二番目の悲劇2⃣
二番目の悲劇をご愛読下さっている皆様、感謝しております🙇
物語も残りわずかとなりましたが、最後までお付き合い頂けると幸いです。
また、このスレを偶然でも目にして下さった方に是非最初から読んでいただきたく、前スレを貼付けましたのでご一読下さると幸いです。
http://mikle.jp//story/dispthread.cgi?th=3009&AT=000023940866D220
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それから一年が過ぎても、和美は窓の外に広がるスペインの風景に子供のように感激していた。
白壁の家々に明かりが灯り、降るような天空の星と混じりあっている。
ホテルのレストランでは、片隅のテーブルが和美の指定席となり、いちいち言わなくてもお任せディナーが運ばれてくるようになった。
三人の子供を育て、もう家事は一生分やったような気がする。
なんにも考えずに舌の旅をさせてもらうのは、毎晩楽しみにしている体験だった。
その夜、和美はいそいそと席についたとたん、頬に視線を感じた。
二つ向こうのテーブルについている顔見知りの老人が、ワインを片手に味のある視線を送ってくる。
名前は知らない――。
彼も世界のどこかからやってきて、この土地を観光地として素通り出来ず、とうとう居着いてしまった共犯者の一人だった。
和美はもともと人から見られるのがあまり好きではなかった。
せめてもの救いは、その時は風呂上がりにパックをしたばかりで、ぴかぴかの肌で男性の視線を受け止めたことくらいだ。
忙しい時は、自分の肌なんかほったらかしだったが、今では一日に何度もパックが出来るくらい時間がある。
暇だ――。
そして暇は、とんでもない落とし穴を持っている。
「こんばんは、ミズ・ハセ」
ウェイターは控えめな笑顔とともにエジプト豆のスープを置くと、速やかに下がっていった。
どうやら人は挨拶だけでは生きていけないらしい。
このところ、訪ねてくるジャーナリストもめっきり少なくなり、さすがの和美も退屈を感じていた。
たびたび遊びに来ていた紫苑も、最近は体調を崩して家にこもっている。
まともな人間の会話を交わしていない和美は、きっと『話し相手募集中』の看板を首からぶら下げているに違いない。
彼女は老人の気配を窺った。
向こうはきっかけを待っている。だが、たとえしなびた老人でも退屈し切っている男が、どんな退屈しのぎの妄想を抱いているかわかったものではない。
和美はせっかく賜った視線に応じることなく、スープに手を伸ばした。
コホン。老人が気を引くように咳をした。
和美は若い女のように身を硬くした。
目があったら最後、きっと話し掛けてくるだろう。
おまけに和美はなにかを断るのが大の苦手ときている。
視界の隅で老人の尻がムズムズと動く。椅子がギィッと後ろに引かれるのが見えた。
やだ、こっちに来る……
どうしよう――。
その時、和美の視界がすっと暗くなった。
いつのまにか、老人と和美の間に別の人影が立ちふさがっている。
和美はおそるおそる顔を上げた。
それがよく知っている男だと気づくまでに必要以上の時間が掛かったのは、記憶力が衰えたせいじゃなく、相手がひと回り太ったせいだった。
「…読んだよ」
佐伯はぼそりと言った。
和美は超能力者のように片手にスプーンを持ったまま、固まってしまった――。
この短い言葉を、自分はいったい何年待ったのだろう……
それをこのスペインの片田舎で、あやうくナンパされそうな時に聞けるとは――。
「去年、武史がぼくのところへ来たんだ。ノーベル文学賞受賞でラリー・ホーンが自分の母親だと知ったあとに」佐伯はいった。
「あいつは、あの本を読まなきゃ一生後悔するぞ、と親父を脅かしやがった。
なあ、覚えてるか蓜
武史は小さい頃から親が薦めた本は絶対に読まなかったのを。
だからぼくらは読ませたい本だけは絶対に薦めなかった」
