携帯小説「二番目の悲劇」

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2009/08/18 18:34(更新日時)

「二番目の悲劇」

🔯 作者@ りん
🔯 演出@ ホロロ

で、進めて参ります、長編小説です。

新しい試みですので、優しく見守って下さるようお願いします🙇

No.1159104 (スレ作成日時)

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No.51

さて、話題の『疾走』は民宿・味里の一階奥の静かな客室にクリスマスまで、飯山満の厚意で飾らせてもらう事になった。部屋の温湿度は油絵に良い環境に整えられ、白いシーツを張り渡した即席の展示場が作られていた。

「こんばんはー、和美いる?」大翔がやってきたのは夜の10時過ぎだった。髪を拭きながら風呂から出て来た和美は、大翔がいつも以上にへらへらしている事に気が付いた。

顔が赤黒い。酔っ払っている溿劜。

まさか!「それでバイクに乗って来たんじゃないでしょうね」和美はにらんだ。

「ままま、いいじゃないか」大翔は機嫌よくいった。「はいこれ、メリークリスマス」大翔の手に、リボンのかかったプレゼントがぶら下がっている。受け取ってみると…

やっぱり、例の品物だ。
「あんたね🌀」和美はため息をついた…


クリスマスプレゼントにまでパチンコの景品をプレゼントする人は、大翔くらいのものだ。

「言っとくけど、お返しなんて用意してないからね」和美がいった。
「バカ言ってんなよ」大翔はブーツを脱ぎながら、真っ白い歯を見せてニヤリと笑った。



「たっぷりと味わってやるぜ」

No.52

いくら色気もクソもない関係でも、いくら和美が太めといっても、一応二人は性別が違う。花も恥じらう風呂上がりの和美は、パジャマの胸のあたりを隠しながら、思わず後ずさった。

こんな時間に押しかけて来て何を考えているのか、この黒いケダモノ……
「ミチに聞いたんだ。『疾走』が帰って来たんだろ?」大翔は幸せそうにいった。「今夜は俺、あの絵のそばで寝かせて貰うから。んじゃ、お子ちゃまは早く寝なさい。」

眠れなかった。
ほんの少し、うとうとしたかと思うと、はっと目が開いた。
時計をみると、もうすぐ午前3時だ…

…大翔がへんな事を言うから、意識しているのか…経験のない和美にはわからなかった。


…………カタン。
その時、玄関のほうで小さな物音がした。
硬直した和美の耳に、玄関のガラス戸が閉まるかすかな音がした。

泥棒だ…
泥棒は躊躇なく、廊下の奥に進んで行く気配を感じた。(まさか、あの絵を?)

「ギャー、ドロボー」頭のてっぺんから恐ろしい声がした。大翔が跳び起きて、ドロボーと格闘したが、取り逃がした…

玄関から逃げる犯人を見ながら、大翔の言葉に耳を疑った。


「あれは…紫苑だった」

No.53

和美はしばらく大翔の胸で震えていた。恐怖と、混乱と、痛ましい思いに心がめちゃくちゃになりながら。そのパジャマのすそに、赤いものが落ちた。
和美ははっと大翔の手を見た。手の甲が裂け、ポインセチアのように真っ赤な血がしたたっている。
後ろの方で、和美、和美と半狂乱になってわめいている父親の声が聞こえた。




「……誰にもいうな」大翔が引くうめいた。



「紫苑のやつ…あいつ、ナイフを持ってた…」

No.54

三学期が始まり、蒼太は提出されたばかりの冬休みの課題を机の上に積み上げた。『描き初め』と称して、美術選択の生徒達には宿題を出してある。テーマは自由、とにかく画用紙一枚になんでもいいから書いてくること。彼は生徒の作品に目を通すときは、いつもときめきを感じた。
しかし、教師も人間、ヒイキもあれば苦手なやつもいる。いつもなら紫苑の作品を真っ先に鑑賞するのだが、彼女は欠席だった。噂によると盲腸で入院しているらしい。
蒼太は今一番の注目株、羽瀬和美の作品を抜き取った。サザンカの花のデッサンだ。右手に持って腕を伸ばす。
しばらくそのままじっと動かずに鑑賞していた。

…結論はすぐに出ていたのだけれど…





…………下手や……。

No.55

どこから見ても、どう見ても下手くそだった。もし評価を下すならば『中の上』でもなく『中の下』に近い。蒼太はまだその絵を見つめていた。このデッサン力であの『疾走』は描けない。描けるわけがない。それは絶対と断言してもいいくらいだった。
まるで別人が描いたもんのようや。一体何が起こったんや…

蒼太は呆然と机の上にデッサンを置いた。どこかで間違いがあったのか…



その時、ふいに美術室のドアがガタリと開いた。 和美だ…


「おお、羽瀬か。入ってこい」蒼太はそういいながら、無意識に和美のデッサンを裏返していた。和美は懐き始めたばかりののら猫のようにおずおずと近寄って来た。
「そや、おまえに聞こう思とったんや」蒼太はいった。「去年の暮れの事件、どうなったんや。侵入者は捕まったんか?」「いえ」和美はおとなしくいった。「暗くて顔が見えなかったんです。それに、なんにも盗られたわけじゃないし。警察もいっぺん話を聴きに来ただけで終わりました。だいたい目的もわからないし…」
「アホか、あの絵を盗もうとしたに決まっとるやろ。あんだけ騒がれとったんやで。で、今は飯山ギャラリーに保管されとんのやろ?」

No.56

「はい。あの次の日にすぐ。うちの家族もあの絵が安全な方がいいって…」「じゃあ、飯山満大賞の発表まで見られんのか。四月やったな」「はい。一応東京に行くことになってます」「楽しみやな」和美はうなずいたが、あまり楽しそうには見えなかった。蒼太から目をそらし、美術室に飾られた蒼太の作品を眺めている。蒼太は和美がなんの用事で来たのか、よくわからなかった。

