生きて来た道

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2015/10/26 13:37(更新日時)

老婆の長い人生を歩んで来た足跡を刻む日記です。

むかーし、ある片田舎で一人の赤ちゃんが産声を上げた。
赤ちゃんは右足太ももの外側がプクッとふくれていた。
近所のヤブ医者で切ってもらったらしい・・
物心ついた時には傷痕があり学校の体操服を着ると
ギリギリの所で見えていた。イヤでイヤでたまらなかった。
祖父は戦争で息子の一人を亡くして国から支給される
お金で自分だけぜいたくしていたようだ。

両親は朝から晩まで馬車馬のようにコキつかわれて
いた。後ろ姿を見て育った私は祖父が憎くかった。
子供心ながら孫もわけへだてしているのが理解できた。
兄が一人の四人暮らし。
貧乏生活だったが両親は優しく家族は何の問題もなかったが
回りの大人たちが悪すぎて、小さい頃から一歩下がって
人を観察する子供になっていた。そのために友達の母親からは
「可愛げがない」と言われたことがあり今でも忘れられない。

いま思えばきっと姑小姑たちにいじめられている母親を見て
いて、自分が早く大人になって親孝行してあげなければ、という
思いが強すぎて子供なのに大人びて見えたのかも。

つづく。






15/06/06 08:57 追記
~三歳年下のよっちゃんへ~
あの日あの時は本当にごめんなさい。
あからずっと・・今でも・・
そしてこれからも死ぬまで
よっちゃんに対してやった罪を
懺悔しながら生きていきます。
許して下さいとは言いません。

よっちゃんが今を生きているならば
ただただ幸せでいてほしいと
願うばかりです。


No.2215642 (スレ作成日時)

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No.101

~初めての故郷へ~

就職してわずか半年であれほど離れたかった故郷へ帰った私。

みんな留守・・
喜んで帰ったのに誰もいない・・

シュチエーション的には両親と兄、みんなが揃ってくれていて

「ただいまぁ~」

「お帰り~っ」



だったのに・・汗。

ガッカリ。



中学校二年生から大好きだったスカフェインスタントコーヒーを
飲んでいると、、

(ネスカフェインスタントコーヒーが販売されて以来、
この世にこんな美味しい飲み物があるのか?と
大喜びした私。
以来、コーヒー中毒。
大人になってからはインスタントではなくなったけど)


帰って来たっ!
兄が・・

兄は私より三年前に卒業して
隣県の母のオジサンの経営する会社に
就職していたが
お盆で帰省していた。

私の顔を見て、兄の顔がほころんだ!

おぉっ~お帰りぃ」



私は即、「母ちゃんは?」と聞いた・・



それがのちのち聞いたことだけど
気に入らなかったらしい・・

「ただいま」も言わず、いきなり母のことを・・

ごめんね、兄ちゃん、あの時は、、笑。





つづく。

No.102

~三歳年下の男の子~


仕事は経理事務、、。

毎日まいにち、数字とにらめっこ。
電卓はないし、
ソロバンをパチパチ・・。

環境に慣れてくるにつれて面白みがなくなっていた。

周りの人たちはとても明るくてダジャレもシャレているし、
(さすが関西人~、笑。)
楽しかったけど・・。

そういえば、物心ついた時から自分でも自覚していた、
飽きっぽい、、笑。

まだ一年も立たないのにすでに経理の仕事に飽きてきていた・・私。

ある日、
広い館内を探検しようと
仕事が終わってから一人で
いつもは
通ったことがなかった場所にも行ってみた。


ドアを開けたままの中が
やけに賑やかだ・・



ん?

ここはどこ?

厨房だった!


政府登録国際観光旅館だから
当然、料理がメインのいわば
花形的職場だ。


午後五時を過ぎていたので
一気に活気づく時間だった。

こんな大きな厨房を初めて見たから
興味がわいてしまい、
ずっと見ていた・・



広い広い厨房の向こう側には
洋食担当の大勢のシェフが真っ白のシェフコート姿。

和食担当の料理人も真っ白の制服?を着て
大忙しの様子。

出来た料理を
「あいよっ、上がったよっ!」
と大声でカウンターに載せると、

こちら側にいる
二人の男女が二台の食品用エレベーターに次々に
載せる・・


「面白そう♪」

好奇心だけは人一倍強かった私の
テレパシーが一瞬光った!



つづく。


No.103

>> 90 ~西郷輝彦コンサート~ 高校入学してすぐの頃、 西郷輝彦が隣接県のある町でコンサート開催と小耳にはさんだ。 その頃は知る情報や… 追記

~これを読み直してみたら
また思い出したことがある・・

このあと十数年後、私の二人の子供が
小学校か中学校になった頃、
ハウンド・ドッグコンサートが同じ体育館で開催されたようだ。

その時にも学生たちは急きょ学校側に反対されて
コンサートを観られなかった!?

まだまだ教育委員会は手ごわい存在だったのだ。

それでも、ハウンド・ドッグの大友康平さんは
ずっとずっとあとになってからだけど
その時、観られなかった学生たちを
無料招待したと聞いたことがあった。

さすが大友康平さん・・えらいねっ。

私もその後、
紆余曲折ありの
波瀾万丈ありので
最後は上京するのだが

長男が西武球場(のちに西武ドームに)での
ハウンド・ドッグコンサートに連れて行ってくれて大感激した。

その後も、新木場でのコンサートにも行ったり
第二の人生、おまけの人生、おつりの人生を
大いに楽しんだ。

このあとも波瀾万丈の人生の連続中・・

No.104

~三歳年下の男の子~つづき


経理を色々教えてくれた人は
専務だったので
その専務に
さっき、見たばかりの厨房のことを
話した。
すると専務は即、オーケーしてくれた。

ということで
いとも簡単に厨房に行けることになった。

(どちらかというと厨房は多忙過ぎてすぐ人が辞めて
しまうらしくて、、ちょうど良い具合に私が希望したから
むしろ会社側としたら、願ってもない申し出だった!)

数日後、私は厨房に入った。

ド田舎から出て来た私がビックリしたのは
見たこともないような料理の数々、、。

幼い頃から母の作る料理を御馳走だと思っていたが
それはあくまでも田舎料理、おふくろの味ってヤツ。

だが、ここはプロが作る懐石料理。

前菜から始まるコース料理。

和食部門と洋食部門に分かれていた。

それともっとビックリしたことは、
高校卒業前に社長がまた訪れて、
就職する者全員を集めて
ある料亭で食事会を開いてくれたのだが、
高校卒業者は私一人だけで、しかも女子。
中学校卒業者が男の子ばかり七人位?
その子たちは調理師希望者で
厨房で働く予定だったらしい。

その時、初顔合わせしたばかりだったし、
その後も同じ館内だったのにほとんど顔を
会わすことはなかったが
厨房に入ったら、
カウンターの向こう側でそれぞれの部門の制服を着て
笑顔で迎えてくれた。

たった一回しか会ったことなかったのに
なぜか懐かしくて弟たちに再会したような
嬉しい気持ちだった。


男の子たちはそれぞれ学校も違ったが
同じ仲間としてお互いに修行を競っていたようだ。

私もなぜもっと早く厨房に
来なかったのだろうと後悔した。


多忙過ぎるけど、
厨房で体を動かすのが楽しくたまらなかった。


つづく。

No.105

~三歳年下の男の子~つづき

やっぱり自分はじっとした仕事より
体を動かす、肉体労働派だと実感する位
楽しくて面白くて毎日が充実していた。

厨房には和食担当部門の最高峰である
板長がいたが、この板長は若い頃は最高に
いい男であったであろうと思うような
顔立ちの整ったオジサンだった、笑。

だけど、私にはどこか気遅れがするような
そんな近寄り難い存在だった。
やっぱり、幼い頃から人を一歩下がって見る
子供だったから仕方がないのかも。

要するに気が合わない・・これだけのこと。
向こうもそう思っていたのだろうね、笑。
板長からしたら尻の青い高校卒業したばかりの
小娘めっ、って感じだったかも。

どっちもどっち、お互い様?かな。


で、
洋食専門の最高峰はコックコートにコック帽を
かぶったシェフ。

このシェフが顔も丸いし体も丸く
でっぷりと太った背の低い人だったが
とても面白くてお皿に料理を盛り付ける時も
鼻歌を歌いながら体で調子良く踊っていたし、
一回も怒った所を見たことがない位
愉快で、顔は外人っぽかった、笑。

どっちかといえば和食担当の方が人数が多くて
35人位。

洋食担当は20人位。

どちらも入社年数や修行歴などで先輩後輩と呼ばれて
上下関係は厳しかったようだ。

多忙な仕事中はピリピリとした緊張感が続いていたが
休憩時間や夜中の勤務終了後はみんなが
打ちとけて笑い声が響いていた。


私もそんな若者たちを見ていて楽しかった。


つづく。

No.106

~三歳年下の男の子~つづき


仕事としてこんなに楽しくておまけにお給料まで
頂けて本当にこの会社にして良かったと感謝した日々。

私が厨房に入ってからしばらくしたら、
電話交換手として一緒に入社したハズの
喜代子が厨房に入って来た!?



