携帯小説「二番目の悲劇」
「二番目の悲劇」
🔯 作者@ りん
🔯 演出@ ホロロ
で、進めて参ります、長編小説です。
新しい試みですので、優しく見守って下さるようお願いします🙇
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それが初めて少女に起こった夕暮れ時、街は朱い雨が降っていた。夕焼け空には珍しい天気雨は、夕日を受けていて、まるで「ルビー」が降っているみたいだ。
大きな太陽は山と山のくぼみに吸い込まれようとしている。
陽が海から昇り、山に沈む…。
そんな自然が好きで、街に愛着を持つ、羽瀬和美(はせかずみ)は地元育ちの一人だった。
ファ…和美は沈んで行く夕日を見ながら、大口を開けてあくびをし、涙でつぶれた夕日をぼんやりと見た。
高校からの帰り道、手にはマスコットだらけのと木製ケースに入った油絵セット、脇にはキャンバスを抱えている。
「まったく…色気がないんだから」ミチは呆れるように言った。
「それにしても和美って変な体質」
和美は「昔っからこの雨の匂いに弱いんだね」と、あくびをこらえながら「最近、ただでさえ眠いのに…寝る子は育つって本当だよね。見てよ、制服がぱつんぱつんだし」
「そんな事ないよ」ミチはやんわりと言った。
>> 1
容姿についてコメントしない事が友情の秘訣だと悟ってる。
和美はたくましく育った自分の脚から目をそらし、ミチのすらっとした脚を、ウェストの細さを、その割にボリュームのあるバストをみて気分が悪くなった…
較べるのは無意味だ。ミチは学校で1番の美形でモデル並のスタイル。おまけに太らないと来れば、一緒に歩きたがる女子は変人くらいのもんだ。
和美は不幸にも腐れ縁の幼なじみだった。だいたい、幼稚園の頃は和美のほうが可愛いと言われていたのだ。
こんなに美しく成長すると分かっていれば、あの頃にさっさと縁を切っておくべきだったな~
「今日、男子に『ミチのダチ』ってまた呼び止められたわ」和美は言った。
高校に入って半年が経過した今、『ミチのダチ』は和美の代名詞となっていた。
>> 2
「あ、あれ、大翔(ひろと)じゃない?」ミチが声をあげ、映画のヒロインのように大きく手を振った。
和美は目を細め、もうひとりの腐れ縁がバイクに乗ってくるのを見た。バイクは高校で禁止されているのに、大翔の悩は小さい頃から『禁止』という意味が理解出来ないままなのだ。
「よっ!」やかましい音をたてたバイクは二人の前で停まった。「いつ見てもそっくりだなぁ、二人は。」大翔は皮肉たっぷりに言った。
「……絶対バイクの事学校にチクッてやる」和美はうめいた。
「さっき、シーサイドで紫苑を見たぜ。すげーお洒落してさ、よほどめでたい事でもあるんだな…きっと」大翔が言うと
「そういえば……紫苑が何かやるって、取り巻きが騒いでたよね」
和美は海に面した岡の上にあるリゾートホテル、シーサイドを見上げた。
「なんだ、お嬢様はもう結納か?」大翔はいった。
「あ、思い出したよ、個展だ。アトリエで紫苑の個展が開かれるの。…といっても、あたしが誘われたんじゃないけどね」ミチがいった。
>> 3
「ま、紫苑が自分より目立つ女を誘う訳ないよな。おまえも頭脳の差が明らかになるしな。」
この年代の男で、至近距離からミチを見ても顔を赤らめず、心拍数も上げず、ズケズケとものを言えるのは、大翔ぐらいだ。男子達はこの『幼なじみ』という奇跡のパスポートを欲しがり、歯ぎしりしているが、これだけは頑張って手に入れられるものではない。
和美たち三人は、男女一緒に着替えていた幼稚園時代からのお気楽な関係だった。大翔はスポーツ特待生で、和美とミチが受験勉強の末ギリギリ滑り込んだ高校に、悠々と入学してきた。和美はそれをひそかに『迷惑』と呼ぶ。
「紫苑のお父様、めちゃめちゃ張り切ってるんじゃないかな」ミチはいった。
「東京から美術関係の人達とかマスコミとかも来るらしいし、個展の後は、パーティーとかあるらしいよ」
これだけ住む世界が違うと、もはや差も気にならない。
紫苑……アイドル系のミチと違う意味で校内では知らない生徒はいない。
資産家の一人娘にして才女。特に絵画では才能を発揮し、県内の展覧会に何度も入選している。しかも大人びた美人ときている。
>> 5
「別世界でもないさ。なんかちょっとしたきっかけさえありゃ…」大翔がいった。
「何かあったの?」ミチがピクリとした。「紫苑と接触があったとか…」
「おまえってさ、妙に勘がいいよな。そういうことは」大翔はまじまじとミチを見つめた。
「さっきさ、あいつから電話あってさ」
「あの紫苑が?」ミチは形のいい眉をくっと上げた。
「そりゃVIP待遇ね」
「でさ、変なこと言うんだ。芸術に力を貸してくれないかって」
「はぁ?」和美は拍子抜けした声を出した。「芸術?大翔に?どうやって?」
人の事をあまり言える立場じゃないが、大翔こそ芸術などというものと縁がない男だと思う。
「えと、つまり……」大翔は鼻をかいた。
「俺にモデルをやってくれって。デッサンの」
「モデルってさ、まさかヌード?」和美は驚いて言った。
「知るかよそんなの。すぐ断ったし」
大翔がトイレを我慢している子供のような顔をしているのを見た。何度も見た事のある顔だ。
失敗したとき…
泣きたくても泣けないとき…
隠し事をしているとき…
>> 7
『民宿・味里(みさと)』は古い木造二階建てで味のある造りと言えなくもないが、それにはかなりのヒイキ目を必要とした。