「そうそう、そうだったわ」和美は思わずくすりと笑った。
「それが誰に似たのか、ようやくわかったよ。結局、ぼくが『大いなる幻想』を読んだのは、武史に薦められてから一年後だったんだ」
和美が声を上げて笑ったので、ウェイターが驚いて振り向いた。
この日本人は笑えない女だと思っていたのかも知れない。
きっと佐伯はここに来るまでに何時間も、彼女と再会したら何と言おうか必死に考えてきたのだろう――。
元妻なのだから、それくらいはわかる。
そして和美は元妻として、その元夫の努力を無駄にしたくなかった――。
「先月、心臓発作で倒れたんだ」佐伯はいった。
「それで、心境が変わった。生きてるうちに息子の言うことを聞いておこうかと」
「間に合ってよかったわ」和美はいった。
「あれが書きたかったのか。ぼくは君が妻として母親としてしてくれた事も、あの本の事も忘れられない。どれも君のしたことだ。
ああ、そのためにぼくは確かに嫌な思いをした。ずっとぼくたちのトラウマがぐるぐる頭を回って消えなかった。」
それは和美も同じだった。
きっとそんな時は互いにぐるぐるしていたのだろう。
言い訳……
自己嫌悪……
罪悪感……
これらが、ぐるぐると追っ掛けっこ――。
そしてついに、和美は諦めたのだった。
「でも、苦しみっていうのはいくら恨んでも消えない」佐伯はいった。
「無理に忘れようとしても、どこかにこびりついて残ってる。
だからって、我慢し続けても何も解決しないんだ。だったら、相手をとにかく許せばいいのか蓜」
佐伯はゆっくりと首を横に振った。
今も昔も彼はとんでもなく真面目だった。
何年もかけて自分に起こった事を考え続けていたのだ――。
「これだけ長い間離れていたんだから、ぼくが君を許すことなんて簡単だ。
ぼくを許してくれとなくことも出来る。
でも、それじゃ足りないんだ。本当に嫌なことを嫌でなくするには……理解するしかない。
自分につらい思いをさせた相手の事を、どうにかしてわかるしかないんだ」
佐伯はそういって、白くなったその頭を下げた。
その向こうに、渋い顔で二人の様子をうかがっているさっきの老人が見えた。
「ありがとう」佐伯はいった。「あれを書くためなら、どんな事があってもおかしくないと思う。
仕方がなかったんだ。
だって、君は一人しかいなかったんだから……
ぼくは、それでもあの本を書いてくれたことにに感謝する」
この人生にまだ驚くことがあったとは……
和美はこんなドラマを自分で創作した覚えはなかった。
それは、人生の終盤に当たって佐伯がひねり出した奇跡だ。
そして、今の和美にとっては、あの創作の衝動よりも必要な、大きなプレゼントだった。
ここに、この人がいる―― 和美は涙ぐんだ。
他にはもう、何もいらない――。
「わたしには、許す事なんてないわ。
理解することも――」
和美はいった。
「ありがとう、あなた」
和美はそう言うとつるつるの頬を、熱く、正直な涙がすべり落ちた。
情熱の異国は人生をやり直そうとしている二人に優しかった。
やがて、和美はユウとともにパームツリーに囲まれた別荘に移り住み、平穏の季節に入っていった。
美しく豊饒な土地、輝ける自然の中で、時間は今までになくゆっくりと緩やかに流れた。
二人は今こそ本当に寄り添った。
愛し合った――。
自由になった――。
素晴らしいと惚れ込んでいた別荘も、十年も経つと欠点が見逃せなくなるものだ――。
惚れて一緒になった相手と一緒だ。
スペインタイルが貼られたバスルームは見栄えは良いが、あいにく暖房がきかなかった。
いくら温暖なアンダルシアでも真冬は寒い。
「わたしのおばあちゃんはね、真冬にトイレで倒れたのよ」和美はいった。
「脳卒中でね」
「何度も聞いたよ、その話は」
ユウは言った。
「だから今年こそはバスルームに暖房をつけなきゃな」
「あなたも何度もそういったわ」
寒い寒いと言ってる内にいつの間にか春が来て、ついそのことは忘れてしまい、その内また次の冬が来る。
