勉強させてもらいます
一人でノートをとるより
勉強内容をまとめたり把握するのが
何だかはかどるので失礼致します。
14/12/07 08:25 追記
閲覧ありがとうございます。
皆様のお陰で新しい発見や再確認ができて新鮮だったり、良い息抜きになっております。
もしお役に立ちそうなものがありましたらご活用ください。
不要な方は引き続きスルーでお願い致します。
文章は教わったことを再び自分に向けて理解するための作業ですので
意見みたいなものも誰かへの訴えではありません。
悪しからず。
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こうしたモラハラすれすれといったコミュニケーションの悪さについて
社員はどう考えているか。
一般に社員達は、会議などで強制的に発言させられる他、上司と話し合いをする機会がないのを不満に思っている。
上司からは「自由に話して構わない」「自由に質問していい」とは言われている。
実際にそうすると、上司はその言葉に耳を傾けてくれない。
ひどい場合には発言した内容を歪められ、自分に不利な形で使われることさえある。
これでは安心して話をすることもできない。
結局は罠に警戒して黙ってしまう。
このように会社の幹部や上司は、本音と建前が違う形で、二重の意味を持つ言葉を使うものである。
社員達はそのことに気づいている。
上層部が言う言葉と社内で毎日起こっていることを比べれば一目瞭然だからだ。
社員達はそれが嘘を隠すためのものであったり、ご都合主義的な戦略であることを知っている。
経営者が「社員は会社の宝だ」と言ったとしても
「成績を上げて会社の役に立ってほしい」ということだとわかった上で聞いているのである。
規則を一つのコミュニケーションだと考えるならば、
公的な決まりの他に暗黙の決まりがあるのも
二重の意味を持つ歪んだコミュニケーションの一つだろう。
公式には残業しないことになっているのに、
サービス残業が当たり前になっているような場合のことである。
このように必要以上のことをする義務が暗黙の決まりとしてあると
社員達は分断され、職場の連帯は崩れ去る。
その職場のほとんどの人間がこの決まりを受け入れているとしたら
その決まりに従わなかった人は仲間外れにされる。
あるいは罪悪感を感じて自分から会社を辞めていく。
歪んだコミュニケーションの犠牲となるわけである。
このような歪んだコミュニケーションの最たるものと言えば、
いくつかの多国籍企業の一部の経営者の言葉の用い方だろう。
知識をふりかざしてもっともらしいことを言っているが
その言葉には何の意味もない。
これは相手との意志の疎通をはかる普通の意味のコミュニケーションではない。
会社の経営戦略を隠し、社員に真実を理解させないように、また思い通りに動かすための
モラハラ的なコミュニケーションである。
そういうコミュニケーションをするためには、社員の欲望を一番深いところで刺激し
その欲望を利用して社員を操っていく必要がある。
それには内容の空疎な、催眠術にかけるような、ただ相手を支配するための言葉が使われる。
一部の経営者達が使う言葉はそんな言葉である。
社員達は言われたことの本当の意味を理解することも確かめることもできないまま、ただ命令に従うしかない。
そこで抵抗する社員がいたら、今度は相手を恐怖と屈従させる脅しの言葉が待っている。
人々を支配下において屈従させる点で言えば、まさにモラハラのやり方である。
実際、競争企業に経営戦略を知られないようにするため、企業は事実をはっきりと伝えず、
それとは反対のメッセージを流すことがある。
一つは株主達をひきつけるため。
一つは社員達を企業の戦略に沿った形でうまく操るためである。
社員達は自分の企業がどの方向に行こうとしているのか知ろうと思った時
企業が発するメッセージの行間を読む必要が出てくる。
大企業や官公庁で出世しようと思えば、こういった「二重の意味を持つメッセージ」に気づき
そのメッセージが意味するものを正しく解読し、組織の方針の変化を先取りする必要がある。
ここでは普通の判断基準は通用しないので
きちんとした形で言われたことだけを信じる者には何がなんだかわからなくなる。
この状況もモラハラに似ている。
モラハラの被害者は正直過ぎるため、あくまでも言わなければならないと思ったことを言い
しなければならないと思った仕事をする。
そのため、そういったコミュニケーションの仕方をしないモラハラの加害者にいいように扱われてしまう。
誰かを傷つけたいという「変質的な」傾向を持つ人間がこの状況を利用すれば
それこそ本物のモラハラが始まってしまうのである。
◆画一化される社員◆
現代の世の中を総括的に見ると、社会は次第に個人主義な傾向が強まりつつある。
それとは反対に、仕事の世界では、個人の価値が認められなくなってきている。
これもモラハラの下地になりえる。
会社に入ることは、その会社の価値観、考え方、物事に対する判断基準を受け入れることである。
もちろん会社を説明する際に求職者に示されているはずだが、
現実に職場で行われていることの間には大きなズレがある場合がある。
「我が社では進取の気性に富む人材を求めている」
「管理職としてオリジナリティ溢れるアイデアを出してほしい」
などと言われたのに、いざ職場に行ってみると
現場のシステムは他人と違うことを許さない。
そういったことが往々にしてあるものだ。
社員が会社の基準から「理想のモデル」から離れ過ぎた場合も、その社員を「レールに戻そう」という動きが出てくる。
経営陣が変わったり組織の再編が行われて職場のトップが変わったりすると
「理想のモデル」を決める基準も変わる可能性がある。
社員は今求められているのはどんな社員か、絶えずアンテナを張って確かめる必要がある。
多くの企業では社員の自主性は制限され、一定の範囲から外には出られないようになっている。
とりわけ伝統ある企業は、口では「創造性」を謡い、あまり冒険せずこれまでのやり方を踏襲することを好む。
経営コンサルタント達は「経営の方法を変えなければならない」とよく忠告するが
企業の経営者達は、公的な発言とは裏腹に結果を恐れて、変えることには慎重である。
企業の経営者達は、画一化された人材を求めている。
そしてどんなに違った仕事でも一様にこなすことを要求するのだ。
昔は上級管理職にしか求められなかったことを今は全ての社員に求められている。
その結果、社員達は個性を奪われ標準化されるのである。
そういった中では社員達は質問しすぎてはいけない。
自分で要求される以上に物を考えてはいけないのだ。
自分自身の一部を殺さなくてはならないのである。
そこでは服の着方さえ標準化されている。
目に見える形が同じであれば会社は安心するからだ。
その意味で言えば、社員を一人一人違いのある人間だと認めていないのだ。
才能溢れるトップの中には常識の枠にとらわれない個性的な人もいるだろう。
だが、その下で働く社員達は、管理しやすいことが望まれるのである。
こういった状態はまともな状態ではない。
社員達もやがて気づくことになる。
職場で困難に直面した時
嫌なことがあった時
一時的に成績が下がった時
そういった時に、これまで押し殺していた人間性が表れる。
それでもまだ人間性を押し殺して、自分を型にはめ込もうとすると
今度は心身症などの病気が表れる。
社員を画一化するのはあまり賢いやり方とは言えない。
思わぬ労働災害が起こったり、社員が心身症になったりして病気休職するのがオチだからだ。
またそんなことになれば、企業は余計なコストがかかるだけである。
社員から見た場合、ごく普通の状態であれば、社員も画一化に安住している節がある。
決められた枠にはみ出さないようにして、組織から排除されないようにしているのである。
ただ職を守りたいだけの理由からではない。
組織の一員でいたいという理由からでもある。
共有している考え方に反対して、組織全体を敵にまわしたくはないのである。
そういったことから会社に入ると人はまず自分の意見を抑えようとする。
まだまだ雇用が不安定な今の時代、ようやく生活の安全が保証されたことに安心して
それだけで満足しているところがあるからだ。
それに会社の考え方に従わなければ、職場の居心地はたちまち悪くなる。
不安を覚えると言ってもいいくらいだ。
実際、会社の方針に従わずにいれば、出世コースからも外れてしまうのである。
生活の中で仕事が全てだと思っている人は特にこの形で組織に適応しようとする。
組織の考え方に合わせ、自分自身を殺してしまうのである。
企業の立場から見れば、社員はこういった形で自然にふるいにかけられるのだ。
これがどれほどモラハラを生み出しやすい環境になっているかは
少し考えただけでもわかるだろう。
いずれにしろ、社員が歯車の一つになってくれれば、企業は社員を管理しやすい。
反対に社員に自主性を認めている企業ではどれだけ上司が大変な思いをしているか見ればわかる。
実際に社員がその通りにすれば、上司の影は薄くなり権力を失って
その部下と競争関係に入ることにもなりかねない。
上司がどれほど部下との関係に悩んでいるか
駅や本屋、コンビニに「部下との付き合い方」を書いた本が並んでいるのを見れば明らかだ。
そういった本を読んで、管理職の人々は、部下と付き合うための技術を学び、安心したいのである。
会社の中で出世するためには、カメレオンのように姿を変えて
その時々によって変更される会社の方針や目標に合わせる必要がある。
人間としての社員を尊重することがないまま、社員を標準化することは
ただ会社から言われたことだけをするような「受動的な社員」を作り出す。
そういった受動的な社員が多くなったらどうなるか?
