携帯小説「二番目の悲劇」
「二番目の悲劇」
🔯 作者@ りん
🔯 演出@ ホロロ
で、進めて参ります、長編小説です。
新しい試みですので、優しく見守って下さるようお願いします🙇
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キーン、とアンプが耳障りな音を立てる。
唐突に、もっと早く帰ればよかったという思いが和美の胸にわいた。
どうしてなのかわからない。
彼女の不安と裏腹に、スピーカーから飛び出してきた声は、そこぬけに明るいDJの声だった……
『――というわけで、まず最初に”問題”のヒット曲、おなじみ倉見バンドの《あのドアを開ければ》を聴いてもらいました。作詞作曲は美波カズ。作品はこの曲だけ、本名も年齢も経歴もわからない、今までインタビューも受けたこともない謎の人……その辺は皆さんご存知だよね』
問題の……蓜
不吉な形容に和美の体がこわばった。
あの歌の何が問題なの蓜
『では、早速本日のスペシャルゲスト、鈴木チホさんにお話をうかがうことにしましょう。コンニチハー』
『こんにちは』
鼻にかかった若い女の声が、ぎこちなく挨拶した。
『えー、鈴木さんはこの三年間オーストラリアで通訳の仕事をしていて、昨日ニューヨークから帰国したばかりの26歳です。で、鈴木さん。あなたが最初に《あのドアを開ければ》を聴いたのはいつだった蓜』
『ええ、つい三日前です。アメリカのラジオで流れたんだけど、もう驚いちゃって。すぐにそのラジオ局にも抗議したんです』
『へえ、それはどうして蓜』
『はい、全然知られていないんですが、オーストラリアにエグビーというアボリジニーの男性歌手がいるんです。彼はCDとか絶対に出さない主義で、ひたすら放浪スタイルでライブ活動をしています。あっちではカルト的人気のある歌手なんだけど、国外では全く知られてません。そのエグビーの曲に《THE DOOR》って曲があるんですけど、それがこの《あのドアを開ければ》にそっくりなんですよ。』
和美はぼんやりと矢ノ原を見つめていた。
彼は腕を組んで和美を見ていた。
そのあらゆる感情がごっちゃになった目を見ながら、自分は今、どんな顔をしているのだろうと思った
『そんなに似てるの蓜』
『ええ、それはもう。似てるって感じじゃなくて、同じっていったほうがいいかも。これをオリジナルなんていったら詐欺ですよ』
『いや~、これは強烈な発言ですね~。じゃあ、とにかくなんのかんの言う前に、とりあえずそのエグビーの歌を聴かせてもらいましょう。今日、このスタジオに持ってきてくれたテープは鈴木さん自身が録音したものだね蓜勝手に流してもいいのかな』
『ええ、向こうでもたまにラジオでライブを録音したものが流れてました。ビジネスとは無縁の人だから、そのへんはアバウトなんです。私も詞の意味を調べたかったから、コンサートにレコーダーを持ち込みました』
『それはいつのこと蓜』
『去年です』
『さあ、いいですか皆さん。《あのドアを開ければ》が美波カズによって作詞作曲されたのは今年の春。これは倉見くんがインタビューではっきり答えてることなんです。でも、もしかしたら、偶然の一致では……』
『偶然の一致蓜そんなはずありませんよ。だって、詞までおんなじなんですから。あれは絶対に盗作です。』
『ひぇ~、言っちゃったよ。これがでたらめだったらこの番組はおしまいかも知れません。果たしてこの爆弾発言が本当かどうか、みなさんどうぞご自分の耳でお確かめになって下さい。では――』
和美のやり場のない視線が、何かにすがるようにスピーカーに向かった。
……スピーカーから、アコースティックギターのシンプルな演奏が流れる。
そして、確かにエグビーの歌声が響きわたった……
和美は世界が崩れ落ちる音を聞いた――。
矢ノ原の部屋を飛び出したあと、どうやって家まで帰ったか覚えていなかった。
マンションの玄関から通りに出たところで、追ってきた彼ともみ合いになった記憶がうっすらとある。
その時、涙の中でフラッシュの光を見たような気がするが、それも定かではなかった……
和美は自分の部屋にこもって泣き続けた。
混乱した悪夢の中で、時々Zのグッピーがよぎる。
ボロボロのウロコ。
弱々しい目。
その間中、たくさんの人間が玄関のインターホンを押し、電話は昼も夜もなく鳴りっぱなしだった。
矢ノ原とのスクープ写真は一週間後の写真週刊誌に掲載された。
和美は、まるで死刑宣告書でも読むように雑誌のページを開いた。
だが、その扱いは和美の予想していたような最悪のものではなかった。
もっと大きなスクープがでかでかと載っていたのだ。
『北村ミチ電撃結婚晙初恋の幼なじみと密会三年』
ミチが助けてくれた――
和美は週刊誌を握りしめ、幼なじみ二人が寄り添う写真に涙を落とした。
こんなタイミングはありえない。どこでどう和美の窮地を知ったのか、あるいは大翔もかんでいるのかも知れなかった。
いつもならプライベートを大事にするミチが直筆のFAXでマスコミ各社に挨拶し、入籍の場面を快く取材させたらしい。
人気女優の結婚という華やかな話題にたくさんのページが割かれ、和美の記事は信じられないほど小さくなっていた。
『Dark Earthの矢ノ原、今度のお相手は盗作作詞作曲家――美波カズが隠れていたワケと過去・その恐るべき盗作人生』
との見出しが踊っていた。
その記事は小粒ながらピリリと毒がきいていた。
プレイボーイのスキャンダルと盗作疑惑。
ふたつ重なったそれはいかにも怪しげで、和美は顔写真も本名もしっかり出され、日本中で一番無神経でうさん臭いやり手女のように書かれていた。
《間違っても美波カズがこれまでマスコミに出なかったのは、奥ゆかしいからではない。
忌まわしい罪――
盗作がばれた場合のことを想定してのことだ。
もちろん、それを自分から認める愚か者なんていない。だが、本誌記者はさらに、美波カズの驚くべき過去を取材することに成功したのだ。
以下は、六年前に起きた恥知らずな絵画盗作事件の新聞記事である――》
新聞記事は例の『疾走』とオバマのモザイクが並べられたものだ。
