか」
ユウは吐き捨てるように言った。「……僕は三十年近く、理想の生活はおまえと一緒だと信じてた。まぬけだったよ。僕が幻のホームドラマを見ているうちに、おまえは不満の風船を膨らましていった――こんなものが家庭よりも大事なのか」


ユウは原稿の上に濡れたグラスを伏せた。
和美ははっと身を硬くした。タイトルがじわじわ水でにじんでいく。



『大いなる幻想』――。


「違う晙」
和美は震える声でいった
「わたしは……正直にいうけど、どっちも大事だった」

「何言ってんだ、しっかりそっちを優先しただろ、家を捨てて」


「仕方なかったのよ、そうするしかなかったの。あなたにもわかって欲しい。この小説、誰にも見せるつもりはないけど、あなただけにはどうしても読んで欲しくて――」


「読む蓜僕が蓜 見たくもないね、こんなものも、おまえの顔も。 家庭崩壊蓜いや違うね。 僕が築いてきたものなんてなかったんだから。僕の一方的な思い込みだったんだよ」


和美は愕然とした。
こんな殺伐としたユウは見たことがない。話せばわかると思っていたのに……

No.387

しかし、この自分でも訳のわからない事を、創作など縁も興味もない夫に一体どう説明できるだろう……

あの現象を、どうしようもなかった自分の気持ちを。

何万語と書き連ねたばかりだというのに、和美は連れ添ってきた相手にいうべき一言が見付からなかった。


ユウはもう仮面をかぶったような顔で和美を見ている。
表で誘うようにクラクションが鳴った。

「……あなたに逢いたかった」和美はその一言をやっとひねりだした。


「やめてくれ」
ユウはがくがくと足を震わせている妻を残し、何組かの着替えをバッグに突っ込むと、冷たい背を向けて出て行った。

海岸沿いの道路を、夫と女を乗せた車のテールランプが遠ざかっていく。

和美の目の中で、それは赤い涙となった……


高齢に差し掛かってきたところで、和美は説明のつかないものと引き換えに、一番大切なパートナーの心を失ってしまった。
二度と惑わされまいと、あれほど誓ったのに。



その孤独な女の手には、出来上がったばかりの一遍の小説が残されていた……

No.388

力は力を呼ぶ。

風が吹けば空気が鳴り、砂が渦を描き、人の帽子を吹き飛ばすように。

果たして強烈な嵐から生まれた今度の創作は、和美の必死の抵抗にもかかわらず、別種の嵐を巻き起こした。

それは感動という嵐だ。

ウェストウッドに住む日本語学校の教師、小田月絵は幼い頃から活字中毒で、慢性的に日本語の読み物に飢えていた。
本は月絵のご飯だ。
大盛りランチを食べるのと同じように、月絵は本をパクパク食べ、頭の筋肉をせっせと動かしていた。

月絵は図書館に足しげく通い、食いしん坊の脳を何とか満足させていた。

それで、パーティーでちょっと知り合っただけの主婦、佐伯和美から突然自作の分厚い原稿を持ち込まれた時には、何でもいいから週末に読むものがあればいいや、という軽い気持ちだった。

「ちょっとだけ感想をお聞かせ願えればいいんです」和美は控え目にいった。「わたしにはよくわからなくて……」

No.389

月絵は若い頃、日本の出版社で編集者をしていた事があった。
自分でもひそかに作品を書いていたが、こちらの方は情けないほど才能がなかった。
だが、読む才能は人一倍あると自負していた。

多くの人達が誤解していることだが、本は読むにも才能がいるものだ。
それをいうならば、テレビにしろ、映画にしろ、絵も漫画も音楽も芸術なら全て、受け手にも才能の有無があるのではないだろうか。

優秀なキャッチャーはどんな豪速球もビシッと受け取れる。鍛えられた感性はイメージ力があり、微妙な美を嗅ぎ分ける。
受け手とは何かを自分に取り込んだ瞬間、ある意味でアートをしているといえるかもしれない。