同じ寮に暮らしていた喜代子・・
厨房に行ってから生き生きとして楽しそうな
私を見ていて、、羨ましかった、、らしい、笑。

「私も厨房に行きたいっ!」と
同じ電話交換手の従姉に伝えたと。


専務も勿論、オーケーだった。

これで厨房も、より活気づくと思ったようだ。


喜代子は静岡出身でシェフにそっくりで背は低く丸々と
太っていたが根は明るくて朗らかな女の子だった。


歌がうまくてオハコは「松島~のぉ~ずいがんじぃ~♪」と歌う
「斎太郎節」だった、、笑(分からなかったので今、調べた)


仕事が終わった夜中に
若者みんなが厨房のカウンターなどに集合して
遅くまでおしゃべりしたり時間を忘れてはしゃいだ。


つづく。

No.107

~三歳年下の男の子~つづき



そんな青春時代を絵に描いたような楽しい日々が
続いていたが、

ある日から
何だか、田舎が一緒だった若者たち七人が妙に変な風に変化した



厨房のカウンターの外側にある机でちょっとした事務仕事を
している私をジロジロ見るようになったし・・!?



私の顔を見て
ニヤニヤしたり、
意味深な顔をしたり、



なんだよー!?

同郷なので弟同様の子たちだったのに。

ニヤニヤ笑ってんじゃねーよ!怒。

訳わからず、、?



「上がったよ!」

カウンターに人数分の料理を
載せた大きな四角いお盆を置く声がした・・

喜代子はほかの仕事をしていた時だった。

「了解~」

私が返事しながら机から離れ振り向いて
カウンターに行くと、

厨房からみんながジロジロ見ながら
口笛をヒューヒュー吹いているし?

その時、カウンターにお盆を置いた男の子は
「よっちゃん」と呼ばれていた。

同じく入ったばかりの子で
関西のお寿司屋さんの息子で
跡取りする前に修行に来たと。

お寿司屋さんの修行なので勿論、和食。

カウンターまで料理を引き取りに行くと
まだカウンターにいた・・

ん?

幅の狭いカウンターを真ん中にして両側から向き合う形になった。

その時、
また後ろのみんながヒューヒューと口笛を吹く。




なんだろ?


まだ意味が理解できずにいた私。



つづく。


No.108

~I`ll be there♪~

「生きて来た道」、、ちょっとタイム。

今月25日はマイケル・ジャクソンの命日。

We Are The World

Heal the World


追悼の意味で、
この二曲をエンドレスで聴き続けてきた・・私。


本日よりもう一曲追加したのは、、

I`ll be there

ジャクソン5時代、モータウン時代の11歳位のマイケルが歌っている。

そしてそして、
マライヤ・キャリーがマイケルの追悼式典でこの曲を歌った・・

マイケルの声が可愛いし、

いつでも行くよ、
飛んで行ってあげるよ、
呼ぶ声がしたらすぐに行くよ~


両親、母が子供に向かって言ったんだとそう思う。
親の愛情の歌・・。


今夜もエンドレスで聴き続ける、、私。


No.109

~三歳年下の男の子~つづき




幅の狭いカウンターを挟んで私とよっちゃんが向かい合った・・

よっちゃんの後ろ側でヒューヒュー口笛が聞こえる・・



よっちゃんの顔を見た、、

泣きそうな顔で、じぃっと見つめている・・



私は黙ってお盆を取って食品用エレベーターに向かって
引き返した・・


「上がったよ~っ」

その日は最後の料理が終わるまで
カウンターまで運ぶのはなぜか
ずっとよっちゃんだった!




ずっとそんな調子だったので、
最後の料理がカウンターに置かれた時、
私が口を開いた!


私「30分後に外で待っててくれる?」怒。


よっちゃん 「・・ぅんっ・・」


急に言われたよっちゃんは不意をつかれて
ビックリしたようだが、

うなづく時は笑みがこぼれた?ような・・。

夕食時間が18時頃なので
コース料理を作り終えた厨房の人たちは
飛び入りの来客がない限りもう仕事は終えるのだ。

20時頃に終了したのか?時間は忘れたが、
約束した時間は30分後だったかも。



つづく。

No.110

~初めての運転免許取得~



(よっちゃんはひとまず置いといて・・笑)


その数か月前というか
実際は就職してすぐに18歳の誕生日を迎えた私。

父の妹のダンナさんいわば叔父さんに
昔、私が幼い頃、生まれて初めて自動車に
乗せてもらい感動したのは前述に記したが、

あの日から長い長い間、この日が来るのを
どれだけ待ったか!?笑。

高い山頂にあるここは下の町まで
降りるのに大変だった。

徒歩では無理なので
銀行やその他の雑用で行く事務系の人たちに毎日
乗せてもらって下の町にある自動車学校に入校した。

当時は自動車学校に通う人は男性がほとんどだった!

私が入校したら
みんな驚いていた・・

女性が入校した、、!?と。

私は何しろ、この日を待ちわびていたので
嬉しさで胸いっぱいだったし、

前後の細かいことは覚えていないが
学科なども覚えが早かった。

それより、何より、
いよいよ実技指導の時が一番嬉しくて
感激した!

自分が車の運転席に座る。

ハンドルをにぎる。

アクセルを踏む。

そしてそして
長年、不思議だったブレーキ、を踏む、笑。

感動の連続だった。

しかも、先生たちはみんな優しかったし、
当然だよね、
男ばっかりの学校に
いきなり18歳の女性がいるんだから・・
(ま、顔は置いといて、、爆笑)


勿論、学科も実技も一回で合格。



運転免許試験場でも一回で合格。




晴れて
ひとつの夢だった普通運転免許は
早々に叶った。


その夜は田舎の両親や兄に多量の十円玉を
用意して免許取得の報告をした。

兄の方が一足早く取得していたらしい。

それがちょっとだけ
悔しかった!苦笑。

負けず嫌いの自分がいた。


日本全国でもまだまだ
都会でも田舎でも男子もそうだけど
免許を取得している者はそう多くはなかったかも。

関西の街中でも車は少なかったし、

ましてや、女性が!?
驚くくらいだった。



つづく。

No.111

~政府登録国際観光旅館のあれこれ~


この国際観光旅館は、
国際観光ホテルとも言っていたが、
場所は
観光地の山頂にあり、
下の町までは長い長い山道を下って
行くことになる。

当然、車がひっきりなしに通る狭い山道。
カーブが多くてとても歩いてなどは無理。


ここには、大勢の人たちが働きに来ていた。

当然、下の町から人しか通れない山道をショットカットして
登って来る人。
もっともっと遠くから車で通勤する人。

同じ館内でも様々な職種があった。

広い野天風呂と大浴場で働くボイラーの仕事を
するオッチャンたち数人。

厨房でお皿を洗う仕事するオバチャンたち数人。

私たち寮に入っている人たちのために
三食の食事を作ってくれるオバチャンたち数人。

この町は色々な大学がある町だったので当然、
苦学生?が何人も皿洗いのバイトに来ていたし。

肝心の花形と言うべき芸者さんたち。

送迎バスで通って来る芸子さん、
住み込みの芸子さんたちもいて華やかな
雰囲気だった。

芸子さんたちもそれぞれがそれぞれの
人間模様を重ねて来た人たちで
ちょっとの間の会話も結構、面白かったし
人生の先輩からのアドバイスなどもしてもらった。

たまに送迎バスの助手席に乗せてもらい芸子さんたちを
送り届けてまた帰って来たりしていた。

バスの中のマイクでカラオケ大会?など。
ヘタくそな私が流行歌を高いキーで歌うと
(確か「霧にむせぶ夜」?)
「○○ちゃん!泣いたらあかんでぇ」と
チャチャが入ったりして・・爆笑。

こののちに
この送迎バスの運転をしていたゴリ兄ちゃんと
深い関係?になるとは・・?


事務所の中で経理一筋だったなら
こんな経験はできなかったと思うと
今更ながら、
自分の決断はいい方向だったんだと
確信して疑いもしなかった・・汗。



つづく。

No.112

~政府登録国際観光旅館のあれこれ~2


ここ以外にも
関西の中心地にあるもうひとつの料理旅館があったが、
ここが本館だった。

本館は名の通った有名人がこぞって
懐石料理を食べながら芸者さんの華麗な舞いを
堪能しに来ていたようだ。


年に数回送迎バスで、私たち女性を連れて行って
お茶の点て方や、
一般振る舞いお作法などを
教えてくれた。


本館には社長夫人がドーンと鎮座ましていた。
恰好はでっぷりと小太りで背が低くて
顔も・・?笑。

いかにも紆余曲折の苦労があったのかなと
思わせるような年輪が刻まれていたのを
今も忘れない。


社長はどちらかというとおっとりした
気持ちの広い人だったとその頃は思っていた。

最初にその社長夫人のことを
「おかあさん」と呼びなさいと言われた・・

私は何も知らないド田舎から出て来たばかりの
尻の青い小娘、、だったから 笑。

私 「お母さんは一人しかいませんっ」って!
なんてぬかしおった!

みんなが大爆笑~っ。

なんて物知らず!無知な!小娘、
ホント可愛げがない!笑。


それでも、色々なお作法などを
ていねいに教えてもらって
本当に有りがたかったと、、今は思う。
その頃は全く有りがた迷惑だったが・・。

女性らしい仕草など似合わない私だったから、笑。


物心ついた頃からずっとずっと
「男に生まれたかった!」と思っていた私。


つづく。

No.113

~届かなかった一万円~


最初、経理でスタートした時、
事務所内には数名の男女がいたが、
吉田さんという女性から
色々なことを教えてもらったり
アドバイスしてくれたり
とてもお世話になったし
お姉さんみたいに思っていた。

色々な場所にも連れて行ってくれたり
お宅までおじゃましたり、、楽しかった。

関西弁が面白くて楽しい人だった。
お父さんが同じ館内でボイラー担当だった。

吉田さん親子は毎日家から通勤していたので
毎月、現金書留を郵便局へ持って行って
もらうのをお願いしていた。

ある日、
現金書留封筒の手持ちがなくなり、
面倒臭いという気持ちが勝って、
普通の封筒に手紙を書いて
その便せんの間に一万円札を
挟んで、吉田さんにポストに入れてもらうことに
した。

吉田さんにはお札を入れてるの内緒・・笑。


が、、、
一週間たっても母からお礼の手紙が届かず・・


十円玉をどっさり用意して電話して聞いてみた。



届いていなかった!


