漫画・アニメ・特撮・小説など名言名文の板📝
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猫田がゆっくりと眼をつむる。眠りに溶けていく時と、考えごとで眼をつむる時、周囲に発散する空気が変わる。それを看護師たちは「千里眼が開いた」と呼ぶ。
今まさに千里眼が開こうとしていた。
おもむろに眼を開けた猫田は、うなずきながら独り言のように言う。
「そうね、そうしましょう……」
周りは猫田の言葉を待つ。猫田が厳かに言う。
「二人を愚痴外来にお願いしましょう」
部屋は静寂に包まれる。次の瞬間、大爆笑が広がる。猫田は、きょとんと周りを眺めている。笑い転げる看護師の中、猫田と小夜は笑いから取り残された。
「な、なに?あたし、そんなに面白いこと言ったかな」
猫田の質問に、笑いをこらえながら権堂主任が答える。
「田口先生にお願いするのはいいんですが、田口先生が子供と向かい合って、真剣に“お加減はいかがですか”と言う姿を想像したら、思わず……」
笑いを再開した権堂の隣で、「主任、それ以上はやめて」と机を叩き笑い転げる看護師たち。
「そんなに可笑しいかしら」
猫田は解せないという面持ちで目の前の笑いの渦を眺める。看護師が笑いながら尋ねる。
「猫田師長は子供にも愚痴があるってお考えですか?」
猫田は不思議そうな顔で、答える。
「あら、みんなはもう忘れてしまったの?自分が子供だった頃のこと。子供は大人と同じくらい複雑な感情世界に生きている。愚痴どころか権謀術数、三角関係、足の引っ張りあい、何でもありだったでしょ」
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』12章 吊し上げカンファレンス 本文 浜田小夜 猫田麻里(師長) 権堂昌子(看護主任) 看護師たち より
この阿鼻叫喚の一体どこが猫田師長の差配なのか。適当に選んだガキを野放しにしているだけではないか。田口は苛立って心中でぶつぶつ呟く。
だいたい今の怪獣はごてごてしすぎだ。見栄えも名前も昔の方がずっとエレガントだ。
ハイパーマン・バッカス。ハイパー兄弟の一員だそうだが、そもそもバッカスは酒の神様、呑んだくれてグレたヒーローが幼児番組にふさわしいのか?ハイパーマンは一般市民の要求に疲れ果てて、とうとう酒浸りになってしまったのか。考えてみればハイパーマンやウルトラマンの姿は、どことなく医者や救急隊員に似ている。最初は感謝されるが、いつしか当然の義務だと思われてしまうところなんて、瓜二つだ、と田口は思った。
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』13章 小児愚痴外来 本文 田口公平 より
由紀は、はめ殺しの窓に目を細める。長い長い間。田口は静寂の重さに耐える。
「この部屋は、私の窓なんです」
由紀はやがてくる未来図、医療の密室に幽閉される自分の姿を予見している。
長い沈黙の後、由紀はふっと笑う。
「こういう時に何も言わないでいてくれる人は、初めてです」
田口が言う。
「黙って立っているだけなら、案山子(かかし)にだってできる、と言われたことはありますが」
由紀は一人の女性として田口の前に座る。それならせめて、華やかな女性が経験する輝かしい未来のひとかけらでも、ひとときに凝縮し感じさせてあげたい。この時間は、きっと天の配列だ。
二人は黙る。由紀の視線を感じながら、田口は手にしたボールペンを見つめる。
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』15章 ハイパーマン・バッカス 本文 田口公平 杉山由紀 より
看護師は再び部屋を出ていく。猫田は二人の刑事に言う。
「浜田が来たら戻ります」
猫田は部屋を出ていく。後ろ姿が視界から消えたのを見届けてから、玉村が言う。
「……それにしてもおそろしい婆さんですね」
そう言いながら、玉村は猫田の仕切りながら問題なさそうだと確信していた。どうやら幸先よいスタートだ。捜査は、人との出会いがすべて。科学捜査という概念は玉村にはない。科学捜査をする人から生きた情報を受け取る。それが玉村のスタンスだ。
「捜査はやっぱり、人との出会いですよね」
玉村はうっかり口を滑らせた。物質主義の権化、加納にこんなことを口走れば笑い飛ばされるのがオチだろうと身構えていたら、意外にも、加納は同意した。
「同感だな。だがあの師長に対して婆さんは失礼だろう。もう少し若いし、よく見ればかなり別嬪だ」
玉村は少し驚く。加納が女性の容姿に対して肯定的に言及することは、極めて稀なことだったからだ。加納が煙草をくわえ、マッチを捜しあちこちのポケットを叩くのを見て、玉村は煙草をつまみ上げる。
「病院内は禁煙です、警視正どの」
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』17章 隠密捜査 加納達也 (警視正) 玉村誠 (刑事) 猫田麻里(看護師長) より
(略)白鳥が言う。
「お前って、昔からそういうヤツだったよな。
加納は笑う。それから真顔になって、続ける。
「そもそも中立的第三者機関とかエーアイという話から、この俺にまでとばっちりが降りかかったんだぞ。お前が死亡時医学検索の方法論の変換だなんて大それたことを言い出すもんだから、法務省は厚労省が法律の不備を突いて喧嘩を売ってきたと邪推するし、警察庁はエーアイが普遍化した場合、捜査方法を一から構築し直す必要があると怯えるし。裏トップ会談で、霞ヶ関内第一種警戒警報が発令されたわけ。桜宮に妙ちくりんなものを作られたら面子は丸つぶれ、とばっちりは必定だと予見して、講じた予防的非常手段が、桜宮への先遺派兵さ。それを考えれば捜査の手伝いくらい、大したことではないはずだ。
「都落ちは無能で省内政治の綱渡りに失敗したか、有能すぎて緊急事態の収拾を一任されたかのどちらかで、僕のせいじゃないさ。説得力はないね」
冷静さを取り戻した白鳥は、加納に言い返した。強気同士のアクティヴ・フェーズ、オフェンシヴ・トーク(攻撃的話法)がぶつかりあうと、こういう事態になるのか、田口は心の中の学習帳に観察日記を書きとめた。
メモのタイトルは“どつき合い”だった。
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』21章 火喰い鳥 vs. 電子猟犬 本文 田口公平 白鳥圭輔 加納達也 より
白鳥は考え込む。そして独り言のように呟く。
「百聞は一見に如かず。説明するより見せちゃった方が早いな」
白鳥は立ち上がり、検査中のMRI室の扉を開け放つ。金属バケツを叩くような、特有の検査音に小夜の歌声が混じり合い、部屋に流れ込む。
「何をする」
島津が声を荒げる。指を唇に押し当て、白鳥は答える。
「MRI検査は、扉を開けても支障ないでしょ」
「それはそうだが、非常識だ」
「しっ、黙って。浜田さんの歌声に集中して」
白鳥が虚空を指し示す。全員、扉から流れ込む小夜の肉声に耳を傾ける。その途端、人々は、明るい光に包まれた。白鳥が言う。
「眼をつむって、そうすればわかるから」
全員眼を閉じる。しばらくして、島津が放心したように白鳥の顔を見る。
「そういうことだったのか……」
「何だ、これは一体、どうなっているんだ?」
田口の問いかけに、白鳥の貧乏揺すりが始まる。
「相変わらず自分の頭で考えないね。田口センセは、自分のことぐらい、自分で解析してみてごらんよ。スピーカーを通じた音はある音域がカットされ、情報が不充分なので、画像が完成しないんだ。浜田さんの肉声に直接触れた今、皆さんの脳内に初めて完璧な情報が揃ったわけ」
白鳥は、ぐるりと周囲を見回し、言った。
「今ご覧になっている画像こそ、ジャイアント・ブリッツの正体です」
