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生きて来た道

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ヒマ人
15/10/26 13:37(更新日時)

老婆の長い人生を歩んで来た足跡を刻む日記です。

むかーし、ある片田舎で一人の赤ちゃんが産声を上げた。
赤ちゃんは右足太ももの外側がプクッとふくれていた。
近所のヤブ医者で切ってもらったらしい・・
物心ついた時には傷痕があり学校の体操服を着ると
ギリギリの所で見えていた。イヤでイヤでたまらなかった。
祖父は戦争で息子の一人を亡くして国から支給される
お金で自分だけぜいたくしていたようだ。

両親は朝から晩まで馬車馬のようにコキつかわれて
いた。後ろ姿を見て育った私は祖父が憎くかった。
子供心ながら孫もわけへだてしているのが理解できた。
兄が一人の四人暮らし。
貧乏生活だったが両親は優しく家族は何の問題もなかったが
回りの大人たちが悪すぎて、小さい頃から一歩下がって
人を観察する子供になっていた。そのために友達の母親からは
「可愛げがない」と言われたことがあり今でも忘れられない。

いま思えばきっと姑小姑たちにいじめられている母親を見て
いて、自分が早く大人になって親孝行してあげなければ、という
思いが強すぎて子供なのに大人びて見えたのかも。

つづく。






15/06/06 08:57 追記
~三歳年下のよっちゃんへ~
あの日あの時は本当にごめんなさい。
あからずっと・・今でも・・
そしてこれからも死ぬまで
よっちゃんに対してやった罪を
懺悔しながら生きていきます。
許して下さいとは言いません。

よっちゃんが今を生きているならば
ただただ幸せでいてほしいと
願うばかりです。


No.2215642 15/05/14 16:54(スレ作成日時)

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No.1 15/05/14 20:11
ヒマ人0 

小学校の運動会には舅姑小姑大勢がぞろぞろ手ぶらでやって来て
お昼の5段弁当を3箱分平らげてあっと言う間に帰って行くケチ義実家。
私は家族水入らずで楽しみたかったのに。
忙しそうに前日からお弁当の準備する母の手伝いをしながら
「おうちの家族だけの分を作ればいいのになぜ大勢の分まで作らなければならないのよー(泣)」と毎年母を困らせていた私。

母は今度は義実家の嫁が来たらお客さんでお弁当を頂きに行こうねと言ってたが、お嫁さんが来たらやはり姑小姑のイジワルを知っているだけにさすがに一回も行かなかったけどね。

正月のお年玉を配る時の祖父は金持ちの従弟たちには沢山のお年玉、そして兄と私にはチョットだけ、そんな目の前の大人が、しかも祖父がわけへだてしている姿に
憎しみだけ抱き続けていた。その従弟たちの親(ガラス屋)は財布を出してみんな見ている前で一万円札を何十枚もわざわざ出して数えていたっけ!馬鹿みたい!

回りの大人たちのせいでちっとも楽しい思い出がない子供時代。
常に働いていた両親のために兄と二人で夕食の準備をして帰りを待っていた。
今、思えばそんなことが懐かしい。
両親が亡くなった今ではその兄とも疎遠になったけど・・。
たった二人しかいないのになんと寂しいこと。


そうそうテレビがおうちに来た時は驚いたっけ。
力道山のプロレスが家族みんな大好きだった。


つづく。




No.2 15/05/15 00:16
ヒマ人 

保育園の頃
お遊戯がイヤとさっさと一人で帰って来て母が驚いていたら先生があわてて連れ戻しに来たらしい。イヤがる私に先生が「お遊戯がイヤならお絵かきしましょう」の一言で喜んで手を引かれて行った、とのちに母から聞いた。やはり可愛いげのない子供だったのかも!?


つづく。

No.3 15/05/16 19:25
ヒマ人 

同じような頃
家は自分たちで食べる米は作っていたので田植えの時は母の姉妹夫婦が大勢手伝いに電車に乗って来るので幼い自分はその時期だけ小学校の講堂のピアノ付近に預けられて仲間とお遊戯や歌で時間をつぶした。

ところが、親戚のおじさん、おばさん、従姉妹たちが来たのになぜ自分だけ仲間外れ?
はっきりとは覚えていないがあとになって母が教えてくれたのは、一時間もしないのにいつの間にか家に帰って来た!?
言うことが「ただいま~もう終わったから帰って来たよ」と…。

やはり先生に黙って帰って来たと…。ま、昔はそれでも良かった時代だったってことかも。
狭い田んぼなのに手伝い人は大勢だからあっという間に田植えは終わりそのあとはお楽しみの宴会が始まり料理上手な母が精一杯のご馳走でおもてなし。賑やかな楽しい一日で、母方の親戚は貧しくても皆なが優しくて助け合いの精神が完璧だった。
反対に父方の親戚は祖父を筆頭に根性悪のドケチ血族。
しかし、自分の中にも半分は汚い血が混じっているのだ、イヤイヤ半分どころかほとんどが汚れた小汚い血だと物心つく頃には実感し始めた。

父は全然違う心の優しい誰からも慕われるいわばいい人なのに…。


つづく。



No.4 15/05/17 04:52
ヒマ人 

三歳上の兄とは小さい頃からとても仲が良かった。
いつも兄と一緒だった。
私が小さい頃
ある日仏壇の前に小さな箱が置いてあり母にこれは何?と聞いたら弟が産まれてすぐ死んでしまった…。

今ならどんなに小さく産まれても助かったかも知れないのに…可哀相な弟。

学校に行くようになり姉や妹が沢山いる同級生がいつも羨ましくてたまらなかった。

だからたった一人だけの大好きな兄のあとを追っかけて遊んだ。

兄は近所のガキ大将だった。今では見なくなったれんげ草の田んぼの中を元気いっぱい子供達と走り回って遊ぶのが楽しかった。

夏は西瓜とアイスキャンデーが大好き。
町で一軒しかない肉屋さんが夏になると自転車の後ろに氷を入れた箱にアイスキャンデーをベルを鳴らしながら売りに回って来ると皆なで追っかけて行き買って食べていた。懐かしい想い出。

私がいつも西瓜西瓜と言ってたある日、母が大きな西瓜を買って来ていつもは少しずつ切ってくれるのに、兄と私の前で真っ二つに切り、「ほら、全部食べていいよ~残したら駄目だよ(笑)」!?

ギャアーいいの?
嬉しくて舞い上がった!夢中でかぶりついた!甘~い。あの時の感激は一生忘れない。それほど貧乏だったってことだ。

私は全部食べきった。兄はあまり好きではなかったのか半分残してた。全部食べるように言われたからか兄は残りをニワトリに与えてた…勿体ない(笑)。


つづく。

No.5 15/05/17 20:28
ヒマ人 

同じような頃
地域的に海には面してはいないが
昔はディゼルカーが走っていたのでものの5分も走れば県境を超え隣の県だ。
隣の県の隣の町はすぐ目の前が海だ。母の故郷だ。今でも大好きな町。第二の故郷。懐かしくて町や海を思い出すとなぜか涙が出る。

隣町の駅からディゼルカーで大きなカゴを背負ったおばちゃん達が魚市場から新鮮な魚をうちの目の前にある駅から一斉に降りて来てそれぞれのお得意さんの家を回って売り歩き、全部売り切ったおばちゃんから先にまたディゼルカーに乗って帰るのだった。

うちに来るおばちゃんは小太りで愛嬌はあまり良くはなかったけど年末にはお歳暮代わりに色のついたてまりなどをくれた。気の毒なくらい買わないのに…やはり女の子だから嬉しかった。が…
ひとつだけ不満だったことは、友達の家に来る小さなおばちゃんは、からいも飴やこめ飴のおやつをいつもカゴに入れて来るのにうちに来るおばちゃんは一回も持って来なかったことだ。いつもガッカリした。甘い物に飢えていた子供時代。

今思えばそんなことがとても懐かしく思えるし、今では考えられないほどの貧しさだったのに、あの頃にまた戻りたい、と愛おしくさえなる。
昔は野菜は充分足りていたが肉や魚などの蛋白質が多少は不足気味で栄養が偏っていたと思う。いくら毎日新鮮な魚を売りに来てくれても貧乏だから買えない日の方が多かったから。それでも大人も子供も懸命に仕事に遊びに励んで、体を目一杯動かしていたから全ての栄養素が無駄なく体中に行き渡り元気だったのかな。

ある年には家族四人が一回も病院に行かなかったということで町から表彰されたらしい。健康保険を使わなかったから、税金節約に貢献したから?記念品と表賞状を覚えている。こんなこと今では有り得ないかも?笑。

人口が数十人とかのどこかの小さな村辺りではあるかな?

