携帯小説「二番目の悲劇」

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2009/08/18 18:34(更新日時)

「二番目の悲劇」

🔯 作者@ りん
🔯 演出@ ホロロ

で、進めて参ります、長編小説です。

新しい試みですので、優しく見守って下さるようお願いします🙇

No.1159104 (スレ作成日時)

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No.451

「おまえにもそういう意識があるのか」
中村は思わず苦笑した。
「残念なのか蓜」

「おかげで仕事が少なくて楽ですよ」
隼人はけろりとしていった。
「ところで、ラリー・ホーンはもう到着したのかな。僕、実は大ファンなんです。ノーベル文学賞委員会もよくあの人を選んでくれたもんですよ。ネットで調べたんですけど、大方の予想を裏切った大逆転だったらしいですよ。
あと、ラリーは隠遁生活を送ってる宗教家らしいって……」

「おい、そういうサイトは個人的趣味でやれ。
素人じゃないんだから」
中村はぴしゃりと言った。
「でっちあげ情報に踊らされるぞ」


「だけど、確実な情報なんてこれっぽっちですよ」隼人はマスコミ用資料のファイルをつついた。

中村も手元にあるラリー関係の資料に目を落とした。
1ページの半分しか活字が埋まっていない。


ノーベル文学賞受賞、
ラリー・ホーン。


代表作『大いなる幻想』

受賞理由
人類のユニークな理想世界を調和的に構築してみせた――。

「国籍、性別、年齢不明」隼人はいった。

No.452

「まさか」
中村は顔を上げた。
「インターネットでラリーの顔写真まで流れてるのか蓜」

「そうじゃないけど、会った瞬間にピンとくるでしょ、僕なんか『大いなる幻想』を三回も読んでますからね。
あれだけのものを書く人だから、きっと全身からオーラ出まくりでしょ」

「バカいってんじゃないよ、ハリウッドスターじゃないんだから」

「ラリーの記者会見は今日の3時からでしたよね」
隼人はてきぱきと立ち上がった。

「僕、ちょっと聞いてきます」
隼人は早速アカデミー関係者をつかまえて、流暢な英語でしゃべっていたかと思うと、あっという間にどこかへ姿を消してしまった。


やれやれ――。
中村は運ばれてきたコーヒーをすすり、近くで取材を受けているレナード博士の知的な声に皆さん耳を傾けながら、その週の記者会見スケジュールを確認した。

日本人受賞者がいないのは残念だが、確かに楽な仕事ではあった。

ふと目を上げると、窓際に一人で座っている黒髪の女性に気付いた。
サングラスをかけているが、どうみても日本人女性だ。

No.453

中村はその上品な顔をどこかで見た覚えがあった。
頭のリストからすぐに名前が出てこなくなったら、記者として致命的だ。

ええい、これは歳のせいなんかじゃない――。
中村は眼鏡をはずし、目を閉じて記憶をひねり出そうとした。
著名人の奥さんか蓜
いや違う、 女優蓜
そうじゃない、なんかの芸術系だったような――。

「大変です中村さん晙」
隼人の声がした。
「寝てる場合じゃないですよ」

「寝てないよ」
中村は、ぱっと目を開けた。
見ると、隼人が今まで見たことのないくらい興奮している。
その手には一枚の紙を持っていた。
有名人にサインでもしてもらったのか蓜

「記者会見で配られる予定の資料を入手したんです」隼人は息を切らしていった。

「そしたら、見てください。ラリーは日本人女性だったんですよ晙」

「なんだと蓜」
中村は急いで眼鏡をかけ、資料を引ったくった。


本名: カズミ・ハセ、
ジャパニーズ、53歳女性、アメリカ・ロサンジェルス在住――。




中村のまだるっこしい記憶の中で、また何かかチクリと引っ掛かった。

この名前――。
どこかで聞いたことがある……蓜

No.454

「ああ~」
隼人は頭を抱えた。
「ラリー・ホーンがまさか日本人女性だなんて――」

「進んでるようで、案外おまえもとらわれてんだな。おじさんは安心したよ」
中村はいった。
「よし、すぐに本社へ連絡だ。早速インタビューを申し込むぞ」

「はい」
隼人は携帯電話をポケットからつかみ出しながら、はっと息を飲んだ。

「あ、きっとあの人だ。ほら、すごいオーラが出てる」
隼人が目ざとく見付けたのは、さっき見た窓際の麗人だ。
その瞬間、中村の脳が反応した。

「ちがうちがう、あれは川井紫苑だ。 現代絵画の巨匠」

よかった、思い出せた――中村はホッとした。
思い出してみると、何故そのくらいわからなかったのか不思議になる。

「へえ、あの人がシオンですか」
隼人は感心してうなずいた。「最近、イギリスの超アイドルがシオンの絵を買い占めて騒がれましたよね。
そういや、彼女はスペインに住んでるだったなあ。今日は何しにきたんだろ……あれ蓜中村さん蓜」


「カズミ・ハセ蓜」
中村はまた、うーん……と目を閉じた。
ハセカズミ蓜 気のせいか蓜 どこかで、ずっと昔に聞いたことがあるような……

No.455

顔にすっぽりお面をかぶりたい――
今、正直な心境は蓜と尋ねられたら、和美はそう答えるしかないだろう。

晴れやかな顔の月絵やマイク、はしゃぐ娘のマリナをうらめしそうに見ていた。

『スウェーデン旅行に行こう』という母親の誘いに喜んでついてきたマリナは昨日、飛行機の中で初めて秘密を打ち明けられ、危うくビールを噴き出しそうになった。

お母さんが実はあのラリー・ホーンで、これからちょっとノーベル文学賞をもらいにいく蓜
いくらジョークのセンスがないといっても、こんなくだらないネタは思い付かない。
いつもクールな娘をこれだけ驚かすことができて、和美は一生忘れられないくらい痛快だった。

もうここまで来たのだから、気張らずにこの珍しい体験を楽しもう――。
そう決心していた和美は、待ち構えていた関係者達と対面した。

たくさんの握手と抱擁。
世界各国の言葉による賞賛が彼女を包み込む。


その光景を棒立ちになって見ていたマリナは、たちまち顔面蒼白になった。


「大変晙明日の記者会見までにこのママを磨かなきゃ昉」

No.456

スイートルームに案内されて母子ふたりきりなると、マリナは恐ろしい不幸に見舞われたように頭を抱えた。

母親の全身に絶望的な視線を投げ、ホテルの電話に飛びつく。
もちろんエステサロンと美容室の予約だ。

「人前に出しても恥ずかしくないように……ああ、どうしよう蓜」

そう、マリナはよくやってくれた。娘の役割に目覚め、一生分の気遣いを母親に集中させて、精一杯の努力をしてくれた。
だが、なにしろ元が元。
マリナが厳選したブラックフォーマルを着ても、たちまち日本のどこにでもいるオバサン化する。

