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2016/06/05 10:01(更新日時)

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忘れないように📓

No.1699028 (スレ作成日時)

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No.1

🇯「天皇の真実」

ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。
私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。
殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。

だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。
しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。
ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。
天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。
しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。
陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。
 
平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。
それでも暗殺される王様や大統領がある。
それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。
国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。
いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。
しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。
こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。
われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。

オットー・カロン、ボン大学教授 「天皇の真実」より

No.2

🇯終戦後の昭和天皇🇯全国御巡幸

■1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ■
ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。
それが生きた民主主義の教育というものだよ。
昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。
しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。
イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。
日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。
イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。

No.3

>> 2 ■2.全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい■
昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、敗戦直後、昭和20年10月であった。宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。
この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい。宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。
御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、冒頭で紹介したような魂胆もあって、許可した。

No.4

>> 3 ■3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」■
昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・ 川崎工場であった。食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧に努めていた。
一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まって泣いているものも多かった。案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、宮中で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に深い親しみを感じた。
二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。大空襲で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こった。昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、車道にまでなだれこんだ。これ以降、巡幸される先々で、このような光景が繰り返された。

No.5

>> 4 ■4.あつさつよき磐城の里の炭山に■
昭和21年には、関東、東海地方の各県を廻られ、22年6月には、大阪、兵庫、和歌山。そして8月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望された。側近が驚いて、涼しくなってからでは、と延期を願ったが、「東北の運命(食料の増産)は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」と許されなかった。
敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や、学校の教室に泊まられた事もあった。「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われて、行幸を続けられた。
出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地福島県の常磐炭坑では、地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背広、ネクタイ姿で、上半身裸の鉱夫たちを激励された。深い坑内で万歳の声が轟いた。この時の御製(お歌)である。
あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしとぞ見し

No.6

>> 5 ■5.浅間おろしつよき麓にかへりきて■
この2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に出られた。最初に浅間山の初雪の中を2キロも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪問された。大日向村は満洲への分村移民を全国で最初に実行した村である。しかしソ連の満洲侵略により、移民694名中、ようやく半数の323名が生き残って、村に帰ってきた。そして標高1095mの荒れ地を切り開いて、入植していたのである。
天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙でとだえた。昭和天皇のお顔も涙に濡れた。
浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人とふとくもあるか 

No.7

>> 6 ■6.老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて■
この年、11月から12月にかけてには、さらに鳥取、島根、山口、広島、岡山をまわられた。島根県では新川開拓村で3万人の奉迎に応えられた後、伊波野村で農作業をご覧になられた。
農業会長が、働いている老夫をさして、「我が子を二人とも失いましたが、村人の助けも得て、屈することなく働いております」と説明すると、天皇は次のようなお言葉とお歌を賜った。
この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるものがあった。このやうな涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろいろ苦しいこともあらうが、努力を続けて貰ひたい。
老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて
    いそしむすがたたふとしとみし

No.8

>> 7 ■7.ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ■
12月5日、広島に入られる。広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われた。原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられた。周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣く。
爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万の奉迎を受けられた。周囲には黒こげの立木、あめのように曲がった鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のように語られた。
このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。
本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献せねばならぬ。
ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなおる見えてうれしかりけり
この中国地方行幸にお目付役として同行していた占領軍総司令部民政局のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一人天皇を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであった。
もともと天皇制廃止を目論んでいた民政局は、兵庫県で小学生達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。
しかし、御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会決議が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模様で、翌々年に再開が許可された。

No.9

>> 8 ■8.子らに幸あれ■
昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県を巡幸された。5月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。孤児たちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。
昭和天皇は、その女の子に近づかれて、「お父さん、お母さん?」と尋ねられた。「はい、これは父と母の位牌です」とはっきり返事をする女の子に、さらに「どこで?」。
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は引き上げの途中病のためになくなりました。」
天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にいったら、きっともう一度会うことができるのです。・・・」
昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫でながら、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。
みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ

No.10

>> 9 ■9.天皇陛下さまを怨んだこともありました■
因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。
昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。「どなたが戦死をされたのか」
「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」
老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。
引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。
天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。
この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」
シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。
今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。

No.11

>> 10 ■10.復興のエネルギー■
九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになった。
御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8年半の間に昭和天皇は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、お立ち寄り箇所は1411カ所におよんだ。奉迎者の総数は数千万人に達したであろう。

戦のわざはひうけし国民を思ふこころにいでたちてきぬ
わざはひをわすれてわれを出むかふる民のこころをうれしとぞ思ふ
国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし

(*なりはひ=しごと)
大日本帝国が崩壊して、始めて国民は間近に天皇を拝する機会を得た。驚くべき事に、それは人々と共に悲しみ、涙を流す天皇であった。一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみに、天皇が涙を流された時、人々は国民同胞全体が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑張ろう、という気持ちが芽生えていった。戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれた。
昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。40数年前の御巡幸で昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。
昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われた。医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

No.12

🇯戦後の昭和天皇を振り返る

ブログ「ぼやきくっくり」より転載
(SAPIO  【歴史を振り返れば現代が見える 第2弾 昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々】より)

■[巻頭言]「公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王
――昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?
 
殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
 またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。

No.13

>> 12 ――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。
殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(編集部注:信子妃殿下は麻生太郎現首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。
 義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、
 「太賀吉は元気でおるか?」
 とおっしゃったのです。
 実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。

No.14

>> 13 ――国民に対するお気遣いも有名でした。
殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。

No.15

>> 14 ――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか?
殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。
 ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、
 「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」
 とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。
 また、伯父様はこうもおっしゃっていました。
 「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」
 まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。

No.16

>> 15 🇯
■[戦後]国民の心を抱きとめ、慈しみ、祈る「記憶の王」昭和天皇の「畏るべき」姿/松本健一

 戦後の日本再生のなかで、わたしは昭和天皇のさらなる「畏るべき」要素を垣間見た。
 昭和50(1975)年5月、イギリスのエリザベス女王が来日したときのことだった。天皇のアメリカ訪問の半年ほど前である。
 エリザベス女王とにこやかに並んで立つ天皇の間には1人の通訳官が立っていた。この通訳官は「二・二六事件」の重要な脇役だった真崎甚三郎大将(軍事参議官。もと教育総監)の息子だった。
 このことは何を意味していたのか。二・二六事件を起こした青年将校らを、天皇は「反乱軍」とみなしていた。その事件に関わった人間の息子を自らの通訳として立たせることによって、決起した青年将校のことは許さないが、その心情ぐらいは察してやってもいいとの意志表示ではなかったのか。
 ここに、わたしが「記憶の王」と呼ぶ昭和天皇の「畏るべき」姿がある。昭和11年の事件から40年近くが過ぎ、天皇もすでに74歳になっていた。肉体は衰えても天皇の記憶は少しも衰えていなかった。
 天皇が、二・二六事件において決起青年将校から一時は軍事政権の首班として推(お)された、真崎大将の息子とにこやかに並んでみせたのは、「記憶の王」が40年ちかくの時間をかけて判断を下した天皇政治だったのではないか、とわたしは考えている。
 天皇家として、天皇制が国内の権力闘争を超えて存続するシステムとなるための、天皇自身の判断だったのではないだろうか。

No.17

>> 16 ■[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥

 当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
 後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。(談)

No.18

>> 17 ■[皇居清掃]GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話/高森明勅

【皇居勤労奉仕はいつ、どのような経緯で始まったか?
 木下道雄侍従次長(当時)の証言によれば、昭和20年12月に宮城県内栗原郡の60人の青年グループが皇居の坂下門にやってきて、「二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れていると聞き、草刈りやお掃除のお手伝いのために上京しました。どうかお手伝いをさせて下さい」と申し出たのが最初。
 実際は60人が突然やってきたのではなく、これ以前にグループのリーダー二人が上京、応対した筧素彦総務課長(当時)との間で勤労奉仕の受け入れをめぐるやりとりがあった。当時は占領下にあったため、筧氏は上の方に迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え、一切の責任を負って自分の独断で受け入れを決意した】
 宮城県栗原郡の若者たちは「みくに奉仕団」と名乗った。正確には男性五十五名、女性七名の計六十二名で、団長の鈴木徳一氏と副団長の長谷川峻氏(東久邇宮内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった。のちに衆議院議員)を除き、ほとんどが二十二、三歳の若さだった。過酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず、「娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる」という(木下道雄侍従次長(当時)証言)。
 むろん、占領当局によって拘束されることはなかった。ばかりか、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。みなの前に昭和天皇が姿を現されたのだ。
 鈴木氏の証言を紹介する。

No.19

>> 18  「奉仕はだんだん進んで正午近くなった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになってこちらをご覧になっておられます。(中略)お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取り次ぎで、いろいろ御下問を賜りました。(中略)やがてご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の眼にも涙がいっぱい光っていました」(木下道雄氏「皇室と国民」)
<中略>「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我れも我れもと次々に奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌二十一年には早くも百八十八の奉仕団が名乗りをあげ、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは昭和二十六年で、何と四万人近くの国民が参加した(奉仕団は八百三十一団体)。

 こうした動きに対し、GHQもさすがに疑念を抱き、背後に強力な組織があって、巨額の資金を投じ、彼らにとって良からぬ策謀をめぐらしているのではないかと、独自の調査を行なったらしい。その情報をキャッチした海外のメディアが奉仕団に取材をかけるようなこともあった。総力戦に敗れた国の君主制は第一次大戦時のドイツや第二次大戦時のイタリアのように滅びるのが通例だ。なのに日本の皇室の場合、滅びるどころか多くの国民がボランティアで皇居の清掃活動を行なっている。彼らが不審に思うのも当然だ。だがもちろん、そこには何の背後関係もなかった。人々のひたむきな皇室への思いだけがあったのだ。
【皇居勤労奉仕への参加は現在ももちろん受け付けています。詳細は宮内庁のHPを】

