携帯小説「二番目の悲劇」
「二番目の悲劇」
🔯 作者@ りん
🔯 演出@ ホロロ
で、進めて参ります、長編小説です。
新しい試みですので、優しく見守って下さるようお願いします🙇
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「なるほど。お宅にプリンターはありますか?」
「ありません。弟の香月は今度のクリスマスにサンタさんに頼むっていってます」
「アハハ、まだ子供なんだね」岡林は笑いながら、ファイルからB4サイズの紙を出した。
「じゃあ、ちゃんと見るのは初めてかな。これなんですよ、問題のモザイクは」
隣で両親が身じろぎした。和美は初めて自分の運命を変えたそのモザイクを見た。
似ている……
というより、まったく同じだった……
それまでは新聞の白黒写真でしか知らなかったが、タイルと油絵の具と素材がまったく違うのに、こうして見ると色使いまで見事にそっくりだった。
他の人が『盗作』というのは、あまりにも当然だ。
もしも、オバマの製作の方が後だったら、和美の方が盗作されたと思ってしまうほどだった。
それにしても……
和美はモザイクをじっくりと見つめた。
なんて緻密で繊細な表現力なんだろう……
ひと目ではタイルとはわからないほどである。
途方もない芸術だ。
こんな形で出会わなければ、どれだけ心から感動できただろうか……
「オバマの事は、まったく知らなかったそうですね」岡林はいった。
「えぇ、友達から世間知らずって笑われるんですけど。天才美少年だったとか…」
「実は僕、個人的に結構オバマにハマったんです。実際、彼のモザイクはヒーリングパワーみたいなもんがあってね、有名なクアハウスのモザイクは、モネのような淡い色調で絵柄もファンタジックなんですが、もうその中にいると頭がふわーっとして……。いやぁ、ああいう体験は他ではしたことないですね。この『天を走る』はオバマにしては珍しい抽象的な表現で、色使いも鮮やかです。なぜ、これほどまでの作品をしまっておいたのかわかりませんが、僕もまったく知りませんでしたよ。」
「あの……今回の事件について、オバマさんの方はなんていってますか?」
オバマ…
と口にするだけで胸がズキンと痛む……。
そんな素晴らしい芸術家の名前が、和美の心の傷となり、一生ついて回るのだろうか……
「オバマはここ数年、イタリアに行ったままです」岡林はいった。「とにかく人間ばなれしているというか、出生も私生活もまったくの謎ですし、日本での居所もわからない。謎の作家なんです。だけど、もしこの事件を知ったところでおそらく彼は何も言わないでしょう。オバマは誰かを責めるなんていうことは考えつきもしないし、意味もわからない。まあ、そういう人です」
岡林はまるで身内の事を話すようにいった。その顔に一瞬、幸せそうな微笑みが浮かぶ。
一体オバマという人がどんな人なのか、和美はその時にはイメージができなかった。
「でも」和美はいった。
「どうやってこのモザイクを私が見ていないって証明するんですか?」
「完全な証明なんて、世の中どこにもありませんよ。この場合、証言で固めていくしかないでしょう。和美さんはモザイクに興味をもたれた事は?」
「モザイクが何なのか、これで初めてわかったくらいです」
「そういう発言の裏付けをとるんです。お友達からも話をききますから、後で紹介してください。」
それで『疑惑・謎の盗作。浮かび上がった新証言晙晙』風の記事にするんです。
少なくてもそういう事実を訴えるように書いていけば、ひょっとしたら盗作ではないんじゃないか……と思う人間がどっと増える……ハズです。
岡林は少し主観に頼り過ぎるきらいがあるが、和美の味方のような気がしてきた。
「他にも今まで盗作ではないかと疑われた実例をあげていきます。これが、あるんですよ」
岡林はいくつか資料を見せた。
そっくりな二つの彫刻……
服のデザイン……
商品のパッケージ……
和美はあっけにとられて、それらの写真を見比べた。
「どれも迷宮入りですよ」
岡林がいった。
「映画を見に行ったら自分の書いている小説と同じストーリーで驚いたとか。同じペンネームで同じ題材で小説を書いている二人の作家が、会ってみたら顔もそっくりで、生年月日や家族構成や生い立ちまで同じだったとか」
「ほ、ほんとですか?」
「別に不思議じゃありません」岡林は事もなげにいった。
「ただ世間は説明のつかないことに慣れていないだけなんですよ。特にこういう保守的な土地柄じゃ。例えばあなた、UFO信じますか?」
「え、それは……」
和美は口をもごもごさせた。「やっぱり自分の目で見てみないと」
「こんな珍しい体験をした和美さんでさえそうなんです。自分がまともだと思ってる人達は、みんな盗作だって言うに決まってますよ。つまり、そういうことです」
はあ、と和美はうなずいた。この事件とUFOと、いったいどの辺に共通点があるのだろうか。
岡林の頭の中が見てみたくなった……
「では、まず和美さんと問題の絵の写真を撮りたいんですけど」岡林はカメラを取り出した。
「僕もこの目で見てみたいしね」
飯山オフィスから送り返された絵は、梱包もほどかれずに物置部屋に置かれたままだった。
二度と開けたくないと思った事もあったけど、本当は誰かに開けるきっかけを与えて欲しかった事に気づかされた。
段ボールを開くと、絵は冬眠についているように白い布で包まれていた。
ときめきを抑え、和美はフワリと布をほどいた。『疾走』が現れ、息を吹き返す。音もなく輝きを放ちながら。
岡林がフィルムをセットしている手を止めた。意外なもののように絵を見つめている。
「似てますね、ほんとに」やがて岡林はいった。
「でも、この絵がこんなに魅力的でなかったら、こんな騒ぎにならなかったでしょう。」
和美は静かに自分の生んだ絵と再開し、向き合っていた。
あんな事があったのに、少しも嫌いになっていない。それどころか欠けた魂の一部が帰って来て、パズルのようにぴったりとハマった気さえする。