何しろ部屋は狭いし、洗面所からはお湯は出ないし、トイレは和式だ。
新鮮でおいしい魚と、アットホームな雰囲気を売り物にしているが家族四人を養う事が精一杯だった。
我が家には「貧乏」という友達みたいな言葉がぴったりだった。
雨に濡れながら帰ってきた和美は、民宿の駐車場に一台のワンボックスカーが停まっているのを目に止めた。(あ、お客さんが来てる。)
車の大きさから家族連れと推測した和美は、2階から子供たちが遊ぶ声が聞こえて、ホッとした。
秋口の連休でもない日に泊まりに来てくれるお客さんなんて、神様に違いなかった。和美は民宿の玄関をあくびをこらえながら通り過ぎていった。
民宿の玄関の脇に小さい平屋建ての家が和美たち家族の家だ。和美は中学生になった時に、両親に交渉して勝ち取った部屋がある…
民宿の2階奥が和美の部屋だ。幸い民宿・味里は、和美が産まれてから『満室』になった事など、ただの一度もないのだ。
部屋のひとつを与えるのは難しい事などなかった。
和美は民宿の裏口から入ると、台所の両親に「ただいま~」と声をかけると、2階の部屋に入って着替えた。
ベッドに座って窓を開けると、雨に甘い香りが混じっているのに気がついた。
「あ、キンモクセイが咲いた」
小さい花達を揺らす雨も、間もなく止んで月が花を照らしていた…
好きな匂い、ささやかな時間。強烈な眠気の中でふと視線を感じて家の方を見た和美は、縁側にちょこんと座っている香月(かづき)を見つけた。
和美はあくびをし、だるそうに手を動かした。「ね・む・た・い」
香月は呆れたように笑って、手話で返事をした。(オネエは寝過ぎ。太るよ。)
色白の顔に、表現力豊かな大きい目。小さい手を動かしている香月は、かわいいマリオネットのようだ。
香月は、生れつき耳が聞こえない…
香月は無条件に可愛く、家族はあっけらかんと明るかった。その香月が1番なついているのは、他ならぬ和美だった。
二人は物凄い速さで手話を操り、仔犬のようにじゃれあって育ってきた。
和美は香月の所に行くと、(パソコン買って貰ってうれしいのは分かるけど、やり過ぎじゃないの?)というと、香月はすかさず、(遊んでるんじゃないよ、民宿のホームページ作っているの。あと、ブログもね!)
家族の中で、香月は1番商売上手かも知れない。
すると香月は、
(ブログに悪口を書かれたくなかったら、僕の言う事を聞くんだね)といたずらっぽい笑顔を向けて来た。
香月は本当に小学生なのだろうか…
でも、ホームページの管理は誰がするの?
オネエにはまず無理だね。お父さんは忙しいし、お母さんなんかインターネットと洗濯ネットの区別もつかないよ。
僕がやるしかないようだね。
…神様は声の代わりに香月にはちょっとだけ才能をオマケしたようだ。
-それからさ、やっぱり露天風呂だよね。
そんなもんどうやって作るのよ。
敷地は余ってるし、外にお風呂があればいいんでしょ?
そうじゃなくて、問題はお金よお金。
それなんだよね。お風呂ってさ、いくらかかるのかな?ひゃくまんえん?
…大金と言えば百万円と思ってるところが、まだまだ子供だが、実は和美にもわからなかった…
そんなことを考えていたら、押さえ込まれていた睡魔が急にやってきた。
ごめん香月、お姉ちゃんは眠い。(´Q`)。oO。おやすみなさい。
そういうと、部屋にそそくさと戻っていった…
男が朱い雨の中を疾走していた。和美は自分が起きてるのか、眠っているのか解らなかった。
男は熱を帯び、雨を蒸発させて、空気を切り裂いて、ただ走る。力強い鼓動が彼女へ迫り、その身体にも、発散するエネルギーにも、この世のものと思えない色が渦巻いている。
…誰? 和美はいった。
声も、音もない。
男は躍動的に走り続けた。
…待って、行かないで。
和美は見た。強烈な形。美の極み。それは和美の脳裏にしっかりと焼き付けられた。
和美は汗だくで跳び起きた。馴染み深いいつもの風景…
しかし、彼女の中には一枚の強烈な絵が焼き付いている。
ベッドから這い出ると、机の上に置かれた油絵セットに向かい、絵の具を絞り出した。何も考えずとも、手が勝手に動いていた。
時間が経つのも忘れる程、絵画製作に没頭していた。
空が明るくなりかけた頃、和美の手がようやく止まった…
心地よい疲れが和美を再度眠りへといざなった。
オネエ、まだ起きて来ないよ。部屋の電気もつけっぱなしになってる。香月が一生懸命手を動かしてる。
母親は驚いて時計を見た。いつもなら、シャワーを浴びている時間…
「変ね…」母親は香月の側へ行って、宿の方を覗き込んだ。
カーテンが半分開き、電気がつけっぱなしになっているのが見える。
和美は親が感心するほどきちんとした子で、整理整頓や、やりっ放しなどは一度として注意したことがない。
母親は急に胸騒ぎを覚えた。「ちょっと見てくるわ」
「和美、和美、どうしたの?」母親はノックしながらいった。
…返事がない。ドアを明けようとしたが、鍵がかかっている。その時、彼女の鼻は嗅ぎ慣れない匂いがすることに気付いた…
油のような、薬のような……
…これ、なに?…
母親はマスターキーを取り出した。これまで娘の部屋へこのキーを使った事はなかった。
「和美…?」一歩部屋に踏み込んだ母親はショックを受けて立ちすくんだ。
部屋中がめちゃめちゃに荒らされていた。引き出しは開けっ放し、床には服やら絵の具やら化粧品などが散乱していた…
母親の頭の中には、とんでもないドラマが展開されていた。
「和美っ!」母親は転がるようにベッドに駆け寄り、タオルケットを素早くめくった。胎児のように丸まった娘の体。
