漫画・アニメ・特撮・小説など名言名文の板📝

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2016/08/31 21:35(更新日時)

漫画・アニメ・特撮・小説などの名言名文を記してゆく板📝。

No.2347155 (スレ作成日時)

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No.301

斑鳩は肩をすくめる。立ち去ろうとして振り返る。
「加納警視正のことはご存じですか?」
宇佐見警視がぴくり、と肩を震わせる。そしてうなずいてにい、と笑う。
「喧しい電気狗、ぜよ」
「彼に拳銃を向けたことは?」
そっぽを向けた宇佐見警視の視線が、まっすぐに斑鳩広報室長に注がれる。
「どうしてそんなことを聞くんぜよ」
「加納警視正が同じことをされたらどうしただろう、とふと思いまして」
宇佐見警視は斑鳩広報室長に小声で言う。
「その質問に答えられないですきに。電気狗はウラの上司ではないですけんのう」
「愚問でした」
一瞬口ごもったが、宇佐見警視の目が細くなる。
「実は、電気狗に拳銃を突きつけようとしましたけど、やりそびれたんぜよ。突きつけようっ思った矢先に、冗談はよせ、と言われてしまったんぜよ」
斑鳩広報室長は目を見開き、肩をすくめた。
「さすが加納さんですね。ちなみに私を過大評価されても困ります。私が平然としられたのは、銃の安全装置が掛かっているのが見えたからです。むき身の銃口を突きつけられて平然としていられるほど、私は大物ではありません」
「霞が関では、大物と書いて、“バカ”と読むそうですきに」

海堂尊『アリアドネの弾丸』17章 キラー・ラビットの蠢動(しゅんどう)本文 斑鳩芳正 宇佐見荘一 加納達也(宇佐見の言葉)より

No.302

白鳥は疑わしげな目で南雲を見つめた。南雲も白鳥を見つめ返す。
やがてぷい、と目をそらすと、南雲は笑顔になった。
「しかし、ウワサ通りの礼儀知らずだな。せっかくの好意の申し出を、あそこまであしざまに罵るとは」
すかさず宇佐見警視が言う。
「仕方がないぜよ。厚生労働省は三流官庁だけあって、礼儀がなってないですきに」
北山元局長が補足するように、言う。
「この方を霞が関の一般論に当てはめたら、日夜一生懸命霞が関を支えてる同志に申し訳ない。彼は官僚の中の突然変異、上を上をとも思わない傲慢さで有名な方だ」
警察絡みの三人に、よってたかって嘲笑され、さすがの白鳥の鉄面皮の白鳥の頬にほんのりと赤みが差した。しかしそこで黙り込まないところがいかにも白鳥らしい。
「そんなこと言われても、痛くも痒くもないさ。今、まさに自分の口から言ったでしょ。あの連中は、確かに霞が関を支えてる。偉いよね。でもよく考えれば、彼らが支えてるのは霞が関だけ。そりゃ、連中から見たら、僕は的外れなことばかりしてるように見えるさ。だって僕が支えようとしてるのは霞が関じゃなくて、日本の市民社会なんだもん」
見事な一撃だった。

海堂尊『アリアドネの弾丸』18章 ミッシング・リンク 本文 白鳥圭輔 南雲忠義 宇佐見荘一 北山錠一郎 より

No.303

俺と白鳥を迎えた笹井教授は、手にした新聞を机の上に置く。白鳥が言う。
「僕たちがわざわざここにやってきた用件はわかるよね、笹井教授?」
笹井教授はお茶をすすりながら言う。
「北山元局長の遺体にエーアイをやりたい、というのだろう」
「Bravo(ブラヴァー)!)ご名答だよ」
両手を広げ、白鳥は答える。笹井教授はハイテンション気味の答えにむっとしながら、言う。
「これまでの議論を前提にしながら、今、ここで、しかもこのタイミングと状況で、それをこの私に申し出ようというのかね」
白鳥はへらりと笑って答える。
「だってエーアイをやって悪いことはないもの。遺体を損壊しないから司法解剖の手技に影響しない、解剖で得られない医療情報を入手できる。エーアイ情報ん基にして詳細な情報もできる、結果を返すのも早い、ほらね。いいことずくめでしょ?」

海堂尊『アリアドネの弾丸』24章 開かずの扉 本文 田口公平 白鳥圭輔 笹井浩之 より

No.304

白鳥は時折画像処理の合間にその弾丸を、腕組みをして睨みつける。そうしていれば、弾丸が溶けてしまうかのように。そして、弾丸が溶けないことを確認し、再び碧翠院の画像処理へ戻っていく。
これは知恵比べなのだ。捜査現場に白鳥のロジックを呑み込ませるには、物量的にも社会制度的にも膨大なエネルギーが必要だ。俺は思わず愚痴をこぼす。
「果たしてこんな画像だけで、もつれた謎が解けるんでしょうか?」
白鳥は画像から目をそらさずに答える。
「すぐに弱音を吐くのが田口センセの悪いところだよ。いいかい?この弾丸こそ迷宮を打ち破るアリアドネの赤い糸なんだ。だけどその細い糸は、謎を解くという強い意志がなくては役に立たないんだよ」
古代ギリシャ神話。クレタ島の迷宮に住まう怪物、ミノタウルスを退治するために勇者テセウスを助けた女神、アリアドネ。彼女の赤い糸がテセウスを迷宮から救い出した。珍しく詩的な白鳥の表現を耳にして、俺は本当にぎりぎりまで追い詰められているのだ、と感じた。

海堂尊『アリアドネの弾丸』25章 論理打撃戦 本文 田口公平 白鳥圭輔 より

No.305

(略)

俺は驚きの視線でふたりのやり取りを眺める。彦根は笑顔で言う。
「この状況で、白鳥さんが僕の手助けを必要としている、ということは……警察庁の非合法破壊兵器、キラー・ラビットの弱点を知りたい、とか?」
白鳥は気味の悪い生物でも見るような目つきで言う。
「何でお前がそんなことまで知ってるの?」
「蛇の道はヘビでして、ね」
彦根はそう言って、俺の方に向き直る。
「実は警察庁には非合法特命組織があって、犯罪すれすれどころか、犯罪そのものを行う部署があるんだそうですよ。都合悪くなった人間を非合法的に消し、その事件を合法的に処理することが業務なんですって。警察庁の闇の部署だそうです。その中でも跳び回る陽気なウサギが一番派手らしい。でも派手な分、仕事は粗い。穴だらけの仕事を現場がつじつま合わせしてるんです。この組織が落ち度を見せるとしたら、ウサギだろうと言われているらしいんです。知ってましたか、こんなウワサ?」
俺は激しく首を振る。知るわけないだろう、そんな危険なウワサ。
彦根は満足そうにうなずく。
「ま、そうでしょうね。何しろ霞が関データのレベル5、深々度レベルですから」
「それじゃあ殺し屋集団じゃないか。警察内部にそんな人間がいるはずないだろ」
俺が言い返すと、彦根は笑顔で答える。
「いないという証明は、いるという証明の背理だから大変です。でも、傍証はあります。何にでも噛みつく白鳥さんが妙におとなしくて、何も言わないでしょう?」
俺は白鳥を見る。何かミスがあればすごい勢いで反論とも暴論ともつかない言葉を乱射する白鳥が、そ知らぬ顔をして画像をいじっている。
……まさか。

海堂尊『アリアドネの弾丸』27章 停滞 本文 田口公平 白鳥圭輔 彦根新吾 より

No.306

遠くから会話が聞こえてくる。
----MRIは磁場が強いから、金属を持って入ってはいけないんだな?
----ゆうべも申し上げましたが、MRIの強い磁場にひっぱられて吸着事故になりますから。五ガウスラインの中に入らないでください。
宇佐見警視と友野君の声。何でこのふたりが会話しているんだろうと考える。夢の中は何でもアリで、その人の欲望の発露だというから、これは俺の欲望なのか。
無関係なふたりを会話させることで満たされるものはなんだろう。俺が夢うつつに考えている間も会話は続く。
----吸着事故は一歩間違うと大爆発を起こすクエンチを引き起こします。液体ヘリウムの温度が一度上がると気化が始まり体積が七百倍に膨れ上がり、大爆発になります。こうした事故は小規模ながら年に数件は起こっているんです。
----物騒な機械ぜよ。
----基礎知識はそんなところですね。もうじきこちらもチェックが終わります。
俺は、友野君の講義をもう一度学び直す必要があると思ったのだろうか。
だとしたら、潜在意識の自分を偉いものだと褒めてやりたい。