一度でもこれを封印しようとした自分が信じられなかった。
写真撮影が済むと、岡林は一時間半にわたりインタビューを録音した。
和美に向けられたのは、的確で誠意ある質問だった。
彼を突き動かしているのは、事実に対する強すぎるほどの興味である。
岡林はあやふやにするのが許せない性格のようで、創作の衝動が始まったときの事から、周りの人間関係のことまで事件の周辺を神経質なほど細かく聞き出した。
「お疲れ様」岡林はスイッチを切った。
「インタビューは終了です。やっぱり思ってたとおりだった」
この他人である岡林は、今や完全に和美を信じてくれている。
だが、それは決して感情的なものではない。和美は整然とした思考がこんなにも温かいものだとは知らなかった。
そして信用とは、なんと力に溢れているものだろう。
あの一枚の絵を描いてから、和美はいろんなものを知った。
だがそれは、決して悪いものばかりではなかった。
「じゃあ、あとは」岡林は片付けながらいった。「パソコンを見せてもらえばいいだけです」
和美はどうぞ、と縁側に続く障子を開けた。
と、パソコンの前にはちょこんと香月が座り、小さな手にマウスを握っていた。
「香月です」和美は紹介した。「香月、大事なお客さんだよ」
「こんにちは」岡林が目線を下げていった。「遊んでるところ悪いね、ちょっとパソコン貸してくれるかな?」
香月はうなずき、画面をすぐに保存した。覗き込んだ岡林が、そこに民宿のホームページをみると驚いた顔になった。
「きみ……これ、もしかして君が作ってるの?」
香月は岡林の唇を読んで、まるで無口な子のようにコクリとうなずいた。
「そうなんです。私はちんぷんかんぷんなんですけど、香月が全部一人で……ねえこれ、もう出来上がったの?」
(…もうすぐだよ)
香月がパパッと手話で答えると、岡林はますます驚いた。
「香月は聾唖学校に通ってるんです」
和美は説明した。
「そうか」岡林は頷いていった。「頭いいんだね」
マウスを持ってもたもたしている和美に、岡林は「芸術って言葉を検索してみてくれないか?」
「検索?……」
和美は、インターネットの接続方法すら知らなかった……
和美はマウスと格闘したものの、検索スペースにうまくカーソルを持ってこれない。
タイピングはやたらに遅く、変換を間違えてはやり直し、やっと芸術と入力するまでに5分を必要とした。
その間、香月はやきもきして姉に課せられたテストを見ていた。
「はい、もういいですよ」岡林はいった。
あたふたしていた和美は、「えっ」と岡林を振り返った。
試験に落ちた気分になってしまった。本当に目を潤ませている。
「合格です」岡林は笑いながらいった。
「悪いけど、今のおたおたした様子を書かせて貰いますよ。無罪の証拠ですからね」
無罪。
その言葉を聞いて、両親が何事かと様子を見に来た。
「こんな言い方をすると裁判みたいですけど」岡林はいった。
「いわれのない冤罪をかけられたようなものですから。和美さんは間違いなく無罪です。ただ一枚の優れた絵を描いただけだ」
家全体を包んでいた重い空気がふっと軽くなった気がした。
「あ……」和美は感激して口に手を当てた「ありがとうございます」
香月が姉に抱きついた。
父親はぎこちなく岡林に頭を下げて、「頼みます。どうか娘を助けてやって下さい。わしらにはどうもしてやれん」
「お任せ下さい」岡林はバッグから二冊の週刊誌を取り出した。「来月にはこれらの雑誌に記事が載るはずです。もちろん実名でね。和美さんは悪いことをしてないんですから」
どちらも発行部数の多い雑誌だ。父親が感激したようにそれを手に取った。メジャーに弱い街の人達の見方を、また、揃って変える力があるだろう……
「あなたが本当に裁判長かなんかだったらよかったのに」母親がハンカチで涙を拭きながらいった。
「みんながどんなにひどい事を言ったか、もう聞かせてあげたかったですよ」
「この記事一つで環境がすっかり変わりますよ」岡林はいった。「まぁ、マスコミの力を楽しみにして待ってて下さい」
みんなの顔に本物の笑いがあふれた。
「真実には時々『はざま』ってもんができる」岡林はいった。「そして、ときどきそこに落ち込む人がいる」
岡林の興味は、好むか好まざるかにかかわらず、負の側に立ってしまう人間にあるようだ。
彼は殺人の疑いをかけられて、一生を台なしにした人達の事を語った。
「その一人が、僕の父親だったんです」
「どんなに世の中が便利で清潔になっても、そういう事件や事故は決してゼロにはなりません。マイナスのエネルギーは、必ずどこかで順番に選ばれた人間を襲う。それは水の循環のようなものです。山から湧き出る澄んだ泉もあれば、汚れて濁った水溜まりもできる、そんな感じでしょうか」
和美はうなずいた。
今日、自分はこの岡林に泥沼から引っ張りあげられたのだ。
「でも、どれも濁ったままで終わることはない」岡林は満足そうに和美を見つめた。「水溜まりだって、いつかは蒸発して、一番きれいな雨に生まれ変わる……」
「そして、蒸発するには太陽が必要ってわけですね?」母親は眩しそうに岡林を見つめた。
取材談義も尽きた頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
「それじゃ、記事が出来たら香月くんにメールするからね」岡林は香月の頭に手を置いて言った。「アドレス教えてくれるかな?」
香月はうなずき、パソコンのそばにあった紙にアドレスをメモすると、嬉しそうに岡林に手渡した。
「ありがとう……?なんだいこりゃ」岡林はメモを裏返した。「え、『露天風呂増築計画書』?」
香月が「あっ」と口を開けた。
それはいつか破った、手書きの設計図だった。
「え、露天風呂?」和美が目を丸くしていった。「ここまでちゃんと考えてたの?」
「本当に頭がいいんだな。将来が楽しみだ……ん?」岡林の動きが止まった。露天風呂のそばに小さなカタカナの四文字があった。
モザイク…………