すっかりスローペースになった夫婦は、もう十回もそれを繰り返していた。
「今年こそ暖房をつけるわ、本当よ。
来週には電器屋さんに電話するんだから」
そういっていた本人がバスタブのそばで倒れたのは、クリスマスのネオンが街に輝き始めた12月の夕暮れだった――。
とっさにユウの取った行動は、いつか和美を助けた時のように的確だった。
しかし、動作はあの時ほど速くはなかった。
あたふたと救急車を呼び、妻の頭を動かさないように体を毛布でくるみ、保険証と辞書と着替えをバッグに突っ込んで、意識のない妻の手を握っていた。
冬場、高血圧、高齢者と三拍子揃っている。
救急隊員が来るまでの数分間に、彼は自分を責め、心の準備もした。
普段から『なにかあったとき』の事はうるさいほど聞かされていた。
『わたしの人生は幸せだった』
和美は元気なときも、いつも過去形でいった。
『三回分楽しんだ気分。山を登るのは苦しかったけど、登らなきゃ見えないことがいっぱいあったもの。
だから、そっと逝かせてね』
脳卒中――。
赤十字病院の脳外科医は即座に診断を下した。
スペインに暮らしてもう十年になるユウは、ついにそのスペイン語を覚えることになってしまった。
さらに、重症、危篤、延命治療……
医師の説明にユウは黙々と辞書をめくった。
「ご家族に連絡をとってください」
「あ……そ……こ」
看護士のイサベルは異国の言葉に、えっというように振り返った。
ヨーロッパ有数のリゾート地にあるため、この赤十字病院に担ぎ込まれてくる外国人は多い。
食中毒、虫垂炎、がん――。
病魔も死神も、時と場所を選んでは来てくれないのだ。
だが、日本人は珍しく、イサベルはその女性患者が何を言っているかわからなかった。
いつの間に意識を取り戻したのだろう、ベッドに横たわった日本人女性は薄目を開けて窓の外を見つめていた。
明け方の空は美しいオレンジ色に輝いている。
イサベルはインタホンで医師に意識が戻ったことを伝えると、レースのカーテンを全開にしてやった。
天空の神が描く芸術を、この患者はあと何度見られるのかわからないのだから――。
「……和美」
補助ベッドで寝ていた夫がもがくように起き上がり、妻の名を呼んだ。
妻の眼差しがそれに応える。
イサベルはそっと目をそらした。
病人を見守る家族の姿は、その愛ゆえに切ない。
この日本人夫婦の間には、長年連れ添った者しか出せない円熟した雰囲気をかもしだしていた。
だが、妻が元気になってこの病院を出る可能性は極めて少ないのだ。
「あそこ……」
妻は囁いた。
夫が窓の方を振り向き、イサベルはもう一度外に目をやった。
病院の古い鉄の門のそばにある樹はこの二階まで枝を伸ばし、満開の白い花を風に揺らしている。
それは、いつ見ても心打たれる光景だった。
「ええ」
イサベルはうなずいた。
「あれは杏の花ですよ」
すると、患者はその弱々しい視線を、今度はイサベルに向けた。
オレンジ色に染まった顔でじっと彼女を見つめている。
やがて、杏の木と交互に見て、つたないスペイン語でいった。
「……あなた、あの樹と繋がっている」
イサベルは自分の耳を疑った。驚きのあまり手に持った血圧計を落としそうになったくらいだ。
「なんだって蓜」
夫は怪訝そうにつぶやき、イサベルをみた。
「何を言っているんでしょう……蓜」
イサベルは答えられなかった。死期の迫った患者が不思議な事を言い出す――そんな事は珍しくないし、いちいち耳を傾けていたら身が持たない。
脳の不調によって、妄想が見える事が多々あるのだ。
いもしない動物が見えたり、たくさんの蛇が見えたり……
部屋の隅に黒い服を着た死神が立っていると言って、イサベルをぞっとさせた患者もいた。
その患者は容体が急変して、間もなく亡くなってしまったが――。
だが、この日本人が言っているのは、それらのあやふやな妄想とは明らかに違っていた。
イサベルは朝の光の中で揺れる杏の木を見た。
心にしまわれていた秘密が大きく蘇ってくる。