傷つけたい「変質的な」上司がモラハラを行った時、受動的な社員達はそれに追随するか
これもしかたのないことだと、見て見ぬふりをするのである。
社員の画一化はこんなところにもモラハラと関わってくる。
画一化と戦うためには、精神の自由を保ち、批判精神を持つことである。
自分の考えは捨てないということだ。
企業は社員を画一化するのではなく、一人一人の個性の違いを会社の財産と考えるべきである。
個性を認めなければ、社員の才能を殺し、創造性の芽を摘むことになるからだ。
◆働く人間として自分の仕事や存在を認めてもらえない◆
個人のアイデンティティを形成するなかで、仕事の占める割合というのはかなり大きなものである。
仕事は自分の才能の証であり、人生の目的であり、夢でもあるからだ。
もしそうなら、自分がした仕事をきちんと認めてもらうことは
アイデンティティを保つ上で非常に大切なことになる。
周りから存在を認めてもらえない人は、落ち込んだ気分の中で
自分を否定するしかなくなってしまう場合も多い。
相手の存在を認めないというのは、モラハラで加害者が被害者にすることである。
相手を無視することで、象徴的に相手を消してしまうのだ。
そこまでいかなくても、働く人間は仕事の成績はどうであれ、職業人としての存在が認められないと
やる気を失い、一生懸命仕事をしようとしなくなる。
幹部が業績のことばかり気にして、社員が人間であることを忘れると
社員が持っている能力や技術など、有用性でしか社員を判断できなくなる。
そうやって駒のように扱われた社員達は、反抗するか、絶対的に服従してしまう。
人間を道具として見なすやり方は、上司と部下の関係の中でもよく見られる。
そこでは対等な人間同士の関係という側面が薄れてきており、
上司が部下のことを仕事に必要なモノのように考えるのだ。
相手がモノであれば「ありがとう」や「よくやった」と言う必要もない。
注意を払う必要もない。
部下はただ役に立つかどうかだけで判断される。
企業は社員に一生懸命働くことを要求する。
問題を解決したり、困難な状況を切り抜けるために
私生活を犠牲にしてでも、持てる力を全て発揮しろというのだ。
そうやって仕事を遂行しても、社員はなかなか「よくやっている」とは認めてはもらえない。
難しい仕事を任された時にも、その仕事が難しいことを認めてもらえるのは稀である。
たいていは「そんなことは自分で何とかしろ。いちいち人に聞くな」と言われるのだ。
一生懸命働いている人から仕事を取り上げてしまうこともある。
ある計画を成功させようと夢中になって働いている人から感謝の言葉一つなく
その仕事を取り上げ、計画の続きを他の人に任せてしまうのだ。
また、部下の仕事を自分が主導したことにし、手柄を横取りしてしまう上司もいる。
この場合、部下は仕事が正当に認められなかったという不満を抱くだろう。
こんな状態になったら、社員はどうして働いているのかわからない。
自分の仕事が何の役に立っているかもわからない。
自分の仕事は自分のものではなくなり、自分のしたことの意味がわからなくなる。
そうなったら自分の仕事の意義を疑い、果ては自分の存在意義まで疑うことになるのだ。
企業における人間の存在価値は、ますます薄れる傾向にある。
会社という組織の中では、社員は駒なのだ。
ただの道具にすぎないのだ。
そうだとしたら、やる気を出し続けるのは難しくなる。
企業が社員を人間として認めていないせいで、社員は常に傷ついている。
職場は自己評価を高める場所ではなく、
人間としてのプライドを傷つけられて自己評価を下げる場所になっているのだ。
もっとも、社員をどこまで人間として尊重するかは、企業や経営者によって違ってくる。
家族主義的な経営をする会社では、人間としての社員を大切にし、困ったことがあれば
本人はもちろん、家族のことまで相談に乗ってくれる。
それが行き過ぎた形で行われれば、社員は私生活に干渉されることを心配するようになる。
だが、そういう弊害があるからと、企業が社員の尊厳を傷つけていいことにはならない。
そういった意味からすると、モラハラに対する反響の大きさは
企業の経営者に対して働く人々が警鐘を鳴らしているのだと考えて差し支えない。
その証拠に「私達は人間として尊重されたい」
という言葉をスローガンに掲げたストライキの数が増えてきている。
相手を人間として尊重しないというのはモラハラの始まりであり、
職場では最初からそういった環境ができ始めているのである。
収益を上げることと、社員を人間として尊重することの二つは密接に結び付いている。
実際、複数の会社を対象に行われた研究によると、単に労働環境を整える以上に
会社が社員の状態に注意を払うようにすると、会社の業績は伸びるという結果が出ている。
企業の価値は、その半分を社員という人的資本が支えている。
だが、企業において人間が果たしている役割は常に過小評価されている。
企業がどこまで社員を人間として認めるか。
これは社員にやる気を出させる意味でも大切である。
給料が高ければ、やる気を出し、その会社でいつまでも働きたい者もいるだろう。
だが、給料がそれ程高くはなくても、自分のした仕事が認められ、それが正当に評価される環境にあれば
社員はその会社に残って会社のために尽くしたいと思う。
それが忠誠心である。
これは誰もが知っていることだが、企業からはそういった環境が姿を消しつつあるようだ。
相手を人間として認めないことはモラハラ-精神的な暴力への第一歩である。
相手を支配し、相手を貶めるには、まず相手が人間であることを忘れなければならない。
その意味で、職場の環境はすでにモラハラ的になってきているとは言えないだろうか。
◆◆恥知らずなシステム◆◆
人間に病気があるように組織や集団にも病気がある。
「変質的な」人間や「変質的な」行為をする人間が社内にいることとは別に
組織のシステム自体に問題がある企業も存在するのだ。
そこで問題のあるシステムを持つ企業は、問題のある人間と同じような行動をとる。
いくつかの企業では、職場にモラハラが行われるような空気があっても
それには知らん顔をして社員を守ろうとはしない。
別の企業では、業績を上げるために社員に嘘をついて会社の思い通りに動かそうとするなど
恥知らずなやり方をして、そのやり方に従わない社員にモラハラを行う。
どんな汚い手を使っても競争企業を潰す一方、会社が業績を上げるためなら、そのやり方を自分の会社の社員にまで用いる企業もある。
このようにシステム自体に問題があると、実際にモラハラが行われた時、
誰が加害者なのかはっきり示すことができなくなる。
結局は職場の雰囲気が悪いとしか言えなくなってしまうのだ。
では、いったいどんなシステムが問題のあるシステムか。
平気で恥知らずなやり方をする、社員に有害なシステムは何なのか。
その結果としてモラハラの起こりやすいシステムなのか。
この点についてはまだはっきりした研究の成果は出ていない。
少し想像力を働かせれば、上下関係が厳しく、社員が依存的にならざるを得ないシステムほど
モラハラが起こりやすいだろうという見当はつく。
また定期的に人員整理を行うなど、戦略的に社員にプレッシャーをかけようとするシステムは
その戦略の中にもうすでにモラハラの芽を含んでいると言える。
他、独裁的な傾向を持つシステムは
「利益を上げるためなら、何をしてもかまわない」というやり方と結び付きやすいだろう。
いくら利益を上げるためでも、人としてのモラルに反する「変質的な」やり方は
組織全体がそういった考え方に染まった独裁的なシステムでなければ行われにくいからだ。
システムの下層で、課長なり係長なりが命令しただけでは簡単にはできないのだ。
反対に、経営者なり企業の幹部の一人が「変質的」であれば、上から下に順送りで
「変質的な」やり方が伝播していく。
社内の力関係によってそのやり方を制御することができないので
どんなにひどいことでも許されてしまうのだ。
トップにモラルがなくなれば、システム全体が「変質的」になってしまうのである。
「利益を追求する」という目標自体がモラハラに結び付くわけではない。
企業であるからにはその目標を掲げるのは当然である。
問題は、どんな手段でその目標を達成するかだ。
その手段があまりにも性急で、社員の人間性を考慮に入れないものであれば、モラハラに結び付く。
もともとモラハラは「利益の追求」よりは「権力の追求」の過程で起こることが多い。
「利益の追求」を目標としない慈善団体でもモラハラが起こることからも明らかだ。
「利益を追求する」企業だからモラハラが起こるわけではない。
むしろ「利益の追求」という目標をはっきりと掲げ、長期的な展望のもとにそれを達成しようとしている企業ほど
社員を人間として尊重して、モラハラが起こらないよう気をつけているものである。
よって、問題なのは利益を上げるためなら
法に触れるようなことまでして、それを隠す企業である。
こういった企業は、目先の利益を追求することだけに夢中になるので、
社員のことも道具のようにしか考えていない。
そこでモラハラが起こるのである。
そういう企業に限って、恥知らずなことに経営者や幹部達が
「最近の社員は能力が落ちた」
「忠誠心がなくなった」
と嘆きの言葉を口にする。
だが、そういった企業でトップになるのは、利益を上げるためなら何でもしてきた
よほど恥知らずな人間である。
そういった「恥知らずなシステム」をつくる要素について次に考察しよう。
◆曖昧な責任の所在◆
現代の会社では責任の所在が曖昧になって、誰もがはっきりと責任をとろうとはしなくなっている。
何であろうと、責任は人に押し付け、自分は被害者のような顔をする。
それが一つの風潮になっているのだ。
企業においてもそれは同じで、これが以前のようにピラミッド型のシステムであれば、
まだしも責任の所在ははっきりしていたのだが、
現在のようにネットワーク型のシステムになると、人に責任を押し付けるのはますます容易になってくる。
その結果、明らかな失敗を犯したとしても、企業の経営者は責任をとろうとはしない。
「自分の知らないところで部下がやった」というわけだ。
