神社仏閣珍道中・改

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旅人さん
2025/01/05 05:55(更新日時)

【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。

自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



…そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。



なにせ初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間でありました。

そして未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねしております。

もう何年経ったことか…。

相も変わらず、作法もなっていないままかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。



No.4141834 2024/09/21 06:02(スレ作成日時)

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No.51 2024/11/05 14:39
旅人さん0 

(続き)

入場券を購入する受付は仁王門へと向かう石段の左横。

さあ、いざ東照宮へ!

…コロナ禍もあったのですけれど、それでも日光へは何年か前には参拝しておるのです。
おるのですが、輪王寺と大猷院ばかりで、…東照宮は一体何年ぶりになるのだろう。

しかも日光自体が久しぶりです。

仁王門をくぐると。
人、ひと、ヒト。

仁王門をくぐってすぐに目に入ってくるのは【神庫(じんこ)】。
鉤の手に三棟並んでいます。
いまは入ってすぐの下神庫が修復工事中なようでシートで覆われています。
校倉造りの建物です。
以前お聞きしたところ、お祭りで使う道具、装束や道具などが納められているのだといいます。

以前はそばまで行けなかった…少なくとも私どもはそう思い込んでいたのですが、(今は)すぐそばまで行くことができました。

この上神庫は側面が見ることのできる建て方で、この側面、〝妻〟と呼ばれる部分に細やかな彫り物があるのです。
今まではそばに寄ることが、…できなかったのか、できたけど勘違いしていたのか、まぁよくは見えず、象、かなぁと思っていたにとどまっていたのですが、今回ははっきり〝象っぽい〟ことがわかりました。

何?その象っぽいって?

…そう思われた方もおられましょう。
実はこれ〝象っぽい〟であってるんです。


下に写真を添えておきますが、この彫刻、その名も実に【想像の象】!

東照宮建立時のチーフアートディレクターの『狩野探幽』が、実物の象を知らずに想像で下絵を描いたといい、、まさに想像の象、なので、そのままそう呼ばれているのだそうです。
で。
実は、ですね。
この三神庫、鈎の字だとは言ったのですが、実は中神庫の隣、下神庫のそばににもう一つ建物があるのです。
三神庫と同じ朱色に塗られた建物なのですが、小さく、窓もなく装飾は一切なく、存在自体を憚るかの様な建物なのですが…。

これも以前お聞きしました。
使ってはいないけれど、トイレ、なのだそうです。はばかりだけに…憚るように建てられている?


通路を隔てた上神庫の前あたりに、大きくそびえる『高野槙』があります。
その横が神厩、今回はお馬さんはおられませんでしたが。
その右隣にかの有名な【三猿】を含む猿の彫刻が並びます。


   (想像の象)

No.52 2024/11/05 18:13
旅人さん0 

(続き)

この神厩(しんきゅう)の隣にある高野槙(こうやまき)は三代将軍家光公のお手植えのものといいます。
栃木県の名木の一つです。

神厩にお馬さんは不在でしたが、こちらの神馬は白馬であることが条件とされているといい、たしかに以前見たお馬さんも白かったです。

神厩は実際に使用される厩であるため、漆等を使わない白木のままの建物です。


【三猿】を含む猿の彫刻はどれも見事です。
八面の彫り物からなり、猿の一生を描いているといわれます。
三猿は子猿のころ。
子猿とお母さんから始まって、大人となった猿がお母さんとなるというストーリー、…と言ったらあまりに端折り過ぎていて叱られそうですが、まぁ、そういった内容であることは確かなので。

神に仕える神馬の居室にもこんな彫り物が施されます。
猿である理由があり、昔から
『猿は馬を病気から守る』とされていたからといいます。


この神厩の横に御守や御札などを授与する授与所があります。

主に馬や三猿に由来するものが多いですが、刀剣型の物もありました。

実はここも『国指定の重要文化財』。
かつては警備の役人の詰所、日光奉行が支配していた番所でありました。

三猿は人気で人だかりが絶えず、お馬さんもいないこともあって近寄ることもせず、写真も撮ってありません。


 (家光公お手植えの高野槙)

No.53 2024/11/07 00:52
旅人さん0 

(続き)

手水舎が見えてきます。
いろいろな呼び方があり、こちらは【御水舎】と呼ぶようです。
コロナ禍以降使用が開始されないのでしょうか、それともまた改修工事に入るのでしょうか、紐で周囲を囲っています。

でもそのおかげで、ゆっくりと御水舎を見ることができます。
参詣者が手と口を浄める場所ですらがこれほどに豪華な造りとなっています。
どこをとってもため息が出るほどの美しい装飾です。
実はこうした建物として手水舎を造ったのもこの東照宮が最初といわれています。

ところで。
見えますかね?このレスに載せた写真の屋根の下に龍が彫られているのですが、この龍、翼がある、水を司る『飛龍』と呼ばれる霊獣です。

あまりの混みように、ならば私たちはゆっくりと彫刻や建築物などを堪能して進もうではないかと、ここ御水舎でもかなりの時間をかけて。

もう鳥居はすぐそこ、なのですがね。

やはり日本で初めて造られたという青銅製の、その名も『唐銅鳥居』。

その先に石段があって、上にそびえているのがかの有名な【陽明門】。
結構な頻度で補修修復がなされていて、今はその修復が終えて全景が観られる時であります。
高さもあるので見えないところも多いですし、何より人で見えないんですけどね 笑。

そんな陽明門に目を奪われ、石段をのぼってしまいがちですが、その前にもたっくさん見どころがあるんです。

まずは石段のふもとには、かの伊達政宗公が奉納した【南蛮鉄燈籠】。
…まぁ、鉄なのですっかり錆びてしまっているのですが、ね。


そして。
石段を登り終えたところの手すりの柵にとても変わった石造りの唐獅子さんがいます。
私、この子たちが好きでねぇ。
必ず立ち止まって声をかけてしまうんです。

【飛び越えの獅子】という名前があるようですが、あんまり気づかれていないかも。
何せ人が多いですし、目の前に豪華絢爛な陽明門がそびえたっていますし。

この唐獅子さん、柵の柱に直接彫られた、大変珍しく、しかもこれを彫るのは大変難しいものであろうと思われるものです。

もし日光東照宮に行かれたらぜひぜひこの可愛らしい唐獅子さんたちにも会ってあげてください。




No.54 2024/11/07 01:01
旅人さん0 

(続き)

唐獅子さんが貼りたくて、ちょっとだけ書きます。


陽明門は何度観ても飽きることがありません。
まさに日暮らしの門。

高いところなどまるで見えないんですけれど、ね。

今はスマホの時代。
そのカメラの性能はかなり優れているため、肉眼で見えづらいものを写し撮ってくれます。
これは本当にありがたい。

まぁ、私などはスマホで最も使うのがカメラ機能、…というよりは他の機能など使ってもいないと言っても過言ではないくらいです。

陽明門といえば、その美しさに一日観ていても飽きないということから日暮らし門とも呼ばれるくらいですが、観れば観るほど、観る回数を重ねるごとにその言葉にうなづくものであります。

ゆえに人だかりが絶えません。
みながその門を見上げて立ち尽くしています。


 (大好きな唐獅子さん)

No.55 2024/11/12 16:51
旅人さん0 

(続き)

石段をのぼった先に鐘楼があります。
この日は右側通行とされていますので、向かって右側、ということになります。


実は私、この鐘に違和感を感じています。

普通見かける鐘楼は高さがあり、土台があって柱がありますが、この鐘楼、地面に直接柱が立っています。
ですので厳密には鐘楼ではないのかもしれません。
鐘撞堂となるのでしょうか。

もう一つは鐘の形。
よくお寺さんで拝見する梵鐘より、〝しゅっ〟とした感じ、シンプルです。
〝乳〟と呼ばれるボツボツとした突起がないようにも見えます。


実はこちらは『朝鮮鐘』と称されるもの。

小ぶりに見えますが、直径は一メートル。
四代将軍家綱公の誕生を祝賀して朝鮮からやってきた通信使が献納した物だといいます。
異国のデザイン、異国からの贈り物であるためでありましたか。


鐘を撞く撞木はありません。
これは…明治の神仏分離令によるものでしょうか。
それとも、?



陽明門から左右に延びる回廊と、石燈篭。

私の中で東照宮の特色の一つに、〝燈篭の多さ〟があげられると思います。
と、申しましても、全国に百社以上はあるという東照宮のうちのほんの、本当にほんの一部しか知りませんが…笑。


日光の東照宮の燈篭の数は実に百二十三基といいます。

のちに写真であげますが、写真の四本の柱、屋根に覆われた八角形の青銅製のものも燈篭だといいます。

現代の世では使われることはないのかもしれませんが、これは回転式、回転するものなのだそう。

ここに灯りが灯されたら、さぞや美しいものでありましょう。


ちなみに。
この燈篭上部に取り付けられた〝葵の紋〟の上下が逆さなのだとか。

外国で造られ、情報に誤りがあってのことなのか、それとも逆さ柱のように意味あってなものなのか…。
それゆえ、『逆紋の廻り燈籠』とも呼ばれているそうです。


この一角は柵があり奥にあることから、私には上手くとらえることができず、写真には撮れてはいないのですが、〝蓮燈籠〟、〝釣燈篭〟
と呼ばれるものもあります。

東照宮内にある案内の立て看板によると、いずれもオランダ国からの奉納品といいます。

No.56 2024/11/14 06:04
旅人さん0 

(続き)

さあ、いよいよ【陽明門】。


家に帰ってスマホの写真を撮る見直してみて…なんと!全景の写真がありませんでした!

おのぼりさんなので、テンションが上がり頼まれもしないのに夫を入れての写真を撮ってしまっておりました。

型番の古いiPhone、消しゴムマジックも付いておらず。
…基本、映ったものがそのままに写って残る、それで良いと思うというポリシーを持つのではありますが、それでもそれを使いこなしている夫をみると、時に羨ましく思えるときもないわけではないのですが…おっと、閑話休題!