集中マッサージを受けたウエストは、たった15ミリ減っただけだし、どんなに美容師が腕を振るっても小顔にはならない。
和美にできるのは、せめて手と足が一緒に出ないように歩くことぐらいだった。

午後3時、和美が時間通りに記者会見の広間に入っていくと、記者団から軽いざわめきが起こった。世界各国の視線を浴び、和美はあっという間に舞い上がった。

No.457

インタビュー台が富士山のように高く見える。
思えば人前に立つなんて、小学校の学芸会以来だ。

「ああ、ダメよ」
和美は涙ぐみながら回れ右をしていった。
「やっぱり帰りましょう」

「な、何バカな事いってんの蓜」 マリナは慌てて止めた。
「ここまで来たら帰る方がよっぽど恥ずかしいよ。昔、あたしのダンスの発表会の時にママそういったよね蓜」

人にはなんとでも言える。和美は逃げないようにマリナと月絵に羽交い締めにされながら、ラリーを紹介するために壇上に上がっていくマイクを呆然と見ていた。
まさに適役だ。
マイクは少しも臆することもなく、すらすらと和美の経歴を紹介していた。

ついでに自分の代わりに挨拶もしてくれないかしら。


「それではお待たせしました、謎の覆面作家、ラリー・ホーンをご紹介しましょう」

マイクは和美の方へ、すっと手を差し出した。
「世界初公開です」

「ママ、頑張って」
マリナの声が震えていた。
和美は娘の声に押され、何とか壇上まで辿りついた。
おびただしいフラッシュで前がよく見えない。
それがかえってよかった。

No.458

「皆さん初めまして、ラリー・ホーンです」
発音のいい英語で受賞の感謝を述べると、改めてため息とどよめきが渦巻く。

和美はあたふたとメモに目を落とし、月絵と一緒に考えたコメントを何とか述べ始めたが、その半分はすでに脳から流れ去っていた。

早々に質問に移ると、驚くほどたくさんの手が挙がり、銃でも向けられたように和美はたじろいだ。
記者の中には日本人の顔もちらほら見える。
和美は1番前の席で、若い男が口を半開きにしてカメラを回しているのを見た。

この映像は日本にも流れるのだ。

わたしはわたし――。
和美は覚悟を決めた。
他の誰にもなれない――。
自分を良く見せようとするのではなく、和美はひとつひとつ、一生懸命質問に答えていった。
わからない専門用語は、月絵に説明してもらう。
それでどういう印象を与えようと、これがラリーの真の姿だった。

「ラリーさん」
さっきの日本人の若い男が手を挙げた。
「あなたは日系の2世ですか蓜」

No.459

 堂々と日本語で質問してくれた事が嬉しかった。
和美は古い友人を見つけたように日本人記者たちに微笑みかけた。

「二世ではありません。わたしは日本人です。
関東で生まれ育ち、アメリカへ渡ってからもう30年になります」

「この『大いなる幻想』を書くまで、どんな活動をしていたのですか蓜」

「特別なことは何もしていません。家庭の主婦をし、3人の子供を育てておりました。息子はあなたと同じ年頃です」

 その答えが通訳されると、またしばらく驚きのざわめきがあった。
謎に包まれたラリーの生活は、どこにでもある普通の生活だったのだ。

だが、和美はその答えに誇りを持っていた。
母であり、失敗したとはいえ妻であったことに。

 わたしの言葉は明日にでも母国に届くだろう。
年老いた両親、ミチと大翔、矢ノ原、自分が過去に関わってきた人達、わたしを憎んだ人達、みんながこれを見るだろう。

もしかしたら別れた佐伯も――。

そして、オバマも――。

わたしは今はただ、その人達に対して正直でありたい。
ありのまま何も隠したくない。


たとえ、これで破滅が訪れることがあったとしても――。

No.460

 やっと落ち着いてきた頃に記者会見は終了し、和美は盛大な拍手に包まれながら壇上を降りた。
様々な色の称賛の目が和美を見つめている。
その中には、最愛の娘の潤んだ目もあった。

「ママ、ママ……すごくよかったよ」
マリナはいった。
「あたし、ママの子供でよかったよ――」

 差し出されたその手の温もりは、どんな賞よりも嬉しかった。

和美はそれをしみじみと味わいながら、何かに呼ばれたようにふっと後ろへ目をやった。


 そして、彼女を見た。
出口のそばにたたずみ、
サングラス越しにじっと自分を見つめている女を。
忘れていた存在――。
かつて二度までも自分を追い詰め、人生を変えさせた、危うい運命の人。



 広がっていた未来が、あっという間にざらざらの灰色の世界になる。
和美の頭にぽっかりと空白ができ、全ての音が辺りから消えていくのを感じた。


「あっ、ママっ」
マリナの悲鳴が響いた。
「誰か― 誰か来て晙」

 暗闇。
不気味な黒い静寂の中から、一つの名前が浮かび上がってくる。
その名は和美の中で、破滅とセットになっていた。



紫苑。
――川井紫苑。何故ここにいるの蓜

ああ、もうおしまいだ――。

No.461

 それは、突然のハプニングだった。
ラリーは壇上から降りた途端、根元を切られた樹のように倒れたのだった。
とっさに代理人が受け止めたものの、会場は一時騒然となった。
その瞬間、一番前にいた中村は飛び上がり、とっさに日本語で『救急車っ』と叫びながら、カメラで連続シャッターを切っていた。
習性とはすごいものだ。

「だけど、貧血じゃ記事にはなりませんね」
心臓麻痺かなんかであの世に逝ってしまえばスクープでしたけど――
と隼人は胸の中でいった。

「それにしてもこの表情」中村はうなった。
「絶対に見覚えがあるぞ」
ビールを飲みながら、数枚の写真を確認している。
青ざめた、泣きそうな女の顔――。

「ここだけの話、ホントにこの人が『大いなる幻想』を書いたのかなって感じ」
と隼人がいった。

 その時、中村はビールの缶を落としそうになった。
そこまでショックを受けることないじゃん――と隼人は胸の中でいった。

「……あの女だ」
中村は呆然としていった。「あの時、俺もそういったんだ。あの、ミュージシャンのスキャンダルを同僚がものにした時」

No.462

「え、中村さんが写真週刊誌のの記者をしていた頃の話ですか蓜」
隼人はいった。

「そうだ、30年くらい前か。ホントにこの人が『あのドアを開ければ』をつくったのかって――そうだ美波カズだよ。」

「誰ですか、それ蓜」

「『あのドアを開ければ』って歌知らないか蓜
桜ってすごい声の歌手が歌ってた――。」
 中村は思い出しながら何フレーズか口ずさんだ。いわゆる懐メロだ。
 だが、ジェネレーションギャップのある隼人にも不思議と古さを感じさせないメロディーだった。

