生きて来た道

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2015/10/26 13:37(更新日時)

老婆の長い人生を歩んで来た足跡を刻む日記です。

むかーし、ある片田舎で一人の赤ちゃんが産声を上げた。
赤ちゃんは右足太ももの外側がプクッとふくれていた。
近所のヤブ医者で切ってもらったらしい・・
物心ついた時には傷痕があり学校の体操服を着ると
ギリギリの所で見えていた。イヤでイヤでたまらなかった。
祖父は戦争で息子の一人を亡くして国から支給される
お金で自分だけぜいたくしていたようだ。

両親は朝から晩まで馬車馬のようにコキつかわれて
いた。後ろ姿を見て育った私は祖父が憎くかった。
子供心ながら孫もわけへだてしているのが理解できた。
兄が一人の四人暮らし。
貧乏生活だったが両親は優しく家族は何の問題もなかったが
回りの大人たちが悪すぎて、小さい頃から一歩下がって
人を観察する子供になっていた。そのために友達の母親からは
「可愛げがない」と言われたことがあり今でも忘れられない。

いま思えばきっと姑小姑たちにいじめられている母親を見て
いて、自分が早く大人になって親孝行してあげなければ、という
思いが強すぎて子供なのに大人びて見えたのかも。

つづく。






15/06/06 08:57 追記
~三歳年下のよっちゃんへ~
あの日あの時は本当にごめんなさい。
あからずっと・・今でも・・
そしてこれからも死ぬまで
よっちゃんに対してやった罪を
懺悔しながら生きていきます。
許して下さいとは言いません。

よっちゃんが今を生きているならば
ただただ幸せでいてほしいと
願うばかりです。


No.2215642 (スレ作成日時)

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No.201

~自転車通勤~

仕事を始めた頃は自転車通勤だった。

ひと月たった頃、
その朝もワンルームマンションを出て
会社に向かった。
しばらく行った所で

・・・?
自分が自転車と一緒に
倒れていた!?
スローモーションのように!
ほんの一瞬だった!

気づくと、4トントラックが右折して
来たらしくて、、
私の自転車を
押し倒した!?

私は歩道を走っていた・・
その4トン車は右折して・・
4トン車の前方不注意!!

というか?
右折側不注意・・

なぜその運転手さんは私に気づかなかった?
スピードを出しているわけでもない私に・・?
歩道を前方から来る自転車くらい見えてるハズ!

すぐ2人の職人風さんが降りて来て
「大丈夫ですか!?」

自転車は倒れただけだし、
自分もどうもなかったので
「大丈夫です・・」

「すみませんでした」と去って行った。

倒れた自転車をドッコラショと起こしたら
前輪のタイヤがハンドルに絡まって?
ん・・どうなってたか説明できず。
タイヤを転がせない(汗)
動かせない(泣)

近くの自転車屋さんに引き取りと預かりと
お願いして
あわててタクシーで会社に行った。

仕事が終わってから自転車屋さんへ行くと
もうこれはタイヤ交換したり修理するとなると
新しい自転車を買った方が安あがりですよ、と。
・・
ショック!

まだひと月も乗っていないのに。

仕方がない。
自転車がないと通勤に困るし。

そこの自転車屋さんで新しい自転車を買った。

はぁ。

なんていうことだろう、
自分も車に乗る仕事をしているのに
警察に届けるどころか
いとも簡単に
「大丈夫ですよ」と言ってしまった自分。
その時になって初めて怒りが・・(おそっ!)

結果、自分が損しているし・・




でも・・いい経験・・したかな。


つづく。

No.202

~中田さんとの禁じられた交際~

お互いに一緒にいることが心地よかった。
この頃の気持ちは人生で初めてだった。
言葉にするとなるととても難しい表現になるが
なんていうか・・

いくら禁じられた恋でも
ときめくものはときめくのだ。
ウーン、ときめくっていうのとはちょっと違う、
安心感、、そう安心感、
満たされる心っていうのかな。

まさか、自分が年取ってからこんな経験するとは・・。

バカ正直な自分はその間悩んだ。
なんだろ?
いけない。
ダメだ。
やめよう。
色々、考えて
迷い続けた。

それでも、時間がドンドン過ぎていく。

年とったオバサンが東京で生活していくために
バリバリ仕事する。
そして中田さんとおしゃべりする。

中田さんも会社から仕事用の携帯電話を
支給されていたので
運転中にもちょこちょこと携帯電話でかけてきた。

自分の車でドライブするとなると
車代、必要経費、ガソリンなどと
沢山のお金がかかるし
そんなに簡単に関東全般など
とうてい一人でドライブなど
行くハズがない
行けるハズがない。

なのに、その時は
大好きな車の運転できて 
しかも、
十二分なお給料を頂けて
おまけに、関東全般色々な
場所に行ける・・
たった一日でもどこまでも往復した。
最高の仕事だった。



いつの間にか
癒される人もできた。

癒されるその中田さんが一日に
何十回も電話してきた。

第一声はいつも決まっていた・・

「今、どこ?」爆。


つづく。

No.203

~中田さんとの禁じられた交際~つづき

毎日まいにち、行く先が違うし、
時間の経過と共に場所が違うから。

中田さんにとって過去、
そういう彼女とは出会わなかったし
初めてのことだったから興味があった。

大型タンクローリー(または大型タンクトレーラー)の運転席からは
見える景色が最高だった。

特に高速道上では、ずっと前方までが見渡せるので
渋滞、事故、不審車などの動きを逐一、判断できるので
運転が楽だった。(ただし前方車も大型車だったら見えないが)


目では移り変わる四季の風景を楽しみながら、
心では中田さんとの会話を楽しむ。

おまけの人生を上京してスタートさせた時には
夢にも思わない現実だった。



*追記
普通は一日中家から一歩も外に出ないということもあるよね。
でも、その同じ一日で遠距離運転していたのだ。
今、現在、長い間、専業主婦である自分が
その頃を思い出すといまさらながら驚くし
精いっぱい頑張っていたんだな~と
自分をほめてあげたい。

そして、今も買い物や一人プチドライブなど毎日運転しているが、大型タンクトレーラーを見るととても懐かしい。

特に「生きて来た道」を記するようになってから
その頃が昨日のことのように思い出されて
今も「運転席に座ると体が覚えているかな?」
「また乗ってみたいな~」って
最近、特に思うようになった。

出来るならまた仕事したいな?(えっ!その年で!?爆) 


**勿論、この後もそして現在のことも後半記する予定。
自分自身の「生きて来た道」を今、改めて振り返る意味でも・・



つづく。

No.204

~より楽しい日々がつづいて~

仕事をするばかりの毎日ではなくなった。

仕事が終われば自転車でワンルームマンションまで帰る。
部屋の留守電にまでメッセージが入っている!
さっきまで(帰庫するまで)電話でおしゃべりしたばかりなのに・・。

中田さんが時間になったらマンションの前まで車で迎えに来てくれる。

中田さんの時間が合う時には軽く夕食を一緒に食べる。

私も会社の先輩や同僚たちに、飲み会に誘われる日も
あるし、
一人でのんびり田舎の母と心ゆくまでおしゃべりしたいし、
買い物だって行きたいし。

母にも最初、中田さんのことを話した。
既婚男性だというのも伝えた。
度を過ぎないように、、
不安に思いながらも、ちょっとだけ
仕事ばかりの日々で寂しい思いも
しているんではないか?と
それを心配していたから、
話し相手ができてちょっとは安心?