その顔に赤い物がべったりついていた。
……血…。
母親はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
…よく見ると、血の色よりもオレンジ色がかっているのに気付いた。
ホッとしたからなのか、いつも以上に大きな声で「もう…なにやってんのよ!和美!」…それでも和美は反応しなかった。母親は、和美の額へ手をやると、高熱だ…和美は目覚めない。深い眠りに落ちていて、まるで昏睡状態のようだった。
…まったく何してんだろう、この子は…こんなになるまで……。
窓際へ目をやると、椅子の上に見慣れない物が立てかけてある。むこう向きになった四角いもの…
どうやら油絵を描くキャンバスのようだった。
そうか、この子は一晩中絵を描いていたんだ。子供って、時々わからない事をするものよねぇ…
母親はため息をついて、娘の描いた絵を見ようと何気なく椅子を回った。
そうして、和美の母は『その絵』の最初の目撃者となった。
言うまでもなく、母親は絵に関して全くの素人だ。
今、彼女の目の前には一枚の絵がある…
有名人が描いた物ではなく、自分のお腹から出てきた「娘」が描いた絵だ。彼女は何だか凄いものを見ている感じがした。
初めて絵なんかに感動してしまった母親は、ただそこに立ち尽くした。
気がつくと、ドアから香月が顔を覗かせ、心配そうに見ている…
「香月、ちょっとこれを見てごらん。」
香月は絵の前に立った瞬間、小さな体がこわばった。
母親は胸の中に香月の声を聞いた気がした……
和美が目を覚ましたのは、午後2時を過ぎた頃だった。
目の前には香月がいて、和美を見ると手を額へ恐る恐る伸ばしてきた。
熱下がってる…
オネエ、絵、じょうずだね。すごいや!ハナマル珒
素早く手を動かし、和美のベッドに潜り込んできた。
和美は完成の瞬間を全く覚えていない。しかし、間違いなく自分が描いたという達成感があった。
「和美-入ってもいいか?飯作ってきた…」
「入って。」和美は恥じらいより食欲が勝ったようだった。
父親は、初めて入る娘の部屋を見回す事もできず、机の横に食事を置いた…そして部屋を出ようと何気なく向けた視線の先にある絵を見たとたん、蝋人形のように固まってしまったようだった。
実は妻から何度も感動を伝えられたが、見る勇気がなかったのだ。もしもおれだけが何も感じなかったら…
しかし、見てしまった。あの絵に引き込まれ、感動した。
「…どう?」和美が聞いた。
「うまく言えないけど、もうひとり娘が産まれたみたいだ。」
父親は「手にとってもいいか?」
和美が頷くと、父親は初めて赤ちゃんを抱く男のように、迷いながら絵に触れた。そして、またも動かなくなった。
「お父さん、大丈夫?」
父親は、幸せそうな顔を二人の娘に向けた。
「なぁ、和美。」
「なに?お父さん。」
「これ、うちのホールに飾ってもいいか?」
飾った絵を見ていると、父親の口元から笑みが広がる。
こいつは娘の入学式や卒業式の満足感どころではない。これからこの絵を見るたびにこれを味わえるのだ…
お客様がお帰りになるために、階段を降りたその先に、その絵は飾られている。
お客様が早速お帰りになる時が来た。
階段を降り、顔を上げるとその足が止まる…
「この絵は、なんと言う方が描かれたのですか?」
女の客がきくと、父親は誇らしげに背筋を伸ばし、「いやあ、うちのばか娘が描いたんですがね…」と頭を掻いてみせる。
父親の喜びが何倍にも膨れ上がったのは言うまでもない。
「娘さん?本当ですか?まあ、凄いじゃないですか」女は驚いて言うと、「イイモノを見せて貰ったよ」と、男の客。
「しかし、俺に芸術が判るとは思わなかったな」と男が言うと、「私も」と女が続く。
父親は心の中でつぶやいた。
(俺もだ…)と。
和美はひたすら眠っていた。クタクタになった脳細胞をいたわるように…
そんなシアワセなひと時を壊す声が聞こえた。
「キャー!」
ミチは持ってきた柿を落としてしまった。
和美は階段を降りて、柿を拾うと玄関に立ち尽くしたミチへ持たせた。
「何コレ?」ミチはそういうと、黙った。
それから、和美に
「これ、どうしたの
」とミチが聞いた。和美がためらっていると、いつの間にか香月がやってきて、ミチの背中をポンポンと叩き、ゆっくりと手を動かした。
(この絵はね、オネエが描いたんだよ。じょうずでしょⅧ煜)
香月に障害があることがわかった時、ミチが当たり前のように手話を覚えてくれた。
でも今は、まるで手話の意味もわからない人のように、ただ立ち尽くし「嘘でしょ?」とミチはつぶやいた。
当然の反応だ。香月はそれが嬉しいらしく、また喜んで手を動かした。
(ほんとほんと。煜)
「あたし、よくわかんないけど」ミチは真剣な顔で、また和美の顔を見ていった。「信じる」
「ありがと…ミチ」和美はいった。
「あたしこの絵、好き。すごく好き。だからすごくいい絵なんだと思う。」
ミチらしい表現だ。しかしほめられる事に慣れていない和美は、どんな反応をしていいのか、想像がつかない。
「ねぇ、和美……あたし、お願いがあるんだけど」ミチがいった。
「一生のお願い!あたし、この絵が欲しい!」
…本気だ。
まるで一目惚れした乙女のような、昀キラキラ昀した目を和美の絵に向けている。
この絵を誰かにあげる?自分のそばから見えないところに?自分の命をちぎって描いた絵を?
まるで我が子を手放すようなものだ…
ミチになんと説明すればわかって貰えるのか?
