勉強させてもらいます
一人でノートをとるより
勉強内容をまとめたり把握するのが
何だかはかどるので失礼致します。
14/12/07 08:25 追記
閲覧ありがとうございます。
皆様のお陰で新しい発見や再確認ができて新鮮だったり、良い息抜きになっております。
もしお役に立ちそうなものがありましたらご活用ください。
不要な方は引き続きスルーでお願い致します。
文章は教わったことを再び自分に向けて理解するための作業ですので
意見みたいなものも誰かへの訴えではありません。
悪しからず。
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●嫌な予感・悪い予感は大抵当たる●
勘が鋭いのも困りもの。
悪い予感は実際によく当たるのです。
過去の情報がいたずらして「自分は急なことに対処できないんだ」とか「○○があるとダメなんだ」といった苦手意識が生まれている。
それが「悪い予感」になります。
こんな予感は無視すればいいかというとそうではないのです。
予感というものは、潜在意識が
「今のリズムのままでいくと、まずいことになるぞ」
と過去の情報をもとに知らせてくれている。
「前にも失敗したじゃないか。今度は別の対処をした方がいいぞ」
と注意信号を送ってくれているのです。
状況に流されないで一度立ち止まって、自分の調子を立て直した方がいいというサイン。
悪い予感が過ぎった時こそ、悪いリズムにはまりかけた状態を変えるためのチャンスです。
だから「気にするな」ではなく「教えてくれてありがとう」と心の中でつぶやくといい。
何を教えてくれているのかというと、目標のためにどうすればいいかもう一度考えろということです。
そこで、深呼吸して目標を再確認します。
一呼吸して間を置くことで、乱れたリズムを整え、本来のリズムに切り換えることもできる。
●落ち込んでいる時やってはいけないこと・言ってはいけないこと●
「なんでもないことじゃないか」
「忘れるんだ」
「これぐらいのことで落ち込むな」
「気にするな」
「大丈夫、大したことないさ」
「あんまり考えるな」
「悩んでも仕方ない」
心の重圧を感じている時、落ち込んでいる時、ドツボにはまっている時に自分を励ますためのこれらの言葉。
実は今の自分の状態を否定するものです。
今の状態を否定して「こうしたいんだ」と目標を掲げることは、後ろ向きのままスタートラインに立つようなもの。
動きようがないのです。
目標というゴールに向かうには、前を向いて立つスタートラインが必要です。
現状を否定することは、スタートラインに立つことを拒否しているのと同じです。
だからスタートできずに目標ばかり気になって
「そうじゃなくて、こうなんだ!」
と呻き続けることになる。
「そうじゃなくて」が邪魔になって「こう」なれないのです。
早く忘れよう、忘れなければと自分に強いるのは、過去の貴重な体験を捨てることになります。
気になっている自分を否定している。
せっかく気になっている貴重な情報を捨てようとしていることになります。
もう一つ、低調な時に言ってはいけないこと。
それは「絶対」「必ず」という言葉。
「今度こそは絶対○○しなければ」
「必ず取り返さないと」
これは心の負担を増やすだけです。
ミスは許されないという過酷な宣言をしていることになる。
そして、今までうまくいかなかった自分を断罪することにもつながります。
物事には絶対とか必ずということはありません。
「次はこうやってみよう」
「今度はぜひこうしたい」
と、その目標をしっかりイメージして心に刻めば十分です。
うまくできなかったら許さないぞと自分を脅迫するような態度に出ていたら、潜在意識はあまのじゃくになってしまい、目標とは逆の方向に動き出します。
意気揚々としている時の「これは絶対いけるぞ」はリズムに乗っているから良いのですが、沈んでいる時の「絶対」は禁句。
それを覚えておいてください。
●自分を変えることは別人になることではない●
三年後、五年後の目標を考える時に、今を基準にしてしまう人がよくいます。
これは非常に陥りやすい間違い。
例えば「今、自分は課の同期の中で三番目ぐらいだろう。するとあいつの次に係長になれる。それが二年後ぐらいかな。三年後あたりにはプロジェクトのリーダーになるチャンスが来るかも知れない。よし、頑張ってそれを目標にしてみよう」
これでは潜在意識は動きません。
現状を分析する理性的な作業をやっているだけで、眠っている能力を揺り動かすことはできない。
何も変わらないのです。
というのもほとんどの人は自分が本来持っている力を出しにくい環境で生きてきたからです。
例えば
「お兄ちゃんはできるのにどうしてできないの」
「こうしないとお父さんに叱られるからね!」
と言われてきたとします。
「お兄ちゃん」「お父さん」が基準になっているから、自分のリズムで生きるのを妨げてしまう。
学校でもこなしきれないほどの目標をどんどん与えられてしまい、自分の興味と関係なく急いでやらないと間に合わない。
自分自身の目標を立ててそれを実行していく余裕がありません。
点数で振り分けられていく偏差値教育は「お前にはこれだけの力しかないのだ」と思い知らせる仕組みでもあるのです。
そんな中でも数学の問題を解く楽しみを味わえたなど、自分のリズムと周囲の期待がうまく折り合えた人は力を伸ばせる。
これは非常に幸運な例です。
生きてきて力が出せずにいる現状を基準に考えると、例えやりたいことがあっても
「集中力がないから」
「根性がないから」
「弱気だから」
「周囲に理解されないから」ダメだろうとなってしまう。
集中する力、目標を設定する力、自分のリズムを掴むことはどれも人がもともと持っている能力なのです。
それを出せなくしているだけ。
自分を変えることはできるのです。
ただし別の自分になろうとしたり、今までの自分が持っていない新しい力を外からくっつけることではありません。
本来持っている力を自分らしく発揮できるようになることによってなのです。
だから将来の目標をイメージする時は、現状からスタートするのではなく「自分がどうなりたいのか」を自由に思い浮かべることが役立ちます。
●目標設定●
潜在能力が動き出すような将来の目標の立て方は二つの条件をクリアするだけです。
一つはその目標を考えた時、心から楽しくなること。
次に、目標実現のために何をすればいいかが具体的に考えられること。
思いついた時はただの夢のようでも、どんどん細部をイメージして突き詰めていきます。
その時の自分はどんな暮らしをしているか?
毎朝どんな気分で目覚めているか?
周囲の人とどんな会話を交わしているか?
その自分になったつもりで、できれば体感できるまでありありとイメージしてみる。
次はその目標を今につなげてみます。
それには時間を逆回しするのです。
例えば三年後そのような自分になっているには、二年後の自分は何をしている必要があるか?
一年後はどうか?
あとは一ヶ月ずつさかのぼって、やるべきことを考えて書き出していく。
では今月、目標実現のためにできることは?
今日できることは?
もしここまで来ることができたら、目標は今につながったのです。
トレーニングのつもりで始めたけれど、本当にその目標に向けて心が始動しているかも知れない。
だとしたら、今日できることを今すぐ始めてください。
あとは一日一回、朝の数分を使って目標のイメージを再確認します。
昼間は先のことを考えるより、今できることに集中します。
これで目標は実現に近付いていきます。
●目標達成できなかったらどうするか●
目標達成が究極の目的なのか?