近くで二年前に一足早く社会人となった長男にも
伝えた、、だいぶ後になってからだけど。

そんなこんなで
より楽しい日々がつづいた。


つづく。

No.205

~仕事中に初めて会ったこと~

それまでは仕事帰りに立ち話しから始まり、
その次は、喫茶店でコーヒーを。
その次は、ランチに。
その次は、夕食に。

お互いの時間が合った時だけ。

ある日、
会社の女性経理担当のおうちに夕食に呼ばれて
帰る時に中田さんがそのおうちまで迎えに来て
くれた時に二人を紹介した。

なので会社の運転手さんたちみんなが知っていたと思う。


ある日、神奈川方面高座?に仕事に行った帰りに
携帯電話が鳴った。

「今、どこ?」

ホラ、いつもの。

丁度、仕事を終わり会社に戻るため首都高湾岸線横浜本牧辺りを走行中だった。
場所を伝えると、驚いた!?


なぜ?




つづく。

No.206

~仕事中に初めて会ったこと~つづき

彼は横羽線を走行中!
言われてこちらもビックリ!

時間が合えば会えるかも?

うーん、タイミング的にどうだろうか?

大黒ふ頭の下で待ち合わせすることにした。

だんぜん、こちらが早く到着することになるだろう、
と思っていた。

ところがところが、
彼の方が先に着いていて、、?
私のタンク車が近づくのをジっと真正面で見ていた。
私は彼の車は知っていたから当然見えていてじっと
見ているのがわかった。

今まで聞いてはいたが大型タンクローリーを運転して
目の前に来た!、、その時彼はどんな思いだったのか?




つづく。

No.207

~仕事中に初めて会ったこと~つづき

お互い乗っている車同士で真正面で
向かい合う形になったが、
そこはタンク車を停めるスペースがなかったため、
そのままスピードも落とさず左カーブを曲り、
広い駐車場を右折して停めた。
彼もあとをついて来た。

私が駐車場を右折して入る時に
ブレーキを踏まずに右折したことに
驚いてた。

私がすごいスピードで右折したから!

私はわざとやったことだったから
見ていたんだと面白かった!

それまで数回は彼の車の助手席に乗せてもらった
けど、運転テクニックはごく普通だった・・
当たり前だけど。

だからこそ、私があそこでブレーキも踏まずに
右折したこと、驚くハズだよね。


彼に助手席に乗るように言うと
照れくさそうに乗ってきた。

大型車に座ったのは初めてだったようで
座席が高いことにまず驚いた。

フロントガラスも広い!
前方を見て「おぉっ」って!

それより何より、
私の作業服を見てビックリした!

それまで見た私の恰好は仕事帰りだから
白いシャツにブルージーンズ姿しか見たことない。
まぶしそうに見てた・・

そしてそして、
作業服の胸につけている名札・・
見てビックリ!

その時、初めて名前を知ったから! 
嘘の名前を伝えていたから・・爆・爆。

「バレたか!」
と言うと二人で大笑い。
もう逃げも隠れもできないね、って。

(ホントは名札のこと頭になかった!
名札を見られた時、シマッタ!と思った!
ずっと隠し通すつもりだったから・・汗)

30分ほど会話してそこで別れた。
その日、あとで会ったか?会わなかったか?
わすれた・・。

広い駐車場で車一台もいなかったから
もっと面白い技&得意技を見せてあげれば
良かったな、
とその夜、思い出して
一人ニタニタしてた私。


その日のことも想い出のひとつ。


つづく。

No.208

~彼氏は花キューピット~

ある日ある朝、
マンションエントランスにある集合インターフォンが鳴った。

あれ?誰だろう?
こんなに早朝に?


「はい」
・・・

「花キューピットです・・」

こんなに朝早く?
誰から?

思いながらもオートロック解除した。
私の部屋は7階のエレベーター前。
しばらく待っていると

「ピンポーン」
「はい」

ドアスコープを見ると何か見える
花屋さんの顔ではなく花が?

ん?

ドアを開けると目の前に
花束だけが~♪

「わぁ、きれい~」と思った瞬間、

パッと
彼の顔が表れた!
ワァーびっくり!

玄関前で大笑い・・。


「ハッピーバースディ~」と手渡してくれた。

わぁい、
私の誕生日を早い段階で聞いたことあるけど
わざわざ持ってきてくれた。
初めて私の部屋に来た彼。
仕事に出る前に持ってきてくれたのだ。
彼の家は隣県だったからもっと早起きして。

「では、
今日も安全運転で頑張ってね、
気をつけて。」
と言ってすぐ帰った。

「ありがとう~」


嬉しかった気持ちが・・
そしてお花も。
お花が一番大好きだから。

花の種類は記憶にないけど、
白とピンクの大きな花束だった。

たぶん、奥さんには絶対に
花束などプレゼントしていない
と思うのに、、
その時ちょっと思った。


花キューピットで届くより嬉しかった。

自分の部屋にはいつも欠かさず花を飾っているから
その日は部屋がいつもより華やいでいた。

おかげさまで一日が温かい気持ちの誕生日だった。



つづく。

No.209

~お台場でフレンチディナー~

ある日
仕事が早く終わったから夕食しようということになった。
どこに連れて行くかは内緒だった。

ちょうどその日、会社に戻ると
みんなで飲みに行こうってことになっていて
私も誘ってくれたけど
ごめん、予約が入っていて、、と言うと
先輩同僚みんなが、
急にニヤニヤしていたっけ 笑。

着替えて自転車に乗ろうとしたら
事務所の窓から大勢が顔を出して
何かをそれぞれが言ったような?
覚えていない・・が。

車で迎えに来てくれた彼。
二人が乗った車は高速を乗り湾岸線を走った。



つづく。

No.210

~お台場でフレンチディナー~つづき

湾岸線の夜景がとてもきれいだった。
東京湾のレインボーブリッジのライトアップも素敵だった。
上京した年に完成して横浜ベイブリッジと同じく
大好きな橋だった。
(女性照明デザイナーの石井幹子(いしいもとこ)さんが
手がけたもので、東京タワー以降、東京駅、横浜レベイブリッジ、お台場レインボーブリッジ、明石海峡大橋など日本国内から海外でも大活躍して尊敬する人の一人だ)

お台場に下りて
完成したばかりのピカピカのホテルに到着。

ずっと場所は内緒だと教えてもらえてないので
ビックリした。まさかこんな所を予約?
ディナーだけだと思っていたし、、。
まさか!?

レインボーブリッジや東京タワーなどの素晴らしい
夜景が一目で見渡せる部屋を予約していた・・

二度ビックリ!

生まれて初めての豪華さに 爆。



つづく。

No.211

~お台場でフレンチディナー~つづき

貧乏な家庭に生まれて
大人になってからはそれなりの
生活程度にはなったが
ド田舎での長い結婚生活の中では
経験することもなかったし
またしたいとも思っていなかった・・
こんな経験。

彼もその日は精いっぱいのおもてなしだった?
無理した?
必死だった?笑。

お台場の臨海線1995年(H7年)ゆりかもめ開通、
このホテルも確か同時期に完成していたように思う。
今では大きなホテルは三つほどできて
あの頃とは見間違うほどの賑やかさになっているが。

部屋にバルコニーがついていて
そこに立つと素晴らしい夜景が目の前に。
手を伸ばせば届きそう。
大好きな東京タワーも美しくライトアップ。
言葉を忘れたくらい感動した。

海のゴキブリとも呼ばれる(失礼)
沢山の屋形船があちこちに赤いちょうちんを
灯してプカプカと波に漂っている。

部屋のソファーでお茶飲んで休憩してから
ホテル3階にあるフレンチでディナー。

夢のようだった。

いつもの(白いシャツとジーンズ)恰好をしてこなくて
良かった。

その日はちょっとは女性らしい姿を見てもらいたくて
グッとドレッシーな恰好をしていた私。
真っ白な上下のスーツで。
場所を教えてくれてればもっともっとおしゃれして
来たのに・・爆。

