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2016/06/05 10:01(更新日時)

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忘れないように📓

No.1699028 (スレ作成日時)

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No.51

>> 50 現代語訳 
但し現代語(口語)訳では、原文の持つ深い含蓄が伝わりません。初学者は現代語訳を読了して教育勅語の大意を掴んだ後は、是非とも原文を音読されることをお勧めします

私(明治天皇)が思うに我が皇室の御先祖様が国をお始めになったのは、遥か昔のことであり、その恩徳は深く厚いものです。
我が臣民は忠と孝を守り、万人が心を一つにしてこれまでその美をなしてきましたが、これこそ我が国の最も優れたところであり、教育の根本も実にこの点にあります。
あなたたち臣民は父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友人は信じ合い、人には恭しく、自分は慎ましくして、広く人々を愛し、学問を修め、仕事を習い、知能を伸ばし、徳行・能力を磨き、進んで公共の利益に奉仕し、世の中のために尽くし、常に憲法を重んじ、法律を守り、もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けるようにしなければなりません。
このようなことは、ただあなたたちが私の忠実で良い臣民であるだけではなく、あなたたちの祖先の昔から伝わる伝統を表すものでもあります。
このような道は実に我が皇室の御先祖様がおのこしになった教訓であり、子孫臣民が共に守らなければならないもので、今も昔も変わらず、国内だけではなく外国においても理に逆らうことはありません。
私はあなたたち臣民と共に心に銘記して忘れず守りますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを切に願っています。

No.52

>> 51 (1)勅語とは : 詔書との違い
明治40年公布『公式令』(勅令第六号)
「 皇室ノ大事ヲ宣告シ及大権ノ施行ニ関スル勅旨ヲ宣告スル ハ、別段ノ形式ニ依ルモノノ外、 詔書 ヲ以テス」(第一条)
「 文書ニ由リ発スル勅旨ニシテ、宣告セサルモノ ハ、別段ノ形式ニ依ルモノヲ除クノ外、 勅書 ヲ以てテス」(第二条)
※「宣告」の「告」は正しくは「言」ヘンに「告」で、「政府の公式な申し渡し」のこと。
明治憲法(明治22年(1989)公布・翌23年(1890)10月30日施行)下の立憲君主制では、
<1> 国務大臣の副署を添え 、天皇のお名前を冠したご文書に、 公式な法的効力 を持たせたものを 「詔」 と申し上げ、(例:終戦の詔書)
<2> 国務大臣の副署がなく 、御製と同じように 天皇ご自身のご意見・御心を、直接に親しく国民にお示しになられたご文書 を「勅書」「勅語」など 「勅」 を冠して申しあげます。(例:軍人勅諭)
(2)教育勅語煥発の経緯
明治5年(1872)、欧米の教育制度に倣った「学制」を導入
 ※明治初期の教育内容(特に高等教育)については、英米の教科書の直訳を使用したため、「学問は身を立てるの財本(もとで)」とする英米流の功利主義に靡き日本伝統の美風を軽んじる悪弊が生じ、心ある人々の間に道徳教育の在り方について改善を求める動きが沸き起こった。
明治19年(1886)10月29日、明治天皇、帝国大学に行幸
 ※このとき、明治天皇は教育における人格育成、ことに我が国の歴史・伝統・文化軽視の風に関して重大な懸念を、侍講(進講を司る官)元田永孚(のちに教育勅語の文案作成に協力)に示される。

明治21年(1888)、帝国大学文学部史学科に初めて「日本歴史」の講義を設置。翌22年(1889)、帝国大学国史学科を新設
明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法発布。翌23年(1890)11月29日施行
明治23年(1890)2月、地方官会議にて道徳教育の在り方について指針を求める要望が強まり、かねてより教育問題に深い関心を寄せられていた明治天皇の思し召しに即して、「国民誰もが拝読できる道徳教育の根本理念」を「教育勅語」として起草する作業を開始。芳川顕正・中村正直を経て井上毅が大部分を起草し、元田永孚が明治天皇のご意見を挺して文案完成に協力。

No.53

>> 52 明治23年(1890)10月30日、「教育勅語」煥発、内外の高い評価を受ける。

No.54

>> 53 ■戦後の教育界・マスコミによる一方的否定を排す

(1)教育勅語失効への経緯
昭和20年(1945)10月22日、GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を発令
 占領目的に立ち、「日本の教育の民主化・平和主義化のため、あらゆる軍国主義的な極端な国家主義的政策を払拭」することを宣言
昭和21年(1946)春、アメリカから第一次教育使節団が来日
 日本の教育制度について、抜本的な改造のための調査を実施
昭和21年(1946)8月 アメリカ教育使節団の指導を受けて、文部省が日本の教育制度を改変する「教育刷新委員会」を設置
昭和21年(1946)10月8日 文部省より「勅語及詔書等の取扱いについて」を全国の官/公/私立の大学・高等専門学校長、各県都道府県知事宛に通達。通達内容は以下の通り

教育勅語を以て我が国唯一の教育の淵源とはせず、教育勅語と共に広く、古今東西の倫理・哲学・宗教等に教育の基礎を置くこと

式日においては捧読しないこと

勅語の保管・捧読に当たっては、その神格化を避けること
昭和22年(1947)3月31日、教育基本法公布
昭和23年(1948)5月、GHQが国会に「教育勅語の無効を明確化する措置」を要求
 参議院文教委員会委員長(田中耕太郎)などが「日本は(先の文部省通達で)既に教育勅語を教育の基本とする方針を破棄しており、特に無効であると国会で決議する必要はない」として抵抗したが、GHQに押し切られる
昭和23年(1948)6月19日、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」が為される

No.55

>> 54 両院の決議を踏まえて、文部省より「教育勅語等の取扱いについて」を通達。通達内容は以下の通り

両院が国民教育の理念としての「教育勅語」の失効確認を表明したこと

小学校で持っている「教育勅語」の謄本は当局に返還すること
(2)教育勅語の持つ普遍的価値は不易
 以上のように、教育勅語は「日本の教育の指導理念」としての役割を終えましたが、教育勅語の内容は、誰もが良心的に認めることのできる、何時の時代にあっても普遍的な真理性を有していることに変わりは有りません。
 国会決議は、GHQの強要により「教育勅語を指導理念とすること」を否認したのであり、「教育勅語の内容自体を否定」したのではありませんし、まして、これを「(仏典や聖書のような)一般の道徳訓」、あるいは「(聖徳太子の『十七条憲法』、福沢諭吉の『学問ノススメ』のような)歴史的文書」として学校教育で使用することを否定したものでもありません。
 現に教育勅語は、現在でも、地方の素封家や名望ある教育者によって「純然たる道徳訓」として大切にされています。
(3)社会党議員による「教育勅語」攻撃
 昭和58年(1983)に、社会党・本岡昭次議員(参院)が、島根県のある私立校での教育勅語使用を問題視する発言を、当時の文部大臣であった瀬戸山三男氏(自民党)に対して行い、瀬戸山氏が曖昧な回答に終始したため野党・マスコミの攻撃を受ける事件がおきました。
 これも社会党が消滅した今となっては、逆に「教育勅語」の正しさを示すエピソードといえましょう。

