彼女

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2012/12/23 20:24(更新日時)

「…そうやって擽られて床に転がったら他の子も加わって私を擽ったの。スカートが捲れて、でも両腕掴まれていて直せなかった。少し離れた所で男子も見てた。
ただの悪ふざけ。

泣きそうだった。止めてって言った。けど止めてくれなかったし、誰も止めさせてくれなかったの。
…やる子に加わる子、やられる子、見てるだけの子、見て見ぬふりの子。
強くならなくちゃいけない、誰も助けてくれないんだからって、思ってた」

たぶん祐子は俺じゃなくて、カシスソーダに喋ってる。

No.1557402 (スレ作成日時)

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No.1

やる子にただ見てるだけの子、誰も助けてくれない、か…。
子供が大人を映す鏡ならそれが社会の縮図かも知れないね、なんて馬鹿な言葉をギネスで飲み込んだ。

それにしてもカシスソーダなんて空気が抜ける名前だ。
「カシスソーダください」

餃子の後は頼みづらいだろう。

ピスタチオのかたいところを食べてしまった。
「ケンさんスモークチーズちょうだい」

「ごめん切らしてるわ。カマンベールならあるよ」

俺はカマンベール嫌いです。
「カマンベールはいいや」

「カマンベール下さい」

祐子は何でも食う。

No.2

祐子が《私がチーズ好きなの知ってるのに何で「いいや」って言うの?》という目で俺を見た。
俺は《だって臭いし。家帰って雪印食えよ》と念じる。

カマンベールやブルーチーズもそうだけど、牡蠣、サザエ、レバ刺、ユッケ、ピータン豚足など、 俺が嫌いな祐子の好物は沢山ある。
そんなの仕方ないし、旨そうに食べる顔は好きだ。
しかしウォッシュタイプのチーズは臭くて困る。
でもカマンベールならまだ。ロックフォールやゴルゴンゾーラ程ではないし。我慢する。