彼はというとファッションなどにはむとんちゃくで
白いポロシャツにベージュっぽいチノパン。
それでも、いつもの作業服よりは良かったけど(笑)

しかも、フレンチなども得意ではなく
むしろ苦手だと言ってたのに
私のために無理したんだ、って思うと
笑ってしまった。

お客さんも少なくてシーンと静まりかえった店内、
BGMも静かに流れているのに、
はっきり聞き取れるくらいだった。

彼の顔を見ると、
額が汗でいっぱいだったし 爆。
ナイフとフォークをガチャガチャと・・・爆・爆。

私は、
それより本格的フレンチディナーのお皿や盛り付けや
料理にとても興味がわき、それ以来、
フレンチが大好きになってしまった。
っていうか、
非日常の雰囲気が妙にお気に入りになった。

美味しい上等な時間がコース料理と共に
ゆっくりと流れた。


つづく。

No.212

~彼との一夜~

豪華な素敵なディナーも終わり
部屋に戻ってきた。

夜も更けて一層夜景がきれいだった。

「こんな素敵な豪華な時間をありがとう」
と言うと、

彼は照れ笑いして額の汗を真っ白なハンカチで
必死に拭きながら

「こちらこそ、いい出会いをありがとう」
って!

(おマエにはそんな気の利いた言葉なんて
似合わないんだよって頭をド突いたら「痛っ」爆)

そして 初めての夜を共にした。

色々なそれまでのことがめぐりめぐっていた。


つづく。

No.213

~彼の心~

彼の本心は、さみしがり屋で
人一倍優しさ、いたわりを希望していた。
ま、誰でもそうだけど、。
弟と二人兄弟だった。

私自身、
二人兄妹で物心ついた時から
淋しかったし、
甘えたかったし、
かまって欲しかったし、
力いっぱい抱きしめて欲しかったし、
そんな欲求不満がずっと大人になってからも
解消せずにきていたので

お互いに似た者同士が出逢った時に
相通じる何かを感じて妙に気が合ったのかも。

自分が相手にして欲しいことは
相手も同じことを欲している。

簡単に理解できる。

片意地張ることもないし、
演技することもないし、
ただただ自然に任せる二人の気持ちが
妙に心地よかった。

広いこの東京で良くぞ出逢ったな、と感心する。
とにかく、全てにマメな人だった。


彼も、より仕事に頑張れる活力にもなったようで
ドンドン出世して行った。

仕事をバリバリすればするほどお給料も増えて
交際接待費もより多く支給されるようになった。
かといって無駄遣いしているわけでもなく
キチンと事務所のパソコンでその日その日の日報と共に
処理していっている様子だった。

昇格すればする程、与えられる事務所の場所も都心になってきた。

都心に事務所を与えられた彼が一回だけ、私を案内してくれたことがあった。

ほとんど事務所には彼だけしか出入りしていないようで
多忙な時には泊り込みで仕事をこなしていたようだ。

私はその時点では、まだパソソコンを扱ったことなくて
仕事を終わらせるからちょっとそこでお茶でも飲んでて、と私をソファーに座らせてお茶を淹れてくれた。

パソコンでサクサク入力している彼の姿を初めて仕事しているんだなと思って見ていた。
が、本当の仕事は全く違っていて現場をいくつも持つ
所長さんだったのだ。
しかも、超一流会社。

初めて聞かされてビックリ。
あまりにも、若すぎるから。

事務仕事が終わると、私にもパソコンの扱い方を教えてくれた。それが少しはあとで役だったかも?

事務仕事を片付けると、二人で夜の街に食事に出た。

都心の人混みに紛れると、ふと田舎の淋しい夜が頭に浮かんだ。

腕を組んで歩くと夜風が心地よかった。


つづく。

No.214

~私と会社~

仕事も楽しくお給料も良く彼もいるし、
幸せな日々が続いていた。

ある日、
仕事から会社に戻ると、飲み会に誘われた。
全員先輩ばかり7人ほど。
会社から少し行った所の居酒屋さん。

私はお酒は、昔からアルコールは全くダメで
もっぱら食べるほうで、
飲んだように盛り上がっていた。

色々、会社のグチが出始めた。
事務所の女性経理さんの話題になった時、
イヤだな、と思ったが
みんなが色々、言うのを黙って聞いていた。
その経理担当の女性は私のことをとても
良くしてくれて可愛がってくれたので
イヤだな、と思った。

今まで、飲み会でもそんな話題は一つも出なくて
楽しいだけだったのに、、
なぜ、急にこんな話になったのか?
何か、男性運転手さんたちの間であったのか?
少しも理解できなかった。

みんな、いい人ばっかりだと思っていたのに。

グチになるなら、もう飲み会には参加したくない!
面白くなかった!
言葉が汚くて!聞くにたえないと思った。

お先に失礼しますと言ったら
送って行くよ、って!?え?飲んでて?
そりゃないでしょ!
運転手のプロでしょ!?
って思った。

タクシーで帰りながら、彼に電話したら
事務所で今夜は泊まり込みだって。
運転手さん仲間同士でも色々あるんだなと
改めて思った。




つづく。

No.215

~私と会社~つづき

そういえば、
所長さんは遠い行先を優先して
私に割り振りしてくれることが多かった。

毎朝、出勤してからその日の行先が
黒板に書いてある。
それを見て、、
私のこと、、みんなが、
「いいなぁーっ、おいしい仕事で!」
って!

(前述にも記したが、行先が遠ければ遠いほどお給料が良い・そのことを「おいしい仕事」と言った)


男性運転手さんばかり50人位の支店だけど
その中にポツンと私が飛び込んだ、、ばかりに。

いくらオバサンでも、
えこヒイキしてもらっている?

店長さんは若い人だったが
とても優しくてどちらかというと
経理担当の女性に尻の下に敷かれているほどの
大人しい人だったから、
行先の割り振りも日々、大変な苦労が
あったと思う。

それぞれの運転手さんにも家族がいる。

養っていかなければならない責任感があるし
よりお給料は沢山欲しいのは当たり前。

そんな仕事上での不満が経理担当の女性へのグチから
始まったが、
本当は私に対しての
えこヒイキへの不満だったのかも。


その夜は眠れなかった・・。


つづく。

No.216

~悩む日々~

*訂正
前述の↑「店長さん」間違いで⇒「所長さん」正。

その日から悩んでしまい、
色々、考えれば考えるほど、悩んだ。


彼にも昨夜のことと、自分の今、置かれている立場を
伝えると、

彼も一本気が部分があるようで
即「辞めちゃいな!」って。

そ そんな簡単に・・

生活がかかっているんだから、、、(泣)
自分の生活ばかりではなく、
田舎の母にも仕送りしなければならないんだし。

困った。

楽しい仕事中も運転中も悩んだ。

それでも、仕事は仕事、キチッと無事に
終わらせて帰庫してまでが一日の仕事。

今日も安全運転できました、ありがとう。

ってタンク車から降りていた。

そして夜はまた悩んで・・。


つづく。

No.217

~他の会社の仲間~

朝、会社を出た大型タンクローリーの中は空っぽ。

会社を出てそれぞれの卸し先ごとに積む
内容液が違ってくるので当然、
積み場も違う。

早朝から、どこの積み場も
他の会社のタンクローリーが次々に横付けされて
大型タンクローリーの大渋滞になる。

並んだ順番に次々に積んで出て行く。

その中でも毎日顔を合わせる運転手さんたちも
多い。

いつもニコニコした若い運転手さんもいた。
確か、私より6歳位下だと言っていたような?

