注目の話題
離婚した人と友達以上恋人未満。
喧嘩した後のコミュニケーションを教えていただけませんか。
スパゲティの分け与え

神社仏閣珍道中・改

レス459 HIT数 23147 あ+ あ-

旅人
20/12/26 05:26(更新日時)

  [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
今の自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!

何一つ神社仏閣の礼儀作法も、知らないところからのスタートです。
なにせ、初詣にすら未だかつて行ったことがなく、厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない家に育った人間です。

そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。

作法もなってないかもです。
神様、仏様、どうかお導きください。


 

No.2480381 17/06/04 07:04(スレ作成日時)

投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

No.251 18/07/16 05:24
旅人3 

仁王門くぐって手水舎で身を浄めて。

ああ!


前回来たときは完全に覆いの中で、
逆に歴史的には貴重な時機に当たっているのだなぁと
感慨を覚えたものでしたが。

┉でき上がっております。
幾重にも幾重にも塗られた朱の色は鏡面のようです。
刷毛の跡ひとつない、
人の手で塗られたことが信じられないくらいな精巧さです。

こうしてまた、後年に伝えていく。
守っていく。
┉そうして人々の感動と信仰を紡いでいくのだなぁ。
日光はかくあるべきだと、
いまなお徳川氏が導いているようにすら感じます。

ため息が溢れるほどです。

No.252 18/07/16 06:25
旅人3 

ん?夫が来ない。

まあ、人にゆずりながらシャッターチャンスを待つ人だからな。
待つことにしよう。
┉長いなぁ。長すぎるくらいです。
あれっ!いない?

えっ?(・・;) 

聖域で電話も失礼かと、
展望台から見下ろしながら探そうと階段を登りだすと、
夫が見下ろしています。
┉いつすれ違ったんだろう。
お互いがお互いを待っていたようです。
相も変わらぬ珍道中で。笑

夜叉門が見えます。
膝小僧のいわれとも言われる仏さまが祀られています。
鳥摩勤伽(うまろきゃ)さま。
日本ではここ日光しかお祀りしていないとのことです。
そして鳥摩勤伽さまの持つ矢こそが
破魔矢の発祥の基となっているのだそうです。
ん?
門入り口左側、南といわれる場所をお守りになっておられる
仏さま、毘陀羅(びだら)さま。
お膝に象ではないなにか生き物の装飾を身に纏っておられます。

あとで僧の方にうかがったところ、
鯉ともなまずとも云われているようですが、
なまずという説が有力だそうです。

こちらには霊廟を守り青面金剛に従う、毘陀羅さま、阿跋摩羅さま、鍵陀羅さま、鳥摩勤伽さまの四夜叉がいらっしゃいます。


そしていよいよ拝殿です。

No.253 18/07/16 15:17
旅人3 

祖父家康公を崇拝した家光公。
日光東照宮を大造替し、今日の東照宮が築かれています。
家光公の遺命により、東照宮に近い輪王寺に
決して東照宮を超えることのないようにと廟所が建立され、
改葬されておられます。

東照宮を超えることのなきようにとの遺命は
果たされているとはいえ、
充分立派な拝殿は別名金閣殿と呼ばれ、
家光公の力を感じさせる日光東照宮と大猷院であります。


太平の世を揺るぎないものにされた家光公に
自然災害で揺らぐこの国を
どうか家康公と共に御守りくださいと
御祈りさせていただきました。


明日、七月十七日は家光公の生誕の日とされています。
どうか、この異常な猛暑をお鎮めください。


   平成三十年七月十四日  参拝

No.254 18/07/23 22:00
旅人3 

子育て呑龍として有名な大光院さまに再拝して参りました。
慶長18年(1613年)、徳川家康公が
先祖とする新田義重公を祀るために呑龍上人を招聘して創建された寺院であります。

照りつける太陽が、異常なまでの熱を放つ中でも、
大きな建物は動じることなく、どっしりと涼やかにそびえておりました。
このような記録となった酷暑であっても、心落ち着き
穏やかになる、大光院さん。
九月には御祭がございます。 

再拝いたしましたこの日は 
阿弥陀如来像の安置される御堂も開放されており、
遠くからではありますがお姿を拝観することができました。

気持ちの落ち着くお寺さんのひとつです。

再拝でやっと御朱印をお受けすることができました。


     平成三十年七月二十一日  再拝

No.255 18/07/24 05:06
旅人3 

大光院さんの辺りには神社仏閣が集中しているようです。
先日お参りさせていただいた、
足利市の瑞泉院さんの本山に当たるのか┉ 
金龍寺さんも大光院さんからほど近いところにあります。

「新田神社さんもすぐ近くだけど」と夫が申します。
以前、子どもたちと
新田神社さんに向かうのにも使う駐車場から
遊歩道を通って子どもの遊戯施設に向かおうとして、
その山道の途中で具合が悪くなった子どもを、
背負って下山した記憶のある、
金山と呼ばれる山の山頂にあるのが
新田神社さん。

どうやら夫、行きたそうです。


一応、山なんだけど?(・・;)
でも、子どもを背負って下山できたような緩やかな山か。


駐車場に行くだけでも行ってみて決めればいいか。
┉金山の山腹の駐車場に向かいました。
あ?結構登ってる?(・・;)

No.256 18/07/24 19:17
旅人3 

駐車場からの距離を念のためスマホで確認すると、600mとのこと。
「大丈夫!」
夫が自分では爽やかな笑顔のつもりで申します。
はぁ?
はあ┉
まあ、元々は金山城と呼ばれる城があったところのようですし。
 
以前参拝させていただいた眞田神社さんを思い浮かべ、
うーん、大丈夫かな?

元来深く考えるのが苦手な人間です。
大の大人が大丈夫って言っていることだし。

新田神社さん目指して、いざ、出発です。

早速あずまやが見えてきます。

No.257 18/07/26 19:10
旅人3 

あずまやではボランティアの方が、金山の城跡のパンフレットを配っておられます。
暑い中を笑顔で対応してくださっています。
お話によると全国各地から多くの方が訪れているようです。
?(・・;)
新田神社さんに?
私の記憶によると、何年か前に無人の新田神社さんに不審火による火災があったような┉
御朱印ブームであるとはいえ、こちらの御朱印はお書き置きの対応だったと思います。
?、?


あ、日本100城スタンプラリーだ!
鑁阿寺さんでもよくお見かけしておりました、眞田神社さんもスタンプがあったように記憶しております。

すごいなぁ!
日本各地100ヵ所のスタンプを集めてまわられている方って、
たくさんいらっしゃるんだなぁ!

┉それはさておき、
いただいたパンフレットを見て、「えっ⁉」
なんだかとても距離があるような┉
なんだかとても登って行くような┉


「やめておく?」
地図にも地形図にもとん弱い私がみる限り、
病み上がりの夫には距離も高低差もきびしいと思われました。

「うーん」さすがにうなっております。
さっきの、┉自分では爽やかな笑顔で応えたと思い込んでいる┉
顔とはうって変わって不安そうな表情。


さあ、どうする?(・・;)
新田神社は影も形も見えません。






No.258 18/07/27 06:40
旅人3 

結局夫が「行く」と言うのでそのまま歩きだすと、
早速、天然の地形を利用した、私の膝下の丈までゆうにあるような
階段が出現。

ここであきらめれば引き返すのはわけありません。
「このくらい行けるよ」
は?

次の瞬間私の脳裡によぎったのは、
あずまやを少し前に歩き出した老夫婦の姿。
楽しそうにお話ししながら歩いていき、もう姿が見えません。
あれ?もしや負けられないとか思ってない?(・・;)
病み上がりのリハビリ中ですよ~!