「どや」蒼太は気楽にいった。「次のは、もう描いとるんか」「ん……まだです」和美の横顔がさっと曇ったのを蒼太は見逃さなかった。

なるほど、いっちょまえに悩んでいるらしい。そんなにポコポコと名作が生まれる訳がないが、永遠に生まれないとなると、あれはただのマグレだったと言うことになる。

「羽瀬」蒼太はいった。「焦って無理したら絶対あかんぞ。マイペース、マイペース、ええものを描くにはこれしかない。天才でも凡才でもこれだけは一緒なんや。まわりに騒がれたかて、気ぃ、楽に持てよ」

No.57

あの日以来、和美はひたすら待っていた。またあの創作の嵐が訪れる事を。いつでも絵が描けるようにイーゼルには白いキャンバスが立てかけられ、机の上には新しく買った三十二色の油絵の具が並べられている。心も体力も気力もすべて準備は整えられた。




それなのに、あれが来ない。




真夜中にはっと飛び起きることがあった。だが、それだけだった。耳をすましても何も聞こえない。風の音だけが空しく聞こえる。そんな夜を何度過ごした事だろう。
和美は、描きたかった。みんなの期待に応えたいからではない。

栄光への焦りでもない。

蒼太や飯山に認めてもらいたいからでもない。

和美はただ恋しかったのだ。

あの真実の瞬間が、あの味が。
もし二度と、あれが来ないと思うとぞっとする。あの濃密な味を一度知ってしまったら、どうしてあれなくして生きていくことができるだろう。そしてこの思いをどうやって人に説明したらいいのだろう。
「大丈夫です。私、のんびりしてますから」和美は蒼太にむかって微笑んだ。
蒼太は「そうか」と頷き、机の上にある課題をかき集めた。

しかし、和美はさっきから気付いていた。自分の画用紙が裏返しで置かれていることを。

No.58

うかつに冬の病院なんて訪れるものではない。市民病院の待合室はあらゆる風邪をひいた患者であふれ、各種ウィルスの大セールと化していた。
和美と大翔はこの惨状を見渡し、慌てて売店でマスクを買ったが、もう遅いかも知れない。顔半分をマスクで覆った大翔は誰が見ても怪しい人間にしか見えなかった。
「やっぱり帰ろうよ」和美はおどおどと辺りを見回しながらいった。「うるせーな、ここまで来てごちゃごちゃぬかすな」大翔の声はマスク越しでも大きかった。
「でもなんか、こんなことしたら、紫苑さんを追い詰めちゃうみたいで…」
「バカ、あいつだって自分がやった事で身動きが取れなくなってんだよ。俺達、おんなじ高校生なのに、やだろ?こんな事でシコリ残るの。シコリを取るには、ちょっとばかり痛くたって、手術が必要なんだよ」
大翔はその姿からは想像出来ないようなまともな事をいいながら、もそもそとポケットに手を突っ込んだ。
「病院は禁煙」和美はその手をたたいた。大翔はぶつぶついいながら、かすかに傷跡がついている手をさすった。


大翔は真相をストレートに聞こうと、嫌がる和美を引きずって紫苑の入院している病院に来たのだった。

No.59

「お、やっと相野愛が帰ったぞ」大翔がエレベーターの方を見ていった。
「最近、愛が取り巻きNo.1になったんだって」和美は首をすくめていった。
「大奥みてえだな。そんなもん作って何がおもしれえのか、サッパわかんねーな」大翔は立ち上がった。「おし、紫苑は今、一人だな。いくぞ」「うーっす、紫苑」大翔はマスクをとりながら病室に入っていった。紫苑は二人の姿を見た途端青ざめ、次に真っ赤になった。
「いい部屋だな」大翔は勧められもしないのに勝手にソファに座り、部屋を見回した。
和美はただ立っているだけで、悪い事をしているような気持ちがした。こんなところに自分を連れて来た大翔が恨めしかった。
だけど、あの絵のためなら。自分が生んだあの絵の周りに、変な影は残したくない。もし、紫苑があの絵の事で苦しんでいるなら…。
「よく来てくれたわね」紫苑がしっかりした声でいった。
ほんのちょっとの間に自分を持ち直したのは、さすがだ。和美はよくできた芝居を見ているような気がした。紫苑はいまどきの軽い言葉を使わず、ヘアースタイルもストレートロングの黒髪、これほど何にも影響されない人間を、和美は見たことがなかった。

No.60

「ぶっちゃけ、本当の事を話して欲しくてさ」大翔はいった。「あの夜の事を」
「ええ」紫苑は覚悟を決めたようにいった。

「クリスマスの夜、『味里』に来たの、紫苑だよな?」
一瞬、和美はすべてを否定されてしまうのではないかと思った。誰だって自分の非を認める場面を避けて通りたい。だが、紫苑は事務的とも言えるほど冷静な声でいった。「そうよ」
「それから『疾走』が飾ってある部屋に忍び込んだよな」
「ええ。大翔くん、どうしてあの夜あそこにいたの?」
「俺?そりゃあの絵が好きだからさ。ずっと一人で見てたらどんな気持ちかなと思ってさ」
「そう…じゃあ、私の気持ちもわかるわね」
「なに?」
「信じてくれないかも知れないけど、私も一人であの絵が見たかったのよ」

和美はえ?と紫苑を見た。そんな奇妙な事があるだろうか?

紫苑は夜中にナイフを持って『味里』にこっそり忍び込んだ。その目的はあの絵を傷付ける事ではなかったか?



「ナイフ持参でか?」大翔はいった。「林檎でもむいてくれるつもりだったのかな?」

No.61

「あれはペインティングナイフよ、油絵を描くときに使う道具」紫苑はいった。「スモックのポケットに入れっぱなしになっていたの。私、油絵を描くときは汚れないように、いつも黒いスモックを着てるのよ」


「じゃあ、あの夜も…」和美はいった。
「ええ、あのクリスマスの夜、ずっとアトリエで絵を描いていた。私、絵を描き始めると時間なんか忘れちゃうのよ」

何回も心の中で練習したセリフかも知れない。だが、それが生まれ持っての資質なのか、紫苑には少しもずるさが見えなかった。だから、相野愛のような計算高いタイプが一緒にいると、その差が目立って引き立て役になる。紫苑はそういう事を自覚しているのだろうか。
「夜中に一息ついた時、ふと『疾走』の事を思い出して…」紫苑はいった。「それで……」