「もしかして胎教で聴いたのかな」
隼人は首をかしげた。
「しかし中村さん、意外といい喉してますね」

「そんな事いってる場合じゃないよ。この歌はな、まるっきり盗作だったんだ」

「え蓜 盗作蓜」

「それだけじゃない。 美波カズはそれ以前にも絵画の盗作をやってたんだ。あの女はおとなしそうな顔をして、最低の女なんだよ」

「そこまで言うか蓜」
今度は隼人がいった。

「そいつが、今度は小説だと蓜 こりゃ大ごとだぞ」
中村は鼻息を荒くした。
「そんな手を替え品を替え、手品師みたいな事ができるもんか。」

No.463

 画面からはまだラリーの控え目な声が流れている。
確かに彼女の受け答えは作家とは思えない内容だ。隼人は画像を停止させ、先輩の顔をじっと見つめた。

「あのお、中村さんの言うことを聞いてると、まるで盗作作品がノーベル賞をとったって言ってるみたいですけど……」

「ありえない事じゃない」中村はいった。
「あいつに小説なんか書けるわけがないんだから」

「ちょっと待ってくださいよ。これは世界のノーベル賞なんですよ晙
この情報化時代に、ここにいたるまで盗作が発覚しないなんてあると思います蓜
いいですか、あの本は世界中でもう一億人以上が読んでるんです。そのうち一人も気付かないなんてあるわけ――」

 中村は聞いていなかった。怒りとアルコールで顔を赤くして、もう本社に電話を入れようとしている。
隼人はすばやく立ち上がると、ぱっと彼の手から携帯電話を取り上げた。


「あっ、何するんだ」
中村は驚いて顔を上げた。

「落ち着いて下さいの中村さん。もうゴシップ雑誌のゴシップ記者じゃないんだから」
 隼人はしまった、と思った。胸の中でいうはずが、つい口に出して言ってしまった。

No.464

 中村はたちまち怒りで真っ赤になった。
今度こそクビになるかも知れない。
だけど、ただ従順に仕事をしていたら、いつか正しいものを見失ってしまう時がくるだろう。

それでは何のために新聞社に入ったのかわからないではないか――。

「すみません」
隼人は謝った。
「でも、もし過去を隠すつもりなら、本名は絶対に伏せておくし、ノーベル賞の受賞式にだってくるはずがない。この人にはきっと何か考えがあるんだ」

「バカヤロ、受賞式で『わたしは盗作をしましたゴメンナサイ』なんて言うと思うか蓜」

「だけどどう見たって、そんな世界中相手に詐欺をするような図々しい人には見えませんよ」


「俺は探る」
中村はコートを羽織り、バッグにカメラを突っ込んだ。
「絶対何かあるはずだ」

「どこ行くんですか蓜ラリーは体調を壊したから、インタビューは明日まで中止ですよ」


「いいから、おまえは仕事しとけ」
命令口調で指示すると、中村はバッグを肩にかけて颯爽と廊下に飛び出していってしまった。
 そういえば怒り出した頃から妙に生き生きとしてきた。


 厄介な事にならなきゃいいけど……
隼人は心配そうに先輩を見送った。

No.465

 お見舞いの花束で埋まったスイートルームはまるでフラワーショップのようで、それは最後に紫苑と言葉を交わした病室を和美に思い出させた。

ルームサービスで取った豪勢なスウェーデン料理にほとんど手をつけないまま、和美は重い気分で銀のフォークを置いた。

「大丈夫、疲れただけだから」和美はのろのろとベッドに横たわった。

「そうそう、わたしうっかりしてビタミンのサプリを忘れて来ちゃった。
買ってきてくれる蓜」

 心配そうに薬をすすめるマリナに、和美はさりげなく嘘をついた。
死刑宣告を受けに行くのは一人で充分だ。

「ついでに月絵たちと観光でもいってらっしゃい。
しばらく一人で休みたいの」

「ずっと人としゃべりっぱなしだったもんね。
じゃあ、ゆっくり眠ってね」

 追っ払われたとも気付かず、マリナは優しくうなずいて部屋を出て行った。

 一人になったとたん、和美はむっくりと起き上がった。黒い大理石のバスルームに入っていくと、追い詰められた女の顔がミラーに写る。

和美は震える指で、薔薇の間から小さな地獄への招待状を抜き取った。


『お大事に……S』

No.466

 これは痛烈な皮肉なのだろうか蓜
破滅のパンチを二度も食らわせてくれたのは彼女なのに……
それはラリーが倒れた原因を知ってる――。
 いやその原因となった女からのお見舞いだった。

川井紫苑に会いに行かなければ――。

 カードに印刷されたBarは、このホテルの最上階にある夜景か有名な店だった。
おそらく紫苑はそこで自分を待っているのだろう。和美はゆっくりとメイクを直しながら、最後に紫苑が言ったことを思い出していた。

 37年前、あの時はお互い素顔でもツルツルの肌だった。
紫苑は少女漫画のヒロインみたいな顔で、ドラマチックなセリフまでよく似合っていた。

 「わたしも、いつか大翔くんがそばで寝たいと思うような絵を描くわ。わたしがそんな絵を描けたら、その時は和美さん、あなたも見に来てね。
約束よ――。」

 だが、忌まわしい二度の盗作騒ぎが全てをひっくり返したのだ。

そして今、紫苑は不吉な星のように近付いてきた。おそらく死ぬほど恐れていたことのメッセンジャーとして。
和美は震える手でファンデーションを毛穴に押し込めた。

 それで、どんなに不幸な事実が明らかになるとしても、避けて通る事はできない――。

No.467

 喪服のような黒っぽい服を身にまとい、和美はそっと廊下に出た。
もともと目立たないから、こんな時でも人目を避ける必要がないのは便利だ。
エレベーターで最上階へ向かうと、落ち着いたピアノの音が大人のBarの場所を告げていた。
だが、和美の耳に届いたジャズはもう、陰気な効果音にしか聞こえなかった。

 夜景を見下ろすBarの片隅で、紫苑はひとり待っていた。キャンドルの光に浮かぶそのシルエットは、少女時代と全く同じ形だ。
ソファに座って本に目を落としている女は、人の人生を狂わすのが好きな悪魔には見えなかった。

 どれくらいの時間ああして自分を待つつもりだったのだろう。
このまま煙のように消えてはくれないか。
夢遊病者のように和美が近付いていくと、紫苑は何かを感じたようにはっと顔を上げた。

