注目の話題
息子の嫁が精神障害者
美人や可愛い子は恋愛で苦労しない
今必要なあなたへのメッセージ✨

悲劇《韓国の話し,から引っ越して来ました。

レス237 HIT数 6995 あ+ あ-

名無し
14/08/27 18:43(更新日時)

ミクル版|中国・韓国・在日崩壊ニュース

から《韓国・在日に集中して話して行きます。》

おしゃべり坂から引っ越しました。

韓国・在日(中国・北朝鮮は、違うスレで書き出そうと思っています)

どうぞ自由に、ご意見・参加よろしくお願いします。

14/03/09 18:08 追記
どうぞ自由に、ご意見・参加よろしくお願いします。 参加しにくい独断スレになってる主です。すみません。

ただ、独断ですが、とことん書き出し尽くすつもりで進めて行きますが、

韓国・在日絡みの話しや思う事あれば、
書き出してくださると助かります。(^_^)☆

No.2070783 14/03/09 16:22(スレ作成日時)

投稿順
新着順
主のみ
付箋

No.1 14/03/09 16:30
通行人1 ( ♂ )

本日京都で、在日韓国人と思しき方が日本人を刺し殺した話は聞きます。

  • << 3 ご意見・参加ありがとうございます。 よろしくお願いします。 そのニュースを検索して来ます。
  • << 4 1さん ・近隣住人刺す 殺人未遂容疑で緊急逮捕 無職の男 京都 朝日新聞デジタル 3月9日 13時33分配信 クリーニング経営者の男性が刺された現場付近を調べる警察官ら=9日午後0時41分、京都市右京区太秦一ノ井町、戸村登撮影  近隣住人の男性を包丁で刺して殺そうとしたとして、京都府警は9日、京都市右京区太秦一ノ井町、無職安東泰和容疑者(61)を殺人未遂容疑で緊急逮捕し、発表した。男性は死亡し、府警は容疑を殺人に切り替えて調べる。安東容疑者は「10年来の恨みがあった。殺すつもりはなかった」と話しているという。 このニュースですか?

No.2 14/03/09 16:37
名無し0 

>No.32 14/03/07 05:09
お礼
中国・韓国・在日崩壊ニュースサイト
の読者です。



中国・韓国・在日崩壊ニュースは、
サイト以外でも簡単に検索できます。

おしゃべり坂でNo.32からの記述を
載せまして記述の続きを書き出して行きます。

  • << 6 No.37 14/03/08 19:35 お礼のコピー 悲劇《韓国の話し 在日韓国・朝鮮人(ざいにちかんこく・ちょうせんじん)は、日本に在留する韓国・朝鮮籍外国人のこと。場合によってそのうちの特別永住者を指すなど範囲が変わることがあり、しばしば「在日」と短縮して用いられる。 在日韓国・朝鮮人 재일 한국・조선인 総人口 526,575人(2013年6月末時点) 特別永住者373,689人 一般永住者63,704人 定住者7,734人 日本人の配偶者等16,251人 永住者の配偶者等2,404人 留学17,874人 家族滞在14,587人 他省略 (参考:韓国・朝鮮系日本人345,774人(2013年9月末)) 居住地域 東京・大阪・神奈川・愛知・兵庫・京都など 言語 朝鮮語・日本語・在日朝鮮語 宗教 仏教・キリスト教

No.3 14/03/09 16:40
名無し0 

>> 1 本日京都で、在日韓国人と思しき方が日本人を刺し殺した話は聞きます。 ご意見・参加ありがとうございます。

よろしくお願いします。

そのニュースを検索して来ます。

No.4 14/03/09 16:46
名無し0 

>> 1 本日京都で、在日韓国人と思しき方が日本人を刺し殺した話は聞きます。 1さん

・近隣住人刺す 殺人未遂容疑で緊急逮捕 無職の男 京都
朝日新聞デジタル 3月9日 13時33分配信

クリーニング経営者の男性が刺された現場付近を調べる警察官ら=9日午後0時41分、京都市右京区太秦一ノ井町、戸村登撮影
 近隣住人の男性を包丁で刺して殺そうとしたとして、京都府警は9日、京都市右京区太秦一ノ井町、無職安東泰和容疑者(61)を殺人未遂容疑で緊急逮捕し、発表した。男性は死亡し、府警は容疑を殺人に切り替えて調べる。安東容疑者は「10年来の恨みがあった。殺すつもりはなかった」と話しているという。

このニュースですか?

  • << 11 私が聞いたのは、本名『金』でした。 ただ、クリーニング店経営の方は合ってます。

No.5 14/03/09 16:54
名無し0 

>> 4 韓国・在日絡みと思しきニュースや報道において、よく知ろうと検索すれば、すり替え話しばかりに繋がります。

出来るだけ細かく書いて見て下さい。
繋がって行きやすく真実に近い
実話に繋がりますから。

No.6 14/03/09 16:57
名無し0 

>> 2 >No.32 14/03/07 05:09 お礼 中国・韓国・在日崩壊ニュースサイト の読者です。 中国・韓国・在… No.37 14/03/08 19:35
お礼のコピー
悲劇《韓国の話し

在日韓国・朝鮮人(ざいにちかんこく・ちょうせんじん)は、日本に在留する韓国・朝鮮籍外国人のこと。場合によってそのうちの特別永住者を指すなど範囲が変わることがあり、しばしば「在日」と短縮して用いられる。