その時、香月がミチをつついた。みると、香月はきっぱりと指でバツを作っていた。
(ダメ。この絵はこの家の宝物。独り占めはバツ。)
ミチはしょぼくれたが、和美はミチに嫌な気持ちを向けずに済んで、心底ホッとした。
和美はミチと一緒に、見舞いに持って来てくれた柿を食べているときに、うるさいバイクの音が近づいてきた…大翔だ。
和美は柿をくわえながらみると、大翔が玄関の前で手を振っていた。
「なんだ和美、ずる休みか?」大翔はいった。「食欲はいつも通りじゃねえか」
「なによ大翔、うるさい(=`~´=)!」和美がいった。
大翔はビニールの袋を和美の前にほうりなげた。
「バカヤロ見舞いだよ見舞い。優しいなぁ、俺って」
「あんたねぇ」和美はあきれていった。
「お見舞いにパチンコの景品持ってくるひとっている?」
「ちょうどいいところに来た。大翔、ちょっと来て」ミチが呼んだ。
「イイモノ見せてあげる」
「やめてよミチ、恥ずかしいよ」和美は慌てて止めた。
「何いってんの、感動は分かち合うものよ」
さっきまで独り占めしようとしてたくせに…
「俺、忙しいんだよ」大翔が言うのも聞かず、「いいから、コレ和美が描いたの」
「一分だけだぞ。」ずかずかと歩いていた足が止まる。一分が経過したが、動く気配がない。
「……和美」ついに大翔が口を開いた。
「おまえ、俺を描いたのか?」
予想外の奇妙な問いだった。
「コレ、俺に似てるよ。絶対俺だよ、な」
肖像画のようにリアルでない。人は嫌いなものに対してそんな印象を持たないはずだ。
「和美、これどうやって描いたんだ?」大翔がいった。
「私にもわかんない」和美は弱々しく首を振った。
「夢のなかで本当にこう見えたの」
「そうだ、和美」大翔がいった「これ、美術の蒼太に見せろよ」
「そうたぁ?」ミチが裏返った声を出した。「あのエロにぃ?」
高校の美術教師、伊達蒼太…和美は考えただけで顔がひきつった。この絵を家族や、友達以外に見せる事など思いつかない。まして、絵を専門にしている人に見せるなんて…
「蒼太センセはただもんじゃないぜ」大翔はいった。「東京にいたときは賞をとったそうだ。」
「ふうん、蒼太って関西の出でしょ?」ミチはいった。「なんで関東のこんな田舎に?」
絵はどこでも描けるって本人は言ってたらしいけど、なんか訳ありそうな感じだよね。
「だけど、こんな絵、先生に見せても……」と和美がいうと、
「ケチケチすんなよ、和美。こういうのは、感動して貰うためにあんだろ?」大翔は和美の背中を叩いた。「でも……」和美はためらっている。
「うじゃうじゃ言ってんじゃねぇよ、よくわかんねぇけどこの絵は、マジ人を動かす何かがある。それを誰にも見せねぇなら、この場で燃やしてやる。」大翔はそういうとポケットからライターをだすと火を点けて、絵のほうに歩き出した。
和美、ミチ、香月の三人で大翔を押さえるが、牛のように三人を引きずって絵に近づく。
「わかったからやめて!」と和美が叫ぶと、大翔はポケットからタバコを取り出して火を点けて、白い煙を吐き出した。
「大翔なんか停学になっちゃえ」と和美は一人こぼした。
ここは学校内の異次元、美術室。
この部屋にいると生徒達の表情はだんだん芸術家っぽくなっていく。放課後のクラブ活動の時間、八人の部員が木炭を手に、いつもよりも緊張しながらデッサンにいそしんでいた。
「懐かしいなぁ、この雰囲気」
ゆったりとそれを見守る山吹文治の姿には、昔にはない余裕が漂う。美術教師、蒼太は教員用のデスクに座り、旧友の顔を見ていた。
「そういうたら」蒼太はいった。「今度、どこぞの美術館の館長に就任するゆうとったな」
美大の時代は二人とも貧乏で、クロッキー用のパンも分け合ったものだった。それが今や山吹は立派な美術評論家だ。数冊の著書があり、雑誌で連載も手掛け、絵画展の審査員も務める。
「いや、あれは本決まりじゃないよ」山吹はいった。「面白そうだけど条件とかを含めて検討中だ」
「ふうん」蒼太はいった。「とにかく忙しいやろしな」
「……失礼します」
トレイを持った紫苑がしずしずとやってきて、ふたりの男の前にコーヒーを置いた。蒼太のはいつも通りミルクだけ砂糖なし、スプーンの位置も正確だ。「山吹先生はお砂糖だけでしたね」紫苑は上品な声で呼びかけた。
さすがにお嬢様、どこに出しても恥ずかしくないお行儀のよさだ。
山吹が自分を見に来たのを意識していて、決して尻を向けたりしない。しかも、どんなに控え目にしていても、その存在感は消えない。
その辺の男子にはとても手の出せる雰囲気ではない。実際ほとんどの男子よりも、身長もプライドも高い、まさに『高嶺の花』だ。
今回、紫苑の個展を開催するにあたり、多忙な山吹を東京から招いたのは、蒼太だった。
「山吹、こっち来て個展の感想をずばずばゆうたってくれや、今からコイツの鼻が伸びんようにな」
紫苑は控え目に緊張しています、という表情で山吹を見た。
こんな女にそんな風に見られたら、男は機嫌が良くなるものだ。
山吹は、「それは教師の仕事だろ、俺は言いたい事をいうだけだ」
「そんで、どうや」蒼太は答えを促すように、聞いた。
「はっきり言って、驚きだね」
「せやけど、粗削りやろ?」蒼太はまんざらでもなさそうだった。
「もちろん伸ばさなきゃならん要素はいくらでもあるさ。」
山吹は続けた。
「でも新人とは思えない表現力があるし、なにより完成度が高い。これからが楽しみな逸材だ。」
デッサンをしている振りをして山吹の言葉に耳をすましていた部員達が手を止めて紫苑を振り返った。すごい事だ。事件と言ってもいい。本物の美術評論家が女子高生の個展を手放しでほめたのだから。
蒼太は黙ってコーヒーを口にした。
インスタントのコーヒーがキリマンジャロやブルーマウンテンのような味がした気がした。教師の喜びとは、才能を発見して伸ばす事だ。
紫苑は「ありがとうございます」と謙虚に頭を下げた。
その日は彼女にとって最高の日になる『はず』だった。