それにしても。
どれだけの彫刻が施されているのか…。

何度見ても感嘆いたします。

徳川家康公が好きかどうかとか、
徳川の支配とか、
これを建てるにあたって、徳川の、あるいは幕府の威信にかけて行われたであろうあれこれとか、
それをどう思うかとかは取っ払って、純粋に凄いと思うのであります。



見上げるだけではよく見えない、小さな小さな彫刻!
スマホで拡大して見ますとそれはそれは細やかに人物が彫られているのです。
文明の利器スマホ様、様であります。
(ちなみにオペラグラスも持ってはいるのですが、こうした聖域で使用するのはやはり多少の抵抗感があって、仮に持っていても使用できずにおりました。
あくまでも鳥を見たくて購入してみたものですし)



ちなみに人物が彫られているのはこちらの陽明門と唐門のみ、だと聞いたことがあります。
緻密で繊細です。
さすが当時の彫り師たちが、必要とする材料を全て惜しむことなく使うことが許された環境下で、己の持つ技のすべてを注ぎ込んだ彫刻たちです。

どれだけいるのかわからないほどの龍たちも、どんな角度から入ろうと見逃さない、かのように様々な角度で存在しておりました。
隣同士阿吽の口であったり。

龍だけではありません。
吉兆の霊獣がたくさん!


この陽明門の扁額の下に
【息】、と呼ばれる霊獣が彫られているのだいいます。
実はこの霊獣、読み方すらが解明されていないほどの幻獣、なのだとか。
…見えませんが、ね 苦笑。

見えないくらいで良いのかもしれません。
幻の霊獣ですから。



さすが、いつまでながめていても飽きない【日暮らしの門】と呼ばれる門であります。

…人混みが苦手なのと、飽きっぽいのと、でそう長くは観ないのが私ですが、ね 笑。

No.57 2024/11/14 08:10
旅人さん0 

『カリン』


カリンと申しましても、ドラゴンボールのカリンさまではありません。
ポケモンのカリンでもありません。

果実のカリンです。

先日参拝させていただいたお寺さんで、
『ご自由にお待ちください』
と寺務所の入り口に置いてありました。

まぁ、この『ご自由に』という言葉に弱い人物であることも決して否定いたしませんが、カリンということに心惹かれ、一ついただいてまいりました。


実は私、カリンを初めて手にいたしました。
なんと経験の浅い人生でありましょう 苦笑。

初めて手にしたカリンは、大変やわらかな、優しい、そしてなんとも上品な、天界の香りとはかく言うかと思うくらいの香りがいたしました。

おおっ!と思ったのもつかの間、カリンの実、実にベタベタとするではないですか。


うーん(~_~;)

と、そのカリンを持ち帰る人のために、カリンのそばに紙袋をご用意くださっているではないですか。


かくして、初めてカリンをゲットしたおばさん。
この香りを楽しむだけでも良いようです。


しかしながら。

私の生まれて初めてとなった持病であるところの喘息。

カリンというのは咳止めに効果があるという話をお聞きします。

これはなんとか調理して摂取したいものだと思ったのが、いただいてまいりました理由でありました。

もちろん初めて手にした果実ですので、その調理法など知りません。


さっそくネットでカリンの調理法を調べました。
よく聞くかりん酒は、ほとんどアルコールを摂らない私にはあまり適さず、しかももし上手くいって美味しいものが出来たなら、夫にみな飲まれてしまう危険があります。


で、レシピにジャムとかも出てまいりましたので、これならできると煮込みを始めました。

まず皮を剥いて。



…か、硬い!
スっごく硬い!
かぼちゃでこんな硬さのものがありますが、とりあえずはかぼちゃは皮を剥かずにすみます。

当然実も硬い。





…できないけど?


煮込めど煮込めど、とろみなどでません。

No.58 2024/11/15 07:14
旅人さん0 

(続き)

とろっとすらしてこない、カリン。
お鍋を覗き込んだ夫が、
「おっ、今日はまたずいぶん多くたけのこを煮込んだんだね。細かく切ってあるから混ぜごはんに?」

…とても嬉しそう。

「いや、違う」
「えっ?じゃ何?」
「カリン」

ええ、夫が申しますまさにそのような見た目の〝カリンの煮物〟。

くーっ。


なのでもうこれは思い切って水を増やして、シロップを作ることに変更しよう。

ちょっとクセがあるけれど、飲めないほどではありません。


ん?
んん?

なんだか気道の閉塞感がすごく楽、です。

まぁ、そういう効果があると知ってカリンをいただいてきたくらいだから、思い込み、かもしれません。


ところが。
二度目も。

三度目も。


喘息の、レスキューの吸入薬よりも 早めに効くように感じられます。

これは♡


参拝させていただいたお寺さんのご本尊さまは薬師如来さまではなく、お釈迦さまでございました。

お釈迦さまの御利益でありましょうか。

いずれにしても大変ありがたいものを頂戴いたしました。

No.59 2024/11/18 16:52
旅人さん0 

(日光東照宮 続き)

陽明門をくぐると。

目の前に唐門と呼ばれる門があるのですが、陽明門の素晴らしさにみな振り返ってその裏から見た姿を見てはまた感嘆の声をあげる方がほとんどであります。


今回、ひとしきり陽明門の内側を見上げたのち、唐門へは向かわず。
かと言って家康公の墓所にも向かわず、祈禱殿から拝殿へと続く下駄箱にも向かうことなく…。

向かったのは、陽明門をくぐってひだりてにあります『神輿舎』でありました。
神輿は〝みこし〟と読まれるのが普通一般ですが、この〝神輿舎〟は〝しんよしゃ〟
と読むようであります。

…などと綴ってはいるものの、現地ではすっかりその正しい読み方を忘れてしまい、「みこししゃ」と呼んでおりましたが 笑。


神輿舎のなかには三基の御神輿が祀られています。
向かって左側の御神輿の前には奉納されたガンダムのプラモデルが置かれていました。

このガンプラ、今年世界遺産登録二十五周年を記念して奉納されたものだといいます。

家康公が関ヶ原の合戦の際に着用したとされる『南蛮胴具足』の色調を基にした色彩で作られ、またその際の兜を着用しているのだとか。



ところで。

夫曰く、こちらの神輿舎の天井に描かれた天女さまは、天女さまの絵では日本一の美しさと言われているのだとか。

日本一美しい天女さまとあらば、美しさとはほど遠い妻を持つ夫としては、是が非でもひとめお目にかかりたいのでありましょう。



ただ…落ち着いて考えますと、たとえ絵であっても天女さまのお姿に順列をつけるなど失礼な話では?と密かに思ってみたり。


そんな夫、神輿舎の前に立ち「見えない」と落胆の声をあげました。

ガンダムのせいか、それともやはり美しい天女さまをひと目見ようと思われてなのか、何やらやたらと人が集っているのです。
それも男性が圧倒的に多い。


自撮り棒とやらを差し込む強者も男性でありました。
こちらは間違いなく天女さまが目的でありましょう。



No.60 2024/11/19 05:58
旅人さん0 

(続き)

真正面に見て見えなければ少し屈めば良いと、実際にそうしながら夫に伝えて…。
屈んだまま撮影させていただいた天女さまの御姿をあげさせていただきます。

拡大し、少し明るさを調整しておりますが、肉眼で拝する天女さまはこの画像とはまるで異なる美しさでございます。



ちなみに。

このあと、拝見させていただいた天女さまのお美しさを少しでも目に焼き付けたいのか、
…しばらく私から離れて歩いていた夫でありました。 ε-(-。-; )


この神輿舎から御神輿が三基出された状態となるお祭の日。

この天女さまの下で手を打つと、なんと、鳴き龍のように鈴を鳴らすかのような音が聞こえるのだとか。


どこまでも心憎いほどの演出の施された日光東照宮でございました。



(もちろん、この神輿舎には、たとえ神輿が無かろうと一般の参詣者は昇殿することはできません)

No.61 2024/11/19 15:08
旅人さん0 

(続き)

唐門へ。

陽明門をみたあとであっても、やはりこの門は大変美しく素晴らしいものであります。

それもそのはず。

本社、拝殿・幣殿・本殿の正門であるこの唐門は、拝殿のまさに真正面。

江戸時代においては
『御目見得(おめみえ)』と呼ばれた将軍に拝謁できた大名や家臣のみ使うことが許された門であります。

今でも国賓等の許された参拝者だけしか使えないといいます。


唐門にもまた人物が描かれております。

【舜帝朝見の儀】という題材で一本の欅に彫られているといいます。

それを知って見上げると、その凄さ、素晴らしさに圧倒されます。

拡大してみますと、奥にも人が彫られているのが見えますが、実に四列、二十七人もの人物が一本の欅の幹に彫られているというのだから驚きでしかありません。


唐門の門柱は紫檀や黒檀などで寄せ木細工の『昇(のぼり)竜』と『降り(くだり)竜』が施されています。

迫力が凄いです。


私はこの竜が大好きでいつ来てもしばし立ち止まり見つめております。


この日もしばしこちらの竜を見つめたのち、向かうは【奥社】。
こちらでは奥宮ではなく奥社と呼ぶようです。

奥社は東照宮の御祭神【徳川家康公】の墓所であります。

奥社に向かう門、『坂下門』にかの有名な【眠り猫】があります。


No.62 2024/11/20 06:49
旅人さん0 

(続き)

奥社へと向かう『坂下門』の下はいつ行っても人だかりが凄いです。
たとえるなら、『福まき』という神社さんやお寺さんで行われるイベントで、撒かれる〝福〟を手に入れたいと集まる方々でしょうか。

眠り猫には特にご利益等は一切ありませんが、有名であること、日光東照宮のシンボルの一つであること、国宝であること、などなどそれぞれの方そこに群がる理由はありましょう。

しかしながら、そんな一切合切の理由より、ただただその彫刻の素晴らしさ、猫のあまりのリアルさ、そして何より可愛らしいことにも寄るところが大きいかもしれません。

写真であらためて見れば見るほど、その素晴らしさにため息がでます。

白黒の猫の、毛の微妙に混ざった感じ、
撫でたら本当にあの猫の毛なのではと思うくらいにふわふわな感じ、
つぶった目の感じ、
鼻のところの輪郭、
顎のところの輪郭、
猫の寝姿のリアルさも
全てがここに表現されています。



初めて見たとき、その小ささにも驚いたものです。
おそらくは実際の猫よりも小さな彫刻です。


この眠り猫の小さな彫刻単体で国宝というのですから驚きです。

それを特にプラ板などで覆ったりしないところが日光らしい潔さです。



眠り猫の裏側には同じくはめ込まれた雀の彫刻があります。
猫も居眠りし、本来なら餌とも言える雀と共存するほどの平和をあらわしている、ともいわれ、それゆえにこの二枚一組の小さな彫刻はまさに平和の象徴であるとされています。


彫刻も間違いなく素晴らしいもの、それは言うまでもありませんが、このキュートでリアルな猫の寝姿に癒されるから、なのではないかしら。
世の中に動物好きさん、猫好きさんが多いから?