ま、行くと言ったら行きますよね、はいはい。


ふーん、ま、変わった山道だこと。
と思った瞬間、夫が感激しております。
「わぁ~っ、これは立派なお城だ!凄いなぁ!」

えっ⁉
ただの山道ですけど?遊歩道はあるけど。
┉熱中症かな?(・・;)

「ここを馬で駆け降りたのか~っ」
「ここから矢を射たれたらなかなか攻めるのは難しいなぁ」
「北条氏が攻めて落とせなかったっていうお城なんだよ?
 まあ、本気で攻めてきたわけではないからかもだけど、ね」

あの~、時々石垣があるけど、山道、ですけど?(;´・ω・`)


この山道を見て、立派なお城だっていう┉?


ま、私は新田神社さんを目指して歩くのみです。

No.259 18/07/28 00:26
旅人3 

何度も嬉しそうに立ち止まっては写真を撮る夫。

お城なのかぁ。
そうなのかぁ。へー。
┉あるのは再現された石垣、くらいです。
山には不自然、なので、お城の片鱗といえばいえます。 
┉お城っぽいところのある山道、が私の認識です。
まあ、嬉しそうだからいいや、新田神社さんさえあるならば。

登っても登っても、夫のいうところのお城でしかありません。
目指す神社は山頂。
ほんとに神社、あるんだよね(・・;)

あ、鳥居がみえます。
足どりがとたんに軽やかになる私。

ありました。新田神社さん。

樹齢800年以上といわれる大ケヤキが立っています。
新田義貞公を祀る神社さんです。

新田義貞の裔孫である方が明治6年(1873年)に神社創立の許可を得て、明治8年(1875年)には社殿を建築し、現社号の神社を創建したとのことで、明治9年(1876年)には県社に列せられています。
明治18年(1885年)10月25日と翌明治19年(1886年)10月29日に明治天皇の皇后(昭憲皇太后)が参拝、幣帛料を奉納されました
明治25年(1892年)10月17日には皇太子(後の大正天皇)が参拝しておられます。
また明治42年(1909年)11月7日、皇孫殿下(後の昭和天皇)が学習院時代に当社を参拝しておられます。皇室とのゆかりが深く、社殿の右側には天皇家が腰掛けた腰掛石がありました。


こんな片田舎の山の上に建つ神社に皇室の方々がわざわざお越しになっておられたんだ。
なんだか的外れな、罰当たりな感動をしておりました。


暑い暑い、災害と認識すると言われた酷暑の夏。
涼やかな風が吹いています。
ここは、神の宿る聖域です。



出陣式と呼ばれる、甲冑を身にまとった氏子崇敬者らによる神事があるようで、普段は無人のこちらの神社、おそらくはそのときに授与されるのだろう絵馬が風に揺れて軽やかな音をたてています。



   平成三十年七月二十一日  参拝









No.260 18/08/06 00:30
旅人3 

御朱印のお話をさせていただいている
ご年配の女性は、
春に腰の手術を無事に終えた息子さんとお二人で、
秩父の二回目の巡礼を済まされて、
今度は二回目の板東三十三観音を廻られるべく
専用の御朱印帳を用意されたとおっしゃっていました。

かなり精力的な廻り方であります。
すごいなぁ、八十代。

今は暑いので無理をせず、
毎日一枚の写経をなさっておられるとのこと。
┉まさに理想のお姿です。

小柄なこの方に歩を合わせて、
歩かれる息子さん。
想像するだけで微笑んでしまいます。

お二人の巡礼の始めはご主人であり、お父様を
亡くされてからとのこと。

優しさのあふれる巡礼、御朱印巡りです。







No.261 18/08/06 06:02
旅人3 

夏祭りの頃となりました。

私が幼い頃住んでいた街の夏祭りは、
神事とも仏事とも関係のない、
本当にただの祭り、でした。
お神輿もなく、
祭のために設営されたやぐらの周りで
陽気な笛や太鼓とこの地方、地元で愛される民謡にあわせて踊り、
屋台を楽しむ、
それだけのお祭りでした。

なので御盆中に親戚の家に行き、
お祭りに連れていってもらって見た盆踊りには
子ども心に衝撃を受けたものでした。
同じように浴衣を着て、同じように屋台の立ち並ぶ祭り会場なのに、
まるで違った、
┉暗い沈んだ感じのものに感じ、
畏れのような感覚を抱いたものでした。
その感覚はあながち間違ってはいないのだと思います。
死者を供養するお祭り、だから。

嫁いだ主人の実家の夏祭りは
町内に大人用子供用のお神輿があり、
大変な衝撃でした。
お参りする控え所が設営されて神輿譲渡が行われておりました。
お祭りって?(・・;)
もしかして、神様や仏様と関係したもの?

幼少期に住んでいた地域も
神様や仏様と関係の浅いところだったようです。
┉私が気づかなかっただけで、
大人たちは神様や仏様を祀っていたのかな?(・・;)

No.262 18/08/07 11:09
旅人3 

近隣のお祭りに行ってみました。

神事であることを誇りとしている町をあげてのお祭りです。
昼間には神馬が町を駆け抜ける、
我が家の子供たちが小さな頃に家族で行ったことがあるお祭りです。

町内ごとに山車を持ち、神輿がかつがれ
老若男女子供たち
町中総出のお祭りです。
町なかには仮設営された鎮守さまのお社がありました。
木と竹を用いて作られた仮の鳥居や、
手水鉢を置いての本格的な御手水舎があり、
鎮守の神宮の宮司さまが、訪れる人に温かな笑顔で言葉をおかけになられていました。
お神酒の振舞いもあり、おいしいお酒でありました。

心あたたまる、ありがたいお祭りでありました。

きっとこの伝統行事を支えるのは、
生活様式の変化にともない、並大抵なことではないのだろうと思います。
子供の頃からお祭りとはこういったものだという、
大人たちの背中を見て育った人々が、
当たり前なこととして支えて今があるのだと思います。

ずっとずっと続いて欲しい、お祭りであります。

また、来年、ぜひ。

No.263 18/08/12 03:56
旅人3 

お盆のまえならお寺さんにうかがってもお邪魔にならないだろうかと
お寺さんに参拝させていただきました。

桐生市にある、新田義貞公の首塚のあるとされる善昌寺さん。


歴史に名高い義貞公、どう名高いのか知ることもなく上毛カルタの読み札を丸暗記していただけであった私が、今、縁の土地を訪ねることから少しづつ義貞公がどう名高い方であられたのか学びつつ
神社仏閣をまわらせていただいております。

福井市で亡くなられた義貞公。
その死を悼んだ数多くの方々がおられ、後を追われた方、後を追われたとされる方がおられ、首級を持って逃れてお祀りしたとされる方がおられます。


この桐生市の善昌寺さんは平成の合併で桐生市となったのですが、新里という土地、広大な新田庄の一部であったのでしょうか。
善昌寺さんは義貞公の義父に当たられる方の菩提寺であるとされています。


お寺の方の足音がされたのをこれ幸いと声をかけさせていただき、
御本堂で参拝させていただくことができました。
特段義貞公を祀られることもなく、御本尊さまと御不動さまをおまつりされておられる御本堂です。
太田市の金龍寺さんは義貞公が開山されたお寺さんということで、義貞公の慰霊塔と御本堂には義貞公の像が安置されています。


また早とちりな私が勘違いしているのかな?(・・;)