No.56

>> 55 (4)教育基本法改正と「教育勅語」の理念復興
 平成18年(2007)12月22日、改正教育基本法を公布・施行。戦後GHQの指導下で制定された旧教育基本法を抜本的に改正
 この頃から、教育勅語の理念復興を求める意見が見受けられるようになり、現在に至る。
■結語 : 教育勅語の理念を今に
 積極的に語りはしませんが、現在70代後半以上の世代は、皆教育勅語を暗唱できるはずです。
 そして、この世代に代表される「道徳性の高さで知られる日本民族」さらに「世界に誇る道義国家・日本」の精神的バックボーンとなってきたのが、教育勅語であり、それゆえに国会での失効決議以降も60年以上に渡って、これを称揚し、守り伝えようとする方々が絶えなかったのであります。
 我々も率先して「教育勅語」の理念・精神を学び、次の世代にきちんと伝えていこうではありませんか。 

No.57

🇯『神国 日本』

ブログ「棚からぼたもち」より転載。

日本は歴史上、世界最古の国家だが、その根拠は一系の天皇家が建国以来、実権はともかく形式的には頂点に君臨し続けてきたことによる。
一系の家系とは、男系継承で続いてきた家系のことで、いわゆる万世一系のことである。
女系天皇などというおかしな概念が生まれたせいで、男系継承などという言葉が生まれたが、一部の例外を除けば、世界共通で家系は父方の血筋を元に記録されている。
遺伝子的にはY染色体の受け渡しで継続される家系のことだが、これは男女差別云々以前に、男女の役割の差に過ぎないと思われる。
日本の歴史上、天皇の地位に成り代わろうとしたり、万世一系を脅かし、天皇による統治を脅かしてきたものは、ことごとく挫折してきた。
現在の日本の教育では当たり前のように教えられ、特に解説もされていないので、何の感慨もない人も多いと思うが、その辺りの事象をまとめてみたのでご覧いただきたい。

No.58

>> 57 連綿と続く日本の歴史。
国号が変わらないのは万世一系の天皇家の存在ゆえである。

No.59

>> 58 皇位簒奪の挫折
蘇我氏
蘇我氏は大王家(後の天皇家)を凌ぐ権勢を誇り、遂には自身が大王になろうとしたため、乙巳の変により滅ぼされた(Wikipedia「皇位簒奪」)。

道鏡
弓削道鏡は、「聖武天皇の出家(神⇒仏)、孝謙太上天皇の再即位(仏⇒神)など神仏混交が進み天皇の地位が変質するなか、孝謙天皇(称徳天皇)の看病禅師として宮中に入り、寵愛されるようにな」り、「天皇に準ずる法王に即位し、家政機関も設置されるなど事実上の女帝との共同統治者となり仏教事業や神祇を司った」。
「更に二人の二頭体制によって皇太子を経ず形式的に天皇に即位すべく準備が行われた」が、「間もなく女帝が死去した為実現しなかった」。(同上)

平将門
平将門は、「八幡大菩薩の使いを称する巫女が宣託を告げ、興世王から「新皇」の号を進呈されたという。
新皇位への即位は京都朝廷へ奏上を行っており、相対する新たなる天皇という意味で新皇を名乗った。」しかし、「敵対勢力への対応に忙殺されて翌年には討たれ」た。(同上)

足利義満
足利氏は、「南北朝の動乱により、天皇家と公家勢力の権力及その権威が低下すると共に、足利幕府の成立以来、その権威は天皇家に迫り、実質的に日本の君主としての役割を担った。
とりわけ三代将軍足利義満は朝廷への影響力を強め、公武を超越した権威と権力を持つに至った。」「晩年には、実子義嗣を親王に準ずる形で元服させた。
しかしその直後に義満は後継者不指名のまま急死し、四代将軍となった足利義持や幕府重臣により先例無しとして太上法皇位の追号も取りやめられ、朝貢貿易も停止された」。(同上)

No.60

>> 59 織田信長
戦国時代後期、織田信長は足利義昭を将軍として上洛を行ったが、程なく信長と義昭の間に対立が生じ、その結果義昭は追放され室町幕府は滅亡した。

また信長は、時の正親町天皇とは当初協調路線をとっていたが、しだいに自らを神格化するような行動を取り、さらには朝廷が決定する暦の制定にまで口をはさむようになった。
朝廷は、まず信長を右大臣とし、更には太政大臣、関白、征夷大将軍のいかなる官位をも授けると打診したが、信長はそれを辞退。
その一方で京都で馬ぞろえ(軍事パレード)を行い、朝廷を威嚇したとされる。この様な行動から、信長は天皇を廃して自身が日本の王になろうとしたのではないかという説がある。
そのため、朝廷を敬う明智光秀によって本能寺の変で殺されたとされる。
いわゆる「朝廷陰謀説」である。(同上)

No.61

>> 60 女系天皇容認論議の頓挫
小泉元首相が、皇統断絶、家系乗っ取りを意味する女系天皇容認論をぶちあげ、マスコミを始めとする反日勢力もそれに賛同。
反対したのは自民党内の保守派だけだった。
皇室典範改正の一歩手前までいったが、不思議なことに、あわや女系天皇容認が実現するかという時、秋篠宮家に悠仁親王殿下が御誕生し、その後、女系天皇容認論議は頓挫。
小泉の背後にはロックフェラーがいたという噂もあるが、その後、ロックフェラーはサブプライム問題で大損害を蒙っている。

