黒蜥蜴の日記

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2010/02/27 08:10(更新日時)

日々たまるストレスを吐き出すための日記。

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No.1227307 (スレ作成日時)

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No.1

私は、多分他の普通の家庭では無い。

いつも平然と、朗らかに生きている。

ふりをしてる。

本当は笑いたくない時も、愛想笑いが自然にできる。
ずっと、もうひとりの自分と戦っている。

No.2

私は、物心ついた頃から、
父親の暴力癖を見て育った。

父親はトラック運転手。

ギャンブルを好み、悪い友達とつるむ、そんなタチの悪い男だ。競馬やパチンコで負け、その勝手に作られたイライラを母親にぶつけていた。

母親はその激しい暴力のせいで、よく骨を折っていた。
痩せたガリガリの体にグゥで手加減なしに、切れたら自分の力の限り、殴り狂う。
でも、普段の性格はとても穏やかで、優しい人だった。

幼少期、まだ苦しいとは思っていなかった。喧嘩はしょっちゅう起きていたので、夜、よく親戚の家に匿ってもらっていた。鬼のような父親をまるで別人を見るかのように感じていた。

No.3

女は口が、男は手が、出るとよく言われるが、その通りだ。しかし、私が成長するにつれ、喧嘩になると激しさを増していった。
襖や壁は穴だらけ。
皆、父親の作った毒だ。いくら母親が口が達者でも、ここまでやるだろうか。殴りながら、よくチンピラ語で凄んでいた。母親の髪の毛を掴みながら、血走った目で怒鳴る。

俺は一番強いと言わんばかりに。実際、私も小学生時代はそう思いこんでいた。

No.4

思春期に入った頃から、父が帰ってくるまでに事故にあってくれないかなどと、不謹慎にも、考えるようになっていった。

仕事が二日に一度、帰ってきて夜また出て行くスタンスだったので、出掛けて帰ってこない日はとても安心していた。
そして帰ってくると分かっている日は憂鬱で仕方がなかった。
弟が生まれてから、父親の暴れる癖が少し落ち着いたかのように思えたが、それは回数が減っただけで、内容は悲惨さを増していた。

No.5

高校に入ったあたりから、何か揉め事が起き出すと、私はいたたまれず、出ていく癖がつき始めていた。

母の安否はもちろん心配だったが、私が出ていくことで、両親の不和が治まる時もあったのだ。

何度も、大喧嘩の度に別居して、結局母は許していた。

一度、三ヶ月ほどの別居になった際、今度こそ離婚の決意を固めてくれるかもと期待していた。だが、結局戻ってくる、と知った日。
私は両腕をカッターで切りまくった。泣きながら、行動で抗議したつもりだった。
赤く腫れまくった私の腕を見て、父は泣いた。

No.6

そんな抵抗も虚しく、結局また四人で暮らすことになった。

何となく予感はしていたが、これで少しは穏やかに過ごせるならばいいかと少し希望を持っていた。
しかし、そう思うのもつかの間。
いつもの揉めるネタでもある父親のギャンブル癖は治らなかったようだ。

前回の別居理由が、ギャンブルによる借金を作ったことによる暴力であった。
ギャンブルはハマルと抜け出せないなどと言う人間もいるらしいが、やるならば家族や他人に迷惑かけるまでやらねば良い。趣味の範囲で留める事が出来ない人間は最低だ。ましてギャンブルで負けたからといって家族に当たられては、酷い仕打ちもいいところである。

No.7

そんな家庭で育ったもので、私は、せめて学生生活は充実したい、学校で思い切り楽しめれば、きっと何とかこんな父親がいても頑張れると、強く考えていた。

しかし、思春期の時分は今でも暗黒の日々として脳裏に刻まれている。
中学校に入ってからは、生きてる事に、人生の意味に何の輝きも見出だせず、本当に苦しかった。訳も分からぬまま集団でのイジメが始まる。

No.8

ある朝、教室に着くと、黒板いっぱいに、私の名前と死ねの文字。
その前にも、昼ご飯時は今まで一緒に食べていたグループから総無視。私が一緒に食べようと誘った子全てをKは徐々に自分のグループに入れていった。
私も一生懸命、仲間に馴染もうと、話しかけていくも、だんだん誰に話しかけてもシカトされ、しまいにトイレで弁当を食べるようになった。
トイレで食べるなんて、辛くて、悔しい気持ちでいっぱいで、でも教室に戻っても一人ぼっち。居辛い。
そのうち弁当を食べること自体が嫌になり、トイレに弁当を流しては教室に戻り、ひたすら机に俯せて寝たふりをしていた。昼休みは一番の地獄だった。

No.9

こっそりと、仲良くしてくれた友達が少しいた。

その子の恋愛相談などに乗っていた。あからさまに仲良くはできないので、手紙公開をしながら、ひっそりだが、心に温かい気持ちが芽生えていた。
だが、折しもKにバレて、友達からもらった手紙を、見せろと言ってきた。しかもその子の目の前でそんなことを言いだしたのだ。やんわり無理だと伝えたが、怒鳴りながら結局無理矢理手紙を奪われ、その子のプライベートな悩みはまる見え。

この出来事で、ますます私は誰からも関わりを持てなくなった。私と少しでも関わると、酷い事になると、Kの仲間もそのように周りに伝え始め、クラブ活動でペアを組んでいた相手にも、練習が終わってからは付き合いは止したいと言われた。

No.10

苦しい2年間が過ぎようとしていた。中3で、本格的に進路を考えなくてはならなかった時期、周りは皆、学校から、仲間から、離れたくないムード一色だったが、私は涙がでるほど、嬉しくてたまらなかった。卒業式までの日数を指折り数えては喜んでいた。
高校は、地元から遠いところで、中学の子がほとんど目指さない専門学科的なところを受けた。即、合格。

中3になって、すぐに部活を辞めた。受験の為、勉強に専念したいという理由だったが、本当は自分がいてもいなくても、どちらでも同じだとずっと感じていたから。辞めることで、ペアの相手に試合で迷惑がかかろうが、どうでも良かった。それほど、私は辛い仕打ちに耐えてきたのだ。イジメで惨めな思いをしていた私に相手は、『イジメられる方にもイジメられる原因がある』とか『練習や試合ではペアやけどそれ以外では一緒にいるところを見られたくないから帰りも別々で帰りたい』と言った。

せめてもの仕返しをしたかった。それが仕返しになったのかは分からないが。

No.11

確かにイジメはイジメられる方にも原因があるのかもしれない。
でも、、、原因が分かってたら改善策を考えれるが、それはなかなか明確にはない事の方が多い。結局、皆、自分の保身が第一なのだ。自分が大切だから、疑問に思う事であっても見なかったふりをする。

卒業式の日、思春期の苦い思い出と、決別し、新しい明るい扉を開けよう、と、心が真っさらな空に生まれ変わろうとしていた。

No.12

幸い高校、大学時代は、たくさんの仲間に恵まれた。
色んな個性豊かな人々が集まっていたが、誰も誰かターゲットを決めてイジメたりしなかった。これが、普通なんだと、驚きつつもその環境がとても楽しく、学校生活は充実していた。幸せだった。家では相変わらず年に数回大喧嘩。私が大学に行く頃には回数は減ったが、父のギャンブルでの借金が発覚し、そのことを問い詰めた母は又逆ギレされ暴力をふるわれた。その日は奇しくも大晦日であった。

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