そう思ったところに御家族の方が由緒書きを下さり、
「こちらには新田義貞の首塚があるのですが、ご存じでしょうか?」と。

No.264 18/08/15 18:30
旅人3 

はやる気持ちを抑えて
「あ、ば、場所をお聞きできればと思っておりましたところです」

御本堂の裏手にあるそうです。
お書きいただいた御朱印を受けとり、さっそく御本堂の裏手にまいりました。
立派な囲いのなかに首塚はたくさんの塚に囲まれ建っておりました。
一際立派な塚。
周りの塚を護るかのように経つ首塚は、義貞公のお人柄を偲ばせるような塚でありました。



┉他にもいくか所かに義貞公の首塚とされる場所はあるようです。
群馬にも太田市にもあるようです。
どこの首塚も義貞公の首級がさらされていることを悲しんで、
首級を盗んで逃げたお話が語られています。
それだけ義貞公の死を悼む者が多かった、義貞公が愛された人物であったということなのだと思います。
どの首塚が本物かということはなく、みんな義貞公の無念を思い、弔う思いで建てられた首塚、なのだと思います。


近くには、善昌寺さんに首級を預けてのち、義貞公のあとを追って自刃された方の自刃されたときの石がまつられているところもあるそうです。

どの首塚も義貞公がまつられている、大切な場所、なのです。


   平成三十年八月十一日  参拝


No.265 18/08/18 07:25
旅人3 

前橋市の養林寺さんに再拝させていただきました。

こちらへは以前、前橋市四公祭という催し物で私一人で参拝させていただいておりました。
夫は以前から一度参拝させていただきたいお寺さんだったようで、今回二人で御参りさせていただきました。

立派な風情ある山門は、それだけで心が穏やかにそして厳かなものになります。何度も火災にあいことごとく灰と化した中、唯一残ったのがこの山門ということでありました。

御本堂に向かうと地元育英高校の甲子園での活躍を願う登り旗が掲げられております。
そういえばこちらは四公祭でお邪魔させていただいた折、子どもたちがあずまやで遊んでいたり、飼われておられる犬と遊んでおりました。ご住職さまがお子さんがお好きで、常々開放されお声がけなさるようなお寺さんなんだろうと思ったものでした。高校野球もお好きなんだな。

御本堂は開かれておりましたのでお声がけして中で参拝させていただこうと庫裏に向かうと、ご住職さまがご一緒に御本堂までお越しくださいました。
御焼香させていただき、さらにお寺の歴史をうかがうことができました。


こちらは鎌倉時代大胡太郎実秀という仏門に帰依された方の居住跡で、江戸時代にこの地を納めることとなった牧野康成公が、それを知りこちらにお寺を建てられたのがはじめのようです

牧野康成公は、徳川家康公に仕え「長篠の戦」など家康の主要な合戦の多くに参戦された方で、家康公の関東入府に伴って、江戸城の北辺の守りとして大胡城に入り、大胡城を近世の城として大改修をされました。「関ケ原の戦」のおりには中仙道を進む徳川秀忠公の将として従軍されたとのこと。
病のため家督を長男の忠成公に譲り、55歳で没しここ養林寺に葬られたということであります。
忠成公は、越後国長岡に転封となり以後牧野家は明治の初めまで長岡藩を治めたそうであります。

牧野家の墓所の他、家康公をはじめ徳川将軍の御霊を供養する供養塔がありますのもそのような関係から建てられたものだったようです。


数日前に地元テレビでこちらのお寺を紹介した番組が放映されたとのことで、そちらも観させていただくことがてきました。
お忙しい中、お時間をさいていただき大変ありがたく恐縮です。

心が穏やかになるこちら養林寺さん、また是非参拝させていただきたく思います。


    平成三十年八月十一日    参拝

No.266 18/08/19 11:03
旅人3 

前橋市の長善寺さんを参拝させていただきました。

初めての参拝で車をどこに停めさせていただけばよいのかわからず、
困っていると、ちょうど庭師の方が歩いていらっしゃいました。
車を泊める場所をうかがうと、
「どこに停めても大丈夫ですよ」と明るく親しみやすい笑顔で
お答くださいました。

御本堂とおぼしき建物が二つ。
┉うーん。
でも、仏さまはどちらを先に参拝しようと
怒ったりなさいませんので。

二ヵ所のお参りを済ませて庫裏に向かおうかと振り向くと、
先ほどの庭師の方が
そばまでいらしておりました。
頭に巻かれたタオル、作業服(もしかしたら作務衣だったかなぁ?)
かなりの長い丈の長靴。
暑いだろうなあ┉
ああ、お顔全体に汗が流れるようです。
お盆前のお手入れをなさってらっしゃるお寺の方かもしれない。

「どちらからおいでですか?」
爽やかなお声で話しかけてくださいました。
「よろしければ中でお参りなさってください」
「ありがとうございます」
中にお入りになって、お寺の歴史をお話しくださって、
「ごゆっくりなさってください」
と、また作業の続きに戻られようと、御本堂をお出になられました。

庭師の方でも、お寺の作業をなさる方でもない、
ご住職さまでありました。((・艸・;)
┉仏がお姿を変えて人間のもとにおこしくださるお話、
畏れ多いことですが、ふと彷彿するような感覚をおぼえました。


大胡氏の菩提寺として建てられた長善寺さんは当初山号は「赤城山」でありました。
三世・南江道根和尚が大阪城に出入りし、豊臣秀頼から自筆の
「豊国山秀頼」の書を賜り、そのご縁から明治初期に山号を「豊国山」と改称されたということでした。


御朱印はあるとのことでしたが、
御作業中なので今日はお受けできないなと┉、
またゆっくり参拝させていただこうと思いました。


   平成三十年八月十一日    参拝

No.268 18/08/27 09:09
旅人3 

「今日は沼田の方に行ってみようかと思うんだけど」と夫。
運転の苦手な私です、連れていってくれるというならどこへなりとも。 
ということで、いつも計画性もなく始まる珍道中。沼田編です。
 
夫がかねてから行きたいと言っていた迦葉山弥勒寺さん、天狗さまで有名なお寺さんであります。
御朱印帳をもって、ナビに行く先を入れて出発です。

ところが┉夫には夫の考えがあり、ナビにはナビの考えがあり、出発して3㎞ほどのところから、ナビは「右に曲がります」と指示して、夫は直進。
ナビはどうやら高速道路を使ってのコースを選んでいるようです。
「ま、このまま進めば、一本道だからナビもあきらめるだろう」
自分の考えを貫く夫。
一本道。しかしいつまでたってもナビは譲らないのです。
少しでも道幅にゆとりがあると、Uターンを指示します。


沼田に入っても┉沼田に入っても?
さすがにこれはおかしい。
ナビの案内先を確認して、びっくり。
高崎市吉井町の弥勒寺をめざしています。ああ。
どおりで!
それはUターンですよね。ナビさん、ごめんなさい。
沼田に入ってようやく正しい目的地に修正されたナビは、迦葉山弥勒寺をめざして案内を始めました。


?迦葉山入り口┉?!
迦葉山入り口って書いてあったけど?
通り越す?通り越していいの?