…今回は某優秀な(ただし型遅れ)のスマホにより、この眠り猫の拡大した写真を撮影することができました。



ここをくぐって、坂下門を抜けると、…長い長い奥社への参道となります。


No.63 2024/11/20 23:58
旅人さん0 

今日は点滴をしました。

呼吸が苦しくて予約外でありましたが受診をして。

採血をして。

点滴したあと、お昼を作るくらいはなんとか復活できたのですが、また効果が切れる頃からツラい。


この急激な天候の変化。
気圧の変化。

大好きなお線香ですが、微煙タイプのものであるのに、その煙すらがつらいのです。


今日は母の月命日。
母も肺に持病を待ち、そして弁膜症があって不整脈がありました。

こんなところ似なくて良いのに…。

母のつらさが分かるような身体となって、少しずつ許すということを学ぶことができる、かもしれない。


学ぶことができたら、…治してくれないかなぁ。
あ、煩悩。


No.64 2024/11/22 04:52
旅人さん0 

(日光東照宮 続き)

日光東照宮【奥社】は、御祭神徳川家康公の墓所。
石段を登りつめた先に拝殿があります。


後の世にこのように世界各地から参詣の方々が訪れることなどは夢にも思わず、
ただ家康公の

「(御自身の)遺体は久能山におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。」

との御遺言に従い、死後、朝廷より
【東照大権現】の神号を贈られた家康公をこの地に祀られたものであったものです。


ただ、家康公が望んだ『小さな堂』は、家康公を敬愛する三代将軍家光公によって、いま見るような絢爛豪華なものに生まれ変わっておりますが 笑。


この奥社=家康公の墓所に関する限りは、江戸時代には将軍さましかこちらを参拝することができなかったところですので、拝殿前のアプローチの短さが短くて、今石段の途中必ず渋滞が起こりますが、
お一人のみの参拝ということから考えればごく当たり前、普通のことでありました。

それにしても、この長い石段。
将軍さまにおかれましても、大変なこともあったのですね。



天和三(1683)年に、それまでこの参道に建てられていた石鳥居が唐銅鳥居に建てかえられています。
勅額は、後水尾天皇の直筆といいます。


が。


この鳥居は石段の途中から見上げる形で、こんなところでバランスを崩した日には、石段上で将棋倒しがおこり、大変危険ですので、気をつけて見上げ見るくらいしかできません。
ゆえにこの鳥居の撮影は少なくとも眩暈持ちの私には不可、であります。


鳥居の向こう、右隣に見えるのは『銅神庫』。
宝蔵とも呼ばれ、江戸時代には家康公の位記や宣旨類、甲胄、刀剣など貴重な神宝を収蔵していた建物だといいます。


奥社拝殿へと続く最後の石段脇を護る小さな小さな狛犬さん。
直置き、ではありませんが、ほぼ地面、まるで本当に番犬のように、忠犬のようにたたずむこの狛犬さんが大好きです。


こちらは、
松平右門大夫正綱、
秋元但馬守泰朝、
両氏の寄進によるものだといいます。

このご両名は家康公の御遺臣で、寛永年間の当宮造営の功により、特に奉納を許されたのだと説明にありました。



No.65 2024/11/23 06:16
旅人さん0 

(続き)

ちょうど長い石段を登ってきて、奥社の拝殿の姿が見えてホッとする場所でもあるからでしょうか。
この神庫のあたりはいつも渋滞が発生しております 笑。


そして。
石段をのぼるとすぐに拝殿前なため、人の多さもありこちらも写真撮影どころではありません 笑。


奥社の、というより日光東照宮で一番の聖域でありましょう、奥社拝殿の裏手から家康公の墓所へと続く青銅製の門、です。

『鋳抜(いぬき)門』と呼ばれます。

なんでもこの門、扉以外の、柱や梁などを一つの鋳型でつくったことからこう呼ばれるのだといいます。

門一つを(扉は別だとしても)一つの鋳型からとは。
驚きます。

こちらの門の内側の、宝塔の内に収められているものこそが家康公の神柩。

建立以来一度も開けられたことはないといいます。
ただし、宝塔自体は当初は木造て、後に石造りとなったものの大地震があって破損したといい、第五代将軍綱吉公が現在の『唐銅製(からかねせい)』に建て替えたといいます。


〝唐銅〟とは、金・銀・銅の合金だといいます。

一際目を引く鶴の像はなんとロウソク立てだといいます。香炉や花瓶とあわせて朝鮮国王からの贈り物だといいます。

おそらく写真に見える唐獅子さんが香炉の蓋に取り付けられているのだと思います。

鶴の足元には…亀、でしょうか。



No.66 2024/11/25 16:34
旅人さん0 

(続き)

鋳抜(いぬき)門の…腕木とか肘木とかいわれる部位にあたるのかどうか…くるっと大きくカールした三本の何かを口から出している『蜃(しん)』と呼ばれる蜃気楼を産み出す霊獣がいます。

肉眼ではくるっとカールしたものが見えるかどうかというくらい。
距離もあることながら、角度があってなかなか全貌が見えないのです。


それならば写真で…とも思ったのですが、やはりスマホぐらいでは撮ることができませんでした。

…いつかリベンジ…出来るかしら。
距離もあるうえ、何せ腕が致命的に悪いし。
その姿は龍に似ているといいます。
ネットを検索するとそれはそれは美しくて凛々しいのです。

まぁ、蜃気楼自体がなかなか見られるものではありません。
そんなことから蜃はここに配置されているのかもしれません。
ここは聖域中の聖域でもあります。


でもいつかこの〝蜃〟をなんとか自分の手で撮影して見たいもの。


夢は大切です♡



(この〝蜃〟の画像はネットからお借りしております)

No.67 2024/11/25 16:49
旅人さん0 

(続き)

家康公の墓所であります奥社への参拝の後は、あの唐門の内側、拝殿へ参拝を。

と、その前に。

唐門のわきに連なる透塀(すきべい)の右側に延び、それがちょうど直角に曲がる辺りに、一基の鋳銅製の灯籠があります。

そう、一基だけ、なのです。

あたりを見回して見てももう一対はありません。
通例灯籠は参道の左右に置くものと考え一対で奉納されるのがほとんどです。


この灯籠は東福門院さまが奉納なされたもので、その名も『東福門院の一本灯籠』、最初から一本奉納されたものといいます。


東福門院さまは徳川和子さま。
二代将軍秀忠公の娘で御水尾天皇の中宮であらせられます。


灯籠の、まさに灯りを灯す部分は格子状になっていて、天人の像が取り付けられています。
天人のある部分の上部には五鈷杵のようにも思われる飾りと、また天人の下には丸に桐の桐紋が鋳られています。

笠には如意宝珠、下部には蓮の花びらと、かなり仏教色の強い灯籠であると思われます。


この灯籠と、祈祷殿の間に、拝殿へと続く通路があります。


拝殿へと向かう際は靴を脱ぎ靴箱に納めます。


ここから先は写真撮影は禁止です。


朱塗りされたピカピカ、ツルツルの廊下を歩きます。
靴下越しにひんやりとした冷たさが伝わります。

Lの字に本社の周りを囲うこの回廊は柱も天井裏(梁がみえる天井板のないもの)もみな朱塗りで、とはいえ日の光が射すよう明るい廊下となっており、歩く脇にも見事な彫刻がはめ込まれています。


唐門の内側が拝殿の入り口につながっています。
階段があって。


拝殿の入り口から見えない金色の光の粒が溢れ出てきているような、圧倒されるオーラがあります。
…参詣者も多くてまさに満員電車に乗り込まんとするかといった状態、こちらにも圧倒されます 笑。

通行口は三箇所。
左側は出口専用と指示されます。

人の多さにも圧倒されますが、この入口の豪華なこと、豪華なこと✨✨
これでもかというくらいに金色に光り輝いております。


すし詰め状態の拝殿内。

かつてはここで解説する係員の方がいて、ここで解説を聞いたのち、ありがたい御守のご紹介を賜るのがいつものパターンでありました。

こうした〝ザ・日光〟的な販売方式はやめたのでありましょうか。




  (一本灯籠)

No.68 2024/11/29 07:52
旅人さん0 

栃木県日光市【清滝神社】さん


夫が、日光でずっと行きたいと思っていたところがあると言い、向かったのは『清滝(きよたき)』。

ところが。
彼がナビにセットしたのは『清滝(きよたき)神社』さん。

その滝をお守りくださる 神さま、神社さんをお詣りするところから始めるなんて、自分の夫ながら、すごく良いこと。
良い心がけだなぁと内心感心しつつ…。


…ただその神社さんを見逃して通り過ぎてしまうところも、さすがわが夫 笑。



Uターンして。

Uターンしたおかげで、反対車線を走行中には気付けなかった駐車場の存在もわかり、もしかしたら、この神社さんにおられる神さまのお導きでありましたでしょうか。


規模こそさほど大きくはありませんが、広い境内がそれはそれはきれいに掃き清められ、大変あたたかで優しい気に満ちた、居心地のよい神社さんでありました。

御神木、でありましょうか。
大きな大きなイチョウの木です。


手水舎があります。
少し変わった手水鉢です。

すぐそばを小さな小さな、川というのもはばかられる水の流れがあります。


これは…。
とても心の癒やされる、そして心落ちつく境内であります。

朱色に花青 青銅色の美しい拝殿です。


古伝によれば。

弘仁十一(820)年 弘法大師空海が来晃し、滝尾・寂光・生岡等と共に当社を創建した。
社名は、社殿背後のお滝を含めた地形が、中国大鷲山の清滝に似ているところから命名されたという。

往時は、二荒山登拝の要路として、又、密宗修験の霊場として大いに栄えた。
お滝の御神水は、古来生命保全の霊水として広く信仰されており、又社前の池は、応永十二(1406) 鎌倉管領の追討を受けた 常陸国小栗城主小栗判官満重を恋慕する美女照手姫が判官の無事息災祈願の際に洗顔したところから〝照手姫の化粧池〟と伝えている。


御祭神は、大海津見神さま

配神は、高龗神さま
二荒山三神さま
(大己貴命さま・田心姫命さま・味耜高彦根命さま)
八坂神さま
稲荷神さま

特殊神事 古式 湯立神事

とありました。


まずは、何をおいてもお詣りです。


社殿のすぐ前を護られる狛犬さま。
大きさは小さめながら、迫力ある眼光と美しい肢体です。

すっかり魅了され、しばし周りをウロウロと♡


ん?

