携帯小説「二番目の悲劇」

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2009/08/18 18:34(更新日時)

「二番目の悲劇」

🔯 作者@ りん
🔯 演出@ ホロロ

で、進めて参ります、長編小説です。

新しい試みですので、優しく見守って下さるようお願いします🙇

No.1159104 (スレ作成日時)

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No.151

マリムラは自宅まで彼女を追って行った。桜はなかなか風流な和風の家で祖父母と一緒に暮らしていた。
おいしいお茶を頂きながら話を聞いたところによると、中学生頃からだんだん言動がおかしくなり、家に閉じこもるようになったという。
今まできちんと医者に診せたことはなかった。

東京で専門医にみせれば何とかなるかもしれないですよ、とマリムラは力説して、人を疑うことを知らない老夫婦はあっさりと説得された。

No.152

「宝の持ち腐れって、こんなに残酷な意味だったんだな」


素肌に革ジャンをひっかけた倉見がやってきた。

「あの声で『さくらさくら』しか歌えないなんてさ」



「いまとなっては一曲歌えるだけ不思議だよ」

マリムラは倉見のセクシーな姿にあえて目を向けずにいった。

「春に産まれたから桜って名前をつけたんだって。で、おばあちゃんが『さくらさくら』を赤ちゃんに聞かせまくったそうだ。脳の奥底に刷り込まれてんだろう」







「脳が思い出をリピートするんだな……」





「何度も、……何度も」


倉見は寂しげにいった。

No.153

先月、マリムラが桜をここに連れて来た時には、倉見は露骨にイヤな顔をした。

だが、桜が歌い始めた瞬間。




倉見は感動に震えた。


もちろん、マリムラは桜の世話を倉見に押し付けるために連れて来たのだ。桜には歌ってもらいたい自作がいっぱいある、と倉見は興奮した。


彼女となら、どこまでもいける―――。




それは、はかない夢だった。桜が『さくらさくら』しか歌えないと判明するのに時間はかからなかった。

最初は『何とかなる』と思った。




それから一ヶ月たったいま、何ともならないとわかった――。

No.154

「チクショー、桜ったっていろいろあるだろが」

倉見は吐き捨てるようにいった。

「『ぼくがそばにいるよ』とか『いま、咲きほこる』とか。なんで他の歌は歌えねぇんだよ」


「ついにお山へご返却か」マリムラは何度目かのため息をついた。

「どっかで働けるとも思えねぇしな…… きっとあの森が桜の療養所なんだ。 ……んじゃ、これから一緒に行くか」

マリムラは倉見の肩を叩こうとした。倉見はむっとしてその手をよけた。


「俺はそんな暇ねぇ。もうじき客が来るんだ。女優の北村ミチ――」



「マジか蓜」











「――の友達のOL」

No.155

「なんだ、びっくりした」


「北村ミチのマネージャーが俺のダチでな。この前芝居の打ち上げで、そのOLに会って……。全然知らない女なんだけど、おとといいきなり電話かかってきてさ、自分で録音したディスク持って来るとかなんとか――」


「あー、いるいる」
マリムラがうなずいた。

「お嬢さんが気まぐれにだっせーフォークソングとか作ってさ、『是非聴いて下さい』なんてよくいるんだよな、そういう図々しい奴」


「違うんだな、それが。ただその歌を聴いて、教えて欲しいって言うんだ」


「え蓜教えるって、何を蓜」










「どこかでその歌を聴いたことがあるかどうか」

No.156

マリムラは半開きの目で倉見をみた。意味がわからないが、このところ意味のわからない人間には急激に慣れつつある。

「はぁ蓜」
マリムラはいった。
「そんな女、危ないから絶対会わないほうがいいよ」


「何いってんだよ。さんざん危ない女を押し付けといて、エラソーに」
倉見が反論した。


羽瀬和美に関して、倉見はほとんど印象らしきものを持っていなかった。

人がよくて、優しくて、上品で気の利く、 でも自分的にはつまんない女。


そんな女から電話があっても、心がかきたてられることはない。


一応会うことにしたのは、あの北村ミチの友達だから……。
不純な動機以外のなにものでもなかった。

No.157

今は桜との別れの悲しさが心を占めている。
世話をしたといっても、深い関係になったわけではない。だが、途方もない大きな夢の対象になった。


やっぱりOLとの約束なんてすっぽかすかそう。

マリムラと一緒に山まで桜を送りに行こう――
倉見はそう決意して、部屋に戻ろうとした。


「キャッ晙」
その時、後ろから小さな悲鳴が聞こえた。


振り向くと、和美が入り口のドアにはさまれて身動き出来なくなっていた。会社帰りらしく、薄いピンクのスーツに白いブラウスを着ている。


今までこんなファッションで倉見の部屋を訪れた人間はいない。



「もう、なにやってんの、あんた」

倉見は呆れながら、ピンクのチョウチョみたいな女をドアのすき間から助け出した。

No.158

その時、突風がふいた。

和美のスカートがめくれ上がり、色気のないベージュのストッキング、その下にはガードルが見える。


色気のなさ『二重奏』だ。


倉見はうんざりしながら、和美を見て「時間がないから早く用件を済ませてくれ」といった。


和美は恥ずかしさで耳の後ろまで真っ赤にして、スカートをポンポンと叩いてペコッと頭を下げて「羽瀬和美です。」と挨拶をした。

倉見とマリムラはシラけた顔を隠そうともせずに、和美をみていた。
その奥で桜は折り紙を折っていた。



和美は、ヴィトンのバッグからCDを取り出すと辺りを見回した。


倉見はコンポをアゴで示すと、和美がそそくさと近付き「聴いたことがあるかだけ確認したいんです。倉見さんは世界中の音楽に詳しいときいたので……」と言うとCDをコンポにセットして、再生ボタンを押した。