No.20

>> 19 ■[会見秘録]マッカーサーが「思わずキスしようとした」ほど興奮した昭和天皇「男子の一言」/本誌編集部

(昭和20年9月27日、昭和天皇とのマッカーサーとの第一回会見について)記録が公開されず、後に種々の資料が登場したことで、「何が語られたか」が論争になっているのは周知のとおり。もっとも有名なのは、『マッカーサー回想記』(1964年刊)のこの記述だ。
<天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。
 「私は、国民が戦争遂行するにあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」
 私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私を骨のズイまでゆり動かした>
 回想記の出版以前にも、昭和30年9月、重光葵外務大臣が、天皇の言葉を受けたマッカーサーが「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスをしようとしたくらいです」と語ったと紹介している。
 こうした発言の真意をめぐり、「作文だ」「日米合作の天皇免責だ」などの意見もあるが、鳥居民氏(歴史研究家)は、「これまでの記録を見れば、発言の輪郭は明らか」という。

No.21

>> 20 ■[エピソード]
ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「五つの佳話」/加瀬英明

●昭和天皇は生涯にわたって、ご自分が行なわれたことを自慢されたことなど、一度もなかった。また、終生にわたって名誉や栄誉を求められたことも、まったくなかった。ご自分についてはじつに無欲な方だった。
 天皇は敗戦の年の昭和20年12月に、松村謙三農林大臣を皇居に呼ばれてこういわれた。
 「戦争で塗炭(とたん)の苦しみを受けた国民に、このうえ餓死者を出すことは自分には耐え難い。政府が要請をしたのにもかかわらず、アメリカは食糧を与えてくれないという。だが、考えれば、当方に代償として提供すべき何物もないのだから、いたしかたがあるまい。
 それで聞けば、皇室の御物(ぎょぶつ。天子の所有物、あるいは皇室の所蔵品)のなかには、国際的に価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡して食糧に代えて、国民が飢餓を一日でもしのぐようにしたい」
 そして帝室博物館の館長に命じてつくらせてあった皇室御物の目録を農相に渡された。天皇の意向は幣原喜重郎首相(在任昭和20年10月~21年5月)を通じてマッカーサーに伝えられた。
しかし、マッカーサーは「それは皇室の人気取りだ。そのようなものは必要ない。私が責任を持って、かならず本国から食糧を輸入する方法を講じよう」といって、緊急食糧を日本に放出するようワシントンに求めた。
 昭和54年8月、宮内庁記者団とのご会見のときに、記者団から当時のことについて質問が出された。
 「そういうことがあったのは事実です。しかし、自分のしたことですから、あまり公にしたくはありません」
 これが天皇のご返事であった。

No.22

>> 21 ●昭和24年から東宮御教育常時参与となった小泉信三博士は、皇太子(今上天皇)の教育係を引き受けるに当たって、昭和天皇に拝謁した。
 そのときに、「陛下の御態度は、侍臣のおすすめ参らせた結果によるものでしょうか、あるいは古の聖人の書や明哲の伝記などをお読みになって、そういう習慣を御身につけられたのでしょうか」とうかがった。
 すると、天皇はいとも簡単に「それは人のすすめによったものでもなく、読書の結果でもない。これはわが家の伝統である」とお答えになった。

No.23

>> 22 ●天皇は酒を飲まれなかったし、美食を好まれることもなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。

No.24

>> 23 ●皇太子が学習院初等科を卒業された昭和21年3月、天皇はお祝いに写真機を贈ることを思いつかれた。侍従に「市場にあるものは、闇市でたかいことだろう。(宮内省)写真部に中古はないか」と写真部から中古品を一つ取り寄せられた。
 「これでよろしい。皇太子にはこれが手ごろだよ。あまり立派なものや、高いものを与えては、将来のためにならない」
 といわれた。今上天皇のカメラ好きはこのときに始まる。

No.25

>> 24 ●昭和のはじめ、陸軍大演習のため名古屋地方へ行幸された際、演習終了後に名古屋市内にある愛知時計電機の工場を視察されたその夜、30名ばかりの地方の民間功労者を晩餐(ばんさん)に招かれた。
 時計が話題となった。すると陪食(ばいしょく)を賜(たまわ)った一人が、チョッキから金鎖を手繰(たぐ)り、金時計を取りだし、得意げに「陛下、これは外国製で御座居ますが、実によく合います。国産のものはどうしても不正確で、まだまだとうてい外国製には及びません」と申し上げた。
 天皇はそれを聞かれると、ご自分の右ポケットから懐中時計を取り出された。
 「わたしのこの時計は12円50銭の国産品だけどもよく合うよ」
 と嬉(うれ)しそうに示された。その時計は侍従が天皇にいわれて東京・銀座のシチズン時計店で買ってきたものだった。高価な外国製時計よりもはるかに安価だったが、天皇はお使いになって外国製に負けないことを心から喜ばれていたのだった。

No.26

>> 25 ●天皇の機知にあふれたユーモアは外国でも大いに発揮された。
 昭和50年、天皇皇后両陛下はアメリカを訪問された。カリフォルニア州のディズニーランドを行幸啓され、居合わせたアメリカの子どもたちとも交歓されて大いに楽しまれた。このときにミッキーマウスの腕時計を贈られ、帰国後にこの時計を腕にはめられるという茶目っ気も御披露された。