社殿の横に立て札が…。
清滝の滝とあります。

No.69 2024/12/02 08:14
旅人さん0 

(続き)

小さな小さな、でもその水は大変美しく、そして趣きのある池がありました。
…照手姫さまの化粧池、でしょうか。
前レスで書かせていただいている

『…鎌倉管領の追討を受けた 常陸国小栗城主小栗判官満重を恋慕する美女照手姫が判官の無事息災祈願の際に洗顔したところから〝照手姫の化粧池…』
のこと。


もしやご利益で若返ったり、美しくなれたり、…しなかったのは、車に戻って見たバイザー裏のミラーですぐにわかりました 苦笑。
そもそもがそのようなご利益があるなどとは一ミリも書いてはありません。
ただの私の願望でありました。


落ち葉と、何の囲いもない池のほとりであることとから、ズルっと足を取られそうなところを歩いて。

御本殿の傍を拝しながら。

小高い山?



あ。




た、滝だっ!
こんな社殿のすぐそばに…。

なんとありがたくも神々しい光景でありましょう。


しばし滝を見上げて。


かつて空海上人がここを訪れ、この滝を見上げ、清滝、と名付けたことに思いを馳せ。

…なるほど。

『清滝』は『清滝神社』さんの内にありましたか。
それはナビに清滝神社さんをセットするはずです。


清らかな滝からの流れを追うように歩いてまいりました。

美しい水です。

流れのゆるやかなところでは、まさに鏡のように、木々や青い空を映しています。
そんな豊かなものを心にお授けいただいて…。

もう一度、社殿にご挨拶にまいりますと、お書き置きの御朱印が柱に掛けてあることに気づきました。

社名の記されたものと、
見開きで筆で描かれた龍の絵のあるものと。

手書きの龍がとてもかわいらしくて、迷わず見開きの絵入りのものにいたしました。
そおっと。
破れたり折れたりしないように。


あれ?
次に出てきた龍の絵は、私が手にしたものと全く異なったものです。

うわあぁ✨。
すっかり嬉しくなった私。


宮司さまの心こもった、一枚一枚思いを込めてくださった素敵な、素晴らしいおもてなしでありました。

No.70 2024/12/02 16:46
旅人さん0 

宮司さまの心こもった、一枚一枚図柄の異なる龍の絵の描かれた御朱印。

一枚一枚が手書きであることから、この御朱印の画には著作権があるものと考え、こちらにあげることは控えておくことにいたしますが、この龍の絵、墨でスッと迷うことなく筆を走らせて描き、色もおつけになられたものです。

そんななんとも心のこもったおもてなしを受けて、後ろ髪を引かれる思いで車に戻ります。


あ、そうそう、お隣に小さなお堂があったので、行ってみなくては。


【清龍寺(せいりゅうじ)跡】と書かれています。


お寺さんがあったんだぁ…。

たしかに。
清龍神社さんは弘法大師さまが訪れて建立された神社さんでありました。

その横にお寺さんがあったとて、なんの不思議もありません。



【清龍寺跡(清龍権現別当勝福山金剛成就院清滝寺)】

弘仁十一(820)年、沙門空海上人(弘法大師)により創立。
その後円仁(慈覚大師)によって天台宗に改宗した日光山満願寺(今の輪王寺)別院として、蜜門灌頂の道場であった。


お堂の前に設置された案内板に書かれています。


このあと。
夫がナビに入力し向かったのは…。


『清龍(せいりゅう)寺』さんでありました。

No.71 2024/12/04 09:11
旅人さん0 

栃木県日光市【清龍寺】さん


栃木県日光市の【清滝(せいりゅう)寺】さんへ参拝させていただきました。

少し細くなった急なカーブの道を曲がった先を少し行くと、すぐにお寺さんが見え、お寺さんの門前を通り過ぎるとすぐに駐車場がありました。


清龍寺さんの前のお宅の方が、きびきびと洗車をされておられました。
動きに無駄がなく、車のお好きな方なのだろうなと好ましく思いながらそばを通りますと、目があい、お互いにご挨拶したその後に、
「お寺にご用ですか」
とおっしゃられました。


お若いのにコミュ力のおありになる方だなぁと感心しながら
「はい。清龍寺さんはこちらから入るのでよろしいのでしょうかね」


こちらでは曲がってすぐのお寺さんであるためなのか、丁寧に案内の立て札が二箇所ありました。

「ええ、どちらからでもお入りになれます」
とその好青年がおっしゃるのを聞き、
お礼を申し上げて、すぐそばにある手前の入り口から入らせていただきました。




…あれ?

庫裏?

しかしながら。
近年一見一般的な家屋に見える御本堂があります。
ここは慎重に見極めましょう。

「…奥、かしらね?もう一つの入り口から入るのが正しかったかな」

そんなことをブツブツと話していると、先ほどのお若い方が作業の手を止められて、やって来られました。

「何かご用がありますか?」


え。

もしかしてお寺の?

まさに洗車用のコーディネートに身を固めておられ、ましてやお寺の敷地内でもなかったため、お寺の関係の方とは思いもせず。


それにしても作業の手を止めてまでお越しくださるとはありがたい。

「お参りさせていただきにまいりました。
それと。
もし御朱印をお授けなさっておられるなら、お授けいただきたいのですが…」

「ああ、大丈夫です。ただ少し時間をいただきますが大丈夫でしょうか?」

…ん?

この話し方…。
この話の展開…。

もしかしてお坊さんで?

内心びっくりする私どもを庫裏へと招き入れてくださいました。

広くて綺麗に整った玄関です。


と、そこには…

No.72 2024/12/05 13:45
旅人さん0 

(続き)

前レスの可愛らしい画像は
しょうぐうさん❣️
天台宗のマスコットキャラクターです。

『一隅を照らす』からの
〝照隅〟さん、なのだと思います。
かの総本山である比叡山でのイベントではこのしょうぐうさん(の着ぐるみ)が境内を歩くこともあるといいます。

一度で良いので歩くしょうぐうさんにお会いしたいものであります。


あれ?
…て、天台宗?

たしか空海さんが開かれたお寺さんなのでは…。


ま、まぁ、長い歴史の中宗派が変わることはままあるようです。
ましてやここ日光にあっては、輪王寺さん、殊、天海上人の影響もありましょう。

それはさておき。

この〝しょうぐうさん〟のぬいぐるみさんにお会いできたのも初めてのことでありました。

…可愛くないですか♡

しかも小さな木彫りの火鉢や鉄瓶、茶器、なんてセンスの良い♡


と、しょうぐうさんで騒いでおりますが、このときお参りがまだでございます。

洗車のお手をとめて、御朱印帳への墨書きをしてくださるということで、先に庫裏へとお邪魔しておりました。

庫裏から境内を通って。

途中、池がありました。
池の向こうにお不動さまがおられます。

手水舎があります。
美しい水が絶えずあふれ出ています。
湧き水、でしょうか。


そして御本堂。
赤いお堂です。

格子にはめられたガラスに、深まりゆく秋が映ります。


この清滝寺さんはかつて明治の廃仏毀釈により廃寺となったといいます。
現在清滝寺さんが建つ場所にはかつては『円通寺』(=長興山福聚院円通寺。明治四年廃寺)さんが建っていたということです。

こちらのご本尊【千手観世音菩薩】さまは、『日光山中禅寺』のご本尊の末木で彫られたものと伝わり、(距離としてはだいぶ離れてはいますが)中禅寺の前立ち本尊の役割を担っていたといいます。

男体山に建つ中禅寺はかつては女人禁制であったため、この清滝寺は女性の参拝者のための札所として栄えたといいます。

しかし、明治時代となり廃仏毀釈の動きを受けて、円通寺さんと共に廃寺となります。


それを明治四十二年、足尾銅山採掘に本格的に着手した『古河電工』さんが、足尾への進出という大きな力を得、町も潤い、復興し、この清滝寺さんの再興とあいなったようです。
その際清滝寺さんを円通寺さん跡に建て、合併再興としたようです。


No.73 2024/12/06 13:28
旅人さん0 

(続き)

御本堂のわきに苔むした石仏さまが並んでおられます。

苔でもとのお姿がわからなくなっています。

青々としたお髪とお召し物のように苔が…。
ちょっと可愛らしくてクスッと笑った瞬間、

…失われた手に気づいて言葉を失いました。


それでも微笑んでくださる石仏さま。



御本堂わきのつきあたりにおられた御仏さま。
遠くから見るとまるで内陣におられるご本尊さまのようであります。

ワクワクして近づくと…。
やはり痛々しい傷跡が。

思わず声が出ました。



…そうでした。
こちらはあの維新で廃寺とされたほどのお寺さんでありました。


苔がまるで人間の愚かな過去を静かに覆い隠してくれているかのようにも思えます。

御仏が意思をもって、あえて苔をお召しになられたかにも思えてしまい、切なく、そしてありがたく…。


…愚かでごめんなさい。



こちらのお寺の御詠歌は

『おおいなる 仏の御手のちからにて 濁る心も澄む清滝』

とのこと。


より深い言葉のように思えて、心にささります。

No.74 2024/12/07 06:49
旅人さん0 

(続き)

御本堂の横から再び御本堂の前へ。


おや?
…舟?
舟に乗る御仏、でしょうか。
前にまわってみますと、なるほど舟に乗られた如意輪観音さまてありました。

水の豊かな地であります。
石工さんの遊び心、でしょうか?
それとも有事の時、如意輪観音さまが舟で移動なされるように?