「蒼太せんせー、いる?」
珍客があったのは、山吹がそろそろ帰ろうとしていた時だった。ノックもなくいきなり美術室の引き戸がガラガラっと開き、大きな色黒の男が姿を現した。
「あ、いたいた」大翔はいった。「先生、ちょっといいかな?」
静かな美術室の雰囲気が途端に乱れる。蒼太は図々しく入って来た大翔の姿を見て意外な気持ちで見つめた。この芸術とは全く無縁の野生児が、何の用があるのか…
「じゃ、ぼくは…」立ち上がりかけた山吹が、何を思ったのかぴたりと立ち止まる。
その後ろから[田舎のヴィーナス]ミチが現れたのだ。途端に美術室が昀ぱぁー昀っと光で溢れる……ような気が蒼太はした。
華がある。それがどういう意味か?それはミチを見ればわかる。だが、顔がよくても身体が貧弱な女はいくらでもいる。
山吹の視線はミチの顔から順序よく下に移動していき、それが完璧であることを見て取ると、感嘆の表情を見せた。
「おう、ミチか」蒼太はわざと気軽に呼び捨てにした。「どうしたんや、大翔。珍しいなぁ」
ミチは自分のもたらした効果をおよそ知りながらさりげなく部屋に入って来た。
入学早々、蒼太は彼女をジョークっぽくモデルに誘ったおかげで、たちまちエロ教師に分類されてしまったが、それだけミチは[芸術受け]する身体をしていたのだ。
「蒼太センセ、ちょっとこの絵見てくれよ」大翔がいった。
蒼太はそこでやっと、大翔の後ろに隠れるようにしてもうひとりの女生徒に気がついた。こわごわとした態度でキャンバスを抱えているが、名前を覚えていない…
顔はまあまあ、ちょっと太めでくびれがはっきりせず、足は庭先にぶら下がるヘチマのようだ。
「なんや、その絵」蒼太はいった。「大翔、おまえが描いたんか?」
大翔は「俺が描くタマに見える?」
美術室でこんな暴言が吐けるのは、大翔ぐらいだ。「和美が神がかって一晩で描きあげたんだ。」
蒼太はやっと思い出した。ミチの友達の和美だと。「神がかりってなんや?」蒼太は軽く笑い飛ばし、「もったいつけんと、はよ見せいや。」と、イーゼルを指した。
はっきり言って誰も期待していなかった… 和美は泣きそうで、恥ずかしい思いで『その絵』をイーゼルに掛けた。
蒼太は心の準備もないまま、『その絵』を[見てしまった]のだ。
何が起きたのかわからなかった。自分が絵を見ている事さえも…
……そこにあったのは、完全を極めた世界だった。真っ赤な背景に白の濃淡のモザイク模様が疾走する人間を表している。蒼太は廻りに人がいるのも忘れ、一人その空間に引き込まれた。体験した。魅せられた。
胸が熱い。教師になって以来、この種のときめきは忘れ去っていた。
「先生……?」
和美の声が遠くから聞こえて来た。
蒼太は我に返り、同じように放心状態の山吹を発見した。その横では紫苑が真っ青になっている。
「あ、ああ」蒼太はやっとの事で声を出した。自分の声で何とか美術教師に戻る事が出来た。
……だが、その時にはすでに悟っていた。
自分がこの絵に対して指導することなど、もうどこにも残っていないことを…
美大時代、蒼太も山吹もプロの画家を目指していたが、二人とも叶わなかったのだ。そして今、自分達の前に一枚の絵がある。一生かかっても到達できるかどうかわからない境地が…
「俺は……」蒼太はボソッといった。「この絵を表す言葉はひとつしか知らん」
「なに?」大翔がいった。
「完璧や」
大袈裟過ぎる表現にも、誰も笑わなかった。山吹も、和美やミチや大翔が全く理解出来ない用語を並べたてたが、最後の一言はみんなにもはっきりわかった。
「君は天才だ。」
紫苑は、皆に一礼をしてその場をあとにした。
いったい何が起きたのだろうか。大きなステージにいきなり引きずり出された一観客のように、和美にはまだ自分を取り巻く世界の変化を把握できずにいた。
廊下にも関係のない生徒や先生までやってきて、一枚の絵を見ようと列を作っていた。
「すげーな」
「誰の絵。」
「ハセカズミだって」
驚愕と感嘆の声が交錯する中、和美達は廊下にでた。
その時、和美は刺すような視線を感じた。その先にいたのは…… 紫苑だった。
突き刺さるような視線、というものが実際にあることを、和美は初めて知った。
いつもステージにいるミチは、こんな怖い視線も浴びていたということになる。
「羽瀬和美さん」山吹が改めて名刺を差し出してきた。
「よかったら詳しく話を聞かせてくれないかな?来月僕のエッセイで取り上げたいんだ」
その瞬間、和美を縛っていた視線がフッと消えた。騒ぎに紛れて紫苑がそっと姿を消したのだ
もしかしたら[天才]という賛辞はおそらく彼女が一番欲しかったものではないだろうか?
そんなにまで誰かを傷つけてしまった事がなかった和美は、動揺を抑えられなかった。
「まぁ、すわれ、羽瀬」蒼太がいった。「この絵、いつ描いたんか話してくれるか?」
「はい」和美は見たこともないくらい、真面目な顔をした蒼太と、山吹を見た。
別段おだてたり珍重している訳でもなく、二人の大人が自分を対等に扱ってくれている。さっきまでの蒼太には、存在すらしていなかったのに、いまでは何か重要なもののように位置付けられているのだった。
『たった一枚の絵』によって…
「そうか、じゃあ本当に一晩で描いたんだね」和美が話をしていても、山吹は何度も絵に目を奪われていた。どうしても、見ないではいられないように…
「さてと、山吹よ」蒼太は腕を組んでいった。「これから、この絵をどうするべきか…」
「ま、とりあえず、賞やろな」
「賛成。だが蒼太、まさか地方展に出すつもりはないよな?」山吹はいった。
「アホか。ま、心当たりがない訳でもないけどな」蒼太はもったいぶった言い方をした。
「山吹は、紫苑のフォローを約束してくれるか?」
「…あぁ、任せろ」
「飯山満大賞」蒼太がいうと、「そうか、来年が第一回だったな。」
和美は、話を聞いていながら、内容はちんぷんかんぷんだった。(イイヤマミツル?誰だろ?)