同様に、部下や同僚にモラハラを行った人間も、自分に責任があったとは認めない。
悪いのは他の人々であり、そうせざるを得なくした会社のシステムなのである。
責任の回避は解雇の問題にまで及んでいる。
企業は経営コンサルタント会社に社員の経済性をできるだけ数字の形で算定するよう依頼することがあるが
これは人員整理を行う時のためである。
社員が企業の駒で、その能力が純粋に数字で表されるものならば
誰を辞めさせようかと、一人一人社員の顔を思い浮かべて悩む必要もない。
数字の順番に従って、余剰人員を整理すれば良いのである。
誰を辞めさせるか決めたのは経営者ではない。
数字である。
よって、経営者に責任はない。
◆誇大妄想症の経営者達◆
誇大妄想症の経営者達とは、自分がまるで世界の支配者になって
「生きるか死ぬか」の戦いを続けているようなつもりになっている経営者達のことである。
そういった経営者達は、その「生きるか死ぬか」の戦いに勝つために
つい目先の利益にとらわれ、長期的な展望のもとに社員を大切にするということをしない。
その結果、モラハラの起こりやすいシステムをつくってしまうのである。
大切なのは社員ではなく、株価の変動なのだ。
そうでなくとも、近年経済不況を理由にして、賃金カットや人員整理が
企業の思うままに、社員からは抗議の声を上げることができない形で行われてきた。
雇用状態はまだよくなったとは言えない。
そんな中で、今度はグローバル化が社員を締め付ける理由として持ち出されてきたのである。
とりわけ、多国籍企業の経営者達は、社員の気持ちからは遠く離れ
自分達が政治権力よりも上にいる支配者になったと思っている。
そういった経営者達は自分の企業がより大きく、より強くなることが何よりも大切だと考えている。
そして「こちらから攻撃を仕掛けなければ、競争企業にやられて自分達は消滅してしまうだろう」
と言って、全てを正当化してしまうのだ。
企業活動が「生きるか死ぬか」の戦いだというのは
全ての経営者達が共通した認識を持っている前提のようなものらしい。
「ビジネスはどんなことをしてでも、自分の身は自分で守る世界なのだ」
「必要だったら、相手を攻撃して殺してでも」
「ある社員が会社をクビにならないと、誰が保証できよう。
はっきり言って、本人以外の誰がそんなことを気にかけよう」
こういうのを恥知らずな言葉というのである。
だが、多国籍企業を率いる、こういった自己愛的な経営者が金の力で世界を動かし、
一般の人々の生活を自分達の思う方向に導いているのも確かである。
広告やメディアによって、人々の欲望を煽り、必要を「生み出して」
自分達に都合の良いライフスタイルを押し付けているのだ。
その意味で言えば、このような企業は人々にとって「何が良いことか」を知っていると同時に
その「良いこと」を広めるやり方を知っているのである。
消費者にとって、何が一番良いことか、企業は政治家よりもそのことがわかる立場にいる。
そして何が良いかは、株価の変動によって、市場が決めるのである。
こういった企業では、コスト削減に、社員はまるで在庫を処分するように解雇される。
経営のやり方を考え直すよりは、役に立たなくなった道具に過ぎない人間を処分する方が簡単だからだ。
道具は口をきかない。
指導者が強大な権力を持つ多国籍企業では
一人一人の社員が抗議の声を上げることもできない体制になっていることが多いのだ。
その状態で、社員達は短期の目標を達成して利益を上げることを要求される。
株価の上昇、市場の占有率。
経営者の頭にあるのはそれだけである。
企業がそういった体質を持っていると、外から見てもわかってくるものである。
目先の利益しか考えない経営者のもとでは
社員はいつも短期的な目標達成に追われ、ストレスを感じる。
これは単なるプレッシャーやストレスとは違う。
その違いは社員を人間として大切にしているかどうか、ということだ。
そうして社員を尊重する気持ちがなくなった時
その企業ではモラハラが発生するケースが多くなるのである。
仮に社内でモラハラが起こったとしても、そういった経営者をトップに持たない健全な企業であれば、
誰かが中に入って問題を解決することもできる。
モラハラに適切に対処し、予防することもできるのだ。
◆◆変質的なシステム◆◆
モラハラの「変質性」とは、人々が持っている一番悪い部分を引き出し
自分が行うばかりか他の人にも「変質的な」行為を行わせてしまうことである。
その意味では「変質的な」人間だけでなく「変質的な」企業も間違いなく存在する。
そういった企業では、社員個人や企業の利益のために
一人一人の社員が持っている一番良い部分を引き出そうとするのではなく
ライバルの足を引っ張ったり
法律に触れるようなことをさせるなど
人間として最低のことをするよう仕向けるのである。
これは「業績を上げるためには人間性を捨てなければならない」
という間違った考え方からきている。
その裏には社員同士を争わせて、どちらかが辞めていけば
人員整理の問題で頭を悩ませることもない
といった考え方も存在する。
実際に会社の合併や組織の再編の時には、こういったことが行われる。
例えば、二つの部署を統合した時に、その部署の長を「二人制」にして
「お互いに競い合って頑張ってくれ」と言う一方、わざと中傷をばらまいて二人を反目させ
二人の内より弱い方がミスを犯したり病気になって自分から辞めていくのを待つ。
また相手の方が勤続年数が長いという理由で
ある社員をわざわざ自分よりも職階が低い人の指示で働くようにして
(勤続年数の短い課長が勤続年数の長い係長の下で働くようにする)
トラブルの原因をつくる場合もある。
トラブルを巻き起こすのに、年功や能力に関係なく社員を昇進させる方法も使われる。
こういったことが行われると、社員は不安になり、追い詰められた結果、
普通では考えられないことをする。
企業はそれを利用して、社員を思い通りに動かしたり自分から辞めていくようにするのである。
こういった体質を持つ有害な企業には、表にはあらわれない「変質的な」規則が存在する。
それは経営者の権力に制限がないこと、社員が人間として尊重されないこと、である。
そうした結果、その企業では「二重の意味を持つ言葉」や「矛盾した指示」によって
社員が支配され、利益を上げるためなら法律も犯し
それを隠すために嘘をつくということが平気で行われる。
そこまでいかなくても、社員に嘘をついて騙すやり方が当たり前になっている企業は少なくない。
企業の中でこういったやり方が日常化してくると、そこで働く社員達も
相手を人と思わず、平気で嘘をつくような態度を身につけるようになる。
「他の人もやっているのだから、自分だって」というわけだ。
こういった態度がいくつもの企業に蔓延すれば、贈賄などの犯罪にも結び付く。
「競争相手はどうせ賄賂を贈るに決まっている。ならば、こちらが先に仕掛けてどこが悪い?」
そんな考え方をするようになってしまうのである。
そこではもうモラルを維持しようという考え方はなくなっている。
嘘をついて人を操ったり、贈賄を行って目先の利益を引き出したり、
それらがいけないことではなく、まず仕方のないことになり、
それから当たり前のことになってしまっているのだ。
企業の利益のためではなく、自分の利益のために悪いことをする場合も
これと同じ考え方が裏で働いている。
社内の至るところで、そういったごまかしが行われているのを見たり、
役得がまかり通るのを見たりすると、社員はどんなことでもできると思ってしまうのだ。
こうして一つの背信行為がまた別の背信行為を生んでいくのである。
企業のモラルが低下すれば、同じ一つの企業で
欠陥製品問題やセクハラの問題が次々と起こってくるのも不思議ではない。
違法な行為を平然と行う「変質的な」企業では、新しく社員が入社してきた時にも
その違法な行為を行うよう圧力をかける。
そうすると、新しく入ってきた社員は恐怖から
あるいは体制に順応する体質からそのやり方を受け入れる。
もちろん拒否することもできるが、そういった人は「悲劇の英雄」を演じることになる。
仲間外れにされてモラハラを受けることになるからだ。
だが、こういった企業は失敗する危険も大きい。
自分達のやり方を強制的に押し付けているだけなら
いつかは社員のしっぺ返しを食らうことになるからだ。
社員は表面はそれに従っているように見えても、心からそれを受け入れているわけではない。
よって、機会さえあればさっさと会社を辞めていくのである。
また、違法行為を隠そうとして、社員を買収しようとしたら
その買収の輪は上司から部下へと次から次に下に及んでしまう。
嘘をついてごまかそうとしたら、その嘘やごまかしも次から次に社内に広がってしまうだろう。
嘘は嘘を呼び、ごまかしはごまかしを呼ぶ。
そういった状況ではもう誰のことも信頼することはできない。
企業のトップは常に裏切りにおびえていなくてはならないのである。
◆掃除屋(コスト・キラー)の導入◆
このような企業の体質というのは
ある意味、仕事の世界の厳しさと結び付いているのに違いない。
実際、仕事の世界で生きるというのは「鮫のいる海を泳ぐ」ようなものだ。
例えば、株式公開買い付け(企業買収の一つの方法)は、標的にされた企業にとって
友好的なものであれ、敵対的なものであれ
決して思いやりの気持ちから行われるわけではない。
競争企業を出し抜き、潰すために行われるのである。
世界経済を語る言葉はどうしてこう物騒なものが多いのだろう。
仕事の世界は「弱肉強食」で、競争相手に「襲撃」をかけ、「標的にした」企業を「餌食」にする。
相手を「標的」にしたり「餌食」にしたりするのは
「自己愛的な変質者」そのものである。
そういった殺伐とした世界観を反映して、企業は経営が困難な状況に直面すると
「掃除屋」を雇うことがある。
「掃除屋」は工場の閉鎖や人員整理を引き受けてくれる人間のことだ。
こういった人々は、コストの削減を断行するので「コスト・キラー」とも呼ばれる。
掃除屋なり、コスト・キラーは、時には手段を選ばず、乱暴なやり方で人減らしを行うのである。