24年前――。
赤ん坊の彼女は、その木の下に捨てられていたのだった。
グラナダの女帝と同じ名、イサベルと書かれた白い布に包まれて――。
天使のような赤ん坊の頬には、杏の白い花びらがくっついていたという。
赤ん坊はここの病院の院長に引き取られ、すくすくと育った。
15歳の春、成長したイサベルは誕生日に出生の秘密を聞かされ、真夜中に杏の木の下に立ってみた。
ちょうど花が散り始めた頃だった。
地面には白い花びらのカーペットが敷き詰められ、いい香りのする風がふんわりと彼女の髪を撫でた。
イサベルは我が子の捨て場所にそこを選んだ、若い母親を想った。
今ではイサベル自身も、まるで遠い伝説のようにその話を思い出す事があるだけだ。
そんな秘められた過去を、この異邦人が知るわけなどない。
患者はもうイサベルから目をそらし、今度は何もない天井を見つめている。
その潤んだ瞳がすうっと動いた。
見えないチョウチョでも追うように――。
その時イサベルが感じていたのは、薄気味悪さより、疑いより、何か敬虔な気持ちだった。
この人が見ているのは幻じゃない。
では、一体それは何なのだろう――。
眩しい金色の午後だった。
和美はベッドに横たわったまま、病院の庭で縄跳びをしている子供達を飽きもせず眺めていた。
これほど美しい光景を今までに見たことがあっただろうか――。
さっき打たれた注射のおかげで、色はいっそう鮮やかになった。
ありがたい……
いつまでもこの状態で、もっとこの世界を見ていたかった。
子供達が動くと、色が変わる。歓声があがると、虹色の波が立つ。
そう……
やっと自分にそれが見えるようになったのだ。
今まで見えなかったエネルギーが、光が、意識が……
その波が飛び散る。
繋がる、流れる、大きくなる――。
世界は常に動き、変化しているのだ――。
ああ、なぜ今までこれが見えなかったのだろうか。
和美は新しい世界の風景に酔っていた。
自分にこれが見えたのは、あの『疾走』を描いた時だけだ。
きっといつもこんな風に見えている人間がいるのだ。
画家達はまさに、自分が見たものを描いている。
霊能者や超能力者にも視覚化できる人達がいるのだろう――。
そして、たとえ目で見る事が出来なくても、このエネルギーの世界に関わっていない人間はこの世に一人としていないのだ。
香月に似た能力を秘めていた和美は、何かの拍子に条件とタイミングがあったとき、強烈にその世界に接触したらしい。
まるで感電したように。
その結果、あの創作の嵐がやって来たのだ。
夫はベッドの横に座り、黙って和美の手を握りしめていた。
二人はほんのりとした緑色をした光の輪で結ばれていた。
彼が手に力をこめると、緑色の光が体に流れ込み、気分がよくなる。
だが、次第にその量も少なくなって来た。
医師と看護士は感情をこらえ、冷静に患者の治療にあたっている。
が、時々イサベルという看護士がこちらを見ると、暖かいピンク色の光がチカリと光るのだった。
和美は窓越しにスペインの燃える空を見た。
それは、ただの均一の青ではなかった。
ありとあらゆる色や図形、幾何学模様が渦を巻き、流れていった。
あらゆる力が降り、昇り、溢れていた。
その時、どこかで大きなエネルギーの爆発が起きたのが見えた。
何かが生まれたのだ。
新しい思想か、感性か。
金色をした光の球が、受け入れられる肉体を求めるようにさ迷い、七色の波にあおられてこちらに来るのが見えた。
……わたしはもうだめよ……和美は心の中でつぶやいた。
どこか、別のところに行って……
だが、その金色をしたエネルギーの球はあっさりと病院の上空を通り過ぎていった。
もう和美には、それを引き寄せる力などないのだ。あのプレゼントを受け取るのは、タイミングとキャパシティを持った別の誰かだ。
死期が迫り、室内の色全体が淡くなった。
時間の感覚はもうわからない。2、3秒眠ると夜になっていた。
足元にぼんやりと光っているのは、アメリカから駆け付けたマリナと武史のようだ。