No.62

>> 61 外敵編
呉の孫権
『三国志』で有名な呉の孫権は、皇帝の位についた翌年の黄龍二年(二三〇)、徐福の子孫が住むという亶州と夷州とを求めて将軍の衛温と諸葛直に兵一万を与え、東海へと船出させた。
しかし、二人の将軍は夷州[台湾]から数千の住民を連れ帰ったが、肝心の亶州[日本]には行き着けず、帰国後に命令不履行ということで孫権に殺されてしまった。
元寇
日本の文永11年・元の至元11年10月(1274年11月)に、忻都、金方慶らに率いられ、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人など非戦闘員を含む3万人を乗せた船が朝鮮の月浦(合浦。現在の馬山)を出発し、10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、元軍はその後、博多を占拠したものの、日本側の反撃に遭い、終日の激戦で矢が尽き、軍の編成が崩れた。
このため、大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにしたが、夜中に暴風雨に見舞われ、艦船が難破するなどして大損害を蒙り、十一月二十七日(12月26日)に合浦に帰還した際には、派遣軍の不還者は1万3500余人に登ったという。
1281年(日本の弘安四年・元の至元十八年)、元・高麗軍を主力とした東路軍4万と、旧南宋軍を主力とした江南軍 10万、計14万の軍が日本に来襲。しかし、防衛体制を整えていた日本側は、博多沿岸に約20kmにも及ぶ防塁(元寇防塁)を築いてこれを迎えた。この時の日本側の兵力は4万だった。
江南軍は、総司令官が病気のために交代したこともあり、東路軍より遅れてやってきたが、両軍は、平戸鷹島付近にて合流した。
しかしここで暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの状態となった。
これを好機と見た武士らは元軍に襲いかかり、これを殲滅した。
元軍で帰還できた兵士は、のちに解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言われる。
この戦いによって元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損した。

No.63

>> 62 元のクビライは本格的に3度目の日本侵略を計画し、1287年に一旦解散した征東行省を再度開設し、高麗忠烈王が丞相に就任したが、この時期に元の内部でも反乱が続き、また大越国への侵攻の失敗などもあって日本へ軍が出せる状態ではなくなり、クビライの死と共に完全に頓挫した。
(参考 Wikipedia「元寇」)

No.64

>> 63 大東亜戦争の敗戦
圧倒的な武力で日本軍を壊滅させ、原子爆弾と無差別攻撃で日本の国土を蹂躙した米軍でさえ、天皇の統治には触れることは出来なかった。
国際法を無視したGHQに押し付けられた日本国憲法では国民統合の象徴とされるが、形式的、対外的は国家元首であり、その立場は制限を受けながらも維持されている。また、日本は敗戦後も、実質的にはともかく、形式的には植民地とならず、独立を維持した。
日本は敗れはしたが、日本の奮戦により、欧米白人の非人道的な植民地支配が打破され、有色人種は白人の奴隷的な立場から解放された。
戦勝国であるはずの欧米諸国は、アジア・アフリカの植民地の大部分を失い、凋落した。

No.65

>> 64 ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。
私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。
殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。
だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。
しかし、そんなことは聞かない。
だからすでにこの世におられないと思っていた。
ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。
天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。
しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。
陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。
平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。
それでも暗殺される王様や大統領がある。
それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。
国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。
しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。
こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。
われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。(オットーカロン博士 ボン大学教授 昭和25年)

No.66

🇯大東亜戦争終結ノ詔書 (大東亜戦争終結に関する詔書)
《原文》

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

No.67

>> 66 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日

No.68

>> 67 《読み下し文》

朕(ちん)、深く世界の大勢と、帝国の現状とにかんがみ、非常の措置をもって、時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ。朕は、帝国政府をして、米英支ソ四国に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)をはかり、万邦共栄の楽を共にするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の挙々おかざるところ。先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに、出でて他国の主権を排し、領土を侵すがごときは、もとより朕が意志にあらず。しかるに、交戦すでに四歳をけみし、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局、かならずしも好転せず、世界の大勢、また我に利あらず。しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用し、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ、まことに測るべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか。ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、のべて人類の文明をも破却すべし。かくのごとくむは、朕、何をもってか、億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。
朕は帝国とともに、終始、東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるをえず。帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉し、非命に倒れたる者、及びその遺族に想を致せば、五内ために裂く。かつ戦傷を負い、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)するところなり。

No.69

>> 68 おもうに今後、帝国の受くべき苦難は、もとより尋常にあらず。汝臣民の衷情も、朕よくこれを知る。しかれども、朕は時運のおもむくところ、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。
朕はここに、国体を護持しえて、忠良なる汝臣民の赤誠に信倚(しんい)し、常に汝臣民と共にあり、もしそれ情の激するところ、みだりに事端をしげくし、あるいは同胞排擠(はいせい)、互いに時局を乱り、ために大道を誤り、信義を世界に失うがごときは、朕もっともこれを戒む。よろしく挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ。

No.70

>> 69 《現代語訳》

余は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと欲し、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。
余は帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。
そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、余はそれをつねづね心がけてきた。先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより余の志すところではない。しかるに、交戦状態はすでに四年を過ぎ、余の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、余のすべての官僚役人の精勤と励行、余の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。
そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。この上、なお交戦を続けるであろうか。ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。そのようになったならば、余は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。以上が、余が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。

No.71

>> 70 余は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、余の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、余の心より深く憂うるところである。思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。汝ら臣民の真情も、余はそれをよく知っている。しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。
余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、余のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。
http://jiritsusaisei.blogspot.com/

No.72

🇯大東亜戦争 開戦の詔勅 (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)《原文》

天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ
中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス
米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ
朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス
斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス
御 名 御 璽
昭和十六年十二月八日

No.73

>> 72 《読み下し文》

天佑(てんゆう)を保有し、万世一系の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝、有衆(ゆうしゅう)に示す。
朕(ちん)、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦(たたかい)を宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)は、励精職務を奉行(ほうこう)し、朕が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)其(そ)の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算(いさん)なからむことを期せよ。
抑々(そもそも)、東亜の安定を確保し、以って世界の平和に寄与するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考(こうそこう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述(さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう)にして、朕が拳々(きょきょ)措(お)かざる所。
而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤くし、万邦共栄の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(これまた)、帝国が、常に国交の要義と為す所なり。今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る。洵(まこと)に已(や)むを得ざるものあり。豈(あに)、朕が志(こころざし)ならんや。
中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解せず、濫(みだり)に事を構えて東亜の平和を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(かんか)を執(と)るに至らしめ、茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携するに至れるも、

No.74

>> 73 重慶に残存する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(いま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)めず。
米英両国は、残存政権を支援して、東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋制覇の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国を誘い、帝国の周辺に於(おい)て、武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存に重大なる脅威を加う。
朕は、政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延(せんえん)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威を増大し、以って我を屈従せしめんとす。
斯(かく)の如くにして、推移せんか。東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉(ことごと)く水泡に帰し、帝国の存立、亦(またこ)正に危殆(きたい)に瀕せり。事既(ことすで)に此(ここ)に至る帝国は、今や自存自衛の為、蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうがい)を破砕するの外(ほか)なきなり。
皇祖皇宗の神霊、上(かみ)に在(あ)り、朕は、汝、有衆の忠誠勇武に信倚(しんい)し、祖宗の遺業を恢弘(かいこう)し、速(すみやか)に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全せんことを期す。