 こんな時でもなければ、綺麗だと思えただろう。紫苑の顔には年相応のシワも、昔あった変なプライドもなかった。


ここで楽しく昔話でもできればどんなにいいだろうか――。

No.468

「和美さん」紫苑は品のいい声で言った。

「よく来てくれたわ。
どうぞ座って下さい」

 だが、ここはまぎれもない裁きの場だ。
和美は何か言い返す力もなく、言われるままに腰を下ろした。
柔らかいはずのソファが電気イスのように冷たく感じる。

「お加減はいかが蓜」
紫苑は親切そうに言った。「わかってるわ、わたしのせいね蓜無理もないわ、わたしはあなたにとって不幸の使者みたいなものでしょうから」

 紫苑は読んでいた赤い表紙の本を閉じた。
和美は目を閉じ、観念した。
 それは『大いなる幻想』だ。きっと彼女はもう一冊、中身がそっくりな別の本を隠し持ってきたに違いない。


ノーベル文学賞辞退――
それだけではすまないだろう。

「調べたのね、その本のことを」和美は静かにいった。
「いいの、遠慮しないで。今度はどこの国にあったの蓜また同じ作品をあなたが見付けたって、それはあなたのせいじゃないんだから」

和美は顔をおおった。

「わたしにはわかっていた。いつかこんな日がくるって。でも、書かずにはいられなかった。
それなのに……
まさか、ここまできて……」

No.469

「わたしだって怖かったのよ」紫苑はいった。
「自分がまた何かを見つけてしまったら……
だけど、調べる必要なんかなかった」

 どういう意味だろう蓜
和美は思いがけない気配を感じ、ゆっくりと顔を上げた。紫苑の大きな目がロウソクの炎を映して光っている。

 泣いている蓜
この紫苑が蓜
これはお芝居なの……蓜

「もう30年以上前の事になるわね」紫苑はいった。
「あの時、あなたのおかげでわたしの人生は変わってしまった。わたしは、あなたが自分の知らない事を知ってると思ったの」

 二人の脳裏に一枚の絵『疾走』が浮かんだ。
その事件が。ある意味で二人の関係の原点が。
その痛みと快感が――。

「わたしはずっとあなたに起こった事を考え続けた」紫苑はいった。
「あなたが『あのドアを開ければ』を作った時も、何が起こったのかって……わたしがFAXで送った記事のこと、覚えてる蓜 啓示があったみたいに一晩で絵を描いて、画家になったイタリア男の話」



「え、あれはあなただったの蓜」

No.470

「誤解しないで、わたしは決してあなたを糾弾したんじゃない。あなたの盗作疑惑の発端に自分がなってしまった事に、わたしだって苦しんだのよ。それでも、必死に真実を手探りしていた。そのあともずっと、不器用にひとつの芸術の道を生きながら、ずっと羽瀬和美を意識し続けてきたの。信じられるかしら蓜
大事なことはあなたが教えてくれた。そしてまた、こんな歳になってもあなたはわたしを変えてくれたのよ」


すでに世界的な画家となった女性が、一体何をいうのか。
紫苑は、ぐっと涙を拭いて和美を見つめた。

「ありがとう。やっと描けたのよ。あなたに見てもらいたい絵が。
あなたのおかげで――」

「わたしの……おかげ蓜」和美はいった。


「あなたの本よ。この本がわたしに本物の絵を描かせてくれたの。
”いのち”がいっぱい詰まった絵を」

 ”いのち”――。
精気を失っていた和美の世界に、紫苑がその言葉を発した瞬間、二人の間に確かに風が吹いた。

それは、紫苑が本当にその存在を知ったからだ。
彼女の意識と、感覚と、言葉が一致したからだ。

No.471

「今のわたしにはもうわかるわ」紫苑はいった。
「”いのち”は、決して模倣や欺瞞の中にはあふれないってことが」

 全てを失う覚悟を決めていた和美の中に、何かが届いた。
自分では言葉にできなかった、またひとつの答えが――。
それを、この人生の登場人物の中で一番自分を苦しめた女からもたらされるとは。

「紫苑……」
和美はやっとその名を口にした。


「ノーベル賞受賞おめでとう」紫苑は謙虚に頭を下げた。
「本当に、こんな素晴らしい本は、あなた以外には誰にも書けない。
そして、わたしに新しい絵を描かせてくれてありがとう」

紫苑の祝福の涙は本物だった。その時和美を襲ったのは、自分でも思いがけない、あふれるような歓びだった。
自分が破滅をまぬがれたからではない。
紫苑に認められたからでもない。
彼女のその絵がこの世に生まれた事が、純粋に、そして強烈に嬉しかったのだ。


”いのち”が、また生まれた。わたしの本という”いのち”から。
もっともっと、いっぱい生まれればいい――。

No.472

「よかった」 和美の祝福の涙も本物だった。
「わたし、あなたのその絵が見てみたい」


「是非、スペインに見に来て」紫苑は顔を輝かせた。
「ああ、そういおうと思ってたの。でも、まさかあなたが来てくれるなんて――」 

 37年が一気に凝縮する。和美は信じられないほど近くに、まるで別人のような紫苑を感じていた。
二人は修学旅行前の女子高生のように顔をつき合わせ、熱心にスペインの話を始めた。

「それから」
紫苑はためらいがちに言った。
「もうひとつ、お願いがあるの」

 そういってかたわらに置いたバッグを引き寄せた。取り出したものは、1本の黒いペンだった。
恥ずかしそうに本と一緒に差し出されても、和美にはその意味がわからなかった。


「サインして下さい」
紫苑はアイドルにサインを求める少女のようにいった。

「そんな、サインなんて」和美は慌てていった。
「そんなの一度も書いたことないよ」

No.473

「まさか。自分の名前なのに」と紫苑が言うと、

「忘れてたの蓜 ラリー・ホーンは人前に出たことなんてないのよ」
和美がそういうと、わかってないのね、というように紫苑は首を横に振った。

「そうじゃなくて、わたしはねあなたの本当の名前を書いて欲しいの。
羽瀬和美ってね」

和美の中でゆっくりと、
紫苑の言葉が染みていった。
紫苑にとって、自分はずっと羽瀬和美であったのだ。そして、これからもずっと――。
 
 和美は返事を受け取り、ラリー・ホーンの本にしっかりと漢字で『羽瀬和美』と記した。
もう、何も恐れることはない。わたしはこの本を書いた、ただひとりの作家。

紛れもなくラリー・ホーンなのだ――。



「……お取り込み中に失礼します」 突然、低い日本語の男の声が響いた。

 和美はペンを持ったまま、まるで忍者のようにいつの間にか横に立っていた男を見上げた。
見覚えがあるメガネの顔。たしか記者会見の時に一番前にいた日本人記者だ。

「わたしは日本新聞社の中村と申します」

男は名刺を差し出し、和美の顔にじっと目をとめた。

No.474

「まあ、あなた、どこから出てきたの蓜」紫苑が眉を上げた。
「まさか、今のわたし達の話を――」

 まずい、と和美は青ざめた。『あのドアを開ければ』の時にマスコミがどんなに容赦なかったか、まだ心にバッシングのアザが残ってるような気がする。
紫苑の顔にも警戒の色が走った。
今も中村のバッグにはレコーダーが入っていて、この会話を録音しているのかも知れない。