あれ?
手紙なのに・・?
いくら昔でも、ポストに入れたのなら遅くても
届くハズ!


事務所の人たちに聞いてみたら、

昔は
郵便配達の人たちは、
お札が入っている封筒か?
便せんだけの封筒か?

触ったら分かるんだって!


結局、頑張って働いた半月分のお給料の
一万円はムダに・・



なんと言っても、
お金を送る場合は必ず現金書留って決まっていたから、、、ね。

なので、手紙にお札が入っていたから!
開けてお札だけ盗った!

出した側は法律違反していることが分かっているから
絶対に郵便局に申し出ることはない、、
と理解した上でのことだろう。

現在ではどうだろうか?

今でもその時の私のように封筒にお札を入れる人って
いるかも知れないね、たぶん。

いくら法律違反しているからって言って
横取りする郵便配達人はいないと思う、、けど。


まっ、法律違反した私が悪いんだけど、、、

やっぱり、お金って人の物でも欲しいのかな?

18歳の私の愚かさを実感した出来事だった。

大いに反省、。

その後はしっかり現金書留で仕送りを続行したけどね
、、笑。


つづく。

No.114

~厨房で一緒だった石切さん~


私が厨房に入ってからすぐあとに
パートで入ってきたオバチャン。

懸命に名前を思い出そうとするが
全く記憶の奥底にしまい込んだからか?
思い出せない・・が、

かすかに思い出すのが石切さんという
石切神社近辺からご主人の送り迎えで
パートに来ていたから
「石切さん」と呼ぶことにしよう、笑。


石切さんも、とっても優しい素朴な方で大好きだった!

髪を長くしてそれをきれいにひとつにまとめて
アップにしていたおしゃれさんだった。

顔は何十年たった今でもはっきり覚えている、、
(ならなんで名前は?ゴメン。)

少しだけ年の離れたお姉さん、、って感じかな。

私が休みの日には石切さん宅に
連れて行ってくれたり、
近くの少しだけ高い?
山にピクニkックに
連れて行ってくれたり、
吉田さんと同じく本当にお世話になった。

石切さんがタイムカードを事務所で押してから
やって来るのを待っていたし
顔を見ると嬉しかったな。
石切さんも、そんな私の顔を見て
笑顔になった。

〇〇ちゃん〇〇ちゃん、と可愛がってくれた。


そのほかに若い男性が先輩としていたし、
奥さんは電話交換手だったが結構、
ご夫婦で働いている人たちも多数いたようだ。

私とその男性、喜代子、そして石切さん、笑。

厨房の中のみんなが家族のように
仕事ができていた。

楽しかった。



石切さんがこのあと、よっちゃんとの出会いで
ある場所に連れて
行ってくれて・・
ちょっとした運命の別れ道?になる!?

(後日、記する)


会いたい・・石切さんに。



つづく。

No.115

~三歳年下の男の子~つづき


私 「30分後に外で待っててくれる?」怒。


よっちゃん 「・・ぅんっ・・」


仕事を終えた私はそれから寮に戻り着替えてから
厨房の裏口の出入り口と
寮の食堂の出入り口で、
裏口を出ると左手に男性寮があり、
細い通路を通ると、
そこは夜ともなれば
大阪市の夜景がきれいに見える大好きな場所だ。
神戸の一万ドルの夜景にはだいぶ負けるけど、。

車がたまーにヘッドライトで照らしながら走る狭い山道。

厨房の電気が少し明るいだけで、
薄暗かったが、
よっちゃんの影が見えていた・・

私「こんばんは」

よっちゃん「こんばんは・・」


このあとのやり取りは忘れたが

なぜ、みんなが私のことをあんなに冷やかすのか?

私のことをどう思っているのか!?
18歳のお姉さんが15歳の男の子に!?

直球で!爆。

かなり、厳しい質問をした感じ・・


よっちゃんの声は
小さくてあまり聞き取れなかったけど、
たぶん、お姉さんのように思っている・・・

爆笑~!


そうかっ、分かった、、と言ったような?
言わなかったような?

その後は覚えていないが
さっさと裏口から中に戻ったようだ。



翌日、何事もなかったような感じで
いつもの仕事が始まった。



つづく。

No.116

~三歳年下の男の子~つづき



忙しく戦場のような厨房だ。

料理だけでも二台ある食品用エレベーターを
フル稼働しても追いつかなくて、、


しまいにはビールやお酒をわざわざ仲居さん達が
二階三階の客間から取りに下りて来る始末。


てんやわんや!

出来上った料理は
熱い物は熱いうちに
冷たい物は冷たいうちに
客室へ運ばなければならないので
たいそう忙しかった!



しかし、私は幼い頃からテキパキするのが
得意だったので むしろ、
そんな多忙さが楽しかった。
やり甲斐があった。


「あがったよ~っ」


最後の料理がカウンターに置かれた・・



またよっちゃん。
!?


「了解」
・・答えながら取りに行った。



まだカウンターにいる。





昨日と同じように幅の狭いカウンター越しに向かい合った。

(厨房の板前さんたちはみんな高い足のゲタを
はいていたので結構、よっちゃんの背が高くて、
下から見上げたようになった)








よっちゃんが小さく言った
「9時に外で待ってる。」




んっ!?




何なに?




今度は私の方が面食らった!


私 「ぅんっ・・いいよ」


・・・・

(「いいよ」だって!
エラそうに、、三歳年上だと思って!バカバカ!)



でも、昨夜、決着がついたハズだよね!




なにごと?

寮で着替えていると
喜代子が昨夜のこと
どこかでコッソリ見ていたらしくて
全部知っているし、
お姉さんみたいに思っていると
言われたことも言ったし、
・・ニヤニヤしながら私を見ていた。

しっ、知らないよ~私だって!汗。


時間になったら
昨夜と同じ通路を通って外に出た。



やっぱり、
夜景がきれいだった。

よっちゃんももう来ていた。


ふと後ろを振り向くと、
男子寮の窓から黒山の人だかり的に
黒い影がガラス越しに見えた・・爆。

(ハハーン 見ているなアイツら  
ひょっとして昨夜も見ていたんだな!?きっと!)


よっちゃんが言った
「こんばんは」


「こんばんは」

・・・


つづく。

No.117

~三歳年下の男の子~つづき



よっちゃんの顔は薄暗くて見えないが
顔の後ろに素晴らしい夜景が見える。

・・・

なんていうシチュエーションだろう・・

な~んてそんなことを思っていた・・


少しの間、沈黙が続いた・・


よっちゃんは何を言いたかったかと言うと

昨夜は突然のことだったので
ビックリして本当のこと言えなくて、、
ついお姉さんみたい、って言ってしまったけど・・












「好き。」


爆笑~!


私は幼い頃から母が多忙すぎて
抱っこしてもらったという記憶がなくて
兄と二人兄妹だったし、
ずっと心が満たされなくて
心が淋しい思いばかりで

なので、
恋人は甘えさせてくれるであろう
ずっとずっと年上がいい、、

そう願ってきた。


その当時は
「ひとつ年上の女房は
金のわらじをはいてでも探せ」
と言われていたけど、
みっつだから、考えもしない現実。

世間的には想像もできない時代だった。






(そういう自分は、現在・・12歳年下の夫と夫婦やってるし・・・大爆笑!)



よっちゃんの真剣な告白を聞いたあと、
私はよっちゃんに何て言ったのか?

全く覚えてもいない・・本当に。
今なら絶対「やったぁ~♪」と飛んで喜ぶような
場面なのに、意外と冷めていたのかも。





そんな感じなのに、、

それからこのあと
何となく
可愛らしいおつきあい?をした私とよっちゃんだった。 

笑。




つづく。

No.118

~三歳年下のよっちゃん~


中学校を卒業したばかりの
純真なよっちゃんは、

生まれて初めての告白をしたあとは
とても、嬉しそうに同じ厨房の中で
一日仕事ができることを喜んで
いっそう、板前の修行に励んだ。


「上がったよ~っ♪」
(カウンターに料理を運ぶ声もなぜか「♪マーク付き」?笑。


厨房の和食部門も洋食部門も、
私が厨房に来てからの
よっちゃんの気持ちを知っていたのか、
ホッとしたように
若すぎる?二人をあったかく見守ってくれた。

同郷の若者七人に田舎のことを色々聞けるし、
厨房でも一緒、
寮でも一緒、
みんな兄弟みたいに楽しんでいたようだ。


同じ厨房にいる喜代子も洋食部門の背の高いやせたお兄さんと気が合うようで仲良くおしゃべりしていた。



よっちゃんは、私と同じ寮なので
喜代子にも、私の寮でのことを聞いていたみたい・・
テディベアのことも。


ある日、
よっちゃんが、私が大切にしている熊のぬいぐるみ(テディベア)が
欲しい、と言った!