在日韓国・朝鮮人
재일 한국・조선인

総人口
526,575人(2013年6月末時点)
特別永住者373,689人
一般永住者63,704人
定住者7,734人
日本人の配偶者等16,251人
永住者の配偶者等2,404人
留学17,874人
家族滞在14,587人
他省略
(参考:韓国・朝鮮系日本人345,774人(2013年9月末))
居住地域
東京・大阪・神奈川・愛知・兵庫・京都など
言語
朝鮮語・日本語・在日朝鮮語
宗教
仏教・キリスト教

No.7 14/03/09 16:59
名無し0 

>> 6 >No.32の在日話しから

韓国併合(日韓併合) (1910年8月), 土地調査事業 (1910年〜1918年), 「朝鮮人ノ旅行取締リニ関スル件」(朝鮮総督府、朝鮮から日本への渡航を制限, 1919年4月〜1922年), 関東大震災 (1923年), 釜山での日本渡航制限措置 (朝鮮総督府, 1925年10月), 東亜通航組合結成、済州島〜大阪間の朝鮮人による自主運航開始 (1930年4月〜1935年), 朴春琴、衆議院議員当選 (1932年2月), 「朝鮮人移住対策ノ件」日本への渡航抑制、日本在留朝鮮人の同化など方針策定 (日本政府, 1934年10月), 「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」 (朝鮮における雇用制限の撤廃, 1939年9月), 「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」 (官斡旋, 1942年3月), 朝鮮半島からの徴用開始 (1944年9月), 第二次世界大戦終了と送還事業開始 (1945年), 済州島四・三事件 (1948年), 朝鮮戦争 (1950年), サンフランシスコ講和条約 (1952年), 北朝鮮への帰国運動 (1959年12月〜1984年), 日韓基本条約 (1965年), 北朝鮮による日本人拉致 (1977年〜1983年), 韓国の留学自由化 (1980年代初頭), 難民条約発効 (日本)、国民年金法の国籍条項撤廃、特例永住制度実施 (1982年), ソウル五輪 (1988年), アジア通貨危機 (1997年), 日朝首脳会談 (2002年), 韓国人短期滞在者の査証免除 (2005年)

No.8 14/03/09 17:01
名無し0 

>> 7 ①韓国併合

韓国併合(かんこくへいごう、英: Japan's Annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される。

②韓国併合ニ関スル条約


「韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。大韓帝国の内閣総理大臣李完用の名前や、最後の朝鮮王純宗の名である坧の署名が見える。
通称・略称 日韓併合条約、韓国併合条約
署名 1910年8月22日(漢城)
効力発生 1910年8月29日
条約番号 明治43年条約第4号
言語 日本語/朝鮮語
主な内容 韓国の日本への併合
条文リンク 中野文庫
ウィキソース原文

No.9 14/03/09 17:02
名無し0 

>> 8 ①韓国併合

1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了した。


条約上の領有権の放棄は、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約発効によるが、1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。その後朝鮮半島は、北緯38度線を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。

No.10 14/03/09 17:04
名無し0 

>> 9 ①韓国併合

「韓国併合」や「日韓併合」というとき、条約の締結により大韓帝国が消滅し、朝鮮半島が大日本帝国の領土となった瞬間的事実だけではなく、併合の結果として朝鮮半島を領有した継続的事実を含意する場合もある。(日本統治時代)
・冊封体制下の秩序と開国
当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。大日本帝国による開国要求は、その要求国書において歴代の中国皇帝と同列の「天皇」を使用していたこともあり、長らく中華秩序の一翼を担ってきた朝鮮側からは、中華秩序に対する挑戦と受け取られた。朝鮮側は、大日本帝国政府による近代化の要請を内政干渉としたほか、朝鮮では大日本帝国の民間知識人による近代化のアドバイスも侵略的意図があるものと捉えられ、朝鮮王朝内部における政争の一因となった。

西欧列強や、朝鮮を取り込もうとするロシア帝国・大日本帝国は朝鮮半島の鎖国状態が続くことを容認せず、大日本帝国は江華島事件を機に朝鮮と不平等条約である日朝修好条規を締結し、これを契機に朝鮮は列強諸国とも同様の条約を結ぶことで開国を強いられた。大日本帝国側は条約締結の際、朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるため「朝鮮は自主の邦」という文言を入れることに固執した。(冊封体制下の国、すなわち「朝貢国」が、即「従属国・保護国」を意味するかについて認識の差が日朝間に存在した)。

  • << 12 開国後から日清戦争まで 大日本帝国による朝鮮開国後に甲申事変が起きるなど、李氏朝鮮の内部からも改革の要求は出ていたが、実権を掌握していた興宣大院君と閔妃は守旧的態度を採り続けた。大日本帝国は自国主導による朝鮮半島の政治改革を目指したが、清国側はあくまでも「李氏朝鮮は冊封体制下の属邦である」との主張を変えなかった。 * ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年) 日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている *ジョルジュ・ビゴー人物は、 ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860年4月7日 - 1927年10月10日)は、フランス人の画家、漫画家。明治時代の日本で17年間にわたって活動をおこない、当時の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる。 人物です。

No.11 14/03/09 17:06
通行人1 ( ♂ )

>> 4 1さん ・近隣住人刺す 殺人未遂容疑で緊急逮捕 無職の男 京都 朝日新聞デジタル 3月9日 13時33分配信 クリーニング経営… 私が聞いたのは、本名『金』でした。
ただ、クリーニング店経営の方は合ってます。