祐子だってきっと俺の色々を我慢しているだろうし。


俺の彼女、倉石祐子を紹介します。

No.3

クライシ ユウコ
倉石 祐子

1982年9月30日生まれの28歳。
血液型はA

犬より猫が好きだが猫アレルギー。

妙に機嫌の悪い日がしばしばある。放っておくと鎮まる。

美人と言うより美しい表情をしている。と俺は思う。

ブラックマヨネーズが一番面白いと言っている。
松本人志は好きだが京都出身の元漫才師はきらいらしい。

眼鏡を掛けながら眼鏡を探していたことがある。

音楽が好きで特に洋楽ポップスにとても詳しい。

職業看護師。

取り敢えずこんなところです。

No.4

ギネスを飲み干した。「ケンさんカンパリロックで」


隣で祐子が吸うように食べているカマンベールが臭う。

祐子にも誰にも言ったこと無いけど、俺は凄く鼻が利く。例えば餃子を食べた夜、初デートばりに歯を磨いて寝ても翌朝自分の口が臭くてベッドを出る羽目になる。

みんなそうだと思っていたがどうも違うらしい。

言うと嫌われるだろうから黙ってる。
鼻がよくて得したことなど一つもない。

ちなみに俺が煙草を吸うようになったのは煙草の匂いが嫌いだったからだ。耐えられなくては仕事にならない。


カンパリの氷が溶けるのを待ちながら、祐子の話が途中だったことを思い出した。
「…で、思ってたって事は、そうじゃなかったってこと?」

祐子は《え…いつからいたの?》てな顔で「…何のこと?」と言った。

「…だからその、やる子やられる子って話。誰も助けてくれないって」

「ああ。うん、それはもういいの」

いいのかよ…

「それより、明日どうしようか?」

祐子は今日が夜勤明けで明日は休みだ。

俺は明日夕方出勤。

デートする約束をしていた。

「みなとみらい行こうか。船乗ろう」


「うん。いいね」「今日泊まっていい?」

「ああ」

「じゃあもう一杯」「すいません、ウォッカトニックください」

俺もそれがよかったな。カンパリってこんな濃かったっけ…。

「朝私の家寄ってくれる?」

「そりゃいいけど、電車で行かない?」

「うん。そうしよう」


俺たちは付き合って2年になる。

No.5

退院おめでとうございます💐

No.6

「これ飲んだら帰ろう」


…きれいな曲が入ってきた。

このブルームーンというケンさんの小汚い店を浄化するようだ。
祐子に訊いてみる。

「これ何て曲?」

「ヴァーヴ・パイプのフレッシュメン。…ヴァーヴパイプは私この曲しか知らないけど、イントロもアレンジも、声も好き」

…今よりもっと若い頃…
…俺の親友は彼女を忘れるために…
…俺は責任を負えない…

…俺達は…フレッシュメン…

飛び飛びにしか聞き取れない。よく解らないけど切なくてきれいな曲だ。


ケンさんの宝物だというマイルスデイビスの掛時計の針はいつも3時40分を指している。

「ケンさんいい加減この時計直しなよ」

「カズ、何度も言わせるな。止まってるほうが味があるだろ」

「ほんとですね」

「動いてるほうが価値があるよ」

そう言って携帯を開いた。
19時48分か。

新着メールが1件。

腕時計をしていたことに気付いた。
スパイラルタワーで祐子が買ってくれたスウォッチ。

普段はめていないのでつい忘れてしまう。

「祐子ちゃんとは話が合うね。音楽の趣味も。時々一人で来なよ」

「はい。お代はカズ君につけて下さいね」

「そうそう」

「…」
何も言えない。
フレッシュメン。

「祐子、ちょっとメールしていい?」

「ふっ いいよ 笑」

メールを打つ。


【届いてよかったです🚚
ご報告ありがとうございます。

ご養生に努めて下さい。
全快をお祈りしています。】


フレッシュメンが終わった。
そして

シンディ・ローパーのタイムアフタータイム。

目を閉じた。

これ以上優しい歌を俺は知らない。

No.7

タイムアフタータイムが全米No.1になった1984年、尾崎豊がデビューした。

尾崎豊は26で亡くなった。
俺と祐子は26で出会った。

無理矢理繋げてみた。


タイムアフタータイムは母と娘のことを歌っているようだけど、俺がこの曲を聴いてフラッシュバックするのは中学時代だ。

忘れられない女がいる。

最近、祐子にもそんな男がいるんじゃないかと感じている。
彼女は時々、誰の声も届かないような遠い表情を見せる。
カシスソーダに喋っていた時もそれだった。

最近まで、それは彼女が看護師だからだと思っていた。

祐子は仕事の話を殆どしない。
きっと看護師としてのプライドなのだろう。

しかしそれとは別で彼女の遠い表情は、看護師だから、だけでは無い気がする。


多分きっと祐子には、誰にも言わないことがある。

誰にも触れさせない場所があると思う。



彼女の心の中には、誰にも入ることのできない秘密の場所がある。

No.8

俺のカンパリは氷だけになり、祐子のグラスも残り2センチ程となっていた。
殆ど氷水だ。

「そろそろ行こうか」

祐子に合わせ一緒に席を立つ。

「あっ」

祐子が座る。

これが流れたらそうなるよな。

マイケルジャクソン
ビリージーン

俺も座る。


彼女がどれほどマイケルジャクソンを愛しているか、俺のボキャブラリーではとても語りきれない。

それを敢えて一言で言ってしまうなら
彼女にとって、マイケルジャクソンは神だ。

殆ど全ての曲に嫌になるくらい長い解説が付く。
しかしこのビリージーンについては殆ど語らない。

一つだけ、1983年にマイケルジャクソンが初めてムーンウォーク(バックスライド)を披露した曲がこのビリー・ジーンなのだと教えてくれた。

歌っている内容自体はそんな祈るようなものではないと思う。

[ビリージーンは僕の恋人じゃない
彼女の子供は僕の子供じゃない]

当時のマイケルジャクソンが、マスコミやファンなど周りの雑念雑音をうたったような内容の曲だ。

しかし祐子にとってこの曲が特別であることは間違いない。

何か特別な思い出があるのだろう。


ビリージーンを聴いてる祐子を見ていると

胸が苦しくなる。

No.9

ビリー・ジーンが終わった。

「行こうか」

「うん…」「ごめんね」


「何が」


「…何となく」

へんな女。

「ケンさんごちそうさま」

「あっ、今日は私に払わせて」

「いいよ」

「よくない」

「…どうしたんだよ。?」

「いいから私が払う」

こんなことで言い合う仲じゃないだろ。
「…ならローソン寄るからさ、おでん買ってよ」

「…わかった。ごめん」

今日の祐子はヘンだ。
まあいつもだけど。

「ケンさんごちそうさんでした。カードで」

「現金にしろよ。千円札が足りないんだ。5枚くれ」

「…。なあ祐子、考えられんないだろ?
絶対一人で来るなよ」

笑ってる。

祐子が笑ってりゃ全部OKだろ。

ケンさんに千円札を5枚渡してブルームーンを出た。

No.10

11月の、11月らしい風が火照った身体に心地よかった。

祐子が気持ちいいねと言った。


俺たちは何となく、柔らかく手を繋いで歩く。


「ブルームーンは何時から時価になったんだろうな。鮨屋かよ」

「ふふ。いいじゃん」

「よかねえよ。いいわけないだろ。今日だって2人で4千円切ってる筈だし俺がカマンベール嫌いなの知ってて「あるよ」とか言うしさ。
この間なんか頼んでないのにスモークサーモンくれて俺が「ちょっと臭いよ」って言ったら「やっぱり客には出せないか」だぜ?おかしいだろ」