貧乏な家庭は元気だけが取り柄だった。

しかし、貧乏人の子沢山とは?ちと違うね~笑。

貧乏人の子沢山だったらどんなに良かったか…。


つづく。

No.6 15/05/18 17:45
ヒマ人 

食べる物が続く。

同じ頃
蛋白質が足りないと体が要求したのか定かではないが
母に「ビフテキが食べたいよー」といつも言っていた私。

そんなある日、
母が大きな厚切りのステーキを二枚買ってきて夕食に
フライパンでジュージューといい感じに焼いてくれた。
そして、
普段は使っていないナイフとフォークを出して兄と私の前に
並べて白い大きなお皿にコンガリと焼いたビフテキを置いた。

父にも母にもなかった。
えぇぇっーいいのぉ?私たちだけ!?
父も母も笑った。
「いただきま~す!」
美味しいのなんのって!
でも、この時限り、、たった一回だけのビフテキだった!

今では当たり前にステーキを食べているけど
若い母が焼いてくれたあの時のビフテキにはかなわない。

No.7 15/05/18 22:16
ヒマ人 

何歳だったのか覚えていないがまだ幼稚園にも行ってもいなかったと思うが

母の実家の町で一年に一回大きな神社で盛大な秋祭りがあった。相撲とりも来ていて賑やかだった。
毎年母の実家に家族で行っていたのに、その年はなぜか母より一足先に憎んでいた祖父や祖母に連れられて父の妹の嫁ぎ先までディーゼルカーで行った。母の実家とは逆方向だった。
そこから神社まで遠い道のりを歩いて行ったらしい。
そこまでは良かっが…(お祭りなども全く覚えていない)

行きも帰りも父の妹宅だったので、多分両親も兄も来なかったのだ。

なぜ憎んでいる祖父たちについて行ったのだろうか?悔しい…

帰り道、祖父たちとハグレてしまい
気づいた時は見知らぬ人たちばかり。
しかも、山道で道路はデコボコで大勢の人々がゾロゾロ歩いて土ボコリがすごくて
懸命に祖父たちを探してもわからず…幼い自分は泣いたのだろうか?
泣きたくても我慢して皆なが歩いて行く方向へ必死で歩き続けたのか?
父の妹宅は滅多に来ないし、しかも、神社までの道などわかるわけないが、数時間前に通っただけで逆方向だし…

それでも何とかたどり着いたようだが、大人たちは探そうともせず…
本当にヒドイ人たち!

汚い血が流れている自分はもっともっと憎しみが増すばかりだった。

産まれたばかりの赤ちゃんはまだ真っ白だが環境と回りの人間たちにドンドン感化されていくばかり。

ただでさえ根性の悪い汚い血を持った自分は…

白か黒か?
目には目を!
歯には歯を!

この大人は自分たち家族にとって良い人か?

悪い人か?

顔や言動を見て即・判断する子供になるまでが早かった。

やはり、「可愛いげのない」子供だったんだ。

つづく。

No.8 15/05/18 23:22
ヒマ人 

そんな…「可愛いげのない」と友達の母親から言われた自分は小学校に入学した。

一年生の担任は新しくある島から赴任して来た背の低いガッシリしたヒゲの濃い優しそうな先生だった。名前も島特有の名前だった。

ある日、帰る前に先生がそれぞれの机の上に小さく切った白い紙を置いた。

「…ん?」

それから白い紙の上に何やら黄色い小さな物体を置いた…

「…ん?」

私も皆なも不思議そうにジィーっと見ている
今まで見たことない物体…

「…ん?」

最後に配り終えた先生が何か言うのをジィーと待った。
……………………………………………………………………………………島にある先生の実家になったバナナだった!

きっと珍しいだろうから、と実家から持って来て生徒数が多くて一本ずつだと足りないから半分に切って。
生徒たちに食べさせてあげようと思う先生のその気持ちがあとあとになって理解できた。
自分の周りの大人たちは汚い人間ばかりだったので初めて人の優しさ、思いやりを知ったとおもう。貴重な体験だった。

みんなに食べなさい、と先生は言った。

そぉ~っと口に持っていき食べようとしたら青臭いにおいがした…

食べたかったけど、母にこれを食べさせてあげたい!その気持ちが強かったのでそっと小さな白い紙にくるんで赤いランドセルに入れた。

みんなは食べていた。感想は何を言ったのか全然記憶にないし、先生も何を言ったのか覚えていない。

大急ぎでうちに帰って母に自慢げに事の次第を話したら母も驚いていたが、私に食べなさいよと言ったが私はわざと、くさいからいらない、と…
その当時はバナナは病院のお見舞いに持って行くほどの貴重品でまだまだ珍しく高価な果物だった。

今では当たり前のようになったけど
しかし、一学期だけで病気になり先生を見ることはなかった。悲しかった!さみしかった!

バナナを見る度に先生を思い出すし、一生忘れることはない。

○○○先生ありがとうございました。逢いたい…

つづく。



No.9 15/05/19 06:31
ヒマ人 

小学校の庭のド真ん中に大きなセンダンの木があった。
夏には涼しい木陰で遊んでいた。

卒業してからいつの間にかバッサリ切り取られ影も形も無くなっていて驚き悲しくてたまらなかった。

勿論、市役所や教育委員会、教員、保護者で賛否を問い決定した結果だろうが。

先人の知恵で植樹されたであろうあの立派に育ちむしろ小学校のシンボルだったセンダンの木。
生徒数が増えて校庭が狭くなり伐採したのなら仕方ないが、むしろ、私たちの年代が一番生徒数が多かったしその後徐々に減っていくばかりだったはず。

今では理由などわかるはずない。

そんな大人たちって!。


つづく。

No.10 15/05/19 07:21
ヒマ人 

小学校といえば、私が結婚してから長男と次男が二歳違いで産まれ、小学校に通っていた頃のことを思い出したことがある。
私の卒業した小学校から数キロ離れている同じ市内にある一番大きな小学校だった。

二人の子供たちも団塊の世代が産んだ団塊ジュニアとよばれたくらい生徒数が多かった。

長男が三年生の時に、ある日突然「制服論争」が勃発した!

教員やPTA役員、教育委員会が言い出したという。

着て来る服が汚い生徒、派手過ぎる生徒、バラバラでまとまりがない、
そんなことを理由にして大騒ぎになってしまった。

賛成する親、反対する親が子供を巻き込んで大激論!
役員をしていた同級生の男の子を持つ母親が言う…「私服だと、女の子は胸が開いた服で見苦しい!男の子は何日も洗濯しないで着続けているから汚れて見苦しい!制服ならキチンとしていて見映えがするし整列したらきれいでしよ!」
呆れた…

私は制服に反対していた。

小学校時代の子供は育ち盛りまっ最中。

ただでさえ
服はあっというまに小さくなり大きな服に買い替えるというのに。

制服なんて三枚も四枚も買い替えることなど無駄なこと。

市内にある洋服屋が教員を味方にして推進したこと…
賛否を問うことになったが結果は賛成が多数でした!という発表だけで内容は最後まで明かされず。

私は一人で役員たちに結果を発表するよう問いただしたが無駄だった。

賛否を問う前から決まっていたらしい。

役員が教員や洋服屋側に回りゴマスリ放題の結果。

制服決定で市内の洋服屋に一斉にサイズを計りに行く親子が町中にあふれた。

結局、二人の子供たちも二組の制服を着た。

制服になってから…毎日は洗濯しないから生徒たちの紺色の袖口は白っぽく汚れてピカピカ光り出した。

一年で小さくなり買い替え、それでもツンツルテンで見苦しかったが卒業まで可哀相だったが我慢させてしまった。

都会の小学校が私服でのびのびしている一方で山がきれいな田舎の小学校が制服なんて呆れてしまう。

汚い利権だらけの大人たちに子供たちは翻弄され続ける現実。

大人って!
大人って!


