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俺は、彫像のように動かなくなってしまった南雲に尋ねる。
「南雲さんは、この症例を解剖すべきだ、とおっしゃっていましたが、体表から見てモチによる窒息ではないと見抜いていたんですか」
南雲はうす笑いを浮かべて、首を振る。
「私は、解剖するぞと遺族を脅してみろ、と言ってみただけだ。こうなってしまった以上、今の質問に答えるのは野暮、というものだ」
俺は、半分は挑発する気持ちで、残り半分は好奇心から南雲に尋ねる。
「ちなみにこの症例、法医学者が解剖していれば真相はわかりましたか?」
南雲は振り返ると、俺を凝視した。それから、ふう、と笑うと、答える。
「私なら、解剖しなくてもわかった。大概の法医学者は、解剖すれば真相はわかる。だが一部の出来の悪い法医学者は見逃したかもしれない」
そして扉を押して外に出ようとして、振り返る。
「こんなゴマカシ症例は極北市にもごまんとあったが、私は解剖せずに見破っていた。だから極北市警の署長は私に頭が上がらなかったのさ。だが、検視の質が低下している今、Aiセンターは必要悪かもしれんな」
そういうのは必要悪とは呼ばないでしょう、と言いかけたが、その時にはすでに南雲の姿は忽然(こつぜん)と視界から消えていた。
桧山シオンが、風にそよぐ葦(あし)のような風情で、俺をひっそり見つめていた。一瞬目が合うと、シオンは目を伏せた。
その時、煌めくようなアルペジオの和音が清冽(せいれつ)に響いた。
海堂尊『ケルベロスの肖像』21章 Aiセンター、始動 本文 田口公平 南雲忠義 桧山シオン より
島津がライスケーキ症例で気道が確保されている事実を呈示すると、観客席からは嘆息が漏れた。真っ先に反応したのは、医療事故被害者の飯沼さんだった。
「素晴らしいです。こうして死因が市民社会に呈示され、それに対し説明が加えられると、医療の質の向上に役立つでしょうね」
すると白いマスクを装着した医療ジャーナリスト、西園寺さやかが音声サポートシステムを稼働させ、電子音声で答えた。
「真実ガ、露呈スルノハ、素晴ラシイ、コトデス。デモ、望マヌ、過去マデモ、露呈サレル、危険ガ、常二、ツキマトウ、デショウ」
それが一体、誰に向けられた発言なのか、誰にも理解できなかった。
海堂尊『ケルベロスの肖像』22章 サプリイメージ・コンバート(SIC) 本文 西園寺さやか 飯沼 より
栄えある講演会のトリには、センター長である俺が指名された。
俺は力の限り抗ったが、場に居合わせたメンバーの全員一致であれば抵抗もできない。最後は往生際の悪い俺に引導を渡すように、高階病院長が言った。
「謙遜も過ぎると、嫌味にしか見えませんよ、マイボス」
そのひと言で抵抗を諦めた。まさに耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、という苦渋の決断だ。ふだんなら相当に紛糾するはずの人選や課題が、さして揉めずに決まったため、Aiセンターの前途は洋々たるものに思えた。
だがそれは、大いなる誤解だった。真相は、正しい道筋に乗っていたのではなく、単に多くの人の多様な思惑がバッティングしなかっただけのことだったのだ。
海堂尊『ケルベロスの肖像』22章 サプリイメージ・コンバート(SIC) 本文 田口公平 高階権太 より
「つまりSICとは、10ミリのCTからコンマ1ミリのスライスを創出する技術なのですね。もっとも、それは見方を変えれば、単にすき間のデータをでっち上げているだけに見えますが」
低い掠れ声で異議を唱えたのは、斑鳩だった。
当然の疑念だ。10ミリスライスからコンマ1ミリのスライスを創出するというと聞こえはいいが、要は間に存在する99枚のスライスを「創作」するに等しいのだから。
「微分と積分すら、でっち上げと言い出しかねない、文系の方らしい異議ですね。ですが、数学的に証明されている理論の画像診断への応用なんです」
俺たちは彦根の口舌に煙に巻かれてしまった。コイツと話をしていると、学生時代からいつもこうなってしまう。だが、数学的事象に強い島津や藤堂の表情を盗み見ると、いたく感心している様子なので、彦根の言っていることは妥当なようだ。
こうした判断法は、俺の師匠ん騙る白鳥の受け売りだ。反射衛星砲的判断法とかいうらしい。ちなみにヤツの提唱する極意なひとつらしいが、ナンバーは忘れた。
俺に言わせれば、単なる他力本願的思考法にしか思えないのだが。
そんな些細なことはいいとして、とにかくこうして会議の流れは決定した。
つまり桜宮Aiセンターのデータ・アーカイブスに、碧翠院桜宮病院で蓄積された先行的CTデータをマウントすることが決定されたのだ。
俺はセンター長として決定を下した後で、しみじみ考える。
この地にあった病院の固有データが今、跡地に建設された新しい施設に基礎情報を提供することで輪廻する。これぞ、学術の精華というものだろう。
海堂尊『ケルベロスの肖像』22章 サプリイメージ・コンバート(SIC) 本文 田口公平 彦根新吾 島津吾朗 藤堂文昭 斑鳩芳正 より
高階病院長は大笑いを始めた。小百合は目を見開いて凝視する。
「私が跪いてまでして敬意を払いたい相手、それはあなたではない。あなたの父上、銀獅子の桜宮巌雄先生です。あなたなんぞ、世間知らずのお嬢ちゃん、桜宮の当主の資格などありません。それどころか、あなたは次の世代の東城大にも敵わない。あなたの捨て身の攻撃を受けた今でも東城大の魂である彼ら、そしてAiの未来はその輝きを失っていないんですから」