その前には美しく並ばれた六地蔵さま。
一体だけ少し大きく彫られたのでしょうか?


視線を少しまわしてみますと何やらお堂があります…というよりは覆屋ですね。


額が掲げてあります。
『しらみ地蔵』さま。


…し、しらみぃー?

まさかのしらみ。
まさかあのしらみでしょうか?



紹介文の書かれた案内板があります。

『日光市指定有形文化財

 石造地蔵菩薩坐像


 年記銘から天正年間(1573~1591)に製作されたことがわかり、この時期の日光における石仏研究の貴重な資料である。
 像容は近世の坐像と比較し、肩が極端になで肩となっている。袈裟の文様線は単純で、首部の襟ぐりが深い。像の厚みもあり量感あふれるが、全体的に簡素である。

 かつては清滝神社付近の路傍に祀られていたと伝えられ、この前で浮浪者がひなたぼっこをしながらシラミ取りをしていたといい、そのことから『しらみ地蔵』と呼ばれている。

 平成18年3月3日指定
日光市教育委員会』



えっ…。
そ、そんな命名?

なんだかとてもバチ当たりな気がするのは私だけでしょうか。


ひなたぼっこをし、虱を取るのが、長閑な光景、といえば光景でもあり…。

虱を取るのを見守るお地蔵さまが、イヤなものをとり除くのを見守り、それをとり除けるようお力を貸してくださるというご利益へとつながったようです。

うーん。


…空が白んでくる、とかじゃなくて、虱?


ちなみに。
このしらみ地蔵菩薩さまは関東百八地蔵尊霊場の四十九札所のお地蔵さまとなります。


入り口に大きな石塔がありました。

【坂東十八番】

…坂東三十三観音霊場のこと?
…こちらは違うはずですが。


坂東三十三観音霊場の十八番札所は…、
あ、なるほど、…中禅寺です。

こちらはかつて中禅寺の前立ち的なお寺さんでありました。
中禅寺さんに詣でたくとも許されない、女性たちが、せめて思いは中禅寺へと馳せることができるようにと、このような石塔を建てたのでしょうか。

No.75 2024/12/11 05:18
旅人さん0 

栃木県足利市【薬師寺】さん

しばらく前となりますが栃木県足利市にあります【薬師寺】さんへ参拝させていただきました。
初めてのお寺さんです。

山門の前に立つと、
一瞬立ち止まって見返す斬新なデザインの御本堂がお出迎えくださいました。

昭和の時代建てられた鉄筋コンクリート製の御本堂には、往々にして既存のお寺さんの建物の概念を覆すものをみることがあります。

一礼し境内に足を踏み入れると、ひだりてにある昔ながらのお堂に何やら人が集まっています。

実はこの日こちらの普段は非公開の薬師如来さまが公開していただけるとのことでありました。

足利市の文化財公開日でもあったのですが、来年春、修復のためしばらくこちらのお寺に不在となることもあって、この日から申し出をすれば拝観させていただけることとされたようです。


逸る気持ちを抑えて、抑えて…。

まずは御本堂へと向かい、ご本尊さまにご挨拶を申し上げます。
御本堂の戸も開けてくださっておられ、ご本尊さまに直接お目通しいただくことができました。
ありがたいことです。

その後、焦る気持ちを抑えて、走らず、薬師堂と思われるお堂へと向かいます。

こちらの薬師堂は昔ながらの木造のお堂であります。


薬師堂は思った以上に人が集まっていました。
そんな人と人の隙間から、見えないお薬師さまに手を合わせます。

隙間から見える僧の座られる座の彫物もすばらしい!
どうしても下の方しか見えないので、目にはいったのは畳。

畳敷きのお堂は今は珍しい気がいたしました。
しかも新しい、まだ緑の残る畳です。

護摩壇が組まれています。
御護摩が焚かれるということですと殊更畳敷きは珍しいかもしれません。

そしておばさんは少しずつ更なる人と人の隙間を探して移動するのでありました。

あ。

立派な御厨子の中にお薬師さまのお姿が見えました。
柔らかな眼差しと、お姿を拝した瞬間、包み込んで護ってくださるようなお力を感じるお薬師さまがそこにおられました。


そしてさらには。
一見、昔の家庭によく見られた部屋の二辺を使って祀った神棚を思わせるような棚があり、そこにはお像がたくさん祭られている、…ように見えました。


中で説明をしてくださる方がおられるのが見えました。

作務衣姿であられます。
ご住職さまでありましょうか。


No.76 2024/12/12 07:49
旅人さん0 

(続き)

説明を聞かれる何人かの方はスリッパを履いてお堂の内におられます。

私があまりにも覗き込んで説明を聞いているのが目についたのでしょう、
「スリッパの数は足りませんでしたが、一応掃き掃除もしてありますので、よろしければどうぞ中へお入りください」
とお声がけくださいました。

…子どもたちと一緒だったら顔を顰められ、のちに叱られるところです。

しかしこの日は夫と二人✌︎


こうした時、長年の経験から、なのでしょう、決して行動を共にはしていない夫です。

あくまでも他人事、なのでしょうね。
すでに呆れ果て諦めているのでしょう。

…ん?

そういえば、買い物などでも決してそばにはいません。
というか、思えば若いころからそうだったかも…。

まぁ、どうでもよいことです。


周りの、やはり遠巻きに見るしかなかった方々は大変喜んでおられました。 …ケガの功名、でしょうか。


さらには
「せっかくですからもっとそばでご覧ください」とおっしゃるご住職さま。

えっ✨


人々の列が恐る恐る前へと動きます。

「どうぞもっとそばで」
とご住職。

な、なんと御厨子の前までをお許しくださったのです。


…言葉にはなりません。




藤原末期から鎌倉初期の作であろうかと推察されるといいます。


許されるならずっとお堂の中にいたい、そんな幸せな気分です。


お寺さんとしてはお許しくださるのですが、このイベントに連れてきてくれた夫は、この後もあちこちを廻る計画を立ててくれております。
去り難い思いを抱きつつ…。




説明を終えられご住職さまは今度は御朱印への対応にまわられるとのこと。

お手を煩わせてばかりで全く申し訳ないことではありますが、御朱印をお授けいただくべく客殿兼庫裏へと向かう私。

夫は…どこでしょう。
神社さんやお寺さんを参拝しても、参拝後の探索は全く別行動をとる二人であります。


この距離感が良いのですが、時々山深い無住のお寺さんなどでは心細くなります。

あまりに戻らないと、…もしや神隠しに…などと思ってしまう。

ええ、そんなとき聞こえる鴉の鳴き声や、風のわたる音のなんとも効果的なことといったら ( ; ; )。


しかしながら、そうかといって行動を共にすることはない、あくまでもマイペースな二人でありました。




No.77 2024/12/13 16:48
旅人さん0 

(続き)

こちら、足利市の川崎薬師寺さんの御本堂は昭和四十年に再建されたもの、といいます。
河川の洪水対策で移転となったためといいます。

江戸時代に建てられたという御本堂の移築は難しいものだったのでありましょうか。
諸事情はありましょうし、移築は移築で大変な手間もお金もかかるものでありましょう。
どんなお堂であったのでしょう。

鉄筋コンクリート製の御本堂はやはり寂しくもあり、変わったデザインで建てられていると私は少しだけ哀しくも思えるのです。
ただ今後の管理を考えると、たとえばあのお寺の甍の傷んだ時など、費用の面でずいぶんと変わってくるものでありましょう。
古き良きものだけにこだわっていく時代はこうして変わりゆくものとなるのかもしれません。


こちらのです御本尊さまは延命地蔵さま。
左手に宝珠、右手に錫杖を持たれ、左足を下げ半跏坐をとられていました。
江戸時代のものと伝わるといいます。

御内陣向かって右にお祀りされておられる弘法大師さまは特に
【廿日大師】と呼ばれる御像のようです。


はて。
廿日大師という表現を初めて目にいたしました。

こちらは真言宗豊山派のお寺さん。
御像を拝して五鈷杵をお持ちなことから弘法大師さまであることは間違いなさそうです。
とすると廿日ということになにかありそうです。

調べたところ、ヒットするのは高野山の別格本山 清浄心院というお寺さんばかりでありました。
こちらのお寺さんの記述を拝見させていただきましたところ…

『承和二(835)年三月二十日。
弘法大師・空海さまはご入定される前日に、自らの像を彫刻され、「微雲管(みうんかん)」の3字を木像の後ろに刻まれました。

この像は「廿日(はつか)大師」と称され、今も私たちの幸せを願ってくださっております』

とありました。
併せてこちら薬師寺さんでいただいた資料を読ませていただいたところ、こちらの第三十二代のご住職さまが夢でこの高野山清浄心院さんに祀られる廿日大師さまの御姿をみたことにただならぬ縁を感じ、高野山に戻り、この像を作られたとのこと。
こちらの廿日大師さまの御肩にも『微雲管』と刻まれているとのことでありました。

通常お見かけする弘法大師さまの御像よりもほっそりとお痩せになられているのもそういった御像であることからでありましたか…。

No.78 2024/12/15 07:50
旅人さん0 

(続き)

栃木県足利市に建つ川崎薬師寺さんは、お若いご住職さまに、新しそうなお寺さんですが、実は建久元(1190)年に創建されたお寺さんだといいます。
もとは天台宗のお寺さんであったものがおそらく江戸の時代に改宗されたようだとお話しされていました。