和美はおずおずと聞いた。「イイヤマミツルって誰ですか?」
蒼太が「何や!おまえ、知らんのか?」と言ってのけぞった。
「世界的に有名な画家。『太陽の源』という抽象画で鮮烈なデビューを飾った」
山吹が説明すると、
「あ、その絵なら」
ミチが聞きつけていった。
「保健室にポスターがある。でも、あたしは和美の絵が好き。」
…まだ未練があるらしい。
蒼太は、まるで無知な和美とミチに向かって、飯山満の半生を語って聞かせた。
…デビュー以来、彼は狂ったように絵を書き続けたが、どの作品も斬新で話題を呼んだこと。
その後大きなスランプが訪れ、まったく絵が描けなくなったが、その後何年か放浪生活を送り、新境地を開いたこと、とにかくスケールのでかい芸術家だということ…
「時代の第一線におるんやけど、あの人には時代なんてみえとらん、俺はあの人を尊敬はしとるが、好きにはなれん。」と蒼太がいうと、山吹は、「まだあの時のこと、忘れてないのか…」といった。
(今度は、教え子を守るんや…)蒼太は心に誓った。
「みんないきなりちやほやしちゃってさ、今まで名前も知らなかったくせに。最後には校長まで出て来て、何にも知らないくせに…」相野愛はいった。「羽瀬和美の顔なんて見ていられなかったよ、あの子って慣れてないじゃん、こんなこと。だから何いっても様になんなくて笑える。でもさ、あのミチといるなんて身の程知らずだと思ってたけど、案外我が強いんだね。本当は目立ちたがりなんじゃない?」相野愛は、紫苑の代弁者だと自負している。こうして私が悪口を言うから、紫苑は黙っていられるのだ。
愛は、紫苑を見てさらに続けた。
「評論家の先生だって、名前聞いたことないし、対した事ないんじゃない?」
「羽瀬和美の絵だってさ、紫苑の絵に比べたら…」
愛の言葉を遮るように、紫苑がいった。
「あの絵は本物。」
愛はすかさず軌道修正して、「本物…本物かも知れないけどさ、あの子の美術の成績はD評価だったのよ。それが急に本物の絵なんか描ける?」
それを聞いた紫苑は「それは私も考えたわ。」
愛は今、彼女が言いたい事を言語にしているのだ。
「何かあるよ、裏が…」
「…愛」紫苑が立ち上がる。「今日、夕食食べていかない?」
「いいよ。じゃあ家に電話しとく」
愛は急いで携帯を取り出した。
紫苑がこうやって誘ってくれる事はめったにないし、ご馳走は、ディナーだ。だが愛が嬉しいのは、何もディナーがたべられるからじゃない。
愛は紫苑を打ちのめしてくれた、和美に感謝した。
相野愛の愛は屈折していた。
蒼太は、飯山真緒に電話をしていた。
「…久しぶりやな、真緒。」
「あなたの美術に対する情熱は認めるわ。でも、美術バカにだけはなって欲しくないの…父みたいに…」
真緒は、美術にのめり込む蒼太を父親の飯山満に重ね合わせていた。真緒の母親はそれで苦労をしてきたので、蒼太との結婚を意識している真緒は、そこが気掛かりだった。
「すまんな、余計な心配を掛けてもうて。その美術バカから頼みがあんねん」
「何かしら?」
真緒はがっかりした気持ちを隠そうともせず、聞いた。
「真緒の親父さんに見てもらいたい絵があんねん。うちの子が描いた絵なんや。ものごっつえぇ絵やねん。」蒼太は続けて、「この絵を世の中に出して、皆に見て貰えたら俺の呪縛も解ける思うねん。そしたら親父さんへのわだかまりも、なくなるかも知れん。真緒との事も…進むと思う。」
「頼むわ。」
真緒は気掛かりはあるものの、蒼太を信じて頼みを聞くことにした。
十二月のある夜、飯山満は東京の山の手にある自分のギャラリーを歩き回り、壁にずらりと並べられた絵を鑑賞していた。時刻は夜中の3時を回っている。あたりは引き締まった静寂に満ち、時折聞こえるのは背後でハイヒールのたてるコツコツという音だった。
『これから審査をする』と秘書の岩崎泉の自宅に電話があったのは、昨夜の11時過ぎ、この巨匠に一般の常識などは理解するつもりもない。
飯山の脳機能は真夜中に活性化するようだ。
ギャラリーには二人の他に誰もいなかった。リストを手にした泉は存在を足音だけにした。
飯山がチェックを入れた作品は三点。そして…
「この絵はどんな人が描いたんだ?」
「『疾走』は」泉はリストを広げずに答えた。「高校一年生の女子の作品です」
飯山がまさか、というように振り向いた。
この男が驚くところはめったに見られないから、これは貴重な顔に違いない。「本当なんです。私もびっくりして何度も確かめました。普通高校普通科の16才。ちゃんと絵を描くのはこれが初めてだそうです。」
「どこの子?」飯山はいった。
「関東地方の海辺にある田舎町。東京から三時間です。」
「16才か…」飯山は感慨深そうに呟いた。
「えぇ。先生もその頃にはもう、天才少年と話題になってましたよね」泉はまだ産まれていなかったが、天才画家誕生のエピソードならよく知っている。飯山満が高校生の時、フランスから海外視察団が訪れ、一人の画家、ピエールが彼の絵に目を止め、「君は描くために生まれてきたノダ」
ピエールはそう叫んだという。
「だが、これほどの完成度はなかった。」飯山はいった。「この子は成熟している。絶対にこの道を進ませてやらなくてはならん。」
泉は言いにくそうに、「実はこの作品は、真緒さまのご推薦なんです。」
(…という事は、蒼太が見つけたのか…あいつもやっと吹っ切れたのか…)
「……海か」飯山はボソッといった。「日本の海はしばらく見ていないな」
「そうですね」泉はそういいながら、すでにスケジュール帳をめくっていた。「でも、明日は無理ですからね」