No.27

>> 26 ●御訪米時にお迎えしたのが、ジェラルド・フォード大統領だった。両陛下がお泊まりだったホワイトハウスの向い側にある迎賓館「ブレアハウス」にフォード大統領が訪ねて、予定時間よりも長く歓談された。両陛下は翌日にアメリカの国民的スポーツであるアメリカン・フットボールをご覧になる予定だった。そこで、フットボール談議となった。
 フォード大統領が「スポーツのゲームを(大統領として)観覧しますときには、どちらかのチームを応援することができないので困ります」と申し上げた。
 すると、天皇が相づちを打たれて、「とくに明日、あなたが出場されていたら、困りますね」とすかさず答えられた。
 天皇はフォード大統領が学生時代にアメリカン・フットボールの名選手としてならしていたことを、知っておられたのだった。
 この話は私が直接フォード大統領から聞いたものである。フォード大統領は昭和49年に国賓として訪日したときにはじめて天皇と会ったが、天皇の真摯(しんし)なお人柄にすっかり魅せられていた。
 昭和天皇のお人柄によって、深く魅了された外国の元首や政治家は多かった。

No.28

>> 27 ●昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた昭和3年11月だった。天皇は27歳。
 翌月の15日、東京の皇居前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の諸団体から、青年男女約8万人が参加する大礼奉祝の式典が行なわれ、天皇が御親閲されることになった。天皇は大会の開催に同意されるとともに、天候を心配された。
 「もしも当日、雨が降ることがあったら、青年たちに雨具を着用させるようにしてほしい。また、いかような大雨になっても、わたしが立つ場所に天幕を張ってはならない」
 とお命じになった。当日は早朝から大雨であった。そこで、御座所の位置の上に天幕が張られた。宮内大臣をはじめ側近たちは天皇のご健康を思いやってのことだったが、天皇は「天幕を取りに除いてほしい。司令官も時と場合によっては第一線にたつことがある。今日はわたしのいうことに従ってほしい」と要望された。

  • << 30  午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。  やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。  天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。  当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。

No.29

>> 28 ● 「敗戦直後の9月、米国では真珠湾の騙し討ちに対する非難が高まり、国際法規を守ることに気を配っていた天皇を懸念させていました。真珠湾攻撃は東条英機がやったことだが、すべては私に責任があると、天皇はいったのです。
 忘れてはならないのは昭和天皇が何を語ったかの議論に隠れている事実です。そもそもマッカーサーに天皇を免責するしないの選択はできませんでした。天皇を免責するという米国の基本方針は1943年に内々に決まり、トルーマンが大統領になっても変わりませんでした。マッカーサーはそれに従ったのです。
 マッカーサーが天皇に好意を抱いたのは確かでしょう。ただその好意を日本向けに度々見せたことには、外交上の狙いもあったと考えたほうがいいでしょうね」
 一方、昭和天皇は、この会見については「マッカーサーと、これはどこにもいわないと約束したから」と、最後まで語らなかった。昭和52年夏の記者会見で記者の質問に答え、その約束を守ることを「男子の一言」と表現している。

  • << 31 ●終戦直後、フランス領インドシナ、東南アジアなどはイギリス軍の管轄下で約50万人、グアムなどアメリカ軍管轄下にも多くの日本兵がいた。  ノンフィクション作家、工藤美代子さんがロンドンにある国立公文書館で発見した外交文書によれば、天皇が個人の資金から赤十字国際委員会に5万円を寄付したというのである。その目的は「敵国にいる日本人の帰還が円滑に行なわれるのを助けるためと、彼らを勇気づけるため」に寄付を申し出たという。現在の貨幣価値に換算すると7500万円くらいになる。  当時の皇室財政は莫大なものといわれるが、天皇にとって皇室財政は国民のためのものであり、私するものではないという思いが沁(し)みついていた。  だが、戦争に負け、終戦を迎えると遠い異国で捕虜となっている日本兵の身の上が気がかりでならない。おそらく赤十字国際委員会に託した5万円は、天皇がご自分の意志でなんとか自由になる財産だったに違いない。  それは天皇が個人としてできる最大の心遣いだったのである。

No.30

>> 28 ●昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた昭和3年11月だった。天皇…  午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。
 やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。
 天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。
 当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。

No.31

>> 29 ● 「敗戦直後の9月、米国では真珠湾の騙し討ちに対する非難が高まり、国際法規を守ることに気を配っていた天皇を懸念させていました。真珠湾攻撃は… ●終戦直後、フランス領インドシナ、東南アジアなどはイギリス軍の管轄下で約50万人、グアムなどアメリカ軍管轄下にも多くの日本兵がいた。
 ノンフィクション作家、工藤美代子さんがロンドンにある国立公文書館で発見した外交文書によれば、天皇が個人の資金から赤十字国際委員会に5万円を寄付したというのである。その目的は「敵国にいる日本人の帰還が円滑に行なわれるのを助けるためと、彼らを勇気づけるため」に寄付を申し出たという。現在の貨幣価値に換算すると7500万円くらいになる。
 当時の皇室財政は莫大なものといわれるが、天皇にとって皇室財政は国民のためのものであり、私するものではないという思いが沁(し)みついていた。
 だが、戦争に負け、終戦を迎えると遠い異国で捕虜となっている日本兵の身の上が気がかりでならない。おそらく赤十字国際委員会に託した5万円は、天皇がご自分の意志でなんとか自由になる財産だったに違いない。
 それは天皇が個人としてできる最大の心遣いだったのである。