「おいおい」大翔がいった。「だからって、なにも真夜中にこっそり見に来なくたって」

「そうよね、今思うと堂々と昼間に見に行けばよかったのよ。でも、あの時はそうは思えなかった」紫苑はぐっと唇を引き締めた。

わからないでもない。和美に向かって素直に見せてほしいということは、紫苑には裸を見せるより屈辱だったのだろう。

No.62

紫苑の『疾走』に対する複雑な想い…
それはあの夜、ピークに達したのかもしれない。

「本当か?」大翔はいった。「あの絵を傷付けるつもりだったんじゃ……」

「違う!」紫苑は大翔の言葉を遮り、叫ぶようにいった。「そんな事わたし、絶対にしない」

「だけど、なんでナイフを…」

「あの時、怖くなって、とっさにペインティングナイフを構えた。わたしが刺したんじゃない、暗闇で相手の手が当たったのよ。まさか、それが大翔くんだったなんて……」



紫苑の涙なんて、この世に有り得ない。和美と大翔はあっけにとられ、紫苑の頬に光る二つのしずくを見ていた。紫苑はいつも頭をしっかり上げている。いつも自分の弱みはがっちり金庫にしまっている。こんな姿は絶対に他人にはみせたくなかったはずだ……


「ごめんなさい、私、本当にひどい事を……」紫苑は顔をおおった。

「いいよね、もう」和美はいった。「ね、大翔。もういいよね」

「……和美さん」

「…は、はい」

「こうなったら本当の事をいうけどね」紫苑はいった。「私、どうしてあなたにあの絵が描けたか、わからなかったの」


……もっともな疑問だった。

No.63

もっともな疑問。
和美は素直にそう思った。なんで私なんかにあの絵が描けたのだろう?
でも、あの時は本物だった。私だけにあの創作の嵐はやってきた。まぎれもなく私の手が動き、細胞の全部が反応したのだ。一枚の絵に向かって。

うまく言えない。だけど、真夜中に絵を描く紫苑さんならわかってくれるかも知れない。
「私は、ほんとにあの絵を……」和美は情けないほど説明が苦手だった。「あの時は、私じゃないみたいに……何かがいっぱいになって」

「なにか?」紫苑は繰り返した。

「なにか、いのちみたいな……そうよ」和美は自分の言葉にはっとした。胸に込み上げてくる気持ちが、やっとひとつの言葉に行き着いた。「”いのち”がいっぱいになったの」

昀キラリ昀和美の中であの時のきらめきが蘇った。

No.64

ほんの一瞬、かすかに。それだけでも和美は至福に包まれた。自分がここにいるだけで、そこがたとえ病室であったとしても幸せを感じるほどに。

そうだ、あれは”いのち”だったんだ。”いのち”そのもののきらめきだった。

「あなた」紫苑はぽつりといった。「きれいだわ」

「えっ?」和美はたじろいだ。生まれて初めて聞く言葉だった。

「何かをつかんだのね」
いつもならこの辺でへらず口をたたく大翔も、黙って聞いている。不気味だ。この男にも和美の言いたかった事が少しは通じたのだろうか。

「本当にあれは……奇跡みたいな絵」紫苑はいった。「わたし、あの絵に教えられたし、戒められたのよ。芸術の可能性は誰にでも開かれるんだって。変な意味じゃなくてね。だから、もう一度、あの絵を見て、胸に刻み込みたかったの」

それは、純粋に絵を見たがった大翔とは、動機が違うかも知れない。だけど、ある意味で紫苑は心からあの絵を認めてくれているのだ。それは、和美に新しい感慨をもたらした。

No.65

「あんな絵、見たことがない」紫苑はいった。「でもわたし、自分には一生描けるかどうかわからない、なんて言わないわ。だって可能性は誰にでもあるんだから。そうでしょ?」

やっぱり紫苑さんはこうでなくちゃ……和美はこくりと頷いた。勝ち気で、激しく、なによりも自分を強く信じてる。だからセコい自分なんか許せない。こうやって紫苑は苦しみながら心の器を大きくしていき、その器からまたいい絵が生まれるのかも知れない。

「本当にごめんなさい」紫苑は頭を下げた。「わたしの事、黙っていてくれてありがとう。いつ警察がくるかと思うと、頭が変になりそうだった……」

「もういいよ」大翔はさらりといった。「俺はさ、あの絵がこれからも無事ならいいんだ。別にたいした怪我じゃなかったしよ、ほら」
大翔は紫苑に近付き、ぐっと手をつきだした。デッサンのしやすそうな男の手。紫苑はちらりとその傷に目を走らせる。和美はその時、紫苑の横顔にふっと恥じらいが漂うのを見た。

そういえば……和美は思い出した。紫苑は以前、大翔にモデルを頼んだ事があった。今、紫苑はこのケダモノをまともに見られないでいる。

まさか、紫苑さん…大翔の事が好き?

No.66

『第一回飯山満大賞展』


ギャラリー飯山ではその開催を数日後に控え、関係者による最終点検が行われていた。
まず、最初の通路には飯山の新作が二十点ほど展示されている。客はこれらを堪能し、それから入選作三十五点を観て、最後に飯山満大賞『疾走』と出会うという流れになっていた。

広々とした白壁の真ん中、『疾走』はシンプルなチークの額に入れられ、ぽつりと不思議な光を放っていた。
飯山は娘をめでる父親のような眼差しで、優しく見守っていた。
やはり、この賞を企画してよかった。飯山満は心からそう思えた……

彼は、その絵と出会えた事に感謝した。
ただ、向かいあっているだけで幸せだった。並外れて柔軟な感性が、自分の感性にビリビリ反応する。
こんな至福の瞬間は、一生のうちに何回経験できるだろうか…

和美は学校が休めないため、最終日の日曜に東京にくる予定だった。飯山は、その日が待ち遠しかった。なにも和美を見せびらかして、客達を驚かせたいのではない。開かれるべき才能の扉が開かれ、新しい夜明けを迎える瞬間に立ち会う事が悦びなのだ。