その日も私を見つけると笑顔で歩いてきた。

私も、最近の悩みを打ち明けた。
その運転手さんも悩んでいた。
お給料が安いって! 爆。

私は十二分に頂いているんですけど・・・ぉ 爆。

それでも、悩んでいるんですけど、、ぉ。

その後もほぼ毎日のように一緒になった。

ある日、
もっとお給料がいい仕事があったよーって!?

うそ!?

何?
なに?


つづく。

No.218

~より稼げる仕事?~

原さんというその運転手さんが言うには
陸送という仕事がもっと稼げるらしい?

ホントかな?

聞くと、完成したばかりのトラックのヘッド部分を
運転して運ぶ仕事だって。

トレーラーヘッドのような?
そうトレーラーのヘッド部分。

例えば、
タンクローリーだとしたら、ヘッドだけを運転して
後ろのタンク部分を乗せる会社まで運ぶ。
その会社はタンク部分を乗せるだけで、タンクローリーが完成する。

ミキサー車なら、ヘッドだけを運転して
後ろのミキサー部分を作る会社まで運ぶ。
その会社はミキサー部分を乗せるだけで、ミキサー車が完成する。

とこんな感じ。

へぇ?
それも、面白そうだねって。
単純に思った。

でも、お給料制ではなく
日当だって!
それじゃ、補償もないってことジャン!

それなら、自分で補償するだけ精いっぱい運んで
貯金する?
そんな簡単に言うけど・・

でも、今までが
パッと思ったことを
パッと即、やってきた人生だったし・・

考えた。

うーん、悩んだ。


今の会社は一流企業だし
安定しているし、
全てが充実している。
キチンと仕事さえこなせばなんなく生活できる。
実際、そうだった。

でも、
でも、
今、このまま、、、で
なにごともなかったように
日々、仕事がこれからもできるか?

人との絆を大切にしたかったから。
運転手さんたちとも仲良くしていたかったから。
でも、運転手さんたちの気持ちを考えると、、
どうしても、

私がいない方がいいのかな?
そうしたら、男の運転手さんばかりに戻り
やはり妬みやうらやみがあるかもしれないが
女の場合とは違うからサッパリするのかな?
とか考えて、

また悩んでしまう。

彼も仕事中に何十回も電話してくる。

「今、どこ?」 って。



つづく。

No.219

~You Are Not Alone♪~


「生きて来た道」またここでちょっとタイム。

今月は自分なりにマイケル・ジャクソンの追悼月間にしている。

今まで
(NO108にもその前にも記したが)



We Are The World

Heal the World

I`ll be there


この3曲をエンドレスで聴き続けてきたが
今夜からこの1曲を追加した。


 You Are Not Alone (1995年)


マイケルの曲は全てが好きだけど
さみしい時
かなしい時
マイケルを思う時、

聴くと
なおさみしくなる。
かなしくなる。

それでも、繰り返し繰り返し聴いている。

聴けば聴くほどもっともっと好きになる。
いい曲だといまさらながら思う。


神様が本当にいるなら、マイケルをこの世に返して!

No.220

~大型タンクローリーの中の洗浄~

ある日
最初で最後だったけど、一回だけ所長さんが
面白いから行って来てごらん?と行かせてくれた
場所がある。

江東区枝川まで首都高湾岸線を走り、
下りてしばらく行くと目的地があった。

シーンと静まりかえっていて・・
細かいことはほとんど記憶にないが
確か、タンク内に何か液体?を入れて
広い場所に行く!

猛スピードで走る!
急ブレーキをかけて停まる!

それを数回繰り返す!
何をしたかというとタンク内の洗浄だった。

ひと月に一回か?
数か月に一回か?
半年に一回か?
どれくらいの頻度で洗浄しなければいけないのか
知らないが、とにかくひたすら繰り返すだけ!

自分の得意技ではないが、
思いっきり走れて!
思いっきり急ブレーキをかける!

思いっきりブレーキを踏むことでタンク内の洗浄液?が
前後してきれいに洗浄できるってことだ。
中途半端なブレーキだと洗い残し?がある。

たかがタンクローリー。
されどタンクローリー。
奥が深い・・笑。

こんな経験初めてだったから一人でクスクス笑いながら
ひたすら繰り返したっけ。

所長さん
「あの日はいい経験させていただきありがとう
ございます」笑。

タンク内も日々 色々な薬液を入れているから
さびたり?腐ったりするのかな?
それとも、薬液同士が混ざったりしたらいけないのだろうか?

理解して行ったわけではない自分・・爆。

ただただ面白かった、
という記憶だけ今も頭の中に残っている。


つづく。

No.221

~高速道で事故?~

その日の行先は東北道佐野市。
いつものように湾岸線を走行して例のいつもの
大きなハンドルの上で手作りお弁当を食べている
葛西ジャンクションを通り過ぎて、、東北道へと
向かっていた。
ところが、電光掲示板に
「この先事故」って!

うそぉ!

どうすればいいの?

この辺で下りても全く地理わからないんですケド・・

確か?小菅?で結局、無理やり下ろされて、、、!

どうする?
初めての下道だったし、、。

幸いに上の高速道の真下に狭いが道路があったので
高速道の次の入り口、入れたら乗ろうと思って
ずっと走っていたら、あった!

入口が、青信号がついていた、、やったぁ~。
喜んだ、安心した。


その日、会社に戻ると、
みんなが呆れていた!?

ん?
なんで?

無理やり事故などで下ろされたら、通行していたという許可証?か?何か、証明書をもらったら
入り口でそのまま支払わずに入れた!?

そ、そんなこと知らないし・・。

次に乗る時にそれを告げたら良かったのに・・
わざわざ、自分の財布から出した、、
大型通行料を・・。

結局、会社からは貰えなかったが、
これも、いい経験になったと思った 爆。


つづく。

No.222

~黒いキャップ付き防止&真っ黒のサングラス&ポニーテール~

大型タンクトレーラーor大型タンクローリーを運転する時の最初からの
スタイルは、黒いキャップ付き防止&真っ黒のサングラス&ポニーテールだった。絶対口紅もつけない。

わざと男のように見せるため。
女と思わせない工夫。
ポニーテールにして帽子の後ろの穴から通すので
ほとんど髪の毛は見えない。

が、男性とは違い骨格も小さ目なので
すれ違う大型トラック運転手さんたちは
一瞬チラっと見るが、

ん?っ
て具合に再度見る、、必ず、みんながみんな!

やはり、何か違うのだろう?

高速道路上では、大型車は運転席が高いのでほとんどの対向車の目の位置が同じなので、
特に大渋滞している時などはじっくりと見るほどの余裕がある・・

だから、そういう意味でも、渋滞は大嫌いだった!

「オッサン、ジロジロ見てんじゃねぇよっ!」って。

しかも、二車線ビッシリ大型車ばかりの時はダブル目線に! 
前方をジッと睨みつけてひたすら待ち少しでも動き出すのを願うばかり。

それだけは最後までイヤだった。


快適にノンストップで走れるからこその高速道路なのに。
高い料金払ってまでも大渋滞・・


はぁ。



つづく。

No.223

~阪神淡路大震災~

1995年1月17日午前5時46分52秒
そう、あの大震災が・・泣。

その時、私はちょうど会社を出て神奈川方面に向かっていた。
場所は、初めて大型タンクローリーに乗って感動したあの場所・・横浜ベイブリッジの真上・・

カーラジオをずっとつけていて、、一瞬、何事か!?
訳が分からなかった!