「香月くん」岡林は落ち着いた声でいった。「ここは……モザイクを貼る予定だったの?」香月はうなずき、素早く手を動かした。
「《工事費がかからないように、自分達でできる事はないかって考えた》」和美が香月の手話を見ながら、岡林のために通訳した。
「《お風呂のこといろいろ調べてたら、割れたタイルで作るモザイクが出てきた。これならできるかなと思った》」
「ネットで調べたのかい?」
香月はこくんとうなずいた。
「それじゃあ」岡林は真面目な顔でいった。「オバマっていう人のこと、知ってる?」
和美はさっと青ざめた。
香月には盗作の嫌疑の事は、一切知らせていない。案の定、香月は首を傾げている。
大翔も来ていたのだが、岡林の真剣な追及に出鼻をくじかれた様子で、和美達の前に出られないでいる。
「モザイクでクアハウスを作った有名な人だよ」岡林はいった。「『森の湯』とか『海の湯』のこと知らないか?あと『青い龍』とか」
「《ああ、それなら見た事あるよ》」香月の手話を訳す和美の声が震えた。「《名前は知らなかったけど》」
「それじゃあ、ネットサーフィンしていったんだな?」岡林は素早くパソコンに手をのばした。オバマを検索して、『ゴースト・トゥーン』のサイトを開いた。
「これは?」岡林の語気が強くなった。「どう?これは見た事ある?」香月は大きな目でパソコンの画面を見つめていた。何とかして思い出そうとしている様子だ。
両親や大翔も岡林のただならぬ声を聞きつけ、なにごとかと集まってきた。
「どうなんだ?」岡林は尋問するようにいった。「正直に答えなさい」
和美ははっとして岡林を見た。その表情は、みるみるいびつなものに変わっていった。
よく知っていたはずの人間が、次々と彼女の目の前で違う顔を見せたように……
香月の顔に怯えが走った。
「あるんだな?」岡林はクリックを続けていった。「それじゃあ……これは」
オバマのモザイク、『天を走る』が現れた。そのとたん、香月の顔が紙のように白くなった。
「見た事あるんだな?えぇっ!」岡林は香月の肩をゆすった。「本当の事をいいなさいっ」
「やめて」和美は叫んだ。「この子をそんな目でみないで俉」
和美はかつて自分を切りつけたものが、香月に向かうのを見た。それは裁きの行為だ。自分が正しいと信じた誰かが振り下ろす、責めの刃。
和美はかばうように香月を覆った。
胸の中でそのいたいけなめが和美を見る。
和美は何かが香月の中で壊れる音を聞いた……
「私は見ていません、一度も」和美は低い声でいった。「本当に私は知らないんです」
「でも、この子は見たんだ」岡林は冷ややかな声でいった。
両親は訳がわからず立ち尽くしていた。
岡林は信じていた人間の死刑の証拠でも見つけたかのように冷気を発している。まるで裏切られたのは自分のほうだと言わんばかりに……
「おう俉あんた晙」大翔が噛み付かんばかりの声をあげた。
「なに言ってんのかわかんねぇよ。和美は見てないって言ってるだろ」
「だけど、弟は見た」岡林はいった。「だとしたら絶対に関係ないとはいいきれない」
「バカ言ってんなよ俉」
「君にはわからないんだよ!」
岡林の顔が激しい感情で染まっていく。彼はみんなと目を合わせないように、そそくさとバッグを肩にかけた。
「僕はこれで失礼します」
「何なんだよ、てめぇその態度はよ俉」
大翔は岡林の胸ぐらをつかんだ。
「てめぇの人を信じるっていうのは、その程度なのかよ俉」
「やめろ、大翔」父親が急いで間に入ったが、大翔はすでに野犬のように怒り狂っていた。くりだしたパンチを辛うじて父親が払いのける。三人はもみ合いになり、そのまま障子にぶつかった。
『ガシャーン』
はずれた障子がテーブルを倒し、パソコンが廊下を転がる。
「やめてっ俉」
和美は大翔の足にしがみつき叫んだ。「大翔やめてーっ」
大翔は父親に羽交い締めにされ、岡林をにらみつけている。
誰も何もいえなかった。説明も、謝罪も言い訳も……
何が起こったのかわからないのだから……
壊れたパソコンの真っ暗な画面が和美を見上げていた。
まるで彼女を陥れたブラックホールのように……
その時、和美の中で何かがキレた。
今までキレるということがどういうことかわからなかったのに……
安全だった自分の世界が、あの創作の時と引き換えにして崩れ落ちていく。
突然、和美は駆け出した。渡り廊下を駆け抜け、玄関ホールへと。
そこにはさっき飾ったばかりの『疾走』が壁にかかっていた。
梱包をほどく時に使ったカッターナイフはまだカウンターの上にあった。
和美は飛び付くようにそれをつかむと、「…やだ、…もうイヤ。みんなこの絵のせいだ。こんなもん描いたのが間違いだったのよー」
和美は絵の前で大きくカッターを振り上げた。
「やめろーっ、和美俉」大翔が叫んだ。
鋭い刃がキャンバスを切り裂く寸前に、母親が割って入った。
母親の背中から、赤いものがにじんでいる…
「お母さん俉俉」
和美は叫んだ。
「そんなことしたら、後で一番傷つくのはあんたよ……」
と母親が言った。
和美はこんな事になってもまだ娘を信じ続ける母親を、心から尊敬し、愛している事を知る………
黒い小さなものがホールに飛び込んで来た。濡れた手が和美の胸にしがみついてくる。
香月が泣いていた。和美は幼いものの涙を見て我に返った。
(オネエ、僕見たんだ。あのモザイクを見た。お風呂の事を調べてて、いつのまにか見てたんだ。オネエの絵を見たとき、どっかで見た気がした。もっとはやく気付けばよかった……。オネエ、ごめんね、ごめんね……)
和美は香月に一生消えないキズが刻まれつつあるのを知った。香月が一番したくないこと……
それは、世界で一番好きな姉を傷つける事だ。
もし、ここで感情的になってしまったら、この子は二度と立ち直れないだろう……
「違うよ香月、あんたのせいじゃない。」和美は香月の両肩にそっと手を乗せて、強く、ゆっくりと首を振った。
(僕がモザイクを見たのは、オネエが絵を描いたあの日。もし、僕が見てなかったら……)
「そんな事関係ない。香月がみても、お姉ちゃんは見てなかったんだから」
(ほんとに関係ない?)
