君が振り向く、その前に。
真っ白という色を初めて知ったような気がした。遠のいた音をまた耳に引き戻そうとしたが、まるで樹海をさまようようにふわふわと流れてしまう。
リンパ節に巣くった腫瘍は陣取りゲームをするように、全身に転移を始めていた。
エイジは担当医にあと2ヶ月の余命を宣告されたところだ。 22歳。若すぎると、誰もが彼を哀れんだ。
その人なつっこい性格は学校でも社会に出たあとも、他人を引きつけて誰もに好印象を持たせた。
「そうですか…。」
噛み締めた唇からほんのりと鉄の味がする。まだ、まだ生きている。エイジは手のひらを見つめたあと、ぎこちなく窓に目をやった。
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~由利~
最近は家のクーラーの調子が悪い。湿った空気と平年よりも高い気温は、時計の針までもべとつかせるような気がする。
胸が痛い、と言って病院に行ったエイジに、何でもない、気にしすぎだ、とは言ったものの、家に持ち込んだ仕事の資料の無機質な文字がなかなか追うことができなかった。
だから、最愛の彼に元気を出してもらおうと、スーパーでたくさん食材を買い込んで、今まさにタマネギをみじん切りにするところだ。仕事なんて今夜徹夜すれば何とかなるんだから、と調子の悪い肌を気にしながらキッチンに立っている。
由利はエイジと同じ大学のクラスメートで、親睦会を兼ねた飲み会の企画をエイジと進めたのをきっかけに交際が始まった。もう5年記念が近い。
二人とも一人暮らしをしているため、週の半分以上を同じ部屋で過ごしている。言わば半同棲という形だろう。
今日はエイジの好きなハンバーグにすることに決めている。変に大人ぶるくせに、子供じみた好物だと由利は思う。
「でもそこが可愛かったりして」
扇風機のモーターがうなりをあげながら強風を送る。古い型のもので、首振り機能は先月つまずいた際に壊してしまった。
由利はミンチ肉と刻んだ野菜と卵を混ぜ始めた。鼻歌には宇多田ヒカルをチョイスした。
由利は外国語大学の教授の助手をしていて、多忙な教授のかわりに膨大な資料を簡潔にまとめ、教授に報告をしている。正規の雇用ではなく、個人的なアルバイトのようなものだ。
それでも時間的には融通が効くし、外国語が元々好きな由利にとって、学会や授業の資料は興味深いものだった。
なんと言っても、由利自身は今の生活が好きだった。エイジが隣にいる、それだけでも幸せを感じるのだ。
ハンバーグの下ごしらえを終え、テレビをつけた。今日も主婦の悩み事を奥様方に人気のある司会者が聞き、コメンテータが変わり映えのない一言を発する。
人付き合いが簡単だとは思わない。でも体を壊すほど悩むくらいなら、いっそ新しい環境や考えをさがせばいい。それで関係が途絶えたっていいじゃないか。由利はそういう考えに自信を持っているし、こんな悩み事が生まれてくるとも思っていない。事実、エイジとの生活は幸せそのもので、だれにも正直な由利のキャラクターを嫌う人はそれ程いなかった。
「早く帰っておいで。」
そう呟くと、扇風機を自分の方へと引き寄せた。
~美菜~
図書館には数人の学生と、暇を持て余し、涼を求めた年配者がちらほらといるだけだ。
空いている席について、分厚い本のカバーを開く。そこには、教育の概念や理想、意味なとが長々と書かれている。
夏休みの宿題は教育に関する論理的解釈のレポートだ。美菜はため息を飲み込んで、ひとつ伸びをした。
20歳。最近はバイトやサークルの飲み会も増えた。口の中にじわっと広がるアルコールを感じる度に、成人という言葉を思い浮かべる。それと同時に実感として、苦味とともに飲み込む。それがお酒だ、とも思う。
スポーツジムのインストラクターを始めたのは大学に入って間もなくだった。元々、高校時代に陸上部に所属し、公立高校にしては良い功績をのこしてきた。
かと言っても、インストラクターをするなんて夢にも思わず、アルバイト雑誌を立ち読みしていたところに偶然エイジと再会したのだ。