「ははは。でも私、ケンさん好きだよ」

「何で?どこが?大丈夫か?」

「個人的なひとだから。
どこにも属してなくて、誰の上でも下でもない。
音楽と、お酒と、好きなものに囲まれて生きてるでしょう?
誰も傷つけたりしてないと思うから」


「今ぼったくられたばっかりだろ。
良く言い過ぎだよ。そりゃ俺も俺なりにケンさん好きだよ。少しは。けど多分、誰も傷つけない仕事なんてないさ」

「…そうかな。でも、ケンさんとカズ君て似てるよ。集団きらい、群れるの嫌い。一対一が好き。
誰の真似でもない自分だけの人生を生きてる。私は好き」

…だからそんなんじゃないけどな…

「…なあ、何かあったのか?」

「なんにもない」


今日の祐子の変な感じは新しい。

No.11

彼女の解せない態度や言動に、いちいち理由なんて付けてられない。
そんなことをしていたらこちらの身が持たない。

なので
俺は多くを「看護師だから」ってことにして済ませている。

例えば祐子が着替えるとき「向こう向いてて」なんて言うのも、一緒に風呂入ってくれないのも、ホテルの休憩でマジに休憩するのも、
理由は看護師だからだ。


解らない儘でいた方がいい事も(特に女に対しては多分に)あると思う。


しかしそんな阿呆な俺でも今日の祐子は引っ掛かった。



まあいいや


ローソンでおでんと牛乳とペーパーフィルターを買って貰った。

「買いすぎちゃったかな」

「食えよ」

No.12

家に着き、おでんを土鍋に移した。

ほうれん草を茹でて胡麻和えを作った。しらすが残っていたので一緒に和えて。

おでんを熱々にし、胡麻和えを添えると祐子は「さすが」と言った。


猫舌の祐子が熱がる所を見たかった。


おでんを食べた後、リクエストに応えてクラシックギターを弾いた。

アルハンブラや、11月のある日や、タンゴ アン スカイやカヴァティーナなど。

俺が横浜に出てきたのも、病院でおかしな出会いかたをした祐子を口説きおとすことに成功したのも、このギターがあったからだ。


クラシックギタリストを目指していた。

俺の中学時代の忘れられない女はギタリストだった。
もちろんいまも。


祐子は今、風呂に入っている。

No.13

祐子が出てきた。

スウェットに着替え、長い髪をE・YAZAWAのタオルで巻いて。

長さが丁度良いということでE・YAZAWAは彼女の専用になっている。

ケンさんがくれた。
「客が壁に飾ってくれって置いてったんだ。カズにやる」


俺も彼女もファンではない。


続いて俺が風呂に入り、風呂から上がり、リビングに戻った。

《またそれかよ…》

祐子が観ていたDVDはアメトークVol.3の「中学の頃イケてない芸人」

お気に入りらしい。
祐子曰く「面白いひとは陰を知ってる」のだそうで。

よく解らないけど、まあ、俺の記憶でも中学で目立ってたのは下らない野郎ばかりだった。
俺もだけど。


そして、俺が認めていたイッキョ(一臣(カズオミ))は協調性ゼロの“空気読まない”奴だった。

変わった奴。

中学時分、本当の意味で“イケてた”のはイッキョだった。


イッキョと出会わなければ当然、俺の人生は今とは全く違っていた。


ギタリストなんて夢を抱かなかっただろうし、
当たり前に進学していただろうと思う。


なにより、今ここで笑ってる彼女に出会うことはなかった。

No.14

祐子が、エガちゃんを見ずにDVDを取り出した。

《エガちゃんまで見ろよ》


「ねえカズ君、渡り鳥みない?」

「…」
《あのな祐子、もう0時になるぜ。アメトークに渡り鳥っておまえ何処に行きたいんだよ。
それにもう10日経ってるのわかってるか? 》

ごちゃごちゃ言うのは馬鹿馬鹿しい。

ストレートに。



「それよりやろうぜ」





そして俺たちはやった。








信じてもらえないだろうけど、お前と会うまではこんなんじゃなかったんだ。






俺は祐子のウサインボルト
胸を叩いて駆け抜ける

No.15

7時30分

祐子とのセックスには弱いけど、俺は朝に強い。じゃなくて、目覚めはいいほうだ。少なくとも祐子よりはずっと。

隣の女はバンザイをしていた。

死ぬまでHappy。


口づけてみたけど起きなかった。


とりあえず祐子の両腕を布団の中に仕舞い込み、顔を洗って朝食の準備をする。

BLTサンドにスクランブルエッグ。
ホットミルク。

多分今日もこれだけで喜んでくれる。


起こしに行くと、またバンザイをしてた。


「おはよう」


「…おはよう」


「メシ食える?」


「うん。たべる」

No.16

両手でBLTサンドを食べて「おいしい」と言った。

ありがとう


今、Boseのコンパニオン5からはサム・クックのWonderful worldが流れている。

“Don't know much
about history… "


祐子の好きな曲。

前に俺がカラオケで歌ったら軽く泣いた。


俺は今、この曲を聴きながらイッキョの言葉を思い出していた。
「多分吉田(社会科教師)は俺らに『お前達には人殺しの血が流れてるんだぞ』って言いたいんだろうな。馬鹿じゃね?」


大人になってから、中学生のイッキョの言葉にハッとすることが何度かあった。


《イッキョ元気かな…》



ところで、カラオケと言えば祐子と付き合って間もない頃、俺がブルーハーツのリンダリンダを歌ったら、この女は号泣した。

盛り上げるつもりが盛り下がった。


何故だろう。


看護師の方に訊いてみたい。

No.17

食後にコーヒーを淹れて取留めのない話をした。

すこしのんびりし過ぎてしまった。

家を出ると外は気持ちよく晴れ、昨日より暖かく、コートを手に持つ彼女はニットチュニックで充分そうだった。


みなとみらい駅に着いた時、ランチクルーズの出航時間にはギリギリな感じだった(祐子の家で思いの外待たされた)。

二人とも急ぐことは嫌いなので、船は諦めてクイーンズイースト内をぶらぶらした後、KIHACHIのパスタランチを食べた。

大観覧車に乗ったり、ゲームをしたり、。
ハードロックカフェで休憩した。
ノンアルコールカクテルを飲みながら。
ふつうのデートだったけど、カフェでおっさんになったイーグルスのホテルカリフォルニアを視聴できただけでも特別な一日だったねなんて話していた。

No.18

帰りの電車の中で二人は並んで吊革を握り、喋っては黙りを繰り返した。

そして句切りを見つけると、黙って同じ景色をそれぞれに眺めた。


俺は今朝のサム・クックのせいで、またイッキョのことを考えている。

17か18かの頃に、幻冬舎発行のある本を読んだ時、この著者はイッキョの爺さんかと疑うほど、言葉の雰囲気がイッキョに似ていたのを思い出していた。

もちろんプロの作家とイッキョが同じ訳無いけど、
何しろ俺はゾクッとしたんだ。


歴史を遡れば呆れるほど出てくる殺戮、見せしめ、集団リンチ。
その末裔が俺達。

男とは何と下らない生き物か。

デートの帰りにこんなこと考えてる俺が一番くだらない。


彼女は遠い目をしている。


看護師に訊い…『看護師看護師うるせえしうぜえよカズ。
お前が一番馬鹿じゃね?』


イッキョの声が聞こえた気がした。

No.19

俺とイッキョは中学を出ると同じ工務店に就職した。
軽い気持ちで。


イッキョが俺に言ったんだ。


「俺は上京する。 カズ、お前は横浜行ってギタリストになれよ」

No.20

俺カズ「あ?いきなり何言ってんだよ」

イッキョ「いきなりじゃねえよ。ずっと考えてた」

カ「知らねえよそんなの」

イ「とにかくお前は横浜だ」

カ「無茶苦茶言うな詩織だっているんだぞ」

イ「連れてけ」

カ「お前馬鹿だろ最近高校楽しくなってきたって言ってんのに。だいたい何で横浜なんだよ」

イ「じゃあ大阪でたこ焼き焼け」

カ「…はあ!?」


多分イッキョは俺がうざったかったんだと思う。



間もなく祐子の最寄り駅。

No.21

最寄り駅に着きドアが開くと、彼女は「ありがと、メールするね」と言い、ちょっと笑って俺の左手を強く握り直ぐ離した。
視線を逸らした彼女を俺はもう見ない。そう決めている。