「ない。絶対にない。当たり前じゃない。お姉ちゃんはあのモザイクなんか見てなんかない。見てないのに、同じ絵を描いてしまった事が間違いなのよ。だからほんとにあんたのせいじゃない。わかった?」
和美はそっと香月を抱き寄せた。小さな頭が胸の中でこくんとうなずいた。
(でもどうして……どうしてかなぁ……)
最後は寂しいつぶやきになった。涙でにじんだ和美の視界に、大切な人達が、そしてすべてを狂わせたあの絵が揺れている。
どうしてあれが起こったのか……
どうしてあれは自分を見捨てたのか……
絶望の底で、和美はわからなかった。
ただ、わからなかった。
[第一部 完]
キラキラと輝く無数の緑が、太陽の光の美しさを教えてくれる。木造アパートの前には、東京とは思えない風景が広がりを見せる。
[広々としたダイコン畑]
二階の窓から見ると、グリーンの毛布のようだった。
不動産屋によると、この物件が不人気の原因は、この『素晴らしい』景観のせいだという。
『とても都会にいるとは到底思えない』
というのが、和美の部屋を訪れた全員が、褒めているとは思えない感想だった。
駅から徒歩😷10分、六畳の和室、三畳のキッチン、膝を抱え込まないと入れないユニットバス。
それでも、勤めている商事会社の事務員が貰えるお給料では、本当にギリギリの生活……
一体何が楽しくってわざわざ東京へ出てきてこんな貧乏生活をしたがるのか、田舎の人間から見ると理解ができないだろう。
そして和美も、なぜこの生活がおもしろいか、なにがどう快適なのかをうまく説明することは不可能だった。
「か~ず~み~ちゃん、あ~そ~ぼ兊」
廊下の洗濯機から取り出した洗濯物を、二階の窓いっぱいにひらひら広げていると、下から可愛い声がかかった。和美が窓から身を乗り出すと、風になびく白いシーツの下から、眩しそうに手を振っているミチが見えた。
ジーンズに白いシャツ、さらさらの長い髪。片手にはペットボトルの入った袋を両手で抱えている。シーツが撮影用のレフ板の役目を果たし、そのままミネラルウォーターのCMにでもなりそうだった。
「もう、なにやってんのよ。こんなに良い天気なのに」ミチがいった。
「なに言ってんのよ、良い天気だから洗濯物を干してんでしょ」和美が言った。
東京にきたら付き合いもなくなると思っていたのだが、ミチはそう簡単に和美を捨ててはくれなかった。呼ばれもしないのに一ヶ月に一度、一方的にひょっこり顔を出してくる。
その度にお互い近況報告をしては、同じ都会に生きている同じ年の女とは思えない、あまりの生活が違う事に驚き合うのだった。
「あ~…炊きたてのごはんの匂いだ」
まるで自分の部屋のように図々しく入ってくると、ミチは炊飯器に鼻を近付けた。
「和美ったら、日曜なのにデートの予定もなく一人でご飯たべてるの蓜」
忙しくなればなるほど日曜日が恋しくなるのは、マイペースの和美でも同じことだ。
だけど、休みの日に和美を待っているのは、熱愛関係のイケメン……ではない。
たまった洗濯物、うっすらと床に溜まった埃。
それらの無言の圧力はストレスをむやみに増幅させるので、せっせと家事にはげむのだった。
残った時間は肌の手入れや読書、せいぜい友達との長電話。
そんな生活が続いてもう一年になる。
「ほっといてよ」和美はいった。「これが私の理想の生活だもん」
「こんな平凡でつまらない生活が蓜」ミチがいうと、「その通り。人生、平凡が一番難しいの。私は勝負するガラじゃないからね。じゃ、そういうことで。これから平凡な私は平凡極まりないお昼ご飯を食べるから、ミチのような子は六本木あたりのグルメスポットでイケメンの金持ち男にコース料理でもご馳走になりなさい」
「そんなもん、毎日やってたら飽きちゃうよ」ミチはけろりといった。
「そうすると、お金のかかっていない普通の食べ物が最高のご馳走になったりするんだよね」
「私と食べたいなら素直にいいなさいよ」和美がいうと、ミチは勝手に冷蔵庫を開けて、いちいち歓声を上げながらお惣菜を出し始めた。
キンピラ、ほうれん草の胡麻和え、シラスおろし。
ガス台の上の肉じゃがを見つけた時は、飢えた子が母親を見つめるような目で和美を振り返り、「ねぇ、一緒にランチしよっか蓜」とミチがいった。
「お願いしますでしょ蓜」和美がイジワルっぽい声でいうと、「お願いします」と両手を合わせて和美を上目使いで見つめた。
ミチは大方の予想通り、高校卒業と同時に、遊びに来た原宿を歩いている所をあっさりとスカウトされた。
今はタレント事務所のお世話になっていて、自由が丘のオシャレなワンルームマンションに住んでいる。
給料がどのくらいかわからないが、いつもセンスの良いファッションに身を包み、顔も会うたびに洗練されているのがわかる。
それでも、事務所にはそんなのがゴロゴロいるとかで、これまでミチがもらった仕事は深夜のCMくらいだった。
「あ、チョコレートだ」ミチが冷蔵庫を覗いていった。「……大翔、来たんだ」
「あぁ、ずっと前にね」和美は気楽にいった。「忘れてた。後で食べよ」
あのふざけた男は一度ふらりとバイクでこのアパートを見に来て、ダイコン畑と和美の足を比較して言いたい放題言って帰っていった。
後で冷蔵庫を開けたらいつの間にかチョコレートが入っていたと言うわけだ。