それも危険な勘違い。
目標はいくらでも変えていいのです。
というのも、目標達成が近づくと潜在意識がブレーキをかけるのです。
楽しくイメージした目標が達成されるということは潜在意識にとってある種の死を意味します。
目指していた大学に合格したあと燃え付き状態になったり、難事業をやり遂げたあと鬱状態に陥ったりするのもそのため。
これを防ごうとして潜在意識はわざわざ目標を遠ざける行動をとらせたりするのです。
こんな時は目標の修正や新しい目標を見つけることが必要です。
目標というのはエネルギーに過ぎません。
何のためのエネルギーかというと、潜在意識を常に活性化させるため。
生き生きと自分らしく力を発揮して人生を送るためです。
目標達成には周囲の力も借りることも必要で、そのタイミングがうまくいかないこともあります。
それで予定通り実現しなかったからといって、人生に失敗したことにはなりません。
次のチャンスを待ったり、次の目標にチャレンジすれば良いのです。
新しい目標を立てる時は、まずこれまでの目標をクリアできた自分や、目標を常に持っていられた自分、「失敗から学ぶことができた」自分をきちんと評価します。
「よくやったぜ!」と思いっきり自分を褒めるのです。
これで潜在意識は納得し、次の目標やランクアップした目標へ自分を切り換えることができます。
●緊張感をその場で取り除く方法●
人前で話すのが苦手だなあと感じている人は、かつて緊張のあまりうまくいかなかった体験を持っているはずです。
だから全くプレッシャーのない自分をイメージしてもただの想像に過ぎません。
緊張した時の自分はどんな状態になるのか、まずはよく思い浮かべてみることです。
そこから出発した上で「うまくいくパターン」のイメージをつくりあげます。
緊張感が高まるのは自然なことで、これから自分の能力を発揮するぞというサインです。
今度は同じ緊張感を味わいながら「スタンバイしてるな」と感じている自分をイメージします。
深呼吸して緊張レベルを調整。
いよいよ順番が来て話し始める。
流暢に話すイメージをつくる必要はありません。
だいたい、立て板に水のような話し方では聞いてる人の印象に残らないのです。
つっかえながらでもいい。
「何を伝えたいか」がしっかり頭にあり、それを一生懸命伝えている自分をイメージしていく。
この時に自分が話している内容だけでなく、周囲の環境や相手の反応もイメージすることが重要です。
それを考えずに自分のことだけイメージしても、ただの一人芝居になってしまいます。
本当にそこにいて見ているかのように、聞いているかのように、がポイントです。
自分の発言は実際に声に出して喋ってみる。
この作業で「何を伝えたいのか」という目的と、成功場面の感触を潜在意識に刻み込むことができます。
実際、予測と違う展開になっても構わない。
目的さえ明確なら状況がどうなっても目的を達成するように潜在意識が対処してくれます。
「これを伝えるために今何をしたら良いか」だけを考えれば良いのです。
●ノルマを自分の課題にする方法●
潜在意識が動き出して能力を発揮するには、押し付けられた目標と受け取るのではなく、自分の目標として、しっかり納得していることが必要です。
上から与えられた目標でも、自分でしっかり納得していることが大切です。
「自分は目の前の仕事を通じて何を得るのか」
「このハードな経験を次に生かすぞ」
と納得することが必要です。
どう考えても得るものがなく自分を擦り減らすだけだ、こんな商品を無理やり売り付けるなんて間違ってる。
などと感じるなら、そんな会社には見切りをつけてしまう。
逃げるのではありません。
逃げたとしても、次の場所で同じ辛さに出会うだけです。
自分の描く未来と会社の未来とがどうしてもつながらないとしたら、無益なことに自分を消耗するのはやめ、自分の力を出せる場を真剣に探せばいい。
自分が本当に実現したい目標をきちんと確かめた上で、具体的な行動を始めるのです。
●うっかりミスをなくす方法●
仕事でうっかりミスをなくすためには、まず仕事を頼んできた相手に
「これとこれをいつまでにやるんですね」
と復唱して確認すること。
この時に仕事の意味も掴んでおきます。
「この書類は来週の会議のため。会議の目的は○○問題の解決」
といったように、出された仕事が全体の流れの中でどんな意味を持つのか具体的に掴んでおきます。
何のためにやるのか考えていないと次々ふってくるものが、頭の中で散らかり放題。
これでは一つ二つ落としてしまうのも当たり前です。
次にメモをとること。
あちこちに書き散らしたままでなく、スケジュール帳に
「いつまでの仕事」
とリミットごとに項目を書き写し、終わったものをチェックします。
最後にイメージすること。
これが最も効果的です。
スケジュールを書き込む時に
「電話をかけている自分」
「資料に目を通している自分」
「書類を作っている自分」
などをイメージしておくのです。
これでうっかりミス対策は万全です。
●冷静さを取り戻す方法●
パニックというのは問題に取り囲まれて
「どうしようどうしよう」
と右往左往するばかりで、次の一歩が踏み出せない状態。
必死で考えているようで、今何をすべきか考えられなくなっているのです。
こんな時はまず深呼吸。
自分の様子を上から眺めているところを想像してみます。
「この人は一体どんなことで困っているんだろう」
「どんな助言をしてやろうか」
と考えながら状況を見てみるのです。
すると問題の真っ只中にはまっている時には見えなかったものが、問題の外に出て客観的になってみると見えてきます。
何からどう片付けていけば良いのか、答えが見つかるのです。
人は他人事なら客観的に考えられるもの。
冷静さを取り戻すもう一つの方法は「実況中継」です。
「焦っております。焦っております。また時計を見ました。果たして間に合うでしょうか」
と心の中でアナウンス。
他人事のように認めてしまうと冷静さが戻ってきます。
「さて、まずは○○の件の進行具合を確かめることにしたようです。○○の目処が立てば○○のために助っ人を出せるというわけですね。なかなかの判断です」
など、状況が整理できるまで心の中でアナウンスするのも良い方法です。
●心の活性を取り戻す方法●
体の疲れを癒すには物理的に休息をとることですが、心の方は休んだから元気になるというわけにはいきません。
心は「休ませる」ことではなく「生き生き働かせる」ことで元気を取り戻します。
何かに感動したとか、いい出会いがあったとか、そういうことです。
心が疲れてしまう要素は三つ。
自分のリズムで生きていないこと。
力の出し方が有効でないこと。
楽しめていないことです。
まずはリズムの話から。
うつ状態や燃え尽きに陥りやすい人は、非常に律儀です。
ノーと言えない。
全て引き受けてしまう。
あれこれ背負ってしまう。
自分のリズムを殺して周囲のリズムで生きてしまうから、苦しくなります。
「こうしたい」より「こうすべきだ」という考え方が強くなるのも、自分以外のリズムで生きている現れ。
何が正しいかという答えが常に一つなので、他の選択肢が考えつきません。
一つしかない道が行き詰まるとお手上げ状態になってしまうのです。
次は力の出し方。
日本人の損なところは
「働け働け」
「がんばれがんばれ」
と緊張状態をずっと自分に強いてきて、いざ本番になると
「緊張するな、リラックスしていけよ」
とわけのわからない指令を出してしまう点。
これでは心も体も無理ばかりで疲れます。
根性論とかっこつけが伝統なのでしょうか。
スポーツの世界でもそれがありありと出ています。
必死で練習している割に本番でいい結果が出ない。
すくんでしまう。
そんな自分を責める。
ますます力が出せなくなる。
一方でこうした伝統に縛られない若手の選手が世界を舞台に活躍を始めているのも頷けます。
今まで述べてきたトレーニングはまさに力の出し方を訓練するものです。
最後に楽しむことについて。
これは趣味を見つけろとか、高いお金をかけて旅行に行けとか言っているわけではありません。
自分は何を楽しめるか、何に夢中になれるかということが肝心です。
自分が楽しめていれば、長時間労働でも疲労ではない。
体は疲れますが、心にとっては満足感なのです。
生きることを楽しむには
「こうなりたいんだ」
という自分の目標に向かっていることが一番です。
「こうしなくちゃ、こうならなくちゃ」
と努力を重ねているのとは違う。
あくまで「こうなりたい」が重要な鍵。
それがあれば、あれこれ発想するのも楽しい。
情報を見つけるのも楽しい。
人と出会うのも楽しい。
もちろんいつも楽しめるとは限りません。
毎日を自然に過ごす自分なりのリズムがあるように、力を発揮していくための周期というものがある。
「どうしたらいいんだろう」
「どうなりたいんだろう」
とひたすら悩む時期も必要なのです。
だから
「今楽しくない自分はダメだ」
と思う必要はないし、楽しまなくちゃと無理に努力しなくていい。
今の自分はちっとも楽しくない。
それを否定せずに認めてこそ、楽しい自分になりたいんだという気持ちのエネルギーも生まれてきます。
●劣等感とさよならする方法●
劣等感を感じさせられる相手が身近にいるというのは、非常にラッキーです。
なぜその相手がそれだけの結果を出しているのかよく観察してみる。
相手のいいところを自分のものにしていくことができる。
仕事でも同じことです。
例えば後輩がぐんぐん業績を上げているとしたら、その行動をよく見てみる。
自分も真似してもいいし、別の方法に挑戦してもいい。
時間をどう使うのかが考えどころです。
居眠りして過ごすのか、他にできることはあるか?
そこまでやる原動力は何か?
どんな目標で動いているのか?
考えていくと色々興味もわいてくるはず。
ライバルと競い合うのは、決して相手を蹴落とそうとか優位に立とうというのではありません。
相手のエネルギーをもらって、自分のエネルギーに変えていく。
「あいつはよく頑張ってるな、俺も負けずにいくぞ」
と自分を奮い立たせることができるのです。
そうやって「出来る奴」のリズムを自分のために役立てます。
学ぶべきところは取り入れ、さらに工夫して自分らしいものにしていきます。
その人を自分の潜在能力のトレーナーにしてしまうのです。
●スランプをエネルギーに変える方法●
何をやってもうまくいかない状態というのは、意識過剰なのです。
つまり潜在意識の力を使っていない。
潜在意識のバックアップがあって初めて目標に向けて頭と体全体を働かせることができるのです。
自分の行動を全て意識で決められるかのように思いがちですが、それは違う。
意識で変えられない体調の変化も全て行動に関わってきます。
胃が痛い時に効率的な仕事はできないし、筋肉が疲れきっている時に山登りなんて無理。
嬉しい時は誰かと話したくなるけれど、悲しみに沈んでいれば外に出る気にもならない。
意識ではどうにもならない部分にまで大きな影響を及ぼすのが潜在意識です。
潜在意識が「今日はきっと楽しいぞ」というイメージを受け取っていると少々体調不良でもそんなことは忘れてしまう。
「緊急事態だ」という情報を潜在意識がキャッチすると、それを切り抜けるために体がすぐさま反応する。
この力を使わずに意識ばかりが先行しているとどうなるか。
こうしたいんだ、こうしたいんだ、という気持ちばかりが勝って、その情報が潜在意識に伝わらない。
実現に向けて動くことができないまま、欲ばかりが膨らんでいく。
目標は人の力を引き出しますが、欲は人をダメにする。
欲に目が眩んでしまうと、自分のリズムを失うだけでなく、周囲のリズムも読めない。
だからミスをする。
そして「さっきのミスを取り返したい」とさらに意識過剰になる。
それがパニックを引き起こす。
何をしても空回りになります。
リズムを掴むまでの足踏み状態がスランプの正体です。
こんな時はまず徹底的に、どうなりたいのか考えてみる。
漠然と「今よりもっといい仕事がしたいんだ」
「別の自分になりたいんだ」
ではなく、具体的にどうなりたいのか、いつまでにそうなりたいのか、イメージがしっかりするまで悩んでみるのです。
イメージできたら、その目標は潜在意識に預けて、今できることを一つずつやっていく。
預けられずいつまでもしがみついていると、ろくに動けず目標は欲で終わってしまいます。
目標を描くためにしっかり悩むことで、スランプをエネルギーに変えられます。
こうなってこそ、スランプが次の飛躍のための屈伸的な意味を持つのです。
●どうしたいのか目標がわからない●
目標だの目的だの言われても、どうなりたいのか自分でもわからない。
これもよくあることです。
目標を定めるにはそれなりの勢いと勇気がいります。
潜在意識を活性化するためにいくつかの方法を提案しておきます。
まずは自分の部屋で「気になるもの」を見つけるゲーム。
静かな気持ちで部屋中を見渡します。
一つ一つ「これはこうして手に入れた」などと思い出しながら、目で辿っていく。
その内、心にひっかかるものが出てくる。
気になる品を一つ決めたら、それにまつわる歴史を辿って連想ゲームをします。
いつ、どんな風に使った?
その頃どんな毎日を過ごしていた?