まさか『あのドアを開ければ』が盗作なんて……
と半信半疑だった善人でも、これさえ読めば美波カズにまんまと騙されたと思うだろう。
それから一ヶ月――。
和美は部屋に閉じこもったまま、自分の盗作事件の報道を見ないように努力した。
だが、ミチの結婚という防波堤の向こうから、じわじわと批判や罵倒は和美に押し寄せてくる。
彼女はありとあらゆる所で、自分への悪口を耳にしなければならなかった。
生まれながらの泥棒、一度ならずも二度までも、性懲りもなくまた、恥知らず、金返せ――。
『あのドアを開ければ』に心から感動していただけに、人々の幻滅も大きかった。
和美の細い神経は揺さぶられ、削られ、消耗していった。
マリムラ音楽事務所は、美波カズの『あの歌は絶対に盗作ではありません』というコメントを発表したが、二つの曲があまりにも似過ぎている説明は出来なかった。
『もうおしまいだ、和美ちゃん』マリムラは電話で淡々といった。『あんたは賭けに負けたんだ』
「賭け蓜」
和美はいった。
「賭けなんかした覚えない」
『おいおい、だったらなんで最初にあんなこと聞いたんだ蓜「この曲をどこかで聞いたことありませんか蓜」って、強迫観念のある女みたいにしつこく繰り返してたじゃない、え蓜』
「違う、わたしは盗作なんかしてない、ほんとに――」
『おっと、ぼくが軽蔑してるなんて勘違いしないでよね。それどころか親近感すら覚えたくらいさ。まあ、ぼくたちは少なくともカリフラワーとブロッコリーくらい似た者同士だってこと。あんたとぼくとは根本的に人間が違うんじゃないかなんて、あやうく信じかけたよ。』
「誰も信じてくれないの蓜みんなもそうなの蓜倉見は蓜桜はどうしてる蓜」
『人の心配より、自分の心配したら蓜ま、相手が相手だったから裁判にならなくてラッキーだったけど』
「お願い、倉見と話をさせて」和美は電話にすがりついた。
『もうおしまいだ、和美ちゃん』マリムラは電話で淡々といった。『あんたは賭けに負けたんだ』
「賭け蓜」
和美はいった。
「賭けなんかした覚えない」
『おいおい、だったらなんで最初にあんなこと聞いたんだ蓜「この曲をどこかで聞いたことありませんか蓜」って、強迫観念のある女みたいにしつこく繰り返してたじゃない、え蓜』
「違う、わたしは盗作なんかしてない、ほんとに――」
『おっと、ぼくが軽蔑してるなんて勘違いしないでよね。それどころか親近感すら覚えたくらいさ。まあ、ぼくたちは少なくともカリフラワーとブロッコリーくらい似た者同士だってこと。あんたとぼくとは根本的に人間が違うんじゃないかなんて、あやうく信じかけたよ。』
「誰も信じてくれないの蓜みんなもそうなの蓜倉見は蓜桜はどうしてる蓜」
『人の心配より、自分の心配したら蓜ま、相手が相手だったから裁判にならなくてラッキーだったけど』
「お願い、倉見と話をさせて」和美は電話にすがりついた。
『そこにいるんでしょ蓜』
わたしは裏切ってない、
音楽を汚してなんかない、
倉見だけにはわかってもらいたい――。
和美は何度も彼に連絡をとろうとしたが、無駄だった。
その無言の壁は彼の恨みの深さを物語っていた。
『あんたね、美波カズはクロ――業界中みんなそう思ってるよ』
マリムラはいらいらといった。
『つまりさ、僕たちはみんなグルって見なされてるわけ。自分が仲間にどういう仕打ちしたかわかる蓜ま、ぼくはキャリアがあるからしぶとく生き残ってみせるけど、あいつらはどうなることか……じゃ、そういう事だから』
「待って晙倉見をだして晙」
『いないよ、ここには』
マリムラは冷たく電話を切った。
強力な磁力でひとつにまとまった仲間が、スキャンダルの一撃で他人よりも遠い存在になっていく。
その破壊力は、まさしく和美が生んだあの歌からきた力に匹敵したものだった。
もうどこにも、倉見バンドと桜の新曲を聴きたいと思う者などいない。
和美はまたしても地に堕ちた。今度こそ間違いなくどん底。
和美はこのまま一生じわじわと沈み続けていくような気がした。
差出人不明のFAXが送られて来たのは、ようやく騒ぎが一段落した頃だった。
インターホンは鳴りやみ、スーパーへ買い物に行ってももう誰も見てくる人はいない。
あれは一体なんだったのかというくらいスキャンダルの波は一斉に引き、
その間にも芸能界にはどんどん新しいスクープが生まれては消えた。
だが、和美は打ちのめされたままだった。
鬱状態でなにもやる気がしない。
ほとんど対人恐怖症だ。
痩せ細った体に栄養を摂るために、無理矢理シチューを作ったが、少し食べただけでスプーンを置いてしまった。
こんな時は舌も生きる喜びを体に与える事を放棄している。
長いFAXが送られていることに気付いたのは、寂しい食事の後だった。
それは専門誌の切り抜きらしいエッセイで、
書いているのはアランというイタリアの画家だった。
『中世ならわたしは魔女裁判で処刑されていた』
誰がこんなものを……
また嫌がらせか――。
和美は立ったままそれに目を落とした。
情報を吸収するにもエネルギーが必要だ。
衰えた精神には、言葉の意味もなかなか入ってこない。
だが、読み進めるうちに、和美はかすかな興味を覚えた。
アランは証券会社に勤めるサラリーマンで、絵を描くのは本職ではない、
いわゆる”日曜画家”だった。
そんな彼が40歳になったある日、まるで『啓示』のような体験をする。
エクスタシーのうちに一晩で『柔らかな月』という油絵を描き、その絵は街の人々の心を揺さぶったのだ。
わたしと同じだ――。
和美は心の中で呟いた。
やっぱり普通の人にもこんな事が起きるんだ――。
アランは自分に起こったことを理解しようといろいろ調べてみた。
その結果、脳波が普通のパターンと違うこと、
それと、いわゆるサイキック能力が少しある事がわかった。
特にカード当ては平均をはるかに上回る結果が出たのだ。
アランは霊感など頭からバカにしていたのだが、
同僚よりも株価の上下の的中率が高かったのは偶然でないことに気付いた。
一枚の絵を描いた事により、現実は自分が思っていたようなものではない事を証明してしまったのだ。