No.159

コンポから流れるメロディに、マリムラも倉見も時間が止まったように動かず、じっと聴き入っていた……




………ですか蓜
…どうですか蓜

和美は石像のように固まった二人の反応を見ていた。





「ゴホン昉。えーと……カズミちゃんだったね。」

倉見は、やっと言葉を発することができた。



「この歌は、どうやってできたのかな蓜」


和美は説明に困った。どう説明してもわかってもらえそうない。

和美が黙っていると、倉見は「この歌はカズミちゃんが歌っているのか蓜」といった。


和美が「ハイ晙」と答えると、倉見が言葉を選ぶようにいった。


「この声は、カズミちゃんの声帯からでるものではない。もし本当なら幽霊だな」

No.160

もはや、どう説明してもわかってもらうのは不可能だろう。
和美は「それで、この曲は……」


和美の言葉を遮るように、マリムラが「これはあんたが作ったんだろ蓜」といった。

「でも、どこかで聴いた曲を自分で作ったと勘違いしたかも知れないし……」と和美が言うと、


「それはないね。俺は海外のサンプル盤まで聴いているし、こんな凄い歌なら忘れる訳ないよ」
マリムラはいった。

「ずいぶん誉めるね、マリムラらしくないな」
倉見が言うと、
「俺は正直にいったまでだ」マリムラは「これは正真正銘あんたのオリジナルだよ」といった。



「……そうですか、ありがとうございました。」
和美はCDをバッグにしまい、帰ろうとした。


「ちょ、ちょっと昉それをどうするつもり蓜」倉見が言うと、「オリジナルだとわかれば、それだけでいいんです。」そういってドアに向かって歩き出した時、桜が和美に突進してきた。