阿々大笑しながら、高階病院長は俺と彦根をぐいと両腕で引き寄せる。そして昂然と言い放つ。
「これが東城大の良心、そして医療の未来。打ち砕かれることのない希望の光です。彼らが生き残っている限り、東城大の命運が尽きることはない」
俺は、高階病院長の啖呵(たんか)に呆然としながら聞き惚れる。
海堂尊『ケルベロスの肖像』26章 天馬、飛翔す 本文 田口公平 彦根新吾 桜宮小百合 高階権太 (同様の表現は『輝天炎上』にもあり。興味ある方は読み比べをすすめます) より
炎が爆ぜる音の中、ばらばらと建材の破片が降り注ぎ始めた。
俺と彦根を、交互に凝視していた小百合は目を細めて、うっすらと笑う。
「腹黒タヌキの後釜は、優柔不断な懐刀とクソ生意気なスカラムーシュなのね」
小百合が言い終えたその瞬間、天井から太い梁(はり)が炎に包まれながら落ちてきて、ステージ上の小百合と観客席の俺たちの間を遮った。
「いかん、もう限界です。避難しますよ、田口先生」
俺は、高階病院長の呼びかけに我に返り、足元にうずくまる彦根をどやしつける。
「この程度でギブアップするとは、お前の野望はそんなチャチなものだったのか。目を覚ませ。自分の足で立ち上がれ」
俺は彦根の頬を張る。その声に彦根の目の光が蘇る。
「冗談じゃない。前線基地をひとつ失っただけ、本当の闘いはこれからです」
「その意気だ。一緒に逃げるぞ。とっとと走れ」
彦根はゆっくり歩き始める。
海堂尊『ケルベロスの肖像』26章 天馬、飛翔す 本文 田口公平 彦根新吾 桜宮小百合 高階権太 より
「ひょっとしたらあの脅迫文は、すみれ先生が私たちに対する挑発と忠告を兼ねて、冥界から送りつけらてきたのかもしれませんね」
高階病院長はまじまじと俺の顔を覗き込む。
「どうしたんですか、突然オカルトめいたことを言い出して。いいですか、碧翠院に焼け跡には四つの死体があり、昔亡くなったエンバーミングされた遺体が一体、含まれていた。つまり桜宮の双子のうち、ひとりだけ逃げおおせることができたわけです。そしてその生き残りは、私たちの目の前に姿を現した小百合先生で決まり、すみれ先生が生き残っている可能性は皆無です」
「それはその通りなんでしょうけど……」
俺は大海原を眺めながら、続ける。
「でも、それでもすみれは生きているような気がするんです」
「それは、ケルベロスの塔が焼け落ちてしまったからかもしれません。冥府の通り道を守護する番犬を焼き殺せば、冥界から蘇ることも可能になりますからね」
今度は俺が高階病院長をまじまじと見つめる番だった。
その視線に気がついて、高階病院長は言う。
「いや、やめましょう。お互い、オカルト趣味はないはずですから」
俺はうなずいた。だがその時、炎の中で聞いた声を思い出す。
----逃がさないわよ、小百合。
改めて思い出すと、あれはすみれの声に似ていた気がする。だとすると高階病院長の言う通り、地獄の番犬ケルベロスが桜宮の業火に焼かれている隙に、冥界を遡航(そこう)してきたすみれが、小百合を本来いるべき冥府へ連れ戻しに来たのかもしれない。
……いや、もうよそう。
世は科学による合理的世界で、もはや霊魂や地獄が存在する隙間はない。それが、科学の時代の現実だ。そしてその現実世界で脅迫状の予言通り、八の月にケルベロスの塔は崩壊させられた。ただそれだけのことだと考えるしかない。
海堂尊『ケルベロスの肖像』27章 飛べ、綿毛 本文 田口公平 高階権太 桜宮すみれ(回想?) より
「私をなかなか自由の身にしてくれない田口先生の執念深さは、よく存じ上げています。ですから私の一身上の都合などでは、最後のお願いなんて致しません」
「それなら、どういうことですか?」
「実はこのたび、東城大学は、大学病院経営から撤退することになりました」
「え?撤退ってつまりは大学病院が倒産するんですか?」
思わず聞き返す。自分が耳にした言葉が、にわかに理解できなかったからだ。
「大学病院は独立行政法人ですから倒産はできません。ですが閉院はできるんです。このままで診療をすればするほど赤字が膨らむばかり。勇気ある撤退を考えなければならない時が来てしまったのです」
「桜宮の医療を支えてきた東城大が撤退するとなると、影響は計り知れません。ここは三船事務長の改革案を採用して、もう少しだけ頑張ってみませんか」
言いながら、ああ、俺らしからぬ発言だな、と思う。
桜宮を長年支えてきた大学病院がなくなってしまうなど、想像もしなかった。
俺はずっと、こんな病院、いつか辞めてやるぞ、と思っていた。だが俺が辞めても大学病院は存続し、たまに酒場で大学を辞めた仲間と古巣の悪口を言い合うくらいはできるだろうと思っていた。だが、そんな悪口すら言えなくなってしまうのだ。
デラシネ、根無し草という言葉が浮かぶ。
デラシネになるのは俺たち医療従事者だけではない。毎日病院に通ってくる患者もまた、デラシネになってしまう。
そんなことを、腹黒タヌキの高階病院長がむざむざと容認するとは信じられない。
海堂尊『ケルベロスの肖像』最終章 東城大よ、永遠に 本文 田口公平 高階権太 より
「そこで田口先生に最後のお願いがあるんです」
「何でしょうか」
俺は顔を上げた。高階病院長が口を開こうとする前に、俺は右手を挙げた。
「あ、ちょっと待ってください」
目を閉じる。深呼吸をして走馬燈のように脳裏を駆け巡る。
目を開けた。深呼吸をして、咳払いする。
俺を見つめる高階病院長のロマンスグレーの髭を見下ろしながら、ひと言告げた。
「その依頼、お引き受けします」
高階病院長は開きかけた口をぽかんと開けたまま、目を見開いた。