「羽瀬和美さん、ですね蓜」中村はメガネの奥から彼女を見つめ、確かめるようにいった。
「そして、ラリー・ホーンさん」


「はい」
和美はうなずいた。

 やっぱり盗作事件の事を知っているらしい。
和美は身を硬くした。
紫苑はわかってくれても、自分が納得しても、母国の人達はそうはいかない。




過去のおぞましい濡れ衣は、たとえノーベル賞をとっても晴れることはないのだろうか――。

No.475

「よろしければ、お二人の写真を撮らせて貰えませんか蓜」
中村は丁寧に告げると、
バッグからカメラを取り出した。「ラリーさんとシオンさん。豪華なツーショットだ」

 和美と紫苑は顔を見合わせた。
承諾してカメラに向かって肩を寄せ合いながらも、紫苑は和美を守ろうとするように腕へ手をかけている。
ファインダーの陰になった中村の表情は見えなかった。

「お二人がまさか知り合いだったとは」中村は二人の姿をカメラに収めながらつぶやいた。
「旧友の再会ですね」


「やっぱり聞いてたのね」紫苑が強い語調でいった。

「ええ、でも」
中村は顔を見せた。
「おかげで過去の宝箱の封印を引っぱがす気はすっかり失せましたよ。
つまり、中身は誤解というガラクタでいっぱいだったわけだ」

 和美は男のどこか残念そうな表情を見た。
しかし、その眼差しには温かみがある。
どうやら盗み聞きした二人の会話が、彼の疑惑を払拭したらしい。

「しかし、誤解ならこちらから積極的に解いたほうがいいですよ」中村はカメラをしまいながらいった。

No.476

「これからラリーの報道が日本で流れたら、いつ誰が過去をほじくり出して面白がるかわからないし、そしたら誤解の上にまた誤解が生まれる。
情報ってやつは、たとえ間違いでも餌をやるとどんどん大きくなっていくんです」

「ええ」和美は頷いた。
「よくわかります」

「どうでしょう、ここはひとつ私が『あのドアを開ければ』にまつわる真相を独占記事にするというやのは蓜」

 紫苑がアゴに手をあて、考え込むように和美を見た。
決して悪い話ではない。
もし、この大手新聞社の記者が味方になり、説得力と好感度のある記事で弁護してくれたら、どんなに心強いだろう。

これまでの和美は隠れるばかりで、そんな事は考えつきもしなかった。
世界はいつ自分を陥れるかわからない存在だったのだ。

 しかし、たった今、紫苑のおかげで和美は生まれ変わった。彼女は大地の揺るぎなさを信じ、それを踏みしめながら、一歩一歩進み始めようとしている子供だった。

「ありがとうございます」和美は丁寧に頭を下げた。
「でも……それは結構です」

「え蓜」
紫苑が確かめるようにいった。「和美、本当にいいの蓜」

No.477

 中村が露骨に眉をひそめる。和美は自分がか細い声で、それでいてハッキリというのを聞いた。
見かけによらず強情な子供のように――。

「それは――自分でやるべきことですから」


12月10日、
コンサートホール前のブロンズ像、オルフェウスの泉は、一年で最もおびただしいフラッシュを浴びて夜も昼もわからなくなる。
そこで行われるのは、世界で最も栄誉ある賞の授賞式だ。
だが、当の受賞者といえば、栄誉など求めて来なかった者ばかりだった。
いつも人一倍熱心に仕事場や研究室に閉じこもっている彼らは、着慣れない正装でぎこちなく授賞式に臨んだ。

 和美は黒いシンプルなシルクのドレスに身を包み、世界中の名士達とステージで肩を並べた。

もう震えてはいなかった。自分がこの生涯でノーベル賞をもらうなど、考えた事も望んだ事もない。
だが、何かが自分をここまで運んでくれたのなら、それがあの創作の延長にある余韻なら、和美は謙虚に受け止めたかった。



アカデミー委員長にその功績をたたえられ、国王にメダルを授けられるときも、ただ静かに微笑みを浮かべていた。

No.478

 なにもかもが夢のように過ぎていく。
授賞式のあとはシティ・ホールに移り、ノーベル財団主催の晩餐会と舞踏会に出席した。
それはあまりにも優雅でアカデミック過ぎて、和美は楽しむというより、まるで一日貴族でも務めているような気分だった。
素晴らしい北欧料理も、恒例の受賞者スピーチが終わらなければ、喉も通らない。
持ち時間は3分間、その中で名士達は滑らかに感謝の言葉を述べ、心から平和を訴えたり、下品にならないジョークで会場をわかせるのだった。

 やがて、ラリー・ホーンの名が高らかに呼ばれた。
和美は拍手喝采の中、壇上のマイクの前に進み出た。
指揮者がタクトを振る手を止め、オーケストラの演奏がやむ。


 今だ。
今言わなければ、ここでわたしの言葉を――。


「国王陛下、王妃殿下、ノーベル委員会メンバーの皆様、ならびにご来賓の皆様」
和美は一息にいった。

「わたしに真実を述べる場を与えて下さったことに感謝します。
もはや間違いはありません。今度は、わたしが先にキャッチしました。
今度こそ1番だったのです」

No.479

 唐突なスピーチの始まりに、出席者達はもちろん何をいってるのかわからなかった。

ラリーは、しゃんとたっており彼らの目に酔っているようにも見えなかった。

「昨日、地元の新聞に『ラッキー・ラリー』と書かれているのを拝見しました」
和美は続けた。

「これからお話しするのは、そのラッキーの裏にあった、おそらく誰も体験をしたことのない二度のアンラッキーのことです。
わたしは……16歳のときに絵を描き、22歳のときに歌を作りました。
しかし、そのどちらも、なぜか既にこの世にあったのです。
そのために、わたしは二度とも盗作の汚名を着せられてしまいました」



 盗作……蓜
出席者たちが顔を見合わせ、あちらこちらで囁いている。
ラリー・ホーンは一体何を言い出したのか。彼らはその告白にじっと耳を傾けた。


「そのために人生は大きく狂わされ、わたしはずっと苦しみました。
何が起こったのか、どうして自分の内から湧き出たのと同じものが、既に他にあるのかわからずに。
それでも、創作の嵐は三たび私を訪れたのです」

No.480

「そして……わたしは今回の受賞作、『大いなる幻想』を書きました。
また盗作と言われる事を予測し、脅えながら。
でも、その日はついにやって来なかったのです。今日、栄えあるこの日まで」


 和美は考えにむせぶようにうつむき、口ごもった。


「今、わたしのつたない考えで、やっと理解できた事があります。
それは、この世で一番大きくて強いものが、わたしには見えないでいることです。
例えばもし、プルトニウムやニュートリノが最初から目に見えたら、誰もその影響を疑わなかったでしょう。
ノーベル物理学賞を受賞した歴代の先生方も苦労なさらずに済んだはずです」