No.32

>> 31 ■[素顔]陛下はどんなときにご機嫌を損ねられたか/本誌編集部
●昭和43年から崩御まで内舎人(天皇身辺の雑役)として仕え続けた牧野名助(もりすけ)氏も、陛下はきめ細やかな配慮やお気遣いを忘れない方でしたと追憶する。
 「ある総理大臣が宮殿行事で陛下に拝謁した後のことです。陛下は、総理の退出の車が車寄せにいるのか確認したうえで『それならば歩いて帰ろう』とおっしゃられたんです。陛下が車を呼んで総理の車とすれ違えば、総理はおそらく車を降りられて陛下をお見送りするだろうというご配慮からのお言葉でした。また、たとえば東京都知事と会うときは、八丈島の織物・黄八丈のネクタイをご使用になるなど、お会いになる方へのご配慮も忘れませんでした。皇族の方と会う場合ですら、必ずその方から贈られたネクタイをご使用になっていました」

No.33

>> 32 ●「陛下は国体などの開会式などに出席される場合、30分でも40分でも姿勢を崩さず、セレモニーをご覧になっていました。この点はどんな場面でも、ご高齢になっても変わりませんでした。まさに公人。それ以外の何物でもないという方でした」(20年以上にわたり皇室取材を手掛けてきた元カメラマンの瓜生浩氏)

No.34

>> 33 ■[食生活]「焦がすな」「捨てるな」「腐らすな」が御所の厨房の三大原則だった/工藤極
【工藤極氏は昭和49年から54年まで宮内庁管理部大膳課に勤めた。この特殊な職場に勤めたいと思ったのは、主厨長の秋山徳蔵氏が高齢を理由に勇退される、という新聞記事を読んだことがきっかけだった。工藤氏は第二係(洋食)に配属されていた】
●聖上(おかみ)――われわれ大膳課の職員は天皇陛下のことをこうお呼びした――の朝食には毎日オートミールとコーンフレークが交互に出されていた。普通の家庭の食卓と大して変わらないのだ。これは昼食、夕食においても同様で、宮様との会食や、要人が招かれた饗宴ではそれ相応の料理が出されたが、普段の食事は非常に地味で慎ましいものだった。

No.35

>> 34 ●大膳課で働くようになってまず驚いたのが、使っている調理器具が、いずれも年代物と言ってよい古い物だったことだ。<中略>調理にはミネラルウォーターではなく、水道水を使った。食器も金箔が押してあるようなものではなく、菊の御紋はあるものの、それ以外はどこの家庭にもある食器と違わなかった。
●洋食の内容は、古典的なフレンチだ。フレンチというと、すごいご馳走だと想像する方もいるだろうが、過剰なデコレーションもなく、シンプルな家庭料理だ。肉か魚が1品あり、それにスープ、パン、温野菜、生野菜というのが通常のパターンだった。スープはつかないこともあった。<中略>担当ではなかったが、和食も焼き魚にごはん、味噌汁、付け合わせ、といったシンプルなものだった。

No.36

>> 35 ●大膳課では料理人として多くを学んだが、その1つに、食材は常に余すことなく使い切る、ということがあった。例えば鶏肉は御料牧場から丸ごと1羽仕入れるのだが、これをさばいて胸肉2枚、もも肉2枚、手羽、ぼんじりと分ける。胸肉、もも肉はグリルするなどして主菜にし、残った手羽は後日、軽く湯がいてカットしスープの具にする。骨はスープの出汁を取るのに使う。ぼんじりは軽く揚げてから薄いコンソメで煮て、付け合わせにする。野菜の皮は後でスープの具にし、葉物だったら漬物にするといった具合だ。これは「一物全体食」といって、食材を全部使うことで栄養バランスが偏らないようにする考えで、大膳課が長年守ってきた伝統であり調理の基本となっている。

No.37

>> 36 ●もう1つ、守るべき基本があった。それは秋山さんの後を継いで主厨長となった中島伝次郎さんがよくおっしゃっていたことで、「明治の料理の三大原則」だった。こういうと何やらものすごく難しいことのように思うが、実は非常にシンプルで、「焦がすな」「捨てるな」「腐らすな」である。つまり商品にならないものを作るな、余った食材を捨てる前に何かに使えないか考えろ、在庫を把握して常に鮮度を見ろ、というものだ。