No.269 18/08/27 10:10
旅人3 

少しざわつく気持ちを抑えながら、ナビのめざすとおりの道を走って行くと、細いながらも山に向かう道。
まっすぐに┉とはいっても山道だけにくねくねと蛇行しながら、迦葉山弥勒寺に向かう道であります。

問題点はただ一つ。
【一方通行・進入禁止】と書かれた立看であります。
「┉」絶句。 
これはナビどおりには進めない。戻るしかありません。

迦葉山入り口と書かれた蝋燭を象った門のような入り口まで戻ってみても、ナビではやはり【入り口】というあつかいにはなっておりませんでした。
「でも、やっぱりこの入り口と書かれたところから行くということだよね」 (_ _(--;(_ _(--;
「┉もしかしたら公的な道路上のきまりではなくて、迦葉山に向かう道としてのきまりごとだから、ナビではこうなっちゃうのかなぁ」
┉とりあえず、これだけ立派な入り口の案内、間違いはないでしょう。

さすが珍道中、ナビを使ってすら珍道中でありました。


くねくねとした道を進みだすと、ナビがまた改めて迦葉山弥勒寺への道案内を再開してくれました。
「おー、大丈夫そうだ」

くねくね、くねくね、舗装された道が続きます。
んー?ん?
突然右手に立派な御門がみえます。仁王門のようです。
ナビでは目的地ではありません。駐車場はおろか駐車スペースもありません。駐車スペースがないのであきらめて通りすぎると、さらに赤い小さな太鼓橋がみえます。なんとか停められそうなスペースがあります。
「停まれる?」 
「ああ、全然大丈夫」 

やはり蝋燭を模した門のような入り口が設置され、登って行くと石で造られた仁王さまがお立ちになられ、その仁王さまに護られるように
さほど古くはない仁王門があります。
んー(;´・ω・`)
門の先には細い人一人通れる道が続いていますが、目を凝らしてもそこから先は建物らしき建物はありません。

まさかたぬきに化かされたとか?キツネに化かされた?
何台か車が通りすぎていきますが、ここに立ち寄ろうと戸惑うような素振りは一切なく、すっ と通りすぎていきます。
んー( ;´・ω・`)
やがて通った一台の車が門を見上げながら戸惑うような様子をみせております。
┉「よかった~、俺たちだけじゃないんだね」
それはここが見えるのが、、という妖しい感覚ではなかったのだと思いたい!






No.270 18/08/27 12:41
旅人3 

さらに車を走らせるとまもなく徒歩での登り口がありました。

一瞬顔を見合せ、そのまま車を走らせる。くねくねくねくねとしばらく車を走らせて、ようやく大きな観音様の御像がみえました。
ん?
車はどこに停めるのでしょう?
目につくところには路駐された車が二台。
んー( ;´・ω・`)?
お、駐車場と書かれた看板発見!

やっとのこと迦葉山弥勒寺さんに到着です(〃´o`)=3


階段を登って行くと、橋の向こうに天狗さまがお迎え下さっています。かわいらしい天狗さまが二体。
そしてその先に拝殿が見えております。
拝殿┉と申し上げてよいのかどうか。
御本堂は右手に見える建物だと思われます。
どちらからお参りさせていただくのがよいのか┉
本来は御本堂からのお参りになるのだと思われるのですが┉。
拝殿と御本堂の中間にある受付所でお聞きすることにしました。

どなたもいらっしゃらない。

困って拝殿の方向に目をやると、授与品を受ける受付があり、
そこに剃髪された方がおられてちょうど目が合いました。
「御朱印ですか?」
声をおかけくださり受付所までお越しくださいました。
参拝がまだであることを告げて、どちらからお参りさせていただくとよいのかうかがったところ、
「どちらからでもお詣りください。その間に御朱印をお書きしておきます」と。
んー( ;´・ω・`)

No.271 18/08/27 16:04
旅人3 


┉拝殿からお参りさせていただきましょう。
参拝にお越しの方々がみなさんこちらからお参りされています。
鰐口があります。鰐口を遠慮がちに鳴らす夫、来ましたぁとばかりに大きく鳴らす私。
拝殿の入り口をくぐろうとすると┉!
大きな赤いお顔をなさった天狗さまのお面がこちらをごらんになられています。
一体ではなくもう一体。いえいえもっともっとたくさんの天狗さまのお面が掲げられております。
そしてさらにちょうど両の手で抱くくらいの大きさのお面が数えきれないくらいに掲げられたり、置かれたりしております。

こちらを詣でるにあたりなんの知識もいれることなく参拝にまいりましたが、こちらをお参りし願いごとするのに、天狗さまのお面をお預かりして行くという習わしがあるようです。

1.【お借り面】のところから、お面を借りて帰る。

2.神棚(又は仏壇に)お祭りする。

3.翌年、参道の茶店でお礼参りのお面を買いもとめる。

4.借りたお面と一緒に【お返し面】の方に供える。

5.【お借り面】の方から新たにお面を借りて(昨年よりも大きな お面)帰る。
という流れのようです。

私たちが拝殿にいる間にもお面をお返しにみえられた方が二家族ほどおられました。
大切そうにお面をお二つ、持ってこられた姿が印象的でした。

┉参道の茶屋?
私たちが寄らせていただきました山門のところのおみやげ屋さんは開業中の登り旗こそあったものの閉店されていましたけど?
┉一体どちらでお面をお買い求めになったのだろう。


私はまだまだ煩悩の塊で、願いごとは星の数ほどありますが、天狗さまのもとに一人で来られないくらい運転技術が不安ですので、
お面をお借りすることはやめておきました。

本殿に向かう道すがら、中雀門と書かれた門がありました。
ん?受付所というか社務所というのか先ほど御朱印をお書きいただいたところから本殿に向かう廊下が門から先を遮っています。

よくみると、廊下の下をくぐって行けるように道が造られております。この御門の先に迦葉堂といわれる御堂と開山堂があるようです。
一応お寺の方にお断りして、熊避けのための鈴をお借りし、御堂に向かい廊下の下を腰を屈めて頭をさげてくぐっていきました。

No.272 18/08/27 17:44
旅人3 

ただいまゲリラ雷雨の真っ只中に一人、
家にいられる分、ありがたいことでありますが、
なにぶんにも雷が怖くて恐くてたまりません。

光るとその直後もう雷鳴!
雷の直下!
家のまん中に当たる、であろう柱のそばで(ここが雷のときの定位置)、写経をしてみました。
┉恐さがかなり落ち着くものでありました。

こんなとき、まるくなってひれ伏しているくらいに
雷が苦手、なのですが、写経を続けておられました。


御経はありがたいものでありました。

No.273 18/08/27 22:41
旅人3 

上に登ると弥勒寺さんの大きさがわかります。
拝殿の奥にいくつもいくつも棟が連なっています。
10年に一度の御開帳の折りには、ここから見える拝殿の奥に連なる
奥の御堂に入ることができるのでしょうか。
標高千メートルを超えるこちらのお寺の高さを実感する空間にもなっておりました。


こちらのお寺の御朱印は【中峯大薩埵】と記されております。

室町時代、中興の祖である天巽禅師の弟子に中峯という神童がおられ、
「自分は迦葉仏の化身であり、役目を果たしたので山に宿り衆生を救う」と言い残して昇天され、あとに天狗の面が残されていたという『天狗伝説』がもとで、【天狗の寺】と呼ばれるに至ったということで、中峯は、「鎮守中峯大薩埵」として、拝殿と呼ばせていただいておりました中峯堂に祀られていらっしゃいます。
御本堂の御本尊さまとともに、このお寺で衆生を救うために宿られておられます中峯大薩埵さま。
天狗さまのお面のかげから笑みを浮かべ見守ってくださっているような気がしました。


参拝を終えて車に乗った途端に降りだした雨。
やはり、天狗さま┉中峯大薩埵さまが御守りくださっているようです。
そして、下山した直後に強い降りとなりました雨。天狗さまが無事にと御守りくださったようです。



   平成三十年八月二十五日   参拝

No.274 18/08/27 23:05
旅人3 

追記)
あまりに弥勒寺さんのこと、天狗さまのことがわからないままの参拝だったため、帰宅後調べたところ!
あの躊躇ってやめてしまった徒歩での参拝者の登り口からお参りすると、橋を二つ渡り黒門と呼ばれる門をくぐると、
お面を買い求める茶屋があるとのこと。
さらには馬隠れ杉と呼ばれる大きな杉の木があるようです。
怠け心はいけないという教訓を得た参拝となりました。

いつかまた参拝できるかな。
そのときは徒歩での参拝ができるといいです。

No.275 18/08/28 20:48
旅人3 

迦葉山の下山後、
沼田市に隣接する川場村にあります吉祥寺さんを目指して、
ふたたび、ナビに目的地を入力しました。
くる途中に大きな看板を見かけました。

細い道を入って行きます(゜ロ゜)
神社仏閣はたしかに細い道だったり、
民家に囲まれたところにポツンとあることがあります。
んー?? 