つづく。

No.11 15/05/19 20:02
ヒマ人 

また自分の小学校の頃に戻るが、

小学校の想い出としては前述の一年生の担任のバナナの思い出は
最高の思い出として大切にしておきたい。

二年生になり学級委員になった。
担任の先生は美術が専門分野。
はっきりとしたことは記憶にはないが
多分、ある日の放課後、はっきりと覚えていることは

図書室の高い本棚が並んでいる一つの通路に
私と先生が二人っきりでいる・・
会話は全く記憶にないが、
先生が私のスカートの中に手を挿しこんだ!?

とても、イヤな記憶として今でも消えることはない。
小学校二年生の子供だから何も知らないし
何もできないし、何も言えないと思って!!

今でもそういうことは度々ニュースになっているが、
昔でも、そういうことはあったんだと思うと
私以外にも、担任している女子たちは全員
同じことをされたのかもしれない。

それから数十年後、私は二児の母親と
なっていたが、あるスーパーの前で
松葉杖をついた先生を見た!

ずいぶん年をとっていた。

だけど、声をかけるような気分ではなかった。

受け持ちの子供にあんなひどいことをする教育者なんて!

死ぬまで消えることはない。

生まれた時には周囲の大人たちもそうだが、
二年生の担任も教育者としても同じ穴のムジナ。


益々、大人を憎む子供になってしまう。


つづく。



No.12 15/05/19 22:41
ヒマ人 

大人も子供も栄養が偏っていわば栄養失調になっていた時代。

勿論、うちもそうだった。

六年生の三学期になってから給食室が完成しやっと給食なるものを食べることが出来たが…兄はすでに中学校に行っていた。
給食室を作ることになってから生徒の保護者が結構な金額を払うことになり両親は工面するのに苦労したようだ。

我が子がだった一学期だけ給食を食べるために…

給食が開始される二年前のこと…私が四年生のある日、
母が作ってくれた弁当を食べようとした時、担任が教室に入って来た!?

なにごと?


つづく。


No.13 15/05/19 22:48
ヒマ人 

なにごと?……………………………教育委員会からの通達で生徒の弁当の中身、おかずを調べる!?

その前、昼の弁当を食べる前に同級生(近所で…「可愛いげがない」と言った母親の子供。のちにこの子に一生忘れられないことになる事件発生…)と手を洗う時、おかずは何?と聞かれたので
一瞬考えたが
「卵焼き」と答えた…

朝、母が黄色いタクアン数切れを白いご飯?麦飯?の横に入れているのを見たから。あれっ?今日は卵焼きと蒲鉾は?いつも必ず入れてくれるのに…お金がなくて買えなかったのだろうと思い母には何も言えなかった私。…悲しかった。いつも大好きな卵焼きが入っているのに…

しかも、その日に限って!調べる!?


















つづく。


















No.14 15/05/19 22:50
ヒマ人 


泣きたかった!
悔しかった!

どうしようもない何の力もない子供にこんなはずかしめを与えるのか!
またここでも、こんな事でも周りの大人たちを憎んだ。

良く言われるのが
「罪を憎んで人を憎まず」…。

私からみたら逆を言いたい…

「人を憎んで罪を憎まず」

弁当おかず調べ…順番に担任が万年筆で紙に書いている…

金持ちの家の子供
貧乏な家の子供
しかし昔はどこも同じように貧乏していたらしいが私からみたら貧富の差は大きいかも?。

いよいよ私の所に来た!
小さなアルミの弁当箱のフタをちょこっとだけ一瞬だけ開けた!
余りにも一瞬過ぎて中身が担任には見えなかったらしく、再度開けるよう促した…

担任「それだけ?」
恥ずかしくてまさしく顔から火が出そうだった!

多分、私みたいにタクアンだけ!梅干しだけ!という生徒が大多数で結果的に給食を取り入れたのだろう。

なら、もっと早くやれよ!ってことだ。

六年生の、しかも三学期だけ…

って遅いよっ!

遅過ぎる!

中学校は勿論弁当だし…

本当に生まれながらにして全てがタイミング悪い人生になろうとは…。


つづく。






No.15 15/05/20 00:30
ヒマ人 

うちは駅前だった。
多分、中学生だったと思うがある日、一人でディーゼルカーに乗ってどこか行くのに切符を買った。
田舎の単線の小さな駅だから駅員は一人だけ。小さな窓口で切符を売り改札をしてディーゼルカーが来たら決まった任務をする…
ところがこの駅員、スケベジジイだった!

小さな窓口の向こう側にいて切符を渡したまではいいが…

私の顔を見て無言で手で指をスケベな形?にして私の方に差し出した!

きっ!汚いっ!

いい大人が誰もいないのをいいことに
こんなことをする!?

今の時代なら即、警察にでも言えるのだろうが…

一瞬のことだったので私は面くらってしまい何も言えず改札の方へ走った。

悲しかった!
悔しかった!

なぜ自分の周りにはこんな汚い大人しかいないのか!?

こんなこと、冗談だよ、と笑い飛ばしておしまい?なのか?

私があまりにも真面目過ぎるのか!?

誰にも言っていないこと…。


大人って!

大人って!


つづく。

No.16 15/05/20 22:11
ヒマ人 

「可愛げがない」と言った母親の子供は女子の同級生。

家もすぐ近所。
小学校もすぐ近く。

中学校になると少しだけ遠くなった。

私は一人で通学していた。

三年生の終わり頃、何を思ったかその子が家に来た。
一緒に行くと!

なぜ?今日に限って!?

不審に思いながらも、支度をして玄関を出た。

すると、中学校に赴任して来た英語の先生の娘も同級生だったが
その子の家にも一緒に行くから行ってくれる?と!

なぜ?
直線距離で中学校まではすぐなのに、
誘いに来た子の家の前を通り過ぎてグルーっと回らないといけなくなるし、

しかし、なぜ断らなかったのか!?

優柔不断な自分がいたのか!?

仕方なく急いで先生の家まで回り道をして行ったら、
呼んでもなかなか出てこなかった!

時間もどんどん過ぎて行く・・

焦った!かなり!

どれくらい待ったのか記憶にないが、
朝寝していたのだろう、きっと!

遅刻しそうになり、最後まで走った!
二人も仕方なくついて走って来る!

教室のトビラを開けると同時に始業のベルが鳴った!

結果、、、、

、、、、、、、



遅刻!



たった数秒で!

遅刻!






、、、


それまで無遅刻無欠席で来ていたのに!

皆勤賞を目指して頑張ってきたのに・・



悲しかった!
悔しかった!

優柔不断の自分が情けなかった!
その子を恨んだ!



、、、


同級生の子はいつも遅刻常習犯!
欠席もあった。



多分、確信犯だったのか!?




この子には小学校の時にも、振り回されたのに・・




つづく。



No.17 15/05/20 23:49
ヒマ人 

その子の名前は夏子…

小学校四年の時の男の担任は卒業までずっと担任だったが
結構厳しくて、
授業が終わったら毎日、算数の問題を数問プリントして
解答が全問正解するまで帰れなかった。

私は早々に全問正解して自分の席に戻り帰る準備していると、隣の席の夏子が先生から見えない角度で小声でプリントを見せて…と。

仕方なくランドセルの陰に置いて見せる…毎日のこと。

確信犯の夏子だから…すぐには先生に持っていかない…私が教室を出てしばらくしてから見せに行くのだ…
先生は勿論知っていたと思う。
なぜなら夏子は最後まで全問正解できないから、先生も帰れないので困る訳だ。

全問正解した者から下校できるので生徒たちの間では「(正解)なった順」と言いイヤがっていた。

親たちもこのことを知っていたので夏子の帰りが遅いのは全問正解しないから…と分かっていた。

それでも確信犯の夏子のことだから
「○○ちゃんと一緒に帰ったら母ちゃんが安心するから校門で待っててぇ~お願い~」と言った!