  • << 13 通行人1さんの見た(金)の名前こそが真実だと言えます。 京都府警は9日、京都市右京区太秦一ノ井町、無職安東泰和容疑者(61)を殺人未遂容疑で緊急逮捕し、発表した。 ニュース・報道・新聞では、真実は湾曲されますから。 犯人は、名を逸話ら無ければ成らない在日と見なすしか無いですね。

No.12 14/03/09 17:10
名無し0 

>> 10 ①韓国併合 「韓国併合」や「日韓併合」というとき、条約の締結により大韓帝国が消滅し、朝鮮半島が大日本帝国の領土となった瞬間的事実だけで… 開国後から日清戦争まで
大日本帝国による朝鮮開国後に甲申事変が起きるなど、李氏朝鮮の内部からも改革の要求は出ていたが、実権を掌握していた興宣大院君と閔妃は守旧的態度を採り続けた。大日本帝国は自国主導による朝鮮半島の政治改革を目指したが、清国側はあくまでも「李氏朝鮮は冊封体制下の属邦である」との主張を変えなかった。


ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)
日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている

*ジョルジュ・ビゴー人物は、
ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860年4月7日 - 1927年10月10日)は、フランス人の画家、漫画家。明治時代の日本で17年間にわたって活動をおこない、当時の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる。
人物です。

  • << 14 朝鮮半島を挟んで日清両国の関係が緊張するなか、李氏朝鮮内部においても悪政と外圧の排除を唱えた東学党による農民反乱・甲午農民戦争が起きた。朝鮮は自力での解決ができずに清に救援を依頼し、清は朝鮮を属領と称し派兵を行った。この事により、朝鮮の独立の怪しさが露見され、日本を不安に陥れた。日本は邦人保護を名目に朝鮮半島に出兵し、朝鮮に独立国かの再確認を行い、日本は朝鮮の自主独立のために五カ条の改革案を朝鮮に提案した。改革案は受け入れられ、甲午改革が行われた。また、反乱終了後も、改革勢力による駐兵要求があるとして、日本軍は駐留を続けた。 しかし、清国も軍の駐留を続行し、1894年(明治27年)日清戦争が勃発することとなった。日清戦争で勝利した大日本帝国は、清国との間に下関条約を締結した。大日本帝国が朝鮮での独占的利権を得るために清国と朝鮮との宗属関係の排除が必要であり、下関条約によって朝鮮が自主独立国であることを認めさせることにより、大日本帝国の権益の障害となる清国の朝鮮半島における影響力を排除することに成功した。

No.13 14/03/09 17:23
名無し0 

>> 11 私が聞いたのは、本名『金』でした。 ただ、クリーニング店経営の方は合ってます。 通行人1さんの見た(金)の名前こそが真実だと言えます。

京都府警は9日、京都市右京区太秦一ノ井町、無職安東泰和容疑者(61)を殺人未遂容疑で緊急逮捕し、発表した。

ニュース・報道・新聞では、真実は湾曲されますから。

犯人は、名を逸話ら無ければ成らない在日と見なすしか無いですね。

  • << 27 ニュースを聞きました。 在日韓国人の金○○って言ってましたね。

No.14 14/03/09 17:28
名無し0 

>> 12 開国後から日清戦争まで 大日本帝国による朝鮮開国後に甲申事変が起きるなど、李氏朝鮮の内部からも改革の要求は出ていたが、実権を掌握していた興… 朝鮮半島を挟んで日清両国の関係が緊張するなか、李氏朝鮮内部においても悪政と外圧の排除を唱えた東学党による農民反乱・甲午農民戦争が起きた。朝鮮は自力での解決ができずに清に救援を依頼し、清は朝鮮を属領と称し派兵を行った。この事により、朝鮮の独立の怪しさが露見され、日本を不安に陥れた。日本は邦人保護を名目に朝鮮半島に出兵し、朝鮮に独立国かの再確認を行い、日本は朝鮮の自主独立のために五カ条の改革案を朝鮮に提案した。改革案は受け入れられ、甲午改革が行われた。また、反乱終了後も、改革勢力による駐兵要求があるとして、日本軍は駐留を続けた。

しかし、清国も軍の駐留を続行し、1894年(明治27年)日清戦争が勃発することとなった。日清戦争で勝利した大日本帝国は、清国との間に下関条約を締結した。大日本帝国が朝鮮での独占的利権を得るために清国と朝鮮との宗属関係の排除が必要であり、下関条約によって朝鮮が自主独立国であることを認めさせることにより、大日本帝国の権益の障害となる清国の朝鮮半島における影響力を排除することに成功した。

No.15 14/03/09 17:29
名無し0 

>> 14 三国干渉後と大韓帝国の成立

日清戦争直後の朝鮮半島では、大日本帝国を後ろ盾とする改革派の勢いが強まったものの、その後大日本帝国が西欧列強による三国干渉に屈服したことで、朝鮮王室は列強同士の牽制による独立維持を目指し、帝政ロシアに接近した。そのため、政争が過激化した。閔妃暗殺もこの時期である。1896年(明治29年)に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館において1年あまり政務を執う異常事態となった(露館播遷)。この事態は、朝鮮が帝政ロシアの保護国と見なされる危険性もあったことや、朝鮮の自主独立を目的とする民間団体である独立協会からの還宮要請に応えるため、高宗は1897年(明治30年)2月に慶福宮に還宮し、皇帝が主権を取る清国や大日本帝国、帝政ロシアに対抗するため、高宗は1897年(明治30年)10月に皇帝に即位し、国号を朝鮮国(李氏朝鮮は通称)から大韓帝国と改めた。