エイジは陸上部の主将を務め、後輩から慕われる頼れる存在で、美菜にとってもそれは例外ではなかった。さらに言えば、長距離の選手は美菜とエイジの二人だけで、他の一年生に比べれば、エイジとは親しくしていた。
その元主将は美菜を自分のバイト先であるジムに誘ったのだ。
今までトレーニングなんて、言われたことをこなすだけだった美奈にとって、他人サポートすることは新鮮で面白みも感じられた。
と同時に何よりも良かったのは、子供のスポーツ教室の担任も任されたことだった。美奈は小学校の教諭を目指しており、こういった経験は彼女にとって非常に有益なのだ。
初めのうち、エイジと一緒に仕事をするのは何だか億劫だった。過去の罪悪感なのか、単なる拒絶反応なのかはわからない。気を使っているだけなのかもしれない。よくわからない感情だから余計に億劫になったが、時間はそんな感情すら持ち運んでいった。
エイジの引退試合の前日、美菜はエイジを振った。エイジから告白されることも、いや、そういった感情を持たれていた事にさえ驚いた。だからこそ、恋愛対象としてエイジを見ることは出来なかった。
エイジの性格からして、引きずることはなかったようだ。実際、次の日の試合でも、廊下ですれ違う時でも、エイジは前と変わらない態度で美菜に接した。これには美菜も助けられた。まるであの日の告白などなかったかのような素振りで、エイジは失恋の傷が見えないくらい変わらなかった。
あの時の記憶が蘇った。確かにあの時は助かったと思ったが、今となって思い返せば、相当な精神力を使っただろうなと思う。大人になったら人の気持ちの裏にまで手が回るような気がする。
「考えすぎなのかもしれないけど。」
~エイジ~
由利は血の気が引いたような顔色のまま、震えていた。目の前の人が急にいなくなる現実に怖じ気づいたように。
今日のハンバーグはいつもよりも美味しく感じた。由利のハンバーグは店で出せる、と本気で思っている。だけど、喉から下に滑り落ちない。よく噛んで、唾液と同じくらいの舌触りになったころ、水と一緒に流し込む。実際、以前から由利に気付かれないようにこういう食べ方をしてきた。何より、由利の料理の味の余韻を感じられないことがすごく残念だった。
「入院はいつからって?」
「できるだけ早くっていってたから…」
「そう。じゃあ用意するわね。」
そう言って由利は奥の部屋でタンスをごそごそしだした。
エイジは思う。いい女だと。
由利は嗚咽が漏れるのを必死に我慢しながら涙を流していた。見えないように。見られないように。タンスを探るふりをして、わざと音を大きく立てた。これでもかと思うくらいにエイジのパジャマを床にたたきつけた後、無言でタンスにもたれ掛かった。エイジから見えないよいに体を隅に寄せながら。
エイジは半分以上のこったハンバーグを箸でちぎり、水を飲まずに食べようとした。喉に詰まる。苦しくて涙が出た。
一息休憩し、目をつぶってもう一度喉を収縮させる。喉元を通り過ぎようとした時、ぐちゃぐちゃのハンバーグはテーブルの上に吐き出された。
エイジも泣いた。気付かれないように。言うことを聞かない自分の体を粉々にしてしまいたかった。腹が立って、悔しくて、不甲斐なさがこみ上げて歯をギリギリと噛み合わせた。
その夜は同じベッドでずっと思い出話をした。実はエイジを好きだった友達がいたこと、初めてのデートは映画だったこと、怖くてエイジが目をつぶっていたこと、初めての夜のこと、そして、二度の別れのこと。
由利とエイジは二回、以前に関係を解消した。エイジには忘れられない人がいるという。 由利は悔しくて、別れを選び、エイジは未練を追って別れを選んだ。
別々の道を進んだ二人だったのに、その道は何度も交差点に差し掛かり、横断歩道の両端には必ず、二人がいた。人は奇跡と呼ぶだろうか。あるいは、縁と呼ぶだろうか。二人ともがそのたびに、お互いを求めなおした。まるで再会が新しい出逢いとなったように。