海堂尊『アリアドネの弾丸』30章 画像検視官(イメージ・インスペクター)シオン 本文 田口公平 友野優一 宇佐見壮一 (夢の中の会話?) より

No.307

「私が理解するところでは現在の三テスラMRIでは気体成分の検出は技術上不可能です。いかがですか、島津先生?」
斑鳩広報室長の問いかけに、島津は苦い顔でうなずく。
「そのとおりです。世界に三台しかない七テスラのモンスターマシン、リヴァイアサンなら可能ですが」
斑鳩広報室長は淡々と続けた。
「つまり宇佐見警視を追いつめたデータはでっち上げだったのです。なのでこの件は最終的に物証ゼロ。間接証拠ばかりで、被疑者は無実を訴えながら自死。さらに被害者と目される人物は、解剖すらされておりませんので公判維持は困難と判断します」
「つまり友野さんの一件は事件にすらならないのですか?」
俺は行き場のない憤りを抱え、うめく。斑鳩広報室長はうなずく」
「この案件は最初から警察マターではなく、その判断が追認されただけです。もちろん田口先生や白鳥技官が遺族を焚き付け、刑事告訴させることは可能です。ですが果たしてそれが遺族の幸せになるでしょうか。仮に刑事告訴しても、現状ではどう扱われるかは明らかでしょう」
遺族の心理を無闇に動かすより、そっとしておいた方が親切だ、と斑鳩は暗に俺たちに告げていた。
「その方が警察にも都合がいいし、ね」
白鳥が精一杯の皮肉をこめて言う。
「それが現実です。日本は今、死因不明社会なのです。ご理解下さい、白鳥技官」
誰も言葉を発しなかったが、それが無言の同意に思われるのは本当に悔しかった。

海堂尊『アリアドネの弾丸』37章 ミス・ファイヤー 本文 田口公平 白鳥圭輔 島津吾郎 斑鳩芳正 より

No.308

車中でテレビ報道が流れている。
DNA鑑定ミスによる冤罪“松崎事件”のやり直し裁判で検事が証人出廷したが、当時の検事は謝罪しなかったことを繰り返し報道していた。医療がこうした居直り対応すると袋叩きにするが、警察や司法の不祥事にはメディアはなぜか優しい。
コメンテーターも激怒せず、昔の鑑定技術の未熟さばかりを繰り返している。ここに収賄を指摘された東城大学病院の院長が警察庁元局長を射殺し、その関連で東城大に強制捜査が入ったなどというニュースが流れたらどうなっていただろう。

海堂尊『アリアドネの弾丸』終章 因縁の萌芽(ほうが) 本文 より

No.309

つやつやと顔色のいい高階病院長は、大きく伸びをした。
「まあ、もう少しあそこで休養してもよかったんですけど」
それから白鳥の顔を見て、目を細める。
「姫宮さんから聞きましたが、今回は白鳥さんにずいぶんお世話になったようですね。この際、きちんと御礼を申しあげなければなりません」
高階病院長は咳払いをする。
「……どうもあがと、あがりと」
ふざけているのかと思ったら、真顔だった。もう一度深呼吸すると一気に言う。
「この度は本当にあがりとう」
俺は吹き出す。
「高階先生は、よっぽど白鳥技官にお礼を言うのがイヤなんですね」
「そんなことはないです。ただ私の舌が、コントロールから外れてしまって……」
白鳥は肩をすくめる。
「いいんです。別に高階先生に礼を言わせたくてやったんじゃないですから」
「……本当に申し訳ありません」
殊勝に謝罪する高階病院長の様子があまりにも切実で、申し訳なく思いながらも、俺と島津は顔を見合わせて大笑いした。

海堂尊『アリアドネの弾丸』終章 因縁の萌芽 本文 田口公平 白鳥圭輔 島津吾郎 高階権太 より

No.310

病院玄関に戻ると、黒崎病院長代行が出迎えに立っていた。
高階病院長が車から降りると、黒崎教授に歩み寄る。心なしか、やつれた黒崎教授はふんぞり返り胸を張ると、ぼそぼそ言う。
「多忙なワシに雑用ばかり押しつけおって、昔からちっとも変わらんな、お前は。もううんざりだ。お前が戻ったのを確認した今を以て病院長代行権を返上する」
「ありがとうございました」
滑らかな御礼の言葉に、先ほどの高階病院長の様子に、拘禁障害を疑った俺は、特定の対象物に対する単なる精神的アレルギー反応だと断定した。
黒崎教授は高階病院長を凝視し、ふん、と鼻を鳴らし姿を消した。
高階病院長はその背に向かって、もう一度深々とお辞儀をした。

海堂尊『アリアドネの弾丸』終章 因縁の萌芽 本文 田口公平 高階権太 黒崎誠一郎 より

No.311

高階病院長とて人の子、今なら白鳥の言うがままだろう。いくら白鳥をなじったところで、放出してしまった液体ヘリウムはもう元には戻らないだろうし、白鳥の独断行為がコロンブスエッグのみならず、診断室の計器類や隣の三テスラMRIも守ったことは間違いない。
銃弾が発射されてしまえば、白鳥の行為は容認されてしまうわけだ。
まったく、つくづく悪運強いヤツめ。
賞賛と非難が相半ばしている俺の視線にいたたまれなくなったのか、白鳥は言う。
「だけどこれは僕の手柄じゃないんだ。4Sエージェンシーのアイデアだからね」
青年の気配を漂わせ始めた牧村瑞人の面影がよぎる。十代で親を失い、重い障害を抱えた瑞人の後見人として、城崎がそっと見守っているのだろうか。
すべての真相が明らかになった途端、気が抜けた。そして、ふと、白鳥の気遣いに気がつく。4Sエージェンシーと白鳥の合議の時、俺は利益相反だといって退席させられた。ヘリウムの無断除去は病院に不利益をもたらすから、確かにコトがバレたら俺のクビも危ない。
それにしてもこんな状況の中でも、最後までエキストラ出演に固執し続けた、なりふり構わず自分の欲望に忠実になれる黒崎教授の性格が本当に羨ましい。
たぶん、組織のトップに立つには、わがままなところが必要なんだ、と思う。

海堂尊『アリアドネの弾丸』終章 因縁の萌芽 本文 田口公平 白鳥圭輔 牧村瑞人 城崎 黒崎誠一郎(回想) より

No.312

高階病院長が、しみじみ言う。
「今回の件では、エーアイの存在がどれほど市民社会の安寧に結びつくか、ということがとてもよくわかりました」
「どれもこれも、すべてはエーアイセンター長の薫陶の賜物ですな」
下手に出て、俺の褒め殺しを企む島津の言葉に、俺はげんなりして言い返す。
「肩書きで呼ぶのをやめてもらえないか」
「わかった。悪かったよ、行灯」
「大昔のあだ名もやめろ」
「じゃ、腹黒タヌキの懐刀」
俺は絶句した。隣に病院長(本人)がいるんだぞ。
高階病院長は平然とうなずく。
「ま、おふざけはこのあたりでやめておきましょう。それにしても本当によかった。ひとつ間違えば、こんなのんびりした会話もしていられなかったでしょうし」
「まったくですよ。警察の呼び出しにのこのこついていったりするからですよ」
「でも、善良な市民なら、警察は信用するでしょう?」
確かに、俺でものこのこ出て行っただろう。ならば、これも必然だったのか?
司法の闇は深い。人が作り出した闇なのに、自然の闇よりも、人工物の社会の闇の方が深いというのは、どういうことなのだろう。