No.16 14/03/09 17:30
名無し0 

>> 15 光武改革

高宗は皇帝専制による近代化を志向し、「光武改革」とよばれる上からの改革を行おうとした。1898年(明治31年)、「光武量田事業」とよばれる土地調査・改革が行われ、日露戦争によって中止に追い込まれるまで土地登録者に地券に相当する「地契」を発行するなど土地所有権保護と国家による近代的地税賦課を可能にする土地改革が朝鮮国(大韓帝国)全土の3分の2にあたる218郡で実施された。1899年(明治32年)8月には「大韓帝国国制」を制定し、皇帝による絶対主義君主支配を明確にした。しかし、皇帝専制は市民的改革路線を排除するものであり、独立協会や進歩会(のちの一進会)など改革派の排除・弾圧が行われ、近代化に向けた国論の統一が奏功しなかったことや、国外からの干渉などから、大韓帝国が独自に近代化を進めることは困難だった。日露戦争により帝国主義列国の相互牽制による独立維持という朝鮮国(大韓帝国)の外交方針は崩れ、大日本帝国による朝鮮国(大韓帝国)の保護国化が強行され、光武改革は潰えた。

イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。

No.17 14/03/09 17:32
名無し0 

>> 16 朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。
—イザベラ・バード, 『朝鮮紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、1998年、pp.343 f

No.18 14/03/09 17:34
名無し0 

>> 17 偽白銅貨の流通
大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通した。大韓帝国において秘密の勅許を暴露することは重罪となるため、民間人が白銅貨鑄造の勅命許可証の真偽を判断することは難しかったが、日本公使館は内密な手段によってこの真偽を確かめることができた。 兪吉濬によれば、仁川監理の河相驥が白銅貨偽造に手を染めていたとされる。

1904年に典圜局は廃止され、硬貨は大阪造幣局で鋳造されることとなった。

併合まで

ハーグ密使事件以降の大日本帝国国内では、「朝鮮を自国領土に組み込み朝鮮人を皇民とせしは皇国民の質の劣化である」という見地により、反対の意見も根強かった。併合時に必要となる莫大な資金の負担についても政財界より併合反対の意見があった。
反対に、軍部出身者を中心とした中国への膨張政策のため、日韓併合賛成派もあり、「我が国上下輿論沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併呑を論じ、合邦を説くこと盛んなり」という記事にされるなど、国論は併合賛成・反対に二分されていたが、1909年7月6日の閣議で併合方針は明確となった(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 )。朝鮮統監であった伊藤博文の暗殺で、親日派と早期併合に向かった。

伊藤博文については、現在も日韓双方で解釈が異なっている。

  • << 21 日本での解釈 伊藤博文は、国際協調重視派の軍部としばしば激しく対立した。また、韓国併合については、保護国化による一時的(実質)な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていたとされるが、1909年7月6日の併合方針の閣議決定を否定した形跡は無い。近年発見された伊藤のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて伊藤博文研究の第一人者とされる京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている。統監として朝鮮の権限剥奪や軍隊解散、皇帝の退位などに関与で抗日独立派から敵視される立場だった。死の間際には、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれている。

No.19 14/03/09 17:37
名無し0 

>> 18 *ハーグ密使事件
ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)は、1907年(明治40年)に大韓帝国がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権回復を訴えようとするも国際社会の列強から会議への参加を拒絶され、目的を達成することができなかった事件。韓国では「ハーグ特使事件」。
*経緯編集
大日本帝国は、1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約)によって大韓帝国の外交権を接収した。皇帝高宗は密使外交を展開することで大日本帝国からの支配を打破しようと試みていた。李容泰(韓国語版)、沈相薫、金嘉鎮ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人ベッセルやアメリカ人ホーマー・B・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均(韓国語版)、李範晋(韓国語版)らと連絡を取り合い、1907年6月、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第二次日韓協約の無効)を訴えようとした。密使として派遣されたのは李相卨(韓国語版)(元議政府参賛)、李儁(韓国語版)(前平理院(韓国語版)検事)と李瑋鍾(韓国語版)(前駐露公使館二等書記官、前駐露公使李範晋の次男)の三人である。

No.20 14/03/09 17:38
名無し0 

>> 19 ハーグに到着した彼らは、デ・ヨング (De Jong) ホテル[1]に投宿し、公然と活動を始めた。しかし会議に出席していた列強は大韓帝国の外交権が大日本帝国にあること、大韓帝国の利益は条約によって大日本帝国政府が代表していることなどを理由に三人の密使の会議出席を拒絶した。出席を拒まれた密使らはやむなく抗議行動として現地でビラ撒きや講演会を行った。

大日本帝国は万国平和会議の首席代表として派遣されていた都筑馨六特命全権大使がこの事件に対応した。また大阪毎日新聞から派遣されていた高石真五郎は連日、特派員電として現地の情勢を伝えた。この時、高石は日本人としてただ一人、密使と面会している。

密使らは具体的な成果を得ることはできなかった。そして、密使の一人である李儁は7月14日にハーグにて客死した。

No.21 14/03/09 17:41
名無し0 

>> 18 偽白銅貨の流通 大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通した。大韓帝国において秘密の勅許を暴露することは重罪となるため、民間人… 日本での解釈