「田口先生、あなたって人は……」
そう言ったきり、高階病院長は俺を見つめ続けた。
実はこの部屋に呼び出された時から俺は、それがどれほど無茶な依頼であろうとも絶対に引き受けようと決めていた。これまで酷い目に遭わされ続けてきた、腐れ縁の上司のラスト・リクエストに対応できなくては、懐刀の名がすたる。
海堂尊『ケルベロスの肖像』最終章 東城大よ、永遠に 本文 田口公平 高階権太 より
これでひとつの時代が終わった、と思う。高階病院長は、淡々と続ける。
「さて、ここからが本題です。もし世論がこの発表を黙認すれば、話はそこまで。でも、もしもそこで市民から再建を願う声が上がってきたら、その時は田口先生が院長代行として、可及的速やかに新生・東城大学医学部付属病院を再起動させてください」
俺は口を半開きにして、唖然とした。息が止まるかと思った。
そんな俺を高階病院長がじっと見つめているのに気がついて、大あわてで言う。
「じょ、冗談じゃありません。そんな大役、この私に務まるはずなど……」
「おや、どんな依頼であろうと、私の最後のお願いは引き受けてくれるのでは?」
「いくらなんでも、病院長代行なんて、そんな……だいたい、私には実績が……」
「構いませんよ。どうせ一度は潰れた病院なんですから」
「そこまで腹をくくっているなら、何も今、あえて病院を潰す必要はないのでは?」
「それはダメなんです。ケジメをつけなければ、社会が納得せず、再建への道も閉ざされてしまう。“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”という偈(げ)は、剣道の極意でして」
クソ、腹黒タヌキめ、しおらしい顔をして、とんでもないヤツだ。
だが、もはや俺には選択肢がなかった。
しばらくうつむいていたが、やがておかしくなってきた。
くすくす笑いながら顔を上げる。そして、うなずいた。
「わかりました。高階病院長のラスト・リクエスト、しかと承りました」
うろたえることなどなかった。これまでだって、ずっとこんな調子だったのだ。
海堂尊『ケルベロスの肖像』最終章 東城大よ、永遠に 本文 田口公平 高階権太 より
振り返ると、高階病院長が新たな煙草に火を点けながら、苦笑している。
部下が上司よりふんぞり返るであろう、そんな連中を引き連れて、一度は潰れた東城大学医学部付属病院の復興をしなければならないなんて、茨の道どころか、ガラスの破片があふれる瓦礫の山を裸足で歩くようなものだろう。
だが、それもいいではないか。所詮世の中はそんなものなのだから。
俺は病院長室の窓に歩み寄ると、窓の外の景色を眺めた。
自分の姿をハーフミラーになった窓に映し見る。すると一瞬、俺の姿が三つ頭のケルベロスに見えた。これから俺は冥界と現世の間を行き来する番犬になるのだろう。
あるいは、大学病院と市民社会の境界線を綱渡りするピエロだろうか。
いずれにしても長く険しい道になることは間違いない。
だが、俺は覚悟を決めた。
心配ない。いつでも俺は、そうやって綱渡りで生きてきたのだ。
振り返ると俺は、大勢の人々の温かい視線に包まれていた。
思わず照れてしまい、再び窓の外に視線を投げる。
ふと、この窓から見える桜宮の風景が大好きだったという古い記憶を思い出す。
院長代行になるということは、この窓からの景色を独り占めできるということだ、と気づいて呆然とする。それは長い間ずっと、叶わぬ望みだと思っていたからだ。
願いごとは叶う。ただし半分だけ。そして肝心の願いごとを忘れ果てた頃に。
どうやらそれが俺の宿命らしい。
桜宮湾の水平線がきらりと輝いた。
眼下では今、暑かった夏が終わろうとしている。
海堂尊『ケルベロスの肖像』最終章 東城大よ、永遠に 田口公平 白鳥圭輔 兵藤勉 黒崎誠一郎 藤原真琴 高階権太 より
公衆衛生学教室がある赤煉瓦(れんが)棟は、新病院が建築された後に基礎系の研究課になった。
冬は暖かく夏は涼しいという、井戸水みたいに身体にやさしい戦前の建物だ。
けれども昔の建物だから問題も多い。たとえばエレベーターは速度が遅い上、扉が閉まる瞬間、照明が落ち一瞬暗闇になってしまう。それは僕の入学当時の最上級生が新入生だった頃からそうだったらしいから、建築直後からの不具合なのかもしれない。
僕たちは急いでいたので、いくら待ってもこないエレベーターは諦め、階段の北側公衆衛生学教室へと向かう。
教授室をノックすると、清川教授は自ら扉を開けて招き入れてくれた。
公衆衛生学の授業は睡眠の補充に充てていたので、教授の顔をまともに見たのは初めてのような気がした。
教壇で喋っている時にはうすぼんやりした印象しかなかったが、間近で見るとなかなか渋い美形だった。一部の女子学生が“プリティ清川”と呼んできゃあきゃあと言うのもさもありなんと納得できる風貌だ。
海堂尊『輝天炎上』2章 公衆衛生学教室・清川司郎教授 本文 天馬大吉 冷泉深雪 清川司郎 より
学生のクレームに、こんな風に素直に恥じるなんて、なんて素直で伸びやかな先生なのだろう。プリティ清川というあだ名は伊達ではない。
「しかし、医学生の君が、なぜそこまでして碧翠院に執着するのかな」
碧翠院について誰かと語り合えるなんて、滅多にない。僕は勢い込んで言う。
「昔、怪我で入院したことがあって、その時に、院長先生に医者の心得や桜宮市の死因究明制度の実情と問題点を教えてもらったんです」
「それっていつ頃の話?」
「病院がなくなる直前、去年の六月です」
脳裏に巌雄先生の言葉が蘇る。
----医学はクソったれの学問だ。
「君が碧翠院に、ねえ……そうか、それでか」