離れていく姿を見るのはつらいから。
今度また会えるなんて保証はない。

そして2・3分緩やかな喪失感に揺られ次の駅で降りた。



メインストリートを少し歩き裏に入ると、幅広く如何わしい建物がある。

1階がスナックと不動産、2・3階サウナ、4階エステティック、5階が会計事務所。

これが表向きで

実際は1階がコウジさんのOKAMA Barと不動産、2・3階男性専用サウナ(女性マッサージ師四人在籍)、4階韓国式エステという名の性感マッサージ店で5階は鈴木組事務所となっている。


俺はここの2・3階で11年働いている。

3年前から任されるようになってしまった。


俺の仕事はサービス業。

接遇のプロだという誇りがある。

No.22

出勤時間まで余裕があったので、やっぱりメシはコウジさんとこで済ませることにした。

コウジさんは生まれた時から完全にオカマだったらしい。

「もうすぐ三十路やんなっちゃう」とか言っているが実際は五十近い。


俺カズ「オザマス」


コウジ「あら一樹ちゃんいらっしゃい」 「そのスタイル、デート?」

カ「そう」

コ「やった?」

カ「やってない」

コ「馬鹿ねえ」


カ「…準備中にごめんだけど、何か食べさせて」

コ「カマタマメンでいい?」

カ「、今朝たまご食べたからな」

コ「じゃあ…はい」


ペヤングが置かれた。


これでいいや


カ「入っていい?」

コ「どうぞ」


ところで 俺は彼女とデートするときだけ、こんなカジュアル野郎になる。

付き合って間もない頃、何か俺にリクエストあるかと訊いたら、カジュアルという言葉が返ってきた。

いまいち解らないのでとりあえず彼女にコーディネートしてもらった。
結果お子様ランチみたいになった。

選んでる最中も何度も文句言ったけど、ほれた女に笑顔で「絶対こっちのがいいよ」「すごく似合ってるよ」なんて言われたら悪い気はしない。


こうして俺はまた一つ馬鹿になった。

No.23

ペヤングの湯をすてソースを交ぜている。

コ「卵おとす?」
カ「だから今朝」

こんな会話してたら疲れてしまう。

カ「いらない」

………
卵でイッキョを思い出した。

《は。まったく今日はどんだけイッキョだよ》


俺達のクラスに、馬場康太という男がいた。

野球部の運動バカだった。

馬場ちゃんは悪いヤツではないのだけど、一言で言うなら……馬鹿だった。

例えばクラスメイトの背中に「恋人募集中」と貼ったり、給食のとき、背の低いヤツのライスてんこ盛りにしたりして笑ってた。

イタズラというのは、された本人が笑ってしまうものでなくてはならない。


それを解って欲しくて俺は、馬鹿ちゃんの背中に「仔犬を捜しています」とか「要冷蔵」なんて貼ってあげてた。

そんな俺をイッキョはほめてくれた。

「要冷蔵っていいな。あいつはちょっと冷やしてやらなきゃいけない」


ある日の放課後、俺はイッキョに宣言した。

「明日給食にユデタマゴ出んだよ。俺、馬場ちゃんのユデタマゴ、ナマタマゴに換える」

「いいアイデアだな。俺がタマゴ持ってきてやるよ」


そして翌日、イッキョが持ってきたのは 、アヒルのタマゴだった。

No.24

その卵は鶏卵より二回り程も大きかった。青白く縦長で。汚れていて。

俺は初めて見た。


イ「アヒルだよ」

カ「お前アヒル飼ってんの?」

イ「あんなふざけた奴飼うかよ。
小学校でパクってきた」

カ「スゲーなアヒル怒ってたろ」

イ「全然パクられ慣れてた」

カ「はっそんな親いるか?」

イ「奴らにとっちゃうんこ感覚だからな」

カ「…でもさ、いくら馬場ちゃんでもこれはまずいだろ」

イ「んなこたねえよ馬場喜ぶぜ」

カ「ほんとかよ」

イ「馬場はデカけりゃ何だって喜ぶさ」

カ「とりあえずうんこは拭いとかねえと」

イ「何で?付いてるほうがリアルだろ」

カ「茹で卵にウンコはおかしいだろ」

イ「そう言われりゃそうだな」

No.25

イッキョは卵の汚れを濡らしたティッシュで拭いた。

給食の時間になり、テーブルに置かれた馬場ちゃんの茹で卵をイッキョは片手で摩り替えた。

ものすごく素早かった。


馬場ちゃんが席に着こうとしたとき言った。

馬場「何だこれ…は?…俺こんなの取ってきてねえし。…おいお前ら待てや」


馬場「この卵やったの誰だ!…おいカズ、またてめえかコラ」

カ「ああそうだ…」
イ「俺だよ馬鹿、じゃなくて馬場」

馬場「てめえ」

馬場ちゃんがイッキョに近づいた。

馬場「ナメてんのかコラ」

イ「舐めてんのはてめえだろが毎日毎日下らねえことしやがってこのハゲ」

馬場ちゃんがイッキョに殴りかかった。

俺は止めに入った。
でももうどうしようもなかった。
周りの食器は滅茶苦茶になり、殴り殴られで、担任も割って入ったけど担任も揉みくちゃになった。


イッキョは、アヒルの卵をパクるところから、ここまでを考えてたんだと思う。

No.26

狡猾な真似はやめようぜ、もっとストレートでいいんだよカズ







このとき給食ぶちまけられた奴らはどうなったけか。担任がラーメンでも奢ってやったのかも知れない。


鮮明なのはイッキョの姿だけ。

俺は鼻の軟骨折れてもうアウトだった。
たしか担任も殴られてオロオロするばかりで。
馬場ちゃんとイッキョは始めこそやり合ってたけど殆ど馬場ちゃんが一方的に殴ってた。馬場ちゃんはガタイよくて、イッキョは細かったから。
周りの野郎共は観てるだけだったけどさすがに馬場ちゃんを止めてたかな。