人々の脳裏に、清楚な女性の笑顔が浮かぶ。その面影を全員がうっとり見つめた。
気づけば、単純なことだった。自分でも辿りつけそうな答え。だが同時に思う。
これこそ白鳥の真骨頂。アクティヴ・フェーズの最終極意・すべての事象をありのままに見つめることまま単純であればあるほど、極意の体得は困難を極める。
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』23章 マリアの肖像 田口公平 白鳥圭輔 島津吾朗 浜田小夜 他 より
冴子は首を振る。
「いいえ、運命と人生は違う」
二人の間に閃光が走る。城崎は一瞬、冴子を真剣に見つめた後で、話題を変える。
「ところで一番始めに脱落した白鳥とかいうダンゴ親父、本当はアイツが一等賞だな」
冴子は驚いて、城崎を見つめる。
「あれはどう見たってフライングでしょ」
城崎は首を振る。
「いや、歌い始めた瞬間に、ほんのわずかだが音はブレていた。お前も入院生活が長くなって、少しなまっていたんだろうな」
「あの小デブが、あたし自身も認識できなかった微細な音のブレを聴き取った、とでも言うの?」
冴子は信じられない、という表情をした。城崎が答える。
「当てずっぽうかもしれない。ま、どうでもいいことだ。どのみち結果的には田口先生の一等賞は、ベストさ。ダンゴが選ばれていたら、ヤツは絶対、トレーニングなんてサボるだろうからな」
冴子は黙り込む。思い出したように呟く。
「いずれにしても結末は近いわ。それまで生き延びられるといいのだけれど……」
城崎は窓の向こう側の白く凍えた水平線に、目を凝らした。
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』25章 マタイ受難曲 本文 城崎 水落冴子 より
硝子のショーウインドウの向こう側で、感染防止の紙マスクを着用した小夜が、由紀の枕元に佇んでいる。玉村が呟く。
「……そうだったのか。これですべての輪が閉じた……」
小夜は眼で挨拶する。由紀が力なく微笑み返す。小夜は歌い出す。
冴子のバラード、『La Mer(ラ・メール)』。
病室に旋律が流れる。荒かった呼吸が静まり、由紀の顔が穏やかになっていく。
「あ、海……」
由紀の最後の言葉を、小夜の耳はしっかり捉えた。
由紀の呼吸がが次第に浅く、弱くなっていく。医師と看護師が部屋に乱入してくる。怒濤のような奔流の中、とぎれとぎれのメロディと共に小夜は漂う。その視線は岩に食い込む浮き草の根のように、由紀の最後の微笑みに釘付けになっている。
小夜は人々の流れに押し出されるようにして、部屋を出た。入れ替わりに家族が駆け込んでくる。
その様子をぼんやりと見つめながら窓辺に佇む小夜。そこへ玉村が歩み寄る。
「お姿を拝見して、ようやく思い出しました。名字が変わっていたし、部検室ではマスク姿しか拝見したことがなかったので、これまで気づきませんでした」
玉村は一礼する。
「お久しぶりです、桜宮小夜さん。その節はどうも。巌雄院長には今でもお世話になっています」
玉村は、加納と共にその場を去った。小夜は紙マスクをはずした。
「桜宮病院と浜田小夜の間には、昔、何かあったんですか?」
田口の問いに、小夜はうつむいて答える。
「私は桜宮家の養女だったことがあるんです。中学時代に両親を亡くしてから、看護学校を卒業するまでの、短い期間のことなんですけど」
「そうだったんですか……」
田口は小夜を見つめた。
一時間後、由紀は亡くなった。浮かんだ最後の表情は、穏やかな笑顔だった。
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』33章 La Mer(ラ・メール) 本文 田口公平 浜田小夜 玉村誠 杉山由紀 加納達也 より
二曲目は『花畑のロンド』だ。七色の花が咲き乱れる中、由紀は軽やかに踊る。ステップを踏む度に、色とりどりの花びらが舞い上がる。輝きの中、少女の姿は花びらの渦へと溶けていく。
「鎮魂歌か(レクイエム)……」
田口は呟く。斜め後ろをちらりと振り返る。瑞人の顔は白く濡れていた。
小夜の歌声に冴子の歌が寄り添うと、由紀の感情が裏打ちされていく。由紀が笑う。夏の砂浜で、高原の花畑の中で。小夜が映し出す風景の中で、由紀は何度でも復活する。小首を傾げ、笑いかけてくる。
----ねえ、私はここにいるよ。
聴衆は、由紀の笑顔に魅せられる。いつまでも、その笑顔を見続けたい、と願う。
突然、城崎の饒舌な伴奏が暴走を始めた。何事か耐えきれず、すべてを吐き出すかのような音符の嵐の中、小夜は城崎の暴れ馬のような伴奏にしがみつく。そうしてかろうじて歌を終曲に運ぶ。それは城崎を吹き抜けた一陣の海風のようだった。
歌は終わり、最後の音の余韻がホールに残留する。
気がつくと、その海風は、由紀を水平線の彼方へ旅立たせていった。
小夜と冴子は顔を見合わせる。ホールが現実世界に戻っていく。
城崎のアルベシオが、小夜に語りかけてくる。
----死者は弔うもの。よみ返らせるものではない。
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』34章 クリスマス・キャロル 本文 田口公平 浜田小夜 牧村瑞人 水落冴子 城崎 幻影の杉山由紀 聴衆 より
小夜の胸に熱い感情が迸る。
「嬉しいけど、私は自首する。相手が悪くても、罪は罪だもの」
「小夜さんは悪くない。親父の身体を傷つけたのは俺なんだ。それに俺は病気だからどうなったっていい。小夜さんが自首したっていいことないよ。そしたら俺も捕まってしまうし、さ」
「無実の罪をかぶってどうするの。あなはまだ子供なのよ」
瑞人はぎらりと小夜を見る。
「俺は子供じゃない。誰にも頼らず、一人で生きてきたんだから」
「そうだね。辛かったね」
不意に胸を衝かれ、小夜は瑞人を抱きしめる。
小夜は考える。
こうなってしまったら、今さら私が自首しても、この子の関わりを消し去ることはできない。それなら逆に考えてみたら?私は疑われるかしら?この男とは一度会っただけ。容疑者にすらならないかもしれない。そして私を助けるためなら、この子も自分の身を守ろうとしてしとくれるかもしれない。もしもこの子が裏切ったら?その時こそ、自白すればいい。だってもともと、これは私の罪だもの。
罪という言葉の響きが、忘れかけていた感覚を呼び覚ます。
----力があれば罪は飛び越えられるものだ。
記憶の底から野太い男の声が浮かび上がる。小夜の瞳が妖しく輝き始める。
(略)
赤裸々な告白。瑞人は立ち上がる。
「でたらめ歌うな、小夜さん」
田口は荒れ狂う瑞人を押さえ込む。
「女が本気なら、その時には男は見届けるしかない。それは力が要ることなんだ」
瑞人の動きが止まる。振り返り、田口の眼の奥を見つめた。
田口は言った。
「君以外誰が浜田さんを守るんだ?君はそこに、そのままでいろ。それだけでいい」
全身に張りつめていた緊張感が抜け落ちる。田口は呟く。
「君はそのままで、そこにいろ。それが、何より大切なんだ」
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』34章 クリスマス・キャロル 本文 田口公平 浜田小夜 牧村瑞人 記憶の中の男(桜宮巌雄?) より
奥寺は首を振る。
「悪いとは思っていない。さっきも言ったが内山君は正しい。猫田君も正しい。だが、内山君には足りないところがある。それがさきほどから君の言葉の端々に現れといるんだ」
「たとえ奥寺教授のお言葉といえども、納得できません」
「そこだよ。君は周囲の人間の言葉に耳を傾けなさすぎる。スタッフの声に耳を傾け総合的に判断できる、という資質こそ、医師を医師たらしめている黄金律だ。医師だって人間だ。決して万能ではない。だからこそ看護師やその他、多種多様な関係者の手を借りなければ医療はできない」