ビニールハウスのそばのような、資材置き場のような雰囲気です。
『目的地周辺に到着しました。音声案内を終了します』
はぁあ????
目的地となる旗マーク🏁はそれなりに離れている上に、なによりもそこに至る道がないのです。


おかしい!!!!!


幸いこの道を道なりに行くと
今来た道に繋がりそうです。


                             


No.276 18/08/29 19:49
旅人3 

最新鋭のナビ、であるはずのナビに何が起きたというのでしょう。


スマホのGoogleナビを使って仕切り直しです。
そもそも来るときに吉祥寺の大きな看板を見ながら、弥勒寺に向かいました。
その道に戻るようです。
┉そだね~

また細い道に入って行きますが、Google先生は不思議な安心感を与えてくれます。
やがて小さな[吉祥寺]と書かれた看板が見えてきました。
┉到着、です。

行き先を誤って入力して、ずっとずっと指示を無視して走り続けたことに怒って仕返しされたような気分です。
┉最新鋭って、人に近い?
人のような感情があったり、意志があったりするのか?


┉( ;´・ω・`)取説、読もう、か、とりあえず。

No.278 18/09/08 07:03
旅人3 

太田の「子育て呑龍さま」こと大光院さんに参拝してまいりました。
生まれて初めての参拝から三回目。
今年三回目の参拝です。

今回は開山忌ということで、呑龍上人が亡くなられた九月九日を含んだ前三日間、大法要が営まれるとのことで、休みをとっての参拝です。
何時からなのか、ホームページ等もなければ、太田市の案内にもありません。そもそもが開山忌の案内も境内の立て看板のみ、です。
八月に御参りさせていただき、その折に確認してまいった次第であります。
檀家の方でなくても参列させていただけるのは、たったお一人ではありますが、ブログで紹介されていらっしゃる方の情報で承知しておりましたものですから。

朝から、ドキドキです。
壁掛けのカレンダーに何ヵ月も前から書いてあったくらい、心待ちにしておりましたくらいなので。
家を出たのは大法要の三時間前!
駐車場が空いていなかったらどうしようと、珍道中を重ねるくらいの小心者は思った次第で。
当然、超早く着きました。


ん?σ(´・ω・`; )
境内のどこをどう見ても、前回御参りさせていただいたときと変わらない、普段通りの佇まいです┉
えっ?えっとー ┉

No.279 18/09/09 11:57
旅人3 

参拝の方もまばらです。
境内も初詣の頃のような御札や御守りをお受けする特設の授与所もありません。境内はおろか参道にも屋台なども見受けられません。
┉まずはお参りさせていただきます。
やはり拝殿も本殿もとりたてて変わったところは見受けられません。
立て看板がありました。
やはり日付にも間違いはなさそうです。
御朱印の授与をなさっている方におそるおそる伺ってみました。

「今日から三日間、呑龍上人さまの亡くなられた日によせての法要が営まれると伺って参ったのですが、どのような手続きが必要でしょうか?」
「それでしたらなんの手続きもありません、二時からこちらに入っていただけますので、もし、お時間が許されるようでしたら是非ご参列下さい。」

二時まであと一時間強。
お昼は屋台の食べ物をすっかりあてにして手ぶらで参りましたので、少し参道を歩いてみますか f(^ー^;


No.280 18/09/09 14:47
旅人3 

二時。
開山堂から太鼓の音が聞こえました。開山堂から雅楽の音が聴こえてきました。えっ?これは┉生の演奏?

僧侶の方々が雅楽を奏でながらしずしずと本堂から開山堂へと続く渡り廊下を歩いて行かれます。笙、篳篥、横笛を奏でられ歩く法衣姿の僧侶の方々。
もうすでに感動です。
そのあとに仏具や経本を携えた僧侶が続かれます。 
そして、稚児の少女たちが手にそれぞれ幡、鼓、銅拍子、タンバリン、香炉、散華の入った盆を持って誇らしげに胸を張ってしっかりとした足取りで歩いて行きます。なんて可愛らしく美しい。
そのあと、大僧正でしょうか、箱形の被り物を身に付けた僧が二人の僧侶を従えて歩いて行かれます。
総勢四~五十人の行列が開山堂へと入って行かれました。

あ、私も開山堂に向かわなくては。
大法要が始まろうとしている。
開山堂に入られた方々が定められた席に次々と着席していかれます。
雅楽の方々のすぐそばの空いていた席に着かせていただきました。

開山堂の中は撮影は厳禁とされております。


堂内では、雅楽に合わせて二十人程の僧侶の読経が堂内に響き荘厳な雰囲気に包まれております。読経の途中で立て膝になられたり、両の掌を上に恭しく頭をさげたりなさっています。
内陣の手前に読経される大僧正を囲むように六名ほどの僧侶が僧正のお世話をされています。
僧正が外陣に用意された仏事をされる席に移動されると、小さい方のお稚児さんが二人、御供の盆台を大切に掲げ摺り足の独特な歩き方で登場しました。着物の襟足に扇子を挿しています。
小さな小さな女の子が凜と背筋を伸ばして、脇目もせず、足取りもしっかりと歩いている姿は感動です。
待機している僧侶に御供を手渡すと、襟足に挿した扇子を手に取りお辞儀をしながら手元の扇子を左右を換える所作をし、歩み来た道を戻って行きます。なんて可愛らしく立派な姿でしょう。

御供物を受け取った僧侶は口をマスクで覆っており、僧正のもとに届けます。僧正は御供物を細く長い仏具で指すようなしぐさをされ、またその御供物を掲げた僧侶が、内陣に待つ僧侶に手渡し、呑龍上人に捧げます。
その間も読経は続いております。

  • << 282 訂正文 開山堂から太鼓の音が聞こえました。〈開山堂〉⇒〈本堂〉から雅楽の音が聴こえてきました。  でした。 お詫びして訂正いたします。

No.281 18/09/09 15:53
旅人3 

その後、少し年上の稚児さんから大きな稚児さんまで、同様に御供物を掲げます。
そしてまた読経がひとしきり。
その後また太鼓の音を合図に雅楽が始まり、稚児さんたちが手にそれぞれ仏具┉幡や鼓などを持ってあらわれました。僧侶達の読経と雅楽の中で「禮讃舞」を奉納します。
片足ずつ跳び跳ねるように進み、僧正に向かうときはゆるやかに、向きを内陣に向けては大きく歩み舞います。
楽器を打ちならし、掲げていた幡や香炉を使っての舞いです。
二度、でしたでしょうか一番大きな散華札の入った盆を持った稚児さんを残りの稚児さんが囲んで、大きな稚児さんが高く散華札を撒きあげます。