海堂尊『アリアドネの弾丸』終章 因縁の萌芽 本文 田口公平 島津吾郎 高階権太 より

No.313

「誰ですか、その大人物は」
島津の問いかけに、謎の女性はくすくす笑う。そして言う。
「あたしの上司、不定愁訴外来の田口先生です」
一瞬の間。その後、いきなり画面いっぱいに高階病院長の笑顔が広がった。
「確かに硬直した会議ばかり繰り返している私たちにとっては盲点の、まことに素晴らしい提案です。私としたことが、その方の存在をついうっかり失念しておりました。いかがでしょうか、みなさん。異論はありますか?」
笹井教授がすかさず答える。
「彼であれば、私の本意を汲んでくれたことになるので、同意せざるを得ないな」
そして付け加える。「……それに、彼は人畜無害だし」
笑い声と共に、謎の女性の咳き込む声が聞こえた。
俺はふと思い出す。あの頃、風邪を引いていた身近な女性。女郎蜘蛛のように俺の周りに見えない蜘蛛の糸を張り巡らせ、俺を東城大学医学部付属病院不定愁訴外来という小さな檻の中に閉じ込めようと画策する、陰謀好きの策士。
こんな風に、この俺に貧乏クジを引かせたがる人物は、東城大学にふたりほど心当たりがる。ひとりは今、隣で楽しげに会議ビデオを見ている病院の最高責任者、高階病院長。そしてもうひとりは、俺が主宰する不定愁訴外来の専任看護師にして、この高階病院長との腐れ縁の看護師、藤原さんだ。
そして“あたしの上司”という唯一の手がかりが、犯人を完全に固定してしまった。
結局、東城大学病院が誇る開闢(かいびゃく)以来の腹黒コンビを病院から放逐しない限り、俺に降りかかる災厄がなくなることはないのだ、という諦念を、妃の国の住人でないにもかかわらず、俺はしみじみと感じていた。

海堂尊『アリアドネの弾丸』終章 因縁の萌芽 田口公平 島津吾郎 笹井浩之 藤原真琴 高階権太 より

No.314

碧翠院の境内で、僕が葉子にこの話をしたのは十八年前、僕たちが小学校二年の時のことだ。葉子の家から、おすそ分けの和菓子をもらった御礼のつもりだった。僕の話に、葉子は興味なさそうに「ふうん」と言っただけだった。僕は拍子抜けし、気恥ずかしくなった。そしてとっておきの話はやたら他人に教えるものじゃないという教訓を得た。
十一年後の春、東京の予備校の学食で、離れたばかりの故郷の名前が、僕たちを追いかけてきたかのように、テレビから流れてきた。桜宮という故郷の地名の響きが耳に引っかかり、予備校でも同級生になっていた葉子と顔を見合わせた。
通り魔事件の速報だった。犯人は地味で目立たない少年で、大怪我をした人が何人かいるとテレビニュースは伝えた。両親がいない施設出身者だ、とのことだった。ニュースの最後に、幸い死者は出ていない、と一言添えられた。一体何が「幸い」なのだろう、と僕はふと思った。
葉子は箸を止め画面を見つめ、言った。
「アリグモみたいなヤツ」
へえ、覚えていたんだ、と僕はびっくりした。
最近、世の中には『アリグモみたいなヤツ』が密かに増殖している気がする。
僕たちはアリグモから決して目をそらしてはならない。

海堂尊『螺鈿迷宮』序章 アリグモ 本文 天馬大吉 別宮葉子 より

No.315

スズメのママは、値踏みすれように男を見つめた。それからうなずく。
「自分の不始末だから仕方ないわ。でも、天馬君を連れ出すなら、名乗っていきなさい」
男は頭を下げて、言う。
「結城、と申します」
こうしつ疫病神こと結城と僕は、スズメを後にした。
一緒についていくと言い張る田端を、僕は制した。金を払いさえすればひどい目には遭わないだろう、という楽観的な予感があったし、そうでないなら、コンクリート塊を抱いて桜宮湾の海底に沈むのは、落ちこぼれの僕だけで充分だと思ったからだ。閉まりゆく扉の向こう側に残された田端とスズメのママのやり取りが微かに聞こえた。
「天馬先輩、大丈夫っすかね」
「心配いらないわ。天馬君には、強力な守護神がついてるからね」
思わず、僕は笑った。

海堂尊『螺鈿迷宮』ニ章 スズメのお宿 本文 天馬大吉 田端 スズメのママ 結城 より

No.316

「時間通りだなんて、落第を続けている学生さんらしくないですね」
横付けして窓から顔を出すと、結城が抑揚なけ呟く。それから不意に、手で弄んでたコインを親指で弾く。銀色の放物線の軌跡の結末を、結城の手の甲が受け止める。
右手の甲に重ねた手を開いて、賭けの結末を確認した結城は、微かに顔をしかめた。
僕は結城に笑いかけた。
「当たりましたか」
結城は頬を痙攣させ、それから僕の愛車の屋根を撫でる。結城は肩をすくめる。
「ゲン担ぎです。ツイてない時には、ツイている人の持ち物に触れることにしてるんです」
百万円をむしり取った相手をツイているなんて、よく言えたものだ。
結城が眼を細める。見つめる先に、セピア色のでんでん虫が聳え立っていた。
その視線の強さに、“仮想敵”という言葉が脳裏を掠める。

海堂尊『螺鈿迷宮』五章 銀獅子 本文 天馬大吉 結城 より

No.317

(略)

巌雄は紙片を机の上に投げ出し、興味なさそうにちらりと見た。それから、突然紙を取り上げ、まじまじと見つめた。僕の顔と書類を交互に眺めている。
「これはこれは……」
少し大袈裟な気もするが、多分僕の名前に感心しているのだろう。よくあることだ。天馬大吉。『縁起いい名前コレクター』なら垂涎(すいぜん)モノのお目出度さ。巌雄は僕の顔を見つめながら、受話器を取り上げた。ニ、三言、短い指示を出す。視線を切らずに僕に尋ねる。
「東城大学医学部に在籍しているのか。ワシの後輩だな。出身は桜宮かね」
「ええ」
唐突な質問に、僕はうなずく。巌雄は僕から視線を切らない。

海堂尊『螺鈿迷宮』五章 銀獅子 本文 天馬大吉 桜宮巌雄 より

No.318

乱暴な巌雄の消毒のやり方は、おそらく戦友を弔うささやかや嫌がらせ、巌雄の背後に熱帯の緑濃い密林が広がって見えた。力強く黙り込んだ傷病兵を見て、言い過ぎたと感じたのか、軍医・桜宮巌雄はつけ加える。
「医学生に間違った認識をされると将来に禍根を残すから、素人向けの説明も追加しておこう。この傷に麻酔をしない理由は二つある。麻酔の時も二回針を刺す。つまり無麻酔で針を刺す。この傷二針。ならば麻酔をしてもしなくても、痛みを感じる回数は同じ。それなら麻酔は避けた方がいい」
そう言うと、巌雄の眼が深い光を湛えて(たた)、僕の顔を覗き込む。
「いいか医学生、麻酔や麻薬に限らず、すべからく薬というものは使わないで済むなら使うな。薬とは役に立つ毒だ。毒であることに変わらない。よく覚えておけ」
僕は巌雄の言葉に圧倒される。

海堂尊『螺鈿迷宮』九章 桃色眼鏡の水仙 本文 天馬大吉 桜宮巌雄 より

No.319

巌雄はフン、と鼻先で笑って腕を組む。
「少し見直した。これが医療の現実だ。誰でも死の前では平等だが死に際し誰もが平等に扱われるわけではない。だからワシは、せめて桜宮では誰でも等しく扱いたい、と思っている」
最後の言葉は、自分に言い聞かせているかのようだ。
「だがな、これしきでびびるな。医学とは屍肉を喰らって生き永らえてきた、クソッタレの学問だ。お前にはそこから理解を始めてもらいたい。医学の底の底から、な」
巌雄の言葉が、僕の想念と同期(シンクロ)した。巌雄な言葉は、僕が真っ直ぐに道を追い続けていけば、いつか僕の目の前に立ち塞がるであろう未来の壁を、一足先に垣間見せてくれたのかもしれない。
巌雄は僕の瞳の奥底を覗き込む。
「人は誰でも知らないうちに他人を傷つけている。存在するということは、誰かを傷つけている、ということと同じだ。だから、無意識の鈍感さよりは、意図された悪意の方がまだマシなのかもしれない。このことがわからないうちは、そいつはまだガキだ」
僕には唐突な巌雄の呟きの文脈が理解できず、またその言葉が孕む不可知の重さを支えることもできなかった。