そこでまた何かひっかかることが出てくる。
またそれを辿っていく。
こうやってイメージを活発に浮かべていく内
「あの頃、本当はこれがしたかった」
「こんな生き方を望んでいたんだな」
「こんな夢を持っていた」
と気がつく。
気がついたことは、どんなに些細なことでもノートに書き留めておきます。
全て目標設定の材料です。
次は自分が「楽しい」と感じることを50個書き出してみるゲーム。
これは一仕事です。
好きな音楽でも読書でもいい、何かの仕事、散歩、夕日を眺めることでもいい。
どんなことでもいいから「楽しい」ことが条件です。
時々やっている趣味もあるだろうし、長いこと忘れていた楽しみを発見するかも知れない。
一度に50個は無理なら、思いついた時にリストに加えます。
楽しさに焦点を合わせることは、自分のリズムや目標に敏感になるための下準備です。
もう一つ、「不満のタネ」を見つけるゲーム。
誰かと何となくペースが合わないとか、あの人とはソリが合わないということはありませんか?
ここでこういう風に過ごしているとどうも居心地が悪い、日常のこれが不満ということはありませんか?
全部書き出してみます。
それらはあなたのリズムに合っていないこと。
気が合わないと感じる相手は、潜在意識で望んでいることが一致していないのだし、何となく落ち着かないと感じる場面は自分のリズムを殺して無理をしているのです。
それを探っていくと、どんな生き方を望んでいるのか、本来のリズムはどんなものなのか分かってきます。
やりたくないことの裏返しは、やりたいことです。
今すぐ将来の目標が立たなくてもいい。
今とりあえず目の前にある目標を常に確認する癖をつけておきます。
「この書類の目的はなんだったか」
「これを明日までに仕上げるのは何のためか」
「急いでいるのは誰に会うためか。会ってどうするのか」
といつも自分に聞くのです。
目標に向けて動く自分ができてきます。
●逃げていい時、悪い時●
問題から逃げてはいけないのか?
逃げるのは決していけないことではありません。
環境を変えて時間稼ぎをし、問題に対処できる自分の態勢を整える。
あくまで一時避難、最終的には問題に対処するための逃げであれば、非常に有効です。
場所を変えたり時間を置くことで、自分がはまっている問題の外側に立つと、見つからなかった答えも見つかります。
戻る場所のないような逃げ方
「二度とそこには顔を出せない」
というような逃げ方はあまり得になりません。
自分の重荷を増やすことになってしまうからです。
逃げることと同じように、休むことや遊ぶことにもコツがあります。
体の疲労は物理的に休むことが必要ですが、心の疲労がたまっているなら
「疲れているからしょうがない」
ではなく積極的に楽しいことをやった方がいい。
休むなら自分のリズムを整えるのだというつもりで積極的に休む。
疲れたリズムにはまっていないで、頭を切り換えるということです。
何でもいいから本当に楽しめることをする。
こうやって積極的に切り換えていくことで、次のヒントが見つかる。
この切り換えのリズムとして定期的な「休み」を取ることは重要です。
スポーツ選手でも、伸びていく人はオフの生かし方がうまい。
同じところにずっといて、一生懸命没頭しているだけだと、いずれミスが起きます。
集中力には限界があるし、視点も狭まってくる。
これをやらなくちゃ、次はこれをやらなくちゃと意識ばかり過剰になる。
「さあ休むぞ」「これから遊びに行くぞ」というとき、意識が潜在意識に「今度はお前の番だよ」と信号を送るのです。
あとは休みの間にいいことを思いつこうなどと考えず、遊ぶ時は遊ぶことだけを考えればいい。
ひょっとすると、その間に「これだ」と思い立ち、即座に仕事にかかれるかも知れない。
「たっぷり遊んだぞ。さあ明日から仕事だ」とリフレッシュして、潜在意識が準備したものがグーッと出てくるかも知れない。
切り換えのコツを掴んだ人は、ボーッと休んでいるように見えても潜在意識は問題の答えを探して積極的に活動しています。
意識が休んでいるからこそ、潜在意識がフル活動するのです。
【古くなったものを整理する】
集中するための第一の原則は、生産的でなくなった過去のものを捨てることである。
そのためには、定期的に仕事を見直し「まだ未着手だとして、今これに手をつけるか」問わなければならない。
答えが無条件にイエスでない限り、やめるか大幅に縮小すべきである。
生産的でなくなったものに資源を投じてはならない。
誰もが、過去がもたらした問題に取り組んでいる。
これは避けられない。
今日という日は常に昨日の決定や行動の結果である。
人は明日を知ることはできない。
昨日いかに賢明で勇気があったとしても、その決定と行動は、今日になれば問題、混乱、愚かさとなる。
いかなる組織においても、今日の資源は今日使わなければならない。
自分や前任者が昨日行った意思決定や行動の後始末のために、今日時間とエネルギーと頭を使わなければならなくなる。
事実、この種の仕事が時間の半分以上を取る。
しかし、それは減らしていくことができる。
完全な失敗を捨てることは難しくない。
完全な失敗は自然に消滅する。
ところが昨日の成功は非生産的となった後も生き続ける。
もう一つ、それよりもはるかに危険なものがある。
本来うまくいくはずなのに、なぜか成果の上がらない仕事である。
常に計画、活動、仕事を点検する。
「これは価値があるか」を自問する。
答えがノーであれば、仕事の成果や組織の業績にとって、真に意味のある仕事に集中するために、それらのものを捨てる。
新しい活動を始める前に必ず古い活動を捨てる。
肥満防止のためである。
組織は油断するとすぐに体型を崩し、しまりをなくし、扱い難いものとなる。
人からなる組織も、生き物の組織と同じように、スマートかつ筋肉質であり続けなければならない。
新しいものにやさしいものはない。
新しいものは必ず問題にぶつかる。
悪天候に入った時に切り抜ける手だてを最初から講じておかなければ、失敗は必然である。
新しいものを難局から救う唯一の手だてが、仕事のできる人間を用意しておくことである。
そのような人は常に忙しい。
今の負担を軽くしてやらねば、新しい仕事を引き受けてはもらえない。
新しいものは実績のある人、ベテランによって始められなければならない。
【劣後順位の決定が重要】
明日のための生産的な仕事は、それらに使える時間の量を上回って存在する。
加えて、明日のための機会は、それらに取り組める有能な人の数を上回って存在する。
もちろん問題や混乱は多い。
従って、どの仕事が重要であり、どの仕事が重要でないかの決定が必要である。
唯一の問題は、何がその決定をするかだ。
自らが決めるか、仕事からの圧力が決めるかである。
何が決定するにせよ、仕事は利用できる時間に合わせてやらざるを得ない。
機会はそれを担当する有能な人が存在して初めて実現できる。
圧力に屈した時には、重要な仕事が犠牲にされる。
特に仕事の内最も時間を使う部分、意思決定を行動に変えるための時間がなくなる。
どんな仕事も組織的な行動や姿勢の一部になるまではスタートしたことにはならない。
どんな仕事も、誰かが自分の仕事として引き受け、新しいことを行う必要や、新しい方法を行う必要を受け入れなければ始まらない。
いかにプロジェクトとして完結しているかに見えても、それを誰かが自分の仕事としてルーティン化しなければ完結するに至らない。
時間がないために、それらが行われない場合には、それまでの仕事や労力は全て無駄になる。
そうなったとしても仕事の優先順位を決定しなかったことの当然の報いである。
本当に行うべきことは優先順位の決定ではない。
優先順位の決定は比較的容易である。
集中できる者があまりに少ないのは、劣後順位の決定、取り組むべきでない仕事の決定と、その決定の遵守が至難だからである。
延期とは断念を意味する。
延期した計画を後日取り上げることほど好ましからざるものはない。
後日取り上げても、もはやタイミングは狂っている。
タイミングはあらゆるものの成功にとって最も重要な要因である。
五年前に賢明であったことを今日行っても、不満と失敗を招くに過ぎない。
何事であれ、劣後順位をつけて延期することを尻込みさせる。
最優先の仕事ではないことは知っていても、劣後順位をつけることはあまりに危険であると思ってしまう。
捨てたものが競争相手に成功をもたらすかも知れない。
【必要なのは勇気】
優先順位の分析については多くのことが言える。
しかし、優先順位と劣後順位に関して重要なことは、分析ではなく勇気である。
優先順位の決定にはいくつかの重要な原則がある。
それらの原則は全て勇気に関わるものである。
第一に
過去ではなく未来を選ぶことである。
第二に
問題ではなく機会に焦点を当てることである。
第三に
横並びではなく自らの方向性を持つことである。
第四に
無難で容易なものではなく、変革をもたらすものに照準を合わせることである。
科学者の分析の多くが、天才は別として、科学的な業績は、研究能力よりも機会を追求する勇気によって左右されることを教えている。
問題に挑戦せず、容易に成功しそうなものを選ぶようでは、大きな成果は上げられない。
大きな業績を上げる者は、機会を中心に研究の優先順位を決め、他の要素は、決定要因ではなく制約要因に過ぎないと見る。
同じように大きな成功を収める企業は、技術や事業のイノベーションを目指す企業である。
一般的に小さくて新しいものも、大きくて新しいものも、危険で困難、かつ不確実なことに変わりはない。
昨日の均衡の回復などよりも、機会を成果に変える方が、はるかに生産的である。
優先順位や劣後順位は、現実に照らして検討修正していかなければならない。
もちろん優先順位の高い仕事を実現していくことによっても、優先順位は変わっていく。
集中とは
「真に意味あることは何か」
「最も重要なことは何か」
という観点から時間と仕事について、自ら意思決定する勇気のことである。
この集中こそ、時間や仕事の従者となることなく、逆にそれらの主人となるための唯一の方法である。
【正しい意思決定を導くステップ】
成果を上げるためには、意思決定の数を多くしてはならない。