私の全問正解の答えを丸写ししてしばらくしてから先生に持って行くのでゆっくり歩いていれば息を切らして走って来る。

うちには三分で家に帰り着くが二人で帰って来た姿を夏子の母親は少し先の家から見ている。

あぁ、一緒に帰って来たから夏子もすぐ全問正解出来たんだわ…と安心する訳だ。

だが、通知表を見たら?



笑。



つづく。

No.18 15/05/21 00:16
ヒマ人 

なぜか夏子とはいつも席が一緒だった。

席順はどういう風に決めていたか全く記憶にない。

四年生のある日の社会科の授業中のこと…

夏子が「地図を忘れました」、と先生に言うと私に見せてもらえ…?夏子は喜んで机をくっつけてきた。

いやだなぁ…

案の定、小声でしゃべり始めた…

何を言っても黙っていた…私。

自分でしゃべり自分でクスクス笑い出した!

腹立つ!(怒)!

とうとう、先生がこっち向いた!

ドキドキ!

先生は黙ったまま黒板に下げていた大きな地図を丸めた!?

丸めた地図の先を先生の位置から私たちの頭の上に差し出した!?

高い位置からそのまま降ろす!

頭が痛かった!

一言もしゃべっていないのに!

なぜ?

私まで!?


先生は私が憎いの!?

地図を忘れた夏子に地図まで見せ…重い地図を頭に落とされて…




いい先生だと思っていたのに…

四年生で人間不信…

悲しかった!


悔しかった!

夏子にはまだまだ数え切れないほどの腹立つこと言われた…された…がこのことも一生忘れられない…(怒)
なぜ自分の周りには大人も子供もロクデナシばかり?


つづく。

No.19 15/05/21 21:25
ヒマ人 

幼い頃、母が最初に歌ってくれた歌がある。

「お山の杉の子♪」

決して上手とは言えないが日当たりの良い
部屋で縫い物をしながら歌ってくれた。

私はそんな母の姿をうつ伏せになって
ほおづえついて見ていた。

「むかしむかしのそのむかし~♪
しいの木ばやしのすぐそばに♪
小さなお山があったとさあったとさ~♪」

楽しい時間だった。
うっすらとしか覚えていないけど
その時、母がとても若く優しく見えた。



つづく。

No.20 15/05/21 21:28
ヒマ人 

「お山の杉の子」


調べてみたら戦前に作られた歌で戦後、時代に合った歌詞に
なおされて愛された童謡らしい。

吉田テフ子   作詞
サトウハチロー    補作
佐々木すぐる  作曲

「1.
昔々の その昔
椎(しい)の木林(ばやし)の すぐそばに
小さなお山が あったとさ あったとさ
丸々坊主の 禿山(はげやま)は
いつでもみんなの 笑いもの
「これこれ杉の子 起きなさい」
お日さま にこにこ 声かけた 声かけた

2.
一(ひい)二(ふう)三(みい)四(よう)五(いい)六(むう)七(なあ)
八日(ようか)九日(ここのか)十日(とおか)たち
にょっきり芽が出る 山の上 山の上
小さな杉の子顔出して
「はいはいお陽(ひ)さま 今日は」
これを眺(なが)めた椎の木は
あっははのあっははと 大笑い 大笑い

3.
「こんなチビ助 何になる」
びっくり仰天(ぎょうてん) 杉の子は
思わずお首を ひっこめた ひっこめた
ひっこめながらも 考えた
「何の負けるか いまにみろ」
大きくなって 皆のため
お役に立って みせまする みせまする

4.
ラジオ体操 ほがらかに
子供は元気に 伸びてゆく
昔々の 禿山は 禿山は
今では立派な 杉山だ
誰でも感心するような
強く 大きく 逞(たくま)しく
椎の木見下ろす 大杉だ 大杉だ

5.
大きな杉は 何になる
お舟の帆柱(ほばしら) 梯子段(はしごだん)
とんとん大工さん たてる家(うち) たてる家
本箱 お机 下駄 足駄(あしだ)
おいしいお弁当 食べる箸(はし)
鉛筆 筆入(ふでいれ) そのほかに
たのしや まだまだ 役に立つ 役に立つ

6.
さあさ 負けるな 杉の木に
すくすく伸びろよ みな伸びろ
スポーツ忘れず 頑張(がんば)って 頑張って
すべてに立派な 人となり
正しい生活 ひとすじに
明るい楽しい このお国
わが日本を 作りましょう 作りましょう」


以上ネットより。


こんなすごい歌だったんだとのちのちに調べた時思った。

この歌はとても長いので最後までは歌わなかったが
たぶん、母は全部までは知らなかったんだと思う。笑

多分冬の暖かい室内での母と私の大切なひとときだった。


つづく。

No.21 15/05/21 21:47
ヒマ人 

「お山の杉の子」、、この歌の中の歌詞の部分で
幼い自分が勘違いしていたことに小学校に行くように
なってから気づいた!

「お日さま にこにこ 声かけた 声かけた」
という部分⇒「声かけた」
田舎では「ぽっとん便所」のくみ取りがあり
そのくみ取りのこと、、いわゆる「ウンチ」を
「こえ」と言っていた。
ウンチを入れる木桶を「こえタンゴ」と言っていた。

おひさまが杉の子に こえかけた!?大笑。
ま、理屈では合っているが・・笑。

勘違いしていたことが自分でおかしくかった。

しかし、
一番「お日さま」と二番「お陽さま」の「おひさま」の漢字が
違うのは?なぜ?笑。



つづく。

No.22 15/05/21 22:59
ヒマ人 

物心つく頃にはすでに祖父のことを憎んでいた私。

父は親戚の養子になって母と結婚した。
父の実家には独身の弟や妹がたくさんいて大家族だった。
私の家は駅前。父の実家は一番賑やかな町中にあり、
徒歩10分の距離。

両親は兼業農家している実家に手伝いに行き早朝から暗くなるまで
働いていたので幼い頃からいつも祖父の家で遊んでいた。

夜遅くまで両親が帰ってこないので帰って来た時には私は眠っていたらしい。

目が覚めたら翌朝になっている。

そんな日が続いたある夜、



体がどうも変な感じがしてフト目を覚ましたら!






つづく。


No.23 15/05/21 23:02
ヒマ人 

布団の中に父の弟が寝ていた!



伯父は何歳だったのだろうか?


もう中学校だったかも?


今でいう年頃の男の子。






不思議な感じだった?


なぜ、?おじちゃんがいるの?


なぜ、?おじちゃんと寝ているの?






つづく。

No.24 15/05/21 23:11
ヒマ人 

モゾモゾしている感じがして目が覚めたのはおじちゃんのせいだった!






おじちゃんが私の体にイタズラしていた!






まだまだ幼い私には何事かわけがわからなかったが、
何かイケナイことをされている!

それはわかった。






下着がぬがされていた!




つづく。


No.25 15/05/21 23:14
ヒマ人 

同じ部屋のすぐ隣には祖父と祖母がひとつの布団に寝ていたし


まだ別の伯母たちも寝ていたと思う?






あとになって考えると、大人たちは年頃の男と幼い女の子を一緒に寝せる?

何があるか理解しているはず!


理解した上でわざわざ寝かせていたのか?
孫よりもわが息子のことが大事だから性欲のハケ口にされた!?


それとも、昔のことだから男だといってもまだまだ子供だから、、、と?




どう説明していいのやら・・



どう理解していいのやら・・











幼いうちからこんなことを経験しなければいけない!?


今で言う「性的虐待」ってヤツだ・・・(怒)

その夜だけではなかったと思う。


毎晩、毎晩寝ている幼い姪にイタズラしていたハズ。



たまたまその夜だけ目が覚めた私・・





もう誰も信じられない!