掃除屋の目的は、できるだけ短期間に、目標とした数の社員を辞めさせることだ。
辞めた人間がどうなるかは、掃除屋の関知することではない。
それは掃除屋を雇った企業側も同じである。
掃除屋はいきなり職場に乗り込んできて、新しく設けた基準のもとに
何人かの社員を解雇して職場を「掃除」すると、また別の場所に行き、
その首切り屋としての腕前を発揮するのである。
一方、人員整理された企業は、今度は社員の士気を高め
利益追求という目標のもとに社員を結束させるような
魅力ある人材を経営者として招く。
こうして恐怖と魅力を織り交ぜた労務管理によって、社員を支配下におくのである。
掃除屋は人員整理を含む現在の組織の再編の他に
「古いものを一掃して新しいものを迎える準備」をする役割を果たしていると見られている。
再建するためには、まず前のものを壊さなければならない。
生を存続させるためには死が必要なのだ。
組織の動脈を綺麗にして、そこに新しい血を注ぎ込むのである。
だが、一つ注意をしておかなければならない。
組織を一新させるために掃除屋が必要だとしても、そのやり方には限度がある。
その限度を超えれば、どんな企業でも「変質的な」方向に向かっていくことになる。
システムが「変質的」になれば、モラハラは起こりやすくなる。
これは利益の追求を目的とする企業の宿命ではない。
企業はより健全なやり方で利益を追求する必要があるのだ。
◆◆自己愛的な社会がモラル・ハラスメントを助長する◆◆
企業のシステムが「変質的」になって数々の不祥事を起こすのは
私達の社会の価値観が変わったからである。
企業の「変質的な」体質を非難するのであれば、それを取り巻く社会についても触れる必要がある。
まず間違いなく言えることは、現代の私達の社会は何よりも
「自我を満足させる」ことを大切にする自己愛的な社会だということだ。
人として生まれたからには、権力を持ち、金持ちになって、人生に成功し、
その成功を他人に見せつけなければならない。
そういう社会なのだ。
例えば雑誌は莫大な利益を上げた多国籍企業の経営者を巻頭のグラビアに持ってくる。
その人物がどういう人間かというのは関係ない。
問題は成功という「イメージ」であり「見かけ」だ。
その意味で、自己愛的な社会というのは、イメージをもとに成り立っているのである。
そしてテレビなどのメディアがこの「イメージをもとにした社会」を支える。
その分野でいかに業績を残そうと、メディア向きでなければ
その業績は何の役にも立たないのだ。
メディア向きとは、見かけがよく話が上手でカメラの前で愛想よくふるまえる、ということである。
真面目な研究者や堅実な経営者であるだけでは十分ではない。
成功するためには、自分を売り込み、宣伝する必要があるのだ。
このように社会が表面的になってくると、人々はお金や物質的な成功、学歴など、
目に見えるものしか信じられなくなってくる。
そうして仕事、私生活においても、周りのイメージに惑わされ
自分が取り残されてしまうのではないかと思い、不安にとらわれる。
そこでまた、自分は優れているという幻想にしがみつき
その幻想を周囲にもふりまく必要に駆られてくるのだ。
そうやって何がなんでも自分を安心させなければならない。
まさに自己愛的である。
私達は成果しか見ない社会で生きることを余儀なくされているのだ。
そこで成果を上げられない者は、成果を上げたふりをして、ごまかしていくしかないのである。
私達はごく普通に生きていく上で、システムを受け入れることを学んできた。
例え、そのシステムが破滅的なものだろうと変わらない。
私達は、まずそのシステムを認め、その中で生きていこうとするのである。
この嘘と偽りに満ちた世界の中で、一人一人の人間が平気で嘘をつき
相手を騙すような態度を身につけるのは必然である。
そういったことはもはや良心を問うような問題にはならない。
時代がそれを望んでいるのだ。
何しろ政治家や大企業の経営者など、
青少年の模範となり、社会の鑑となるべき人物が
自ら率先して嘘をつき、平気な顔をして人を騙しているのだ。
そういった中で、職場でモラハラを受けた人々は、企業や社会に対する幻想を失う。
信頼する気持ちを失うということである。
それは被害者の心に、そしてひいては一般の人々の心に大きな変化をもたらさずにはいられない。
人々は誰に対しても警戒するようになるのだ。
こうして「うっかり隙を見せたら、すぐに自分の地位が脅かされる」と
周りの人間を敵と見なす社会がつくられていくのだ。
そうなれば、そこでまたモラハラが行われる。
モラハラという精神的な暴力は、その背景にある社会と密接に結び付いている。
暴力的で他人を尊重しない人間は、暴力的で人間の価値を大切にしない社会から生まれるのだ。
その社会を変えるにはどうすれば良いか。
それは一人一人の人間が今の社会のあり方に疑問を持って、変える努力をしていくしかない。
■モラル・ハラスメントに関わる人々■
職場のモラハラを人間と人間の問題として見る時、
加害者と被害者の関係をあまり単純化して考えてはいけない。
職場の人間関係は最初から一つの形に決まっているわけではなく
片方の態度によってもう片方の態度が変わるのが普通のことだからだ。
誰にも弱いところがあり、おかしな部分があるのだから置かれた環境によって
そういった部分が増幅してしまうのは、ある意味では当然のことである。
ただ一般的に職場という環境では、平社員よりは上司、中間管理職よりは企業のトップの
おかしな部分の方が大目に見られやすい。
また、職場におけるモラハラを家庭におけるモラハラと比べた場合
それが横暴な上司などによる職権濫用的なものでなければ
職場におけるモラハラが特殊な形をとるわけではない。
家庭におけるモラハラが環境とは関わりのない純粋に個人の問題だとは言えないし
職場におけるモラハラが職場という特別な環境だけに関係しているとは言えないからだ。
基本的な形は同じにしても、職場におけるモラハラの場合、
職場の人間関係が一対一のものではなく集団を前提にしたものであること
加害者と被害者が上下関係を含めて、会社のシステムの中に組み入れられていることで
家庭におけるモラハラとは違ってくる部分がある。
その違いは、例えばまず加害者からモラハラを受けた被害者が
職場の他の人からも仲間外れにされたり、上司に相談してもとりあってもらえなかったりと
二重の被害を受ける形で表れる。
他には大きな違いはない。
では一般にモラハラはどんなプロセスで暴力がふるわれ、被害者の精神が破壊されていくのか。
簡単に説明すると、加害者はまず様々なモラハラの方法を使って、心理的に被害者を支配下におき
自分の言動に対して被害者が身を守れないようにする。
それから更にエスカレートさせて、ついには被害者を精神病や自殺に追い込んでいくのだ。
モラハラは基本的に「支配と服従」の関係の中で行われる。
この関係はもちろん職場における上下関係とは違う。
職場における上下関係での支配と服従の関係は、あくまで職務上のことで
仕事を離れたら上司と部下は人間として対等である。
反対に、上司がこの関係を取り違えて部下を
「人間として対等ではない」
「人間として尊重する必要はない」
と考えたら、それは横暴な上司による職権濫用的なモラハラに結び付く。
実際、人間は権力の座につくと自分が偉くなったような気がして
そういった行動をとりたがるものだ。
そこでただ権力をふるうために「嫌がらせ」をするのではなく
相手を傷つけ、追い詰めるために権力が利用されたとしたら
それこそ本当のモラハラが始まることになる。
◆モラル・ハラスメントをどう受け止めるかは人によって違う◆
モラハラを人間と人間の問題として見る時、この問題を一層複雑にし、解決を困難にしていることがある。
それは、周りの人間や仲介者から見た「真実」が
加害者や被害者の気持ちからすれば「真実」ではないということだ。
起こった出来事をどう感じるかはそれぞれの主観の問題なのである。
現実にはそれほど大したことに見えないのに
被害者が侮辱だと受け取って深く傷つくこともあり得る。
ある事実をその人が受け取って、どう感じるかは
その人が受けた教育や育った環境、過去に経験した出来事や
そこで受けた傷などによって違ってくるからだ。
個人の人格というのは、単に性格だけでなくその人の生きてきた歴史と結び付いている。
そういったものが一体となった形で、ある出来事に対する反応が決まってくるのだ。
それは起こった出来事にどう反応するかだけではない。
モラハラが始まるきっかけにおいても、その人その人固有の歴史がそれぞれの反応に影響を与える。
人が二人出会った時、片方がなぜか片方に反発を感じることはあるだろう。
その反発は相手を攻撃したいという気持ちを引き起こす。
たいていは相手を攻撃するようなことはしない。
「あいつには我慢できない」とか「顔も見たくない」とかいう気持ちは残る。
その気持ちもいつまでもそのままにしとおこうとするわけではない。
相手との関係の中で、何とかうまく調整していこうとするのだ。
この調整は微妙なやりとりを通じて行われる。
ところが、その調整はいつもうまくいくとは限らない。
この調整に失敗した時、人はモラハラという手段に訴えるのである。
ごく普通の場合、こうした人間関係の調整の失敗がすぐにモラハラに結び付くわけではない。
周囲の環境がもう少し健全であれば、むしろ「対立」の形をとるだろう。
この場合、対立する二人の人間は、お互いに自分の正当性を主張して、自分を守ろうとする。
その結果、起こった出来事は一つなのに
お互いの言い分が全く食い違ってしまうことも珍しくない。
お互いに「悪いのは相手だ」と思っているので、仲直りの試みがなされることも滅多にない。
その意味からすれば、お互いに加害者に仕立てて、自分の立場を守ろうとするのである。
それがモラハラに発展する場合。
そして、とりわけそのモラハラが「変質的な」人間によって行われたものだとすると
「対立」の時とは違い、加害者と被害者の間には「対等ではない関係」が生まれる。
加害者は「自分がその行為をしたのは、相手にそうされるだけの理由がある」と考え