さらに、アランの先祖を調べてみると、数人が中世の魔女裁判で処刑されていることが判明した。
ヨーロッパではキリストを唯一の神として守るために、霊感が強いと思われた人々が多数殺されたという忌まわしい歴史がある。
アランは魔女裁判の生き残りから、その遺伝子を細々と受け継いでいたのだ。
だが、アランの場合、そのあとが和美と違った。
彼は再びトランスに陥り、さらに二枚の新作を描いたのだ。
もちろん、それはオリジナルの絵だった……
和美はがっくりきた。
アランは神様からオリジナルのボールを投げられ、受け取ったのだ……
しかも三回も。
それに比べて和美の場合はどうだ。
神様はなんのつもりか
二つの同じ模様をしたボールを投げた。
しかも自分は二度とも、
先に別の誰かに受け取られてしまったのだ。
アランはなんて幸せな人なんだろう……
まるで同じことが起こったようでいて、わたしとは違う。
どうして蓜
どうしてエグビーより、
わたしの方があとだったの蓜――。
誰か……
ねえ、誰か教えて蓜――。
和美の疲弊した脳は、もうそれ以上考えられなかった。
一体誰がこんな役にも立たないものを送り付けてきたのか。
FAXにはナンバーがついてる訳でもなく、贈り主のわかるものはない。
和美はそれをただのゴミとしてゴミ箱に捨て、忘れてしまった。
「和美、あたしあたし、早く開けて」
キャップを目深にかぶったミチは、玄関の魚眼レンズを通して見てみると、宅配便のバイトのように見えた。
和美はメールで結婚のお祝いを送ったが、こんな時は自分から何かを発信するのも苦痛になる。
ごく短いメール文はミチを心配させるのには充分だったらしい。
近くでロケがあったからと、いきなり訪ねてきたのだった。
「あ、美波カズさんですね蓜」ミチは玄関に滑り込んでくると、和美の鼻先にマイクを突き付けるマネをして言った。
「今の率直なお気持ちをお願いします」
「……みんなが私の部分だけ記憶喪失になればいい」
と和美はいった。
ミチは笑いながらキャップをとった。
さらさらの髪がはらりと肩に落ちると、シャンプーのCMを連想させる。
彼女の美しさは、まるで自分のみすぼらしさと反比例しているようだった。
「ありがとう、ミチ」
和美はモゴモゴといった。
「信じてくれて」
「バカね、あたしだって二度と同じあやまちはしないよ」
ミチはいった。
「あ、またなんか妙なことが起こったんだってすぐに思った。だけど、今度は香月くんがそばにいなかったし、一体どうなってんの蓜」
「私にもわからない。
でもミチたち、どうしてあの記事が出ることが事前にわかったの蓜」
今になってやっと、当時の詳しい事情を聞く気になった。
あの記事の話題に触れると、傷に触れる。
そしてまた、
矢ノ原を思い出すことになる――。
「紫苑のせいよ」
ミチはいった。
「また紫苑が優秀な警察犬みたいに余計なものを嗅ぎ付けてきたの。あの人、埋蔵金でも探せばすぐに発見できるかもよ」
紫苑――。
その名を耳にするだけで和美の心のどこかが凍りつく。
できるだけ遠くにいてほしい人。それがまた自分の人生に登場してきたとは……
絶句している和美に、ミチは手短に事実を説明した。
「大翔がたまたま彼女に会って知ったのよ」
ミチは自分の家のようにキッチンに入っていった。
「あいつってさ、和美のお助けマンみたい。自分でもそう言ってたよ」
そんなぞんざいな言い方に、パートナーとなった男に対する愛情があふれている。
新婚生活はうまくいっているようだ。
「でも、その時にはもうアメリカのラジオで『あのドアを開ければ』が流れてて、リスナーから抗議の電話があったあとだったの。だから大翔とあたしは、もう日本に伝わるのも時間の問題だと思った。すぐ和美に相談しようとしたけど、肝心なときに行方不明だし……だから勝手にこっちで動くしかなかったの」
「ごめんなさい」
和美はいった。
「女優が友達でほんとよかったよ」
「仲の良いライターさんが動いてくれたんだ。和美の記事と同じ号に掲載して、そっちをなるべく小さい扱いにして晙ってね」
「じゃあ、FAX送ってくれたのもミチ蓜」
「え、なにそれ蓜
それはあたしじゃないよ。まあ、あたしもたいした事できなかったけど。でも、一つだけ言わせてもらえたら、矢ノ原のことは教えてくれてもよかったのに、みずくさい。」
どうやらミチがすねてるのは、そこだけのようだった。
話をしながらミチはアールグレイの紅茶をいれ、しなびたグレープフルーツに手を伸ばして匂いをかぎ、結局クッキーの缶を開けた。
「ちょっとこれ、しけってるよ」
ミチはいった。
「そう、私みたいにね」
和美は涙ぐんだ。
「ミチ、ほんとゴメン。女優の大事なプライベートを売らせることになって、一生謝っても謝りきれない」
「ううん」ミチはけろりとしていった。
「ちょうどね、いつ発表しようかと思ってた時だったのよ。あたし達も急いでたから」
「え、どうして蓜」
ミチはすまして紅茶をすすった。
その頬が桜色なのは湯気があたったからではないようだ。
しかし、もともと鈍感な上に脳が粘土のようになっている和美に連想ゲームはできなかった。
「ごめん、和美が大変なこんな時に言うのはなんだけど……エヘッ兊」
ミチは首をすくめた。
「できちゃったってわけ」
「う、嘘――」
まさか、幼なじみ二人のDNAが合体する日がくるなんて。
おめでとう、おめでとうといいながら、和美はまた涙ぐんでいた。
「もう、泣くとこじゃないでしょ」
ミチはいった。
「あんまりじめじめするとカビ生えるよ。大丈夫だよ、和美。あんときだって乗り越えたじゃない」
うん、うん、とうなずきながら、和美はごちゃごちゃになった感情を涙にして絞りだすしか方法はなかった。
ミチはなんて幸せそうなんだろう……
それは紛れもないミチの力だ。
ミチに引き換え、わたしは……
わたしは、もうすべてを失っている――。
ミチが帰ったあと、和美は明かりを消した部屋で、一人ぼんやりと月を見ていた。
月明かりで淡く照らされた部屋はまるで墓場のようだった。
動かない孤独の空気――。
今、自分に一番似合う言葉はひとりぼっちだろう……
だけど、それがこんなに静かなものだとは思わなかった。