No.67

「こらふとどき者、ジャマだ、どきやがれ」たどたどしい日本語がホールに響く。飯山が我に返ると、赤毛の男がにこやかに笑いながら歩いて来るところだった。「ピエール」飯山はのっそり立ち上がった。「なにしにきたんだ?」
「もちろん築地の寿司を召し上がりに柀煜」ピエールはいった。「ミツルの新作の展覧会をやってるとは、こりゃ偶然ですな」
「いつ、日本に来たんだ?」
「たった今」
妙ちくりんな日本語はどこで習ったと思えば、古い日本映画を見て独学で身につけたそうだ。この変な言語を聞くと、飯山はしみじみと我が師、ピエールと再会したという気がした。

ピエールは、今や美術協会の重鎮。大きな展覧会には必ず審査員に名を連ねる。

「ピエール、是非こいつを見て欲しいんだ。」飯山はまるで秘蔵っ子を紹介するように『疾走』を振り返った。「今年から俺の賞を作ったんだ、この絵がNo.1。日本の16才の少女が描いた」

「おやおやこれは……?」
ピエールの温厚な深いシワの間からほほ笑みが消えた。飯山は、自分と感性が似ている師の反応を楽しみに、顔を覗いた。

ピエールは「大丈夫なのか?」といった。

飯山満は耳を疑った。

No.68

「なんだって?」飯山はいった。

「いやすまぬ、ブラボー、すごい絵だ。いやはや、ワタシどうかしてる」ピエールはせわしく手を動かして赤毛を撫で付けた。そういえば、初めて会ったときから比べて、ずいぶんと毛髪量が減少している。
「どうしたんだピエール?」飯山はいった。「その頭をそんなに薄くしたのは誰だ?」
「勘弁してくれ、ミツル」ピエールはいった。「フランスでドロボー事件があったばかりなんだ」
「盗まれたのは、髪の毛か?」
「いやはや、ストレスがバリカンみたいにワタシの髪の毛を刈り取っていったのだ。ドロボーといっても絵画の盗難じゃない。ワタシ、トンダオオハジをかくところだった」

とんだ大恥?飯山はピエールが日本語を使い間違えたのだと思った。

「マイッタマイッタ」ピエールは変な日本語を連発した。「もう少しでドロボーに賞をあげるところだった。しかもワタシ、審査委員長。びっくり仰天だったね」

飯山は、ズンと嫌な重みが胸から広がるのを感じた。おそらくピエールがフランスから輸入してきた胸の重みのおすそ分けだ。波動が近いためか、二人の間には感情が伝染しやすい。


「盗作、か…」飯山はうなった。

No.69

「盗作、か…」飯山はうなった。

「あぁ」ピエールは苦々しい顔で頷いた。


盗作。それは言うまでもなく芸術家の発想ではない。芸術家にあるのはただ創造したい、という欲求だけで、盗んだもので金や名誉を得てもなにひとつ満足しない。意味のない行為なのだ。


「しかし、この絵は絶対にそんな事はありえんよ。絶対に」飯山はいった。

「わかってる」ピエールはいった。「あんまり完成度が高いから……いらぬお節介だった」

「気持ちは想像出来るよ。そんな事が本当にあったらな」


「悪夢だった…」ピエールはまだ信じられないようにいった。「最後に二枚の絵を並べて見せられた。あの光景は一生忘れられない。双子みたいにそっくりだった。生んだ親でも見分けがつかないくらいにね」

No.70

「どうだい、調子は」機嫌よく声をかけながら、父親がアトリエに入ってきた。
インテリで芸術家肌。紫苑の色彩感覚やセンスはこの男から受け継がれているといってもよい。結局は事業家になったが、ホテル・シーサイド自体が彼の大きな作品といっても過言ではないだろう。父親は毎年、『娘が作ったもの』と自慢しながら気前よくイースターエッグを配るのを楽しみにしている。小さな時から『理想のパパ』と友達から何度いわれたことか。娘が素敵な父を誇りに思わないわけがなかった。
しかし、そんな父親にさえ、この熱中をそがれるのは嬉しくなかった。だからといって無視することも出来なかった。

「……もう少し」紫苑は言葉少なく返事をした。
さっき浮かんでいた模様はすでに頭から消えうせていた。

父親は存在感をあらわにして娘のそばの椅子に腰をかける。紫苑はかまわず筆を動かし続けていたが、描かれていくラインは明らかに前作より劣っていた。

「いいな、それ」父親がいった。

失望が心の表面にじわりとにじむ。紫苑は同じレベルで絵を感じられる人はいない。

ああ、もっと広い世界に出たい。自分よりすぐれた感性の人に会って、もっと自分を磨きたい…

No.71

「そうだ、聞いたかい?」父親はいった。「羽瀬和美のこと」
紫苑はペインティングに熱中している振りをして、あえて返事をしなかった。その名前を聞いても動じなくなったのは成長かもしれない。

自分を小さくしないですんだ……紫苑はあの時和美に謝ったことを、そう位置付けていた。これまでの人生で一番危ない罠だった。悔しさから和美を罵ったり、敵対視していたら、自分をひどくおとしめてしまっただろう。しかし、今回よけて通れたのは、偶然ではなかった。

…大翔。
ほかでもない彼があそこにいた。まるで自分がまちがった道をいきそうになるのを邪魔するように。
実際、いまもなお、どうしてあの時ペインティングナイフを持っていたのか、紫苑は自分でもわからないのだ。