伊藤博文は、国際協調重視派の軍部としばしば激しく対立した。また、韓国併合については、保護国化による一時的(実質)な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていたとされるが、1909年7月6日の併合方針の閣議決定を否定した形跡は無い。近年発見された伊藤のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて伊藤博文研究の第一人者とされる京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている。統監として朝鮮の権限剥奪や軍隊解散、皇帝の退位などに関与で抗日独立派から敵視される立場だった。死の間際には、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれている。

No.22 14/03/09 17:42
名無し0 

>> 21 韓国での解釈

近年の韓国では、伊藤博文を殺害した安重根をテロリストではなく、祖国の英雄として解釈している。そのため、伊藤が併合反対派であったことや、安重根がテロリストと呼ばれた当時の朝鮮や日本側の見識とは異なった認識がなされている。

No.23 14/03/09 17:43
名無し0 

>> 22 韓国では、「伊藤博文は対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから「併合は時期尚早である」として反対していたが、1909年(明治42年)4月に桂太郎首相と小村寿太郎外相が伊藤に「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」を行ったところ、「(伊藤)公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した。伊藤博文は2週間後に東京で行った演説でも、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせんとす」と併合を容認する発言をして聴衆を驚かせた。伊藤暗殺時には、大日本帝国政府内において朝鮮併合に反対する政治勢力は存在しなかった。」としている。

No.24 14/03/09 17:45
名無し0 

>> 23 ロシアの南下と日露戦争

大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州に権益を得た帝政ロシアが南下政策を取りつつあった。当初、大日本帝国側は外交努力で衝突を避けようとしたが、帝政ロシアとの関係は朝鮮半島や満州の利権をどちらが手に入れられるかで対立した。大日本帝国とロシアは満韓交換論などめぐり交渉を続けたが、両国の緊張は頂点に達した。1904年(明治37年)には日露戦争の開戦にいたる。

大日本帝国政府は開戦直後、朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、中立を宣言していた大韓帝国に軍による威圧をかけた上で、1904年(明治37年)2月23日に日韓議定書を締結させた。また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本側への協力を惜しまなかった。8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦して、大韓帝国政府内への影響力を強めたり、閔妃によって帝政ロシアに売り払われた関税権を買い戻すなどして、大日本帝国による保護国化を進めていった。

No.25 14/03/09 17:47
名無し0 

>> 24 桂・タフト協定

日本は日本海海戦での勝利を経て、ロシア軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた1905年7月29日、アメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官が来日し、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。

日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
アメリカは、日本の韓国における指導的地位を認める。

No.26 14/03/09 17:48
名無し0 

>> 25 会談の中で、桂は、韓国政府が日露戦争の直接の原因であると指摘し、朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。 桂の主張を聞いたタフト特使は、韓国政府が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意し、また彼の意見として、ルーズベルト大統領もこの点に同意するだろうと述べた。この協定は7月31日に電文で確認したセオドア・ルーズベルト大統領によって承認され、8月7日にタフトはマニラから大統領承認との電文を桂に送付した。桂は翌8月8日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスにいた外相小村寿太郎に知らせている。

  • << 28 桂・タフト協定および、第2次日英同盟、日露戦争の結果結ばれたポーツマス条約によってロシアにも韓国に対する優越権を認めさせた結果、事実上、英米露が大韓帝国に対する日本の支配権を認めた結果となった。なお、韓国の歴史家ではこの桂・タフト協定が日本によって韓国が併合された直接の原因であるとするものもいる。

No.27 14/03/09 17:53
名無し0 

>> 13 通行人1さんの見た(金)の名前こそが真実だと言えます。 京都府警は9日、京都市右京区太秦一ノ井町、無職安東泰和容疑者(61)を殺人未遂… ニュースを聞きました。

在日韓国人の金○○って言ってましたね。

No.28 14/03/09 18:10
名無し0 

>> 26 会談の中で、桂は、韓国政府が日露戦争の直接の原因であると指摘し、朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし韓国政… 桂・タフト協定および、第2次日英同盟、日露戦争の結果結ばれたポーツマス条約によってロシアにも韓国に対する優越権を認めさせた結果、事実上、英米露が大韓帝国に対する日本の支配権を認めた結果となった。なお、韓国の歴史家ではこの桂・タフト協定が日本によって韓国が併合された直接の原因であるとするものもいる。

No.29 14/03/09 18:15
名無し0 

>> 28 第二次日韓協約とハーグ密使事件
*先に記述したハーグ密使事件を重複。

英米政府およびロシア政府から朝鮮半島に関する支配権を承認された大日本帝国政府は、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)を大韓帝国と締結する。この協約によって大韓帝国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上、保護国となる。12月には、統監府が設置される。

高宗は「条約締結は強制であり無効である」と抗議をする。一方で、高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする「日省録」や「承政院日記」も残されている。また締結時に学部大臣だった李完用も閣議で『わが国の外交は変幻きわまりなく、その結果日本は2回の大戦争に従事し、多大の犠牲を出して、ようやく今日における韓国の地位を保全したのだから、これ以上わが国の外交が原因で東洋の平和を乱し、再び危地に瀬するような事は、その耐えざる所』とし、日本との協約締結を肯定している。現在の韓国では、李完用を売国奴とみなす見解が多い。