蒼白な聖美の顔を穏やかにのぞき込み、奥寺教授は言う。
「内山君は間違っていない。医者だって人間だ。休みたい時もあるし、嘘をつく時だってある。だが今のままでは、君は将来禍根を残す。その禍根は、君自身の未来に傷痕を残す。悪いことは言わん。ここは老いぼれの顔を立てて、負けておきたまえ」
奥寺教授は、聖美を見つめて、続けた。
「こども病院の真咲部長は、仏の真咲、と呼ばれる人格者だ。彼からマンツーマンの薫萄を受けて、もう、一度ゆっくり考えておいで。本来これは私の仕事なんだが、残念なことに私にはもう時間が残されていないんでな。君はいつまでも、どこにいても教え子だ。これまでも、そしてこれからもずっとそうさ。たとえ君が小児科を辞めることになったとしても、だ」内山聖美は両手で顔を覆い、声をあげずに泣き始めた。奥寺教授は聖美の肩をそっと抱いた。
「内山君、小児科は確かに大変だが、そう捨てたものではないんだぞ」
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』35章 堕天使と聖天使 本文 奥寺隆三郎(教授) 内山聖美(医長)より
白鳥の言葉を引き取り、田口は小夜から聞いた碧翠院桜宮病院の逸話を伝えた感動を堪えた田口の口調に冷や水を浴びせるように、白鳥は言う。
「それでやっと最後の謎が解けた。浜田さんを犯人と仮定した場合、どうしても一点だけ無理があったんだ。偶発的な事件のはずなのに、発生直後の処理速度はめちゃくちゃ早かった。ここだけはどうしても解けなかった。だけどこれでようやく謎の輪が閉じた。彼女にとって屍体処理は手慣れた作業だったんだね。そう考えると、今回の事件の根は桜宮病院にあったとも言えるわけか……」
「桜宮巖雄院長がしたのは悪いことなんでしょうか?おかげで、浜田さんは救われたんですよ」
田口は高階病院長の言葉を思い出す。
----ルールは破られるためにあり、それが赦されるのは、未来によりよい状態を返せるという確信を、個人の責任で引き受ける時だ。
白鳥は、田口を突き返す。
「田口センセ、一時の感情に引きずられてはダメだよ。こうしたやり方ど浜田さんが救われたのか、罪を深めてしまったのかは、誰にもわからないさ。この事件は偶発的要因が強く、はじめから自首していれば大した罪ではなかった、とも考えられる。なのに、罪を隠蔽しようとしたために、おおごとになってしまった。幸い加納が理性的な初期対応をしたのでこの程度で済んだんだ。どう考えても浜田さんの選択ミスさ」
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』35章 堕天使と聖天使 本文 田口公平 白鳥圭輔 高階権太病院長(田口の回想) より
白鳥は田口を見つめた。
「一度境界線を越えた人間は何度でも踏み越える。一度踏み越えれば、それはもはやタブーではなくなる。ましてソイツが罪を償うことがなければなおさらさ。そうやってすべてが正当化されていく……すべては過去に経験があったからこそ、さ」
白鳥は眼を閉じた。地の底から響くような声で厳かに言う。
「碧翠院桜宮病院の桜宮巖雄院長の罪は、無垢な魂の前で境界線をまたいでみせたこと。その血脈は浜田さんに受け継がれ、そして今、牧村君へと手渡された。悪意の血脈には時効も境界もない」
白鳥は眼を開き、きっぱりと言い放った。
「やはり桜宮病院は、叩き潰す必要があるのかもしれません」
海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』35章 堕天使と聖天使 本文 田口公平 白鳥圭輔 より
「ベッドが空いていたからよかったですが、空いていなければどうするつもりでしたか?患者を救おうという行為は尊いですけど、最後まで面倒を見られないのに引き受けるのは無責任だと思いませんか?」
田口の思いもよらない厳しい言葉に、小夜が凍りつく。
翔子の胸の中に、きな臭い感情が沸き上がる。それをそのまま口にする。
「それなら、あたしたちはどうすればよかったんですか。吐血患者を目前に手をこまねいて見てろ、とおっしゃるんですか」
田口の眼に、深い色が浮かぶ。視線を、暗い窓に投げかける。雨音が部屋に満ちる。
やがて、静かな声が答えた。
「今のは大学病院に属する組織人としての言葉です。残り半分、私自身の意見をお伝えします。今夜のあなた方は医療人として立派に責務を果たしました。その結果、ひとりの患者の命が助かった。口やかましいことを言ったのは、大学病院のスタッフならば誰でもそう言ったはずだからです。手続きを飛ばして正義を貫こうとしても、刃は肝心の所に届かない。いつか必ずしっぺ返しに遭って叩き潰される。おふたりを見ていて、少し心配になったものですから」
翔子は、穏やかな言葉に拍子抜けした。
「勝手をして、申し訳ありませんでした」
素直に謝罪し、唇を噛む。おっしゃる通り。あたしってば、いつもそう。同時に翔子は、田口の淡々とした物言いに、凛と筋が通っているのを感じ、嬉しくなる。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』1章 オレンジ・スクランブル 本文 田口公平 如月翔子 浜田小夜 より
※『ナイチンゲールの沈黙』にもほぼ同じ表現された場面あり。興味ある方は両作品をくらべて読むもよし📖📖。
速水はとろんとした眼を開ける。モニタに眼を遣り、尋ねる。
「その患者(クランケ)は何番?」
「ご存じの通り今夜は満床ですので、病棟に引き取ってもらいました」
うつらうつらと速水の首が揺れる。うなずいているようでもあり、首を横に振っているようでもある。どうやら御機嫌を損ねずに済んだか。ほっとした次の瞬間。
「ぶぁかやろう!」
チュッパチャプスが一直線に飛んできた。佐藤は反射的によけようとしたが、思いとどまる。背後の液晶モニタを保護するため、飴玉の銃弾を白衣の胸で受け止める。
速水は立ち上がった。獲物を唸り声で威嚇する。虎だ、と佐藤は思った。
「急性期患者処置後は容態安定するまで眼を離さないというのは、救急医のイロハのイ、だろうが。何考えんてんだ、このあんぽんたん!」
あんぽんたんというのはいつの時代の罵倒用語だろう、この人、まだ四十代半ばのはすだが。
(略)
転科後に心のメモから素早く削除した、うろ覚えの患者データをゴミ箱から取り出す。
「ビリルビン12、LDH32、だった、です」
「ぶぁかやろう。LDHは35だろうが。それに肝硬変を疑ったら血小板数も報告しろ」
うっかりした。頭の中のゴミ箱をあさっても、血小板の数値情報は浮かんでこない。Hbの低下は印象に残っているんだが。速水は肩をすくめる。
「血小板五万二千。佐藤ちゃんの見立ては正解。でも点数は30点、試験は落第だ」
ご存じならわざわざ訊くなよ。佐藤は心の中で吐き捨てた。それにしても、あの短い間に、俺よりデータを正確に把握してしまうなんて。佐藤はげんなりし、同時に自分の医療センスの容量の小ささに絶望する。思わず、駄洒落が口を衝く。
「肝臓はどうもいかんぞう」
速水は物も言わず、佐藤の頭をはたいた。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』2章 血まみれ将軍(ジェネラル・ルージュ) 本文 速水晃一 佐藤伸一 より
「なるほど……」
そう言うと高階病院長は、遠い眼をした。
「それでは、田口先生がご存じない情報をひとつ、お伝えしましょう」
「速水先生の外科学の卒業試験成績は歴代を通じて、断トツのトップでした。学生時代、すでに外科医の基礎が完成されていた、と言っていい。どこかの誰かさんとは雲泥の差ですが……」
「その件も、チャラになっているはずです」