No.161

桜はドアの前に両手を広げて《とおせんぼ》のようにして、和美の前に立ちはだかった。

その黒く深い瞳は、野犬のような狂気を感じて思わず怯んだ。


桜はその隙に、和美のヴィトンのバッグを引ったくり、それを抱えて部屋のすみにしゃがみこんだ。


マリムラは、桜からバッグを剥ぎ取ると「こいつを世に出すつもりはないのか蓜」と、バッグを掲げて見せた。


和美が答えられずにいると「桜に歌わせてくれないか蓜」と、マリムラがいった。

「今、こいつが歌えるのは『さくらさくら』ただ一曲だ。しかし、こいつには何か感じるらしい。なあ、ここで試させてくれないか蓜」


マリムラの迫力に、和美は断ることができなかった……。



再度CDをセットすると、倉見はギターを抱えた。


そして……




美しい旋律に倉見のギターがコードを被せる。
桜は立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。




憘ラララ~憘とメロディに合わせただけなのに、マリムラは悲しいわけでもなく、涙を流した。






桜が歌ったのだ晙

No.162

曲が終わると、桜の白い顔が異様にギラギラして、笑いながらも桜はべそをかきそうになっている。
その様子をみて、マリムラがふと思いついたようにいった。



「もう一度そいつをかけてみろ。早く晙…もしかすると――」

倉見はかすかに震える手で再生ボタンを押した。

桜の動物的な笑い声がぴたりと止み、急におとなしくなった。
この歌に対して本能的に、まさに欲望に近いものを示していた。

その時和美が感じていたのは、期待よりも恐れだった。



また、なにかが動き始めているのではないか。


運命は自分を早くも引きずり込もうとしている。






その意思にかかわらず、歌の力が周りを突き動かしていく。








自分が追いつけないほど速く、そして強く。

No.163

バラードが再び流れ始めた。桜は長いまつげの目を閉じ、額をスピーカーにつけて祈るように聴いた。



もう一度、
全身全霊をかけて、
その身に刻み込むように。



倉見はアコースティックギターを取り上げ、静かにコードを合わせる。



桜はゆらりと立ち上がり、一本の美しい樹になった。


その喉から歌が流れ出たとき、和美は自分を支えるのがやっとの、激しい感動に襲われた。







歌が千倍の命を持った瞬間だった――。

No.164

『憘あのドアを開ければ』



涙の旅の果てにある
誰も知らないあの空


流れ雲染める幾つもの想い出


そこにいつか
あなたはそのドアを見つけるだろう


あのドアを開ければ
あのドアを開ければ


あなたは帰る
虹の先にある故郷へと







夢の河を漂えば
辿り着くあの暁の海


波間に泡の華 無数に生まれ


そこで今も
そのドアはあなたを待っている


あのドアを開ければ
あのドアを開ければ


あなたは失うことはない
もう二度となにも





放たれた思いはいつか
自由の時に触れて


永遠という名の銀の道
星明かりに命きらめく


振り返れば
あなたの目にドアが見える


あのドアを開ければ
あのドアを開ければ


時はもう刻まれる事なく
それでもあなたは流れ続ける――




消えたドアの果てに
あなたを見るまで

No.165

 またひとつ、新たな伝説が生まれた。

混沌の中から、
《KURAMI BAND》は頭上にCD『あのドアを開ければ』を掲げ、ミュージックシーンに飛び出した。


「この曲はただ聞かせさえすればいい。なるべく多くの人に。放っておいても勝手に広がっていく。
子供も年寄りも関係ない、そういう歌なんだ」


マリムラの暴言に近い予言は的中した。

『あのドアを開ければ』はCD発売直後から、オリコンの一位にランクされ、爆発的にヒットした。

No.166

切なく透明な歌声が日本中を包み、人々は街で一度耳にしただけで
『あのドアを開ければ』に魅せられて、そこに何か懐かしいものを聴いた。


その歌は少しも難しいものではなく、聴くものを決して突き放すことはない。

カラオケでも、競うように歌われた。



謎めいた美声の歌手――
森本桜の存在にも話題が集中した。

ライブもテレビ出演もしないし、取材も受けない。
公表されたのは二種類のプロモーションビデオだけだった。
そのうちの一本はマリムラが、あの森の奥にあった池で撮影したものだが、そこに映し出された桜は美しいというよりも妖しく、なぜか見る者の心をえぐった。



キワモノ。
と言ってしまえばそれまでだが、それを冷ややかに見ていた者も、桜が歌い始めると目の色を変え、悲しくもないのに涙ぐんだ。

No.167

和美は完全に水面下に潜った。

ヒットと同時に作詞作曲家《美波カズ》の名も業界に知れ渡ったが、和美は取材をメールとファックスで応対するだけだった。


性別は男。
年齢不詳。
過去の経歴は未公表。




昔の盗作事件をほじくられ、あらぬ噂を立てられるのだけはゴメンだった。


故郷でもそこら中で『あのドアを開ければ』は流れていたが、それを作詞作曲したのが和美であることを知っているのは、両親だけだった。

No.168

マリムラは手際よく会社を設立し、お金のイロハも知らない和美に契約通りの印税を分配した。


銀行口座に給料とはケタ違いのお金が振り込まれ、和美は銀行のATMの前で気絶しそうになった。

しかし、それでも会社勤めを辞めようとはしなかった。


毎日痴漢のうろつく満員電車に乗って、残業もこなしてくる。

この、何があってもレールから外れようとしない行動は、人生の初期から外れまくっている倉見やマリムラには、不可解以外のなにものでもなかった。




「何考えてんだ、和美蓜」
倉見は声を荒げた。「これからは専業で歌を作るべきだよ」

No.169

そこは、六本木にマリムラが新しく開いたオフィスだった。

彼の卓越したセンスで飾られた部屋は、まるで美術館のようにモダンな空間を作り出していたが、それが居心地のよさにも繋がっているところが見事だ。

桜は、天井から吊した丸いブランコのようなチェアが気に入り、ここに来るといつもその中で丸まっていた。


あの時以来、和美と彼らは同じ快感を味わい、同じ道を歩いてきた。


時代は今、確実にこっちに向いている。
だけど、一発のヒットで消えていくミュージシャンなどいくらでもいる。

プロとして生き残れる保証などどこにもなかった。

No.170

「私まだ、未熟だし」
和美は口ごもった。
「はっきり言ってあれは偶然にできたものなの」



「次から次にホイホイ作れないのはわかってるさ」倉見はいった。「問題は和美のその態度だよ。俺が言いたいのは、音楽に真剣に向き合っていないということだ」


確かに和美は未だに、とても音楽関係者とは思えない素人だった。


お堅いOLの和美と歌のギャップが激しいため、辺りをうろつくパパラッチにも彼女が”美波カズ”かと怪しまれることも全くない。


和美はその現実を謙虚に受け止めていた。

No.171

だったら、なにもかも捨てて音楽に向かえばあの陶酔の時はやってくるのだろうか……

その回数は増えるのだろうか……


前に絵を描いた時から、五年以上経って今度は歌が生まれた。だけど、そんな気まぐれな嵐が今度いつくるかわからない。



いや、もう一生来ないかも知れないのだ。

「いいか、桜は和美の歌でなきゃ歌わないんだ」

倉見は無念そうに言った。
「俺じゃだめなんだよ」


丸い繭のようなチェアの中から、桜はじっと和美を見つめていた。

どういうわけか以前より病状は良くなり、自分の周りの出来事がかなり認識できるようになっている。


それは歌手になってからというより、あの歌に出会ってからと言ってもよかった。


たった一曲レパートリーが増えただけで、彼女の中の何かが変わったらしい。


「ようするに桜はさ、他の歌は届かないんだよ」
マリムラはいった。
「なんつーか、目の弱い人が明るい光しか見えないように。和美ちゃんが作った歌ってさ、波動が高いんじゃないかな。」