ぼんやりとした聴覚の向こうで玄関チャイムが鳴った。
和美は反射的に体をこわばらせた。
スキャンダル以来、音の出るものはみんな不吉なイメージをもたらすようになってしまった。
きっとミチが忘れ物でもしたんだろう――
無防備にドアを開けた和美は、そこに震えている影を見て立ちすくんだ。
「さ、桜ちゃん蓜」
よく見るとか細い、幽霊のような女が涙目で震えている。
今まで恐怖心が強く、一人では電車やタクシーに乗れなかった桜が、どうやって来たのだろう。
「……か、和美」
桜はいった。
「あ、あ、会いたかった」
怖いのに……
必死に一人てここまできたのだ。
きっと倉見も、周りの誰も和美のところに連れて来てはくれなかったのだろう。和美は不憫で胸がはり裂けそうになった。
「か、和美、バラバラになった」桜は顔を歪めていった。
「み、みんながめちゃくちゃに壊した。桜、和美のパズルをくっつけたの。何度も何度も……」
「もう大丈夫よ」
和美は震える細い肩を抱き、こわれ物を歩かせるようにそっと暗いリビングに連れて来た。
頭の中で発生する妄想と闘いながら、ここまでやってきて疲れたのだろう。桜は、まるでそこが自分の居場所だというように、すぐに部屋の隅へうずくまった。
はかない――。
月明かりに照らされた桜は、そのままフッと消えて月の世界へ行ってしまいそうだった。
和美は母親のようにゆっくりと背中を撫でた。
悲しみが腕をつたって響く……
彼女をこんなにも傷つけてしまったのは、他ならぬ自分なのだ――。
その切なさに耐えながら和美は桜が落ち着くのを待った。
やがて、桜が白い顔をあげた。潤んだ目が和美を捉らえている。
「……桜、おうちに帰るの」桜はぽつりといった。
和美はその短い言葉をかみしめた。桜が、こんなにはっきりと自分に何かを伝えようとしたのは、初めてだった。
「桜、山のおうちに帰るの」……通じないと感じたのか、桜はもう一度繰り返した。
この別れを告げるため、
心の中で何度も繰り返し練習してここにきたのだろう……
和美は震える手で、桜の手を握った。
「ごめんなさい、桜ちゃん。こんなことになって」
桜は子供のように、キュッと手を握り返してきた。その無邪気で弱々しい力が、和美を無性に泣かせる。
「桜ちゃん、これだけは信じて。私は誰からもあの歌を盗んでない……ほんとだよ」
桜はじっと和美を見ていたが、果たして通じたかどうかわからない。
それでも、和美は自分の気持ちを口に出さずにはいられなかった。
押し寄せる感情が大きすぎて、体がそれを放出しようとワナワナと震える。
和美は月の女神にかしずくように膝をついた。
「わたし、あの歌をあなたに歌ってもらえてよかった。それだけで幸せだったの――ありがとう」
こんな事がなければ……
こんな苦しみもなければ……こんな”ありがとう”も言うこともなかった。
創作はなんと大きな揺さぶりを自分にもたらしたのだろう。
そして、もし同じひとつの人生を生きるのならば、こんな思いをしないよりも、いっそ味わって泣く方がいい。
桜はそっと和美の手を放し、リビングの真ん中で真っすぐに立った。
すらりと立ったその姿が急に大きく見える。
彼女が何をしようとするのかがわかった和美は、それを止めようとはしなかった。
桜は朗々と『あのドアを開ければ』を歌い始めた。
月光が震え、辺りのものがすべて詩になる。
和美はその奇跡の声に抱きしめられた。
深く、どこまでも、涙をとめどなく溢れさせながら。
どうして、これが偽りであろうはずがない。
こんなにも、
こんなにも、美しいものが、不正であるわけがないのだ――。
矢ノ原は確かにクレイジーだったが、バカではなかった。
こんな騒ぎに慣れてしまう人生もどうかと思うが、彼はいつものようにほとぼりが冷めるまで部屋にこもり、トレーニングマシンで筋肉をいじめながら黙々と考えていた。
今度のスキャンダルは、元々ブラックなイメージの彼には不利にはならなかった。
倉見バンドだって実力さえあれば業界に残れるだろう。
だが、和美はもうダメだ。二度と、どんな事があってもミュージックシーンで仕事はできない。
可哀相だが『仕方ない』
――こんな時に便利な言葉だ。
いつの時代にもスキャンダルにまみれ、足を引っ張られ、堕ちていく歌手がいる。
アーティストがいる。
政治家がいる――。
仕方ない……。
そんな人生は、なにも特別なものではないのだ。
だいたいこの世界、潜在的な盗作なんて珍しいものではないのだ。
インスピレーションを得ると言って海外へ旅行しては、せっせと向こうの音楽を漁って日本に輸入される前にちゃっかりフレーズを盗んでしまう売れっ子の作曲家。
締め切り前に無名の詩人の詩集を写してしまう作詞家。
そんな連中が立派にプロの看板を背負っている。
もちろん著作権侵害の認められた小節以上をパクるような愚かな奴はいない。
プロ級のアレンジでごまかせば、似ていると言われてもヒントを得たということで済ませる事ができる。
だから、何となく疑わしいとわかっても訴訟にいたる事は滅多にない。
有名な韓国ドラマの挿入歌に日本の歌がパクられても、うやむやになったのは有名な話だ。
そうしてまた次々と、
「どっかで聴いた事のある」新曲が生まれるのだ。
だが、矢ノ原にはどうしても納得出来なかった。
『あのドアを開ければ』と『THE DOOR』。いくらなんでも、あれだけまるごと真似るバカはいない。
普通の人間はそんな事をしたらどうなるのかと、身の破滅の危険性を感じるものだ。
ましてや、過去に苦い思いをした和美がそんな事をしたら”オカシイ”と思わない奴はいない。
短い間だが和美という女と付き合って、異常な神経の持ち主だと感じた事など一度たりともなかったのだ――。
矢ノ原は自分が特別な人間だとは思っていない。
しかし、時として非日常的なものを感じ、創作を生業にする者として、日頃から才能はどこからくるのかを考えずにはいられなかった。
ひらめきとはただ、右脳のシナプスを流れる変則的な電気信号の仕業なんだろうか蓜
それでは、その電気信号はどうして発生するのだろうか……