田口は言い返す。高階病院長のお目こぼしで外科最終口頭試問を合格し、卒業できた事実を気に病んでいた田口は、負債をバチスタ醜聞解決に貢献して返済した、つもりでいた。
「失礼。つい、口が滑りました。私が言いたかったのは、速水君を口頭試問しながら感じたことです。あの時に私はこう思いました。彼はある部分、私とよく似たタイプの方だ、と」
「それはつまり、速水は理想的な外科医だ、ということですか」
意趣返しのように田口が誉め殺しの言葉を吐く。高階病院長が顔をしかめる。そして言った。
「彼は既存のルールを軽視する傾向がある。そうしたメンタリティの人間が修羅場に直面し、しかも自分の思うように動けない場合、往々にして境界線を踏み越える。私とて、速水先生の高潔さは、微塵も疑っていません。しかし調査にあたっては、私の懸念を心のどこかに引っかけておいて欲しいんです」
田口はそな言葉を心に刻んだ。ただし、真意は理解できなかった。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』8章 ピンストライプの経済封鎖 本文 田口公平 高階権太(病院長)より
「俺なら許可を取らずにいきなりCTにぶっこむ。結果を知ってから解剖を勧める。そうすればいざとなったら自信を持って強制解剖できるだろ」
佐藤は肩をすくめる「ズルいですよ、それ」
速水はからりと笑う。
「ズルだっていいさ。少なくとも、ズルくない佐藤ちゃんの対応よりよっぽどマシだ」
「それにしてもエーアイもせずに、あの女の子が異状死だとよくおわかりになりましたね」
佐藤が速水に言う。
「俺は女の涙を信用しないんでね。それを差し引いて見ると、胡散臭さがぷんぷん漂っていた。でも決め手は、女の子の涙、かな」
佐藤は驚いて、速水の顔を見つめた。
「あの娘は涙なんて流していませんでしたよ。まさか速水先生は、お嬢さんの死に問題があったかどうか実は確信はなかったとか?」
「当たり前じゃないか。あんな所見、体表から見ただけでわかるわけないだろ」
佐藤は呆れたように首を振る。
「そんな不確かな考えの上に、ご自分の辞表を乗っけたんですか。もし解剖して所見が何もなかったら、一体どう責任を取るおつもりだったんです?」
「佐藤ちゃんは俺の話を聞いていなかったようだな。その時は辞めるつもりだったよ。ほら」
速水はポケットから封筒を取り出す。墨痕黒々と、辞表願、とあった。
「この稼業で自分の意志を通すには、辞表の一枚や二枚、いつでも用意しておかないとな。佐藤ちゃん、これが救命救急医の心意気ってヤツさ」
佐藤はため息をつく。これだからジェネラルには誰も逆らえない。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』10章 沈黙の少女 本文 速水晃一 佐藤伸一 より
速水に正対するように三船事務長が腰を下ろす。
「現場の人間が役所批判をするのは当然だと思いますが、少しお控えになった方がよろしいかと。厚労省みたいなところは、気に入らないと陰干ししたり、などという陰険なことを平気でしますから。それに、全国の病院のあちこちに役所のスパイ網が張り巡らされていますし」
速水は肩をすくめて、笑う。
「ご忠告どうも。だが、今さら良い子ぶりっこしてみても手遅れだ、という自覚症状はあるからご心配なく」
「ドクター・ヘリやエーアイがシステムとして進展しないのも、速水先生の物言いが役所の反感を買っているのが原因かもしれませんよ」
「腐っても地方医大の雄、東城大学医学部付属病院の事務長に就任する実力を持ったあんたのことだ。役所に気を回したくなる気持ちはわかるがね。俺はご機嫌をとるつもりは全くない」
三船事務長の眼が細くなる。
「天上天下唯我独尊、ですか」
速水は首を振る。
「とんでもない。俺は誰にだってかしずく下僕(しもべ)さ。ただその相手は、ベッドの上の患者だけだ、ということさ」
三船が唾を飲む。速水が続ける。
「患者には、ベストを尽くす。状態の悪い人は、少しでもマシにしてお返しする。心臓が止まれば引き戻す。戻らなければ死因を追求する。もしも医者が患者の死に際して何もしないなら、医者と坊主はちっとも変わらない」
「いくら何でも、言い過ぎです」
三船事務長が反論する。速水は続ける。
「さすが今の言葉は少々不謹慎だったな。撤回しよう。死体をきちんと医学検索しない医者よりは、生臭坊主の方がまだマシだ。念仏を上げてくれるからな」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの沈黙』10章 沈黙の少女 本文 速水晃一 三船事務長 より
三船事務長は、速水の背中に刃のような言葉で切りかかる。
「逃げるんですか?」
速水が動きを止める。ドアノブから手を離し、振り返る。 三船の眼を真っ直ぐ見つめる。
「逃げる?俺が?なぜ?寝呆けたことは言わない方がいい」
「それならこの件を説明していってください」
速水は肩をすくめる。
「それはまた今度、時間ができた時にでも。あいにくコールされたんでね」
「コールですって?」
三船の疑問文が波動として空間を震わせようとした瞬間、三船の背後で警報音が鳴り響く。
「速水先生、処置室です。止血が止まりません」
「あいよ、今行く」
速水は、点滅を始めた赤ランプをちらりと見る。部長室の重い扉が開く。冬の日の午前の、冷たく清潔な光が暗いコックピットに差し込み、一瞬部屋を消毒した。
速水は光の中に一歩踏み出す。速水のシルエットが光の中に溶けていく。三船事務長はその姿を、取り残された暗い部屋の片隅から見送った。
三船は、赤いランプの点滅をいつまでも見つめ続けていた。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』11章 ドクター・ヘリ 本文 速水晃一 三船事務長 より
※同じ描写は『ジェネラル・ルージュの伝説』にもありそちら三船事務長側からの描写📝
ICUに戻る。モニタはグレー一色。不愛想なモノトーンに、速水は安堵する。
結局、俺には他に行くところなんてない。
田口の言葉の欠片がふわりと浮かぶ。
----お前らしくないな。
相変わらず遠慮のないヤツ。俺らしいってどういうことだ?学生時代、麻雀卓を囲んで徹夜した頃の俺が、俺らしいのか?それとも竹刀を握り、面金の向こう側の敵の目を見据えていた時だろうか。長い月日が経つうちに、俺は本当の自分をどこかに置き忘れてきてしまったかもしれない……。
思いがけないタイミングで、思わぬヤツから、思いもよらない指摘を受けたな。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』19章 天窓の歌姫 本文 速水晃一 田口公平(回想) より
「ええと、ICUの如月さん、ですよね?」
初対面の人間のテリトリー侵害地点まで侵入した後、いきなり急停止した白鳥はだしぬけに質問をぶつける。防御する暇もなく反射的にうなずく翔子。白鳥はにまっと笑う。
「オレンジ踊り子部隊のヘッド、東城大学美形男性検索ネット代表にしてICUの爆弾娘、でしたよね」
翔子は一瞬ぎょっとしたがすぐ態勢を立て直し、投げつけられたピーンボールを打ち返す。
「名称が違います。美形男性検索ネットではなく、美男子愛好同盟・ネット検索エンジン部長です」
相手をやりこめたつもりだったが、次の瞬間、男は肩透かしで翔子をうっちゃりに沈める。
「そのリップ、五星堂この秋の新色『ヘリカルパープル』ですよね。さすが東城大学屈指のファッションリーダーだけのことはありますね」
翔子が発動した心理ガードは“シカトでスルー”という、攻撃と防御が一体化した高度な技の前に、一瞬にして崩壊させられてしまった。自分がウザいと認定したはずの男に、流行最先端のリップを正確に言い当てられた衝撃はあまりに大きすぎて、翔子には呆然と見つめるしかなかった。
----一体何なの、この人?