和美はうっとりと子供達に見とれた。
よく見ると、二人のオーラは目玉焼きのように繋がっている。
それは、二人が共有する部分を持っているからだった。
その時、和美はふいにわかった。
それは、兄が妹を知っていて、妹が兄を知っている部分ではないか――。
まあ、香月が言った通り、わたしたちは途方もない情報なのだわ。
そして、情報は光。
ほんとに光そのもの。
だから、知るということは、エネルギーそのものなんだわ――。
そういえば昔、いろいろな学者や宗教家がそういってるのを聞いたことがある。
その時はちっともわからなかった事が、こんな死ぬ間際になってわかるとは。
だが、もう口がきけない和美に、その大いなる理解は伝えようがなかった。
和美は目を閉じた。
まるでレーダーのように、自分の領域に何かが迫ってるのを感じた。
何かがやって来る。ものすごいスピードで、廊下を自分に向かって走ってくる。
「お母さん」
目を開けた和美は、病室のドアを勢いよく開けて一人の男が駆け込んで来るのを見た。
息子の洋史だ――。
「ほら、見ろ。これ持って来てやったぞ」
洋史は若いエネルギーをほとばしらせながら、手早く包みをほどいた。
和美はぼんやりと息子を見ていた。
まあ、この人ったら、お父さんとオーラがそっくり――。
「お母さんが見たいと思って、ロスから持って来たんだ。見えるか蓜
なぁ、見えるか蓜」
息子が何かをこちらに向けた。そのとたん、病室全体がパッとライトを当てたように明るくなった。
そして、和美は見た。
『疾走』の本当の姿を。
美しいのは絵の色や形そのものだけはなく、放つものだ。
それは、素晴らしいオーラを発散していた。
様々な色の光が混じり合い、まばゆく輝いている。
そして、その絵を目にしたとたん、部屋にいる人達のエネルギーが一瞬にして変わった。
まるで光の手に触れられたように。悲しみと必死で闘っていたユウでさえ、重い感情の曇りが拭われたように”フワリ”と明るくなった。
和美はやっと理解した。
”いのち”のこもった芸術は、光だ――。
それは荒れ果てた大地を農夫が整えるように、混沌としたエネルギーを美に変える。
見る者の”いのち”というエネルギーにそのまま作用するのだ。
だから人は真の芸術に触れるとき、なんとも言えない快感を覚え、震えるのだ――。
またときには、牢獄の檻を破るように”いのち”の光は凝り固まったものの殻を打ち破る。
それは、人を自由にし、すがすがしく開放するだろう――。
優れた歌、素晴らしい映像や文字など、あらゆる芸術はこの世に光の波動を起こすエキスパートなのだ。
そうやって、新しい感性が次々に生まれる。
次から次へと、一瞬も止まることなく――。
そのエネルギーで世界は動き続けるのだ。
今日も――。
明日も――。
未来も、永遠に――。
ああ、わたしはそんな創作にたずさわれて、幸せだった――。
人に喜んでもらえて、すごく嬉しかった――。
死を前にして、和美はささやかな満足のなかにいた。
16歳のとき、自分が一枚の絵に込めたエネルギーに照らされ、自分が生命を分けた子供と夫に見守られながら……
彼女は今、”いのち”だけになる。
人生最後の意識は、
『溿もう充分』だった。
和美は名もない光の花となり、ほほ笑みを浮かべて人生の幕を閉じた――。
― 完―
Presented by
rin&hororo
~~エピローグ~~
東京は記録的な大雪に見舞われていた。
大都会という巨人は大雪に埋もれ、まるで思いがけない休暇を取ったように沈黙している。
血管のように張り巡らされた交通機関は軒並みストップし、時間の動きはゆったりとしたものに変わった。
日頃忙しくしている人間はあきらめとともに脱力するチャンスかも知れない。
都心の大通りでさえ歩行者はまばらで、街は不思議な静寂に包まれていた。
大手出版社に勤務する編集者の吉野遥も、雪で足止めをくって帰れなくなったひとりだった。