重要なものに集中する。
個々の問題ではなく、根本的なことについて考えなければならない。
問題の根本をよく理解して決定しなければならない。
不変のものを見なければならない。
決定の早さを重視してはならない。
あまりに多くを操ることは、かえって思考の不十分さを表す。
何についての決定で、何を満足させるかを知る必要がある。
形にこだわることなく、インパクトを求めなければならない。
賢くあろうとせず、健全であろうとしなければならない。
基本をよく理解して決定すべきものと、個々の事情に基づいて決定すべきものとを峻別しなければならない。
最も誤りやすい決定は、間違った妥協である。
正しい妥協とそうでない妥協の見分け方を知らなければならない。
決定のプロセスで最も時間がかかるのは、決定そのものではなく、決定を実施に移す段階である。
実務レベルに下ろさない限り、決定とは言えず、よき意図に過ぎない。
このことは、決定そのものが基本の理解に関わるものであるのに対し、その実施は可能な限り実務レベルに近いところに位置付けなければならないことを意味する。
成果を上げる意思決定を行う上で必要とされる5つのステップは次のようなことである。
第一に
問題の多くは基本に関わるものであり、原則や手順についての決定を通してのみ解決できることを認識している。
第二に
決定が満たすべき必要条件を明確にする。
第三に
決定が受け入れられやすくするための妥協を考慮する前に、正しい答え、必要条件を満足させる答えについて徹底的に検討する。
第四に
決定に基づく行動を決定のプロセスに組み込んでおく。
第五に
決定の適切さを結果によって検証するために、フィードバックを行う。
【問題の必要条件は何か】
「その決定の目的は何か」
「達成すべき最低限の目標は何か」
「満足させるべき必要条件は何か」
を明らかにしなければならない。
決定が成果を上げるためには、必要条件を満足させなければならない。
必要条件を簡潔で明確にするほど、成果は上がり、達成しようとするものを達成する可能性が高まる。
逆にいかに優れた決定に見えようとも、必要条件の理解に不備があれば、成果を上げられないことが確実である。
必要条件は
「この問題を解決するために最低限必要なことは何か」
を考え抜くことによって明らかになる。
必要条件を見つけることは必ずしも容易ではない。
知的な人間ならば必ず意見の一致を見るというものでもない。
必要条件を満たさない決定は、成果を上げられない不適切な決定である。
実際、そのような決定は間違った必要条件を満たす決定よりも質が悪い。
もちろんどちらの決定も間違いである。
だが間違った必要条件を満たす決定ならば、救済することはできる。
一応の成果は上がるからである。
満たすべき条件を満たさない決定は、新しい問題を生むだけである。
一度行った決定をいつ放棄するかを知るためにも、必要条件を明確にしておく必要がある。
さらに、必要条件を明確に理解しておくことは、最も危険な決定、万一都合の悪いことが起こらなければうまくいくかも知れないという決定を識別する上で必要である。
その種の決定は最もらしく見える。
しかし必要条件を仔細に検討すれば、矛盾が出てくる。
そのような決定が成功する可能性は極めて小さい。
奇跡の困った点は、稀にしか起こらないことではない。
あてにできないことにある。
しかし、いかなる決定においても、この必要条件の明確化は事実ではなく、事実の解釈に基づいて行われる。
それ自体、危険を伴う判断である。
もちろん誰もが間違った決定を行う危険がある。
事実誰もが、時に間違った決定を行う。
だが明らかに必要条件を満たさないような決定を行ってはならない。
【何が正しいかを考える】
決定においては何が正しいかを考えなければならない。
やがては妥協が必要になるからこそ、最初から誰が正しいか、何が受け入れられやすいかという観点からスタートしてはならない。
満たすべき必要条件を満足させる上で何が正しいかを知らなければ、正しい妥協と間違った妥協を見分けることはできない。
「何を調べ、何を書き、何を結論とすべきかは全てお任せする。
あなたの仕事だからだ。
正しいと思うことは、そのまま書いて欲しい。
反応は気にしないでいただきたい。
気に入られるとか入られないとかは関係ない。
受け入れられやすくするために、妥協しようなどとは考えないでいただきたい。
あなたの助けがなければ妥協できないような者は、この会社にはいないはずである。
しかし、何が正しいかを最初に教えてくれなければ、正しい妥協もできなくなる」
妥協には二つの種類がある。
一つは古い諺の
「半切れのパンでも、ないよりはまし」
一つはソロモンの裁きの
「半分の赤ん坊は、いないより悪い」
という認識に基づく。
前者では、半分は必要条件を満足させる。
パンの目的は食用であり、半切れのパンは食用となる。
しかし、半分の赤ん坊は必要条件を満足させない。
半分の赤ん坊は、命あるものとしての子供の半分でなく、二つに分けられた赤ん坊の死骸である。
そもそも何が受け入れられやすいか、何が反対を招くから言うべきでないかを心配することは、無益で時間の無駄である。
心配したことは起こらず、予想外の困難や反対が突然ほとんど対処しがたい障害となって現れる。
「何が受け入れられやすいか」からスタートしても得るところはない。
通常、この問いに答える過程において、大切なことを犠牲にし、正しい答えはもちろん、成果に結び付く可能性のある答えを得る望みさえ失う。
【決定を行動に移す】
決定を行動に変えなければならない。
決定において最も困難な部分は、必要条件を検討する段階であるのに対し、最も時間のかかる部分は、成果を上げるべく決定を行動に移す段階である。
決定は、最初の段階から行動への取り組みをその中に組み込んでおかなければ、成果は上がらない。
事実、決定の実行が具体的な手順として、誰か特定の人の仕事と責任になるまでは、いかなる決定も行われていないに等しい。
それまでは、意図があるだけである。
決定を行動に移すには
「誰がこの意思決定を知らなければならないか」
「いかなる行動が必要か」
「誰が行動をとるか」
「行動すべき人間が行動するためには、その行動はいかなるものでなければならないか」
を問わなければならない。
特に最初と最後の問いが忘れられることが多い。
そのため、ひどい結果を招くことがある。
【フィードバックの仕組みをつくる】
決定の基礎となった仮定を現実に照らして継続的に検証していくために、決定そのものの中にフィードバックを講じておかなければならない。
決定を行うのは人である。
人は間違いを犯す。
最善を尽くしたとしても、必ずしも最高の決定を行えるわけではない。
最善の決定といえども、間違っている可能性は高い。
その上、大きな成果を上げた決定も、やがて陳腐化する。
軍では、決定を行った者が自分で出かけて確かめることが、唯一の信頼できるフィードバックであることを知っている。
フィードバックは、はるか昔から確立されている。
トゥキュデイデスやクセノフォン、中国の戦略書やシーザーも当然のこととしていた。
報告書なるものは全く助けにならない。
あらゆる国の軍が、命令を出した将校が自ら出かけ確かめなければならないことを知っている。
少なくとも副官を派遣する。
命令を受けた当の部下からの報告をあてにしない。
信用しないわけではなく、コミュニケーションがあてにならないことを知っているだけである。
コンピュータの到来とともに、このことはますます重要になる。
決定を行う者が、行動の現場から遠く隔てられるからである。
自ら出かけ、自ら現場を見ることを当然としない限り、ますます現実から遊離する。
コンピュータが扱うことのできるものは抽象である。
抽象されたものが信頼できるのは、それが具体的な現実によって確認された時だけである。
自ら出かけ確かめることは、決定の前提となっていたものが有効か、陳腐化しており決定そのものを再検討する必要があるかどうかを知るための、唯一ではなくとも最善の方法である。
我々はフィードバックのために、組織的な情報収集を必要とする。
報告や数字も必要とする。
しかし、現実に直接触れることを中心にしてフィードバックを行わない限り、自ら出かけ確かめない限り、不毛の独断から逃れることはできず、成果を上げることもできない。
【評価測定のための基準を見出す】
意思決定は判断である。
いくつかの選択肢からの選択である。
しかし決定が正しいものと間違ったものからの選択であることは稀である。
かなり正しいものと、おそらく間違っているものからの選択である。
はるかに多いのは、一方が他方よりも多分正しいだろうとさえ言えないような二つの行動からの選択である。
意思決定についての文献のほとんどが
「まず事実を探せ」
という。
だが成果を上げる決定を行う者は、事実からスタートすることなどできないことを知っている。
誰もが意見からスタートする。
意見は未検証の仮説に過ぎず、従って、現実に検証されなければならない。
何が事実であるかを確定するには、有意性の基準、特に評価の基準についての決定が必要である。
これが成果を上げる決定の要であり、通常最も判断の分かれるところである。
正しい決定は、共通の理解と、対立する意見、競合する選択肢を巡る検討から生まれる。
最初に事実を把握することはできない。
有意性の基準がなければ、事実というものがありえない。
事象そのものは事実ではない。
人は意見からスタートせざるをえない。
最初から事実を探すことを求めるのは好ましいことではない。
すでに決めている結論を裏付ける事実を探すだけになるからである。
見つけたい事実を探せない者はいない。
統計を知る者はこのことを知っており、数字は信じない。
彼は数字を見つけた者を知っているために、あるいは見つけた者を知らないために、数字に疑いを持つ。
現実に照らして意見を検証するための唯一の厳格な方法は、まず初めに意見があること。
また、そうでなければならないことを明確に認識することである。
こうした認識があって初めて、仮説からスタートしていることを忘れずに済むのである。