海堂尊『螺鈿迷宮』十章 屍体の森 本文 天馬大吉 桜宮巌雄 より

No.320

「こういうのをインフォームド・コンセントって言うのさ。患者さんとお医者さんがお互い納得してから治療を始めるっていう、最先端医療なんだよ」
おお、と西遊記の三婆が感心してどよめく。だが僕は白鳥の言葉に納得がいかず、首をひねる。どこかが違う。絶対そんなはずはない。落第医学生の僕ですら、そう思った。これでいいならひょっとして、僕なんかでも医者になれるかも。僕は自分の考えにぎょっとする。医学生なんだから、医者になれて当たり前だろ。
ここに来て以来、僕の地軸は狂いぱなっしだ。

海堂尊『螺鈿迷宮』十六章 白鳥皮膚科病院 本文 天馬大吉 白鳥圭輔 加代 トク 美智(三婆)より

No.321

僕は腕時計はしない。それは時間に無頓着ということではない。腕時計をしないことで却って時間には過敏になる。それは貧乏人がささやかな支出に敏感なのと似ている。腕時計をしないなんて、社会人失格よ、と葉子にたしなめられたことがあるが、アポイントさえ守れば支障ないし、何より僕はモラトリアム真っ最中の落第医学生であって、社会人ではないので、葉子の指摘は気にならなかった。腕時計は首輪だ。巻けば他人に自分の時間を縛られる。

海堂尊『螺鈿迷宮』十四章 白鳥は舞い降りた 本文 天馬大吉 別宮葉子(回想)より

No.322

美智と僕は手を合わせ、代わる代わる焼香した。巌雄院長の短い一言「南無」
これが巌雄流の読経か。巌雄は振り返り、誰にともなく言う。
「トクは立派だった。今朝、解剖させていただいたが、身体中癌だらけだった。悪いところは身体で全部とってしまったから痛むこともないだろう。トク、ゆっくり眠れ」
巌雄の言葉は、百万個の読経より心に響いた。僕は瞑目した。美智が噛みつく。
「ジィさん、戯言をぬかすんじゃねえ。立派な死なんてありゃあせん。死んだら負けじゃ。トクは立派じゃねえ。負けたんじゃ。ワシは絶対負けんぞ」
巌雄は、美智を見つめる。
「大した婆さんだよ。薔薇の知らせに逆らって生き延びているのは、あんただけだ」
「大したことじゃねえ。あっちへ行きたくねえって言っただけじゃ」
「それが大したことなんだよ。婆さんは、桜宮最高のクソッタレさ」
巌雄はじっと美智を見つめる。
「生きるも地獄、死ぬも地獄……死ぬも極楽、どっちにしても同じこと」
巌雄の言葉に美智は答えず、棺を睨みつけて言う。
「トク、ジンジョーセーユーゼーはお前にやる。どこぞでも好きなところへ持っていけ。この根性なしめ」

海堂尊『螺鈿迷宮』十八章 煙と骨 本文 天馬大吉 高原美智 桜宮巌雄 より

No.323

ついでに言えば、疑惑と好意は両立する。片方は論理、もう片方は感情なのだから。
すみれは膝の上に肘をつき、両手を組む。手の甲の上に小さな顔を載せて微笑む。
「誘惑されるんじゃないか、と思ってるでしょう」
ど真ん中の剛速球にどぎまぎした。この状況でその可能性を考えない男がいたら、そいつはウスノロか大嘘つきだ。
「こう見えても、昔はモテたのよ」
すみれは朗らかに笑う。きっとそうだろうなと思う。昔は、という限定詞を外しても、おそらく僕は同意しただろう。
「でも、なかなかうまくいかないの。寄ってくるのはろくでなしだし、追いかけると逃げるいくじなしばかり。あたしってば、男運が悪いの」
男には二種類しかいない。勇ましいろくでなしと腰抜けのいくじなしだ。すみれに寄ってきたのは勇気があるろくでなしで、逃げ出したのは腰抜けの方だ。
「これは誘惑じゃない。それならもっとうまくやるわ。あたしは天馬君にあたしたちの本当の姿を知ってもらいたいだけ。でないと、あたしは……」
僕の顔を覗き込む。それから視線を窓に向け、呟く。
「でも、どうでもいいと思ってる相手には、こんなこと言わないから、やっぱり誘惑なのかな?天馬君て不思議。捨てられた子犬みたいに、つい頭を撫でたくなる。そうやって人の心を開かせてしまうのね。こういうタイプって、本当に始末が悪いわ」
かつて葉子はそれを、この世でひとりぼっちの赤ん坊の吸引力と呼んだ。
葉子が言ったことがある。
……天馬君は、一見優しいけど、自分の気持ちは絶対他人に見せないのね。
すみれの脳裏には他の誰かが浮かんでいて、僕と比較している。ふと、そんな気がした。僕たちは互いに向き合いながら、他の空間の相手と会話しているのだろうか。

海堂尊『螺鈿迷宮』二十二章 天空の半月 本文 天馬大吉 別宮葉子(回想) 桜宮すみれ より

No.324

白鳥は僕を見つめた。その眼には深い感動が読み取れた。
「僕は巌雄先生に心の底から敬意を表したい。この医学情報の存在は世の中に対する楔(くさび)になる。それがわかるのは、もっとずっと先のことだろうけど」
「オートプシー・イメージング・センター(エーアイ・センター)、ですか」
僕の問いかけに、白鳥はうなずく。
「巌雄先生はエーアイ・センター構想と碧翠院桜宮病院の検死システムが両立しないことを見抜いていた。同じエーアイだけど、桜宮病院では真実を覆い隠すために行われていた。それに対し、エーアイ・センターの設立理念は、ガラス張りの医療だ。実現すれば桜宮病院は歴史の徒花(あだばな)として叩き潰される運命にあることを予見してたんだね、きっと、一年半前のバチスタ・スキャンダルの時、この流れを読み切って、廃院に向けて舵をを切っていたとは、いやはや大した慧眼(けいがん)さ」
白鳥はため息をつく。
「失ってみて初めて、巌雄先生の言葉の意味がわかったよ。桜宮病院という闇がなくなって、これからの僕の仕事はやりやすくなった。そして……」
白鳥は言葉を切り、モニタの画像をぼんやりと見つめた。僕は辛抱強く次の言葉を待つ。あまりに長い沈黙に我慢しきれなくなり、とうとう、そっと促してしまった。
「……そして?」
ぼんやりと宙を見つめていた白鳥は、僕の催促に、夢から覚めたようにはっと我に帰る。
「そして同時に、とても難しくなった。光も闇も集めようとすると気が狂う、か」

海堂尊『螺鈿迷宮』三十五章 螺鈿の闇と光の中で 本文 天馬大吉 白鳥圭輔 より

No.325

「その件は誠に遺憾に思いますが……でも、それとこれとは話が別です。天馬さん、どうかご理解下さいますように」
「そんな杓子定規な、役人みたいな言い方はやめなさい」
姫宮はきょとんとした顔で言う。
「あのう、白鳥室長、私たちは国家公務員でれっきとした役人なんですけど……」
白鳥は肩をすくめる。どうやらコイツは今の今まで本気で身分と立場を忘れていたようだ」
天馬君、申し訳ないね。姫宮はどうしようもない石頭なんだ。真夜中の交差点でも、歩行者信号が点滅すると渡ろうとしないんだからね。ゆうべだって上司に向かって無理矢理シートベルト着用を命令してるし……」
昨日の口喧嘩を、まだ根に持っているようだ。やむなく、僕は二人をとりなす。
「僕は普通に労災認定していただければ、それで充分です」
白鳥はうっすらと笑って僕を見る。
「欲がなさ過ぎるなあ。そんなんじゃこの先、世の中渡ってはいけないよ。昔から、正直者はバカを見ると決まってる。かっぱげる時にかっぱぐつくす。これ、人生の極意その1ね」
「どうでもいいじゃないですか。本人は納得しているんだし」
葉子が一連の会話を一言で締めた。葉子が言うところの本人の納得とは、僕が正直者、という点だろうか。それともバカを見るに決まっている、ということに関してだろうか。