二度と泊まることはなかった。




性欲のハケ口にしているのがバラたのでバツが悪かったのか?

元々、伯父は気弱な性格だったから余計にバツが悪かったのだろう。


つづく。

No.26 15/05/21 23:17
ヒマ人 

それから先、伯父は結婚して
しっかり者のお嫁さんのおかげで商売を始めてからは商売繁盛していた。

娘三人産まれ、それぞれ娘も結婚して孫も何人かできて
伯父は幸せな人生だったと思う。

一生立ち直れない姪に性的虐待をした者が幸せになって、
被害者が一生悲しい事実を忘れることができないなんて・・


お互いに年を重ねても叔父の態度が明らかに
コソコソした感じで言葉も少なくあまり会話もなかった。

もうすでに亡くなったが、
伯父は心の中で済まなかったと謝っていただろうか?

若い頃は、いつかはあの夜のことを聞いてやろうと思っていたが
結局、言い出せないまま・・


今では知るよしもない。

他人にはおろか、身内にまでイヤなことをされて・・・








本当に私の人生って何なんだ!


何のために生まれてきたのだろうか?




追記

他人ならまだしも、伯父に性的虐待された事実は今まで誰にも言えず
自分も墓場まで持っていこうと思っていたが
この日記に記することができて本当にありがたく思う。

今でも性的虐待は家族間でも多いと聞く。



私のようにいくら年をとっても・・イヤイヤ、年を重ねるごとに
その重さが・・重圧がヒシヒシとのしかかってきているのも事実。

私のような女性が一人でも減るように祈るばかり。

世の男性にも言いたい!
たった一瞬の欲望を抑えることもできない男は
動物以下!


つづく。



No.27 15/05/21 23:46
ヒマ人 

ー遠足の写真ー

「(正解)なった順」の先生が遠足の時、ゴム飛びで飛んだ瞬間を
カメラで撮ってくれていたことがある。

遠足が終わりしばらくしたある放課後、先生が私の所に来て
「いい物あげる。ほら。」と・・

小学生なのに誰かのお下がりのセーラ服の上だけと黒いズボンをはいた
私がゴムを飛んだ瞬間が写っていた!

ギャァー-、、変なの!
恥ずかしかった!
右足は上に左足は下にして飛んでいる!

その頃はほとんど写真など撮ってもらうことはなかったし、
葬式や結婚式でみんな一斉に撮ることはあっても個人的には
ほとんどなかったし、

恥ずかしいけど、少しは嬉しかった。

いい先生だと思っていたのにあの地図事件からイヤだと思い始めていた頃だった。



つづく。

No.28 15/05/22 00:07
ヒマ人 

ー家庭訪問ー

五年生の家庭訪問の時のこと。
四年生から同じ先生だからもう二度目の家庭訪問になるので
母は仕事に行ってしまった。
代わりに父が家で待っていてくれた。

私の家が一番目?
次が夏子の家。

学校から急いで帰った。

母が前もってお茶菓子やお茶の準備をしてくれていた。

先生が来てからお湯をわかしてお茶を淹れて先生に出すのが私の役目。

はぁ・・イヤだな。

ソワソワして待っている時間の長いこと・・

「ごめん下さい」

来たっ!

父が上がるように勧めたがここで結構ですよ、と板の間に腰かけた。


二回目なので先生も父と茶飲み話のようにしゃべっている。

来客用のお盆の上に茶托と湯呑み茶碗と
よほどの時でないと食べられない和菓子が
乗せてあったので
お茶を淹れて先生の前におそるおそる差し出した。

先生は「ありがとう」と言った。

お茶だけ飲んだ・・・




私の顔を見ながら父に「〇〇さんはもう何も言うことありませんから。」
と・・・?


また父と何やらしゃべっていて立ち上がった。


母がお茶菓子は洋半紙に包んで先生に持たせてあげるようにと
言ってたので包もうとしたら
「あ、それは〇〇さんにあげるからどうぞ。」と言った。


見送るために玄関を開けたら夏子が木の影から様子を伺っていた。

先生が出て来たのを見るとあわてて家に駈け出して行った。

笑。




翌朝、始まる前に教室で先生が言った。

「昨日はとてもおりこうさんが一人いました。

お母さんの代わりにキチンと挨拶してくれて
お茶まで淹れてくれたありこうさんがいましたよ。
立派ですね。
みなさんもコソコソしないで見習って下さい」

こんな感じで言ったと記憶している。
「コソコソしないで・・」と言ったのは夏子のことだ・・

笑。


イヤな先生なのかいい先生なのか理解に苦しんだ。

それにしても、同じ先生が二回も家庭訪問に来るなんて。
イヤイヤ、二回どころか三回も来ることになろうとはその時は
夢にも思わなかった・・


つづく。



No.29 15/05/22 00:31
ヒマ人 

ー町でひとつだけの書店ー

父が養子に行ったのは町でひとつだけの書店の伯母の実家。

私は幼い頃からこの伯母がたまーに絵本をプレゼントしてくれるのが
嬉しかった。

数冊の絵本を汚さず破かず大切に大事に暇さえあれば見ていた。




つづく。

No.30 15/05/22 13:43
ヒマ人 

父の親戚関係での書店の伯母は子供の私から見たら何かが違っていたのがわかった。

何か?

ひとことで言うなら、上品…だった。楚々としていて高学歴だったらしい。やっぱりね。
いつも着物姿で、夏は涼しげな麻のさっぱりした姿が特に印象に残っている。顔も色白で美人だった。町で一軒だけの書店に嫁げたことが理解できた。

店に入ればいつも店番していて…店の奥にある自宅に誘ってくれ冷たい飲み物でもてなしてくれた。

伯母の実家に住む人がいなくなった時、両親に仏壇や墓守りを依頼した。
特に母は先祖の墓参りは毎日欠かさなかった。

うちにたまに顔を見せた時は台所で手伝いしてくれ…色々教えてくれた。

つづく。

No.31 15/05/22 17:38
ヒマ人 

~町でひとつだけの書店~つづき。

伯母が両親にご先祖の仏壇や墓守りを依頼しているため、
良くお参りに来ていた。

台所にも気軽に立ち食事の支度を一緒にしたりした。

ふたつ記憶していることがある。

極々、普通のことだけどまだ幼かったので
妙に納得したこと。

ひとつ目は魚を調理した後の包丁の洗い方。

水を出しながら洗剤で包丁を洗う。
その洗い方は流れる水に対して包丁を縦にして
刃先へと水が流れるようにして洗う。



ふたつ目は


洗濯洗剤は神経質に落とす必要はないが
食器用洗剤は良く落とすこと。


あらぁ、それって当たり前のことじゃん!?
そうなんだけど、、
幼い子供だから、いいことを教えてもらったって
嬉しいもの。


自分の周りの大人たちから適切なアドバイスや
世の中の当たり前をキチンと教えてくれる者など
皆無だったから、
書店の伯母のこと、尊敬していた。



そうそう、私の名前、、書店の伯父がつけてくれたと
物心ついた時に母が教えてくれた。
〇〇子。、、イヤだ!嫌い!


私は母に怒ったことがある。

なぜ、世界に一人だけの自分の娘の名前なのに、
一生、一緒にその名前を背負って生きるのに、
なぜ?
なぜ、いくら親戚だとはいえ、
おかしいよ!って。

でも、母も名前は考えていた。父と相談して。
〇〇子。・・これがいい!これが好き!はぁ。
この名前ならまた全く違う人生だったかも!?
(んなこたぁないよ・・ってか!?)


多分、母から見たら自分の大事な娘の一生を自分が
つけるよりも、一流の人間?に考えてもらったほうが
娘は幸せになるんじゃないか、と考えたのかも。


イヤイヤ、そうじゃないでしょ!?

はぁ、、しかも、私はこの名前は大嫌いだった!

自分の名前を理解した時から、ずっとそして今も大嫌い!