清川教授は腕を組み考え込んでいたが、顔を上げる。頬には微笑が浮かんでいた。
「実は研修医の時、半年ほど碧翠院で研修させてもらった。すると君とは同門になるわけだね。私は今でも巌雄先生を尊敬しているよ。巌雄先生から大切なことをたくさん教わったからね」
僕は呆然とした。まさかこんなところで碧翠院との因縁の糸が絡み合うなんて……。
「それって、どんなことですか?」
急(せ)き込むように尋ねる僕に、清川教授は穏やかに答える。
「患者の死に学ぶ姿勢を忘れたら医学は腐る、という警句だ。基礎研究の世界に身を投じてからも、一日たりともその教えは忘れたことはない」
背筋に電流が走る。清川教授が抱き続けた言葉は、一見すると僕の教えられた言葉とは全く似ていなかったけれども、よく考えたら、僕の知っている言葉の裏返しのようにも思えた。
----死に学べ。そうすれば、いっぱしの医者になれるだろうさ。
海堂尊『輝天炎上』2章 公衆衛生学教室・清川司郎教授 本文 天馬大吉 清川司郎 桜宮巌雄(回想)より
頬を上気させた冷泉をみて、ひょっとしてコイツはファザコンかも、などと、冷泉に知られたらはったおされそうな不埒(ふらち)なことを考える。だけどそのファザコン度は相当高いと確信した。
そう考えると、突然巻き起こった冷泉の、清川教授への傾倒も理解できた。どこぞの歴史学教室の教室であるパパリンへ向けた冷泉の想いを、ミミックとし満たしてくれる人物。それが清川教授だったのだ。
僕はさっきから釈然としない感情を抱いていた。俗な表現をすれば、カチンと来ていた。冷泉が清川教授の説明にしきりに感心している様子が原因のようだが、どうしても自分がいらついているのかわからなかった。でもようやくその理由がわかった。
やっかみ、或(ある)いはもっともこころをえぐる表現として、嫉妬とい二文字が浮かぶ。
シット(クソ)、ファック・ユー。
中指を立て言い放つ僕は、「シット、かっこ、クソ」という表記を口にして、日本語と英語の麗しいアナロジーに感動する。確かにシット(嫉妬)はクソみたいな感情だ。
僕は人知れず、そっとため息をついた。
海堂尊『輝天炎上』2章 公衆衛生学教室・清川司郎教授 本文 天馬大吉 冷泉深雪 清川司郎 より
「その、まあ、メリットがあるからいいことかなあ、と思います」
「ほう、どういうメリットが考えられるのかな」
清川教授の連続質問に、冷泉深雪のツイン・シニョンの髪飾りが揺れる。
バカめ、知ったかぶりをし続けた当然の報いだ。しかし冷泉はとびっきりの優等生なので、ここに至っては見栄をかなぐり捨て、小声でこっそり尋ねてくる。
「Aiって何なんですか?」
「死亡時画像診断のことだよ」
今さらそんな堂々と聞くなよな、と思いながら僕は小声の早口で冷泉の耳にささやく。そして冷泉に投げかけられた質問を肩代わりして答えてやる。
「死因究明制度の基本である解剖にはデメリットがたくさんあります。解剖医が少なくマンパワー不足、遺体を傷つけるし、時間も金もかかる。その上、情報公開の仕組みもできていない。だから解剖率がニパーセント台にになってしまった。そこで救世主として登場したのがAiです」
「パーフェクトだね」
そりゃそうだ。現役の厚生労働省の変人医系技官から直接レクチャーを受けた、最先端の情報だもの。
といっても、聞いてからすでに一年も経過しているんだけど。
海堂尊『輝天炎上』3章 セピア色の因縁 本文 天馬大吉 冷泉深雪 清川司郎 厚生労働省の変人医系技官(白鳥圭輔)より
「なあ、冷泉、留年生のジンクスは知ってるんだろう」
冷泉深雪はうつむく。間違いなくコイツは知っている。ならばどうして僕を誘う?
とどめを刺すために仕方なく、僕は留年生のジンクスについて詳細に説明する。
「留年生が参加した勉強会では、高い確率で国試落第者が出る。留年生自身もしくは、留年生プラス一名のこともある。国試失敗率はふつうの勉強会の十倍。この数字は数年前の全国医師国家試験受験生に対するアンケート調査から出された、厳然たる統計学的な事実だ。だから留年したらひとりで勉強するか、留年生だけで勉強会のメンバーを固めるようになる。そうすればその中でひとりだけ、人身御供を差し出せば済むからね」
僕は冷泉深雪にながながと説明したけれど、このことは医学生の間ではシンプルに「バカはうつる法則」略して「バカウツ」と呼ばれている。その上僕は多重留年生だから、その定理からさえはみ出している。単なるバカではなく、格上のスーパーバカ、いや、エキストラオーディナリー・イディオット(規格外の大うつけ)とでも呼ぶべき存在だ。でも同級生たちは僕のことをわざわざそんな風に呼んだりはしない。
定理にするには普遍化が必要だ。そして普遍化とは、分離精製が主な作業になる。だがそうした不純物がたったひとつの例外であれば、普遍化のために分離精製するよりも単に除外した方が手っ取り早い。だから僕を通常の枠組みに嵌めこまず、無視する姿勢は集団的合理性が高いわけだ。
しかも、僕が属してるこの学年はこれまで留年生をひとりも出していない奇跡の学年だから、そうした傾向にいっそう拍車がかかっている。
冷泉はうつむいて僕の話を聞いていたが、やがて顔を上げると言った。
「私、そういうジンクスを見ると、ぶっ壊したくなるんです」
呆然と冷泉深雪を見つめた。道行く人が振り返るような美少女のクセして、社会の不合理に立ち向かう正義の騎士でもある。一体どうすればこんな正の要素ばかりをその華奢な身体に収められるのだろう。
海堂尊『輝天炎上』5章 放射線医学教室・島津吾朗准教授 本文 天馬大吉 冷泉深雪 より
じゃあ今、あの電話を掛けてきたのは誰だ?