二人のスキャンダルの鮮度が落ちて、賞味期限の切れた食べ物のように価値が無くなり、やっと最後まで張り込んでいた記者がいなくなると、矢ノ原は和美に電話をかけ始めた。
24時間いつかけても留守番電話だったが、彼女が部屋にこもっていることはわかりきっている。
彼は根気よく自分のメッセージを録音し続けた。
逢いたい――。
矢ノ原がようやく和美の肉声を聞けたのは、五日目の夜だった。
「もしもし」
和美は電話にでるなり、震え気味の早口でいった。
「お願いだからもうほっといて晙」
「これから迎えに行く。30分後に着くから下に降りてて」
……強引にするしかない。
矢ノ原は返事を待たず、一方的に電話を切った。
久しぶりに和美のマンションにやってくると、矢ノ原は車でゆっくりと玄関の前を通り過ぎた。
いない。
逃げられたと思ったその時、街路樹の陰に隠れているマフラーで不自然に顔を隠した女を見つけた。
世間の荒波に揉まれた和美は、見違えるほどに痩せていた。
矢ノ原は軽く車のクラクションを鳴らした。
和美が怯えたように振り向くと同時に、ちょうどゴミを持ってマンションからでてきた中年女性もこちらに気付いた。
中年女性は車に近付く和美をキッと睨みつけた。
「いい加減にしなさいよ」車に乗るのを躊躇う和美に対して、中年女性は乾いた唇を開いた。
「どこまで恥知らずなんだか……みんな早く出てって欲しいって言ってるわよ」
みんな、とまるで世界中を味方につけたように言う。
和美は罵りから逃れるように矢ノ原の車に乗り込んできた。
「あんのババァ晙」
矢ノ原は怒りをぶつけるようにアクセルを踏んだ。
「インターホンで怒鳴る人もいたの」
和美がうめくようにいった。「もう、引越そうと思ってるんだけど」
そんな気力も今は失せている、という感じのため息が続く。
鬱状態なのは見え見えだ。あんな事があってもぴんぴんしている自分のほうがおかしいのかも知れない。
和美は目を伏せたまま、矢ノ原の顔を見ようともしなかった。
「会わせたい人がいるんだ」矢ノ原はいった。
和美の怪訝そうな顔がこちらを向き、やっと目と目があう。
二人の距離がグッと近くなる。
だが、流れたほんの少しの暖かい空気を拒絶するように、和美はすぐに顔をそむけた。
まるでこっちがいじめてるみたいだ……
矢ノ原は黙って運転した。
しばらくして小さな駐車場で車を停めると、和美は不思議そうに辺りを見回した。
老舗の和菓子屋の前だ。
「みやげだよ」矢ノ原がいった。
「……お年寄りなの蓜」
和美がいった。
「もうよぼよぼ。百歳くらい。枯れ木みたいな爺さんさ」
「あんのババァ晙」
矢ノ原は怒りをぶつけるようにアクセルを踏んだ。
「インターホンで怒鳴る人もいたの」
和美がうめくようにいった。「もう、引越そうと思ってるんだけど」
そんな気力も今は失せている、という感じのため息が続く。
鬱状態なのは見え見えだ。あんな事があってもぴんぴんしている自分のほうがおかしいのかも知れない。
和美は目を伏せたまま、矢ノ原の顔を見ようともしなかった。
「会わせたい人がいるんだ」矢ノ原はいった。
和美の怪訝そうな顔がこちらを向き、やっと目と目があう。
二人の距離がグッと近くなる。
だが、流れたほんの少しの暖かい空気を拒絶するように、和美はすぐに顔をそむけた。
まるでこっちがいじめてるみたいだ……
矢ノ原は黙って運転した。
しばらくして小さな駐車場で車を停めると、和美は不思議そうに辺りを見回した。
老舗の和菓子屋の前だ。
「みやげだよ」矢ノ原がいった。「歯がないから柔らかいものしか食べられない」
「……お年寄りなの蓜」
和美がいった。
「もうよぼよぼ。百歳くらい。枯れ木みたいな爺さんさ」
品のいい暖簾をくぐり、矢ノ原は店内に入って行った。
和服姿の主人が常連客の矢ノ原を見て嬉しそうな顔をする。
彼は桐の箱いっぱいの羊羹や和菓子を買い、車に戻った。
「お爺さんて……」
和美は恐る恐るたずねた。「あなたのお爺さん蓜」
「違うよ」矢ノ原は笑いながら、和菓子の包みを後部座席にポンと置いた。「俺と血の繋がった爺さんはもう両方とも墓の中だ。才蔵じいさんとは血の繋がりはないが、もっと強烈なもんで繋がってるかも知れないけどね」
会いに行くのが老人と知り、和美はちょっと安心したようだった。
矢ノ原は車を走らせ、さらに北へ向かった。
「初めて爺さんに会ったのは、ほんとに偶然だった。俺、高校の時ギターが欲しくて宅配便のバイトしてたんだ。イメージ壊すからあんまり人に言ったことないけど。
そんとき、たまたま爺さんの家に荷物を届けたんだ。これがもの凄いボロでさ……そんな侘しいとこに住んでるのは一人。
こんな老後悲惨だなあ、なんて思いながら印鑑を押して貰ってると、爺さんがまるで天気かなんかの事を話すみたいに言ったんだ……」
『ああ、あなたはいくつかの山を越えられると、人様の前に出る職業につきますな』
矢ノ原はゆっくりとしたその老人の口調を真似た。
「それって、霊能者……とか蓜」
「ああ、そう言う人もいるね。俺はその時、絶対にミュージシャンになるって誓ってたからびっくりしたね。あっけにとられて立ってると、爺さんはニコニコしながらまた言うんだ『あなたの幸せの形は、少々人様と変わっておられますから、色々とやっかいごとが起こります。が、絶対に自分を無理に抑えてはいけませんよ。そうでなければご自分の力で破滅しますから』」
「……何だか当たってるわね」和美はいった。
「ああ、嫌になるくらいな。それから、爺さんは俺の指を見て、『あなたはその仕事で指を使います。そんな風に痛めてはいけませんな』――その時、荷物運びで中指を突き指してたんだ。爺さんは印鑑を受け取るついでに、すっと俺の指に触った」
矢ノ原はその時のことを思い出すように言葉を切った。
「指は治った。所要時間はたったの十秒」
「うそ晙」和美はいった。「そういうの聞いたことあるけど、ほんとにあるのね」
奇跡――。
あの時は、そう思った。
それは、ただ指の痛みが消えたという事実以上のもの、大きな意識革命を矢ノ原にもたらした。
「それから、俺はちょくちょく爺さんの所に顔を出すようになった。全然抵抗はなくて、ああ、見つけるものを見つけたんだなって感じだった。」
