罪の子と優しいだけの天使
孤独なアンチヒロインとヘタレなヒーローの悲恋物語。
「なぜ、死ねなかったんだろう……」
「死から拒絶されて、でも生きることもできない。愚かなやつ」
「君は……可哀想だ」
ひとりでいきるなんていやだよ
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寒い……
千歳(ちとせ)は薄汚れたジャケットを固く掴んだ。
刺青が施された剥き出しの足首は感覚が無くなり、指先は悴み、あかぎれて血が滲んでいた。
今夜は冷える。
一体何人が、何十人が、この夜凍え死ぬだろう。
この街は政府の管理が行き届いていないスラム街で、それゆえ衛星状態や治安は最悪で、殺しや喧嘩は日常茶飯事で、餓えや寒さで死んでゆく人々も数多くいる。
千歳は手に息を吹きかけた。
聖ニコラオという、今のサンタクロースのモデルになった親父は、貧しい靴職人の三人娘が売春をしなくていいように金を靴の中に入れたそうだ。
幼い頃、誰かの膝の上でその話を聞いた。
その親父は偉大な人だと思った。
祈ることなんてとっくに忘れたと、千歳は自嘲するように笑う。
少し前までは――時間的には少しの時なのだろうが、随分前のように感じる――千歳は神に毎日のように祈っていた。
いつか幸せになれますようにと。
もう、祈るのはやめた。
きっと、いや、絶対に、神なんていない。
幼い頃は喜んで唱えた祈りも、今となって見れば馬鹿馬鹿しい。
千歳は廃墟となったビルとビルの間の狭い通路を歩いて、突き当たりのすぐ下にあるマンホールのような蓋の鍵穴に鍵をさした。
マンホールを外してその中に入り、再び中からマンホールを戻して穴を塞ぎ、中から鍵をかける。
下に続く階段を下り、目の前のドアを開ける。
ここが千歳の住処だ。
シャワーだけの風呂場、洗面所、トイレと簡易ベッドだけの狭い部屋。
千歳は服を脱ぎ捨て、シャワー室に入った。
千歳は情報屋だ。
暴力だの殺しだのが絶えないこの街で、情報屋は重宝される。
自分が食べていけるくらいの金額は稼げているのだ。
千歳は足首に蠍の刺青をし、左耳に2つ、右耳、下唇、舌に1つずつピアスを刺している。
情報屋として、相手に自分が弱くないことを示す、そのためだ。
千歳はシャワー室から出るとTシャツとジャージに着替え、革の袋に入ったナイフを取り出した。
刃にこびりついた血を拭い、研ぐ。
シャ、シャ、と刃と石がこすれる音が部屋にこだまする。
研ぎ終わって、千歳は刃を蝋燭の光に透かした。
研ぎ澄まされた刃が光を反射し、千歳は唇を歪め冷笑を浮かべる。
そして蝋燭の火を吹き消し、ベッドに入った。
翌日、早朝。
千歳は洗顔を済ませ、服を着替えた。
お世辞にも大きいとは言えない胸にサラシをきつく巻き付け胸が全く目立たないようにし、昨日着ていた紺色の長袖シャツを着てジーンズを履き、黒革のジャケットを羽織る。
ジャケットの左右のポケットに昨日研いだナイフと銃を入れ、スニーカーを履いて部屋を出た。
そのまま街を歩いてゆく。
道の両脇には様々な店が建ち並び、人相の悪い人々や乞食がうろついている。
路地では男たちが酒を飲み、賭事をし、女たちは半裸のような服を着て男をさそう。
17歳の少女である千歳は男装をしている。
女と判れば、情報屋の仕事はままならなくなるからだ。
だが普段から体を鍛えているため、胸を隠し、分厚いジャケットを着れば、少し細いが男として通用する。
ふと、路地の女が千歳の手を引いた。