電話を切り、着信履歴をチェックすると、見慣れない番号が確かにふたつ並んでいる。
ひとつは冷泉の番号で間違いないはずだ。すると、それに挟まれた未知の番号は一体誰なのだろう。
僕はしばらくその番号を凝視していたが、思い切ってリダイヤルしてみた。
息を潜めて、耳を澄ます。
数回の呼び出し音の後、電話がつながった。無感情な電子音声が定型的な文言が流れる。
----この電話は現在つながりません。発信音の後にご用件をお話しください。
僕は息を呑む。そしてひと言、言った。
「あなたは誰ですか?」
返事はない。
その瞬間、別世界へ電話したかのような肌触りがして、背筋に寒気が走った。
突然、周囲にジングルベルの音楽が溢れ返る。立ち止まり、その喧騒に耳を塞いだ。
海堂尊『輝天炎上』7章 ふたつの電話 本文 天馬大吉 より
フォギータウン・ナニワ。
浪速の街には、いつもうすぼんやりした靄(もや)がかかっている。排ガスと町工場の粉塵(ふんじん)が混合した空気が醸し出す猥雑(わいざつ)な雰囲気。それは環境に対する意識の低い都市だという低評価になりかねないが、今の日本が忘れかけた活力の噴出にも思える。
南米やアジアなど成長著しい都市に漂う匂いや熱気と似た、成熟極まった日本では忘れ去られた大気のかけらが、そこにある。
そんな靄に包まれた街なのに、冷泉内蔵ナビ・システムのおかげで躊躇(ちゅうちょ)なけ一切の無駄なく、浪速大学医学部に到着できた。
東京・帝華大学と並び称される西の雄、浪速大学は、市街地のど真ん中にある。都市の再開発で好条件による移転を持ちかけられたが、頑として市中に居座った。教育の現場は街のど真ん中になければ活力を失うという先々代の学長の信念を守り、さまざまな圧力に抗して頑張ったのだ。
僻地(へきち)に移転するなど学生の未来をナメている。そして、学生をナメる大学に未来はない。
海堂尊『輝天炎上』8章 浪速大学医学部公衆衛生学教室・国見淳子教授 本文 より
「僕があの病院に関わっていた間に、メンタルな問題を抱えてた若い女性が二人、立て続けに亡くなっている。日菜(ひな)と千花(ちか)という仲良しふたり組で、日菜は僕が入院した直後に、千花は碧翠院最後の日に亡くなった。でも、それは彼女たちの願いだった。だとしたら誰がその行為を非難できるというんだ?」
僕が饒舌になったというのはたぶん、秘密を酔いにまかせてベラベラ喋っている自分が後ろめたかったからだ。黙り込んでしまった冷泉に、最後の言葉を掛けた。
「要するにあの病院には色とりどりの死が一通り揃っていた。それが“死を司る病院”という言葉の、真の意味だ」
桜宮一族が復讐のために行った純然たる殺人については、あえて口にしなかった。それは個人的な事情による通俗的犯罪であり、碧翠院が内包していた医療の死とう範疇から外れていたからだ。
冷泉深雪は、僕の言葉に耳を傾け、懸命に何かを考え込んでいる。僕の言葉は冷泉深雪に届いたのだろうか。そんな僕の不安を裏打ちするかのように冷泉はぽつりと言う。
「天馬先輩の周りって、いつも美人さんばかりですね」
僕は脱力した。ここまで根を詰めて説明したことが空しくなった。だがそれにしても、今の話で、日菜と千花が美人だということが、どうしてわかったのだろう。
海堂尊『輝天炎上』9章 ナニワのクリスマス・イヴ 本文 天馬大吉 冷泉深雪 より
脳裏に、冷ややかで感情を読み取れない、能面のような小百合の表情が浮かぶ。
「天馬先輩はその時、部屋の中を確認しなかったんですか?」
僕は唖然とする。
「部屋は炎に包まれていたんだ。そこから逃げること以外、何も考えられなかったよ」
ひらりと炎に身を投じたすみれの姿に、僕に向けて投げられた銀なロザリオの輝線が重なり、真理を示す数式の曲線のように煌めいて、虚空の闇に消えた。
僕は、シャツの上からそのロザリオをそっと握りしめる。
冷泉は、ぽつりと言う。
「天馬先輩は、どうしてそのことを警察に言わなかったんですか?」
「もちろん話したさ。でも信じてもらえなかった。そもそもエンバーミングされた遺体が部屋にあったかとさえ説明は難しい。その上、四人家族の家の焼け跡から年齢性別背格好が一致する四つの遺体が見つかれば、わざわざDNA鑑定なんてしないさ」
冷泉深雪は必死になって、僕の説明の穴を見つけようとしたが、どうしても僕のロジックを崩せず、憮然とした表情になった。
冷泉、お前は圧倒的に正しい。だけど世の中は正義と論理だけではできていないのだよ、そんな風に訳知り顔で言いそうになった自分に対し、ささやかな嫌悪感を抱いた。
海堂尊『輝天炎上』9章 ナニワのクリスマス・イヴ 本文 天馬大吉 冷泉深雪 桜宮小百合・すみれ(回想) より
新幹線ひかりだと浪速・桜宮間は一時間半。何も話さないでいるには長すぎるし、実があることを話すには短すぎる。そんな中途半端な長さの時間に、僕と冷泉は、お互い黙り込むしかなかった。
新幹線の車窓は流れるようだ。前夜の不行状が祟り、うとうとしてしまった僕は、気がつくと隣の冷泉に寄りかかっていた。そのことに気がついたのは、耳元でぽつんとささやかれた言葉が聞こえたからだ。
「天馬先輩、ゆうべは、本当に、何もしなかったんですか」
僕は思わず身体を起こして冷泉を見る。
ツイン・シニョンの冷泉深雪は、生真面目な目で僕を凝視していた。
何と答えればいいのだろう。ちょっと迷ったけれど、思い切って顔を上げた。
「正直に言う。僕はちょっとだけ、した」
え?と目を丸くする冷泉深雪に、僕は一気に言う。
「酔い瞑れたお前をベッドに運んだとき、はずみでキスをした。でもそれだけだ」
冷泉深雪は目を見開いたまま、僕を見つめた。固まった空気が重く、息苦しい。
やがて冷泉深雪は、ぽつんと言った。
「はずみで、なんてひどいです」
それきり黙り込んでしまった冷泉の整った横顔を見ながら、これなら悪し様に罵られた方がはるかにマシに思えた。しかも最悪なことに、その時僕は、心の中で冷泉に対し裏切り、大いなる不実な行動を考えていた。
要するにその時の僕は最低のヤツだったわけだ。
それは今も、ちっとも変わっていないんだけど。
海堂尊『輝天炎上』10章 浪速市監察医務院・鳥羽欽一院長 本文 天馬大吉 冷泉深雪 より