古くから伝わる伝統を大切にしつつ、新しい風を取り入れていこうとされるお姿に頭が下がります。

このたび拝観させていただきましたお薬師さまは来年以降修繕事業を控えられているとのことです。
江戸時代に補修された部分の塗膜を剥離させ、欠損部分の再建も行い、平安時代のお姿を取り戻す修繕となるとのことでありました。


ちなみに。
このお薬師さまは通常は非公開なだけで、秘仏ではないとのこと。

真の秘仏の御仏は小さな御厨子に納められたお薬師さまと伝わるとおっしゃっておられました。



ご住職さまにおかれましては、大変丁寧なご説明をいただきありがとうございました。



No.79 2024/12/16 09:44
旅人さん0 

栃木県足利市の川崎薬師寺さんをあとにし、次の目的地に向かおうとナビを使っての移動をしました。

しばらく走行すると『阿弥陀堂』とナビの画面に出てまいりました。

これはぜひお詣りさせていただきましょう。

ところが。

ナビの示すところには古い集会所のような建物が。

…たしかに、地元でもかつてお寺さんであったところが集会所になっている、などという話を聞いたことがあります。

ただ、こちらはそもそもが元お寺さんであった建物とは思えない…。
強いていうならば、…庵?
しかも今使われているようには思えない。


ただ、その建物の敷地内には何体かの石仏さまがおられました。
そのうちの一体はお美しい如意輪観音さま。

この如意輪観音さまだけ屋根だけではありますが覆屋がありました。

阿弥陀さまではありません。



帰宅後この阿弥陀堂について調べてみました。

すると。
な、なんと!
こちらの阿弥陀堂の御本尊であられる【木造 阿弥陀如来立像】さまを、私、つい先ほどまで拝観させていただいていたということがわかったのです。


実は。
先ほどまで参拝させていただいていた栃木県足利市の川崎薬師寺さんの御本堂の御内陣、御本尊の延命地蔵さまの向かって左側に祀られていた両手を無惨にも無くされ、表面の塗りも剥げて黒ずんだ像高三十から三十五センチといったどなたかも分からない立像が祀られていたのです。

この御仏こそが、こちらのこの阿弥陀堂の御本尊さまであるというのです。


昭和のカスリーン台風の洪水で損傷を受けられたといいます。

いま残る阿弥陀堂もそうであったのでしょうか。

薬師寺さんの御内陣にそっとお祀りされた、お手を失われた御仏の御像、それがなんとも痛々しくて、心に残ったものでありました。


薬師寺さんと阿弥陀堂は同じ川崎町ではあるようですが、少し距離が離れております。

今、阿弥陀さまは薬師寺さんにおられますが、今日も薬師寺さん界隈から阿弥陀堂の辺り、広く川崎町を、そして川崎町にお住まいの方々を、お手を失われたお姿のままお護りくださっておられるのかと思うと本当にありがたく思われます。


いつかこの阿弥陀如来さまも修復される日が来るとよいなと、あらためて思うのでありました。

No.80 2024/12/18 04:16
旅人さん0 

【足利市西場の百番観音さま】

足利市の西場というところ。
こちらには石仏さまがたくさんおられるといいます。

うかがう前からワクワクいたします。

しかもこちらに向かう前にも思いもよらない阿弥陀堂で石仏さまにお逢いすることができました。


西場の小さな山の山裾にたくさんの石造物の並ぶなか、
一際目を引く『勢至菩薩』さま。
『二十三夜さま』であります。


なんとお美しいことでしょう。
お優しいお顔だちです。

衣の流れるようなさまといい、
天衣と呼ばれる肩のところの薄布のフワッと浮いた感じといい、
なんと素晴らしい彫りでありましょう。

御手は軽く組まれておられますでしょうか?

蓮座の彫りも、
その下の台に彫られた菊の花弁の細かなこととかも本当に本当に素晴らしい。

堂宇や覆屋もなく、風雨に晒されてなおこの美しさを保ってくださっております。
寛政八(1796)年の作のようです。
奇跡のようです。


願主はかつてここにあったという『勧行寺』さんの阿闍梨『円海』さま、とあります。
この地に百観音を勧請したという僧侶であります。


ところで。
二十三夜講の御本尊さまであられる勢至菩薩さまではありますが、お寺の御本堂で独尊でお祀りされることは稀であります。
観音さまと対になり、阿弥陀如来さまの脇侍、阿弥陀如来三尊像としてお祀りされることがほとんどです。


いつものようにぽわぁとこの勢至菩薩さまにしばし見とれて立ち尽くし。
そして去り難い思いを振り切るかのようにいま一度合掌して…。






No.81 2024/12/19 12:12
旅人さん0 

(続き)

この石造物の並ぶ道端の上、小高いところに、百観音さまがお祀りされております。

少しのぼると、広い空間が広がっていました。
そして御堂がぽつん。

中には大日如来さまがお祀りされていました。


ここはかつてあったお寺の跡。
そのお寺さんでお祀りされていた御仏でありましょうか。



『勧行寺跡と百番観音』

創建、廃寺の時期はいずれも明確でないが、本寺(寿◯山(? 白いテープに〝寿〟の一文字だけが書かれたものが貼り付けてあります)勧行寺)は、格式のある修行寺として隆盛をきわめたが、今はお行様(おぎょうさま)と伝えられている。
寛政年間大阿闍梨円海和尚が、西国、坂東、秩父の百番観音を勧進する偉業をなし遂げ、完全な形で百体の石仏が保存され、往時の民衆の厚い信仰を物語る貴重な文化財である。 西場町文化財保存会』


廃寺となった時期すらがわからないほどの時を経ているとのこと、もはや私には当時の様子を推察することは叶いませんでした。


寂しい空間です。
廃寺跡、ということもあってのことでしょうか。

きれいに整備はされているのです。



そしてここには、この地点にはまだ一体の石仏さまもおられませんでした。

No.82 2024/12/20 05:40
旅人さん0 

(続き)

その後、思ったよりも登った先に、…三列に整然とお並びになられた観音さまがおられました。
そのお姿は同じ大きさで統一されており、たくさんの尊像が並ばれる様子が目に入った瞬間、まだ斜面にいながら思わず手を合わせたくらいに、神々しい光景でありました。



【西場の百観音】

勧行寺(廃寺)跡に石造の観世音菩薩像が百体、南面して三段に整然と並んでいる。

これは、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の各霊場の観世音菩薩像を勧請して、造立されたものである。

造立時期は記年銘から寛政二(1790)から同十年にわたるものと推定される。

一部に若干の損壊が見られるが全体的に保存も良く百体整然と立ち並ぶ状態は偉観であり、西国・坂東・秩父の霊場巡礼の功徳を分かち合おうとした勧行寺僧侶の布教姿勢と、それに呼応した村人の信仰の姿を知る上で貴重な資料である。
     …足利市教育委員会


…前回のレスと分かれてしまったのでお気づきになられるのはむずかしくなってしまい申し訳なく思いましたが、
前回のレスでは『百番観音』
そして今回のレスでは『百観音』と、それぞれ異なる表記がなされているのです。

これはおっちょこちょいでガサツな私の写し間違いではなく、書いた先、この案内板を設置したところがそれぞれ異なっている事に由来したものであるのです。


前レスのものは『西場町文化財保存会』さまが、
今回ご紹介しているものは『足利市教育委員会』が設置したもの。

当然書き手が異なって、そこに込められたものに違いがあってのこの違いになっているのだなと私はある種の感動をすら覚えました。

前者は自分たちの住まう地域の先人が、…おそらくその中にはご自分の祖先に当たる方が奉納されたという方が多くおられる、そんな方々の中のお一人が書かれたもので、後者は市の文化財課の方が学術的なご意見と地元の方々のお話を元に、あるいはその専門の方が書かれたもの、という事です。


かつてご住職さまが発案された観音さまの造立に深く感銘された、ご先祖さまが、もしかしたら苦しい生活の中にあっても、どうしてもここに観音さまを奉納したいと思われた方々がここを誇りに思って書かれたものと、貴重な歴史的資料、文化財と思って書かれたものはこうした違いを生じるものなのだなぁ…この一字の違いが私にはそう思えました。


No.83 2024/12/21 07:26
旅人さん0 

(続き)

おおっ✨



御手。
御手ひとつを見てもなんとしなやかで美しい御指✨

合掌なさるために自然に曲げた手首の美しさ。
まったく力みのない御仏の肩のラインの美しいことといったら。

衣から見える素の御御足。

なんと尊くて、そしてお美しいことでしょう。

(何回美しいと…笑)



彫られた石工の方が何人かいるよう思われます。
お顔にその違いがみられます。


同じ大きさに切り出された石があって、
同じ形、大きさの舟形光背という取り決めをした上で、
百ヶ寺観音霊場のそれぞれの観音さまを石工たちが彫ったのであろうと思います。

…おそらくは石工同士がそれぞれ自らの腕の限りを注ぎ、その上で腕を競うといったこともあったのではないかと私は思います。


どの観音さまも、すべて美しいお姿をされておられます。

彩色の跡が残るものもありました。



この観音さまが建立され一同に並んださまはさぞ神々しいものであったことでありましょう。

奉納された方々の思いが伝わってまいります。


また…、何度でも行きたいと思う、百番観音さまでありました。




ここに載せる一枚をどれだけ時間をかけて選んだことか…

No.84 2024/12/23 03:03
旅人さん0 

【庚申】

昨日は今年最後の庚申の日でありました。

この庚申の日の過ごし方で、道教と日本の仏教、さらには地域の言い伝え等と結びついたものから前日からご近所の方々と集って眠らずに過ごすという慣習があり、それを庚申講と呼んだようです。


庚申の日は六十日に一度。

江戸時代には全国各地でかなり盛んにこの庚申講が開かれていたようです。
この庚申講を三年間続けた証として【庚申塔】を建てるという慣習もあり、庚申講がいかに盛んであったかを物語るように【庚申】と書かれた塔や石造物を見かけます。

ただこの庚申という考えもまた、あの明治政府によって否定されたものであり、この頃多くの庚申塔が撤去・処分されてしまったようです。
💢


また庚申の年、というものもあります。
これは六十年に一度巡りくるものとなります。

この庚申の年にもまた、庚申講とは関わりなく庚申塔を建てたようで、庚申塔を建てられた年をみるとなるほど庚申の年であるものが多く見受けられます。


今年、栃木県にある有名な庚申塔を訪ねました。
お寺の中、庚申堂を建てて祀った大変に立派なものでありました。

これが庚申の年に建てられたものでありました。


昨日の庚申の日に、そのことを夫に話していたら、
「は?ちなみに何年に建てられた?」

どういうことか少し不機嫌そうに…。

「寛政十二、…年だったかな」
と私が申しますと
「ああ、それなら正しいな」


はっ?
疑った?