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』20章 火喰い鳥の告知(ノーティス) 本文 如月翔子 白鳥圭輔 より
田口は壁の時計を見る。定刻を少し過ぎた。主役の速水が遅刻しているため、田口が開始時間を少し延期しようとした時、前方の扉が開いた。のっそり部屋に入ってきたのは東城大学守旧派の巨魁、臓器統制外科の黒崎教授だった。手には大きなボストンバッグを提げている。
「家内から連絡を受けていたんだが、リムジンが渋滞に巻き込まれてしまってな。仕方なく家に寄らず、空港から直行した。遅れたことをご容赦いただきたい」
珍しく謝罪をした黒崎は、ためらわず田口の右隣に着く。低い声で田口に言う。
「田口君、定刻を過ぎている。さっさと始めたまえ」
これこそ東城大学医学部オールスター・キャスト。いよいよ撮影開始だ。映画のタイトルは、“血まみれ将軍(ジェネラル・ルージュ)の仁義なき闘い・桜宮死闘編”になるだろう。
田口はため息をつく。リスクマネジメント委員会が出席率百パーセントの時は、いつもロクなことがなかった。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』25章 リスクマネジメント委員会 本文 田口公平 黒崎誠一郎(教授) より
田口は黒崎に言う。
「黒崎教授、主役が到着しておりませんので、しばらくお待ちを」
「ウィーンから帰ったばかりのワシが休日を押して出席しとるというのに、主賓が遅刻とは不届き千万だ。相変わらず無礼な男めが。こんな茶番、とっとと済ませてしまいたまえ」
押し殺した黒崎の言葉が終わらないうちに、後ろの扉ががらりと開き、速水がひらりと現れた。
「遅れて申し訳ない。出がけに気管切開をしてきたものでご容赦を」
ジェネラル・ルージュの降臨。タイトルロールの華やかな登場に、ざわついていた場が一瞬で静まり返る。黒崎教授の不平は、うたかたの泡のように吹き飛ばされる。
良きにつけ悪しきにつけ、コイツは主役にしかなれない男だ。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』25章 リスクマネジメント委員会 本文 田口公平 速水晃一 黒崎誠一郎(教授) より
沼田は速水に向き直り、追撃する。
「先ほどから黙って伺っていれば、まるで自分こそが医療の体現者だと言わんばかりの放言三昧。いい気なものだ。あなたの土台は足下から崩れ始めていることにお気づきになっていない。部下の掌握さえロクにできない半端者だから腹心の部下に告発されてしまうんです」
「どうやら沼田先生告発者が誰か、心当たりがあると見える。」速水は末席のICUスタッフの塊に視線を投げる。佐藤が、花房師長が、うつむく。ただひとり如月翔子の視線だけが、速水を真っ直ぐ見つめる。
速水は翔子の瞳の切っ先を外し、田口を見た。
「おい行灯、とっとと俺の処分の協議を始めな。でないと余計な火の粉が周りを傷つける。
田口は、速水を見つめた。ざわついてた場が、次第に静まっていく。
瞬間の静寂を捉えて田口は言った。
「速水先生、本当にそれでいいんですか?それは責任回避ではありませんか?」
「何が言いたい?」
速水の眼が細くなり、カミソリのような光をたたえる。田口は臆せず続ける。
「速水先生が責任を取ってお辞めになる。先生はそれでもいいでしょう。ですが、先生が去った後もオレンジは残る。そこに残された人たちはどうなるんです?」
「それは俺の知ったことじゃない」
速水の後方、オブザーバー席が揺れた。その気配を感じ取りながら、速水は続ける。
「正確に言おう。それは俺の次の人間が、のたうち回りながら何とかすることだ」
速水は田口に歩み寄る。胸ポケットから封筒を取り出すと、手早く机に置く。
速水は振り返り、視線をぴたりと佐藤に当てる。
「あとは頼んだぞ、佐藤ちゃん」
机の上に置かれた『辞職願』。黒痕鮮やかに記された白い封筒を、田口は黙って見つめた。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』25章 リスクマネジメント委員会 本文 田口公平 速水晃一 佐藤伸一 花房美和 如月翔子 沼田泰三 より
「僭越(せんえつ)ではあるが、ワシに断を下す役割を委譲していただけるかな」
ここま来ては、ルールやパラダイムなんてすっ飛んでしまう。力こそルール。田口は黒崎の答えにうなずきで答えてから、僅かな望みを高階病院長に託す。
高階病院長は黒崎教授を見つめた。ふたりは視線を交錯させた。
やがて、高階病院長は静かな声で応じた。
「黒崎教授にお任せします」
黒崎教授は立ち上がる。嬉しそうな笑顔を浮かべた沼田をちらりと見て、咳払いをする。
「速水君、リスクマネジメント委員会委員長代行、及び東城大学医学部附属病院病院長代行として勧告する」
ぐるりと場に視線を巡らせてから、速水に向かって鋭く言い放った。
「直ちに辞表を撤回したまえ」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』25章 リスクマネジメント委員会 本文 田口公平 高階権太 黒崎誠一郎 沼田泰三 より
黒崎教授は沼田を見つめる。
「ワシがコイツと相容れることは金輪際ない。コイツのルール違反は許し難い。今回の一件もそうだし、過日の越権行為だって同じこと。あの日のことを思い出すと、今でも腹わたが煮えくりかえる」
「それでは、なぜ?」
「たとえワシが気に喰わなくても、桜宮の医療にはコイツが必要だ。ワシは規則という枠を守って生きる。コイツはその枠を破壊しながら前進する。ワシたちは互いに互いを必要としている」
そう言うと、黒崎は沼田を見つめた。
「君にはわからないだろうな。救急現場は神でなければ裁けないのだ。そして、あの城東デパート火災の時、ワシはコイツの中に神を見てしまった。たとえ破壊神だとしも神は神。人間に逆らえる道理はない」
黒崎は遠い目をして続けた。
「勘違いするな。ワシは速水が神だと言っているのではない。ああいう場があり、あの時の流れの中で、たまたまほんの一瞬、神がコイツの肩の上に舞いおりた。ただそれだけのことだ。だが、多くの凡庸な医師が生涯一度も神に遭遇することなく朽ち果てていくことを思えば、なんという祝福だろう。あの時ワシは初めて知った。神の指図で動くことが、あれほどまでの愉悦を伴うものだということを……」
黒崎教授は言葉を切った。そして続けた。
「ワシのプライドや肩書きなんて、そうした瞬間には、すべてすっ飛んでしまうくらい、ささやかで他愛もないものなんだ」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』25章 リスクマネジメント委員会 本文 黒崎誠一郎 沼田泰三 より
その時、黒崎教授が退場して以来、沈黙を守り続けてきた速水がついに口を開いた。
「そこまでだ、沼田さん。辞表を叩きつけたばかりだから黙っていようと思ったが、そこまでうちのスタッフを悪しざまに言われては、これ以上我慢できない」
速水はひと息吸い込むと、沼田に向かって一閃、言い放つ。
「あんたにはこの場で発言する資格はない。告発文書のオリジナルは、エシックスの沼田委員長の手元に届けられているはずなのだから」
「何を言い出すんです、速水部長」
平然と答える沼田を見て、速水は続ける。
「あんたは受け取った告発文書を握りつぶした。おそらく、どう対処すれば一番有利か、>計算したのだろう。沼田さん、あんたが出した結論は最もタチが悪いやり方だ。裏で三船事務長に情報を流して赤字のオレンジを潰す。違いますか?」
「そんな文書、受け取った覚えはありません」
沼田の顔が蒼白になる。「何を根拠に、そんな侮辱を……」
「事実だからだ。証拠はある」
速水は胸ポケットから封筒を取り出す。
「沼田委員長に送った告発文のコピーだ。これは、確実にあんたの手に渡っているはずだ。俺は、このコピーを三船事務長から見せられたぞ。それは沼田さん、あんたが差配しなければ、決して起こらない事態だ」
「どうしてそんなモノを速水部長が持っているんですか?」
震える声の質問に、速水はからりと笑って答える。
「簡単さ。告発文書をエシックス委員長に送りつけたのは、俺自身だからだ」
第三会議室を、沈黙が覆い尽くした。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』29章 エシックスの終焉 本文 速水晃一 沼田泰三 より
田口は速水を見つめて尋ねる。
「黒崎教授の勧告に従うつもりはありませんか」
「ありません」
速水は答える。田口は諦めたように、肩をすくめた。
「それでは高階病院長、御判断をお願いいたします」