意思決定も科学と同じように仮説が唯一の出発点である。
我々は、仮説をどう扱うかを知っている。
論ずべきものではなく、検証すべきものである。
こうしてどの仮説が有効であって真剣な検討に値し、どの仮説が検証によって排除されるかを知る。
初めに意見を持つことを奨励しなければならない。
そして意見を表明する者に対しては、現実による検証を十分に考慮することを求めなければならない。
「この仮説の有効性を検証するためには、何を知らなければならないか」
「この意見が有効であるためには、事実はどうでなければならないか」
を問わなければならない。
同時に、探すべきもの、調べるべきもの、検証すべきものが何であるかを徹底的に考え、明らかにする習慣を身につけなければならない。
意見を表明する者に対しては、それによっていかなる事実が予想されるか、いかなる事実を探すべきかを明らかにする責任を負うよう求めなければならない。
ここにおいて決定的に重要な問いは
「有意性の基準は何か」ということである。
その答えから、検討中の決定に付随すべき評価測定の基準が得られる。
成果を上げる正しい決定がいかに行われたかを分析するならば、常にそこには、極めて多くの思考と労力が投じられていることを知る。
成果を上げる決定を行うには、それまでの評価測定の基準は正しくないものと見なさなければならない。
そうでなければ、そもそも決定の必要はなく、簡単な調整で十分なはずである。
昨日の意思決定は、昨日の評価測定の基準を反映している。
新しい決定が必要になったということは、それまでの評価測定の基準が、もはや意味を失ったことを意味する。
評価測定のための基準を見出す最善の方法は、自ら出かけ、現実からフィードバックを得ることである。
これは決定前のフィードバックである。
評価測定のための適切な基準を見つけ出すことは、統計上の問題ではない。
それはすでにリスクを伴う判断の問題である。
判断するために、いくつかの選択肢がある。
一つの案しかなく、それに否応を言うだけでは判断とは言えない。
いくつかの選択肢があって初めて、何が問題であるかについて正しい洞察を得られる。
評価測定の基準についてもいくつかの選択肢が必要である。
それらの中から、最も適切な基準を選び出さなければならない。
【満場一致に注意せよ】
選択肢全てについて検討を加えなければ、視野は閉ざされたままとなる。
成果を上げるには、相反する意見の衝突、異なる視点との対話、異なる判断の間の選択があって初めてよく行いうる。
従って、決定において最も重要なことは、意見の不一致が存在しない時には、決定を行うべきではないということである。
意見の不一致は三つの理由から必要である。
第一に
組織の囚人になることを防ぐからである。
あらゆる人が、決定を行う者から何かを得ようとしている。
特別のものを欲し、善意のもとに、都合の良い決定をしてもらおうとする。
決定者が誰であろうと変わらない。
それらの意図から脱するための唯一の方法が、十分検討され、事実によって裏付けられた反対意見である。
第二に
選択肢を与えるからである。
いかに慎重に考え抜いても、選択肢のない決定は向こう見ずな博打である。
決定には、常に間違う危険が伴う。
最初から間違っていることもあれば、状況の変化によって間違いになることもある。
決定のプロセスにおいて、他の選択肢を考えてあれば、次に頼るべきものとして、十分に考えたもの、検討済みのもの、理解済みのものを持つことができる。
選択肢がなければ、決定が有効に働かないことが明らかになった時、途方に暮れるだけである。
第三に
想像力を刺激するからである。
問題を解決するには、想像力は必要ないとの説がある。
それは数字の世界だけである。
政治、経済、社会、軍事のいずれであろうとも、不確実な問題においては、新しい状況を作り出すような創造的な答えが必要である。
想像力、知覚と理解が必要である。
第一級の想像力は潤沢にはない。
一般に考えられているほど稀なわけでもない。
しかし想像力は、刺激しなければ隠れていて使われないままになる。
特に理論づけられ、検討しつくされ、かつ裏付けられている反対意見こそ、想像力にとって最も効果的な刺激剤となる。
さらに自分だけでなく、同僚達の想像力も引き出してくれる。
一つの行動だけが正しく、他の行動は全て間違っているという仮定からスタートしてはならない。
「自分は正しく、彼は間違っている」という仮定からスタートしてはならない。
意見の不一致の原因は必ず突き止めるという決意からスタートしなければならない。
もちろん、馬鹿な人もいれば、無用の対立を煽るだけの人もいることは、承知しておかなければならない。
だが、明白でわかりきったことに反対する人は、馬鹿か悪者に違いないと思ってはならない。
反証がないかぎり、反対する者も知的で公正であると仮定しなければならない。
明らかに間違った結論に達している人は、自分とは違う現実を見、違う問題に気付いているに違いないと考える必要がある。
「もし彼の意見が、知的かつ合理的であると仮定するならば、一体彼は、どのような現実を見ているのか」
と考えるべきである。
成果を上げる人は、何よりもまず問題の理解に関心を持つ。
誰が正しく、誰が間違っているかなどは問題ではない。
【決定は本当に必要か】
最後に「意思決定は必要か」を自問しなければならない。
何も決定を行わないという代替案は常に存在する。
意思決定は外科手術である。
システムに対する干渉であり、ショックを与えるリスクを伴う。
良い外科医が不要な手術を行わないように、不要な決定を行ってはならない。
優れた決定を行う人も優秀な外科医と同じように、それぞれスタイルは違う。
ある人は大胆であり、ある人は保守的である。
不要な決定は行わないという原則では一致している。
何もしなければ事態が悪化するのであれば、決定を行わなければならない。
同じことは機会についても言える。
急いで何かをしなければ重要な機会が消滅するのであれば、思い切った変革に着手しなければならない。
楽観的というわけではなく、何もしなくても問題は起こらないという状況がある。
「何もしないと何が起こるか」という問いに対して
「何も起こらない」が答えであるならば、手をつけてはならない。
状況は気になるが、切実でなく、さしたる問題が起こりそうもないという時は、問題に手をつけてはならない。
このことを理解している人は稀である。
すでに二千年も前にローマ法は、為政者は些事に執着するべからずと言っている。
このことを学ぶべき意思決定者はまだ多い。
大部分の問題は、何もしなくてもうまくいくわけではないが、何もしなくても取り返しがつかなくなるわけではない、といったものである。
機会があるとしても多くは本当の変革や革新のための機会ではなく、改善のための機会である。
問題にしても機会にしても、かなり規模は大きい。
確かに行動しなくとも生き延びることはできる。
だが行動すれば、状況は大きく改善される。
そのような状況下においては、行動した場合としなかった場合の犠牲とリスクの大きさを比較しなければならない。
正しい決定のための原則はない。
だが指針とすべき考え方は明確である。
個々の具体的な状況において、行動すべきか否かの意思決定が困難なケースはほとんどない。
第一に
得るものが犠牲やリスクを大幅に上回るならば行動しなければならない。
第二に
行動するかしないか、いずれかにしなければならない。
二股をかけたり、間を取ろうとしてはならない。
【勇気を持つ】
決定が満たすべき必要条件は十分に検討し、
選択肢は全て検討し、
得るべきものと付随する犠牲とリスクは全て天秤にかけた。
ここにおいて何を行うかは明らかである。
決定はほぼ完了した。
しかし、まさに決定の多くが行方不明になるのがこの時である。
決定が愉快でなく、評判も良くなく、容易でないことが急に明らかになる。
ここで判断と同じくらい勇気が必要であることが明らかになる。
一般的に良薬は苦い。
一般的に成果を上げる決定は苦い。
ここで絶対にしてはならないことがある。
「もう一度調べよう」という誘惑に負けてはならない。
この誘惑に対しては
「もう一度調べれば、何か新しいことが出てくると信ずべき理由はあるか」
を問わなければならない。
自らの決断力のなさのために、有能な人達の時間を無駄にすべきではない。
とは言え、決定の意味について完全に理解しているという確信なしに、決定を急いではならない。
相応の経験を持つ大人として「気をつけよ」とささやく内なる声に、耳を傾けなければならない。
意思決定の正しさを信ずる限り、困難や不快や恐怖があっても、決定はしなければならない。
しかしほんの一瞬でも、理由は分からずとも、心配や不安や気掛かりがあるならば、しばらく決定を待つべきである。
10回の内9回は、不安に感じていたことが杞憂であることが明らかになる。
しかし、10回に1回は重要な事実を見落としたり、初歩的な間違いをしたり、全く判断を間違っていたりしたことに気付く。
とは言っても、決定を延ばし過ぎてはならない。
数日、せいぜい数週間までである。
それまでに何も気づかなければ、好き嫌いに関わらず、精力的かつ迅速に決定をしなければならない。
人は好きなことをするためではなく、なすべきことをなすために、成果を上げる意思決定をするために報酬を手にしている。
今日意思決定は組織に働くほとんどあらゆる知識労働者が、何らかの方法で、自ら決定をし、少なくとも意思決定のプロセスにおいて積極的な役割を果たさなければならなくなっている。
意思決定をする能力は、知識労働者にとって、まさに成果を上げる能力そのものである。
【優れたコミュニケーションとは何か】
すでに我々はコミュニケーションについて四つの原理を知っている。
コミュニケーションとは知覚であり、期待であり、要求である。
情報とは違う。
依存関係にはあるが、むしろ相反することの方が多い。
第一の原理は
コミュニケーションを成立させるものは、受け手である。
発し手ではない。彼は発するだけである。
聞く者がいなければ、コミュニケーションは成立しない。
意味のない音波があるだけである。