 おおらかな客人が小さな笑い声を上げてくれた。
和美はそれに励まされるように顔を上げ、更に奇妙なスピーチを続けた。全てが上手くいくように祈りながら――。

「たくさんの先人がこれまでにおっしゃっいました――私達はひとつだと。肉体を超えたレベルで繋がっているのだと。
わたしは今、それをシンプルに信じます。
そうやって何らかの意識に形作られたもの――
わたしはこの生涯で、三度、それをレーダーで捉えたのではないしょうか」

No.481

「もし、わたしに人よりもほんの少しだけ優れたものがあったとしたなら、それは純粋なるキャッチャーとしての才能だけだったのでしょう。
現に不幸にも、そのうち二度は、わたしより優秀な他の誰かが既に受け取った後だったのです。
そう、私はのろまな二番でした」


 そんな事があるのか……蓜 オーケストラの団員の中から発生したヒソヒソ声が和美の耳に届いた。
全く同じものがこの世に二つ生まれるなんて――。

 しーっ、静かに、と周りから声が上がった。
信じる信じないはともかく、和美の話は聞く者の興味をかき立てているようだった。

「しかし」
和美はいった。
「そこに、そんなわたしを一歩進ませてくれた人が現れました。
その方に創作の姿勢を教えられた時、芸術の扉はより大きく広く開かれ、わたしはそれに進んで行こうとする……そう、意志を持ちました。
意志――それは漠然とした力を集めるもの、方向性です。その結果、のろまなわたしに奇跡が起きました。
わたしはやっと一番になれたのです」

No.482

 オバマの黒い星のような目が頭をよぎった。
その輝きを想うと、気負いも恥ずかしさも消え、一輪の花のような静かな気持ちになる。
あの目を見られなくなるような事は言いたくない。
たとえ、もう二度と会えなくとも――。


「この小説はわたしだけの作品ではありません。『大いなる幻想』は地球上のあらゆる人間の想念の樹になった、大きな果実の一つなのです。
でも、誰かがそれをもがなくては、その実は腐っていくだけだったでしょう……わたしは、それをキャッチしたのではないでしょうか」

 不思議な話に圧倒されるように、会場はいつの間にか静まり返っていた。
かつて、功績をたたえられたこの場で、これほど自分を放棄したスピーチを行った者はいないだろう。
ラリーの言葉にすんなりうなずく者はごく小数で、スウェーデン国王も眉を寄せ、じっと考えこんでいる様子だった。

「わたしがキャッチしたのはあなた方です。
そして、わたしはそういう役割を自分が果たした事を、後悔してはおりません。
わたしの言った事を、どうしても理解して欲しいとも思いません。
もしかしたら、わたしは全て間違ってるかも知れません。でも……」

No.483

 そこまで淡々と話し続けてきた和美の言葉が途切れた。
言うつもりでなかったこと、あふれ出る思いがふいに口をつく。



「それでも……わたしは感謝しています」


 和美は一瞬目を閉じた。止められない。
それは、目の前にいる聴衆への言葉ではなかった。

「今日、ここにいざなわれたことに。
たとえ、それに伴う苦悩を自分から望まなかったとしても」

 その時、誰にも見えない風が吹いた。

 まるであの創作の時のように、もう二度と訪れることはないと思っていた快感の風が。
それは嵐ではなく一陣の風であったが、和美はたちまち圧倒的なもので包まれた。




 祝福――。
沸き上がる創作の衝動。


だが、その時彼女は絵筆も、レコーダーも、パソコンも持っていなかった。



「わたしは……感謝します。この世界のすべてに」

 彼女は知った。
今まさに、この瞬間、自分はこの現実を創作している事を。
ここにいる自分と世界。
内側と外側。

和美が創っているのは、ここにしかない”今”という作品だった。

No.484

 和美は大きく深呼吸した。吐く息は歓びに震えていた。

「最後に……どうか、一つだけお約束して下さい」

 人々は唖然として和美を見ていた。
何か奇妙な変化が起きたが、それが何かわからないように。
その視線が彼女から逸らされる事はなかった。

 風が止まった。
和美はゆっくりと来賓達を見回し、ひとかたまりになっている報道席に目を止めた。
たくさんのカメラの間に、こちらを向いている中村記者のメガネが見える。

 このスピーチが記事になったら、過去の誤解は解けるのか、それとも増すのか、もうわからない。だが、和美は最後に精一杯”真実”という名の鐘を打ち鳴らし、その音の響きに願いを込めて放った。


 どうか、この思いが歪められずに伝わりますように。
そしてどうか、この最後の言葉が忘れられずに、いつまでも残りますように――。

No.485

「皆さんにお願いします。いつか……もしかしたら、わたしの死後のことかも知れませんが」
和美は一言一言心を込めていった。

「もしも『大いなる幻想』と同じ作品がどこかでうまれたのなら、その時は、どうかその作家を信じてやって下さい。 
創造の熱い核が、きっとその方を直撃したのだと」

 戸惑い気味の拍手とざわめきの中、和美は静かに一礼をして、ゆっくりと壇上から降りていった。呆然としていた指揮者が慌ててタクトを振り、
オーケストラが交響曲を演奏し始める。


 終わった。
いうべき事は全部いった。もう、今度こそ何も残っていない。
快感の風は去ったが、それでもまだ和美の目には、あらゆるものが美しく見えた。
どの音も、小さな感触も、ふれあいも愛しい。

席に戻った彼女を、銀の皿に載ったノーベル・アイスクリームが待っていた。

 和美はスプーンでそっとひとさじすくい、渇ききった口に入れた。

 誤解に彩られ、決して幸せばかりでなかった甘さ控えめの人生の味。
今はもう、それもまた最高だといえる。


一生忘れられない味を舌に込めながら、和美はにじんでくる涙がこぼれないように目を閉じた。

No.486

 スペインの光は壇上で浴びたフラッシュよりもまばゆかった。

 ノーベル賞の賞金を小切手で受け取ると、和美は紫苑の招待で一度行ってみたいと思っていた情熱の国に旅立ったのだった。
それは、生涯忘れようのない、まるで子供時代の遠足が毎日続いているような旅だった。

 マリナも、月絵もマイクも、そして紫苑とポルフィオも、年代も国籍も関係ない陽気なクラスメートのようだ。
紫苑の魂が塗り込められた壁画の家では、ただ毎日テーブルを囲んでパエリアを食べたり、明け方まで飲みながら話したりしていただけなのに、この世の天国にいるような心地よさだった。