海堂尊『螺鈿迷宮』ニ十九章 火喰い鳥と氷姫 本文 天馬大吉 別宮葉子 白鳥圭輔 姫宮香織 より

No.326

「どんな些細なことでも構いませんから、立花さんに関するこてを教えて下さい」
茜は思案顔をした。何かを探しているのではなく、目の前にある何かを言おうか言うまいか迷っている顔。だが、やがて静かに話し始める。
「あの、おのろけだと思わないで下さいね。あの人、結婚指輪はダイヤモンドを奮発してくれたんです。小さいのでしたけど、嬉しかった」
茜の手元をみる。確かにダイヤのようだ。もっとも僕には硝子(ガラス)玉とダイヤモンドの区別はつかない。
「善ちゃんもお揃いの指輪を買いました。でも善ちゃんたら、それを左胸に埋め込んでしまったんです」
「わざわざそのためだけに手術を受けたんですか?」
驚いて、僕は尋ねる。茜はうなずく。
「あたしが、左の薬指にする結婚指輪の物語を彼に話したせいだと思うんです」
「ギリシャ人が、左の薬指が一番心臓に近いと考えていたというあの話ですか?」
スイッチの入った姫宮が、興味津々という面持ちで、とたとたと会話に乱入してきた。
茜はうなずく。
「ええ、善ちゃんはその話を聞いて、心臓に一番近いところに私への想いを埋め込むんだといって、手術しちゃったんです」
僕はあっけにとられて茜の顔を見つめた。立花とは一体どんなヤツなんだ。そんなのは絶対に愛の証ではない、と僕は思う。どこかが壊れている。
「ご主人はロマンチストなのね」
姫宮が呟く。茜は嬉しそうにうなずく。僕は途方に暮れた。ロマンチスト?
女心はわからない……。

海堂尊『螺鈿迷宮』三十章 沈黙のピアス 本文 天馬大吉 姫宮香織 立花茜 より

No.327

「ゆうべは大変だったぞ。まず、火事騒ぎで大騒ぎじゃ。非常ベルが鳴ったんじゃが、結局何でもなかった。きっと誰かのイタズラじゃったんだろう」
美智の言葉に、僕はちょっぴり、自分が責められているような気にもなったが、たぶん気のせいだろう。それから美智は、ぽつんと言った。
「それからな、千花が三階に上がった。明け方に亡くなったそうじゃ」
千花のポニーテールが、脳裏で優しく揺れた。美智が続ける。
「杏子は昼過ぎに、千花の火葬を見届けてから退院した。故郷の北国へ帰るんだそうじゃ。ワシが最後の患者じゃよ。今から家に帰るんじゃ。家といっても一人暮らしじゃがな。転院先もすみれに紹介してもらった。また、大学病院に戻れ、だと。難儀なコトじゃが、他に行くあてもないんで、仕方ない。それじゃあ天馬よ、達者でな」
「今度また、キャベツ丼をご馳走してよ」
美智は嬉しそうに笑って、小さくうなずく。その時、背後で涼しげな声がした。
「天馬さん、どうして?」
振り返ると、幽霊でも見るような眼つきで、小百合が僕を見つめていた。美智がじろりと小百合を睨む。
「小百合よ、ワシはお前には負けなかったぞ」
小百合は嫣然(えんぜん)と微笑む。
「そうね、美智さん。あなたの勝ち。でも誤解しないで。私は勝ちたいと思ったことなんか、一度だってなかったの」

海堂尊『螺鈿迷宮』三十二章 不顕性の原罪 本文 天馬大吉 高原美智 桜宮小百合 より

No.328

「おい、そこのできそこないの医学生。これが最後だから、耳をかっぽじいてよけ聞けよ。死を学べ。死体の声に耳を澄ませ。ひとりひとりの患者の死に、きちんと向き合い続けてさえいれば、いつか必ず立派な医者になれる」
僕はうなずいた。この時僕は巌雄から、途轍もなく大きな何かを受け取った。巌雄は僕がそれを受け止めたのを見て、微かに笑う。

海堂尊『螺鈿迷宮』三十四章 蝸牛炎上 本文 天馬大吉 桜宮巌雄 より

No.329

「大切なのは比率。光と影を黄金比に混ぜる、それこそ人生の秘訣さ。その調合をできるのは、真の闇を知る者のみ」
巌雄は白鳥を見つめる。その眼に敵意はなく、むしろ愛おしむような光さえ見えた。
「白鳥君、君は賢く優秀だ。ワシから見ると、きらきらして眩し過ぎる。だがおヌシはいつか、世の中か手ひどいしっぺ返しを食らうだろう」
「ご忠告ありがとうございます。せっかくですから根拠を教えていただけませんか」
白鳥が姿勢を正して教えを請う。巌雄は満足気にうなずく。
「ヌシは光の申し子だ。普通、人間は薄暗がりど息を潜めている。ヌシの強烈な光は連中に痛みを引き起こす。そして光を敵と誤認し、激しく攻撃するようになる」
白鳥は虚を衝かれ、黙り込む。
「最後に忠告だ。大きなことをやりとげるなら、薄暗がりに身を潜めろ。ワシには桜宮の血脈にこてんはんにされたヌシの、未来の泣きべそ顔が見える。そうなりたくなければ、鉈(なた)になれ。剃刀ではダメだ。これでもワシは、ヌシに期待しとるんだ」
巌雄は白鳥を長い間、じっと見つめていた。

海堂尊『螺鈿迷宮』三十四章 蝸牛炎上 本文 白鳥圭輔 桜宮巌雄 より

No.330

それから僕は、葉子に向かって言う。
「これは、僕がハコに頼まれて書く、最後の記事だよ」
葉子は不思議そうに尋ねる。
「最後って、どういうこと?これからどうするつもりなの?」
僕は答える。
「大学に戻る。医学にどっぷり浸かって、とことん勝負してみようと思う」
それから、一つ深呼吸。引き返す道を塞ぐように、宣言する。
「もう逃げるのは、やめた」
葉子は、何度も大きくうなずいた。

海堂尊『螺鈿迷宮』終章 夢幻の城 本文 天馬大吉 別宮葉子 より

No.331

(略)
人は、残酷なもの、美しいもの、すべすべしたもの、耳障りなもの、そうしたありとあらゆる、五感を揺さぶるものを愛し、記憶に深く刻み込むものだ。しかしながらその評価は、感情の方向性はどうでもよく、持たされる感情の振れ幅に依存する。そしてその極限の姿が伝説という形式に昇華され、語り継がれていくわけだ。
だが、伝説とは異端であり、異端は普遍になり得ない。そして普遍になることこそが、真の勝利なのだ。名もなき末弟は、自らの名を「イヌ」という一般名詞にに溶け込ませることで、真の勝利を得た。だがその前に彼は、自分の前に立ちふさがっていた異形の兄弟、ケルベロスとオルトロスを倒さなければならなかった。
だが、語られなかった神話である。
だが、確実に起こった真実である。
なぜ、断言できるのか?理由は簡単だ。現在、ケルベロスとオルトロスの子孫は存在していない。そのことから逆算的に明らかではないか。
名もなき末弟による、異形の兄弟の粛清劇は酸鼻を極めたに違いない。
だからこそ、青史に痕跡に残されていないのだ。
なぜなら歴史というものは、すべからく勝者に都合良く書き換えられるからだ。
我々は、ケルベロスとオルトロスという異形が、粛清されたことを喜んでばかりもいられない。惨劇の立役者は今日、我々の周囲に、忠実な友人のような顔をしながらも、我が物顔で闊歩(かっぽ)し、徘徊している。決して油断してはならない。
次に「イヌ」に寝首を掻かれるのは、我々かもしれないのだから。

海堂尊『ケルベロスの肖像』序章 親愛なる犬たちへ 本文 より

No.332

すみれが生きている?
冥界に沈んだと思っていた女性が、いきなり生々しい息吹と共に舞い戻ってきた。
亡くなった恋人を追って冥界に下りてゆくオルペウスの気分だ。もっとも俺には竪琴を弾くなどという甲斐性はないけれど。
昔のスナップショットの一場面が蘇る。
あれは赤煉瓦棟の屋上で無理やり撮影された記念写真だった。
左に小百合、右にすみれを従え、両手に花状態の俺は、照れていた。
写真は対照的な双子の姉妹の印象を写し出していた。ちょっぴりな不機嫌な顔をして、唇を尖らせながらつん、と胸を張るすみれ。そして俺の左肩に華奢な身体を隠すようにして寄り添い、生真面目にカメラのレンズを見つめる小百合。
すみれの明るい鳶色(とびいろ)の瞳と、小百合のアルカイック・スマイルを湛えた赤い唇。
碧翠院の名花、若き日のふたりはかつて、東城大の神経内科学研究室に研究生として在籍したこともあったのだ。
あの写真はどこへ行ってしまったのだろう。
あの頃、目立っていたすみれは、小百合に劣等感を抱いていたように見えた。
碧翠院火災で、姉妹はふたりとも死んでしまったと思い込んでいた。それがいきなり、どちらか片方が生き残っていると告げられ、俺はすっかり動揺してしまった。