もしかしたら、私の中にも、冷たい闇にかくさなければならなかった魔があるのか……




「飯山満がまたわけのわからんことをいいだしてね」父親はいった。「あの羽瀬和美を海外留学させるとかなんとか……」

卵が重さを失った。紫苑があっと思ったときには、つるりと指先が滑っていた。

カシャ… 軽い音をたて、卵はタイルの床に落ちて割れた。

No.72

海外留学…紫苑が考えていると、

「あ~あ、傑作だったのに」父親が立ち上がった。「すまん、わたしが邪魔をしたようだな」



「どこへ?」紫苑はいった。

ドアに手をかけていた父親は、ああ、と振り向いた。

「パリだかローマだか知らんが、無駄なことだ。あの子にそんな環境を与えたって実は結ばんよ」


それは予想ではなく、断言だった。父親は最初から『疾走を』まぐれと決めつけている。そのくせあの絵を一度も見た事がないのだ。



そんな父親の度量の狭さを見ることほど、娘にとって情けない事はあるだろうか…




「もぐらの穴に水を注ぎ込むようなものだ」父親は言い過ぎることをいとわなかった。「つまり金の無駄遣いだ」



だったら、私を海外留学をさせる気ある?…

紫苑はそういいたい気持ちをじっと抑えていた。一人娘は自分の目の届くところにおくべきだという、ワンマン的な父だから、せいぜい東京に出してくれる程度だろう。



「和美さんは和美さんよ」

紫苑は砕け散った卵のカケラに手を伸ばしながら、それ以上父がイヤミを言わないうちに、やんわりとたしなめた。

No.73

「そうだな」父親はちらりと娘を見ていった。彼は我が子の公平さを評価していた。「おまえはおまえだ」


バラバラになった卵の殻が指先にちくりと痛い。



あの病院での会話以来、和美との接触はなかったが、紫苑は和美のことを忘れてた事はない。



わたしはわたし……


そう思うたび、和美が浮かんでくる。


わたしはわたしなんだから……。




「あ……」紫苑はふと手をとめた。

割れたカケラに光が当たって昀キラキラ昀輝いている…


ひび割れの入った模様には、卵だった時とは違う味わいが出ていた。



綺麗……昀
これってまるで……


「どうした?」父親が覗き込んでいった。「ほう、モザイクみたいだな」



それを聞いたとたん、紫苑はハッと顔を上げていた。頭の片隅に、ピシリと何かが走った。


「モザイク……?」
紫苑は声に出した。


何か思い出しわすれている事があるような気がした。だいじなこと。引っ掛かっていたこと…

No.74

紫苑が立ち上がったちょうどその時、相野愛がアトリエに入ってきた。



「あ」
愛は父親を見ると、そつのない笑顔をむけた。「こんにちは」その営業用スマイルを見たとたん、また頭の中に何かが浮かんだ。



紫苑は数カ月前、愛と二人で交わした後ろ暗い会話を思い出していた……



冷静になってよく考えて見なよ、とあの時愛は力説した。


あのダサい和美にあんな絵が思いつけるわけないじゃない。
絶対なんかの真似をしたんだよ。そういうのなんて言うんだっけ?

そうそう、盗作に決まってる……。



「……モザイク」
紫苑はつぶやいた。「オバマ」


「え?」愛はキョトンとした。
「なにそれ?」


「たしか、原久オバマだわ」



あっけにとられている父親と愛をかきわけ、紫苑はアトリエを飛び出していった…

No.75

紫苑は机の上につけっぱなしになっていたパソコンに駆け寄り、『原久オバマ』で検索をかけた。



オバマはモザイクの天才として世間を騒がした少年で、一時はブームを巻き起こすほど人気があった。とくに有名なのはモザイクが一面に貼られた壮大なクアハウスだ。
紫苑はまだ実物は見たことはないが、以前テレビでみた、森と海の美しく壮大なモザイクに惹かれ、ネットで彼のことを調べた事がある。

公式HPはない。
だが、確か、原久オバマの知人がサイトをつくり、現在公開されていないモザイク作品を紹介していたはずだ

No.76

あった……
紫苑は『ゴースト・トゥーン』と名付けられたカフェのサイトをクリックした。



トップに使われているのは、オバマの処女作、白い幽霊のモザイクだ。その深い悲しみが画面のこちらまで伝わってくるような、魂のこもった作品だった。これをまだほんの子供の頃に作ったとは……