ダメ!大事な物だから、、と私。

そしたら、よっちゃんが
買ってきてると交換して、と!


早っ!



就職してから梅田の街で買ったから
まだ汚れてもいなかったから、
交換した、、笑。


それからは
よっちゃんは、週一の休みに家に帰って
いつも、お土産を買ってきてくれるようになった。


それまでは、夜遅く寮に帰って来ていたのに
あの日から昼過ぎにはもう寮に帰って来るようになった!早っ!

お菓子は、女子寮のみんなと一緒に食べられるように
大きな箱入りなど。

ちょっとした気配りなどが15歳なのに
できる優しい子だった。



つづく。

No.119

~三歳年下のよっちゃん~つづき


よっちゃんは、細くて背が高くて雰囲気は、、
今で言うと誰に似ているか?
と言えば

フュギュアスケートの羽生選手みたいな感じだった。

イヤイヤもっと甘いマスクだったけど、、笑。


私はどっちかと言うと女性らしいというより
男っぽいし
私服と言えばブルージーンズと
真っ白いシャツばっかり、、笑。

男女って逆のパターンを求めるのかな?。


仕事が終わり社員食堂で夕食を済ませると
若者たちがまた、厨房に自然と集まり、
洋食担当の男の子がギターをフォークソングを弾いたり
おしゃべりしたりして楽しかったな。

よっちゃんもとても楽しそうだった。


ある夜、
いつものように、喜代子と喜代子と仲良しのお兄さんと
三人で厨房でおしゃべりしていたら、

和食担当のちょっとだけ先輩が急いで入って来た!

「〇〇ちゃーん、キスさせてぇー笑」と!

ギョッ!

喜代子たちは大笑いして見ていた・・

私のそばに来た時、
裏口からあわてて、よっちゃんが追っかけて来て
先輩の先を越して私の前に立ちはだかった!
先輩はただオドケているだけなのに。
本気で怒っているし・・爆。


私は黙ってイスに座ったままだったので
それが、よっちゃんにとって不満だったようで、、

あとで、あの時なぜ逃げないの?って・・。

どうせ、冷やかそうと思ってのことでしょ~

笑。


真剣に怒るよっちゃんが可愛かった・・(バカバカ!)


そんな他愛のない日々。


ある日、
よっちゃんが初めてのデートに誘ってくれた。



デート先は、、奈良のドリームランド、、、爆笑。



(今では閉鎖しているらしいが、、。)



つづく。

No.120

~初デート?は奈良ドリームランド~



18歳の女の子と15歳の男の子の初デート・・笑。

でも、二人だけでは行きたいと思わず、
誰かを誘おうと一人で考えた・・


これってデートになる?三人で・・笑。



喜代子は、、?
んぅっ、、?
ちょっと、ね。

じゃぁ、誰?
考えた結果、
同県の別の町から
数年早く芸子さんで働いている
どっちかと言えばオットリした
早苗ちゃんを誘ってみた。
同じく寮に住んで気心も知れていたし。

「行く行くぅ~」って喜んだ。

でも、
よっちゃんは
早苗ちゃんってほとんど知らないし、
ちょっと可哀相だったけど、
それでも、
嬉しそうにしてくれた。


みんなが交代で休む職場なので
三人で休みを合わせてもらった。

しかし、
ずっと思い出そうとするが、
電車で行ったのか?
バスにも乗ったのか?
食事はどこで何を食べたのか?
全く、記憶になくて、、汗。。

証拠は実家に残っている一枚の写真だけ。

奈良のドリームランドで笑いもせず
三人一列に並んで写っている・・笑。

それから
思い出すと本当に辛いのだけど、、
その日一日の必要経費を、、、、、、
すべて15歳のよっちゃんが払ってくれた
・・汗。

なぜ、三歳も年上の自分が払わなかったのか!?

早苗ちゃんでさえ私より一歳年下なのに・・

三人の中で私が一番年上だったのに!
もうっ!

穴があったら入りたい!

赤っ恥!


よっちゃん、
あの日はごめんね、
一番年下なのに・・

沢山お金遣わせてしまって、、
ごめんなさい。


本当に
私って!
私って!



つづく。

No.121

~今度こそ初デート~


三人デートしてから
しばらくしてから
またよっちゃんが誘ってくれた。

今度は遊園地ではなく、
梅田の街を歩こうって 笑。

私は、お登りさんだったから
(昔は田舎から出て来た人のことを呼ぶ)、
休みのたびにあちこち探検して回っていたので
勿論、梅田の街は何回も行っていたけど。



今度こそ二人っきりでデート? 爆。



そのデートも、
前後は全く記憶がない・・苦笑。


はっきり覚えているのは
ディスコ?
オールディーズの曲などを
生バンド演奏で
お客さんに踊ってもらう。

「君の瞳に恋してる」などを
リズムにのって踊る!
私の得意部門だったので
踊り狂ったかも?

よっちゃんはあまり得意ではなさそうで
両手両足でテンポをとるくらいだった、爆。

自分で連れて行ったのにね、

しかし、
賑やかな曲のあとは暗くなり
お決まりのチークタイム・・  笑。

最初、
よっちゃんはテレたようにしていたけど、
両手を優しくとって
(初めての手をにぎる緊張感んで
汗ばんでいたよっちゃん!)
静かにグルグル回って・・爆笑。

でも、私にとって男の人と
体をピッタリくっつけたのさえ
初めての経験だったので
神妙になっていたかな?笑。

あと、
かすかに記憶にあるのは
喫茶店で私はブラックコーヒーを飲んでいて、
よっちゃんはレモンスカッシュ?だったかな。

どんな会話したのかも覚えていないけど。

静かな語らいで時間がゆっくり流れていったように
思う。

よっちゃんの真面目で一途な思いが伝わって
私も嬉しかった。

あの時、長い人生のつかの間の
ひとときだったのかも知れない、と今は思う。



つづく。

No.122

~投げた物は?~


ある日、
よっちゃんが、裏口から厨房に入って来て
私の方を向いて何か?を投げてくれた!

ん?

私はソフトボール部だったのでキャッチはうまい方だ、
当たり前・・笑。

急に投げられてビックリしながらもナイスキャッチ~♪

んっ?ここまで書いたが、、なんだっけ?



思い出さない・・。。

何か・?

何を投げてくれたのか?
わすれた・・

記憶にあるのは投げる時のよっちゃんの笑顔と
投げる時の瞬間!


一回だけではなくて、
時々、そうやって投げてくれるのが
よっちゃんの楽しみ方だった?笑。

何をもらったのかちっとも記憶にないということは
多分、お菓子?か何か?

ん、、、思い出さない。

歯がゆい。


たったそれだけのこと。



つづく。

No.123

~帰省~

18歳で就職して半年後のお盆に帰省。
そしてまたその半年後のお正月に帰省することにした。

職場は楽しいし、よっちゃんとも楽しい毎日を
送っていたのに・・(泣)
母に会いたくて会いたくてたまらなくなった。

私ってマザコン? (笑)

よっちゃんに一週間田舎に帰って来ると言うと
泣きそうな顔をして
必ず帰って来る?と聞いた。

勿論~大丈夫 必ずまた帰って来るから。
手紙も毎日書くよ、
毎日電話するよ、そう約束した。

喜代子が電話交換手として就職したことから
毎晩、内緒で電話してくれた。
よっちゃんのこと、本当に帰って来るのか?
毎日心配しているよ。

ある夜は喜代子が気を遣ってくれて
電話交換室によっちゃんを連れて来て
声を聴かせてくれたし (爆)


職場に戻り、休憩時間に厨房の机で
事務仕事をしている時、
知らせを聞いたよっちゃんが
駆け込んで来たっ!

裏口に高ゲタの音が響いたからすぐ分かったし(笑)

私の顔を一週間振りに見たよっちゃん・・
笑顔がはじけてた! (爆笑)



お互いに毎日書いた手紙、、
職場に帰って来てから
六通まとめて届いたし、、笑。



そんな楽しい日々が続いていたのに
まさか、二人に別れが近づいて
きていることなど夢にも思わなかった。


・・・

つづく。

No.124

~指輪のこと~

ある日 よっちゃんが指輪をくれた・・

以前、厨房の二台の食品用エレベーターの脇に
二人で並んで腰かけて夜更けまでおしゃべりした。

その時、
手を見せて?
手相を見てあげる?
と言った会話があった。

多分、その時に私の指のサイズを見たのだと
あとで思ったけど。

指輪



純情な純粋な15歳のよっちゃんが指輪を・・
どういう意味かな?

18歳の私も深くは考えられず、
「ありがとう」と素直に言ったら
よっちゃんが神妙な顔で指につけてくれた。


が、その指輪もなくしてしまい・・汗。
その指輪が
誰かの指につけられているのを見た

あとで判明したけど。

よっちゃんはそのことを知らない・・・まま。


のちのち、やっぱり私とよっちゃんは
別れる運命だったのだと確信した。




つづく。

No.125

~石切さんと占いへ~

三歳も年下のよっちゃんと毎日仕事でもプライベートでも
一緒にいる楽しい日々が続いていたけど、

どうしても、心の中で
三歳年下という事実にこだわり続けていた私。

幼い頃から、時代に逆らって生きてきた私も
こういうことにはこだわる?
今、考えると、、ずいぶん古臭い考えだったんだ!