被害者は少なくとも最初の内は「悪いのは自分の方だ」と考えているからだ。
◆人間関係をモラル・ハラスメントに導くもの◆
「相手に対する反発」と「人間関係」の問題を考えるためには
まず「私達の心の中の世界」と「心の外にある現実の世界」との間には
常に相互作用が働いていることを知っておかなければならない。
誰かのことを気に入らないと思った時、私達の「心の中」には小さな変化が生じる。
すると相手はどう言葉にしていいかわからないまま、あるいはしないまま
私達の気持ちを身体で感じ取る。
「現実」としては確かに存在するが
「その場の空気」「相手の表情の変化」「ほんのちょっとした視線の動き」など
あまりに小さいため感知しにくいものを意識と無意識の狭間で感じ取るのである。
この時、そこで感じたことをもとに微妙な調整が行われれば
相手との関係はまた違ってくるだろう。
人間と人間の関係は絶えず変わっていくものなので、最初に気に入らないと感じても
その感覚が変わるのは不思議でも何でもないからだ。
人間と人間の関係がうまくいくためには、そういった調整が行われるだけの余裕や
変化の可能性がなければならないことを意味している。
それはまた、蝶の羽ばたきのようなほんの小さなことで
この変化の可能性が閉ざされ、関係が悪い形で固定してしまうということでもある。
現代の状況を見ると「微妙な調整が行われる余裕」が
随分なくなっているように見られる。
厳しい労働環境や仕事上のストレスなどの影響によって
人間関係の中で微妙に移り変わっていく変化の可能性が奪われ
関係が悪い形で固定されてしまいがちなのだ。
これは経営者がきちんと注意を払って職場の環境を整えれば
社員同士の関係が悪くなる事態は避けられるということでもある。
そういった人間関係における「微妙な出来事」とモラハラの間には
どういうつながりがあるのか。
人と人との出会いは、言葉ではうまく表すことのできない小さな感覚「微小知覚」の中で行われる。
相手に対する好意や悪意はその中で示されるのだが
モラハラはこの微小知覚を通じて行われる。
特に最初の内はその傾向が強い。
相手に対する悪意が、相手がはっきりとは意識できない形で伝えられるのである。
これはモラハラを受けた事実が法的に証明しにくいという事実とも結び付いている。
加害者の悪意は微小知覚を通じて「標的にされた人物」と被害者には伝わっている。
周りの人々には伝わっていないことが多い。
結果、この問題に関して周りの人々が介入したり
起こった出来事を証言することができにくくなってしまうのだ。
では加害者の悪意は、その微小知覚を通じてどう被害者に伝わるか。
例えば、顔があってそこに微笑みが浮かんでいたとしよう。
微笑みは確かに友好的に見える。
私達はそこになぜかわからないが、友好的ではないものを感じることがある。
この微笑みには反感が隠されている。
敵意さえ隠されている。
そう感じることがあるのだ。
この微笑みが示そうとしているものと、実際に示しているものの間にある
この「ずれ」に気づくのは、鋭い人間だけだ。
だが、そういった人間は微小知覚を通じて、この「ずれ」を感知し
「この微笑みには、ほとんど気がつかれないくらい偽善的だ」と思うのである。
言葉でも同じだ。
表面的な意味だけを見れば優しい言葉でも
言われた方は攻撃的な意図を感じる言葉は存在する。
それは言われた本人にしかわからない。
そこに悪意があることなど、周りの人は全く気がつかない。
これはモラハラで取り上げられる「歪んだコミュニケーション」の一つである。
職場におけるモラハラの場合、ことは一層複雑になる。
被害者の職場がストレスのたまる厳しい労働環境にあったり
「変質的な」システムに支配される環境にあったりすると
周りの人々はもちろん、本人さえも加害者の悪意に気がつかないことが多くなってくるからだ。
そうして自分が暴力をふるわれているとは思わないまま
二重拘束(例えば矛盾した命令)などによって
心理的な支配を受け、そのまま身動きがとれなくなったり
職務の名のもとに無理なことをさせられるのだ。
また人間関係における微妙な調整がうまくいかない裏には
通信手段の発達で直接触れ合う機会がなくなり
人間関係が希薄になっているということもある。
職場ではきちんとしたコミュニケーションが成り立たなくなりつつあるのだ。
こういった職場の状況からはモラハラが生まれやすい。
特に他人を人として尊重できない「変質的な」人間は
まさにこういった状況を足掛かりに、モラハラを行っていくのである。
◆◆被害者になるのはどんな人々か◆◆
職場におけるモラハラの場合は
「被害者のタイプ」として心理学的に分類されるタイプは存在しない。
どんなタイプの人も被害者になる可能性がある。
加害者やその行為に加担した人々は
「被害者は精神的に問題のあるタイプだったので、そうされてもしかたがなかった」
と主張する。
被害者はモラハラを受けるべくして受けたのだと。
だが、それは間違っている。
職場におけるモラハラの場合、最初から被害を受けやすいタイプの人は存在しない。
これまで述べてきたように、企業の考え方や会社のシステムなどの問題から
まず最初にモラハラが生まれやすい状況が存在する。
その中で、この状況にうまく対応できなかった人々がモラハラを受けるのである。
◆こんな社員は標的にされやすい◆
・個性的な社員
モラハラは、自分とは異質なものに対する拒否感が原因となって行われることが多い。
この拒否感は、性別、肌の色など違いがはっきりしたものに向けられることもあるが
それよりは、個性など、もっと微妙な違いに向けられることが多い。
・能力があったり目立つ社員
物凄く仕事ができたり、目立つ性格だったりすると
上司や同僚の反感を買うことがある。
上司や同僚は、そういった人を引きずりおろし、どこかに追い払いたくなるのだ。
能力がないことは本人にとって脅威となる。
能力があることは周りの人々にとって脅威となる。
ということで、こういった人々はモラハラの標的にされやすい。
また、あまりに率直であけすけな性格をした人々もモラハラの標的にされることがある。
つい思ったことを口にしてしまうので、特に自分に自信のない上司から敬遠される。
・会社のやり方に従わない社員
企業は自分達の中で通用している規則を社員に押し付けようとする。
こういった状況で、性格的な問題からその規則に従わない人がいたら
その人々はモラハラを受けることになる。
そこで標的にされるのは、正直すぎる人々、慎重すぎる人々、大胆すぎる人々である。
人数の多い職場でうまくやっていくには、多かれ少なかれカメレオンのようになることが必要なのだ。
しかし、組織や集団に馴染めなかったからといって
モラハラをしていいという理由にはならない。
その人々が心身に傷を負ったとしたら、加害者達の責任は免れないのである。
もっとも、こういった被害者は自分達がどんな性格で
その結果、どういうことが起こるか気づいていることが多い。
自分の意見を言う
非難を受けた時に釈明する
誰かの仲間になって人を操るなど、自分の信条に反することをしない
嘘を認めない
人を中傷しない
不公正なことを受け入れない
などの性格が強い人は、集団のどこに問題があるのか
言葉にしてはっきりさせてしまうところがある。
問題を指摘された方は、それに耐えられないので
指摘した人間に問題があるとしてしまうのである。
・社内で孤立したり、人間関係のネットワークを持たない人々
モラハラは、相手を孤立させた時に一番効果を発揮する。
よって、こうした人々は標的にされやすい。
ある特定の人物を標的とするために、その人物を孤立させる方法がとられることもある。
その意味から人間関係のネットワークはただ持っていればいいというものではなく
しっかりしたものである必要がある。
しっかりしたネットワークを持っていないと派閥の争いに巻き込まれる恐れもある。
・法律で保護された社員
従業員代表や労働組合の代表、五十歳以上の人間、妊娠した女性のように
法律で保護されていて解雇するのが難しかったり、無理な労働をさせることができない人々は
モラハラの標的になりやすい。
いくつかの公的機関でもモラハラが起こりやすい。
そういった人々は法律で守られているので
相手を辞めさせようと思ったらモラハラに頼るしかない。
その証拠に、こういった法律が整備されていない国では、高齢者や妊婦は簡単に解雇される。
企業は「望ましくない社員」を自分から辞めさせるのに
二つのステップを踏んでモラハラを行う。
まずは標的の社員が働く労働環境を悪くし
それから本人に対する攻撃を始めるのである。
・成績の悪い社員
仕事に慣れるのが遅かったり、仕事の効率が悪かったりすると
上司はその社員を叱責することがある。
それが「保護された社員」でなければ、モラハラにつながることは少ない。
だが、その社員の成績がグループ全体の成績に関係してくるようだと
皆の足を引っ張っているということで、その社員は仲間外れにされてモラハラを受けることがある。
特に全体の成績にその部署の存亡がかかっている場合など
プレッシャーが強い時には、成績の悪い社員に対する攻撃は激しくなる。
・一時的に仕事をする能力が落ちている社員
個人的な問題などで、ある社員が仕事の能力が落ちていたりすると
ライバル関係にある同僚などが、この状況を利用してその社員を蹴落とそうとすることがある。
また、どうやって人員整理をするかばかり考えている経営者も
この状況を積極的に利用しようとするだろう。
◆スケープゴート◆
ある種の状況において、モラハラが行われる過程というのは
集団の中である個人やグループがスケープゴートに仕立てあげられる過程に似ている。
両方とも、被害者は自分には全く覚えのないことで人から糾弾されるのである。
社会学者ルネ・ジラールによれば、この「身代わりの犠牲者を仕立てる」のは
原始社会において共通してみられる根源的な行為だという。
身代わりの犠牲者を仕立てて、その人物に全ての罪を負わせることによって
集団の中に存在する様々な緊張を集団の外に排出するというのだ。