「ま、僕なんかじゃ逆立ちしたって作れないってこと。………悔しいけど」

No.172

マリムラは絶好調だった。
桜の発掘とプロデュースで業界に名をあげ、他にも自作の歌で新人をデビューさせている。

だが、和美は彼が派手な見かけによらずデリケートで、気分の浮き沈みが激しいことがわかってきた。
時に自虐的な発言があるのがちょっと心配だ。



「私だって作りたいのよ、作れるものなら……」
和美はいった。
「でも……」


「つまんねぇ会社にしがみついてっからだよ」
倉見が語気荒くいった。


「やる気ねえんだよ晙そんなに安定が大事かよ晙え蓜晙結局お嬢さんだったんだな晙あんたって人は」

倉見の怒りはもっともだ。
桜の澄んだ眼差しが辛い。


和美は言い訳ができずに、最後にはハンカチを握りしめて涙ぐんでしまった。

どれほど自分が、狂おしいまでにあの『創造の時』を待っているか、しかもそれがどんなに説明のつかない現象か、とても語ることなどできずに。






だが、一体誰だったらあれを説明できるというのだろうか蓜

No.173

銀座の一角にある画廊、ギャラリー・アサイに、『快』が飾られてから、そろそろ半月なる。

作者は勝又孝司(こうじ)
という新人だ。


毎日ギャラリーに出勤してくると、紫苑はいそいそとその絵の前に立つのが日課となっていた。

仕事が休みの日、一日中本物の絵が見られないと、彼女は日光を閉ざされた緑のようにしょぼくれてしまう。


活字中毒者の本、
アルコール中毒者の酒……


紫苑にとってアートは生きるに欠かせない食べ物のようだ。

その中でも、生きててよかったと思うほど美味なものがある。

『快』は紫苑が見つけた、最高の美酒だった。

No.174

ここのオーナーの浅井収蔵は、仕送りを止められて金銭的危機に陥った紫苑の絵を買い上げてくれた神様だ。

更に「あなたは美人だからここで働きなさい」とのたまい、破格のバイト代を提示してくれた。


画家を目指し、父親の反対を押し切って自費で美術留学をもくろんでいる紫苑は、お金を貯めながら絵を勉強し、さらにフランス語も習わなければならない。


そんな彼女にとって、労働時間の少ないこのギャラリーは天国だった。


だが、それほどの恩にもかかわらず、紫苑はひそかに『快』だけはいつまでも売れなければいいと思っていた。

No.175

浅井オーナーは白いヒゲの仙人のような老人で、紫苑との間に人が勘ぐるような怪しい関係はない。


家族はなく、紫苑の知る限り女っ気もなかった。
どこからともなく絵を仕入れてきては、適切な値段でそれを求める人に売っている。

だが、気に入らない客は断る偏屈老人だ。

商売人というよりまるで仲人、絵と人を良縁で結んでいると言ってもいい。

だからもし、この絵を紫苑が欲しいと言っても、浅井がすんなり売ってくれるかわからなかった。




魅せられていた。
心のいたるところを『快』はぐいぐいと押してくる。気持ちいいだけでなく、刺激的で痛いほどだった。

繊細でいて予想もつかない色や構成は、常人とまったく違う感覚を持っている。


いったいこんな絵を描くのはどんな風に生きている男だろう。
きっと想像もできないくらい奇怪な人間にちがいない。

No.176

「やあ、紫苑くん。相変わらず美しいね」
貫禄のある中年男がぶらりとギャラリーに入って来た。

日本で知らないものはいない大手デパートの社長、亀田幸吉だ。紫苑はこの男をみると、いつも真っ赤に燃えた石炭を思い浮かべる。


エネルギーを内包した彼は、それを何かに傾けずにはいられないのだ。
もし立ち止まったらたちまち燃え尽きてしまうだろう。
忙しい合間を縫ってやってきては、いとおしそうに絵を買って行く。