コミュニケーションは、受け手の言葉を使わなければ成立しない。
受け手の経験にある言葉を使わなければならない。
説明しても通じない。
経験にない言葉で話しても理解されない。
受け手の知覚の能力の範囲を越える。
「このコミュニケーションは、受け手の知覚能力の範囲内か、受け手は受けとめられるか」
を考える必要がある。
第二に
我々は知覚することを期待しているものだけを知覚する。
見ることを期待しているものを見、聞くことを期待しているものを聞く。
事実、組織におけるコミュニケーションについての文献の多くは、期待していないものは反発を受け、この反発がコミュニケーションの障害になるとしている。
だが、反発はさして重要ではない。
本当に重要なことは、期待していないものは受け付けられもしないことにある。
無視される。
あるいは間違って見られ、間違って聞かれる。
期待していたものと同じであると思われる。
人の心は、期待していないものを知覚することに対し、期待するものを知覚できないことに対して抵抗する。
予め期待に反しているであろうことは警告できる。
しかし警告を発するためには、そもそも受け手の期待しているものが何かを知らなければならない。
その上で、「期待に反している」ことを間違いなく伝える方策、連続した心理状態を断ち切る一種のショックが必要となる。
受け手が期待するものを知って初めてその期待を利用できる。
あるいはその期待を破壊し、予期せぬことが起こりつつあることを強引に認めさせるためのショックが必要かどうかを知りうる。
第三に
コミュニケーションは常に、受け手に対し何かを要求する。
受け手が何かになることを、何かをすることを、何かを信じることを要求する。
受け手それぞれの何かをしたいという気持ちに訴えようとする。
コミュニケーションはそれが受け手の価値観や欲求や目的に合致する時、強力となる。
合致しない時、全く受け付けられないか、抵抗される。
合致しない場合でも、コミュニケーションが強力な力を発揮した時には、受け手の心を転向させる。
だが、そのようなケースは人の存在に関わる問題であって、極めて稀である。
人はそのような変化に激しく抵抗する。
受け手の心を転向させることを目的とするコミュニケーションは、受け手に全面降伏を要求する。
第四に
コミュニケーションと情報は別物である。
両者は依存関係にある。
コミュニケーションは知覚の対象であり、情報は論理の対象である。
情報は形式であって、それ自体に意味はない。
人間の関係はない。
人間的な要素はない。
情報は感情、価値、期待、知覚といった人間的な属性を除去すればするほど、有効となり信頼性を高める。
しかし、情報はコミュニケーションを前提とする。
情報は記号である。
情報の受け手が記号の意味を知らされていない時、情報は使われるどころか受け取られもしない。
情報の送り手と受け手の間に、予め何らかの了解、つまりコミュニケーションが存在しなければならない。
コミュニケーションは必ずしも情報を必要としない。
いかなる論理の裏付けもなしに経験を共有する時こそ、完全なコミュニケーションがもたらされる。
コミュニケーションにとって重要なものは、知覚であって情報ではない。
それでは、コミュニケーションについてこれまで得られた知識や経験は、組織内のコミュニケーションについて何を教えるか。
過去の失敗の原因や将来の成功の前提について何を教えるだろうか。
我々はこれまで数百年に渡って、上から下へ向かってコミュニケーションを試みてきた。
それは「何を伝えたいか」に重点を置いてきた。
コミュニケーションを成立させる者は発し手であると前提していた。
もちろんはっきりものを言ったり、書いたりする努力がいらないというわけではない。
しかし、どのように話すかという問題が意味を持つのは、何を話すかという問題が解決されてからである。
どのように話したとしても、一方的に話したのでは話は通じない。
同様に下の者の言うことを聞くことによっても、問題は解決されない。
エルトン・メイヨーは、それまでのコミュニケーションに対するアプローチの欠陥に気付き、上に立つ者は、下の者が言うことに耳を傾けるべしと指摘した。
部下に理解させたいことからではなく、部下が知りたがっていることや興味を持っていること、知覚の用意のあることから着手しなければならないと言った。
この考えは、あまり実施には応用されていないが、ヒューマン・リレーションズ派による古典的な処方箋として生きている。
もちろん耳を傾けることはコミュニケーションの前提である。
しかし、耳を傾けるだけでは効果的なコミュニケーションは行われない。
耳を傾けることは、上司が部下の言うことを理解して初めて効果を持つ。
部下にコミュニケーション能力があって、初めてコミュニケーションが有効になるということである。
しかし上司にできないことが、どうして部下にできるか。
できるという保証はない。
耳を傾けることを強調する考えの根本には、コミュニケーションは下から上へ向かうという認識、
コミュニケーションは、発し手よりも受け手からスタートするという認識がある。
この認識自体は重要である。
しかし耳を傾けることは、コミュニケーションにおいて全てではない。
スタートに過ぎない。
ではここで、コミュニケーションについて我々は建設的なことで何ができるだろうか。
目標と自己規律によるマネジメントこそ、コミュニケーションの前提である。
これにおいては
「自分はいかなる貢献を行うべきであると考えているか」
が明らかにされる。
こうして明らかにされる考えが、上司の期待通りのものであることは稀である。
目標によるマネジメントの第一の目的は、上司と部下の知覚の仕方の違いを明らかにすることにある。
彼らの知覚の仕方が違っていても、それが現実である。
こうして同じ事実を違ったように見ていることを互いに知ること自体が、価値あるコミュニケーションである。
受け手たる部下は、目標によるマネジメントによって他の方法ではできない経験を持つ。
その経験から上司を理解する。
意思決定の実体、優先順位の問題、なしたいこととなすべきこととの選択、意思決定の責任など、上司の抱える問題を理解することができる。
ほとんどの場合、上司とは見方が違う。
そうあって当然である。
それでも彼は、上司の立場の複雑さを理解する。
その複雑さこそ、上司の立場に固有のものであり、上司が好き好んで作り出しているものではないことを理解する。
それ自体あまり意味のないことに見えるかも知れない。
しかしそれは、これまでコミュニケーションに関わる数々の経験や、学習、記憶、知覚、動機についての研究が我々に教えてくれた結論をはっきり示しているはずである。
コミュニケーションを成立させるには経験の共有が不可欠だということである。
コミュニケーションは、私からあなたへ伝達されるものではなく、我々の中の一人から、我々の中のもう一人へ伝達されるものである。
組織において、コミュニケーションは手段ではない。
組織の在り方の問題である。
これこそ、我々がこれまでの失敗から学んできたことであり、コミュニケーションを考えていく上で基本となるべき最も重要な結論である。
【リーダーシップの本質】
カリスマ性でも資質でもないとすると、リーダーとは何か。
第一の要件は
リーダーシップを仕事と見ることである。
効果的なリーダーシップの基礎とは、組織の使命を考え抜き、それを目に見える形で明確に定義し、確立することである。
リーダーとは、目標を定め、優先順位を決め、基準を定め、それを維持する者である。
もちろん妥協することもある。
効果的なリーダーは自分が世界の支配者ではないことを痛いほど知っている。
リーダーは、妥協を受け入れる前に、何が正しく、望ましいかを考え抜く。
リーダーと似非リーダーとの違いは目標にある。
現実の制約によって妥協せざるをえなくなった時、その妥協が使命と目標に沿っているか離れているかによって、リーダーであるか否かが決まる。
自らの行為によって範を示しつつ、いくつかの基本的な基準を守り抜けるか、捨てるかによって決まる。
第二の要件は
リーダーシップを地位や特権ではなく責任と見ることである。
優れたリーダーは、常に厳しい。
事がうまくいかない時、何事も大体うまくいかないものだが、その失敗を人のせいにしない。
真のリーダーは他の誰でもなく、自らが最終的に責任を負うべきことを知っているがゆえに、部下を恐れない。
似非リーダーは部下を恐れ、部下の追放に走る。
優れたリーダーは、強力な部下を求める。
部下を激励し、前進させ、誇りとする。
部下の失敗に最終的な責任を持つがゆえに、部下の成功を脅威とせず、自らの成功と捉える。
もちろんリーダーといえども、有能な部下は、得てして野心家でもあるというリスクを十分知っている。
しかし凡庸な部下にかしずかれるよりは、はるかに小さなリスクであることを自覚している。
優れたリーダーは自らの退任や死をきっかけにして組織が崩壊することは、最も恥ずべきであることを知っている。
真のリーダーは、人間のエネルギーとビジョンを創造することこそが、自らの役割であることを知っている。
【人の強みを生かす】
成果を上げるためには、人の強みを生かさなければならない。
弱みを気にし過ぎてはならない。
利用できる限りのあらゆる強み、同僚の強み、上司の強み、自らの強みを総動員しなければならない。
強みこそが機会である。
強みを生かすことは組織特有の機能である。
組織は人それぞれが持っている弱みを克服することはできない。
しかし組織は、人の弱みを意味のないものにすることができる。
組織の役割は、人間一人一人の強みを、共同の事業のための建築用ブロックとして使うところにある。
成果を上げるためには、強みを中心に据えて異動を行い、昇進させなければならない。
人事においては、人の弱みを最小限に抑えるよりも、人の強みを最大限に発揮させなければならない。
大きな強みを持つ人は、ほとんど常に大きな弱みを持つ。
しかも、あらゆる分野で強みを持つ人はいない。
人の知識、経験、能力の全領域からすれば、偉大な天才も落第生である。
人に成果を上げさせるためには「自分とうまくやっていけるか」を考えてはならない。