和美は大翔と二人きりになっても、青春ドラマになるようなエピソードはなにも起きなかった。
何かがどこかでズレたまますれ違い、その関係はどうやっても友達以上にはなれないとわかっただけだ。
ミチは少しだけ眉を上げたが、多くを尋ねなかった。
タレント事務所のカッコイイ男達と毎日接していて、もう田舎の幼なじみに対する微妙な想いなんか吹っ飛んでいるのか蓜
それとも逆に、それはなにものにも代えがたい貴重な宝物となっているのか、和美にはよくわからない。二人はワイワイ騒ぎながらランチを食べた。
「懐かしい」ミチは本当に幸せそうにご飯を食べた。「…ねえ、帰りたくない蓜」ミチがそんなことを尋ねてくるとは意外だった。和美は何気なくミチを見た。
ご飯を食べているその様子をみると、今度はお米のCMに出ればいいと思うのは、身内のひいき目だろうか蓜
こんなに綺麗で都会的なのに、目標へのハードルが高いだけ、実は和美よりずっとずっと無理をしているのかも知れなかった。
「別に」和美は言葉少なに答え、みそ汁をすすった。
高校を卒業すると同時に、和美は待ちかねたように故郷を離れた。
捨てた……といったほうが正確かもしれない。
もし、あの高校時代に何事もなかったら、和美は親元から離れることなど考えつく事もなく、おとなしく地元の大学か専門学校に行き、地元の会社で真面目に仕事をして、地元の優しい男と結婚をしただろう。もしかしたら、その人生にいたのは大翔だったかもしれない。
そして、毎日こんな安上がりで美味しい惣菜を家族のために作っていたかも知れない。
だが、あの一枚の絵が和美の運命を変えてしまった。
和美はとにかく、誰も自分の事を知らない都会へ行きたかった。ふとしたときに、『あの盗作の羽瀬』と囁かれる事のない都会へ。自分を泥棒扱いした故郷に未練はなかった。東京に行くことを和美に躊躇させたのは、少年になりかけた香月の涙だけだった。
都会に出てきた和美は、創作とかかわりを持つことを一切避け、進学も選ばずただ黙々と働く道を選んだ。とにかく保護色をまとってこの街に埋もれたかった。
もう二度と群れから突出するのはごめんだった。
通勤電車に揺られ、隣の人と区別のつかない無個性な自分を見いだすと、言葉にならないほどの安堵を覚えた。
「知ってる、和美蓜」ミチがいった。「最近の紫苑の話。あのお父様と喧嘩して仕送りストップされたらしいよ。原因は外車だって…」
「え!買って貰えなかったの蓜」
「ううん、その逆。お父様が買い与えようとしたら、紫苑が拒否したんだって」
紫苑は難関の芸術大学へストレートで合格し、高級住宅地にあるセキュリティ万全のマンションに住んでいるらしい。
あまりに至れり尽くせりで、自立のまねごとでもしたくなったのだろうか蓜
「これからどうすんのかな」和美があっけにとられた。
「お嬢様なのに。まさか生活費を稼ぐためにコンビニでバイトする……とか蓜」
「大丈夫よ、紫苑なら。」ミチはあっさりいった。「男が放っておかないから」
たぶん、いつも自分がそう言われているのだろう。和美は紫苑のキリリとした顔を思い出していた。
東京には、確かに美人はいっぱいいる。それでも紫苑のような雰囲気の女はみたことがない。
あんな事件があったものの、和美は紫苑が芸術の道を進んで行くことを疑った事はなかった。
「ねえ、ミチはドラマとかに出ないの蓜」和美は尋ねた。
「ま、オーディションは受けてるんだけどね…」ミチはいった。「役者は容姿じゃなくて、存在感や演技力なのよね。私はまだまだ……」
和美はその目がかすかにかげったのを見逃さなかった。ここに来る時は、何か嫌なことがあった時だと察しはついている。本当に仕事が楽しくて人間関係がうまくいっていたら、誰がダイコン畑やしみったれたアパートや地味な同級生なんか見に来るものか。
「ねえ……あたし、今でもあの絵のこと思い出すんだよ」ミチはいった。
ミチが盗作事件の話題を避けなくなったのは、東京にきてからだった。
どうやらデリカシーの基準が変わったらしい。
「あの時、あたしはまだ子供で、あの絵が欲しいとしか言えなかった」ミチはいった。
「でも、あの絵がすごくて泣いちゃった時、あたしの中でも何かが変わったんだと思うの」
「何か蓜」和美はいった。
「すごく深いものに触れてしまって、その感動を味わってしまって……だからね、自分がまだまだ薄っぺらだって、本当にわかるの。あの絵は和美にだけ影響を与えたんじゃない、もしもあの絵に出会わなかったら、あたしはあの街から出なかったかもしれないよ。なんかね、うまく言えないんだけど……本当の感動を知っちゃったから、自分もやってみようって気になったの」
不思議なものだ。
和美はなんとも言えず、黙り込んだ。あんなにまだお互いの形が決まってないときに不思議な嵐が吹き、それぞれの運命が変わった。
今では同じ学校にいたことも遠い夢だ。
「和美、また描いてよ」ミチは両手をアゴの下で組み、しっかりと目を見ていった。「テレパシーだってなんだっていいじゃない」
最近、自分の運勢を見てもらうために評判の占い師に会ったミチは、あの盗作事件の原因はテレパシーだという説にいたっていた。電線でも電波でもなく、意識は独自の伝達システムを持っていると信じたらしい。つまり、香月の脳から和美の脳へと見たものが伝わったというわけだ。