 時折誰かがふと黙り込み、じっと紫苑の絵を見つめる。
心が異世界の登場人物と旅にでる。
彼女の絵はわかりやすく、それでいてどこまでも深かった。


「信じられない」
マリナは壁画を見つめ、一日に10回はため息をついていた。

「昨日と同じ絵を見ているはずなのに、どうして昨日より感動するの蓜 あたしどうかしちゃったみたい」

No.487

「そうね」
和美は一番近い感覚を自分の中から探した。
「考えてみたら、毎日あなたを見ていて飽きたことはなかったかも」

「そりゃあ、人間は成長するもん」

「あら、絵だって成長するのよ」紫苑はいった。

「マジ蓜」マリナは大きく目を見開いた。
「そういわれてみると、この絵、昨日と違って見える。まさか、あたしが寝てる間にこっそり書き足してないでしょうね蓜」

 紫苑と和美は声を合わせて笑った。

和美の中で紫苑の絵は、もはやミケランジェロの彫刻のようなものだった。
あまりにも強く惹かれ、それを口に出してほめたたえることもできない。
まったく不器用な女だ。

紫苑はそんな和美をちゃんと見透かしていて、無理に感想を聞き出そうとはしなかった。
「絵はね、見る人と一緒に成長するの」
紫苑はいった。
「あなたが変われば、あなたの見ている絵も変わる。つまり今のあなたが見ている、この瞬間の絵は一枚しかないの。
明日のあなたと絵の関係はまた違ってるかも知れないから。
そうやって毎日みているうちに、だんだんラポールが確立されていくの」

No.488

「ラポールって蓜」
マリナはいった。
「ええと……関係蓜」
「そう、親和性のことね。それが高まるとあなたの思いが絵にはいって、絵はますます生きてくるの。それはどんなものでも同じ。歌でも、本でも、家でも、愛用のカップでもね」

 頬づえをついた紫苑、マリナの声、ポルフィオの淹れたコーヒーの香り……

そんな一瞬一瞬を和美は宝物のように思い出す。

同じ時は二度と来ないということを、これほど切なく感じた日々はない。

一週間がまたたく間に過ぎ、マリナ達はやがて天上界から下界に降り立つ天使のようにロサンゼルスに帰っていった。

 だが、和美はひとりスペインに残った。

 なぜ、自分がここにいるのかわからない――。

視界いっぱいのヒマワリの群れを前にして、そんな気持ちを味わうのは悪いものではなかった。

和美はひとり、樹の切り株に腰掛けてなにもせずに過ごす。

陽光が語る、緑が囁く――。 すました耳に聞こえてくるものは……


もう人の言葉でも、創作の嵐でもない。

No.489

 和美は紫苑とポルフィオと壁画の家に別れを告げると、資金にも時間にも束縛されない贅沢な一人旅に出発したのだった。

 列車ののろさを楽しみながらアンダルシアへ南下していくと、そこに満ちていたのは今まで浴びたことのない黄金の光だった。

観光旅行のパンフレットで見た、まぶしい白壁の村やオリーブ畑、
エキゾチックな城。
そして、日用品のように溢れかえっている芸術――。

和美の体にまるで新しく発見されたビタミンのように染みこんでいった。
彼女は自分でもおかしいと思うほど魅せられ、変化した。
旅は人をリセットする。


和美の中で今までの自分が、ホームで手を振る人のように後に遠ざかっていった。

古城をリフォームしたパラドールに泊まり歩いているうちに、一週間の滞在予定が10日になり、いつの間にか一ヶ月が過ぎようとしていた。

その頃にはもう、彼女の細胞はスペイン仕様に変化していった。

No.490

後ろ髪を引かれる思いでスペインを発ち、和美はいったん日本に帰国した。

ノーベル賞の話題はすでに過ぎ去った後で、彼女は誰にも騒がれることなく故郷に戻り、年老いた両親にしみじみとメダルを渡すことができた。


今はもう閉めている『味里』の玄関ホールに寄せられた祝いの花はとっくに散っていたが、
手紙や贈り物はまだ積み上げられていて、受賞騒ぎの余韻が残っていた。


冷凍庫には大翔が持ってきてくれたという特大の鯛と、例のモノ――。
高級チョコレートが眠っていた。

「今度こそ、一番だったわね、和美」母は笑った。

「まあ、わたしらにはわかってたけどね」


「街の人たちが、すまなそうにやって来てな」
父親はいった。
「『民宿味里』をラリー・ホーン記念館として保存しないかって言うんだよ。
市が予算を出して運営するそうだ。いや、おまえの性格を考えると、そういうのは好かんと思うのだが……」

No.491

まるで笑い話だ。
和美はあの”みすぼらしい”自分の部屋にベタベタと自分の写真が貼られている光景を思い浮かべ、吹きだしそうになった。

だが、辞退しようとして、ふと思い直した。
すでに民宿経営を引退している両親が、このオンボロの建物をどれだけ慈しんでいることか。
ここは亡き香月の思い出の場所なのだ。