「どのような貢献ができるか」を問わなければならない。
「何ができないか」を考えてもならない。
「何を非常によくできるか」を考えなければならない。
特に人事では、一つの重要な分野における卓越性を求めなければならない。
強みを持つ分野を探し、それを仕事に適用させなければならないことは、人間の特性からくるところの必然である。
全人的な人間や成熟した人間を求める議論には、人間の最も特殊な才能、一つの活動や成果のために全て投入できる能力に対する嫉みの心がある。
卓越性に対する嫉みである。
人間の卓越性は、一つの分野、あるいはわずかの分野において実現されるのみである。
強みに焦点を合わせることは、成果を要求することである。
「何ができるか」を最初に問わなければ、真に貢献できるものよりも、はるかに低い水準に甘んじざるをえない。
成果を上げることを初めから免除することになる。
致命的ではなくとも、破壊的である。現実的でもない。
真に厳しい上司とは、それぞれの道で一流の人間をつくる人である。
彼らは部下がよくできるはずのことから考え、次にその部下が本当にそれを行うことを要求する。
弱みをもとにすることは、組織本来の機能に背く。
組織とは、強みを成果に結び付けつつ、弱みを中和し無害化するための道具である。
多くの強みを持つ人間は、組織を必要としないし、欲しもしない。
彼らは独立して働いた方が良い。
しかしほとんどの者は、独力で成果を上げられるほど多様な強みを持っていない。
我々は強みだけを持つわけにはいかない。
強みとともに弱みがついてくる。
そのような弱みを仕事や成果とは関係のない個人的な欠点にしてしまえるよう組織をつくらなければならない。
強みだけを意味あるものとするよう組織を構築しなければならない。
これらのことは当たり前と言われるかも知れない。
それでは、なぜこれらのことは常に行われないのか。
人の強み、特に他部門の同僚の強みを生かすことのできる者はなぜ稀なのか。
主な理由は、順序として仕事からスタートしてしまい、次の段階にその仕事に配置するべき人間を探すということになるからである。
そうなると、不適格な人間、変哲のない人間を探すという誤った道を取りやすい。
そのような事態の対策に、最も宣伝されている治療法が、手元の人間に合うように職務を構築し直すことである。
しかし、きわめて単純な小さな組織は別として、その治療は、病気よりも害が大きい。
仕事は客観的に設計しなければならない。
人の個性ではなく、なすべき仕事によって決定しなければならない。
仕事の範囲や構造や位置付けを修正すれば、必ず組織全体に連鎖反応が及ぶ。
組織において仕事は互いに依存関係にあり、連動している。
上司は部下の仕事に責任を持つ。
部下のキャリアを左右する。
従って、強みを生かす人事は成果を上げるための必要条件であるだけでなく、倫理的な至上命令、権力と地位に伴う責任である。
弱みに焦点を合わせることは、間違っているだけでなく無責任である。
上司は組織に対して、部下一人一人の強みを可能な限り生かす責任がある。
組織は、一人一人の人間に対し、彼らがその制約や弱みに関わりなく、強みを通して、物事を成し遂げられるよう奉仕しなければならない。
このことはますます重要になっている。
1900年頃、実際的な目的を持ちうる知識分野は、法律、医学、教育、宗教などの伝統的な職業に限られていた。
今日では、あらゆる知識分野が、特に企業と政府機関において必要とされている。
誰でも自らの能力に最も合った知識分野を選択し、かつ雇用の場を見つけられるようにならなければならない。
今日の若者の方が将来の選択が難しくなっている。
自らについても機会についても十分な情報を持たないからである。
だからこそ、一人一人自らの強みを生かす場を持てるようにすることに重要な意味がある。
今日の知識労働の時代においては、強みをもとに人事を行うことは、知識労働者本人、人事を行った者、ひいては組織そのものだけでなく、社会にとっても欠くべからざることになっている。
【上司の強みを生かす】
成果を上げるためには、上司の強みも生かさなければならない。
あらゆる組織において「上司にどう対処するか」で悩まない者はいない。
答えは成果を上げる者ならば、皆知っていることである。
上司の強みを生かすことである。
上司の強みを生かすことは、部下自身が成果を上げる鍵である。
上司に認められ、活用されることによって、初めて自らの貢献に焦点を合わせることが可能となる。
へつらいによって、上司の強みを生かすことはできない。
なすべきことから考え、それを上司にわかる形で提案しなければならない。
上司も人である。
人であれば、強みも弱みも持つ。
上司の強みを強調し、上司の得意なことを行えるようにすることによってのみ、部下も成果を上げられるようになる。
弱みを強調したのでは、部下の弱みを強調した時と同じように、意欲と成長を妨げる。
「上司は何がよくできるか」
「何をよくやったか」
「強みを生かすためには、何を知らなければならないか」
「成果を上げるためには、私から何を得なければならないか」
を考える必要がある。
上司それぞれの成果の上げ方があることを知らなければならない。
上司に特有の仕事の仕方を知る必要がある。
読む人に対しては、口で話しても時間の無駄である。
彼らは読んだ後でなければ聞くことができない。
逆に聞く人に分厚い報告書を渡しても紙の無駄である。
耳で聞かなければ、何のことか理解できない。
一ページの要約が必要な人
一定の思考過程を必要とし、分厚い報告書がなければ理解できない人
あらゆることについて60ページにわたる数字データを見たがる人
意思決定の準備のために、初めから関与したがる人
時期が来るまで何も聞きたくない人もいる。
上司の強みを考え、それを生かすには、問題の提示にしても、何をではなくいかに、について留意しなければならない。
何が重要で正しいかだけでなく、いかなる順序で提示するかが大切である。
誰もが人のことについては専門家になれる。
本人よりもよく分かる。
弱みが関係ないものになるように、強みに焦点を合わせれば良い。
上司の強みを中心に置くことほど、部下自身が成果を上げやすくすることはない。
■モラル・ハラスメントとは何か■
モラル・ハラスメント(以下モラハラ)についての概念を簡単に説明しておきましょう。
家庭におけるモラハラというのは
「自己愛的な変質者による純然たるモラハラ」で
職場におけるモラハラは
その「純然たるモラハラ」も含みながら、もう少し広い範囲でふるわれる精神的な暴力です。
「純然たるモラハラ」は
自己愛が「変質的な」段階にまで達した加害者が、最初から人を傷つける目的で、配偶者や子供に嫌がらせを行うものです。
ただし、本人は意識しているかどうかわかりません。
この人々は何があっても人を傷つけずにはいられない人々なのです。
この場合、標的に選ばれる被害者のタイプもはっきりしています。
メランコリー親和型、真面目で頑張り屋のいい人です。
家庭においても職場においても、モラハラの基本はここにあります。
特に家庭においては、このタイプのモラハラが主流です。
そのやり方は猫がネズミをいたぶるようで、一見とるに足らない小さな嫌がらせの積み重ねによって、被害者は精神的に追い詰められ、心身症やうつ病になったり、場合によっては自殺に追い込まれることがあります。
一方職場においては、そこが働く場で複数の人間がいることなどによって
「自己愛的な変質者」が本性をむきだしにすることは家庭に比べて少ないでしょう。
しかし「自己愛的な変質者」は「会社の利益のため」という口実のもとに、人をいたぶる機会があったら、それを逃しません。
また「変質的な」システムを利用して、他の人にモラハラを行わせることもします。
従って、職場においても、「自己愛的な変質者」の脅威は、決して過小評価してはならないのです。
この「純然たるモラハラ」に加えて、職場の場合、人間関係の齟齬や労働条件の不備、そしてシステムの「変質性」が原因で起こるモラハラがあります。
この場合は、特定できる心理学的なタイプはありません。
誰もが被害者にも加害者にもなる可能性があるのです。
例え原因はどうであれ、実際に行われるモラハラのやり方や被害者の心身に与える打撃の大きさは
「純然たるモラハラ」と変わりません。
もうひとつ職場におけるモラハラのタイプには、横暴な上司などが職権を濫用して行うものがあります。
これは今まで述べたタイプのものとは少し違い、モラハラとは言えない場合も多くあります。
しかし、それが行き過ぎていたり、相手を傷つけたいという「変質的な」意図のもとに行われていたりすれば、やはりモラハラの中に含まれるでしょう。
以上、大雑把に言って、職場のモラハラは次の三つに分けられます。
「純然たるモラハラ」
「状況や関係によるモラハラ」
「職権濫用的なモラハラ」
しかし、どこからがモラハラで、どこまでがそうでないのかは判断に難しいところがあります。
■モラル・ハラスメントを定義する■
モラハラという言葉の濫用には注意する必要がある。
仕事上のストレスが溜まっただけで「モラハラにあっている」という人がいるからだ。
また、上司から侮辱されたと思うと、一時的なものであっても「モラハラだ」という人もいる。
だが、辞書を見れば分かる通り「ハラスメント(嫌がらせ)をする」という動詞は
「小さな攻撃を絶え間なく、何度も行う」ことである。
「ハラスメントだ」と言うためには、何度も繰り返されることが必要になるのだ。
「モラル」という言葉には「精神的な」の意味の他に「倫理的な」という意味がある。
何が善いことで何が悪いことであるか
社会にとって何が受け入れられることで何が受け入れられないことであるかとか
そういったことを判断するための言葉である。
モラハラを考えるのに、この倫理の問題は避けられない。
被害者からすれば、侮辱され、無視され、虐待されたという気持ちがはっきりあるのに
加害者は意識して暴力をふるっているのかどうかもわからないからである。
相手を傷つけようという意図はあるのか?
これはいけないことだという意識があるのか?