嬉しいながらも、悩んでいた私を最初から
ずっと笑って見てくれていた石切さんが
アドバイスしてくれた。

勿論、主婦である石切さんは当時の夫婦の年の差という
大きな問題?に真面目に一緒に考えてくれていたからね。

ある日、
「○○ちゃん、良く当たるという占いさんがいるけど、
良かったら、○○ちゃんとよっちゃんのことを
占ってもらいに行く?」と。

占いなんて好きでもないし、信じてないし、
ちょっと考えたが
せっかくの大好きな石切さんの勧めでもあるから
遊びのつもりで行くことにした。


その時の占い師さんのことなど全く記憶にはないが
占いの結果だけは覚えている。

やはり、占い師さんも、
昔のことでもあり、
「先見の明(目)*先の先まで見越すこと」など
到底ないし、

一歳ならまだしも、
三歳も年上の女性と年下の男性と
付き合う?
結婚する?
なんて絶対あってはならない時代だったからか?


占い師さん「二人は絶対うまく行きません!」
って!




やっぱりね。

でも、占いは占い、
現実は現実として受け止めて
流れに任そうと石切さんに話しながら帰った。


占いに行ったことは、よっちゃんには勿論、内緒。


それからも楽しい日々が続いた。
しばらくは・・ね。


つづく。

No.126

~よっちゃんとの別れ~

よっちゃんのこと、
私が就職した年に同時に入社したと思っていたが
一年前には入社してたんだと思い出した。

私と一緒に入社した中学卒業の七人の男の子たちより
一年先輩として弟たちのように可愛がっていたから。


和食部門の板前さんたちもそれぞれ自分の親方さんが
いたようだ。

板前の修行に入った時の指導者が親方になるようだ。

30人の板前さんがいたとして
そのうち、三人の親方がいた?
親方と言うのか?詳しくはわからないが。

なので、
自分の親方が職場を移る時には必ずついて
行くのが当たり前だった。

30人もいると親方同士の派閥争いのようなものが
あったのか?
やり方や指導法などの食い違いや、
色々、大変な厳しい世界だったらしい、
特に昔はね。
なにしろ「包丁一本」の時代だから。



しばらく楽しい何事もない日々が続いていた。

が、


ある日、急に
よっちゃんの親方が職場を移るということになった。
行先は氷見市・・

よっちゃんは私にも一緒に行こうと強く言った!
一緒に連れて行くと!




親方も、私の仕事や寮や面倒などは
よっちゃん同様、
最後まで見るつもりだと言ってくれた、、
けど。

頼りがいのあるとてもいい親方だったけど・・。

・・・

氷見・・

地図で調べた。
遠い・・
そう思った。
その時は・・。


関西~氷見市。

母のいる実家からもっともっと遠くになる・・。













でも、私はついて行かないと決めた。


*追記

のちに分かったことだが
父の兄が関西にいたが
そこの甥のお嫁さんが氷見市出身だった
ずっとのちにこの伯父の家で生活することになるが。
(な~んだ近くだったんジャン・遅っ  爆。)




つづく。

No.127

*追記


ここで今また、よっちゃんのことで
思い出したこと!

この社員食堂に
みんなの食事の支度をしてくれるオバチャンが
下から急な坂道をショットカットして
通いで毎日来てくれていた。

背の低い小さいオバチャンだったけど
明るくて優しいオバチャン。

欲しい物を頼んだら喜んで
買って来てくれた親切なオバチャン。

ある日、
私の誕生日の日に
なぜか?大きな誕生日ケーキを持って来てくれた!?


ん?


オバチャンが言った

「よっちゃんに頼まれたんや~。
○○ちゃんの誕生日にはケーキを買ってきてなって 笑。」

ありがとう~♪
嬉しかった♪

よっちゃんの優しい気持ちも。

そして、
坂道をわざわざ重いのに
小さい体で大きなケーキを
運んできてくれたオバチャンにも。

二人に感謝~♪

喜代子や早苗ちゃんと三人で寮の部屋で食べた、とさ!

え?

大きなケーキをたった三人で?


オバチャンには? 
よっちゃんには?
みんなには?

爆。



つづく。

No.128

~なくした指輪~


よっちゃんがプレゼントしてくれた指輪。
よっちゃんが指につけてくれた指輪。

毎日の仕事が終わり
お客さんも寝静まってから大浴場に入りに行っていた。

ある日、
ふと、指輪がないことに気づいた!

あれ?

どこに落としたんだろう?

落とすとしたらお風呂以外にない!
すぐ大浴場に行って隅々まで探したが、
見つからなかった・・。


吉田のお姉さんの
ボイラー担当のお父さんにも
探してもらったけどなかった。
とうとう見つからなかった。


それからしばらくしてから、
私の指輪をつけた人を発見!
そのオバチャンは吉田のオッチャンと
同じくボイラー担当の別のオッチャンの
奥さんだった!

私の石鹸をつけた指から自然とスルっと抜けたのに

気づかず・・

その夜遅く、ボイラー担当のオッチャンが
指輪を見つけて奥さんに
あげたんだと思う。


でも、私は何も言わなかった。

それでいいと思ったから・・。



でも、一方で
思いを込めてプレゼントしてくれた
指輪だったのに・・
働いたお金をせっせと貯金して
高価な指輪を買った・・のに。




よっちゃんの気持ちを思うと
胸が痛かった。

何十年たっても
今でも
それを思うと悲しい。



よっちゃんは
指輪をなくしたこと、
知らない。




つづく。

No.129

~コワモテタイプの板前さん来る~


よっちゃん達ふんわりグループが去ってから
あっという間に
新しい親方さんが若い衆大勢を引き連れて厨房に
入って来た。

さすが関西、ド根性。

それまでの和やかな雰囲気だった厨房が一気に
違う雰囲気になった。

それはなぜかというと
若い衆を引き連れた親方がコワモテタイプで
若い衆もどっちかといえば親方同様、
コワモテタイプが
多くて、中にはマッチョマンタイプまでいたし。

一方、洋食担当は相変わらずの和やかな
おっとりした雰囲気は
変わらなかった。

でも、ちょっとだけエッチなオッチャンがいたっけ。
私が厨房の裏口の辺りで本を読んでいると
鼻歌をうたいながら通り過ぎると思ったら
一瞬、私の胸をむっとつかみ、笑いながら
走って逃げる!

「ギャー、なにすんのぉ?」
って言ったか言わなかったか?


この洋食担当の中にも派閥?グループがあった。
洋食部門は二つに別れていたかなぁ。
シェフが二人。

同郷の若者七人も和食と洋食二つに分かれて
それぞれ修行の毎日だった。



よっちゃんは、どうしたかと言うと
氷見市に行ってから落ち着いて、
しばらくした頃、
会いに来てくれた。

一日を二人で遊んだり食べたりおしゃべりしたり
久しぶりに懐かしい顔を見て安心したりして・・。

新しい親方が引き連れて来たことも知っていたし、
それについて厳しく注意された!
今度の人たちの噂を聞いていたらしい、

危ないからくれぐれも気をつけて、、
本当はすぐにでも連れて行きたい!

でも、現実はそう簡単じゃないよね。


再会を誓って別れた。



*追記

上記のマッチョマンのお兄さんはすごかった!
怪力、力コブ、筋力、筋肉、
初めて見るタイプだった!笑。
このグループも打ち解けたら
気心が知れて面白かったし、
一回、夜景がきれいな例の外で
みんなが見ている前で
ふざけて私をお姫さま抱っこしてくれたっけ 
みんなが拍手大喝采してた!  爆笑。



つづく。

No.130

~夜明けのサンドイッチ~

また想い出した。(マタカイ!)


若い二人は毎晩のように
夜明けまで厨房でおしゃべりしていた。
厨房の窓の外は少し明るくなっていたし。

ふと気づくとお腹が空いていた。

よっちゃんに言うと
「あいよ~っ」と言いながら(そんな言葉だったか?)

厨房の中に入って地下食品倉庫から
何かを持ってきて
広い調理台で何か作り始めた・・


じぃっと見ている私。

手渡された物は
食パンにトマトやハムやレタスを挟んだサンドイッチだった。
(BLTとは違う・ベーコンじゃなかったような?)


初めて食べるサンドイッチ~♪

二人でパクパク食べたっけ。
おいしいのなんのって。


美味しくてたまらなかった。
あの日のあのサンドイッチ
もう一回食べたい。(バカバカ!)


*追記
一度だけあまりにも夜明け過ぎまでいすぎて

「ガチャ!」

正面の出入口ドアの鍵が開く音がした!

二人共、ビックリした!