ただし、芸術の場合はミットからボールがこぼれ落ちる事はない。
何をどう受け取ろうが受け手の勝手で、百人の受け手には百人の正解がある。それはどれも味わい深いものだろう。

だがそれでも、どれくらい正確に作者の描いたイメージを自分の中で再構築できるか、という基準に照らし合わせると、やはり『受け取る才能』は存在するのだった。

No.390

月絵が『大いなる幻想』を読み始めたのは、仕事が終わった金曜の夜からだった。
急ぐものでもないので、半月くらいかけて読むつもりでいた。

コーヒーを片手にベッドに転がり、数ページ読んだところで、つくづくと表紙を眺めてサインを確かめた。

うっかり間違って、あの大人しそうな主婦ではない別人の原稿を読んでしまったかと思ったのだ。

読み進むうちに驚きは驚愕に、そして感動に変わった。
そのうち、誰が書いたものかも忘れてしまった。
月絵は活字の向こうにある世界に没入し、読むのをやめる事が出来なくなった。




熱い。

今、月絵が体験しているのは、重大な出会いだ。
『大いなる幻想』は紛れもなく自分の人生を変える一冊になる。



そんな予感がした――。

No.391

『大いなる幻想』。
それは、地球に『教えるボビー』と呼ばれるクジラが出現した世界の、架空の歴史小説だった。

『教えるボビー』はクジラ語を理解するひとりの少女を通し、神という言葉を使わずにこの世界の成り立ちを語り、信仰という形をとらずにこの世の法則を教える。
そして、絶大な人間のファンを獲得するのだった。

しかし、やがてこの賢い生き物は、反クジラ派を名乗る人間に暗殺されてしまう。

嘆き悲しんだファンは『教えるボビー』の遺言に従い、その肉をベーコンにして分け与えた。

すると、それを食べた108人の子供達に目覚ましい変化が起きる。
『ボビーっ子』と呼ばれる彼らは卓越した指導力を発揮し、『教えるボビー』の言葉をみんなに伝え、大人になると各国に散らばった。

そしてある年の大晦日に、全世界の三分の二が同時にボビーの作った歌を歌うという奇妙なイベントを成功させた。

その瞬間、地球の価値観が変わる。
それからあと、地球で『教えるボビー』の世界観が全く損なわれる事なく実行されていったら――

という設定で、小説は百年ごとに十章に渡って描かれていた。
一章ごとに主人公と舞台が変わり、それぞれの人生を語っていく。

No.392

小説の中の地球に戦争はない。

母なる地球を第二の体に感じる事ができる彼らにとって、国境は土地の整頓ラインでしかない。

エネルギーの強い人々はいにしえの魔法使いのように、軽いサイキック能力を当たり前として日常を送り、進化していく。

かといって面白みのない聖人ではなく、むしろ非常にユニークで個性的だった。
彼らにとって戦闘本能を環境エネルギーに変える事など朝飯前だ。

おかげで世界はいつも活気に溢れ、笑いとアートに満ちていた。
破壊や争いはもはや退屈な遺物だ。
パワースポットの調整によって世界は健やかに循環し、文明の発達は緩やかだが、揺るぎなかった。