No.75

>> 74 《現代語訳》

天の神々のご助力を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、はっきりと忠誠にして武勇ある汝ら国民に示す。
余はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。余の陸海軍の将兵は、全力を奮って交戦に従事し、余の政府関係者・官僚・役人のすべては、つとめ励んで職務に身をささげ、余の国民は、おのおのその本分をつくし、億兆の心をひとつにして、国家の総力を挙げ、攻め戦う目的を達成するために、手ちがいのないように心がけよ。
そもそも、東アジアの安定を確保し、それをもって世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その大いさを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、余も日頃、かたときも忘れずに心がけている事である。
そういう理由であるから、各国との交流を篤くおこない、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要諦とするところである。今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか(このような事態は、余の本意ではない。)
中華民国政府は、以前より帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を攪乱(かくらん)し、遂(つい)に帝国に武器をとらせる事態(慮溝橋事件)にいたり、現在まで四年が過ぎた。さいわいに、国民政府は、汪清衛・南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するに至ったが、重慶に残存する蒋介石政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である

No.76

>> 75 はずの南京政府と、いまだに相互の境をはさんでせめぎあう姿勢を改めない。
米英両国は、蒋介石政権を支援し、東アジアの戦禍と混乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋を征服する非道なる野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには禁輸措置を意図的におこなって、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。
皇祖皇宗の神霊は、天にましまし、余は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに英米による禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
http://jiritsusaisei.blogspot.com/2011/02/blog-post_12.html

No.77

🇯大東亜戦争 開戦の詔勅 (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)《原文》

天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ
中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス
米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ
朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス
斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス
御 名 御 璽
昭和十六年十二月八日

No.78

>> 77 《読み下し文》

天佑(てんゆう)を保有し、万世一系の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝、有衆(ゆうしゅう)に示す。
朕(ちん)、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦(たたかい)を宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)は、励精職務を奉行(ほうこう)し、朕が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)其(そ)の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算(いさん)なからむことを期せよ。
抑々(そもそも)、東亜の安定を確保し、以って世界の平和に寄与するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考(こうそこう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述(さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう)にして、朕が拳々(きょきょ)措(お)かざる所。
而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤くし、万邦共栄の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(これまた)、帝国が、常に国交の要義と為す所なり。今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る。洵(まこと)に已(や)むを得ざるものあり。豈(あに)、朕が志(こころざし)ならんや。
中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解せず、濫(みだり)に事を構えて東亜の平和を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(かんか)を執(と)るに至らしめ、茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(いま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)めず。
米英両国は、残存政権を支援して、東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋制覇の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国を誘い、帝国の周辺に於(おい)て、武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存に重大なる脅威を加う。

No.79

>> 78 朕は、政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延(せんえん)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威を増大し、以って我を屈従せしめんとす。
斯(かく)の如くにして、推移せんか。東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉(ことごと)く水泡に帰し、帝国の存立、亦(またこ)正に危殆(きたい)に瀕せり。事既(ことすで)に此(ここ)に至る帝国は、今や自存自衛の為、蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうがい)を破砕するの外(ほか)なきなり。
皇祖皇宗の神霊、上(かみ)に在(あ)り、朕は、汝、有衆の忠誠勇武に信倚(しんい)し、祖宗の遺業を恢弘(かいこう)し、速(すみやか)に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全せんことを期す。

No.80

>> 79 《現代語訳》

天の神々のご助力を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、はっきりと忠誠にして武勇ある汝ら国民に示す。
余はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。余の陸海軍の将兵は、全力を奮って交戦に従事し、余の政府関係者・官僚・役人のすべては、つとめ励んで職務に身をささげ、余の国民は、おのおのその本分をつくし、億兆の心をひとつにして、国家の総力を挙げ、攻め戦う目的を達成するために、手ちがいのないように心がけよ。
そもそも、東アジアの安定を確保し、それをもって世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その大いさを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、余も日頃、かたときも忘れずに心がけている事である。
そういう理由であるから、各国との交流を篤くおこない、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要諦とするところである。今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか(このような事態は、余の本意ではない。)
中華民国政府は、以前より帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を攪乱(かくらん)し、遂(つい)に帝国に武器をとらせる事態(慮溝橋事件)にいたり、現在まで四年が過ぎた。さいわいに、国民政府は、汪清衛・南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するに至ったが、重慶に残存する蒋介石政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟であるはずの南京政府と、いまだに相互の境をはさんでせめぎあう姿勢を改めない。
米英両国は、蒋介石政権を支援し、東アジアの戦禍と混乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋を征服する非道なる野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには禁輸措置を意図的におこなって、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

No.81

>> 80 余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。
皇祖皇宗の神霊は、天にましまし、余は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに英米による禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
http://jiritsusaisei.blogspot.com/2011/02/blog-post_12.html

No.82

🇯小林よしのりが主張する女系容認論の正体

ブログ「日本が好きなだけなんだよ」より
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-646.html
2010.05.11 Tue 14:30
女性セブン(2009/8/6)に掲載された愛子天皇を待望する小林よしのりの漫画
小林よしのり
漫画家・小林よしのりといえばゴーマニズム宣言シリーズなどで、保守の先駆けとして分かりやすい漫画という媒体を通して、読者を啓蒙し人気を博したこともある人物だ。しかし、この小林よしのりは、自分の作品をパチンコ業界に提供したあたりから主張がおかしくなり、昨年の総選挙前に民主党への投票を勧めたり、嫌韓流を批判したりして、その主張に齟齬が目立ち始めてきた。
極め付けは皇位継承問題における女系容認論であり、将来、男系男子が減少し皇統が危ういので女系を容認すべしというのが小林を始めとする女系容認論者の主張だが、これらの女系容認論者の特徴は、必ずと言っていいほど「愛子天皇」ありきの主張しかしないということである。現在の皇室典範で、皇太子→秋篠宮→悠仁親王という皇位継承の順序が確定されており、悠仁親王殿下が御誕生される前に起こった女系容認論議の発端は、皇太子→秋篠宮→眞子さま or 佳子さま?という、皇位継承者不在の危機だった。
女系容認論議の最後の方になると当初のコンセプトはすっかり忘れ去られ、小泉政権時代に設置された皇室典範改正の有識者会議の最終報告書には、いつの間にか直系優先、第一子優先が打ち出されており、実質、秋篠宮殿下から皇位継承権を剥奪し、愛子内親王に皇位継承権を与えることがうたわれていた。