その人物は集団の憎悪を一身に引き受けることによって
社会を鎮静化させるのである。
職場では個人でもグループでも
誰かに対して怒りを感じているのに、それを表に出せない場合がある。
そういった時にその怒りは当事者とは関わりのない偶然選ばれた人に向けられてしまうことがあるのだ。
集団の中には、集団全体がうまく機能するように
内部の攻撃性を一身に受ける役割の人物が生まれることがある。
この役割は普通、集団の中のメンバーが代わる代わる引き受けるのだが
場合によっては集団としてのコントロールがきかないまま、常に一人の人物に集中することがある。
これはあくまでも集団における無意識の現象である。
この現象は内部の人間にはなかなか気がつかれることはないが、外から見るとよくわかる。
よって、こういったタイプのモラハラを
「変質的な」人間によるモラハラと混同してはならない。
「変質的な」人間によるモラハラは、自分のミスや欠陥を意識的に、被害者に押し付ける形で行われるものだからだ。
世の中には神経症的に自分から失敗を繰り返し、周りから非難される人々もいるが
この人々が集団から攻撃を受けたとしても、それはモラハラではない。
この人々は、集団の意識、無意識には関わらず
ただ自分から排除される原因をつくっているだけだからだ。
◆被害者が身を守れなくなる理由◆
被害者が身を守れなくなるには、それなりの理由がある。
まず被害者側の理由である。
モラハラの受け止め方には個人差がある。
行為は同じようなものであったとしても、その人の性格や経験などによって
うまくモラハラから身をかわすことができず、他の人以上に苦しんだり
その状況から抜け出せなくなってしまうことがあるのだ。
次に加害者側の理由。
モラハラの加害者が「自己愛的な変質者」の場合、被害者が身を守れなくなる危険性はさらに高くなる。
「自己愛的な変質者」は相手の性格の特徴をつかんだり
過去の出来事に結び付いた弱点を見つけたりして
それを利用する術に長けているからだ。
相手のできるだけ弱い部分を狙い、アイデンティティを傷つけ、自己評価を引き下げようとする。
もともと被害者の自己評価が低い場合も加害者にとっては絶好の狙い目となる。
ということで、被害者側にある「身を守れなくなる理由」をいくつか挙げてみよう。
・自己評価が低い場合
自己評価の低い人は、とりわけ他人の評価に敏感である。
よって、加害者から見て相手の自己評価が低いとわかっている場合
相手が精練潔白な人だったり、真面目に働いている人であれば
相手の仕事ぶりを疑うようなことを言えば、それだけで相手を傷つけ、大きなショックを与えることができる。
もともと自信のない人が、仕事で成果を上げることによってかろうじて自己評価を高めている場合、
その仕事の悪口を言ってやれば、その人はまた自信を失い、落ち込むことになる。
そうなると、もはや素晴らしい成果を上げることは難しくなり
場合によっては仕事そのものをやめてしまう。
そこが加害者の狙い目となるのだ。
この方法は、「仕事に打ち込んでいる場合」には通用しない。
現在の社会においては、見せかけはともかく、心の中では誰もが自信を持てなくなり
他人の評価によって自分を安心させる必要が出てきている。
それは仕事の世界にも反映し、そこで働く人々を不安にさせている。
働く人々は自信を失っているのだ。
そうなると、モラハラの加害者にとって、現代の職場ほど都合の良いところはない。
モラハラは、相手のミスや弱点、欠陥を責めて、
相手に罪悪感を抱かせ、自信を失わせることである。
相手の自己評価が低く、自信がない場合は、それだけモラハラが行いやすくなるのだ。
・アイデンティティが仕事と過度に結び付いている場合
仕事はアイデンティティと密接に結び付いていることが多い。
仕事に関することで褒められ、評価され、好感を持たれれば、自己イメージは良くなる。
批判され、貶められれば、自分は何かと疑うようになる。
こういったことを前提とした時、職場においては仕事についての批判が
人格に対する批判だと受け取られることが多い。
本当なら仕事の上では対立していても、プライベートでは良好な関係を保てるはずだが、
現実にはそれがなかなか難しい。
仕事とアイデンティティが過度に結び付いている場合は、
仕事の批判を仕事だけの問題として考えることができない。
仕事とアイデンティティが切り離せなくなっているので
仕事の批判をされただけで、全人格的に傷ついてしまうのだ。
人間関係が希薄になり、毎日の生活に孤独を感じることが多い現代社会においては
仕事にアイデンティティを求めたくなるのも無理はない。
そういった状態の中で、仕事に成功し、上司や同僚から評価されれば言うことはない。
現実にそういうことは稀である。
現代の企業は非常である。
社員には結果しか求めない。
会社を動かしているのは人間の経営者ではなく、組織なのだ。
この状態で、働く人々は仕事の見返りに
感謝や思いやり、敬意の念などを受け取って
アイデンティティを満足のいく状態に保てるだろうか。
仕事とアイデンティティがほぼ一致するほど結び付いている場合、
社員は自分の仕事の価値が認められていないと感じただけで、大きく傷つき失望する。
そのため、場合によっては攻撃的な行動に出てしまうこともある。
実際に同僚から隔離されるなどのモラハラを受けた場合
そのトラウマの大きさは、仕事とアイデンティティが密接に結び付いていればいるほど大きくなる。
仕事とアイデンティティが過度に結び付いている時、会社から追い出されるような形で解雇されると
専門家の間で言う「自己愛の喪失」が起こる。
自分のことが嫌いになり、そこから様々な問題が起こってくるのだ。
真面目で仕事を大切に思いすぎているような人々は会社と一体化して、それ以外の自分がない。
そうなると、その人々を支配下におき、思い通りに動かすことも、傷つけるのも簡単である。
一般に、自分の仕事を大切にし、神聖化している人は
給料やバカンスのために仕事をしている人よりモラハラにあいやすい。
給料やバカンスのために仕事をしている人は、家族や友人とのつながり、あるいは趣味など
アイデンティティの拠り所が別にあるからだ。
会社と一体化していなくても、現代の会社員が気持ちの拠り所として
会社に期待している部分は大きい。
一方、新しい経営管理の手法では上司と部下の一対一の結び付きを中心に
仕事が行われるようになってきている。
この時、社員が自分の仕事と人格を同じものとして捉えていれば
仕事に対する上司の批判が人格に対する批判になって聞こえるだろう。
反対に仕事は仕事と割り切っていれば、少々のことでは傷つかない。
モラハラの受け止め方が人によって違うのは、こういったことも関係している。
その意味では、エリート学校を卒業した最近の若者達は、モラハラにあうことが少ないだろう。
そういった若者達は会社に対する感情的な結び付きが弱く、給料などの労働条件をはっきりさせ、
もしその会社に失望すれば、迷わず転職するからだ。
だが、会社と自分を一体化させることが少ないにしても
仕事と自分が密接に結び付いていれば、そういった若者達もモラハラにあうことがないとは言えない。
社員は給料のために働いているだけではない。
仕事の中で自分が必要とされ、仕事によって自己実現をはかりたいと思っている。
その社員の気持ちを理解できなければ、モラハラが行われる最初の一歩となり得る。
・生真面目で正直過ぎる場合
倫理的に潔癖で職場で行われる「公私混同」を許せないような人は
モラハラの標的にされやすくなる。
もともと会社は公私の境が曖昧で、どこまでが許されることなのか、
どこから「公私混同」として咎められるのか、その境が見定めがたいところがある。
常識的には、勤務時間中に短い私用電話をかけるくらいは許されることもあるが、
外国にいる友人に平気で長電話をするなら問題だ、というような区別はつく。
だが、あることが認められたら、それは段々エスカレートしやすい。
もし「君の遅刻に目をつぶるから、僕の仕事のミスも黙っていてくれ」となったら?
そういったことが定着すれば、職場ぐるみの横領など、重大な背信行為にまでつながりかねない。
だから「いけないことはいけない」と言う人間はどうしても必要だが、
職場全体がその「いけないこと」をしていると注意をした人物は
周りの人間を全員敵にまわすことになる。
また給料が低い分、社員は適当にさぼってもかまわないといったことが半ば公認されている場合、
それを告発した人は「聖人君子ぶっている」などと言われ、一斉に非難されることになる。
そうして、モラハラが始まることになるのだ。
告発を行わなくても「公私混同」の仲間に入らず
それがいけないということを態度で示したりすれば
その人の行動は集団のメンバーに対する非難だと受け取られる。
職場の中で日常的に行われている恥知らずな行為に関わるのを拒否すると
職場の規律を乱す者としてモラハラを受けるのである。
それはその人が集団の規律に従うまで続く。
ホイッスルブロワーに対するモラハラは、まさにこれである。
・仕事を大切にし、神聖化している場合
この場合もモラハラを受けやすい。
こういった人々は、仕事には特別な価値があると思っているので
つい融通がきかなくなりがちだからだ。
モラハラから身を守れない社員は不器用な人間が多い。
自分の気持ちに正直すぎて、うまく立ち回ることができない。
一部の人達が言うには、今の社会に適応できない人々である。
それも当然だろう。
現代の社会は「世渡り上手」になることが全ての価値に優先するような社会である。
正直すぎる人間がうまく適応できるわけがない。
だが、嘘をつくのを拒否したり、批判精神を失わないことを
「適応能力不足」と考えて良いものだろうか?
集団のやり方が好ましくないと思った時に
盲目的に従わず反対する人々がいたら
むしろ「安心できること」だと思わないだろうか?
自分の価値観をしっかり身につけている人は、
意見をはっきり言うことが多く、それだけ人とも衝突しやすい。
そうなったら「異常だ」「変わっている」と見られることもあるだろう。
だが、そんな言葉で片付けてしまって良いものだろうか?