亀田はこの店の上得意の一人だ。

「ゆっくり食事でもどうかね蓜」亀田は気さくな口調でいった。

「おいしい創作料理の店ができたんだよ。スパイスが表に出ていない絶妙な味でね、食べるといつも君を思い出す」

No.177

そういいながら、さりげなく高級チョコレートの包みを紫苑に差し出してくるところがにくい。

銀座でも名をはせているとの噂だが、このマメさと口のなめらかさなら納得できた。

「ありがとうございます」紫苑は笑みで返した。
「ええ、本当は誰よりもピリ辛なんですよ。亀田社長のお見通しのとおり」


「だろ蓜」
亀田は笑い、ゆっくりとギャラリーに展示された絵を鑑賞し始めた。

昔からこの銀座で開業しているだけあって、ギャラリー・アサイの常連客はそうそうたるメンバーだ。


もはやここは小さな社交サロンのようなものだ。

紫苑は働いてるだけで、あらゆる分野のリーダー達と知り合いになり、刺激を受けた。

彼らにとっても紫苑のオーソドックスな美しさはわかりやすいものであったし、頭の回転の速さやセンスのよさ、育ちのよさも彼らを落ち着かせた。


どうやら自分は絵だけでなく、天性の『オヤジキラー』の才能もあったらしい。


紫苑は可愛がられ、教えられ、時には便宜を図られることもあった。

No.178

「ほほう、新人の絵だね」亀田は『快』の前で足を止め、しばらくそのまま動かなかった。


紫苑はヒヤヒヤしていた。

まるで自分の好きな男に他の女が見とれてるように見えた。

オーナーの浅井がその絵につけたのは、やたらな人では買えない大胆な値段だが、亀田なら造作もない。

もしも欲しいとなれば、この男は必ず手に入れるだろう。



ダメ―――。
紫苑は心の中で念じた。

それは買わないで、
お願い―――。



「ふーむ……」
亀田は唸った。「奇抜だな」

No.179

保守的な亀田が無名の画家に手を出す事はめったにない。
彼が次の絵に移動してくれるのを見て、紫苑は心の底からホッとした。


今日は助かった。
だけど、明日にはもしかして売れてしまうかも知れない。


亀田の大きなため息が響いた。どうやら他にはめぼしい絵が見付からないらしい。

忙しいスケジュールを縫って来たらしく、彼の足がやや速くなったのに紫苑は気付いた。

彼女はふと思いついて、倉庫から一枚の小作品を持ってきた。


「亀田様」紫苑は声をかけた。「こちらは昨日入荷したばかりなのですが……」


それは、絵の向こうから春風が吹いてくるような気がする、爽やかな風景画だ。

No.180

ん蓜
と振り向いた亀田の顔が輝いた。「あ、これだ」

いそいそとやってきて、そっと絵を受け取る。
ブランド物を着ているが、それはごつい苦労人の手だ。


紫苑はこういう積み重ねの上に実力を蓄えてきた男性が好きだった。

「さすがだね、紫苑くんは」亀田は言った。「どうしてわたしの求めている絵がわかったんだ蓜」

紫苑は亀田の顔を眺めながら、一瞬寂しげな陰が男の目をよぎるのを見逃さなかった。


「……贈り物ですか蓜」
紫苑はたずねた。

「ああ、実は母が入院してね」亀田はうなずいた。「枕元に飾るいい絵を探していたんだ」


「まあ。それではこちらの絵は病院に蓜」


「そうなんだ。看護士さんたちもこの絵ならリフレッシュできるだろ蓜」


優しい人だ。
そして、芸術の持つ力をよく理解している。

おそらく長期入院なのだろうと紫苑は察した。
こんな息子を持つ母は幸せだ。

No.181

「もしよろしければ、私が今日にでもお持ちしましょうか蓜」紫苑はメモを取り上げた。「視線の向きや光の加減を拝見して、病室の壁を傷付けないように取り付けます。病院はどちらですか蓜」


「そりゃ助かる」亀田はホッとしたように言った。

「担当の医者もきみを見たら喜ぶしな」



芸術はエネルギーだ。
と紫苑は思う。

いい絵のある部屋は幸せだ。その部屋の空気を吸える人間は幸せだ。それを知っている人は幸せだ。


「恩にきるよ、本当に」

亀田が利用限度額のないカードで支払いを済ませて出ていくと、紫苑は心を込めて風景画を包んだ。

店を閉めてから行けば、面会時間にぎりぎり間に合うだろう。



彼女は自分が運ぶものの価値を知っていた

No.182

その男がふらりとやってきたのは、雨上がりの午後だった。

黒革のロングコートを着こなすほど背が高いにもかかわらず、まるでそのコートで自分をしっかりブロックしているように気配を消している。


男は影のようにギャラリーに滑り込むと、「いらっしゃいませ」と声をかける紫苑には目もくれず、ぐるりと辺りを見回した。

紫苑の鼓動が早鐘のようになった。
次の瞬間、男の足は一直線に『快』へと向かっていったのである。

その前でぴたりと足を止めると、石のように動かなくなる。

八分、九分、十分……。
紫苑は時計を見つめながら、ハラハラしていた。

まさか、とうとう『快』が売れてしまう時がきたのか。
この男は偏屈そうだが、それに輪をかけて偏屈の浅井オーナーは、喜んでこの絵を売ってしまうかも知れない。

No.184

『快』にもう逢えなくなるかも知れない……
そう思ったら、紫苑は本当に涙が出てきた。
他のことはともかく、芸術の前では常軌を逸してしまうのだ。
薬を求めて血眼になる薬物中毒患者を、彼女は笑えなかった。


こうなったら――
紫苑は『売約済』の小さなプレートを握りしめた。


もしこの絵を買ったら、今まで貯めた留学費用はすっからかんになる。
だが、彼女は恋しい男と駆け落ちするように、もはや自分を止められなかった。

「……失礼ですが」
紫苑は男の後ろから近づき、さりげなく声をかけた。

「大変申し訳ございません。そちらの絵はつい先ほど御成約いたしました」
そう言いながら、すかさず売約済のプレートを絵の下に貼る。
その瞬間、胸が熱くなった。
これで、この絵は私のもの。もうどこへも行かせないわ――。