No.83

>> 82 法改正によって何ら瑕疵のない男子皇族から、一方的に皇位継承権を奪うことは許されないが、こういったことを堂々と主張していた有識者会議のメンバーいかに皇室に敬意を持たず、秋篠宮殿下の権利を軽く踏みにじろうとする連中だったか、思い出すと不快感を禁じえない。メンバー自体がキチガイ極左の集まりであり、秋篠宮殿下の権利が話題にもされなかった当時の状況は異常としか言いようがなかった。
小林よしのりの主張は有識者会議の主張をほぼ踏襲しており、作品の中でもチャンネル桜の討論番組の中でも、愛子天皇を待望する意思表明を行っている。皇太子以降の皇位継承は、愛子さまか悠仁さまか、ではなく愛子さまか秋篠宮さまか、と表現するのが正しい。愛子内親王と秋篠宮殿下、どちらが天皇にふさわしいかと問われれば、議論の余地もなく秋篠宮殿下である。愛子天皇を実現させるためには秋篠宮殿下の皇位継承権を剥奪しなくては不可能であり、皇室存続の観点から女系容認を考えるのであれば、実際に議論の対象になるのは悠仁親王殿下以降の皇位継承についてである。
小林よしのりの主張は皇室護持、女系容認の主張のフリをした、秋篠宮殿下からの皇位継承権剥奪の主張であり、どう考えても小林よしのりは保守というよりは、似非右翼にしか見えない。女系容認論者は天皇陛下の大御心を捏造し、愛子天皇ありきの女系容認論の正当性を主張することが過去に何度もあったが、天皇陛下が秋篠宮殿下の皇位継承権剥奪を容認するはずもなく、実際、これらの“大御心”はその後の調査で全部捏造だったことが判明している。

No.84

>> 83 女系容認論議をしたいのであれば、愛子天皇の可能性を除外して議論するのが前提であり、それが出来ないのであれば、彼らが主張するのは実際には女系容認論ではなく、愛子天皇容認論、秋篠宮からの皇位継承権剥奪容認論ということになる。愛子天皇の可能性を除外して女系容認論を語る人間を自分は見たことがないが、女系容認論者の正体が国賊であることの何よりの証明だろう。

No.85

>> 84 皇統=男系(父系)であり、自分に言わせれば歴史上、一人も存在していない女系(母系)天皇(女性天皇とは別物)を認める女系継承など皇統ですらないが、女系容認論者は皇統存続云々以前に、秋篠宮殿下の権利剥奪を画策する逆賊であるということである。彼らに皇室や皇統を語る資格はなく、小林ばかりか、同様の主張を行っている高森某や笠原某も逆賊だということだろう。
保守とは保ち守ると書くが、一体保守が何を守るべきかといえば、強いていえば、それは2000年以上の世界最古の歴史を持つ神武朝日本ということになる。神武朝日本を守るとは、姓を持たない一系の天皇家を頂点とする日本を守るということであり、その国民を守ることということになるだろうか。
神武朝を終焉させ、佐藤王朝や鈴木王朝が出現する女系容認の思想は保守でも何でもない。ましてや秋篠宮殿下の皇位継承権を奪う発想など、一人の日本人としても狂気の沙汰だ。小林がいくら悪あがきをしようが詭弁を弄そうが、もはや勝ち目はないのであり、男性皇族の皇位継承権剥奪を主張する一方で、皇室を大事にするくさいパフォーマンスなどいい加減、やめてもらいたいものである。

No.86

>> 85 秋篠宮殿下の皇位継承権を剥奪しない限り、愛子天皇は実現しない。それは秋篠宮に皇統が移った瞬間に、眞子さま佳子さまの立場が愛子内親王より上位になるからである。
ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論追撃篇(サピオ連載中)で勝手に両陛下と秋篠宮殿下の意思を忖度し、強引に皇室全体の女系天皇容認を結論付ける小林よしのり。悠仁親王殿下までの皇位継承権は確定しており、陛下はもちろんだが、秋篠宮殿下が自分自身や悠仁殿下の皇位継承権剥奪に賛同するとは考えづらい。女系容認問題が討議されるのは、悠仁殿下がご結婚後、男子に恵まれず、尚且つそれまでに旧宮家の復帰がなかった場合に限定される。小林は一体何をそんなに急ぐのか?

【参考動画】世界最強の天皇陛下
http://www.youtube.com/watch?v=lsOFxj9To-o&featplayer_embedded

No.87

🇯【日本】歴史

元気の出るコピペ:外人が日本人を特別視してるってのは、自分の歴史少しでも知ってたら誰でも分かる
コピペ。
外人が日本人を特別視してるってのは、自分の歴史少しでも知ってたら誰でも分かるだろ。
まず、資源が全くないってことはすごいこと。もう両手両足もがれたぐらいのハンデ。
しかもすごいのは、米国の3分の1の人口、わずか25分の1の領土で、その上そのただでさえ極小の国土の7割が山、山、山。なーんにもない、山・・・。
だから農業で輸出して食べていくことすらできない。条件からして最貧国でもおかしくない国。
そんな国が、100年ほど前で当時世界最強クラスだった露助とか清をあっさり倒して、非白人国家で普通に白人常任倶楽部仲間入りしちゃってて、おまけに米国敵に回して
ガチで戦争して、世界で唯一米国本土爆撃して、英国の無敵艦隊フルボッコにして、オランダ倒して、世界で唯一原爆落とさせるほどてこずらせて。しかも二発だよ。二発。
考えられない。敗戦とか言ってるけど日本のせいでアジアから白人の植民地全部消されたし。
 
しかも信じられないのは、戦争に負けてただでさえ何にもない国がさらに
インフラまで全部叩き潰されて、多額の賠償金まで背負わせて100%再起不能に
しといた極貧衰弱国家で、今度こそ生意気なイエローモンキーが消えて数百年は
ウザイ顔見ないで済むと思ってたら、直ちに再び白人社会に経済で参戦して来くさって、参戦どころかごぼう抜きでたった2,30年であっという間に米国さえ抜いて世界第一位。
東京の土地だけで米国全土が買えるほどの呆れた価値になっちゃう程の超絶経済力で
世界中( ゚Д゚)ポカーン・・・状態。その後もずーっと二位維持。頭一本でそれ。
しかも経済の80%が内需。内需だけでそれ。金融とかでまだ全然進出してないし
車や家電、工業製品ももまだまだ進出しきってなくてそれ。もうキチガイの域。
伸びしろありすぎワロタ。戦後60年一発も打たずに侵略せずにこれ。
何気に世界最長寿国とかなってる。
んで今度は漫画・アニメ・ゲーム。気がつけばハリウッドの規模とっくに超えてる。
アメリカの検索で一位になってるのが日本のアニメとか。
世界中で一番人気の映像作品が日本のアニメとか。
極めつけは世界一長い国号、2000年のどの白人より長い王室ならぬ、その上の皇室保有。