夫は庚申の年にも庚申塔が建てられることは知っていたようで、しかもこの寛政年間に多くの庚申塔が建てられていることも知っていたようです。

が、この栃木県の庚申塔が庚申の年に建てられたということはどうやら知らなかったよう。
二人で行ったので、おそらく彼は建立年を見落としたのでしょう。


はあぁ。
歴オタのプライドを傷つけました?
まぁ、そうした自分を許せない気持ちもあるのでしょうが、それにしてももう少し言い方があろうと思うのですが、ね。

なんで素直に情報を共有できないのでしょう。

モヤモヤするなぁ。


と怒る私もまた未熟者。

…未熟者同士なのだから素直に補い合って生きたら良いのになぁ。







No.85 2024/12/25 04:46
旅人さん0 

栃木県足利市【正善寺】さん


神社を参拝させていただきますときは、基本的には、神さまに失礼のないよう事前に御祭神を知って伺わせていただくようにしてはおります。

とはいえ、たとえば天満宮とあれば御祭神は天神さま、管原道眞公とわかりますので、出先でふと見かけて
(あ、〇〇さまだ)
とお詣りさせていただくことも多々ございますが。

お寺さんに関してはなんらそういった下調べなく、それこそ門前で(ああ、こちらは〇〇宗のお寺さんなのか)と、はじめて宗派を知って、参拝させていただくことも多くあります。


こちらも足利市の企画で今回文化財公開をされるお寺さんということで、御由緒も宗派も存じあげないまま、文化財公開にあたって紹介されている情報だけで参拝させていただいたのでありました。


こちらの文化財は御仏像の
【木造阿弥陀如来坐像】。
それともう一つ、その名も
【正善寺古墳】。


こちらはどうやら古墳に関係するお寺さんであるようです。


御本堂の前、向かって左側に伝教大師さまの御像がございました。
こちらは天台宗のお寺さんのようです。
…そうなんですよね、必ずしも宗派をうたった標柱や表札があるとは限らないので、こういったヒントを得られればまだしも、実のところ宗派がわからないまま参拝を終えることもあるにはあるのです。

まぁ、それはあまり気にしてはいないのです。
お坊さんにすれば中には心外に思われる方もおられましょうが、もとを辿ればお釈迦さまのお教えですから。



山門の真ん前、御本堂の戸は大きく開かれ、その入り口を一目見ただけでお寺さんが、そして御本尊さまが心から歓迎してくださっておられるのが伝わってくる、…そんな思いのするお寺さんでありました。

たとえるなら、金色の、あたたかなオーラ…そんな雰囲気を感じたお寺さんの御本堂前であります。



その戸口に立った瞬間、やわらかな、それでいて凛とした雰囲気の作務衣をお召しの女の方から、
「どうぞお入りください」
とお声がけいただきました。

身体をこちらに向けて、大きく手を御本堂の中へと招き入れるようなしぐさをされて、まさにこれ以上ないフレンドリーなお招きです。


靴を脱ぎしずしずと一歩。


…次の瞬間、目の前におられます御本尊さまに目を奪われ、思わず小さく声が出てしまったくらいの衝撃を受けました。



No.86 2024/12/25 14:06
旅人さん0 

(続き)

そこには暖かくおだやかな光に包まれた阿弥陀如来さまがおられたのです。

お姿を前にしてすぐに、もう自然に身体がそうすることが当たり前とばかりにそこに正座し、手をついて頭を深く下げる私がおりました。

そして。
頭を上げた私の目の前には香炉がありました。

「お線香をあげさせていただいてよろしいでしょうか」
先ほどの作務衣の女性に声をかけさせていただきました。

すぐに女性は快くそこにあるろうそくに火を灯してくださいました。
大変良い香りのお線香でありました。


あらためて阿弥陀如来さまのお姿を拝します。
なんとおだやかなお姿でありましょう。
なんとおだやかな癒しの空間でありましょう。


それにしても大きい。
大きな御像です。

入った瞬間には丈六?と思ったくらいです。
ですがよくよくみるとそれほど大きくはありません。
のちに見た資料によると像高九十七センチ、とあります。

ただ、それはおそらくは阿弥陀如来さまのお座りになられた御姿の像のみの高さでありましょう。
光背も大きく、その高さはあきらかに坐像の像高を超えています。
台座は…どうかしら。


私の感覚では台座すらも含まない、まさに阿弥陀如来さまだけで九十七センチあるように思えます。

ただ、いつも申し上げております通り、私、こうした目測の能力が皆無な人間で。

まぁ、そのあたりは置いておいていただいて、かなり大きな坐像なのだなぁと思ってやっていただければ間違いありません。



あれ?、お顔に何か?


表面の剥落、剥離でありましょうか、まるで瘡蓋のように見えます。
…それが痛々しく思えたのは私一人でありますでしょうか。


左右には向かって右に千手観音さま。
左には馬頭観音さま。


…あれ?
この三尊って…。
天台宗のお寺さんですし、もしかしたら?

「日光の輪王寺さんと同じ御本尊さまですね」
と私が申し上げますと、先ほどの女性の方が
「あら、お気づきになられたのですね。それはそれは」
とそれは嬉しそうにおっしゃいました。


あの大きくて金色に光り輝く輪王寺さんの三仏堂の仏さまと同じでありますから。
あのインパクトは一度拝すれば忘れません、…って私、もう何度参拝させていただいたことか。 笑。


配置もまさに日光の三仏堂と同じであります。





No.87 2024/12/28 05:08
旅人さん0 

(続き)

大きく金色に光り輝く輪王寺さんの三仏堂の仏さまと同じ配列、実はこれは特殊な配列形式で、この三仏、三尊を共に祀ることはあまり無い…はず、なのです。

何故ならばこの三尊は日光の山々であるとされているからこその配列だから。


三仏堂と異なるとすれば、千手観音さまと馬頭観音さまは阿弥陀さまとだいぶ大きさが異なりますこと。

なによりおそらくは制作された年代もだいぶ後年になるのではないかと思われるいかにも新しい仏さまです。


と、まさに絶妙なタイミングで静かに、作務衣の女性が語り始めました。

「実はあの廃仏毀釈で仏さまが集められることとなり、あちこちからかなりの数の仏像が集められたようなのです。
そしていざその仏像を戻しても良いとなったとき、戻せなくなってしまった仏像が結構な数あったのです。


この阿弥陀如来さまは日光の輪王寺さんのものであったのですが、やはり戻せなくなったとのことで、行き場を無くしておられるというのです。

そんな話がこの寺に持ち込まれたのは父の代のことなのですが、その時「これはぜひ我が寺にお迎えせねば」と、
ありったけのお金をかき集めてお迎え申し上げたのですよ」

と笑いながらおっしゃったのです。
なんてチャーミングな語り口でありましょう♡




そんなお話をひとしきりお聞きして。

No.88 2024/12/28 05:12
旅人さん0 

(続き)

御朱印をお願いいたしましたところ、そのまま女性は御朱印帳を手に御本堂の脇間にあった文机に向かわれ、墨書を始められました。

…もしかしてもしかすると、この女性こそがご住職さま?
私、失礼は無かったかしら。




あ。

夫はこちらで思いっきり失礼をしたんです。

御内陣まで入ることまでお許しくださり、
失礼が無いよう失礼の無きよう、御簾に頭をぶつけたりしないように、気をつけて、気をつけて…。

上にばかり気をつけて、御内陣のほんの少し高くなっている段差に気づかず(本当は昇っているので、正しくは忘れて)、







すっ転んだんです。

ええ、御本堂の中で。

隣で大きな異音がすると同時に、真横に並べられていた椅子が倒れて、そこに夫の足があるびっくりといったら!


一瞬何が起きたものかまるでわかりませんでした。
理解するまでちょっと時間を要したくらい。

でもお寺の調度や椅子を傷付けることなく、本人も(痛みはあったでしょうが)無事で、これぞまさに阿弥陀如来さまのお力のおかげ、千手観音さまの御手の救い、馬頭観音さまの功徳でありましょう。

No.89 2024/12/29 04:14
旅人さん0 

(続き)

足利市の正善寺さん。
正しくは
【明星山 神楽院 正善寺】。


延享二(1745)年
尊影権大僧都により御本堂建立。
このとき御本尊は釈迦如来さまであり、釈迦如来立像が祀られていた。

昭和五十一(1976)年
日光輪王寺より定朝様式の【阿弥陀如来坐像】を譲り受け、新しく御本尊として安置。


正善寺の阿弥陀如来は、昭和51年に日光山輪王寺より勧請(かんじょう)された仏様です。身の丈約1メートル、当時奈良博物館の館長をされていた石田茂作氏に鑑定していただいた書簡によると、製作は鎌倉中期とされ、日本で最初の仏師とされる定朝様式(じょうちょうようしき)の阿弥陀如来とされています。

一番の特徴はその「肉髷(にくけい)」で、通常如来像の肉髷は頭上のやや前にみえるかたちであるのがほとんどです。正善寺のご本尊の肉髷は頭頂に置かれていて、その相は国内でも珍しいとされています。また光背も放射状に描かれており、弥陀来迎図にあるそのままの姿を表しています。



昭和五十三(1978)年
鐘楼堂落慶。
鋳匠は人間国宝香取正彦氏の弟子で、足利の鴇田力氏。
銅は『戦艦陸奥』に使われていたもの。

昭和五十六(1981)年
日光山より『弁財天』を勧請。
正善寺古墳の石室に奉安。



お寺が前方後円墳の上に建てられてあり、石室から観音像が出土されています。

(正善寺さんのHPより)


えっ?