田口に促され、高階病院長が口を開きかけたその時、議場の後方から鋭い声がした。
「待ってください」
一斉にみんなが振り返る。立ち上がったのは、速水の腹心、助手の佐藤だった。
「こんな形で速水先生の受理するおつもりなんですか。そんなバカな。滅茶苦茶だ、そんなの。私は断固主張する。速水先生は罷免されるべきです」
一同驚きの表情で、佐藤を見た。佐藤は周りが一切眼に入らない様子で、ただ、速水だけを見つめて、続けた。
「皆さんはオレンジの惨状をご存じないから、勝手な議論ができるんだ。速水先生おひとりのために、周囲はどれほどの緊張を強いられていることか、速水先生が喪われそうになった命を引き戻せば戻すほど、救命救急病棟は緊張が高まる。普通の救急センターならとっくに亡くなっている患者が、ここでは死なない。途切れそうな命の糸をぎりぎりで紡ぎ続けなければならない緊張。これが毎日延々と続くんです」
佐藤の言葉が迸る。タガが外れたかのように、一気呵成に話し続ける。
「おまけに速水部長は経済観念ゼロ。神がかりの医療を支えるため、湯水の如く注ぎ込まれる医療費のつじつま合わせは全部他人任せ。それが私の仕事です。五十嵐副部長が体調を崩したのもそのストレスからです。なのに速水部長だけ賞賛され続けるなんてどうかしてる」
佐藤は激した口調で続ける。
「先ほど沼田先生は告発文書を提出したのは私ではないか、と勘繰られました。もちろん、私は犯人ではない。ですが、告発文書を眼にした時、ひょっとしたらこれは自分が書いたものかも知れないと感じてしまった。そう思えるなら、それは私が告発したのと同じです」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』27章 ジェネラルの退場 本文 田口公平 高階権太 速水晃一 佐藤伸一 他 より
佐藤は速水から視線を外さない。
「速水部長は命を救う天才です。だけど組織維持の面から見れば、ワガママな三歳児のような人だ。そんな人が辞表を提出し、批判も受けずに賞賛されつつのうのうと辞めてしまうだなんて、とても耐えきれない。部下として、そしてオレンジに残された敗戦処理担当者として言わせていただきたい。私、佐藤は副部長代理として断固、速水部長の罷免を要求します」
長年積もり積もった想いを、一気に吐き出し、佐藤は肩で息をつく。
「まだまだだな、佐藤ちゃん。いつも言ってるだろ。救命救急医はいかなる場面でも決して激してはならないってさ」
速水は続ける。
「さっきの言葉、ほとんどすべての点で佐藤ちゃんの主張は正しかった。見事だったが、最後にひとつ間違えた。それも一番肝心のところを。惜しいな、佐藤ちゃん。いつも最後でずっこける」
速水はからりと笑う。佐藤を穏やかな眼で見つめて、続けた。
「佐藤ちゃんは、俺がワガママだから、部長を名乗るのをおこがましいと言った。だが、それこそトップというものだ。よく覚えておく」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』27章 ジェネラルの退場 本文 速水晃一 佐藤伸一 より
速水は、視線を高階病院長に転じる。
「救命救急センター副部長代理、佐藤医師から同部長速水に対し罷免動議が提出されました。本来、教授会での討議を要する事案でありますが、センター部長である速水が辞表提出下であることを鑑み、迅速な対応を要します。当院における後任候補選出を早急に行うため、明後日、辞表案件及び罷免請求事案のご検討を、部長権限において高階病院長に委託いたします」
一気に言い終えると、速水は佐藤に言い放つ。
「というわけだ、佐藤ちゃん。明後日、オレンジの後継者としてふさわしいかどうか、口頭試問を行う。黙っておとなしく辞めてやろうかと思ったが、気が変わった。そんなに俺のクビが欲しいなら、さっさと自分で取りにきな」
速水は佐藤を見つめた。それから深々と礼をして、その場を後にした。後に残された面々は、呆然とその後ろ姿を見送った。
主役の退場により、張りつめていた場の緊張が解けた。参集していた人たちが散会していく。そんな中、高階病院長が田口に歩み寄ってきて、小声で言った。
「こうやって頭ごなしに指図されてみると、確かにむかつきますね。黒崎教授の気持ちが少しわかったような気がします」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』27章 ジェネラルの退場 本文 田口公平 速水晃一 佐藤伸一 高階権太 より
グレーのモニタ群を眺めていた速水は、ふと左端のテレビに目を落とす。その瞬間、深海魚の生態を映していた画面に、一筋のテロップが流れた。
『桜宮バイパスで多重事故。タンクローリー炎上中』
速水は画面から視線を切らずに、マイクのスイッチを入れる。
「佐藤副部長代理、外電、入ってる?」
電子変換された佐藤の声が答える。
「いえ、入っていません」
「ふうん、そう」
腑に落ちない、という顔で、速水はモニタ群をぼんやり見つめる。
すべてのモニタが、真っ赤に炎上していた。
再び、スイッチ・オン。速水の声がICU病棟に響く。
「オレンジ・スクランブル(緊急事態)。第二種警戒態勢に入る。今から救命救急センター長の権限をもって、オレンジ新棟全体にスタッド(緊急召集)をかける。副部長代理はトリアージ(患者重傷度分類)の準備。看護師長はオフ・メンバーを可能な限り呼び出せ」
モニタの中でばらばらに蠢いていた看護師、一斉にモニタ越しに速水の姿を見つめた。
サイレンも電話連絡もない。だがICUのスタッフは誰ひとり、速水の判断を疑ってはいない。なぜなら速水は絶対専制君主、救急現場という名の戦場の軍神、血まみれ将軍(ジェネラル・ルージュ)なのだから。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』28章 カタストロフ 本文 速水晃一 佐藤伸一 モニタに映る看護師たち より
ホールは戦場だった。熱傷の患者が圧倒的に多い。運び込まれた患者は、一様に洋服が黒こげで、うめき声を上げていた。佐藤の声が響く。
「病棟から生食ボトルと包帯をありったけ持って来い。熱傷は意識レベルを確認して、生食で傷を洗浄、とりあえずガーゼをかぶせておけ」
ふと気づくと、姫宮が四色のカードを手に、うろうろしている。見ると、手早く患者を色分けしている。ちらりと見て、判断が妥当であることを部分的に確認し、二人の研修医に命じる。
「トリアージ・レッド最優先。次に黄色。青と黒は放置。姫宮はトリアージを続行」
姫宮は顔を上げ、こくりとうなずく。黒、黒、赤、黄、赤、青、青、黒。姫宮は手際よく、トリアージ・タッグを患者の上に投げかけていく。その判断の正確さとスピードに舌を巻きながら、佐藤は呟く。
「コイツ、一体何者なんだ?」
だがすぐに、目の前に押し寄せる患者の奔流が、佐藤から雑念を消し去る。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』28章 カタスロフ 本文 佐藤伸一 姫宮香織 より
速水は部屋を飛び出し、階段を駆け上がる。オレンジ新棟の屋上ヘリポートからは、遠く水平線まで見通すことができる。碧翠院桜宮病院の貝殻の上空が真っ赤に爛(ただ)れていた。数羽のヘリコプターが鳶(とび)のようにゆるやかに旋回している。張りつめた神経の弦には、ヘリコプターの羽音が耳障りだ。
速水は拳を握る。両腕を一杯に広げ虚空を抱き止め、蒼天に向かって怒号を上げる。
「取材のヘリは飛ぶのに、ドクター・ヘリはどうして桜宮の空を飛ばないんだ」
血まみれの白衣が肩から滑り落ちたのにも気づかず、ジェネラル・ルージュ、速水は虚空に向かって吼え続ける。救命救急の虎の咆哮を意に介さず、ヘリコプターは桜宮の夕空を優雅に旋回し続けていた。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』本文 28章 カタスロフ 本文 速水晃一 より
「では、リスクマネジメント委員会に提出された救命救急センター速水部長の辞表は不受理とします。速水部長には本委員会による処罰を受けていただく必要がある」
速水は唖然として田口は見た。
「何を言ってるんだ、行灯?」
田口は速水の問いかけを無視して、手元の鞄からノートを取り出す。花房師長が提出した赤いノートだ。
「速水部長、先日あなたは個人的供与は一切受けていない、とおっしゃっていました。すべては病院の経費を捻出するため。だとすれば、当リスクマネジメント委員会が裁くべきは速水部長ではなく病院の医療経営システム、ということになります。その点に関しては後日、改革案として病院長に提出することで代替します」
高階病院長はぼんやりとうなずく。田口は続ける。