  • << 31 *現在の韓国では、李完用を売国奴とみなす見解が多い。 現在の韓国も昔の韓国と同じである。 元から崩壊してるから今更崩壊なんて 話しも可笑しな話しであるのだが、 日本から在日が居なくなる日こそが 本当の韓国・在日の崩壊になる日だと言えます。
  • << 32 朝鮮併合と大日本帝国統治時代 年表編集 韓国併合に関係する年表 年 出来事 韓国 北朝鮮 1895年(明治28年) 下関条約 閔妃暗殺(乙未事変) 1896年(明治29年) 露館播遷 1897年(明治30年) 大韓帝国に国号変更 1904年(明治37年) 日露戦争開戦 日韓議定書 第一次日韓協約 1905年(明治38年) 日露戦争終結 第二次日韓協約 韓国統監府設置 1907年(明治40年) ハーグ密使事件 純宗即位 第三次日韓協約

No.30 14/03/09 18:18
名無し0 

>> 29 1907年(明治40年)、高宗は第2回万国平和会議に密使を派遣した(ハーグ密使事件)。しかし第二次日韓協約は当時の帝国主義国間で認められた合法な国際協約であったため、この訴えは第2回万国平和会議から不当なものとして拒絶された。この事件に対して、日本から抗議がなされ、高宗はハーグへの密使事件は自分の知らなかったことであると訴えるが、日本との関係を重視する李完用首相や官僚たちの要求により、7月20日には退位することになった。7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。

1909年(明治42年)7月6日、閣議で「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を決定した。

No.31 14/03/09 18:29
名無し0 

>> 29 第二次日韓協約とハーグ密使事件 *先に記述したハーグ密使事件を重複。 英米政府およびロシア政府から朝鮮半島に関する支配権を承認された… *現在の韓国では、李完用を売国奴とみなす見解が多い。

現在の韓国も昔の韓国と同じである。
元から崩壊してるから今更崩壊なんて
話しも可笑しな話しであるのだが、
日本から在日が居なくなる日こそが
本当の韓国・在日の崩壊になる日だと言えます。

No.32 14/03/09 18:57
名無し0 

>> 29 第二次日韓協約とハーグ密使事件 *先に記述したハーグ密使事件を重複。 英米政府およびロシア政府から朝鮮半島に関する支配権を承認された… 朝鮮併合と大日本帝国統治時代

年表編集
韓国併合に関係する年表

年 出来事
韓国 北朝鮮
1895年(明治28年) 下関条約
閔妃暗殺(乙未事変)
1896年(明治29年) 露館播遷
1897年(明治30年) 大韓帝国に国号変更
1904年(明治37年) 日露戦争開戦
日韓議定書
第一次日韓協約
1905年(明治38年) 日露戦争終結
第二次日韓協約
韓国統監府設置
1907年(明治40年) ハーグ密使事件
純宗即位
第三次日韓協約

No.33 14/03/09 19:01
名無し0 

>> 32 1909年(明治42年) 適当の時期に韓国併合を断行する方針を閣議決定
伊藤博文暗殺
1910年(明治43年) 韓国併合
1945年(昭和20年) 分割占領、朝鮮総督府解体
北緯38度線以南 アメリカ合衆国が占領 北緯38度線以北 ソビエト連邦が占領
1948年(昭和23年) 大韓民国建国 朝鮮民主主義人民共和国建国
1952年(昭和27年) サンフランシスコ平和条約発効
日本、朝鮮に対する権利、権原及び請求権を放棄
1965年(昭和40年) 日韓基本条約調印 発効
日本は大韓民国を全朝鮮の正統政府として承認
*李朝時代の西大門
*条約無効を訴える高宗の親書
*統監府に向かう伊藤博文

No.34 14/03/09 19:03
名無し0 

>> 33 呼称について編集
日本国における呼称
大日本帝国による朝鮮半島統治時代を日本側は主に日韓併合、または韓国併合や日本統治時代などと呼んでいる。これらも含め、自由に各メディア毎に呼称されている。

大韓民国における呼称
大日本帝国による朝鮮半島統治時代を韓国側は日帝強占期(近年韓国の公共放送・KBSはこの呼称に統一しようとしている)や日帝時代、または日政時代や韓日併合や庚戌国恥などと呼んでいる。前者2つは、大日本帝国による大韓帝国併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する大日本帝国の支配は単なる軍事占領であったとの主張による。また併合の実態は植民地であったとの認識から日本植民地時代という呼称も用いている。

No.35 14/03/09 19:05
名無し0 

>> 34 *「植民地」という呼称が使われることについて
植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学においても社会科学の講学上の概念にすぎない。

ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され、「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」ことが事実上の慣例となっていた。

No.36 14/03/09 19:07
名無し0 

>> 35 (1905年(明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。

—小熊英二, 『〈日本人〉の境界 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』新曜社、1998年7月、第5章、pp.142 f ISBN 4-7885-0648-3

No.37 14/03/09 19:09
名無し0 

>> 36 我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺 太等地名を呼ぶ。但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。

—矢内原忠雄, 『植民及植民政策』有斐閣、1926年、pp. 17-25[20]
なお、実際にはいくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在していたことが指摘されている。

No.38 14/03/09 19:10
名無し0 

>> 37 1898年(明治31年)勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている。
1932年(昭和7年)9月3日に天皇が公布した「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている。
1930年(昭和5年)条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている。
また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば1923年(大正12年)刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。