アナウンスの語り口調がただごとではないような・・

気持ちがとても動揺した・・

大地震・・

関西方面の大学に通っている次男のことも心配になり
走りながら電話したら、すぐ出た・
ビックリして飛び起きたって!
物が落ちたりはなかったようだった。
気をつけてね、と電話を切った。

ずっとカーラジオを聴き続けた。

時間の経過と共に被害の実態が明らかになり
何もできず見守るしかなかった。


つづく。

No.224

~地下鉄サリン事件~

阪神淡路大震災よりしばらくしたら今度は・・
地下鉄サリン事件・・3月20日・・

地下鉄には私もよく乗っている・・驚いた・・
まさか、こんなことが起こるなんて、、

その日の行先は千葉県方面で荷卸し済ませて帰り道、
湾岸線市川パーキングでトイレ休憩しようとタンク車を停車させた。
その日に限ってカーラジオを朝から一回も聴いていなく
て、、。

トイレを済ませてタンク車に戻ってカーラジオをつけたら
騒然としていて・・?

地下鉄にサリンがまかれた・・!?
サリン?
何だ?サリンって?


自然災害は人はどうしようもない。

人災!
生き物の中で最低最悪の人間が・・



忌まわしいオウム!

健康で楽しい人生を送って来てたまたまその電車に乗っていた人たちをあんなヒドイ目に遭わせて!

今なお苦しみ続けている人たちがいるのに、
今でも、責任もとらせず税金でノウノウと生き続けているアイツ・・





つづく。

No.225

~より稼げる仕事?~つづき

果たして今より稼げる?
色々な条件を考えた時、今は大企業。
私みたいな中途半端なオバサンを
「やってみる?」のひと言で
女性上司に採用してもらったのに。

しかも、履歴書に嘘書いて・・
「大型ダンプに乗って働いていました」と。

とても居心地の良い会社で、
他の会社のタンクローリーの運転手さんたちが
いつも羨ましがっていた。
「いいなぁ、〇〇〇さんは・・
高速チケットをくれるし、、恵まれているよなー」
って。

しかも、いい場所ばかりを優先してもらえている。

だが、それが、やっぱり不満の元だったんだ、
他の運転手さんにとったら・・
当たり前だよねぇ。

う・・・む。

仕事中も・・
考えた。
悩んだ。
迷った。
ずっと。
ずっと。
夜も眠れなくなるくらい。


うーん。



つづく。

No.226

スレ、レス拝見いたしております。私は半世紀以上生きて、縁なくシングルで過ごし、仕事以外プライベートでは殆ど人と接触しません。

人間嫌いではないのですが、人との接触が面倒くさいのです。

よって一人でも、孤独感とか寂寥感は有りません。

引き続きレス拝見させて頂きます。

No.227

>> 226 匿名226さま、
変換ミスの多いつたない日記を読んでいただいて
ありがとうございます。

人間って本当にどうしようもない生きものですよね。
年を重ねるごとにそう感じます。

引き続き、波瀾万丈の人生を歩いて行きますので
お暇なときに読んで下さいね。

No.228

~辞めた・・~

あれ以来、
仕事の行先の遠距離・短距離でお給料が大きく
違ってくる職業の難しさを日に日に実感して
きた。

クヨクヨしない自分だったのに、
なぜか、今回だけは優柔不断だった。

いい会社に恵まれてありがたいと感謝していても、
人間関係がギスギスしてきているのを感じると
知ら~ん顔して仕事するような精神力は自分にはなかった。

見切りをつけたほうがいいかも、
と一回でも思うともうダメだった。

所長さんと女性上司に辞めることを伝えた。

生き生きと水をえた魚のようだったのに、
なぜ?って。

本当の気持ちは言えないし、体調不良と。

男性ばかりの職場に女性が入って来たら
女に負けるもんか!と男性陣に
ハッパをかける意味でも
とてもいい刺激になって来ていたのに、、
って。

そう!それが原因だったんだ・・よ!

女に負けるか、みんな思うよね?
でも、みんなそう思っているのに、
朝の黒板に書いてある行先でもう、
女に負ける、、
女だからおいしい仕事を・・?

最初から負けたと思うよね?

だから、女の私がいてはジャマなんだ・・

ジャマ者は去る・・

出る杭は打たれる・・?違うか 笑。

荷卸し先でも、女性らしい心配りが出来て
ていねい かつテキパキ仕事をこなすのが
荷卸し先にも伝わったらしくて、
指名ではないが、、そういった要望が
数多くあった、、と。

そういうことを聞かされると嬉しい反面、
今後、余計なネタミをより買うのは当然のこと。

というわけで、
おまけの人生のスタートした最初の会社を退社。

きっぱり!
さっぱり!


次の仕事を探してから辞めるのではなく、
辞めてから、探す・・・自分・・アホかいな。


つづく。

No.229

引き続き読ませて頂いております。
No.86まで拝見致しました。
マイペースで、綴っておられるのに横レス申し訳なく思います。
私は、昭和中期九州熊本の生まれです。現在は、大阪市南部で生活しております。
あなたのレスを拝見するに、同時代を生きて来たように感じます。


横レス失礼しました。引き続き読ませて頂きます。

No.230

>> 229 匿名226さま
ありがとうございます。

そうですか。
ひょっとしたら小さい頃にでも
どこかですれ違っているかもしれませんね?笑。

「生きて来た道」は、
いま現在 私の歩いている道まで続いて行きます。
思い出しては記すという感じなので
たぶん、まだまだ先は長いと思いますが
変換ミスを大いに笑いながらでも読んで下さいね。

No.231

~仕事探しスタート~

ホント、普通の人は次の仕事を探してから辞めるよね、
だけど、自分はこうと決めたら
突っ走るっていう人生ばかりだったから、
いかにも自分らしいな、と関心する(バカバカ!)

おまけの人生スタート以来、ずっとずっと欠かさずに
約束通り夜8時に電話をかけておしゃべりしている。
自分が忙しい時でも、必ず電話して次は何時頃に
電話するからと伝えてから切る。

母だって危険を伴う仕事を、男の人と同じ仕事を
している娘のことを毎日安全運転で無事故無違反で
無事に一日を終えますようにって祈ってくれている。

勿論、当時の携帯電話は、毎月の通話料金だけでもすごい金額になるが、
どこにいてもどこからでもすぐ声を聞けることが
何よりだった。
頑張って働いたからできたこと。

母も、
ずっと夜8時になると電話の前に座って待っている、、
想像したら笑ってしまうけど、
毎日の励みにもなるし、楽しみでもあったようだ。
なんて親孝行な娘、、自画自賛(アンタはエライ!)

郵便局のキャッシュカードを母に持たせているので
いつでもどこでも、母は簡単にカードで現金を下ろせる。

お金がない生活がどんなに惨めなものか、
母にはそんな思いをさせたくなかった。

母のためにはどんなことでもしてあげたいと思ったし、
自分は我慢しても、母には我慢して欲しくない、と
それくらい大切にしていたから。

自分自身のモットーがあった。
「母が一番・自分は二番」。(スゴイ!笑)

何でも好きな物を買っていいからね、
好きな食べ物を食べて、ね、というのが
毎日の電話の最後に言う言葉だった。
なので通帳の残高は充分過ぎるほどの金額を入れていた。

そんな仕送りもしているし心配するから、
会社を辞めたこと母には言わなかった。


さぁ、次の仕事を探さないとね、


不安などは全くなかった。
田舎と違ってここは東京
いくらでも仕事はある
えり好みしなければ、、ね。



つづく。

No.232

>> 231 変換ミス発見!

 「関心」→ 「感心」・・爆。
イチイチ訂正しなくてもいいよね、
おおまかで(どこガヤ!)

 「防止」→ 「帽子」(バカバカ!笑)

No.233

~仕事探しスタート~つづき

いよいよ、次の仕事を探すべく段取り。
何をやるにも「段取り八分仕事二分」
これは、彼のクチグセ。
それだから、仕事バリバリやれるんだね。

でも、ヘソ曲りの私は自分の場合は逆でもいいと思った。
「段取り二分仕事八分」
まず段取りを二分(おおまかに)やってから
仕事を精いっぱいやる。
ダメ?