奇妙で豊かなもうひとつの世界――。

月絵は作者の切り開いたその壮大な世界に魅せられた。好きで好きでたまらなくなった。

その時、どこか遠くで電話が鳴っていた。
月絵はちゃんと現実に戻れないまま、虚ろな動作で受話器をまさぐった。


『大いなる幻想』の人々に電話は必要なく、彼らは遠くの人間とテレパシーで話をしていた。

No.393

『月絵』電話の向こうから男の声がした。
『なんでそこにいるんだ蓜』

「マイク蓜」
月絵はベッドカバーで涙を拭いた。
「今どこにいるの蓜」

『もちろん、ウェストウッドのセントラルシアターの前さ。君との約束通りにね。あと一分で君がさんざん観たがっていたサスペンス映画が始まるところさ』

月絵は驚いてブラインドで覆われた窓を見上げた。いつの間にか世間では夜が明け、どうやら土曜の昼近くらしい。

しまった、またやってしまった――。

「ごめんなさい、マイク」彼女の声はかすれていた。

『どうした月絵、泣いているのか蓜』

「ううん、ちょっと……実は小説を読んでて……」

『おいおい勘弁してくれよ、また意外な結末か蓜』
マイクは呆れたように言った。

『いいか、今度君が推理小説を読んでたら、ラストを大声で朗読してやるからな』

「違うの、そういう小説じゃないの」
月絵は必死に言い訳した。

読書をすると時間が吹っ飛ぶ。この物理法則を誰か早く解明して欲しい。
おかげで何人の友人や恋人を怒らせ、最悪の場合は失ってきたことか。

だが、これまで、このマイクを忘れさせる本に出会った事はなかった。

No.394

マイクは大学の文学部で日本文学科の助教授をしている。月絵の理想が形になって命を吹き込まれたような男だ。

インテリジェンスにあふれ、女に優しく、しかも背が高くてブロンドで美形。

その彼と前世で恋人だったのかと思うくらい劇的に結ばれた時、月絵は初めて神様に感謝した。

マイクは日本女性が大好きで、心も体も相性抜群、しかも月絵に負けず劣らず本の虫だった。


「ねえマイク炻」
月絵は精一杯甘い声を出した。
「よかったら、今からこっちに来ない蓜 あなたにもこの小説をご馳走したい――」



月絵は口走ってしまってから、しまったと口を押さえた。

なんて軽いバカ女だろう。マイクとの約束をすっぽかしただけでなく、佐伯和美との固い約束を忘れるとは……


月絵さんだけですよ、絶対他の誰にも読ませないで下さいね――
和美はしつこいくらいに何度も念を押した。
まるで何かに怯えるように。その時はちょっと自意識過剰なんじゃないかと思ったのだが――。

No.395

『ふん』
マイクはいった。
『本当にそんな面白いのか蓜』


「保証するわ。そのサスペンス映画の百倍は面白いって」
月絵はいった。


読ませてもかまわない、と月絵は自分を説得した。だって、こんなに素晴らしい昨日なんだから。

これを人に読ませないでとっておこうだなんて、謙虚という名の大罪だわ――。

『観てないくせによく言うよ』マイクはいった。
『よし、その本がつまらなかったら絶対許さないからな。一ヶ月間、どんな本も取り上げの刑にしてやる。そしたら君は悶絶狂い死にだ』