「彦根先生はAiをすれば解剖がなくなると吹聴しているそうですが、本当ですか?」
さっそく冷泉が核心を衝く。彦根先生は、おもむろに身体を起こし前屈みになる。
「面白いことを訊くお嬢さんだね。せっかくだから真面目に答えよう。今の質問に対する答えはふたつ。ひとつ。僕は確かにそう言った。ふたつ、僕はそんなことは言っていない。これが誠実な解答だな」
「茶化さないでください。私たちは真剣なんです」
反射的に冷泉が言う。まあ、そうだろうなと思いながら冷泉の蛮勇に敬意を表する。
「今の言葉でお嬢さんの性格はだいたいわかった。では、そっちの坊やはどうかな?」
彦根先生は目を細める。僕は考え込み、そして答える。
「どっちも真実なのもしれません。ものごとには光と影がある。光あるとこれには必ず影が寄り添う。ですので、彦根先生のふたつの言葉は、片方が光、もう片方が影なんだと思います。でもどっちが光でどっちが影なのか、それはわかりません」
僕を見つめる冷泉深雪の視線を横顔に感じる。彦根先生は腕組みをほどく。
「まあ、正解だがね。ある人には僕がそう言ったと言いふらす。僕自身はそんなことは口でしていないと言う。でも、どちらも今の社会に流通している真実なんだ」
「彦根先生がおっしゃっていないのなら、片方は真実、もう片方は虚偽です」
海堂尊『輝天炎上』11章 房総救命救急センター・彦根新吾医長 本文 天馬大吉 冷泉深雪 彦根新吾 より
あからさまにバカにされているのがわかる物言いに、冷泉もかちんときたようだ。
「それって言葉尻を捉えた混ぜ返しじゃないですか」
「違う。他人が伝える言葉も真実だ。考えてごらん。ある人が僕の言葉を捏造している相手としかコンタクトがなかったら、どっちの言葉が真実になるのかな?」
「屁理屈です。そういうのは絶対に、真実とは言わないと思います」
頑としてゆずらない冷泉深雪を見つめ、彦根先生は黙り込む。やがて、ぽつんと言う。
「真実とは信念だ。百人には百の信念があるように、百人いれば百の真実があるんだ」
彦根先生と冷泉の相性は決定的に悪そうだ。
海堂尊『輝天炎上』11 章 房総救命救急センター・彦根新吾医長 本文 天馬大吉 冷泉深雪 彦根新吾 より
「清川教授に頼まれて、浪速大Aiセンターの情報をゲットしてきたのでお教えしましょうか」
「ほう、ボンボンの司郎にしては珍しく気が利くな。喜んで伺おう」
浪速大Aiセンターが法医学者主体で運営されるという最新ニュースをお知らせすると、彦根先生はふう、と息を吐く。そして天井を見上げた。
「そんなところだろうね。でも、心配は要らない。浪速には村雨府知事がいるからね」
浪速府の村雨府知事はメディアの寵児(ちょうじ)だ。その府知事と彦根先生は知り合いなのだろうか。だとしたらすごいけれど、そんな重要なことを、僕たちみたいな初対面の医学生に漏らすだろうか。そう考えると、ハッタリかもしれないと思う。同時に僕は、自分の中に黒雲のようにわき上がった不吉な予感を口にする。
「そんな反体制的な主張をしてると、いつか社会から抹殺されてしまいませんか」
「体制派も僕を粛清するつもりなんかないさ。僕は過去の悪行を暴くのではなく、Aiを社会導入すれば、未来の失態を防ぐことができる、と主張しているだけだ。組織がまともで、その構成員がほんの少し社会の未来を考えてくれれば、僕の主張は必ず取り入れられる。そして僕はこの社会がそれくらいは前向きだろうと信じているんだよ」
呆れて彦根先生を見た。天下無双の楽天家(オボチュニスト)がここにいる。
海堂尊『輝天炎上』11章 房総救命救急センター・彦根新吾医長 本文 天馬大吉 彦根新吾 より
僕は冷泉の目を覚ますために尋ねた。
「構成員が自分の利益しか考えない組織なら、百八十度違う結果になりませんか」
彦根先生はいたずらっ子みたいな表情を浮かべる。
「もちろんその通りだし、世界は概ねそんな風になっているらしい。僕にとってはサイアクの事態が今の、真実がふたつあるという状況だ。まあサイアクといってもその程度なんだけどね」
こともなげに言う彦根先生の顔を、僕たちは黙って見つめるしかなかった。
やがて冷泉は、思い切った口調で尋ねる。
「どうして彦根先生は、そんな風に達観していられるんですか?」
すると彦根先生は、目を細めて笑う。
「それが現実だからさ。現実に歯向かって物事を変えようとするよりも、現実に即して動いた方が効率がいい。これは学生時代に体得した、合気道の極意なんだけどね」
すると冷泉は目を見開いて尋ね返す。
「え?彦根先生も合気道部だったんですか?」
次の瞬間、怒濤のような冷泉深雪の言葉が飛び出してくるぞ、と僕は身構えた。ところが意外にも、冷泉は無言だった。ただ、彦根先生を凝視し続けていた。その時、僕は初めて、無言というのは最高の賛辞なのだ、ということを思い知らされたのだった。
海堂尊『輝天炎上』11章 房総救命救急センター・彦根新吾医長 本文 天馬大吉 冷泉深雪 彦根新吾 より
「光栄なお話ですので、陣内教授に、ご自由にお使いください、とお伝えください」
僕と清川教授は、同時に深々と吐息をついた。清川教授は言う。
「今さら私が言うべきではないが、私は自分が判断することから逃げ、天に任せた。今からひとつ、告白するが、それでもこの決定は覆さない。それでいいね?」
清川教授が何を言いたいのか、よくわからないままに、僕と冷泉深雪はうなずいた。
「実は陣内教授の申し出を受けると、彦根先生を裏切ることになるかもしれない」
「どういうことですか?」
「厚労省が内科学会と共同で主催してきたモデル事業は、解剖主体でAiを徹底的に無視してきた。彦根先生はその流れに抗い、死因究明制度にAiを導入しようとしている。しばらく休会していた検討会が久々に開催されるんだが、シノプシスを見て驚いた。内科学会はAiの導入を認めたが、運営は病理学会に任せようとしている。つまり陣内教授は彦根先生の主張に真っ向から反対しているわけだ。そんな人の発表をサポートする資料として、この研究が使われるのは彦根先生にとっては不本意だろうね」
「どうして、最初にそのことを言ってくださらなかったんですか」
冷泉深雪の当然の抗議に、清川教授は苦しそうに言う。
「それは、これが素晴らしい研究で、晴れ舞台で脚光を浴びるべきだと思ったからだ。だから余計な事を考えず、素の気持ちで結論を出してもらいたかったんだ」