写真や動画が撮れないのが残念に思われもしましたが、神聖な儀式で、神聖な御堂の中であります。
参列させていただくだけでも光栄なことであります。
それにもっともっと残念に思われているのは御両親であり、祖父母の方でありましょう。

舞が終わると 僧侶 稚児が一同に列をなし堂内の拝観者の前を廻り、その際に散華札を播きます。
蓮の花弁の形で、大光院由来の絵が描かれていました。

そして最後に、僧正の唱える「南無阿弥陀」の御念仏に続けて参列者も御念仏を唱えて、また雅楽を奏でながら本堂に向かって列をなし開山堂をあとにされ、一時間ほどの法要が厳かに幕をとじました。


群馬県民で知らないものはないとまで思われる呑龍さまに、この歳になるまで詣でることすらなく、ましてやこの法要を知ることもなく過ごしたことが悲しく情けなくも思われましたが、それを凌駕する心洗われた思いに包まれております。
本当にありがたく素晴らしい体験をさせていただくことができました。


   平成三十年九月七日    参拝   感謝

No.282 18/09/09 19:43
旅人3 

>> 280 二時。 開山堂から太鼓の音が聞こえました。開山堂から雅楽の音が聴こえてきました。えっ?これは┉生の演奏? 僧侶の方々が雅楽を奏でなが… 訂正文
開山堂から太鼓の音が聞こえました。〈開山堂〉⇒〈本堂〉から雅楽の音が聴こえてきました。  でした。

お詫びして訂正いたします。

No.283 18/09/15 00:27
旅人3 

[れ] 歴史に名高い新田義貞

群馬県民の誰もが知っている上毛かるた、その一枚[れ]の札にあたります。今回は神社仏閣参拝からは少しわき道にそれたお話をします。

以前から申しておりますが、どう名高いかまるで知らないまま大人になっていました。本当に恥ずかしいほど、であります。
実は小学生の修学旅行先が鎌倉で、その際「鎌倉」という大変古そうな歌を覚えさせられました。

 七里ヶ浜の磯づたい
 稲村ヶ崎名将の
 剣投ぜし古戦場

といった歌詞で、尋常小学校の唱歌だったようです。
今でも歌えるくらいに覚えてはおりましたが、この名将こそが新田義貞公だということを、ごくごく最近気づいたくらいであります。
さらにはその事実を知って、「剣を海に投げ入れちゃって、そのあとどう戦うつもりだったんだろう?」と言って、歴オタ夫に深いため息をつかれました。「あくまで伝説、だし、大将が剣をふるうようではすでに負け戦だから」
┉私、戦争を知らない世代ですもの。
ま、夫も、ですが。

新田義貞公にまつわる神社仏閣はすでにずいぶんとまわらせていただいておりましたが、実にやっと回線がつながりだしました。

先日は私のたっての願いで、義貞公の妻の一人とされる匂当内侍の墓とされる墓所に御参りをして参りました。
夫は歴史にも音痴な妻が匂当内侍を知っていたことに驚いたようですが、その出どころは歴史漫画であったことは秘密であります。

No.284 18/09/15 09:26
旅人3 

昨日、仕事先に七十代のお客様が、ふらっとお立ち寄りくださいました。
「来週末東京の孫の運動会があるので、
自分だけ前の日から東京に行って御朱印をお受けしてくるよ」
それだけ。
それだけを私に話すと私の職場をあとにされました。

同僚は「何しに来たんだ?」と。
まさか、それだけを伝えに来たわけではないのだろう┉けど┉
でもとても嬉しい思いでいっぱいです。

No.285 18/09/22 08:10
旅人3 

やっと休みになりました。
お彼岸のお墓参りに参ります。

家の庭の菊はなかなかお彼岸に間に合うように咲かないけど。

┉全然丹精こめたわけではないけど、
今年はあの暑さのなか
私が体調も崩さず、毎日朝昼夕水やりをすることができて、
ここまで枯らさずにこられたことに、
イキイキと葉を広げる菊を感謝をこめてご先祖さまや仏さまに
お供えしたいな、
と思うのでありました。

父や義父の命日には枯れちゃうし┉

┉咲いたら行けばいいのか。


今年の春、
わが家の仏さまにお供えした切り花の菊から
根が出たものを植えたものが、
いま、つぼみを持っています。
仏さまからの贈り物のように思っております。
ありがたいことです。

No.286 18/09/24 15:42
旅人3 

お彼岸┉
┉お彼岸?  お彼岸って┉あれ?
なんだったっけ?   
春と秋にあって、彼岸の入りと明けがあって、春分の日秋分の日をはさんで前後七日間。お墓参りをする┉。
お盆はご先祖さまが帰ってくるので、御迎えに行って、送っていく。
お彼岸┉
いやぁ、いまさらですか、私。
珍道中の中でこれ以上はない、超初心者クラスの疑問です。
夫に聞く?  いやいやそこは調べましょう。
さすがに恥ずかしいですし、ね。
調べて知ることは大事です。修行、修行。

彼の岸、向こう側ですよね。
んー?三途の川の向こう側?

彼の岸とは迷いや苦しみのない浄らかな浄土の世界、悟りの世界だそうです。

三途の川は仏教由来のものというわけではないのだそうです。
(;゜∀゜)
お彼岸は日本独自の仏教行事。


理解できたと思われることとよけいに混乱したことと┉
ひとつづつ、ひとつづつ。


No.287 18/09/25 14:47
旅人3 

お墓参りに行くと墓石を清めます。
墓には亡くなった先祖の戒名、亡くなった年月日、氏名、年齢が
刻まれています。

どちらの親とも同居しておらず、また、夫は分家となることもあり、
自宅に仏壇もなくて、位牌等もありませんので、お墓参りの折りか、
実家に行った際仏壇に手を合わせるとき以外、戒名を目にすることはありません。
そもそも私にいたっては両親の離婚で祖父母、父親の葬儀にすら参列することがかなわず、位牌のない仏壇であります。


今回のお墓参りに、かねてから思っておりました両家の祖父母と父親の戒名を書き写して参りました。
位牌を用意することは分家であり、嫁いだ者でありますので
そこまでのことはできませんが、
家にいてご先祖さまに手を合わせたときに、
亡くなった年月日や氏名、年齢などがあるとより身近に供養ができるかと思ったもので。


戒名。亡くなったあと、仏になるため新たに授けられた名だと、
亡き義父が申しておりました。
義父の戒名を授かるにあたり、お寺さまから、人柄や何が好きだった等聞かれ、それに基づいて戒名がつけられました。

居士、大姉、信士、信女。
最後にかならずこの二文字がつけられているようです。
お?夫が居士なのに妻が信女?
かならずしも対にはならない?