紫苑はあらためて感動しながら、すばやく見出しをチェックする。



オバマのモザイク作品集が年代ごとに並んでいる。順番に一つづつクリックしていく。



紫苑は探しているものに近づいてるのを感じていた。



実は、相野愛が『盗作』という言葉を口にしたとき、紫苑はこっそりとあらゆる絵画を調べまくったのだ…



だが、あの時なにも見付からなかった。
何かがどこかに引っ掛かっている感じがするのに……
もし一度見た絵なら必ず覚えているはずなのに……

No.77

その理由は、ジャンルが違ったからだ。絵画ではなかったんだ……。


「紫苑、どうしたんだ?」
追って来た父親と愛が何事かと後ろからパソコンの画面を覗き込んだ。
紫苑は祈るようにクリックを続けた。


何を祈ってるの?
自分は本当は何をみつけたいの?
もうすべて見失っていた。



原久オバマ・未公開作品。『天を走る』。



これか……
紫苑は力をこめてクリックした。




「う、嘘俉蓜」愛が息をのんだ。「そんな」



画面いっぱいに一枚のモザイクが映っていた。

男がきらめきながら走っている。
同じ色、同じ形、胸に込み上げてくるものまでもが同じ。



一体…
紫苑が今見ているものは、あの『疾走』にピシピシと、ひびが入ったものに等しかった。

No.78

一体何が起こってしまったのか。
紫苑はどうして自分が震えているのかわからなかった。今、発見したものの意味もわからなかった。



それはまぎれもない真実なのか。それとも絶望なのか……



「……五年前の作品か」父親がいかにも残念そうにいった。「な、だからいっただろ?」


そんな空しい言葉は聞きたくなかった。振り向いた紫苑は、父親が仮面の下に残酷な笑みを隠しているのを見た。

まるで、一度は死んだ娘の幸せを掘り起こしたかのように。



父親は、紫苑が作ったイースターエッグを手にとり、「紫苑の復活祭だな」とつぶやいた。



復活祭…
毎年、春に行うクリスマスにならぶ大きなイベント。

キリストの復活を祝う行事で、再誕の意味をこめて卵を使用した芸術「イースターエッグ」は卵に絵や図柄をほどこし、飾ったのが始まりとされている。

父親の仮面の下に隠された本当の顔を、紫苑は見る事になる。



愛は自分がついた嘘が本当になって、腰を抜かしていた…

No.79

盗作……。
地元の新聞はこの露骨な表現を控えなかった。



それどころか、ほら、一目瞭然だろうとばかりに、わざわざ絵とモザイクの写真を並べて掲載した。羽瀬和美の『疾走』と原久オバマの『天を走る』。



二つは気味が悪いくらいそっくりだった。


しかも、和美の名は伏せられ、「A子」とされていたが、こんな形式的な保護をしたところで、つい先日あれだけ天才と持ち上げたのだから、だれでもあの羽瀬和美だとわかる。

つまりは、読者の心証を悪くする効果だけをあげたのだった。



和美は泣かなかった。


あの最悪の瞬間、飯山満の静かな電話を受け、賞の取り消しを告げられた時も。
彼の声に怒りはなく、ただ失望だけがしみじみと伝わってきた。


なによりも飯山自身が傷ついていたのだ。

やり切れないほど長い沈黙のあと、彼は一つだけ質問した。



「……あのモザイクをみたのか?」



「いいえ」
和美の声は震えるでもなく、力が入るわけでもなく、ただ色がなかった。

No.80

次の日、和美はいつも通りの顔でいつも通りに学校へいった。一日中ひそひそ声が耳に入り続けた。

紫苑は目を合わせず、取り巻きたちは意地悪く笑った。
情報通のミチによると、新聞社にネタをばらしたのは紫苑の父親だという話だった。紫苑の目には、はた目にはわからないが、軽蔑の思いが含まれていた。


和美を知らない第三者たちは気楽なものだった。彼らが抱え続けていた潜在的なやっかみは、一晩で露骨な軽蔑へと変わり、世間を欺こうとした少女に対して、悪意ある囁きや冷たい視線、時にはあからさまな非難を浴びせ掛けた。

「ちょっとずうずうしかったよねぇ」

「思いついても、僕にはやれないなぁ」


彼らはそれですんだ。言いたいように言って、あとは適当に忘れればいい。身近なスキャンダルなんていうのは、日常生活のストレス解消に大いに役立つのだ。

やっかいなのは、何とかして和美を信じたいと願う者たちだった。



彼らは、和美が盗作などする人間でないことを知っている。


しかし……
このあまりにも似過ぎている二つの作品を、どう理解して信じればいいかわからないでいた。

No.81

「俺は信用しとるぞ」
放課後、蒼太は美術室に和美を呼び出していった。「おまえは盗作なんかするやつとちゃう。ええな、アホな連中に何いわれたかて、気にするんやないぞ」

どす黒い嵐が渦巻くなかで、和美自身は台風の目のように静かだった。中傷がひどくなればなるほど心はますます冷静になり、視界は異常にクリアになっていく。あの有頂天だった時、あたりがかすんでよく見えていなかった事を、今更のように思い知らされた。