「そんな……」
僕は絶句した。清川教授は続ける。
「公式に発表された科学研究は、その結果をどう使おうと自由なものなんだ。それは人類共通の財産であり、誰の所有物でもない」
「でも結果としてAiが不適切に使われるための道具にされたら、社会にマイナスです。それを阻止するのも、医学者の責務ではないのですか?」
脳裏に“相反するふたつの言葉が社会に広がっていて、そのどちらも真理なんだ”とさみしそうに語った彦根先生の横顔が浮かんだ。
海堂尊『輝天炎上』14章 プリティ清川、再び 本文 天馬大吉 冷泉深雪 清川司郎 彦根新吾(回想)より
「それならどうして、そんな素晴らしいAiとい仕組みがなかなか社会に受け入れらないのか、君たちは不思議に思わないかい?」
「もちろん、不思議です。ちっぽけな利権の話は伺いましたけど、そんなことくらいで社会全体の動きが阻害されるということがいくら考えてみてもわからないんです」
冷泉は身を乗り出した。清川教授は冷ややかに答える。
「簡単なことだよ。Aiの導入を望まない人たちが厳然として存在しているからだ。正しい、正しくない、ではない。重要なのは、そういう人たちが存在しているという事実だ。その人たちは、昨日と同じようにして明日も生きたいと願う人たちなんだ」
冷泉深雪は今にも泣き出しそうだ。冷泉がこうして壁に頭を打ち付けるのを見るのは何度目だろう。だが冷泉は、決して妥協しようとはしない。愚かしくも見えるその有り様は、僕には一条のひかりのようにも思える。
「私は自分の判断を度外視し、君たちを通じ天に可否を仰いだ。そして答えは出た」
清川教授の言葉に、僕は最後の抵抗を試みる。
「そこには清川先生の意志がありません。先生の意志だって、この世界を作り上げている部分のひとつです。その意志を通せば、世界は変わるはずです」
清川教授は首を振る。
「少しは変わるかもしれないが、大きな流れは変えられない。私の意志なんてちっぽけだから、すべてあるがままの流れに身を委ねる。それが私の生き方なんだよ」
海堂尊『輝天炎上』14章 プリティ清川、再び 本文 天馬大吉 冷泉深雪 清川司郎 より
穏やかな口調に微塵の乱れも見せずに言う。
「そうではない。少なくとも私にその考えを叩き込んだ先生は腰抜けではなかった」
清川教授は僕の目をのぞきこんで、臓腑(ぞうふ)をえぐるように言った。
「碧翠院桜宮病院の桜宮巌雄院長だよ」
ウソだ。巌雄先生がそんな腑抜けたことを言うはずがない。
反射的に僕は叫ぶ。でも冷泉よりも年を取っている分、その叫びを心の中で押しとどめるという嗜み(たしなみ)はある。だけど心中の罵倒は、冷泉よりも辛辣だ。
隣では冷泉が、清川教授の判断の誤りについて、そして自分の判断を考慮しようとしない学術姿勢について糾弾し続けている。その時、彦根先生の言葉が煌めいた。
---百人には百の信念があるように、百人いれば百の真実がある。
この時にやっと、彦根先生の言葉の真意が理解できた気がした。
清川先生は、巌雄先生からひとつの言葉を受け取った。そして、その言葉をロザリオみたいに、胸に抱きしめ生きてきた。だとしたらそれもまたひとつの真実なのだ。
清川先生が凍結保存していた言葉は、僕が受け取った言葉とは正反対に思えたけど、案外、僕のロザリオを裏返してみたら、ぴったり重なるのかもしれない。
それは光と闇の伝説に似ている。
光には分かちがたく闇がよりそう。だが闇は違う。闇は闇のまま、あまねく存在する。ただ、闇の存在を明らかにするために光が必要なだけだ。
巌雄先生の言葉は闇の真理だ。光を当てても切り取れる部分はひとかけらにすぎない。だとしたらそのかけらのどちらが正しいかと言い争っても意味はない。
海堂尊『輝天炎上』14章 プリティ清川、再び 本文 天馬大吉 冷泉深雪 清川司郎 彦根新吾(回想)より
すると今のは冷泉の視線だったのか?
いや、違う。それはこれまで感じたことがない種類の視線だった。
おそるおそる周囲を見回すと白衣姿の男性に目が入った。
視線が合うと男性は、おずおずと近づいてくる。よれよれの白衣、ぼさぼさの髪、中肉中背。全体にもっさりした印象。でもその目を見ていると、なぜか引き込まれてしまいそうになる。
初対面なのに、遠い昔に出会ったことがあるような懐かしさ。
「天馬君、だね?」
声を掛けて男性に僕はは怪訝な表情を隠さず、うなずく。知らない男性に声を掛けられれば用心するが、大学で相手が白衣姿なら問題はない。だが次の瞬間、男性の言葉に正真正銘おったまげて、手にした教科書を落としそうになった。
「神経内科の田口といいます。聞きたいことがあるんだけど、時間あるかな?」
男性の顔をまじまじと見つめる。
こんな唐突にお目に掛かれることになろうとさ。大学ってヤツはまさにドラマチック。
だけど目の前の田口先生の風貌は、ドラマチックという言葉からほど遠い。
海堂尊『輝天炎上』15章 神経内科教授・田口公平講師 本文 天馬大吉 田口公平 より
「それが東城大を守るために、でもかい?」
僕はうなずく。母校とはいえ、腐れた東城大を守るため、何かをしなければならないなんてバカバカしい。だからずばりと本音を叩きつけた。
「僕は横着者です。それに、東城大には何の思い入れもないですし」
田口先生は吐息をついた。愛校心のないヤツめ、と呆れているのがありありとわかる。
同時に、好奇心が動いた。東城大を守るため、という言葉の裏側には、東城大が攻撃されているという前提がある。僕が知っている限り、東城大を攻撃しようなどという酔狂な意志を持っているような人物は、桜宮一族の他にいない。だとしたら、その話を聞けば小百合先生、あるいはすみれ先生の消息のヒントが得られるかもしれない。
僕はさりげなく、話をしついだ。
「ところで田口先生は、一体何から東城を守ろうとしているんですか?」
田口先生は一瞬、逡巡(しゅんじゅん)した表情になる。だがすぐに観念したように、言う。
「実は東城大を破壊するという脅迫状が送られてきていてね」
この言葉にはさすがに!した。まさかそんな具体的な動きがあるなんて。
大それたことを告げたのに意外に平然としている田口先生の顔を、僕は見つめた。