No.88

>> 87 エンペラーに代表される歴史。普通の神経してたらこんな国怖くて関わりたくない。

No.89

🏆【日本人の英雄】実在した怪傑ハリマオー

ブログ「ねずきちの ひとりごと」より
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-731.html
(怖い話が苦手な人は読まないでください。一部伏字にしています。)
「怪傑ハリマオ」は、実在の人物です。本名は、谷豊(たにゆたか)といいます。
谷豊は、妹を支那人に惨殺され、復讐のため300人の呼ばれる地下組織を持つ義賊となり、支配者である英国人や支那人を襲い、奪った金品は私有せず庶民に与えた。
マレー人になりきっていたけれど、陸軍中野学校出身の藤原機関員神本利男に日本人であることを覚醒され、日本軍のマレー作戦に協力し、30歳で亡くなっています。


谷豊は、明治44(1911)年、理髪店を営む父・谷浦吉の長男として生まれます。
豊が生まれてまもなく、一家はマレーシア北東部のクアラ・トレンガヌという大きな街に移住します。
ここは美しいマレーシアの島々への玄関口として、いまでも多くの日本人観光客が訪れる地です。
「教育は日本で受けさせたい」という親の意向で、豊は、大正5(1916)年、5歳で日本に帰国します。
そして祖父母の家に滞在し、福岡市立日佐小学校に入学した。
小学校を卒業した豊は、大正13(1924)年、再びマレーシアへ戻ります。
そこでマレーの友人たちと青春を過ごした。
マレー人の友人たちと一緒にタコを作って揚げたり、ボクシングをしたり。
天性の運動神経と、気の強さで、これがめちゃめちゃ強かった。
加えて喧嘩っ早い。豊のまわりには、いつも人が集まっていたといいます。
そして19歳でマレー人のワンシティさんと結婚。イスラム教に改宗します。
昭和6(1931)年、二十歳になった豊は、祖国の役に立つために軍人になろうと、単身、再び日本に帰国します。ところが身長が足らず「丙種合格」となった。要するに不合格です。
豊はかなりショックだったようです。
やむなく豊は、福岡のアサヒ足袋で働くようになり、その後、福岡市内の鉄工所に就職する。
この頃、豊は、美野島や柳町の飲み屋によく出かけています。
そこでもよく喧嘩をした。
小柄で細い豊は、相手に舐められるのだけれど、サッと懐に飛び込んで、ボディやチンを強打する。たいていの相手は、これでノックアウトされた。

No.90

>> 89 そして給料をもらうと友人たちをと博多に飲みに出かけ、気になる女性もいたという。
さらに豊は、自分名義の田を六畝相続で持っていたのですが、これをいつの間にか売り払った。
その代金を貧しい家庭の友人に恵んでいます。
気風(きっぷ)が良くて、頭が良くて、喧嘩が強くて、あたたかくて色男。
豊のまわりには、いつも友人が集まった。

その頃のことです。
マレーシアでは、在マレーの支那人たちが、いたるところで排日暴動を起こしていました。
支那人は、戦前も戦後も変わりません。彼らは要するに中華思想が根っこにあるわけで、それは、東亜は、すべて支那が世界の中心の国であり、周辺国である日本やウイグル、チベットなどは属国である、という思いこみです。
だから欧米はハナから敵対国だから支那を侵略してくるのは、ある意味仕方ないことだけれど、自分たちより目下の日本が支那より強かったり経済力があったりするのはケシカラン!という。
非常に次元の低い観念だけど、人間というのは、とかく次元の低い感情ほどムキになるし熱くなる。
支那人たちは、マレー国内で暴徒の集団を作り、日本人を襲います。
各所で、日本人の営む商店や家屋を襲い、金品を奪い、男を殺し、女を強姦し、残酷な方法で殺害した。
そして昭和7(1932)年11月、マレーシアの小さな床屋だった谷家も支那人暴徒の襲撃にあいます。
襲撃の少しまえに、谷家では、一家の大黒柱だった父親が急逝しています。
家には、母と、妹のシズコと、弟の繁樹がいた。
この日、母親はたまたま出かけていて留守だった。弟は英語学校に行っていた。そして家には、病気で寝込んでいた妹のシズコがいた。
支那人たちの暴動がはじまったとき、たまたま英語学校から帰宅途中だった弟の繁樹は、近所の人の「逃げなさい!」という声を聞いて、近所の医者の家に駆け込んだ。
そして支那人の暴徒たちが、手に「生●」をぶら下げて歩いて行く様子を覗き見た。
暴徒が去ったあと、自宅に戻った繁樹が見たものは、荒らされ、血まみれとなった室内と、●のない妹の惨●死体だった。

支那人のこうした残虐性というのは、ほんとうに今も昔もかわりがありません。
いま、汚沢や鳩ポッポが人民解放軍を日本に呼び込み、自衛隊と合同演習させようなどと、ゴタクを並べているようだけれど、米軍と異なり、規則決まりをまったく守らないのが支那人です。

No.91

>> 90 要するに支那人というのは、古来、「やったもの勝ち」で「勝てば官軍」で、どんな非道も許され、「赤信号みんなで渡れば怖くない」を地で行っているだけでなく、それを武器を持って軍隊レベルでやっている。
このときも、支那人の暴徒たちは、妹の●を持ち去り、さらしものにまでしたそうです。記録はないけれど、暴行もされていたのかもしれない。
夜になって、繁樹と隣家の歯科医は、妹の生●を奪還します。
そして泣きながら●と胴を縫い合わせた。