「お兄さん、あなた細いけどいい体してんじゃない?一緒に遊ぼうよ」
「そんな暇はない」
千歳は腕を振り払った。
「そんなこと言わないで、安くしとくよ」
ブロンドの髪にやたらと露出度が高く華美な赤いワンピースの女は、なおも手を引いてくる。
「離せ」
千歳は女の方に背けていた顔を向けた。
女が口笛をふく。
「まあ、美人ね」
千歳は何も言わずに立ち去ろうとした。
「逃げる気?」
若干苛々した女がぐいっと肩を掴んでくる。
「どけ」
千歳は女の手を振り払った。
「きゃあっ」
バランスを崩した女が尻餅をつく。
「何すんのよ!脚に傷がついたじゃない!!」
千歳は身を翻しその場から逃げ出した。
娼婦は大抵、やくざなどの下で働いている。
身よりもなく、体を売ることでしか生きられない女たちをやくざのグループが金を渡し女の命を保障するかわり、女たちは体を売って得た金額の一部をグループに渡す。
女の体に傷がつけば、得られる金額も当然少なくなるため、傷をつけた者はグループに半殺しにされる。
千歳の場合半殺しにされて犯された上、もしかしたら強制的に売春させられることになるかもしれない。
絶対に嫌だ。見知らぬ男達に体を触られるくらいなら、死んだほうがましだ。
千歳は暫く歩き、路地裏の酒場に入った。
酒場のあちこちに座り、賭事や飲酒をしていた男達が一斉に千歳を見て、また直ぐ振り返って賭事を始める。
千歳は真っ直ぐに、酒を呑んでいたメッシュ染めの鋭い目をした青年のもとへ行く。
「榊」
千歳は青年、榊(さかき)に声をかけた。
「千歳」
榊が振り向く。
榊は千歳の取り引き相手だ。
先週の依頼」
千歳は紙切れを榊に手渡す。
榊は紙切れを眺め、それをポケットにしまった。
「50ドル寄越しな」
千歳が言うと、榊は紙幣を指の間に挟んで渡す。
「もう一つ依頼がある」
榊は千歳に一枚の写真を見せた。一人の男が映っている。
「この男を殺してこい」
「ああ」
「この男におれの部下が殺された。この男とその仲間達はチンピラ達の集まりで、よく恐喝や暴力、殺しをやってる」
千歳は頷いた。
「気をつけろよ。捕まったら最期だぞ。心配してる訳じゃないが、お前に死なれたら周りに情報屋がいなくなるからな」
「幾らで?」
「弾むさ。前金100ドル、後金250ドル」
千歳は榊から渡された100ドル札をバッグにしまう。
「確かに受け取った」
「三日以内に行ってこい」
「ああ」
千歳は踵を返した。
その背中に向かって榊が言う。
「本当にお前は必要以上に何も喋らないな」
千歳はそれには答えなかった。振り返りもしなかった。
「ま、何時ものことだけどな」
後に残された榊は、ふと溜め息をついた。
「ほんとに、何も変わっちゃいない……」
榊は千歳が初めてこの酒場に来た時の事を思い出した。榊はその時二十歳で、最近酒場を仕切るようになったばかりだった。
まだ十歳の癖にアルコール度数が高い安物のウィスキーを呑んでいたガキ。まだ小さくて幼いのに、その黒の双眸は、既に地獄をみたように暗かった。
案の定、チンピラに絡まれる。
一言二言、彼らが千歳に怒鳴り、答えもしない千歳は床に引きずり下ろされた。
この街の人間は、相手が子供だろうと容赦しない。憂さ晴らしのためなら、赤子も殺せるから。
千歳は全く抵抗しない。
――止めろ、もう死んじまう
榊は手を振ってチンピラを止める。
そして千歳に話しかけた。
――バカだなお前。死ぬぞ
――死ぬのなんて怖くない!!