戒名┉、またわからないことに突き当たりました。

No.288 18/09/25 15:13
旅人3 

戒名もわからないことだらけです。
ですが、こんなとき、今は簡便に瞬時に得たい情報を得ることができ、本当にありがたいことです。


そして┉戒名、戒名と簡単に一言で言っていたものがすでに間違いだったことが判明いたしました。以下に私の覚えとして張りつけます。


【院号】

院号は仏教に深く帰依したという証でもあるため、本来は寺院に貢献したなど特別な場合以外にはつけられないそうです。

【道号】

道号は、その本人の人柄や性格、仕事、趣味などを元にしてつけられるそうです。頓知で有名な一休さんの「一休」は、実は道号で、これは一休さんの悟りの境地を言葉にしたものなのだそうです。
真面目な人なら「誠岳」、優しい人なら「優雲」、一言でその人となりが分かるようになっているのだということです。

【戒名】

戒名は、一般的には2文字で書かれます。最も簡単なつけかたは、自分の名前から1文字、尊敬する人から1文字とってつけるというもので、御仏や経典からとるという方法もあります。 阿弥陀如来なら「慈」、大日如来なら「照」などが考えられます。
ちなみに浄土真宗では戒名ではなく法名となり、釋○○という3文字になるのだそうです。

【位号】

位号は、戒名の位を示すためのもので、
成人男性の場合は信士・居士・院信士・院居士、
成人女性の場合は信女・大姉・院信女・院大姉などがあり、
後になるほど位が高くなっているのだそうです。
未成年の場合、年齢によって位号が決まります。3歳位までの場合は嬰子・嬰女、5歳位までで孩子・孩女、15歳位までで童子・童女がつけられます。


ん?
ここまでだとまだ、夫婦だとふつうは対になっているはずの異なっていた位号の謎が解けません。



┉写し間違え?(;゜∀゜)

No.289 18/09/28 03:25
旅人3 

実は居士と信女の御夫婦のお墓は
この春を持って墓じまいされた墓石に刻まれていたもので、
もう二度と確認することはかないません。

主人の母方のご先祖にあたられます。
主人の母は昔気質の古い考えの人間なので、
自分の実家の墓じまいを受け入れるのにかなり時間がかかったようでした。
そして漸く母が受け入れようとする頃、墓じまいの儀が執り行われたようですが、昔気質の母は次男である夫には声もかけずに長男と列席し、
あとから墓参した私たちには菩提寺のなかに新たに葬られた共同の墓地の場所はわからなくなってしまっていました。
夫は┉
淋しそうでした。

おじいちゃんの家のあったあたり、とか言い、
付き合っていた独身時代にも連れていかれたほどおじいちゃんが好きだったみたいなのに。

そして私の仕事の日に、
休みの彼は
一人寺に出向き一生懸命新たに葬られた先を探したようです。

「あったよ」
見つけたわりには淋しそうで、次の言葉を待つともなく黙っていると、
「でも、共同墓地にはおじさんの名前しかなかったんだ」



えっ?



墓じまいしたご家族はご自分たちの夫であり、父である、
たった一人しか名前は残さなかったようです。
もう他のご先祖は┉二度と戒名も、亡くなられた日も生前の名前も、
┉確認することができない。

おじいちゃんか、
そしておばあちゃんが、
本当にいなくなってしまった寂しさ、悲しさを
何十年も経ってまた味わうことになるとは┉

「写しておいてくれてありがとう」
でもね、こんなことになると思って書き写した訳じゃなかったよ。
 

かける言葉もなくそばにただただ立ち尽くしていた私です。

No.290 18/09/29 06:03
旅人3 

御夫婦で「居士」と「信女」と
位号が異なることは実はあるようです。

戦争で出兵された(戦死された?)方に敬意を表して「居士」とされたり。
どちらかがお寺さんに寄進したりお寺さんの行事に尽力されていた方で、でも、配偶者さんはお寺にお参りされることもなかった方だったとか。


それと御夫婦ではありませんが、逆縁である場合、親御さんより位号を下げることもあるとか。


位号も値段のひとつだという説が数多く見受けられました。
お寺さんもなく葬儀からのご縁となる場合も多く、そのような場合は価格表示なさることとなる、と書いてありました。
たしかに昔と異なり┉私の育った家などは昔からと、なりますが┉
お寺さんとのおつきあいは希薄なものになっている、でしょうね。
いまの、私たち夫婦は無宗教ですし。

┉いまから墓じまいを託さねばならぬことにならないような納骨を
ひそかに考えておりますくらいですし。

No.291 18/10/06 23:13
旅人3 

日光中善寺。
湖の名前になるくらいのお寺さんということです、よね。
日光輪王寺の別院に当たるとのことですし、かねてより参拝を願っておりました。

「今日は私が運転するから、日光に行こう!」

張り切ってそう宣言いたしましたが、日光までにまだ五十なん㎞という、いたって早い地点でリタイアして、
「いろは坂が不安」どころか、一般の道で夫に運転を代わってもらっての中善寺詣りでありました。

紅葉シーズンは避けようと出かけたのですが、さすが世界遺産。駐車場ひとつにしても満車。渋滞。
ごめんなさいね( ,,-` 。´-)

ちなみに夫、どうにも脳内が「中尊寺」の刷り込みが強かったらしく、何度も何度もいい間違えておりました。
お願い、ナビに「中尊寺」って入力だけはしないでね。


そんなこんなのいつも通りの珍道中。
┉少しは成長したいものです。


No.292 18/10/07 04:01
旅人3 

ナビには中善寺と正しく(笑)入力されていたので、
ほどなくその赤い御門が見えてまいりました。
駐車場に車を停めると目の前に中善寺湖がひろがっています。

そして目をひいたのが、立木観音さまが印刷された
飲料水の自動販売機!
黒と金の彩りの神々しい(仏さまであられますが)色合いの自販機には、畏れ多くも立木観音さまが微笑んでおられます。
さらには自販機サイドには立木観音さまの胸元くらいまでの
大きな御写真が印刷されております。
斬新というか。
ありがたくもあり、しかしながらばちあたりな感が拭えない、
自販機でありました。
まあ、お寺さんの許可あってこそ、なので素直にありがたい自販機ということで。


あとで知ることなのですが┉立木観音さまは撮影禁止。
この自販機に許されたものはなんなのだろう?!


No.293 18/10/07 06:42
旅人3 

立木観音さま。
立木観音さまは「十一面千手観世音菩薩」で、こちらの開基勝道上人が彫り刻んだものと言われており、根がついたままの立木の状態から彫られたという言われがあることから、“立木観音”と呼ばれています。千手の御手は彫りだした木の枝などから造られているとのことで、一本の木からなる像であるということでした。
そして今もなお大地に根付いたままであり、大地の気を常に吸って活きたお力を持つと僧侶の方はおっしゃっていました。

やさしい笑みを浮かべていらっしゃる立木観音さまの脇には源頼朝公が寄進されたという迫力満点な護法神(だったと思うのですが┉)が観音さまをお護りになられておりました。
僧侶が堂内を説明をしながら御案内してくださいます。
そして、十一面千手観音さまが諸願成就のお力をお持ちでいらっしゃることから、ここで参拝の者が一斉にそれぞれの願いごとを祈願いたします。
祈願ののちに常にこちらの観音さまにつながっていられる、自宅にいながらにして祈願できるという御守り他、御数珠やこちらのお香の授与の時間が持たれます。

立木観音に祈願後は、お堂の中を歩き、2階にある「五大堂」にまいります。
「五大堂」とは、不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五大明王が安置された御祈祷の道場であるとのことでした。

中禅寺は祈祷寺という、いわゆる檀家のない、一般の葬儀などの法要のないお寺さんであり、毎日こちらのお堂でご祈祷していらっしゃるとのこと。
五大堂の天井には、日本芸術院会員の堅山南風画伯が描いた“大雲龍”が見守っております。日光東照宮の“鳴き龍”と同じ龍なのだということですが、共鳴する床でないため(土足のままでの参拝ができる御堂です)こちらの龍は鳴かないということでありました。



五大堂を出た場所から望める風景は本当に素晴らしいものであります。目前に、美しい中禅寺湖、右手側には男体山と、絶景が広がります。
そして、自由にその景色を堪能してこちらの参拝は終わる形となっていました。