まさに倫理の問題である。
それでは「モラハラ」という言葉をきちんと定義することがどうして大切なのか。
「モラハラ」という言葉を理解しやすくする他にも
何がモラハラなのかはっきりさせることで、どんな風に行動すれば良いのかはっきり知るためである。
この問題に関わる人々の間で、誰もが納得する定義がなされているとは言い難い。
モラハラという現象は自分がどの立場にいるかによって受け取り方が違う。
また法律、医療、労働問題など様々な分野に関わっているので、それぞれの専門家によって違う言葉が使われたり、違う考え方をされるからである。
モラハラの心理的な攻撃が被害者の心身の健康にどう影響を与えるか。
分かったことは、モラハラの攻撃が他の攻撃に比べて、はるかに短期間に被害者を重大な心身の病気に導き、また長期にわたってその精神を破壊することである。
だが、医療の分野においては、モラハラの定義はまだ曖昧にならざるを得ないところがある。
この暴力性の特殊性とそれをふるわれたことからくる症状の特殊性を厳密に示したり
どうしたら被害者を守ることができるのか、それらの方法がまだわからずにいる。
法律関係者達の方は、なるべく曖昧な要素を除いて、客観的に定義しようと試みている。
その定義にあてはまるものは法律で定められた暴力の一つとして処罰の対象になるからである。
「労働条件に対する破壊の意図」という言葉で
「意図的に行ったかどうか」が定義のポイントになった。
この法案を支持する議院はこう発言する。
「モラハラというのは、相手を破壊しようというまさに変質的な意図のもとに、相手の精神に揺さぶりをかけ、その気持ちを弄び、相手を傷つけることだ。これは精神を傷つけようとする意図なのだ」
だが、最初は悪意のないところから極度に破壊的な行為に移ることもある。
結局この問題について、モラハラを労働法に導入するにあたって
「いかなる給与所得者も、勤労者の尊厳を傷つけ、屈辱的で劣悪な労働条件をつくる目的で行われる、あるいはその効果を持つモラハラの行為を、雇用者から、もしくは組織の代表者から、その他職務上権力を有して、その権力を濫用する人物から、繰り返し受けることがあってはならない」とした。
これによって「意図」だけでなく、「効果」も問題にされるようになった。
「職場におけるモラハラとは、不当な行為(身振り、言葉、態度、行動)を繰り返し、あるいは計画的に行うことによって、
ある人の尊厳を傷つけ、心身に損傷を与え、その人の雇用を危険にさらすことである。
また、そういったことを通じて職場全体の空気を悪化させることである」
どのような定義でも、モラハラが一見したところでは気がつかないほど小さな攻撃でありながら
被害者の心身に破壊的な力を持っているものである点に変わりはない。
最初はちょっと失礼な態度をとられたくらいにしか思わない。
ところが、そんなことが続けられていく内に、最後にはどんな人でも精神のバランスを失ってしまうのである。
モラハラの様相は、それが行われるグループの社会的、文化的な背景によって異なる。
企業で言えば、業種や部門によっても違う。
例えば、製造部門では、相手に対する攻撃はより直接的で、はっきりと言葉で言ったり、肉体的な暴力がふるわれることが多い。
一般的に社会的、文化的な階層が上がると、攻撃はより巧妙に、また変質的になり、それが攻撃であるとさえ見分けにくくなる。
■モラル・ハラスメントではないもの■
モラハラを受けたと言っている人の全員が本当にモラハラを受けているわけではない。
一般の人々は仕事上のストレスやプレッシャーまでモラハラに入れて話すことも多いからである。
だが、これははっきり区別する必要がある。
モラハラに対する有効な予防策も立てられなくなるからだ。
そこでモラハラとそういったものの違いを明らかにしたい。
◆仕事に関するストレス◆
モラハラとストレスは違う。
職場における嫌がらせの問題を扱う研究者はストレスとはまず生物的な問題で、心理的な問題は派生的に出てきたものだとしている。
ストレスの概念を最初に提唱した生理学者セリエは「有害な刺激に対する反応」をストレスという言葉で説明した。
一般では、この言葉が「オーバーワーク」「厳しい労働条件」のかわりに使われている。
それは別に間違っているというわけではない。
しかし、そうであってもモラハラとストレスは違う。
モラハラを受けている過程で、確かに被害者はストレスを感じることはある。
ストレスは行き過ぎなければ、心身に深い傷を与えない。
モラハラは心身に深い傷を与えるのが普通の状態なのである。
モラハラとはまず何より相手に屈辱を与える。
仕事のことで厳しく叱責しても、それだけではモラハラだとは言えない。
「相手に対する敬意が欠けていること」
「相手を侮辱してやろうという気持ちを持っていること」
がポイントになる。
最初は「ストレス」に過ぎなかったものが「モラハラ」になる場合もある。
どこまでが「ストレスの段階」で、どこからが「モラハラの段階」かは容易に見分けがたい。
だが、少なくとも臨床的にはその違いははっきりしている。
ストレスの場合は仕事を休んだり、労働条件が良くなれば、また元のように元気に働くことができる。
モラハラの場合は個人差はあるが、その痛手からなかなか回復することができない。
屈辱を味わった恥ずかしさが心の傷として、かなり長い間残ってしまう。
どんなことをどの程度、屈辱と感じるかは主観的な問題で、ケースごとに考える必要がある。
だが、繰り返し屈辱を受けて全く平気でいられる人はいない。
攻撃が執拗である一定のレベルを越えれば、誰もが傷つくのである。
一方で、労働条件が年々厳しくなっているのも事実である。
仕事はより早く効率的に片付けなければならない。
これは大きなストレスだろう。
企業はこうして社員にストレスを与えるやり方を経営管理の方法として利用している部分がある。
だが、企業の目的は社員の心身を破壊することにあるわけではない。
あくまでも生産性を高めることだ。
ストレスを利用した経営管理の結果、社員の心身が破壊されたとしたら、やり方をどこかで間違ってしまったのである。
しかし、それでも「ストレス」と「モラハラ」は違う。
一番の違いは悪意の有無である。
モラハラの目的は、多かれ少なかれ意識するしないに関わらず
悪意を持って相手を傷つけることである。
仕事の効率を良くしようとか、生産性を高めたいとか、
そういった意図は全くない。
ただ、何らかの形で目障りな人物を追い払いたい、それだけである。
これは仕事、企業そのものにとっても良い結果をもたらさない。
◆仕事上の対立◆
ストレスと並び、モラハラと混同されやすいものに「仕事上の対立」がある。
「モビング(職場における嫌がらせ)は仕事上の対立がうまく解消されなかった結果だ」
という見解もあるが
「対立が表面に出ることができなかったからこそ、モラハラが起こる」
とここでは考える。
実際「対立」の場合は、相手に対する批判が目に見える形をとってくれる。
「モラハラ」の場合は、それが表に出ないまま陰湿ないじめが行われる。
対立が起こると組織は動揺する。
だが、職場の人間が組織全体のことを考えている証左でもある。
対立は組織を変革しようという動きの中で生じるからだ。
組織は生き延びていくために、絶えず古いシステムを壊し、新しいシステムを導入しなければならない。
例えば、職場の人間のつながりを再編するといった点から見ても
対立は組織を変革するエネルギーになる。
それで組織の動きは活性化し、硬直したシステムから抜け出すきっかけがもたらされる。
対立の良い面は
当事者達は「対立」を認めることによって、「交渉相手」として相手を認める。
また自分達が同じ組織に属することを認め、そのシステムの中で渡り合おうとする。
一方で悪い面は
メンバーが敵味方に分かれ、勢力争いをするようになる。
対立するグループは互いに勢力を拡大し、状況を支配しようとする。
敵意には敵意を、裏切りには裏切りをという血で血を洗う戦いになりかねない。
こうなると全てがはっきり表に出てくるわけではない。
それでも対立には規則があり、調整機能を果たすことも珍しくない。
自分達の立場を主張する中で、対立の中の同意が成立するからである。
こうした対立は問題が解消されない限り、双方が仲間を増やして拡大していく傾向にある。
しかし、お互いに歩み寄ったり、仲裁を頼んだりして対立を解消することもできる。
それができるなら事態を放っておくよりずっといい。
解消されない対立はそのまま地下に潜ってしまう恐れがあるからだ。
この場合、対立はモラハラに移行する危険性がある。
対立は職場に変革をもたらすきっかけになることがある。
それでも企業は対立を嫌がる場合が多い。
社内で内紛しているように思われたら、企業のイメージが悪くなるかも知れないからだ。
そこで表だって対立を解消する方策をとらず、モラハラ的なコミュニケーションを促進させてしまうことが多い。
表面だけ全てがうまくいっているように見せるのである。
そうなると不和を表に出すのがさらに恐ろしくなり、正面から論争することがなくなる。
健全な形で話し合うこともなくなる。
何がうまくいかないのか、問題点を明らかにすることもできなくなってしまう。
企業の多くは状況を直視するのを避けて、ひたすら対立を隠蔽しているだけだ。
問題は対立を解消することである。
現在のところ、一番適した方法は「柔らかい同意」と呼ばれるものだと考えられている。
企業の成員は、一人一人を見ればもっときちんとした形で対立を解消したいと思っている。
これまで述べた理由でその方策が見つからず、対立は解消されないまま、広がり悪化していくのだ。
一般に企業の経営者や管理職の人々は、会社の利益によほど重大な損害を与えると見ない限り、社員の対立に関わろうとしない。
「対立を管理する」セミナーに参加させられたりもする。
実際に対立が起こると、逃げることしかしない。
事態を放置して、最後には相談に行くが、その時にはもう手がつけられなくなっているのである。
いくつかの大企業は、会社を変革する上で重要な「意見の調整機能を果たす対立」が生まれないことがある。
現場で働く社員が会社を変革したくても、現場に会社の方針を決定できる地位にいる人がいない。
そういった社員は誰と対立してよいかわからない。
溜まった欲求不満は、現場の人間関係で爆発することになる。
最終的には、現場で働く人々が黙って苦しみに耐えたり、それが原因で病気になったりすることもある。
現代の企業においては公的な対立が少なくなっていると言えるかも知れない。
公的な対立は芽の内に摘まれてしまうのだ。
その代わり、ストレス、疲労、不安、うつ病、そしてモラハラなど、私的な苦しみが増加している。
人々は一人で苦しむ。
せめて同じ会社で働く仲間という意識が持てれば良いが、その意識も持てなくなってきている。
変革をもたらす公的な対立は消え
そういった対立に含まれる公的な調整機能も失われ
あとにはただ私的な争いや個人攻撃だけが残される。
こうした私的な苦しみを共同体としての公的なやり方だけで解消することはできない。
私的な苦しみであれば、労働組合なども介入することができないからである。
こうなると、ある意味「対立」そのものが存在しなくなる。
対立は、平等な対立相手を必要とする。
存在するのはただ「危機」である。
会社というものがうまくいかなくなっているのだ。
この時、集団における危機管理はこれまでと違う形を取る。
そのグループを病気と見なし、「治療」するための専門家を介入させるのだ。
職場でモラハラが行われた場合は、これがさらに陰湿な形で行われる。
調停者を立て状況を理解しようとせず、精神科の受診を勧め、逆に被害者を非難するのである。
この意味では正常な対立からモラハラをもとにしたやり方に移行しつつあると言える。
「対立」と「モラハラ」の違いは
当事者同士の関係が「対立」の場合は対等であるのに対し
「モラハラ」の場合は支配と服従の関係である。
モラハラの場合、加害者が被害者を屈従させ、被害者のアイデンティティを奪うことを目的とする。
会社の上下関係の中で行われる場合は、権力を利用した人格の支配となる。
モラハラは上司から部下へ、同僚から同僚へ、部下から上司に対して行われることもある。
いずれの場合も、加害者が被害者を心理的に支配する点は変わらない。
上下関係、性別、能力のいずれであれ、加害者が自分より劣っていると思った時にハラスメントは行われる。
加害者は被害者を対等な人間だとは思わず、相手のアイデンティティを破壊しても構わないと考える。
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