和美もその説を考えた事がなかった訳ではなかった。だが、香月がパソコンでモザイクを見ていた時間と、和美が受け取った時間にはかなりのズレがある。しかも、あれは多大なエネルギーを伴い、狂おしいほどの衝動と快感と共にやってきたのだ。決してちょっと見ていたものが一致したという程度のことではない。
この事実をどう解釈したらいいのだろうか……。
だが、どちらにせよ和美には既にわかっていた。
あれがただ一度の、気まぐれな嵐だということを。全てはあの時にピークを迎え、あっという間にどん底へ落ち、終わってしまったのだ。
和美は今でも時々悪夢にうなされる事がある。
寝ていると、またあの陶酔感がくる。
もう嫌だと思っていたのに、嬉しくて嬉しくて我を失いそうになる。
すると、突然左右から二枚の絵が現れ、和美をはさみうちにして押し潰そうとするのだ。
虫けらのようにぺしゃんこに……
悲鳴をあげて和美は跳び起き、それから少し泣く。後悔ではなくて、それでもまだ心のどこかで『あれ』を待っていた哀れな自分に気付いて。
だが、それから何度か都会の春をやり過ごし、望んでいた平穏な生活がすっかり自分のものになると、やがて悪夢の回数は減っていった……
和美はいつしか平凡を望む事すら忘れてしまった。
そうして、三年が過ぎた。
草の海を渡るひとすじの風が……そんな歌詞をマリムラは書いたばかりだった。しかし今、森を望むテラスに座ってしみじみと草の匂いをかいでみると、爽やかというよりも土が発酵したような匂いがする。
どちらかというと牛に似合いそうな香りだった。マリムラはその歌でデビューするさわやか系アイドル歌手を思い出し、ひとり苦笑した。
今頃、その新曲発表会場で誰かがマリムラを探しているにちがいない。
だが、彼がいなくたって新曲は歌える。どうせクライアントのセンスのないジジイを適当に納得させてCMに乗せて、バラエティーばかり見ている音楽音痴に売る。
逃げ出して来た、という自覚はない。なにしろ自分はあの業界が性に合っているのだから……。
あの都会の雑踏もエネルギーの源、もうひとつ身体が欲しくなるあの忙しさも、夜も昼もないハードな生活も、売れっ子だという事実も、クリエイティブな仕事をしているというギマンも、みんな自分に似合っている。あのミュージック業界から逃げ出す理由なんてないのだ。
マリムラは何気なく大きな樫の木を見上げた。それなのに、あの枝が首吊りしやすそうに見えるのは何故なんだろう……。
打ちっぱなしのコンクリートでほとんどガラス張りのシンプルなその別荘は、意外にも日本の森にマッチしている。
マリムラはルーフテラスに置かれたソファベッドに一人で横たわっていた。習慣とは恐ろしいもので、彼はまるでこれから仕事をするように、自殺の段取りを考え始めていた。
はしごは別荘の裏にあるのを見かけた。
ロープは地下室にあった。
ハイになる薬は持っている。
遺書なんかいらない。
読みたがるやつもいない。きっと最後に書いた歌詞が遺書のように見なされるだろうが……
だが……
マリムラは作詞が煮詰まったときのようにアゴをなでた。
死ぬのはいいが、ここでは死ねない理由がある。
憘どこかで聴いたような音楽が鳴った。自分が作ったヒット曲を着メロにするのはやはり悪趣味だろうか。
「マーリン蓜」電話の向こうから甘えた男の声がした。
こんな風に自分を呼ぶのを許しているのは陽二だけだが、マリムラはそれに目尻を下げるような男でもない。
いったいいくつなのか、陽二に歳を尋ねた事はなかった。それは女に尋ねないのと同じエチケットだ。
「ゴメンね、あたし行けなくなったの」陽二が声をひそめた。
「急にパパがきちゃって……」
「そうか、残念だな」マリムラは平坦な声でいった。
「今ちょっとヤバイから。またあとで電話するわね」
短い電話はマリムラを開放した。これでまた一歩、死に近づいた。
だが、やはりここでは死ぬわけにはいかなかった。
ここは佐藤陽二の別荘だ。もちろん彼のパトロンの金で建てたものだが、ここでマリムラがあの世にいったりすると、マスコミが少しは騒ぐだろうし、陽二の素性などすぐに割れる。
なにしろ若くして新宿界隈にゲイバーをまかされているのだから……
同性愛者の多角関係はしばらく週刊誌をにぎわすだろう。
死んでしまう自分はどうでもいいが、残された方はマリムラを呪い続けるに違いなかった。
なにもかも嫌になった……
昨夜、泥のように疲れ果て、陳腐な愚痴を口にしたマリムラに、陽二は天使のような笑顔でこの別荘の兤鍵を渡してくれたのだった。
一日だけ、なにもかも捨てちゃいなよ晙
あたしも後で行くから。
だが、なんのことはない。
陽二はなにもかも捨てちゃえなかったわけだ。
たった一日すらも――。
所詮、気まぐれな愛人関係なのだ。そして結局、優柔不断な自分はなにもできない。出来ることは、酒のつまみにちょっと自殺の事を考えてみるくらいだ。
ギャー、ギャー……
聞き慣れない鳥の声がした。マリムラは小さい頃から異様に音に敏感だった。
例えば喫茶店に入ると、隣のテーブルや、後ろの席の人の声が、同じテーブルで自分と喋っている人と同じように鮮明に聞こえる。