「問題は、速水部長が個人的に利益供与を受けていた場合です。この場合、個人の倫理問題が生じ、リスクマネジメント委員会として勧告を行うことになる。その場合、勧告を受諾しますか、速水部長?」
速水は笑う。
「天地神明に誓って、自分用の経費は一切つけていない。そうでないという証拠でもあったら、行灯、いや田口委員長の勧告に従うさ」
田口はにっと笑う。その笑顔に速水の古い記憶が呼び覚まされる。卒業記念麻雀の最終局での国士無双。大逆転の手を上がったあと、田口はずっと申し訳なさそうな顔をしといた。だが、速水ははっきりと思い出した。百パーセント安全だと信じて疑わなかったラス牌の紅中が、速水の手牌からこぼれ落ちた瞬間、田口は今日みたいに、にっとわらった。絶対にそうだった。
速水の背中に冷や汗が一筋流れた。
田口は付箋をつけたページを開く。一同、ページを覗き込む。速水の顔が、みるみる青ざめる。
「こ、これは……」
そこには『四月分チュッパチャプス代金千二百円六十円也』と記載された領収書が添付されていた。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』29章 口頭試問 本文 田口公平 速水晃一 佐藤伸一 高階権太 より
田口は速水から視線を切らずに言う。
「救命救急センター速水晃一を本日付けで部長職より降格、今後三年間、病院長が指定する業務に従事することで、東城大学に対する背任行為の責を果たしてもらいます。ただし……」
そこで言葉を切って、速水の顔を見つめる。しばらくして、田口はつけ加えた。
「着服額が少額であることと、速水部長が当院に対し長年行ってきた多大な貢献を併せ考え、仮に速水部長が本勧告を無視し自主退職したとしても、当院としては公的訴追をするつもりはありません。速水部長、この処分を受諾しますか、それとも拒絶しますか」
速水はうめく
「行灯、てめえ……」
速水の様を見ながら、田口が呟く。
「お前は昔から、肝心のところで勝負弱かったよな、速水。だからラス牌の中(チュン)で国士無双にぶちこんだりするんだ」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』29章 口頭試問 本文 田口公平 速水晃一 より
どれほど時間が経過しただろう。ふと、速水がひと息ついた。
「さて、それではこのケースはどうする?」
語調の変容に、佐藤は次の言葉を待つ。いよいよ大詰めの気配を感じ取り、傍観者と化していた高階病院長と田口は緊張する。速水は眼を閉じて、腕を組む。やがて静かに語り出す。
「救急搬送されたのは三歳児、DOA。体表に傷はなく、死因不明だが両親は解剖に応じようとしない。あまつさえ、解剖を勧めた病院を訴える、とまで言う。さて、どうする?」
佐藤は、考え込む。それから速水の表情を確かめながら、ゆっくり答える。
「両親の感情を刺激しないように、まずCTで事前検査をして死因探求を目指します」
その場にCTがなかったら?」
佐藤はぎょっとしたような表情になり、考え込む。そして顔を上げて答える。
「解剖を勧めます」
「両親は解剖に反対しているんだぞ」
「何が何でも、解剖を取ります」
「何が何でも?それでも取れなかったら?」
「解剖して、もしも異状がなかったら私が全責任をとって辞職しますから、と言って説得します」
佐藤の言葉に、高階病院長と田口が驚いて、顔を見合わせる。速水はにやりと笑う。
「勇ましいな、佐藤ちゃん。それでは覚悟の程を聞かせてもらおう」
そう言って速水は佐藤を見つめて笑う。
「説得が功を奏し解剖が取れ、その結果、問題所見が発見されなかったら、その時はどうする?」
佐藤は速水を見つめ返す。二人は沈黙の海に沈み込む。
「……バックれます」
「え?」
「しらばっくれます。死因に問題ないことが判明してよかったですね、と両親に告げて、その場でごまかします」
場が静まり返った。やがて、速水がくっくっと噛み殺した笑い声を上げ始める。その声は次第に大きくなり、やがて部屋いっぱいに満ちた。
「合格だよ、佐藤ちゃん。見立てのひとつやふたつ外れたくらいで、いちいち辞表を提出していたら、救急医なんてこの世界からひとりもいなくなっちまう」
そう言うと、速水は佐藤の顔を見つめて続けた。
「それは責任感が強い、というんじゃない。そういうのは“へなちょこ野郎”っていうんだ」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』29章 口頭試問 本文 速水晃一 佐藤伸一 田口公平 高階権太 より
速水は立ち上がり、高階病院長に告げる。
「佐藤副部長代理は、次期救命救急センター部長への推挙に値する人物であると認めます。前任者の権限にて、彼を次期部長候補として、ここに推挙します」
言い終えると速水は、高階病院長と田口に向かって深々とお辞儀をした。
「これが東城大学救命救急センター部長としての、最後の仕事です。長い間お世話になりました」
頭を上げ、佐藤に言う。
「佐藤ちゃん、他大学からの競争相手は自力で闘え。なに、心配はいらない。俺に正面切ってたてつくことができれば、誰にも負けはしないさ」
速水は、踵(きびす)を返し部屋を出て行った。
呆然としていた三人は、扉が閉まった音を聞いて我に返る。佐藤があわててお辞儀をしてから、速水の後を追って出て行く。
残された高階病院長と田口はソファに沈み込んだ。
高階病院長は田口を見、満面の笑みを浮かべる。
「お見事です。ババの引き方などはさすがに手慣れたもの。お上手でした」
田口は、げんなりした顔で、高階病院長を見つめる。
高階病院長は続けた。
「それにしても、セコい手を考えついためのですねえ」
のんびりした高階病院長の口調を耳にして、田口はゆっくり笑顔になった。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』29章 口頭試問 本文 田口公平 速水晃一 佐藤伸一 高階権太 より
速水は三船に言う。
「ドクター・ヘリ構想を潰したくて仕方なかったあんたのことだ。さぞかしほっとしただろう」
速水の言葉に、三船は強く首を振る。
「いいえ、無念です」
速水は驚いて、尋ね返す。
「今さら何を言っているんだ?」
三船は、懸命に速水に訴える。
「私は病院経営の観点から、導入は不可能だと判断しました。だけどそれは、ドクター・ヘリを導入したくない、ということではないんです。個人的にはドクター・ヘリを導入できればどんなにいいだろう、と思っていました」
「まさか」
「本当です。ドクター・ヘリが桜宮の空を飛ぶのを、この眼で見てみたい。そのために速水先生に自分が打ち破られることを、心の底では密かに望んでいたんです」
三船の言葉に黙り込む速水。しばらくして、ぽつりと言う。
「それなら佐藤ちゃんに協力して、実現してやってくれ。アイツは俺よりも現実で、ずっと誠実で、そして何よりも、俺よりもずっとずっと粘り強いからな」
三船はうなずき、会釈した。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』終章 岬 本文 速水晃一 三船事務長 より
速水の問いかけを意に介さず、姫宮は桃色眼鏡のブリッジを押さえて、言う。
「実は私、看護師ではありません。医師免許を持っていますので、れっきとした医師です。今回は私の所属する組織から命じられ極秘ミッションのために、看護師としての研修が必要になりました。そのため、直属の上司が無理矢理高階病院長に頼みこんで、ICUにお邪魔することになりました。私なんか、もっとのんびりしたところでないかと心配していたんです。だけど、おかげさまで、何とかやっていけそうだ、という自信がつきました」
そう言うと姫宮は、はっとした顔をして、両手で口を押さえた。
「あ、いけない。肝心のことを言い忘れてました。私の正式な肩書きは、厚生労働省大臣官房秘書課付医療技官、それから医療過誤死関連中立的第三者機関設置推進準備室室長……」
そこまで言うと、姫宮は息が切れたのか、ひと息つく。それから、ぽつんとつけ足した。
「……ホサです」
「……ホサ?……ああ、補佐のことか」
そう言ってから、速水は首をひねる。
「お前の肩書き、最近どこかで聞いた気がするが……」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』終章 岬 本文 速水晃一 姫宮香織 より
「本当に知らなかったのね。その調子だと看護師が師長になるために経験しなければならない四つの節目のことも知らないでしょう」
花房はうなずく。
「ええ、知りません。教えていただけますか?」
「それはね、“生・老・病・死”、それぞれの看護を経験することよ」
「“生・老・病・死”ですか?」