そうだ、今こそ本当の自分の味方がわかる時だ。

上っ面で物事を判断しない、ちゃんとわかってくれる人が……。



「いろいろご迷惑をおかけして……」和美は頭を下げた。
「すみません」


「アホ、謝らんでもええ。おまえはなんも悪いことしとらへんのやから」


「先生」
和美は感激して蒼太を見た。

尊敬のできる大人の男とは、こういう人の事をいうのだ。悪意の泥沼につかっているいま、蒼太の言葉ひとつひとつに救われる思いだった。

No.82

蒼太は、「おまえの冬休みの宿題、覚えてるか?。あのへったくそのデッサンを見た時には、和美にあの絵はかけへんと思たんや。」といった。

「ところが、どういうわけかあの絵を一晩でおまえは描きあげよった。うまく言えんが、技術で真似た絵には人の魂を揺さぶる力はない。」


「あの絵は…間違いなく本物や。ただ、悲しいことに『神さん』は間違えて二番目におまえの所にやってきたっちゅうこっちゃ」


蒼太も混乱しているのだろう…

訳のわからない理屈で、自分を納得させ、和美を励まそうとしているのが感じられた。



それでも和美は嬉しかった。
「先生、ありがとうございます。」と
蒼太に一礼をして美術室を後にして、教室へ向かった。

No.83

和美が教室に戻っていくと、中からくぐもった怒りの声が聞こえてきた。


盗作、という一語を聞きつけ、和美はドアの前で立ち止まった。みんなが帰った後の教室で口論しているのは、和美を待っていてくれた大翔とミチだ。



「なんだと、ミチ。もういっぺん言ってみろ」大翔の声は激しかった。
「あいつはそんなこと思いつくこともできねえよ。そんなもん、屁をこくよりも明らかだぜ」

「そりゃあ、あたしだって和美の事を信じたいよ」ミチは必死にいった。「信じたいけど、どうやって信じたらいいの。大翔、教えてよ」





「……偶然」大翔は言い放った。

No.84

「偶然……? あれのどこが偶然なの?」

「偶然は偶然だ。そういう事もあるんだ、と俺は思う」

「そんなのおかしいよ。あたしみたいに普通に考えたら」

「普通の人間なら友達を信じるだろ」


「理由もなしにただ信じるんだったら、訳のわかんないそこらの宗教と一緒じゃない」


「違う。俺は和美を知ってんだ。あいつのちっちゃい頃からずっと」


「あたしだって知ってるよ。だけど、あたしには理由がなくちゃ信じらんない!」


「なんだとコノヤロー」


「やだ、触るな!」



パシッ。鋭い平手打ちの音が聞こえた。和美は自分が殴られたように頭がじんと痺れた。


「バカッ、バカッ、大翔のバカッ!」ミチは泣いていた。「あんたなんかなんもわかってない!」


「わかってないのはおまえだろ!」


「なによ、大翔なんか鈍感で低脳でエロで…あの海にいった時だって……」


「あ、あのときは」大翔の声が急にうろたえた。「おまえだって酔っ払ってさ、ちゃんと謝っただろ?すぐやめたし、最後までいかなかったじゃな…」


「あんたなんかサメに喰われちゃえ!」ミチはわめいた。「あたしがいつやめてって頼んだのよ?バカッ」

No.85

いったい何の話だ?…
和美はショックの上にショックが上塗りされて、もうなにがなんだかわからなくなっていた。


「あたしはずっと、小さい時から決めてたのに。なのにあんたったら、和美和美。こんなことになっても自分だけ、王子様みたいにちゃんと和美を信じて……バカバカッ」


「ミ、ミチ……」




ガタガタッと音がして、和美が我に返るより早くドアが開き、カバンを抱えたミチが飛び出してきた。
泣き腫らした目が和美をとらえ、幽霊を見たようにその場に凍りついた。

No.86

そういえば……ミチはいつも大翔の接近をいち早く感知していた。

そういえば……ミチはオマセな事に、小学生の時から『捧げる人』を決めたと言っていた。


そういえば……去年ミチと大翔は二人で海に行った。本当は和美も一緒のはずだったが、当日お腹をこわしていけなくなったのだ。


突然、今まで死角に隠れていた現実がどっと見えてきて、幼なじみとの間にぽっかり黒い穴を空けた。和美はその亀裂をどんな言葉で埋めていいのかわからなかった。

ミチの赤い唇が震えた。こんなときでも、彼女は透き通るように美しい。

その顔が自分からそむけられ、逃げるように廊下を駆けて行くのを、和美は映画のスローモーションのように見ていた。




「和美か?」大翔の声がした。
その瞬間、和美も逃げ出した。自分のわかりようのない現実から。




「待て」大翔の声が追い掛けてきた。「あんなの女のヒステリーだ。今きいた事は忘れろ」





あいつは本当にバカだ……


ショックと感謝がごちゃまぜになりながら、和美は走った。
ついに彼女の脳の情報は許容量を超えた。




こんなこと、一生忘れられる訳ないじゃない……。

No.87

香月は窓ガラスに鼻をくっつけ、オバケのような姉が自分の部屋に入ってくる様子をじっと見ていた。


体の周りに悪い空気がタバコの煙のようにもわもわと漂っている。あんな煙幕の中にいたら、もう自分の心の他はなんにも見えないだろう…



大変俉
オネエがあんなに真っ黒になったの、初めてだ…。

香月は独特の勘でそれが見える…というか、感じる。
ときどき、自分が見えているものが、周りの大人たちには見えていないのに気付いて、香月はびっくりさせられる事があった。

例えば、香月はそういう悪い空気を吸うと熱をだす。
お父さんやお母さんなんか、黒い空気をバンバン吸っても咳で出してしまうし、誰かにひどい事を言われても、かすり傷くらいで済んでしまう。
香月は両親のたくましさが好きだった。



またあるときは、お客さんが五人来たのに、お母さんは四つしかお茶を出さない事があった。


変だなぁ、と思っていると、もう一人はいつの間にか消えてしまった。
どうやらすでにこの世にいない同行者だったらしい…
そんな不思議な事がたびたびあった…。

No.88

自分にしか見えないもの……

それが存在することがわからなかったうちは、戸惑ったりもした。



だが、今はもう大丈夫だ。香月は実に簡単な解決法を学んでいた。


そう、余計な事は人に言わなければいいのだ。

幸いな事に、香月は『沈黙の王者』だった。

No.89

今、香月は和美にじっと焦点をあてていた。そうしていると、心配がどんどん大きくなっていった。



だが、和美は香月が見ているにも気付かずに、機械的な動作でカーテンを閉めてしまった。



オネエはぴったりと蓋をとじてる。僕はそばにいったらダメだ。
あのフタをこじ開けたら、ぼくは怪我していただろう。そうしたらオネエをもっと傷付ける事になる。

No.90

香月はため息をつき、テーブルの上に広げられた設計図を見た。[露天風呂増設計画]。今の風呂場から庭に向けて露天風呂を増築した、我ながらすばらしいプランだった。きれいに完成したこの図を、まだ誰にも見せないでよかった。


昨日までの未来は幻になってしまったのだから…。


今、このボロ民宿は意地悪な魔神が起こした嵐の中でどうにか建っているようなものだ。



香月は設計図を惜しむように眺め、ゆっくりとその小さな手で、ビリビリと破いた。



やっぱり僕は子供なんだ。
これはあまっちょろい子供の夢だった。

僕はこれを捨てればすむ……。


オネエの黒い煙幕はどうやったら捨てられるの?

No.91

どうしていいかわからない。


自分にはどうしようもない。


だって……
まだ子供だから……。


まだ子供だから、オネエを助けてあげる事ができないんだ……



これが子供にとって、一番悲しい事じゃないだろうか。


子供の香月はちょっと泣いた。

No.92

和美は無意識に鍵をかけ、いつの間にかカーテンを閉めてベッドに座っていた。

椅子に立て掛けられた新しいキャンバスの、永遠に埋められない空白がむなしい。

和美は脱いだ制服をバサッとその上にかぶせた。


机の上には、二度と使われる事のない東京行きの新幹線のチケット。さすがに飯山の秘書もそれを送り返せとは言わなかった。


ベッドに入って布団を頭から被った。



何も見たくなかった…


何も考えたくなかった…



失われたものの数を数えたくなかった…



すべての知覚を麻痺させてしまいたかった…



和美は、布団の中で膝を抱え、ただ無情な時が過ぎ行くのを待った。

No.93

「和美、生きてる~?」


両親が勝手に鍵を開けて部屋に入って来たのは夜の7時頃だった。


和美はそれまで、まったく動かず、布団の中で膝を抱えたままだった。


母親は、ずんずん娘の部屋に入って来ると、いきなり電気をつけて布団を優しくめくった。


眩しそうに乱入者を見上げた和美は、そこに安堵の表情を見てしまった。


どうやら本気で自殺の心配をしていたらしい……

「はぁ、疲れた。やれやれ」

その後に続いてきた父親の手には、大盛りの海鮮料理とビールがあった。


母親は手早く散らかったものを片付け、三人分の座るスペースを作ると、どっこらしょと腰をおろした。


「まったくもう、人っていい加減よねぇ。よくあんなにコロコロと態度を変えられるわ。さ、飲も飲も」



見れば、グラスが三つある。

和美はびっくりして目が覚めた。どこの世界に高校生にやけ酒をすすめる親がいるだろうか?