キッチンから響く調理器具の音や、ウェイトレスの愚痴まで聞こえてしまう。不便な聴覚だが、それが彼の才能でもあった。だから、他の人があらゆる音の中から自分の聞きたい音だけを選別して聞いていると知った時は、天地がひっくり返るような衝撃を受けた。
どうりでいくらアレンジや間奏を変えてもボーカルだけしか聞いていないはずだ。
マリムラは目の前の風景を眺め、自然の音を拾った。見渡すかぎり建物も人も見えず、延々と森だけが広がっている。陽二は別荘を建てるにあたり、それこそ男同士が裸で歩き回ってもいいような僻地をえらんだ。
鳥や虫の声がする。
だが、それは音楽ではない。音楽のない空間はマリムラにとって居心地のいいものではない。
しかし、リビングにある音響機器には、ここに来てから一度も触れていない。
マリムラは目を閉じ、鳥の声に耳をすました。
それが歌に聞こえてくるのを待ちながら……。
何かが聞こえた―― 声。
鳥の歌ではない。
かすかな高音。
マリムラはそっと足を進めた。
これは人の声か蓜
それとも音断ちの禁断症状か蓜
いや、幻聴にしてはハッキリ聞こえてきた。
高い声が水の音に混じる。
女だ。
女が歌ってる。
マリムラはメロディを追った。古い日本の名曲『さくらさくら』だ。
惹かれていた。
そのシンプルな旋律を歌いあげる歌声に。
マリムラは身を低くして、そっと草をかきわけた。
着物姿の女が白樺の林の中で歌っていた。水面をその歌がすべり、ぐるぐると回るように感じた。
長い髪、白い顔、まるで雪女だ。しかもその表情には常人にはない妖気が漂っている。
人間ではないのか蓜
しかし、この声は――。
マリムラは知らないうちに胸をかきむしっていた。胸が痛い。
ただの『さくらさくら』がマリムラの胸をえぐる。
そこに穴があき、たまっていたものが噴き出そうとしているように……。
この歌のせいだ。
この声のせいだ。
いままで自分を成功へと導いてくれたプライドが消え、心の隅に閉じ込められていた真摯なものが広がったかと思うと、あっという間にマリムラを支配していった……。
子供の頃に歌を口ずさんだ時のトキメキ、音の魔法。
マリムラは今、その歌によって本質を引き出され、ごまかしが利かなくなった。
今までずーっと騙し続けてきたのは、他人ではなく『自分』だったのだ……。
なんという声だ。
この世のものとは思えない、美しい……。
パシャッ。
足元でカエルが跳ねた。
女の歌声が止み、その顔がゆっくりとこちらを振り向いた。
マリムラは静かに立ち上がった。女は消えも叫びもしなかった。
これは夢ではないのだ。
この女は現実にいて、人間なのだ。しかも天才的な歌い手……。
マリムラは、みつけてしまったのだ。
仕事にはすっかり慣れて、メイクもうまくなり、腰も足首も引き締まり、和美は22才になっていた。
もうどこから見ても都会の女だ。たまに故郷に帰って駅前などを歩いていると、和美を振り返りながら見る男も増えた。
心の防御網が狭くなるにつれ、反対に交際範囲は徐々に広がっていた。人に紹介されて、イラストレーターやミュージシャンと知り合っても、かたくなな殻をかぶらなくなった。
いくつかの短い恋愛は経験したが、決まった彼氏はまだいなかった。住まいもダイコン畑のアパートから、こ綺麗なワンルームマンションに移り、キャラメル色の猫を拾って『キャラ』と名付けた。
中学二年生になった香月は、たまにしか帰って来ない姉を恨んでいたが、ひょんなことから障がい者向けの奨学金を獲得して、オーストラリアの牧場へホームステイに行くことになった。
牛の搾乳や、羊飼い、バター作りやキノコ採りなど全てが初体験の連続らしく、興奮で支離滅裂な内容のハガキが時々和美の元に届いた。
しかし、半年も過ぎると、よほど現地の生活に夢中になっているのか、そのハガキもご無沙汰気味になった。
和美は寂しさよりも、香月が広い世界を見ていることを心地よく感じていた。
両親はますます元気で、ボロ民宿『味里』もなんとか持ちこたえている。
母親はエステティシャンの資格をとり、宿泊客に新サービスを開始していた。
ミチは下積みで苦労したが、ようやく花を咲かせていた。
新人女優として初めてドラマに出た時は、和美は嬉しくてビデオに録画しては何度も繰り返して見た。忙しくなって和美の家に来ることもなかなかできなくなり、二人のやり取りはメールかたまの電話になったが、それもだんだんと自然な距離になってきた。
和美は充実していた。
高い望みもなく、仕事も人間関係もそれなりに楽しんでいた。
あるべき自分の器の中に、エネルギーがすみずみまでゆったりと行き渡っている、そんな心地良い気持ち。
このままずっと生きて行けるだろうと、深く考えもせずにそう信じていた。
そんなある日……
また『あれ』がやって来た。
「うちに寄って行かないか蓜」
同僚の男性社員、佐伯はさりげなく誘おうとして、見なくてもいい腕時計に目をやった。
午前2:30……
二人きりで飲んだのは二回目。カラオケのあと、ほのめかすような告白があった。
「今度、また」和美は佐伯を傷つけないように、言葉を選んで微笑みながらいった。