私はその場にいたままだったけど、

よっちゃんは、さすがに身軽で
サッサ~と厨房に走り込み、

なぜか?
調理台にお皿を並べてた・・(大爆笑)

とっさに考えた行動だったんだろうね、
笑える、今でも。

おまけに笑えるのは、いつも厨房には
高ゲタを履いているのに、
その時はあわてて、、ハダシ・・爆。



でも、ビックリしたのはボイラーのオッチャンの方だよねぇ!?
誰もいないハズの厨房に二人がいたんだから・・爆。

あのオッチャンの驚いた顔、、
今でも思い出す~爆笑。

でも、優しいオッチャンだから
「おおっ、お前らまだいたんかい?」
みたいな? 笑。


でも懐かしいあの日はもう戻らない。


つづく。

No.131

~厨房に来たゴリ兄さん~

あの事件の時、
泣く泣く辞めて行った石切さんの代わりに
事務所や送迎バスの運転など雑用をしていた
古くからいるゴリラみたいな顔の人が
多忙な厨房に入って来た。

ちょっとだけ年配だったか?
若かったか?
定かではないが。

とても面白い人で
(顔も面白いが)
冗談がうまかった!
さすが関西?
と言っても出身は四国だと言ってた。
あとで知ったが
田舎にはお見合いした婚約者がいたらしい。

カウンターの外側も違う雰囲気になり、
カウンターの内側は新しい板前さんたちで
また違う雰囲気だったし
今までとは違う楽しさになった。

夜遅くバイトしに来る大学生のお兄さんも
面白そうに皿を洗いながら私たちの
やり取りを笑ってみていた。


ゴリラ顔のお兄さんをいつしか自然に
「ゴリ兄さん」と
言い始めていたし 笑。

口も動かすが体も良く動き
テキパキと動いて仕事も良く出来た。

トンチが効いた冗談をサラッと言うのできっと
頭が良かったんだと思う。

大学を出て雑用係り、
勿体ないけど。


板前さんたちは寮に戻り、皿を洗うバイトの
大学生のお兄さんとゴリ兄さんと私だけ
になったある夜、

大量の汚れた皿がまだ山のように積まれていた。
自然と私とゴリ兄さんも皿を洗い始めた。

皿を洗う時にも冗談を言うので
三人で大笑いしながら洗ったっけ。


皿を洗い終えたあと、
カウンターの外側に戻り
簡単に帳簿をやっていると
ゴリ兄さんがまた
冗談を言い始めて、
それを間に受けたら
いつの間にか私は、ゴリ兄さんの
腕の中にお姫様抱っこされていた!
(二回目のお姫様だっこ 笑)

真面目な大学生のお兄さんは笑って見ていた。

出入口から私を抱っこしたまま
じゅうたんの広いローカを通り
隣の大広間に連れて行った!

ん?

まさか!?

お姫様抱っこしたまま
キス・・・・!?


18歳、初キス体験。

そして
そのまま
また厨房に戻って来たら
まだ大学生のお兄さんが笑いながら
待っていてくれた 爆。


*追記

数か月もの間、よっちゃんといっぱい
おしゃべりし、いっぱい遊んだのに、、
キスさえしなかった純真なよっちゃん。


なのに、
ものの数日で
要領良くキスしたゴリ兄ヤローっ。



つづく。

No.132

~順番を間違えた・・~


よっちゃんがいなくなってから
私は周りの反対を押し切って
いったん、退職したのだった!


なぜ?

あんな居心地の良い職場を辞めた・・

事務所の吉田のお姉さんにも強く
反対されたのに、、ガンコな私がいて。

辞めてからしばらくは田舎に帰っていた。
母に会いたくて。

やっぱり閉鎖的な田舎が嫌いで
また関西へ戻って来た。

ある会社に入社して。
あまり良く覚えていないが
体を動かす仕事が好きな私には
やっぱり経理とかは無理だった!
最初からわかっているのに。

あの懐かしい職場のあの楽しい雰囲気が
忘れられず、、もんもんとしていた。


つづく。

No.133

~懐かしいよっちゃん~

そんな時、
よっちゃんが氷見から会いに来てくれた。
(今、思うとずっと連絡取り合っていたのか?
記憶にないのだけど・・)

懐かしいよっちゃんは少し大人に見えた。
私よりずっと、大人になっていた。

懐かしいあの頃のおしゃべりにまた夢中で遅くまで
一緒にいたっけ。

「体を大事にね」と
別れる時、私に言ってくれた。
そして
大変だろうから、と一万円札をそっと
手渡してくれた。


19歳の私が16歳のよっちゃんからお金を・・
(厨房で初めて会ってから一年がたっていた)


こんなヒドイ私になぜこんなに優しくするの?
涙が出た。

よっちゃんにはどれほど優しい可愛いガールフレンドが
いてもおかしくないのに!
その方がお似合いなのに!


それから、よっちゃんと冷たい風が吹く寒い夜、
手を取り合って別れた。


その夜、情けない自分に腹がたって泣いた。

よっちゃんのあの笑顔。






自分は幼い頃から強いと信じていたのに
優しさに対する免疫ができていなかったのか、
優しくしてもらうとダメになりそうだった。

もっと強くならなければ、
このままではいけない
と、そう誓ったあの夜。



*追記
これも定かではないが?
会いに来てくれたのは
ひょっとして氷見から小豆島に移ったあとだったかも?

よっちゃんの親方は氷見の次は小豆島に移ったようで
この時はもう小豆島?か記憶にない。

前後して小豆島に移る時にも一緒に行こうと
強く言われたのだけど。
やっぱり行かなかった私(超ガンコ者)



**追記

前述の~厨房に来たゴリ兄さん~
これは、このあとのことだった。

吉田のお姉さんが専務と一緒に会社まで迎えに来て
強引に会社を退職させて、
結局、また元の職場に戻った!

いわゆる「出戻り」。

そして懐かしい厨房に戻ったら
新しいコワモテ軍団がいたってわけ。
ふぅ。
訳わからなくなってきたし・・汗。
何しろ、何十年も前の話だから
前後の記憶が全く理解不能。

それでも、自分のために
自分で歩いて「生きて来た道」だから
最後まで書き記すつもりだ。

ふぅっ、先は長いぞ。


つづく。

No.134

~よっちゃんちのお寿司屋さん~


また想い出した(マタカイ!笑)


大事な想い出。

最初の頃、
一回だけ、
休みを合わせてもらって
よっちゃんちのお寿司屋さんへ連れて行ってもらった。

赤い大きなちょうちんが軒先に下がっていた。

お寿司屋さんの名前は当時は覚えていたけど
今では忘れてしまって。

よっちゃんに似たスラッとした
若いステキなご両親が笑顔で迎えてくれて。

カウンターに二人並んで座ると、
テキパキと松茸の土瓶蒸しやお寿司を出して下さった。

ド田舎娘の私は、お寿司は大好きだったけど、
初めて見る「松茸の土瓶蒸し」だったので・・
土瓶とフタとの関係?
すだちは?
どうやったらいいのか分からず、、汗。

素直に聞いたら、笑顔でていねいに教えて下さって。


隣りでよっちゃんが嬉しそうにニコニコして見ていたっけ。

ごちそう様でした。

そのあとはほとんど記憶にないのだけど・・

ごめんなさい、

あの時は、
「なんて恥知らずな田舎娘っ」て思われたことでしょう。

うちのよっちゃんには合わないって!?


ちょっぴり嬉しくて大いに赤っ恥かいたあの日の想い出。



つづく。

No.135

~ゴリ兄さんと~


「出戻り娘」の私は新しい雰囲気になった厨房にまた入った。
吉田のお姉さんと専務がいいようにしてくれたお蔭だ。

喜代子も早苗ちゃんたちもみんな揃って笑顔で迎えてくれた。

そしてまた再スタートを切った私。

いつもそばにいて冗談を飛ばすゴリ兄の
年上の魅力を徐々に感じていく私・・。

(幼い頃から可愛がられた経験がなく
寂しくて満たされなくて・・
恋人にするなら
ずっとずっと年上の人がいい・・
甘えられるから・・
愛情に飢えた私、
そう願ってきた私だから)

ある夜、
時々乗っていた送迎バスの助手席に乗って芸者さんたちを
家々まで送り届けた。

そのあと、
ゴリ兄のボロアパートに行った。
その夜、私は処女を捨てた!



優しいよっちゃんではなく。


ごめんね、よっちゃん。
ヒドイ三歳年上のバカな女だったんだね。


あれほど純粋な愛情を必死で与えてくれていたのに。



そして、
一晩帰らなかった私のことをみんなが噂したと想像できた。


厨房のみんなもそれを知り。

そして同郷の若者七人からよっちゃんが聞く・・。




つづく。

No.136

~最後の電話~


そんなある日、
小豆島にいる、よっちゃんから電話が入った。

すでに、よっちゃんの耳に入ったのだ。


よっちゃんに対して
ヒドイことした私は懺悔の言葉しかなかった。

謝ることしかできなかった。

「ごめんね、ごめんなさい・・。」

よっちゃんは、「できることなら何でもするから、」と。
そこまで、、も。


ただただ謝るだけの私。

もう戻れない二人。

そして最後に伝えたのは
今まで色々、いっぱいの物をもらった。
それを全部送り返すから、ごめんね、と。

あの時あの言葉にどんなに傷ついたか?

はぁーっ!

ヒドイ女がもっとヒドイことを言ってしまって。

純粋なよっちゃんに対して
傷口に塩をぬるようなことを、、、
言ってしまった。

その後、荷物は送ることはせずに
自分で静かにそっと処分した・・。

本当にごめんなさい、よっちゃん。
私は地獄に落ちてもいい位のヒドイ女だった。

あれから数十年たったのに
よっちゃんにヒドイことした過去は
まだ消えていない、、。

イヤイヤ、消したらダメでしょ!

死ぬまで消えない。
消せない。
消してはいけない。

懺悔し続けて生き地獄を生きないとならない私。

人生で一番懺悔しなければならない人。

それは、よっちゃん。


胸が痛い・・。

日記を記すようになって、
「~三歳年下の男の子~」

「三歳年下のよっちゃん」
を書くようになってからは
涙で涙で書いている私。


ごめんなさい。


謝り続けても
終わりのない懺悔。




いま、

よっちゃんだけには・・


幸せでいてほしい。

幸せでいてもらいたい。




つづく。

No.137

*追記

ここの職場のこれからのことを記するつもりだったが
よっちゃんのことを考えたらもう無理なので
これで終了にします。



「歩いて来た道」・・・


次回からは、前述に書いた父の兄にあたる伯父の息子(従兄)が自動車関係の経営をしていて
(従兄の奥さんが氷見出身だった)
父の兄、伯父が私を迎えに来て引っ越しして経理を
手伝うことになるところから。


No.138

~洋食チーフと移った街~



ーまた順番間違えた!ー

最初の職場の
厨房の洋食担当のチーフの一人が数人を引き連れて
辞めることになった。

そこで
私も一緒に行かないか?
とチーフに誘われた。

同郷の中学卒の男の子たちも何人かついて
行くと・・

私は考えた。

ここでこのまま「出戻り娘」でいて
どうなるのかな?