No.94

どうやら大変な一日を過ごしたのは、和美だけではなかったようだった。和美はすすめられるまま、ビールに口をつけ、父親が作ってくれた海鮮料理をつついた。


なぜか異様においしい(^~^)

思わず『生きててよかった』と口走りそうになったくらいだ。


料理に込められた想いは、娘を立ち直らせようとする父親の愛情に違いない。

さらに、和美はとめどなく口から流れる愚痴で、ある種の活気を生み出すという母親の稀有な才能に救われた。

「もうめちゃくちゃ一方的でさ、謝ってもらわなきゃ気が済まないとか言って、私たちか、何したって言うのよねぇ?誰に迷惑かけた訳でもないのに、もうすっかり自分は被害者気分になっちゃってるのよ。だけど一番疲れたのは、信じてもいないくせに信じたふりをして同情する人。口先だけって見え見え、あれはたまらないわ。まぁ和美、しばらくは辛いかも知れないけど、いい経験してると思いなさい。でも、これだけは注意して。もし誰かがいつもと違うように見えても、それが本当の正体だなんて思っちゃいけないよ。今まで見えてたもんだって別に嘘じゃないんだから。風が吹いたら、ついスカートの下まで見えちゃったってだけよ」

No.95

和美のグラスが空になると、父親の手がのびてきてすかさず二杯目のビールが注がれた。母親の話にうなずきながら、終始無言だった和美もそのうち酔いが回り、一日中こわばっていた顔の筋肉がほぐれてくる。


「眠れそうだね」
母親が程よいところでおしゃべりを切り上げ、腰を上げた。


「とにかく、こういうときはまず体力だから。体力が落ちると気力も落ちて、負けなくてもいいくだらないものに負けてしまう……じゃあおやすみ、よく寝るんだよ」


両親は来たときと同じく、さりげなく引き上げようとする。

和美はやっとのことで声をあげた。

No.96

「お父さん、お母さん」

ドアを半開きにしたまま、二人はなにごとかと振り向いた。



これだけは言わなければ…… そう思うと声が震える。


小さい時からいつもそうだった。

香月に怪我をさせてしまった時…
友達のイジメを目撃したとき…


「私、してないよ」
和美は無我夢中で口走っていた。

「盗作なんて、私、本当に……」



「バカ」母親がさえぎった。「親をナメるんじゃないよ。そんなの信じてるに決まってるじゃない。そのくらいの事、言わなきゃわかんないの?」



その声には、和美をたじろがせるほどの怒気がふくまれていた。



「でも……でも……どうして……」

No.97

「訳なんか、わからなくたっていいんだ」父親がぼそりといった。
「そうよ。なんでも自分がわかると思ったら大間違いよ」母親はいった。
「世の中のほとんどは、わかんないまま過ぎていくけど、ちゃんと元気に生きて行けるもんよ。いつか死ぬまでにわかるかも知れないし、わかんないかも知れない。そういう事があるってことを覚えるには、これはいいチャンスかもね。ま、あたしたちも若い時にはいろいろあったわよ。娘に知られたらビビるような騒ぎもたくさん起こしてきたけど、人なんかそのうち忘れちゃう。思い詰めないで、ゆったり構えておいで。」


両親の信用は無条件で絶対だった。

その娘を想う気持ちは、古くて、素朴で飾らない…

この家と同じくらいかけがえのないものだった…



今まで知らなかった種類の深い感謝が、和美の胸に溢れた。
それがやっと言葉になったのは、もうドアが閉まった後だった……


「……ありがとう」和美はいった。「一生忘れない」



聞こえたかどうかはわからない。
どすどすと二人の足音が遠ざかるのを聞きながら、和美はやっとこぼれた涙を拭った……

No.98

ずっと留守電にしたままの電話がなっている。

晩ご飯を食べていた家族は心の動揺を悟られないように、せっせとおかずを口に運んだ。


嫌がらせの電話は、盗作騒ぎから半月過ぎても続いていた。
無言電話ならまだしも、皮肉な口調の批判、中には耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言もある。
このときばかりは香月の耳が聞こえなくてほっとしたくらいだった。

父親はそんな電話を『暇人』といって相手にしない。

母親はときには豪快に笑い飛ばした。



ピー、と音がして電話が録音モードに切り替わる。



『もしもしはじめまして、私フリーライターの岡林時彦と申します。本日は羽瀬和美さんに取材をお願いしたくお電話しました』


チッ、と父親が新聞を見ながら舌打ちした。


『えー、今回の理解ない新聞報道で多大の被害をこうむっておられるとお察しします。そのいわれのない嫌疑を晴らすべく、真実の記事を書きたいと願っています。またお電話しますのでよろしくお願いします。』

電話が切れると家族達は顔を見合わせた。今までこんな電話はかかってきた事がない。


「信用するな」
父親がぼそりといった。

No.99

日曜日、朝早くからやってきたその若い記者は、こちらがびっくりするほど張り切っていた。

玄関で応対した和美は、彼の熱気を避けるように体を引き気味にして名刺を受け取った。

フリージャーナリスト 岡林時彦

「良心的、徹底的、そしてありのままの取材。これが僕の売りなんです」岡林はいった。「たくさんの主観で腐った世の中の出来事から、真実の純粋なエッセンスをすくいとるのが僕の仕事、そう信じてます」

和美は少し”イタイ人”だなぁと思いながら、この人の熱血インタビューを受ける事になった。

「あなたの受けた盗作の嫌疑を晴らしてみせます」岡林は断言した。「ご両親、悔しい思いをされたと思いますが、僕が来たからにはもう安心ですよ」

一体この男には、自信喪失ということがあるのだろうか。

何気なく同席していた両親は思わず顔を見合わせた。

No.100

「さてと」岡林は膝を乗り出した。
「結局この事件の問題点はですね、和美さんがオバマの『天を走る』を見たか見なかったか、その一点に尽きるんです」

「見てません」和美はいった。

「それを証明するんですよ」
岡林は、ショルダーバッグからファイルを取り出した。『絵画盗作疑惑』のシールが貼り付けてある。几帳面な性格らしく、細かい字がびっしりと書いてあった。

「調べたところによると、オバマのモザイクは一度も公開されていない。コーヒーショップにきた客にも見せた事もない。オーナー以外、写真を撮った人もいない。」

「つまり、あれを見るにはネットでアクセスするしか方法はなかった訳です。このお宅にパソコンは?」
「家の方に一台あります」和美はいった。「だけど、普段は弟しか使ってません」
「和美さんは?」

「触って見たことはありますけど、私機械音痴で……」

「この街にネットカフェはない…と。パソコンが使えるのは、図書館、友達の家、後は学校ぐらいかな」

「コンピュータの授業は選択制です。私はとってませんでした」

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