そして、二回目の復縁で決めたこと。それが「好きな人」と「愛する人」の違いだった。
エイジの入院が始まった。変な機械がたくさんならぶ個室でエイジは何もない天井を見上げていた。
最初はやはりたくさんの見舞い客が訪れ、テーブルに乗り切らない果物や花、本が差し入れられた。
正直にうれしかった。自分の人脈は作りものでもなんでも、こういう形で現れるんだと思った。見舞い客が来るたび、由利やエイジの家族が出迎えた。何度も頭を下げ、お礼を述べた。
最初の一週間はバタバタと人の出入りが激しかった病室もだんだんと落ち着いてきた。客の出入りと反比例、薬の作用もあり、エイジはみるみるうちにやせ細った。
たまにうなされるように眠る時もあれば、激しく咳き込むこともあり、ある時はあちこちが痛くてたまらなくなり、人工呼吸器を使わないと息が出来ないこともあり、この世の病気の症状がいっぺんに出ているような気分になった。
由利は思う。神様はいない。いたとしても、天国で会ったら平手打ちを食らわせて唾を吐いてやろうと。
目の前の愛する人は今も額にじっとりと汗を浮かべて苦しんでいる。めったに吐かない弱音も口からこぼれるように出てくる。
自分は何も出来ないのだと思う焦りや苛立ちが由利の背中を這うように行き来した。
エイジは痛みに耐えながらおもむろに由利の手を掴んだ。エイジの手は思ったより冷たかった。
どうしてなんだろう。何かの報いなのだとしたらまだ耐えられる苦痛なのかもしれない。しかし、エイジも由利も現実のこれが何かの報いだとは思えない。
数時間後にようやく鎮静剤が効いてきた。エイジはゆっくりと、しかし肩で息をしながら、心配そうに見つめる愛する人に精一杯の笑顔を向けて言った。
「色々とありがとう。由利と出会って、俺の人生は本当に輝いた。自分に正直に生きて、困らせたこともあったけど…」
エイジは天井を見つめながら一息ついて
「また由利に会いたい。」
由利はもう我慢できなかった。首を横に振りながら両手で顔を覆った。流れた涙は両手の隙間から滑るようにこぼれた。何か言いたい、いや、言わなきゃならないことさえも、涙は遮ってしまった。
「美菜さんはいいの?」
意地悪だと、自分でも思った。こんな時に言うべきことなのかどうかもわからなかった。
エイジはため息にも似た呼吸を何度か繰り返し、答えた。
「美菜は大好きだよ。最後に会いたいとも思う。それでも最後は由利を信じて眠るよ。」
由利とエイジが別れた時、エイジは美菜にもう一度告白することを決心していた。その決心が実現しなかったのは、機会がなかったことと、由利の初めて見せる涙だった。
それでもエイジは由利に伝えた。今でもこれが正しかったかどうかわからない。
「俺は由利も美菜も大好きで、天秤にかけることさえできない馬鹿なんだ。だから君とずっと一緒にいられるかどうかはわからない。」
エイジは由利を大人だと思った。
「私はそれでも構わない。好きな人なんて何人いたっていいよ。最後に私を選んでくれる自信はあるから。気の済むまではしったらいいんじゃない?」
エイジは悩みに悩んだ。そしてやはり由利を選んだのだ。ただし、条件をつけて。
男が好きな人、愛する人を別に持っても良いという変わった付き合いが再開した。
好きな人は、美菜だ。
人間には人生でひとつくらいは絶対に諦めたらいけないものがある。例え傷つくことを予想できたって、諦めたら負けだというものがある。エイジにとって、それが美菜だった。必ず、もう一度思いを告げると自分自身と約束した。美菜には届かない。絶対に。それでも立ち向かう。それがエイジだから。
その強い思いを由利は一度だけ酒の席でエイジから聞いてからは、ますますエイジを気に入ってしまった。負けん気の強い由利だ。ライバル心は煮えたぎるような温度ではあったが、冷静になっている自分は、案外、自信家なんだと思わざるを得なかった。
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