これでいいのか?

それとも、チーフについて行った方がいいのか?
迷った。


よっちゃんにはついて行かなかったのに!?


なぜ?
意味わからない・・
自分でも。

なぜ?



つづく。

No.139

~洋食チーフと移った街~つづき




結果、ついて行くことにした。

はぁ?
なぜ?

何かがあったのか?
心境の変化?
我ながら理解不能。


よっちゃんにはついて行かなかったクセに!?



関西方面でもだいぶ東方向の
ある街で少しガラが悪いと言われていた。


商店街の中の大きなレストランで
有名人や坂本九なども多数来客した。

ちょうど月にアポロが月面着陸した場面が
テレビに映し出されていたのを記憶している。

寮に入っていたが
事務担当の年配の女子と男性が良く面倒をみてくれて
たまに車の運転をさせてもらったりした。

同郷の男の子たちを連れてボーリングに行ったり、
一人で大阪の街をブラブラしたり、
それなりに楽しんでいた日々。

ある日、
ヤクザが数人やってきた。

客だったのか?
それとも ?
記憶にはないが、

上から目線でヤケにエラそうなデッカイ態度に
腹がたち、
ヤクザたちの前に立ちはだかって
何をエラそうにしてんだよー!
みたいなこと言ったような? 爆。

ちっとも怖くはなかった。

ヤクザたちは19歳の尻の青い姉ちゃんが
イセイのいいこと言うなぁ、って
むしろ、ビックリしていた!

そこにチーフが「まぁまぁ」と中に入ってくれて
一件落着・・?

身の程知らず。


意味わからん。


悪いモノは悪い!
いいモノはいい!
黒か白か!
正義の味方!
弱い者の味方!

幼い頃からそんな自分だったと思う。


それにしても、毎晩、チーフが作ってくれる夜食のバターライス、、みんなで一緒に食べたっけ。

あれも美味しかったな。



そうこうしているうちに
母から連絡を受けた父の兄、いわゆる伯父が
私を迎えに来て、
そこを辞めることになる。
落ち着きのないヤツじゃのぉ!

今、同郷の男の子たちも元気でやってるかな。
いいオジサンになったんだろうね。
あの子たちにも会いたいな。


ふぅ。。

もう何がいつで
何がどうしたか?
理解不可能状態。


つづく。

No.140

~従兄の自動車会社へ~

「さようなら」
チーフや同郷の男の子たちに別れを告げて
迎えに来た伯父と共に従兄の元に行った私。

大きな自動車会社を経営していたため
人出が足りず姪なら安心だから
手伝ってもらいたいと。

勿論、私は体を動かす仕事の方が性にあって
いたし、大好きな車にたずさわれるって
最高だと思った。

色々な車種も、
新型車もいち早く見ることも
乗ることも出来た。
最高の仕事で目がキラキラしてしまう。
流行のオートバイも扱っていたし
ハーレーダビッドソンにまたがって
自慢そうにみんなと写っている私がいた。


所帯を持っている従兄の弟(としおさん)も
一緒に仕事をしていたし
もう一人、ベテランらしい男性(おざわさん)も
販売と整備などの
両方をかけ持ちして多忙な様子だった。

私の仕事は一応は従兄の奥さん(氷見市出身)が
経理事務一般を担当していたがそれの補助と
いう仕事だった。

多忙な時には工場に降りて行って
納車や引き取りなど雑用色々やって
一日が多忙だけど今まで経験したことの
ない仕事で楽しかった。

当時は車が全盛期で全国総人口一億人が
次々に自動車免許取得で新車がドンドン
売れていた。

これからは自動車の時代だと思い
私も女性ではまだまだ数少ない時代に
三級自動車整備士の国家資格を取得した。
これがのちにまたまた都合のいい
資格で助かることになるが・・
(のちに記す)


氷見市出身の奥さんも
とても面倒見のいい人で
可愛がってもらったし、
お給料も大将には内緒よ、、と
色をつけて頂いた(ププっ)

やるジャン~。



*追記
ここの雇人のおざわさんと
こののち
不倫関係に陥る・・私。

よっちゃん、、ごめんね、
あれ以来、よっちゃんのことを
忘れた日は一日としてない。
毎晩、ヒドイ自分を責めていた。
その反動が不倫に・・!?。

イヤイヤいけないでしょ!

どこまでも愚かな人間、
それが私。
もう落ちる所まで落ちても構わない。
自暴自棄。



つづく。

No.141

~親孝行の大阪見物~

従兄の所にいる私を誰よりも喜んだのは
田舎にいる母だった。

母を親孝行と称して
大阪見物に招待した。

ナント、世界で一番嫌いで
憎しみしかない祖父までついて来た!

あの頃よりもっともっと老齢になった
クソジジィ・改めオイボレジジィ、、が
母にくっついて来た!

しかも、長旅は母が大変だからと気を遣い
飛行機でひとっ飛びしておいでと
言ったのに・・・

おまけオイボレクソジジィが飛行機は乗りたくない!
とぬかしやがったらしい・・
結局、長旅になる寝台車で二日かけて。
ツエをついたオイボレジジィの世話で母は
到着した時点で疲労していた。
はぁ・・

お前何様だぁ!?
このヤロー!?

まだ生きていやがったオイボレジジィ。
根性悪だから長生きすると思ったら
やっぱりなっ。

私は絶対連れて来るな!
と反対したのに。

従兄の父親は私の父の兄になる。
私にとったら伯父。

その伯父家族は昔は一緒に暮らしていたが
ナント膨大な借金を返せなくなり、
夜逃げをした過去がある・・

その膨大な借金を返済したのは
誰でもない私の両親と父の弟。
馬車馬のように働き兄の借金を
返済した、のに。

祖父であるオイボレジジィは
知らーん顔で息子の一人を戦争で
亡くして国から支給されるお金?で
自分だけ左うちわの暮らしをしていたクセに

伯父はその借金は祖父が返済してくれたと
思い込んでいる・・
なので祖父が来るのをむしろ喜んだ(バカバカ!)

旅費全て出すのは私・・なのに。
一人分で済んだものを二人分も!

本当にタイミングの悪いこと・・
黙ってさっさと来れば良かったのに
バカ正直な母。

電話口で母娘ケンカ・・。

はぁ・・
オイボレジジィの顔なんて見たくないワィ。


だが、イヤでも
初めての大阪見物が実現した。


つづく。

No.142

~おざわさんと不倫関係~

一緒に仕事をしているおざわさんや
従兄のとしおさんとボーリングに行ったり
お茶を飲みに行ったりするようになった。

ある日、
三人で行く約束していたのに
急に奥さんの都合でとしおさんが
来れなくなった。

おざわさんと二人でボーリングに行った。
その帰り道、夜景のきれいな場所に
ドライブに連れて行ってくれた。

そのきれいな夜景を見ているうちに
よっちゃんと見ていたいつもの夜景と
よっちゃんの顔がだぶって見えた。

寂しかった!悲しかった!

そんな私の気持ちが不思議だったらしくて
おざわさんが急に私を抱きしめたっ!

何だか怪しい雰囲気になって
とうとう不倫関係に・・。

母が来た時にはすでに不倫関係になっていて、
伯父や従兄も当然知っていたようだ。
でも、私には何も言わなかった。
なのに
なのに、
それが母の耳にも入り、、
母は悲しんだ。

それよりオイボレクソジジィがカンカンに怒った!
はぁ!?
お前には関係ねーよ!
お前に言われたくないよ!

親孝行のつもりで大阪見物に招待したのに
逆に親不孝になってしまった。
みじめだった。

*追記
おざわさんは運転がとてもうまかった。
カーブでのハンドルの切り方、ブレーキの踏み方、
たくさん運転の技術を実技指導してくれた。
そのお蔭で私は運転が得意になった。
元々大好きだったのがもっと得意になっていた。
運転技術は体が記憶していると言ってもいい位だ。
年をとってもいつまでも生きている。

今、現在、生きて来た長い人生の中で
最高に運転技術がうまい人ナンバーワンだ。
いま、12歳年下の夫にも同じ技術を
教えた。
だから夫も運手がうまくなった。


つづく。

No.143

~おざわさんと恵方巻き~

おざわさんの実家は兵庫県だった。
その実家に家族で帰った時、
手作りの太巻きをもらったことがある。

その太巻きを切ろうとしたら、
ダメダメ!
切らずに口を上にして
これをこのままカブリつくんだよって!

えぇ!?
このまま?
この太巻きのまま?