考えてから動くのではなく、動きながら考える。

失敗を恐れない。が、同じ失敗を繰り返さないこと。

彼に懸命にアピールするがニヤニヤしながら笑っているだけ。
頭脳派人間の彼。
労働派人間の私。


それより、仕事探し仕事探し!



つづく。

No.234

~仕事探しスタート~つづき

まず、
他社のタンクローリーの運転者さんの原さんが
下調べしてくれた陸送の会社に
説明を聞きに行くことにした。

案外、近い場所にあったのでまず通勤には問題ないようだ。
所長さんが待っていてくれて説明を聞かせてもらう。

陸送する車を駐車場に一台置いてあったので見たら
ヘッドに黒いシャシがついて・・面白い形だった。
ちょうど魚の頭と骨が残ったような形だった!
このシャシ部分にタンクローリーやミキサーが乗るってことだ。
海外用に左ハンドルのヘッドも陸送するらしい。

燃料代は自腹。
タイミング良ければ往復仕事のこともあるし
片道のこともある。
片道の時は電車などで直帰や会社に戻り
これもタイミングが合えばまた仕事があるかも。
一本走って、いくらという条件で
道中、飛び石などのアクシンデントの場合は自腹?
結構、高速上でもあるんだよね。
それで自己責任だったら日給は飛んでしまう。
(今、思い出そうとするが多分自腹だったような?
最後まで自分はそれが(飛び石)なかったから忘れたが
自腹で飛び石されたら大型車のフロントガラスって高いし!)

それでも、一本走るといい条件には間違いなかった。
(今はこの仕事、もっと大変な時代になったから少ないかも)

他の細かいことは忘れたが、
大型車ディーラーの直接下請けのようだし
全て新車で忙しいから仕事がないということは
ないだろうし形にとらわれないし自由そうだし
面白いかも。
明日からでも来てほしいと言われた。

彼に言うと
大型には変わりないしやってみたら?
今までは結構危険な作業が常について回ったので
心配していたけど、
これは、ヘッドを運転するだけだしいいかも?と。

あとは自分が、どれくらい仕事をこなせるか?
考えたって仕方ないのでやるしかなかった。

辞めた翌日には次の仕事が決まったし
「案ずるより産むが易し」?

ヘッドだけの運転面白そう、、
魚の頭と骨だけの形も笑ったな。
場所も色々行くと言われたし、ワクワクした。
色々 想像したら眠れなくなった。



つづく。

No.235

~陸送の仕事~

説明を聞いた翌日には仕事開始。

説明を聞きに行く日の予定が合わずに
ちょうど、説明に聞きに来ていた原さんと
一緒になった。
昨日のことを電話で話していたし大体のことは
分かっていたので、
原さんも早速、一緒に仕事を開始することになった。

会社側としても、原さんと私をコンビにしてくれたから
より安心感があり嬉しかった。

最初のルートは栃木県。
まず、ディーラーに引き取りに行き、
ガソリンを入れてから出発。

高速など走ったら賃金が減るのでひたすら国道を走る。

数年前に、関東地方に住んでいる義妹家族が義母に親孝行するために招待したら、私と一緒でないと行かないとダダをこねて結局、私が付き添いで来た時に
レンタカーを借りて日光東照宮に行ったこともある。
勿論、高速だったが。

ヘッドとシャシだけの面白い形の車で走るの、爽快だった。
前を原さんが走ってくれるし、
ただただ、後ろをついて走るだけだったから。

キョロキョロして移り変わる景色を楽しむ。
お登りさんはいつまでたってもお登りさんだった。


つづく。

No.236

~陸送の仕事~つづき

陸送先は様々な場所だった。
関東一円、走行したことになる。
かなり、道も覚えたし、
ポケットラジオの渋滞情報も耳馴れしたら
大体の渋滞場所も覚えた。

今でも、渋滞場所をラジオで聴くたびに
あぁあの場所ね、と懐かしく思い出す。

苦手なことは、ガソリンを入れる時に、最低量を入れる、
というのが私にはとても無理だった・・
陸送する目的地に到着した時点で
ガソリンは空っぽでもかまわないってことだ。

給油量を間違えると大変なことになる。
給油量をケチると、陸送途中でガス欠!

一回だけ、原さんとではなく年配のオジサンと
二台で栃木に陸送したことがあったが、
その年配のオジサンはケチったために
到着地まであと数キロという田んぼのド真ん中で
ガス欠に!

あーぁ・・
時期は寒い冬・・
見渡す限り田んぼ、、ガソリンスタンドなどない・・

幸いに私の陸送車のガソリンはたっぷり入れていたので
抜き取ることになったが、
いったんガス欠になった大型車はやっかいで
給油したからすぐ走れるというわけではなかった。
私も一応、三級自動車整備士の国家資格保持者なので・・
爆。

二人ががりで空気を抜く作業が数時間かかった。
あまりの寒さで手がかじかんで、
自動販売機まで陸送車を走らせて温かいコーンスープ缶や
缶コーヒーを大量に買って田んぼのド真ん中で休憩した思い出。
そのオジサンはありがとうありがとう、って何回も言ってた。
そして、後日、私に豪華な夕食をご馳走してくれた 爆。

数百円をケチると何千倍何万倍も損をすることになる。

なので、私の乗って来た陸送車を次に別の目的地まで
陸送する人はガソリンなど入れなくても平気ってこと。

陸送仲間がいつも笑っていたっけ。
「そんなに一杯入れて、、勿体ない」って。
でもいいってことさ~笑。

陸送でも色々な思い出があったな。



つづく。

No.237

~彼の誕生日は~

私の誕生日の時は
早朝、花キューピットをわざわざ自ら届けてくれて
夜は、プレゼント作戦とごちそう作戦してくれた。

今度はお返しに私が素敵な場所にご招待。
素敵な場所?
といっても、自分にとっては素敵な場所だけど
彼にとったら余り素敵とは思わなかったかな。
てれ屋さんだから。

六本木にある50’S&60’Sを中心とする
オールディーズライブハウス。

これは上京した当時、友達に初めて連れて行ってもらった時にハマってしまい、自分の友達みんなを連れて行くほど大好きな自慢の場所のひとつだ。

就職してからはもっぱら洋楽一筋だった私は
鳥肌がたつほど感激した場所。

オールディーズの素晴らしさ、
生バンドの素晴らしさ、
特に土曜日の夜が一番盛り上がる。

全ての場所にある店舗全制覇したが
やっぱり六本木のほうがいいかな。
ホームバンドのTHE FLAMESが一番いい。


誕生日の人の名前を書いたメモをスタッフに渡すと
生演奏でHappy Birthday to You~♪と名前入りで歌ってくれる。店内のお客さんも全員で~・・笑。

恥ずかしがり屋の人はたいてい、
そこで真っ赤になりうつむいてしまう・・・よ、
彼もそうだった。(汗ダラダラ。。)爆。


生バンド演奏で祝ってもらえるなんてこと、そうそうないし
一生忘れないよね。




つづく。

No.238

*追記
8年ほど前この↑ライブハウスに「スタンド・バイ・ミー」の
ベン・E・キングが来たことがあった。

夢にまで見た「スタンド・バイ・ミー」を歌うあの姿、感動した!
歌い終わって目の前に来た!
握手してくれた、、大感激した!