海堂尊『輝天炎上』15章 神経内科学教室・田口公平講師 本文 天馬大吉 田口公平 より
僕の正面では、田口先生が薄いハトロン紙の死亡診断書を書いている。書き上げると、ポケットから印鑑を取り出し、はあ、と息を吹きかけてから、ぎゅう、と捺印する。それを美智の分厚いカルテの最終ページにはさんで、看護師さんに手渡した。
田口先生はうつむいたまま、別のカルテに何かを書き付けながら、僕を見ずに言った。
「何か言いたいことがありそうだね」
僕は田口先生を見つめた。やがて意を決して口を開く。
「美智さんは心臓マッサージで一度戻ったんです。もう少し、頑張れたんです」
「そうかもしれない。でもたぶん、美智さんは自分で逝く時を決めたんだよ」
「それならどうして、僕の心臓マッサージで戻ってきたんですか」
「天馬君と、きちんとさよならしたかったんじゃないのかな」
胸がいきなり熱くなり、目の前の景色がぼやけた。
反則だろ、この親父は。
そうした感情が裏返り、気がつくと目の前に棒のように突っ立っている田口先生に罵りの言葉を投げつけていた。
「結局田口先生は何もできずに、ただ愚痴を聞いてあげただけじゃないですか」
わかっていた。田口先生が悪いのではない。どんな名医でも美智に何もしてあげられなかっただろう。わかっていたけれど、罵る言葉を止められなかった。
田口先生は僕を見つめていたが、静かに僕の肩に手を置いた。
「天馬君、君は正しい。私は医者として失格かもしれない」
そう言い残し、田口先生は静かに部屋を出て行った。
海堂尊『輝天炎上』17章 医学のチカラ 本文 天馬大吉 田口公平 より
「このカルテを読んでみてください。田口先生の、不定愁訴外来専用のカルテです」
彼女が手にしていたのは、さっきまで田口先生が書き綴っていたものだった。
カルテを開いた途端、紙面から文字があふれ出し、膨大な記述の中から美智の姿が浮かび上がる。悪態が正確に書き留められている。僕のベッドサイド・ラーニングの様子も描写されていたが、思わず赤面したくなるくらいの忠実さと正確さだった。
そこに田口先生の姿はいない。ただひたすら、美智の言葉が書き留められていた。
そこに美智がいた。
美智は僕の手の中で命を失った。だけどぬくもりは今も手の中に残っている。同じように、美智はここにいて、今もカルテの中で息づいていた。
罵倒の言葉が羅列されている中に、一粒の真珠が交じっていた。
----天馬は必ず、立派なお医者さまになろうもん。
医療はこんなことまでできるのか。
カルテを机の上にきちんと揃えて置くと立ち上がり、ナースステーションを後にした。背中に看護師の視線を感じながら、屋上へ向かう階段を上がっていく。
屋上に出ると、強い風が僕の髪をくしゃくしゃにした。
桜宮湾をを見つめる。その手前には、さっきからずっと僕の胸に突き刺さっている銀のナイフ、Aiセンターの塔が輝いている。
脳裏に、自分の言葉がこだまする。
わかるの?僕がわかるの?
うなずいた美智の顔。虚ろな目を開け、僕の背後に女性の名を呼ぶ。
----おお、すみれも迎えに来てくれたんか。
最期にすみれ先生と僕を並べて旅立った美智の優しさに僕は、声を上げて泣いた。
僕の泣き声を吹き消すかのように、風が轟々と鳴っていた。
碧翠院に溢れていた愛を失い、代わりに怨念の塔が桜宮に出現したその時、僕の中でひっそりと、何かが変わったような気がした。
海堂尊『輝天炎上』17章 医学のチカラ 本文 天馬大吉 高原美智 より
茉莉亜は小さく咳き込んだ。白いハンカチで口元を押さえ、うつむいている。
やがて顔を上げると、掠れた声で言う。
「あなたの行く手を阻むのは、すみれちゃんよ。気をつけてね」
小百合は優雅にお辞儀する。
「ありがとうございます。せっかくのご忠告ですけど的外れです。すみれは碧翠院の火事で焼け死んでしまったんですから」
「それならすみれちゃんの想念に気をつけなさい。今でもあなたの周りにまとわりついているわ」
小百合は白いマスクの下で微笑する。
「叔母さま、私はオカルトを信じないんですよ」
「あら、私もよ」
茉莉亜の笑い声が響いた。それから深々とした息を吐いた。
「さあ、用が済んだら、さっさと帰りなさい」
「そうします。でも何だか急き立てられているみたいでさみしいですね」
「それくらい我慢しなさい。あなたが久広に何をしたのか、私は知っているのよ。それでもこれだけお話ししてあげたのだから、感謝してほしいわ」
小百合の、白いマスクの下の頬が青ざめる。
「どうしてそのことを……」
その問いに答える代わりに、茉莉亜の、凛とした声が部屋に響いた。
「理恵先生、お客さまはお帰りよ。お清めね塩を持ってきて頂戴」
海堂尊『輝天炎上』20章 羽化 桜宮小百合 三枝茉莉亜 より
小百合が女医と一緒に母屋を出た時には雨はすっかり止んでいて、雲間からは一筋の陽のひかりが、咲き乱れる薔薇にさしかかった。
「お気を悪くなさらないでください。最近、お加減が悪いせいか、茉莉亜先生は時々、ああして不安定になるんです」
低く涼やかな声は、耳にした者を落ち着かせる。小百合は傘を畳みながら、言う。
「いいえ、あれは叔母さまの本心でしょうね。でも、お気遣いなく、妹と違って私は、昔から叔母さには嫌われていたから慣れっこなんです」
そう言って女医を見つめた小百合は、おもむろに両腕を広げると、突然、その細身の体を抱きしめた。
「な、何を……」
唐突な抱擁に、女医は動揺を隠せない。女性同士とはいえ、初対面の相手に抱きしめられたら、びっくりして当然だろう。どうしていいかわからず身を固くする女医の耳元に、掠れたささやき声が響く。
「あなたは、私と同じ一族よ。いつかあなたの許(もと)に遣わされる子どもと共に、世界を呪い続けるでしょう」
一陣の風が庭を吹き抜け薔薇を吹き散らす。
不気味な呪詛(じゅそ)が、女医の耳に届いたかどうかはわからない。小百合女医から身を離すと、何か言いかけた女医の唇に人さし指を当て、抗議の言葉を封じ込める。
「桜宮の一筋の命脈は今、あなたに託したわ。これからは闇の世界を守って頂戴」
海堂尊『輝天炎上』20章 羽化 本文 桜宮小百合 女医(曽根崎理恵)より
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