No.39 14/03/09 19:11
名無し0 

>> 38 また、上記のような語義的な観点ではなく、実質においても「植民地」ではなかったとする主張は日本の保守系の論壇誌などでしばしば論じられる。欧米による先行のモデルとの差異を論じるべく「日本型」植民地支配がどのようなものであったかについては継続して論争が続いている。のみならず「大日本帝国の統治政策は同時代に欧米諸国の行った異民族統治とは異質で、善政である」「植民地という言葉は諸外国が異民族統治に対して行った悪政に使われる言葉である」という認識から、双方を植民地という言葉で同一に形容することへ批判する見方もある。この立場からは、日本の朝鮮支配について「植民地」という表現を用いるべきではないという主張がなされることがある。

No.40 14/03/09 19:12
名無し0 

>> 39 帝国議会審議では、朝鮮は日本の植民地であったとする表現が使われている。1918年(大正7年)3月12日の帝国議会に於いて、牧山耕蔵衆院議員は「殖民地統治に関する質問主意書」を説明するなかで、朝鮮・台湾・樺太に言及し政府に質問を行った。戦後の例としては1945年(昭和20年)勅令第五百四十二号(ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件)(承諾を求むる件)委員会に於いて、中谷武世理事はポツダム宣言の条件説明において、「第八條の「カイロ」宣言の實行、即ち朝鮮臺灣等の從來の日本の植民地を失ふこと、」と、「植民地」の用語を使用した。

No.41 14/03/09 19:13
名無し0 

>> 40 国会審議では、朝鮮はかつて日本の植民地であったとする表現が使われている。たとえば、1947年(昭和22年)11月20日参議院通信委員会で、深水六郎君委員長は、「朝鮮、台湾、樺太等の旧植民地」と、「旧植民地」の用語を使用した。

2010年(平成22年)7月7日、仙谷由人官房長官は「個人補償問題で改めて決着が必要」「日本は併合によって朝鮮人民から言葉や文化を奪ったが、それは植民地支配だった」と述べ、韓国併合について「植民地支配」の用語を使用した。

No.42 14/03/09 19:14
名無し0 

>> 41 実際の使用事例
大日本帝国政府は朝鮮に対し、法的に特別な呼称(植民地、外地など)を用いなかったが、公文書においては植民地、外地とも使用例が見られる。一例として1923年(大正12年)、拓殖省事務局は『殖民地便欄』を刊行したが、このなかには「我ガ殖民地ト称セラルル朝鮮・台湾・樺太・関東州及ビ南洋群島」と記載されている。

No.43 14/03/09 19:15
名無し0 

>> 42 戦前から在野の学者や思想家の間では、朝鮮が植民地であるか否かについてはすでに議論があり、憲法学者の美濃部達吉など社会科学系の研究者はおおむね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や革命家の北一輝などは植民地ではないとしていた。戦後においては、外務省条約局による「内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域」という外地の定義を援用し、領域としての朝鮮地域において大日本帝国憲法の適用に保留があったこと、日本内地とは異なる法体系(朝鮮総督府令等)が適用される点、また朝鮮籍(大日本帝国)臣民の権利に国籍条項など制限があったことをもって、植民地であったとする主張がある。

No.44 14/03/09 19:16
名無し0 

>> 43 小渕内閣時に出された日韓共同宣言においては、村山内閣時の「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(村山談話)を踏襲し、過去の日本の朝鮮統治について、「植民地支配」という表記を用いている(日本の戦争謝罪発言一覧も参照)。また、国交のない北朝鮮との間で出された日朝平壌宣言においても同様に「植民地支配」表記が用いられるなど、現在の日本政府の公式見解となっていると理解するのが一般的である。これに対して(終戦記念日の村山談話、及びそれを踏襲した政府見解における)「植民地支配」とは、朝鮮統治そのものについて言ったのではなく、戦争行為にもとづく満州政策などについて言ったもので、満州を植民地にするための拠点として朝鮮半島を利用した、という意味との解釈もある。

No.45 14/03/09 19:18
名無し0 

>> 44 評価と争点編集
日本側では、韓国併合を否定的に見る見方と、併合が朝鮮半島の近代化に寄与したと肯定的に評価する見方とがあり、対立している。韓国側では、一般的に韓国併合を否定的に見る見方が多数であり、また日本による統治を肯定する言論は徹底的に弾圧され、社会的に容認されない。逮捕・投獄に至るケースさえある。

争点と評価(歴史認識)の相違については下記節「歴史認識の比較表」を参照。 韓国における肯定的な見方については、下記節「大韓民国における大日本帝国統治時代の評価」を参照。

No.46 14/03/09 19:20
名無し0 

>> 45 大韓民国における大日本帝国統治時代の評価


独立後の韓国の歴史学者は、大日本帝国による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった(下記節「歴史認識の比較表」を参照)。また、韓国国内で韓国併合を肯定的に評価するなど、「民族史観」と矛盾する内容を発言すると、親日派として痛烈な批判をしばしば受け、社会的制裁を受ける事例もある。そうした韓国の言論の状況について、国際新聞編集者協会は韓国を「言論弾圧国」として批判しており、2002年にはロシア、ベネズエラ、スリランカ、ジンバブエとともに「言論監視対象国」に指定した。

しかし1990年代から2000年代にかけて、「民族史観」を誇張が多いとして批判したり、「民族史観」とは異なる見解が韓国内からも提示されるようになっている。本節では、下記節「歴史認識の比較表」に入らない、韓国における肯定的見解(ないしは「植民地史観」「民族史観」への批判的見解)を記述する。