イッキョは学ラン給食まみれで鼻血垂らして目も開けられない感じだった。それなのに平然と、すくっと立ち上がった。鞄も持たずに何も言わずに、アヒルの卵だけ持って出てった。

俺は後を追いたかったけど、追ったら傷つけることくらいは何となく解っていたと思う。

弱い担任でも空気読め男でもお揃い協調男でも俺でもなく、イッキョが馬場ちゃんを変えた。

馬場ちゃんはこのとき、おちょくられる奴の気持ちと、殴る痛みをいっぺんに叩き込まれた。

これきっかけで馬場ちゃんはほんとにいい奴になってしまった。


誰も敵わない。
イッキョだけが、もうこのとき既に男だった。


アヒルの卵をポケットに入れて出ていく後ろ姿が胸に焼き付いてる。

No.27

馬場ちゃんは今年も年賀状くれた。

イッキョとはもう…12年か。
音信不通。

いま何をしているんだろう。



馬場ちゃんはあの日から、本当に誰かの仔犬を一緒に捜すような奴に変わってしまった。

一方イッキョは何にも変わらなかった。


俺達三人は、学校で普通に話すようになった。

例えば参観日のあと

イッキョ「馬場の母ちゃんこのあと仮装大賞出んのか?なんだよあの鬼みたいな頭。…なあ馬場」

ババ「知らねえよ」

イッキョ「ちゃんと言ってやんなきゃ駄目だぜ母ちゃんわかってねんだから、なあ馬場」

俺カズ「マメ飛んでくるぜ」

ババ「うるせえっ」

イッキョ「水泳の帽子やったら?」

カズ「ゴーグルとビートバンもな」

ババ「カズてめこのやろ!」


カズ「何で俺だけ」



《…は。キリないな…》

ペヤングがら顔を上げると、コウジさんがジッと俺を見てた。



「一樹ちゃんあなたいい男になったわね」

No.28

「昔のあなたは舐められたくない舐められてたまるかって、とても尖っていた。悪いことではないのよ。それはとても大切なことよね。とくにこの世界で生きていくには絶対に必要な気持ち。
でもそれだけでは…」

「ごめんコウジさん、仕事前なんだ」

「そうねごめんね」



ペヤングを食べ終えた。


「ごちそうさま」

「お粗末さま。ごめんね。まったく、本当に食べるんだからこの子は」



席を立った。


「一樹ちゃんこれだけ言わせて」
「あなたもいい歳なんだから、デートして抱かないなんて失礼なことはやめなさい。
そのスタイル、とても似合ってるわよ」


「どうも」


コウジさんとは12年の付き合いだ。
俺のことを息子だと言ってくれている。
母親だと思っていつでも甘えてちょうだいね。と。


気持ちだけ有難く頂戴してる。
当たり前だ。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

さあ仕事だ。

No.29

コウジさんの店を出て、ボイラー室横の部屋で仕事着に着替えた。

五分袖シャツにダークパープルのスリムタイ、黒のテーパード調スラックス。これにKEENのルームシューズを履いた格好で仕事をしている。

俺とタケさんとソンちゃんとパクちゃんのユニフォーム。


階段を昇り裏口から入った。

まず受付の角田さんに挨拶。

「おはようございます」

「おはようございます。一樹ちゃんマッサージの畠山さんだったわよね。電話あって、うちで働きたいって」

「ほんとですか。で?」

「チーフに伝えておきますと言ったけど、よかった?」

「ありがとうございます」


ここを任されるようになってマッサージ師を全て女性にした。
今の四人にあと二人欲しい。

マッサージ師以外の従業員は8人。アルバイトはいない。


俺はチーフ。変な名前だ。
角田さんは一樹ちゃん、ほかのみんなはカズさんと呼んでくれる。



俺の独断で切った人間がいる。
俺のやってることは綺麗事じゃない。

No.30

整体治療院で働いている女性マッサージ師をスカウトするのは簡単なことではない。

俺のような力の無い人間がそれをやろうとするとどうしても裏社会の人間と関わることになる。


しかし女性マッサージ師なら誰でもいい訳じゃない。相手の紹介を続けて断り罰を受けたこともある。

それでも俺は女性マッサージ師に、その質に拘った。


男性相手の接遇に、女性に拘ることは絶対必要だと考えていた。


今日電話をくれた畠山さんは俺が個人的に声をかけていたマッサージ師だ。

二度会い、その後何度か電話で話している。


直ぐに畠山さんに電話して明日会う約束をした。

No.31

2階3階スタッフ、マッサージ師、お客に挨拶し2階カウンター内に入った。


俺はバーテン、ウェイター、
マッサージの予定組み客回し等をやる。


ここは
午前11:00~翌8:30営業

入浴料2000円

マッサージ
S(25分)3000円
W(50分)5500円

宿泊
3500円

朝食(モーニングプレート、コーヒー)
500円

深夜1時以降入浴宿泊同料金

基本的に開店から閉店まで時間制限はない


各ロッカーにバスタオルとフェイスタオル、上がり口にガウン、ハーフパンツが用意されている。フェイスタオルも重ねて置いている。


サウナ、風呂に入り、マッサージを受けリクライニングソファで寛いでもらう。

アルコールを飲んだり食事をしながら。


今どき、暴力団追放宣言なんて表に貼りながら実際は入れ墨タトゥーOKのこんなサウナがやっていけてる理由は幾つかあるけれど、その中でも女性マッサージ師と女性従業員の力に由るところが非常に大きい。