海堂尊『ケルベロスの肖像』2章 亡霊狩り 本文 田口公平 より

No.333

「えと、蟹座、です」
それなら最初から星座を聞けよ、と思いながら俺は素直に答える。
すると姫宮は天井を見上げて、しばらく何やらぶつぶつ小声で唱えていたが、唐突に滔々(とうとう)と喋り出す。まるでコンピューターの暴走みたいだ。
「蟹座のB型。アナロジーは猫、クラゲ、シメジ、レタス、キュウリ。そよ風、真珠、ラッコ、そして……螺鈿」
俺はぎょっとした。なぜここで螺鈿がからんでくるのだろう。
いや、その前にそもそもコイツは、一体何を言っているのだろうか。
姫宮はなおも滔々と続ける。
「さらに鏡とリンパ液。オパール、いぶし銀、青白い白、水っぽい陰鬱な味。寓意(アレゴリー)は、矢を放ちながら逃げる子ども。悪と同様、善にも強い感情の絶大な権力……」
「あのう、一体何をおっしゃっているのですか?」
とうとう我慢しきれずに、俺は口をはさむ。姫宮は小声で言う。
「田口先生って、ウワサ通りの方だったんですね。ちなみに、この評価は私がしたものではなく、国文社刊の『占星術の鏡』からの引き写しですから、どうかお気を悪くなさらないでください」
「いや、別に気を悪くしたりはしませんが、気になることはあります。今のお話は単に蟹座のアレゴリーで、血液型の要素が抜け落ちているように思えるのですが」
「すみません、またやってしまいました。だからいつも室長に叱られてしまうんです。お前は最後まできちんとしないからダメなんだ、と」
姫宮は自分の頬をぺちん、と叩いて、ぺこりと頭を下げる。
「では血液型を総合評価に反映させていただきます。蟹座の長所は鋭い感受性、繊細な心、想像力、短所は二重性、中傷、羨望、そこにB型の周囲の状況を顧みない、自己中心と呼ぶにはあまりに幼さすぎる突進力を加味しますと、先生の性格とは……」
そこで姫宮は、はっと息を呑む。俺は思わず引き込まれて尋ねる。
「……私の性格とは?」
「おしりぺんぺんしながら校長先生に刃向かうガキ大将……」
「おしりぺんぺんのガキ大将?」
「……のホサです」
途端にこれまで必死に何かをこらえていた高階病院長が、ついに大爆笑する。

海堂尊『ケルベロスの肖像』3章 ファンキー・ヒロイン 本文 田口公平 姫宮香織 高階権太 より

No.334

「ひとつ目の心残りは単なる説明不足のようですから、何でしたら不定愁訴外来で対応させていただきます」
高階病院長は、ふ、と笑顔になる。
「今のひと言で少し肩の荷が軽くなりました。それでもあの時、本当なら真正面から打ち倒すべきだった偉大な敵を、戦わずに葬り去ったという悔恨は消えません」
「その偉大な敵って、一体誰のことですか?」
「渡海征司郎(とかいせいしろう)という外科医です」
俺の中で、学生時代の外科実習の一場面が鮮やかに蘇った。医学生相手に容赦ない言葉を浴びせかけてきた、常識外れの外科医。その暗い瞳を思い出す。
----医者はボランティアではない。慰めの飴玉がほしいのなら、カウンセラーにでもなればいい。
そして、俺が懸命に言い返した時に返ってきた言葉。
----好きにしろ。世の中、そういう物好きな医者だって必要かもしれないからな。
俺が今、この立ち位置で残れているのも、あの言葉が原点だった気がする。
あの渡海先生と、高階病院長との確執はかくも深かったのか。

海堂尊『ケルベロスの肖像』4章 東城大の阿修羅 本文 田口公平 高階権太 渡海征司郎(回想・『ブラックペアン1988』) より

No.335

「ふたつ目の心残りは、ひとつ目よりもはるかに大きく、深いものです」
高階病院長は窓から遠く、海原を見た。
「昔、あの岬に桜の樹を植えようとした人がいた。私はそろを引っこ抜いた。それが正義だと信じていました。でも、長い時を経て今、自分の間違いに気がついたのです」
その話は以前も桜宮岬で耳にしたことがある。あの時は詳しくは聞けなかったが、今なら聞ける気がした。
「桜の大樹とは何のことですか」
「スリジエ・ハートセンターという大輪の花です。私はあの時、夜空に燦然(さんぜん)と輝くモンテカルロのエトワールを、地に叩き落としてしまったのです」
天才心臓外科医、モンテカルロのエトワール、天城雪彦。
その話は、医師になりたての頃、悪友の速水から聞かされたことがある。
天城先生が創設しようとした心臓疾患センターが頓挫したことを、速水はとても残念がっていた。時を経て救命救急センターのセンター長に就任した時、スリジエではなくオレンジになったが、桜宮に一本、大樹を植えることができたと喜んでいた。
「それはたぶん大丈夫です。速水のヤツがオレンジ新棟のトップに就任した時に、オレンジはスリジエの生まれ変わりだ、と言っていましたから」
「そうですか、あの速水君がねえ……」
こうして考えると、確かに俺は、東城大の歴史のど真ん中に近い場所にいるのかもしれない。高階病院長の跡目を継ぐなどとんでもないが、少なくとも東城大の一隅を支えていかなければならない宿命にあるような気がしてくる。

海堂尊『ケルベロスの肖像』4章 東城大の阿修羅 本文 田口公平 速水晃一(田口の言葉から) 高階権太 より

No.336

ここを開設してからというもの、いろいろなことがあった。東城大を襲った災難もバチスタ・スキャンダルから、ナイチンゲール・クライシス、オレンジ・ラプチャー、アリアドネ・インシデントなど、枚挙に暇(いとま)がない。
たとえば愚痴外来の設備投資にしてもそうだ。俺の根城であるこの部屋は、設計時のミスでできた袋小路のような部屋で、長年物置として使われていたが、俺がこの地に不定愁訴外来を立ち上げて以降、状況が激変している。最近では外付けの非常階段に風よけの覆いがつけられた。さらに驚いたことには、なんとこの外付けの非常階段の二階な扉を自動扉にして不定愁訴外来という麗々しい看板をつけよう、などというオファーがあったりしたが、さすがにそれは全力を挙げてお断りした。
看板をでかでかと掲げることほど、不定愁訴外来の実存と意義から掛け離れたことはない、というのが表向きの理由だったが、実は本音の理由もそのまんまだった。
不定愁訴外来は日陰の花。人知れずひっそりと咲く。
それが俺のモットー、いや、不定愁訴外来の理念、というヤツだ。

海堂尊『ケルベロスの肖像』5章 廊下トンビの墜落 本文 より

No.337

昨今、ネットの情報革命によって医療に対する社会の姿勢は大きく変わった。
そのひとつの原因に、これまで専門家しか知り得なかった専門知識が労せずに獲得できてしまう現状が挙げられる。だが検索で得る知識は実体験の裏打ちがないため、あまり有効に機能せず、結局は経験がものを言う専門家の必要性は損なわれていない。ただし、素人にそのあたりの阿吽(あうん)の呼吸がわからない。
つまり“生兵法は怪我の元”という格言を地でいく医療素人が増えているわけだ。
病気に罹(かか)ると、誰しも自己防衛本能に刺激されて知識欲が異常に高まる。それがきわめて稀で、かつ軽微な疾病だったりすると、専門職である医師の関心が低いため、意欲のある素人が知識量で凌駕してしまうこともある。すると診療現場で、主治医が患者から病気についてレクチャーされてしまうという悲喜劇が起こる。
そこまでなら、まだ可愛いものだ。
そうした検索知識の中には、あまりに先鋭的すぎて、臨床現場ではとても使えないようなものも混じっている。そんな専門家の説明を無視し、検索知識に固執し、声高に治療方針に異議を唱え、自分の主張を押し通そうとする患者がいる。
そうした患者は、モンスター患者と呼ばれている。