・敏感性格の場合
内気で控えめ、対人関係に過敏な性格の場合も、モラハラにあいやすい。
この性格の人々は良心の葛藤に悩みやすく、他人の反応を気にしやすい。
また、社会や人との接触に過敏な反応を示し、生命を脅かされる不安を感じやすい。
自分にかなり悪いイメージを持っている。
と、かなり弱点の多い性格だが、もちろん精神病ではない。
あくまでも性格である。
他、この性格の特徴は倫理に欠けることを許さない。
いい加減なことを嫌う。
特に対人関係ではいい加減なことができない。
何事もおろそかにできない。
噂や人の評判が気になる。
また普通の人よりも屈辱感を持ちやすく、
人から攻撃を受けると、それを気に病んだり苦痛のあまり
うつ病や神経症になったり、場合によっては妄想を抱くこともある。
この性格の人々はモラハラにあいやすいだけでなく
モラハラに対して過敏に反応する。
実際、モラハラを受けると敏感性格の人々は
代償機能が破綻し、精神病に追い込まれることも多い。
モラハラを受けた後、被害者が妄想症に移行するなら、それはこの場合である。
◆モラル・ハラスメントに抵抗するための要素◆
このために必要な要素は八つあるという。
だが、一つ一つをバラバラに考えると、十分な要素だとは言えない。
例えば「心身が頑強であること」を挙げているが、仮にそうでもモラハラを受けて
ひどいうつ状態に落ち込んでしまう人もいる。
反対に一見ひ弱そうに見えて長い間、抵抗する人もいる。
相手の攻撃が激しければ、それだけではどうしようもない。
次に「自信を持つこと」を挙げているが、これは確かに役に立つだろう。
だが、表面的な自信ではなく、高い自己評価に支えられた
本物の自信であることが必要である。
モラハラの最初の目的は「変質的な」コミュニケーションを使って
標的にした相手から「自信を失わせること」にある。
そうすれば、相手を支配し、精神的に追い詰めるのが容易になるからだ。
「家族」の支えも被害者のために役に立つだろう。
ただし、この場合もモラハラが行われた過程を
家族の人達がきちんと理解している必要がある。
被害者は激しく動揺しているので、何が起こったのかうまく伝えられないことが多いからだ。
また、最初は励ましていても、被害者の病気休職が度重なり、いつまでも落ち込んでいて
なかなか解決策が見つからないと、周りの人々も励ますのに疲れてしまうことがある。
周囲の支えはモラハラの場合、家族や友人の支え以上に
職場の人間の支えがあることが望ましい。
だが、この支えはなかなか得ることが難しい。
モラハラが「変質的な」人間によって行われていれば
「火のないところに煙りは立たない」式の噂が広まり、被害者に同情が集まらないからだ。
また、被害者本人に責任のないところで攻撃されているとわかれば、なお周囲の人々は被害者をかばいにくくなる。
下手にかばって、今度は自分が標的にされたくないからだ。
自分を守るために、つい被害者から距離をとってしまうのである。
被害者達は口を揃えて言う。
「どんな短い言葉でもいい。
ほんの少し励ましてくれれば、それが何よりの助けになる」
モラハラの状況で一番辛いのは、一人ぼっちにされてしまうことだからだ。
支えになってくれる人間が産業医や従業員代表など
なにがしかの力を持っている人であれば、状況そのものも良くなりやすい。
いずれにせよ、モラハラを受けた時には、上司でも同僚でも産業医でも職場の人間の支えが助けになる。
被害者が悪いことをしていない以上、理屈の上では一人でもモラハラに立ち向かえることになる。
だが、モラハラは被害者の正常な感覚を狂わせ、混乱に陥れてしまうものだ。
その意味でも職場の人間の支えが必要である。
最後にモラハラに抵抗するというより、逃れるための要素としては
「会社を辞めることをあまり重大なこととして考えない」ことが挙げられる。
これは大変難しい問題なので、簡単には言えないが、まずはごく普通に考えた場合
会社から解雇通知を受けるのは、自尊心が傷つき、立ち直ることができないような辛いことである。
だからついモラハラに耐えながら職場に残ってしまうのだが
「こんなひどい目に遭うくらいなら辞めてやる」と辞表を出してしまえば、それ以上被害にあわずに済む。
だが、次の就職先がなかなか見つからなかったり
経済的に会社を辞めることが困難な場合などにはあてはまらない。
そんなことをしたらすぐに生活に困ってしまうからである。
配偶者が仕事をしているなど、しばらく働かなくても生活に困らない場合
被害者は会社を辞める選択肢を持つことができるので
被害者に対する加害者の支配力はかなり弱まることになる。
◆◆加害者になるのはどんな人々か◆◆
特に職場におけるモラハラを考えた場合
『一方には「倒錯的な=変質的な」加害者がいて、もう一方には「悪気のない」被害者がいる』
という考え方は、それだけでは十分ではないように見られている。
ある種の状況において、私達は例え悪意はなくても
「倒錯的な=変質的な」態度を誰かにとってしまう、あるいはとられてしまう、
ということがあるからだ。
もしそうなら、ここで告発すべきは「あるタイプの加害者」ではない。
「あるタイプの行為」である。
だが、「行為」だけを問題にして「加害者の変質性」を問題にしないのも
偏った論議になる恐れがある。
では、その「行為」と「加害者の変質性」はどの程度、結び付けて考えれば良いものなのか。
まずはっきりさせておくと、モラハラとは当事者同士の「対立」ではない。
加害者が被害者に加える「攻撃」である。
仕事の方針が違うとか、感情的な行き違いがあるということではなく
加害者には「相手を傷つけよう」という意図がある、ということだ。
その目的は相手の心に侵入し、相手を支配して、思い通りにすることである。
この目的の点から、同じ相手に対する攻撃でも
単に「仕事上のストレスや労働条件が悪いことに対する苛立ちを人にぶつけて、欲求不満を解消する」
ということではない。
「カッとなって思わずやってしまった」というのも違う。
相手を支配するために行うのだ。
どれほど厳しい労働環境に置かれても、誰もがモラハラの加害者になるわけではない。
中には心理的な性向として、モラハラに傾きがちな人もいるだろう。
だが、多くの人はその手前で踏み止まることを知っている。
それは多分、その人達のモラルがそれだけしっかりしているからだ。
恐らく中には、管理職として自分ではそれと気づかず、私がこれまで書いてきた
「変質的な」行為をしたことがある人もいるだろう。
それを「部下の管理」の難しさのせいにしてきた人も。
管理職が大変な状況にいるのはよくわかる。
だが、管理職としてもっと大変な状況にあっても
部下を尊重し、部下の話を聞き、その批判を受け入れて
自分のやり方を反省することはできるはずなのだ。
もちろん全てが管理職の責任だと言うのではなく
本当に管理が難しく、部下との間に心の行き違いができただけの場合もあるだろう。
そこで「モラハラ」という言葉が濫用されるのを避け、
「変質的な」性向を持つ本当の加害者が誰かを加害者に仕立てて
自分が被害者になったふりをするのを防ぐためにも
まず、モラハラに似てはいるがそうではない状況と、モラハラである状況を区別しておくことが大切になる。
基本的には、相手を傷つける意図があるかどうかによって決まる。
だが、その間にもいくつかの段階があり、何がモラハラかはケースバイケースで判断していく必要がある。
この問題をもう少しはっきりさせるために
モラハラではないものから順番にモラハラ的な状況を四つの段階に分けられている。
・モラハラに似ているがそうではないもの
(モラハラに移行する場合もあり得る)
・相手の精神を破壊するだけの力を持っているが、悪意はないもの
(基本的には、モラハラではないが、そうなることもあり得る)
・相手を傷つける言動をしているのに、そのことが意識されていないもの
(広い意味でのモラハラ)
・相手を傷つけることを目的にする純然たるモラハラ
(心のどこかに相手を傷つけたい気持ちは存在するが、本人が意識していない場合も多い)
この四つははっきりした境界線で区切られているわけではなく
ある段階から別の段階に移行することも有り得る。
この区別によって、法制化の問題や予防の問題も変わってくるので
その意味ではこうやって分類しておくことも重要である。
◆◆モラル・ハラスメントに似ているがそうではないもの◆◆
◆管理上のミスや誤解から生じたもの◆
これは上司が人間として部下にきちんと接したり、部署をまとめる力に欠けているため
様々なミスを犯したり、誤解が生じたりして、モラハラ的に見えるということである。
管理上の技術のことを問題にしているわけではない。
仕事の能力に劣っていたり、自分に自信がなかったりする上司は
その不安から高飛車な態度に出て、部下を押さえつけようとするだろう。
また問題に向き合ったり、何がいけないのかをはっきりと言う勇気のない上司は
嘘をついたり、間接的に部下を動かそうとして、相手を傷つけることがある。
これは技術的な問題ではない。
「部下を説得する方法」「部下とうまくつきあうやり方」とか
そういった技術について書いた本は沢山あるが、それを読んだだけではどうにもならない。
人に対する思いやりと、リーダーとしての判断力がなければ
そういった技術は何の役にも立たないからだ。
管理職として一つの部署を引っ張っていくのは簡単ではない。
リーダーとして自信がありすぎれば傲慢になる恐れがある。
自信がなければ、つい自分を守ろうとして部下に攻撃的になる可能性がある。
いつも役職の鎧を来て部下に接し、人間的な交わりを持たない上司もいる。
そういった上司は自分のやり方に疑いを持たず、反省もしない。
部下から見れば、冷たく感じるだろう。
人とコミュニケーションをとるのが苦手な人々は
うまく相手を褒めたり、愛想よくふるまうことができなかったり
その方法を学んでこなかったせいで、相手に失礼なことを言ったりして
人間関係がぎくしゃくする。
その結果、部下は不愉快な気持ちになりやすいが、悪意がないのでそれほど深く傷つかない。
ただし、これも程度問題で、その言動がひどいものであれば
上層部が注意を与える必要がある。
この管理職に性格的に傷つきやすい部下がいたら、管理職の言動に苦しむことになるからだ。
これはモラハラと紙一重である。
「モラハラと似てはいるが、そうではない状況」だと言っても
決して安心してはならない。