まず彼女達が安心して働ける環境を作り、それを守ることが俺をはじめ男性従業員の仕事であると考えている。

No.32

仕事の話は女に嫌われる。

No.33

舐めない 舐められない
 一緒にしない

自分に言い聞かせ、男性従業員に求めていることを簡単に言うとこの3つ。

スマイル接客じゃない。


堅気もそうでない者も、ここには様々な人間が来る。

また目的もサウナ、マッサージ、女性スタッフ、飲食(うちの生ビールは回転とサーバーの手入れが違う)、上のエステ、下のオカマ、宿泊、、様々だ。


一人一人みんな違う。


マニュアル接客は通用しない。

毅然とした態度でお客一人一人に一対一で接する。


自分と相手の一挙手一投足に気を配れなくてはならない。


17になってすぐ19だと偽りこの店に入った。

今年で12年目になるけれど、未だに掴めきれないでいる。
これから先もずっとそうだろうとも思う。


接客という仕事を、人間を、舐めてる奴は通用しない。


角田さんとタケさん以外の従業員は皆俺が選んだ。

俺にとって今ここで働く人達はものすごく大切。

みんな本当によくやってくれている。


立て直し売上を伸ばした。サウナに客が増えたことで鈴木組傘下の韓国エステも上向き、組からも一目置かれている。

端から見たら悪くないだろう。


しかし前よりずっと孤独になった。


精一杯隠しているけど、本当は祐子に依存してる。

あいつがいなくては生きていけない男になった。


俺は人を使えるようなタマじゃない。

隠して今日も働いている。

No.34

とくに何事もなくカウンターの営業終了時間になり、片付けして消灯した。

am2:00
受付番をしながら“そばもん(漫画)”を読む。


奥の三畳程のスペースでパクちゃんが仮眠を取っている。
2年前に買ったトゥルースリーパーの上で高鼾。

このトゥルースリーパー、俺には合わなかった。

返品したかったけど梱包が面倒な上に手続きがややこしくて諦めた。

でもパクちゃんはよく眠れると言っている。
パクちゃんはどこでも眠れる。

am4:00
パクちゃんを起こし風呂に入った。

俺はサウナが苦手。
あんな暑いの我慢できない。


am5:00
二人でモーニングの準備をした。

こんな俺でも一応調理師免許は持っている。ハタチ時分コウジさんがうるさく言うから仕方なく取った。

調理師専門学校があるくらいだから難しい試験なのだろうと思っていたけど、少し勉強しただけで取れた。実務経験2年なんてのも何となくOKで。

am6:00
早いお客にモーニングを提供しコーヒーを淹れた。

am8:30
業者が掃除に入った。

am9:00
お客が全員チェックアウト。

am9:30
俺の1日が終わった。


午後2時にマッサージ師の畠山さんがオカマバーに来てくれる。

“1時に起こして下さい”