海堂尊『ケルベロスの肖像』5章 廊下トンビの墜落 本文 より

No.338

「私は責任なんて取れません」
俺の言葉を聞いて、渡辺さんはくわっと目を開く。
「お薬というのは、もともと毒なんです。ですから正常の人は絶対飲みません。ではどうして薬を飲むのか。それは毒の害以上に、病気の状態が悪いからです。薬は毒で身体には悪いんですが、病気に対する害の度合いが、身体に対する度合いより強いので、お薬を飲む意義があるのです」
「しかし、そのことで私の身体がダメージを受けたら……」
「ちょっと待ってください。私の話はまだ途中です」
俺は渡辺さんの話を途中で遮る。渡辺さんは口を開きかけたまま言葉を止める。根は素直なタイプのようだ。
「渡辺さんのお身体を治すのはお薬ではありません。渡辺さん自身の身体が治すお手伝いをするだけです。今回、渡辺さんの身体を治す薬を見つけながら、副作用でその薬が使えなくなっています。薬はこれまでの医学の叡智の賜物で、ひとつがダメならすぐに次というわけにはいきません。ですから微量成分によるアレルギーの可能性が考えられる以上、まずそれを除外してみる必要があるんです」
渡辺さんは頑迷な表情を浮かべ、きっぱりと言う。
「それはムダです。私の身体は、この薬が問題と叫び続けていますから」
「でも、夜は眠れているようですから、掻痒感は我慢できないほどでもなさそうです。なので、新しいお薬は必ず飲み続けてください。二週間後、もう一度、診察します」
俺はさらさらと処方箋を書き上げ、渡辺さんに手渡した。
「これは私の勘ですが、今回のお薬では身体は痒くならないと思いますよ」
渡辺金之助さんは、釈然としない表情をありありと浮かべながら俺を見つめたが、結局はその処方箋をひっ掴んで部屋を出て行った。

海堂尊『ケルベロスの肖像』5章 廊下トンビの墜落 本文 田口公平 渡辺金之助 より

No.339

「旧厚労省の名誉挽回やて?何や、それは?」
白鳥はうっすらと笑って、坂田局長の顔を覗き込んだ。
「二十年前、駆け出しの医系技官と体制維持に走った外科医が共謀して、桜宮に花開こうとしていた桜の樹を無理やり引っこ抜いた、例の一件ですよ。今でも僕は、もしあの時に桜が植えられていたら、と夢見ることがあるんです」
坂田局長は目を固くつむって押し黙る。

海堂尊『ケルベロスの肖像』8章 霞が関のアリジコク 本文 白鳥圭輔 坂田寛平 より

No.340

美智はベッドに横たわっていたが、俺の顔を見るとごそごそ上半身を起こした。
「ああ、そのままで構いませんよ」
「ワシをナメたらあかん」
美智は不敵に笑い、ごそごそと咳き込んだ。
碧翠院桜宮病院では、乳癌の末期癌のホスピス患者だった。癌が全身転移しているにもかかわらず美智は飄々と生き続けている。治療しなくてもここまで生きられるのだ、という現代医療のアンチテーゼを、東城大の医療従事者たちに突きつけているかのように。
美智のケアをしている看護師の顔には時々、やるせない疲労の色が浮かぶ。それは自分たちの治療が、本当はあまり効果がないものかもしれない、と感じるがゆえの徒労感かもしれない。

海堂尊『ケルベロスの肖像』9章 碧翠院の忘れ形見 本文 田口公平 高原美智 より

No.341

「そんなことないですよ」
その場しのぎウソをつくと、美智は笑う。
「田口先生にウソをつかれるようになったら、いよいよお迎えは近ろうもん」
すべてを悟っている相手に、中途半端な慰めは意味がない。俺は、今日の訪問目的を果たすことにした。
「実は今日、美智さんに聞きたいことがあって、ここに来たんだ」
いきなり美智はがばりと、元気よく上半身を起こす。
「田口公平がワシに聞きたいこと?よかろうもん、何でも答えちゃる」
「何で急にそんな元気になるんです?」
「すみれのヤツが言ったことだで。人は病人でも、誰かの役に立てるなら、死ぬ間際まで働かなくちゃダメなんだろうもん」
その言葉に胸が熱くなる。
すみれの言葉が、いのちの火が消えかけている患者の口から蘇り、俺に手渡される。
すみれが生きている可能性は低い。
だが、すみれは美智の中で、今も生きている。
碧翠院桜宮病院。死を司る病院だと言われていたその病院で、すみれは末期患者を集めて企業を作り、自立させようという独自の試みをしていた。俺は、そのトライアルを遠くから興味深く眺めていた。

海堂尊『ケルベロスの肖像』9章 碧翠院の忘れ形見 本文 田口公平 高原美智 より

No.342

美智の話をたっぷり聞いた足で学生課に行き、天馬大吉について尋ねてみると、学生課の事務員は、ろくに書類を調べずに言った。
「また、天馬のヤツが何かやらかしたんですか?」
どうやら東城大では、天馬大吉は札付きの問題児として一目置かれているようだ。
「いや、学習状況とかの話じゃありません。別件でちょっと話を聞きたくて」
俺は医学生の学習状況が悪いからといって、お説教をするようなタイプではない。自分にそんなことを言う資格がないことは、俺自身が一番よくわかっている。
学生課の男性事務員は、過去の履修表をプリントアウトして手渡しながら言う。
「授業をサボっては、留年を繰り返し、放校寸前でかろうじて踏み留まっていれ怠け者の劣等生ですよ。まあ、最近は少し心を入れ替えたようですが」
履修表を見て、その評価が妥当なことを確認する。だが俺は成績表を改めて詳細に見直して、言う。
「でも、ここ二年はきちんと履修しているようですね」
「どうでしょうねえ。人間の本性ってそんなに簡単に変わりませんですから」
肩をすくめる。学生時代にサボリ魔だった俺は、ひとつ間違えば天馬と同じ運命をたどった可能性もあった。そうならなかったのは高階病院長がいい加減で、かつ度量が大きかったからだ。ただし、そのツケを今も延々と払わされている、というオチがあるのだが。

海堂尊『ケルベロスの肖像』9章 碧翠院の忘れ形見 本文 田口公平 学生課の男性事務員 より

No.343

第一講義室に着いたら、ちょうど授業が終わったところだった。
部屋の中は、医学生でほぼ満席だった。出欠を採らない授業が満員になるなど、俺の時代にあり得ないことだった。現在の医学生が真面目になったというウワサは耳にしていたが、まさかここまでとは思わなかった。
それはもちろんいいことなのだが、一抹のさみしさも感じた。
大学生はサボってなんぼ。
もっとも、そんなことを口にしたら、学生課の事務員に睨まれてしまいそうだ。

海堂尊『ケルベロスの肖像』10章 ラッキー・ヘガサス 本文 より

No.344

立ち去る直前に、城崎は振り返る。
「そうだ、ケルベロスの塔が何か、という点について、裏付けはないのですが、見当がつきます。私の仮説をお聞きになりたいですか?」
俺はうなずく。まったく見当がつかないのだから、当てずっぽうの意見でも参考になるはずだ。
すると、城崎は静かに言った。
「ひょっとしたらケルベロスな塔とは、Aiセンターのことを指しているのかもしれません。ケルベロスは、冥界の入り口を守る地獄の番犬です。そしてAiセンターも死者が黄泉(よみ)の国へ行く時に通り過ぎる塔でしょう?ならばそこにケルベロスが棲みついていたとしても、決しておかしくはないはずですから」
城崎はその不穏で不吉な言葉を残し、姿を消した。
俺は呆然とした。なるほど、確かに説得力がある仮説だ。