出来ることなら名前を替えたいよー。
でも、今さら仕方ない。
遅過ぎる・・・。


つづく。


No.32 15/05/22 17:51
ヒマ人 

~シワシワネーム&キラキラネーム~

昭和の時代はほとんどの女子が「〇〇子」と「子」がつく名前だった。

20年前からキラキラネームなるものが流行して
漢字を見ても読めない!理解できない!
何でもアリが氾濫した。
それでも、役所では通った。

誰かが「キラキラネーム」と名付けた。

「子」がつく名前は「シワシワネーム」と誰かが名付けた。

歴史は繰り返す・・

また「子」がつく名前が盛り返してきている?

昔人間の私も当然「〇〇子」がつく。

お産で「もう二度としない!」と叫んだ同級生が
私と同じ名前をその時生まれた娘につけた・・
ビックリしたけど。

数年後には、「〇〇子」が時代の波にのって
もてはやされるのかな。

歴史は繰り返す。

名前も繰り返す。


つづく。






No.33 15/05/22 18:13
ヒマ人 

~兄の学生服~

両親が苦労して働き生活を支えてくれていた。
貧乏していても明るく楽しい朗らかな家族だった。

ある日、
兄が中学校に上がるのに学生服を買って来た。

しかし、兄は不満らしくイヤがった?
なぜか?全く記憶にないのだが・・
学生服は決まっているし、
気に入らないとかとは違うような気もするが?


気に入らない態度を示した兄に対して
母が怒った!初めて!今まで見たことない母。

そばでずっと一部始終を見守っていた私はオロオロした・・

どうしていいか?
どっちに何て言ってやればいいのか?

オロオロして、
まるで、自分が起こられているような錯覚で
泣きそうだったのを覚えている。

最後は母が兄に出て行け!とか何とか言ったような?

兄は玄関を出た・・・



つづく。

  • << 35 すみません・・ パソコンや携帯で入力するのに 変換ミスが多くなり目立ってしまって・・ 内容確認はしているのですが・・ 読みにくいと思いますがごめんなさい。 日々、昔の記憶を思い起こしていて 思い出した事を書いていくので 生きてきた順番が違ってしまいます。 幼児から急に大人になったりするかも?笑。 これから高校生、青春時代と続いて行きます。 よろしかったらお暇なときにご覧下さいませ。 以上。

No.34 15/05/22 18:16
ヒマ人 

~兄の学生服~つづき。

私はオロオロ・・・あっちへ行きこっちへ行き・・

内側からじっと見守っていたら

狭い道路の向こう側に外灯の下に行った・・

細い外灯の柱なのに、見えているのに、

兄は隠れたつもりだったのだろうけど、

半分は見えているし・・

兄の方が心配で母の顔は見ていなかったので
母はその時、どんな顔をしていたのか?
多分、懸命に働いて買って来た服を
気に入らないからと駄々をこねた息子を
許せなかったのだろう。

多分、高い学生服の方が良かったと言ったのか?
貧乏だから安い学生服を買ってきた?

今では知る由もないが。


外灯の柱の影で一時間以上じっと立ったままの兄・・
どれくらいの時間が過ぎたのか?

辺りは暗くなっていた。

私は意を決してそっと玄関の戸を開けて
兄の方へそぉっと近づいた。

兄は立ったまま、うつむいていた。

私は兄の顔を下からのぞくように見た。


兄は泣いていた。

兄の涙はその時一回限りだったが、
兄が泣いたのを初めてみたのでビックリした。

あのガキ大将の兄が泣いている!

悲しかった・・
淋しかった・・


私は夢中で叫んだ!

「兄ちゃん!母ちゃんに謝ってお願い!謝って!」
(と、いうような意味の言葉を叫んだと思う)
言いながら兄の服を引っ張っていた!これは覚えている。


しばらくしたら兄は少しづつ歩き出して家に入って、、
それ以降は全く記憶にないのだけど、、。

兄もキッカケが欲しかったのだ、きっと。
いつまでも立っているわけにもいかないし。
妹が呼びに来てくれて良かったんだね、兄ちゃん!


母にごめんなさいと謝ったのか?

そのあとは全く覚えていない。

ただただ外灯の柱に立っている兄の姿だけ印象深い。

貧乏ってイヤだね。


つづく。


No.35 15/05/22 18:37
ヒマ人 

>> 33 ~兄の学生服~ 両親が苦労して働き生活を支えてくれていた。 貧乏していても明るく楽しい朗らかな家族だった。 ある日、 兄が中… すみません・・

パソコンや携帯で入力するのに
変換ミスが多くなり目立ってしまって・・
内容確認はしているのですが・・
読みにくいと思いますがごめんなさい。

日々、昔の記憶を思い起こしていて
思い出した事を書いていくので
生きてきた順番が違ってしまいます。

幼児から急に大人になったりするかも?笑。

これから高校生、青春時代と続いて行きます。

よろしかったらお暇なときにご覧下さいませ。

以上。

No.36 15/05/22 19:34
ヒマ人 

~自宅の周囲のゴウツクジジイたち~

駅前にあった自宅は庭や小さな林に囲まれていた。
だが周囲も家があり囲まれている形だった。

元々は武家の出という家だったらしいが
何代目かが散財してしまって家と狭い田んぼと
少しの畑だけしか残っていなかった。

そんな家に養子に行った父・・可哀相に。

周囲のジジイたちが本当にゴウツクばかり。
田舎で昔人間だからみなそれぞれ自分の欲ばかりに
なるのだろう。

私が物心ついた時には庭や畑が広大だった。
が、年をとるにつれて狭くなった。
子供だから広く感じる?違う違う!

周囲のゴウグクジジィたちがスコップやクワで日々せっせと
自分の陣地を増やしていたから・・。

昔の市町村の測量なんていい加減なものだった。

左隣は昔から市役所職員、、何とでもなった時代。
ここのオバサンはすごかった!何がすごいって?
オバサンのことはのちのちに書くつもりだが、今は置いといて。

小学校低学年?の頃。
ある日、父に隣のオジサンが話しを持ちかけて来た。

要するにうちと隣の境界線は駅前道路に対して
斜めになっているので測量して道路に対して
まっすぐにしよう、と。

父は優し過ぎるので、というより弱い人間?だから
オーケーした。
何しろ、市役所職員だから・・バカか。

ここで市役所職員のことを少し。
昔の市町村の職員は魅力ない職業だった。

みんながこぞって会社に就職希望だったため
市町村の職員が求職に来ず・・

学校の成績が後ろの人たちがどこも行くところがなくて
仕方なく職員になっていた。今でいう地方公務員。

(この偏見の目で見た物の言い方で激怒する方もおられると
思うが昔は市民町民が皆が言っていたこと。)

翌日は市の職員数人が測量に来た!早っ!


私もどうなるのだろうとハラハラしながら見守っていた。

どれくらいの日数がかかったのか?
どんな測量の仕方をしたのか?

駅前道路から見てまっすぐにしたハズの境界線は・・







なんと今までと同じ斜めになっていて、、
違っていたのはうちの畑の半分近くが隣の敷地になっていた!!


怒!



こんなバカなことがまかり通っていた昔・・

父も母も何も言えず、、。

うちの畑だった場所には隣の立派な大きな物置小屋が立った!


つづく。


No.37 15/05/22 20:50
ヒマ人 

~自宅の周囲のゴウツクジジィたち~つづき

次は右隣のゴウツクジジィのこと。

隣接する畑には昔から栗を植えてあった。
うちの庭が一m程低く栗山が高かった。

うちの境界線ギリギリまで栗の木を植えてあったため
秋になると栗の実がゴロゴロうちの庭にまで落ちてくる。

するとゴウツクジジィは早朝から暗くなってもうちの庭まで
降りて来て栗の実を拾っていた。

台風の日などは大変!
バラバラバラバラと音を立てて栗の実やイガグリが落ちて
大変なことになってしまう!

雨合羽を着てゴウツクジジィがほとんど一日中待ち構えて
拾っている。

挨拶なし!