「なんだと」飯山は怖い顔をした。
泉が怯まなかったのは、ひとえに慣れのおかげだ。飯山の突発的行動は、予定行動の五倍はあるのだ。
明日スペインでフラメンコ釤が見たいと言っても驚かない。
「クリスマスまでスケジュールはいっぱいです」泉はいった。「その後でいいじゃないか」飯山はいった。
「先生、年末はパフアニューギニアのジャングルに幻の鳥を見に行くって駄々をこねたのお忘れですか?手配するの大変でしたのに…」
「覚えてるさ、ただ日にちをど忘れしただけだ。」
ちょっとじゃなくて、日時や曜日はほとんど認識していないといっていい。
「それでは三日後、写真集関係者のパーティーをキャンセルします」泉はぴしゃりといった。
「なんだ、空けられるじゃないか…最初からそうすれば…」飯山はいった。
「先生は、その日の朝、食あたりで苦しみながら、編集長へ連絡することになりますが。」
蒼太は緊張でガチガチだった。
今朝、秘書と名乗る女性から事前通告があった時はてっきり悪戯かと思った。気がついた時には、校門前に停まったタクシーから飯山満がのっそりと降り立つところだった。
本物だ。
蒼太は三階の美術室からこの光景を目撃して頭から火を噴いた。
しかも、今は授業中ではないか。だが飯山満にそんな事を説明したところで無駄に決まってる。
蒼太はパニックになりながら、絵筆を動かしている者、ボケッとしている者、自画像を描いている者の中には紫苑もいた。
紫苑は、蒼太がそわそわしている事に気付くと窓の外に目を向けると「……嘘」紫苑は呟いた。「飯山満?」
「自習しとけ!」蒼太は生徒をほったらかして、ドアをぶち抜きそうな勢いで、廊下に駆け出した。
どやどやと階段をあがってきた体育の終わった生徒達のなかに、大翔を見つけると「すぐに羽瀬和美を美術室に連れてこい!飯山満が来たんや」
「飯山ぁ…?それって世界の飯山満のこと?」
ちょうどその時、廊下の向こうから、その飯山満が歩いて来た。
「おーい、羽瀬和美ぃー」
一方、一年三組の教室に和美を呼びに来た汗くさい大翔は、いつもと全く同じ調子で手をふった。
保健を勉強していた女子たちがクスクス笑う。和美は真っ赤になって下を向いた。
「なんですかあなたは。授業中ですよ!」ジャージ姿で授業をしていた保健の先生が厳しい声をあげ、腰に手をあてて大翔を『見上げた。』
小柄なため、いつも生徒達にナメられるのが悩みだ。
大翔は構わず先生の上からいった。
「飯山満が来たってよ」まるで出前のソバが来たかのように言った。
「蒼太先生がすぐに羽瀬和美を連れて来いって…」
女教師の持っていた教科書が足元にバサリと落ちた。
「つきそいが必要ですね、私が行きましょう。」女教師はきっぱりといった。
「みなさんは自習!」
ざわめきの中、和美はむっちりした体を出来るだけ縮めて前にでてきた。特別扱いは苦手、というより『苦痛』に近かった。
「ところで、飯山満は何しにきたの?」和美は小声で大翔に聞いた。
「バカ、お前に会いに来たに決まってるだろ」大翔が言うと、
「飯山満も忙しいのに、みんなの所を回るなんて、大変だね」と和美はいった。
まったく訳のわかっていない和美と、ガチガチに石像のように緊張した、女教師が美術室へ入ってきた。
室内はすでに怪しい熱気に満ちていた。生徒達はまるで宇宙人に遭遇したように、一人の男を見つめている。
幻覚ではない。飯山満、その人だった。彫りの深い理知的な顔立ち、そして形だけでない男の色気が漂っている。
一目見た途端、女教師の瞳は感激で激しく潤んだ。
飯山は生徒達の描きかけの自画像を見て廻っている。そして、紫苑の絵の前でちょっと立ち止まった。
キャンバスの中から二つの顔を持った女がこちらを見ていた。明と暗、善と悪。紫苑の絵には、今の自分を的確に描いている。紫苑は巨匠の後ろに控え、無表情を保とうと必死に努力していた。
だが、飯山は何も言わず紫苑の自画像の前を通り過ぎた。その心には何も引っ掛からなかった。
紫苑はショックのあまり椅子にへたりこんだ。
保健の先生は、生徒の具合を見るよりも飯山の一挙一動を脳に刻み込むことに忙しかった。
「どこだ。この中にはいないぞ」
飯山満は蒼太に近づき、低く深い声で尋ねた。
「来ました。あれが羽瀬和美です」
みんなが一斉に主役を振り返った。慌てた和美と女教師は、まるでシンクロの選手のように同時におじぎをしてしまった。
飯山がゆっくりと動いた。
「はじめまして」飯山は『女教師』をじっと見つめていった「飯山です」
一瞬、どうしようもない間ができた。確かに女教師は小柄だが、女子高生と見間違えるとは…一体視力はいくつなのだろう。
とんでもない間違いに気付いた女教師は、説明しようにも声も出ず、首まで真っ赤になりながらがむしゃらに和美を前に押し出した。
「飯山さん、それは先生や」蒼太は和美の腕をひっぱって「正解はこっちや」
巨匠の前に引っ張りだされ、和美はぎくしゃくとおじぎをするのが精一杯だった。
「失礼。君が羽瀬和美さんか」
きっとありふれた子だと思っただろう。平凡で、個性も美貌も持ち合わせていない。
…だけど、
だけど、あれは本物だった。あの時自分は孤高の山に登り詰め、そこからしか見られない究極の光景を見た。本当に頭がおかしくなりそうな時が自分にやってきたのだ。
…本当に……
「握手だ、羽瀬和美」飯山はいった。「授賞式はどうする?」
世界の巨匠は何を言っているのかさっぱりわからなかった。絵があれだけ雄弁ならば、言語コミュニケーションは並以下でも構わないのか?