どう、この話信じる蓜
というように矢ノ原は和美を見た。
「占いでも信仰でもない。もちろん神様じゃないから100%じゃない。でも、爺さんには俺が見えないエネルギーが見えてる。はっきり言うけど、和美の事を聞きに行きたいんだ」
「そんな」和美は口ごもった。「でも……わたしはそんなこと――」
「じゃあ、和美は自分に起こった事の説明がつくか蓜このままわからなくていいのか蓜」
その煮え切らない態度に、矢ノ原はいらついた声を出した。
「じゃあ、あれは盗作なのかよ」
「ちがう晙」
和美は大声で言い返した。「絶対にわたし、盗作なんてしてない。」
その史上最悪の一言を口にしたとたん、みるみるうちに和美の目から涙が溢れ、後は声にならなかった。
「俺だって和美が盗作したなんて、全然信じてない。だからちゃんと知りたいんだ。」
「爺さん、俺だよ」
矢ノ原が昔懐かしい格子のガラス戸をガラガラッと引くと、老人はコタツから温和な笑顔を向けた。
コタツの上には湯呑みが三つ用意されている。
台所ではちょうど今、お湯が沸いたところで、ヤカンが”ピーッ”と音を立て始めていた。
「おお……」
才蔵はもごもご言った。
「待っとったよ」
どうやら老人には二人が来る事がすでにわかっていたらしい。
矢ノ原はそれを少しも不思議に思う様子もなく、さっさと台所に立ち、香ばしい玄米茶を入れて来た。
「おい」矢ノ原が天井からぶら下がった薄暗い裸電球をつついた。
「俺が前に持って来てやったインバーターの蛍光灯はどうした蓜」
「ああ、あれは人にあげたよ」才蔵はきれいに枯れきった枝のような手で湯呑みを抱え、うまそうにお茶をすすった。
「おまえがいれたお茶はうまいのう。いやな、この位の明るさのほうがワシの性にあっとるんじゃ。」
老人は笑いながら羊羹をつまみ、歯のない口に運んだ。
そうしているとただのジジイのようだが、時々和美の方を見る視線は深い。老人が先入観を持たないようにするためか、矢ノ原は和美の名前以外はなにも説明しなかった。
「お食べなさい」
和美が緊張して座っていると、老人はしきりにお茶や籠に盛ったみかんをすすめた。
「ずいぶん悪い気を受けたようだ。おいたわしい、エネルギーが弱っておられる」
さりげないところから霊視は始まっている。
才蔵は湯呑みにじっと目を落としたまま、さらに続けた。
「あなたは今、非常に大きな転機に立っておられるようじゃな。食事も喉を通らないほど苦しい立場に立たされておる……
しかし、あなたはとてもお綺麗な方だ」
才蔵は顔をあげて和美を見つめたが、どうやら容姿を誉めているのではないようだ。
「広い広い野原が見える」才蔵はいった。
「それは誰でも遊んでも良い野原だ」
「どういう意味だよ」
矢ノ原が急かすようにいった。
「つまり、この方は謙虚なんじゃな」
「俺と正反対だな」
「その通りじゃ」
老人は笑った。
「謙虚であるというのは自分が小さいのではなく、天との共有部分が大きくなるということだ。だから謙虚になればなるほど、受け取る世界は大きくなる」
「わたしは別に……」
和美は顔を赤らめた。
「そんな……」
「まあな、『あたしってばほんとに謙虚』なんて言うやつはいないよな」
矢ノ原はいった。
「おまえはユニークなやり方で我を前にだしておる。それはそれでいいんだ……ところで、『Zグッピーは死んだ』って、なんのことだ蓜さっきからおまえの後ろの方から聞こえるんじゃが」
和美はゾクッとした。
矢ノ原の部屋で水槽を前にしたあの会話を思い出す。死んだとは蓜
「ああ、あの記事が出た日に死んだんだ。やな感じだった。」
矢ノ原は驚いている和美にいった。
「あのさ、ちょっと信じられないかも知れないけど、俺、ある意識と繋がってるみたいなんだ。いつも後ろでサポートしてくれるんだけど」
和美は自分が変な顔をしていないかどうか気になった。そんなバカなことかある訳ないでしょ蓜と顔に書いてないだろうか。
「あの、そういうのって……」和美は当惑しながらたずねた。
「生まれつき蓜」
「そういう人もいるらしい」矢ノ原はいった。
「俺の場合は違ったよ。若いとき一人でローマにいったときだからだ。
それもテレビのクイズ番組の懸賞で当たって」
「呼ばれたんじゃ」
才蔵がむにゃむにゃといった。
「時期が来た時に――」
「ところがローマは雨続きで、街全体がまるで墓場みたいに湿ってた。泊まってるチープなホテルなんか雨漏りがしてて、床からキノコでも生えそうだった。でも、俺はその重い湿気の匂いが不思議と懐かしい感じがしたんだ。そんなある日、有名な古い劇場に吸い寄せられるように入っていった。気付いたら、大きな古い鏡のある部屋に来ていたんだ。なんか、こう、黄ばんでて幽霊でも映りそうな衣装鏡でさ」
「うう、怖そう……」
和美はいった。
「怖くはなかったけど……俺は鏡に映った自分を見た。まるで初めて見る人のように――。
どういう訳か違う人間に見えたんだ」
矢ノ原は思い出したように顔をなでた。
「それを見たら、突然悲しくなって……気がつくとボロボロ涙をこぼして泣いた。それまで泣いたことなんてなかったのに。そして、一瞬”ふわん”となった」
「ふわん……蓜」
和美はいった。
「エネルギーの線がつながったんじゃ」才蔵はいった。「急にアンペアが上がったようなものじゃな」
「それからだ。なにもかも変わったのは。日本に帰って来ると、変な夢を見るようになった。中世のローマの街だ。差別、退廃、貧困、無力感、虚飾……そう、なんか古い記憶をインストールされたみたいに。俺はそんな夢からインスピレーションを受けて歌を作った。そしたら、いきなり売れたんだ。」
「意識が変わると、当然他のものにも影響がある」才蔵はいった。
「この爺さんを知らなかったら、俺は多重人格じゃないかと悩んでたところだよ」
和美は思わず笑った。
『ありえない』と思うのは簡単だが、それなら自分が歌を作った時はどうなのか。
体験した者以外にとっては『ありえない』世界ではないのか。
「そういえば、いろんな話を聞いたことあるわ」
和美がいった。
「頭の中で声がしたとか、UFOをみたら突然才能が開花したとか」