ま、いいけど。両親も呆れていたから。
見て見ぬふりしていた。

あれ以来、栗を見るたびにあのゴウツクジジィを思い出す。
いつの間にか死んでいたけど。それでもだいぶ長生き
したという。

嫌われ者世にハバカル?

一m高い段差の隣の栗山の道路側に営林署の官舎があった。


次々に転勤で出入りがあった。
しかし、のちにこの官舎の立っている土地は古くから医院をしている
よりゴウツクジジィが「俺の物だ!」とゴウツクジジィ同志、争いになっていた。
後半はうちまでトバッチリがきて測量などもされたり踏んだり蹴ったりだった
らしい。

それほどまでして土地って欲しいのかなぁ?
都会ならまだしも、田舎の二束三文の値段の土地なんて・・

このゴウツクジジィ、、うちの家族がいない時にコッソリうちの庭に下りて来て
スコップやクワでうちの山の土をゴッソリ取って自分の小高い栗山の境界線に
日々盛り付けて自分の土地を広くしていた。

私は幼いながらも、ジッっと見ていたから。
悪いことをしていると理解した。

それを仕事から帰った両親に告げたが
それだからと言って両親はどうするということもなかった。



つづく。


No.38 15/05/22 21:07
ヒマ人 

~営林署の官舎~


小高い位置に立っていた営林署の官舎。

何軒も住人が変わっていたが、
同じ位の年頃の女の子姉妹がいる家族が引っ越して来た。

数年暮らしてから移動になったらしい。

早朝から遅くまで仕事に行っていた母が私に手渡した物、、
それはお餞別と書いてあった。

お餞別という意味も知らなった子供の私、、
これをどうするのか聞いたら
「途中で子供さん達にお菓子でも買ってあげて下さい、と言ってね。
よろしく言ってね。」と。

意味わからん!?

母はオバサンに渡すように言ったのに、私は勘違いして
家を出たところにそこの女の子が歩いて来たので
ちょうどよかった~と思った私・・

母から言われた通り伝えた。

それ以後もそこの親からのお礼はなかった!
ハガキが来なかったということは女の子が親に
渡さずに遣ったってこと。

結局、その女の子は私が言った通りにお菓子を買ったのだと思う。

親にも言わず・・。


私はその女の子のことよりも、母に対して申し訳ないとずっとずっと思っていた。そのことは一切会話に出てこなかったので多分、母もとうの昔に
忘れていたのかも?。



大事なお金を無駄にしてしまって。

両親が懸命に働いたお金を無駄金にしてしまったことずっと後悔している。

でも、母も数分でいいのだから母が直接持って行って手渡したら良かったのに。
子供に渡すなんて・・・今さら遅すぎるけど、、。



思い出すたび胸が痛い。


ごめんなさい。



つづく。



No.39 15/05/22 21:53
ヒマ人 

~自宅の周囲のゴウツクジジィたち~つづき

次は駅前道路を超えた先にあるゴウツクジジィのこと。

養子に来た父の義父が駅前道路に出るための道がない向かいの
ゴウツクジジィの家族のためにわざわざ自分の土地を削って
その家族だけのために幅一mほどの道を作って差し出したという。

なんということを!
なぜに!?
どういう訳があったのか!?

今では知るすべもない・(コレバッカ!)


父から聞いた話なんだけど、
義父が亡くなって直後に
そこのゴウツクジジィは頂いた一mの幅の道を!

何と半分を畑にして野菜を植えはじめたって!

何ということを!



恩に着るどころかガメツイ奴ら!


大人って!
大人って!


人を憎んで罪を憎まず!

根性が腐ってしまっている田舎者たち。


怒。


これが子供の頃のこと。

子供時代からこんなことが日常茶飯事で人間嫌いになるわけだ。



つづく。


No.40 15/05/22 22:17
ヒマ人 

~自宅の周囲のゴウツクジジィたち~つづき

お次は家の後ろのゴウツクジジィのこと。

その家は駅に行くのにグルーっと遠回りしないといけない位置だった。
そこで、ゴウツクジジィ、、相談に来た。
うちとそこの家の間にある小さい山、と言っても竹藪だけど、
竹藪の真ん中で境界線が引いてあったと。
境界線にはお互いが作った竹で柵をしてあった。

その竹藪を崩して通してもらえないだろうか?と!

優しい両親のこと、オーケーしたそうだ。

以来、そこの家の家族全員やそのまた先の家の家族までゾロゾロと
時間を問わず通るようになった!


グルッっと大回りするのと、うちの庭でショートカットして行くのとは大違い!
うちはすぐ目の前が駅だったから。




庭は通行人だらけになってしまった!

昔のことだから、家の窓や障子やドアなどは日中開けっ放しだし、
部屋で座って食事していても、庭を人が通る!


しまいには知らない人まで通るようになっていた。






嫌だ!イヤダ!こんなの!

私は幼いながらも、プライバシーのない現状に納得がいかず
両親にいつも文句を言った。

両親の本心はどんなだったのか?

それももう今では知るすべもない。(またこれかぃ!)



あと昔のことだから、栄養不足などの影響で赤ちゃんが生まれても
お乳が出ない母親が多かったらしい。

その家のオバサンも私と同じ年の子供がいたが、その子も赤ちゃんの時は
母のお乳を飲ませていたらしい・・
何人かお乳を飲ませて下さいとしょっちゅう来ていたと。

ふぅ、、今、そんなことを考えたら頭痛がしそうだ。


つづく。

No.41 15/05/22 22:20
ヒマ人 

~自宅の周囲のゴウツクジジィたち~つづき


本題に戻すと、
結局、その家のゴウツクジジィ、、これもやっぱり両親が留守の間に竹藪の境界線の柵を少しづつ少しづつ、うちの方に攻めてきて
気づいた時にはうちの方の竹藪はほとんどない位、攻めてきていた。


何という!

ゴウツクジジィめっ!


四方八方から土地をジワジワと攻めて来られて
広かった土地が半分になってしまっていた!


昔は広い畑にブドウなどの果物や野菜がいっぱい作られていたのに
畑もなくなっている状態になった。




さすがに優しい・・・・・・というより弱い父も怒り心頭!
もう通さない!と2mほどの山を削った道を閉鎖してしまった。


そのあと、また開いて通したかなぁ?
違ったかなぁ?
記憶にないや。



人の情けを何とも思わない人間たちには


目には目を!

歯には歯を!




情けない・・

憎む・・人を・・




つづく。


No.42 15/05/23 20:44
ヒマ人 

~左隣のオバサン~

オジサンが市役所勤務でその奥さん、
つまり隣のオバサン・・

物心ついた頃から感じていたこと、身なりが汚くて
小太りでいつも汚れた着物をいつも着ていた記憶しかない。

家族はオジサン、オバサン、長男、長女、次女の五人家族。

夕方になるとしょっちゅう、手ぶらでうちに来て
「醤油を貸して」
「味噌を貸して」
「砂糖を貸して」

と借りに来る・・


なぜなら、市役所職員は薄給だったから、、。

貸してと借りに来るのに手ぶらなのでうちの入れ物、皿、丼などの
器に入れて貸していた。

と、いうより、差し上げていた。

なぜかというと、二度と器も戻ってこないから・・。

隣家に行くと汚い台所の棚にはうちの器がいっぱい重ねて
置いてあった!




つづく。

No.43 15/05/23 20:59
ヒマ人 

~左隣のオバサン~つづき



ひどい!
食料品、調味料など借りに来て一回も返さない上に
器まで返さず自分の物にしてしまうオバサン・・

そういうことをした上で土地まで占領してしまう・・


目がギョロっとしていて人の顔を覗き込み、いかにも何かを知りたいと
いつもアンテナを張り巡らしているようなそんなオバサンだった。


オジサンが薄給なので?オバサンは着物を縫って仕上げる内職ををしていた。

うちもそうだったので人のこと言えないけど、
三人兄妹はいつもボロボロで汚れた服を着ていた。

うちは水前寺清子の歌じゃないが
「ボロは着てても」・・・母がキチンと洗濯してくれていたので
身なりはキチンとしていた。

うちも貧乏していたが母を中心に家族四人が楽しく
暮らしていたという自負があった。

私は兄のことを「兄ちゃん」と呼んでいたが、
隣家の二人の女の子は
自分の兄のことを「あんちゃん」と呼んでいたようだった。

が、いつしか、うちの真似して「兄ちゃん」と言うように
なっていた。

オバサンも母のことを過剰に意識して敵対心を燃やしていた。

父が亡くなったあと、隣家のその隣のオバサンがうちに来て
言ってたことがある、、
それは隣のオバサンは父に借金をしていたと・・!?
母はそれを知らずにビックルしていた!
なぜ、そんなことを!?