これが昔むかしの話・・

そしていつの間にか
年々、恵方巻きが人気になり
今では当たり前になった・・

そうそれは恵方巻きだったのだ。

恵方巻きを見ると
おざわさんを思い出す私。

記憶から消えている人なのに
恵方巻きの時期だけ思い出す。


つづく。

No.144

~成人式~

故郷の市役所から成人式のハガキが届いた。
いよいよ二十歳になる。
その前に、伯母に色々手伝ってもらい
成人式用に自分で着物や帯などを
用意した。

そして故郷で成人式を迎えた。
懐かしい友が着飾って華やかだった。
昔の成人たちはみんなが素直だった、笑。

終わるとまた職場に戻った。
それから一年後に故郷に戻った私。


つづく。

No.145

~ホンダの真っ赤なエス600~

23歳で田舎に帰った。

真っ赤なホンダの通称エスロクに乗って帰った私を見て
田舎の人々が驚いた(笑)

各家に軽自動車一台あるかないかの時だ。
しかも、
女性の半分も運転免許さえ
取得していない時代。

田舎では特異な目で見られた(爆)

都会で暮らした経験のある者と
閉鎖的な田舎から出たことのない者、
全く考え方も違うのは当たり前。

苦労して来た両親のために親孝行と思い
田舎に帰った私。

その当時は23歳か24歳までには結婚するのが普通だった。
当時は近所に世話好きなオジサンオバサンがいたからね。

それを過ぎると近所でも噂された。

真っ赤なスポーツカーで友達と遊び回り、
喫茶店に入りびたっていた。
当然、近所でも噂の的だった 爆。

前述に出て来た左隣のオバサンが特にうるさかった。
太った体で足を引きずりながらビッコ引きながらでも
私のうちをのぞき見するのは昔から同じだった。

ウンザリ・・だ。


つづく。

No.146

~出合い そして結婚~

そんな私はいつものエスロクに乗ってたまたま駅前でバックしようとした時にコツン!とよその車にちょっとだけ当ててしまった。知人の車だったがどうにもなっていなくて、、
私のエスロクが少しだけへこんで・・汗。

板金屋さんへ行ったら忙しくてできないと言われ、
紹介してくれたバイク屋さんへ行った。

それが私の結婚相手!爆。

私23歳・その人31歳。
私の理想としていた8歳年上。

きっと甘えさせてくれるかも!?
幼い頃からずっと愛情に飢えていた私。

そして二か月後には結婚式。

バイク屋をしていたダンナにハッパをかけて
自動車を販売・整備することを提案して徐々に大きくさせた。

従兄の会社にいる時に経理を経験し、三級整備の資格をとっていたのが功を奏したことになる。

長男が生まれ二年後には次男が生まれて
理想的な家族になった。
家庭的には何の不足もなかった。

両親の近くで円満な家庭を持ち、
可愛い初孫も見せることができたし
満足だった。

田舎に帰って来て良かったと思った。

幸せだった。


つづく。

No.147

~ダンナの親兄弟~

ダンナの義両親はすでに高齢だった。
昔はどこも子沢山だったがダンナの兄姉弟妹もそう!
大勢に兄姉弟妹九人!ダンナは真ん中辺りの五番目。
親からみたらどうでもよい子だ 爆。

なので一緒に生活するにつれて少々、
イヤイヤだいぶひねくれた性格だと分かった。

私と同じように親の愛情が足りなかったんだと理解した。

私も結婚相手はずっと年上がいい、
年上なら甘えさせてくれるだろう?
8歳も上だったらラッキー~と勘違いしていた!泣。

親の愛情をたっぷりもらって育った子供なら
自然とおおらかな性格になると思うけどね。

口数の少ない、思ったことを口にしない出来ない、
私に対して不満がある時は飲み会で酒を飲んだ時に
他人に話す、、
そんなダンナだった・・。別にそれはそれで構わない
と思っていた最初は。

舅姑のこと、私は大好きだった。
なんといっても昔、大勢の子供を産み苦労しながら
育てあげたのをむしろ尊敬した。
だって自分の両親はたった二人だけ・・だったから。
それでも大変な苦労していたのを知っていたし、
舅姑はその何倍も大変な思いをしたであろうことが
分かる。

なので、
自分の両親より舅姑の方をより大切にするように心がけた、二十数年間ずっと・・(よぅやったわ我ながら 笑)

義実家には次男が同居していた。
義兄、義姉、長男、長女の四人家族。
義兄は非常に大人しい無口な性格。
義姉は甲高い声でキャンキャン言う感じ。
はっきり言って気が利かない&どケチ
それに対して昔から大いに不満を持つ姑。

私が車に沢山の食料品などを積んで
毎日のように顔を見に行った二十数年も。

そして時々仏壇の鐘の下に
そっと一万円札を置いていた・・黙って。

最後の頃、二十数年後になって気づいたこと・・
それは時々置かれている一万円札は義姉(姑の長女)が置いたんだと十数年間思い込んでいた!
別にそれでもかまわないけど・・。
最初は訪れた時、すぐに姑に手渡していたが、
「要らない要らない」と断ったので(本心はノドから手が
出るほど欲しいクセに)素直に受け取ればいいものを。
ガンコな性格だから・・
最終的には必ず受け取った!
受け取るまでのやり取りが面倒臭かったので、、
自然と仏壇にお参りする時に
黙って置くようになったのだった、二十数年間。


つづく。

No.148

~義実家~

義実家は米農家だった。
田んぼのある場所は山の中。
同居している義姉はブツブツ文句を
言い続けていた。
有り難いという言葉さえ知らない常識知らずの
無知な義姉だった。
(が、十数年後この田んぼ、
すごいことになるのだった!
のちのちに人から聞いた話だが 笑)

義兄義姉長男次男、みんな似た者家族だった。

同居していると色々イヤなことが続き、
とうとう義姉が
逆キレし始めて、
兄姉弟妹みんなが困り果てた・・
相談の結果、
兄姉弟妹家族が、みんなでお金を出し合い、
舅姑用の家を新築した。

同じ金額かと言うとそれが違った、
長男とダンナだけは二倍の援助をした。
ダンナは反対したが私が賛成したのだった 汗。

ところが、
その新築の家を見て義姉が言った!
「私たちがこの新しい家に住みたい!
だってうちはオンボロなんだもん!」! 爆。

よくヌケヌケとそんなこと言えるなぁ、たいしたもんだ。
だって自分たちは一円も出していないんだもの、
笑える。

別居状態になったら、私のお土産代も倍に増えた・・
別々に買って持っていくようになったから 汗。

はぁ・・


つづく。

No.149

~義実家~

義姉のグチが続きますよ~爆。

農家である義実家は一年中忙しかった。
田植え、茶摘み、山の杉の木の枝切り、
稲刈り、その他雑用など。

私は自分のうちの狭い田んぼの田植えでさえ
幼い時に一回だけしかやったことなかった。

なのに跡取りの嫁でも何でもないのに、
まして商売していて家業が多忙だったというのに、
率先して手伝いに行った、二十数年も・・。

まず、田植え、スーパーから魚やお茶菓子を大量に買って
お土産。一日中手伝う。ヘロヘロになって帰って、
夜遅くまで帳簿や家の中のことをやった。
田植えは何日も続いた・・。

そしてお茶摘み。やはり同じことをした。
勿論、お茶菓子は私が持参したもの、、。
昼ごはんも私が持参した魚や肉、、を使う。

お茶積みが終わり、姑が一人でお茶を煎って完成させる。

義姉がうちに「それ」?を持ってきた。
たくさん入った大袋とほんの少ーしだけの小袋!

ん?

なに?

はははっ~、義姉らしいワ、笑えるぅ 爆。


つづく。

No.150

~義実家~つづき

大袋は、前年度のお茶、、
義姉が言った「うちの大きなお茶缶に新茶を入れようと見たらまだ去年のお茶が沢山残っていたから沢山持って来たよー。」

と、いうことは古茶が大袋!?
新茶が小袋?200グラムもない・・

新茶なんて客商売だし自分たちでも美味しいお茶を飲みたかったし、お茶屋さんに「新茶」のノボリが立ったと
同時に一番に買いに行っていた私なのに。

次は、稲刈りの手伝い。
上に同じ。
田んぼが広いから数日手伝いに行く。

そして、稲刈りのあとの新米・・。

小さい頃から真っ白いご飯が大好きな私。
新米のノボリが米屋さんに立つと
いの一番に配達してもらっていた。

ある日、
また得意そうな顔で義姉が米袋大小二つ?持ってきた。(義兄の運転付きで。義姉は免許なし)

また同じかい!?
要するに古米が大量に残っていたから新米と入れ替えたので古米を入れるところがないから持って来た。
うちはゴミ捨て場所かいっ!

小さい袋が新米・・5キロ位・・
古米は(20キロ位)要らないと返した!?
それとも怒りながらも、誰かに上げたのか?
記憶にない・・笑。

そのあと、
私が忙しい中色々ご馳走して作った
お昼ご飯を残さず食べて、、
食い逃げした・・

あとで食堂に行ってみるとテーブルには
食べた大量の皿やおちゃわんがそのまま・・。
せめて流し台に運んでもいいんじゃない?と
思うよね、
でも、それが気が利かないということ!爆。

バカにされているみたいだけど、
義姉からみたらそうではないのだ、、
気が利かない、というのはそういうことだった!
分からないのだ、
理解出来ないのだ、
そういう育ち方ををして来たし
それが当たり前、普通だった、あの義姉にしたら。

はぁ・・
呆れつつも、
私の心労は徐々に増えて
雪のように積もり続けた。

幼い頃から姉妹兄弟は沢山いたら良かったのに!と
ずっと思い続けて友達がうらやましかった、
が、多ければいいっていうものじゃないんだね 笑。

いい人柄なら大勢でも良かったんだけど・・ね。


つづく。

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