「この業界じゃ珍しくないかもな」矢ノ原はいった。
「自分じゃ気付いてない人も以外と多いもんじゃよ」才蔵はいった。
「しかし、ある意味では、そうやって繋がった意識も自分の延長と言えるかもしれん」
「……それじゃ、私の場合はどうなんでしょうか蓜」
和美は思い切って才蔵に向かって言った。
和美は、才蔵の方に膝を向けて座り直して、
「わたし、一晩で絵を描いたり、歌を作ったりしたんです。まるで自分じゃないみたいになって……」
老人は優しい目を細めて和美を見た。
その光は澄み、どこか人を安心させるものがある。
この人が大丈夫と言えば大丈夫かも知れない……理由もなくそう思わされてしまう眼差しだ。
それだけに、もしも悪いことを言われたら……
かなり辛いだろう。
「あなたの野原は……無垢なスペースだ」才蔵はゆっくりと言った。
「そこにはどんなものが入ってきてもおかしくない、柵のない世界。だが……」
だが、という言葉に和美は急に不安を覚えた。
一体この先なにを聞かされるのだろうか。
「そこはいつも開いとるわけではない。普段は常識がそれを邪魔しておる。時に何かの加減で開き」
老人はパシンと手を叩いた。「火花が一瞬だけ飛ぶようだ。体質のようなものじゃの」
あの創作のときのことだ、と和美は思った。
あの時は光が溢れ、別人になったように感じる。
いつまでもそのままでいたいと思う。
だが、それは一夜の夢でしかない――。
「一瞬だけ蓜」
矢ノ原はいった。
「ああ、おまえとは違う」才蔵はきっぱりといった。
「この人には特別に繋がってるものはない」
矢ノ原は以外そうな顔をした。なるほど、これまでの和美の不思議な体験を、自分のケースに似たものだと予測して来たのだろう。
「じゃあ」
矢ノ原はいった。
「和美がこれからまた作る可能性は……蓜」
和美の心臓がぎゅっと固くなった気がした。
問題は、そこなのだ。
彼にとっての和美は《才能のある女 》だった。
ひとりのOLではなく、あの歌を作ったクリエーターの和美が好きだっただ。
それでは、和美はどうだろう。歌を発表して普通の人がめったにしない苦しい思いをした。
もう創作と関わりたくない気持ちは強い。
だが、矢ノ原と再会してしまえば、それよりも彼を失いたくない気持ちの方がはるかに大きいと認めずにはいられない。
そのためには……
彼の心を取り戻すには、また素晴らしい何かを作らなければならないのだ。
未来なんて聞きたくない、と和美は思った。
もう二度と創作ができないと知ったら、彼は絶対に離れていってしまう――。
才蔵は目を閉じたままだった。そのまぶたの裏にはどんな未来が映っているのだろう……
真一文字に結んだ口からは、いつまでたっても言葉は出てこなかった。
「わかんねえのか蓜」矢ノ原がイラついた口調でいった。
「ああ蓜」才蔵は目を開けた。「あなたには歳の離れた弟さんがおられるな」
急に話が関係ない方向に飛んだ。和美が戸惑うように答える。
「ええ、確かにひとりいますが……」
「その方には少し障りが……ああ、耳と言葉に不自由なさっておられる」
和美は驚きながら頷いた。そんな話は矢ノ原にもしたことがない。
「そう……あなたの人生には、弟さんの存在は非常に重要です。あなたが思っておられるよりもずっと……
その方は少し能力がおありですな。強くはないが、身内の方なら時折強く感じることもあるだろう。どうかな蓜今まで弟さんの心の声が聞こえたことがおありかな蓜」
「ええ、前にもそんな事を言われたことが」
和美は落ち着いていった。「テレパシー説。」
「テレパシー蓜」
矢ノ原はいった。
「弟がパソコンで見た作品をわたしにテレパシーで送り、それをわたしが描いたって」
「今、その弟さんはどこにいるんだ蓜」
「ずっとオーストラリアにいるけど」
その瞬間、矢ノ原がかすかに動揺したのがわかった。頭が柔らかい人間は、往々にして超常的な出来事を何でも受け入れてしまう傾向にある。
「違うわ」和美は力をこめていった。
「香月は耳が不自由なのよ。わたしの声も知らない。歌なんて聞こえるわけないわ」
「エグビーはオーストラリアのアボリジニーだ」
矢ノ原がぼそりと低くいった。「もしかしたら、今度も何か……」
「やめて晙弟がまるごと歌を送ったというの蓜自分でも聞けない歌を蓜それに、わたしがキャッチしたのは女の声だった。日本語だったのよ晙」
「でも、何かが関係しているかも知れない。エグビーの歌そのものでなくとも」
違う晙香月のせいなんて、そんな事あるわけない。そんなたわ言をまた聞くためにここに来たんじゃない――
このままでは和美は激しい言葉を口にしてしまいそうだった。
だが、香月は和美を感情的にする唯一の弱点だった。
「まさか……コインシデンスか……蓜」矢ノ原はつぶやいた。
コイン……シデンス蓜
聞いたことのない言葉に、和美は反応のしようがなかった。
才蔵も説明を待つように矢ノ原を見つめている。
「コインシデンスっていうのは、一致するってことだ」矢ノ原はいった。
「物はある周波数になると共振が起こって、音を通しやすくなる。俺もスタジオの防音工事やった時に知ったんだ」
「それってシンクロみたいなこと蓜」
「うん、シンクロニティはまだ科学では完全に解明されてないけど、コインシデンスはちゃんと測定できる。」
「それじゃあ、エグビーとわたしの間にコインシデンスっていうのが起こったってわけ蓜だってそれは物に起こる、つまり科学的なことでしょ蓜」
「物に起こることなら、意識にだって起こるさ」
「いや、逆じゃ」才蔵はいった。「意識に起こっとることが、物に起こるんじゃよ」
そんな事があるだろうか。才蔵のような人間は、まるで物と精神の中間に位置しているようだ。何かの瞬間にふっと肉体を失ってしまいそうな危うさがある。
もちろん和美といえば、
物の世界にどっぷり浸かって生きている普通の人間だ。
それでも、才蔵の言葉に拒絶反応が起きないのは、ひとえにあの創作を体験したからに他ならない。
あの時は、溢れるようなエネルギーが先だった。
確かに、自分からほとばしる力が絵や歌という形になった――。