No.185

「え蓜」
男は信じられないように紫苑を見た。

「売れたんですか蓜この絵」

「はい」紫苑は静かにうなずいた。

「この値段で蓜」

「ええ」紫苑はむっとした。この絵の価値がわからないの蓜
いくら積んでも惜しくない作品なのに――。

男は表情のない顔で紫苑を見つめた。
いわゆる美形ではないが、外国の血が混ざった彫りの深い顔立ちには個性的な魅力がある。
しかし、まるでその前に見えないバリアがあるようだ。
一方、紫苑は控えめな紺のスーツ姿で、それは彼女の美しさを引き立てていると自覚していたが、男の冷たい視線はそんなものは素通りしていた。

敵の正体がわからないスパイのように、紫苑は落ち着かない気分になった。

No.186

「そんなはずはない」
男はいった。
「オーナーさんを呼んでもらえますか蓜」

「申し訳ございません」紫苑は丁重にいった。
「あいにく本日は来店しておりません」


しぶとい客だ。
どうしてもこの絵が欲しくなったに違いない。

わたしのように――。

でも、どうやって交渉したってもう遅いんだから――。



「それでは、連絡をとってもらいたい」男は粘った。「……すぐにだ」


紫苑は焦りを顔に出さずに、浅井オーナーのスケジュールを頭の中で確認した。

今日は外出の予定はなかったはずだ。
浅井はここからすぐのマンションに住んでいて、散歩ついでに自分の画廊に顔を出す。

「少々お待ち下さいませ」
紫苑は素早く知恵を働かせて、浅井の携帯電話にかけた。

何とかしてこの客と話す前に浅井に頼みこみ、『快』を自分に売ることを承諾してもらうのだ。


紫苑は電話の内容を聞かれないよう、そっと奥へ歩き出した。

No.187

その時、どこかから聞き慣れた着信音が響いてきた。

紫苑は足をすくませ、入り口を振り返った。

胸元から『水戸黄門』をかきならしながら、ステッキを持った浅井オーナーがひょこひょこ入ってくる。

昔から銀座界隈に住んでいる粋人らしく、どこも飾り立てていないのにお洒落に見える。
着信メロディーを除いては……

「すみません」紫苑は慌てて電話を切った。
「今、お電話したところなんですが――」


「なんじゃ、きてたのか、宇宙人」浅井は男を見て言った。
「来襲するなら予告してくれ」


「え蓜」
紫苑はうろたえた。
「お知り合いなんですか蓜」
「ああ」と浅井は言った。


「こっちはうちの看板娘、紫苑だ。美人じゃろ蓜」


「もう、おやじさん。そんな事いってる場合じゃないよ晙見てよこれ」
その男は売約済のプレートをビッとはがすと、犯人に証拠を突き付ける刑事のように、老人の鼻先へ突き出した。

No.188

「なんでこの絵売ったんだよ晙ずっとここに置いて欲しいって言っただろ蓜」


紫苑の頭からサーッと音をたてて血が下に落ちていった。


その言葉の意味するところは、ひとつしか知らない。


まさか……
まさかこの人は――。

「ありゃりゃ」老人は言った。「これはまたどこの物好きが、おまえのような遊び人の絵を」


「おい、この前は近い未来に国境を越える画家って言ったじゃないか。あれは酔ってたのか?」

「あくまでも可能性を述べたまでじゃ」

やっぱり――
紫苑はくらくらして口がきけなくなった。なぜすぐに気が付かなかったのか。

この男は勝俣孝司、本人だ――。

「やれやれ。ところで紫苑、どなたが買ったんだい蓜」浅井は振り向いた。「どうせ新しいもの好きの青木か、作曲家の太郎くらいじゃろう」


紫苑は、今度は首まで真っ赤になった。


人生最大の窮地と失態がセットでやってくる。
穴があったら本当に駆け込んでフタをしていただろう……

No.189

「……わたし……」紫苑はかすかな声でいった。
「……です」


「はあ蓜」浅井が耳を近づけた。

自分の雇い人がお客様を差し置いて絵を買おうとしたのだ。いくらなんでもオーナーが快く思う訳がない。勝俣はそれこそ宇宙人を見るような目で紫苑を見ていた。


「……わたしが買いました……どうしても欲しくて……ごめんなさい」

プライドの高い紫苑が一番恐れるのは、恥をかく事だった。
世の中には少しくらい恥ずかしい真似をしても平気な人もいれば、むしろそれが可愛く見える人もいる。

だが、紫苑は恥をかくのがとても下手だった。

めったに失敗をしないだけに免疫がなく、取り繕いようのないムードがあたりに漂う。

それが自分でもわかりすぎるくらいわかり、あとで死ぬほど激しい落ち込みがやってくるのだった。

No.190

ブォッ、フォッ、フォッ……いきなり、老人が下を向いて変な咳をした。

「なんじゃ、早くいえばいいものを」浅井は笑っていた。「本当にこの女は自分の感情を出すのが苦手じゃな。そんな事では言い寄ってくる男しかモノにできんぞ。まあいい、紫苑だったらゼロをひとつ取ってやる」