No.294 18/10/07 15:34
旅人3 

境内には、そこここに柔らかなやさしい表情をなさった仏さまが
おられます。

訪れたときはちょうど、
こちらのお寺さんで有名な撞くと諸願成就とされる鐘は、
鐘楼の工事のため撞くことができませんでした。


そして┉境内に結界を張った空間がありました。
お供えされた御供物もあり、車の安全祈願にしては少し立派に仕立てられています。
そしてお二人ほど、行者のいでたちの方が駐車場におられます。
なんだろう┉?
こちらは男体山をはじめとする山で行者の方々が修行をなさるようですし、あまり気に止めずに中善寺をあとにしました。

あとで知ったことですが、中善寺さんでは九月に火渡りの行が行われるとのことで、
まさに訪れたその日がそうだったのかもしれません。
一般の方も参加できるようでした。
ご縁がなかったのだな。

お授けいただいた御守りを握り、祈願すると色が変わっていくという御守りは、僧侶の方の説明では最初は青で、
願いごとがかなうとされているのは黄色だということでした。
我が家の御守りは飾られた状態である最初から、緑色であることが多く、飾られたままに紫色や黄緑、琥珀色と色とりどりに変化しております。
観音さまがここ、私の寝所で気を動かされていらっしゃるようで、
そのかわるがわる色を変える御守りをみると自然と微笑んでいる私なのでした。


    平成三十年十月六日  参拝

No.295 18/10/13 15:19
旅人 

今日、父親の祥月命日が近いので、お墓参りに行ってきました。

いつもお墓参りのあとでお参りさせていただいている六地蔵さまの足元に、注意しなければ目につかないくらいの
三センチ四方ほどの薄い円形の物が置かれているのに気づきました。
なんだろう。
小さな小さな字が書かれています。
┉[陸前高田]

誰かが拾った小さな小さな石。
陸前高田の海辺で、
波にけずられけずられ小さく薄くなった黒い石。

[あのとき]の供養のため?

その石にもお線香をたむけ、お地蔵さまに祈りました。


No.296 18/10/13 20:34
旅人 

「お地蔵さまは地獄の果てまで救いに来てくださる仏さまですから」

以前、お坊さまに言われた言葉です。

可愛らしくひっそりと建つお地蔵さまの像。
六体並んでお祀りされている六地蔵さま。
祖父母とお墓参りした折に、必ずお地蔵さまにお菓子をお供えし手をあわせた覚えがあります。
祖父母はたしか、お地蔵さまは子どもを守ってくださる仏さまだと教えてくれたと記憶しておりました。

私自身はもうおとな。
我が子ももう成人しておりますが、母親にとって子どもはいくつになっても子ども。
珍道中をはじめる前もお地蔵には必ず手をあわせ、我が子を御守りくださるようにお祈りしておりました。
お坊さまにこのお話をうかがって、子どもを守ってくださるだけではないのだと知りました。


お地蔵さまは、地獄の果てまで救いに来てくださる。
つらいときにおすがりするとよいと、お坊さまはおっしゃいました。
なんとありがたいことでしょう。





No.297 18/10/23 17:12
旅人3 

畏敬。

岩船山。

その敬虔な山の紹介のパンフレットを手に入れたのは、佐野市の観光案内所でした。
夫といつか行きたいと話し、休みを合わせてとった日、岩船山に向かうこととなりました。
日光の大失態を挽回しようと、今度こそ私の運転で。
ほぼ平坦な道を走るので、途中リタイアもなく、きちんと岩船山まで
車を走らせることができました。
途中から見える岩船山の姿。
畏敬の念を抱かせる、独特な姿でありました。

ちなみに、そのパンフレットには
さしたるお山の由来などは書かれておらず。
歴オタの夫の微かな歴史に関する知識だけでお山に向かいました。
「六百段の石段を登るみたい」
えっ?
いやいや、私は平気です、たぶん。
杖つくあなたがそんな無理をして大丈夫なの?
「あ、杖忘れちゃった」


そこまでいくともう、珍道中ではなくて、ギャグ漫画だからね!


そんな私たちを察してか、ナビはその石段を登ることなく
岩船山高勝寺さんの駐車場に向かう道を案内してくれていました。
「せっかく来たんだからちゃんと石段を登ろう」
。。。。。
そしてナビの案内を振りきって、もと来た道を走らせました。
ま、そこまでで運転は替わってもらって。



駐車場がない。

石段を発見したものの、駐車場が見当たらない。
はあぁ。
お洗濯を干すため庭に出てきた方がおられます。
おばさんは車を停めて、エックスキューズミー。

「あぁ、いいよ、そこにそのまま停めて置いて。そこ、俺んちのとこだから」
┉申しわけありません。まさか、道を隔てた空き地が、
そちらさまの土地とはつゆしらず。

もちろん、ご好意にすぐさま甘えて、石段を登り始めました。


No.298 18/10/27 00:32
旅人3 

石段は古いものでほぼ欠け落ちており、ところどころ歪んだり。
なにより、それなりに急な勾配です。
リハビリで鍛えている夫より、運動不足の私のほうが息があがっていたりして(; ̄ー ̄A
「大丈夫?」
┉声をかけたのは夫です。
ああ、明日から運動しなくては。
とりあえず自転車通勤再開しよう。

そんなことを考えながら歩いていると、お地蔵さまの御堂が見えてきました。
子供とおんなじ思考回路の私は、すっかり立ち直って
小走りに御堂に向かいます。
どうやらここにお寺を開山された方に由来する庵のあとのようです。

少し、ここから空気が変わってきたように思ったのは
由緒書を読んだせいでしょうか。
重厚な空気のように感じました。

No.299 18/10/27 00:49
旅人3 

石段を登った先は

┉見晴台でした。

お寺はまだ先のようです。
夫は夫でさすがに足がつらそうです。
どのくらい先なのか、私が一度みてこよう。

それでも少し歩を進めるともう門が見え、三重の搭が見えています。
夫に告げるため道を戻ろうとすると、こちらに向かって歩く夫が見えます。
ああ、一緒に腰をかけてやすんであげればよかったな。
相変わらず未熟な人間です。

三重の搭に向かう石段。
お地蔵さまが並ぶ先に見える石段に続く御堂。
そして仁王門。
大きな広いお寺さんのようです。

No.300 18/10/27 05:58
旅人3 

仁王門をくぐり、手水舎で手と口を清めて階段を登ると、
左手に鐘楼
右手に御本堂に続く小さな御堂があって、
正面に白木作りの御本堂。
御本堂の手前、左手に小さな建物が設けられています。


御本堂の前に立ったとき、懐かしさのような心踊る優しい気持ちに包まれました。経年した白木作りの御本堂からでしょうか。
┉それが、お地蔵さまのお力であったことをすぐに知ることとなりました。

絶句。
畏敬の念。

御本堂から左手に見える小高い山の斜面に
御本堂を見守られるようにして立つお地蔵さまの御像が幾体も幾体もおられます。
その御足元に何百とも知れぬ卒塔婆が置かれておりました。
その中の何体かのお地蔵さまは
その身を暖かそうな衣類でくるまれておられます。

ここ、岩船山は日本三大霊山のひとつと言われ、
古くから霊の集まる御山でありました。
お地蔵さまは、霊を護り、集う人々を護ってくださるお力をお持ちであられるため、そのお力を頼りに参拝される方々の思いが集まった御山でもありました。

投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋
このスレに返信する

何でも雑談!掲示板のスレ一覧

何でも雑談掲示板。みんなで楽しくまったり語り🗯合おう❗ 暇つぶしにもぴったり。いつでもどこでも投稿や閲覧が可能です。

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