猫田はうなずく。
「“生”の看護は、命を生みだし育む看護よ。産婦人科と小児科ね。“老”の看護にはお年寄りや障害者介護が含まれている。“病”は言うまでもなく、通常の看護ね。同じように、死に際しても看護は必要なの。死者にまで看護の領域が拡張されなければ、真の医療には到達できないの。それが“死後看護”。」
猫田は表情を曇らせる。
「死後看護は、死をタブー視してきた医療現場ではおざなりに扱われてきた。でも考えてみて。死んだ後まで看護してもらえると思って初めて、人はよりよい生を送ることができるのではないかしら」
猫田は遠い眼をして呟く。
「二年前、オレンジ・ドラフト会議であたしが浜田小夜を選んだのは、彼女が日本では珍しく、“死後会議”の経験を豊富に持っていたからよ。彼女に小児科病棟で、“生”の看護を叩き込めば、あとの二つはどこでも経験を積める。あたしは、真の看護の体現者を育成したくて浜田を選んだ。でもどうにもならない因縁があって、彼女はここに留まれなかったのだけれど」
猫田はため息をついた。「……本当に、残念なこと」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』終章 岬 花房美和 猫田麻里 より
「それにしても、今回は白鳥調査官はおとなしかったですね」
田口は笑う。
「そうでもなかったんですよ。エシックスやリスクマネジメント委員会では、ロジック・モンスターぶりは健在でした。でもリスクマネジメント委員会が終わった後、こう言ってました」
田口は咳払いをして、白鳥の口調を真似る。
「目の前で理想と仰ぐアクティヴ・フェーズの進化型、アグレッシヴ・フェーズのお手本を見せられては、僕の出番はありません……」
田口はひと息ついて、笑う。
「……だそうです。速水とのつき合い長かったおかげで、私もこれまで白鳥調査官と何とかやってこれたのかも知れませんね」
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』終章 岬 本文 田口公平 藤原真琴 白鳥圭輔(回想・田口の口真似) より
田口は野村を見た。野村は続けた。
「現実的なアドバイスをひとつ、差し上げましょうか。日本は起訴至上主義でして。微罪は起訴の時点でかなり酌量されます。たぶん田口先生が懸念されている件は、私のカンでは重く見積もっても起訴猶予にすらならないでしょうね」
それから野村はぽつりっ呟く。
「速水先生や島津先生は論理というものを頭からバカにしていらっしゃる。確かに論理はまだ、ひ弱なヒナ鳥だ。その鳴き声は小さく、翼は伸び切っていない。だが、忘れてはならない。長年、医学研究の美名の下に患者不在の傲慢な研究が数多くなされてきた。被験者である患者の人権は護らなければならない。だから倫理委員会は絶対に必要なんです。だから、何から何までケチをつければいいといいものでもない。研究結果から利益を受けるのもまた患者なのですから」
そこで言葉を切ると、野村は空を見上げる。つられて田口も天を仰ぐ。強い風が、層雲を吹き散らしている。
野村は、言葉を続けた。
「速水先生のような方を裁くことができるのは論理ではない。それは恐らく……」
言葉が途切れた。田口が視線を天から地に戻すと、野村弁護士は片手を挙げてタクシーを止めていた。野村は車に乗り込む。
走り去る車に向かって、田口は深々と頭を下げた。
海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』終章 岬 田口公平 野村勝 より
----どうしてあなたはこの街を去るのですか、賢人よ。
街人よ。私はこの街にうみ疲れただからだ。
----なぜお疲れになってしまったのですか。
この街の人々は、私の知によって利を得ている時はその恩を語らず、私の間違いにより害を得た時には声高く責め立てるからだ。
----賢人よ。その声に応えることは、優れているあなたの責務ではないのですか。
賢人は街人を見て、微笑む。
街人よ、あなたから見ればその通りであろう。だが、あなたに従えば、この街で私は滅びる。私が滅びたら、その時は世界も滅びる。だから私がこの街を去ることは、この世界のためなのだ。私がこの街を去れば、私は自分の身を守ることができる。
----生まれ育ったこの街を、私利私欲のために捨てるとおっしゃるのですか。
違う。この街を去れば私は、私を大切にしてくれる新しい街で、生き永らえれであろう。そうすれば、私は別の街でこの世界の一部を救い続けることができる。それは世界のためであり、そのためには、たとえこの街が滅びようとも仕方がない。
その言葉を聞いて、街人は賢人に跪く。
----賢人よ、どうか今一度、私たちに希望をください。
賢人は目を閉じ、考え込む。やがて厳かに言う。
街人よ、ならば一夜の猶予を与えよう。明朝までこの街の家の窓という窓すべてに、ミモザの花をいっぱいに咲かせてほしい。その光景を見たら思い直してもよい。
----季節はずれの花で、この街をいっぱいにしろなどと、そんな無理を言うなんて、この街に留まるつもりがないから、意地悪をおっしゃるのですね。
そうではない。これは、街人が私に求め続けてきたことと同じことを、最後に私の方から街人にお願いしてみただけのことなのだ。
翌朝、街人は、賢人がその街を去っていくのを、黙って見送るしかなかった。
海堂尊『イノセント・ゲリラの祝祭』序章 賢人と街人 本文 より
隣に建設中の建物を見上げる。桜宮市に初めて出現する超高層ビル。桜宮丘陵の頂上に建設される二十階建ての超高層病院だ。新病院の通称は『ホワイト・サリー』。ビートルズのナンバー、『ロング・トール・サリー』のもじりだろう。のっぽビルにサリーなどという洒落た愛称をつけるセンスは、それ以外に思い浮かばない。
『サリー』の売りは、上層階にVIP病室を多数設置した点だ。十二階以上すべてが現在本館神経内科病棟に一室だけ存在するVIP特室『ドア・トゥ・ヘブン』と同じ状態になる。
希代の名院長と謳われた佐伯清剛・総合外科学教授が教授会の反対を押し切って設置した鬼っ子の特室が、スタンダードとして桜宮のスカイスクレイバーに君臨する。
何が正しくて、何が間違っているのか。俺は自分の座標を見失いそうになる。
海堂尊『イノセント・ゲリラの祝祭』4章 廊下トンビの献身 本文 田口公平 より
「それにしても、最近の救急患者の増加は異常だな」
「いっときより、かなり増えている気はしますけど、どうしてかなあ」
首をひねる兵藤に、部屋の隅の椅子に座って話を聞いていた藤原さんが、言う。
「長期療養のお年寄りを自宅療養に切り替えるため、厚労省が医療制度を作り直したからですよ。それまで病院で看取ってた入院患者が家に帰され、亡くなる直前に容態が急変すると、救急患者として戻ってくる。それで救急患者が増加したんです」
「なるほど。死ぬ前の患者が全員救急患者になってしまうわけですね。そりゃ大変だ」
これも、医療費削減を近視眼的視野で断行した厚労省の失政だろう。
「患者さんの不定愁訴外来が、医療従事者の不定愁訴外来になってしまいましたね」
藤原さんの言葉に、俺と兵藤は顔を見合わせ苦笑した。俺はしみじみ思う。
“無為無策”というのはそんなに悪いことではない。現実にはその下があるからだ。
それは“有為愚策”だ。
大きくなったサイレンの音が、窓から見える木立の向こう側で、消えた。
海堂尊『イノセント・ゲリラの祝祭』4章 廊下トンビの献身 本文 田口公平 藤原真琴 兵藤勉 より
西郷は珈琲を飲み干し呟いた。俺は、スプーンの生クリームをなめながら尋ねる。
「西郷先生は、法医学を志して何年目ですか?」
「足かけ十年、です」
三十代半ば、見た目と実年齢が合致するタイプ。
「どうして法医学を志したんですか?」
西郷はにんまりと笑う。
「教授になりたかったんですよ」
異次元の生物を見るような視線で、今の世に、教授というしち面倒くさいものになりたい人種が残存しているとか。なんて酔狂なヤツ。だが俺には、本当は自分の方が妙な存在だという自覚はあった。
西郷は続けた。
「教授になるためには、競争相手が少ない分野の方が有利。その観点から見ると、法医は競争率が低く、教授成就率が高いんですよ」
「基礎医学の系列は、どこも同じでは?」
「もっと楽に見えても業績を挙げなければダメ。法医学教室は司法解剖に邁進(まいしん)していれば必ずどこかの教授になれる。確実性はナンバーワンです」
それがこの若さでこの教授就任に繋がったわけか。西郷の用意周到さに感心する。
海堂尊『イノセント・ゲリラの祝祭』11章 上州大学法医学教室教授・西郷綱吉 本文 田口公平 西郷綱吉 より
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