「そ、そんな」紫苑は慌てた。「だけど、これは――」

「売るつもりなどなかったさ。そこら辺の輩にはな。だけど、それほどイレ込んでくれている人間の所にいくのなら、この絵も幸せってもんじゃないか」
浅井はまるで、いい縁談がまとまったかのように上機嫌でいった。


紫苑は腕組みをしている勝俣をおそるおそる見た。
きっと物凄く怒ってるにちがいない。
いくら芸術フェチでも、さすがに作者を差し置いて自分のものにする根性はなかった。

No.191

「ま、おやじさんに任せますよ」勝俣はあっさりいった。

「で、でも」紫苑は慌てていった。

「いや、実は連作なんだ。『快』は他にもあと三点ある」



見たい。
紫苑はとっさに喉がカーッと渇いた。

病気だ。
我ながらもうどうしようもない――。


「ほれほれ紫苑、よだれが出とるぞ」浅井がからかうようにまたフォッ、フォッと笑い出した。

「見せて下さい、お願いです。」紫苑は頭を下げた。

……もしも、自分の絵が誰かにこれほどまでに求められたら、どんな気持ちがするだろうか蓜
今まで紫苑の絵がギャラリーで売られた事はなかった。
浅井が買い上げてくれた数点は自宅のコレクションに加えられている。
つまり、まだまだ売り物にならないのだと、紫苑は痛感していた。


「いやあ」勝俣はちょっと困った顔で、救いを求めるように浅井をみた。「どうしようか」


きっと人里離れたところに神聖なアトリエがあるにちがいない、と紫苑は思った。

そんな推測をした紫苑にとって、オーナーの次の言葉は全く意味不明だった。

「かまわんよ」浅井はいった。「紫苑はこう見えてもアーティストじゃ。社会勉強じゃ」

No.192

ステンドグラスに薄水色の光が射している玄関で、チャイムがなった。
ドアを開けると、白いシャクナゲに埋もれるようにしてミチが立っていた。

「わあ、本物の女優みたい」と和美はおどけて笑った。

「エレベーターでじっと見られたから、花で顔を隠してきたの」
ミチは髪についた花びらをはらった。
「わあ、すごい。この猫ほんとにキャラ蓜高級マンションだと高級猫に見えちゃう」


久しぶりに会ってもミチは少しも遠慮せず、自分の家のように上がりこんできて、部屋を見回していた。

窓がアールを描いたリビングルーム、サンルーム付き。
二十階の窓からの眺めは、視界をさえぎるものは何もなく、空がただ広がっている。

No.193

『あのドアを開ければ』のミリオンセラーで怖くなるほどの印税を手にした和美は、まず両親に新車をプレゼントし、『民宿味里』に念願の露天風呂を増設し、先祖代々の墓を建て直すと、
都心に2LDKの高層マンションを買ったのだ。

そして、ファッション雑誌で心を動かされても値段で諦めてた事を全部やってみた。

憧れのイタリア製の椅子を買った。
白いブラインドを買った。
大きなクリスタルの花瓶を買った。
天蓋つきのベッドを買った。
アクセや化粧品を買った。
毎週エステに通い、グルメの食べ歩きをし、高級旅館に温泉旅行をし、海外にも何度も遊びに行った。



さんざん憧れてきたものも、いざやってみると『こんなものか』とわかることがある。

残りは慈善団体へ寄付して、金はほとんど使い果たしてしまった。

しかし、今でも生活に困らないだけの印税が入ってくる。

「自分がこんなに金遣いが荒いとは思わなかったよ」和美は自嘲気味に笑った。

No.194

「いいじゃない、やりたかったんだから」ミチはいった。
「何だって、やってみくちゃわかんないよ。やらなきゃわからない後悔だって、あたしは体験してみたい。もしもやらなかったら、別の後悔が生まれてるでしょ蓜」


そういうミチは最近、大胆なラブシーンのある映画に出演したばかりだった。

それは、女でも惚れ惚れするような見事な脱ぎっぷりで、世間を大いにわかせている。
自分のやれることをやって、なんでもない事のように微笑んでいるこの親友に、和美は今回の大ヒットを喜んでもらえた事が嬉しかった。

No.195

「テレパシー説は撤回」ミチはいった。
「だって、今回香月はオーストラリアにいたんだもの」

「でも、テレパシーに距離なんて関係ないんじゃないの蓜」和美はいった。「もしかして、地球を半周してわたしに通信を送ってきたのかも……」

「やめてよ」ミチは笑った。「そんなに強力だったら、超能力研究所からお迎えが来るよ。それにしても、今回は絵じゃなくて音楽とはねぇ……。まったく和美の頭ってどうなってんの蓜」
「才能があるのはわかったけど、それって方向音痴みたいな才能だよね」