嘘が本当か?

今では知る由もない。(またかよー)


つづく。


No.44 15/05/23 21:00
ヒマ人 

~左隣のオバサン~つづき

ある日の夜、母に依頼されて何かを取りに
行こうと、裏口のトビラを開けたら!

隣家のオバサンが!


トビラの裏に耳をダンボ?にして盗み聞きしているオバサンがいた!

私はビックリしたので大声で「ワァー、びっくりしたぁ!!」

オバサンは何事もなかったようにスゥーっと帰って行った!


うちの家族の会話が非常に気になるようだった・・


ずっと遠い家のオバサンならまだしも、すぐ隣のオバサン!

毎日毎日、うちにお茶飲みに来て何時間も居座り続ける。

内容は人の悪口オンパレード、、
近所の誰はどうした!
誰さんはどこに行った!
どうでもいいこと!
もうっ!


昼ご飯になっても帰らず、結局、人のいい母はオバサンにも
ご飯を用意する。

はぁ、、、幼い子供だったけどそれでもイヤだった!

家族だけでご飯を食べたいよぉー!
母にいつも泣きついて小言を言い困らせていた。


なぜ自分の周りの大人ってこんなロクデナシばっかなんだ!?






夏子の母親が言うように私って

「可愛げのない子」だったんだ。



つづく。



No.45 15/05/23 21:09
ヒマ人 

~左隣のオバサン~つづき


この隣家のオバサンのことは私が大人になり

結婚することになった時も
母のたっての希望で
仲人に!


いわゆる「頼まれ仲人」・・


一生許せないことをしでかしてくれた!






・・

このオバサンの腹黒い「願い通り」になったという事実・・




この話はずっとあとになってから書き記す予定。




つづく。


No.46 15/05/23 21:37
ヒマ人 

~母の実家~


母の実家のある町で一年の行事がある時や
お正月、お盆などいつも母と兄と私とで行った。

私は一番嬉しい日だった。
行くのが楽しみだった。

父は仕事のことが多くほとんど家族みんなで行ったと
いう記憶がない。

夏になると優しい祖父が大勢来る孫たちのために
丹精こめて作った西瓜を井戸で冷やして
縁側で切ってくれた。
それで西瓜好きになったのかも?笑。

祖母は私が生まれてすぐの頃亡くなっていたので
顔を見たことがない。仏壇の上の写真だけだった。
会いたかった、優しい祖母・・に。

母の実家は五番目の子供、いわゆる母の弟が継いでいた。

この叔父さんは物静かだったが落ち着いていて
頼りがいのある人だった。


私が生まれる前のこと、

母が実家に帰ると、
嫁ぎ先で置かれている環境を知り心配して
母が帰る時には、生地や糸や着物などを
持たせてくれたらしい。

いっぱい抱えて帰ると一斉に姑、小姑が
寄って来て勝手に風呂敷を広げて
「義姉さん、これちょうだい~」
「義姉さん、もらっていい?」

寄ってたかって取り上げる・・

なんて可哀相な・・母。

「農業などしなくていいから」と
仲人が嘘をついて・・母は嫁に行った。
農業はしなくていい、、?
馬車馬のように早朝から暗くなるまでコキ使われたジャン!

憎っくき祖父!








はぁ、、。


今は亡き母だが、、今でも胸が痛む。



大人って!
大人って!




つづく。




No.47 15/05/23 21:56
ヒマ人 

~母の義実家~

祖父を中心に義実家は回っていた。
いわゆる昔々の頑固ジジィ。

葉タバコも作っていたので夜遅くまで葉を摘んでいた両親。
葉を大量に持ち帰り庭にある乾燥室に入れて並べた?積んだ?
生温かい草の匂いを覚えている。
幼い頃からいつも母のあとをついて回っていた私。
いつも一緒だった。

遅い晩ご飯を食べてから駅前の家に帰る毎日。






祖母や伯母たちが作った夕飯のこと




つづく。



No.48 15/05/23 21:58
ヒマ人 

~母の義実家~


祖母や伯母たちが作った夕飯のこと.






人間として汚い部分を紹介


大人数の家族での夕ご飯。

祖母が自分の息子と娘にすき焼きを皿に入れる時は
皿の下に肉を入れてその上に野菜を乗せる。

二人の息子の嫁に入れる時は
まず野菜を先に入れて一番上にクズ肉を乗せる。

きったない根性の祖母・・

祖父だけではなかった!
汚いのは!

人間腐っている!

人間の風上にもおけない祖父、祖母!

同じ血が流れていることに怒りを覚える!

こんな大人たちばかりの環境で育つ子供が素直で
優しい大人になれるわけがない。

憎しみしかないのだから。



つづく。



No.49 15/05/23 23:12
ヒマ人 

~初めて自動車に乗った日~


お祭りの帰り道「迷子になった事件」の
父の妹の嫁いだ家はみかん農家だった。

昔はみかんが儲かったのかわからないが
自動車がまだ珍しかった頃、
ここの伯父さんはいち早く自動車に乗っていた。

ある日、
県庁所在地にある゙ラス屋に行くことになった。

(財布からわざと一万円札を何十枚も出して
皆なの前で数えるパフォーマンスをした伯父の家)

前後は全く記憶にないけど、
記憶に残っているのは・・

伯父が運転しているすぐ後ろに乗っていた私。

伯父の操作に関心があり、むしろ座らずに
立ったままジィーっと伯父の運転さばきを見ていた。

伯父が両手でハンドルを持っているとまっすぐ道を走る?。

左に回すと左方向に行く?。

ここまでは理解できた。

が、

理解できなかったことは、、



どうやったら止まる?



両手で走るものとばかり思っていたから、


まさか、

両足を使っていたとは!
足まで使っていたとは!



のちのちに判明したこと!笑。


子供の私にとって不思議なことだった。

ずっとずっと疑問が残っていた。笑。




生まれて初めて自動車に乗った感動、感激は忘れない。


18歳ですぐに自動車免許を取得したのもこの時の感動があったから!




追記


普通免許どころか、
普通二種免許、
大型免許、
けん引免許、
などなど

ありとあらゆる免許を取得することになったのも、
あの伯父があの日あの時運転してくれたお蔭かな?笑。

この他も色々な国家資格を取得した。









つづく。



No.50 15/05/24 09:21
ヒマ人 

~義妹のみかん農家~

母にとったら義妹、いわゆる小姑。
私にとったらただの嫌いなオバサン。
物の言い方がネチネチしたしゃべり方がイヤだった。
伯母もまた私のことを可愛げのない姪と思っただろうけど。

秋になるとみかんが色づき一気に収穫作業になる。

母は勿論、自分の仕事は休んで手伝い、
いわゆるただ働きに毎年行った。

私も幼い頃から母に連れられて行った。
本当は幼稚園に行く方がどんなにいいか?
お遊戯は嫌いだけど・・笑。
幼稚園を休ませても連れて行く?

ディーゼルカーに乗って駅に着いてからが遠い道のり。
昔は舗装道路などされていないので
道路はデコボコ石ころゴロゴロ。
小さい足で母に手を引かれて歩いた。

疲れてもおんぶしてくれなかった?
なぜなら、母の背中には大きな背負いカゴが。

暗くなるまでみかん山から帰れず、
伯母の家に帰ってもそれから選別作業を
モクモクとするのでディーゼルカーの最終便に乗って
帰っていたようだ。
最終便と言っても昔のことだから時間的には
早かったのだろうけど。


つづく。

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