その時千歳は叫んだ。
榊は、その冷えきった双眸に宿る狂気と底無しの闇に震えを覚えた。
そして榊は、千歳を使うことを決めたのだ。
あれから十年、千歳は狂気と闇だけ残して成長し、それに反比例して口数が減っていった。
千歳には親はいない。それは知っているが、それだけだ。千歳のことはそれしか知らないし、興味はあるが、今の関係から近づくことを、榊は恐れていた。
「茜くん、茜くん、起きて」
茜は控えめに肩を叩く母、柚希(ゆずき)の声で目を覚ました。
「おはよう、茜くん」
「おはようございます、お母さん」
清潔に洗われた毛布をたたみながら起き上がる。
母は白色が好きで、ベットカバーから勉強机、壁紙、絨毯に至るまで、殆ど全ての家具が微妙にトーンが異なる白色で統一されている。
茜も白色は好きだが、何故かこの部屋に息苦しさを感じてしまうのは、茜が第17代のエデン王国国王になる人間だからだろうか。
不思議なものだ。
ただ父さんと母さんの間に生まれただけだというのに、将来は生まれた時から決まっているから。
――この時までは、そう思っていた。
寝巻を脱いで茜が通っている名門高校の制服に着替え、食事を取り、執事に学校まで送られる。
毎日の朝の出来事が、今日で終わりになることに、茜はまだ気づいていなかった。
「茜さま、私は車を持って参りますので、少々お待ち下さいね」
「うん」
茜は置いてあった椅子に腰掛けた。
「…… …………」
茜が座っている椅子の隣にあるドアの中から、話し声が聞こえる。
「何だろう」
茜は不審に思ってドアに耳を近づけた。
「……そこなら……うってつけ……」
「これで私は……」
一人は父であるエデン王国国王、笹玉(ささぎ)の声。
もう一人は誰だか、見当がつかない。
何だろう、政治の事なら、もっと沢山の人数を集めて話すのに。
茜は首を捻った。
「お待たせしました、茜さま」
「今行くよ」
執事の声に振り返り、庭に止めてあった車に乗り込む。
父さんは何を話していたんだろう。
大丈夫だ。
自分に言い聞かせる。
父さんのことだ、ぼくが気に病む必要はない。
その日の午後、学校からの帰り道。
茜は普段、執事に迎えにきて貰っていた。
今日は遅い。
茜は一人校門の前で執事を待っていた。
茜は別に成績が並外れて良い訳ではなく、容姿にも性格も取り立てて目立ったところはない。
それなのに、「エデン王国王太子」というレッテルのために、生徒には敬遠されていた。
廊下ですれ違う全ての生徒からは恭しい挨拶をされる。隠れて自分に賄賂を渡し、「御父様に宜しくお伝え下さい」と言う大臣の息子。
自分ではどうすることもできないのに、ただ茜は毎日に疲れていた。
心のどこかで、全て無くなってしまえば良いとさえ、思っていたのだ。
「茜さま、お待たせ致しました」
「だ……誰ですか?」
現れたのは中年の男性。
「執事代理の馬羅(まら)でございます。お迎えにあがりました」
そう言って恭しく礼をする馬羅の車の後部座席に、茜は乗り込んだ。
「怪しい者ではありませんよ、」
と、馬羅はアクセルをふかしながら言った。
「王太子さまを誘拐しようなんて酔狂な真似は致しません」
「う……うん……」
馬羅の目の奥、猜疑的な光が宿っていた。
「茜さま、もうすぐですよ」
「え?」
馬羅が車を止める。茜は窓の外を眺めた。まだ家……王宮には着かないはずだ。
「……地獄の入り口はね」
馬羅は運転席から身を乗り出して、茜の口にハンカチを押し当てた。
「ーーっ!!」
茜はしばらくもがいていたが、すぐに動かなくなった。
「はは……悪かったな、王子様あ……」
馬羅は口調をがらりと変えて呟いた。
そして力なく倒れ込んでいる茜の耳朶を摘む。
「この耳がある限り、棄てなきゃならない」
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