「でも……」和美はいった。「でも、もし共振だったら同時に起きるはずでしょ蓜わたしの創作の場合は、何ヶ月も何年もあとなんです」
「いやいや」才蔵は首を振った。「精神の世界の距離と時間は、あなたが思っておるようなものじゃないんじゃ。
言わば一冊の本のあちらとこちらのページのように同時にあるもんなんじゃ」
「じゃあ、爺さんもコインシデンスだと思うのか蓜」矢ノ原はいった。
「早まるんじゃない」
才蔵はいさめるようにいった。「一番の間違いは、自分が何でも判断できると思い込むもんなんじゃ。ワシは未来を見るが、それがひとつでない事は誰よりも良く知っとる。だから、予知が役に立たんと思う時は言わないんじゃ。
あらゆる可能性を潰さんためにのぅ」
矢ノ原は黙って聞いていたが、その顔はまるでいいカードがそろった時のポーカーフェイスだった。
和美は彼が今、結論を得たことを悟った。
そしてそれは、彼の求めた結論ではなかったのだ……
コインシデンス―――
それは……
才能ではない――。
その愛は終わった。
つまり、全てはあの一曲から始まっていたのだ。
矢ノ原は、美波カズの歌を愛していた。
その才能を愛し、才能のある女を愛していた。
しかし、肝心の才能が別のアーティストが発した声の複写だか、やまびこのようなものだとしたら、彼が幻滅しても仕方がないことだった。
和美には美波カズに注がれた愛を自分にまで導く力はなかった。
遠い遠いところで破局を認識しながら、彼女は動けなかった。
昼メロのヒロインのように、すがりつきたかった。
捨てないでと髪を振り乱して叫びたかった。
だが、愛する男が最後に自分を目に映し、じゃあなと車で去っていく場面を、その物語に参加できないスクリーン越しの観客のように見ていた。
失ったものが多過ぎて、
どうやって息をしているのかもわからない。
真夜中の冷たい部屋にすがるようにたどり着くと、心細げに鳴いて足元に絡み付いてくるキャラを無視して、明かりも点けずにワインをあおった。
味がしない。
じんと冷えた頭の中に矢ノ原の顔が渦巻く。
そして、もう随分会っていない弟の顔が。
香月――。
和美はぐったりとソファーに沈み込んだ。
そのコインシデンスとやらに、香月は関係しているのだろうか蓜
あんなに遠い所にいるのに、まだ弟が自分に関わってくるとしたら……
ある意味では感動ものだ。
香月に連絡をとって、エグビーを知っているかどうか確かめることもできる。
だが、たとえ香月がエグビーなんか知らなくても、矢ノ原は戻っては来ないのだ。
だけど、もしかしてまた
コインシデンスが起きるかも知れない。
――そうよ、まだわからないじゃない。
今度はわたしが一番かも。
今や、和美は愚かでどうしようもない、捨てられた女だった。
もう一杯ワインをつごうとした時、暗いリビングに留守番電話のボタンが点滅しているのが目に入った。
瓶を持ったままヨロヨロと立ち上がり、無気力にメッセージを巻き戻す。
矢ノ原の昨夜の声はまだテープに残っているだろうか蓜
彼は、もう一度自分に電話してきてくれるだろうか――。
『和美蓜大変よ和美晙』
母親のうろたえた声が再生され、和美はハッと現実に返った。
『おばあちゃんが、おばあちゃんが亡くなったの晙。さっきトイレで倒れて、救急車で運ばれたけどそのまま――どこにいるの蓜携帯も通じないし……早く電話して晙』
……握りしめたワインの瓶の冷たさが、和美の意識をはっきりさせた。
祖母が逝った――。
わたしがあの『味里』を出たのと入れ代わりに、
一人暮しをしていた祖母に母親が同居を提案した。
香月と一緒に過ごした日々は、お互いに癒されたのだと思う……。
わたしの盗作騒動でも、
無条件に信じてくれた数少ない人間だ。
和美は激しい自己嫌悪にさいなまれながらも、ある事を考えていた……。
オーストラリアから香月が帰ってくるのだ――。
海辺の街で傷心の和美を迎えたのは、6年前よりも一段と数を増した人々の白い目だった。
中でも特に冷たかったのは、週刊誌だけで和美を知っている他人ではなく、幼い頃から行き来していた親戚達だった。
通夜の間中、よそよそしい無視と、ひそやかな陰口が和美の周りにまとわり付いた。
よく恥ずかしげもなく帰って来たといわんばかりで、話しかけても、お茶をいれても、知らんぷりだ。和美もさすがに身の置き所のない思いだった。
父親は遺体の前に頭を垂れて座ったまま動かない。
祖母の死因は急激な温度差による《脳卒中》。
白菊に埋もれたその顔は、眠っているように穏やかだった。
そこには悲壮感はなく、むしろ安堵感すら漂っている。
しかし、たとえそれが役目をすべて終えた魂の旅立ちだとしても、
やはり死は悲しいものだった――。
次の日、葬儀は『民宿味里』の玄関ホールで、故人の希望通り簡素に執り行なわれた。
もうそろそろ出棺という頃、息せき切って庭に飛び込んできた背の高い少年を見て、和美は驚きながら胸を高鳴らせた。
香月だ――。
聾唖学校の引率の先生に付き添われ、オーストラリアから急遽帰国したのだ。
それにしても、しばらく見ないうちに、なんて大人びたんだろう。
和美より背が高くなり、
かわいらしかった顔も日に焼けて逞しい。
それは、もう庇ってやらなければならない弟ではなかった――。
香月は冷たくなった祖母の手を握りしめ、声なく泣き伏した。
そのいたいけな姿が人々の涙を誘い、寒空の下に鼻をすする音が一斉にあがった。
やがて、香月はそこに和美がいるのをわかっていように顔を上げた。
二人の視線があった瞬間、その距離はゼロになる。香月は泣き腫らした目を拭って素早く手を動かした。
――僕のせいだ。僕がそばにいてあげなかったからだ。
それは、以前と同じように姉へ心を開いている弟だった。その関係に安堵しながら、和美は最愛の弟が心の中で丸めた暗い球を受け止めた。
――違う。そんな事を言ったら、おばあちゃんが一番悲しむよ。
彼女はすぐに、香月の望んだ球を投げ返してやった。
香月が唇を噛んでうつむいたその時、背後から低くしゃがれた声がした。
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