とは言っても、普段から残業は深夜に及ぶ事が多いし、昨日は彼氏と喧嘩したばかりだから今夜はどうせ会うつもりもない。
仕事に没頭できる環境をむしろ歓迎し、遥はデスクの上に置かれた湿った原稿を取り上げた。
今どき、アポなしで出版社に原稿を持ち込む作家志望者など珍しい。
編集者がわざわざ忙しい時間を割いて会うとすれば、作家の紹介とか、どこかの新人賞の候補になったとか、一応大まかにふるいにかけられた作品であることが多かった。
遥は表紙をめくりながら、編集室の隅で身を縮めている無精ヒゲの若者をちらっと見た。
ちょっとカッコイイかも――。
いや、断じてそれが原稿を受け取った動機ではない。
男は決して都会的ではないし、特別頭が切れそうでもなく、だが電脳系人間にも見えない――。
どこにも分類されない変人だった。
聞けば、5年間チベットにいて、今朝、日本に帰ってきたばかりだという。
どうりで人間離れしているはずだ。
彼の乗って来た飛行機を最後に空港は閉鎖され、彼の乗った電車を最後に運転は見合わされたらしいが、こんな日に帰国するなんて運がいいのか悪いのか訳のわからない男だ――。
男は心配そうに、しかし頬を紅潮させて吉野遥を見つめていた。
誰もが認める美人編集者の遥にとって、人に見られるという事は、つまり日中歩けば紫外線を浴びるようなものだ。
彼女は男の視線を全く気にすることもなく原稿に目を走らせた。
チベットのどこで手に入れたのか、古いパソコンで作成してあり、日本ではもう懐かしい活字体だった。
一分後、彼女は驚きに大きな目を見張っていた。
さらに5分後、その驚きは怒りに変わっていた。
「ちょっと、きみ」
吉野はキツイ声で呼び、高級腕時計をした手でおいでおいでをした。
男が飛び上がり、濡れたリュックサックを抱えてやってきた。
吉野はパイプ椅子に座るように促すと、身を乗り出していった。
「ちょっと、どういうつもりなの蓜」
え、と男の言葉が詰まった。……つぶらな瞳。
昨日までチベットの山々を映していたその目は澄んでいる。
それが余計に頭に来た。
まったく、言い訳も用意して来なかったのか――。
「バカにするのもいい加減にしてよね晙こっちは子供の遊び相手をしている暇はないの晙
ねえ、わかる蓜」
パソコンに顔を寄せていた隣の同僚が、遥の感情的な声に反応して顔をあげた。
美人だが仕事が出来る、というのは差別的表現ではないかと遥は常々思っていた。
確かに彼女は優秀な編集者だ。だが、この原稿には読解力など必要ない。
「とぼけるのもいい加減にしなさいよ晙」
遥はピシャリといった。
「これがばれないと思ったの蓜」
男は叱責の連打を浴び、呆然としながら吉野を見つめていた。
まるで正直者のような顔で――。
「ねえ、なんとか言ったらどうなの蓜」遥はそういって机の上の原稿をバンバン叩いた。
男は脅え、救いを求めるように左右を見た。
遥が一番嫌いなのは、自分が加害者なのに被害者のようにふるまえる人間だ。
ずるい――。
浮気のバレた時の彼氏を思い出す――。
「なんなのよ、その態度は」遥の言葉に女が混じる。
「謝ったらどうなの蓜」
「おいおい、ちょっと吉野くん」
後ろから太い声がかかった。
ピリピリしている遥は、うるさいわね、とでも言うように振り向いた。
「あ、編集長」
遥はキツイ目つきのまま言った。
「なんですか」
「おっと。美人が怒ると迫力があるな」
編集長は吉野を見ながらおどけて見せた。
「吉野くんをこれだけ怒らせるなんて、そんなにすごい原稿なら僕もひとつ読んでみたいものだね」
遥はやっと我に返った。大きな声を出したつもりはないが、遥の声からは異様な超音波を発していたらしい。
見れば、同じように足止めを食った同僚たちが、仕事の手を止めて、面白そうにこのヒステリーを見物していた。
雪が止むまでのショータイムだ。
「すいません」
遥は恥なんか全然感じてませんというように、ちょっと肩をすくめた。
「でも、わざわざ読む必要なんてありませんよ。