書き置きして受付奥で横になった。

No.35

午後1時に起こしてもらい、煙草を吸って歯を磨く。

チェスターバリーのバーズアイスーツに着替える。


すぐ近くのSUBWAYでアボカドべジーを食べる。

そしてコウジさんの店でA・ヨークのキンダーライト組曲をかけて畠山さんを待っていた。

初めて畠山さんの仕事を拝見した時のことを思いながら。


俺はマッサージ師をスカウトするときマッサージを受けない。

パクちゃんやソンちゃんに受けてもらい、俺はそれを見る。
タオルの置き方、視線の先、呼吸、肩の揺れや表情など、その仕事を、その人となりを見る。

畠山さんは素晴らしかった。
プロフェッショナルだと確信した。


語弊があるけど
女を見る目はあると思っている。

子供の頃大人の女ばかり見てた。


このひとがお母さんだったらどんなだろうと。



生い立ちを理由にしたくないけど物心ついたときから親父しか居なかったのは大きいと思う。

多分とても大切なものが欠落してる。


祐子に抱きしめてほしい
なんてゼッテー言えない


畠山さんが来た。

No.36

少しだけ戯けて言った。

俺カズ「本日は足をお運びいただきありがとうございます」

「そんな笑…携帯からご連絡いただいていたのにお店にかけて、失礼じゃなかったかと」

「そんな笑…うれしかったです。どうぞお掛け下さい」

「失礼します」


そしてカウンターに入りケトルの湯で紅茶を淹れる。

コウジさんが紅茶好きで、このオカマバーには様々な種類が置いてある。

今淹れてるのはアンブレというやつ。
ハチミツとオレンジらしいけど、なんともいい香りで俺はこれが好きだ。
飲まなくても淹れて置いとくだけでいい。


畠山さんは白のシレ加工ブルゾンの下に、藍色の(多分コットンフランネルの)ピンストライプシャツを着ていた。

ベージュのニットキャスケットを取り手櫛を入れる。

結っていたから知らなかった。

肩にかかるスリークヘアがとても似合っていた。

No.37

応接テーブルのコーナーソファに腰掛けて向かい合う。

圧迫感を与えないよう少し斜になる。


ちなみに面接の時いつもスーツで紅茶を淹れる訳ではない。

俺の面接は男か女かで応対の仕方が違うし、相手によってその時その時変える。


畠山さんとは既に仕事内容や勤務時間、当面の入居先、給与面等の話も殆ど出来ていた。


今日大切なことは戒めることではなく安心してもらうこと。

女性が男性専用サウナで働こうとするとき、当然不安がドカ盛りになる。

自分が、男性従業員が貴女を守るということ、殆どが常連客で彼等は貴女の味方なのだということをまず言葉で伝える。

指名客のこと等で、マッサージ師間の不和が生じぬよう客回しには細心の注意を払う、それが自分達のキャリアなのだということも。


面接というのは、こちらが批評される場でもある。

『この男は信用できるだろうか』

彼女の厳しい眼が向けられる。

No.38

履歴書を見せてもらう。

履歴書は殆ど参考にならないし、しない。

さらさらと目を通し顔を上げた。
クールに。紳士に。


しかし内心驚いていた。

《38歳!?ウソだろ俺より10上かよ…マジ見えない…タメくらいに思ってた…》



女を見る目あるとか意味が解らない

No.40

紅茶道具を洗っていたら目がチカチカしだした。

《久しぶりだな》

携帯してるレルパックス(頭痛鎮痛薬)を一錠飲む。

このチカチカしだした時に飲めば痛みはごく僅かで済む。

ソファに横たわり目を閉じた。

ガキの頃から片頭痛発作に悩まされてきた。

まず視界に透明な糸のようなものがピロピロする。それがどんどん増え、やがて壊れるような頭痛になる。
酷いときは意識を失った。

救急車で運ばれその都度CT、MRI、脳波、採血などフルコース。検査入院。
結果は毎回原因不明。


病院の金儲けだと思っていた。大人になって清水俊彦著の
『頭痛外来へようこそ』という本を読むまでは。


思い出していた。


《…てんかん発作だの喘息発作だの骨折だのと、やたら病院に世話になるガキだったけど…あの頃は、気持ち悪い笑顔の医者も優しい看護師も大人はみんな金金金、金で動いてると思ってたな……金になるから俺に優しくするんだって…
ハ……昔から捻くれてた》


目を閉じて考えていた。

《今まで何人面接したかな…
50人じゃきかないな…
それにしてもパクちゃんもソンちゃんも日本語うまくなったよな…俺のがおかしいぜ…
面接で批評はされないだろ…

俺は馬鹿だ…》


思い出していた。

祐子と出会ったきっかけを。

面接だった。

病院に運ばれたんだ。

No.41

2年前のその日、俺は仕事を終え帰宅途中だった。

このころの勤務時間は午前11:00~午前1:30と殆ど決まっていたため、だいたいいつも同じ時間に帰ることが出来ていた(モーニングは提供していなかった)。


その日も午前2:00過ぎ頃、いつもの家路を歩いていた。

パチンコ屋と貸スタジオの間、路地裏に入ったところで後ろから首を絞められた。

一瞬わけがわからなかったけど、別の奴が俺のバッグを引っ張り、さらに別のもう一人が足を掴んで俺を倒したので襲われたのだと解った。

しかし完全にバックチョークがきまり頸動脈を絞められていたからどうにもならず。
そのまま絞め落とされた。





気がついたとき診察台の上にいた。

レントゲン室。
技師らしき男に体位変換されているところだった。

男からしてみれば夜中に突然仕事になって「ついてねえな」だったろうけど、身体中痛くまだ状況が飲み込めていない俺は、その荒っぽい転がし方に苛立った。


特に顔と、首がすごく痛かった。


立てます?

は…イテテ

歩けます?