ホッとして受話器を置いた瞬間、空腹の自覚が襲ってきた。
月絵はカップ麺にお湯を入れたが、三分待つのがもどかしく、また『大いなる幻想』の世界に入っていった。

まるで原稿が呼吸しているような気さえする。
愛おしむように最初のページをそっと開いた。


ときめき。

このときめきはマイクと出会った時ぐらい……
でも違う種類のものだ。

まるでボロアパートの裏庭をポチが掘ったら宝箱が出てきたような。

マイクのために数行を英語で口ずさんでみる。

ああ、マイクがいてくれればもっと美しい英語になるのにな――。

No.396

呆れてものも言えない、
というのは英語でどう表現するの蓜 と質問してやりたい気分だった。

驚きを通り越し、もはや無表情になっている和美の前に、月絵とブロンドの男はにこやかな笑顔を並べていた。

そのままグラビアに出られそうな彼氏を見せびらかしにきたのなら、まだ許せる。

二人は満員電車で年寄りに席を譲った小学生のように、良いことをやり遂げたという勝手な思い込みにあふれていた。

「これを英訳してしまったって……蓜」
和美は信じられなかった。「もう蓜」

そんな事頼んでないのに――という言葉を飲み込めたのは、何かを作ると周囲がやたらと熱狂するという体験もこれで三度目だったからだ。

テーブルの上には和美が渡した原稿と、もう一冊、英文の原稿が仲良く並んでいる。
まるで目の前の月絵とマイクのように。

リビングに差し込む陽射しを反射して、二つの原稿は白く輝いていた。

No.397

『THE GREAT VISION』
~大いなる幻想~

原稿を渡して以来、長い間月絵から連絡がなかったので、もう忘れてしまったものと思っていた。

それが突如として今日、月絵はマイクと押しかけるように訪ねて来たのだった。

しかも、この英訳原稿をプレゼントと称して――。

和美が求めていたのは、一介の読者としての感想以外のなにものでもない。月絵の感想を聞いたら原稿は封印してしまうつもりだった。


「あなたに無断で英訳したことは、済まないと思っています」
マイクは、そんな事を微塵も感じさせない顔で言った。

「でも、あなたは人に読ませるのを嫌がっていたと聞いたので……」

「その通りよ」
和美はいった。
「日本語がちゃんと通じていたようで嬉しいわ」

「ごめんなさい」
月絵は肩をすくめた。
「その、約束を破ってしまった事は謝ります」

マイクも月絵に合わせて日本風にペコリと頭を下げた。


だが……

すぐに売り込みをかけている営業マンのようにピカピカの笑顔をこちらに向けた。

No.398

「先にこれを英訳しようと言い出したのは僕なんです。どうしてもこの本をみんなに読んでもらいたかったんです」

「みんなって……」
和美はいった。「誰に蓜」

「僕の友人、家族、大事な人達みんなに」
マイクはまっすぐに和美を見て言った
「いいですか、これはすぐにでも出版すべきです」


和美はまるで彼に言い寄られたように頭がくらくらした。
その戸惑うほどの熱い視線には覚えがある。

ミチ、大翔、伊達、飯山、倉見、マリムラ、矢ノ原―― そして、不幸が訪れた。


「残念だけど」
和美は首を横に振った。
「あなたたちすごく無駄な事をしてくれたみたい。そんなに気に入ってくれたのはうれしいけど、これは絶対に出版出来ないの……」

No.399

「どうして蓜」
月絵の声は悲鳴に近かった。「やだ、あり得ない」

「何言ってるんですか蓜」マイクは目をむいた。
「できるに決まってるじゃないですか。これを読めば、どこの出版社だってあなたとガッチリ握手しますよ」


二人の失望の大きさは手に取るようにわかる。
和美でさえ、これを誰にも読ませないうちに葬り去るには忍びなかったのだから。

せめて……
せめて一人だけでも……

そう思い慎重に選んだ月絵だったのに、あっという間に火がついてしまった。


「こうなったら、ちゃんと説明しなきゃね」
和美は立ち上がった。
「お茶を入れましょう」

怪訝そうな二人にお茶をすすめ、和美はこの小説を書くときに起こった現象を語った。正直に、ビジネスライクに。

もちろん以前に起こった盗作事件まで話す必要はない。ただ眠りかけると言葉が浮かんでくること、物凄いエネルギーに襲われて自分が輝くのがわかること、こうして生まれてきたのが自分の言葉かどうかわからないこと――。

No.400

「驚いた」
マイクが興奮して言った。「その話でエッセイも一本書けますよ。もっとも合理的な考え方をすると、それはあなた自身の声だ。心理学のいう潜在意識、『集合的無意識』です。最近ではとらんすパーソナル心理学として研究されているものだ」


「何それ蓜」
月絵がいった。

「神との交信とか、宇宙との融合感みたいに、人間の知覚を超えた外からの影響があるように感じる心理だよ。霊がとりついたとか、宇宙人が情報をくれるとかいう人が研究の対象となる」


「はあん、インテリの考えそうな解釈だわね。きっとそういう人達って、ホラーなんか読んでもちっとも楽しくないでしょうね。わたしは科学で説明出来ない事だって、本当にあると思ってるけど」

「どうかな」
マイクはさらりとかわした。「想像の世界だからこそ楽しめる事だってあるさ。僕が思うに、人の意識はミルフィーユみたいな層になってて、下の方は何が挟まっているかわからない。トランス状態っていうのはその境目をなくす咀嚼みたいなもんで、意識の奥底に刷り込まれていた情報が味わえるって事だ」

投稿順
新着順
主のみ
付箋

新しいレスの受付は終了しました

小説・エッセイ掲示板のスレ一覧

ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