最初は管理上のミスや誤解から生じただけだったのに
何かのきっかけでモラハラに転じてしまうことは十分にあり得るからだ。
◆仕事上の対立や感情的な行き違い◆
人は誰かを気に入らないと思うことがある。
今まで仲良くやっていたのに、急に相手を嫌いだと思うようになることもある。
職場における人間関係の場合、そういった気持ちは仕事上の対立から来ている場合もあれば
個人的な感情から来ている場合もある。
この二つは重なり合う部分もあるが、別個の問題でもある。
ここでは特に仕事上の問題について触れる。
仕事に関して一番人々が対立するのは
「どうやったら、その仕事をうまくやることができるか」というやり方についてである。
その問題で意見が一致しなければ、仕事そのものができなくなってしまう。
企業はまずその点の対立を解消させて、社員達が一緒に協力して仕事をするように仕向けるが
そこで重要な役割を担うのが管理職である。
様々な意味での価値観の違いの調整も含めてこういった対立の調整は
基本的にその「対立」が起こっている部署のトップの仕事となる。
この調整がしっかりしていれば、モラハラに進む状況は生まれない。
また、直接仕事に関するものではないが、職場の人間関係に期待するものが
社員間で違っていれば(違っているのが当然だが)、そこから「対立」が生まれることがある。
職場の人と密接なつながりを持ちたい人と、距離を置きたい人がいれば、その間にずれが生じる。
このずれは、個人的な感情の行き違いに発展する場合もある。
職場でも様々な人間関係の問題が生じるが、人間関係の問題であるだけに
当事者同士が話し合ったり、お互いを理解することができれば、状況は大きく改善しやすい。
当人同士がそうできなければ、周りの人間が手伝ってやれば良い。
管理職はまさにそのためにいるのだ。
だが、揉め事の芽が摘まれず、社内の派閥争いや「変質的な」人間に利用されると
この状況はたちまちモラハラに進んでしまう危険がある。
その場合、当事者同士は普通の時以上に、自分達ではどうすることもできないからだ。
誰かの特徴や性格の一部が我慢できなくなることは誰にでもあり得る。
そこで相手を嫌ってしまわないで、できれば相手をもっとよく知り
二人の関係でどこがうまくいかないのか、相手と一緒に考えてみることが望ましい。
雇い主が自分の気に入らない社員を雇ってしまったとすれば
その責任はまず自分が負うべきだ。
解雇手当など、解雇に必要な費用はきちんと負担すべきである。
こちらが間違って採用したのだから、相手に責任はない。
感情の行き違いの場合、そのことが口に出されるのは稀だ。
誰かのことが嫌いな場合、その気持ちは
馬鹿にした身振りや小さな嫌がらせなど、態度や行動で表される。
こういった感情的な問題の場合、相手を嫌っている方は
どうしてそうなったのか理由もはっきり言えないことが多い。
ただ、そのきっかけとなった妙に些細なことを覚えているだけである。
もともと人が誰かに惹かれたり、誰かに反発したりするのは
主観的な理由によるところが大きい。
その人の態度が、自分を褒めた母親の態度に似ているとか
自分の中にある嫌いな性格に似ているとか
そういった個人的なことが関係しているものなのだ。
もし職場の労働環境が悪く、狭い部屋で大勢の人が働いていたりすると
こういった感情的な反発は増幅される恐れがある。
嫌いな同僚が咳ばらいをするだけで腹が立つとか
何も聞かずに窓を開けられるのが嫌でしかたがないとか、そういったことは沢山ある。
だが、これはモラハラではない。
そこには相手を傷つけようという意志が働いていないからだ。
◆一時的な精神障害◆
ある種の精神障害を持っている人が、その障害特有の症状を呈した場合、
モラハラに似た行動をとることがある。
ただし、ここで指すのは産業医が気づいて治療を行えば回復するような一時的な状態のことである。
例えば、躁うつ病は躁状態とうつ状態が代わる代わる表れる。
躁状態の時は自己評価が上がり、幸福感に包まれて何でもできるような気がする。
頭の中を様々なアイデアが駆け巡り、何に対しても積極的に行動する。
その一方、自分に対するコントロールがきかず
対人関係で怒りっぽく、相手を見下した態度をとる。
そこで気がつかない内に、相手を傷つけてしまうことが起こりやすい。
最初から症状がはっきり出ていれば、このような人々は病院で治療に専念することになる。
だが、程度が軽い場合、本人達は自分が病気であることには気づかない。
軽いうつ状態が訪れている時には「どうも気分が乗らない」と考え
軽い躁状態になった時に「いつもの調子が出てきた」と感じる。
そうして思い付くまま、自分勝手な行動をとり、周りの人々に迷惑をかけてしまうのである。
これは当然モラハラではない。
薬などによって治せる一時的な精神障害である。
◆◆精神を破壊するだけの力を持っているが、悪意はないもの◆◆
横暴な上司など、少し性格に問題のある上司が
部下をひどい目にあわせるというのがこれにあたる。
実際、ある部署で大きな権力を持っている人間が横暴にふるまったら
部下達は身を守りようがない。
この場合、ひどい扱いをされるのは基本的に部下達全員である。
どんな暴力がふるわれたかははっきりしていて、全員が知っている。
一般的な定義からこれはモラハラとは言えない。
だが、それもケースバイケースで、はっきりした線は引けない。
「職権濫用」からモラハラに移行するケースは珍しくないからだ。
◆自分のストレスをそのまま部下にぶつける上司◆
中間管理職の中には、仕事上のストレスでイライラすると
そのストレスをそのまま部下にぶつける上司がいる。
例えば、沢山仕事を抱えて「期日までに間に合うかどうか」と気持ちがイライラしてくると
部下を叱り飛ばして無理でも、一刻も早く仕事を上げさせようとする。
「それは無理ではないか?」と人から指摘されると
「目標が達成できなければ、こっちだって大変なんだ」
「そんな部下の気持ちにまで構っていられない」
そういった言い訳をする。
実際に無理を言われて叱り飛ばされた方はかなり傷つく。
これは上層部の問題でもある。
下の方で中間管理職が苛立ちを部下にぶつけていても
社員達から抗議の声が上がらない限り、上層部の方では何もしない。
何が起こっているかに気づきもしない。
結果にしか興味を持たないからだ。
仕事のストレスを順送りするやり方が上層部から始まっている場合もある。
その場合は自分のしたことを誰もが上のせいにするので、誰にも責任がなくなってしまう。
「上からの命令だからしかたがない。システムがいけないんだ」というわけだ。
こういった状況では上の人間が部下達の失敗や人間的な弱さに不寛容になり
職場の空気が殺伐としてくる。
もっと陰湿な形で上司からひどい扱いを受けた時、上司には何もせず
他に感情的な逃げ場がないという理由で、自分がされたことを誰かにしてしまう場合もある。
私達は自分がされたことを覚えていて、同じことを誰かにしてしまうことがある。
認めにくいことだが、真実である。
だが、いくら自分がひどい目にあったからと言って
他の人をひどい目にあわせていいことにはならない。
この悪い連鎖反応はどこかで断ち切らなければならない。
また、それでもこういった連鎖反応的な暴力と
「変質的な」モラハラの暴力は区別されなければならない。
モラハラは相手を傷つけようという冷酷な意図のもとに平然と行われるからだ。
モラハラの加害者も昔、同じようにひどい暴力にあった経験を持っているかも知れない。
だが、それとこれとは話が違う。
加害者のしていることは、単純な連鎖反応的な暴力とは違うからだ。
◆神経症的な不安を持つ上司◆
上司が神経症的な不安を持っていると
周りの人々はその上司の行動に悩まされることが多い。
気分が安定せず、人に対して不寛容で、矛盾した行動をとりがちだからだ。
その意味では、難しい性格の人間だと言えるかもしれない。
また、自分の感情をうまくコントロールできないことから、人に対して攻撃的になることもあるが
そこで本人が自分の攻撃性に気づいて恐れを抱くと
今度はそれが直接表には出ない複雑な形で表れることもある。
神経症的な人は、子供の頃に体験した出来事を他者との関係の中で再現していることが多い。
子供の頃に受けた屈辱や、それによる不安に対する反応を
自分では意識することなく攻撃の形で人に示してしまうのである。
難しい性格の人は子供の頃に傷ついた体験を持っている人が多いのだ。
ということから、神経症的な不安を持っている上司の攻撃は
無意識の内になされることが多い。
そのやり方も直接相手を非難するのではなく
皮肉や嫌味
馬鹿にした態度
無関心(話をきちんと聞いてくれない)
行為や判断の欠如(頼まれたことをしない。大切な決定をしない)など
通常は間接的な形をとる。
ここで気をつけなければならないのは
この攻撃性は元を正せば子供の頃の不安に関係していることである。
子供の頃に攻撃を受けて反撃ができなかった場合、
その反撃を大人になってから相手を変えて職場で行ってしまうのだ。
例えば、本来なら母親に向けるべき攻撃を女性全般に向けてしまう。
男性優位主義者、女性差別主義者の行動はまさにこれである。
この攻撃性は逆に本人にとっては「恐怖」として感じられることもある。
人は相手を攻撃していると、逆に相手から攻撃されていると思うからだ。
専門用語でこれを「投影」と言う。
この作用によって、人は自分の中にあるのに認めたくない感情を他人に押し付け
また、自分の中にある嫌な性格を認めず、それと同じ性格を持っている他人を嫌う。
自分に対する憎しみが内に向かわず、他人に対する憎しみとして外に向けられるのである。
そういったことから「人とうまくやっていこうと思ったら、まずは自分を好きになることだ」
と言えるが、これはなかなか難しい。
神経症的な不安を持っている上司は、自分が好きになれず、自信もない。
いつ、人から批判されるかとびくびくし、絶えず警戒して身を守ろうとしている。
そして自分の身が危うくなったと思うと、攻撃に出るのである。
そうして、おそらくは本人も気がつかないまま
自己防衛のため、さらに攻撃を加えるという悪循環に陥ってしまう。
暴力に頼ってしまった者は、最後までそれに頼り続けることになる。
この法則の正しさは絶えず証明されている。
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