ここまで来るのに手順を踏んで、半年も時間をかけるような真面目な男だ。ある意味、和美の理想と言えるかもしれないが、この夜に限って和美は踏ん切りがつかなかった。
こちらの誠実さを全部払ってもまだお釣りがきそうな男と、トキメキの爆発にいたるにはもう少し情熱がいるのだ。
小雨のぱらつく交差点でやんわりと佐伯の手を振り切り、和美は一人タクシーに乗り込んだ。
揺れる想いを乗せた車の中にまで雨の匂いは忍び込んでくる。強烈な睡魔に襲われた和美は、うとうとしながら部屋にたどりついた。
玄関のスリッパの上でキャラがちょこんと待っていた。和美はけだるい身体をベッドに沈めた。
佐伯と付き合うのは、きっと時間の問題だろう。これからの人生に穏やかでどっしりとした安定感を予感しながら、和美は眠りに引きずりこまれた。
窓に当たる雨音と、脳をとろけさせる雨の匂い……
どこかから音楽が聞こえるのは、歌いまくったカラオケの余韻だろうと思った。
気がつくと、あの夢の中にいた……
深い陶酔に身体が溶けてしまいそうになる。
久しぶりだ、とかすかな意識で和美は考えていた。あの絵が現れて自分を押し潰さないうちに、この夢から早く目を覚ましたい。
しかし、身体は煙のように実体を失い、指先を動かすこともまぶたを開けることも出来なかった。
陶酔は狂おしいほど高まっていく。
だが、いつまでもあの絵は現れなかった……
かわりに、歌が聞こえた。
バラード。
あまりにも美しい旋律と胸を打つ詞。
どこかの部屋でCDでも鳴っているのだろうか蓜
和美が音に集中すると、歌は”ウワッ”と大きくなって彼女を包みこんだ。
聴覚だけを残して存在が消えた感覚に襲われた。
まるで音の海を漂っているようだ。
音がきらめき、生きて躍動している。
和美の魂は旋律のゆりかごに乗せられ、どこまでも運ばれて行く気がした。
誰もいけない場所。
世界の果てまで。
宇宙の彼方まで……
目を覚ました時、和美は幸せのあまり涙で枕を濡らしていた。
泣きながらふらりと立ち上がった。自分に何が起きたのか、今度はわかっていた。
あれが来たのだ。
また、あの『魔の時』が。
だけど……
これから自分がしようとすることを止められなかった。
それは世界の呼吸。
世界の鼓動。
誰にも止めることはできない……
ただ、こっそりと歌うだけだ。自分だけのために。
この世に生まれて自分のところに訪れたものを、そっと記録しておくだけ……。
誰にも聴かせはしないから―――。
和美は震える指でレコーダーのスイッチを入れ、録音ボタンを押した。
まとわり付くキャラを追い払いながら、コツコツと指がテーブルでリズムを取り始める。
目をつむり、細いアゴが天に向かって上がる。
それから唇から発せられた声は、もう誰の声かわからなかった。
あとからあとからインスピレーションがあふれ、歌となって紡ぎ出された。熱にうなされたように和美は歌い、歌うごとに美しい一本の旋律の糸が織り成された。
二番は一番のバリエーション、三番で変調してクライマックスを迎える。
全てを振り絞り歌い終わったとき、和美はぐったりと倒れた。
自分の中の生命力が歌の粒となり流れ落ちたように……
再び意識を取り戻した時には、太陽は高く昇り、部屋はまぶしいほどの光に満ちていた。
和美は白日の下に我が身を発見して、初めて見たもののように驚いた。
それは、あまりにもいろいろな属性を身につけて重くなっていた自分だった。
いつの間に……
和美は思った。
あの夢の中にいるときは、自分は素晴らしい『ありのまま』の存在だった。
それなのに……
今はなんて重い鎧を着ているのだろうか蓜
余分な飾りをつけているのだろうか蓜
今まで、『ありのまま』の素晴らしさに何故気付かなかったのだろう蓜
和美は自分の肌を撫でてみた。生身の体、その重み。その時、彼女はゆっくりと気付いた。
純粋な魂である『自分』を愛すると同時に、それにくっついている俗っぽい人間らしさの一つひとつもこよなく愛してる自分に。
そして、そのことを教えてくれたものに感謝した。
歌だ。
和美は手を伸ばして再生ボタンを押した。
そこには、この世に生まれたての美しいバラードを聞いた。
その中には、間違いなく彼女の『魂のかけら』が残されていた。
山奥から拾ってきた天才歌手、森本桜。
いや、正確には『そうなるはずだった』女だ。
サクラチル――か。
マリムラはそっと傍にしゃがみ込み、桜の顔を覗き込んだ。
桜はか細い声でぶつぶつ何かを言いながら、折り紙を折っている。
「桜、何を作ってるんだ蓜」マリムラは精一杯優しく話しかけた。
「……ぶんぶんが見張ってる。病院からあたしを追い掛けてきたの。ぶんぶんは淋しがってるふりをして、あたしを乗っとろうとしてる……」
ダメだ。
完全に自分の世界に入り込んでる。しかも、その世界が何かを意味しているとは到底思えなかった。医者によると、かなり重度の妄想があるとの診断だった。
悲しすぎる。
もちろん桜の頭に霧がかかっていることは、一言しゃべった途端マリムラの知るところとなった。
あの山奥での感動的出会いから、たった5分後のことだ。
ただならぬ妖気。
つまりは、夢の中をさ迷う人間が発する独特のムードというわけだった。
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