海堂尊『ケルベロスの肖像』11章 4Sエージェンシー、不発 本文 田口公平 城崎 より

No.345

「ケルベロスの塔って何のことでしょうか」
それは俺も高階病院長も、最初から疑問に思っていたことだった。
すると思わぬ人間が回答した。それは南雲監察医だった。
「本庁に出回っている隠語ですな」
胸でくすぶっていた疑惑の一部が氷解したのを感じながら、俺は尋ねる。
「それって一体、何を指す隠語ですか」
すると今度は斑鳩室長が、俺の顔を凝視しながら、言った。
「ケルベロスの塔とはAiセンターを指す隠語です。発祥の地は警察庁らしいのですが、今では霞が関全体に通用する隠語になっているようです」
斑鳩室長の発言のせいで、俺は奈落の底に叩き込まれる。言葉の意味を理解したおかげで自分の居場所が大変な危険地帯であることが確定してしまったからだ。
「なぜAiセンターを、ケルベロスの塔と呼んでいるんですか?」
斑鳩室長は目を細めた。その無機質な視線に、背筋に寒気が走る。
だがそれは一瞬だった。斑鳩室長は静かに答えた。
「ケルベロスは三つの首を持つ地獄の番犬です。Aiは地獄の入口で受ける検査なので生息地域は同じ。三つの顔を持っているという点も共通しているからでしょう」
「Aiが三つの顔を持っている?どういうことですか?」
俺の問いに、斑鳩室長はうなずく。
「Aiは医療の最終検査であると同時に、犯罪捜査の端切にもなる。そして遺族にとっては救いの光です。このように司法、医療、そして遺族感情の三方向に顔を向けているので三つ首だ、と申し上げたわけです」

海堂尊『ケルベロスの肖像』14章 呉越同舟会議 本文 田口公平 別宮葉子 南雲忠義 斑鳩芳正 より

No.346

藤堂には、もはや言い返す気にもならない。
「あれがアントノフの機影です」
自衛官が指さした東の空に、きらりと光る輝点が見えた。その点はみるみる膨張し、ふとっちょでずんぐりむっくりの機体に変わっていく。遅れて轟音が響いてくる。
「マイボス、アントノフのウクライナ語の愛称、ムリーヤな意味は知ってますか?」
藤堂の問いに、俺は当然、首を振る。すると藤堂は言う。
「ムリーヤの意味は、“夢”。そして“希望”なんですよ」
俺は震えた。思い返せばそれは、自分が何か見えない枠組みに押し込められ、身動きが取れずに窒息させられていくことへの恐怖と畏怖のせいだったような気がする。

海堂尊『ケルベロスの肖像』17章 戦車隊司令官 本文 田口公平 藤堂文昭 自衛官 より

No.347

ためらいながら、重い足取りで階段を上り続けた俺は、ようやくその部屋にたどりついた。重い扉を押し開くと、薄暗い部屋に灯りが点(とも)る。人感センサーらしい。
灯りに照らし出された大講堂の内部を見て、息を呑む。
天井には青を基調てしたフレスコ画が描かれている。十二枚の扉には世界各地の神話の寓意が描かれている。つまりこの部屋は、十二の神話で支えられているわけだ。
よく見るとそれらはタイルを細かく貼り付けたモザイクでできている。
ステージ左側の絵画は三つ頭の犬、ケルベロスがモチーフになっていることに気がつく。“ケルベロスの塔を破壊する”という脅迫状の文言が浮かぶ。
その反対側、ステージ右側に美しい女性ね半裸像が配置されていた。笑みをたたえなふくよかな笑窪(えくぼ)が浮かんでいる。その目は真っ直ぐ、身を低くして今にも飛びかかってきそうな猛犬に注がれている。愛の女神、プシュケだろうか。
かつて、双子の女医に案内してもらった日に聞いた言葉が蘇る。
----この季節、この時間にこの窓から見える桜宮湾はきらきらとしてとても綺麗なの。
跳ね返りで俺に逆らってばかりいたその女性が、はにかんで告げた表情を、今でもありありと思い浮かべることができる。
海風の通り道だからとっても涼しいのよ、とも教えてくれたその部屋は確かに、真夏にもかかわらず今もひんやりしていた。

海堂尊『ケルベロスの肖像』19章 司法解剖が見落とした虐待 本文 田口公平 桜宮小百合・すみれ(回想?) より

No.348

季節はあの日と同じだが、この部屋には海風が吹き抜けることはもうない。
俺の中に保存されていた古い音源が、ところどころ雑音で途切れながら再生される。
----旧陸軍が設計したこの病院は、ある仕組みで簡単に崩れてしまいます。
どうしてあの時、あの女性は嬉しそうに笑ったのだろう。まるで破滅の淵をスキップしながら歩くのが楽しくて仕方がない、という様子で。
そう考えたその時、初めて俺は、記憶に保存されていた言葉がひとりのものではなく、ふたり分の女性の言葉が入り混じっていたものだったということに気がついた。
するとあの時、この部屋に俺は、ふたりの女性と一緒にいたのだろうか?
すっかりその事実を忘れ去ってしまっていた自分の記憶の曖昧さに愕然とする。
自分の記憶でさえも定かでないのあれば、俺は一体この先何を信じていけばいいのだろう。
記憶の中の画像には、明るい瞳をした跳ね返りの女性の姿たしか映っていない。かくの如く記憶というものは、いともたやすく捏造(ねつぞう)されるものだ。
封印されていた古い記憶が、建物の構造と共鳴して呼び起こされ、古傷のように俺を苛(さいな)む。これは一体、何の因果なのだろう。
遠のいていく記憶を追って深い淵に沈潜し、自分を見失いそうになる。
俺は静かに部屋を出た。胸にうずく、古傷の痛みに耐えながら。

海堂尊『ケルベロスの肖像』19章 司法解剖が見落とした虐待 本文 田口公平 桜宮小百合・すみれ(回想) より

No.349

美人薬剤師の後ろ姿を名残り惜しく見送った俺は、改めて渡辺さんに向き合う。
「これでおわかりですね。この薬は片栗粉ではありません。今回のお薬では掻痒感は出なかったようですし、めまいの症状も治まったみたいですから、これからは今回のメマイトレールを服用してください」
「そんなバカな……それならどうして、診察後ににあんなことを言ったんだ?」
渡辺金之助さんは、兵藤クンを睨みつけながら、尋ねる。
「あの会話を立ち聞きしていらしたのなら、最後まで聞いていただけばよかったんです。片栗粉のフラシボを出すという提案はジョークです。そもそも、大学病院には片栗粉の錠剤がないなんて常識なのに、兵藤先生は知らなかったらしく感心されてしまい、私の方が驚いたくらいなんです」
俺の言葉に目を白黒させている兵藤クンを置き去りにして、俺は続けた。
「医者は患者に真実を伝えます。特に、私のような部署では信頼関係がすべてです」
渡辺さんは、俺の顔をじっと見つめた。やがて立ち上がると深々とお辞儀をした。
「これからは新しいお薬を飲みます。とても具合がよいものでね」
そうして、晴れやかな顔で部屋を出ていった。

海堂尊『ケルベロスの肖像』20章 フラシボの顛末 本文 田口公平 兵藤勉 渡辺金之助 田代(薬剤師) より

No.350

渡辺金之助さんを見送ると、兵藤クンは詰るような目で俺を見た。
「ひどいじゃないですか、田口先生。この僕まで欺すなんて」
「敵を欺(あざむ)くにはまず味方から、さ。それにさっきのは本音だぜ。まさかお前がこの病院に片栗粉のプラシボがあるなんてヨタ話を信じるなんて、思いもしなかったよ」
これにはさすがの兵藤クンも、ぐうの音も出なかった。
「すべて丸く収まったし、僕を味方だと思ってくれているのもわかったから文句はないんですけど、なぜか胸がもやもやするんだよなあ」
ぶつぶつ呟きながら、兵藤クンは部屋を出て行った。
藤原さんが新しい珈琲を出してくれた。
「お見事でしたわ。田口先生、老獪(ろうかい)さに一段と磨きがかかってきましたわね」
素直に喜べない褒め言葉に、俺は小さく「どうも」と頭を下げるしかなかった。
それは小さな誤解の集積だ。俺は患者にウソはつかない。欺したのは兵藤クンだけ。それだって仲間ウチのジョークで済む範囲だ。なのにどうして、そんな俺は誤解されてしまうのだろう。

海堂尊『ケルベロスの肖像』20章 プラシボの顛末 本文 田口公平 兵藤勉 藤原真琴 より

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