2011年東日本大震災のあった秋にも来日公演していたし、「ベン・E・キング・スタンド・バイ・ミー財団」を設立し、慈善活動など幅広く支援していた。


残念ながら今年4月30日に亡くなった・・。
76歳没。


ご冥福を祈ります。

No.239

~長ーい距離編~

走れば走るだけ稼げる仕事だったので
段々、欲が出てきた私。
もっともっと仕事をこなしたい!

高速ではなくて国道を走るには
渋滞する昼間に走らず、夜中に走ればいい・・
陸送業の鉄則?

夜中に出発する人たちのために会社のワゴン車で
迎えに来てくれた。
時間までにはお風呂に入り
お弁当を2食分作ってマンションの前で待っている。
色々な職業を経て集まった仲間たち。
みんな、いい人ばかりだった。
明るくて冗談を言い合った。
ここも楽しい職場だった。

そして、ある日は単独だった。
しかも、往復仕事。
まず一番行く回数の多い栃木だ。
夜中に出る、半分ほど走る頃には
東の空が明るくなり始める。
昇る朝日を仕事をしながら見られるなんて
感動そのもの・・「早起きは三文の徳」
初めての感動・・。あの朝日も忘れない。

そして無事に目的地に到着。

そして次に陸送する車を探して出発。
途中で給油する、いつものようにタップリとね。
栃木から神奈川県まで陸送。
その時の往復仕事は一人だったし、
しかも、かなりの長距離。
ちょっとだけ寂しかったかも。

国道が大回りしているが一番いいルートだと
教えてもらっていたのでひたすら走るだけ。

途中でトイレに行きたくなったが
大型車を横付けさせるような店はないし。
ひたすら我慢・ひたすら走る。

そんな時にいいタイミングで何回も彼が電話してくれたので
話題をそらしてもらって時間もつぶせたし助かった 笑。

そして無事に目的地に着いた時にはホッとした。
今まで生きて来た中で一番我慢した日だった。

あの日も忘れない・・・。


つづく。

No.240

~彼のヤキモチ~

原さんは、いつもニコニコしていて怒った顔を
見たことないほど人柄のいい優しい人だった。
ひとことで言えば「いい人」・・。
お願いすると「うん、いいよ」って
手先の器用さですぐやってくれた。
どっちかというと
見てくれが悪かったから(ゴメン)
恋人いない歴=(年齢)年だって。
実家の両親と一緒に商売をしていたが
暇な時には色々なバイトをしていた。

私は、原さんを男なんだけど男として見ないで
女友達のように思っていたから、
仕事もいつも一緒、終わってからもお茶飲んで
時間をつぶしたりしていた。
車も持っていたので、送迎もしてくれたから
とても助かったし自転車に乗ることもなくなった。

仲間との飲み会では先輩にご馳走して貰うこともあったが大体が割り勘だった。

でも、原さんとは仕事中もずっと一緒なので、休憩場所でのお茶やご飯はいつも私がご馳走した。
それは当たり前のことだし、
仕事が終わってからの食事やお茶でもそうした、
当然のことだったから。

単発仕事の時には帰りは電車だったから
電車の乗り継ぎなども
あとをついて行くだけだったのでとても気楽だし
助かった。
原さんは、何でも詳しかった。

そんな原さんに彼がヤキモチを焼きはじめて・・。
彼が心配するのは当然だし彼の気持ちが分かったので
お互いに紹介するからといつも言ってるのに
イヤだ!と断るし。

原さんには最初から彼のことを話していたし
「うん、いつでも会うよ」って言ってくれたのに。

三人で会って話したら、彼も原さんも
男同士お互いが持っていないモノを持っているので
きっといい友達になれると思ったんだけど・・。
彼のそういう部分はやはり若過ぎたんだね。
(え?そういうもんんじゃないのって?笑)

でも、信用してくれないとこっちも仕事やりにくい。

男のヤキモチ焼きなんてイヤだ。(元ダンナもそうだったけど)
仕事は楽しくて面白かったけど、それだけがイヤだった。


ふぅ。



つづく。

No.241

~楽しくて稼げる仕事~

ひと月分の仕事の成果が出た。
原さんの言ったことは本当だった。
総額だから、当然その中から走るために
給油した燃料代や帰りの電車代などの
経費を引く・・。

当然、厚生年金などないので当座は
国民年金になったりそういう手続きは
自分でやるからちょっと面倒だけど。

それでも、走るのが好きだから
楽しく仕事して稼げることは
本当にありがたかった。
しかし、長くやる仕事ではないと思っていた。


つづく。

No.242

~もっともっと仕事を~

走れば走るだけ稼げる、、。
比較的走れる夜中に陸送する、、。
しかも、楽しい、、。
原さんもその当時では珍しく携帯電話を
持っていたので走りながら会話して
次の道の駅でトイレ休憩しようか?
って具合で快適だった。
(その当時は「道の駅」って何だ?って
不思議に思っていたがそこが
道の駅の元祖だったのかな?)
ドライバーにとったらとてもありがたい場所だった。

どんどん陸送している時間の方が
睡眠より多くなっていった。
睡眠時間は短い方だったし、
辛くもなかった。
原さんは、到着後、しばらく仮眠をとるので
その間は私もコーヒータイム。
彼と電話でおしゃべりしたり
原さんがスッキリしたぁと言って起きると
往復仕事の時は、また陸送開始。
そうでない時には電車で帰る。

原さんのあとをついて常に陸送していた。

そんな感じで
一年近くがあっと言う間に過ぎて行った。


つづく。

No.243

~体がダルイ~

仕事をし過ぎて疲れが出てしまった?
「今日は何だかダルイな。」
「今日もダルイな。」と。

彼が心配して、栄養剤を持ってきてくれたり
私の大好きなお寿司を食べに連れて行ってくれたり
毎日心配して顔を見に来てくれた。
「病院に行ったほうがいいよ、連れて行くよ」って。
「大丈夫。明日は元気になるから」

それでも、毎日ダルイ日が続いた。

原さんのお母さんがかかりつけ医を紹介してくれた
からと原さんが車で送ってくれた。

上京以来、初めての病院・・
今までが元気過ぎたってことだね。

田舎の小さな古い医院のようだった。
おじいさん医師が「フンフン」と言いながら
症状を聞く。

「あぁー働き過ぎだね、疲れが出たんだね?」

こっちが、フーンとなった。
大丈夫かな?この医師で。

私は大の医師嫌い。
生まれた時に、太ももにプクッと小さなオデキのようなモノが
あった。近所のヤブ医者に連れて行かれて、
麻酔なしで切った!
結果、何倍もの傷痕になり人生終わった!怒。
(後日その傷痕の、その後を記する
それからも、行く病院行く病院どこのどの医師も
ヤブばっかりだった!
今、マスメディアで大活躍?している
名医などお目にかかったことない。
最初から信用していないしすぐ疑ってかかる)

古い二階建ての入院部屋で点滴をすることになった。
ベッドに横になり点滴をするうちに、ウトウトしていた。
夜でも不眠症だと思うくらい眠れない自分が、
日頃の疲れもあったかと思うが、珍しく眠っていた。

すると、突然、部屋のドアが開いてビックリして起きた。
知らないオバサンがニコニコしながら入って来た・・?
誰かな?

原さんのお母さんだった!
ずっと私のことを毎日聞かされていたようだ。
「原さんにはいつもお世話になっています。」と言うと

「こちらこそ、うちの〇〇が大変お世話になっているようでいつも〇〇ちゃん〇〇ちゃんと言ってますよ。」

近くに来たので様子を見に来たと。
「ここの先生は上手だから安心して。」って!爆。

しばらくペチャクチャおしゃべりして帰られた。


ふぅ。。


つづく。

No.244

~総合病院へ~

点滴を毎日やっても、ダルさは変化なし。
時間の無駄なように思えてイライラしてきたし。
面倒臭いし。
それより、原さんに毎日送迎してもらうこと自体が
気の毒だった。

二週間位通ったのか?