戦艦陸奥の鐘?



…知りませんでした。
気づきませんでしたぁ(;ω;)

亡き父といい、夫といい、息子といい、実はわが家は戦艦好きが多く。
血筋というには父と夫は血の繋がりは全くないので、…日本男児の血、とでもいうのでしょうかね。(鐘、だけに。…なんでもありません)

過去にはその鐘を拝するべく何寺ほど訪ね歩いた人たちなのです。

そんな浪漫を一ミリも理解しない妻であり母である私は、鐘になんの違いがあろうかとどこか冷ややかにそんな父と息子を見ていたのもたしか、…なのですが。


でもお寺の御由緒をしっかりと学んでこの地を訪れたならば、夫だけでもそうした目でこの梵鐘を見ることができたものを…、そう思うと何やら夫に申し訳ないような気すらしてまいります。

No.90 2024/12/30 06:34
旅人さん0 

(続き)

お寺さんのことはあまり調べることなく参拝し

神社さんは最低でも御祭神、ことに主祭神さまは調べられる限り調べてから参詣する


それはこの珍道中を歩きながら、いつしか作ったマイルール。


お寺さんをないがしろにしているわけなど毛頭ありません。


神さまに失礼なきようと思ってのことからではあります。
それはひとえにビビりだから、でもありました。


御仏は救いと諌めと、何より見守ってくださる存在であるとの、またまた私の勝手な思い込みもあり、そうした存在のもとへ訪れ、日ごろの悪しき行いや考えをお詫び申し上げ、都度身を正す機会を与えていただき、
そして日頃の感謝を申し上げる存在としてとらえているので、どの御仏にもそうした考えのもと訪れるので良いかと思うようなりました。




…なにより。

ときめきも欲しい 笑。


あまりにも詳細に書かれたものを読んでしまうと、出逢いの煌めきが少しくすんでしまう気がして、
神社さんは最低でも主祭神さま、
お寺さんは宗派すら知らぬままに
参詣させていただいております。


まぁ、行ってから今回のように
(ああ、もう少し調べてから来れば…)
と思うことも多々ありますが、その愚かさも私らしいことで。

そうして来年もまた変わらぬ珍道中を続けるのであります。



閑話休題。


話を正善寺さんへと戻しましょう。



なるほど。
こちらは一目でわかるくらいに古墳の上に墓地があります。

その墓地の麓を、円墳の周りを、不動明王さまと童子さんたちが護っておられます。
十二支の守り童子さんでもあるようです。
私の守り童子さんは…
秘密です 笑。



この墓地のそばに鳥居がありました。
弁天宮、とあります。

下っています。
…下り宮?

No.91 2024/12/30 06:46
旅人さん0 

(続き)

正善寺さんの弁財天さまのお宮は鳥居をくぐってゆるやかな下り坂。
その先は岩屋のようになっていました。


と、夫が意味ありげに
「俺一人でお詣りさせていただいてくるよ、…無理なんでしょう?」
えっ?
お詣りさせていただきますけど?


くだっていった先は狭いです。
暗いです。

本当はろうそくをあげてお詣りさせていただくよう書いてありましたが、ろうそくがありませんでした。

お参りして、戻ります。








ん?
んんっ?!

この感じ…。
…せ、石室じゃないですかぁぁ。


そ、そうかぁ。
あの夫の意味ありげな物言いは、暗にここが石室であることを伝えていたということでありましたかぁ。


私、古墳も一個人のお墓と考え(いや、事実そうですが)、石室は神聖な場所。
ありていに言えば…怖いんです、私。


歴史好きで考古学研究会とかに所属していた夫とたまに古墳を訪ねても石室には近づこうとすらしなかったのです。…怖いから。

は、はっきり言ってよ、もう(;ω;)
というか位置関係から気づきましょうよ、私。


…お寺さんも墓地には極力近寄らない私。

神さまへの失礼も畏れますが、
死者への冒涜も怖れます。


でも畏れという考え方、感じ方は
人として生きる上でとても大切な感覚だと私は思っております。


ま、ただ私の場合、ビビりであることをも大きいのですが、ね 笑。





No.92 2024/12/30 06:49
旅人さん0 


今年も日本語すら覚束ない、拙い、
しかもそれを補おうとしてやたらと長い
私の稚拙な文をお読みくださいまして
本当にありがとうございました。


寒波が襲来し、空気も乾燥して、
巷には悪しき流行病が横行しております。


みなさまどうぞ
お身体にお気をつけてご自愛なさって
良いお年をお迎えください。


No.93 2025/01/02 07:23
旅人さん0 

みなさまにおかれましては
良いお年をお迎えのことと存じます。

喪中につき新年のご挨拶は控えさせていただいております。


それでも
全ての生きとし生けるものの上、
平等に陽は昇ります。


そんなことにもあらためての感謝をし、過ごした一日でありました。



風の強い夜が一転、年が変わるくらいに風がなぎ、
あたたかで穏やかな日となった奇跡に神仏のお力を感じ。



昨年一生涯忘れることのできない
元旦となったことに
あらためて自然の脅威を思い
追悼し
復興を祈りました。






そんな
いつもの年とは違う新年を迎える
前の晩に、息子が大切そうに一つの箱を手に帰省してまいりました。


お重でありました。



心遣いに感謝し、

そうした心遣いのできる生き方をしてくれ今に至る彼の生き方に心から感謝した一日でありました。

No.94 2025/01/03 06:23
旅人さん0 

栃木県足利市【徳蔵寺】さん


栃木県足利市の徳蔵寺さんはピンポン寺を名乗られるお寺さん。
なんのピンポンかといえばあの卓球のピンポンのこと。境内にはなんと卓球場があるといいます。


お寺さんを紹介する記事などをみると、なんと御朱印帳も卓球、もといピンポンをする動物が描かれているものが紹介されています。

…にぎやかな雰囲気のお寺さんなのかしら…?

どちらかといえば、神社仏閣には、日頃の喧騒から逃れるべく静かな、癒しの空間を求める私。
正直なかなか足が向かずにおりました。


そんな徳蔵寺さんが昨年秋の栃木県足利市の文化財公開の対象となっておりました。

これは良い機会なのかもしれません。



ナビの案内で到着した徳蔵寺さんは、駐車場に車が入れられないほどの混雑ぶりです。

それでも、なんだかおもしろいように、出る車と入る車が、まるで相談でもしたかのようにうまいことまわります。


山門をくぐろうとすると…何やら聞こえていますが…?

センサーで人が通ると女の方が歌う仏教の歌?が流れるように設定してあるようです。
いきなり低く小さな歌声が聴こえてくるのは正直かなり怖かったです。
(やっぱり合わないお寺さんかしら…?)
内心そう思ったのは隠しようない事実です。


そして山門をくぐると、
異国風の御本堂。

白い玉砂利の敷かれた境内には橋があったり、
等身大よりやや小さめくらいの羅漢さまたちの石像が、まるで陽だまりで談笑でもしているかのように配置されていたり。

檀家さんだけでない、来る人すべての目を楽しませたいと考えておられるであろう、こちらのお寺さんの姿勢が門をくぐっただけで伝わってきます。


その境内、今回の文化財公開に合わせていく人もの案内人の方がおられました。

マンツーマンでの案内をと考えてくださっておられるようで、すぐにスッと私たち夫婦一人一人に案内の方が近づいてきてくださいました。


「あ、一緒なので」
とお一方にはお断りして。


まずは五百の羅漢さまがおられることで有名な『五百羅漢堂』へとまいりました。

…本来ならばいつものようにまずは御本堂からお詣りしたいのですが、この日はいたしかたありません。

No.95 2025/01/05 05:55
旅人さん0 

(続き)

石造りの羅漢さまたちが語らう玉砂利の敷かれた場。

その奥に建てられているのが五百羅漢さまのお堂です。


普段は閉ざされているという扉は開け放たれておりました。
もっとも申し出れば普段のときでも扉を開けてくださるとのことでした。

近づくにつれて少しづつその様子がわかってまいります。



おおっ!

こ、これは!!



これは凄い!

思わず息をのみました。

ピラミッド型の大きなひな壇が、狭い御堂の中央に設置されています。
というかほぼその段でいっぱいです。


壇の最上段には阿弥陀如来さま、でしょうか。
脇侍の菩薩さまがその前に立たれます。


こういったときの百であるとか五百というのは、『とても多くの』といった意味合いでありますので、百とあっても必ず百はおられないこともありますくらいです。
長い年月の間に失われてしまうこともありましょう。

ですがこの五百羅漢さまの像は五百を超えるといいます。

ただただ圧倒されます。


しかしながら羅漢さま好きの私。
ハッと我に戻って、出来うる限りその一体一体の羅漢さまを拝見したいとあらためて見上げました。

木造の、まさに大きい雛人形くらいの羅漢さまが、それぞれの異なった表情、異なった思い思いの姿勢で刻まれ並べられています。


うーん♡


ん?

他の羅漢さまのお像ではいかにも人間臭く、怒っておられたり、居眠りしておられたりするのですが、こちらの五百羅漢さまの像は、そのほとんどが祈っておられたり、黙想されたりされるお姿が多いような…。

よくよく拝見いたしますと、やはり抱き合っておられたり、まどろんでおられたり、にこぉ〜っと笑っておられたりする羅漢さまもおられるのですが、大多数の像が静かに椅子に座っておられるのです。

いかにも人間臭く、…まぁ羅漢さまたちはあくまでも人間なので、人間臭いどころではないのですが、ね、…怒ったり、泣いたり、居眠りしたりという羅漢さまに親近感を抱く私といたしましては、ちょっと残念だったりも…。


とはいえ本来の羅漢さま、正確には阿羅漢さまというのは、『もはやなんら修行のいらない存在』
なのだそうですから、そうした泣いたり怒ったりする羅漢さまの方が本来は特殊なのだとは思うのです、がね。

この感情を一言で言い表わすならば、…寂しい?

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