事件後、母と弟は、マレーの家を引き払い、日本に引き揚げてきます。
当時は、いまのように携帯電話もなければ、郵便事情も整っていない。
豊は、帰国した母親から、この事件の詳報を聞きます。
そのときの豊の気持ち。。。。
大好きな可愛い妹を、自分のいない、異国の地で殺され、首まで切られた。
救うことができなかった。助けることができなかった。悔しくて、悲しくて、どうしようもなくこみ上げる気持ち。
豊は、復讐のために冷たく血を冷やし、昭和9(1934)年7月、単身マレーシアへ向かいます。
マレーのクアラ・トレンガヌへ帰ってきた豊は、昔の家の近くで理髪店を営みます。
店は結構、繁盛します。
豊は、床屋を営むかたわら、妹殺害の犯人探しを始めます。
妹を殺した支那人は、逮捕され、裁判にかけられたものの無罪放免となり、消息不明になっていたです。
なんで? と思うかもしれません。
要するにこの時期、マレー国内の経済は・・・それは今もだけれども・・・支那人の華僑が牛耳っていた。
そしてマレーという国の形がどうあれ、支那人たちは支那人の理屈で動く。
簡単にいえば、カネで買収して裁判の判決を無罪にしてしまった。
欧米は、いわゆる「契約社会」です。結婚も神との「契約」だし、官と民の関係も「法」という名の「契約」に基づく。民間どうしの関係も同じです。すべては契約に基づく。
支那人は異なります。「人治社会」です。人が判断するものだから、人次第で判決なども、どうにでもなる。
ついでにいえば、日本は「相互信頼社会」です。嘘をいうこと、信頼を損ねることが不実とされる。
悪いことをしても、捕まれば「おそれいりました」となるし、従容として裁決に従う。

No.92

>> 91 マレーで床屋を営んだ豊は、この時、21歳です。
豊は、統治者の英国官憲に強く抗議した。「無罪」とは何事か。事実関係はちゃんと調べたのか。犯人の居場所を教えろ・・・
しかし、しつこく食い下がろうとする豊は、不審者とみなされ、逆に英国官憲に投獄されてしまう。
ツテを辿って日本の政府関係者にも陳情するけれど、誰も取り合わない。まるで拉致被害者に対するいまの日本政府と同じです。
味方が居ないことを知った谷豊はひとりで復讐を開始を決意します。
そしてマレーに帰って一年を過ぎたころ、豊は突然店を閉めて、姿を消してしまう。
それからしばらくして、英国人と支那人の事務所だけを襲う盗賊が出没します。
最初の事件は、昭和12(1937)年トレンガヌ州政府土地局でした。
ここでは、土地証文や債券、手形など時価3万ドルが盗まれた。
次に起こった事件は、タイの国境の町スンガイ・コロです。
白人経営の金鉱山で、純金八本が金庫から盗まれた。手口は同じです。
人の殺傷は一切ない。
同様の犯行は次々と続いた。
裕福な英国人の豪邸に忍び込み、金品を盗み取る。
そしてその金品が、付近の貧しいマレー人の家にばらまかれる。
豊のもとには、マレー人の仲間が続々と集まります。
やがて豊を頂点とする盗賊団は、支那人華僑の豪邸や商店も標的にするようになった。
殺しはない。しかしときには金塊を積んだ鉄道車両を爆破するなど大規模な犯行も行った。

この頃になると、豊はマレー人達の間で「ハリマオ」と呼ばれるようになります。ハリマオというのは、マレー語で「虎」という意味です。
幼い子供時代と青春時代をマレーで過ごした豊は、マレー語が堪能で、そのためマレー人の新しい部下は、ハリマオが日本人であるということを、まったく知らなかった者も多かったそうです。
昭和16(1941)年4月、豊はパタニで逮捕され、留置所に収監されます。
そこに神本利男(かもととしお)という日本人があらわれる。
神本は、豊の身柄を引き取ると、数回にわたり豊と長時間の接触をもった。

No.93

>> 92 神本利男(かもととしお)
この神本利男という人物は、昔、テレビドラマ「大岡越前」で主演した俳優の加藤剛にちょっと似たタイプの男かもしれない。
戦史的にはまったくの無名人物なのだけれど、異彩を放つ快男児です。
もともと神本は警察官です。満州で甘粕正彦憲兵大尉から絶大な信頼を得ていた男だった。
そして彼は警察官を退官すると、道教の満州総本山である千山無量観(せんざんむりょうかん)で3年間の修行を積んだ。そして満州の影の支配者とも呼ばれた葛月潭(こうげったん)老師の門下生となっています。
当時の満洲道教会の超大物である葛月潭(こうげったん)老師の門下となることができた日本人は、神本と大馬賊として有名な小日向白朗しかいない。神本は、よほどの人物だったとみえます。
大東亜戦争開戦が近づいた頃、バンコクに駐在する特務機関の田村大佐は、開戦を睨んでマレー工作を命じられていました。
当時は、まだ支那事変の最中でもあります。支那では、蒋介石が国民党を率いて支那各地で乱暴狼藉略奪強姦虐殺強盗の限りを尽くしていた。
日本軍は、蒋介石を追い込み、支那各地に平和と安定、治安の回復をもたらしていたけれど、その蒋介石が北京・上海から南京へと逃れ、そこからさらに逃亡して支那とビルマの国境付近である雲南省にまで逃げていく。
その雲南の蒋介石のもとには、英米豪が軍事物資や兵器、食糧を送り込む。
支那が無政府状態となり、支那全土で略奪暴行が日常的に行われていた時代です。
農地は荒らされ、家畜は殺される。庶民はこれでは食えません。
食えなくなった庶民は、日本軍怖しとデマを飛ばされ、英米から食料支援を得ている蒋介石のもとに集まる。蒋介石軍の人数が増える。国民党軍の勢力が盛り返す。
この悪循環を断つためには、日本は、英米豪の蒋介石への支援ルートを断たなければなりません。
日本が英米豪に宣戦布告すれば、日本は軍をマレーからビルマに北上させ、援蒋ルートを遮断することができる。

No.94

>> 93 特務機関の田村大佐は、神本に白羽の矢を立てます。
マレー国内に、日本軍と連携し行動を共にしてくれる仲間を作る。
それには、ハリマオ義賊団を巻き込むのがいちばんよい。
神本は、密命を帯びてマレー半島を南下します。
そして道教のネットワークを使い、ハリマオ=谷豊の居場所を難なく突き止めます。
そしてタイ南部の監獄に収容されていた谷豊を解放し、日本軍への協力を依頼した。
このとき豊は「俺は日本人ではない」と、マレー語で叫んだといいます。
「違う!、お前は日本人だ」という神本に、豊は複雑な胸中を語ったそうです。
妹の殺害事件で日本政府に陳情しても「あきらめろ」と言われる。
やむなく盗賊となって復讐をはじめたが、俺は人殺しは一切しなかった。
盗んで得た金品も、みんな貧しい人々に分け与えた。
しかし日本人は、「盗賊など恥晒した」と俺を非難した。
豊は、日本から見捨てられたと感じていたのです。