だって、もうとっくに読んでらっしゃるんですから……」
「え蓜」
若者がやっとかすれた声を出した。
「あの……それ、どういうこと――」
「まったく……この態度がわたしをイラつかせるんですよ」
遥は顎を上げた。
「これが出版社に丸写し原稿を持ち込んできた人の態度かしら」
「丸写し蓜」
編集長がいった。
「な、なに言ってるんですか、あなたは」
若者は椅子から転げ落ちそうになった。
「あなた、じゃないわよ」
遥はかみつくようにいった。
「まったく、どっかのおバカが知らないで出版したら、とんだ盗作問題になるところだったわよ」
盗作――。
それは出版社の辞書から抹殺しなければならない不吉な言葉だ。
確かに、時々海外作品をちゃっかり盗用した原稿を送ってくる、心臓に毛が生えた新人はいる。
プロ相手にバレないと思っているその甘さは、作家以前に人間として失格である。
「しかし、丸写しとは穏やかじゃないね」
編集長がどれどれと原稿に手を伸ばした。
「ち、違います」
若者は青ざめた顔でいった。「俺はそんなことしてません」
「何いってんの。
証拠だったら、世界中に何千万冊とあるのよ」
遥は苦笑した。
「何たって、あのラリー・ホーンなんだから――」
「ラリー蓜」
編集長はぎょっとしたようにいった。
「あのノーベル文学賞の蓜 じゃあ、これは――」
「そう『大いなる幻想』なんですよ。
もう、信じらんないわ」
編集長は急に真剣な顔になり、最初のページに素早く目を走らせた。
無意識に薄くなった頭を撫でているのは、文章に集中している証拠だ。
「ラリー・ホーン、というのは……蓜」
若者はおそるおそる聞いた。
「言うまでもなく」
遥は若者を見ていった。
「世界的に有名な日本人女性作家よ。もう10年くらい前にスペインで亡くなったって聞いたけど」
日本人とはいえ、あまりに祖国から遠く離れた人間であったため、訃報の扱いは小さかった。
数人の批評家が追悼文を書いたと思うが、偉大な作家の死は月並みなスキャンダルよりも早く世間から忘れ去られたようだった。
遥も『大いなる幻想』は大好きだったが、今の今まで彼女の存在を思い出すことはなかった。
「そんな、俺は知りません……」
若者のヒゲの間で唇が震えた。
「ラリーなんて、聞いたことも――」
「聞いたこともない人が、そっくりそのまま書けるっていうの蓜 これはただのコピーよ」
遥は立ち上がった。
「じゃあ書庫から持ってくるから、あなたが書き写したオリジナルをね」
吉野が席を外している間に、編集長は冷静な目で、青ざめている若者を観察した。
チベットの民族衣装に革のジャケットをはおっている。
節操のないバカにも詐欺師にも見えない。
どちらかといえば嘘のつけないタイプ。
いたって純朴そうな青年ではないか。
盗作をするようには到底見えないが、それをいえば、いかにもそう見えるバカな詐欺師もいない。
「きみ」
編集長はたずねた。
「きみはどこに住んでるんだ蓜」
「ここ5年ほど、ずっとチベットの山奥にこもって瞑想していました」
若者は、おどおどしていった。「その前はアラスカに。日本にいたのは中学生までで、その後は放浪生活でした。
ほとんど自給自足みたいな生活で、ほんのわずかな人以外は交流を絶って……
だから、本当に何も知らないんです」
「この原稿はいつ書いたんだ蓜」編集長は聞いた。
「今年に入ってから、畑に立っているときに急に構想がわいて……3ヶ月くらいで書き上げました」
彼はすがるような目で編集長を見た。
編集長はポケットから名刺を取り出して、若者に渡した。
名刺には、
堀切 隼人 と書かれていた。
堀切隼人――。
彼は若いころ、ラリー・ホーンに会っている。
彼が新聞記者時代、ノーベル賞の取材でスウェーデンに行き、あの不思議なスピーチを聞いていなければ、とても信じられなかっただろう。
……そう、今の吉野遥のように。
でも今は違う。
あのスピーチの意味が、
あの時の言葉ひとつひとつが、今、体験している事に結び付く――。