「ほんとはね、まだちょっと怖いの。もしかしたら、また同じ歌が現れるかも……」


「ないない。こんだけヒットしてるんだから、そんなのあったらとっくにわかってるよ。もうこそこそしないて、堂々と写真も出したら良いのに。いろいろ悪口言ってた田舎の人達に証明してあげれば蓜」

No.196

「どうせまた盗作だろって言われるだけだよ」
和美の記憶から、あの不幸な経験を完全に消し去ることはできない。

勤めている会社にも、この大それた副業のことは秘密だった。

だが、給料の割に生活が豊かになったのが見え見えで、やれ宝くじが当たっただの、やれ遺産を相続しただの噂がたっていた。

まさか自分達がカラオケで歌っているヒット曲を、和美が作曲したとは夢にも思わずに。


かつて良い感じになっていた佐伯は、住む世界が違ったわけでもないのに、何となく和美に近づかなくなった。

二人は話をしながらバジルのパスタと、アンチョビを使ったサラダを作った。
バルコニーのテーブルの上に真っ白いクロスを掛け、色とりどりのお皿を並べる。

近くに同じ高さのビルがないので、プライバシーは完全に守られていた。

マリムラから貰った引越し祝いのワイングラスを合わせると、キンと透明な音が和美の胸にまで響いた。

No.197

「ありがとうね、ミチ」和美はいった。
「あの時、わたしを倉見に繋げてくれて」

「やだ」ミチは笑った。
「それこそ、たまたまでしょ」


「ううん、たまたまこそが運命なんだと思う」

もしもミチが紹介してくれなかったら、この広い東京で倉見やマリムラ、そして桜と出会うことなんて万一にもなかったと思う。

桜はいまごろ山にいて、マリムラは薬漬けになってたかもしれない。
そんなことをひとつひとつ思い返していくと、和美はこの世の”出来過ぎたパズル”にぞっとするのだった。

和美はミチとグラスを傾け、満ち足りた気分を味わった。

バルコニーから見渡せば、自分の作った歌が今日も流れている街が見える。
そのささやかな時間を味わってくれる人達がいる。

自分の歌が多くの人の心に響き、見知らぬ人の生活にほんのちょっぴりの潤いを与えている。

まるで奇跡のようだ。

だけど、その奇跡を与えてくれたのは誰なのか蓜

今度はいつ来てくれるのか蓜
高みを渡る風に問い掛ける。
待つのだ。
なんと言われようと、またあの『創作の嵐』が来るまで。


何年でも……

No.198

「ところで和美」ミチが料理を食べながらいった。

「Dark Earthの矢ノ原ケンに会ったことある蓜」

和美はさりげなくナプキンで唇をぬぐった。

Dark Earthというのは、今売れているダークビジュアル系バンド、矢ノ原ケンはボーカリストだ。

「あるよ」和美はいった。

「矢ノ原ケンが『あのドアを開ければ』の作者にどうしても会いたいって……マリムラさんも押し切られちゃって、わたしも断れなくて」

「ほら、矢ノ原の元カノ、うちの事務所のタレントなのよ」ミチはいった。「その前の前の彼女は人気歌手で略奪愛とかで一時騒がれたでしょ。まだ矢ノ原のこと気にしてるんだけど、最近、彼はよくマリムラのオフィスに出入りしてるって言うから……ねえ和美、危ないんじゃない蓜」

No.199

「やだ」和美は笑った。
「わたしなんか、ただの友達でいるだけでも胃がもたれそう」


女たらしで有名といっても、実はマスコミが騒ぐほどの事でもなく、煙ばかりで火はチョロチョロだったという話はよくある。

だが、矢ノ原の場合は本物だ……とマリムラは言ってた。
そういうマリムラは意外なほど浮いた噂がない。


「そうよね」ミチはおぞましそうに鼻にシワを寄せた。「あんな男、和美の趣味じゃないよね。何となく気になっただけ。ほら、あれは本気になる男じゃないからさ」


男のことならミチは和美の何百倍もよく知ってる。倉見やマリムラにも同じような忠告を受け、自分でも何度釘を刺したことか……

もしも今、和美の頭がすけすけだったら、ミチは自分の勘のよさに驚いたことだろう。

No.200

脳の中はびっしりと矢ノ原で埋め尽くされていた。
矢ノ原が自分を呼ぶ時の声

矢ノ原の座ってるシルエット

矢ノ原の不敵な目つき

そしてついには、『あのドアを開ければ』を自分が作ったのは矢ノ原に出会うため……

そうとまで思ってしまったとき、和美は人になんと言われようと、絶対にこの恋を後悔しないと心に誓ったのだった。



『俺は、ほんとに和美の歌が好きだ』最初のデート以来、矢ノ原は何度となくそういった。

『毎年、日本中で何百という歌が生まれてる。だけど、ほんとに魂から沸き上がってできた曲は、数えるほどしかない。あの歌を初めて聞いた時、俺はどんなやつがこんな歌を作るのかと思ったね。俺には作れない。俺は美波カズって男が知りたかった。それが、まさか女とはね』

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