No.38

>> 37 ●いずれも日本の家庭で失われつつある文化、心構えを大膳課では誰もが持ち、天皇の食卓にはそれが受け継がれているのである。

No.39

>> 38 ■[祭祀]「神事優先」の伝統を重んじる陛下は「宮中祭祀の簡略化」に反対だった/斎藤吉久

 宮中祭祀の簡略化は昭和40年代以降、入江相政侍従長が具体的に着手しているが、これは正確には「簡略化」ではなく「破壊」といっていい。
 宮中祭祀は、天皇自らが祭典を執り行なう「大祭」、掌典長(しょうてんちょう)が行ない天皇が拝礼する「小祭」、毎月1日、11日、21日に行なう「旬祭(しゅんさい)」などに分けられる。このうち、まず旬祭が昭和43年に簡略化された。1日は親拝(天皇自ら拝礼すること)だったが、それが5月と10月の年2回に削減された。さらに45年には宮中祭祀第一の重儀である「新嘗祭(にいなめさい。11月23日)が簡略化されている。新嘗祭は天皇が神嘉殿(しんかでん)において新穀を天神地祇に捧げ、自らもお召し上がりになる祭儀であり、「夕(よい)の儀」と「暁の儀」がある。このうち親祭(天皇が自ら執り行なう)は夕の儀のみとし、暁の儀は掌典長が執り行なうこととなった。
 簡素化は続く。<中略>これらは、陛下の「ご高齢」に対する配慮ともいわれるが、果たしてそうか。簡略化が始まる43年、陛下はまだ60代であった。しかも46年にはイギリスなど欧州7か国を訪問し、50年には訪米している。理由は他にあったのではないか。

No.40

>> 39 <中略>昭和天皇は祭祀を重んじたというよりも、歴代天皇がそうであったように、天皇第一のお務めとして、粛々とこなされたのだと拝察する。
 その陛下が、「ご高齢」を理由に簡略化が推し進められる状況をどう思われたのか。明言されていないが、陛下のお心を察することができる言動がいくつかある。前述の通り新嘗祭が簡略化された時、陛下は「これなら何ともないから急にもいくまいが暁(の儀)もやってもいい」とおっしゃったと『入江相政日記 第 4巻』(朝日新聞社)に記されている。このお言葉を受けて入江は「ご満足でよかった」と書いているが、そうではないだろう。これは“祭りを正常化せよ”という意思表示であったと捉えるのが自然である。
 実はその翌年から夕の儀も掌典長が執り行なう予定であった。入江日記では57年6月には「お祭りすべてお止めということですっかりお許しを得」たはずなのに、陛下は病床に伏される直前の61年まで親祭(天皇が自ら執り行なう)を貫かれたのだ。
 争わずに受け入れるという至難の帝王学のもとで、最大限抵抗されたのだろう。

No.41

>> 40  たしかに祭祀はご負担である。例えば新嘗祭では座布団もない硬い畳の上に長時間お座りになり、御直会(おなおらい)をされる。そのため、新嘗祭が近づくと、陛下は居間でテレビをご覧になる時、普段はソファに座ってご覧になるが、座布団を敷いて正座してご覧になっていた。当日は午後3時に始まり、すべての祭儀が終わるのは翌日の午前1時頃だったといわれる。しかし、周囲が「ご高齢」「ご負担」を繰り返したのには違和感を覚える。
 負担軽減が必要であれば、国事行為を皇太子に代行させたり、憲法には記載のない公的な行事へのご臨席を減らすという方法もあったはずだ。だが、現実には公務が優先され、宮中祭祀が犠牲となった。

No.42

>> 41 <中略>実は背景には厳格な政教分離の考えがあった。当時の事情を知るOBによれば、「戦前の宮内省時代からの生え抜き職員たちがそろって定年で退職し、代わって他の省庁から幹部職員が入ってくるようになったことが原因」だという。新しい職員たちは国家公務員であるという発想が先に立ち、皇室の伝統に対する理解は乏しかった。宮内庁内に厳格な政教分離の考えがはびこり、「なぜ祭祀に関わらなければならないのか」などと側近の侍従職までもが声を上げるようになり、祭祀から手を引き始めたのだという。

No.43

>> 42 ■[ワイド]我が心の昭和天皇 「柔道は骨が折れますか?」事件の真相/山下泰裕

【皇居の園遊会に招かれ、昭和天皇から「柔道は、骨が折れますか(柔道は、大変ですかの意)」と尋ねられ、「はい、昨年骨折しました」と答えて周囲の爆笑を誘ったエピソードについて】
 怪我の功名といえばいいのか。失敗を悔いる間もなく意外な展開が待っていた。私の勘違いがおかしかったのだろう。陛下と私の会話に静かに耳を傾けていた他の出席者から笑いがおこった。さっきまでのピンと張り詰めた緊張が一瞬で解け、会場には和やかな空気が漂った。陛下も楽しげな笑みを湛え「今日はよく来てくれました」と私をねぎらってくださった。
 あの勘違いのおかげで、私は運良く陛下の自然なお姿と笑顔を知ることができたと思っている。私にとって大きな体験だった。陛下の慈しみ深い表情を目前で拝見したとき、こう感じたのだ。
 陛下は、常に世の中の平和や人々の安らぎを心から願っているのだ、と。
 私は、いくら言葉を重ねても相手には届かない「思い」というものがあると考えている。そんな陛下の「思い」が、表情、立ち居振る舞い、雰囲気から私の心に響いてきた。(談)