「俺、これのために山を下りてきたんです。嘘なんかついてません。
これは絶対、俺の作品なんです。信じて下さい」
と若者は懇願するようにいった。
そこに、遥が書庫から戻ってきて、彼を睨みつけながら持ってきた本を置いた。
「ほら、これよ」
見覚えのある赤い表紙。編集長がパラパラとめくると、ページの間から埃が舞い落ちる
ここしばらく人が読んだ様子はなかった。
「み、見せてください」
若者はもぎ取るようにその本を受け取り、血走った目でページをめくり始めた。
「嘘だ」
彼は狂ったように、次々とページをめくった。
「このページも、この行も……俺の言葉、俺の世界だ。
そっくりそのまま……こんなことあるはずがない。
どうして――蓜」
「まるでホラーだな」
頭を撫でていた編集長はぽつりといった。
「え……蓜」
遥はなにか妙な気配を感じたように辺りを見回した。
編集者たちが異様な雰囲気を漂わせて集まってきている。
三人を取り囲んだ彼らは、吉野を肯定するでもなく、若者を戒めるわけでもなく、まずいのかおいしいのかわからないものを食べたみたいな複雑な顔をしていた。
「あの話を知っていて担ぐにしても、これじゃ見え見えだろ蓜」
編集長はいった。
「あの話蓜」
遥はきょとんとした。
「きみの世代では知らないかもしれないが、ラリーは過去に二度、わけのわからない盗作事件を起こしてたんだ。
歌の盗作事件は、俺がここに来る前にうちがすっぱ抜いた。
その頃は作詞・作曲家だったんだ」
「ラリーがですか蓜 まさか……」
「いや、本当だ。
さんざんうちの社で詐欺師扱いした女が、それから30年くらいしたらノーベル文学賞受賞――。
いやぁ、あの時はあせったね。
でも、ラリーはそのことを隠すどころか、授賞式のスピーチで自ら話したんだ。
さらに、変なことをいって話題になった」
「そういえば、お母さんがなんか言ってたような気が……」
遥は首をかしげた。
「でも、ラリーがノーベル賞をとったのはもう20年以上も前だし、わたし、まだ小さかったし……」
「あの時、ラリーは予言みたいなことを言ったんだ」
編集長は腕組みをし、うなるようにいった。
「はっきりいって、世界中を呆れさせた。ぼくもそのスピーチを聞いて、そんなバカなことがあるもんかと笑い飛ばしたね。
言葉がどこかから降ってきて、キャッチすればいいなら、作家はなんの苦労もしなくて済む。
なんだったら恐山のイタコあたりに小説を依頼すればいいんだ。
SFのストーリーならわからないでもないけど、ラリーはきっと精神不安定で特異な妄想をもっているんだろうって――」
「で、一体、何ていったんです蓜」
遥が促した。
頭を抱えて呻いていた若者が、とうとうすすり泣きし始めた。
真剣に作品を書いた者にとって、これ以上の悪夢はないだろう――。
誰の目にも、その絶望の涙は嘘に見えなかった。
「あの時、ラリーが言ったのは……」
編集者たちの胸に、その言葉が蘇った。
《わたしの死語になるかも知れませんが――もし『大いなる幻想』と同じ作品がどこかで生まれたら、その時はどうか、その作家を信じてやって下さい。
創造の熱い核が、きっとその方を直撃したのだと――。》
編集者一同は押し黙り、原稿の上に涙を落としている若者を不気味なもののように見つめていた。
もう誰も頭から彼を怒ることも、ラリーを物笑いの種にすることも出来なかった。
編集長は彼に向かって
「盗作の疑いは晴れたが、この原稿は受け取れないよ。
理由はわかるよな――
君は悪くない。
ただ、二番目ということが悲劇だったということだ――」
解き明かされることのない創作というものの不思議に胸を打たれながら、さっきまでは信じられなかった何かを、少しだけ信じられるような気がし始めていた。
白い雪粒のような、無数のきらめきに隠された真実を――。
おわり
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