No.47 14/03/09 19:21
名無し0 

>> 46 金完燮は、当時の朝鮮は腐敗した李朝により混乱の極みにあった非常に貧しい国であり、日本が野望を持って進出するような富も文化もなかった、とする。彼によれば近代日本の歩みは列強、特に当時極東へ進出しつつあったロシアとの長きにわたる戦いであり、日清戦争から日露戦争そして韓国併合に至る一連の出来事は全て日本の独立を守るための行為であった。当初日本は、福沢諭吉の門下生の金玉均を始めとする日本で文明に触れた朝鮮人を通して、朝鮮が清から独立し近代国家となって日本にとっての同盟国となることを望んだ。しかしながら朝鮮人自身の手で朝鮮を改革しようとする試みは頓挫し、福沢諭吉が脱亜論を著したように方針を転換。日本自らの元で清、そしてロシアから朝鮮半島を守り、朝鮮を近代化する道を選んだ。その後日本は朝鮮を「日本化」することによって教養ある日本人を増大させることによる国力の増加を目指し、積極的にインフラへ投資した。朝鮮が自分たちで独立を保ち、近代化を成し遂げることが出来れば併合されることもなかったであろうし、日本によるこれらの植民地政策がなければ近代化することもなかったであろう、として韓国における歴史教育を批判している。これらの言動・著作から彼は親日派とされ、苛烈な弾圧を受けている。

No.48 14/03/09 19:25
名無し0 

>> 47 ソウル大学教授の李栄薫は、大日本帝国の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論を提示するが、韓国国内では少数派である。彼もまた親日派とされ糾弾されている。
崔基鎬も、李氏朝鮮の末期には、親露派と親清派が内部抗争を続ける膠着状態にあり、清とロシアに勝利した日本の支配は歴史の必然であり、さらに日韓併合による半島の近代化は韓民族にとって大いなる善であったとしている。

崔基鎬も、李氏朝鮮の末期には、親露派と親清派が内部抗争を続ける膠着状態にあり、清とロシアに勝利した日本の支配は歴史の必然であり、さらに日韓併合による半島の近代化は韓民族にとって大いなる善であったとしている。
元韓国空軍大佐の崔三然も、「アフリカなどは植民地時代が終わっても貧困からなかなか抜け出せない状態です。では植民地から近代的な経済発展を遂げたのはどこですか。韓国と台湾ですよ。ともに日本の植民地だった所です。他に香港とシンガポールがありますが、ここは英国のいわば天領でした」「戦前、鉄道、水道、電気などの設備は日本国内と大差なかった。これは諸外国の植民地経営と非常に違うところです。諸外国は植民地からは一方的に搾取するだけでした。日本は国内の税金を植民地のインフラ整備に投入したのです。だから住民の生活水準にも本土とそれほどの差がありませんでした」と証言し、肯定的に併合時代を評価した上で日本政府の行動を批判している。

No.49 14/03/09 19:27
名無し0 

>> 48 当時の併合時代に育ち、のちカナダに移住した朴贊雄(パク・チャンウン)は2010年に発表した著書で「前途に希望が持てる時代だった」「韓国史のなかで、これほど落ち着いた時代がかつてあっただろうか」として、統治時代の肯定的側面を公正に見ることが真の日韓親善に繋がると主張している。
2004年に東亜日報社長の権五琦(クォン・オギ)は、新しい歴史教科書をつくる会による教科書について、特に反発を感じないとしながら、「韓国でも併合に一部のものが賛成していた」という同教科書の記述について「『韓国人はみんな日本に抵抗した』と自慢したいのが韓国人の心情かもしれないが、本当はそうでないんだから、韓国人こそがこの教科書から学ぶべきだ」「どの程度の『一部』だったか知ることは、何もなかったと信じているより韓国人のためになる」と発言している。

No.50 14/03/09 19:28
名無し0 

>> 49 漢陽大学名誉教授で日露戦争や韓国併合についての著書もある歴史学者崔文衡(チェ・ムンヒョン)は、左派寄り教科書とされる金星出版社『高等学校韓国近現代史教科書』における「日帝が韓国を完全に併合するまで5年もかかったのは義兵抗争のため」といった記述に関して、事実とは異なるとしたうえで、ロシアが米国と協力し満州から日本の勢力を追い出そうとする露米による対日牽制などの折衝を日本が克服するために併合に時間がかかったのだとした。また、「代案教科書」における安重根による伊藤博文狙撃が併合論を早めたとする記述についても、併合は1909年7月6日の閣議で確定しており、安の狙撃で併合論が左右されたのではないと指摘したうえで、双方の教科書に代表されるような、当時の世界情勢や国際関係を看過する史観について「自分たちの歴史の主体的力量を強調する余り、国際情勢を無視し、 歴史的事実のつじつまを合わせようとしている」と批判し、世界史において韓国史を理解しようとしない教育は「鎖国化教育」であるとした。

  • << 51 高麗大学名誉教授(当時)の政治学者韓昇助は2005年に日本の雑誌『正論』に、日本による韓国併合はロシアによる支配に比べて「不幸中の幸い」であったとし、また大日本帝国による諸政策で朝鮮半島の近代化が進展したと肯定的に評価する論文を発表した。しかしこの論文が韓国国内で問題視され、その結果、韓昇助は謝罪したうえで名誉教授職を辞任することとなった。
投稿順
新着順
主のみ
付箋
このスレに返信する

何でも雑談!掲示板のスレ一覧

何でも雑談掲示板。みんなで楽しくまったり語り🗯合おう❗ 暇つぶしにもぴったり。いつでもどこでも投稿や閲覧が可能です。

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