「それじゃあ、飯山満大賞は……」蒼太がいった。
「おや?秘書から聞いていなかったのか?」飯山はいった。
和美の方に向き直り、「おめでとう、もちろん君のものだ」
願わくば、もう少し余韻をためて告げて欲しかった。和美は頭がぐるぐるしながらも、父の言葉にうなずく子供のように、こくんと頷いていた。遠くで女教師の悲鳴が聞こえた。
「君の第二の誕生に手を貸すことができて、うれしい」飯山はいった。「これからも描いていってくれ」
「はい……」和美はやっとのことで情けない声を絞りだした。
「ありがとう、あの絵を描いてくれたことに感謝する」飯山はいった。
言葉にならないものが、熱い二粒の雨になった。あの絵を描いて以来、和美はやっと泣いた。あれを描いた時、時間が止まってしまったようなあの創作の時を、この人は真に理解してくれたのだ。自分が描いたと信じてくれたのだ。
飯山は蒼太に対して「授業の邪魔をしてしまったようだ…すまない」といった。
蒼太は「あなたがここにいる。それだけで最高の授業です。……私にとっても…」といった。
この時、飯山満に対しての思いが誤解だったのだ…と思えた。
……三年前。
蒼太は東京の学校にいた。そして、一人の生徒の才能に出会う。
蒼太は美大を卒業して、教師になる時にある決意をしていた。それは…教え子の才能を見出だし、育てること。それが、美術教師の使命と感じ、その使命に燃えていた。
そんな折、地方の展覧会が開かれることになった。
生徒の一人が描く絵に、可能性を感じて、蒼太は展覧会に絵を出品することを生徒に勧めた。
生徒は『自信がない』という理由で、ためらっていたが、蒼太の自信と熱意に押されて出品を決意したのである。
自分の持てるものを、生徒に教え、仕上がった絵だったのだが、蒼太はあまりにもイレ込みすぎていたのだ。そのため、賞をとらせたい一心で、禁断の果実を口にしてしまった…
蒼太は、大学時代から付き合いを続けている彼女、飯山真緒の父親に展覧会での口利きを以来した。
父親は別の作品を推した。
その父親こそ、飯山満…その人だった。
飯山満に手心を加えるなどという概念は持ち合わせていない。…それなのに……
蒼太も、その生徒も、ようは『甘かった』のである。生徒は、蒼太を信じて一生懸命に作品を仕上げた。それだけでよかったのだ。
期待は膨らみ、いつしか『賞を取れる』と信じるようになっていった…
入賞が叶わなかったと知ると、生徒は蒼太を恨んだ。蒼太もまた、飯山満を恨んだ。
いつしか生徒は学校を去り、蒼太もその学校を去って行った。
天才という響きに世間は弱い。
『天才少女、羽瀬和美が飯山満大賞受賞』というニュースは巨匠本人がわざわざお出ましになったおかげで、田舎街にちょっとした騒ぎをもたらした。
飯山満がその日の宿に選んだのはホテル・シーサイドではなく、和美の家の民宿・味里だった。
早々、宿に足を運んだ地元の新聞社は、海辺で貝殻を拾っている巨匠をつかまえ、女子高生が大賞と賞金五百万円を獲得したという噂はガセネタではないことを確認した。
更に和美の所にも新聞社や雑誌社が押しかけた。
和美は『味里』の玄関ホールでインタビューを受け、フィルムがもったいないと思えるほど写真を撮られた。両親はフラッシュを浴びている我が子を見て、「和美は写真を撮られたが、こっちはあっけにとられたわ」といった。
そのそばで天使のように微笑んでいる香月はあまりにも幸せそうで、思わずカメラマンがレンズをむけたほどだった。
次の朝、地方新聞の紙面には、和美の写真がでかでかと載った。和美が登校した頃には、ほとんどの生徒がニュースを知っており、天才少女は羨望というより好奇の視線にさらされた。
怒涛の日々が過ぎ、やっと終業式に滑り込んだ。明日からは冬休みだから、これで人目につかなくなる……と和美が考えること自体が異常事態だ。
「こんなの信じられないよ」和美はいった。「たった一枚の絵でこんなに人生が変わるなんて…」「あの絵描いてからまだ三ヶ月も経ってないのにね」ミチはこのところ、和美の興奮をおすそ分けして貰っていた。「なんか私もドラマを見ているみたい」
「でも、気をつけなよ、和美」ミチがいった。
「何?飯山さんのこと?」和美は胸がドキリとした。
「え?飯山さんとなんかあるの?」ミチが聞くと、和美はあわてて「ないない!」と手を顔の前で振った。
「だよね~」ミチが笑うと「でも、それってすごく傷つく」
と、和美は笑った。
そういう会話を聞くと
やはり高校生なのだ…
「そうじゃなくて、紫苑の取り巻きとか。要するに嫉妬だよ」ミチがいった。
嫉妬…。
とんと縁のなかった言葉だ。確かに紫苑の突き刺さるような視線を感じたことはあった。だが、あれ以来、紫苑の態度は以前と全く変わらない。というより、最初から無視されていた関係だから、その無視が今も続いているだけの事だ。
「女王様が欲しい人達は、おもしろくないのよ」ミチはいった。「和美が注目を浴びちゃって、紫苑が陰になっているのが。和美のこといい気になってるとか、身の程知らずとか。」
「そんな…私は絵を描いただけなのに。」和美は絶句した。
「女の嫉妬なんてそんなもんよ。吐き出したい感情があって、理由は後付け。冷蔵庫の残りものを整理するようなものよ」
「はぁ…なるほど。」
「あと、問題は紫苑のお父様。個展を開くくらいだから、娘の将来に相当期待してるわね。それをどこの『ブタ』の骨ともわからない女に世間の目をもってかれちゃったんだから」
「えぇ、どうせ私は太ってますよ。てか、馬の骨でしょ!Ⅶ」和美が突っ込むと「ゴメンゴメン猤」とミチは笑いながら謝った。
「まあまあ。で、怒り狂ったお父様は、地元のマスコミ関係者にプレッシャーをかけたって噂よ」
「『たかが』飯山満大賞くらいで大騒ぎするなって。」「なにしろホテル・シーサイドの大スポンサーだから新聞社も逆らえなくて、いくつかの和美の特集が飛んだらしいよ」
和美は人の暗部を平然と話すミチをまじまじと見つめた。
ミチはなんでこんな事まで知っているのか?
「紫苑本人は」ミチは考えながらいった。「プライドが高いし、馬鹿じゃないから表面には出さない。でもストレスが相当からだにキテて、一昨日から学校を休んでるの。学校には風邪だって言ってるけど、急性胃炎らしいよ。ずっと前から芸術家を目指してて、いかにも1番になりそうな人がなりそこねたんだから、内心は穏やかじゃないのは明らかよね。」
……いかにも……和美は灰色の海を見つめながら、そのことを考えた。なぜ創作の嵐は『いかにも』行きそうな所には行かず、正反対の所に来たんだろう。
なんの欲も目的も持たない、平凡な自分のところに…。
あれ以来、ずっと疑問だった。しかし、きっと答えなんか出せる人はいないのだ。蒼太先生も、飯山満にもそんな宇宙の気まぐれは説明できないだろう。
だけど…と和美は思い直す。あれは間違いなく和美のところにやってきたのだ。
天からの途方もないプレゼントのように。今、和美がいくらちやほやされても、陰口を叩かれても仕方がないと思えるのは、あの瞬間が本当にあった事を知っているからだ。
和美はあの創作の嵐と引き替えになら、どんな大きな出来事が起きてもおかしくないと感じていた。
「しょうがない事かもしんないけど」和美は肩をすくめた。「なんか、ちょっと怖いね」
「だけどさ、そういう気持ちってわかるじゃない」ミチはあっさりといった。「これが和美じゃなかったら、わたしだって、かなり面白くなかったかも。」
和美は「えっ」と足を止めた。ミチはいつになく真剣な顔で和美を見ている。
「……わたしには、嫉妬しない?」和美はいった。
「不思議だね」ミチはいった。「こんな気持ちがあるって、初めて知ったよ。自分の事のように嬉しいの」
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