No.44

>> 43 ■[ワイド]我が心の昭和天皇 陛下の自然体のご威光を受けながら日本は驚異の復興を遂げた/平沼赳夫

 私は終戦の翌年に小学校に入学し、戦後教育を受けた人間である。そのため、一時期は皇室の存在自体に疑問を抱くほどリベラルな思想に染まっていた。だが、中学3年生の頃、谷口雅春氏らの著書を読んで昭和天皇のお人柄、事蹟に触れ、目から鱗が落ちるように感激した。
<中略>全国を行幸されたときのエピソードにも感銘を受けた。例えば、地方によってはまともな宿泊施設がなかったため、焼け残った民間の建物や学校の教室にお泊まりになることも厭わなかった。また炭鉱では労働者が皇室制度に反対する演説をぶとうと待ち受けていたが、いざ昭和天皇がこられると、自然と万歳を唱えていた。昭和天皇の持つ、言いようのないご威光を感じたに違いない。
<中略>今上陛下まで数えれば125代という、世界で唯一無二の家系の重みを背負いながら、一瞬にして人を包み込むおおらかさをお持ちになっている。それがご威光になるのである。そのお姿を間近に拝見するたびに、私には、自然に万歳を唱えた炭鉱労働者たちの気持ちが理解できた。
 敗戦、そして復興という、我が国の歴史の中でもとりわけ激動の時代に、昭和天皇という偉大な存在を戴いたことは、日本人にとって幸福なことだった。(談)

No.45

>> 44 ■[ワイド]我が心の昭和天皇 日本中が一つの気持ちになった「大喪の礼」の舞台裏/石原信雄

【平成元年2月24日、「大喪の礼」が執り行なわれたこの日は、朝から霙(みぞれ)混じりの雨が降りしきるこの年一番の冬日となった。石原氏は竹下政権下で、事務方の内閣官房長官。それは「大喪の礼」の実務を取り仕切るという大任を与えられることを意味していた】
 昭和天皇の御遺骸を載せた霊轜(れいじ)が、会場の新宿御苑に到着する。
 「参列者、沿道の人もコートや合羽を着用して構いません」
 常に国民を第一に考えていた陛下を思い、そう異例の通達を出していた。しかし、霊轜が近付くと参列していた国民も、警備担当者もコートや合羽を脱ぎ、傘を閉じて拝礼した。ちなみに、後に暗殺されたパキスタンのブット首相は、生前の陛下を偲び、あえて薄着の民族衣装の礼服を身にまとい、翌日、風邪をこじらせた。

No.46

>> 45 <中略>国民は、御不例になって以降、陛下をただ静かに見守り続けた。戦後日本において、天皇陛下に対する自らの気持ちを発露させたのは、このときが初めてではなかったか。
 なかには、御不例が秋だった関係で、日本全国の学校で運動会を中止する動きが広まるなど、行き過ぎた自粛もあった。「陛下のお心に沿うものではない」と過度の自粛を避けるよう政府から呼びかけたが、それも国民の陛下を思う気持ちゆえのことだった。
 陛下の御崩御から大喪の礼までのひと月余り、警備態勢の確認や交通規制のシミュレーションで国民に多くの負担を強いながら、一切、クレームがなかった。
 沿道に集まった20万人もの人々、テレビの前で静かに見つめていた全国の人々。昭和天皇を静かに見送りたい――この日、日本中がその気持ちで一つになったのだ。(談)

No.47

>> 46 🇯以降マッカーサーは、昭和天皇を「Your Majesty」(陛下)と呼ぶようになりました。

昭和天皇は生涯平和主義者でした。
昭和天皇は、軍事史及び歴史全般にも詳しく、
フランス革命の研究家でもあり、古今東西の歴史を深く認識していました。
皇太子時代の6ヶ月にわたるヨーロッパ外遊時、
第一次世界大戦の戦場を見てまわり、
「戦争とは実にひどいものだ」と涙したそうです。
それが生涯にわたる平和主義に繋がったと言われています。
ですから、昭和天皇は日独伊三国同盟にも戦争にも反対していました。
昭和19年には空襲が激しくなり、
防空壕として急増された吹上御文庫に移転して住まわれましたが、
日当たりが悪く、湿気の多い、とても快適とはいえばない居所でした。
戦後、何度か新築の話があったそうですが、
昭和天皇は「国民の住宅事情がよくなるまでは」と、
新しい居所を作る事を許さず、
戦後16年もその御文庫での暮らしを続けました。
敗戦後、昭和天皇はマッカーサーと計11回会談しています。
その第一回目が昭和20年9月27日、場所はアメリカ大使館。
マッカーサーは天皇を出迎えもしませんでした。
その会談で、天皇はマッカーサーに対してこう語ったと言われています。
「戦争責任は私にある。私の身の処置は貴方に任せる。
私を絞首刑にしてもかまわぬから国民を助けてほしい」
昭和天皇の言葉を聞いたマッカーサーは驚き、
以後、天皇を信頼、尊敬するようになります。
昭和天皇を出迎えなかったマッカーサーですが、
その会談に感動し、見送りをしています。以降、出迎えもするようになりました。
以降マッカーサーは、昭和天皇を「Your Majesty」(陛下)
と呼ぶようになりました。