回復が望めない私に、彼もとうとう怒った・・
いつまでも、そんな小さい医院など点滴しに行っても
無駄でしょ、って。

大きい総合病院で精密検査してもらわないとダメだよ!と。

そうだね、おっしゃる通り。

彼が私のマンションの近くの総合病院を事務所でネット検索してくれていたようで数カ所の総合病院のメモを見せてくれた。

どこがいいの?

こんな時、どうやって選べばいいの?
全く、分からなかった。
(今でこそ、クチコミなどのサイトが山ほどあるが)

仕方がないので
適当に選んで彼の車で連れて行ってもらった。
総合病院の初診は一日かかりだろうから、
彼にはそのまま、仕事に戻ってもらった。

ホント、疲れた・・。

大きな病院の中をキョロキョロしながら探し回り
あっちへ行ってこっちへ行って。

その日、どんな検査をしたのか?
全く記憶にない・・

検査してから?
診察室がいくつも並んでいる診察室の前で
名前を呼ばれるのを待つ。
はぁ、しんど・・い。
溜息ばっかりついていたかも。

だいぶ待ってから名前を呼ばれて入ったのは、
若い医師のいる診察室だった。

たぶん、検査の結果はその日ではなく
日にちがたってからだったと思うが

診断の結果は、
右側の腎臓が機能していない状態。
委縮してしまっている。
いわゆるもう死んでいる・・・。


なぜそうなったか?

(話せば長いんだけど・・)

*追記
腎臓は二つある。
ひとつだけでも生きて行ける。
片方の腎臓を家族へ
移植したりしている人も多い。



つづく。

No.245

~輸出車陸送~

(今、思い出したこと)
陸送、最初の頃、
ある日、
ディーラーに引き取りに行ったら
海外向け左ハンドルのトレーラーヘッドだった。

ヤッター、左ハンドルだぁ~♪
嬉しかったね。

原さんと他の数人も同じく。

先輩がアドバイスしてくれたこと、
「左ハンドルは、走行車線の左側の車線に
左タイヤを合わせて走ると楽だよ」って。

ありがとう。
面白かった。
短距離だったけど。

彼と初めてお互いに作業服を着て待ち合わせした場所、
大黒ふ頭まで・・。



この近辺は、ずっと大好きな場所のひとつだった。
何だかとても、懐かしかった。



つづく。

No.246

~昔に戻るが・・~

(右の腎臓が!?こうなった原因は、というと、
数十年前に戻ることになる・・)

最初の子供を妊娠した時に、
「前置胎盤」ということが判明した。
初めて聞くことばだった・・

前置胎盤とは
何らかの原因で、正常な位置ではない場所に胎盤ができる。
よって、正常出産は非常に難しくほとんどが
帝王切開になる。

私もそう診断されたのだ。

診断された時点で即・入院。
絶対安静。
勿論、トイレも行けない。
若かった母がずっと付き添ってくれたから助かったけど。

お腹の子供はその時点では超超超未熟児なので
一日でも長くお腹の中で少しでも大きくさせないと
ダメだと産科医師に厳しく言われた。

お腹の中で大きくなるのと、
産まれてからの成長は
全然違うらしい・・
なるほど。

3週間ほどたったある日、
ダンナの同級生が奥さんと赤ちゃんを連れて
お見舞いに来てくれた。

その赤ちゃんがとっても可愛くて!可愛くて!
誠という名前だったけど
「まこたんまこたん」とご夫婦が言ってて。
何て可愛らしいの?

「あ~私にもこんな可愛い赤ちゃんが
生まれてきてくれたらいいなぁ~」
とそう思った・・

たぶん脳が興奮状態だった?




何と!





その夜中に・・・!?




つづく。

No.247

~前置胎盤そして帝王切開~

その夜中、
突然!大出血した!

私の叫び声に、
隣で仮眠していた母がビックリして
飛び起きた!
走って看護婦さんに知らせに行った!
そして、
緊急手術!
(ここの産科医師宅は医院の隣にあったから助かったんだ)

全身麻酔だとスリーピングベビーになるので
背中に弱い?麻酔をしたようだったが
手術中ずっと痛みがひどくて
まるで自分が産道を無理やり通っているような
苦しい痛い、とうなされていた・・

この産婦人科の医師は、あることで世界的にも有名。
その時には高齢だった。

帝王切開で、あと5分したら日付けが変わると
いう時間に産まれた(産まされた・・)

超未熟児・・。



つづく。

No.248

~帝王切開~

手術中も出血多量で・・
大量の輸血をしたようだ。
ダンナも同じ血液型だったので輸血してくれた。

手術室から病室に戻る時、ストレッチャーがなくて医師や看護婦さんが困っていたら、
兄がサッと抱きかかえて病室に連れて行ってくれた。
弱い麻酔だったけどウトウトしていた。
それに義姉がヤキモチ焼いた・・らしい(バカバカ!)

夏だったけど、保育器に入った。

しかも、その翌日には、
よその産科で産まれた赤ちゃんが保育器がなかったから、
長男が入っている保育器に入ってきた。

一人用の保育器に二人。


つづく。

No.249

~保育器に二人~

狭い保育器に頭を並べて寝かせてあるのではなく、
二人が互い違い?
長男の頭の横にその赤ちゃんの足がある・・。

私は帝王切開後なので寝たきり状態だったので
このあとのことは↓母からの情報。

その赤ちゃんは長男の二倍位あるような大きな赤ちゃんだった。(それで未熟児?・何かほかにあったのかも)
色の黒い子だった。

その赤ちゃんのお母さんが家でしぼったお乳を
ほ乳ビンに入れてお父さんが遠い家から毎日
産科医院まで持って来ていたので、
その赤ちゃんはずっとお腹を空かせて手足を
バタバタさせて泣いてばかりいた。

一方、長男はおとなしくてほとんど動かず。
しかし、
その赤ちゃんが泣くたびに、
スヤスヤ寝ていた長男も泣き出す。

そのことを母は心配していた。
「可哀相に、ゆっくり寝ていられないよね」って。

夜中の授乳は、看護婦さんの役目なのに
なかなか時間になっても起きて来ない・・
その赤ちゃんはお腹空いたよーとギャーギャー泣く。
長男もつられて泣く。

ミルクの時間なのに看護婦さんが起きて来ないし、、
長男は眠っているのに起こされて可哀相だから、と
母は、その赤ちゃんのミルクを先に作って、
保育器から出して抱っこして飲ませる。

それから、長男を保育器から出して
抱っこして私が前もって、
しぼったお乳を飲ませてくれていた。

二人に飲ませ終わった頃、
目をこすりながら看護婦さんが走って来る・・笑。

最後までそんな調子だった。

オバサンが率先して飲ませてくれるから 
ま、いいかぁって思っていたようだと
母が笑って言ってたことを思い出す。
懐かしい母のあの笑顔。

母は若いし初孫だし、生き生きして世話をしていた。
その赤ちゃんのこともだんだん可愛くなっってきたと。


私が心配だったのは、保育器の中に寝ている真上に蛍光灯があった。
目を悪くするのではないか?
心配だった。


つづく。

No.250

*追記
この2年後に次男を同じ産科医院で出産したが

2歳になった長男を見て医師が言ったっけ。
「おぉー、大きくなったなぁ、産まれた時には猫の子みたいだったけど・・・笑」

医師はそう言いながら両手ですくうような形にしたっけ。
手のひらに入るような赤ちゃんだった!爆。

大きくなったなというのはその時よりも、ということだ。
やはり、未熟児は未熟児で食も細くてモヤシみたいな2歳児だったけど 爆。


懐かしい想い出。

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