「いいよ。皆さんがいいようにお任せするわ」
和美があっさり承諾すると、両親はノーベル賞のメダルをもらった時よりずっと喜んでくれた。

その夜、和美はコタツに入って両親が作ってくれていた、ノーベル賞関連のスクラップをくまなく読んだ。

あの日本新聞の中村記者は好意的かつ感動的な記事を書いてくれており、過去の盗作疑惑は受賞とともにきれいにぬぐわれていた。

他でもない自分が語ったあの時のスピーチを読みながら、和美はもうずいぶん昔の記事を読んでいる気がした。

No.492

 数日後、両親に別れを告げた和美は、アメリカに帰る前に東京へ立ち寄った。

北村ミチのロングランになっている舞台を見るために――。

ベテラン女優としての安定したポジションをキープしていたミチは、ある女流詩人の生涯を演じた一人芝居で新境地を開いたと評判になっていた。

 そっと隅の席に座った和美は、やがて舞台に現れたミチをみて度肝を抜かれた。

あれが本当に自分の友達なのだろうか蓜

 ミチはまるでしっとりと光る星のようだった。

容姿的にいえば、顔には隠しようのないシワも見える。

若いときは完璧だった体のラインもやや崩れている。

だが、ミチの美しさにはここまでの彼女の人生がにじみ出ており、ただそこに存在しているだけで見る者に力を与えた。


和美はうっとりとミチの世界に引き込まれた。
その声は深く、その動きは今という一瞬を大切に捉えて心を揺さぶる。

ミチはなんという表現者に成長したのだろう。

やがて、ミチは舞台の上から和美を見つけた。

和美はまっすぐと自分を見つめ、心で語りかけてくるミチを感じた。

No.493

 ここまでの二人の道が見えたような気がした。
離ればなれになっても繋がり続けた、お互いの人生が――。

自分はこれからも一生、ミチという人生を遠くから見つめ続ける観客であり続けるだろう。
時には楽しみながら、時には涙ぐみながら――。


やがて、声にならない感動と手が痛むほどの拍手のうちに舞台は幕を閉じる。

どよめきはいつまでも治まらない。

観客の歓声に応じ、ミチが再び姿を現した。

ミチは祈るように目を閉じ、静かに胸の上で手を組んでいた。

何事かと観客たちが静まりかえると、ミチはゆっくりと顔を上げた。

ミチは和美の席に体を向けると、唐突にアカペラで歌い始めた。

『あのドアを開ければ』を――。

No.494

 和美は衝撃にすくみ、溢れ出る涙を止めることができなかった。

観客たちは放心状態でその歌をむさぼるように聴いている――。



長い間、汚名を注がれ続けたその歌を今、ミチは高らかに歌い上げた。

和美のために、

その人生を見守り続けてきた自分のために、

そして再びこの世界のために息づく事を許されたこの歌のために――。



歌が終わり、大歓声が彼女を包む。





その中でミチは涙ぐみながら、やっと一人の女に戻る。

それから、和美に向かって深々と、深々と一礼した。

No.495

 ようやくロサンゼルスに戻った和美を待ち構えていたのは、月絵が作った時間割のようなインタビュースケジュールだった。


 和美は堅実なサラリーマンのように真面目にそれをこなし、相手が代わっても変わらないエピソードを何度も何度も繰り返した。

だが、陽の当たらない芝生のようにだんだん元気を失って行く自分をどうしようもなかった。


「ああ、もうダメ。やっぱり私、帰るわ」

ハンドメイド出版社主催のノーベル賞受賞記念パーティーから自宅に戻った和美は、ぐったりとソファに体を横たえながら、そう宣言した。


疲れた――。

自分より頭の良い人達との会話も、知らない人達から向けられる興味の眼差しにも。

自分は全く好きでないところにいて、好きでないことをしている。

それをしみじみと思い知らされてしまった夜だった――。

No.496

「帰るって?」

月絵は驚いていった。

「そんな~、取材やエッセイの申し込みがこれから半年分もたまってるっていうのに…… ライターさんに日本まで取材に行けっていうの?」


「いいえ、スペインよ」

和美はいった。

「もし、そのライターさんが経費を使ってコスタ・デル・ソルで魂の充電をする気があるのならね」


月絵は座っていた椅子から転がり落ちそうになった。

スペインから帰ってきて以来、この家の壁には和美が撮ってきた風景写真がありとあらゆるところに貼ってある。

情熱の国は魔物のようにずっと和美にとり憑いていたのだ。

和美の夜毎の夢はもちろん、昼寝の夢の場所もいつもスペインだった。



「マジ蓜」月絵は目を丸くした。

「そりゃ、あたしなら行きたいけど……」



「じゃあ、うちの経費をたっぷり使って時々遊びにいらっしゃいよ」と和美はいった。

「あっちに別荘ができたつもりで」

No.497

「それって誘惑してるの蓜」

「ううん、説得してるの」

賢明な月絵は、和美が下手なジョークを言っているのではないことを悟った。

なにしろ生真面目だから、突然変異を起こしてしまった自分にも嘘がつけない。

そして、一見ラリー・ホーンとイメージが違うこの純真さは、実は彼女のいう『キャッチ』の能力と全くの無関係ではないように思えるのだった。

和美は素直に自分を出している。

だからこそ、なにかを受け取るときに障害が少ないのかもしれない。

そして今、大きなひと区切りがついたとき、彼女はまた少女のように両手を広げて新しい季節を受け取ろうとしていた。

まるで人生のおまけのように……



「『人は場所にも恋をする生き物』かぁ」

月絵は『大いなる幻想』の一節を引用して、誘惑に負ける口実を探した。

「少なくとも ここにいるよりは良いエッセイが書けそうね」

No.498

 こうして和美の新しい季節は、スペイン南部のリゾート地から少し離れた場所にある、中世の司教館を改装したホテルから始まることになった。

 アンティークや美術品にあふれているそのホテルは、まるで美術館の中に寝泊まりしているような住み心地だ。

誰にも邪魔されない、自由で気ままな長期滞在。

この辺りは豪華な別荘が建ち並び、その中心地では英語も通じるため全く不自由しない。

だが、和美はわざわざへんぴなホテルを選ぶ変人の一人だった。


誰がどう見ても立派な隠遁生活――。

その静けさは、時折月絵が送り込む各国のライター達によって破られる。

そして、彼らと話したホテルのオーナーが、テラス付きスイートに長期滞在している日本人女性の素性を知るのも、もはや時間の問題だった。


「いやはや、あなたがラリー・ホーンでしたか」

オーナーは陽気に挨拶した。

「今度はうちのホテルを舞台に小説を書いてくださいよ。アガサ・クリスティみたいにドキドキハラハラするやつを」

No.499

 オーナーが『大いなる幻想』を読んでいないことは明らかだった。

おかげで和美は今までと同じように、気楽にホテルをぶらぶらして、レストランでのんびりとくつろぐ事ができた。

だが、彼女のパソコンがインターネットとメール以外に使われることはなかった――。

本を執筆し終えたとたん、和美はエッセイどころか俳句の一つも書くこともできない普通の女に戻っていた。

月絵が大量のエッセイの依頼をどうやって処理したのか、和美は怖くて聞くことが出来なかった。

今でもまだ、ときどき創作の嵐の夢を見る。

しかし、やはりそれは、もう今度こそ夢でしかあり得なかった。

それでも、もう彼女が泣くことがなくなったのは、産卵を終えた蝶々のように、すでに自分の役目が終わったことを知っていたからかも知れない。

「ごめんなさい、二作目は絶対にありません」

和美はライター達に告げた。

「私はもうラリー・ホーンではないのです」

せっかくはるばる訪ねて来てくれたライター達は、不可解な過去の話は聞き出せたが、もう彼女が作家ではないことを納得して帰らなくてはならなかった。

No.500

 自分を通して放たれた物語は、もう立派に自立して世界中を旅している。
我が子と同じように。 

それらはいつか誰かと出会い、そのときにしか生まれないラポールを築くのだ。

世界はそんな無数のラポールが織りなすきらめきで輝いている。

やがて、人々はラリー・ホーンの存在なんか忘れ、『大いなる幻想』だけが世間の片隅に残されるだろう。
それは、多少なりとも世界の養分のひとつになってくれるかも知れない。

風の音が似合う落葉樹のような存在となった今、和美は自分がこの世に残したその痕跡を思うと、言い表せないほどの安堵を覚えるのだった。

そんなある日、飯山満の訃報を知った。

次の朝、和美は小高い丘に登り、あの燃えるような芸術家を想った。
今、胸に蘇るのは飯山の温かい言葉ばかりだった。

『ありがとう。あの絵を描いてくれたことに感謝する』

和美はあのとき言えなかったありがとうを返す。

百回返す――。

傷ついた事はちっとも思い出せなかった。

 和美は、思い出という宝をそっといとおしみ、弔電も焼香もないまま、彼女なりの供養は終わったのだ。

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