…歩けますけど…背広とバッグ…財布もないし…


技師らしき男はダルそうに首を横に振った。「何も」


買ったばかりの、臙脂のナクレヴェルヴェットの背広もコウジさんに貰ったダレスバッグも、携帯も鍵も、煙草まで全部持っていかれてた。


六人部屋病室廊下側のベッドに案内され横になった。

No.42

私服は殆どスーツかジャージだった。

チャラバカの流行ファッションにてんで興味無かったし、古いだの新しいだのどうでもよくて。

舐められないように。
これが第一だった。


硬いベッドの上で考えていた。

《携帯電話のセキュリティはロック設定だけでどの程度大丈夫なんだろ…
犯人が俺の部屋知ってたら荒らされてるだろうし

エンジのナクレ…畜生

コウジさんが誕生日にくれたダレスだけでも返せよ…》



ふと、俺の顔の上で大丈夫か!大丈夫かって言ってる男が朧げに浮かんだ。

きっと彼が救急車を呼んでくれたのだろう。

《よく呼んでくれたな…
つうかよく目撃者いたよな…》


…変な臭いがした。

《…俺か?》

首が動かせないので二の腕を鼻に近づける。

下品でチャチな香水の臭い。

《……っ、あいつか、クソが》

それは数週間前に面接に来た男の香水の臭いだった。

No.43

その男は大学卒の24歳だった。

姿勢が悪く、挨拶がまともに出来なかった。

香水を浴びて面接に来た。

俺は彼のひとを小馬鹿にした態度に何を言っても無駄だと思った。

単刀直入に「不採用です」と言って席を立ち、手を出口の方へ向けて「どうぞ」と言った。

すると彼は露骨に態度を変えて
「は?、何が?」

俺は努めて丁寧に
「不採用です。お疲れさまでした」と言った。

彼は鼻で笑い、大きな音をたてて席を立ち帰って行った。





クレジットカードは盗難保険に入っている。
どのように適用されるのか知らないが心配しても仕方ない。
朝になってから連絡するしかない。

現金もまあ仕方ない。


ただ、ダレスバッグだけは絶対に返してもらう。

後ろから、数人で俺を襲い、全て持って行った。

許さない。



履歴書が残っているはず。

組織に頼ることは頑なに避けてきた。

それが俺のプライドだった。

しかし俺はこの時、組に借りを作るつもりでいた。


彼女に出会わなければ、道を外していただろうと思う。

No.44

小便がしたくなった。


トイレで用を足し、鏡を見て驚いた。


左の眉尻あたりから顎まで、血が黒く固まっていた。


少しずつ水で洗い流すと、傷はそれほど深くなかった。

眉尻から左目にかけて痣になり、頬骨上の皮がめくれていた。


《…レントゲンの兄ちゃんはレントゲンだけ撮ってあとは知りません、か

身包み剥がされて、こんな顔で救急車乗って来た俺に、あの兄ちゃんえらい機嫌悪かったな

去年手術で入院したとき看護師が「夜は処置できませんので」って言ってたから夜は処置できないんだろうけど
俺の店だったら消毒して絆創膏くらい貼ってあげるけどな

まあ、金持ってないってこういうことさ

こういう寂しさ虚しさ
ガキの頃いっぱい経験したよ》

No.45

レントゲンの兄ちゃん

うちの店では通用しない


「不採用です」

鏡に向かって言い、
視線を落として少し笑った。



笑い声がした。

『ハハ…不採用はお前だぜカズ
何だそのシケたツラ

なあ、覚えてるか
俺が上京する時、お前がシケたツラしてっから頭ひっぱたいてやったらお前、
思いっきり俺のツラひっぱたいて、泣きながら言ったよな

「俺も、すぐ横浜、行く
イッキョてめ、ゼッテー帰ってくんな」

今のお前、あの時のお前に笑われるぜ…』

No.47

心の中でイッキョに問いかけてみたけど返事は無かった。

《そうだよな…よかった…》


なのに続けた。

『お前プライドって何だと思う?

1年か2年の頃
詩織が「スッゴクいい歌だよ」って貸してくれたCDの歌詞に

“妙なプライドは捨ててしまえばいい
そこからはじまるさ”

ってあったけど

捨ててしまえる妙なものは
プライドじゃない

捨ててしまえる妙なものは
プライドじゃなくこだわりだ

それじゃサマにならないけど…

とにかく
プライドは命ほど大切だよ


舐められたくないって気持ちも
俺にとってはプライドなんだ


お前のプライド教えろよ

なあ 何か言えよ…』



やはりイッキョはこたえない。

想像してみる。
多分
イッキョはこう言う。

『お前の女がいい曲だっつってんのにごちゃごちゃ言うな馬鹿』

頭が痛い…

ウォーターサーバーの水を飲んでベッドに戻った。
============

翌朝

足音やらキャリーワゴンの音やら声やら何やかんやで目覚めた。

少し眠ったらしい。

首が更に痛い。
頭もギュンギュン痛む。


俺にも朝食を運んでくれた。
金持ってないのに。

昨日の夕方、おにぎり2個食べたきりで胃の中は空っぽ。

家に帰ってカレー食べようと思ってたところを襲われた。


しかし無銭飲食はできない。


学童保育を思い出す。

No.48

子供の頃
学校から帰っても家には誰もいなかったので、放課後、学童保育というところに入れられていた。

学童には小学三年生まで世話になった。


学校には馴染めなかった。

学童保育にも俺の居場所は無かった。
本当はあったんだろうけど、無いと感じていた。

嫌だった。

たとえば学童保育のクリスマス会、職員がサンタの格好で俺らにプレゼントをくれる。

これがたまらなく嫌だった。

恵んでもらう感覚に傷ついていたのだと思う。

============

大人の優しさや好意にいつもケチをつけていた。
優しくされればされるほど頑なになった。

今ならその理由がわかる。


自分の親だけを悪者に出来なかったから。


自分は可哀想な子供じゃない
自分の親だけが悪い大人じゃない

男気のある教師も、本当に優しい看護師も、みんな敵だと思い込むことで踏ん張ってきた。

============

せっかく運んでくれた朝食だったけど、抵抗感が拭えない。

「すいません、食欲ゼロで」

下げてもらった。


そして看護師が来て具合はどうかと訊いた。

「首と頭が痛いです」

親族と連絡取れないかと訊かれた。
親父とは10年前に絶縁している。取れないと答えた。

知り合いと連絡取れないかと訊かれた。

俺の知り合いは皆この時間寝ているし、そらで言える番号はサウナと、コウジさんの店と携帯だけだ。

コウジさんは寝ている時間。
サウナには清掃業者しかいない。
もちろん業者は電話に出ない。

看護師は困った様子で出ていった。

そして俺はまた眠った。

No.49

目が覚めると頭痛は幾分鎮まっていた。


ふと思った。

《これはまずいな
俺は被害者なんだ
警察が来る
事情聴取はごめんだ

…つうか…この病院…どこ?》


ベッドから起き上がり、階段を降りて通路を歩き、非常口のようなところから外に出た。

No.50

《ここどこだよ…》

9月の朝にシャツ一枚は寒い。

正面入口に病院の名前があった。
俺の最寄り駅と二駅離れた駅名の病院。

歩いて帰るのはきつすぎる。

《救急車で運ばれてるんだ
ぜったい警察来るぞ
誰かに金借りて帰らないと》

…もよおした。

病院のトイレに入って
また驚いた。

痣が広がっていた。
自分でも恐い。

《こんな顔…
誰も金借してくれないだろ…
どうすんだよ…》


用を足して、混乱したまま
とりあえずまた外に出た。

やっぱり寒い。


すると向こうから、眼鏡を掛けた女がトコトコ歩いてきた。

『…面会午後からだなんて知らなかったな…
とりあえず一旦帰って洗濯しよ…』
てな顔をしていたこの女が祐子だった。


後日、このときのことを彼女は

「夜勤明けにヤクザに脅された」
と言っている。

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