No.48

>> 47 昭和天皇論 「マッカーサーとの会見」

昭和20年9月27日、
その朝、皇居内は異様な静けさに包まれていた。
昭和天皇は無言のまま、深刻な表情で玄関に向かう。
香淳皇后も表情をこわばらせて見送る。
昭和天皇「ごきげんよう」
香淳皇后「ごきげんよう」
交わした言葉はこれだけ。
この後、何が起こるか誰にも分からない。
これが永遠の別れの挨拶になるかもしれなかった。
昭和天皇は、
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと初めて会見するのである。
まだ連合国の占領方針は明確にされておらず、そのまま天皇が拘束され、
戦争犯罪人として裁かれる可能性もないとは言えなかった。
マッカーサーは玄関に出迎えも見送りもしないと決めていた。
天皇とマッカーサーは握手し、挨拶を交わした。
正装で直立不動の天皇に対し、ノーネクタイで姿勢を崩したマッカーサー。
天皇より自分が格上だと画像で示し、日本人に敗戦の事実と、
我こそが日本の支配者だということを実感させる為の写真がある。

昭和天皇
「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、
私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」
昭和天皇が責任逃れをするだろうと見くびっていたマッカーサーは、
昭和天皇のこの態度に衝撃を受けた。
マッカーサーとの会見は予定を15分ほど超え、35分にわたった。
そして会見後は予定を変え天皇を玄関に見送った。

昭和天皇・マッカーサー会見の時に、
マッカーサーの側近だったフォービアン・バワ―ズは、
会見後のマッカーサーの様子をこう証言している。
「会談が終わり、天皇の一行をお送りした後、
元帥に呼ばれて部屋に行くと、
元帥は本当に感動した様子でぐったりイスにもたれていた」
「我々が玄関のホールに戻った時、
元帥ははた目にみてもわかるほど感動していた。
私は彼が怒り以外の感情を外に出したのを見た事がなかった。
その彼が今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた」

No.49

🇯教育勅語🇯

教育ニ関スル勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風を顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名 御璽

音読
教育勅語を諳んじる台湾のご年配者(12分過ぎからご覧下さい)
http://m.youtube.com/watch?desktop_uri=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D_vg5wn-EF9k&v=_vg5wn-EF9k&gl=JP

No.50

>> 49 読み下し文(現代仮名遣い)
教育ニ関スル勅語
朕(ちん)惟(おも)フニ、我ガ皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。
我ガ臣民(しんみん)、克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ、世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ、此(こ)レ我ガ國体ノ精華(せいか)ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)、亦(また)実ニ此(ここ)ニ存ス。
爾(なんじ)臣民、父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、学ヲ修メ、業(ぎょう)ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ、進ンデ公益(こうえき)ヲ広メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重(おもん)ジ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急(かんきゅう)アレバ、義勇公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以テ天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。
是(かく)ノ如(ごと)キハ、独(ひと)リ朕ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風(いふう)ヲ顕彰(けんしょう)スルニ足ラン。
斯(こ)ノ道ハ、実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓(いくん)ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所、之(これ)ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之(これ)ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)ラズ。
朕、爾臣民ト倶ニ拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ咸(みな)其(その)徳(とく)ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。
明治二十三年十月三十日
御名 御璽(ぎょめい ぎょじ)

  • << 51 現代語訳  但し現代語(口語)訳では、原文の持つ深い含蓄が伝わりません。初学者は現代語訳を読了して教育勅語の大意を掴んだ後は、是非とも原文を音読されることをお勧めします 私(明治天皇)が思うに我が皇室の御先祖様が国をお始めになったのは、遥か昔のことであり、その恩徳は深く厚いものです。 我が臣民は忠と孝を守り、万人が心を一つにしてこれまでその美をなしてきましたが、これこそ我が国の最も優れたところであり、教育の根本も実にこの点にあります。 あなたたち臣民は父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友人は信じ合い、人には恭しく、自分は慎ましくして、広く人々を愛し、学問を修め、仕事を習い、知能を伸ばし、徳行・能力を磨き、進んで公共の利益に奉仕し、世の中のために尽くし、常に憲法を重んじ、法律を守り、もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けるようにしなければなりません。 このようなことは、ただあなたたちが私の忠実で良い臣民であるだけではなく、あなたたちの祖先の昔から伝わる伝統を表すものでもあります。 このような道は実に我が皇室の御先祖様がおのこしになった教訓であり、子孫臣民が共に守らなければならないもので、今も昔も変わらず、国内だけではなく外国においても理に逆らうことはありません。 私はあなたたち臣民と共に心に銘記して忘れず守りますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを切に願っています。
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