神本は説得した。
「まもなく、この半島は戦場になる。
 俺は、マレーをマレー人に戻したいと思っている。
 そのために君の力を貸してくれないか」
「マレー半島は、これまで白人に400年間もの間、支配され続けてきた。
反政府運動は、バラバラで、すべて簡単に弾圧されてきた」
「だがな、日本軍に現地人が協力してくれるなら、日本は必ず英軍を駆逐して植民地支配を終わらせることが出来る。必ずできる」
「豊、小金を奪えば盗賊だが、国を奪えば英雄だ」
豊は、神本の人間的な魅力に、ぐいぐい引き寄せられる自分を感じたといいます。
さらにイスラム教の信者となっている豊の前で、道教の信者のはずの神本は、イスラムのコーラン第一章アル・ファティファ(開端章)全文を暗誦してみせた。
豊は決心します。
「わかりました。あなたについていきます」

No.95

>> 94 ちなみに、この頃のハリマオ団は、実数は約300名だったそうです(三千名というのはデマ)。
そして配下のメンバーは、ひとりひとりが特殊技術の技能集団だったそうです。
実際、付近の漁民の船が壊れると、それを無償で修理したり、困っている人たちへ無償で様々な奉仕活動をしていた。
神本の説得に応じた豊のもとには、藤原機関から軍資金も出るようになる。
豊は、受け取った資金を、ほとんど近隣の村人たちのために遣っています。
昭和16(1941)年、日本との開戦を予期していた英国軍は、日本軍がタイからマレー半島を縦断して進撃してくると想定し、マレー北部・タイ国境から30キロ南の小さな集落ジットラに防禦陣地を建設します。
英国のシンガポール防衛のための防衛ラインです。ジットラ・ラインという。
この陣地建設現場に、ひそかに現地人としてハリマオの一党が浸透する。
そしてマレー人労働者によびかけ、仕事に微妙に手を抜き、トーチカの場所や地形などを調査し、詳細な地図を日本軍に送った。
このジットラ要塞について英国軍は「いかなる攻撃でも3ヵ月は持ちこたえる」と豪語していたそうです。しかしどんなに見かけが立派でも、中身が手抜きで腐り、内部の情報が筒抜けになっていたら、腐った老木と同じです。
いざ戦端が開かれると、わずか2日でジットラ要塞は堕ちてしまう。

No.96

>> 95 英軍は、大東亜戦争開戦に先立って、タイ南部から上陸する日本軍を水際で阻止するためのマタドール計画も進めていた。
これは英軍の精鋭部隊が密かに国境を越えて、日本軍がやってくるのを待ち伏せ、一気にせん滅を図るという作戦です。
この作戦もハリマオ団によって、事前に詳細が洩れ、日本軍は開戦後、英軍を避けて悠々と上陸を果たしている。
ちなみに、この作戦にも明らかなように、大東亜戦争は「日本の一方的な真珠湾攻撃によってまるで騙しうちのように始まった」という左翼や反日の宣伝は、まるで嘘八百です。
英米豪は、ABCD包囲網を作り、日本がもはや開戦以外に選択の余地がなくなるように仕向け、開戦と同時に、徹底的にこれを粉砕しようと、事前に十分に体制をとって、手ぐすねひいて待ち構えていたのです。

No.97

>> 96 昭和16年12月の大東亜戦争開戦からちょうど一ヶ月が経った頃、日本陸軍の藤原岩市参謀は、マレー北部の小さな村で、豊に会います。
藤原は、そのときのことを著書「F機関」にこう書いています。

「なに。谷君が待っているのか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」
私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。
数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。
私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、
「谷君。藤原だよ。よいところで会ったなあ。御苦労。御苦労。ほんとうに苦労だった」と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。
谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。
(F機関 176頁)

No.98

>> 97 私がダム破壊工作の成功を称えると、谷君はこう答えた。
「いいえ。大したことはありません。
ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。
それから山づたいに英軍の背後に出て参りましたが、日本軍の進撃が余りに早いので遅れがちになって思う存分働けなかったのが残念です。」
「この付近では英軍の電線を切ったり、ゴム林の中に潜んでいるマレイ人に宣伝したり致しましたが、日本軍のためにどれだけお役に立てたことでしょうか」
「君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や、兵にも優る功績なんだよ」というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、
「有り難うございます。
豊は一生懸命働きます。
私の命は死んでも惜しくない命です。
機関長の部下となり、立派な日本男児になって死ねるなら、これ以上の本望はございません」としみじみ述懐した。
(同177頁)

No.99

>> 98 マレーにおける特務機関の長である藤原は、当然、豊の過去の悲劇を知っています。
どこまでの謙虚でいじましい豊の態度は、藤原の心に涙を誘った。
しかしこのとき豊の体は、すでにマラリアに冒されていたのです。
----------------------------
初めての対面からおよそ1週間経った頃、藤原参謀のもとに「谷豊がマラリアを再発し危篤です」という報せが届きます。
藤原は、豊と行動を共にしている神本に、即時ジョホールバルの陸軍病院に移すよう命令します。
藤原は語ります。
「一人として大切でない部下はいない。
しかし、わけてハリマオは、同君の数奇な過去の運命と、このたびの悲壮な御奉公とを思うと、何としても病気で殺したくなかった。
敵弾に倒れるなら私もあきらめきれる。けれども病死させたのではあきらめきれない。
私は無理なことを神本氏に命じた。『絶対に病死させるな』と」
(同247頁)
-----------------------------
シンガポール陥落から数日経ったある日、藤原参謀は豊を見舞います。

No.100

>> 99 ---------------------
私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った。
見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは、
「充分な働きが出来ないうちに、こんな病気になってしまって申し訳がありません」と謙虚に詫びた。
私は「いやいやあまりり無理をし過ぎたからだ。お母さんのお手紙を読んでもらったか。よかったね」というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。
両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。
私は更に「谷君、今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったぞ」と伝えると、ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ、
「私が! 谷が! 日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!」と叫ぶようにいった。
ハリマオの余りの喜びに、むしろ私が驚き入った。
(前掲書269頁)
------------------------------
官吏というのは、今の国家公務員です。
盗賊として日本人から白眼視されていた豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだったのです。
開戦の1ヵ月前、豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いています。
日本を離れて長い年月を過ごした豊の手紙は、たどたどしいカタカナで綴られています。

  • << 101 ----------------------------- お母さん。豊の長い間の不幸をお許し下さい。 豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配しております。 お母さん。日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。 豊は日本軍参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くこととなりました。 お母さん喜んで下さい。 豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。 豊は近いうちに単身英軍の中に入って行ってマレイ人を味方に思う存分働きます。 生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。 お母さん。豊が死ぬ前にたった一言、いままでの親不幸を許す、お国のためにしっかり働け、とお励まし下さい。 お母さん。どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。 そしてお母さん。長く長くお達者にお暮らし下さい。 -----------------------
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